私と憲97号(2009年5月25日号)


改憲手続き法施行の2010年をどう迎えるのか

毎年、5月3日の憲法記念日を前に各新聞社は憲法改正をめぐる全国世論調査を行う。主な関心は憲法第9条をどう見るか、現行憲法はどこか改正が必要か、などである。読売新聞(4月2日発表)、朝日新聞(5月2日発表)両社の世論調査を検討する。
指標の取り方や調査方法は社によって若干異なるので、数値の比較はやや複雑になるがお許しいただきたい。

憲法9条について、「読売」では「これまでどおり解釈や運用で対応する」は33%(昨年36%、一昨年36%)、「厳密に守り解釈や運用では対応しない」が21%(昨年24%、一昨年20%)で、これをあわせて「9条を変えない」(明文改憲をしない)が54%(昨年60%、一昨年56%)である。「解釈や運用で対応するのは限界なので改正する」は38%(昨年31%、一昨年36%)である。「朝日」では「憲法9条は変えない方がよい」が64%(昨年66%、一昨年44%)、「変えるほうがよい」は26%(昨年23%、一昨年33%)だった。両社の調査ともに「9条を変えない」が圧倒的に多い。年次別の傾向で見ると福田政権下の昨年よりは9条改憲派が若干増えたが、安倍政権下の一昨年よりは9条を守るという人が多くなっている。

9条に限らず、「憲法全般(押しつけ憲法論、自衛隊、権利義務、国際貢献など)」についての問いで、どこかは「改正するほうがよい」は、「読売」では51.6%(昨年43%、一昨年46%)、「変えないほうがよい」36.1%(昨年43%、一昨年39%)である。「朝日」では「改憲必要」は53%(昨年は56%、一昨年は58%)、「改憲不要」は33%(昨年31%、一昨年27%)だった。「読売」ではこの指標は、昨年、調査を始めて以来15年ぶりに僅差で逆転し「改憲不要」が多くなったが、今年は再逆転した。「朝日」はこの3回にわたって「改憲必要」が多数ではあるが、「改憲不要」は増加している。

読売の調査では憲法全般の「改憲派」が昨年より8ポイント増えたが朝日の調査では「改憲派」は3ポイント減っている。9条については読売が改憲派7ポイント増で、朝日が改憲派3ポイント増である。9条改憲反対が両紙とも圧倒的に多いこととあわせて、これらの数字を見れば必ずしも「改憲派」復調とは言えない。しかし、このところの改憲反対の運動の勢いが安倍内閣当時の危機感によるバネの効果による高揚と比べると、やや低下している傾向も見られることが、ある程度、数値にも反映しているとは言えそうである。

9条を中心とする改憲反対運動は、安倍政権のように目に見えて明文改憲の危機に対するよりも、福田内閣から麻生内閣にいたる「明文改憲」隠し、解釈改憲・立法改憲のような政治手法の下では大きなエネルギーをつくり出しにくい。2004年6月に呼びかけられた「九条の会」の会の結成数の増加の傾向にもその問題が現れている。当初の爆発的な増加傾向と比べて、この1~2年、増加数の伸び率は明らかに鈍化している。

こういう局面では運動によりしたたかさ、より質の高さが求められるからだ。いわば9条という理念での「空中戦」のようなものではなく、地に足のついた、生活と結びついた草の根での「9条を生かす」「9条を実現する」ための運動の展開が求められる。この間、私たちが9条と25条問題の結びつき、9条と24条の結びつき、9条と基本的人権問題の結合などを語ってきたのは、そうした状況を意識してのことであった。これは別様にいえば、世論調査で広範な支持がある9条を、より強固な、真に民衆の意識として根付かせる作業でもある。この問題意識さえあれば、一部にあるようなニヒリスティックな「世論調査軽視」に陥る必要はない。世論調査の結果そのもので手放しで喜んだり、一喜一憂するのではなく、あるいはニヒリズムに陥るのではなく、草の根における運動の戦略的な展開を基礎にした「確信」にすることこそが重要なのである。

実際のところ、9条の危機は過ぎ去ってはおらず、なおも進行している。日本が日米軍事同盟のもとで米国の世界戦略にそった「戦争のできる国」になる方向はひきつづき強まっている。アフガン戦争やソマリア海賊問題を口実として、あるいは北朝鮮のロケット発射と朝鮮半島の核危機などを根拠にして、米軍再編などに呼応しながら、違憲立法策定とと脱法行為がすすめられ、この国の戦争遂行体制と軍事的能力は以前とは比較にならないほど強化されている。右派論壇には敵基地攻撃論や、武器輸出3原則の解除、核武装論などがひんぱんに登場している。まさにこうして9条の足下が掘り崩されている。9条改憲に反対する運動はこれらの問題に注目し、取り組まなくてはならない。

加えて来年からは改憲手続き法で3年間凍結されていた改憲国民投票問題=改憲の発議条項などが凍結解除される。これに備えて与党からは憲法審査会の始動の策動が強まっている。あたかも日米安保条約改定50周年である。

しかし、私たちは、いたずらに「国民投票、明文改憲の危機」を煽るのではなく、改憲派が2010年に直ちに改憲国民投票に入ることができないような情勢をつくりだしてきたこの間の9条改憲反対運動の大きな力に確信を持ち、ひきつづき改憲派が国民投票に着手できないような圧倒的な改憲反対の情勢をつくり出さなくてはならない。ためにする「危機アジリ」は民衆の支持を得ることができないし、改憲を阻止し、憲法を生かす運動には役立たない。民衆を信頼し、民衆の中に強固な足場を作り上げる9条改反対、9条を生かせという運動こそが求められている。(事務局 高田健)

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“解釈改憲”と“違憲立法”が進行する中の5・3憲法集会
“武力で平和はつくれない”の輪を広げて行こう

改憲の動きに危機感を抱いた団体が、共同開催するようになって9回目を迎えた5月3日の憲法集会は、日比谷公会堂の内外に4200人の人々が集って開かれた。

集会は、憲法改悪阻止各界連絡会議の柴田真佐子さんの挨拶で始められた。柴田さんは、「(略)日本国憲法が施行されて62年目の今年の集会は、不戦の誓いである憲法9条を守り生かす運動の高まりと、深刻な雇用破壊、生活破壊の中で、生存権や社会権など憲法の理念を生かした取り組みの広がりの中で開かれていることを確認し合いたいと思います。(略)私たちは5国会にわたって、憲法審査会を始動させませんでしたが、衆議院で今国会中にも、憲法審査会規程を定める動きが強まっています。(略)日本高教組が高校生1万人憲法意識調査をまとめました。それによると60.9%の高校生が憲法9条を変えない方がよいと回答しています。前回の04年の調査では43.9%でしたので急増しています。高校生は平和への意識を高めていることが分かります。(略)平和であってこそ国民の雇用、暮らし、命を守ることができます。全国各地で草の根から展開されている9条を守る運動に確信を持ち、憲法改悪に反対し、憲法の理念をいかす運動を一層広めていきましょう。(略)」と挨拶。

次いで、集会のメイン・ゲスト、作家の落合恵子さんと、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんのスピーチに移った。お二人のスピーチは別掲する。

怒髪天を衝く社会・故人の思いを・落合恵子さん

落合恵子さんは、文字通り「怒髪天を衝く」髪型で現れ、怒髪のことから話し始め、怒髪の話で締めくくった。
  「“自己責任”という言葉が私たちの社会と時代にどれほど酷い仕打ちをしてきたか。年を取ることが自己責任なのか。群馬県渋川の“たまゆら”の火災で死亡させられた老人に自己責任はあったのか。女優の若い女性が介護に行き詰まって自ら命を絶立たなければならなかったのも自己責任か。介護施設では、少ないスタッフで走り回って燃え尽き症候群に陥っている看護師さんたちに間違いが起こったとしても自己責任なのか。免疫学者の多田富雄先生は自らの病に照らしてこの国は棄民をしていると憤りの言葉を発している」と語った。

そして、故人となった方々の生前の言葉を紹介。「ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんは、『いまここに帰還兵の苦しみをたどってたどって最後に到達できたのは、9条だった。これを知ったときには救われた』と言って手を握りしめた」。「岡部伊都子さんの『私たちの良心を売ったらあかん』」との詩に触れ、「料理研究家の近藤とし子さんの『生きていく上での栄養は9条なんだよ。ちゃんと守っていかなければね』」との言葉を紹介。「詩人の石垣りんさんとの交流と『小さな庭』の詩『老婆は長い道をくぐり抜けて そこにたどりついた』」を朗読。オーストラリア人の作詞・作曲「母親たち、娘たち、妻たち」の「最初は父親だった 最後は息子だった そしてその間にお母さん あなたの夫 お父さんもまた ドラムの音に見送られて 鉄砲を担いで戦場に行った』」との歌詞を曲に乗せて朗唱した。

歴史は確実に進歩している・益川敏英さん

益川敏英さんが登壇すると、会場はいつものユーモアあふれる語り口に期待が集まる。「自らの精神を形成したのは安保闘争だった、その時に憲法学者の長谷川正安さんに出会い、その考え方に影響を受けた」と自らの体験を披瀝。「憲法9条改悪に向けての、きな臭い匂いがします。それに対して、間際になって運動をして阻止するというのは大変力がいる。だから、彼らが、これはあかんぞ、下手なことをしたら火傷をすると思わせることが必要だ。日本国憲法には問題点もあるが、いま何が問題になっているかというと交戦権だ。それを露骨には出せないので、保守政権は何か奇策を考えている。彼らは、ブレーン機関を抱えている。保守政権も安泰ではないので最後の決戦と心得ているかも知れない。だから、いまは大変危険な状態にある。周辺の人にそういう状況を伝えていただきたい」と、状況の厳しさを反映した真剣な語りかけだった。

「明るい話をいえば、人類の歴史は確実に進歩をしている。50年前のアメリカは大変野蛮な国だった。この人種差別の国アメリカに、黒人のオバマ大統領が実現している。アフリカに植民地はなくなった。だから、今日起こっている平和憲法の危機の問題でも、日本人は必ず乗り越えるし、乗り越えなければいけない」と語った。益川さんは締めくくりの言葉として、「私も老骨にむち打って頑張りますので、皆さんも是非頑張って下さい」との決意を表明された。益川節は余り出なかったけれど、人柄を感じさせるスピーチだった。

レラの(風)会のアイヌ民族の音楽と踊り

メイン・ゲストのスピーチに次いで、東京で活動している「レラの会」のアイヌ民族の音楽と踊りが披露された。演目は、「仲間たちよ、さあ立ち上がって踊りましょう」、「弓の舞い」、「ムックリ(口弦)の演奏」、「心臓比べ」、「金の橋、銀の橋、橋渡りの舞」。狩猟と自然と人々との交流を音楽と踊りにしているように窺えた。

 次いで、恒例ともなっている福島みずほ社民党党首と志位和夫共産党委員長のメッセージ。スピーチの内容は次号に全文掲載されるが、その要点を紹介する。

日本国憲法があるから日本が大好きです・福島党首

福島みずほ社会民主党党首は、「私はこの国が大好きです。世界に誇るべき日本国憲法があるからです」との言葉で始め、話の要点として、「1、平和の問題。2、軍縮問題。3、米軍再編の問題」の3点を上げた。

第1点の平和の問題では、「ソマリア沖海賊への対処と称する『海賊対処法案』は、戦後最大の憲法違反であること。国会の中で政府与党が憲法審査会の始動を5月3日前に企てたがそれは阻止したこと。総務省が来年に迫った『改憲国民投票法』の施行について、前例のないリーフレットを作成して500万部を全国都道府県に配布し、恰も来年には国民投票が実施されるかのような宣伝を始めたこと」を逸脱行為と厳しく批判した。

軍縮問題では、「民主党議員が武器輸出三原則の緩和をすべきだとの質問をしたことに、怒髪天を衝く思いがした。オバマ米大統領が核軍縮問題について発言したことを評価し、日本の国内では超党派で核軍縮の運動を大きくつくっていきたい」と述べた。

米軍再編では、「グアム移転協定は、米軍再編強化協定であり、横須賀港が原子力空母の母港になったことで東京の近郊に原発が配置されたと同様の問題。ジュゴンが住む沖縄の辺野古の沖に米軍のための基地建設を着々と進めている問題」で政府を批判。

人権の問題として、「憲法25条は『国民は健康で文化的な生活を営む権利を有する』と規定しているが、年末年始に設置された派遣村は、国会の中で労働法制の規制緩和をやってきた犠牲者だと痛感した」と述べた。

政治改革の問題として、「新しい政権は新しい政治改革が必要です。『国政における世襲の禁止。企業団体献金の禁止。天下りの禁止』に取り組まなければなりません。政治改革で政治的大掃除作戦をやりたいと思っています」と衆院選挙にも触れた。

最後に、「憲法が大事だと思う私たちにとって、欲張って全世界の人々と共に日本国憲法を輝かせるために、ともに頑張りましょう」との言葉で締めくくった。

核廃絶と憲法9条を守る戦後日本の戦い・志位委員長

志位和夫日本共産党委員長は、次ぎのような言葉で始めた。「戦後日本の平和を求める戦いは、核廃絶を求める戦いと、憲法9条を守り生かす運動を2つの柱にして発展してきた」。「4月5日、オバマ米大統領がプラハで行なった演説は大きな問題を提起するものとなった。米国が核兵器廃絶を国家目標とすると初めて述べ、広島・長崎への原爆投下について人類的道義にかかわる責任であるとこれも初めて触れ、核兵器のない世界に向けて諸国民に協力を呼びかけた」と分析し、オバマ大統領の演説に対して歓迎の意を表すとともに、「恐らく私の生きている内には無理だろう」と語った問題点などを指摘し、「核兵器廃絶のための国際交渉を開始するよう要請する書簡をオバマ大統領に送った」と披瀝した。

一方で、「中曽根外務大臣は、オバマ演説を受けて『ゼロへの条件―世界的核軍縮のための11の指標』なる講演を行った。その内容は、米国には核兵器廃絶のための具体的努力を何一つ求めず、『日米安保体制の下における核抑止力を含む拡大抑止が重要』と核戦力への依存を続けるという。核兵器のない世界の呼びかけに対する被爆国の政府としては、恥ずかしい限り」と批判。

日本国憲法の9条がどう生まれたのか、「アジアでの戦争、日米戦争、国連憲章、原子爆弾投下、そして敗戦という経緯があって取り入れられた。日本国憲法が公布された46年11月に内閣が発行した『新憲法の解説』は、『原子爆弾の出現は、先ず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺するであろうと真剣に憂えているのである』」との記述にあるように、「それならば文明の力によって、戦争を放棄し、陸・海・空軍、一切の戦力を放棄しよう。こうして、私たちの誇る日本国憲法9条が生まれたのだ」と語った。

「いま世界は大きく変わりつつあります。軍事力にものをいわせて世界を支配する時代は終わ(次頁下段へ)(前頁から)りつつあります。日本国憲法9条の出番の情勢だと思います。核兵器のない世界、戦争のない世界を築こうではありませんか、ともに頑張りましょう」との言葉で結んだ。

生かそう憲法 輝け9条 5・3憲法集会アピール

最後に集会アピールを採択。「(略)。私たちは本日の集会を契機に、今年で9回目になる『5・3憲法集会実行委員会』の共同行動を大切にし、さらに広げて行きたいと思います。海賊派兵新法反対、自衛隊海外派兵恒久法反対、憲法審査会の始動反対、雇用と生活を守れ、憲法改悪反対の広範な共同行動をつくり出し、9条を生かしてアジアと世界の平和を実現するためにともに奮闘しましょう」と謳った。アピールの全文は「声明・論評」に掲載してあります。

世界史的意味が付与されている憲法集会

会場には、落合恵子さんが指摘したように10代、20代の若者の姿は殆ど見られない。しかし、高等学校のアンケートに見るように、憲法の精神は確実に浸透している。

NHKの番組「プロジェクト・ジャパン」は、日本国憲法の前文及び9条の理念は、1930年代に国際司法裁判所の所長に就任し、国際アカデミーで教鞭を執り、オランダで国葬にされた安達峰一郎の、軍事力による平和ではなく、国際法によって紛争の解決を図る、との思想に淵源が求められると指摘した。昨年の「9条世界会議」の成果と合わせて考えると、この集会で共有された日本国憲法の理念を維持し広める意思と行動は、世界史的な意味を包含していると捉えるべきなのだろう。
(文責 半田隆)

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5・3憲法集会スピーチ 落合 恵子(作家)さん

こんにちは。落合恵子です。
怒りの髪と書いて怒髪と読みます。いまここに来る途中、あのはなばなしい声と街宣車があってなかなかここに近寄れなかったのですが、反対側を歩いている方がいて、「ね、ね、あの髪の形って落合恵子だよね」といわれて、話している内容ではなくて髪型で覚えられている。「いいんだよね、髪形で覚えられても。私は平和について語りつづけるのだから、どこで覚えていただいても結構よ」という思いで、ちょっと手を振ってまいりました。

本当のことを言うと緊張しています。1時間半や2時間の講演のなかで、自分の気持ちもずーっと盛り上げていって、平和について、人権についてお話することはできるのですが、わずか20分という限られた時間でどれだけお話できるか。おまけに老眼鏡を楽屋に忘れてきたという実に悲しい事実のなかに私はおりますが、今日は1つの言葉にこだわってお話をしたいと思います。

1つの言葉と、その言葉が私たちの社会と時代にどれほどひどい仕打ちをしたか、ごいっしょに考える時間をいただけたらたいへん嬉しいです。その言葉とは「自己責任」という言葉です。この国を自己責任という言葉がかけめぐりました。そしてその後、私たちはあらゆる場面において自己責任を問われています。

たとえば私は1945年、敗戦の年に生まれました。64歳です。私が64歳になったということ、質は別として年齢としていうと、これは自己責任なのか。この国で85歳になることは自己責任なのか。85歳になったその方が何らかの病をえることは自己責任なのか。リハビリや介護が必要な年代になってそれを求めることすら、「あんたの責任よ」とこの国はおっしゃるのか。排泄がままならないことが、自己責任なのか。職を失うことイコール住いをも失うということ、というこの新しい現象の中で苦しむ人びとに、「全部それはあんたの責任よ」とおっしゃることで全てが済むのか。

群馬県渋川市のあの老人施設の火災をおぼえておられるでしょう。束の間の〝たまゆら〟。休息すら許されなかった10名の人びと、炎につつまれて逃げようとしたその瞬間に、あの10名の方々は、「これは自己責任なのだ」と思われたでしょうか。この国がしていることはすべて、そこに行く。そう、私たちは、健康で文化的な生活を営む権利をもっていたはずなのに、それらすべてのことについて私たちは考えたい。たとえば特別養護老人ホームに入るために、300人、400人、場所によっては何千人の方がお待ちになって、「落合さん、私の不幸は長生きしたことです」とおっしゃる。それに私たちはどのように答えることができるのか。

その一方でソマリア沖への自衛隊の派遣です。私たちはどのようにしてこのことを「よし」と納得をしたのか。していないはずです。教育基本法はすでに改変されてしまいました。私たちが、一人ひとりの私として生きる権利が、どんどん、どんどん侵害されている今です。だからこそ私は、美容院に行かなくても怒髪になれるという実に安上がりな方法で生きております。

私の母親を在宅で介護して約7年、2年前に彼女は逝きました。並大抵ではなかったです。どちらが先に死ぬかと思った時もありました。さいきん、芸能活動していた有名な若い女性があのような形で自らの命を消していきました。日本中にたくさんあります。あれらは芸能ニュースではなく、日本の福祉の無策をそのままあらわしたニュースであるということを、私たち自身の問題としてどれだけ私たちが引き寄せることができるのか。

その在宅で介護していた日々で、何度か短期間、母も入院したことがあります。真夜中の病院、あの病室からもこの病室からも、せきこんで唾液などを誤嚥してしまった方々のうめき声が聞こえます。私は母の吸引であるならば自分でできますが、その他の方々の吸引をしたいと思ってももちろんできません。夜中の看護師さんたちの数はきわめて少ない。その看護師さんたちが廊下を走り回っている。でも1秒の差なんです。吸引できるかできないかということは。「いいよ、法にふれても吸引してしまおうかな」と、私はよその部屋に入ってしまったこともあるけれど、現実はもちろん止められているし、正直何かあったときに私は責任をとれないという思いがある。

そんな時、看護師さんたちの中で、若い方々が、「ねえ落合さん、ミスが起きない方が変ですよ。これだけいろいろな意味で医療がせばめられているなかで、私たちはどうやって生きていったらいいかわからない。患者さんたちの健康を考えながら、私たちの健康だってむしばまれ、もえつき症候群に私たち自身陥っています」。この声に私たちはどのように答えていったらいいのか。

あるいは、私は母を見送った後、介護の職員の方々とメールのやりとりして、なんとかお年寄りの日々をもう少しやわらかなものにしたいと思っていろいろ活動しているのですが、そのお1人から、次のようなメールがきました。

「最低限の自分の健康と文化的生活を守ることのできない私たちに、どうしてお年寄りの文化的生活と健康をいっしょに守っていくことができるのでしょうか。朝、起きられません。くたくたです。どうしょうもない時に、施設のお年寄りお一人おひとりの顔を思い出して、なんとか自分を奮い立たせ、這うようにして向かっていくのですが、どうにもなりません。もし私が、この仕事を辞めたとき、どうか、〝あの人も辞めちゃったのね〟という言葉で私を考えないでください。良心的であればあるほど、日々、この仕事をしていることの、逆説的に罪深さを私は感じます。何もしない国の不備を、私たちがずーっと背負い、ささえていかなければならないのですか」。

この問いかけに、私たちはどう答えればいいのか。

世界的な免疫学者である多田富雄先生という先生がいらっしゃいます。いま発売されているある雑誌で、私は彼との往復書簡を載せています。脳卒中という症状のなかで、彼は言葉を失い、身体の自由も失い、たった1つ残された指先の自由でもってメールを発信されている。この国は棄民をしているのだ――ご存知のようにリハビリテーションには180日という壁があります。ここを過ぎてしまったら、あともう少しリハビリしていたら何とかなるよと思っていても、さようならということになります。

自己責任という言葉を本当に自分のテーマにしなければいけないのは、私たちではありません。この国を動かしている人たちです。これだけみんながつらい思いをしている一方で、天下りは何一つ変わっていない現実があるではありませんか。私は別にスマップのファンでもなんでもないけれど、一人の青年がストレスの上で、お酒飲んで裸になっちゃった――いいことだとは思いませんが、それに公然わいせつ罪を適用する。一方では、何千万のお金をかけたチャーター機でG7のローマに行って、世界中に酩酊をしている姿を見せた方々は、いちおう大臣を辞職されたけれど、いまもってそこにおられる。こういう比較って「フェア」ではないと十分知っていて「フェア」に言っているのですから、ご理解ください。

おかしい。何年か前の夏の昼でした。1人のアフリカ系アメリカ人男性とあいました。彼はベトナム戦争の帰還兵でした。アレン・ネルソンさんという名前でした。握手をし、「私が今ここに帰還兵の苦しみをたどって、たどって、たどって最後に到着できたのは、やはり9条ですよ。これを知った時に救われました。9条は地球上のテーマであることをいっしょに広げていきましょう」と言ってがっしり握ってくれた、あの大きな手をしたアレンさん、ちょうど来日されて、私がお目にかからせていただいたときは足の調子が悪かった、「たいへん失礼ですがどうされたのですか」とお尋ねしたときに、「イラク戦争反対でニューヨークでデモをしたときに、警官に蹴飛ばされて足を怪我しました。でもこんなの戦場に比べたらなんでもありませんよ」と言ってぎゅっと手をにぎってくれた手の持ち主アレンさんは、3月に、ご存知のように亡くなられました。

あるいは随筆家の岡部伊都子さん。「売ったらあかん」というあの言葉で、「私たちの良心を売ったらあかん」「教育売ったらあかん」「子どもを売ったらあかん」、「最後の最後のところで自分自身を売ったらあかん」というあの詩を書かれた岡部さんもいらっしゃいません。私は年を重ねることをいやだと思ったことはありません。女は若いときが価値あるよというような右も左もごいっしょの男性社会の論理に与(くみ)していいと思ったことは一度もないのだけどれど、そして年を重ねることによって見えてくる、あるいは深まってくる景色というのはあると、ものすごく信じてはいるのですが、一つだけ寂しいことは敬愛する人びとをつぎつぎと見送らざるを得ない現実です。岡部さんもいらっしゃいません。

あるいは戦中から戦後、ずーっと市民の栄養を改善しないとダメだということで一生懸命栄養改善の運動をされました近藤とし子さんという女性がいらっしゃいました。大好きな人です。私は彼女を「清潔な無愛想」とよんでいました。べたべたしない、媚びない、それゆえに素敵な品性のある方でした。その近藤とし子さんは、護憲の集まりがあると黙って、90代になっても、ぽつんと黙って参加をされていた。そして励ましの言葉をたくさんいただいた。その近藤さんはこうおっしゃっておられました。「身体の栄養は私たち頑張って活動するからね。でも私たちの心の栄養、生きていくうえでの栄養は9条なんだよ。ちゃんと守っていかなければね」と。その近藤さんも昨年の春、亡くなりました。

私たちはたくさんの宿題を上の世代からいただき、そしていまここで握り締め、つぎの世代に渡していかなければならないと心から思っています。自己責任という言葉で私たちの魂や存在を、冗談ではない、括らせてなるものか、と心から私は思います。同時に私たちは、責任をとっていただきたい方には責任をとって下さいと、もっと声を上げなければいけないと思います。このまま社会がすすんでいったら、「日比谷公会堂のこういう会合あったよね。いまそれに出たらたいへんなことになるから私は行かないわ」という時代が来ないとは限らないといいながら、さいわい老眼は遠くが見えますから皆さんのお顔を見ていて、一方で思います。こういう会に10代、20代の方がわーっときてくれたらどんなに嬉しいかなと。でも10代、20代はいま、とてもとても失意のなかにいる。仕事につけない。内部留保のたくさんのお金があり、株主には配当しながら、社員の首をきっていく人がこの国の経済のトップの方にいっぱいいるという現実を、いったい私たちはどう解釈したらいいのか。お戻しします、“のし”つけて、「自己責任」を、お一人おひとりのあなたたちに、と私は心から言いたいと思います。

私まだ20代の若いころ、石垣りんさんという女性の詩人に初めてお目にかかりました。その時、石垣さんは私に次のような言葉をくださいました。「落合さん、言葉というのはね、ずたずたに切り裂かれた心の包帯にもなるのよ。同時に言葉は、私たちのこんなにも傷つきやすい存在をズタズタに切り裂いていく者にたいするナイフにもなる。私はその両方の言葉を使いたいし、あなたもふんばってよね」と。何も知らない25、6歳の若い女に、彼女はしっかりとこの言葉をくださいました。その石垣さんの詩の一節を読ませていただきます。

ちいさい庭

老婆は長い道をくぐりぬけて
そこへたどりついた。

真っ直ぐ光に向かって
生きてきたのだろうか
それとも暗闇におわれて
少しでも明るい方へと
駆けてきたのだろうか。

子どもたち
苦労のつるに苦労の実がなっただけ。
(だけどそんなこと他人に言えない)

老婆は今なお貧しい家に背を向けて朝顔を育てる
たぶん
間違いなく自分のために
花咲いてくれるのは
これだけ
青く細い苗
老婆は少女のように目を輝かせていう
空色の美しい如露がほしい、と。

現実の私たちの空色の如露、私たちはほしい、私たちは要求する権利があるのだということをしっかりと根づかせていきたいと思っています。そして逝ってしまった愛する人たち一人ひとりに、私はあらためて約束をします。たとえば母。認知症という症状の中に入る直前、湾岸戦争の報道を見ながら彼女は言いました。

「あのね。髪の毛が焼ける臭い、知っている?こうして私たちのリビングで、お茶を飲みながら報道に接しテレビを見ていて、空を飛び交う弾丸を見ているけれど、あの下に髪の毛を焼かれ、皮膚を焼かれ、命を焼かれる人がいるということを忘れたら、人としてだめなのよね」。大事にしていきたいと言葉です。

そして1つだけ、曲を皆さんとシェアしておわりたいと思います。もうこの曲をかけなくともいい日と時代がくることを祈りつつではありますが、オーストラリアの曲です。「母親たち、娘たち、妻たち」です。私なりに脚色して物語の形にしてこの曲をお届します。「いつかこの道を私たちは繰り返すのですか」という問いかけとともに、です。

最初は父親だった 最後は息子だった そしてその間にお母さん、
貴女の夫お父さんもまた ドラムの音に見送られて 鉄砲をかついで戦場に行った
それでもお母さん 貴女は1度もそれを疑問に思わなかった
耐えること 従順であること、受け身であること
それが女の人生のすべてだと、貴女は信じていたから、そして教えられてきたから
それでもお母さん 私たち子どもたちは知っている
お父さんの戦死の報らせを受け取って、
お母さんが私たちに隠れて泣いていた後ろ姿を
2度と帰ってこないお父さんの写真に夜ごとキッスをして、
あなた帰ってきて、としか言えなかったお母さんの苦しみを、
私たち子どもたちは、いつだって見ないようにして見ていた
最初は父親だった 最後は息子だった そしてその間にお母さん、
貴女の夫お父さんもまた ドラムの音に見送られて 鉄砲をかついで戦場に行った
それでもお母さん 貴女は一度もそれを疑問に思わなかった
耐えること 従順であること、受け身であること
それが女の人生のすべてだと、貴女は信じていたから、そして教えられてきたから
あれから21年が経ちました
お母さん、貴女の小さな息子は立派な青年に成長しました
ほっとしたのも束の間、
トランペットが高らかに鳴りひびいて、貴女の息子もまた戦場にとられていきました
見送った貴女は、慣れないトラックの運転をし、負傷兵の看護をし
そして夜になれば息子が帰ることをただ待ちつづけ、祈りつづけました
長い、長い戦争でした ようやく終わった戦争でした
それでもお母さん、貴女は今までどおりの耐える人生、従順な人生、受け身の人生を続けたのです。
だって貴女はずっと国ぐるみでそれを教えられて、
そして幸せだったころの家族の1枚の写真を、自分の思い出として生きました
最初は父親だった 最後は息子だった そしてその間にお母さん、
貴女の夫お父さんもまた ドラムの音に見送られて 鉄砲をかついで戦場に行った
それでもお母さん 貴女は1度もそれを疑問に思わなかった
耐えること 従順であること、受け身であること
それが女の人生のすべてだと、貴女は信じていたから、そして教えられてきたから
お母さん、あなたの娘がおとなの女になりました
小さな男の子の母親になりました
いまこそ、ずっと貴女に贈りたいと思い、
贈ろうと思うと喉にひっかかって出てこなかったこの言葉を、貴女に贈ります
お母さんありがとう、お母さん愛している
でもお母さん 私たちは貴女と同じ人生をおくりたいと決して、決して思いません
年老いて小さく小さくなったお母さんです
自分の人生のどこが間違っていたのかとため息をつくしかないお母さんです
だから私たちは新しい人生を切り拓いていきます
世の中がおかしくなっていくときに
従順で、受け身な私たちなんて まっぴらです
誰かの足が踏まれていたとき 踏んでいる大きな足にむかって
「その足どけろ」と言える私たちに、私たちはせめてなっていきます
最初は父親だった 最後は息子だった そしてその間にお母さん、
貴女の夫お父さんもまた ドラムの音に見送られて 鉄砲をかついで戦場に行った
それでもお母さん 貴女は一度もそれを疑問に思わなかった
耐えること 従順であること、受け身であること
それが女の人生のすべてだと、貴女は教えられてきたから
年老いて小さく小さくなった貴女がここにいる

この曲を作詞・作曲し、皆で歌っているジュディ・スモールという女性はフェミニストです。私もフェミニストです。お嫌いの方もいるでしょう。でも私はフェミニズムを次のように位置づけています。あらゆるフェミニズムとは、一人ひとりの人間がセクシュアリティ、国籍、人種、身体の状況、心の状況のすべてにおいて等級づけのない時代めざす、私は私のこの考え方を、私のフェミニズムとしています。なぜならば、長い間、アンチ何々のなかでも女性の立場や女性の声は後回しにされてきたということもしっかりと確認したい。私たちは、もうすでに新しい身分社会の中にイヤでも足をつっこんでいる。どこに生まれたかによって、もうその人の人生がほとんど決まっていく。

私の母は結婚しないで私を出産し、私は「私生児」という人生をおくってきましたが、私はただの子どもとして生まれたのです。その思いも含め、私は逝った母と約束をしています。いま64歳で人生あとどこまでゆくかわかりませんが、もっともっと怒髪になるからね、私は怒りを表明するからと。怒りを表明し、異議を申し立てることも私たちの大切な基本的権利だから、という思いがあります。

アリス・ウォーカーの言葉を最後にご紹介しましょう。大好きな言葉です。「人が自分の力に見切りをつけるもっともありふれた方法は、自分には力がないと思ってしまうことです。」きょう、場内の1人ひとりのかたも外でご覧の方も、私たち1人ひとりにはまっとうな力がある、平和的な力があるということを、もう1度共有することができたら、とても幸せだと思っています。どうか、あなたの髪型が何であろうと心の怒髪わすれないでください。〝怒髪天を衝く〟ではなく、怒髪が地をうるおすような生き方をすること、どんな小さな粒でもいいですから、地を潤すような生き方をすること、それが人生の「勝ち組み」ではありませんか。

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5・3憲法集会スピーチ益川敏英(物理学者)さん

 昨日、京都の円山公園で、これと同じ趣旨の集会がありました。メインスピーカーは瀬戸内寂聴さん。たっぷり1時間ほどの話を、戦前の軍国時代の様子、戦争が始まっていく、そして戦後、最後の方では海外でのボランティア活動に、薬品をカンパで集めて届けるところまでお話になりました。たいへん感動的なお話だったんですが、その会場も4500人でしたか、立錐の余地のないいっぱいのお運びでした。

なぜこんなことを言いますかというと、憲法9条にからんでいろんな動きがあります。そのなかで、たぶん憲法の「改正」が是か非かということで、アンケート調査した結果、フィフィティー・フィフィティーだとか、いろんな調査が出ています。今日もどこかの新聞に出ていましたが、たいへん危険なんです、あれは。設問でどうにでもなる。そんなことに勇気をもったのかどうか知りませんが、憲法9条改悪にむけての足音というか、きな臭いにおいがします。それに対して、間際になって運動をして阻止するというのは、たいへん力がいることです。ですから、彼らが「これはあかんぞ、下手なことをしたら火傷をする」と思わせる。僕は必ず火傷をすると思っています。日本人の憲法9条に対する思いというのは、そんなに軽くはないです。だけど、へんてこな調査で、僕だって憲法9条ではなくて、日本国憲法を改正したいかといわれたら、改正したい条項はあります。だから改憲論者です。だって日本人の中に、非常に少数とはいえ、身分の違う、納税の義務のない人がいるわけね。それは、彼らに対しても僕は申し訳ないと思う。やはり平等であるべきだ。

そういう意味でアンケート調査というのはたいへん危険です。設問でどうにでもなります。日本人はそれほどバカではないので、実際に「憲法9条を変えますか」と言われたら、やすやすと許さないと僕は信じています。今日、ここにまいりまして、たいへん沢山のお運びで、私は自分の判断が間違っていないということを実感しております。

私と憲法ということなんですが、私は自分の精神形成がどのへんにあったかというと60年安保です。59年くらいから、安保反対という運動はあったんですが、盛り上がらない。しかし、翌年の6月あたりから非常に急速に運動が立ち上がりました。その時よりも日本人の意識はすすんでいます。ですから、必ず憲法9条改悪などということが提起されたら、彼らは火傷をするだろうと僕は確信しています。

しかし、彼らもバカではありません。非常にちゃんとしたブレーン機関をもっています。だから彼らは奥の手というか、何かをもっているのではないか。それは何らかの意味で戦争の危機をあおって、日本がそれに対処しなければならないという装置を考えているのかなと、いろいろ考えています。

これまでは脱線です。私の講義は大学でも有名なんです。ほとんど脱線なんです。

私と憲法ということなんですが、60年安保のときに私は精神形成をしました。そのときに名古屋大学に長谷川正安先生という日本国憲法の大御所がいらっしゃいました。その方はなんとおっしゃったかというと、法現象ということがある、だから1つの条文だけを見て、これはどう解釈しなければいけないという具合に解釈するのではなく、必ず1つの基本法があれば、それを実行にうつすための周辺法というのがある。さきほどの安保の問題でいえば、米軍の基地協定がどうなっているか。そういうことをみればそのもとになった法律の意味がわかる、ということをおっしゃっていました。私の目からみて非常に唯物弁証法的な考え方です。「あ、この先生は物理的な方法をちゃんと知っている」と感心したことがあります。

いまの憲法で、一体何が問題なのか。条文のここの文章があまりきれいな文章ではない、ちゃんと七五調にしよう、といった議論ではないんですね。そういう議論もありますが。しかし、そうではなくて、何が問題かといったら、解釈改憲でソマリア沖まで行くのに、その上で何が一体足りないのか。なぜ憲法を変えなければならないのか。唯一考えられるのは交戦権です。この前の海賊問題で問題になったと思いますが、海賊が鉄砲を撃ってこないのに、こちらが機関砲を撃っていいのか。それから数年前ですが、東シナ海で不審船がウロウロしている時に日本の自衛隊が機関砲を発砲していた。たいへん問題になりました。交戦権がないはずだからです。ですから交戦権がほしい。そのために憲法を変えなければいけない。

では、それを露骨にだしてきて、日本人がそれをイエスというだろうか。僕には答えはわかりませんが、何か奇策を考えているのだと思います。それは戦争をあおること。どこどこを敵国にして、それにたいして備えなければいけない、ということを言ってくるのだろうと、僕は想像しています。あっているかどうかわかりませんが、何か考えているのだろうと思わざるをえません。

保守政権は、いまですら安泰ではありません。これから10年先に戦争ができる国になるかどうか、保障はありません。ですから、ある意味では今を最後の決戦の時と心得ているのかもわかりません。だとしたら我々も備えなければなりません。60年安保のときは少々遅かった。1年前の59年の段階ではあまり盛り上がっていなかった。だからわれわれはいま、たいへん危険な状況にある。それに対して今から備えなければならない。ここに見える方にそれを言ってもしょうがないんですね。皆さんが周辺の人にそういう状況を伝えていただきたいと思います。たいへん危険な状況にある。

明るい話をしたいと思います。それは、私は何かの拍子に、「200年たてばこの世の中から戦争はなくなる」と言いました。仲間内の何人かからも「益川君、本当にあんなこと考えているの」という質問をうけました。しかし、あれは、それほど出鱈目を言ったつもりはありません。人間の歴史は確実に進歩しています。皆さん、確信をもってほしい。実際に、第2次世界大戦が終わった後、50年代のアメリカはどういう社会だったか。たいへん野蛮な国で、自由で平等な国でもなんでもない。その労働組合が立派な労働組合だというわけではなかったけれども、そこの委員長が暗殺される。暴力行為が公然とまかり通っていた。いまでも南部では、10年くらい前ですが、白人の警察官が黒人を警棒でたたき殺している写真がテレビで放映されました。

そういう野蛮な社会だけども、しかし確実に進歩しています。60年代の民権運動、ベトナム反戦運動などが非常に大きな力になったと思います。けれども何はともあれ、黒人の大統領が実現しています。オバマ氏が最後の最後まで立派な大統領で終えるのかどうか、それは僕は確信はありません。しかし、あの野蛮なアメリカで黒人大統領が実現する。50年たてば。

もっと他のことを考えてください。アフリカには植民地がいっぱいありました。しかしいまはありません。経済的支配とかなんとかということを別にすれば、何はともあれ、なくなりました。

ですから、必ず人類の歴史は進歩します。そういうなかでも、逆流ということが起こります。いつでも起こります。保守勢力も必死ですから。歴史をひも解いても、1800年代のフランスの共和制から王政にかわるといったことが起こっています。しかし、人類の歴史は大きな目でみれば進歩をしています。だからこんにち起こっている平和憲法の危機の問題でも、日本人はかならず乗り越えるし、乗り越えなければいけない。

危機感がないと、簡単に言うのですね。アンケート調査を見ていても、「憲法を改正したほうがいいですか」というと、「そうですね、いいですね」とか言うのです。どこの条文をどのように変えるのか、そのことであなたの住んでいる世界がどう変わるのか、ということを議論してのアンケート調査ではない。だから、その状況は何かというと、うっかりしているとうっかりした答えが出てしまいますよ、ということなんです。だが、この決戦は負けてもう1度やり直すということがきかない競い合い、政治闘争です。

ですから憲法の問題でいえば、僕は今のわだかまりが最後のわだかまりになるだろうと思っているし、しなければならない。私も老骨に鞭うってがんばりますので、皆さんもぜひがんばってください。

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第40回市民憲法講座(要旨)
いま、学校はどうなっているのか~私の経験を中心に~

湯本雅典さん(元小学校教師・ビデオジャーナリスト・学習塾「じゃがいもじゅく」主宰)

(編集部註)4月18日の講座で湯本さんが講演した内容を編集部の責任で集約したもの。要約の文責はすべて本誌編集部にあります

「こんなところで言うことじゃないかもしれませんけれども、私、今さっきですね、異動しなさいというふうに言われました。もう文書に書かれるということで非常に納得していません。理由は私が朝日新聞に投書したことが本校の学校経営方針と違うとかさまざまな理由をいわれましたけれども、納得できていません。今日5時10分から、少なくとも時間を取って話をして下さいということで校長先生にお願いして今日5時10分からまたお話をすることになりましたけれども、結果は変わらないようです。もしよければご注目していただければと思います。以上です」 (2004年11月9日 職員朝会での発言) 「学校を辞めます~51才の僕の選択~」より

私のプロフィール

こんにちは、はじめてお目にかかる方がほとんどだと思いますので、まず自己紹介をしたいと思います。僕は1954年生まれで現在54歳です。1980年から2006年まで東京都の小学校の教員をやっておりまして、51歳で自主退職をしました。それ以降、自営業、自分の家で仕事をしながらボランティアで「じゃがいもじゅく」という塾、子どもに「何でじゃがいもじゅく?」って聞かれるんですけれども、答えようがなくて、僕のあだ名が「じゃがいも」だったということだけなんですけれども、それをやっています。今15人くらいの子どもが来ています。

それから映画が好きだったので10年くらい前から自主制作というか、アマチュアで下手くそな映画をつくっておりまして、レイバーネットというサイトはご存じですか、そこに短い映像を投稿したりしています。今はとても便利な時代になってどなたでも、本当に僕でも映画が撮れて、しかも不特定多数の人に見せることができる時代になったんですよね。そういう意味ではいい時代になったと思いますけれども、そういうところで映像を発表したりしております。このあと私がつくりました映像を4本ほど見ていただいて、そのあとで私の体験を中心として、今学校がどうなっているのかということをお話ししたいと思います。

映画の内容を簡単に紹介します。1本目が「憲法が消えた~東京都の学校で起きたこと~」(13分 2005年製作)。2004年に僕にとっては信じられない事件が起きました。いま英語教育というのはすごく盛んですけれども、その当時は英語教育が広がりつつあったときで、私が転勤していった先がその英語教育の特区だったんですね。すさまじい英語教育の嵐が吹き荒れておりまして、そこで疑問に思ったことを朝日新聞に投書(資料1)したところ、投書が掲載された次の日に校長に呼ばれまして、その5日後に転勤命令が出たという事件がありました。それを映画にしたんですけれども、本当に悔しくて、悔しくて何か記録しておきたいという気持ちで映画にしたものなんです。この1本目と、2本目の「学校を辞めます~51才の僕の選択~」(16分 2006年製作)というのはまったく同じ、その事件を巡った映像ですけれども撮り方がちょっと違っていまして、1本目は事件の状況を伝えたルポルタージュです。2本目はこの事件がきっかけになって私自身が学校で働くことに対して自信を失っていくんですが、そういう、辞めていく、退職する過程の映画です。

それから3本目と4本目は非常に短いものですが、この2本がレイバーネットで公開したものです。3本目が「都立三鷹高校土肥信雄校長の闘い」(08年4分 2008年製作)、土肥先生のことはご存じだと思いますけれども、東京都の学校で、職員会議で挙手をして採決をすることはやってはならない、という通知が東京都でおりたんですよ。それに対して校長先生として公聴会で質問をしたところ、教育委員会からものすごい目にあった。土肥先生は今年の3月に60歳で退職をされたんですけれども、本来は100%再雇用されるんですけれども結局再雇用されずに切り捨てられてしまった。現在もたたかっておられます。それから4本目が「09年3月26日、『君が代』不起立をめぐる2本不当判決が出される!」(4分 2009年製作)、高校の172名の先生たちが立ち上がった裁判と根津さんと河原井さんの裁判もまったく同じ日、3月26日に判決が出ました。それについての映像です。

学校の外から見えない学校

今日、話して下さいとお話をいただいたとき、正直迷いました。というのは私が教員を辞めて3年経ちますが、教員を辞めて一番びっくりしたことは、学校の外から学校の中っていうのは本当に見えないんだなということなんですよね。こんなにも敷居が高いのかなと思いました。ひとつだけ例を挙げますと、私は今品川区で学習塾をやっていて子どもたちがやってきます。ですからある程度子どもたちから学校の様子というのはうかがえるはずなんですけれども、今品川区では職員室でタイムカードなんですよね。何時に出勤したか、何時に退出したかというタイムカードがある。

ご存じのように学校の教員には残業手当制度というのはないわけです。ですからタイムカードというのは本来必要ないんですよ。それが、今問題になっている日本テレビの「バンキシャ」という番組で放映されて、それで僕は知ったんですよ。品川区に住んでいるのに知らなかったんですね。ひとつの例なんですけれども、本当に学校の中はいったいどうなっているのか、先生たちや子どもたちはどういう状況になっているのか、ということがわからない。そういうところから、教員は辞めたけれども、学校のことについては問い続けていかなければいけないんじゃないかということで今日のお話の方針を肉付けしたわけです。

私は荒川の教員を辞めて3年になるんですけれども、いまだに辞めた学校と関わっているんですよね。子どもたちと勉強をしていたり、それからその学校は毎年僕みたいな自主退職者が出るんです。毎年学校の中で問題があるんです。それで仲間から相談を受けたり、飲み会をしたり、断ち切れないんですよ、辞めたんだけれども。そういう現状を喜んでいいのか、悲しんだらいいのか、悲しまなきゃいけないと思うんですけれども、そういう実態があります。

異動1年目で校長判断の転勤命令

私が学校を辞めた背景ということでは、ちょっとわかりにくかったかもしれませんが、私は荒川区に2004年に異動しました。そこで1年目に転勤命令が出たんですけれども、本来学校の教員というのはそう簡単には異動できないんですね。私が就職した30年近く前はだいたい10年以上、その学校にいることができたんです。僕も1年や2年で異動したら仕事にならないと思っていました。ただいろいろな事情で異動しなければいけない人もいますので希望すれば転勤することができるということが、少なくとも東京都の場合はルールだったんですね。それがだんだんルールが厳しくなってきまして、校長の判断で1年でも転勤させることができるという制度ができてしまったんです、東京都で。

まさか自分が、その対象になるとは思ってもいなかった。絶対そんなことはあり得ないと思っていたんです、1年で転勤するなんてことは。しかも僕は希望して荒川区に行っているんですね。荒川区は教育特区で誰も希望しないんですよ。ですから僕が荒川区を希望したとき、教職員組合の書記長に「絶対行けるよ」って言われたんです。間違いなく行ける、間違いなく希望は叶いますよって言われて、間違いなく荒川区に行けたんです。

そうしたら1年で転勤ということです。僕はいたかったのに転勤ということを校長がやってきたんです。これが今、至るところでやられているんです。

僕がこうなったおかげでそういうことが起こっていることがわかったんです。恐ろしいですよね。僕がこういう目に遭わなければそういう人たちがいたということを知らなかったんです、僕自身が。しかも、教育委員会は転勤命令を処分と捉えていませんので、処分まで至らないけれども痛めつけてやろうという人に対しては転勤をさせるんですよね。一番いい例が「日の丸・君が代」ですけれども、1年でどんどん転勤させていくということを今もやっています。

転勤理由は新聞投書

私がなぜ転勤になったかというと、僕の場合は日の丸・君が代ではなくて英語教育だったんですけれども、英語教育というのは今、また指導要領が変わりますが、全小学校から全国的にやられるということになります。僕の体験をいいますと10年くらい前から英語教育が徐々に入ってきました。僕はそのとき渋谷区にいたんですけれども、もう毎年、毎年、校長から提案されるんです。最初は月に1回、そのうち2週間に1回、そして1週間に1回というふうにどんどんエスカレートしていくわけなんです。僕はたまらなくなったので、そんなに急に導入しても絶対うまくいくわけはないと思いました。それで僕が担当になったんですね。国際理解教育の担当になりまして、英語だけじゃなくてハングルとか、在日韓国・朝鮮人の子どもも通っていたのでハングルも勉強しようということを提案したりしました。そういうことも当時はできたんですね。しかし今はとてもじゃないですけれども、全然できない。それがまだ特区ではない、特別に英語教育をやっていないところでそうだったんです。

けれども、荒川区にいった途端、完全にすべての教員が英語を教えなさいということで、僕の場合は1週間に1回研修に行かされたんです。新卒の若い人などは初任者研修がありますので、その初任者研修と英語の研修と両方をやらなくてはいけないということで1週間に2回研修に行った人もいます。研修は午後に行かなくてはいけないので、5時間目、6時間目の子どもを見ることができないんですよね。そういう事態でした。たまたまですが、1年目の新任の人は1年で辞めました。たまたまかもしれませんけれども。

英語教育の導入の経緯はそういう状態で、それはあまりにもひどいじゃないかということで朝日新聞に投書をしたら、朝日新聞の方からこれは載せましょうということで掲載されたんですね。朝日新聞の声欄に載ったのは2回目です。1回目は6年くらい前に、日の丸・君が代の件で投書をして載ったんです。そのときは何もなかったんです。しかもその文章はかなり具体的で、職員会議で毎回資料を配っていますということまで書いたんです。でも何もなかった。しかし2004年の、英語教育について書いたときは1発でなったということで、何かの局面だったんじゃないかと思います。考えてみれば、2003年の10.23通達とか、そういう局面だったんではないかと思います。運が悪かったのか。でも僕としてはこれは何らかの方法で言わなければいけないなという気持ちがあったんです。先ほどの土肥校長の話でもありましたけれども、教員はどこで言いたいことが言えたのか。僕は言いたいことが言えなかったので投書をしたんです。

2006年4月にいわゆる「挙手・採決禁止通知」というものが出ています。これが出る前から、本来は特に小学校・中学校、高校はちょっと違うと思うんですけれども、職員会議というのはよほどのことがない限り多数決はしないんですよね。小学校なんかは人数が少ないということもありまして、本当にみんなで話し合って決めようという雰囲気がありましたから、そもそも挙手・採決そのものがないんですよ。なかったのに、教育委員会がこれをやってきたというのは、何かといったら、これは「日の丸・君が代」以外にはないですよね。そういう事態はすでに進行していたんではないかなと僕は思います。だから最後の手段として都教委は撃って出たんじゃないかと思います、挙手・採決の禁止を。だから、土肥校長の思いは本当にわかります。よほどの気持ちがあったんじゃないかと思います。

学校から「逃げ」ていく教員――精神疾患

精神疾患による休職者の増加ということですけれども、2008年度のデータが出まして、10年前の3倍で、どんどん増えているようです。私は心療内科に通ったんですが、その話をしますと、渋谷区で勤めているときですが、小さな学校で単学級校という1年生から6年生まで1クラスづつ、1学年1学級だから学級担任は6人しかいないんですね。本当に和気あいあいとアットホームにやっていたんですけれども、先生が異動すると学校の雰囲気が変わってしまうんですよね。例えば3人異動すると担任の半分が変わっちゃうわけですよ、そうすると学校の雰囲気がガラって変わっちゃうんです。

たまたまなんですけれども、本当に学校でがんばっていた正義感の強い僕の友人の教員が全員異動しちゃったんですよ。それで寂しいなと思っていたんですけれども、僕はその辺おっとりしているというか、寂しいどころではなくて学校が完全に変わっちゃったんですよ。僕はその雰囲気の中でどうしてもやっていけなくなった。ある日、5年、6年は1ブロックで一緒に物事をやるんですけれども、となりの学年の先生がどんどん勝手にいろんなことを始めていくということがありまして、僕は耐えられなくなってしまった。僕は仲間に言いたいことをなかなか言えないんですよね、何で言わないのってよく言われるんだけど、校長とか教頭には言いやすいんですけれども、本当に仲間には言えないんですよね。仲間を批判できないんですよ。だから間違いだよって言えないんですよ。

それで、ひとりで悩んでいたところ代わりに怒ってくれた人もいたんですけれども、いろいろ悩んで本当に夜寝られなかった時が続きまして、これは恐ろしいことなんですけれども、心療内科に行くときというのは人からすすめられて行くんじゃないんですよね。自分で電話をして、何回も受話器を置いて、自分で電話をして、そして行きました。そして受診をしたという経過があります。考えてみたらまったく同じような悩みを他の教員も持っていたようで、ただ受診するかしないか、受診する時間があったかなかったかというだけの話で、結構みんな悩んでいたんじゃないかなと思います。

僕の場合は、幸いにしてというか、うつ病じゃなくて、なんとかという症名をもらいましたけれども、そのときに受診した医師がとてもいい人で、僕がこうやって受診しているということを校長に話そうと思うんですといったら「それはやめた方がいい、それをやったら学級担任をおろされるかもしれないよ」といわれたんです。いま業績評価ということがやられていますけれども、教員の能力が査定されて、5段階に評価されて給与が段階的に決まっていくんですけれども、その欄に自己評価をするところがあるんです。自分が健康か、普通か、健康じゃないかというチェックをしなければいけないんです。「健康じゃない」とチェックをする人はいますかね、それをチェックしたら外されるかもしれないわけですから。医者が言ったのはそういうことだったと思います。本当に冷静じゃなかったんだなと思いますね。こんなこともありました。コインロッカーに荷物を入れて鍵をかけずに立ち去ってしまったということがありました。これも医者に相談したら、「いやあ、そういうことはあるんだよ」と言われましたけれども、本当にいい先生だったなあと思うんですけれども、今からだと考えられないことをやっていたんだなあと思います。

多い中途退職者と非常勤講師の増加

それと同時に、僕は中途退職をしていくわけですけれども、やめていく人がどんどん増えていくわけです。私が辞めたのは2006年ですけれども、荒川区で退職者の辞令伝達式というのがあります。そこに20人以上いましたね。半数が中途退職者なんですよね。途中で辞めていく人がどんどん増えているので、今新卒が非常に多いんですよね。新人の教員が。それから非常勤講師を大募集しています。私も非常勤講師にならないかということをすごく言われました。しかも、僕とたたかった管理職が非常勤講師をやらないかって言うんですよ。電話をかけてきて「湯本先生は一生懸命だからお願いしたいんですけど」って、じゃああのときは何だったんだっていう話ですけれども。そういう話もありました。非常勤講師で穴埋めをしていこうとするわけです。

まず退職者が出ます、病気で倒れる人が出ます。もちろん産休、育休という人もいます。その穴を非常勤講師で埋めようとするわけなんです。ですから今「官製ワーキングプア」という言葉が生まれましたよね。これが学校で今増えはじめている。時給が1000円ちょっとですから、1日で5500円いかないんじゃないですかね。担任を持たされるともうちょっともらえると思うんですけれども、助手的なものも募集していますので、そうなると1200円から1300円くらいじゃないかと思います。

最近びっくりしたことですけれども、採用が内定した人を卒業前にもう採用してしまうというケースです。大学4年生の段階で。実際にこういうことがあります。教員は今どうなのか、ということなんですけれども、昨年の末に沖縄に観光旅行にいったときに沖縄タイムスに記事があったんです。沖縄県は全国の共通テストで常に下の方にランクされていますので、ものすごく現場が厳しいようなんですね。学力向上を何とかしようということで。沖縄県の場合、7割の教員が休日に業務して超過勤務は平均は2時間、5時間以上が6%あって、この場合は月100時間を超えます。これは公表されている数字ですから、絶対これを下回るということはあり得ないと思います。これは沖縄県に限らずに全国的にそうじゃないかと思いますし、東京都もそうだと思います。この前仲間に電話をしたら土曜日の夜の10時だけれども学校にいましたね。

子どもたちの状況――品川区独自の「教育要領」

子どもの状況についてですけれども、私は今品川区で学習塾をやっていますので、品川区の子どもの実態というのは、本当によくわかるんですけれども、学力向上キャンペーンですよね。学習指導要領が今度変わりますけれども小学校への英語の導入、学習時間が増えるということで1年生、2年生から5時間授業、6時間授業をどんどんやっていくことを、今年から移行措置ということで始めています。品川区の例ということで“資料2”を用意しましたが、品川区には品川区小中一貫教育要領がありまして独自の指導要領をつくっています。何年も前の話ですけれども、指導要領は法的拘束力がないというのが僕たちの主張でしたから、教科の自主編成ということはむしろ現場の僕たちや組合がやっていたことですが、今は逆なんですよね。教育委員会が自主編成しちゃっている。

この品川区の例は品川区だけだと思っていたんですけれども、今毎日新聞で「先生」という連載があって、現場の実態がとってもよく出ているんです。そこに北陸の方でも独自の指導要領をつくっているところがあるとあって、品川区だけではないようですね。算数と数学に関しては、品川区は小中一貫教育ですので中学1年生、2年生、3年生と呼ばないんで、7年生、8年生、9年生というんですね。算数と数学の中身というのは次の学年でやる単元なんです。6年生を見るとよくわかるんですけれども、「正の数・負の数」が入っています。これは本来の指導要領では中学1年生でやることになっています。全部前倒しになっていて、しかも1単元ではないんですよ。3つも4つもあるんです。算数の独自の副読本も出しておりまして、それで勉強します。

単純に考えて「できるのか」ということなんですけれども、やっちゃっているんですよね。もっと単純に考えて、じゃあ品川区の外から転校してきた子どもはどうするんだという話になりますよね。うちの塾に来ている子どものお母さんが保護者会で質問したんだそうです、これが導入される間際に。当該学年、本来教えるべき学年、「正の数・負の数」が中学1年生で教えられているんだったら、もう1回中学1年生で「正の数・負の数」をやるんですかって聞いたら「やりません」と担任に答えをいただいたということです。できるわけないんですよ、こうやって前倒ししちゃったら。

大変なのは小学校1年生ですよね。それで今品川区が考えているのは幼稚園からの幼・小・中一貫教育です。そのための指導要領を作成中です。今幼稚園と保育園が幼保一元化ということをやっていますが、それに便乗して品川区では幼・小・中一貫教育を考えている。幼稚園できちんとひらがなを教えなさい、そうやって1年生の負担を減らしていこうということです。

授業がなくなっている学校

本当に子どもたちがかわいそうだなあと思うんですけれども、学習のパターンというかやり方が、すすんでやることを奨励するんです。品川区の場合特にそうですけれども、すすんで自分で計画を立てて、とにかく立てたとおりにどんどんやらせるんです。漢字なんかが典型的なんですが、漢字も独自の「漢字ステージ」という副読本があって教科書と別に子どもたちは持っているんです。だから先生は大変だと思いますよ、国語の教科書と漢字ステージというドリルの両方で、どっちを教えたらいいんだということで。子どもによって違うんですけれども、品川区独自のドリルで教えているクラスもあれば教科書で教えているクラスもあるということです。

共通して言えるのは15分の勉強時間があるんです。ステップアップというんですが、15分のあいだ子どもたちに漢字ステージというドリルをどんどん、どんどんやらせるんです。できたら先生がテスト用紙を渡して、丸がついたらどんどん先をやらせるんですね。どういうことかというと授業がないんですよ。先生が教えて、子どもたちと一緒に学んでいくという過程がないんですよ、特に漢字学習なんかの場合は。そういうやり方、パターンを品川区では導入しているんです。

言葉があるんです、「自学」というんです。これは自習という意味なんです。子どもたちが「じがく、じがく」と言っていて「今日宿題あるか」と聞くと「じがくがある」いうので何のことかさっぱりわからなかったんですけれども、造語ですよね、品川区でしか通用しない。自学で何をやっているかというと1日の勉強時間の目標を立てさせるんですよ、30分とか1時間とか。それを担任の先生がチェックするんです。何をチェックするかというと昨日何分勉強をやったかということをチェックするんです。こんなの宿題といえますか。いくらでもごまかしがききますよね。要するにこういうやり方は「できる子」しかできないんですよ。だから前倒しということができるんです。どんどん、どんどん先に進めるということが。なかなかわかりにくいかもしれませんが、品川区ではそういう状況が進んでいて、おそらく他の区にも波及しているんじゃないかと思います。

今小中一貫教育が流行ってきています。品川区の状況をお伝えすると学校自由選択制、これも品川区が率先してやったものなんですが、品川区の伊藤学園、この伊藤は伊藤博文の伊藤ですけれども、伊藤博文の墓があるんですが、小中一貫校です。制服があるんですね、小学校1年生から学生服です。ある親が質問したそうです、1年生、2年生の子どもは学生服を着ても汚したり、破いたりするので少なくとも低学年は制服はいらないんじゃないですか、と先生全員の前で。その全員の前で校長先生が何と答えたかというと「あなたが本校を選ばれたんでしょう」と答えたというんですね。でもその人は学区域だから行っているんですけれども、学校長としては選んできているんでしょうという感覚なんですね。これも恐ろしいなと思います。

「共通」テストで取り残される子ども

「じゃがいもじゅく」にきている子どもたちのこともお話ししたいんですが、どんどん勉強について行けていないんです、本当に、かわいそうなくらい。最近は特別支援教育が実施されていますけれども、うちに来る子どもたちのかなりの子が特別支援学級に通級をすすめられるケースが非常に多くて悩まれています。さきほどの学力向上キャンペーン、競争原理、そういう学校の雰囲気の中で担任がそういう意識になってきているんじゃないかなあと思います。

共通学力テストが21日にまたありますけれども、「共通」じゃないですよね、特別支援学級の子は受けませんし、普通学級に通っている「障がい」を持っている子どもも何人かうちの塾に来ていますが、その親御さんがすごく悩んでいるんです。担任に何を言われたかというと、まず「この共通テストを受けますか?」、「受けさせたいです」とその親は言いました。「だったらふたつのやり方があります。ひとつは教室で一緒に受けさせます。その場合はアドバイスはできません。声を出したらほかの子にわかっちゃうから。もしアドバイスを受けたいならば別室で受けて下さい。どちらを選ばれますか」と言うんです。

こういう選択を迫られたら親はどういう気持ちになるのか、辛いだろうなと思いますね。子どもが悩んでいる顔をしましたね。僕が親御さんとその話をして、親御さんからそういうことが学校であったんですよという話を聞いていたときに下で遊んでいたんですけれども、僕の顔をじろって見たんですね、「ああ僕の話をしてるんだな」って思ったんだと思いました。最終的には「障がい」を持った子が排除されているんですよね、こうやって。

日の丸・君が代処分の横行ということで、3月31日の段階で処分者が出ました。しかし根津さん、河原井さんについては解雇を止めることができたということで、さらにがんばらなくてはいけないなと思います。反戦教育についても本当に難しくなっています。今中学生も教えているので久しぶりに中学校の社会の教科書を買ったんですけれども、ものの見事に「軍隊慰安婦」の記述がないなあと思いました。数年前に買ったときにはあったんじゃないかなあ、まったくないんですね。でも現場で何とかがんばってもらいたいなと思います。

「学力向上」に疑問持ちはじめた保護者

2006年12月に教育基本法が改悪されたとき、僕は2006年に辞めて、本当にどうしていいかわからなくなった。そのときに教育基本法改悪というニュースを聞いて、カメラを持って国会前に行って、そこで高田さんにもお会いして知り合いになれてよかったなと思うんですけれども、その当時教育基本法を例えば知り合いの親御さんに話しても全然知らないですよね、知らなかった。試しに街角でインタビューしてみたんですけれども70%、80%の人が知らないという状況だったと思うんです。それがあの教育基本法改悪をある意味で許してしまったのかもしれない。

しかし今若干違った情勢というと、さきほどの品川区の例で言えば、授業がどんどん進められている、そういう学校の変化に対して親が疑問を持ち始めているんじゃないかと思います。それから行政単位でも共通テストに関して公表することを辞めようじゃないかとか、そういう動きもある。少しずつ対決点が見えているんじゃないか、これ以上悪くなったら大変だという状況になっているということの反映だと思います。僕も教員は辞めましたけれども、学校は辞めましたけれども、これからも現場の教育に役に立ちたいな、子どもたちにも役に立ちたいなと思っております。付け加えますと、僕が投書した文面についてですけれども、それを読んでいただければ何ら問題のないものだということはわかっていただけると思います。以上です。ありがとうございました。

(資料1) 朝日新聞朝刊「声」の欄2004年11月3日

小学校の英語 改めて検証を 小学校教員 湯本雅典
  今や全国的に知られるようになった東京都荒川区の英語教育。区内の小学校全校、全学年で週一時間、英語の授業がある。四月から私はそこの教員になり、英語の授業を進める学級担任を務める。授業には民間からの協力者である英語アドバイザーが毎回、外国人の指導教師が月一回前後、それぞれついてくれる。
私が、英語教育が従来の「文法中心型」から「コミュニケーション中心型」へ移行し、国際理解とコミュニケーション能力を小学生時代から向上させる手段になるならと、ある意味で注目していた。だが今、それにはほど遠い状況にあると言わざるを得ない。
まず、外国人講師が少ない。子どもは彼らに強い関心を抱いているが月一回立ち会ってもらうのが精一杯だ。担任教師も、英語教師の免状を持たないまま正規のカリキュラムがない状況で授業の全責任を持たされ、毎回の準備に多くの時間が割かれ頭を悩ましている。児童の間では英語塾に通う子が増え、英語の学力格差が出始めている。英語に自信のない子どもが小学校からできてしまう状況をどう考えたらいいのか。
小学校の英語教育のあり方について、改めて幅広い検証が必要かと思う。

(資料2) 下記に掲げた内容は、次学年の前倒しである。

「品川区小中一貫教育要領」 【算数・数学】
・3年生:分数、小数・小数のたしざんとひきざん、二等辺三角形と正三角形
・4年生:分数のたしざんとひきざん、小数のかけざんとわりざん
・5年生:分数のたしざんとひきざん、通分と約分、倍数と公倍数、約数と公約数、台形・ひし形の面積
・6年生:正の数・負の数、角すいと円すい、拡大図と縮図、線対称と点対称、合同な図形、反比例、場合の数
・7年生(中1):球の表面積と体積、点の運動と軌跡、近似値・誤差・有効数字

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図書紹介:「今こそ平和憲法を守れ」中北龍太郎著(明石書店 定価2200円)A5判280頁

 畏友・中北龍太郎弁護士が本年5月3日の憲法記念日を期して、本書を出版した。この本は「護憲」平和運動の活動家としての中北さんと法曹人としての中北さんの経験と知識が生かされた憲法論であり、多くの活動家の皆さんにお勧めしたい本である。
  本書の内容は、大まかに言えば21世紀における改憲の動きの分析、9条改憲論のねらい、平和憲法の意義、政教分離原則の緩和のねらい、国民投票手続きをめぐる諸問題などである。

はじめに、憲法は「自由と人権のために市民が国家に対して発した命令、つまり市民による市民のための国家に対するしばりであり」、改憲論の本質が立憲主義から国柄憲法へ、政府への命令から国民のしばりへの変質であることを明らかにしている。

そして21世紀初頭に次々とすすんだ改憲のための準備を、小泉、安倍、福田、麻生の歴代政権時代ごとに分析し、かつて核戦争勃発の危険度に際して示された「核の時計」に比して「改憲時計」に例えてみたのが面白い。中北さんによれば、小泉政権下では改憲20分前まですすみ、安倍改憲政権のもとでは、安倍が「改憲のために大きな貢献をしましたが、それが災いして短命に終わったために、任期内の改憲はもとより、短期目標としていた集団的自衛権の部分的解禁も実現できませんでした」として、改憲時計は改憲10分前まで進んだと評価する。そして福田政権が実現しようとして失敗した大連立を論じて、もし「改憲への2枚の切り札である派兵恒久法の制定と大連立が実現されたならば、改憲2分前まで改憲時計の針はすすむことにな」ったはずだと指摘する。しかし、福田は大連立の政治情勢をつくったという意味で、安倍からさらに1分はすすめたという。改憲9分前ということか。麻生の下で海賊新法が制定されれば、改憲時計はさらにすすめられることになる、と著者はいう。

特に私が興味を惹かれたのは「憲法9条 戦争のない世界へ」という章の随所に出てくる平和政策に関する論述である。中北さんは「国家自衛権論を克服し、それに替えて市民の平和的生存権を確立した平和憲法は、自衛権論にもとづく国家武装と戦争による安全保障から、市民が国家の戦争をストップし、武力によらない平和を求める市民の平和的生存権を根幹にした安全保障へレジーム・チェンジした点で、世界の歴史の中で画期的な意義があります」という。そして軍隊では市民の安全は防衛できないと論断し、「市民が主体となって侵略に対して非暴力抵抗運動で対処し自らの命・暮らし、市民社会を守る方法があ」ると説く。それはガンジー以来の歴史的水脈としてのその「非暴力市民防衛にはストライキ、非協力、大衆行動など多彩な手段があります」という。9条を持つ日本はその思想と運動の歴史に学び、非暴力市民防衛の組織化・訓練をしなくてはならないと主張する。

また別の箇所で、「専守防衛論」の意義と限界に触れているのも実践的な結論である。中北さんは改憲と専守防衛論の間にくさびを打つことの実践的意義を指摘したうえで、専守防衛論が戦争への道を敷き詰める危険性、その功罪を指摘している。このあたりは運動家としての著者の面目躍如たるところである。

また著者は理想にとどまらない武力によらない平和づくりを論じ、国際平和組織の建設と国連の平和機能の強化、日本の戦争政策の転換のために日米安保の平和友好条約への転換、自衛隊の縮小・改編などを論じ、対話・交渉による朝鮮半島の非核化と現実的な平和構想・東アジア不戦共同体を論じている。

最後に本書は「国民投票の朝が来る」として、改憲手続き法のシュミレーションを行い、具体的にその危険性を指摘する。そして「改憲をとめるのは憲法をつくった主権者でありまた国民投票の主体である市民の力です。この力を発揮して憲法を実践すること、これが私たちに課せられた時代の要請です」「改憲をたくらむ勢力を決してあなどることはできませんが、しかし、市民の間ではいまだ9条改憲反対の世論が根づよく幅広く存在していることも確かです。私は、この市民の改憲反対の意見をよりいっそう広げつよめることが、改憲をとめる力の源泉であると確信しています」と書いている。(高田健)

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「九条」署名2万筆に

蓑輪喜作

ついに5月4日午前、公園のバーベキュー広場で私の「九条」署名が2万を超え、周りの幾組かのグループが拍手をしてくれた。私の近所の奥さんも居られたようだ。3年と5ヶ月、よくここまで突っ走ったものだ。ほんとうにわれながらあきれてしまう。昨年1万を超えたのは4月4日で、それ以後の1年1ヶ月でのまた1万である。以後あまり日が経っているわけではないが、歩いていると署名の数を聞く人も多く、2万と言うと人に与える力は大きく自分でもその重みを感じている。

そんなことで、以前から近くの三鷹市大沢の「九条の会」から一度話しに来てくれと言われていたのだが、昨日3名の方がわが家に来てくれ、いろいろと話し合った。私に対しては、その署名を出来る力は、若者の中に入ってゆけることは、と言うことでした。私は、いつもいただく署名の半数は若者で、希望を持ってやっているのだというのだが、今回はそのことについて書いてみたい。

それで「九条」署名ができる力は用務員人生で学んだものといつも言うのであるが、2日ほど前、故里の私より12歳若い(現在68歳)友人から山菜が送られてきた。夜、お礼の電話をかけたとき署名2万筆の報告もし、これが出来たのは、あの頃(45年前)のあなたと為次君などの農村労働組合のたたかいの経験に学んだものだと言った。農村労働組合というのは、そのころの農村では穫り入れが終わる10月の終わりから11月のはじめにかけて、みんな働き場所を求めて出稼ぎにでた。私の町の出稼ぎ者は1500人を超え米に次ぐ収入と言われ、町当局も歳末になると東京や名古屋などにお正月の帰省バスを出していた。そして6ヶ月働いて帰ると失業保険金がもらえた。しかしだんだんしめつけがひどくなって窓口での農民いじめが始まった。毎月2回の職安の窓口は、失業保険をくれるところではなく職を斡旋するところだと、田植えのさかりであろうが稲刈りであろうが、あこにゆけ、ここにゆけと言われ、いやならお金はくれないと言うようになり、みんな頭に来ていた。

そんなときに私の学校を卒業した青年たちが、おれたちも都会の労働者のように組合を作って立ち上がろうということになり、60名の農村労働組合を作って職安の窓口交渉を始めた。一夏に8回、そのたたかいはお隣の町に、県下に、全国に広がってゆき大きなたたかいとなり、いまでは雇用保険と名を変えて一時金でももらえるようになっている。

さきの山菜を送ってくれた友人も為次君も、まだ23歳ぐらいで書記長に委員長。40代、50代の父ちゃんを含めて、失業保険だけでなく地域やみなさんの諸要求の実現にも取組んだ。問題によっては部落の区長を先頭に、後年この二人はあの頃を振り返って恐ろしいものがなかったと言っている。青年たちはいつしか交渉にもなれ、出稼ぎでは省庁交渉までやり、いまでもそのときかちとった豪雪地帯の冬季保安要員制度などが残っている。そんな日のことが署名していても私の頭には走馬燈のようによぎるのである。

この青年たちはみんな私の学校の卒業生で、用務員の私とは相撲をとった仲間で、当時は用務員室は小使室と呼ばれ若い教師や生徒たちのたまり場だった。長い戦争からやっと解放されて新しい憲法が出来、教育基本法も出来、まだ食うものも着るものもないけれど、いまと違って目の前は明るくなにかよいことが沢山やって来そうな時代で、みんなの目はきらきらと輝いていました。

その頃の私の学校の校長は、師範学校の附属小学校の教師もやった人でしたが実に謙虚な方で、新しい教育を受けた新卒の教師に学ぼうとしていた。(もちろんその校長はあの世であるが、東京に来てからはその娘さんとの交流もある)。そしてその頃、私たちに大きな影響を与えたものが山形県の「山びこ学校」で、私の新潟県でも寒川道夫編・大関松三郎詩集「山芋」、そして村山ひでさんの「北方の灯びとともに」など、「よく見る、考える、そして行う」自分の頭で考える教育に、教師も子どもたちもしんけんであった。

私の小使室には、いまベストセラーになっている小林多喜二の「蟹工船」や教師の実践記録、また松丸志摩三という人の「農業の魔術」などという本などいろいろのものがありケンケンガクガクの夜の更けるのを忘れる日もあった。

そのときの子どもたちが10年経っての農村労働組合で、そういう日のことがいまの「九条」署名をしていても頑張るのだと私の背中を押してくれているのだ。それ以後も私の用務員人生はいろいろな教師や子どもたちとの出会いがあり、実にしあわせだった。 長くなるがいま一つだけ書くと「学校規程」というものが作られたとき、そのときの校長、いまは亡き人だが「用務員は時間があったら読書すること」の1項を入れてくれ、それが最後まで生きた。

次に歌友として知りあった新潟県妙高市の市会議員をやっておられる方がその校長の甥で、次のような歌を作っておられる。

渡辺幹衛

日本海147号

この校長の頃は私は30代の初めで、たしかその頃有名になった斉藤喜博の「学校づくりの記」や歌集「職場」などを読んでいた頃で、また岩波で出た新書版の魯迅選集などを手にしていた頃だと思う。

さて用務員人生は書けばいくらでも書けるがこれくらいにして、若者に話せることは、の問いについて書いてみたい。

私はよく、もしこの憲法9条がなくなり、戦争が出来るようになったとしたら、あなたたちはきっと、あのとき戦争体験者が居てなぜ頑張ってくれなかったのかというでしょう。私はそう言われないために、いまのこの「九条」署名をやっているのですよと若者に言うことがある。
  署名は最初はていねいに静かに頭を下げて、戦争をしないという憲法9条を守る署名で、これからの人にとっていちばん大切なことですとお願いします。どういう団体ですかという人には、全国に7千数百の地域組織があって北海道から沖縄まで取組んでおり、もう5年になるので大きい都府県ではそれぞれ100万を超えたところもありますと、9人の呼びかけ人のリーフなどを見ていただき、私は署名が多いのでこうして「朝日」や「毎日」などの新聞ものせてくれています。新聞も署名が多いと元気を出してくれ、よい記事やテレビの番組などもしっかりしたものが出るようになり、世論も作られてゆきます。たかが署名と言っても3年も続けているとそういうことを肌で感じますと。

そして若者には、これは私でなくあなたがた自身のものですとだんだん声も強くなり、自分のこととして受止めて下さいと言います。

それから個人情報にこだわる人にはその人の気持ちを尊重して、出来なければ国民投票になったら守って下さいと言います。そうすると殆どの人がハイと答えてくれ、書けなかった人でも5、6分もすると自分の方から書かせて下さいと言ってくる人も居ます。

沖縄、広島、長崎出身者は自分から積極的に署名をします。そして沖縄の青年たちは婆ちゃんに戦争のことを教えられて育ったと言います。

そしていつしか私と若者の間には距離はなくなり、この国のこれからはあなた達のだからたのむぞと言えば、まかしておけの言葉も返ってきます。もうかなり私の頭も老化しているのですが、若者を前にすると水流すごと言葉が出てくるのです。以上が私が若者に接する署名だと思います。

さて最後に、妻にとっては最後まで言わないで私にあの世に持っていって欲しかったようですが、昨年からのこの1年の私の健康上のことについて書いておきます。

こんなことで誰にも言うなと妻に言われて1年間封印して来たのだが、署名が2万になってここらが限界と思ったのか、好きにしろと言う言葉もあったので書くことにした。

ホルモン剤の副作用かどうかわからないが昨年の春頃から高血圧症にもなり、そのことで青息吐息の日もあった。そんなことでいままで出ていた都心での集会など欠席で義理を欠くことも多かった。

しかしこの「九条」署名がなかったらもっと大変だったと思う。考えてみれば署名によって若いときより人よりも弱いと言われたこの私が80歳という年まで生きて日々自分のやることを持ち、沢山の人との結びつきを持てるということはほんとうに大きなよろこびであり、生きる力になっているのだと思う。その後も沢山の人からのお励ましのお便りをいただいておりますが、長くなったのでまたの機会にして、いただいたお2人の短歌を紹介します。

下村すみよ(埼玉)

九条おじさん
上田精一(熊本)

新日本歌人5月号

 そしてこまかいことは今年に入ってからは手帳のメモで署名2万のしめくくりとしたい。
  全国の沢山のみなさんの応援ほんとに有難うございました。心より御礼申し上げます。

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「九条」の署名日記
2009年1月より5月4日まで

蓑輪喜作

1月1日 年賀状が134枚。2万めざしてというものもあった。午後署名20。
1月2日 しばらくぶりにKに会う(署名をはじめた頃、一番最初に会った20代の女性)。2万をめざしてという青年もいた。午後署名2。
   3日 署名午後22。
   4日 署名午後22。
   6日 署名午後36。
   8日 署名午後15。父親が自衛隊だからと彼女にも署名させた青年がいた。
  10日 午後、熊本人吉九条の会のUさん、足立区にいる娘さん夫婦と九条おじさんの顔を見に来てくれた。寒いので、公園に人は居なかった。
  12日 署名午後15。公園でいま卒業論文で戦争のことを書いているという学生に会う。
  13日 署名バス停で28。4時頃より血圧高くなる。
  15日 戸外5度。寒いので1日家。
  16日 朝0度。晴天となり午後から署名22。目の前にバスが来ても書いてくれた若い女性がいた。
  17日 午後からあたたかく署名も多く26。
  19日 署名午前24。シンガポールの青年2人署名。また、いまの日本政府はおかしい。派遣村は政府と企業がやるべきだの声。はじめは戦争賛成という人が、命の問題で話していたら署名した。60代の男。
  23日 署名午前27。雨がやんで気温も高かった。
  24日 今日は一日、風花の舞う寒い日で、バーベキュー広場で1組の若い夫婦と話し合う。
  25日 署名午後19。
  26日 署名午後37。
  27日 署名午後21。風があり、少し寒かったが若者幾人かと話し、元気がでる。
  29日 署名午後21。いま不景気だから戦争すれば景気がよくなる、60代の男。しかしいま一人の男、はたしてそうか、ガザ地区がしあわせか。
  31日 昨日の雨で人少なく、署名1。
2月1日 風強し、署名午後21。
   3日 午後署名24。
   4日 血圧高く、診療所に。HさんよりTEL。S
  さんより短歌をいただき元気をもらう。
   5日 午後署名24。
   6日 午後署名13。風がつよくなり、早く帰ってくる。
   7日 午後署名18。
   8日 午後署名22。
   9日 午後署名27。
  10日 午後署名23。近くのご婦人から、なにかのたしにしてくださいとカンパがポストに入っていた。
  11日 午後署名17。
  13日 午後署名30。
  14日 公園で工事の監督さんがあとを追ってきて署名する。午後33。
  15日 午後退職教員の作品展に行き、西東京市の九条の会の人に会う。
  16日 午前署名12。
  17日 寒いので「硫黄島からの手紙」のDVDを見る。
  18日 午後署名30。昨日よりよかったが、やはり寒かった。
  19日 Iさんより、退職教員の作品展の秋の署名20筆、いただく。Kさんよりキューバ旅行の報告とメタルをいただく。午後署名30。
  20日 午後署名32。
  21日 午前署名11。
  22日 午後署名24。
  26日 午後署名23。
  28日 子どもがイラクに行っているというアメリカ女性が署名する。
3月1日 10名ほどの小学生の男子。こんなじいちゃんが嘘をつくはずがないといって、みんなで署名する。愛国心をどう思うか、という青年としばらく話す。
   2日 午後署名22。風強し。
   4日 午後署名。ネパールの青年が署名する。雨になりやめる。
   5日 午後署名25。久しぶりの晴天。金髪の若いルーマニア女性と握手。
   7日 午後署名29。公園の噴水のところで10名ほどの女子学生が署名する。
   9日 午後署名36。カメルーン、ロシア人などの署名もあった。
  10日 午後署名35。
  11日 午後署名34。ひとバスやり過ごし、話し込み署名した青年が居た。
  12日 午後署名3。沖縄の女性、戦争は幼い頃から祖母に聞いて育った。
  13日 午後署名48。署名多し。沖縄青年などもいて。
  14日 午後署名2。風と雨。
  15日 午後署名42。人多く署名多し。野球の一つのチームが署名する。
  17日 午後署名39。
  18日 午後署名50。
  19日 午後署名37。
  20日 午後署名22。多磨霊園に来たという新潟塩沢出身のグループが署名する。
  21日 午後署名65。バーベキュー広場で20名くらいのグループが自分たちで廻し署名する。
  23日 午後署名45。
  24日 署名午前21、午後45。9条などいらないという若い女性が居て、はじめてなのでびっ     くりする。
  26日 署名午前27、午後27。相変わらず署名は多いが、ここに来て北朝鮮問題が出るようになる。
  27日 午前署名30.春休みの野川で子どもたちが「あ、戦争反対のおじさんが来た」といっていた。
  28日 午後署名35。3年というと「九条」おじさんもかなり定着したように感じるこの頃だ。寒くなって桜はまだ2分咲き、風が冷たく署名をやめ帰ろうかと思ったが、子ど連れの母親が子どもたちにも書かせてくれた。「朝日」「毎日」でも見たという女性母親が全国交流集会での私の報告を聞いたという学生、あたたかいお茶を入れてくれた人、アメをくれた人、明日の選挙は行くといってくれた人、風が冷たくなったので帰ってくる。
  29日 署名午後54。こんなよいことをしているのだから、おおいに宣伝しろと言ってくれた人。
  31日 署名午前37。お婆ちゃんに原爆のことを聞いて育ったという長崎の青年。加藤周一の会に出席したという女性。関心の高い人が居て「毎日の人」のコピー5名ほどの人に渡す。
4月1日 署名午前21。風はないが予報より寒く早く切り上げる。桜はまだ3分咲き、人も少なかった。
   2日 署名午後43。風はあるが昨日より暖かく、署名多く、相変わらず若者がよい。
   3日 署名午前30。はじめは人も少なかったが、11時過ぎから若者が来るようになった。 今日は自動車試験場の前のタンポポがきれいだった。読売の「改憲」52%。北朝鮮問題の影響だと思う。
   4日 署名午後53。花見の人多し。新聞で知っているという人も居て、「おにぎり」などをいただく。最後に私に近いところで埼玉の2人の女性と話がはずみ、私の読んでいる本のことなども聞かれる。
   6日 署名午後57。午前に白伝坊の坂のところで、蓑輪さんでないですかと知らない人に声かけられる。お昼にオバマ大統領が世界ではじめて核を使った国として核軍縮を訴えたこともあって、署名も多かった。
   7日 署名午後54。九条の会のニュースを配っていたら、署名したいと声をかけて来る人もいた。公園では一度に30人くらいの署名があり、肩が痛くなった。
   8日 署名午後49。予科練だった人、疎開先でも空襲にあった人、体験を話す人もいた。バスがきて署名できなかったが、頑張って下     さいと盛んに手を振る人もいた。
   9日 午後から気温も上がり、少し暑くなった。署名午後44。
  10日 署名午後34。国分寺のAさん、神奈川の友人の本代持参す。署名をやめて、しだれ桜を見る。
  11日 署名午後76.快晴で花見も多く、アフガニスタン、ロシア人などの署名もあった。
  12日 署名午後60。署名相変わらずよい。2人の子どもに書かせていた若い夫婦もいた。
  13日 署名午後37。夜、所沢の人から署名についてTELがあった。
  14日 署名午前23、午後21。雨の予報で人は少なかったが、以前署名した人や、少年兵だったという人と話す。
  15日 署名午前20、午後44。さわやかで気分よし。がんばっての声、北朝鮮のようなのがいるから戦争した方がよい、さまざまの     声を聞く。しかし、大きくなったお腹をなでながら、この子のためにと署名する婦人もいた。マレイシア、韓国人の署名もあっ     た。
  16日 署名午後43。以前に署名した人が懐かしそうに声をかけてきた。
  17日 署名午後27。朝から霧雨ではやくきりあげる。試験場に勤めているという人が御苦労様と言ってくれた。
  18日 署名午後40。バーベキュー広場で、外国語大と早稲田の学生の新入生歓迎会で署名していただく。法律のことはまかしておけと早稲田の学生が言っていた。
  19日 署名午後48。バスの運転手さんがお客が少なく、停車時間に車から降りて、がんばって下さいと励ましてくれた。
  20日 署名午前36。「こがねい・九条の会」、沖縄平和ツアー(20日~22日)、23名が行く。
  21日 署名午前30。雨で人が少なかった。
  22日 署名午前20.天気良く、自動車試験場のハナミズキがきれいだった。パキスタン人がガンバってといってくれた。
  23日 署名午前29、午後22。
  24日 署名午前41。バスに乗っても手を振ってくれる青年が居た。
  26日 署名午後40。天気がよく沢山の人に声をかけられた。
  27日 署名午前31。
  28日 署名午前28。最近まで自衛官だったという青年、憲法を学んでいるという学生が署名していく。
  29日 署名午前15、午後49。個人情報にこだわり、いままで署名はしなかったが、あなたの人格にひかれ署名しますという女性がいた。
  30日 署名午前41、午後37。バーベキュー広場にぎやか。2ヶ月前まで自衛官だったという若者もいた。
5月1日 午前34。アメリカにいたという女性が署名のあと、話し込んでいった。自分の方からすすんで署名する者もいた。
   2日 署名午前34、午後22。バーベキュー広場で懐かしそうに声をかけて来る人も居た。しばらくぶりで会った清掃のおばさんたちがお元気でと喜んでくれた。また、近くのお母さんで、小学4年生になる娘が大人になったら「九条」おじさんのようになりたいといっていると言われ驚く。
   3日 署名午前55、午後56。バーベキュー広場、人でいっぱい。憲法の日ということで署名も多く、お茶などいただくグループもあった。
   4日 署名午前64、午後43。今日は2万になる日だというと皆さんは気分良く署名してくれた。いよいよ2万になりましたと言うと、まわりのいくつかのグループから、パチパチと拍手が怒り、私にとっては最高の日であった。

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