私と憲法89号(2008年9月25日発行)


福田康夫の政権投げ出しと、来る総選挙について

 9月1日、福田康夫首相は突然の辞意表明を行った。改造内閣成立からわずか1ヶ月にも満たないうちの政権破綻だ。1年前の安倍晋三につづく自公連立政権の2代にわたる無責任な政権投げ出しは醜態という以外にいいようがない。安倍晋三は所信表明演説直後の辞任で、福田康夫は内閣改造間もなくの辞任だ。本誌前号で「福田内閣とインド洋派兵給油法延長問題」という巻頭言を書き、福田内閣が直面している重大な政治的危機について指摘した。しかし、内閣改造直後にかくもぶざまに政権を投げ出してしまうことは実に予想外であった。麻生太郎幹事長の当選が確実視される自民党の総裁選の結果、間もなく、彼を首班とする事実上の選挙管理内閣の下で、総選挙になるだろう。

(1)福田康夫はなぜ辞任表明したのか

 福田の政権投げだし、いわばブチキレの背景は3つある。

第1は自民党政権が最重要視する日米関係において、現在、そのもっとも緊要な政治的課題になっている「自衛隊海外派兵恒久法」と「自衛隊インド洋派兵給油法の延長」の展望が描けず、見通しをまったく失ったからだ。このままでは日米関係に重大な支障を来しかねない。安倍晋三内閣が日米関係で行き詰まったように、自らもその二の舞を踏みかねない事態に陥った。派兵恒久法は年初以来の公明党との与党協議がすすまず、当面、法案の成案化の展望すらない。代わりに考えられた給油新法の延長は、参院の反対を見越して衆院再議決を強行できる担保としての臨時国会早期招集に公明党が反対し、臨時国会は9月にずれ込むことになった。加えて公明党は再議決という強行手段にも反対を公然と表明しはじめた。このままでは給油新法は期限切れになるのは明白で、昨年同様、海上自衛隊がインド洋から引き上げざるを得なくなるの明らかだ。加えてイラク特措法はその前提である国連決議の期限切れで年内に効力を失うのであり、空自はイラクから引き上げざるを得ない。このままでは「反テロ戦争」遂行を世界戦略の至上命題とする米国の不信を買うのは明白で、重大な外交上の危機に至らざるをえない。

第2に、連立相手の公明党がことあるごとに福田政権に非協力的な姿勢を明確にしつつあったことである。公明党は支持率が低迷する福田首相では次期総選挙で勝利できないと判断し、その更迭をもとめる方向に転換しつつあった。同党は臨時国会召集時期、給油新法再議決、定額減税要求などで、福田政権の足を引っ張りはじめた。福田内閣の政権運営はきわめて困難に陥った。福田自身が自覚したように、次の総選挙での大敗北を避けるためには、首相交代による看板のすげ替えが必要だったのだ。

第3に公明党の要求で定額減税実施という「経済構造改革」に逆行する政策選択をせまられ、公約してしまったことだ。これは曲がりなりにも福田内閣がとってきた構造改革の継承という経済・財政政策の看板に反するもの。しかし、麻生自民党幹事長ら自公与党執行部が、福田の意志を忖度せず、合意を先行させてしまった。

(2)危機を好機に転ずることをねらった自民党の総裁選挙

福田の辞職表明で世論の自公政権への不信がいっそう高まった中、自民党執行部はこの危機を「国民的人気」があるといわれる麻生太郎幹事長を中心に派手な総裁選挙を演出することで、政権維持の好機に変えようというバクチにも似た方針をとった。マスメディアを使って「経済浮揚派」と「構造改革継承派」の対立を演出することで、国民的に不信感がある与党の経済政策で、あたかも転換がおきるような派手な宣伝がはじめられた。総選挙を意識して、ほとんどの候補が経済政策一点張りに走るなかで、自民党は石破前防衛相を加えて、安保問題を語らせた。給油新法についてどの候補も「積極的ではないが、石破に迫られたかたち」をとって、巧みに実行を表明した。これこそが政権党の政治におけるバランス感覚の発揮だ。

しかし、今日なお、どの総裁候補も自民党綱領にある「憲法改正」についてはふれない。これは、今年4月の読売新聞の世論調査に示されたような憲法に対する国民世論の動向と、それなしでは当選すらおぼつかない多くの自民党議員たちの選挙における公明党=創価学会の支持が意識されているのだ。とりわけ本命視されている麻生太郎幹事長は極右集団「日本会議」の幹部の経歴を持つ人物であり、彼が「改憲」という本音を述べないで総裁選を進めているのは危険なことだ。麻生は韓国の民衆からは「妄言製造機」と呼ばれているほどだ。

マスメディアをフルに動員した派手な総裁選報道の中で、事実上、これを総選挙の事前運動化して、1ヶ月後には選挙になだれこんでしまおうという動きも出てきた。新首相の下でまともな国会論戦をやらないままに、総裁選の熱が冷めないうちに選挙をやるというのだ。こんな人だましの政治を許せるものではない。

(3) 総選挙にどう対応すべきか

いずれにせよ、解散権は自公連立の新政権が握っている。この人々がみずからの陣営にもっとも有利な時期に解散をするわけだ。事実上の選挙管理内閣にすぎない新政権のもとで総選挙が行われる。この総選挙における私たちの課題はなにか。

まず第1に、衆議院においても先の参院選と同様に自公連立政権に打撃を与えて、与野党逆転を実現することである。積年の自公連立の悪政に終止符を打つことが出来るかどうかが問われている。与野党逆転は国民にバラ色の政治の実現を約束するわけではない。第一党になるであろう民主党の憲法問題や税制をはじめ、路線に大きな疑問符が存在することは明らかだ。しかし、参院の与野党逆転が政治の変化に一定の効果があったように、衆議院でのそれも今後の日本の政治の大きな変化を生み出す契機となりうるだろう。

第2に、私たちは「政権交代を可能にする二大政党制の実現」というスローガンに反対である。民主党がそのマニフェストで「国民の生活が第一」というのは賛成だが、「二大政党制をつくりあげるしかない」というのは反対である。どだい、市民社会における国民の政治的・経済的、文化的な要求や意識は多種多様である。これを二分化した二大政党で吸収することは不可能であり、危険ですらある。民主主義においては、参議院のように多様な野党が存在することこそ必要である。この存在をうしなうことは、民衆の政治の決定的な損失につながりかねない。すべての市民派勢力は重大な決意をしてこの総選挙に関わるべきである。

第3に、与野党逆転を目指す野党の中で、憲法改悪に反対する社民党、共産党の伸張が求められている。これらの政党は国民の圧倒的多数の世論である9条護憲を保障する政党である。来る衆院選においては、これらの護憲派政党と他の党内の護憲派議員の前進こそが重要だ。これらの人々は広範な院外の市民の運動と連携して、与野党逆転した国会のなかで、積極的にたたかうべきである。

目下、くりひろげられている自民党の総裁選を悪用した総選挙事前キャンペーンを打ち破り、護憲派政党と国会議員を軸に与野党逆転を成し遂げ、政治の転換への歴史的な第一歩をかちとろう。そのことを通じて、日本国憲法の第9条をはじめ、25条、24条、21条、20条、14条などをはじめとする憲法の平和と基本的人権、民主主義にかんする諸条項を生かし、実現していく契機を獲得しよう。(事務局 高田健)

このページのトップに戻る


8・6新聞意見広告2008へのご参加、ご協力、ありがとうございました

藤井純子(第九条の会 ヒロシマ)

今年も新聞意見広告を8・6ヒロシマデーに掲載することができました。この「私と憲法」に同封してくださるという心強い応援、皆さまのご参加、本当に有難うございました。振替用紙の小さな欄にぎっしりと書いて下さったメッセージ、「まわりの人に呼びかけるのでチラシを送って下さい」というご連絡は、私たちへの大きな励ましになりました。今年は、読売新聞大阪本社版(北陸一部、近畿地方、四国地方、山口・島根一部を除く中国地方)に全15段、朝日新聞東京都心版に5段に掲載し、お約束を果たすことができて嬉しい限りです。東京都心版は永田町に出したいという目的で狭い範囲、ご覧になれなかった方が多いかもしれません。読売新聞にしたのは、より多くの人に、また意見の異なる人にも見てもらって対話の一歩にしたいとの願いからでしたが、「5月3日の新聞意見広告と同様、読売に大きく掲載するなんて、改憲派には大打撃だよね」と言ってくださった方もあり、共に喜んで頂きたく、この原稿を書いています。

今年も紙面には、平和のスポンサーとして賛同してくださった皆さんのお名前を掲載しました。またメッセージは賛同者から寄せられた中からいくつか掲載させていただきました。タイトルは「9条世界会議」の成功を活かしたいと「憲法9条は、世界につながるピースロード」。イラストの9の字は、核のない、平和な社会をめざし、みんなで歩いていくピースロードになっていることに気づいて頂けたでしょうか。

今年の掲載は読売新聞に掲載、第九条の会ヒロシマとしては初めてのことなので世話人会で話し合いを重ねました。決定理由は、異なる意見の人(これまでは朝日5回、毎日4回、中国2回)にも私たちの意見を届けたい、購読者が多い。一人でも多くの方に呼びかけ、意見を求め、憲法について対話をしていきたい。改憲の流れが変わってきた今、憲法の素晴らしさに気づいてもらい、反改憲を強く押し出していくチャンスではないか、といったことでした。とりわけ主張文にはいつも以上に時間をかけました。環境問題、子育てやくらしなどの紙面が多いことから若い購読者も多いとか… 優しいことば、わかりやすい文章にしたいねと推敲しました。世話人が集る回数も時間も例年より少し多かったかもしれません。しかし最後は、「やはり私たちの考えはしっかり主張するべきだよね」ということで落着。当たり前のことですが、時間をかけたからこそ出た結論かもしれません。

購読者からの反応は… 読売新聞だから、見て賛同してくださる方は少ないだろうと予想していましたが、それでも紙面に「感想や意見を送って下さい」と書きました。8・6当日、早朝から電話がかかってきました。「新聞を買いに行ったよ。よかったね」という友人のほか十数件は、新聞を見て電話をかけてくださった購読者のようでした。それも「素晴らしい意見広告を有難う」「9条は大切です。」「9のイラストがいいですね」「賛成なのでカンパ送ります」となかなか好評。どんな電話がかかって来るかと、構えて待っていたので少々拍子抜け? 読売新聞社は改憲を唱導してきたので、改憲派の購読者ばかりという先入観が強すぎたのかもしれません。日本で最大の発行部数だからこそ、読売新聞の購読者の考えも様々だということでしょうか。

もちろん反対の声にとどまらず、怒鳴り声のような電話もありました。

「攻めてきたらどうするんですか?」
「アメリカに守ってもらうのですか」
「攻められっぱなしでいいとは、おめでたいヤツラだ」などなど。

それに対して「どこから攻めてくると思われますか?」「もし武力衝突するとどんなことがおきるか考えたことはありますか?」と逆に質問をしていくと 「日本に軍隊があれば攻めて来んのじゃっ!」とプチン。

メールやFAXでは、2チャンネルのような反応がいろいろ来るだろうなぁと思っていたのですが、一番に来ていたFAXは、「攻めてくる国があるでしょうか? 小生『100%ございません』と言いたいです。ぜひこれを広めてください。」でした。「あれ? 私たちと一緒じゃない、この方はきっと賛同してくださったんだよね」と嬉しい誤算。でも賛同者からの批判も少しですがありました。

「一貫して改憲論調を続ける、またあのいびつな体制の企業の収入に貢献するのはいやだ」

もちろん、こういう気持ちの人が多いかもと想定していましたので「確かに読売は改憲試案や社説など改憲を進めようとする論調が強いですが、購読者は好戦的な人ばかりではないだろうし、環境問題や家庭、育児などの面が多く、若い人はそんな理由で購読している人も多いと聞く。だからこそ、対話するいい機会になるって意味があるのでは?」と答えました。まだまだ、いろいろありました。

「独立国として、軍隊を持つべき」
「自衛隊を強くして米国に頼らず日本独自で守るようにすれば、沖縄の基地問題や卑劣な事件なども無くなり基地が返還され、米国への多額の資金もいらなくなる」などなど…

米軍が日本を守ってくれていると思っている人には、アメリカの世界戦略、とりわけ今回の米軍再編、そして在日米軍の狙い、陸軍司令部、PAC3配備、基地被害、米兵犯罪等々、自衛隊が私たちを守る、専守防衛だと思っている人には「おおすみ」型戦車揚陸艦、イージス艦、ミサイル防衛への協力等など、国際貢献を言う人には、軍事力を使わないNGOのこと、またイラク・アフガニスタンでそのNGOが泥沼化で動けなくなっていることなどを繰返しました。まだ納得できないという人に

対しては、世話人で話し合って対話を続けていくつもりです。しかし、どんな反応があるのか想定したり、寄せられたご意見にどう返事をするのか考えたり、逆に私たちの勉強になり、力になっていくのではないかと思っています。

8月6日早朝、原爆ドーム付近でこの意見広告の別刷りを、全国から、世界中からヒロシマに来られた人々に配布しました。「せっかく広島に来たんだから」と飛び入り参加の方もあり、30人以上の方々が参加して下さって3000枚が、あっという間になくなりました。また受け取りも好意的、15段そのままの大きさに驚いたり、「毎年、楽しみですよ」と声をかけてくださったり、笑顔で配り終わりました。世話人同士「頑張ってよかったね」とニッコリ。やはり核兵器廃絶を願い、平和な社会をめざして広島に来られる方々だからでしょうか。この日の朝のこの行動には、本当にすがすがしいものがあります。

昨年に続き、福田2世が政権を投げ出し国会は流動的で世論を気にしています。だからこそ市民の声が大きな力となるはずです。私たちは、この8・6新聞意見広告が、憲法改悪をストップさせる世論づくりの一助になることを願って取り組みました。匿名の方を含め1800人の賛同して下さった皆さまに、第九条の会ヒロシマ世話人一同、心より感謝し、元気を頂いて次のステップに活かしていきたいと思います。(08年9月15日)

このページのトップに戻る


『原爆詩集 八月』(合同出版編集部 編)を読んで
  国家が惹き起こす「戦争」という不条理を阻止する力

富山洋子(日本消費者連盟)

『原爆詩集 八月』(合同出版編集部 編)を手にした時、私は60年余り前の夏を鮮明に憶い出していた。8月15日、寺の庭に敷かれたゴザの上で、雑音が混じる、内容は全く理解できない天皇の声に耳を傾けていた私たちに、教師は泣きながら日本の敗戦を告げた。私たちは一瞬しんとしたが、私は、安堵した。いのちを奪われずに生き延び、親や弟妹たちとも再開できるのだ。皆もそうだった思う。蝉の声がひときわ高く響いた。

この詩集には、国家が惹き起こす「戦争」という不条理を阻止する力が込められている。本書は、「1945年8月の少年少女」の詩から始まる。侵略戦争に巻き込まれた、同じ世代の私には、当時の子どもたちの、健気さ、優しさ、悔いや、悲しみ、怒りそして、生き抜こうとしている強い意志がひたひたと伝わってくる。子どもたちの詩のあとに「原子雲の下の詩人たち」が続き、大平数子、原民喜、峠三吉、正田篠枝などの、すでによく知られている心に沁みる詩が掲載されているが、ここでは、子どもたちの詩を紹介したい。

「ピカドン」 横本弘美(小学校2年)
ピカドンのときは、ぼくは小さかった
おかあちゃんのかおや
からだのけがはしらない
いまごろになって、かおのきずから
がらすがでてくる
もう三べんもでてくる
二へんまでは小さかったからしらない
いまは二年生です。/いまごろかおから
またがらすがでてくる
ときどきおかあちゃんがさわっている。
ぼくはそれを見ると
もうピカドンが
なければよいとおもう。

「世界の平和」 金平和子(小学校4年)
私はせんそう大きらい
せんそうのためになん万というほどの人が死んだ
私はわあわあなきながら
母のせなかにしがみついてにげまわった
むこうのほうは赤かった
その時は私小さかったが
だれがこんなことをするのかと
にくくてたまらなかった
私のいとこの姉さんも
げんばくのために死んだ
そして私は思う
世界が平和になるように
これは日本のさけびである
私もそのことを一心にかみに願っている

「原爆の日」 奥本清志(小学校5年)
ぼくのお父さんはピカドンで死んだ
ぼくはあの時五つだった
「助けてくれ」というお父さんの声を思い出す
あたり一面火に囲まれていた
ぼくはこわかったことをおぼえている
暑い矢賀の山道をお母さんとはだしで走ったことも思いだす
人のせなかや顔を見ると水ようかんのような水ぶくれが出来ていた
ほんとにこわいあの日だった

「弟」 栗栖英雄(小学5年)
いたといたの中に
はさまっている弟
うなっている

弟は、僕に
水 水といった。

僕は、
くずれている家の中に、
はいるのは、いやといった。

弟は、
だまって
そのまま死んでいった。

あの時
僕は
水をくんでやればよかった。

「無題」田尾絹江(小学校5年)
ばくだんがおちたあと
おかあちゃんが
だいじにのけていた米をたきながら
せんそうをして
なにがおもしろいんだろう
といって、
たかしや たかしや
まめでかえってくれと
いってなきながら
おむすびをつくる。

「無題」佐藤智子(小学校5年)
よしこちゃんが
やけどで
ねていて
とまとが
たべたいというので
お母ちゃんが
かい出しに
いっている間に
よしこちゃんは
死んでいた
いもばっかしたべさせて
ころしちゃったねと
お母ちゃんは
ないた
わたしもないた
みんなもないた

「やけあとで」水川スミエ(小学校6年)
目の見えなくなった母親が
死んでいる子をだいて
見えない目に
一ぱい涙をためて泣いていた
おさないころ
母に手をひかれてみたこの光景が
あの時のおそろしさとともに
頭からはなれない

「無題」岡本陽子(小学校6年)
ピカドンで
けがをしてるきみちゃんを
男子はみんな
きっぽ きっぽ とわる口をいう
わたしには
わけがわからない
げんばくにあたって
きみちゃんが悪いのなら
げんばくで死んでいった
赤ちゃんも
おともだちも
みんな悪いことになる

「僕は死ねない」の最後の連で、原子爆弾が地球のいたるところに

光って落ちて人のいのちをうばって
地球上いたるところに
僕のような運命をむりやりにせおわされて
悲しい人びとができていいものか
僕は死ねない
そっと腕をまくってみる
まだ斑点は出て来ない

と謳いあげた、徳納晃一(高校2年)さんは、生き抜かれたであろうか。

「平和への願い」の掉尾を飾る「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」で、大島博光さんは、「詩にスローガンを書きこむとき、それは詩でなくなるのだ」と言う「ある詩人たち」に向けて、これが詩でなくたってわたしはかまわない/ヒロシマ・ナガサキから吹く風は告げる/人類の生そのものが問われているときこそ/「詩は実践的な真理を目的とすべきだと/、喝破されている。私は快哉を叫んだ。

本書はまた、日本の風景写真、土田ヒロミさんの被爆遺品写真が、紡ぎ出された言葉と響き合っている。倦んだ心の澱みに一石を投じる、座右の書としてお奨めしたい。

このページのトップに戻る


報告―平和のための戦争展2008
来年、30回め 問われる「私たちが体験者から何を継承すべきなのか」「自分たちの言葉で語れるようになること」

星野正樹

平和のための戦争展2008」は8月14日・15日・16日の3日間、新宿駅南口の全労済会館「スペースゼロ」において開催された。

今年は「在日」の「慰安婦」としてただひとり名乗りを上げ、日本政府に謝罪と補償を求めて裁判をたたかった宋神道(ソン・シンド)さんの写真をメインにしたパネル展示や、戦争での加害体験、被害体験の証言、憲法に関するトークなどの企画が行われた。

初日のオープニングでは戦争展の呼びかけ人でもある詩人の石川逸子さんによる日本の侵略に対して立ち上がった朝鮮の人々、「慰安婦」にされた人々などアジアの被害者を悼んだ自作の詩の朗読をしてくれた。そのあと東京大空襲・学童疎開の体験者、中国人強制連行の加害体験を持つ小山一郎さん(元中国帰還者連絡会)の証言が続いた。

1日目の最後は「特別企画」として憲法研究者で九条の会事務局の小澤隆一さんが「20世紀の戦争と21世紀の平和-憲法9条から考える」と題して講演した。小澤さんは日本の8月6日から15日は「戦争の記憶」をたどり平和について考える10日間であり、日本の中で戦争が「記憶」に止められている基盤は憲法9条にあると話された。そして1945年の日本とドイツの敗戦までの経緯をたどりながら、直前に報道された東条英機元首相の手記に見られる民衆軽視の考え方をヒトラーの発言と重ね合わせて、戦争が人々に何をもたらすのかということを指摘した。最後に名古屋高裁判決の意義と海外派兵恒久法の危険性について触れ、「いまこそ憲法9条と平和的生存権のかがやきをつかもう」と呼びかけた。

2日目は原爆詩の朗読と長崎での被爆体験を持つ米田チヨノさんの証言、「三光作戦」の加害体験を持つ金子安次さん(元中国帰還者連絡会)の証言があった。そしてこの日は宋神道さんのドキュメンタリー映画「オレの心は負けてない」の上映を行った。宋さんは1922年朝鮮の忠清南道で生まれ、満16歳の時に騙されて「慰安婦」にされた。その後日本に渡り1993年日本政府に対して「謝罪文の交付」と「国会での公式謝罪」を求めて提訴した。裁判は1999年10月東京地裁、2000年11月東京高裁で請求棄却。2003年3月最高裁で上告棄却となり敗訴が確定した。映画は宋さんと1993年に結成された「在日の慰安婦裁判を支える会」のメンバーが歩んだ歳月を涙とそして笑いも交えて画面に刻んだ作品だ。映画のタイトルは敗訴確定後の集会で宋さんが言った「裁判に負けても、オレの心は負けてない」からとられている。上映前に「支える会」の方に映画の取り組みについてのお話もうかがうことができた。「人間不信」だった宋さんが「支える会」と出会って自分の尊厳を取り戻し、被害を回復していく姿とともに「支える会」のメンバーも宋さんと出会うことで、自分に問われているものを考え「私は何をすべきなのか」という課題を担うように変わっていく。お互いが影響を与えながら「成長」していく過程が画面から伝わってきた。人間の優しさに溢れたすてきな作品だった。

最終日は広島で被爆を体験された出島艶子さん、731部隊の元少年兵篠塚良雄さんの証言があり、最後は「9条世界会議」実行委員会で事務局長を務めた川崎哲さんに「憲法9条を世界へ 世界から 『9条世界会議』の成果」と題しての講演をしてもらった。川崎さんは「軍事に依存した社会、経済の体制を脱却することが重要。そのためにも9条の持つ平和的生存権の考え方を『対テロ戦争』に対抗する軸にしていこう」ということを強調した。被害、加害の証言と憲法についての講演を続けて聞くことであらためて憲法の持つ意味を考えることができた。憲法9条は「平和」「軍事」といった側面から語られることが多いが、そういう意味だけでなく、軍隊・戦争がないことによるさまざまな「自由」-内心の自由、表現の自由、徴兵制がないことによる職業選択の自由、奴隷のように働かせられない自由など-の問題であることが理解できた。

戦争展は来年で30回を迎える。証言者の方たちも高齢のため体調を崩される方も多く、来年も直接お話を聞けるのかの保証はない。私たちが体験者から何を継承すべきなのか、自分たちの言葉で語れるようになることが問われている。

このページのトップに戻る


ごみを「燃やさない」「埋めない」をめざすまち
~カナダ・ノバスコシア州の廃棄物政策を見て~

前田かおる(東京・江東区議会議員)

●ごみは「燃やす」と「埋め立てる」しかないのか?

7月末から1週間、カナダのノバスコシア州に廃棄物の資源化政策の視察に行ってきました。私の住む東京・江東区には、日量1,800トンという日本最大のごみ焼却工場をはじめ、ハイテクを駆使したごみ処理施設が集中しています。それらは度々事故を起こしては住民に不安を与え、維持管理に膨大な費用を使い続けています。またごみの焼却が健康と環境に大きな悪影響を及ぼすことは、多くの人が指摘しているところです。

そこへ「カナダではごみ焼却をやめたまちがある」と聞き「そんなことが本当にできるのか?」と思ったのが、今回私がノバスコシアに行ったきっかけでした。

●政策転換は徹底した住民参加から

ノバスコシア州は東北地方くらいの広さでカナダの東南端にあり人口は94万人、北海道北部ほどの緯度です。ここでは州の条例で、資源化できるごみは燃やすのも埋めるのも禁止し、ごみの50%資源化を達成しています。焼却・埋立ともに禁止したのは世界初とのことですが、その発端はごみ処分場をめぐる紛争でした。

ノバスコシアの州都・ハリファクスでは、以前はごみをボンボン燃やしていました。しかし「ウチの近くにごみ処分場を作らないでほしい」という声が各地であがり、最終処分場をめぐる紛争が続いていました。広域自治体は「処分場がだめなら大型焼却炉を」と提案しますが、州と住民が拒否。このあたりは自治体が自治体を訴える、まさに「ごみ戦争」の様相です。そしてついに広域自治体が「それなら皆さんで決めて」と住民に政策立案を任せたことが、ごみ政策大転換への第一歩となります。

早速「地域利害関係者委員会」が発足、5ヶ月間で300人以上が関わり激しい議論の末に「ごみの中に資源がたくさんある」「処分場には生ごみと有害なものは持ち込まない」という結論にたどりつきます。市民が「すべての人がごみを発生させるのだから"from a consumer to a conserver society"(消費者から社会の保護者へ)変わろう」と呼びかけていることも、注目したいと思います。

そして95年11月には州が、焼却・埋立禁止令を出し、その後一年間で州の廃棄物の44%が資源化されます。その背景にカナダ各州環境相会議が1989年に出した廃棄物半減目標があることもふれておきたいと思います。

●ごみから資源への2つのカギは、堆肥化とデポジット

生ごみはすべて堆肥化され、造園会社や行政が買い取り土壌改良などに使われています。容器類はデポジット制度を中心にリサイクルがとりくまれ、その他の廃棄物も最終処分場に埋める直前で、生ごみや有害物を取り除き、量の抑制と環境負荷の低減がめざされています。

飲料容器のデポジットが、NPOである資源回収基金委員会を中心に行われていることも大きな特徴です。購入者は飲料購入時にデポジット金10円を支払い、回収拠点に空き容器を持ち込むと5円返金、残りの5円は運営に使われます。飲料メーカーは州内の販売本数に応じた上積み金を負担します。税金ではないお金がリサイクルを動かすエンジンなのです。もっとも、当初は飲料メーカーが負担を嫌って州を裁判で訴え、敗訴の末にシブシブ従ったという話も聞きました。また、自治体がごみを減らした量に応じてここから補助金が出されます。リサイクルを進めるほど自治体の負担が増える日本とは、経済的な動機付けがまったく違うことを感じました。

●燃やさなくても道はある。ごみ政策の転換を

ノバスコシアでも最終処分場へ埋め立てているものはまだありますが、セッセと分別して埋める量を減らしています。そして州内のごみ焼却炉はすべて閉鎖したとのこと、これには本当に驚きました。ノバスコシアの人々は「ローテク・ローリスク・ローコスト」、そして「ローカル」なごみ処理の道を選びました。日本とまさに対照的に思えますが、彼らも十数年前までは日本と同じ状況を抱えていたのです。住民自身が議論を経て変わっていったエネルギーが、政策を変える原動力となったことには、とても勇気づけられました。その選択が、環境と健康への負荷を減らし、雇用や経済の活性化も生み出したことを、彼らはたいへんに誇りとしています。

さて、日本です。世界の焼却炉の3分の2が日本にあると言われるほど、日本では多くのごみを燃やしています。そして日本の地方自治体は、廃棄物処理施設に出される国の補助金を当て込んで借入れを重ね、大規模設備に多額の予算をつぎ込んできました。しかし「三位一体改革」による補助金削減の流れの中で、自治体にはお金のかかる施設と借金だけが残されています。こんなことをいつまで続けるのでしょうか。ハイテク依存でハイリスク・ハイコスト、中央集権型で住民不在のごみ政策を、見直すべき時期にきているのではないでしょうか。

このページのトップに戻る


  「私と憲法」で~す。お話聞かせてくださ~い!

岩瀬房子さん(北区社会教育団体「いずみの会」世話人)
「十条」の街に民主主義を持ち込んだのは岩瀬さん

 北区のJR十条駅からは、いまでは東京23区で珍しくなった庶民的でにぎやかな商店街が続く。商店街のすぐ裏に、さながら平和や憲法などを案内するポスターの展示場のような長い塀のある家、そこに岩瀬房子さんが住んでいる。80歳を越えても、凛として美しく国政へもまた地域でも、日本国憲法を生かす暮らしを続けている岩瀬さん。そのエネルギーの原点は何なのか、いつかでも、日本国憲法を生かす暮らしを続けている岩瀬さん。そのエネルギーの原点は何なのか、いつか聞かせて頂きたいと思っていて、お訪ねしてみた。

子どもたちから学んだ命の大切さ

岩瀬さんは第二次大戦末期、当時の国民学校の引率教師として集団学童疎開に行っている。疎開先は長野県の戸倉温泉で旅館が宿舎だった。戦争末期になると、大本営の松代移転という情報と関係しているのか、毎晩B29が特有の低い轟音を響かせて飛んできた。宿舎には防空壕がない。岩瀬さんは預かった子どもたちを死なせることは出来ないと、12人の少女の頭を中心に放射状に寝かせて、上に蒲団をかぶせ、その上を岩瀬さんが覆うようにしながら「首を上げちゃだめよ」「起きるんじゃないよ」とものすごい言葉で叫びながら必死で守ったという。敗戦の知らせに「日本は戦争に負けてしまったの」と茫然として生徒に語った岩瀬さんだったが、子どもの第一声は「先生、おうちに帰れますよね」とはじけるような笑顔だった。岩瀬さんは「このときの子どもたちから学んだ命の大切さを忘れない」という。いま、岩瀬さんは国会議員へのロビー活動や国会周辺の行動などの時、折に触れてこの疎開の体験を参加者たちに語り続けている。

大学紛争を契機に市民大学へ

敗戦後の教師たちにとって、きびしい自己批判とともに新憲法と教育基本法は輝かしく、「再び教え子を戦場に送るまい」と決意した。その後、岩瀬さんは結婚し3人の子育て、お連れ合いの夜間診療所の開設などで、やむなく教職を離れることになる。子育てと診療所の手伝いなどで日々を過ごす中でも、岩瀬さんは平和と真実のために行動することを語り続けていた。

70年安保闘争と大学紛争の時期に、岩瀬さんはお嬢さんの大学紛争に直面した。学生の父母も集まり大学側と話し合ったが、最終的に機動隊が導入されて終わった。すでに前途有望な就職が決まっていたお嬢さんだったが、大学紛争に向き合い、その後は違った道を歩むことになった。このときの「真実と正義を貫く人間になれ、と教えてきたのはお母さんではなかったの」というお嬢さんの問いかけを機に、岩瀬さんは自らを省みて、「学びなおそう」と市川房枝さんの主宰する婦選会館の市民大学で学習を始めた。

市民大学では真剣な意見交換を重ね、憲法の人権思想はその背後に人類の長く苦難に満ちた闘いがあることを知った。さらに、そうした歴史を生かすことによって民主主義が日々形成されていくことを知った。また市川房枝さんに連れられて国政へも見聞を広げた。ちょうどそのころ岩瀬さんの住む地域にボーリング場の建設計画が持ちあがった。

「健康で文化的な生活を営む権利」を地域闘争で実現する

岩瀬さんのすむ住宅地に千坪ほどの規模のボーリング場が計画されたが、住民たちは「困った困った」というばかりでなすすべがない。岩瀬さんは説明会の会場で「私たちは毎日家族の健康と平和を願って静かに暮らしてきました。一企業が『健康で文化的な生活を営む権利』という憲法で保障されている権利を奪うことはできません」と発言してしまった。区議会はすでに建設に賛成している。岩瀬さんは住民の反対運動を憲法を生かす闘争と捉えた。

岩瀬さんはとうとう会の代表になり、地域の静かな住環境を守る闘いをすることになってしまった。2階建ての団結小屋を設け、毎日地域の人が詰めるというきびしい闘いだった。市川房枝さんや家族からも励まされ闘った。情報を集め、智恵も、人々のつながりも大切にした。約1年の闘いで勝利した。千坪の半分にはスーパーマーケットが建ち、残りは区立幼稚園と100坪の児童公園になった。一丸になって闘った人たちが「厭なことは我慢しなくてもいいってことがよく分かったわ」と笑った。岩瀬さんはこの地域の人たちが好きになり、人権意識に目覚めた人たちに尊敬の念を持つようになった。同時にこの地域で根を下ろしていこうと思うようになった。

右傾化に抗して地域で学び行動する「いずみの会」

1981年に地域の人たち数人と話し合い、「憲法を土台として、平和、教育、福祉、環境について学び行動する会」として「いずみの会」を発足させた。北区の生涯学習団体としても登録した。いつも本音で話そう、必ず発言しよう、聞くだけではだめ、というゆるやかな申し合わせで例会を続けた。新聞や読んだ本をテーマにしたり時には講師を招いた。

学習のために上映した映画会が好評で、無料の上映会は回を重ね市民権をえた。5月3日に行ったこともあるが、春と夏休みの上映会が定着した。今では黄色地でマンガ風のイラストが入った映画会のポスターは、町内会の掲示板やお風呂屋さん、個人宅に張り出されるほどだ。上映した映画は平和をテーマにしたものだが、10フィート運動の映画や『はだしのゲン』『おこりじぞう』など数えきれない。後日談になるが「いずみの会」が都立日比谷図書館の貸し出しフィルムを利用してきたことが、石原都政になって日比谷図書館が整理対処になった時に、存続するため役立った。

岩瀬さんはこの上映会について、「憲法21条は表現の自由を保障している。その方法の一つとして上映会は私たちにとって重要です」と位置付けている。

戦争への道を許さない北・板橋・豊島の女たちの会

同じ1981年、「戦争への道を許さない北・板橋・豊島の女たちの会」、略称「KITの会」も誕生した。中曽根内閣が発足し、戦争への危機感が増した時期に東京23区の北部に位置する3つの区の女性たちが集まり平和のために行動を始めた。月例会や集会、デモの中心に岩瀬さんがいた。陳情や傍聴、請願、ロビー活動にも取り組んだ。地方議会だけでなく国会へも行動を起こしていった。

こうした行動の中で岩瀬さんは仲間たちを地方議会に送り出すことに結びつけている。政策決定の場に女性を送り出すことは、市川房枝さんからしっかり学んだことでもある。

行動する主権者として

湾岸戦争の時期になると、PKO協力法など自衛隊の海外派兵が強行突破されようとしていた。この時期、岩瀬さんの国会への活動は実に精力的で市民的に展開される。国会前での座り込み、ねばり強く説得力のあるロビー活動、根気の要る傍聴、そしてビラやプラカードなどでの訴える方法も様々に工夫された。メディアには殆ど無視されたがPKO協力法が強行された徹夜国会には、連日市民が駆けつけ、院内の議員を激励し市民の声を届けた。この中にいつも岩瀬さんはいた。

佐川急便問題では国会前で48時間のハンストもした。小選挙区制に反対する行動にも、岩瀬さんは憲法の主権在民を実践する主権者として存在しつづけ、「行動する主権者の会」も発足させた。「主権在民」を、選挙の時に投票するだけの単なる主権者に終わらせてはない、という思いは強い。

「憲法12条が示すように、これは私たち国民に科せられた義務でもあると思う」と言う岩瀬さん。いま戦争体験を語りつぐことも重視して、憲法を暮らしに生かし平和に生きる行動を積み重ねている。(どい とみえ)

このページのトップに戻る


市民の力で日朝国交正常化実現を、日朝ピョンヤン宣言6周年集会

(高田健・9月13日 於:文京区民センター:発言原稿)

(1)本日の集会のチラシのタイトル、「市民の力で日朝国交正常化実現を」の同感し、関連して意見を述べたいと思います。

(2)本年5月4~6日、日本の各地4カ所で「9条世界会議」が開かれ、42カ国、地域から、150人あまりが参加し、のべ3万人が参加する画期的な成功を収めた。集会は「戦争を廃絶するための9条世界宣言」などを採択した。不戦非武装をうたう9条を掲げた、日本の憲法運動での初めての国際会議である。

(3)これは1999年の「21世紀の平和と正義のためのハーグアジェンダ」、2005年のGPPACの世界及び地域宣言、2006年の「バンクーバー平和アピール」、2007年の「暴力のない世界に向けたノーベル平和賞憲章」などの、さまざまな国際的平和文書に盛り込まれた提言を受け継ぐものであること。この運動は続いています。

(4)2008年7月16日、ソウルで分断政府樹立60周年を記念して「韓日平和シンポジウム」が開かれた。韓国の平和憲法市民連絡会が主催した者で、参与連帯、平和ネットワーク、アジアの平和と歴史教育連帯、韓国青年連合会、平和博物館建立推進委員会なあどの5つの市民団体と、日本側からいま発言した石坂さんとピースボートの川崎さん、それに私の3人が参加し、討論した。3年前の11・3憲法集会をソウルと東京で共同行動として行って以来の流れです。今年も平和憲法市民連絡会代表が参加して、11・3集会が開かれる。シンポジウムでは両国の憲法問題に関心を持つ市民団体が連帯して、平和のために持続的に共同していくことを確認した。

(5)東北アジアの非核・平和を実現するためには、日朝国交が出来ていないという不正常な緊張状態をなくすことがきわめて重要だ。本日の集会は「市民の力で日朝国交正常化早期実現を」と謳っている。まさにこの通りだと思う。これに値する「市民の力」をどのようにしてつくっていくのか、が私たちに課せられた課題だ。6カ国協議は政府間の協議である。市民社会は、これに対して、各国政府に市民の立場から要求を突きつけて闘って行くことはもとよりだが、それだけではなく、市民の立場からの東北アジアの広範な連帯をつくっていくことも大事なのではないか。清水さんから女性の6カ国協議が開かれたという報告を聞いたが、ピースボートや国際法律家協会がとりくんできたGPPACの運動はいわば「市民版6カ国協議」を形成する努力をしてきたもので、これは一つの野心的な試みだ。困難であっても、力を尽くして、東北アジアの市民の和解と連帯の運動をつくり出すことに挑戦すべきだと思う。

(6)憲法9条は東北アジア的なそうした国際メカニズムをつくりだす上で、有効な手段だ。9条世界会議を経て、国際的に市民社会の中で、そうした認識が獲得されつつある。それにもかかわらず、日本政府は9条の義務を果たしていない。逆に9条を破壊しようとしている。

(7)9条世界宣言が指摘したように「今日の日本の自衛隊は世界最大規模の軍隊の一つであり、米国は日本中に軍事基地を持っている。日米軍事協力がますます強化されるなか、日本の現実は憲法9条の精神からの乖離をいっそう深めている。日本によるアメリカへの全面的軍事支援を可能にさせるために憲法を改定しようという動きは、日本国内、アジア近隣地域、そして国際社会で不安をかき立てている。そればかりでなく、日本は近隣諸国への戦争責任を果たして折らず、和解は未だになされていない。東北アジアには不安定な冷戦構造がいまだに残されている」と指摘した。

(8)タレントの大田光君が「九条を世界遺産に」といってみたり、宮沢りえちゃんが「九条は大事」といったり、沢田研二君が「我が窮状」というパロディ風の歌をつくったことにみられるように、九条の世論は、市民運動家が思っている以上に、この国で底力がある。この力と結びつき、日朝国交を実現し、東北アジアの平和を実現していく力量を作り出すために、われわれの運動も奮闘・飛躍が求められているのではないか。

このページのトップに戻る
「私と憲法」のトップページに戻る