私と憲法(2009年1月25日号)


民意も問わずにソマリア派兵を急ぐ麻生内閣

自民党・公明党の「海賊対策等に関するプロジェクト・チーム」(自民党PT座長・中谷元、公明党PT座長佐藤茂樹)は1月22日、「中間とりまとめ」を決定した。そのなかで、「『海賊行為への対処等に関する法律(案)(仮称)』を3月上旬を目途に国会に提出し、成立を期する」とする一方、「当面の応急措置として、昨今のソマリア周辺海域における海賊事案の急増・多発が、わが国国民の生命および財産並びに海上交通の安全に対する深刻な脅威となっている」と、現行自衛隊法の「海上警備行動」を発動して、ソマリア周辺海域に自衛隊を派兵することを決定した。そして2月27日の与党協議を経て、政府に申し入れを行うこととした。これによって麻生首相の指示を受けた浜田防衛相が来週中にも自衛隊に派兵の準備命令を出す可能性が濃厚になった。

私たちは派兵新法には当然反対であるが、現行自衛隊法の下でのソマリア沖派兵という脱法行為、違憲行為が、国会での本格的な議論を経ないまま、与党と政府の判断で、一方的にすすめられようとしていることは許せない。

私たちが批判してきた「海賊対処の主体」に関して、「中間とりまとめ」は次のようにごまかしの弁明を行っている。

「わが国における海賊対処の主体は、第一義的には海上における法執行機関である海上保安庁である。しかしながら、ソマリア周辺海域における海賊に対して、海上保安庁が対処することは極めて困難である現状にかんがみ、自衛隊法第82条の規定に基づく海上における警備行動を発令し、自衛隊が対処するものとする。また、これに加えて当該海賊に対する司法警察業務に関しては、海上保安調が当たるものとする」と。しかし、1992年、英国からプルトニウムを運搬してくるために急遽、建造された大型巡視船「しきしま」はイージス艦「こんごう」に匹敵する世界最大級ので、ヘリコプターも2機搭載している。当時の議論はこの護衛で航行に十分対処できるというものであったはずだ(本誌14頁:註参照)。今回はこの議論すらなされず、与党PTでははじめに「自衛隊は兵ありき」の議論しか行われていない。

「保護の対象」も集団的自衛権の行使に関わる問題を「解釈」でごまかし、「日本籍船」にくわえて、「外国籍船の日本人、さらには「外国籍船に積載されているわが国の積荷」にまで拡大した。自衛隊で不可能な司法警察業務については、海上保安官を同乗させるなどとした。

与党はこのような姑息な手段を弄して海外派兵を急いでいる。1月23日の朝日新聞のインタビューでソマリアを担当している駒野エチオピア兼ジプチ大使は「海賊の多くは沿岸を拠点とする元漁民で、無政府状態になった91年以降、当初は漁場を荒らす外国の漁船を追い払う目的で武装。その後、私兵と結びついて人質の身代金ねらいの海賊行為に手を染めるようになった……海賊は自動小銃やロケット砲で武装し、複数の高速艇で襲いかかるのが手口。しかし、護衛艦が守っている船隊に近づくことはない」というのである。このように、大型の巡視艇があれば十分だし、派兵は根本の解決に何の役にも立たないのだ。憲法違反のソマリア派兵を中止せよ。(高田健 事務局)

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講演会(リレートーク)自衛隊の暴走にSTOPを!
検証・田母神発言とシビリアンコントロール

田母神俊雄空幕長の暴論に抗議した11月5日の防衛庁前抗議行動に続いて、12月23日、いくつかの市民団体が連名で「講演会(リレートーク)自衛隊の暴走にSTOPを! 検証・田母神発言とシビリアンコントロール」を開催した。あらためて、田母神問題を一過性の問題とせず、追及をつづけることの重要性を確認したい。

集会を呼びかけたのは「憲法」を愛する女性ネット/憲法を生かす会/子どもと教科書ネット21/市民憲法調査会/全国労働組合連絡協議会/日本消費者連盟/VAWW-NETジャパン/ピースボート/ふぇみん婦人民主クラブ/平和憲法21世紀の会/平和と民主主義をめざす全国交歓会/平和を実現するキリスト者ネット/平和をつくり出す宗教者ネット/ 許すな!憲法改悪・市民連絡会の各団体。12月23日(火・休)13:30~16:30分まで、東京お茶の水の総評会館で、司会を弁護士の内田雅敏さんが行い、講師に笠原十九司さん(都留文科大学・近現代史)、前田哲男さん(ジャーナリスト・軍事評論)、古川純さん(専修大学・憲法)の3名とコメントとして、俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)、中野麻美さん(弁護士)、豊秀一さん(新聞労連委員長)の皆さんのリレートーク形式で行われた。参加者は会場いっぱいの140名であった。
以下、笠原さん、前田さん、古川さんの発言要旨を掲載する(文責は編集部)。

「平成改憲クーデター」(仮説)と田母神航空幕僚長問題

都留文科大学 笠原十九司

私の仕事は、現在起こっている事件を解明し、歴史的に考えることと、同時に、そうした事件が過去にあったかどうかを探り、そこから特に誤った事件から教訓を得ることだと思います。

「平成改憲クーデター」というのは一つの仮説です。
実はいま起こっている事件は2・26事件という、これ以後、軍部のファシズム独裁が確立していく事件を想起させます。やった当時の青年将校は死刑になりますが、それを死刑に追いやったバックの勢力、軍部の統制派と海軍が2・26事件を利用して軍部独裁をつくって、その後、戦争に持って行ったわけです。日中戦争の拡大に海軍が重要な主導的な役割を果たした。廬溝橋事件、そのものは偶発的な事件ですが、その華北で起こった事件を海軍の縄張りであった上海に持って行き、当時、海軍がすすめていたアメリカに勝てる航空兵力の実績を示すために、海軍航空隊が大山事件を引き起こします。これを契機に海軍の陸戦隊が戦闘をはじめる。7月13日にはじめるわけですが、14日には台湾、九州から航空機が来て爆撃をやる。これは準備がなければできないことです。時の来るのを待っていて、当時の国民政府の首都・南京を一気に爆撃する。これはいまの国際法からみると考えられないことです。宣戦布告もなしに一国の航空部隊が中国の首都を爆撃する。それも数ヶ月、南京陥落までやるわけです。海軍航空隊、指揮官は山本五十六でしたが、今のアメリカが得意とする空爆戦争の先陣を張ったのは日本の海軍だった。この海軍航空隊(いまの航空自衛隊になるわけですが)の指揮官が山本五十六だった。いま問題になっている田母神氏はまさに自衛隊の空軍の最高トップだったわけで、こういうことをやった軍人は自衛隊にもいるということです。

当時の海軍の戦略を私は「破滅のシナリオ」と呼んでいます。日本はアメリカから石油を輸入していました。それでいながら、海軍はアメリカに勝つということで突き進んでいく。アメリカは当然石油をストップする。そこから被害者意識です。アメリカにやられたということで、石油の備蓄のあるうちにアメリカに攻撃をかけるということで真珠湾攻撃に到る。南京事件が始まった時、アメリカのパナイ号事件というのが起きる。揚子江の上流、南京で日本の海軍機がアメリカの砲艦を攻撃し、沈没させた。当時の日本の新聞は「南京を陥落させた、万歳万歳」と騒いだ。しかし、アメリカはこのパナイ号事件を日米戦争の序曲ととらえた。日本の戦闘機はアメリカの星条旗を見ながら、アメリカが国民政府を援助しているということと、中国が星条旗を偽っているという二つの思いから米国砲艦を爆撃する。この事件がアメリカの大変な反発を買った。以後、米国ではリメンバー・ザ・パナイということになった。日本のすべてをボイコットせよ、という呼び掛けがおきる。この司令官には「アメリカが中国を支援しているという思いこみ」があった。田母神氏の場合は「コミンテルンの陰謀」という思いこみです。日本は謝って、責任者を招致する(実は現場からはずして栄転させた)、そして賠償金を払った。アメリカは当時まだ、対日融和政策をとっていたので、それ以上の強硬政策をとらなかったので、済んだ。

海軍航空隊の南京爆撃の中心メンバーは源田実という人で、戦後、航空幕僚長をやって、国会議員もやりました。田母神氏の先輩になります。

 「平成改憲クーデター」というのは、私はヒトラーが政権を取った状況によく似ていると思うのです。ヒトラーの場合はワイマール憲法という、ドイツが第一次大戦に敗北して世界でもっとも民主的な憲法がつくられた。ヒトラーはその民主的な憲法を利用して選挙で支持を得ていったわけです。日本の場合も日本国憲法を持ちながら、ナショナリズム、ポピュリズムを煽動しながら多数を獲得しようとした。ヒトラーは政権を取った後、共産党を弾圧し、ワイマール憲法を放棄してファシズム憲法を作っていった。その点でいまいうクーデターは日本の民主主義的な制度を利用しながらやったと思います。小泉元首相という、ヒトラーまがいの政治家も出てきた。小泉・安倍コンビによって平成改憲クーデターが準備された。小泉のはったりとウルトラなジェスチュアと、安倍の思想傾向がもし合体していたらナチスの二の舞を踏んだ可能性がある。

田母神問題は決して個人的な問題ではない。彼の論理は殆ど「新しい教科書をつくる会」の人々の受け売りに過ぎないのですが、彼は「鵬友」という自衛隊幹部が愛読する雑誌にこう書いている。

「若い皆さんには明治以降、日本の先輩たちがこの国のために、そして国民のために血と汗と涙を流した感動の歴史を勉強して頂きたい。まずは『産経新聞』と『月刊正論』を読むことからはじめてはどうだろうか」と堂々と巻頭論文に書いている。彼は完全に「つくる会」と連動しているということです。また、彼の論文を入賞させたアパグループの元谷代表は安倍晋三元首相の後援会「安晋会」の副会長を務めている。田母神、安倍のつながりがわかります。田母神氏を航空幕僚長に任命したのは安倍内閣の時でした。彼は統合幕僚学校長のときに歴史観、国家観の講座を開設したわけです。これは自衛隊の幹部の思想教育です。統合幕僚学校は陸自の目黒駐屯地にあり、幹部自衛官の教育研究機関、将官や上級幕僚になるための「登竜門」です。その講座と講師の一端が明らかになりましたが、「つくる会」の幹部を呼んで行われている。この役割が先ほど言った2・26事件を想起させるわけです。2・26事件で若手の将校、皇道派に影響を与えたのが真崎甚三郎という人物で、1934年に教育総監になったわけで、彼は皇道派の最高首脳として青年将校に天皇親政というアジをやった。35年に彼が罷免された。2・26事件はその罷免に対して、若手将校が怒ってやった。事件では教育総監の渡辺某が殺害されたのです。この真崎の役割と田母神がやった役割が似ているわけです。怖いのは田母神氏の薫陶を受けた若い人たちがおそらく数百人いるということです。

安倍内閣の1年間にすすめられたことの構造の問題です。
2007年に『別冊・正論』で稲田朋美と平沼赳夫が「日本人の名誉は私たちが守る」という対談をしています。

稲田:安倍総理は保守陣営の希望の星だった。……安倍総理がああいう形で退陣され、保守の陣営はちょっとがっかり、元気がなくなっているのですが、ただ、やはり戦後レジームからの脱却という火は消さずにずっとつづけて行かなくてはならない。

平沼:彼はよくやったのですよ。信念を持って憲法の問題も国民投票法をやり、教育基本法も変えた。防衛庁を省に昇格したとか、いろいろいいことをやったわけですよ。

これが安倍・平沼というラインで改憲クーターをやって、いい所までいった。もう少しというところで、安倍首相はこけてしまった。こけさせた力は市民の力であるわけです。問題はその構造は残っているわけで、その構造の解明とそれを崩す所までやって行かなくてはならない。
その構造の契機となったのが1997年です。

1月に「新しい歴史教科書をつくる会」ができ、2月には自民党の中に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(代表・中川昭一、副代表委は例の中山成彬、事務局長安倍晋三)が結成されました。彼らが第3次教科書攻撃を発動した。

5月には「日本会議」が発足。日本会議国会議員懇談会、これらが安倍内閣の中に大変な割合で入った。俵さんは日本会議が安倍内閣を乗っ取ったと言っていますが、私はさらに改憲クーデターの動きだったと言っています。
9月に町村信孝氏が文部大臣に就任した。

こうした改憲の露払い、旗振りをしたのが小泉政権です。彼は帝国アメリカを世界秩序形成の歴史的流れと考え、日本をアメリカのサテライト国家にしようとした。衛生国家、まさにアメリカに従属して反テロ世界戦争、悪の枢軸撃滅を唱えて、自衛隊の海外派兵をすすめることをやった。彼はアメリカの改憲圧力に従い、「押しつけ憲法」の改正、憲法9条の廃棄をすすめようと、小泉劇場に小泉チルドレンを登場させ、マスメディアを利用してグランド・スラム・ヴィクトリーを得た。公明党を入れれば3分の2議席、そしてこのままいくと改憲クーデターが実行されるという状況までつくった。これは未遂になったが、かなり危ないところまでいった。大新聞も各種のメディアも改憲論に傾いた。財界も御手洗ビジョンなどでそうでした。教育界の動きもそうです。この全体的な動きを解明しなくてはならない。

先ほども言いましたが、日本のばあいは民主的な憲法がある。しかし器が民主的であっても、ワイマール憲法の例がある。私たちには選挙権がある。これが一つの武器になると思いますが、安倍改憲クーデターを挫折させた動きでは教科書を改悪させない動きと九条の会の動きが大きかった。教科書にも九条の会の動きが写真で載っている。これらが改憲をめざした安倍首相を引きずりおろした。これからは韓国の運動にならって、悪い国会議員を落とす運動をやるべきだと思う。日本会議議連などを落とそうという運動をやる。そういう運動を市民の側から起こして運動によってこの構造を変えていくことが大事だと思います。

いま、自衛隊はどうなっているか

軍事評論家 前田哲男

田母神発言にはいくつかの側面がある。第1は論文の内容、信憑性に関わる問題で、これについては多くの意見が出され、笠原さんも言われたとおり、つぎはぎであることは左右を問わず、歴史家の評価で一致している。2番目に、事件としての性格、彼が民間会社による高額の懸賞金が付いた懸賞論文に応募したこと、民間会社の代表を彼が在職中にF15を操縦させるという便宜供与していたということ。さらに自衛隊の隊内教育のありかた、また任命責任としての防衛省、内閣の問題がある。3番目に田母神論文を生み出した自衛隊の土壌、背景も指摘されなくてはならない。

私は3番目の問題を中心にお話ししたい。その前に歴史の類似性を私からもいいたい。田母神発言を聞いてすぐ思い出したのは1978年の栗栖発言です。統合幕僚会議議長であった栗栖弘臣陸将が週刊ポストとのインタビューで、「自衛隊は戦力の行使を禁止されているので、侵略に有効に対処できない。第一線部隊は侵略が起こった場合に超法規的対処をせざるを得ない」という主旨の発言をした。栗栖議長の超法規行動発言と言われ、当時、福田内閣の金丸信防衛庁長官でしたが、来栖は更迭され、辞職しました。その後、彼は参議院選挙に東京地方区から立候補しましたが、それに対抗して宇都宮徳馬氏が立候補し、軍縮対決と言われた選挙で、来栖は敗北し、以降、彼は沈黙しました。聞くところでは田母神氏も参議院の比例区に出るつもりだったそうです。前回当選した佐藤正久氏と裏表の関係で議席を得ようとしていた。ひょっとすると、衆議院に出てくる可能性がある。

また戦前を考えるとこれからの可能性も含めて悲惨な歴史がある。戦前の軍事ファシズム政治がどこから始まったか、いろいろ指標を設定することは可能でしょうが、軍人の政治発言が解禁されたこともその一つでしょう。1931年1月、陸軍大臣南一郎大将が全国の師団長に通牒を送ります。「軍人が世論に惑わず、政治に関与してはならぬ事は勅諭に明示されているとおりである。しかし、一面、軍人は国家の国防を担任している。国防を全かならざれば、国家危うきはいうまでもない。しからば国防問題について論議することは、いわゆる政治関与をもって論ずるべきではない。国防は政治に先行するものであることを了承せられたい」という通牒を送るわけです。そうすると間もなく陸軍省参謀本部の中堅将校が各地に出張して国防問題講演会をやる、東京帝大では立川参謀本部第二部長が国防問題から発展して、盛んに政治論をやり、聴衆からやじられるということが新聞にでた。軍人の政治発言が南通牒を契機に広がったのです。今回の田母神発言は辞職した後の自己弁護、また産経新聞をはじめ「言論の自由は制服自衛官にもある」という議論は、この南通牒とも共通した文脈で、危険なものを読み取ることができよう。

さらに背景を読み解くならば、1931年1月の少し前、1929年はウォール街の株の暴落、昭和恐慌と呼ばれた時代であった。そういう時代背景の一致も認められると思います。そういう中で南発言が行われ、軍人が政治に関与し、1930年、ロンドン軍縮条約に反対する、また同時に進行していた山梨軍縮、宇垣軍縮という陸軍2個師団削減に反対するという風潮があった。それはやがて言論の暴走から、行動の暴走へと入り、1932年には犬飼首相が、その前には浜口雄幸首相が2人現職で暗殺される。2・26事件では高橋、斉藤の元首相2人が暗殺される。1931年から36年の間に4人の首相が暗殺されるという惨憺たる状況が生じ、議会政治は最終的に命脈を絶ちました。この歴史から学ばなくてはならないと思います。

さて田母神発言を生み出した背景です。彼は防衛大学校15期、1971年卒業の統合幹部学校の一次選抜というエリートの道を昇進しながら、航空総隊司令官、空幕長に就任したのですが、その時期の職務と小泉内閣、安倍内閣、福田内閣、麻生内閣という改憲内閣、自衛隊の海外派兵をすすめた内閣の時期と重なっている。この時期に自衛隊で何が起こったか。沢山のことが起こりました。防衛大臣が「原爆、しょうがない」と発言して辞任する、防衛事務次官がゴルフ接待漬けで収賄容疑で逮捕されるという文民の側の組織の劣化もありましたが、それと見合う形で制服組の行動における反国民的な行動も見られました。2007年にあきらかになりましたが、陸上自衛隊の情報部隊である情報保全隊がイラク戦争に反対する市民の動きを記録し、監視し、保全し、分類した。これは共産党が内部文書を入手して公開したものです。これと前後して、海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」が沖縄沖に出動して、辺野古崎周辺の海に建設が計画され、いまそのための測量および環境影響調査が行われている米軍のヘリコプター基地、この計画に対して海底に機材を投入するために、その機材と潜水員を「ぶんご」が輸送し、「ぶんご」から発進した隊員が設置したということが行われました。ご承知の通り、現地では辺野古崎を埋め立てる工事に反対する住民運動が6年に及んで、現地で測量を阻止するという事態になっている。民間業者では阻止されるという事態になっている。そこで自衛隊を出動させた。どういう法的根拠があったのかを防衛省はあきらかにできなかった。「札幌雪祭りと同じような協力です」と当時の久間防衛大臣は答えた。最終的には、自衛隊法には根拠を求められなくて、国家行政組織法にある省庁間協力に依拠した。つまり、国土交通省がやるべき事だが、有効にできる状況にないので、省庁が協力すべしという奇妙なものに依拠した。角度をかえてみれば治安出動の類型になるのではないか。深夜に行われたので、現地の運動と衝突する事はなかったが、治安出動的な実力行使を行う可能性があった。その後行われた参院選挙で当選した佐藤正久イラク派遣部隊隊長が、選挙後間もないTBSのテレビインタビューで答えたことです。イラク派遣の自衛隊は非戦闘地域における後方支援任務だから武力行使はできないことになっていた。しかし、もし現地でよその国の軍隊が窮地に陥ったら駆けつけて警護するつもりだった。指揮官としてそのような事態を待ち望んでいた。もし、法律にふれるというなら喜んで裁かれてやろうではないかと言った。佐藤議員の駆けつけ警護発言です。発言したときは制服を脱いで参議院議員でありましたが、考えていた時は指揮官としてイラクにいたときであった。議員の発言としても不穏当であったが、制服の時の考えだ。これも過去の歴史に似たことがあった。重大なことでしたが、あまり大きく問題にされなかった。この佐藤議員は今回の田母神発言に対し、自衛官にも言論の自由はあると擁護しています。田母神氏は08年4月に自衛隊のイラク派遣は憲法違反であるとした名古屋高裁の判決に際し、「関係ねえ」と切り捨てた。ねじれた関係で相互に影響を与えあっている。こういう形で軍人の政治的発言が議会政治の一角に既成事実をつくっているということに、私たちは恐れを抱かなくてはならないと思います。

これらいくつかの例で、議会政治が極めて甘い対応しかしないことは大きな問題でした。陸海空、そろって同じような文民統制軽視、憲法、法律無視の動きをしてきた。

自衛隊の土壌の中で進行している劣化とすさみについて見ておかなくてはなりません。自衛隊は田母神さんも佐藤正久さんもそうですが、幹部と呼ばれる高級将校、防衛大学校ないし一般大学を卒業して幹部候補生学校で1年間訓練をうけ、以後、幹部学校、統合幹部学校と試験を受けながら、部隊との間を往復しながら昇進していくエリート、トップクラスは防大出身者が独占している様な幹部、また曹とよばれる下士官、さらに士と呼ばれる兵士、この3つのクラスからなっています。士はいま2008年年度末で60191人です。これは任期制隊員と呼ばれ、陸は2年、海空3年という任期で採用され、入れ替わっていきます。幹部と曹は53歳から田母神さんが62歳であったように、非任期制隊員で、一種の終身雇用です。雇用でいえばふたつの形態、身分でいえば3つの形態です。士クラスでいまいろんな事件が起こっている。派遣社員とか契約工と似ている。年間8000人くらい退職し、おなじくらい採用される。ところがこの1~2年でいえば、辞める人が少なくなった。そとにでても企業の求人が減ったからです。自衛隊にとどまることを希望する隊員が増えたのです。継続任用といって、希望すれば1任期増えます。当然採用人員が減ってくる。そういうなかで、任期制隊員の中で犯罪、事故、いじめなど、彼ら自身が加害者になり、被害者になる。自殺、任期制隊員に限りませんが、自殺率が高くなっている。国家公務員の倍ある。国家公務員は10万人あたり17人ですから、自衛隊は43人です。イラク派遣任務についた自衛官の中から帰国後20人の自殺者を出しています。下級隊員をそういう土壌に追い込んでいる。犯罪も増えている。衝動的な犯罪が多い。練馬の隊員が鹿児島でタクシーの運転手を刺した。ちょうど横須賀でアメリカ兵がタクシー運転手を殺したのと同じ時期です。同じ頃、自衛隊体育学校の一等陸士が国会議事堂に入って切腹しようとした。これも動機不可解。あるいは旧軍の伝統であるいじめ、初年兵いじめ、あるいは初年兵にあたる女性自衛官に対するパワハラで頻発している。札幌では裁判になっています。下級隊員に対するいじめは今年、福岡高裁で認定されて、防衛省に対する慰謝料の支払いが命じられた。こういう自衛隊内部の人間関係の問題がある。

そういったことを含めて広い意味での田母神問題がある。田母神論文、田母神事件、田母神問題という大きな捕まえ方をするなかで、さて自衛隊をどうするか。文民統制のあり方をどのように徹底させていくか。隊内教育の透明化、カリキュラム策定作業の外部化、士クラスの人権を守るためのオンブズパーソン制度、ヨーロッパでは当たり前になっているようなそれをつくっていくべきではないか。それを含めた議論が必要だ。田母神辞職ではすまないもっと大きな問題がある。

田母神発言と憲法問題

専修大学 古川純

田母神論考を読んで最初に思ったことですが、その歴史認識は、沖縄の強制集団死について「あれは住民の自発的な死であった」というような歴史修正主義、「あたらしい歴史教科書をつくる会」のような歴史修正主義の大きな流れの中で出てきているということです。そういう歴史認識があいまいなまま戦後60年以上、来ている。戦後補償の問題でも何回も繰り返されていますが、判決ではちょっとリップサービス的な傍論があったりしますが、たいていは棄却されている。これがああいうとんでもない応募論文が幹部自衛官からでてくる基盤で、何とかしなくてはならないと思います。

もう一つは昨日の「朝日新聞」の「私の視点」に、MITのジョンダワー先生が田母神論文について、「国を常に支持するのが愛国か」という寄稿をしている。「どこの国でも熱に浮かされたナショナリストがそうであるように、彼は他者の利害や感情に全く無関心であるかに見える。中国人や朝鮮人のナショナリズムは彼の描く絵には入ってこない」。そして最後に「国を愛するということが人々の犠牲に思いを致すのではなく、なぜいつでも国家の行為を支持する側につくことを求められるのか」と締めくくっておられます。ダワーさんは「敗北を抱きしめて」という名著でピューリッツアー賞を受賞されています。この論考を読んで、アメリカの日本研究者の視点で重要な指摘をされたと思いました。

空幕長の時代に田母神さんの書いたものと参議院外交防衛委員会での答弁と併せて分析してみます。

田母神さんは私人と公人のあいだを自由に行き来して、こっちをつかまえようとすると逃げ、他方を捕まえようとすると、そっちに逃げるという特徴を持っています。田母神空幕長に言論表現の自由はあるか、言論・表現の自由、シビリアンコントロールと民主主義ということを考えてみます。

参議院の外交防衛委員会で実に自由にいろんな事を述べています。「村山談話の見解と私の論文とは別物だと思っています」「村山談話は政治声明だと思っているから、われわれにも表現の自由、言論の自由は許されているはずだから、と、言うところは主張させて頂く。私の書いたものはいささかも間違っているとは思いません」「今朝、11月11日9時の時点でyahooで58%が私を支持しているので(国民に)不安を与えたことがないと思う」といっている。後から知ったのだが、田母神氏は参考人質疑があるので、私を支持するようにとネットに書き込みをするようにといっています。操作をした意見をつくり出したようです。シビリアンコントロールについては、応募論文について官房長に事前に許可を得ていないことについては、私はルール違反とは認識していないといっている。ほかの隊員に働きかけ(紹介だといっていますが)を行い、94名の投稿があったことについては、その部隊で決めたルールに従ってやっていると思うとダブルスタンダードで内規の運用を理解している。「私は文民統制が日本ほど徹底した軍隊はないと思う」という。彼の理解する文民統制とは「問題を軍を使って解決するかどうか」を決めるのが文民統制だという。「日本では自衛官の一挙手一投足までを統制する。これでは自衛隊が動けなくなる。これを変えたい」という意志がはっきりしている。今回の件では逸脱とは考えていない。政府見解による言論統制だ。したがってシビリアンコントロールとのもっとも大事な点を無視している。

2008年1月30日、共産党の井上委員が指摘したことですが、航空自衛隊の熊谷基地の視察の際の空幕長講話「我が愛すべき日本の講話」で、今回の論文とほぼ同趣旨のことを述べている。これについては「私の私見だ」と逃げている。しかし空幕長としての講話です。「自衛隊は親日派、保守派の代表として外に向かって意見を言っていかなければならない。問題が起きたときは航空幕僚長を先頭に航空自衛隊が頑張るしかない。問題は何を起こしてもいいから、頑張って下さい」などと言っている。

「きちんとした国家観、歴史観をもたせなければ国を守れないと思って、幹部教育の講座を私が学校長の権限でいれた」という。

先ほどお話のでた「鵬友」という雑誌の2003年7月、4年3月、7月とに3回にわたって、「航空自衛隊を元気にする10の提言」というのを載せている。この中で言論表現の自由について驚くべきこと述べている。空幕長として投稿していますから、私的な発言ということはできません。

「情報公開について。いまの部隊等における情報公開に関する教育の徹底は行き過ぎだ。情報公開法がわが国や自衛隊の弱体化を目論む人たちに利用される可能性について注意をはらうべきだ。公人や公的な組織にもプライバシーがあると考えてよいのではないか」、これはとんでもない間違いです。「自衛隊は国の安全保障を担保する組織なので、公にできない秘密が存在する。自衛官にも自衛隊にもプライバシーが認められていいと思う。いわゆる身内の恥的なものまで公開されるようになると、隊員は自分のことを上司に相談することができなくなる。部下隊員の指揮官に対する信頼感が失われてしまう」という。だから情報公開を制限すべきだという。情報提供の基準については、自衛隊を応援してくれる人と、反自衛隊活動をする人とを同じ扱いをしようとしている。自衛隊は反自衛隊活動をする人を恐れ、彼らを丁重に扱い、親自衛隊の人々に我慢を強いている。親自衛隊の人たちとより親しくつきあい、必要な情報を提供し、情報の提供をうけることは自衛隊の義務とさえ言えるだろう。航空事故や服務事故等に対しては、相手が空自の味方であるか否か、日本国民として国家の発展を真に願っているか否かが、対応の重要な分かれ目となる。味方ではないと考えられる人やある種の思想を持った人に十分な誠意を尽くして説明したり、細かい調整をしたりするのは基本的に間違いである」という。

マスメディアについても、「反日的な報道をして、あれやこれやで自衛隊を攻撃し、自衛隊の精神的弱体化を目論んでいる。これまでわが国では反日的言論の自由は無限に保障されていたが、親日的言論の自由は極めて限定されていたような気がする」。

ここで田母神氏は転換点として引用しているのは、2004年の3月の石破防衛庁長官の訓辞です。石破長官は「いろんなことにたいして諸官は専門的な立場で意見を申し述べることは諸官の権利でもあり、同時に義務でもある」と言った。「これまで自衛隊では外向けに意見を言うことは慎むべきだという雰囲気があったので、自衛官にとっては石破長官の発言は大変にありがたい発言である。自衛官にも言論の自由があることを、再び防衛庁長官から明言して頂いた。」これは先ほど、前田さんからご紹介があった軍人の政治発言を解禁にした1931年の南通牒にも相当するような考えだ。「自衛官の『正論』『諸君』『VOICE』『This is 読売』等への投稿を奨励したい。士気の高揚に大いに役立つ」といっている。こういう理解をされた石破長官の発言は責任が大きいと思います。

問題点の整理をしますと、田母神公募論文は、参議院外交防衛委員会答弁、「鵬友」の論文を併せてみますと、主権を有する国民や市民の言論表現の自由に対する挑戦です。情報公開について、親日的か反日的かを基準にするというのはとんでもないことで、閉鎖的な軍事集団として反民主主義的な制度運用をするということです。あるいは自分の論考についてyahooの反応を引用して正当化していますが、関係者に書き込みを働きかけた結果です。隊員に対して、右派雑誌への投稿を働きかけ、メディア露出をして、工作とか煽動にあたるものをやり、世論工作をしようとする、宣撫活動をしようとしていることは重大です。

言論表現の自由の保障の意義について言えば、憲法学では言論の自由は個人の人格形成にとっての意義、個人の自己実現の意義があると考えており、私人としての思想形成、思想表現、そのための情報受領とか発信の自由を意味します。社会にとっては言論の自由市場論で、社会の少数意見、異端的言論の自由市場への参入の自由を保障しようとするものです。世論の形成機能を重要視します。その前提は言論市場における表現者、市民の対等性にある。権力を行使する地位にある者、職務の優越的立場にあるものが言論市場を支配することがあってはならないという考えです。第3に、民主主義にとっての自己統治の意義ですが、民主主義の政治過程を支えるのは市民の言論表現の自由な発表と受領です。この自由の規制は内在的制約のほか、極めて例外的なものでなければならないと、高く位置づけられています。これも前提があって、民主主義の自己統治の意義を有する言論表現は、市民の言論表現である。権力担当者とか、権力組織内の指揮命令系統にあるものは自分でこの自由を援用することはできず、組織上の地位に応じて制限されるのは当然であると思います。したがって田母神発言にあてはめると、航空自衛隊のトップにあり、防衛大臣を直接補佐する立場にある者は、この自己統治の意義を援用することはできないと思います。シビリアンコントロールの枠組みからいっても制限されている。空幕長の私人性は極めてせまい。内閣からの言論統制は当然の制度的な結果です。

市民社会と軍隊社会の区別の問題ですが、日本の自衛隊という軍事力の法制は警察予備隊から始まって保安隊になり、そして自衛隊法ができたという、憲法9条の大きな制約の中でそこからすこしづつはみ出して、制度を作ってきました。洋の東西を問わない軍隊の本質という特徴を持っている軍隊規律などがありますが、他方で軍刑法や軍事裁判所を持たないという軍事力であるわけです。田母神氏は集団的自衛権などをもたない、田母神氏がいうあれもできない、これもできないという、そうしないと9条の枠をはみ出すのでそうしてきたのですが、それを変えたいというわけです。参議院の外交防衛委員会の答弁でも、集団的自衛権の解釈も変えたいと言っていますから、外国軍隊のように制約のない普通の軍隊にしたいと思っているのでしょう。

シビリアンコントロールの点からおさらいをしますと、村山談話について政治声明だと思っているから拘束されないというのは、自分には政治発言の自由があるという考えです。村山談話など各内閣は首相の国会答弁で、これを継承すると明言して各内閣の基本的立場になっています。自衛隊法上、内閣総理大臣は自衛隊の最高指揮官になっていますから、各幕僚長は大臣の指揮監督を受けて隊務および隊員の服務を監督するとなっていますから、きちんと押さえられています。これに反する空幕長の投稿とか講話とか訓辞はその都度統制されねばならないので、これを言論の自由とは到底言えません。空幕長はそもそも言論の自由の市場に参入できる地位にはないと言うべきです。

「鵬友」で言っていることは自衛隊員の倫理法上の問題もあります。
空幕長は本来、懲戒になるべき問題です。
「服務の宣誓」には日本国憲法および法令を重視し、といっております。
彼の言ったことはおかしいことばかりで、一つ一つ反撃すべき問題です。

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砂場徹さんを送る言葉

高田健

砂場さん、
84年にわたる人生、大変お疲れさまでした。砂場さんは自らの生き様をもって私たちに多くのものを残して下さいました(中略)。

1925年に生まれた砂場さんは1945年4月に20歳で軍隊にとられ、入営しました。いま考えますと、このときはすでに45年2月に近衛上奏文が天皇にだされたあとでした。近衛はその中で、日本の敗戦は確実だから、速やかに降伏すべきだと言いました。しかし、天皇裕仁はそれを拒絶し、「あとひと戦やって、有利な条件をつくりたい」などといいました。

砂場さん、もし天皇裕仁が近衛の進言を受け入れていれば、砂場さんが体験した3月の大阪大空襲も、4月の入営も、そしてあのヒロシマ、ナガサキもなかったはずでした。裕仁の国体護持のこだわりのために砂場さんは兵役にとられ、入営間もなく、釜山から中国東北部のジャムスに送られ、敗戦を迎え、9月にはソ連軍に武装解除されて、以来、4年にわたるシベリア抑留を体験されます。

砂場さんは2年前、この体験を著書「私の『シベリア物語』」にまとめられました(中略)。砂場さんは「前がき」でこの本を書くに到った2つの動機を述べています。1つは当時の小泉純一郎内閣のもとで靖国参拝や憲法改悪がすすめられていることへの砂場さんの怒りでした。もう1つは、自然環境の破壊と地球の危機がすすむなかで、20代の砂場青年が過ごしたシベリアが「なぜかなつかしい」からだと言っています。

砂場さんが帰国してからの60年近い人生は、このシベリア体験に裏付けられた反戦平和、民衆の抑圧と収奪を許さず、自由と平等を求め歩み続けた人生でした

さまざまに紆余曲折はありましたが、砂場さんは一貫して困難にひるまず、不正義にたいしては一歩もひかず闘いつづけ、後輩の私たちを励まし、援助してくれました。砂場さんの体験と信念による議論は、時にはきびしく思うこともありましたが、砂場さん、見えますか。今日もあなたの教えを受けた後輩たちや、運動の友人のみなさんが沢山、ここに駆けつけて下さっています。これはつくづく砂場さんの人徳だと思います。

砂場さん、いま、日本も世界も大きく変わりつつあります。歴史的な変動期がきています。砂場さん、私はいま、10日ほど前に、砂場さんの家をお訪ねし、「マンガ資本論」という文庫本を見ながら2人でお話ししたことを思い出します。この2月に沖縄で憲法の市民運動の全国交流集会が開かれること、いま、大企業が巨額の内部留保を貯め込んでおきながら大量の派遣切りをやって労働者を路頭に迷わせ、その結果、労働者の反撃が始まっていることなど、いろいろ報告しました(中略)。

「千の風になって」という歌があります。もし、あれが本当なら、砂場さん、風になって私たちの頭上を吹き抜けながら、天空から見守って頂きたいと思います。

私たちはこれからも砂場さんを決して落胆させることなく歩みつづけるつもりです。砂場さん、本当にありがとうございました。(2009年1月9日)

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「9条」署名の3年が終わって

蓑輪喜作

 拝啓、また本有難うございました。小金井でも置かせてくれる書店があり、2冊ほど扱って頂きました。それから国分寺の友人が相模原へ送ってくれということで1冊、あと2冊ほど出ましたが、2月になると私の学校の卒業の集いや、革新新潟県人会などがありますので持ってゆきたいと思っています。焦らず有効に使わせていただきたいと思っております。

正月もあまり寒くないので1時間ほど歩くと22、3筆はいただきます。ただいま16.870筆です。年賀状も2万をというものが多く、体調が横ばいにゆけばと思っています。

また一つの区切りとして文を書きましたが、今までの重複もありますので「私と憲法」にのせていただくことは有難いことですが、ご無理をなさらないで下さい。高田さんへの報告と思って受け取って下さい。今日、明日は24時間心電図をつけたので署名は休みですが、明日になったら試験場前にも行ってみたいと思っています。行かないと心配する人もいますので。気温10度のときは出ないようにしていますが、11度になると出るようにしています。出ることの方が楽しいのです。

見上げれば空の上には凧いくつ平和を守れと署名に歩く
川向こうで我に手を振る親子あり今年もよろしくと声の聞こえる
老いたれど9条守るは我がいのち今年も元気に生きんと思う

2009・1・5
高田 健様
蓑輪 喜作

9条」署名の3年が終わって
2008年12月29日 記

 昨日12月28日、自動車試験場前のバス停の43筆で今年の署名は終わったようなものだが、今日も公園を歩いている人は少なくなかったが、それでも10名ほどの署名をいただいた。

そんなことで1年を振り返ってみるに体調も持病の心臓に加えて前立腺の治療で新しい薬が増え、高血圧症にもなり、決していい体調ではなかったが、今まで出席していた都心の会などは欠席させていただき、その他のものもできるだけ断れるものは断って署名を中心にやっていたが、ここまで来れたことは有難いことで応援していただいた皆さんに感謝している。

さて署名数のことだが、今朝のしんぶん赤旗によると憲法署名が今までの大阪府、北海道、東京都に続いて埼玉県が百万人分を突破したとあって、もう私の数などとりたてて書くこともないと思ったが、一昨年が3,700,去年が4,920,そして今年は8,140、今年になってからが断然多い。

増えた理由ですが考えてみると署名する場所を土、日以外は毎日新しい人の来る自動車運転試験場前のバス停に移ったこともあるが、いま全国、北から南まで七千数百の九条の会があって、それぞれの活動をやっていることがいちばん大きいのではないかと思う。ここ小金井でも毎月9の日の駅頭署名はこの3年間欠かしたことがない。それからいまひとつ言えることはあまりにも今の政治がひどいということだ。首相や大臣が失言をするとその翌日から署名での対話も替わってくる。国民はバカでないのだ。3年も署名をしていると肌で感じる。

そんなことで昨年私はマスコミがどうだという前に、こちらが動けば元気を出してくれると書いたことがあったが、今年はテレビも東京大空襲、特攻隊の世話をした「なでしこ隊」等なかなか力作が多く署名でも話題になり「今の世の中は大変だが皆さんの意識も変わってくるようになり、長生きすればよいことに会うかもしれない」というお手紙もいただいている。

そんなことで今年1年の私のことを振り返ってみたい。昨年に続いて、狭いむさくるしい我が家であるが訪れてくれる人も多く、世界9条の会(編集者註:「9条世界会議」のこと)にも参加された女性の方や、また東京に来たからと熊本県の人吉から来ていただいた方もあった。それに新聞等の取材もいくつかあって、とくに毎日新聞の10月4日付けの「ひと」欄に載せいただいたのは全国版ということもあって今までと違った反響もあった。

山形県の市会議員という方から小金井の市役所の職員組合を通じて話しに来ていただけないかと電話をいただいたが、有難いことですが高齢であるということでお断りしました。

お手紙も沢山いただきましたが、特に嬉しかったのはかつて故里での用務員の日、私の学校の分校に勤めておられた若い教師から次のようなお便りをいたいたことだ。

――「この人、孟地の蓑輪さんじゃないの?」 妻の一言で思わず新聞を読みました。10月4日の毎日新聞の「ひと」欄に載っているのには驚きました。「憲法9条を守って下さい」という署名を14,700筆、一人で集められたということに頭が下がります。今、社会は悪い方向に進んでいるように思います。現役の教員として子どもたちに平和の尊さと、それを守ることの大切さを教えていきたいと思います。写真を拝見しますと蓑輪さんの優しさと元気が伝わってきます。思わずなつかしさとうれしさでペンを取りました。お元気でご活躍下さい――。

またこの時取材していただいた記者からは「世の中(人)はいい方向に向かっているという蓑輪さんの言葉を励みに頑張って仕事をしていこうと思っています」というお便りをいただいている。

私はよくこんな署名をしていてどうなるんだと言われることがあるが、いつも言うことは2年、3年と続けているとささやかなことではあるが、こういうことが世論を作ってゆくのではないかと肌で感じていますと答える。

3年でこれまでに3万人近い人に声をかけたでしょうか。実に沢山の人と会話をしましたが、9条は人の命に関わることであれば、ずいぶん幅も広く体制側と思える人とも話してきた。たとえ敵であっても味方にと思うようになってきたこの頃である。

次に特に書いておかなければならないのは、12月2日の公園の広場での「はらっぱ祭り」である。今年で20回目だと言う。都立武蔵野公園の一部(通称くじら山周辺)、都内では数少なくなった貴重な自然の中での集いで、多様な表現を認め合い、地域と協同で参加者みんなでつくりあげる祭りを目指して居る。集まってくる人々で、子ども広場、リサイクルバザー音楽会、こういうイベントはそれ自体、平和でなければできないもので、楽しいムードに包まれている。去年ここで署名をやって80筆いただき署名用紙がなくなった話しをしたところ、今年は九条の会から2人の女性が参加してくれた。1時間半ほどで私が110筆、女性2人で60筆、計170筆いただいた。私自身はほとんど断られることもなく話しが弾み、私の住所を教えてくれという人も何人かおり、その時の人の気持ち、イベントのような雰囲気もとても大切だと思った。

それから新聞でも報道されたが小金井では「92億円もの税金を投入して武蔵小金井駅南口に市役所を建設するのか、市役所建設用地として10年以上前に購入したジャノメ跡地に建設するのか」を問う住民投票条例制定の直接請求署名が10月27日から11月26日まで1ヶ月間おこなわれ、結果は目標を大幅に超えた11,123筆も集まり提出した。おそらく小金井始まって以来の住民運動で熱く燃えた1ヶ月間であり、私のことについては蓑輪さんは9条署名をやっていてこちらの方はと心配する声もあったようだが、私としては両方を続けて行くつもりで10日間だけはどうやらできたが11月も10日ごろになると寒くなってきて、あとの20日は9条署名の方はやめ、直接署名のみに取り組んだ。署名をする受任者も460名という数字でなるべく私の周りの受任者とかちあわないように取り組んだ。

みなさんは駅頭やスーパー前などが多かったが、私は各戸訪問でいくつかの町内を廻った。九条署名も公園の紅葉の一番美しいときで人もたくさん来るときで、はじめは惜しいなあというきもちもあったが、直接署名も廻っていくと運動したミニバスのお礼を言ってくれる人、私の九条署名の新聞などをまだ持っていてくれる人、あたたかく迎えてくれる家が多かった。そしてとれたての野菜や柿をいただいたりまたお家に上げて頂き、お茶を頂いたり、中には故里から送ってきたとお米を頂いたお家もあり、忙しいが楽しい一ヶ月であった。

私の故里だったらいざ知らず、ここは東京、都会に来て数えてみるとお家に上げて頂き、お茶をいただいた家が10軒以上もあり、ありがたいことだと思っている。

ほんとにみんなで燃えに燃えた1ヶ月であった。私はいくら、私はいくらと自分の方から署名の数をいうようになった。いままで統一行動以外はなかなか大変だったが、みんな新しい体験をされ、顔が輝いており、これからの九条の会運動にもおおきな力になると思う。私自身も220筆と集めた方だった。

さて大変長くなったが、
九条署名を行って来て特にまた印象に残ったことを少し手帳のメモなどから拾いとりあげてみたい。

 こんなことで私の「九条」署名もまる3年が過ぎて4年目に入った。そしてあと5ヶ月すると80歳になる。署名をはじめた頃はとてもいまのようなことが考えられたわけでなく、ただあの15年戦争を体で知っている者としても、もしもまた戦争にまきこまれるようになったとしたら、なぜあのとき戦争体験者が居て動いてくれなかったのかと言われない為に、そんな義務感や気負いのようなものがあって始めた。だが今ではそのようなものはなく、ただたんたんと私の生活の一部のようなもので、署名していただけない人でも決して押しつけはせずに次につながるような別れ方をしており、今では2年前、3年前に署名出来なかった人でも署名してくれる人も居ます。また個人情報にこだわる人には、いまされなくとも国民投票になったら守って下さいというと、みんなはいと答えてくれます。

最初の頃は論争もあったが、いまはそのようなものはなく、人と人、いつしか私の話も人間としてが中心になっているのではないかと思います。たしかにこの3年間、米国発の金融危機で始まった労働者の大量首切りで失業者があふれて、いま私のところにも「今日本には政府が存在しない状態で、いったい何をしているのかと腹立たしくなります」というお便りをいただいておる。しかしいままで書いてきたように政治は悪くなってゆくが、それを変えてゆこうという声は3年前とはくらべられないほど大きくなっている。

そんなことで今年も沢山の人にお世話になったのですが、特にこの夏、写真を撮るために署名に同行して頂いた9条の会の瀬尾さん、それから8月の暑いときに私が無事でありますようにと毎日お祈りをしてくれたご婦人、私の拙い文を「自衛隊でなく9条を世界へ」というご自分の本に載せて頂いた九条の会事務局の高田健さんには特にお礼を申しあげたい。それからこの1年、私のことを短歌に詠んでいただいた次の方の歌を紹介したい。

※こがねいの九条おじさん登壇す胸は高鳴るわれもこがねい 糸井玲子
※十日町山古志語る君は今署名集める貴き笑顔 木村悦子
※蓑輪さんあなたのおかげと叫びたし九条守らん人の増えしは 下村すみよ
※九条の署名集める蓑輪さんの熱き思いで我も署名す 松沢ひろみ
※蓑輪さんの大活躍の記事を我に送りくれし人はかつての上司 市川綾子

ほんとに沢山の人に支えられてここまで来れたのだと思う。
それからいま一つ、最後に、かつて私が故里にいた頃、出した歌集「明日に向かえり」のなかで書いた次の一文を書いて終わりとしたい。

「私はかつて第二次大戦のとき、ナチスのファシズムと闘ったフランスのレジスタンス運動の中で言った詩人の次のような言葉が好きだ。――言ってみれば我々はよい土を作るために、木から舞い落ちる一枚の葉のようなものだーーと」。

いま私たちのやっていることも、長い歴史の上から見れば一人ひとりは、ほんとにちっぽけな木の葉のようなものかもしれない。しかし、それが積み重なって歴史は作られていく。さて、来年は80歳。もうたいしたことは出来ないだろうが、もう少し、健康に気をつけてたんたんとやってゆきたいと思う。

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「年越し派遣村」ボランティアリポート

「年越し派遣村」は、村民にとっても、私たち労働者にとっても希望の「村」です。

黒坂 操

12月31日から1月5日まで日比谷公園に開設された「年越し派遣村」にボランティアとして行ってきました。メールで「年越し派遣村」を知って、「年越し派遣村」って何、「ちょっと見に行ってみようかな~」なんて軽い気持ちで31日の「開村式」に望みました。主催者や政治家、各労働組合の代表からの話を聞いているとだんだん事の重大さがわかってきました。「開村式」のスピーチが終わると100人くらいいたボランティアの割り振りがされました。そこからです。私の怒涛の年末年始が始まったのは・・・

私はまず、全国から届く物資の仕分けと在庫管理をすることになりました。米1トン、ジャガイモ200キロ、大根100キロ、りんご30箱、次々と運び込まれる食材の数量を確認しテントに積んでいきます。送り主は個人、地方の労働組合、共産党の支部、全国の農民連など多岐にわたります。

 食事の時間にはボランティア総動員で食事作り、行列の整理など私は、倉庫番の合間に会場整理をやっていました。だけど、今、考えると31日の食事はとてもゆったりとしたものだったな~と思います。村民も100人ちょっとだったし。「村」の存在がテレビで報道されると入村者が雪だるま式に増えました。ボランティアも増えました。私の倉庫番の仕事も仕事を任せられる部下(?)が増え、ときどき顔を出せばいい感じになってきました。

「2列に並んでくださ~い」「お待たせしました~」「おかわりはありませ~ん」

日に日に食事の行列が長くなりました。4日には500人、行列がなくなるまで2時間近くかかりました。行列の中には、視点のさだまらない顔面蒼白の若者がたくさんいました。食事の時間が終わった頃大きな荷物を持って「村」にたどり着き、「何か食べ物、ありますか?」とたずねる青年。

後から聞いた話ですが、茨城県から歩いてきた人、自殺に失敗して「村」に来た人、交番で「村」を紹介された人。テレビの報道より厳しい現実を目のあたりにしていると「大企業」に対する怒りがふつふつと沸いてきました。

倉庫番の仕事もすごいことになってきました。入村者が予想以上に増えたため、倉庫として使っていたテントを急遽、入村者の宿泊用にすることになったのです。残っているボランティアで、米、もち、ジャガイモ、たまねぎ、大根、りんご、みかん、缶詰、カップラーメン、お菓子などの食材をすべて外に運び出しました。そして、野良猫、カラス対策のためにブルーシートをかけてその日は帰りました。元旦の夜のことです。

 テレビの報道の影響で入村者、ボランティア、メディア、そして観光客が日に日に増えました。どんなに人数が増えても、入村者の方々からは「村」に来てよかったという穏やかなものが感じられましたが、それに引き換え、ボランティアやメディアの方たちは数が増えれば増えるほど、マナーが悪くなってきました。テレビ局だからとか外国から取材に来たからといって何をしてもいいというわけじゃありません。配膳の最中に厨房にずかずかと入ってきたり、プライバシーへの配慮がなかったり、広めてくれるのはいいのですが、その前に人権について考えて欲しい。人の気持ちや礼儀を考えて欲しいと思いました。

ボランティアの質も悪くなってきます。ハンドバックにスカート姿で「何か仕事ありますか?」とか、「ちゃんと指示してくれなきゃわからないじゃない」と同じボランティアに詰め寄るおばさん。

観光客などは論外です。「今、食事の準備中ですので通行できません。」というと「カンパしたのに何だ、その態度は。」と言ってボランティアに食って掛かります。食事の列に明らかにプロのホームレスを見ると「俺はホームレスのためにカンパしたんじゃないぞ。」 ・・・なんて心が狭いのだろう、カンパ返したくなります!

全国から届く支援物資、米だけで4日には4トンに達しました。宅配便の宛名を見ると「日比谷公園派遣村」と書いてありました。それだけで届くんだ~と感動しました。

たくさんの食材をリュックにつめて持ってきてくれる老夫婦。
ミュージシャン、マジシャン、飴細工職人、マッサージ師、村民のためにと集まる職人。
「政治を変えなきゃ」と切実に訴える観光客。床屋を申し出る美容師。
入村者に中にも「村」の運営に力を貸してくれる人もいました。
  「派遣村」にはそういう心温まる人たちがたくさん集まっていました。

 31日に「ちょっと様子を見てみよう」なんて思っていた自分が、名前も知らない人たちと団結して「村」を何とかして切り回していく、そんな中に自分が居られたことは自分にとって、かけがえのない時間でしたし、一緒に苦労したみんなと出会えたことはお金では買えない財産だと思っています。

自分のことを「高杉晋作」だという下ネタ好きのホームレス、一本芯の通ったオヤジ。いつも「よっしゃ、がんばろうー」っていうのりの体育会系のリーダーハナさん、一生懸命考えるワタナベサブリーダー、名前はわからないけど、ずっとゴミの整理をしてくれていたプロのホームレス。農民連の上山さん、みんなにまた会いたいと心から思います。

毎日、派遣村に通って、帰るときに日比谷公園を出ると目の前には帝国ホテル。
きらびやかなネオン、大きくてリッパな建物、あまりのギャップにため息が出ます。
「みんなでなんとかして頑張ろうよ」っていう世界から、「金儲けしたい、自分さえ良ければいい」という現実の社会が道ひとつ隔てたところにある。涙がでました。

「年越し派遣村」は、村民にとっても、私たち労働者にとっても希望の「村」です。
これだけの短期間で私たちの要求をアピールできたことは奇跡的だと思います。
「高杉晋作」さんが言っていました。「皇居のとなりの日比谷公園でこんなことができるなんて、世の中変わったな~」って、なるほどって思いました。

派遣村での4日間、体はきつかったけど、本当に心が温まることが多い毎日でした。
  村民のみなさんにとっては、まだまだ、厳しい日々が続くとは思いますが、いざとなれば、いつでも「派遣村」は再開できます。「派遣村」での体験を忘れず希望を持って頑張ってもらいたいと思っています。

 自分もこんな正月は初めてです。一生忘れません。  

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オバマさんへの平和の手紙

 WORLD PEACE NOWは1月20日夜、東京・虎ノ門の米国大使館前で約100名の参加による集会を行い、他の9団体10個人の手紙と共に、大使館の事務官に以下の文書を手渡した。

バラク・オバマ様
大統領就任、おめでとうございます。
私たちは「WORLD PEACE NOW」という日本の市民団体のネットワークで、9.11事件の後の2002年秋から活動しています。03年には、ブッシュ前政権のイラク攻撃に反対する運動が全世界に広がり、私たちも「武力で平和はつくれない」を合言葉に日本での反戦行動を続けてきました。

開戦後は泥沼状態が続き、イラク市民の犠牲者は増え続け、米軍兵士の死者も4000人以上と聞いております。大義なき戦争に反対する国際世論はもちろん、米国内でも占領の長期化にともない疑問の声が大きくなってきたところに、今回の大統領選挙でイラクからの米軍撤退を唱えたオバマさんが勝利を勝ち取りました。その背景には、イラク問題に限らない様々な要因があると思います。未曾有の金融危機に象徴される米国経済の行き詰まり打開や、前政権の弱者切り捨て政策の転換を求める声が、オバマ大統領への期待となって集中したのでしょう。

平和を求める世界中の市民、そして私たちも、イラク占領を止めて米軍撤退を実現するというオバマ大統領への期待を大きくしています。しかしその一方で、アフガニスタンへの兵力集中を主張されている事には、重大な懸念を抱かざるをえません。

思い起こしてください。9.11事件にはアフガニスタン人は1人も直接関与していないのです。そのアフガニスタン人に対して対テロ戦争の名目で、武力攻撃をすることが正義と言えるのでしょうか。米国が2001年からアフガニスタンとイラクで戦争を始めて以来、世界は対立が先鋭化して不安定化しました。

オバマ大統領が大統領戦挙の演説で、全ての人々と話し合うと語ったように、イラクもアフガニスタンも政治交渉によって解決すべきだと考えます。「武力によらない平和」を追求することは、米国にとっても大きな利益をもたらす道だと思います。

日本政府がイラク戦争に協力することに対し、日本国民の多くから反対の声が挙がりましたが、政府は自衛隊派遣を強行しました。アフガン戦争への協力にも反対意見が強まり、自衛隊のインド洋での給油活動が中断する事態も生まれました。このように、日本国民は政府の対応とは異なり、世界の多くの市民と同様、アフガン戦争にもイラク戦争にも反対しているのです。

また、日本には米軍の恒久的な基地と施設が85あり、自衛隊との共用基地を入れると133もの基地と施設がありますが、この上に米軍の再編によって沖縄の辺野古と高江に新たな基地をつくる計画が進められています。21世紀の世界で、米軍の海外基地を強化する必然性があるとは考えられません。沖縄の人たちともども日本国民は、このような米軍基地の強化に対し、強い怒りを抱いて反対しているのです。

核兵器の蓄積と新規開発を初めとする軍拡競争は、世界に破壊と荒廃・地球環境の悪化をもたらすだけでした。軍隊も軍事基地もいらない世界、紛争には平和的手段での解決を追求する国際社会を実現するために、オバマ大統領がぜひ尽力してくださる事を切に願います。

最後に、私たちは、イスラエルによるパレスチナとくにガザ地域に対する武力攻撃に心を痛め、一日も早い停戦と被害住民への支援の実現を切望しています。米国はイスラエルとの関係が深く、イスラエルのパレスチナ占領と領土拡大の政策をやめさせる責任と能力があるはずです。私たちは、中東における公正かつ永続的な和解の実現のため、あなたが特別のイニシアティブを発揮されるよう願っています。

2009年1月20日
WORLD PEACE NOW 実行委員会

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