(1)
日本国憲法公布61周年の11月3日、東京・日比谷野外音楽堂で「武力で平和はつくれない!11・3市民集会」は4000人の参加者で開かれた。集会には2005年以来、恒例になった改憲反対での日本と韓国の民衆の連帯を確認して韓国・平和ネットワークのイジュンキュさんも挨拶した。この市民集会は、「武力で平和はつくれない、人権と民主主義の憲法理念実現をめざす第44回護憲大会」の実行委員会と、私たちの市民連絡会を含む「憲法共同会議」の共催によるものだった。参加者は集会のあと、銀座をデモ行進したが、そのシュプレヒコールには「武力で平和はつくれない」「解釈改憲にも明文改憲にも反対」というのがあり、たいへん時宜に適したものだと思った。
(2)
改憲派の期待を一身に担って登場した安部晋三首相は、わずか1年で政権を放り投げてしまった。この事件は安部政権を下支えしてきた盟友、「日本会議」などの極右・改憲派にとってはたいへんショックだった。
安部のブレーンの一人、岡崎久彦(外交評論家)は「『反動の時代』が来る」と叫び、桜井よしこ(ジャーナリスト)は「『戦後』のもろさを体現、政治の混迷は当面続く」と言い、屋山太郎(政治評論家)は「(改憲のために撃った)『大砲』、どこに着弾するか」と嘆息した(いずれも「毎日新聞」9月18日夕刊)。極右・日本会議機関誌「日本の息吹」11月号では、大原康男日本会議政策委員会代表が「保守派の国民運動には、冬の時代、逆風の時代が到来した」(日本会議と日本会議議員懇談会設立10周年記念大会)と嘆いた。極右改憲派にとっての逆風の時代が始まったという認識なのだ。
この右派の認識には一定の根拠がある。「自らの任期中の明文改憲の実現」を掲げて、1年の間に立て続けに教育基本法改悪、米軍再編関連法の強行、イラク特措法の延長、防衛庁の省昇格と海外派兵の本来任務化(国の防衛の本務と対等な任務)、改憲手続法の成立など、悪法群を強行採決に継ぐ強行採決で押し切った。まさにこの1年は「政治的反動期」だった。しかし、この強行が安部内閣の無残な崩壊を招いたひとつの要因になった。民衆は安部の政治手法にあやうさを感じ、参院選で野党を勝利させたのだ。
安部内閣の退陣は90年代から続いてきた明文改憲反対のたたかいの勝利の画期的なメルクマールとなった。
(3)
この安部政権の崩壊の結果、登場した福田康夫内閣は国会の「衆参ねじれ状況」を反映して、政権を維持するために「背水の陣」で、強権政治に終始した安部とは反対に「低姿勢」の形をとり、「野党との対話」を掲げざるを得ない立場にある。例の小沢民主党代表との「連立騒動」もその一環だ。戦後の日本政治をほとんど一貫して担ってきたわが国の保守政治勢力には、政権への執念とそのためにはあらゆる手段を駆使するしぶとさがある。それをもって彼らは幾度も見舞われてきた政府危機と政治危機を乗り切ってきた。「解釈改憲」や、「連立」「政治再編」などはその代表的な手段だった。
福田康夫が自民党の新憲法草案作成の過程において、安全保障部分(9条部分)を担当した小委員長であったことは周知のことだ。また福田首相が自民党綱領にうたわれる明文改憲という党是を捨てていないことも事実だ。ゆえに私たちは論者の一部にある「福田=ハト派論」には与(くみ)しない。しかし、当面、福田内閣は安部晋三のように明文改憲を喫緊の課題として掲げることはない。安部も福田も同じだという「本質論」で切って捨ててことたれりとするドグマ主義にも与することはできない。
9条改憲は米国と日本財界による逃れ得ない要求だ。
安部は「解釈改憲はほぼ限界にきた」として、一方で目前には集団的自衛権行使のギリギリのところを実現するために安保法制懇(有識者懇)を設置して、歴代自民党内閣の憲法解釈の見直しに着手し、一方で任期中の5年以内に明文改憲を実現する作業に取りかかろうとしたが、いずれも失敗した。
福田は安保法制懇のような、歴代政権の憲法についての論理の基盤を壊すような乱暴なやり方はとりたくないはずだ。
福田内閣はこの両立困難な課題を進めなくてはならないというジレンマに直面している。福田内閣は当面、暫定内閣的な出自の自らの内閣を、如何にして長期政権化し、野党に政権を奪われないですむための道を模索せざるを得ない。そのために、憲法問題では明文改憲を戦略的視点で位置づけながらも、当面は解釈改憲的政策のギリギリの模索によって米国と財界の要求に応えようとするだろう。今国会の最大の課題であるインド洋派兵・給油新法案はそうした選択だし、小沢代表との間で語られたという「連立政権による憲法解釈の変更の可能性」もそうした文脈上にある。
(4)
当面する福田内閣のもとでの私たちのたたかいは、安部内閣とのたたかいよりも、より複雑になっている。
表現は語弊があるかもしれないが硬直した「オオカミ少年」的な運動の手法では人々の空気にマッチしないのではないか。解釈改憲の様々な現れに反対するたたかいで、私たちはもっともっと運動の進め方について熟達する必要がある。「思考の怠け者」になってはならない。
この間、私たちの「市民憲法講座」が数年にわたって追求してきた「9条と25条」「9条と24条」「9条と20条」などなど、より豊かな憲法運動の形成が求められているのではないだろうか。そのなかで9条をはじめとする憲法改悪に反対し、解釈改憲を阻止し、憲法を実現する運動が必要になってくる。これはこの間、私たちが提唱してきた「9条改憲阻止のもっとも広範なネットワークの形成」を支えるものであり、二層の陣形の形成だ。
また来年の「9条世界会議」を契機に、より本格的に国際的な視野で「9条を世界に、そして世界から」というキャンペーンも必要になっている。そうした運動がすでに始まっている。
確信をもって、明文改憲にも、解釈改憲にも反対する、より壮大な、より豊かな改憲反対運動をつくりだそう。(事務局 高田健)
内田雅敏さん(弁護士・市民連絡会事務局長)
(編集部註)10月27の講座で内田さんが講演した内容を編集部の責任で大幅に要約したもの。要約の文責は全て本誌編集部にあります。
かねてより私は、靖国問題と安全保障、憲法9条と憲法20条の連動を考えており、来年3月7日には日弁連で靖国問題を通して日本の安全保障を考えるという題でシンポジウムをやる予定です。
このシンポジウムには岩淵宣輝さんという方に来てもらいます。この方は岩手県の一関にいて、父親がニューギニアで亡くなって、戦後遺族会青年部の活動をやってこられた方です。けれど、遺骨を放置したまま「魂を祀っているからそれでいいじゃないか」というようなやり方を批判して、現在では独自にニューギニア等に行って遺骨を収集し、一関に平和祈念館みたいなものをつくっている方です。靖国問題といえば、かつて日本の植民地下の台湾、朝鮮の問題があるので在日の方を人選しています。靖国問題というと政教分離原則はすぐ出てきます。日本の憲法が厳格な政教分離原則を設けたのはやはり国家が神道を利用して、天皇制、祭政一致国家をつくって国民を戦争に駆り立てた反省から来ているわけです。ヨーロッパではフランスも政教分離原則は強い地域ですが、フランスの場合は国家が宗教を利用したんじゃなく、宗教が国家を占拠したことで逆なわけですね。
靖国神社といいますと、毎年8月15日前後が騒がしくなります。7月のお盆の時には「みたままつり」があって、これが現在の靖国神社では一番賑やかな行事になっています。
実はこれらはすべて戦前まったくなかった。8月15日は戦前なかったことはわかりますけど、みたままつりも実はお盆にこと寄せてお祭りをして、それが成功したんですが、靖国神社の行事としては春秋の例大祭が一番メインの行事です。先日、秋の例大祭があり、初日の夜7時から霊璽奉安祭がありました。これは合祀祭です。靖国神社では魂を呼び寄せる“招魂の儀式”と、呼び寄せた魂を合祀する“合祀の儀式”があります。魂については、これは1945年12月のGHQによる廃止、中止を命じられるんじゃないかという恐怖感の中で、1945年11月に全部の魂を呼び寄せてしまったんです。どれだけの数の魂かもわからない、誰の魂かもわからない、「死んだ人みんな集まってください」という儀式をやってしまった。招魂場はもう招魂する必要がないから駐車場になっている。そして招魂した人たちはわかった順番に合祀していく。ずっとその後も合祀をしておりまして、実は今年も合祀があったんです。
10月17日に合祀祭があるんではないかということで、夜7時に行ってみたら中に入れたんです。かがり火が焚かれて、そのかがり火をボーイスカウトの連中が守っている。ただ、いる人はぱらぱらです。最初は後ろの方で見ていたけれど、最後は賽銭箱のところまで行ってかぶりつきで見ていました。7時にはかがり火がほぼ消える状態になり、電灯の明かりは薄くついている。社務所のところから、あの白い装束、神道の神官の衣装で何かを持っていて木靴を履いてぽかぽかと禰宜(ねぎ)が24人出てきた。それが本殿の方に入っていく。本殿には遺族が11人いて、介助する人もいるので、おそらく5人くらいの合祀があったんでしょうかね。関係者なのかわかりませんでしたが、賽銭箱の手前に10人くらいの人がいた。何かうなり声みたいなのがあって、約30分たって7時半になると一番の頂点ですかね、明かりが全部消えました。
そこで音楽が流れて、これは生じゃなくてCDだと思うけれど、この曲がわからなくて近くの神官に聞くと、「くにの鎮め」じゃないですか、というんです。あとで調べて教えますということで、翌日の電話では「水漬く屍」だというんです。
その曲が流れて真っ暗な中で(周辺、神社の境内の明かりは点いていますけれど)「ぅおおー」といううなり声が聞こえる。そういう状態がしばらく続いて、そして明かりがまた点いた。今度は若干明るい曲(これは「山の幸」という曲らしい)が流れて、最後は「靖国神社の歌」というのがあるらしくそれが流れ、終わった段階で遺族を奥の方に連れて行く。そうすると御羽車という小さなかごがあって、そこに霊璽簿が入っていてそれを持って行くという儀式はなかったんです。もう中に魂が入っているからかな。御羽車、遊就館に行くと“魂を箱に入れたときと帰ってくるときと重さが違うと感じた”とか書いてありますね。運ぶときは魂が入っているから重くて、帰ってくるときは入っていないから軽いとか。だいたい1時間くらいそういう儀式をやっているんですね。
いまだに「海ゆかば」(確認しなくてはいけませんが)、「くにの鎮め」、そういう曲を流して、同じような儀式をやっているんですよ。
ですから靖国神社には1945年8月15日はない。これは8月15日の前と後と同じことをやっている。靖国神社が他の神社と違うということだと思います。小泉が「伊勢神宮に行っても文句を言われないのに何で靖国神社に行くと文句を言われるんだ」と言った。伊勢神宮には総理大臣の時に村山さんまで行った。それは憲法上の厳密な意味で言えば靖国神社に行くのも伊勢神宮に行くのも、憲法違反、政教分離原則違反です。
ただ靖国神社は国家が靖国神社という施設、装置を使って戦争に駆り立てたところから反省という歴史認識によって憲法20条があることからすれば、伊勢神宮に行くのと靖国神社に行くのとは違いますよ、というのは当然です。本来、靖国神社は日本の敗戦によって解体されるべき存在であったんです。
ご承知のようにポツダム宣言の受諾によって日本の軍国主義の解体、日本の民主化があって、相次いで民主化指令があった。例えば教育改革、教育勅語は廃止決議、財閥解体、農地解放、こういう一連の戦後改革があって、本来靖国神社は解体の対象だった。現にGHQ内部には靖国神社を爆破という意見もあったらしいです。ところがそのポツダム宣言自体が、第10項の中で政教分離原則、信教の自由を保障していた。その政教分離原則によって逆に靖国神社を解体することが出来なくなったというジレンマがあるんですね。GHQは日本の特高警察の解体とか公職追放とかをやっていて靖国神社の実態についてはあまり当初の段階では知らなかった。それで一連の戦後改革の指令が終わって、実態を知った時点ではもう戦後改革の流れが変わってきている。1948年、1949年くらいから変わるわけです。しかも他方ではポツダム宣言の中の信教の自由によって、逆に靖国神社を解体することが出来なくなってしまった。
ですから靖国神社は実を言うと日本国憲法によって生き延びることが出来た。その靖国神社が日本国憲法に反する活動をしていることをおさえておかなくてはいけないと思います。
問題なのは靖国神社が戦前も戦後も連続性を持っていることです。戦前は陸軍省、海軍省の所管の宗教的な軍事施設であった。しかし戦後は一宗教法人として生き延びることが出来て、国家とはいちおう切断されることになった。戦前は、国家は靖国神社という装置を使って死者を慰霊するというよりも顕彰する、そしてさらなる「英霊」を再生産する場所だった。ところが国家は戦後そういう行為をすることが出来なくたった。出来なくなったところへ今度は靖国神社が一宗教法人という隠れ蓑をつかって国家に代わって「英霊の顕彰」事業を行った。ですから英霊の顕彰作業はいつでも行っている。そしてある時期までは天皇も行った、勅使も毎年来るということで、政教分離原則のもとで国家と分業の作業をしている。
いわばこれは国家との密約があったということですね。国家がやっていたことを宗教法人である靖国神社が、一宗教法人に仮装して英霊の顕彰作業を引き続き行っている。そういう国家の密約を確認するために天皇の参拝があり、勅使が来る、内閣総理大臣が参拝する、あるいはみんなで行けば怖くないのか知らないけれども、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会とかそういうことが行われている。まさにこの密約を確認する作業だということです。
靖国神社は神社だけでは英霊の顕彰作業を行うことは出来ません。誰を祀るか、誰を合祀するか、これは国家からの協力がなければ祀ることは出来ません。どこのどういう人が亡くなっているかなんてわからんわけでしょ。靖国神社にそんなことを調べる「足」がないから。それをやっているのが当時の厚生省の引き揚げ援護局だった。この引き揚げ援護局にいた人物は、旧陸海軍の軍人たちがそのまま横すべりで行っている。旧厚生省の引き揚げ援護局という特別な部署が、靖国神社と連携して戦前からの英霊の顕彰行為を引き続き行っているということです。引き揚げ援護局は死者の名簿を送る。それに基づいて靖国神社は合祀する。これは明らかに政教分離原則違反です。ところが厚生省は「いや、こちらは名簿を送っているだけですよ。それを合祀するかどうかは、靖国神社のすることであって、政府が合祀をするわけではない」と言い逃れをしている。
この旧厚生省の引き揚げ援護局に美山要三という、最後は援護局次長までやった人ですが、これは陸軍大佐で、敗戦の直前の4月にフィリピン派遣軍の参謀から呼び寄せられて陸軍大臣の副官になり、靖国神社を日本の敗戦後にどうするかを検討し、担うわけです。この美山要三・元陸軍大佐、元陸軍大臣副官が、戦後の厚生省引き揚げ援護局で重要な役割を果たすということであったわけです。
さきほど岩淵さんの話をしました。遺骨がいまだに太平洋の島々で、あるいは中国大陸で、北方の島々にそのままになっている。そういうのを収集しなくても、「魂が来ているから、魂を祀っているから、だからいいんですよ」というのが靖国神社の考え方です。つまり死者を非常に軽んじる、そういうことを支えるものとして靖国神社の魂を祀ることがあるわけですね。この魂を祀るというのは、一括して数も名前もわからずに全部呼び寄せたということです。その中に生存者がいた、生存者が抗議したら「いや、あなたは、あるいはあなたのお父さんは、魂として呼び寄せられていなかったから大丈夫ですよ」と、「もともとここに招かれていなかった、名前が書かれていたのは間違いだから、それを削除しましたから、だからもう大丈夫ですよ」という、こういうむちゃくちゃな神社ですよ。
実は私も靖国神社について、そんなに前から関心を持っていたわけではありません。遊就館に行ったのもごく最近で、あんなにひどいところだとは思わなかった。
今年の夏に学生を連れて行ったところ、上海の留学生が「ここは悪魔がいるところです」と言う。やっぱり中国からすればそうですかね。彼女は靖国神社を観た後の感想で、冒頭に、人間というのは亡くなるときに急に昔のことをバーと思い出して、ものすごく印象に残ったことをうわごとのようにしゃべって死ぬものだ、と言っていた自分のおじいさんが亡くなる前に「何をしているんだ、みんな。日本軍が押し寄せて来るじゃないか。早く逃げなくちゃ」と言って死んだと書いている。私はびっくりしました。やっぱり私自身としては、被害者の痛みは加害者にはわからない、ということを言葉では理解していても、こういうことをレポートの冒頭に書く学生がいる。やはりこれは加害者と被害者の違いは歴然としているなと思った。靖国神社に連れて行き、いろいろ説明をしました。ここはこう書いてある、これはこうだといっていたら一般の参観者も聞いておりまして、うなずいている人もいれば反感を持つような人もいました。
とにかく靖国神社に行きますと、日本は戦争に勝ったんじゃないかという錯覚を持つような神社ですね。ビデオで、中国大陸に日本軍が侵略していった当時のニュース映画がそのまま流れています。“天に代わりて不義を討つ”とか“敵中国人を……”というのをそのまま流して、中国人や朝鮮人が来て何と思うかを考えないんでしょうかね。日本人でも恥ずかしく思うような戦時中のニュース映画です。それで、あの戦争はルーズベルトとスターリンの陰謀だとして、ルーズベルトとヒトラーとスターリンを並べて書いていた。「いた」というのは、それに対してアメリカから抗議が出たら、ルーズベルトの陰謀というところだけ変えた。つまりアメリカから抗議があるとその部分は変える、しかし中国からの抗議、朝鮮・韓国からの抗議、にはまったく耳を貸さない。そしてあそこの展示は空襲の被害、原爆の被害という写真は、原爆はちょっと記述が年表の中にあるだけで、一切そういうものがない。
あの中に宇垣纏という海軍中将の写真が大きく展示してあります。1945年8月15日の夕刻、つまり天皇の録音放送、世間では「玉音放送」というらしいですが、録音放送ですよね。録音放送によって日本は敗戦を受け入れた。その日の夕刻に宇垣纏が九州の海軍航空隊の基地から「彗星」という飛行機11機に乗って沖縄方面に向かって「出撃」する。「彗星」は2人乗りですから、宇垣が22人とともに沖縄に向けて出撃した。3機は不時着して、8機16人、そして宇垣が死ぬ。まさに自分の自殺に、生き残っていたならば戦後日本の再建に与したであろう若者を殺してしまった。宇垣の「出撃」の時の隊長を務めた中津留大尉の父親は戦後こう語ったといわれております。
「私にとっては、たった一人きりの息子でしたからなあ。/軍の方でもその点を考えてくれるじゃろうち思うちょりましたが。/やっぱあ非情なもんですな、そこまでは考えてくれんじゃったですなあ。/とうとう特攻に連れて行ってしもうてですなあ。/それも戦争が終わった放送の後でっしょうが。/宇垣さんは部下を私兵化して連れて行ったわけですわ。/私はそのことで、ずぅっと宇垣さんを怨み続けてきましたわ。/戦後しばらくは、その事を考えると気が狂うごとありましたもんな」。
宇垣の行為は海軍刑法第31条「指揮官、休戦又ハ講和ノ告知ヲ受ケタル後、故ナク戦闘ヲ為シタルトキハ死刑ニ処ス」に違反する行為です。しかし彼の行為は敗戦のどさくさの中で処罰されることはなかった。この宇垣の「出撃」を聞いたときに小沢海軍総司令官は「玉音放送で大命を承知しながら、私情で部下を道連れにするとは以てのほか、自決するなら一人でやれ」と口をきわめて難詰したと言われておるわけです。
この宇垣は、驚くべきことに「出撃」に際して自分の司令長官の部屋に遺書を残しているんですが、なんとその遺書には「海軍大将」と書いた。つまり自分、海軍中将は「私兵特攻」して、自ら「大将」に「昇進」させて遺書を書いた。こういうむちゃくちゃな人物が日本の軍隊の指導者だったわけです。この宇垣が靖国神社の遊就館に写真が飾られている。その写真には宇垣が「私兵特攻」した記載は一切なく、彼が階級章をとって、その飛行機に乗り込む大きい写真が掲示されているだけです。ここにあの遊就館の展示の本質が現れていると私は思います。
今年夏にNHKで日本軍兵士の戦争の体験についての番組をかなりやっていました。あれは一様にいい番組だったと思うけれど、ほとんどが本当に餓死ですよね。中国大陸でも歩きながら眠ったという証言等がありました。歩きながら眠って戦争なんか出来るはずがないです。そういう具合に日本の軍隊は生命を軽んじていた。戦争中の「敵」の兵隊や住民に対する虐殺があったけれど、自国の軍隊に対しても生命を軽んじている。生命を軽んじている軍隊だったからいまだに遺骨が野ざらしにされている。それを言い訳するために「魂を祀っているからいいじゃないですか」となっているのが靖国神社です。
靖国神社に行きますと遊就館に「私達の靖国神社」というパンフレットが置いてあります。そこでは「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには、悲しいことですが外国との戦いも何度か起こったのです。明治時代には『日清戦争』『日露戦争』、大正時代には『第一次世界大戦』、昭和になっては『満州事変』、『支那事変』そして『大東亜戦争(第二次世界大戦)』が起こりました。戦争は本当に悲しいでき事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです。こういう事変や戦争に尊い命をささげられた、たくさんの方々が靖国神社の神様として祀られています。…また、大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。さらに戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた1068人の方々、靖国神社ではこれらの方々を『昭和受難者』とお呼びしていますが、すべて神様としてお祀りされています」と言っています。
自民党の見解でも日米戦争については、これは自衛戦争である、しかし日中戦争については、侵略的なものであったとしています。日本政府の見解は1995年の戦後50年の国会決議、そしてやや後退しましたけれどもこれを受けた2005年の戦後60年の決議でも、日本の近現代史における植民地支配と、そして戦争の問題については侵略的なものであったと認めています。そうすると、この靖国神社の日本の近現代史における戦争、植民地支配はすべて正しいものであったとする見解はきわめて特異な歴史認識であるわけです。
こういう特異な歴史認識を持つところにですよ、総理大臣が行く、あるいは天皇が行く、天皇の勅使を派遣する、閣僚が行く、国会議員が行く、これは明確に憲法違反ではないですか。憲法20条違反であることはもちろんのこと、9条違反ではないですか。靖国神社がこういう歴史認識であることについて、なかなか知られていない。こういう歴史認識を有する靖国神社に外国から来る人がお参りできるわけがないんです。
沖縄サミットの時にクリントンは平和の礎に参拝しました。いろいろ意見もありますけれど。でもアメリカの大統領が来て靖国神社に参拝したことはありません。ヨーロッパから来た首脳もそうです。外国の元首、賓客がきても靖国神社には誰もいっておりません。ただアルゼンチンの大統領か誰かが来たときに行ったことがあるらしいんですけれど、それは知らなかったんでしょうね、おそらく。だってこういう歴史認識をもつところに参拝なんか出来るはずがない。そういうことをやっぱりみんなにもっともっと知らせなきゃいけない。
小泉が「国のために死んだ人を祀ることはどこの国でもやっているじゃないか。何でそんなに非難されなくちゃいけないんだ」という俗耳に入りやすい、まさにワンフレーズの言葉を言った。みんな「そうだ、そうだ」「アメリカだってアーリントンがあるじゃないか」とかいろんな事を日本国内で言った。
しかし靖国神社は天皇の軍隊だけを祀っている、しかもあそこは「神様」だよ。みんな「なんとかの命(みこと)」なんですよ。「なんとかの命」で喜んでいる人は別にいいけれど、「そんな、私は『なんとかの命』なんかにされたくない」という人、かつての植民地の人たちは創氏改名でそのままの名前で祀られている。「そんなことはやめてくれ」というのは当然じゃないですかね。そうすると靖国神社は「いや、あなた方はあなた方でお父さんを祀ればいいんですよ。それは別に妨害しません。別に靖国神社をお参りしたくなければお参りしなくてもいいですよ」と。だけど「そんな気持ちの悪いことはやめてくれ」というのは、これは当然あると思うんです。
まして靖国神社は植民地支配を支える道具だった。そこで自分の父親が植民地支配の名前のままで祀られているというのはやめてくれというのは、これは法的な救済を受ける権利があると私は思うんです。こういう靖国神社の見解を、安倍晋三とかが、国連の場においてあるいは南京において北京においてマニラにおいて、彼らは言うことが出来るか。
2005年に戦争終結60周年、ヨーロッパにおいては5月8日に式典がありました。あの式典に当時の連合国の首脳と並んで敗戦国であったドイツのシュレーダー首相の姿がありました。5月9日にはロシアの赤の広場で式典があってそこにもシュレーダー首相の姿がありました。シュレーダー首相は2004年のノルマンディー上陸60周年の記念式典があったときに、初めて参加しているんですよ。当時のフランスのシラク大統領が、この式典にはドイツのシュレーダー首相も呼んだ方がいいと進言した。あの戦争当時、フランスのレジスタンスの幹部だった彼は、われわれはドイツと戦争をしたわけじゃない、ナチスと戦ったんだ。そして1945年5月8日はヨーロッパの、フランスだけではなくてドイツ国民も解放された、と言ったといわれています。
ドイツがこういうことを言われて式典に招かれるまでにはどういう紆余曲折を経ていたか、ナチスの戦争責任を追及し、そして戦後補償を実現してきている。もちろん不十分性はあるけれど、かつての同盟国である日本の戦後の有り様を考えれば、はるかに過去と向き合う姿勢を持ってきたからこそ、かつてのレジスタンスの首脳がノルマンディー上陸60周年記念式典にドイツの首相も呼んだ方がいいと言い、そして5月8日にもドイツの首相が呼ばれる。
小泉は5月9日にモスクワの赤の広場で献花をしたそうですけれど、彼は献花をした意味がわかっているのか。小泉は昨年の8月15日に靖国神社に行ったけれど、靖国神社に行くんじゃなくて廬溝橋に、あるいは南京に行くべきだ。この12月23日に福田が訪中したならば、南京に行ったらどうかと言われているらしいけれど、そういうことをすべきです。
あの中曽根ですら、1985年8月15日に靖国参拝を批判されると、英霊もアジアから孤立するのを望んでいないと言って翌年からやめた。中曽根の1985年の国連演説があります。
「1945年6月26日、国連憲章がサンフランシスコで署名されたとき、日本は、ただ一国で40以上の国を相手として、絶望的な戦争をたたかってきました。そして、戦争終結後、我々日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にもまた自国民にも多大な惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました。日本国民は、祖国再建に取り組むに当たって、我が国固有の伝統と文化を尊重しつつ、人類にとって普遍的な基本価値、すなわち、平和と自由、民主主義と人道主義を至高の価値とする国是を定め、そのための憲法を制定しました。我が国は、平和国家をめざして専守防衛に徹し、二度と再び軍事大国にならないことを内外に宣明したのであります。戦争と原爆の悲惨さを身をもって体験した国民として、軍国主義の復活は永遠にありえないことであります。この我が国の国是は、国連憲章にかかげる目的や原則と、完全に一致しております。/そして戦後11年を経た1958年12月、我が国は、80番目の加盟国として皆さんの仲間入りをし、ようやくこの国連ビル前に日章旗が翻ったのであります。/議長!/国連加盟以来、我が国外交は、その基本の一つに国連中心主義をかかげ、世界の平和と繁栄の実現の中に自らの平和と繁栄を求めるべく努力してまいりました。その具体的実践は、次の三つに要約することができましょう。/その第一は、世界の平和維持と軍縮の推進、特に核兵器の地球上からの追放への努力であります。/日本人は、地球上で初めて広島・長崎の原爆の被害を受けた国として、核兵器の廃絶を訴えつづけてまいりました。核エネルギーは平和目的のみに利用されるべきであり、破壊のための手段に供されてはなりません。核保有国は、核追放を求める全世界の悲痛な合唱に謙虚に耳を傾けるべきであります。とりわけ、米ソ両国の指導者の責任は実に重いと言わざるをえません。両国指導者は、地球上の全人類・全生物の命を絶ち、かけがえのないこの地球を死の天体と化しうる両国の核兵器を、適正な均衡を維持しつつ思い切って大幅にレベルダウンし、遂に廃絶せしむべき進路を、地球上の全人類に明示すべきであります」。
これを中曽根は1985年8月15日の靖国の参拝をしたあと10月にやったわけで、土井たか子さんが演説をしても別に違和感はないですよね。
つまり国内でやっていることと国際的な舞台で言っていることの違い、ダブルスタンダードです。しかもさかんに国連中心主義とか日本国憲法とか言っている。この間中曽根は、自民党の改憲のイデオローグとして明治憲法は欽定憲法である、日本国憲法は占領憲法である、だから新しい憲法をつくろう、そして国連は古い、とさかんに言っていた。しかし彼は国連で日本国憲法は国是として、国連憲章に合致している。そして軍縮と核兵器廃絶を言っている。
しかしいまの日本の流れは、まさにアーミテージリポートがいっているように日本は軍事にもっとお金を使うべきだ、日本の財界は武器輸出禁止3原則を撤廃すべきだ、非核3原則も見直すべきだ、と変わってきているわけです。外で言っていることを国内においても実践しなくてはいけない。この中曽根の発言からすれば自民党の新憲法草案なんてとんでもない内容です。自民党の新憲法草案の中で「愛」という文言を削除している。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。これを削除したのは、あまりにも他力本願主義だからという。しかしこれは他力本願主義ではなく、日本国憲法の戦争の放棄を実現するものとしてまさに国連中心主義をいったわけです。そしてこの「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という条項を削除するということは、日本が国連中心主義から二国間主義、つまりアメリカとの関係、従属関係の強化を意味しているわけです。
そして「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」ということも削除している。これは日本国憲法の「出自」、まさにあの15年戦争を経て日本が平和国家として世界の一員として仲間に入れてもらうためにこの平和憲法をつくったという、その出自を削除している。さらに「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」という平和的生存権も削除している。
平和的生存権といえば、日本国憲法が、その当時起草者が意図していたかどうかは別として、南北問題を見据えてまさに21世紀における一番重要な問題である南北問題、貧困、これをなくすことが暴力の連鎖、テロをなくすという、まさに日本国憲法の根幹にある全世界の人々に対する「愛」の言葉です。一方で、愛国心とかいう偏狭な日本国内でのみ通用する愛国心教育をしながら、他方で全世界の人々に対する愛という言葉を抜き、平和的生存権を削除するのが、いまの自民党の新憲法草案の流れですね。こういう流れと1985年の中曽根演説、こういう素晴らしい演説をしていたんだということをもっともっといわなくちゃいけない。
安倍はこけたけれど、あの「美しい国」という本の中で、「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、なんといって、散っていったのだろうか。(中略)/今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命のうえに成り立っている。だが、戦後生まれのわたしたちは、彼らにどうむきあってきただろうか。国家のためにすすんで身を投じた人たちにたいし、尊崇の念をあらわしてきただろうか。/たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか。…」に一番腹が立った。私的な世界で、親が子どもを守るためにいのちを投げ出すことはあるかもしれない。しかし公的な世界で、政治家が国民にむかって言うべき言葉じゃない。国のためにいのちを投げ出すことをもう言わない社会をつくるのが62年前の、この国の再出発の誓いではなかったか。安倍みたいなやつにこんなことを言われたくない。高校生の近現代史の履修漏れがあったけれど、安倍こそ履修漏れじゃないかと私はそのとき思ったんですよ。病気になってやめましたけど、恥をかいたですね、こんなことを書いて。
この夏に石原慎太郎が総監督で特攻の映画がありました。あの中で岸恵子が最後に「あんひとらのおかげでこの日本がある」と言うわけです。特攻隊の人々の犠牲によって日本の戦後はあるという特攻隊神話はあるんです。知覧のパンフレットでも書いています。「『完全ナル飛行機ニテ出撃致シタイ』とはどういうことでしょう。特攻機のほとんどはおんぼろで250キロの爆弾を積むと、やっと離陸できる仕末だったとか。なかには木製でジュラルミン張りの機もあったり、ノモンハン事件(昭和14年)のとき使用した旧式のおんぼろもあったとか。/私は昭和20年6月8日、知覧基地跡の真ん中あたりに積み重ねてある残骸の中に、素人眼にもわかる、木製でジュラルミン張りの機を見ました。そのとき私は怒りをおぼえるとともに、勇士の心が思いやられ、涙が出てしようがありませんでした。戦争末期には、もう完全な飛行機をつくる力は、日本にはなかったのです。…。」
撃ち落されることがわかっていながら、国体護持のために、本土決戦のための時間稼ぎでもっぱら陸軍兵学校、海軍士官学校の職業軍人ではなくて、学生あるいは少年出身の人たちを少尉として将校にして、飛行機に乗せてとばした。特攻死をした少尉以上の士官769名中85%、658名が飛行予備学生の生徒だったという記録があります。昔、「学徒出陣」という本の中で、酒に酔っぱらった学徒兵が明日特攻出陣するときに海軍兵学校出身者がいる宿舎にビール瓶を投げ込んで「アナポリ出てこい。沖縄で戦争をやっているのは俺たち学生だけじゃないか」とこういうふうなことを言った記述を見て驚いたことがあります。「アナポリ」というのはアメリカの海軍兵学校がメリーランド州アナポリスあることから海軍兵学校出身者のことをこういっていました。
特攻出撃で米軍の進撃速度が鈍ったかどうか知りませんけれど、その間に空襲で日本国内が灰燼に帰した。東京は大空襲で10万人が死んだ。広島・長崎で原爆で死んだ。そして混乱なく戦争集結をすることができた。こういう連中が戦争をやっていた。天皇は平和主義者だというけれど、1945年の2月10日でしたか、吉田茂が起案したといわれる近衛上奏文が「もう戦争は負けです。このままやっていたら革命が起きるかもしれない」というのに対して「もう一回どこかで勝ってみなければ、戦争をやめることはできない」といったわけでしょ。その間に沖縄戦があり、沖縄戦の特攻出撃がどれだけあったか。ひどいもんですよ、本当に。
あの戦艦大和は世界でも軍事上でもまれにみる愚策です。1945年12月8日の真珠湾の攻撃あるいはマレー沖海戦で「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レパルス」の2つの軍艦を日本の海軍機が沈めています。もう飛行機と軍艦の戦闘の場合どうなるかわかっている。ところが沖縄の特攻出撃のときは海軍機、航空機だけの計画だったのに対して、天皇が「出撃するのは航空機だけなのか」と言った。そうしたら及川軍令部総長が「全海軍を挙げて突撃します」といっちゃった。その結果戦艦大和ほかが出撃した。そして一方的な攻撃を受けて、約4,000人弱が亡くなった。まさに特攻出撃です。
宇垣纏は自分の戦陣録でこの特攻出撃について批判をしている。こういう無謀な出撃をさせた。聞くところによると天皇が何かを言ったからやったらしいけれどもっとほかに活用すべきところがあったんじゃないか。聞くところによると海軍の航空部隊の責任者が戦艦大和のような油を食うやっかいなものをこの機会に処理してしまえというような考えもあったかのようなことを宇垣はいっている。そして航空部隊の責任者は厄介払いができた。戦艦大和がまだ残っていたら、まだ連合艦隊が健在じゃないか、何で戦争に負けたんだということになるといけないから戦艦大和も沈めてしまった。戦艦大和は小さな船を一隻沈めたかどうかわかりませんけれども、油ばっかり食ってまったく何の役にも立たなかった。特攻隊の犠牲があったからこの日本の戦後があったということについては、決してそうではない。
小沢郁郎さんの「つらい真実-虚構の特攻隊神話」という本があります。「死者に対する遺族・関係者の悲しみは深い。若者たちが、みずから進んで、満足裡に死んだとは、遺族のほとんどが思いたいであろう。その遺族らのかなしさに乗じて、多くの若者にムダ死を強いた者が、強制の事実なしとし、虚像の美化を自己正当化の根拠とし、はては自分の慰霊の姿のPRまでを要望する。ここには、絶望的なまでの腐臭がただよっている。若者たちの献身が純粋で美しくあればあるほど、その若者たちの生も死も利用しつくす者の醜悪さはきわだつ」ということを書いている。遺族とすればやはり自分の子ども、自分の兄貴、自分の父親、自分の夫がまったく無意味に死んだとは思いたくないという気持ちはある。そういう気持ちに乗じて、特攻隊神話をつくりだし、そして靖国神社に英霊として祀ることによって慰めをしようとしているわけです。天皇がお参りをする、天皇は「臣民」に対して会釈をすることはあっても頭を下げることはない。その天皇がお参りをしてくれるんだ、こんなうれしいことはないだろうというのが靖国神話で、高橋哲哉さんが書いていることですね。
あの大岡昇平の「レイテ戦記」は、一個の兵士としての生と死を克明に記す中で戦争の愚劣さを訴えた戦争文学の名作だと思います。その中で彼は特攻について「勝利が考えられない状況で面子の意識に動かされ、若者に無益な死を強いたところに神風特攻の最も醜悪な部分がある」と言っています。特攻隊の生みの親といわれる大西瀧治郎海軍中将も「こんなにムダでは体当たりは中止するべきでは」という疑問に対して、「こんな機材や搭乗員、促成の飛び上がるのがようようの、そういう技量では敵の餌食になるばかりだ。部下に死所を得させたい」「特攻隊は国が敗れるときに発する民族の精華」「白虎隊だよ」と言ったといいます。
そういう大岡昇平でさえこの「レイテ戦記」の中ではこういっています。「しかしこれらの障害にも拘わらず、出撃数フィリピン4000以上、沖縄1900以上の中で、命中フィリピンで111、沖縄で123、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目的を達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない」。
これは「レイテ戦記」の一節です。「勝利が考えられない状況で面子の意識に動かされ、若者に無益な死を強いたところに神風特攻の最も醜悪な部分がある」と書いておきながら、特攻隊の中に希望を見いだしている。結局自分は生き残ってしまったという負い目の意識から大岡昇平ですら抜け出ることはできなかった。大岡昇平は文化勲章をやるといわれたときに「私は敗残兵だからもらわない」と言った。私はひとつの戦争批判として言ったと思ったんですが、その大岡昇平ですらこういうふうに書いてしまっている。ただこの「レイテ戦記」はかなり前に書いたものだから、大岡昇平が最後までこういう考えであったかどうかは、聞いてみなければわからなかったですね。
水木しげるはニューギニアで餓死同様の状態で生き残って帰ってきたけれど、彼は戦後ずっとニューギニアなんかにみんなが行くのは気が知れない、と行かなかったらしいです。水木しげるは、こう言っていたと呉智英が書いています。「水木しげるのラバウル通いが始まった頃、私にこんな話をした。『以前は自分は、戦地だったところへ行きたがる者の心境が理解できなかったですよ。食うものも満足になく、餓死した戦友も多くいる。当人も九死に一生で助かっている。辛く苦しい思い出しかない。そんな戦地に、戦後20年も30年もたってなぜわざわざ行くのか』」「しかし、自分はラバウルに行って初めてわかったんです。自分はあの戦争で生き残った。日本へ還ってこられた。でも、戦友たちは食糧も薬もなく、ここで死んでいった。そして、自分だけ、今では何でも食べられて生きている。そう思うとですなぁ」と、こう水木しげるは言って、そして呉智英は続けてこういっている。「水木しげるは確信を込めて言った。『そう思うとですなぁ、愉快になるんですよ』/私は遠慮無く笑い転げた。目から涙がほとばしった。笑いは止まらないままであった。『ええ。ラバウルに行ってみて、初めてわかりました。』」呉智英は「これほど強い生命賛歌を私は知らない。生きていることほど愉快なことがこの世にあろうか。歴史は死者で満ちている。しかし、自分は生きているのだ。なんと愉快なことだろう。山陰出身者特有の古風な訛りで、水木しげるは『ゆくゎい』と言った」と呉智英は書いている。
この水木しげるの言葉、本当に死んだものに対する生きているものの喜びという部分ですね、死者をあの人たちのおかげで戦後の日本があるというのはまさに死者を二度殺すことだと思うんです。あの特攻の映画はまさにそういうことです。しかしそうはいっても、死者を持つ遺族たちの気持ちを考えれば、靖国神社がどういう歴史認識を持っているか、そんなことは自分は知らない、だけど国によって引っ張り出されて死んだんじゃないか。死んだ以上、国は死んだ後も責任を持ってほしい。何らかの「祀り」をしてほしい。どこもそれをやっていない、それをやっているのは靖国神社だけだ、だから靖国神社に行きますよ、という話になってしまうんじゃないか。
国家が死者を祀ることについての当否はいろいろあります。高橋哲哉さんはそれは必要ないと言います。しかし私はどんなに私たちが靖国神社の歴史認識、ドイツや日本の戦後がどうのこうのと万言の言葉を費やしても、国によって殺された人について国によって責任をとってほしい、祀ってほしいという遺族がいる以上、それにこたえない限り靖国神社に行く人たちを変えることはできないという気がするんです。そういうことをどう考えるか、つまり、靖国神社にある死者を取り戻さなくちゃいけない。
実は靖国神社こそA級戦犯にふさわしい。A級戦犯は靖国神社に置いておきましょう。そしてそうでない人たちを祀りましょう、こういうふうに使わなくちゃいけないんじゃないか。それは兵隊として天皇の軍隊で死んだ人もそうでない人も、戦争の死者すべてを、沖縄の平和の礎のように、そういうものをつくる必要があるんじゃないかと、私はいまのところ思っています。
2001年のヴァイツゼッカー元西ドイツ大統領を委員長とするドイツ国防軍の改革委員会の報告書は「ドイツでは歴史上初めて隣国すべてが友人となった」という書き出しから始まっています。隣国すべてが友人というのは究極の安全保障です。
日本が歴史上初めて隣国すべてが友人となるにあたっては歴史認識の問題、靖国神社の問題が障害となっている。そういった意味で靖国神社の問題は実は日本の安全保障の問題でもあると思うわけです。憲法20条と9条との関連はまさにそういう問題です。ドイツは、経済的な問題などEUはいっぱいあるけれど、少なくとも安全保障の問題に関しては一応の解決をしているといえると思います。
*1 集団安全保障については、2005年9月の国連首脳会合成果文書で確認された「保護する責任」の原則を明記する。武器使用基準は国際基準とする。
*2 「国連緊急平和部隊」(UNEPS)は国連直下個人参加の民軍混成部隊。
神奈川県のほぼ中央部に位置するキャンプ座間。正門前にあるバスの停留所を降りると、道路に沿った石垣の土手に“新司令部はいらない!”“NO! BASE”などと描かれたパッチワークのきれいな横断幕が並べられ、華やかで、ほどよく目立っている。
2年ほど前から米陸軍第1軍団新司令部移駐に反対して、毎週水曜日の午後1時半から3時半まで座り込みをしている原順子さんたち「バスストップから基地ストップの会」の皆さんを訪ねた。両側を基地に挟まれている道路は人通りが少ないが、通りがかった人の中には「ごくろうさま」と声をかけていく人もいる。1時間に2本程度のバスが来たときは、バス停のベンチから離れて移動し、乗降客の邪魔にならないように気を配りながら座り込みをつづけている。
「8月31日に『移行チーム』が発足してから市民の反応がちがってきた」と原さんは言う。「市民が緊迫した気持ちを持たざるを得なくなって町が変わってきています。町にも軍用車が多くなって、自衛隊や米軍が増えています。以前は、ホロのついた荷台に迷彩服にヘルメットの自衛隊員を乗せている車を見たことはありませんでした」「米軍はベレー帽をかぶっているので分かり易い。そういう人がレストランに居るようになって、軍が日常的にいる町になってしまうのか、そういうことに慣らされてしまうかと心配です」「電車にも米軍人が私服だけれど子ども連れで乗っていて、目立ちます」。30人の規模と言われる「移行チーム」が来てからすでに変化は顕著に表れている。
8月のお盆の最中に「移行チーム」の発足を横浜防衛施設局長が自治体に通告しに来た。これを移駐の具体的な一歩ととらえたストップの会は、すぐさま座間市役所に駆けつけた。新司令部の名称は「第1軍団前方司令部」であることがわかり、キャンプ座間がアメリカの対テロ戦争の前方司令部になることの心配が現実のものとなった。ストップの会も入っている「キャンプ座間強化に反対する市民連絡会」で総理大臣、防衛大臣、横浜防衛施設局長宛に抗議文を出したり、キャンプ座間正門前で抗議の申し入れも行った。緊急行動にも対応することができている。
8月の「月末連続座り込み」は29~31日に午前7時半から午後3時半まで続けたが、その時、大型軍用車両や引越センターのトラックの出入りが多く不安もった。9月1日、「移行チーム発足」の報道があり不安が現実になった。米軍の新聞である「スターズ・アンド・ストライプス」9月2日号では……(移行チームの発足は)ゲート前に立つ人には見えるようなものではない……と書いている。「米軍が、私たちの座り込みを気にしていることが分かります。同時に、軍人にとって『移行チーム』はたいした変化ではなくても、市民から見れば軍人や軍用車を日常的に目にすることは異常だし、緊張します。そしてなにより問題なのは質的変化です」と市民の空気を語る。
HMMWV(ハンビー)14台が10月、相模原補給廠に搬入された。キャンプ座間にも今後200台も搬入が予定されている。ハンビー(High Mobility Multi-purpose Wheeled Vehicle)は軍用車の高機動多目的装輪車のことで、四輪駆動の大型ジープの総称だ。装甲のあるタイプ、ないタイプがあり、兵員輸送用、機関銃武装車、ミサイル搭載用など11種類あり、戦場で使われている。9月の「月末連続座り込み」でも「軍用車を多く見かけました」「ハンビーを積んだトレーラーが3台停まっているのを見ました。キャンプ座間にも少しずつ運び込んでいるのでしょう」と観測している。ハンビー搬入の危険性を訴えて10月にも「月末座り込み」を行った。
他から見れば「すごく頑張っているなぁ」と思うストップの会の人たちも、行動を始めた当時は、特別に“運動”をやったこともない人たちばかりだった。もちろん軍事的な知識があってやっているわけでもなかった。
とにかくアメリカ軍の第1軍団司令部が、もしかして来るかもしれないと心配していたが、05年10月の中間報告を聞いて、やっぱり来るんだ、と思った。「辺野古も、岩国も、横須賀も、座間も、日本は米国に売り飛ばされた。アメリカの捨て石にされたんだ」と思ったという。それまで戦争体験者の父母を見ていて、普通の人があの戦争(アジア太平洋戦争)を容認していったことには批判的な気持ちがあったが、「ここに司令部が来ることがはっきりして、自分の意思をはっきり示しておかなかったら、前の戦争の時の人たちと同じだ。何か行動したい」「住んでいる街が戦争につながるのはどうしてもイヤだ」「一人ひとりが嫌なものはイヤだと言えることが必要」。そんな思いが行動になって05年11月、4人で座り込みは始まった。
本当はキャンプの正門前に座り込みたかった。経験がなかったから、初めはお巡りさんの言うことを信じていた。正門がダメなら、道路上でと思ったが、それには毎回、道路使用許可のために2000円かかると言われ、そんなことはできない。いろいろ交渉したけれど埒があかないでいると、あのバスの停留所のベンチはどうかとなった。お巡りさんも、停留所は管轄外だという。そこでバスストップで座り込みをはじめた。はじめはバスストップのベンチに座って、しかも膝掛けをしているという形をとってパッチワークの横断幕を1枚だけ、おずおずと拡げていた。「表現の自由」があることを知ってからは、基地の土手に華やかな横断幕を貼り付けて、十分目立った行動になっている。「お巡りさんにダメと言われたら引っ込めればいい」と、腹が据わっている。ちょうど訪問したときに、土手に拡げていることにも警察から注意される場面があったが、粘って粘って「何で? 他のお巡りさんは良いといっていた」……と権利を主張しつづけている。
行動を始めた人たちには、辺野古の基地反対行動に行ってみたという共通点がある。「辺野古に行ってみた。一人ひとりが自分の意思でやってきて、その日に自分のやるべきことをやっていく。そんな姿に人間の尊厳をみたから」。「辺野古で自分ができることを考えて、と言われた。第一軍団が来ると知って、地元で反対の意思を示さなければ、と思った」「辺野古で“座間も大変だね”と言われた。自分が鈍かったな、と思って何かやろうと始めた」。
座り込みの初めは、週1回、2時間なら続けられるのじゃないかと、小さな形で始まった。雨の日は“いいんじゃない”という気持ちだったけれど、“私、行くから”と言われて、その日も座り込んでから、横断幕をマント代わりにして雨の日も風の日も寒い日も、2年になるが続けられている。4人で始まった座り込みは、今ではいつも10人ほどになっている。
市民にひろげようと、チラシをまいたり、ポスティングもしている。毎月、第3土曜日の午後2時からは相武台前駅からの「定例デモ」を行って、ふだん参加できない層にも呼びかけている。デモでは「市長がんばれー」というコールもある。座間市長が第1軍団の移駐に反対のスタンスは変わらないと言い続けているからだ。今は表だった行動はないが、座間市では反対署名が多数を占め、市庁舎には反対の垂れ幕が出されている。幅広く組織された反対協議会も立場を変えずニュースも出している。座間市は1971年に米軍と自衛隊の基地の共同使用を受け入れたとき、「基地の縮小」を国と約束している。市長は国が約束を反故にすることはあり得ない、市の頭越しに進めることは許さない、という立場をとり続けている。
こんな確信も心配もある。「憲法9条がなくなったら、ここはどっと進むんじゃないか。日米合同の侵略戦争をやります、とおおっぴらに言えないのは9条があるからです」「でも9条があるまま、ここから戦争指令が出されることだってある。たくさんの人に、ここに来て、この現実を見て!!と言いたい」
2年間の積み重ねで、何かあったらぱっと行動できるつながりもできた。ハンビー搬入の時も何とか緊急行動ができた。その時は、金曜日に情報が入り、土・日をかけて連絡をとりあい、月曜には行動できた。基地を取り巻く人間の鎖とか、大きな行動は労働組合などの主導で何回か取り組まれている。けれども緊急行動となると、本当に自分たちの気持ちで来ている市民が動けた。
今言えることは「一人ひとりの顔がみえる市民が、ちゃんとものを言うことが必要です」。これは行動を始めた動機でもあった。 (どい とみえ)