私と憲法78号(2007年10月28日)


共同を強め、派兵・給油新法案を廃案へ

安倍内閣の退陣と福田内閣の登場の意味について

この小論を、前号につづいて「安倍内閣の退陣と福田内閣の登場」について考えることからはじめたい。
安倍首相の突然の辞任劇は、「新保守主義」と「新自由主義」を結合させた特異な主張を強引に進めようとしたその政治路線の破綻の結果であった。参議院選挙での「与野党逆転」と安倍の「政権ほうり出し」によって生じた政府危機の結果、与党は安倍路線を大きく転換させざるを得ず、調整型の福田新内閣を誕生させた。それは、あたかも1960年安保闘争とその結果としての岸内閣の退陣、「低姿勢」の池田内閣の登場を類推させるほどの変化である。もとよりこの変化は、超タカ派の安倍から、タカ派の福田への変化であり、タカからハトへではない。しかし、この変化は社会の相対立する諸陣営にとって、今後の闘い方の再検討を迫る変化であることを無視してはならない。

運動圏から見て、この状況は天から降ってきたものではない。この間の人びとの闘いがあったからこそ実現した状況である。強行採決に継ぐ強行採決で、教育基本法改悪、防衛省昇格、イラク特措法延長、改憲手続き法成立などを強引に進めてきた安倍内閣を、同じ顔ぶれの居抜き状態で引き継いだ福田内閣の与党が、「野党に話し合いのテーブルについてほしい」などと泣き言をいうのはなんとも滑稽なことだ。参院選の結果は安倍内閣への民意の表現であり、また反対の高まりの中で強行採決をした結果が憲法審査会の始動不能を招き、象徴的には中村哲さんらペシャワール会の運動などNGOの活動が民主党のテロ特措法延長反対の論理を支え、NPO法人ピース・デポの研究と暴露などが米国のオイルロンダリングを白日のもとにさらけ出した。そして全国各地での集会や行動、市民たちの熱心なロビーイングなどは民主党をはじめ野党の議員たちに世論の支持が自分たちにあることを実感させている。

民主党小沢代表のISAF派遣論などについて

雑誌『世界』11月号に掲載された民主党小沢代表の「公開書簡~今こそ国際安全保障の原則確立を」で触れられている「自衛隊国連活動派遣論」について、私たちの運動との関連で若干コメントしておきたい。

小沢代表はこの論文で「個々の国家が行使する自衛権と、国際社会全体で平和、治安を守るための国連の活動とは、全く異質のものであり、次元が異なるのです。国連の平和活動は国家の主権である自衛権を超えたものです。したがって、国連の平和活動は、たとえそれが武力の行使を含むものであっても、日本国憲法に抵触しない、というのが私の憲法解釈です」「国連の決議でオーソライズされた国連の平和活動に日本が参加することは、ISAFであれ何であれ、何ら憲法に抵触しないといっているのです。もちろん、具体的にどんな分野にどんな形でどれだけ参加するかは、その時の政府が政治判断して決めることです」といっている。

この考え方は小沢氏の持論で、目新しいものではない。彼が自民党の幹事長だったとき以来の持論である。今、あらためて小沢氏がISAFとの関連でこれを公言したのは、自民党など与党とその同調者の間から、「給油活動をめぐる小沢氏の発言に対して『アメリカの戦争というだけでは不参加の十分な理由とはならない』などと論じた川端清隆・国連本部政務官の寄稿(世界10月号)」のような反撃が起きているからであり、これへの反論の形をとったものだ。小沢氏はさきのシーファー駐日米国大使との会見でもISAFについて触れて、同様の立場を示したことがある。

私は小沢氏のこの見解には反対で、国連活動への自衛隊派遣も決定的な憲法違反だと考えている。小沢氏の「解釈」は憲法第9条の域を超えた拡大解釈で、この議論は保守層の一部にある「専守防衛論」の立場とも相容れない危険な海外での軍事力行使につながるものである。国際平和の維持のために日本がなすべきで、出来ることは、いま自民党との論戦で民主党も言っているように、テロの温床を除去していくための非軍事民生支援である。日本は第9条をもつ国として、堂々と国際社会に向かって、この主張と実践をしなければならないと思う。

小沢氏は米国の「自衛戦争に自衛隊を加担させるテロ特措法」や、同類の新法は憲法違反だと言い切って、この168臨時国会に対応する立場だが(そしてそれは正しいのだが)、自民党や米国、保守言論などに攻められて動揺し、「ISAF派遣」への言及した。しかしこれは現在の議論に百害あって一利なしである。
小沢代表は民主党が政権をとったら、実行したいと言っている。私たちはその時、もし民主党がそうするならはっきりと反対して闘うだろう。民主党にそれ以外の道を選択するように要求するだろう。民主党の内部にある「ISAF派遣論」「民主版恒久法制定論」「国連軍派遣論」との闘いが、現実の問題として必要な時期が、いずれ来るかも知れない。

派兵・給油新法(新テロ特措法)に反対するオーバラッピングコンセンサス

目下の緊急の課題は自民党がこちらに蹴ってきた、米国の報復戦争に同調した「インド洋派兵・給油新法」を国会の野党と院外の市民・民衆運動の力を結集して蹴り返すことだ。その後の展開はこの闘いで各勢力がどのような闘いを展開し得たかによって変化するし、民主党内の議論にも反映するだろう。

市民連絡会の共同代表で、九条の会の呼びかけ人でもある奥平康弘さんは、9月末の「九条の会憲法セミナー」(於・盛岡市)で要旨、次のように述べた。「九条の会をやっている中で、私は憲法学の九条の理解とは違うところに専守防衛論などの一定層が存在することを知った。たとえば『世界』9月号の阪田・前内閣法制局長官の論文などだ。これらがオーバラッピング・コンセンサス(重複した同意)として、結論を共有することが大事で、九条の会はそうしたものだろう。目下、大切なことは、これらが一緒になって蹴ってこられたボールを蹴り返すことだ。そのあとどうするかは、また別の問題だ」

この指摘は運動における共同のあり方についての重要な示唆を含んでいる。従来は「小異を残して大同につく」などと言われてきたことと同義である。そして私はこの形態は「同円多心」であるべきだと主張してきた。

「憲法改悪を許さない運動」と「憲法九条改悪に反対する運動」の組み立て方、自衛隊を解消していく運動と、自衛隊の海外派兵に反対する運動、新テロ特措法の組み立て方など、極めて現実的な問題である。この場合、必要なことは「誤った意見への反論、批判を回避してはならない」などという一般論を語ることで自己満足することはなく、議論に於いてはそれに理があり、時宜があり、態度は内在的に節度があることだ。運動の推進全体に責任をもち、その勝利に責任を持とうとすればこの問題は極めて重要なことだ。(高田健 事務局)

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第26回市民憲法講座(要旨)

私にとっての憲法、そして出会い~非暴力的生き方を求めて~

富山洋子さん(日本消費者連盟運営委員長)

(編集部註)9月22の講座で富山さんが講演した内容を編集部の責任で大幅に要約したもの。要約の文責は全て本誌編集部にあります。

私が生まれた1933年という年

皆さま方とともに、仲間として、もっと言えば同志として駆けめぐっている中から私がお話しさせていただくことっていったい何なのかなと思ってみれば、結局は私が生きてきた中でいろんなことを考えてきたことをお話しいたします。

私が生まれた1933年はいったいどんな年だったのか。私が生きていた過程の中で時代というものがとても私に影響を与えていて、その中で私が考えてきたこと、とりわけ国家というものがどういうものかを子どもながらに感じ取ってきた、そういう過程からお話ししたいと思います。

誕生日が6月30日ですから満でいえば74歳を迎えました。1933年はとても大変な年でした。宮沢賢治もこの年に亡くなっています。宮沢賢治は「アメニモ負ケズ」という詩を書かれた、本当にきらきら輝くような童話、とても美しい話、そしてきらめくような人生をおくられた方で私が敬愛している詩人・作家の一人です。野呂栄太郎も検挙され、翌年の2月19日には獄死し、小林多喜二も2月20日に検挙され29日には虐殺されています。

15年戦争の中、大人たちは、いつも怯えていた

その2年前、1931年にはいわゆる満州事変が起こりました。1937年には廬溝橋で日中両軍が衝突して日中戦争が始まりました。だんだん育っていく過程の中で大人たちがいつも怯えていたことは感じておりました。1937年7月22日には日本キリスト教連盟が「時局に関する宣言」を発表し国策協力を表明した。8月24日には「国民精神総動員実施要項」が決定された。9月28日には婦人矯風会等々13団体が日本婦人団体連盟を結成した。そして10月1日には首相や陸・海・外4相間で「支那事変」対処要綱を決定し朝鮮半島の人々に「皇国臣民の誓詞」を配布した。国際連盟総会で日本の行動が9カ国条約違反の決議を採択されて、日本は国際的にも孤立していった。その中で日本という国に住むものに対しても非常に強権的ないろいろな法律等を発効し、私たち一人ひとりの自由、言論の自由、思想の自由はもとより暮らしまで脅かされた状況が進みました。1937年12月13日には日本軍が南京を占領して大虐殺事件を起こし、22日には日本無産党と日本労働組合全国評議会の結社が禁止されています。

こういう中で私は軍歌を子守歌として育って、1940年に翌年から国民学校となる尋常小学校に入学しました。このとき私たちの暮らしがどんなに締め付けられたかは国家予算と軍事費との関係で数字を示すと具体的なことが想像できると思います。1936年には軍事費が10億8888万8千円、国家財政に占める割合が47.7%です。それが1941年にはなんと125億3402万4千円にふくらんで国家財政に占める割合が75.7%になった。物価も36年から41年までの6年間に約70%も上がった。私たちの暮らしがいかに締め付けられてきたかがこの数字からもわかると思います。軍事費を調達するために私たちの勤労所得から源泉徴収もこの時代に始まっています。

本当に軍歌が子守歌のようで、「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は」というのを私は3つくらいのときに心して聞いていました。「天に代わりて」というのは私にもわかったんです。「不義を討つ」がわからなくて、「天に代わりて釘を打つ」と思い、何で兵隊さんが天に代わって釘を打つために歓呼の声に送られて外地というか、日本という国、風土を離れて行くのか。疑問に思ったことは子どもは親に聞くわけですから、いろいろ疑問に思ったことを親に聞いていました。

小学生くらいになると修身の時間があり、その中で子どもたちは私の体験では、とても批判でしたね。神武天皇がなんやらかんやらとか、竿の上に金鵄が止まって目がくらんだとか、あり得ないじゃないか、僕の兄さんが言ったとか言っていました。でも私はあとからお兄さんはその後どんな人生をたどったのか、言論封殺、弾圧の時代にそのご兄弟がどう生き抜いてきたか、疎開とか空襲を受けて私たちの同級生はばらばらですから全然知らないわけです。そういう中で子どもたちはかなり批判的でした。その批判を大人にぶつけると、私の母親は、軍事演習ですとか、在郷軍人、あの頃は隣組というのもありまして在郷軍人の方々が隣組の人たちを集めて訓示を垂れるんですが、毎回同じことしか言わない、もうちょっと気の利いたことは言えないのか、という批判をしていました。

私が違和感を持ったのは、私たちが「天皇の赤子」といわれていたことです。天皇の赤子、赤ちゃんと親たち、保護者の関係というのは、私たちは保護される立場です。天皇はすべての人々をいたわり保護する、「慈しむ」という言葉も使われていました。「大御心はわれわれ臣民を慈しむ」と。だけど天皇の赤子がなんで戦争に行って殺されたり殺したりしなければならないんだろうって、ふつう子どもたちはそういう疑問を持ったんです。子どもはとても敏感です。子どもを侮ってはいけないと私は思っていますが、当時そういうことを母親に言いますと、真っ青になってそんなこというと憲兵に連れて行かれるよって、子どもの言葉でさえも親たちは怯えていました。でも子どもたちはかなり批判的だったことを私は実感から言うことが出来ます。

戦争体験が培った戦争観・国家観

1945年8月6日、広島に原爆が投下され、8月8日にソ連が対日参戦し9日に長崎に原爆が投下され、8月15日に敗戦を迎えました。私はこのとき岩手県の渋民村の寶徳寺という石川啄木が育ったお寺に集団で学童疎開していました。その前は静岡県の掛川でしたが、空襲が激しくなって1945年の6月頃に再疎開しました。私も戦争がいかに大変なものかは子ども心に感じていました。空腹も切なかったし、いつ親やきょうだいたちと死に別れるのか、毎日毎日切ない日々を送っていたので戦争に負けたことに私は芯からほっとし、安堵しましたね。私くらいの歳の人はみんな「安堵」という言葉を使っておられますね。負けても勝っても戦争が終わって本当によかったと思ったわけです。でもそのあとで、どれほどのアジアの人々を殺戮したか、そして私たち日本列島に生きるものもどれだけ殺されたかを徐々に知ります。

後から知ったことのひとつで怒り心頭に発したのは、1945年2月14日に国体維持のために和平交渉を進めた近衛文麿に対する天皇の発言です。木戸幸一関係文書によると、「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」。私は天皇の赤子として戦場に追いやられたことから、天皇に対してはとても不信を持っていました。そのうえこんな話を聞いたら天皇制、天皇っていったい何だろうとこのとき思いました。いまの平和憲法も象徴天皇制でそれをどう捉えるかは、私たちにとって非常に大きな課題です。子どもの時代の戦争体験でしたけれども私は国家に対してもとても不信を持ちました。個として生きるためにはいつも国家に対峙する姿勢をかまえていなければ、私たちは被害者のみならず加害者の立場に立たされてしまうことを子ども心にも実感しました。

戦争は国家の名による人殺し行為にほかならない。しかし戦争が引き起こされるときには必ず大義名分が掲げられる。大義っていったい何なのかといえば支配する側の都合のいい論理だと思います。ですから私は大義と正義を区別します。正義について私自身は、人間が生きるための正しい筋道であるという素朴な意味に捉えたいと思っています。ブッシュの戦争のみならずいろいろな戦争に「正義」が掲げられていることを決して許してはなりません。武力を背景にした正義なんかあり得ない。正義というのはひとりの人がしっかりと大地に立った上で自分はこう生きるよ、こういう正しい筋道を踏んで生きるよ、ということです。いのちあるものの究極の正しい筋道は「殺してはならない、殺されてはならない」ということです。その正しい筋道を、武力を背景にして語るなんて決して許せない、許してはならないことだと思っております。

戦中当時から批判精神は子ども心にあったと申しましたが、大人にもあったわけです。それが結局は弾圧の対象になって、真っ当な言葉を吐いた人は殺されたり、残された文章等は始末されたりしましたが、川柳はわりに残っていたようです。戦中に残っていた川柳があったのでご紹介します。柳条湖事件を批判した、「正義とはそも大砲を撃つことぞ」。特攻隊の方々の読んだものも残されています。読んでいるととても切ない気持ちになりますが、ふたつばかり紹介しますと、「特攻のまずい辞世を記者はほめ」、「生きるのはよいものと気がつく三日前」。死に追いやられた若者たちが残した川柳でした。これは東京学芸大学の名誉教授・中村義(ただし)さんという方が8月27日の日経新聞の文化欄で戦いの中で残された川柳を紹介されていたものです。

戦争によって国家が守ろうとしたものは何か

15年戦争では「國體」という本当に得体の知れないもの、つまりは天皇を取り巻く権力、そこでうまいものを吸うことが出来た人たち、そういう得体の知れないもの、つまりは支配層がいい目をみるために天皇などを担ぎ上げたそのまわりで「うにゃうにゃしていたもの」が「國體」だと思うわけです。そういうものが国家として大日本帝国憲法を掲げてきた。いまの憲法は象徴天皇制だけれど、主権者として私たちが国家を規制するものとして憲法を持っていることがとても大事なことだと思います。「国家」とはいったい何なのか。一部支配層の利益が共同の利益のように見せかけられてひとつの仕組み、国を形成している。私たちひとりひとりが糺さなければそういうふうに国家が成り立ってしまうと私は感じ取りました。国家に常に対峙する姿勢を保たなければ私たちは決して生き生きと生きていくことが出来ないことも私は感得したわけです。戦争ではいつも子どもは被害者ですけれど、日本列島という国に生まれ育った以上私たちも他の国の人々からは加害者と見なされていたことを私は非常に重いものであると、あらためてここまで生きてきて思うわけです。だから私はあと20年は生きたいと公言しています。いまこんな状況の中で生まれた子どもの将来を見届け、その子どもたちにしっかりと手渡せる仕組み、展望がない限り私は死ぬことが出来ない。私たちが体験したような時代を体験させたくないという思いです。生きている限りは皆さま方とともに行動すると受け止めていただければと思います。日本国憲法で私たちは主権者ですから、主権者たる力を発揮し続けられる確信が出来ない限り私は死ぬことが出来ません。

軍隊は人々を守るものではない

満州でも朝鮮北部でも日本人の非戦闘員が見捨てられ、邪魔になると思われた老若男女は虐殺、あるいは虐殺と同じような自殺を強いられました。そういうことが嘘だったみたいなことをぬけぬけと今頃言っている人がいますが、それも決して許すことは出来ません。「個の人間として生きる権利に優先する全体の利益」があるのかといえば私はないと思います。大日本帝国憲法のもとでは全体に「ご奉公」するために「臣民」はあったわけですが、いまの平和憲法では主権者として私たちは国家を規制する立場にあります。その中で自民党新憲法草案では公の秩序等々全体の利益を優先するような考え方が打ち出されていますが、個の人間として生きる権利に優先する全体の利益は私はないと思います。社会はひとりひとりの人の喜びや悲しみの上に成り立っているわけです。ひとりひとりが生き生きと生きることが大前提としてあるわけです。

とても切実な感情、身体全体で沸き立つような悲しみと喜びがあり、その感動はそれぞれだと思いますが、私の喜びは「ああ生きていてよかったなあ」と思う瞬間に出会ったときです。それは出会いが一番ですね。私が本当に生きてきてよかったなあと思うのはやっぱり出会いの中の喜びですね。悲しみは人を失った悲しみを超えるものはありません、私くらいの年齢になると。戦争はこの喜びや悲しみを奪ってしまう。戦場にかり出されれば殺すか殺されるかという立場にいつも立たせられているわけです。日本という国家から送り出された人たちが死ねば、送り出した人たちの悲しみは絶え間なく、悲しみの渦が巻いていたんではないかと私は体感的に思います。いろいろな話も聞きました。3人の息子さんすべてを戦争でいのちを奪われた。その悲しみの深さは聞いていて切ないです。生きている喜びを味わわず、悲しみのみを強いるのが戦争だということを体験しています。そういう意味でも戦争に反対です。戦争は人殺しという意味でもまず第一に反対ですけれども、人々から生きる喜びを奪う、悲しみだけを押しつける、思想の自由や言論の自由を奪う戦争は反対です。だから日本国憲法が出来たとき私は胸がとどろく思いでした。

「出会い」

敗戦後私は女学校に入学して、翌年、新制中学になって新制高校になって、あまり勉強しなかった、受験勉強もしなかった世代です。疎開先から帰ってきてどこの女学校に入るかは交通の便がいいところです。すごい「殺人電車」といわれた、今でも電車は混んでいて交通政策の怠慢は引き続いていますが、あの頃は殺人的な電車の混み具合で、とにかく近いところで通勤者が通うのと反対のところにある学校に通うことが選ぶ目安になっていて受験勉強はほとんどしなかった。高校は新制高校で併設中学校になっていましたので受験なしに高校になりました。勉強もあまりしなかったけれど、いろいろなことを知る機会があっていまに至っています。それはやはり「出会い」なんですね。皆さん方からいろんなことを聞いて、自分で反芻して、自分の思い返しを蓄積していく、これは格好いい言葉で言えば血肉化した思想です。

私はイラク派兵違憲訴訟に敗訴したけれど、意見陳述書とか準備書面で平和的生存権は私の血肉化した思想の中で培われた権利であり、私たちが主権者として位置づけられている日本国憲法の中にもきちっと書かれていると主張しました。あらためて国家に対峙する姿勢を堅持していかなければ、私は戦争に巻き込まれ加害者にもされてしまうという体験をしみじみ実感してきたわけです。

いまテロ特措法やイラク特措法などが、憲法違反ですが成立・施行され、テロ特措法は延長不可能と見るや政権は新法なるものを出す。必ずすり替えのときにはそれを上回る悪いことをしでかすというのが、私の体験的な権力観、政治権力に対する見方です。ここはもう一踏ん張りテロ特措法延長NO、新法阻止といううねりをここで培って築いていかなければ次なる力強いステップが踏み出せないのではないかなと捉えています。武力で平和はつくれないというのはWORLD PEACE NOWの中でも強く主張していることです。これは体験的でもあり今までの歴史も証明しています。

私の体得的「生」

体得的「生」ということですが、天皇の赤子に違和感を抱いたことは申し上げました。死を考えるのが怖かった。というのはまわりからいろんな人が出征し、英霊というかたちで遺骨が帰ってくる。小学生の私たちはずっと道に並ばされて英霊のお骨を迎えました。敗戦間近になると骨も収集されていなかったことも後から知りました。それからいつ空襲にあって死ぬかということもありました。学童疎開中に親がいつ死ぬかという切なさの中で日々暮らし死を考えるのはとても怖かったですね。

けれども原っぱがまわりにあって、夏休みや休み時間に原っぱに寝ころんで虫たちも死ぬんだな、その亡骸が大地に帰るのを見てとても安らぎました。やはり死はこうあるべきだと思ったんですね。自然に、大地に返る、大地というのは象徴的にいいましたが、やはり撃ち殺されるのではなく、傷つけあって死ぬのではなく安らかに大地に亡骸が帰る、そういう自然な死がみんな出来るようにならなければいけない。そういうような死が迎えられるとすれば、安らかに死ねるのではないか、死を恐怖を持って見なくてもいいんじゃないかと思ったりもしました。いのちということは子どもにはとても敏感なことだと自らの体験から思います。

生きるということは、他のいのちをいただいて生きることであることも、小学校1,2年のころ感じ取って、肉なんかが一時食べられなくなったときがありました。2年生くらいのときに「あなた栄養失調です」っていわれました。小学校一年生から二年生のあいだに体重が増えなかったのはかなり異常ですね。食べるものを自分で相当規制していたんですね。そういわれて親もびっくりし、実は私もびっくりしたんです。やっぱりいのちをいただいて生きていかなければ、人間はそういう動物なんだからいのちをいただいて生きている以上、自分も生き生きして生きなきゃいけないんだと、この頃に感じていたことです。

たまたま敗戦を迎えたのは石川啄木が幼少期を過ごした寶徳寺というところでした。学校の授業はとなりの、石川啄木が教師をしていた渋民村の小学校学校でした。地元の生徒たちと疎開児童は授業が別々だったので、だいたい1日2時間くらいしか勉強しなかったんです。だから先生がお寺の本堂などでいろんなことを教えてくださった。今思うとあの先生は戦争に反対していたんじゃないかと思います。軍歌なんか決して教えずに、私が今でも歌いたくなる「青空」という歌を教えてくださった。「青空仰いで大きな呼吸、みんなそろってこの胸張っていつもいつも空の気持ちで歩こうよ」という歌がとても好きでした。その先生は俳句も教えてくださいました。

宮沢賢治の詩との出会い

その先生が「雨ニモマケズ」を読んでくださったんです。私はその詩におおむね感動したけれども、ひとつ納得いかないことがあった。「ミンナニデクノボートヨバレ…サウイウモノニワタシハナリタイ」。修身の時間に木口小平は死んでもラッパを離しませんでした、というのは長らく覚えていて、これも不思議に思ったんですけれど、国家のために死ねといわれているあの当時に「デクノボー」と呼ばれることを希望するのはいったい何だろうとずっと疑問に思っていたんです。それが高校の歴史の時間にはたって思い当たったんです。私は直感的にものごとを感じ取るたちなんです。歴史のときに先生のいうことをぼんやりと聞いていて、いったい人々はどうやって生きていたのかなあなんて思っていたら、なぜか宮沢賢治のことがふっと思い浮かんできました。私が生まれた年に死んだ宮沢賢治の生き様はその後本や何かで読んで知っていて、そうだったのかと思ったんです。「デクノボー」というのは自分がこう生きたいと思うとおりに生きる、それがデクノボーと言われたって何だっていいじゃないか。それこそ人を殺したり、殺されたりしない強い意志を抱きながら、宮沢賢治は人々がいかに幸せになるかを常に心に抱きながら生きてきた。そういう中でデクノボーといわれたっていいじゃないか、私は「雨ニモマケズ」も宮沢賢治の決意表明じゃないかと思うわけです。

「ヒデリノナツハ ナミダヲナガシ/サムサノナツハ オロオロアルキ」の「ヒデリノナツハ」、を山折哲雄さんは「ヒドリ(ヒトリ)ノナツハ」ふうに書いている。あらためて文庫本の宮沢賢治全集をみる「ヒドリノナツハ」と書いてある。私も山折哲雄説を採りたいですね。「ヒドリノナツ」の方が私は実感を持って受け止めることが出来るんです。手帳には「ヒドリ」と書いてあるわけですし。宮沢賢治は「羅須地人協会」を設立して農民たちと一緒に自らも農民になり農民たちとともに学ぼうという意欲に燃えたわけですけれど、羅須地人協会も官憲ににらまれるようになって農民たちからもいろんな意味で見放されるようになってきた。そういう中で「ヒドリノナツ」という言葉も生まれたのかなあと思うわけです。つまりひとりでも清々とした生き方を獲得する、こういう生き方をしたいと思えばデクノボーといわれたっていいじゃないか、国家に表彰される人なんかにならなくたって当然いいわけです。そういうことを宮沢賢治は教えてくれたんではないかな、「そうだったのか」と感じ取ったわけです。タゴールという詩人も「呼びて答える人なくともひとりで歩んでいけ」という言葉も残しておりますし、ひとりで歩むという意志を培うことはとても大事だと思います。だからこそ同志、志を同じくする人との出会いはとてもうれしく、とても心強く、生きていてよかったなあと感じる場面ですね、私にとっては。宮沢賢治との出会いはそんなようなことで、言葉も美しいですね。

啄木の壮烈な生き方を知る

石川啄木については、とてもやさしい、平易な言葉で短歌を詠んでいて抒情詩人だって受け止められる節もありますけれど、石川啄木は壮烈な人生を送ったことは後になって知りました。石川啄木は大逆事件の資料も克明に読んでおられて、はじめは個人主義者、自らがいかに桎梏から解放されるかという思いに鬱々としながら暮らして、人生を放浪しながら若くして疾患で亡くなりました。「私は社会主義者になる」と友達に手紙で書き送っている伝記がありますし、日記にも書いてあります。私は石川啄木の「果てしなき議論の後」という詩が大好きでし、初めと終わりだけ読みます。「われらの且つ読み、かつ議論を闘かはすこと、しかしてわれらの眼の輝けること、五十年前のロシアの青年に劣らず。われらは何を為すべきかを議論す。されど、誰一人、握り締めたる拳に卓をたたき、ヴ・ナロードと叫び出づるものなし」、私は始めこれは革命って叫ぶ人がいないのかと思ったら、まだこの頃は1914年に始まったロシア革命はなくて、ナロードニキというのは人民主義だと辞書には書いてありました。最後を読みますね。「ああろうそくはすでに三度も取り替えられ、飲み物の茶碗には小さき羽虫の死骸が浮かび、若き婦人の熱心に変わりはなけれど、その眼には果てしなき議論の後の疲れあり。されどなお、誰ひとり握り締めたる拳に卓をたたきてヴ・ナロードと叫び出づるものなし」、これはいくら議論をたたかわせたって議論は議論だよ、行動に出なければいけないというふうに私はこの詩を受け止めたんです。

私は今後いろんなことを取り組む上で観念的な議論をたたかわすことは決してすまいとこの啄木の詩を読んで思ったわけです。私がいろいろな議論に参加する場合には、そういう議論の場に身を置きたいし、いまそういう議論が展開されている仲間たちに出会っています。出会いという言葉を何べんも使いますが、出会っている。言葉は思想だと申しましたが、言葉は行動だ、とも思っています。議論のための議論、そういう場には私は身を置きたくないなというのは私の生き方として選んだことです。宮沢賢治にも石川啄木にも出会い、私の受け皿の範囲ではあるけれど、自分がストンと落ちるものがあった。宮沢賢治や石川啄木はもっともっとすばらしい人に違いないんですけれど、でも私は私なりに宮沢賢治、石川啄木の生き方を学んで受け止めて自分なりに実践の糧にできている。

中学とか高校の頃、私は歴史に登場しない人の生き様が涵養している地下水脈が必ずあるということを確信したわけです。そのひとつの地下水脈が安藤昌益の思想でした。簡単に言えば「直耕」と「互生」と私は捉えておりますが、直耕というのはいろいろそれぞれの立場で働くということですが、ただ労働するという意味じゃなくて、搾取するな、収奪するなという意味も含めて直耕。互生というのも「共生」という言葉が今は使われているようですが、自然の循環の中でいかに人間もひとつの生き物として生きていくかという意味を大きく掲げた「互生」だと思っています。武器を持つこととも反対し、自然真営道などの中で繰り返し言っています。釈迦とか孔子などの権威も徹底的に否定している。安藤昌益の生き様にも直感的にこの人はすごい人だと思ったんです。本当に生きていくのは葛藤の連なりのようなものですけれど、その中で自らを活かして生きることは、それぞれの人が自立した個として立てる基盤、政治的にも社会的にも経済的にも培われている基盤を私自身がしっかりと仲間たちとともに築くことだと感じ取ったわけです。

消費者主権を求めて

私が消費者運動になぜ入っていったかというと、やはり平和こそ安心・安全の暮らしの基盤であり、平和憲法を活かしていく取り組みが消費者運動だとも言えます。もうひとつ私たちが生活者として拒否しなければならないことは、恒常的な戦時体制になってしまったら戦争NOといったって戦争に協力せざるを得ない立場に追い込まれる。それは自立した個として非暴力的に生きたいという意志を封殺されてしまう結果になる。だから私たちは消費者運動として「こう生きたい」ということを掲げながら、だからこそ平和憲法を守り抜く、守らせていく運動を全うしたい。憲法9条を軸にした日本の平和憲法が消費者運動の拠点であるという捉え方で消費者運動を展開してきたわけです。立憲主義に基づく日本の平和憲法というのは私が重ねてきた生――こんなふうに生きたいということと軌を一にした希望であったわけです。 その中に天皇の問題をどう捉えたらいいのかがずっとあります。私は今こう思っています。平和憲法を活かしていく中で天皇制を追い詰めていくことができるのではないかと思います。

レジメの最後に「ブライアン・イーズーリーの言葉を噛みしめて」というところがあるんですが「女性と男性にとって、性による分業がなくなり、全ての年齢層で性的抑圧が終わるか著しく弱められるまでは、核にせよそうでないにせよ、恐ろしい戦争兵器の生産に終止符を打つことはできないだろう。/人間中心的で、家父長的で、帝国主義的な文化を永続させる精神的な前提条件を逆転させることが必要」とブライアン・イーズーリーの言葉を紹介しました。

天皇制こそ「家父長的で、帝国主義的な文化を永続させる」、象徴天皇制はそういう「精神的な前提条件」を私たちに吹き込む危うさがある。だからこそ私たちは主権者として日本という国家の構えを絶えず監視していくことで天皇制を追い詰めていかなければならないと思っています。だから今の時点では平和憲法を活かし憲法改悪は絶対許さない、これが私たちの選択であると思います。

女も男も解放された社会がなければ平和憲法を守り抜く、守らせていく、憲法を変えさせない力というものは大きなうねりができないと思っております。女だから男だからということではなく女も男もひとりの自立した個として国家と常に緊張関係を保っていくという中で拒否の論理が培われ、その「拒否の論理」こそが私たちにとって主権者としての地位を固めていくのではないかと思います。拒否の論理を持たずして参加、参画してはならない、いやなものはいやと言い切ることがとても大事だと思います。戦中は「大御心は母心」なんて母性の論理が大いに悪用された。母性の論理はなかなか危ういもので「母性、母性」と権力の側がいい始めたら眉唾だと思っています。女だから男だからでなく自立した個としてしっかりと立つということ自体が大事。戦後の人間天皇というのはマイホーム主義の象徴みたいなかたちで、今その破綻は目に見えているけれど、あったかい家庭をつくれば今までのことは何だっていいんだよ、というような意味でも天皇制はあったので、天皇制については今後も関心を向けていかなければいけないと思います。

平和的生存権と非暴力的な生き方

それではいったい私たちはどのように行動したらいいかということを私のささやかな体験の中から話したいと思います。

イラク派兵違憲訴訟の原告として書いた準備書面の中で裁判所の役割というものを書きました。主権者とは何ぞやというと、私たちは日本という国に生きている以上、そこに生きている人が主権者であることは当たり前のことで、その当たり前のことが日本の平和憲法の中に書かれていると捉えていきたい。それには私たちはいつも憲法違反をする国家を糺していく元気を培わなきゃいけない。ということで杉原泰雄さんや小林さんの著書などを読んで私はもう一度気合いを入れています。イラク派兵違憲訴訟の名古屋の訴訟の中では平和的生存権についてもある程度認められている判決になっていたということです。私の判決では平和的生存権は実定的な権利ではないというふうに、具体的な権利ではあり得ないことを東京地裁ではいっております。

非暴力的な生き方を確立していくために、私たち一人ひとりが解き放たれた生き生きとした暮らしを足がかりに、国家や資本の暴力を打ち返す基盤としての「風土」を培いたい。「風土」とは何かといえば、単なる自然ではなく、人々が自然と響きあいながら切り開いてきた生存権・生活権でありそこで培われた制度をも含めた文化圏であると捉えたいのです。私たちは平和的生存権の確立を目指し、平和憲法を掲げ国家に平和憲法の内容を実践させていくという意味で風土の主体的な担い手であると思うわけです。したがって風土は自治権としてもあるべきだと思います。現行憲法の95条には地方自治特別法の、住民投票も出来ますが、自民党新憲法草案には95条が削られ、地方自治も危うくなっています。

非暴力というのは決して無抵抗ではないんです。暴力より強い力だと私は思っています。私たちは非暴力を掲げながら自信を持って行動していきたいと思っています。西尾昇さんと私は1980年代に「ランザ・デル・ヴァストと非暴力を考える会」という小さなグループをつくりました。このランザ・デル・ヴァストはフランス人でガンジーの弟子だといわれた方で、共同体を築いておられました。自給自足の暮らしで共同体ですけれど、そこで自己完結していくわけではなく、意思表示をされた。核反対行動であるとか、ときには核施設の塀を越えるという、非暴力直接行動だと私は思うわけです。非暴力というのは決して無抵抗ではない。西尾昇さんはフランス語のNon Violenceという言葉を、「反」とおっしゃった。「反暴力」と。私は行動の上では「反暴力」だと思っています。暴力に対峙する行動ですが、思想の上ではやはり「非暴力」としたいんです。というのは暴力のないシステムにしたいわけです。

私の体得的「生」と平和憲法

平和憲法の「武器を持たない」というのはそういう仕組みの大いなる位置づけですよ。それは「反」ではないと私は思います。暴力を超えた発想です。だから思想的には非暴力ですけれど行動の上では反暴力です。非暴力の思想に基づいて反暴力でやりたいと私自身は西尾昇さんとの接点の中で、そう理解しました。そして国家との緊張関係を堅持していく。だから国家のいろんな場面で参画していく、ちょっと局面が代わって審議会の委員に誰かがなるかもしれません。でもそのときに絶えず国家の不条理を糺していく構えを堅持していくことがとても大事です。

それから、そういう構えの具体的なかたちとして権力や資本の暴力を拒否していく市民的不服従。これはいろいろあると思います。ボイコット運動であるとか、私は電気代の不払い等もしているけれど、税金の不払い運動ということも含めて不服従を行為として表す、そういうようなことも共有したい。これは多様なやり方があります。電気代の不払いをしていれば電気を切られてしまいますが、そこまでいかなくても、電気会社に異議申し立てしたり、経済産業省の前でチラシ撒きをしてもいい。

私もかつて若い頃はすごく気持ちがはやっていて電気代不払い運動を展開して、その中で私はいろんなことが見えてきました。不払いしていない人に「あなたもしなさいよ、あなたもしなさいよ」ってずいぶん強引に誘って、でもなかなかそれは増えませんでした。それは当然だと思います。いろんなやり方があると思って当たり前です。それぞれの思いの積み重ねの中での行動があるわけで市民的不服従の行動という表現は多様だなということも共有したいと思います。いろんなことができなかったら、あれは少し引けてるんじゃないみたいなことは決して思わないようにしたいと私は自戒して言っているわけです。

私が言いたいのは、出会いこそ、豊かな出会いこそ私を力づける大きな糧である、これは私の実感です。その出会いの場は待っていては来ないわけですね。だから、これからもいのちある限りそうしていきたいなと思うのは、出会うためには何ものをも厭わない、いろいろありますよね、それはでも自分の事情ですよ、人に必ず行けというのではないんですよ。何を優先するかと言えば出会いを優先したいと私自身は生き方の中で思うんです。それほど私にとっては貴重なものであった。

この平和憲法にだって出会ったんですね、自分が草案に参加したわけではなくても。この幸せな出会いというのは、私はかなり欲張りなんで、幸せな出会いは決して離さない。まず自分でしっかり抱きとめてそれを自分の手で暖めながらいろいろな思いも込めながら、それをまた共有していく、こういう過程が運動ではないか。運動という言葉も今頃は若者たちはいろんな言葉をつくりだしてますけれど、それぞれその言葉に込められた意味等も共有しながら豊かな出会いをつくっていく、これが平和憲法を改悪させない大きな足がかりになるんではないかな、ということを私の生き方の中で実感してきました。

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10・23「いらない!インド洋派兵・給油新法」国会前ヒューマンチェーン

10月23日午後6時半から、東京・永田町の衆院第2議員会館前で「いらない!インド洋派兵・給油新法」国会前ヒューマンチェーンが行われた。この日は衆議院本会議で同法案が審議入りしており、300人が集まり、“武力で平和はつくれない!”、“米軍の戦争に加担するな!”、“給油は戦争加担だ!”などのメッセージを貼ったキャンドルを灯したり、メッセージボードを手にしたりして訴えた。 スピーチでは社民党党首・福島瑞穂さん、共産党参議院議員・井上哲史さん、民主党衆議院議員の原口一博さん、民主党参議院議員の喜納昌吉さん、共産党参議院議員の紙智子さんが発言した。原口さんは「武力で平和はつくれないというのはその通りだ。給油は給油先も問題だが、どこから買っているかも問題だ。油の精製の質からして購入先は米軍以外に考えられない」と指摘し、注目された。  「JVC」アフガニスタン事業担当の長谷部貴俊さんが自衛隊の給油活動がアフガニスタンの問題解決に役立たないことを話した。弁護士の日隈一雄さんが、イラク派遣自衛隊の「駆けつけ警護」による自衛隊の武力行使の企てについて報告した。「ピースボート」の田村美和子さんは、世界の友人とのつながりの中で給油反対と平和を訴えた。アジア女性資料センターの本山央子さんはアフガンの女性が今も人権を奪われている実態を報告し、女性の人権が保障されなければ平和はないとはなした。「不戦へのネットワーク」の山本みはぎさんは名古屋での派兵と給油反対の取り組みを報告。座間市の「バスストップから基地ストップの会」の原順子さんは、米軍第一軍団司令部の移転に反対し、ともに闘おうと訴えた。「教科書ネット21」の俵義文さんは日本軍による集団自決強制を教科書から削除する検定意見の撤回と沖縄県民の怒りを報告した。(D)

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厚木市で「蟻の兵隊」の自主上映会!

戦争は人間を破壊する~侵略戦争の歴史の実相 厚木市民九条の会

角田京子

10月6日、「映画と講演の集い」が厚木市総合福祉センターで催された。「蟻の兵隊」上映と池谷薫監督の講演の2本立てである。

主催は「蟻の兵隊」上映実行委員会。協賛、厚木市九条の会ネットワーク。後援、厚木市並びに厚木市教育委員会である。

午前10時からの上映であったが、多くの人びとが参加した。座席数260くらいのところ、補助椅子も用意して300人くらいの参加者があった。若い人たちの参加もあった。

「蟻の兵隊」の主人公は奥村和一さん。戦後60年を経て、「このままではすませないぞ」といった気迫に満ちた、それでいて穏やかな眼差しの持ち主、かくしゃくとした老人というところだ。侵略戦争の歴史の実相はこのようであったという、だれも消すことのできない真実を求めて、ドキュメントは展開されていく。

映画の展開の中で、戦争の実態が伝わってくる。戦争は人間性を極限まで破壊していく。奥村さんは20歳で軍隊に入り、まもなく中国の山西省に送られた。初年兵教育は人殺しの訓練から始まった。山西省を支配した帝国日本陸軍は59000人。

1945年、日本の敗戦により日本軍部隊は中国国民党軍に降伏した。国民党軍の閻錫山(えんしゃくざん)は共産軍との戦いに日本軍を利用し、かたや日本軍は天皇の軍隊の再建をかけて国民党軍に合流していく。澄田来四郎軍司令官は「今村参謀を助けて頑張るように。俺は援軍を連れてくる」と言って帰国したが、そのまま戻らなかった。裏取引の真相は、ずっと後に明らかになる。

国民党軍日本人特務団兵士として2600人の日本軍は戦い、のちに中国人民解放軍の捕虜となる。帰国できたのは1954年であった。ところが奥村さんたち残留兵士は全て「現地除隊」となっていたのである。こともあろうに澄田は1956年、国会で「勝手に残留した」と証言。裁判では一審も、二審も敗訴。最高裁では上告棄却とされた。上官も、政府も、裁判所も、奥村さんたちが命令をうけて残留したことを認めなかった。

奥村さんは80歳の高齢であるにもかかわらず、

  1. 残留問題の真相を明らかにする、
  2. 自分と向き合うために、2005年、「中国の旅」にでる。証拠探しの旅での多くの人びととの出会い。証拠も次々に発見された。澄田は自分が帰国する交換条件として2600人を残留させた売人である。残留の命令を受けた証拠文書も公文書館にあった。初等兵教育で「肝試し」という中国人刺殺をした五寨での出来事には映画を見ている私たちも驚いたが、本人がもっとも驚いたのではないか。

また、16歳の時に日本軍に強姦・暴行の被害を受けた劉面煥さんとの出会いもあった。劉さんは人間の尊厳をこわした日本政府への怒りを持っているが、奥村さんに語る言葉は優しく、美しい。

戦争は人間を破壊する。虚言、人殺し、無責任、強盗、暴行、強姦……ありとあらゆる悪を当然の如くさせる力を持ってしまう。

政府は戦争をはじめることはできたが、その戦争の後始末ができず、逃げまくっている。
奥村さんたちは今もなお、戦争の真実を私たちに伝えるために踏ん張っている。「嘘の歴史を残すわけにはいかない……」と。奥村さんには巍然とした輝きがある。

また池谷薫監督のお話では、池谷監督のすばらしさが伝わってきた。「蟻の兵隊」の映画づくりのための22日間の中国の旅……。池谷さんは「国家は私たちを守ってくれない。奥村さんのように怒りを持つことだ」と言う。

多くの人が上映活動し、そしてまた多くの人にみてほしい映画である。

参加者の感想。

2007・10・19

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箕輪喜作さんからのお便り

拝啓 先日はわざわざおいでいただきありがとうございました。いちばん人の来る3連休には他のことでダメだったのですが、どうやらこのほど署名7000を超えることが出来ました。

「朝日」が2回も載せてくれたこともここにきて大きな力になっています。見知らぬ人が「新聞を見た」と声をかけてくれます。昨日も、私は忘れていたのですが、以前、本を買って頂いた女性教師で「教室にはいつもあなたの本があるのですよ」と言われました。また、M学園の劇、前日のリハーサルを観たという西東京市の人から、そのうちに話しに来てくれと電話をいただいております。

それで先日も申し上げたかと思いますが、今年は私の中に気負いがなくなったこと、やはりいちばんたいせつなのは国民投票の時ですので、まだ署名してくれない人でも誠実に接しているということです。とくに若い方には「国民投票になったら、このじいちゃんを思い出してね」と言うと、みんなうなずいてくれます。

また反対のひとでも「またそのうちに話し合いましょう」と次につながる分かれ方をしています。要は署名も人と人で誠実に接することが大切なのではないかと思っています。

私にとって、ここにきて一番大切なのは体力のことですので、できるだけ健康に気をつけて署名と対話、長く続けたいと思っています。先日は大変ありがとうございました。

2007・9・20
蓑輪喜作

拝啓 さっそく「私と憲法」にのせていただき驚いています。実は10月と11月に2つのグループから話しに来てくれと言われ、よわったなあと思っていたのですが、高田さんのものが参考になります。大変ありがとうございました。小金井の九条の会にもコピーしてとどけたいと思います。

その後の署名ですが、7140筆です。紅葉の季節となれば人もたくさん来るので、体調に気をつけながらつづけてゆきたいと思っています。

会報、大変ありがとうございました。

2007・9・26
蓑輪喜作

【お詫びと訂正】前号の箕輪さんについての記事で、蓑輪さんのお名前を間違って「箕輪」と書きました。訂正して、深くお詫び致します。(編集部)

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沖縄戦「集団自決(強制集団死)」をめぐる教科書検定意見の撤回を求めます

内閣総理大臣 福田康夫様
文部科学大臣 渡海紀三朗様

沖縄戦の歴史事実を歪曲する教科書検定意見に対して、9月29日、沖縄で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開かれました。「日本軍による強制集団死の削除にNO!」の強い思いをもって会場にかけつけた宜野湾・宮古島・石垣島はじめ各地からの11万6千人もの人びとの声に、私たち日本YWCAは賛同と連帯を示すと共に、教科書検定に政治的に介入し、戦争の歴史を美化しようとする日本政府に対し、強く抗議します。

沖縄戦を体験した多くのおばあやおじいたちは、生き残った自分たちの証言を誤りとする教科書検定意見に、居ても立ってもいられない思いで会場へ駆けつけました。また、その体験を聴いて育った多くの子どもたちを代表して発言した二人の高校生の、「ウソを真実といわないでほしい。あの醜い戦争を美化しないでほしい。たとえ醜くても事実を知りたい。学びたい。そして伝えたい」という訴えを、日本政府は真摯に受け止めてください。政府が当事者の真実の証言を隠蔽し、一方で子どもたちの「事実を学ぶ」権利を奪い、「伝えたい」という平和を願い行動しようとする純粋な想いを潰すことなど、決してあってはならないことです。

日本YWCAは、これまで「ひろしまを考える旅」などを通して、韓国・中国YWCAと交流を深めてきました。その中で実感することは、真実の歴史の共有をなしにして和解は生まれないということです。歴史を知り、相手の痛みを学び、想像し、共有する、それが和解への第一歩だということを、私たちはくりかえし確認してきました。だからこそ、未来を担う子どもたちが歴史を学ぶため使う教科書の記述を歪曲してはならないのです。

文部科学省は、教科用図書検定調査審議会が決定したことであり、政治介入にならないようにとの理由で、撤回に難色を示し、また、教科書会社に責任を転嫁し、教科書会社からの訂正申請で事を収めようとされています。しかし、沖縄県民や私たちが日本政府に求めるのは、検定意見の撤回です。検定の間違いを認め、間違いを正す制度をつくって検定意見撤回に向けて早急に動き出すよう、強く要請いたします。

2007年10月19日
日本キリスト教女子青年会(日本YWCA)
会長  石井摩耶子
総幹事 川端国世

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テロ特措法延長反対! アメリカの戦争に協力するな!ヒロシマ集会決議

「インド洋・給油新法案」を廃案にしよう!
米軍のための給油をやめさせよう!

変わらない 自衛隊の補給支援の違憲性

10月17日政府が閣議決定した法案によれば、活動内容を「給油・給水」に限定したが、「テロ特措法」にすらあった「国会の事後承認」条項が削られた。引用されている国連決議1368や1776は、アメリカ政府のアフガニスタンへの武力行使と自衛隊が「支援」の名で参戦している「不朽の自由」作戦の根拠となるものでは全くない。これによって海上自衛隊の補給支援作戦の違憲性、「不朽の自由」作戦の国際法違反の実態がなんら変わるものではない。

テロ特措法にも違反 イラク攻撃に使用

しかも、海自による給油を受けた米海軍の艦船がイラク攻撃に加わっていたことの事実の暴露で、テロ特措法にすら違反してイラク攻撃に給油されていた事実はもはや隠しようがなくなった。18日に発表されたアメリカ政府の声明でも米艦船が複数の任務に就いていたことを認め、日本の給油の使途の特定は困難である、と事実上認めてしまったのも同然だ。一方、日本政府は海自補給艦の給油地点・給油対象などの情報開示については一切拒否している。呉の補給艦「とわだ」の航泊日誌はなんと破棄したというのだ。被爆県の呉基地の艦船がアフガン攻撃・イラク攻撃に加担してきたこの6年間の問題を追及し、検証しよう。海自の撤退、航空自衛隊のイラクからの撤退をかちとろう。

貧困と殺戮、そして「テロの拡散」

アフガニスタンにおける「テロとの闘い」が、アフガニスタン民衆の飢餓と貧困を絶望的なまでに悪化させ、米軍の「テロリスト掃討戦」が一般住民を大量に虐殺し、タリバンの影響力を復活させていることは明らかである。米軍が擁立したカルザイ政権は、占領軍に支えられて首都周辺に辛うじて統治を及ぼしているにすぎない。NGOの武装解除の働きかけや支援も中断している。占領軍撤退を求めるアフガニスタンの人々の声を受けとめよう。憲法9条に基づく支援、すなわち、日本国際ボランティアセンター(JVC)やペシャワール会の活動を支援しよう。武力で平和はつくれない。 

2007年10月21日 
テロ特措法延長反対!アメリカの戦争に協力する
な!ヒロシマ集会 集会参加者一同

10月14日、ちょうど一週間前。この広島において、岩国基地所属の米軍海兵隊員4人による女性への暴力事件が引き起こされてしまいました。このことに対し、強い怒りを覚えます。

これまでにも岩国だけではなく、広島においても米兵による暴力事件や事故などが後を絶ちません。これに対して、岩国市などが米軍に対し 「綱紀粛正」や「兵士教育」を求め続け、米軍もそれを約束してきました。今回の事件は、その実効性がないことを露呈しています。

今回、被害者の女性が勇気を出して、告発をしてくださいました。被害者の受けた精神的、肉体的苦痛や不安の大きさは計り知る事ができません。そのような中でなされたこの訴えを私たちはしっかりと受け止めなければなりません。そして、被害者に対して十分な救済がなされることを強く求めます。

報道によると、警察は「身柄の引き渡しを米軍に求める」とし、米軍も「協力する」と言われていますが、「日米地位協定」では身柄の引き渡しは保障されてはいません。けれども95年以降、凶悪犯罪においては米兵の身柄の引き渡しが行われるようにはなりましたが、これは「米軍の好意的配慮」によるものとされています。つまり、「日米地位協定」によると日本の国内で起こった事件であるにも関わらず、日本の法律によって裁く事ができないのが現状なのです。それは、事件発生から1週間経った今も容疑者の身柄の引き渡しが行われていないことからも明らかです。ですから、一日も早い速やかな身柄の引き渡しを求めます。

これは、一人の女性と4人の米兵個人の問題ではなく、このような事件を生み出す米軍の構造の問題であり、そのことを放置してきた日本政府や日本の社会の問題でもあるのです。そして、岩国基地と近接しており、休みに日には米兵が広島市内に遊びにきていることやこれまでにも米兵による事件が起こっているもわかっていながら、なんの手だても講じてこなかった広島市のありようと私たち自身がが今、問われています。

特にこの事件は女性に対する暴力の事件です。女性に対する暴力事件の場合、ただでさえ、私たちの社会においては、まだまだ女性に対する暴力についての認識は適切なものであるとは言えず、本来責めを負うべき加害者ではなく被害者に責任が負わされるなどの二次被害(セカンドレイプ)が引き起こされてしまうことが多いのが現実です。そのような中にあって、なかなか訴え出る事が難しい状況があり、私たちはその状況を温存してきてしまったことを反省しなければなりません。

そのような中にあって、今回被害者が声をあげてくださったことをしっかりと受け止め、関係諸機関に対して、被害者の人権を尊重し、被害者の立場に立った、日本国憲法に則った厳正な措置がとられることを求めていきたいと思います。

そして、このような事件が二度と起こる事のないように、米軍の体質とこのような事件が引き起こされる構造そのものを問い直すとともに、そのことを問う事ができない「日米地位協定」の抜本的な見直しを求めます。そして、この事件をうやむやにしないために私たち一人一人ができうる限りの行動をとる事をここに確認します。

2007年10月21日
テロ特措法延長反対広島集会 参加者一同

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