私と憲法2号(2001年7月18日発行)

憲法改悪推進テキスト~「つくる会」公民教科書の走狗ぶり(1)

越田 稜(アジア民衆法廷準備会)

日本国憲法施行時に、人びとに配布された政府作成小冊子「新しい憲法 明るい生活』(憲法昔及会編)にこうある。『國家のために』とか『國民全体のために』とかいう名目によって、私たちは、一部の改治権力を握る人人のために、働かされたり、権利をふみにじられたこともしばしばあった。これからは私たちは自分の権利を守ることができる……』。またこうも記されている。「世界のすべての國民は平和を愛し、二度と戦争の起らぬことを望んでいる。私たちは世界にさきがけて『戦争をしない』という大きな理想をかかげ、これを忠実に実行するとともに『戦争のない世界』をつくり上げるために、あらゆる努力を捧げよう」。さらに次のようにも述べられている。「人はだれでもみんな生れながらに『人としての尊さ』をもっている。この尊さをおかされないことが人として最も大切な権利であろう。新憲法は何よりさきに、まずこの権利を與えてくれる。(第11條)』。

そして新憲法施行後、半世紀余の歳月を径ていま、主権在民、平和主義、個人の尊厳(人権保障)の原則が為政権カ層に再び踏みにじられようとしている。いや、この半世紀余、必ずしも日本国憲法の諸原則がスムーズに守られてきたわけではなかった。憲法第97条に唱えられているようにまさに、それは「過去幾多の試練に堪へ」てきたのであり、また「堪へ」つつあるのである。

例えば、学問の自由、教育権等の享受や歴史の真実を求めた「家永教科書訴訟」、公共の福祉における「外在制約説」に抗して表現の自由の意義を高めた文学表現に関する各種訴訟、法の下の平等原則を唱えて闘った差別・偏見構造打破の諸運動、政教不分離を温存させるエセ伝統「靖国」装置を崩壊させるべく試みた「『靖国』違憲訴訟」、国家無答責の伝統的悪弊を打ち砕く数種の国家賠償請求の訴え、また近隣諸地域への加害性に対する清算とも決して無縁ではない「第9条」の死守、そして目下敗勢を余儀なく強いられているとはいえ、「日の丸・君が代」強制に抗する思想・良心の自由獲得への諸運動など、『多年にわたる自由獲得の努力』の営為が重ねられてきた。憲法といえど不磨の大典でなくその改めの要なきにしもあらずとはいえ、その意義性を高く評価するがゆえの数かずの試練によって、長きにわたる憲法改悪の通奏低(高?)音に抗って、多層なる今日的成果が積み重ねられてきた。 しかるに、これらの“成果”に対するリアクションとして「新しい歴史教科書をつくる会』が、いわば政治的党派の装いをもって登場してきたのである。彼らメンバーは、まともな歴史学会や歴史学研究会には到底受け入れらないような「自虐史観批判」「皇国史観」なるものをかざして(『国民の歴史』再興!)、中学校社会科・歴史的分野教科書を主導して作成した。加えて、アメリカー極支配なる“グローバリズム”批判と日本杜会の“腐臭”の消去を期して(「国民の道徳』再興!)、公民的分野教科書を同じく作成した。

両テキストにみられる共通項といえば、やたらニッポン礼賛で、安直、短絡にニッポンという“くにがら”の歴史、伝統、文化そして道徳への回帰の促しである。とりわけその公民教科書では、国家帰属意識への執拗なまでの誘いが唱導され、忍び寄る教育基本法見直し、有事法制制定、そして憲法改悪への走狗的役割を十二分に果たしている。
(つづく)

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