半田隆
国際政治学では国民投票は国内政治の事象と見られていたこともあって関心が薄く、未だ学問として確立するほどの研究がなされているとはいえない。近年になって国民投票が条約の認否を通して国際政治を左右するにおよび、国際政治学の課題としても注目されるようになっているものの、国内の政治学においても政治的・社会的な意味づけの研究は緒に就いたばかりというのが実相である。その故もあって、理念としての国民投票に過大な理想像が描かれがちである。
国民投票および住民投票は、直接民主主義を体現するものとの見方がそれである。しかし、国民投票の先進国である欧州諸国の実例を見ると、それぞれの国の政治文化によって扱われ方は著しく異なっており、この認識は実情に即していない。国民投票および住民投票が直接的に民意を問うという要素を包含していることは否定しないが、多くの場合それぞれの提起者の政治的・社会的目的を達成するための政治的駆け引き、あるいは政治闘争の一環として行なわれているというのが実態である。
「国民投票」と「住民投票」は別の分野である。国民投票は国家レベルの課題を扱い、条約の認否を通して国際社会に影響を及ぼすこともあるが、住民投票は基本的に地域に関わる課題を扱い、間接的に国家に影響を与え得るとしても国際社会に影響を及ぼすことはない。国民投票および住民投票のどちらにも拘束型と諮問型がある。このうちの諮問型が「世論調査」に類するものと見る向きもあるが、世論調査はその時点の社会の雰囲気を反映するものにすぎないが、諮問型にせよ投票行動には個人の思慮が加味されるとともに外部の政治勢力による干渉が入り込むために、しばしば発議者の求めるものとは別の結果を招く、という点から見ても同種とはいえない。
それぞれの国の国民投票の実施態様は、国家建設の過程で形成された政治文化による民主主義制度の捉え方を反映していて、一様ではない。事例の多くは西欧先進国にあり、欧州では既に800回近くの国民投票が行なわれている。頻繁に実施しているのはスイス連邦で500回を遙かに超え、西欧諸国での回数の大半を占めている。欧州30ヵ国あまりの国民投票の実施様相を見ると、イタリアの66回、アイルランドの30回前後、フランスの20数回、デンマークの20数回、リトアニアの18回、ポーランドとスロヴェニアの12回ほどで、後はすべて10回に満たない。欧州ではないが、オーストラリアはイタリアに次いで多く、40回ほど実施している。
アメリカには連邦憲法に国民投票の規定がないこともあり、一度も行なっていない。ただし、州単位での住民投票は頻繁に行なわれている。ドイツの基本法には国民投票の規定があるものの、第2次大戦後は一度も実施していない。ドイツが国民投票を避けている理由には、ナチス・ドイツ時代に国民投票が悪用された経緯が上げられる。日本は憲法改正の国民投票法を成立させたが、他の要件についての国民投票制度を導入する意志は見られない。このように、民主主義体制を採用している国といえども、国民投票に関わる姿勢には著しい差がある。
西欧諸国に次いで国民投票の回数が多い地域は54ヵ国を占めるアフリカであり、百数十件実施されている。アフリカに多いのは、植民地支配からの独立の過程で実施されたからであり、それ以外はクーデター後の独裁大統領が権威付けや民政移管の際に行なうことが多いためで、民意を尊重するというよりも政治的形式を整えるための利用形態といえる。アジアでも中南米でも行なわれているが、両方合わせても80件あまりで、アジアや中南米およびアフリカにおける国民投票の研究はまだほとんど手が付けられていない。
スイスが国民投票を数多実施しているのは、直接民主主義的な政治文化を反映していることによる。スイスの建国の歴史的経緯が、特異な政治文化を形成した。周囲の強国の攻撃を受け、侵略され、支配され、それぞれの地区が抵抗運動によって独立を勝ち取り、同盟としての国家を形成したことから、地区と住民を尊重し合うという意識が育まれた。スイスの人民主権の思想は熟思されており、ほとんどの課題についての国民発議が可能で、国民投票におけるイニシアティブ制度が整っている。しかし、このスイスでさえ問題がないわけではない。政党よりも利益団体の影響力が強いために国民が提議した案件が利害関係から放置されることがあり、また年間十数件もの案件が国民投票にかけられるため、一般市民は情報不足のまま投票に参加させられていることがしばしば起きているからである。
イタリアは、国民投票の回数がスイスに次いで多いが、歴史的に古いわけではなく、最初に実施したのは第2次大戦後の国家体制を問う「王制か共和制か」であり、このときに共和制を選択した。しかし、国民投票の導入意図そのものが直接民主主義を想定したものではない。キリスト教民主党は直接民主主義への親和性に乏しく、国民投票の導入そのものに否定的で、その他の主要政党も国政に対する議題設定権を奪われるとの危惧を抱いており、国民投票はあくまで例外規定として扱われてきた。
また政党の影響力が強く、政争が激しく、しばしば厳しい対立が政治に持ち込まれた。そのため、対立する政党や宗教団体などが自らの要求を通すために「国民投票」を利用するという形が採られ、また対立を解消する手段として実施されてきた。イタリア国民は国民投票よりも直接行動を選択する傾向が強く、国民投票から離れていた時期もあったが、次第に国民投票制度への関与を希求するようになり、それが新たな展開をもたらして国民投票に直接民主主義の理念を含ませられるようになっている。
歴史上、初めて国民投票を行なったのはフランスである。フランス革命後の1793年に、憲法制定のための国民投票が実施された。フランスにおける国民投票で、直接民主主義的な思想に基づいて行なわれたのはこのときだけだと見られる。その後も頻繁に行なわれた国民投票は、ナポレオンの帝政の承認など、体制に権威を付与する目的として利用された。その反動からか、19世紀末の「第3共和制憲法」では直接民主主義を否定し、国民投票を排除するとまで規定された。
第2次大戦後のド・ゴール政権は、自らの体制と政策に正当性を付与させるために繰り返し国民投票を利用し、それに失敗したときに退陣した。ドゴール以降の第5共和制で、シラク大統領は「大統領の任期を7年から5年に短縮」するなど些末なことを国民投票にかけ、「欧州憲法条約」の批准を内容とする国民投票では否認されて狼狽した。
フランスには国民発議による国民投票制度は存在せず、ほとんどは大統領の発議によって行なわれており、国民投票に託してきたのは権力基盤の強化・政策の正統化・制度形成機能などで、運用は大統領の恣意で行なわれ一貫性を欠いている。フランスは中央集権的国家であり、直接民主主義を尊重してきたわけではなく、国民投票はいわば政権の補完制度として機能しており、民意を汲み上げる意図で行なわれてはいない。国民発議の制度がないことからか、フランス国民は意思表示の方法として街頭やその他の直接行動を選択する傾向が強い。
イギリスは基本法を最高法規としており、「国民投票法」は存在しなかったが、政府が1973年にECに加盟すると、反対派は脱退を激しく迫るとともに国民投票を要求した。そこで政府は特別法を制定して75年に「EC加盟」の是非を問う国民投票を実施し、国民は加盟承認を選択した。連合王国として国民投票を行なったのは、この「EC加盟」の事後承認の1件のみである。
一方、労働党政権は連合王国に属する北アイルランド、スコットランド、ウェールズへの地方分権を目指して分権法を制定したが、住民投票で否認された上、その後の選挙にも敗れた。保守党が政権を獲得してサッチャーが首相に就任すると、分権法を廃止して11年間中央集権的体制を維持し、国民投票を行なうことはなかった。保守党は国民投票制度に否定的だが、労働党は辛うじてその意義を認めており、2000年に国民投票法を制定する。しかし、連合王国としては1度も法を活用していない。この経緯を見ただけでも、イギリスは代議制民主主義に拘る国であり、直接民主主義の理念を尊重しているとはいえない。
アイルランドは第1次大戦後の1922年の憲法に「国民投票」の規定を盛り込んでいる。しかし、最初に国民投票を行なったのは、1937年憲法制定の際である。フランスに並び3番目に国民投票の実施回数が多いのは、議会の多数派が「憲法改正」によって有利な政治制度を確立しようとしていることがあるからである。このように政党間の政争が激しく、党利党略のために「比例代表制を小選挙区制」に移行させることを意図した発議を繰り返し行なうものの、いずれも否認されている。またカトリック教国であるために、「離婚の禁止」や「中絶の禁止」など道徳・倫理問題を国民投票に持ち込み、宗教団体を中心に激しい論争を繰り広げてきた。アイルランドの国民投票にも国民発議の制度はなく、国民を直接政治に参加させるという理念によって行なうというよりも、政党や団体の信念を通すために利用し、またそれによって起こる政争を解消させるために実施しているというのが実態だといえる。
デンマークは議会主導型で民意から離れている
デンマークは1901年に代議制民主主義を取り入れ、国民投票法を制定したのは1915年と歴史は古い。導入当初は政党間に人民主権の原理が意識されていたものの、第2次大戦後は多党制となったこともあり、政党間の根回しに重点が移され、人民主権の意識は希薄となっていった。そして、次第に政治エリートと国民の意識との乖離を生み出していく。それが顕著に現れたのは、1992年に行なわれたEC統合のための「マーストリヒト条約」の批准に関する国民投票である。政府与党と議員の多数が賛成であったにもかかわらず国民に否認され、「デンマーク・ショック」としてEC諸国を慌てさせた。この条約は1年後の再投票によって承認を得ることになるが、2000年に行なわれた「ユーロ導入」の政府発議の国民投票でも再び否認されてしまう。この課題では、主要政党と経営者団体と労働組合およびメディアが賛成に回り、反対派の少数政党および国民との間で激しい運動が展開された。社会の枢要な地位を占めている政治的エリート層が賛成派として運動を展開したことからすれば、当然承認へ傾くものと思われたが、国民は「ユーロ導入」を拒否した。国民が「ユーロ導入」を拒否した理由には、国際金融に翻弄されるのを警戒したことが上げられる。デンマークの国民投票には国民発議制度がなく、議会内の政党間の駆け引きによる議会主導型であり、直接民主主義を反映するものとして機能しているとはいえない。
オーストリアは、第2次大戦前の38年4月にナチス・ドイツとの合邦を問う国民投票を実施し、これを圧倒的な賛成で承認した。戦後は、基本法および憲法律を最高法規とし、国民投票法も制定している。この投票法で実施された国民投票は「原子力発電所」問題と「EU加盟」問題の2回のみである。発議権は大統領にあり、国民発議の規定はなく請願権がその代替機能として規定されているものの、これが活用されたことはない。オーストリアの国民投票の回数が少ないのは、ナチス・ドイツとの合邦に関わる国民投票の苦い経験が影響を与えているものと見られる。それかあらぬか、直接民主主義の理念を積極的に導入しようとの意思は見えない。
ポーランドは第1次分割後の1791年に束の間の独立を達成し、ヨーロッパで最初の憲法を制定した。しかし、直後に第2次、第3次の領土分割によって国家は消滅する。独立を達成したのは第1次大戦後で、1921年の憲法制定の際に国民投票を実施した。第2次大戦後の1946年にも国民投票を行なっているが、47年には社会主義圏に組み込まれたため、暫く国民投票を行なうことはなかった。87年に国民投票法を制定し、97年の憲法でも規定して社会主義制度から自由主義制度に転換する過程で国民投票を頻繁に実施した。発議は議会ないし大統領の権限であり、国民発議の制度はない。50万人の署名を集めることによる提案権が認められているものの、直接民主主義的な国民投票制度を積極的に取り入れようとする意向は窺えない。
スウェーデンには「憲法」はなく「基本法」で統治している。国民投票法は存在しないが国民投票の歴史は古く、第1次大戦後の1922年に実施している。その度毎に特別法で実施する諮問型国民投票だが、当時世界的な傾向であった「禁酒法」に関する国民投票を行ない、否認された。第2次大戦後に車輌の右側通行の導入に関する国民投票を行なうが、これも否認された。にもかかわらず、諮問型であることから政府を拘束せず、12年後には右側通行を実施するという国民投票の民意を無視した政策が実行された。
その後「ユーロ導入」や「原子力発電所」問題などが国民投票にかけられるが、スウェーデンは政党間の対立が激しく、「ユーロ導入」では穏健党と自由党は賛成し、緑の党と左翼党は反対し、社会民主党は内部分裂をきたしたため激しい運動が展開され、結果は不承認となった。「原子力発電所」問題においては国民投票の諮問内容を曖昧な3択にした。この曖昧さは、国民の意思を尊重するというよりも政党間や利益団体の意見の対立を解消するために、国民投票を利用しているというのが実態に近い。スウェーデンの国民投票に国民発議の制度はなく、政党の思惑が優先される議会主導型で、国民の意思は二義的なものとして扱われている。
ノルウェーの国民投票の歴史は古い。憲法上の規定はないが、現在までに6回の国民投票が行なわれている。最初の国民投票は1905年に行なわれたスウェーデンからの独立を問うもので、独立が選択された。次いで王制か共和制かを問う国民投票を実施し、王制を選択した。現在の国民投票の主要な課題は欧州統合問題である。72年に行なわれた「EC加盟」に関する国民投票では、首相が承認されなければ下野すると表明して国民を誘導したものの否認されて内閣は退陣し、与党労働党は分裂した。22年後の94年に政府は再び「EU加盟」の国民投票を行なうが、このときも国民は否認する。国民投票に関するノルウェー政府の関与は強いとはいえないが、政党間対立ばかりでなく政党の内部対立も激しく、エリート層と大衆の対立、中央と周辺部の対立、男女間の対立が投票に反映されることが多く、この対立を解消する手段として国民投票が利用されている。
フィンランドは代議制民主主義に拘りがあり、直接民主主義の政治文化は存在しないように見える。しかし、国民投票の歴史は古く、1931年に「禁酒法の廃止」に関する国民投票が行なわれ、廃止を承認している。それ以外では、「EU加盟」に関する国民投票が実施され、激しい論争が繰り広げられたが、辛うじて承認されている。
北欧は概ね多党制であることから合意に基づく政治運営が図られているが、直接民主主義的な理念に基づいた国民投票で民意を汲み上げるというよりも、対立を解消する手段として利用するという傾向が強い。
エストニアも国民投票制度を導入した時期は古く、第1次大戦後に達成した独立国として1922年憲法を制定した際、国民投票制度を盛り込み、国民による発議権も規定した。33年に国民発議の憲法草案が国民投票にかけられて成立する。しかし、この後に成立した強権的な政権が33年憲法はポピュリズム的要素が強いとの批判を繰り広げ、恣意的に改訂した38年憲法では国民発議権を廃し、発議権は大統領のみに属すると規定し、理念を後退させた。
第2次世界大戦が始まるとドイツおよびソ連に蹂躙され、その後ソ連領に組み込まれた。ソ連圏の崩壊過程で91年3月に独立の是非を問う国民投票を実施して承認を得ると、翌92年2月には38年の市民権法を復活させ、6月に国民投票を実施してソ連時代に移住した30%を占めるロシア系住民の投票権を剥奪した。歴史的過程が影響を与え、住民の権利を排他的に規定しているところを見ると民主主義の試行段階にあるといえる。現在、国民投票の発議権は議会のみに認められ、国民の発議権は認めていない。
スペインは1939年にフランコ総統が軍事政権を樹立すると、基本法による独裁体制を敷いた。フランコ独裁政権時の「基本法」に国民投票に関する規定があるはずもなく、75年に彼が死去するまで独裁体制が続いた。フランコの死後に彼の遺言で王制が復活し、76年に政権に就いたスアレス内閣はすぐさま「政治改革法」を制定して国民投票制を導入した。スペインは独裁政権が続いたこともあって、国民投票に国民発議権はなく、国民投票制度が根付いているとはいえない状況下にある。
ソ連は社会主義体制末期の1990年10月に「国民投票法」を制定した。最初に行なわれた国民投票は「ロシアに大統領制を導入する」案件で、2回目が「エリツィン大統領の信任」を求め、3回目が「1993年憲法」の改訂でそれぞれ承認されているが、それ以来実施されていない。ロシアは重要政策について国民投票の国民発議権を認めているが、200万人の署名を添えるに当たって複雑な規定があるために発動することは困難であり、直接民主主義的な理念に基づく国民投票制度とはなっていない。
オーストラリアの国民投票の歴史は古く、これまで40回を超える国民投票を実施している。1916年に行なった国民投票は第1次大戦中であったこともあり、「海外派兵のための徴兵制の導入」の承認を求めるものだったが、国民はこれを否認した。最近行なわれた国民投票では、共和制かイギリス連合王国の一員として残るかの選択で、国民は連合王国の一員にとどまることを選んだ。国民投票制度の歴史は古いものの国民による発議権を認めておらず、総督のみに発議権を与えていることから明らかなように、直接民主主義を尊重する思想によって国民投票を導入しているとは言い難い。
このように、民主主義体制を採用している国といえども国民投票に取り組む姿勢は多様であることが分かる。憲法に国民投票の規定がある国無い国、国民投票法を制定している国無い国、国家主権の委譲を伴うEC・EU関連条約でも国民投票にかける国とかけない国などなどさまざまである。憲法の全面改正でも国民投票が義務化されているのは、先進国としてはスイス、デンマーク、アイルランド、スペインおよびオーストラリア、韓国、日本などで国民投票制度はそれぞれの国の政治文化によって任意に運用されている。
欧州におけるキリスト教系の政党や団体は国民投票制度に否定的だが、一方カトリック教国といえるイタリアやアイルランドでは倫理・道徳問題などで国民投票制度を利用し、「離婚法」や「中絶法」の廃止の問題を繰り返し要求して国民投票にかけている。環境を重視する市民団体や政党は「原子力発電所」の廃止などを求めて国民投票を実施させてきた。極言すれば国民投票によって民意を汲み取るというよりも、政党は政争の具に供し、宗教団体やそれにまつわる政党は倫理・道徳問題で要求を通そうとし、利益団体は自らの利権に絡む事項をかけ、市民団体はそれぞれの信念を政治に反映させようとし、政治エリートは自らの権威付けに利用し、政権与党はやむなく争いの解消に利用している、というのが欧州諸国の国民投票制度の実態である。
国民投票に関わる各国の制度と取り組み方の概要を見ただけでも、当該の政治文化によって民主主義の捉え方が異なり、国民投票制度は相応に運用されていることがわかる。スイスの直接民主主義制度の導入理念は特異であり、イタリアが辛うじてそれに追随しているものの、その他の国々は直接民主主義の思想を国民投票制度に託しているというより、政治的駆け引きや政治闘争の一環として利用しているというのが実相である。政治的駆け引きの中に、国際政治の意思が働いているということも念頭に置く必要がある。
国民投票が政治的駆け引きであり政治闘争であることを端的に示す、行なってはならなかった国民投票がある。
一つは、旧ユーゴスラビア紛争において、ボスニア・ヘルツェゴビナが92年2月に行なったユーゴ連邦からの分離独立を問う国民投票である。当時、ユーゴ連邦内のスロヴェニアとクロアチアが連邦からの分離独立を強行してそれを国際社会が承認すると、ボスニア政府も独立を企図してセルビア人住民が反対する中で国民投票を強行し、多数派のムスリム人住民とクロアチア人住民の賛成を得て独立を宣言した。このとき、ボスニア政府に助言していたのは欧州の主要な国々であり、民主主義的手続きとしての国民投票で独立を図るならば正当性は付与されるという理屈がつけられた。しかし、この国民投票の強行による独立宣言は、ボスニアにおけるムスリム人住民、クロアチア住民、セルビア人住民3民族の対立を決定的なものとし、激しいボスニア内戦のきっかけとなった。欧州の主要国がボスニアに国民投票を勧奨したのは民主主義を尊重したからではなく、政治的・経済的支配領域の拡大を意図したからである。
もう一つは、ギリシャのパパンドレウ首相がEUの金融救済策を受け入れるに当たり、2011年5月に国民投票を行なうと表明した件である。この表明に、世界は震撼し、ユーロが下落し、株も暴落し、EUの首脳は激怒した。ギリシャの国内事情からすれば、国民が国民投票においてEUの金融救済策の受け入れを拒否することは明白であった。ギリシャがデフォルトを起こせば、欧州の金融機関の幾つかは倒産し、EU諸国の経済の混乱を引き起こし、政治的混乱へと波及してEUそのものを崩壊させかねなかった。EUの混乱は世界経済にも多大な影響を与え、景気の長期低迷は世界を不安定化させることにもなる。憤怒のEU首脳がパパンドレウ首相を呼びつけ、威したりすかしたりして国民投票を撤回させたのはやむを得ない措置であったといえる。国民投票が直接民主主義を体現するものとの考え方からすれば、EUの首脳たちの措置は民主主義を踏みにじるものとの誹りを免れないが、世界経済が混乱に陥る危険性を回避するために国民投票を断念させた措置は形式民主主義の弊に陥らない一つの選択であったといえよう。ギリシャの借款には国際的な不正が含まれていることから国民に返済の義務がなく、またEUおよびIMFが要求する緊縮財政策が誤りにしても、パパンドレウが政権維持を国民投票に絡めて金融救済策を拒否することは混乱を招くのみであり、この時点では避けなければならなかったのである。
ボスニアにおいては内戦をもたらし、ギリシャに発する混乱を回避した国民投票に絡む問題は、いずれも新自由主義の「ワシントン・コンセンサス」に基づく国際政治の意志が働いており、その犠牲になったものといえる。国民投票制度は直接民主主義的な装いを帯びているが、この2つの事例が示しているのは国民投票にも国際政治の力が働いているとの認識が必要だということである。
欧州における原子力発電所の存廃について考察すると、必ずしも国民投票で帰趨が決められてきたわけではないことが分かる。
オーストリアは原子力発電所に関する国民投票を最初に行なった国である。1972年に建設を開始した原子力発電所の完成が近づくにつれ、稼働に対する懸念が市民や議員の間に広まった。そのため、政府は78年に「原子力利用法」の承認を求めて国民投票を実施するが、国民はこの法案を否認する。その結果、ツヴェンテンドルフ原子力発電所は完成後も稼働することのない管理施設となった。
デンマーク政府は、オイルショック後の76年に原子力発電所建設計画を発表した。これに対して市民団体側が「代替エネルギー政策報告書」を作成し、原発のないエネルギー・シナリオをつくろうと呼びかけて対抗論争を繰り返すとともに反原発デモを繰り広げた。この攻防によって、米スリーマイル島原発事故後の85年に、議会は原子力発電所建設計画を放棄する決議を採択した。
スイスでは、スリーマイル島原発事故が起こると、環境保護派が79年に国民発議の「国民合意による原発建設」を国民投票にかけたが、否認された。さらに市民団体は84年に「原発新規建設禁止」を請求して国民投票を実施させたが、これも否認された。チェルノブイリ原発事故後の90年に行なわれた「原発の新規建設10年間の凍結」を求めた国民投票は承認されたが、03年に実施させた「原発の新規建設10年間凍結の再延長」を求めた国民投票が否認されたため、原発の新規建設が許容されることになった。直接民主主義制度を尊重しているスイスでさえ、国民発議の国民投票による「脱原発」は達成されなかったのである。スイスが原発の段階的廃炉を政府と議会が決めたのは、福島原発事故の発生を見てからである。
スウェーデンではスリーマイル島の原発事故が起こると、原発の存廃をめぐって激しい論争が起こる。与党の社会民主党は原発の建設を促進する政策を採用しており、産業界はこれを支持していた。一方の野党の中央党は反対し、国民の間にも廃止を求める声が高まり、与党社会民主党の内部は分裂状態となった。そこで政府は対立の解消を狙い、80年3月にこれを国民投票にかけた。しかし、妥協の産物としての曖昧な内容の3択を提案したことで国民の意見は3つに分かれた。ともかくこの時の政府は脱原発の方針を選択し、議会は2010年までに段階的に廃止する決議を採択した。しかし、国民投票が諮問型でしかも曖昧な内容であったために、91年には早くも95年に予定されていた一部の原子炉閉鎖の方針を放棄した。さらに06年に誕生した政権は、2010年までの全原子炉の閉鎖方針を撤回し、10基を維持する政策を選択した。曖昧な国民投票の3択の設問が、政権の自在な選択を可能にしたといえる。
イタリアは、チェルノブイリ原発事故を受け、87年に環境保護グループや政党などが国民発議による原発に関する国民投票を実施させ、「1,原発建設の政府の決定権の廃止。2,原発立地への補助金交付の廃止。3,外国法人の原発建設への参入禁止」を実現させた。ところが近年になって、ベルルスコーニ政権は「原子力発電所再開法」を制定して原発建設を推進する政策への転換を図る。しかし、福島原発事故が起こったことが影響を与え、2011年6月に行なわれた国民発議による国民投票によって政権が企図した法律は葬り去られた。原子力発電について、キリスト教民主党は賛成を表明し、緑の党が反対し、社会党も新規建設に反対し、共産党は建設賛成から反対に転換しつつあったが、これらの政党の政策も色濃く反映されて国民は脱原発を選択したのである。
ドイツでは1970年代から反原発運動が盛んに行なわれていた。チェルノブイリ原発事故が起こると放射能汚染はドイツにもおよび、反原発運動が激しさを増した。98年に緑の党と社会民主党の政権が発足すると、2002年に「原子力法」を改正して22年までに段階的に原発を廃止すると決定した。ところが、2005年にメルケル政権が誕生すると「原子力法」を改訂し、原発の稼働期間を8年から14年間延長する方針に転換する。しかし、福島原発事故が起こると20万人規模の大規模なデモが挙行され、州議会選挙では「脱原発」の緑の党が躍進する。メルケル首相は福島原発事故の意味を理解し、「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」と「原子炉安全委員会」に諮問する。倫理委員会は元環境相、財界、労働組合、哲学・経済・政治学者、宗教者などの核技術専門家を含まない委員によって構成され、「原子力発電所はあまりにリスクが高い。これを廃止することは可能だ」と答申した。「原子炉安全委員会」は原子炉は安全であると答申するが、メルケル首相は「倫理委員会」の答申を重視して脱原発を閣議決定し、7月には議会も脱原発を決議した。
リトアニアはソ連製の黒鉛減速炉を2基建設したが、チェルノブイリ原発事故と同型の原子炉であったことから、EUが加盟の条件として廃炉とするよう求めた。政府は電力需給バランスが崩れるとして困惑し、対抗措置として08年に運転継続を目論んだ国民投票を実施するが投票率が低かったために成立せず、政府の目論見は外れてしまう。結局、リトアニア政府はEUの加盟圧力に屈し、09年に原発の操業を停止した。しかし、バルト3国は共同で新たな原発の導入を企図しており、これに日本の企業が絡んでいる。
このように、原発存廃の選択の仕方もその国の政治文化によって様々であり、国民投票が政策選択の要となっているとはいえない。オーストリアは原発事故以前の78年に国民投票によって原発の稼働を否認。デンマークは政府が原発建設計画を発表したのに対し、市民が対抗論争とデモンストレーションなどの抗議行動によって85年に計画を撤回させた。ドイツは国民投票によることなく、直接行動を基盤とした国民の反原発の意向を政府の政策に反映させて「脱原発」を選択させた。スイスは環境保護派が「脱原発」を目指して繰り返し国民投票にかけたが否認され続け、福島原発の事故を契機に政府が脱原発政策に踏み切った。スウェーデン政府は国民投票の設問を3択に設定した曖昧さを利用し、結局原発の維持・稼働を選択している。イタリアは脱原発路線を進めてきたものの、再開を図ったベルルスコーニ政権が制定した法律を福島原発事故後に行なった国民投票によって葬り去り、「脱原発」を選択した。リトアニアは国民投票によって原発の稼働継続を図るが目論見が外れたためにEUの圧力に屈して廃炉を決定した。フランスは「原発」問題について一度も国民投票を実施することなく建設を推進してきたが、福島原発をきっかけに国民は脱原発直接行動に踏み出している。
現在、この国において国民投票法を制定させようとの運動が進められているが、この国を支配する政治エリートを納得させる論理と方策を明確にした戦略がなければ成果は覚束ない。戦略とは、法律を制定させて「脱原発」に至る道筋を見極めることである。原発をすべて廃炉に追い込む可能性のある国民投票法を制定させるには、国策によって形成された「政・官・業・学・メディア」のペンタゴンをなす「原子力村」の利権構造にまつわる者たちとの対立を克服しなければならない。日本の政治状況は、電気事業界から献金を受け、送り出されている政治家が少なからず存在し、影響力を行使している。これらの凡小ではあるけれども強固な政治集団を形成している者たちを納得させ、法律の制定にまで至らせる可能性は限りなくゼロに近い。
この自明の政治状況の中にあって、国民投票運動がこの壁を突き崩す戦略を立てられるかどうかが重要なのであって、世論調査で脱原発の率が高いが故に手っ取り早い手法として国民投票法制定に走るのは安易な行為である。法制定のためには政治エリートに政治的圧力を加え続けることが不可欠だが、国民にそのような志向性がないことから国民投票法制定請求運動が国民運動に発展する可能性は極めて低い。この難関を乗り越える戦略が国民投票運動側に求められるが、それが見えていない。
仮に、国民投票法を制定させることに成功して国民投票の実施に及んだ場合、結果がどちらに傾こうともそれは直接民主主義を体現する国民の判断であるからそれに委ねるとする考え方は、一見民主主義的のようだがお任せ民主主義と代わることのない粗略な思考との誹りは免れられない。原子力発電が包含する問題は、民意が廃止か継続かのどちらを選択しても受容できるというようなものではない。放射性物質としてのウランにまつわる事業は、採掘から鉱滓の処理、原発の燃料および核兵器への利用を経て、増大した人工放射性廃棄物の処理に至るまで、すべての段階で放射線を撒き散らす有害な物質を扱うものであり、人類だけでなく、生類のすべてに悪影響を与える構造をなしているからである。
福島原発事故を経験する前と後では国民投票の位置づけも異なる。事故前に行なわれた国民投票であれば、事故後に再び行なうことは可能だが、事故後に行なった国民投票は再び原発事故が起こらない限り再履行は困難である。国民投票で「脱原発」が否認されるようなことになれば、「原子力村」に集う者たちは利権に群がって原子力発電所の維持・増設に走るばかりか、核兵器所有に繋がる核燃料サイクルの完成を目指して人工放射性廃棄物の山を築き続けることになる。福島原発事故が起こった今日においては、国民投票の結果がどちらでもいいというような環境にはなく、安易な国民投票の実施は避けなければならない状況に至っているのである。
原発事故を奇貨として、改憲を企んで蠢いている政治屋たちがいる。憲法に原発事故など災害に関する緊急事態対処条項が規定されていなかったから対応が遅れたのだ、という論理を展開して国民を改憲に誘導しようと権謀をめぐらしている者たちである。原発事故への対処が遅々として進まなかったのは、憲法に規定がなかったからではなく、「安全神話」を作り上げてその上に胡座をかいた「原子力村」に集う者たちがおざなりの対処法しか想定してこなかったからであり、また野党が政権を潰す好機と捉えて妨害したからである。巧みな妨害で対処の遅れを国民に印象づけた上でテロ対策と抱き合わせて緊急事態条項を憲法に盛り込み、憲法に託された人権規定を国権の拡張にすり替え、未来への展望もない個人的趣味に類する条項を組み込もうと企む倫理観も品性も法の精神への理解も欠落した政党が改憲に蠢いている。テロも災害も一般法で対処可能であって緊急事態条項は必要としないが、これを材料として国権の拡張を図り、国民やメディアを統制下に置こうとする改憲論者の意図は看過できない。憲法は国民主権を保障するものであり、この原理への理解に乏しいこの国の凡俗な政治家たちの政治認識を勘案して行動することは肝要である。国民投票運動がこの浮薄な憲法改定の露払いの役割を果たすことが危惧されているが、この国の思考様式が低次元であることを念頭に置いた配慮は必要である。
国民投票法を制定させる運動は直ちには困難であるということからか、住民投票条例制定に転換した運動が行なわれている。大消費地としての東京・大阪に条例を制定させて原発存廃の是非を問う住民投票を実施させ、それを全国的に拡張しようとの考えのようだ。東京・大阪は日本の政治状況を反映した地域であるといえるが、この地域で条例が制定される可能性はほとんどない。現在、この両地方の政治を支配している者たちは粗放な傲慢さを身上としており、民意を尊重するという意識は皆無だからである。
条例が制定されたとしても、日本の社会・政治状況からすれば、東京・大阪の原発立地ではない地域での理念先行の住民投票が成功する見込みは薄い。この国は理念によって物事を判断する社会としての成熟度が低いために、プロパガンダの影響を容易に受けるからである。住民投票が始まった場合、理念先行の国民投票運動側の行動を伴わない論理は、政治エリートやメディアを含む「原子力村」の利権集団の産業論や科学技術信仰論などのプロパガンダによってかき消されてしまうだろう。
アメリカには州単位の住民投票制度しかないが、この住民投票が住民の意思を反映していると見る分析は皮相である。州内には、利益集団のために働く住民投票の専門家としての弁護士がおり、署名収集企業があり、コンサルタント企業、コマーシャル作成企業、影響力を発揮する資産家などが存在し、これらを使える企業や利益集団が住民投票を主導することが多い。企業や利益集団が資金力に物を言わせ、あらゆる手段を使って自己に都合のいい法律を制定させて州の行政を左右し、裁判制度さえも左右する。住民は利益集団の秘められた意図を情報不足のために理解することなく、企業の利益のための法律に賛成させられてしまうことがしばしば起こっている。住民投票を主導する主体としての市民も市民団体もあり、州の住民投票がすべて利益集団のために行なわれているわけではないが、このような実態をも認識することが肝要である。
日本においてもさまざまな住民運動があり、原発に限ってもほとんどの立地で反対運動が行なわれてきた。しかし、多くの原発立地で住民は分裂させられ、阻止できた運動は数少ない。阻止運動が成功した事例は、新潟県巻町や三重県海山町、山口県上関町祝島、鳥取県気高郡の青谷原発その他数件である。巻町および海山町は住民投票条例制定を一つの手段とはしたけれども、それのみで原発の立地を阻止したわけではなく、状況の変化に応じて様々な手法を組み合わせたことで成果を得た。祝島は住民投票条例運動は行なわず、町長および議員の選挙運動、デモ、座り込み、漁民の船団での実力行使、各種訴訟、支援ネットワークの形成などで建設を阻止してきた。気高郡の青谷原発阻止運動は、原発計画が伝えられると直ちに婦人会や青年部が反対に立ち上がり、住民投票運動に走るのではなく、集会、講演会、シンポジウム、署名運動、ネットワークの形成などの積み重ねによって、阻止に成功した。巻町が33年かけた住民運動で原発建設を跳ね返したのも、海山町が原発立地を38年かけて阻止したのも、上関の祝島が30年間も建設を阻止し続けて来られたのも、気高郡が青谷原発を阻止し得たのも、地域に根ざした住民の内発的な意志と行動によったからこそ可能であったのである。これが移入された理念としての住民投票運動では、多くの原発立地がそうであったように、国策としての原発推進を図る権力と電力会社の資金力による術策に地域が分裂させられ、屈服させられることはないにしても抑え込まれたことは疑いない。
国民投票が直接民主主義的な思考に基づいていることは否定し得ないが、それが有効性を発揮するのは、情報が正しく開示されている社会において、本質的な議論が可能な環境が存在していることが枢要な前提条件であり、シンポジウムや集会やデモや請願などの国民の直接行動に支えられた場合である。私たちの国は根源的な議論がなされる文化は皆無に等しく、人権意識に乏しく、公的な情報はすべて国民のものであるとする考え方もない。議論は巧妙にあるいは粗雑に論点が外され、メディアは意味のない情報で思考を停止させるか誘導し、公的な情報が隠蔽されるばかりでなく、公文書を任意に破棄したり、批判を避けるために公文書を作成しないことまでが許容されている社会である。主要な政策は利権構造に添って決定され、公平性も公正性も担保されないこの国において、唐突に直接民主主義の手法としての国民投票を国民に突きつけても、欧州の事例にもあるように、結果は歪曲された形でしか表れない。
この狭い地震国に54基もの原発を建設したこと自体異常であり、事故発生確率は極めて高いとの分析もなされてきた。その危険性を指摘した科学者や住民を鼻先であしらい排除してきた「原子力村」の権力者たちは、スリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故を他山の石にするどころか、日本の科学技術は優秀であるとして事故を起こした国を侮った。福島原発の事故は、この住人たちの傲慢と軽薄さが招いた人災である。今も事故の起こる確率は改善されておらず、それに加え3・11以後も世界的規模で地震動は活発化している。再び事故が起これば放射能汚染まみれのこの国の農山漁業は潰滅し、放射能に起因する疾患が増大し、居住は不可能となる。
福島原発事故の最終処理は30年を超えると考えられており、「原子力村」の住人たちの生存期間中に処理仕切れないことは明白である。次世代にこの負の遺産を託すことになるにもかかわらず、「原子力村」に蝟集している倫理観の欠如した者たちは犯した罪障を顧みることなく、利権構造の温存を図るべく原発の再稼働による維持・増強の巻き返しを図っている。原子力産業は、原発事故の危険性に加えて、稼働に伴う高レベル人工放射性廃棄物を大量に排出し、さらに廃炉の際にも高レベル放射性廃棄物を出す。この高レベル人工放射性廃棄物は、日本はもとより世界のほとんどの国が処理法を決められないまま各所に積み上げているが、放射性廃棄物の処理は10万年単位で行なわなければならない厄介な人工毒物である。放射性物質を10万年間責任を持って管理することは誰にもできないが、これが原子力をめぐる無責任構造であり、そのうち有効な処理法が見つかるだろうという野放図な科学技術信仰の上に成り立っているのが原子力産業である。この負の遺産を後世に押し付ける所業を断ち切るためにも、「脱原発」は達成しなければならない。
「脱原発」を達成する容易な方法があるわけではないが、運動の多様性を尊重すべきだとしても存廃の判断を他者の投票行動に委ねるのではなく、意識する者それぞれが独自のやり方で原発を廃炉に追い込む直接行動を行なうことが不可欠である。集会やデモで政治は変わらないとの見方があるが、それだけで事態は変わらないにしても、直接行動なくして政治は変わらない。直接行動には、各地での集会、デモンストレーション、座り込み、建設阻止の直接行動、シンポジウム、講演会、各種のイベント、出版、科学論争、経産省など省庁への働きかけ、政治家および国会への要請行動、提言、投書、電力会社への抗議、原子力村の解体運動、各種の訴訟、署名運動および請願運動、国際交流、国際機関への働きかけ、放射能測定、再生エネルギーへの転換運動、原発立地自治体への働きかけ、さらに脱原発活動をしている原発立地の住民運動に単なる理念の移入ではない支援をすることなども含まれよう。
欧州においても、原発の存廃を市民の直接行動によって廃止させた国、国民投票で廃止を決めた国などがある。国民投票は、政治的な一手段としての政治的駆け引きおよび政治闘争の一環として行使されてきているのが実態だが、国民投票で原発の廃止を決めた事例といえども国民投票運動単独で行なわれてきたのではない。国民投票の基盤となっているのは、市民の対抗論争であり、デモや集会およびその他の直接行動であり、国民投票のみでは何事もなし得ていないことを各所の事例は示している。
原発は国際的な核兵器への恐怖を打ち消すために殊更に平和利用を強調して導入し、新自由主義に基づく開発至上主義によって建設が推進されてきた。この堅固な思想に対抗する脱原発は、国内に留まらない国際的課題としての協調行動を採ることが枢要である。欧州ではオーストリア、ドイツ、イタリア、スイス、デンマークは脱原発に踏み切り、フランスでも脱原発への直接行動の動きが強まり、やがて欧州全域で脱原発へと進んでいくことは疑いない。アジアその他の後発国では原発の新・増設をする動きがあり、日本はプラントの輸出を企図しているものの、クウェート、ヨルダン、タイ、インド、台湾など中東やアジアの住民も原発立地に抵抗しており、この住民の正当な要求を成就させるためにも、放射性物質を大量に撒き散らしたこの国は率先して「脱原発」の責務を全うすることが求められよう。
世界で罹患している癌の原因の過半は、ウラン採掘から核実験や原子力発電所の稼働に伴って放出された放射性物質に由来する、と指摘する科学者も存在する。「脱原発」の運動の目的は、この生類にとって有害な放射性物質を排出する核兵器の廃絶を含むすべての原子力発電所を廃炉に追い込むという、人類史における課題を含むものなのである。
(付属資料1~3を参照)半田隆
付属資料
資料1
*スイス;
国民投票の歴史は古く、連邦レベルで年間10数件も行なわれ、累積500回を超えるほどの厖大な回数が実施されている。
課題の90%前後が国内問題で、10%前後が国連加盟などの国際問題である。
国民投票にかけられる課題は、次のようにほとんどの問題を取り上げることが可能である。
(1)税金・財政等経済一般(2)エネルギー・環境・輸送(3)政治参加の権利・行政機構の改廃(4)国防・陸軍改革(5)労働・失業・社会保障(6)農業・パン・食料(7)住宅・建設・土地(8)公衆衛生・疾病(9)アルコール・タバコ(10)民法・刑法の法律問題(11)外国人・難民収容所(12)教育・科学(13)国際条約の批准・国際機関への加盟(14)原子力等核エネルギー(15)通信・文化(16)カジノ・ギャンブル(17)動物保護・動物実験(18)その他(1)~(4)までで40%を占める。
国民投票の事例
1)1802年・「ナポレオンが要求した憲法」の導入―承認
2)1848年・「全面憲法改正」-連邦国家成立―承認
憲法改正に関する義務的国民投票を導入-5万名の署名で憲法改正の国民発議が可能
3)1866年1月・「憲法レファレンダム」
国民投票にかけられた9件の内、「ユダヤ教徒の平等」のみ承認―承認
4)1874年4月・「全面憲法改正」―承認
義務的国民投票に加え、法律に関する任意的国民投票に拡大
5)1891年7月・「憲法の部分改正」―承認
憲法イニシアティブを採用
6)1900年・「下院選挙に比例代表制導入」―不承認
7)1903年・(1)・「連邦参事会の直接選挙による選出」―不承認
(2)・「下院の議席数に関する改正」―不承認
8)1921年1月・「憲法の部分改正」―承認
条約に関する国民投票を導入
9)1949年9月・「憲法の緊急性決議」条項の廃止と新規定―承認
*この後、提案された40以上の国民投票の提案はすべて否認されて成立せず
10)1962年4月・「核武装を禁止する」―不承認
11)1970年・「増税法案」―不承認
12)1972年12月・「欧州経済領域・EEA協定の批准」―不承認
13)1977年・「連邦付加価値税の導入」―不承認
14)1979年5月・「原発建設の住民の合意と安全性の保障」―不承認
15)1986年3月・「国連への加盟」―不承認
賛成派-連邦参事会・連邦議会・FDP・CVP・CP・独立党・共産党・進歩党・労働総同盟・営業連合・女性団体・人権擁護団体・宗教団体
反対派-産業界の半数・福音人民党・自由党・国民行動党・共和党・労働総同盟の上部機関は賛成を表明したが労働組合員は反対
中立派-商工業連盟・農民同盟
*政党や利益団体の大半は賛成を示していたが、国民の多くは反対投票をした
16)1989年11月・「スイス連邦軍の廃止」―不承認
不承認だったが、軍備は縮小され、訓練期間の短縮などの改正が行なわれる
17)1990年・(1)・「原子力発電所建設の10年凍結」―承認
(2)・「原子力エネルギーの段階的脱却」―不承認
(3)・「政府に省エネルギー促進の責任を与える」憲法改正―承認
18)1991年・「連邦付加価値税の導入」―不承認
19)1992年5月・「良心的兵役拒否」―承認
20)1994年6月・「国連平和維持軍・PKFへの派遣」―不承認
21)1999年4月・「連邦憲法改正」―承認
125年間維持してきた憲法の全面改正を行なう。憲法改正は1965年から作業を開始し、35年かけて改訂した。
憲法改正で、「統一イニシアティブ」を導入し、「憲法イニシアティブ」と「法律イニシアティブ」を合体させた。この制度が国民の法案作成の可能性を封じるとの批判に応え、「完成された草案」の形式による憲法の部分改正イニシアティブを併存させた。
この99年憲法において、国民投票に関する条項は10ヵ条に及んでいる。それによると、10万人の署名を集めて国民発議・イニシアティブで憲法・法律その他の国民投票が要求できるようになる。
22)2001年3月・「EU加盟交渉の即時開始案」―不承認
23)2001年6月・「国連平和維持活動・PKOへの参加」―承認
24)2002年9月・「国際連合加盟」-この2度目の投票で承認される―承認
25)2002年11月・「難民処遇に関する発議」―不承認
26)2003年2月・「国民発議・イニシアティブの範囲拡大」―承認
27)2003年5月・(1)・「原子力発電所の段階的操業停止」―不承認
(2)・「原子力発電所の新規建設の凍結の延長」―不承認
(3)・「軍隊の大幅削減」―承認
(4)・「核シェルターの建設ペースの減速」―承認
28)2004年4月・「重度の性犯罪者に対する終身刑を規定する刑法改正」―承認
29)2005年6月・「シェンゲン・ダブリン条約への加盟」―承認
30)2005年9月・「人の移動に関するEUとの双務条約のEU新規加盟国への拡張」―承認
31)2006年5月・「教育に関する連邦憲法改正」-(統一教育システム)―承認
32)2009年5月・(1)・「IC旅券を義務化する」―承認
(2)・「憲法で代替医療を医療として認める」―承認
33)2009年11月・(1)・「武器輸出の禁止を求める」―不承認
(2)・「イスラム寺院のミナレット建設の禁止」―承認
*利益団体の成立-「スイス商工業連盟」・「スイス営業連合」・「スイス労働組合総同盟」
・「スイス農民同盟」
*政党-「社会民主党・SP」・「自由民主党・FDP」・「キリスト教民主党・CVP」
・「スイス国民党・SVP」・「農民党」
*イタリア
1948年1月に制定された憲法は4種の国民投票を規定し、スイスに次いで頻繁に行使されている
「国民投票法」は1970年に制定され、スイスに次いで66回を超える案件を国民投票にかけている
48年憲法;
75条・法律の改廃-50万人の署名または5つの州議会の発議
71条・法律の発案権-5万人の署名-議会には義務は課せられない
138条・憲法改正-議会の2回の議決-50万人の署名、国会議員5分の1、または5つの州の発議
国民投票の事例
1)1946年6月・王制か共和制かの国民投票-共和制を選択賛成・54.3%
同時に行なわれた選挙による憲法制定議会で新憲法が制定され、国民投票が規定される
1970年に国民投票法が制定されたが、50%条項があり、投票率、賛成率ともに50%を超える
ことが規定される
2)1974年5月・「離婚法の廃止」―不承認
キリスト教民主党が廃止を目論んだが、成功せず
3)1978年6月・(1)「治安法の廃止」―不承認
(2)「政党活動への国庫補助の廃止」―不承認
4)1981年5月・(1)「反テロリズム法の一部廃止」―不承認
(2)「終身刑の廃止」―不承認
(3)「武器携帯免許法の廃止」―不承認
(4)「中絶法の廃止」―不承認
(5)「中絶法の限定規定の廃止」―不承認
5)1987年11月・(1)「原発建設地の政府の決定権限の廃止」―承認
(2)「原発立地自治体への補助金廃止」―承認
(3)「原発事業への外国人法人参加禁止」―承認
(4)「司法官の民事責任規定の廃止」―承認
(5)「議会の諮問委員会に関する規定の廃止」―承認
6)1991年6月・「下院選挙法改正」-マフィアの勢力拡大を是正するため―承認
キリスト教民主党は反対を指示
7)1993年4月・「上院選挙法改正」―承認
8)1995年6月・(1)「マフィア・メンバーの身柄保護」―承認
(2)「全国ネットのTV局の一企業による保有の上限設定」―不承認
ベルルスコーニのマスコミ支配の影響力の低減化は成功せず
9)1997年6月・「良心的兵役拒否」-投票率が50%に達せず―不成立
10)1999年4月・「下院選挙法改正」-投票率が50%に達せず―不成立
11)2000年5月・「下院比例制の廃止」-投票率が50%に達せず―不成立
12)2003年6月・「強制的な送電線の設置」-投票率が50%に達せず―不成立
13)2011年6月・「原子力発電所再開法」の廃止―承認
*イタリアは憲法改正に関する国民投票を義務化していない
国民発議による法律の廃止を請求する国民投票は、50万人の有権者の署名、または5つの
州議会の要求が必要とされ、さらに破毀院と憲法裁判所の審査を経た後、大統領令で国民投票
を行なう。
*フランス
フランス革命以来、第5共和制までに28回実施している。回数は多いが、必ずしも民意を尊重していること
による実施とはいえない。皇帝の権威付けや大統領の権威付けのために、不必要な国民投票が多用され
てきたからである。
国民投票の事例
1)1793年8月・「新憲法制定」欧州で初めての国民投票―承認
2)1795年9月・「憲法改定」―承認
3)1800年2月・「ナポレオン憲法制定」―承認
4)1802年8月・「ナポレオンを皇帝とする」憲法の規定にはない一般投票―承認
5)1804年・「ナポレオン一族の世襲皇帝の是非」憲法の規定にはない一般投票―承認
6)1852年11月・「ルイ・ナポレオンの帝位承認」―承認
7)1870年5月・「第3共和制憲法」―承認
大統領公選制、議会の絶対優位性の確立。
直接民主制の排除。国民投票のタブー化を規定
8)1945年10月・(1)「憲法制定議会選挙とするかどうか」―承認
・(2)「憲法制定議会の機能を制約する法律案に賛成するか否か」―承認
9)1946年5月・「新憲法案」―不承認
10)1946年10月・「第2次新憲法案」―承認
第4共和制が成立するが、アルジェリア独立戦争と現地フランス軍の反乱で
間もなく第4共和制は崩壊する。
11)1958年9月・「第5共和制憲法」―承認
ド・ゴール憲法によって第5共和制が成立する
第5共和制憲法-国民投票を規定
11条;組織・政策・法律案および条約―大統領の発議
89条;憲法改正-首相の発議で大統領が開始・または両院合同会議の発議
-元老院の承認
12)1961年1月・「アルジェリアにおける民族自決政策および自決前まで公権力を組織すること」―承認
13)1962年4月・「アルジェリアの独立を求める『エビアン協定』の承認および協定の履行の権限を与える」―承認
14)1962年10月・「大統領公選制の採用」―承認
15)1969年4月・「地域圏の設置と元老院の改革」―不承認
ド・ゴールが元老院の権限を制限して大統領の権限強化を図ったが不承認の結果を受け、
大統領自身が辞任することになる
16)1972年4月・「ECの拡大の承認」―承認
17)1992年9月・「マーストリヒト条約」―承認
18)2000年9月・「大統領の任期の短縮」―承認
19)2005年5月・「EU憲法条約」―不承認
*フランスに国民投票法は存在せず、憲法の規定に基づいてその都度国民投票手続き法で
実施される。フランスの政治形態は中央集権的制度が確立しており、国民投票の回数が多い
とはいえ、直接民主主義を尊重していることを意味しているわけではない。
*アイルランド
アイルランドは憲法に国民投票の規定があり、国民投票の実施回数が30回を超え、欧州で3番目に多い
1922年憲法で国民投票が規定された。しかしこのときは国民投票は行なわれていない。
国民投票の事例
1)1937年・「憲法制定」―承認
国民投票を規定
46条;憲法改正―下院の議決・議会主導型
27条・47条;法律―下院の3分の1および上院の多数
2)1959年・「比例代表制を小選挙区制にする選挙制度改革」―不承認
党利党略のための提案と人気投票
3)1968年・「比例代表制を小選挙区制にする選挙制度改革」―不承認
4)1972年・「EC加盟」―承認
5)1983年・「中絶の違法確認」の憲法改正―承認
カトリック教国として激しい論争が巻き起こされた
6)1986年・「離婚の絶対的禁止」―不承認
7)1992年・「EC・マーストリヒト条約の批准」―承認
8)1998年・「EU・アムステルダム条約の批准」―承認
9)1998年・「北アイルランドのためのベルファスト合意」―承認
アイルランド島を単一国家とする条項の削除を求めたもの
10)2001年・「ニース条約の批准のための憲法改正」―不承認
11)2001年・「死刑を禁止する条項を加える憲法改正」―承認
12)2002年・「ニース条約の批准」―承認
*国民投票の回数を多くしている原因は、議会の多数派が主導する「憲法改正」にある。
カトリック教国であることから、特に倫理・道徳問題では激しい論争を巻き起こしている
一般に政党の影響力が強いが、最近は政党離れが目立っている。
*ポーランド
1791年5月・憲法制定-憲法をヨーロッパで最初に制定し、国民投票を規定した。
その直後、列強に分割されてポーランドは消滅し、第1次大戦後に独立を回復する。
第2次大戦で再びドイツとソ連に分割され、戦後の1947年には社会主義圏に組み込まれる。
1989年に憲法が修正されるまで社会主義体制を採り続けた。東欧諸国として社会主義体制を放棄
する先駆けとなったが、その後の民主主義体制は、代議制民主主義の強固な体制を採用している。
国民投票の回数は10数回とヨーロッパ圏でも比較的多いが、国民発議の制度はなく、国民投票を
重視しているようには見られない
国民投票の事例
1)1921年3月・「憲法制定」―承認
独立国としての憲法制定-国民投票の規定あり
2)1946年6月・(1)・「ドイツ・バルト海の国境」―承認
(2)・「経済政策」―承認
(3)・「上院の廃止」―承認
3)1987年10月・「国民投票法」制定―不承認
有権者の過半数が賛成したときに採択すると規定
4)1987年11月・(1)・「政治改革」―不承認
(2)・「経済改革」―不承認
5)1996年2月・「民営化関連法案」-投票率が過半数に達せず―不成立
6)1997年5月・「新憲法制定」―承認
新憲法の国民投票の内容
(1)国際機関への主権の委譲・憲法90条
・発議・下院および大統領(上院の同意)・有権者の過半数の投票率が必要
(2)国家的重要事項・憲法125条
・発議・下院および大統領(上院の同意)・有権者の過半数の投票率が必要
(3)憲法改正案・憲法234条
・発議・下院および上院または大統領・投票者の過半数の賛成が必要
7)2003年6月・「EU加盟」―承認
*国民投票は、内閣または市民は50万人に署名を添えて提案することができる
発議権は下院にある
*デンマーク
憲法に国民投票の規定があり、1915年に「国民投票法」が制定されるほど国民投票の歴史は古い
それ以来20回を超える国民投票が行なわれている。
議会で6分の5の賛成が得られない場合は国民投票にかけられる。
憲法改正には有権者の45%を超える制限条項があり、のちに40%に改める。
現憲法には5ヵ条にわたる国民投票の規定があり、憲法の規定によらない国民投票を入れると6種の
国民投票が行なわれている。一般法の改廃を求める国民投票は、有権者の30%を超えれば可能
1915年に「国民投票法」を制定
1953年憲法-国民投票を規定
88条;憲法改正-議会の議決・政府の支持―議会主導型
42条;法律-議会の議決・議委員の3分の1の要求―議会主導型
20条;国際機関への権限委譲
19条・46条;外交に関する法律
国民投票の事例
1)1916年・「西インド諸島を米国に売却すべきか」―不承認
与野党の対立があり、国民投票に委ねるが不承認となる
2)1920年・「憲法改正のための国民投票」―承認
社会民主党が棄権を呼びかけるが成立
3)1939年・「上院を廃止するための憲法改正」―不成立
自由党が棄権を呼びかけたことで、45%条項に達せず
4)1953年・「上院を廃止するための憲法改正」―承認
有権者の40%賛成条項に改められるが、これ以後憲法改正の国民投票は行なわれず
5)1963年・「土地利用の公的規制に関する法律」―不承認
6)1972年10月・「EC加盟のための批准」―承認
7)1982年2月・「グリーンランドのEC加盟の存続」―不承認
8)1986年2月・「単一欧州議定書・SEAの批准」―承認
議会は否決したが、国民投票は賛成多数で承認する
9)1992年6月・「マーストリヒト条約の批准」―不承認
政府与党および議員の多数派は賛成したが、野党の一部と国民の過半数が
反対していたために否認され、「デンマーク・ショック」といわれた
デンマーク政府は国民投票の否認を受け
「(1)西欧同盟WEUに入らない・(2)欧州経済通貨同盟の枠外にとどまる
・(3)欧州市民権に関し義務を負わない・(4)難民および内務協力などを委譲しない」
の4件をEC首脳会議に持ち込み、条件交渉をした。
EC首脳会議はこれをデンマークの適用除外としての「エジンバラ合意」をまとめる
10)1993年5月・「適用除外・マーストリヒト条約の批准」―承認
11)1998年5月・「アムステルダム条約の批准」―承認
12)2000年9月・「通貨統合・ユーロ導入の批准」―不承認
賛否入り乱れて激しい運動が展開された
賛成派-主要政党、経営者団体、労働組合、主要メディア
反対派-少数政党、国民の多数も反対の意向を表明
結果は、政治エリートたちの思惑に反して国民はユーロ導入に反対の意思を示す
*デンマークの政治形態は多党制で、常に少数連立政権であるため、議会少数派に対する配慮する
政治的伝統がある。議会少数派への配慮として機能しても、国民への配慮には必ずしも結びついて
いない
*スウェーデン
国民投票の必要性が求められた背景には、第1次大戦後の民主化要求と禁酒運動の高まりがある。
基本法にあたる統治法で国民投票の実施手続きを法律で定めるとしている。
基本法;「1,統治法、2,王位継承法、3,出版の自由に関する法律、4,表現の自由に関する法律」の
4つの法律を指す。基本法に関する国民投票の手続きは複雑だが、否認の権限しか有しない
その他の案件に対する国民投票はすべて諮問型国民投票である。
「国民投票法」が正式に制定されたのは1979年だが、その都度特別法を制定して行なう
この手続き法を定める必要性から議会の多数派が、発議権を握ることになる-助言型国民投票
国民投票の事例
1)1922年8月・「アルコール飲料の禁止」―不承認
2)1955年10月・「右側通行の導入」―不承認
諮問型であることから、政府は12年後に右側通行を実施してしまう
3)1957年10月・「補完的年金問題」―不承認
与野党を問わず政党間で激しく対立したことで否認される
4)1980年3月・「原子力発電所問題」-3択
3択が提示され、それぞれに分割して賛成票を投じたため曖昧な結論となる
5)1994年11月・「EUへの加盟の是非」―承認
6)2003年9月・「ユーロ導入の是非」―不承認
*国民投票の宣伝活動は、議会に議席を有する政党およびキャンペーン団体に国庫から
活動資金から支給される
*フィンランド
1919年に制定された憲法は、純粋な代議制民主主義制度を志向し、国民投票に関する規定はない
1987年に憲法を改正し、諮問型国民投票制度を規定し、議会その都度執行法を制定して実行する
国民投票の事例・諮問型
1)1931年12月・「アルコール飲料の禁止を廃止」―承認
2)1994年10月・「EUへの加盟」―承認
国民の中に根強い反対があったが、辛うじて承認された
政党間の対立および党内分裂が激しいことから、それを緩和する対策として
国民投票が利用されている
*ノルウェー
ノルウェーはスウェーデンの影響下にあったが、それを解消するために、国民投票を実施した
憲法では純粋な代議制民主主義を志向している。諮問型国民投票を6回実施している
国民投票の事例・諮問型
1)1905年8月・「スウェーデンとの同君連合の解消」―承認
スウェーデンからの独立と主権国家宣言を行なう
2)1905年8月・「デンマーク王子をノルウェー国王として任命」―承認
共和制を取るか王制を取るかの選択で王制を選択
3)1919年10月・「アルコール飲料の禁止を維持」―承認
4)1926年8月・「アルコール飲料の禁止を廃止」―承認
5)1972年9月・「EECの加盟」―不承認
提起した内閣は否認されて退陣し、加盟は見送られる
6)1994年11月・「EUへの加盟」―不承認
議会の4分の3の多数で議決すれば国民投票にかける必要はないが、93年の選挙で
欧州統合に反対する議員が4分の1以上を占め、また政党内でも賛成反対が入り乱れて
分裂状態にあったために国民投票にかけられたが、国民は否認。
*リトアニア
リトアニアは、絶えず侵略に晒され、第1次大戦後にリトアニア共和国として独立した
第2次大戦中はナチス・ドイツおよびソ連の侵略を受けた。大戦後にソ連領に組み込まれるが、
1990年には独立を回復して再びリトアニア共和国となる。
国民投票の事例
1)1991年2月・「独立した民主的共和国の是非」―承認
「リトアニア国に関するリトアニア共和国憲法的法律」を制定
2)1992年4月・「大統領の権限を強化する」-投票率が50%条項に達せず―不成立
3)1992年10月・「「憲法改正」―承認
国民投票に関する条項は7条にわたっている。一般的な憲法改正の発議は、
国会議員の4分の1および30万人の有権者の定義によって国民投票にかけることが
可能である
憲法第1条の「リトアニア国は、独立した民主的な共和国である」という規定は有権者
の4分の3の賛成が必要と規定
4)2003年5月・「EU加盟」―承認
5)2008年10月・「イグナリナ原子力発電の操業続行」-投票率が50%条項に達せず―不成立
リトアニアの原子炉は2基とも、チェルノブイリ原発事故の原子炉と同型の「RBMK-1500」
EUは加盟の条件として閉鎖を要求
結局、2004年12月に1号炉、2009年12月に2号炉を稼働停止した
*エストニア
エストニアは、歴史的にデンマーク、ポーランド、スウェーデンなどの支配を受けてきた
第1次大戦中にロシア革命が起こると独立を宣言し、1922年に憲法を制定して国民投票条項を盛り込む
第2次大戦が始まると、ドイツおよびソ連に蹂躙され、その後ソ連領に組み込まれた
89年に東欧圏が崩壊すると独立を模索し、91年にソ連領からの独立を宣言する
92年に制定された新憲法では、5ヵ条にわたって国民投票制度が詳細に規定された
現在の国民投票法には国民発議の規定はない
国民投票は、国家機関を拘束する「拘束型国民投票制度」
「財政・外交・防衛」問題は国民投票の対象外
国民投票の事例
1)1922年・「憲法制定」―承認
国民投票制度が盛り込まれ、国民発議が認められる
2)1933年・「憲法改定」―承認
国民発議による憲法条項が組み込まれ、「ポピュリズム」との批判が起こる
3)1937年・「憲法改定」
国民投票の発議は大統領の専権事項となり、後退する
4)1991年3月・「ソ連からの独立」―承認
5)1992年2月・「市民権法」を復活
30%を占めるロシア系住民の投票権を剥奪する
6)1992年6月・「新憲法制定」―承認
7)1992年6月・「市民権なき住民への選挙権付与」―不承認
ロシア系住民の大統領選および議会選挙の投票権は付与されず
8)2003年9月・「EUへの加盟」―承認
*スペイン
1939年以来クーデターで軍部独裁政権を築いたフランコ総統は「基本法」で統治
1975年にフランコが死去。王制が復活し、国王はスアレスを首班に指名
スアレス内閣は1976年に「政治改革法案」を制定して国民投票制度を導入
新憲法の国民投票の規定;
「(1)憲法の全面改正および基本原則・人権規定・国王に関する事項は国民投票を義務づけ
(2)重要ではない憲法の部分改正、および重要な政治的課題に関する事項」は任意の国民投票
国民投票の事例
1)1976年12月・「政治改革法」(義務的国民投票)―承認
2)1978年12月・「憲法制定」(義務的国民投票)―承認
3)1986年3月・「NATOへの残留問題」(諮問的国民投票)―承認
4)2005年2月・「欧州憲法条約」批准(諮問的国民投票)―承認
*オーストリア
オーストリアには統一した「憲法典」は存在せず、ナチス・ドイツ時代に廃止された1920年・1929年
連邦憲法を復活させた憲法および憲法律とされた重要法律および国際条約などを、いわゆる憲法として
国家運営を図っている
「国民投票」は、「国民投票法」の実施要項によって行なわれる。
国民投票;「(1)憲法律の全面改正・義務的。(2)憲法律の部分改正・任意的。
(3)法律案の是非を問うもの・任意的。(4)大統領の解任・任意的」
国民投票の発議は大統領が行ない国民が発議することはできない。国民請願制度があり、
実質的にこれが国民発議の役割を果たしているが、活用されず
国民投票の事例
1)1938年4月・「ナチスドイツとの合邦」投票率・96%、賛成率・95.1%―承認
この国民投票はナチス・ドイツの占領下で、オーストリア・ナチスに転向した首相
によって行なわれた。この合邦によりオーストリアはドイツの州扱いとなる
2)1978年11月・「原子力利用法」(原子力発電所の稼働の是非)―不承認
この投票は首相への不信任の意味が込められていた
3)1994年6月・「EU加盟」―承認
*欧州憲法条約も憲法律の基本原理に抵触するとの主張があったが、国民投票は実施されず
*イギリス
イギリスは基本法で統治。国民投票の規定はないが、1973年にECに加盟した際、加盟反対派が脱退を
求めて国民投票実施を主張したために75年に特別立法によって行なわれた
2000年に「国民投票法」を制定したが、1度も活用せず
国民投票の事例
1)1975年6月・「EC加盟の是非を問う」―承認
連合王国としての国民投票は、EC加盟の是非を問うた一度のみ
*北アイルランド、スコットランド、ウェールズなどではそれぞれ数回住民投票が行なわれている
イギリスの労働党政府は、スコットランドとウェールズの議会に権限を委譲することを
公約としたが、労働党内に反対があり国民投票を要求
そこで、「スコットランド法」と「ウェールズ法」を成立させた上でそれぞれの地域住民による
住民投票を行なう。これには、有権者の40%条項が付加していた
北アイルランド
1)1973年・「イングランド連合王国に残るか、アイルランド共和国に加わるか」―イングランド残留希望者・98.9%
スコットランド
1)1979年3月・「スコットランド法」投票率・63.6%賛成・51.6%反対48.4%40%ルールで-不成立
2)1997年9月・「スコットランド議会設置」投票率・60.4%賛成・74.3%反対・25.7%40%ルールなし-成立
ウェールズ
1)1979年3月・「ウェールズ法」投票率・58.8%賛成・20.3%反対・79.7%-不成立
2)1979年9月・「ウェールズ議会設置」投票率・50.1%賛成・63.5%反対・49.7%40%ルールなし-成立
*労働党政権は、議会での信任投票に破れたために議会を解散し、選挙を行なったが敗北
政権を獲得したサッチャー政権は、「スコットランド法」と「ウェールズ法」を廃止する
ブレア政権は、スコットランド議会とウェールズ議会への権限委譲を問う住民投票を行ない議会を設置
*オーストラリア
オーストラリアの国民投票の歴史は古く、しかも40回を超えるほど実施されている
憲法で国民投票を規定
憲法改正―連邦の上院および下院の過半数で可決されたのち、総督が発議する
憲法改正は義務的国民投票である。宣伝は、一定の条件付きで自由に行なうことができる
1984年に「国民投票手続き法」を制定。国民の発議権はなく、すべて総督が発議する
国民投票実施例
1)1916年10月・「海外派兵のための徴兵制導入」―不承認
2)1946年9月・「社会福祉等の社会的サービス拡充」―承認
3)1951年9月・「共産主義の規制」―不承認
4)1967年5月・「下院定数の上院定数2倍条項の廃止」―不承認
5)1974年5月・(1)・「憲法改正要件の緩和」―不承認
(2)・「連邦上下両院同時選挙の義務化」―不承認
6)1977年5月・「連邦特別地域の憲法改正投票権の創設」―承認
7)1984年12月・「連邦と州の関係の柔軟化」―不承認
8)1988年9月・(1)・「公正な選挙区画の保障」―不承認
(2)・「人権保障の拡張・陪審制・信教の自由・財産権の保護」―不承認
9)1999年11月・「共和制への移行」―不承認
*不承認が多いのは、政権の思惑と国民の思惑とが乖離しているためである。
*カナダ
連邦憲法上、国民投票の規定はない。憲法改正においても国民投票は義務的ではない
過去3回、国民投票が行なわれているが、その内2回は特別法を制定して実施した
3回目の国民投票は、「国民投票法」を制定して実施
「国民投票法」―(任意的・諮問的国民投票).・発議は大臣の助言を受けて「総督」が行なう
国民発議の制度はない
国民投票の事例
1)1898年9月・「連邦レベルの禁酒法制定」―承認
2)1942年4月・「海外派兵のための徴兵制導入」―承認
3)1992年10月・「シャーロットタウン合意に基づく憲法改正」―不承認
*ソ連・ロシア
ソ連の末期の1990年10月に「国民投票法」が制定された。この「国民投票法」では、200万人の
有権者による国民発議権が規定された。しかし、04年に改訂された「国民投票法」に詳細な
条件がつけ加えられたため、国民発議は1度も行なわれていない
国民投票の事例
1)1991年3月・「ロシア共和国に大統領制を導入する」―承認
2)1993年4月・「エリツィン大統領の信任」―承認
3)1993年12月・「新憲法の制定」―承認
新憲法に基づく「国民投票法」は、国際条約も対象にするとともに、
国民発議の要件を厳しくし、国家による発議も加える。
国民投票の対象となるのは、「憲法・国際条約・国家の重要案件
・連邦構成の地位変更・大統領および下院の任期・連邦予算」など
*韓国
憲法に国民投票の規定は存在する。「憲法」改正と「重要問題」についての国民投票である
実施されたことはない
*ドイツ
ナチス・ドイツ時代に国民投票が悪用された。
*現在のドイツの「基本法」には国民投票制度が規定されているが、連邦レベルでの国民投票1度も行なわれていない。
避けている理由には、ナチス・ドイツ時代に国民投票が悪用されたことが上げられる。
州レベルでの住民投票制度は存在し、実施されている
*アメリカ
連邦レベルでの国民投票制度はない。州レベルでの住民投票制度は存在し、頻繁に行なわれている
資料2
*原子力発電所関連国民投票
原子力関連の国民投票を行なったのは「スイス、イタリア、オーストリア、スウェーデン、リトアニア」の5ヵ国
*オーストリア
1)1978年11月・政府発議―「原子力利用法」の制定―不承認
「原子力利用法」;(1)・「原子力発電所の操業開始には連邦法による許可を必要とする」
(2)・「ツヴェンテンドルフ原子力発電所の操業開始を許可する」
*原子力発電所が稼働する直前に議会や国民の間に懸念が高まり、政府は「原子力利用法案」を国民投票にかける。
国民投票の結果を受け、国民議会は「原子力禁止法」を可決し、原子力開発計画を破棄し、原子力発電所は稼働することなく管理されている
*スイス
1)1979年5月・(1)国民発議・「原発の住民の合意と安全性の保障」―不承認
(2)政府発議・「原発建設の許認可を厳しくする」―承認
2)1984年9月・国民発議・「新規原発の建設禁止」―不承認
3)1990年9月・(1)国民発議・「原発の新規建設の10年間の凍結」―承認
(2)国民発議・「原子力エネルギーからの段階的脱却」―不承認
(3)政府発議・「政府に省エネルギー促進の責任付与」―承認
4)2003年5月・(1)国民発議・「原発の新規建設10年間凍結の延長」―不承認
(2)国民発議・「稼働中の5基の原発を14年までに閉鎖」―不承認
*011年5月、スイス政府は福島原発事故を受け、「2034年までに原発を段階的に閉鎖する」
と表明し、議会上院も9月に「2034年までにスイス国内のすべての原発を廃止し、再生可能エネルギーの支援強化を行なう」と議決
*イタリア
チェルノブイリ事故を受けて、脱原発を目指す市民グループが国民投票を提起する。
1)87年11月・国民発議・(1)・「原子力発電所建設地の政府の決定権限の廃止」―承認
国民発議・(2)・「原子力発電所立地自治体への補助金交付の廃止」―承認
国民発議・(3)・「外国法人の原子力発電所建設管理事業参加の廃止」―承認
緑の党・環境保護グループ・急進党・プロレタリア民主党・ヤングコミュニストが
原子力発電所についての発起人委員会を結成して国民投票を請求
社会党は新規建設に反対、共産党は賛成から反対へ転換し、キリスト教民主党は国民投票そのものに反対。
国民投票の結果を受け、1990年までに4基の原発および燃料加工施設を閉鎖
2)2011年6月・国民発議―「原子力発電所再開法」の廃止―承認
ベルルスコーニ政権は「脱原発」政策を転換し、08年8月に「原子力発電再開法」を整備し、09年にフランスとの間に「原子力発電に関する協定」を結び、原発再開に転換する政策を推進国民はこの動きを警戒し、2011年1月に「原子力発電再開法」の廃止を求める国民投票を憲法裁判所に提起。憲法裁判所はそれを認め、6月に国民投票が実施されることになる。ベルルスコーニ政権は福島原発事故が起こると、「原子力発電凍結法」を制定して国民投票を先送りにしようとする。しかし、最高裁が国民投票の実施を指示したため、国民投票が実行され、法律は廃止された
*スウェーデン
1975年に社会民主党が13基の原発の建設を促進する「エネルギー法」を制定する。
これに中央党が反対し、社会民主党内部でも反対する声が強く出されて分裂しかねない状態となったことから、国民投票を実施することになる。
1)1980年3月・以下の3案を選択する投票―投票率75%
(1)・「旧エネルギー法が執行され、建設中の原子炉は完成させるが、新規の建設は禁止する。
原子炉は寿命がきたら安全上の理由から廃棄する」―18.7%。
(2)・選択肢(1)に加え「新規のエネルギー源の調査、稼働中の原発の安全管理、将来のエネルギー生産施設の国有化を求める」―39.3%
(3)・「新規原発の建設禁止、および現在稼働中の原発の10年以内の廃棄。再生可能エネルギーおよびエネルギー節約に対する投資の増加」―38.6%
*国民投票の結果を受けて議会は「(1)建設中の原発の完成。(2)新規原発建設の禁止。
(3)稼働中の原発の2010年までの廃棄」を決議。
1997年―原子力発電所を2010年に全廃するとした決議を撤回する。
2010年―「原子力発電に関する法律」を制定―2011年1月に発効
「(1)原発の更新を認める。(2)原子炉数は10基のままとする。
(3)原子炉の新設に政府の財政援助は行なわない。(4)事故時の賠償責任は無制限とする」
*リトアニア
リトアニアはソ連の黒鉛減速材使用のRBMK-1000型原発を採用し、1983年に1号機を稼働させ、86年に2号機を完成させた。しかし、チェルノブイリ原発事故が起きたため、2号機が稼働したのは翌87年。その後EUは、リトアニアが加盟する条件として、黒鉛炉原発の廃棄を条件として突きつけた。
リトアニア政府はこれに合意し、1号機は2004年12月に運転を停止する。
しかし、国内で原子炉継続の声が強くあがったことから、国民投票を実施する。
1)2008年10月・政府発議・「原子力発電所の操業の継続を求める」国民投票は投票率が達せず―不成立
*EUが、なおも操業停止を求めたことから、2009年12月に2号機も操業を停止する
その後も原子力発電所建設の要求が強く出されたことで、2011年12月にリトアニア
・エネルギー省と日立との間に改良沸騰水型軽水炉建設の契約が仮調印され、
2020年の稼働を目標とした建設が開始される予定となっている
資料3
国民投票の分類
国民投票の形態
1)憲法・基本法に規定のある国―主として憲法改正や法律の改定などで行なわれるが、一般の案件についても規定
2)憲法・基本法に規定のない国―憲法上規定がなくても国民投票法を制定して実施する国もある
国民投票の発議
1)義務的国民投票―発議なしで自動的に行なわれるもの
2)任意的国民投票―発議機関が任意に発議するもの―政府主導型・議会主導型・国民主導型
発議―大統領・首相・政府・議会・国民・団体などが発議できるが、憲法に規定のある場合は、規定に従う。
国民や団体が発議する場合は、議会の承認が必要な場合が多い
国民投票の対象
1)憲法改正・法律改正
2)条約の承認―EC・EU加盟など
3)領土問題―領土の分割
4)国家体制の問題―王制か共和制か。独立の是非
5)道徳問題―離婚・中絶・死刑制度・禁酒
6)その他―環境問題・政治改革
国民投票の成立条件
1)投票率が有権者の50%を超えること
2)有権者の40%以上の賛成が得られること
3)投票者の3分の1以上の賛成を必要とする特別な事例
4)連邦国では、州の過半数を必要とする
5)通常は投票数の過半数の賛成が必要
1,憲法上の規定がある国
「アイルランド・イタリア・エストニア・オーストラリア・オーストリア・韓国・ギリシャ・スイス・スウェーデン・スペイン・スロヴァキア
・スロヴェニア・デンマーク・日本・ハンガリー・フィンランド・フランス・ポーランド・ポルトガル・マルタ・ラトビア・リトアニア
・ルクセンブルク・ロシア」
2,憲法改正
義務的国民投票
アイルランド・オーストラリア・韓国・スイス・デンマーク・日本
スペイン-全面改正の場合は国民投票を実施
イタリア-議会の2回の議決、または5つの州の発議・50万人の署名
任意的国民投票
スウェーデン(基本法)-議員の要求による
フランス-国会議員が提出した憲法改正案の場合国民投票が実施される。政府提出の場合、
大統領が両院合同会議に付託すれば国民投票は行なわれない
国民投票の義務のない国
アメリカ・イギリス・オランダ・カナダ・ドイツ・ベルギー
3,法律・条約-
法律-イタリア-法律の一部または全部の廃止の是非を問う国民投票制度はある。除外規定あり
条約-義務的
スイス-集団安全保障・超国家的共同体への加盟・緊急立法国民発議制度がある
デンマーク-国際機関への主権委譲・選挙権年齢の変更外交問題は任意的除外規定あり
フランス-限定付きで国民投票に付す
4,発議権
国民発議
イタリア-法律等の改廃―50万人の署名添付
スイス-憲法・条約・法律すべてに権利がある―10万人の署名添付
ロシア-重要政策のみ―200万人の署名を添付、詳細な条件があり、ハードルは高い
大統領発議-オーストリア・韓国・フランス・ポーランド
首相発議-イギリス・イタリア・スイス・デンマーク・ノルウェー
議会発議-アイルランド・オーストラリア・オーストリア・エストニア・スウェーデン・スイス・デンマーク・ノルウェー・フィンランド・ポーランド
総督発議-オーストラリア・カナダ
5,一般的「国民投票法」
アイルランド-「1994年・国民投票法」
イギリス-「2000年国民投票法」制定実施例はない
イタリア-「1970年・憲法に規定する国民投票および立法発案に関する規範」-国民投票法
オーストラリア-「1984年・国民投票手続き法」
オランダ-「2001年・国民投票法」2002年1月~2005年1月までの時限立法実施例はない
韓国-「1989年・国民投票法」
スウェーデン-1979年・「国民投票法」
スイス-「1976年・政治的権利に関する連邦法」
スペイン-「1980年・国民投票の各種の方式に規制に関する組織法」
デンマーク-「1915年・国民投票法」制定
フランス-「国民投票法」はない大統領令・デクレを発して行なう
6,投票年齢
18歳-アイルランド・イタリア・オーストラリア・スイス・スウェーデン・デンマーク・フィンランド・フランス・ポーランド
19歳-韓国
7,運動規制
イタリア-掲示物の場所や大きさが規制される。放送事業者による投票の指示や投票の選好の表明の禁止
世論調査の公表に関する規制・行政機関による情報提供活動の禁止
オーストラリア-選挙管理委員会による運動・病院関係者による患者への運動・贈収賄・妨害の禁止。
新聞・雑誌掲載の宣伝には「広告」と記載する。虚偽の情報の禁止。集会の妨害の禁止。
広告・ビラ・パンフレット・ビデオについては責任表示をする。
韓国-政党法上の資格がないものは運動ができない。
拡声装置・自動車等の使用制限、虚偽放送等の禁止、新聞・雑誌等の不法利用の制限、
特殊関係を利用した運動の禁止、戸別訪問の禁止、署名・捺印運動の禁止、各種集会等に対する規制、
公務員等の出張制限、演説会場での争乱行為の禁止、野外演説会の禁止、特定人誹謗の禁止
スイス-規制に関わる規定はない一般的な刑法や道路交通法、州法・規則に抵触しない限り基本的に自由
妨害行為は刑法で規定されている
フランス-運動デクレでは公職選挙法が準用されている
集会や掲示物に関する規制、投票前日以降のテレビ・ラジオ等による宣伝の禁止、
公務員による政見発表文書等の配布の禁止、メディアにおける商業宣伝の利用の禁止、
買収の禁止については規定がない
ポーランド-総選挙で3%の得票を得た政党およびその支持団体。上院議員・下院議員の「クラブ」
1年前に登録した市民組織、
無料・国営テレビ・ラジオの放送枠でキャンペーンを実施する権利が与えられる。
有料・民放および新聞での意見広告を前々日まで出せる。ただし、公平であること。
集会・チラシ・ポスターも可
禁止・行政の敷地・建物、学校、軍基地、警察署
国の機関はキャンペーンができない。情報を提供することは可
8,投票運動に対する助成
アイルランド-現在は助成はない
イギリス-賛否両派の頂上団体に交付放送枠も与えられる
オーストリア-EU加盟については公費助成が行なわれた。
韓国-賛否両派に20分間のテレビ・ラジオ演説3回までの枠が与えられる
スイス-助成はない
スウェーデン-運動主体に公費助成が行われている放送枠が与えられる
デンマーク-賛否両派への公的助成金が交付されている
ノルウェー-EC・EU加盟については賛否両派への公費助成が行なわれた
フィンランド-EU加盟については賛否中立派への公費助成が行なわれた
フランス-05年の国民投票デクレでは公的助成に関する規定が明記された。国会に一定数の議席を有する政党のみ
テレビ・ラジオの枠が資格のある団体に均等に与えられる
ポーランド-国営テレビ・ラジオの放送枠が無料で与えられる
9,最低投票率制度
成立要件
韓国-有権者の過半数の最低投票率で投票者の過半数の賛成
ポーランド-国際機関への主権委譲や国家的重要事項は、有権者の過半数の参加により有効となり、拘束的となる
ポルトガル-有権者の過半数の投票が拘束力を持つ
ロシア-有権者の過半数が投票し、かつ過半数が賛成する
最低投票率
アイルランド-投票の過半数が反対で、全有権者の33と1/3%。
憲法改正の場合は最低投票率が課されず
イタリア-有権者の過半数が投票し、かつ有効投票率の過半数が賛成すること50%-50%条項
憲法改正の場合は最低投票率は課されず
デンマーク-憲法改正国民投票の場合、過半数かつ有権者の40%を占めるという要件が課される。
法律の場合は、投票の過半数が反対で、全有権者の30%が反対であった場合否決される