私と憲法77号(2007年9月25日)


安倍内閣が退陣した新たな条件の下で、改憲阻止の運動をさらに大きく前進させよう

自民党総裁選で福田康夫氏が選ばれ、まもなく衆院の首班指名で福田首相が誕生することになった。参院では先の参院選の結果、与野党の議席が逆転し、小沢民主党代表が指名され、衆参の指名者が異なった状況のなかでの新政権の誕生だ。

小泉内閣の下で行われた2005年9月11日の「郵政民営化」総選挙以来、衆議院は総選挙という有権者の審判がないままに安倍内閣、福田内閣と2代にわたる内閣を誕生させた。これは異常な事態だ。本来、先の参院選の与野党逆転という結果を受けて、総選挙があるべきだったし、その後、安倍晋三氏が世論の批判を押し切って続投し、間もなく行き詰まって首相の責任を突然投げ出した時点で、選挙管理内閣を組織して総選挙を行うべきであった。その意味で福田内閣は有権者の審判を受けていない暫定政権に過ぎない。一刻も早く、解散・総選挙をすべきところだ。

安倍内閣の退陣は何を意味するのか。

それは彼が進めようとしてきた新保守主義と新国家主義の結合という特異な政治路線による政権運営の破綻を意味するものだ。安倍首相が標榜してきた「美しい国づくり」と「戦後レジームからの脱却」とは、「日本会議議員懇談会」という右翼組織のメンバーを中心に組織された内閣と官邸が進めてきた「従米」と「復古主義」の結合した異端の路線だった。この危険な路線が、「見た目」がよくて選挙に勝てる顔として、自民党のプリンス、エースと期待された安倍首相の本質だった。

安倍内閣は成立するやいなや、小泉前政権が「郵政民営化選挙」という大ばくちで手に入れた多数議席を元手に、教育基本法改悪、防衛省昇格、イラク特措法延長、改憲手続き法などの重大な悪法を国会での十分な議論も経ないで強行採決でやってのけた。そしてさらにテロ特措法延長、集団的自衛権解釈の見直しなどを進め、「任期中の改憲」をめざしていた。内政的には年金問題、格差問題など深刻な矛盾が激化し、対外的には北朝鮮敵視、中国包囲など時代錯誤の「価値観外交」なるものを進めようとした。参議院選挙では155項目の重点政策のトップに新憲法草案の実現を掲げた。安倍内閣は50年代末の鳩山内閣以来、はじめて公然と改憲を掲げた内閣だったのだ。

安倍の突然の辞任はまさにこれらの政治路線の破綻だった。
福田内閣の登場は自民党のなかからも安倍内閣の路線への不満が高まっていたことの反映であった。しかし、1年前は自民党のエースとして安倍を担ぎ、今度は雪崩撃ってそれに批判的な福田を担ぐという与党の無責任ぶりは極まっている。

安倍内閣の特異な路線は破綻した。かつて改憲をめざした鳩山、岸内閣が60年安保闘争の大きな高揚の結果、以降の歴代自民党内閣がしばらくの間、改憲を口に出来なかったように、安倍内閣の崩壊は改憲積極推進派にとっては重大な歴史的敗北だ。

福田内閣のもとで、安倍路線がもたらした破綻はある程度、調整されざるをえない。しかし、その調整は自民党の基本的な路線の変更ではない。それは自民党的な路線の復活と言ってよい。憲法の問題で言えば、福田は自民党新憲法草案起草委員会では直接に9条改憲を担当し、安全保障小委員会の座長として、9条2項を破壊する新改憲案をまとめた人物である。テロ特措法では「給油新法」をこの臨時国会に必ず提出すると公約した。福田は小泉内閣の官房長官時代に「派兵恒久法」を積極的に検討させた人物であり、この動きも頭をもたげて来るに違いない。崩壊した安倍政権のあとを継いだので、すぐに安倍のように強行採決を連発しにくく、野党との調整型、話あい路線を標榜せざるをえないという違いだ。

しかし、両者に本質的違いはないとは言え、運動側からみればこの変化は無視してはならないチャンスであり、活用できるし、活用しなければならない。

とりわけ参院での与野党逆転という条件は、福田内閣と与党の政権運営に大きな足かせとなる。これはかつてない事態だ。

福田内閣の元で、集団的自衛権の解釈の再検討の場となっていた「安保法制懇」がすすめてきた路線は再検討されるだろうし、「教育再生会議」も、「美しい国有識者懇」も事実上幕を閉じざるをえない。「憲法審査会」の始動は少なくともこの臨時国会では困難だし、「共謀罪」の上程も同様だ。臨時国会に上程されるとはいえ、院外の世論と運動によっては給油新法の強行も困難になる。衆院の3分の2の議席による再議決という伝家の宝刀は抜きにくいはずだ。朝鮮半島政策も安倍内閣の「圧力」一辺倒ではなく、「対話」重視に舵をきらざるを得なくなる可能性もあり、各国政府間の6者協議と各国民衆の平和連帯をすすめ、朝鮮半島の平和と北東アジアの非核地帯構想など平和を実現する方向での環境づくりの方途も切り開く可能性がある。

これらと衆院解散総選挙の時期の関係も重大な問題だ。
私たちは、この獲得された有利な条件を、9条改憲反対運動を軸に憲法3原則を生かし、実現していく市民・民衆側からの大きな運動として実現しなくてはならない。文字通り一党一派に偏しない広範な共同を実現したような「九条の会」を全国いたるところで組織しよう。10月から11月の臨時国会に於いて、テロ特措法や憲法審査会などの動きを院内外で呼応して必ず止めよう。ロビーイングなどで積極的に国会議員に働きかけよう。集会やデモなど街頭行動を共同して組織しよう。そのための広範な市民行動を組織しよう。

11・3憲法集会を全国各地で開催しよう。11・24「九条の会全国交流集会」を成功させよう。これらの運動の成果を2月16~17日の第11回市民運動全国交流集会に結集しよう。(高田健)

このページのトップに戻る


「9.15Peace Day Tokyo 2007@東京タワー下」報告

星野正樹(事務局)

今年の夏の暑さがまだいすわっていた9月15日「9.15 Peace Day Tokyo 2007@東京タワー下」が文字通り東京タワーの真下にある芝公園4号地で開かれた。WORLD PEACE NOWなどさまざまな分野で活動しているNGO、市民団体でつくる実行委員会の主催。

「武力で平和はつくれない/世界の人々とともに 戦争は最大の環境破壊、人権侵害」をテーマにステージでのスピーチ、音楽や30近い出店ブースでの展示・販売・トークなど盛りだくさんの企画が行われて平和や人権、環境、生活を考える1日となった。

11:00にFMパーソナリティの住村愛子さんとWPNでおなじみの松田卓也さんのふたりの司会でスタート。木のブロックで核廃絶を訴える「Peaceの壁、核廃絶の壁」、「東京タワーと平和と私」をテーマにしたフォトプロジェクト(インターネットで写真展にして世界にも発信する試みも)の紹介の後、最初のフリートーク。発言したのは「沖縄一坪反戦地主会関東ブロック」(沖縄・辺野古、基地問題)、「ふぇみん婦人民主クラブ」(女性の人権)、「ピープルズ・プラン研究所」(グローバリズムの問題)、「日本消費者連盟」(六ヶ所村再処理・原子力・自然保護)、「VAWW-NETジャパン」(歴史認識)、「ATTAC ジャパン」(公共サービス)、「基地はいらない!女たちの全国ネット」(米軍再編)、「盗聴法に反対する市民連絡会、反住基ネット連絡会」(共謀罪)の8団体。その後、二胡の演奏、アコースティックギターによるフォークロック、三線の演奏と歌と続き、2回目のフリートークは「ピースボート」による「世界九条会議」、「原子力情報室」の「原発事故、大震災の危険について」、「沖縄高教組」から「沖縄教科書改編問題」についての発言があった。飛び入りで参議院議員に初当選した川田龍平さんと社民党党首福島みずほさんが登場。川田さんは「安倍首相を辞任に追い込んだのは市民の大きな声があったからこそ」「生きていたよかった、生きるって楽しいと思える社会をつくりたい」と元気よく発言、福島さんは「代表質問で追及しようと思ったら辞めてしまった。安倍内閣はぼくちゃんによる投げ捨て内閣だった」「民主党を『脅し、励まし、焚きつけて』、イラク、アフガンから自衛隊を帰すためにテロ特措法廃止、新法も廃案へ」「憲法を絶対に変えさせない闘いを続けていく」と強い決意を語った。

暑くてなかなかステージの前に出てこられなかった人も、WPNではおなじみの「ミューズバンド」の清々しい演奏と7人の若者によるヒップホップグループ「IKB」のグルーヴィーなダンスミュージックでだんだんと盛り上がって身体を動かしはじめた。IKBの友達との絆や前向きに生きようという素直なメッセージのこもったラップは会場の人たちの共感を呼んだ。

つづいて4人の方からのメイントーク。湯浅誠さん(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長/反貧困ネットワーク準備会事務局長)「現在1000万人とも言われる人々が生活保護以下の水準で生きている現状がある中で、安心して暮らせる社会をどのようにつくるのか。貧困の問題を『かわいそう』と考えるのではなく障害を持つ人たちの『バリアフリー』の考え方と同じように貧困も『誰でもなりうる可能性がある』という視点をもつこと、社会自身がさまざまな階層の人たちにとって『フリー』になることを考えていくべきだ。生活保護の水準が下がるということは就学援助、国民年金などあらゆるところで切り捨てが起こるということであり決して他人事ではない。反貧困ということは平和の問題と切り離せない、今後もいろいろな人と協力して活動していきたい」。

谷川博史さん(日本国際ボランティアセンター代表理事)「現在のイラクでは倍々ゲームで死者が増えていて月100人殺されているときもある。日本は石油や北朝鮮の問題があるからということでテロ特措法による給油活動や自衛隊の派遣などを行っている当事者であるということを忘れるべきではない。あくまでも対話による平和を作り出す努力をすべきだ」。

星川淳さん(グリーンピース・ジャパン事務局長)「グリーンがなければピースはない。現在ほどグリーンとピースが分かちがたく結びついていると感じられる時代はない。官僚支配という面から見れば今は戦前と変わらない。「バナナパブリック」だ。原子力をやめないなどの国策を国民の力で変えさせる、しっかりしたメディアを作り出す。こういった本当の民主主義社会にしていこう」

川上園子さん(アムネスティインターナショナル日本支部・国際キャンペーン担当)「アフガンで『テロリスト』として捕らえられた人がキューバのグアンタナモ収容所に移送され対テロ戦争の象徴となってから6年がたった。ここでアメリカの司法省、国務省が認めた裸にする、犬をけしかける、睡眠をとらせないなどイラクのアブグレイブで行われたこととまったく同じ拷問が行われた。人間ではないから何をやってもいいという考えが浸透していたからだ。国連やNGOなどは収容所の閉鎖を求めているが最近では自国ではなく他の場所で拷問をするレンディション、拷問のアウトソーシングが行われている。日本ではグアンタナモをテーマにした映画が配給されないなど関心が高くないのは問題だ。人権侵害、人をおとしめるやり方にNOの声を上げよう」

まだまだ暑い日差しが照りつける中15:00すぎからピースパレードへ。40分程度の短いコースだったが、東京タワーのお膝元のこの地域では珍しいのか沿道の人の注目を集めていた。
パレードから戻って3度目のフリートーク。「World Peace Now」「平和フォーラム」による「テロ対策特措法」について、「原子力空母の母港化を許さない全国連絡会」による「横須賀の原子力空母」の問題、「PEACE ON」から「中東問題」の発言がそれぞれあった。その中でPEACE ONの相沢さんが「パレードなどをやってもむなしい、悔しいと思うことがある。でもイラクの友人たちがその報道があることで勇気づけられる。イラクを忘れないでほしい、声を上げてほしいというのを聞いて、やはり続けなければいけないと考えている」という発言が印象に残った。17:00少し前「東京タワーと平和と私」、「Peaceの壁、核廃絶の壁」の報告、高田さんの締めのあいさつで最後まで暑かったPeace Dayもついに閉幕。

東京タワーの真下という開放的な場所で、食べたり、飲んだり、しゃべったり、歩いたりしながらいろんなことを考える、いろんな出会いを次の活動に活かしていく、新しい刺激を得られた1日だった。全体で1,200人、パレードは400人が参加した。

このページのトップに戻る


「歴史認識と東アジアの平和」フォーラム(於・ソウル)に参加して

土井とみえ

9月15日から17日までソウルで開かれた日本・韓国・中国の民間人による第6回「歴史認識と東アジアの平和」フォーラムに参加しました。主催は韓国の「アジアの平和と歴史教育連帯」で、中国側の中国社会科学院近代史研究所・社会科学文献出版社・中国人権発展基金と、日本側の「第6回歴史認識と東アジアの平和フォーラム・ソウル」実行委員会が協力するかたちでした。今回は“変換機の歴史認識と東北アジアの平和”を主題として、韓国で最も古い歴史のあるソウルの成均館大学校の600周年記念館で開催され、3国から80余名が参加しました。

昨年11月3日の憲法集会(於・千駄ヶ谷公会堂)で講演したカン・へジョンさんが講演の後、同時期に開かれていた第5回の京都フォーラムに急ぎ参加したことを思い出すように、フォーラムは日韓中3国を巡って開催されています。フォーラムは2001年の扶桑社教科書問題と小泉首相の靖国公式参拝など日本の右傾化への警戒を契機にして、2002年3月に南京で「歴史認識と東アジアの平和フォーラム――歴史教科書問題」をテーマに始められました。3国の相互理解を基盤とした歴史認識の共有によりアジアの平和を作り出そうという学術的かつヒューマニズム的な運動です。

ソウルフォーラムで開会の辞を述べた徐仲錫・成均館大学教授は、「これまでの学術会議で日本軍国主義者による強制連行と日本軍性奴隷問題をとりあげ、一部の歴史教科書がいわゆる日本精神を称揚することで日本を戦争のできる国にしようとする動きに反対してきた。韓国側は相互理解と協力、平和のためには隣国の歴史を尊重し、大国主義によって隣国の歴史に傷を与えてはならないと繰り返し強調した」と述べました。さらに最近の「作る会」の分裂や、沖縄戦での軍による自決強制の否定や、米国下院での日本軍慰安婦問題決議についてふれた後、「最近の朝鮮半島とアジアの平和は、日本の平和憲法改定問題が際立った進展をみせず、また北朝鮮核問題が解決の方向に向かっている。10月の南北首脳会談は朝鮮半島とアジアの平和に寄与し、朝鮮半島における終戦宣言―平和協定に向けての一歩になる」と東アジアにおける情勢認識を示しました。

フォーラムは4つのセッションを設けて進められ、各セッションごとに日中韓の報告者とコメントを行う討論者、さらに会場からの発言なども交えて行われました。主題の「変換機の歴史認識と東北アジアの平和」をめぐって、第1部は「過去の清算と東北アジア新秩序」、第2部は「歴史教育を通して見た東北アジアの戦争と平和」、第3部は「東北アジア各国の平和運動」、第4部は「歴史教科書と青少年の歴史認識」の課題に沿って討議が進みました。会議は休憩をはさみながら、午前9時から午後6時前後まで熱心に行われ、夜は懇親会などがありました。

また、会議と並行して共同歴史教材作成のための会議も行われました。このフォーラムと関連して2005年に日中韓の3国で各国語により出版され、好評を博した副教材の「未来をひらく歴史」の編成活動があります。この後続作業として、一般向けに東アジアの近現代史の出版の準備を進めています。ここの議論は決まったメンバーにより非公開で行われていますが、苦労も多く、それだけに議論を進めたときの充実感も多いものだと思います。

フォーラムと並行してもう一つ「歴史認識と青少年」というコーナーが設けられ、大学生や院生による討論も行われました。フォーラムは日中韓の青少年の歴史認識の共有を願って3国の青年によるキャンプを始めており、今年は8月に済洲島で行われた成果に基づくものでした。そうした経過の中で始めて設けたコーナーでした。

総括報告と討論で韓国の安秉佑・韓神大学教授が話した、「『転換期』は韓国ではあまりみられない表現だが、いま東北アジアにおおきな変化がある。それが良い方向かどうかはまだわからないが、私たちが変化にかかわらなければならないことは確かだ」という発言は印象的で力強いものを感じました。これまでは歴史認識を学術的で教科書問題などを中心においていた会議でしたが、今回は日本の憲法問題や韓国からは労働問題が報告されたのも特徴的でした。ちなみに日本の憲法問題では「かまくら九条の会」の郡司さんと私が発言の機会を与えられました。また変化する東アジアで日本が取り残されている状態は確かで、市民運動がどうするかが問われていると思いました。回を重ねていても3国の論議には重なりにくいものもあり、中国との違いも感じられました。討議を重ねて近く出版される運びの近現代史編纂の成果に期待したいものです。

台風の影響で雨模様だった会議でしたが、フィールドワークのときは大変天候に恵まれました。ソウルから1時間あまりで北朝鮮が一望できる「オドゥサン(烏頭山)統一展望台」に行きました。ここは38度線より南に入った地帯の国境線で、北東からイムジンガン(臨津江)がハンガン(漢江)に合流してすぐに黄海に流れ出るところです。その日は滔々とした水流でしたが、川幅は最長3.2km、最短はわずか460mだそうです。北のモデル村がいくつかあり、望遠鏡からは集落を人が歩く姿が臨めました。展望台の中には北朝鮮の経済特区で造られた工業製品が展示され、南北の融和が進んでいる様子が示されています。

別の地点では非武装地帯の警戒ラインにある展望台に登りました。その地域は写真撮影がごく一部を除き禁止されていて、地雷があるので歩くところが限定されている緊張したところでしたが、南北2キロずつ、4キロ離れた北朝鮮軍の監視所も確認することができました。厚くバラ線が張られ、投光機やトーチカがあり、前線とはこういうものかと思いました。兵士のあどけなさが徴兵制を象徴しています。

また朝鮮戦争時に、共産党や協力者という理由をつけて南の警察によって多くの地域住民が虐殺されたようです。遺族の証言で、虐殺され、死体を埋めた場所をここ10年くらいの間に発掘したところにも行きました。すでに150から300人ぐらいにあたる人骨が発掘されているのです。小高い丘にあるその20mぐらいの竪穴は、日本占領時代に金鉱発掘のために掘られたものでした。歴史に向き合うということが一人一人に厳しさと、人権とは何かを問い直させ、深めていく過程でもあるのですね。

馬上の花見よりもっと駆け足でみた街並みは、日本とあまり変わりません。憲法9条を国際的なものとして具体化していくためにも人々のつながりは話し合いの一歩からなのでしょう。国内でも一人一人違うのですから、違うことが先にあってのつながりなのでしょう。

このページのトップに戻る


 草の根にはこんなにもすばらしい人がいる 「九条おじさん」1年10ヶ月で9条署名約7000筆

8月14日の朝日新聞夕刊(関東版)に「公園で守る9条」「戦中派78歳、署名集めを歌集に」「若者たち関心高い」という大きな記事が載り、目をひいた。

箕輪喜作さん(78歳)、東京・小金井市在住。05年11月、地元の小金井市に「九条の会・こがねい」が結成されたのを契機に、9条を守る署名を始め、1年8ヶ月で6千筆以上集めた。そしてこのほど、歌集「九条署名の1年」(光陽出版社)を出した、という。

などの短歌も記事の中で紹介されていた。
その後、私は箕輪さんのこの歌集を読む機会も得た。

ぜひ箕輪さんに会ってみたくなった。ツテをたどって箕輪さんに連絡した。8月のある日、武蔵小金井駅で待ち合わせをしていただき、駅から15分ほど歩いたところにあるお宅に同行した。

署名はすでにあと数十筆で7000筆になろうとしているという。休日には近くの武蔵野公園や野川公園で1日50筆くらい集まると言うから、私がお訪ねした翌日には7000筆を超えたかも知れない。

箕輪さんは言う。「いちばん署名をいただいたのは若者で、全体の数の半数、それから40代、50代のお母さん方です。私の経験ですと、ほんとに署名に反対という人は1割くらいで、北朝鮮問題でためらう人が2割、また個人情報にこだわって書いてくれない人が1割、しかしこの人たちは国民投票法には反対です」と。

いつも箕輪さんが署名集めに行くという野川公園にもつれていっていただいた。武蔵野公園と連なっている本当にひろーい公園で、深い森があり、川があり、バーベキュー広場があり、スケボー練習場があり、という具合で、近県からの人びとも含めて若者や子ども連れの若い親たち、近くに東京外語大学や農工大学などもあって学生や外国人も多いという。箕輪さんはこれらの人たちに話しかけ、署名を集める。
歌集にはこんな歌もある。

署名簿は「9条の会・こがねい」が作ったシンプルなもので、

「We Love 憲法 We Want Peace」
請願書 衆議院議長殿 参議院議長殿 請願項目 日本国憲法第九条を守ってください

とだけ書いてある。それに憲法九条の条文が枠で囲んで添えてある。連絡先は市内のキリスト教の教会になっている。

これはシンプルな署名簿でとてもいいと思った。いずれ「5000万署名運動」などにとり組むときは、これがいいのではないかと思った。

箕輪さんは新潟の山村の小学校の用務員を44年間務めて、その後、夫婦で東京に出てきた。その箕輪さんを地元紙「新潟日報」は「過疎に追われ、老夫婦はムラを去った」「110歩分の除雪が引き金」と書いた。公道までの雪かきが必要な私道が110歩だった。日に何度も雪かきをした。身体が耐えられなくなって10数年前、ムラを去った。

新潟での子どもたちや、教師や、村の人びとと箕輪さんの交流は熱いものだったようだ。学校の「小遣い室」を拠点に、若者たちと詩のサークルを作ったり、あるいは出稼ぎ農民を組織して日本で初めての「農村労働組合」を作ったりしたという。箕輪さんの話を聞いていて、箕輪さんの人との対話術、とくに子どもとの対話術はこの箕輪さんの長い人生経験のなかで作られたものであることがよくわかった。

箕輪さんはすばらしいけれど、とてもとても、「箕輪さんに続こう」などとアジれるものではないと思った。箕輪さんは自然体で署名をやっているが、それは箕輪さんの人生経験のなかで作られた卓越したオルガナイザーとしての資質がそうさせているのだ。残念ながら、誰でもまねをすれば同じことができるというものではない。箕輪さんの話から、それぞれ流に学んで、自然体でやればいいのだと思った。署名をやっている中で「私もあなたのように署名をやろうと思います」と言ってくる人も出てきたという。

「これが私の署名スタイルです」と見せてくれた写真には、白っぽい帽子をかぶり、白っぽい布のカバンを肩から提げた、小柄で、優しそうな年輩の男性、箕輪さんが写っていた。カバンにはバインダーに挟んだ署名簿が入っているのだ。

どんな話をして署名をもらうかの実演も聞いた。その話の中でも、十日町小唄も、軍歌も歌うそうだ。やはりこの話術はただ者ではない。

「一言、二言はなせば、どんな人かだいたいわかる」ので、署名のお願いは人をみて法を説くやりかたでやっているという。押しつけはしない。

最初はつっけんどんだったお姉さんが箕輪さんの話を聞くうちに涙を流したり、悩みをもつ若者の人生相談にのったり、ときに歌を歌ったり、ときには公園で同郷人に会えば十日町小唄まで踊るという。スケボーのお兄さんたち、バーベキューにくる集団、みな、箕輪さんの対象になる。右翼に署名簿を強奪されたときも、「こんな年寄りにそんなことするもんじゃないよ」とやんわりと抗議し、公園にいたまわりの人びとが守ってくれたともいう。署名をしてくれる人の中には米軍人の家族も、創価学会の会員もいる、さながら社会の縮図で、ほんとうに公園にくる人びとは多様だ。箕輪さんの家を訪ねてくるひとも多くなったようだ。

私が「駅頭などでの署名と違って、公園は、皆さん、遊びや休みにくるから、話を聞く時間があるんですねぇ」と言うと、「そうなんですよ、聞く余裕があるんです」と相づちを打ってくれた。私たちのチラシ配りでも、有楽町や新宿駅頭よりも、上野公園や井の頭公園のほうがずっと受け取りがいいものだ。

この署名名人の箕輪さんにしてからが、最初は「義務感」を伴いながらの署名活動だったという。当初、回って歩いた一戸建て住宅の戸別訪問は、署名の集まる効率は良くなかったという。1ヶ月で50筆くらいがやっとだったという。

「たたかうこと」「人生最後の仕事」などのことばに箕輪さんの当時の張りつめた思いが伝わってくる歌だ。そして箕輪さんは少年に元気をもらう。

だが、やがて、公園に署名の舞台を変えた。そのきっかけは5月に入って、暑い日が続き、戸別訪問は体力的に無理だと思ったのだ。

「越後魂という言葉があるんですねえ、雪に閉じこめられた中で、雪とたたかいながら辛抱強く春を待つのでしょうか」と私。

「そうです。日本一の豪雪地帯です」と多少、誇らしげに箕輪さん。

箕輪さんはだんだんにこうした人びととの出会いが楽しくなってきたのだ。
「妻も、はじめは私の健康を心配して反対したのですが、この頃は父ちゃんは署名にでると元気が出ると言います」と語る箕輪さん。お茶や葡萄などを出してくれながら、傍らでお連れ合いがうなづき笑っている。

そんなある日、公園で署名した女性の連れ合いが、ある学校の演劇部の顧問だった。顧問先生とその学校の子どもたちは「九条おじさん」の演劇をつくって、上演した。箕輪さんはその上演の日、招かれた。見せて頂いたたくさんの写真で見ると、劇は「九条おじさん」から、明治期の小金井と同じ多摩地方で起きた自由民権運動が生み出した「五日市憲法」の深沢権八(富農)や千葉卓三郎(起草者)役まで登場する、地域に根ざした憲法問題の本格的な力作になったようだ。

その後のある日、公園で遊ぶ子どもたちの中に箕輪さん役ででた少年がいた。箕輪さんを見つけて「本物の九条おじさんがいたよ!」と、子どもたちが集まってきた。箕輪さんは、その時の写真を「これは私の宝物です」と微笑みながら見せてくれた。本物の「九条おじさん」と、やや太めの子どもの「九条おじさん」が1枚の写真ににこやかにおさまっていた。

帰路、さわやかな風が身体に吹き込んだ思いがした。草の根にはこんなにもすばらしい人がいると思った。小金井まで会いに来てよかったと思った。(高田健)

このページのトップに戻る
「私と憲法」のトップページに戻る