私と憲法71号(2007年3月25日)


改憲手続き法案は廃案にして出直せ

衆議院憲法特での公述人発言要旨(高田健)

焦点の改憲手続き法案の問題で、3月22日、衆議院憲法調査特別委員会の公述人として、出席し発言する機会があった。最初に20分の発言をした後、自・公・民・共・社・国民各党の委員からそれぞれ20分づつの質疑応答を受けた。

以下は冒頭の発言の要旨。
私は2000年1月から5年半にわたる憲法調査会の実質審議をほとんど傍聴した。これらをつうじて「はじめに改憲の結論ありき」の調査会だったとの印象を強く持った。それは「憲法がこの社会でいかに実行されたか、されなかったか」という運用実態の検証を経ないままに「憲法制定経緯の検証」「21世紀日本のあるべき姿と憲法」という、意図的に改憲のための結論を誘導するようなテーマ設定で議論がすすめられたことにも見られる。

3月15日の憲法審査会の強行採決はとりわけ異常だった。これまでにない運営だった。憲法を審議する委員会で与党はなぜかくも審議日程を急ぐのか。こうしたやりかたは憲法を安倍内閣と与党の党利党略で私するものだ。

憲法調査会の中で言われてきた「改憲手続き法」は立法不作為をただすもので、改憲の意図とは切り離されたニュートラルなものだといういう与党の説明は、すでに安倍首相によって否定されている。首相は「任期中に憲法を変える」「憲法を参院選の争点にする」「改憲手続き法のこの国会での成立を期待する」と述べ、その意図を明らかにした。民主党の委員は「憲法改正手続き法は改憲論議が高まらないうちに、静かな環境でつくるべきだ」といってきたが、すでに自民党は「新憲法草案」を発表し、米国は「アーミテージレポート2」などで日本の改憲努力を促している。すでに「静かな環境」ではない。このような中で改憲手続き法は強行されるべきではない。

法案自体の問題は、与党案と民主党案の相違点にのみあるのではない。だされようとしている修正案そのものにも問題点が多々ある。民主党案が持っている一般的国民投票の問題は重要だし、投票権者の年齢の問題でも民主案に含まれていた16歳の問題も、投票総数の過半数の問題も重要だ。これらが民主党の調整だけで変えられるのではなく、議論の内容がひろく明らかにされなくてはならない。

一括投票の危険はいまだに存在する。自衛軍規定と海外派兵と公共の秩序の維持は本来、別々に問われなくてはならない。放送時間や製作費など資金量で決定的な差が出るTV、ラジオの有料スポット・コマーシャルの放任は危険で、金持ちのための自由の保障だ。一方、国民投票なのになぜ政党のみに公費広告が認められるのか。常設の「憲法審査会」は手続き法のワクを跳び越えるもので、法案の中に入り込んだ「異物」だ。ここで「憲法の調査」と「法案の原案づくり」をすすめることは、解釈改憲と国会議員の99条軽視の風潮を促進するおそれがある。60~180日という国民投票運動の期間はあまりに短すぎる。熟議期間が必要だ。ましてことは9条問題ではないか。

ほかにも公務員・教員の運動の制限、最低投票率の規定がないという問題などなど、議論すべき問題は多々ある。これを無視して採決が強行されるべきではない。参議院では週に2回審議をするなどという報道すら流れている。議会の軽視もはなはだしい。この法案は一旦、廃案にして出直すべきだ。

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第20回市民憲法講座(要旨)

いま、子どもたちはどうなっているか

青木 悦(教育ジャーナリスト)さん

(編集部註)2月24の講座で青木さんが講演した内容を編集部の責任で大幅に要約したもの。要約の文責は全て本誌編集部にあります。

「朝日中学生ウィークリー」という新聞が1975年に創刊され、私はその創刊時に記者採用に応募して記者になったのが新聞記者としての出発で、30年になります。私にも一人っ子の男の子がおりまして、今年の5月で30歳になります。身体があんまり私は丈夫ではないので、一人やっと授かったと私たちは喜んで育ててきたんですが、つい先だって柳沢大臣が「二人以上という健全」という言い方をされまして「うちはやっぱり不健全なんだね」なんて二人で話をしました。一人でも結構傷つくんです、一人っ子はどうだこうだとか、「うちは男の子ひとりです」っていうと「女の子もいいわよ」とか「二人目は?」とかいろんなことを言われてきました。

うちの子が困ったのは勉強が大嫌いなのとバイクに乗る子でしたが、25歳から急に理学療法士になりたいと言い出しました。これはバイト先の障害のある子どもさんとの出会いが出発だったようです。25歳から猛勉強を始めました。私たち夫婦も人の親になった以上一度言ってみたいセリフ「あんまり根詰めたら身体に毒よ」と言ってみたかったんです。25歳でとうとう言えました。去年の秋「一緒に暮らしたい人が見つかりましたので僕は出て行きます。ながながお世話になりました」なんてあいさつをされて出て行きました。どうにか自分の道を歩き始めたようです。自分自身も子育てをしながら教育の問題を追う30年間でした。そういう意味では自分の子どもがすっすっすっと行く子ではなかったところが逆にひとつひとつ引っかかりを与えてくれた気がします。

「幻の子ども像」

昔の子どもも親に全部本音なんか言っている子はそういなかったんですけれども、ここ一番というときは言わざるを得なかった。例えば学校で高価な窓ガラスを割ったとか、お金がらみが多かったと思うんですが、大学に行けるのかも親と話をしていたような気がします。いまの子どもはまったく逆で、つまんないことはしゃべるんです。でもここ一番、自分がひどいいじめを受けているとか暴力を受けていることはしゃべりません。だから、なぜ一番助けて欲しいときに子どもが親にしゃべれないのかをずっと私は追ってきました。子どもの言葉としては「お父さんをがっかりさせたくない」「親に迷惑をかけられない」、そんな言い方をします。どうしていじめを受けることが「迷惑なこと」なのか、どうしていじめを受けることが「お父さんをがっかりさせること」なのか、私はひとつひとつ引っかかりました。そういう子どもたちの言い分を「親思いですね」って言った方が多いんです。

でも私は親に気を遣って本音を言わない子どもたちのことを「おとなの幸せの方を優先している」ととらえました。子どもはおとなの幸せを優先したとき自分をずっと押さえ込んでいくことはありますので、そういうことが全体的に広がっていると思うようになりました。背景に親の中に「幻の子ども像」というのが育ち上がっている。それはスーパースターのような子ども像です。「朝は起こされなくてもひとりでさわやかに飛び起きて、前の晩に自分で用意した清潔な衣服を順番を間違えなく速やかに身につけて、朝から生野菜を好き嫌いなくもりもり食べて、忘れ物の一切ないカバンを持って元気に飛び出す。学校に行ったら体調が良かろうと悪かろうと常に積極的にハキハキと全教科まんべんなく関心を持ち友達にもやさしく、校庭の隅っこに咲いている小さな花に感動する心も持ち、最後はテレビを見ないで早く寝る」という子ども像がたくさんの、私も含めてですが、親の中にくっきりと育ち上がっている。それと我が子を比較して気に入らないことばかりが目についてしまいます。

これは数年前から学校の道徳の授業で使われている「心のノート」とぴったり一致するものですね。「心のノート」が学校版の「幻の子ども像」です。私が20年前から言ってきた親の中の「幻の子ども像」は家庭版の「心のノート」で、もっと簡単な言い方をしますとおとなの建て前の中のスーパースター像だけを子どもは評価の対象とされて、それを一生懸命に演じる中で疲れきってます。その中のいくつかが「事件」といわれています。少年犯罪が右肩上がりに増えていることもありませんし、年齢が下がり続けていたり、中身が残酷化し続けているデータも具体的にはありません。でも実にたくさんの人がそう思い込まされているし、不安を抱えています。そういう中にいくつかはこの「幻の子ども像」に寄り添った結果疲れてしまって事件で人生を降りていった、あるいは自殺と同じ心情で事件を起こしたと考えざるを得ない事件もあります。

去年、奈良県の「進学・名門校」といわれている中高一貫の私学に通っていた16歳の少年が自宅に火をつけて、お母さんと幼い弟、妹が亡くなる事件がありました。彼はそのあと家を出て京都で民家に忍び込んで「ワールドカップを見たかった」。おそらくワールドカップも見ることを許されない環境の中で勉強ばかりしてきたんだろうと思います。私は事件の関係者の手記を丁寧に読みます。この事件も何ヶ月か経ってお父さんの手記が大きく新聞に載りまして、そこにマスコミが取材できていない新しい事実が出ておりました。大変厳しく勉強を見張っていたのがお父さんだったようです。お医者さんですが、子どもさんを勉強させるために特別な部屋に子どもを入れていた。私がびっくりしたのは幼稚園の時から入れたというんで、「この事件は児童虐待の事件に入っちゃうな」と思うくらい衝撃を受けました。そういうお父さんの中にきっと「幻」があったんでしょう。親が勝手に幻を描いて生身の、本物の我が子が見えなくなっている。それを子どもはよーく感じ取っているために逆に親に弱音を吐けない、親が考える「幻」の方を先に演じてしまう、そういうことが起きているのではないでしょうか。

安心できない友達関係

本当に今の子どもたちは友達関係に気を遣っております。私はいじめという問題を「いじめ」としてではなく、子どもたちの友達関係ということで取材を始めました。私からみてとても仲良しだと思われるグループの中ですさまじい「仲間外し」が起きていました。誰にも知られないように行われていくんです。学校の先生がいじめに気付かないなんてマスコミが怒っていますが、気付かないことがいじめの「楽しさ」ですから、いま大変誤解を恐れずにいっているんですが、いじめをやる側の子どもたちは先生に知られないようにすることが大変な「スリル」なわけです。知られてしまったらしらじらっとやめてしまうこともあるわけで、この気配りが大変気になったんです。

例えば女の子たちの交換日記があります。数年前に長崎県の佐世保で6年生の女の子が同級生の首をカッターナイフで切る事件があってから交換日記が禁止になった県が結構あります。これは佐世保の事件の背後に交換日記があったことの証明ですけれど、報道にはあんまり大きくそれが出なかった。カッターナイフで切ってしまった女の子は交換日記をずっとやっていました。この中に結構すさまじい現実があります。日記が回ってきたときその子の書くべきページは全部のり付けされていたり、まわり5ミリほど残して全部切り抜かれていたことがあります。私は、交換日記なんてやめればいい、はじめから参加しなければいいと思うんですが、どうしてもそこに参加してしまう。そういう子どもたちをずっと見ていて、おとなが考える「あの子たちは仲良しグループだ」というとらえ方はどうも間違っているんじゃないかなと思うようになったんです。

小6の女の子たちの会話

――気配り 約束 メールの絵文字 衣替え
16、7年前になりますが、小学校6年生の女の子たちに教えてもらいました。その子たちはいま30歳くらいになっていて、子育て中の年齢ですから、親たちも友達関係でものすごく気配りをします。いじめをいっぱい体験してきた人たちが親になっていますので、大変びっくりするような現状が広がっています。当時、この女の子たちは、明日からその場にいないひとりをはずすというんです。はずすというのは、みんなで口をきかない、完全な無視をするという。びっくりしまして「その子どんな子なの」と聞きますと、えばっている、自慢する、命令口調、何でもひとりで仕切る、大嫌い、そういう言葉が返ってくる。それって全部本人の性格じゃないか。持って生まれた性格だったら私が子どものころは当人同士言い合う中で解決していました。だから子どもたちに言いました、「なんでそんなことでシカトするの、本人に言えばいいことでしょう。命令口調嫌いだわ、何でもひとりで勝手に決めないでよって言えば」って。子どもたちは「えー」っていう声を出しまして、「そんなこと言えるわけないじゃん。絶対ムリ、何にもわかってないんだから」。「何で」って言いますとひとりの子が「だって悪いじゃん」。

わかりますか、このわけのわからなさ。こどもたちはさらに、「本人に本人の欠点を直接告げることは深くその子を傷つける、だから絶対言ってはいけない。だって私たち友達だもん」。ここではっとしたんです。子どもたち「友達だから本当のことを言ってはいけない」と言ったんです。私が子どもの頃は本当のことを言えるから友達だった。「友達」っていう言葉の意味がもしかしたらうんと違っているのかもしれない、初めて気がついた瞬間です。どうしても私たちは自分が体験してきた子ども時代の体験の方を「正しい」と思い込んで批判の目で最初から子どもを見てしまいますが、「違うんじゃないか」と思ったとき、多くの子どもたちが「友達」、「親友」、「仲良し」という言葉の横に「緊張感」を抱いている現実がみえてきました。この緊張の中で「気配り」、これを友達づきあいと思い込んでいる子たちがたくさんおります。特に女の子たちの「約束」という言葉がとても気になりました。あの子と約束したらこの子と約束できない、「何で」と思うんですが、これがおかしいと言っていると全然子どもの実態がつかめない。そういう事実があることを自分が認めるまでに結構時間がかかったんです。

いま子どもはメールでいっぱい交換しますが、女の子たちのメールに絵文字がないと「怒っている」と思われるんだそうです。だから一生懸命絵文字を使うなんていう気の遣い方をします。それから「衣替え」というのも、これはあるお母さんから教えてもらいました。中学生の女の子どもさんが朝御飯を食べながら、「あぁ今日は衣替えなんだ、しんどいな」とため息をついた。ふつう衣替は6月1日ですね。お母さんが「何言っているの、まだ先じゃない」というと、「そうじゃないの、友達のグループ替えがあるの」。これは先生が全然知らないグループ替えです。子どもたち同士でリーダーの子がいろんなふうに命令してグループが替えられる。それを「衣替え」っていったりします。バレンタインデーでも「友チョコ」が今あります、特に女の子たちの中で。女の子同士がチョコレートを贈りあいます。気になるのは、「事前にわかっている」ところがいじめとつながっていく部分です。この「友チョコ」も「あなたにあげるからね」って決めていくわけですけれども、入れない子がいるわけです、当然。ここに入れない子どもが大変疎外感を感じたりするということもあります。

「いじめとは」

「いじめ」という言葉は私も使いながらすごく嫌だと思うんですが、わかりやすくするためにふつうに使わせてもらいます。とてもいじめで気になっているのは、昔と今の「いじめ」の違いがごちゃまぜです。何もかも「いじめ」という言葉に区切られていきまして、幼児のトラブルもいじめと言っている。ちっちゃな子どもたちはトラブルがあって当たり前だと思います。若いお母さんたちから子どもの友達関係に関する相談を192個並べて、それに答えを書いた「幻の子ども像」という本を出したことがあります。読んで欲しいのはお母さんたちの相談の部分です。この中に、「うちの子は人間関係をつくるのがすごく下手です。このままいったら閉じこもりになって社会的事件を起こしてしまいます」なんていっている人がいます。「お子さん、おいくつですか」と聞くと「2歳半だ」といいます。「2歳半の子に人間関係は無理ですよ」って話します。

3歳の子どもさんがお友達におもちゃを気持ちよく貸すことが出来ない、と真剣な顔で言ってこられます。それを聞いているうちにだんだん怖くなっちゃったんです。幼児や小学校低学年くらいの子どもたちなら友達と執着心をめぐってけんかになるのは当たり前だと思うんです。しかしかなりの数の子育て中の方たちが、この年代の子どもが気持ちよくおもちゃを自らの意思で分け与えて手をつないで「お友達ね」ってやる姿が当たり前だと思い込んでいる。そうするとおもちゃに執着している我が子ははなから「駄目な子」ということになってしまいます。ごく自然な子どもの姿がもう駄目な子って認定されてしまう。ちっちゃな子どもたちのトラブルも全部マイナスとしてとらえて、それを「いじめ」という言葉で表現する方がたくさんいらっしゃいます。

昔と今の「いじめ」のちがい

私がここで昔と今のいじめの違いと出しましたのは、年齢が高い方たちにとっても困った傾向を感じるんです。東京都知事なんかその代表です。「昔もいじめはあった。軍隊の中でも疎開先でもいじめはあった。でも昔の子どもはみんなそれに耐え抜いてきた。今の子どもはすぐ死んでしまう」。この言い方にむかっとくるんです。「すぐ死んでしまう、弱いんじゃないか」、この言い方です。これは都知事が代表的に「正直」に言う方ですが、結構たくさんの方が本音の部分でそこを持っています。健全育成会なんていうところの依頼で講演に行きますと、終わったあと必ずそれを言わなければ収まらない方が何人かいらして、その部分には反論をしますが、昔のいじめと今のいじめは全然違います。そういう場合の前提として、私はすさまじい暴力とか、高額なお金の恐喝――これは犯罪として別個に分けます。言い方を変えますと今「いじめ論」として論議されている問題の根っこには少年法の問題がぴったりとセットになっています。ここのところもしっかりとおさえておかないと結局は少年法の厳罰化が行われたときには子どもたちはもっともっとつらいところに行ってしまうわけです。

私が言ういじめは60年代の終わり、70年代の初め頃から学校という集団の中で始まった。いちおう平等といわれる子どもたちの中で、部活やクラスで、ある日突然のように始まる仲間外し、ひどいからかい、そういう部分をさします。戦前、軍隊や疎開先であったいじめは典型的な「弱いものいじめ」。力のある上官が下のものを、あるいは古参兵が新兵を、疎開先で食べ物を持っている人が持っていない人をいびったりすることをいじめといったわけですから、これは「弱いものいじめ」です。ところが子どもたちが70年代くらいから始めたクラスという集団での突然の仲間外しは私に言わせれば「弱いもの探し」です。弱いものとしてレッテルを貼る行為です。弱いからいじめられるんじゃないです。いじめられるから弱くなるんです。

戦前のいじめは弱い側の人間にある意味で「戦意」の感情を持つことが出来ました。「なにくそ」とか「今に見ていろ」とか「冗談じゃない」とか。石原都知事なんかも「耐えることが出来た」とよくいうんですが、それは戦後になって私たちが憲法を手にしてから「あれは不当なことだった」という認識があって、「すり替え」が行われて自分たちは耐えることが出来たと言っている人が結構多いのじゃないか。戦後の憲法の基本的人権を私たちが手にする以前に、不当だという認識を持ち得たのかどうかはどうも疑問を感じております。だから戦後、憲法で得たものによって戦前自分が耐えられたと美化している人たちが結構多いのかなと思っています。そういう中で「いまの子どもはいじめに耐える力がない」なんて、冗談じゃないって私は思います。

いつ頃から、なぜ  「やりすごす」ものとしての学校

60年代の末くらいから、競争によって子どもたちがどんどん分けられていきました。この分けられていく中で、平等であるという「個に耐える」ことは結構難しいことで、片方で偏差値という問題もありますから順番をつけないと落ち着かないどもたちが、とりあえず弱いものを探していくことも「弱いもの探し」につながっていったのかなって思っています。子どもたちが大変忙しくなって、ゆっくりけんかしているひまも時間も場所もなくなって「けんかの技術がない」ということになります。「安心できない家庭」も「追い立てられる」ことも、勉強がありますし、虐待の問題なんかもあります。それから「子ども集団の減少」もあります。よく昔の子どもはガキ大将がいていじめないですんだなんていうこともありますが、一部分は確かにそうです。私は子どものころ家に帰ってきたら学校とは全然違う瞬間が家の近くにありました。学校で評価される優等生はなぜか本当にちっちゃくなってるような価値の転倒が子どもの中にいつもあった。いろんな子ども集団がたくさんあることを認識できる大事な場所だと思うんですが、それが減少して全部学校に集中していった。当然のように学校では勉強しなければいけませんので、静かにするとか、仲良くするとか、そういうことが求められていきます。個人を抑え込む方向へ、学校は「場」から「組織」へと政治的にどんどんどんどん変えられていった。

この競争の中で、40歳の女性が言ったんです。「いつも友だちにはウソをついた。勉強したでしょ?と言われたら、すぐ寝た、いい点とったでしょ?と言われたら、んなわけないでしょと。だから相手の言葉も信じなかった。友だちってそんなもんだと思ってた。青木さんたちはどうしてそんなに、友だちを信用できるんですか?」。何人もの人から、こういうふうに言われます。「安心できる友達なんて、自分は体験したことがない」。こういう中で子どもにとって学校はやり過ごすものになっていっている。勉強は塾でやります。私の息子が中学生の時に「結構大変なんだよ、学校って。男の子が5、6人集まるでしょ、そしたら瞬間的に判断しなくちゃいけないんだ。このグループの中で一番強いのは誰か、自分はその子から見て何番目に位置するか、自分はこのグループの中で何を要求されているか、お笑い系か腕力系か下っ端か、その辺を瞬時に対応しなければみんなをいらいらっとさせてしまう。このいらいらが仲間外しにつながってしまうんだ」と言われた。私は息子に心から「大変なんだねー」っ言っちゃったんです。そしたら息子が「そうだよー」って実感を込めて言ったんです。

こういう中で子どもたちがよく言う言葉として「目立たないように」、「空気を読んで」、「やり過ごす」。

「政治によって変えられた学校」

私は1946年の生まれで、憲法と同い年です。生まれた翌年に教育基本法が制定されます。私は軍人だった父に殴られ蹴られながら大きくなりました。戦争をそのまま親が引きずっている中で育ちました。小さいときから殴られ蹴られて育つ子どもが自己否定の気持ちをどんどん強くしていくことはみなさんご存じだと思います。自分が大嫌いで、私は生まれてきてはいけなかった人間なんだ、死ぬことばっかり考えて中学生時代まで行きます。一方、1957年には「勤評実施」です。「勤務評定」に対して、全国的に反対の運動が広がった。私が生まれ育った高知県は、最後まで勤評闘争を教師たちがたたかった県でして、57年から60年までまる4年間、私の小学校5年生から中学2年生くらいまで、先生たちの勤評闘争の姿を横に見て成長しました。中庭で先生たちが集会をやります。窓から顔を出した生徒たちが「先生頑張って」、先生は「おう」なんてやります。

社会科の授業の時に勤務評定はどういうものか、先生が黒板に書いて説明してくれます。忘れられないのは「みんなも学校の成績で5・4・3・2・1とつけられて腹が立つ時があるだろう。今度は自分たち先生も5・4・3・2・1ってつけられそうになっている」。そうしたらある生徒が「自分たちもつけられているんだから先生もつけられたらいいじゃないか」と言いました。それを先生は別に怒るでもなく、「うん、すごく気持ちはよくわかる。でも自分も人間だから、本当はみんなの方を向いていたいんだけれども、点を付けられたらどうしてもつける校長先生の方を見てしまうんだ。そうなるのは絶対嫌だし、最後まで反対する」ということをわかりやすく説明してくれます。私たちは、先生たちが自分たちのために頑張ってくれている部分もあるんだな、と思うところもありました。

中学校1年生の時、私は学校の先生に助けられました。私は死ぬことばかり考えていた。家庭の暴力は外には隠し抜いておりましたので、誰にも言えないと思って。不良になりたかった。でも、5歳上の兄がさっさと実行していたもので、私までなったらお母さんかわいそうと思って、それもできない、いい子のふりをしていました。そういう私にある男の先生が近づいてきて声をかけてくれました。この先生はひどい吃音があって男の子たちからはからかわれていましたが、教科担任でした。その先生がいつも学校で会うと私の顔をのぞき込んで、「よう、がんばりゆう」、そう言って行ってしまいます。また出会います。「よう、がんばりゆう」。これを言うのがやっとです、先生自身が。この「ゆう」っていう語尾は土佐の方言で、東京の言葉では「よくがんばってるなー」というため息と、「よく続いている」というのが一緒になったようなニュアンスです。まるごと頑張っている私を認めてくれる言葉として届きました。私はもう、「頑張れ」はたくさんでした。だから「がんばってるなー」という言い方に初めて救われた気がしまして、本当に13歳で初めてでした。

私を見ていてくれるおとなもこの世の中にはいるなと思いました。私はこの先生に自殺を防いでもらったと思っていたんです。そしてずっと後になって、もっと大事なものをもらっていたなと気がつくことになりました。それまでこの世に生きていても意味がないくらいに思い詰めていた私が、「いてもいいんだ」と思えた。受験に出でてくるから基本的人権は大事ということは言葉として知っていても、それを認められた自分の実感としてそれを理解したのはこの時だったんじゃないかなと、あとで思ったりしました。

61年に全国一斉学力テストがありました。高知県は先生たちが全部これを拒否しました。全国1位が香川県、全国2位が愛媛県です。四国は4県しかないのに徳島と高知は参加せず、拒否しています。この愛媛県ですさまじいことが行われたのが大田堯さんの本に具体的に書かれています。学力テストがある日に勉強が特別出来ない子あるいは「障害がある」といわれる子が休まされた。さらに席替えが行われてよくできる子の横にできない子が並ばされる、おそらく見せたんだろうとはっきり書いておられますが、そのあと集められた答案にも手を加えられたあとがある。学校同士、県同士の競争で、そういうことが行われたことが書かれていて、これを教育の退廃といわなくして何というと大田さんは書いていられます。本当にそうだと思います。もちろん先生が全部よかったなんていうつもりは毛頭ないですが、教師集団としてたたかっている姿は、困難な中で苦しんでいる私には何か希望のようなものが届いてきたことは確実に言えると思っています。

学力テストが行われた中学3年生のとき、修学旅行がありました。私たちのクラスには3人くらいとのびっきりのワルと、先生たちが大変っていう4人くらいの生徒がいました。この先生たちが大変っていう生徒は、ひとりは学校でひと言も口をきかない子です。もうひとりはいつもいなくなっちゃう子です。1クラス58人でしたけれど、クラスに必ず3、4人はいまだったら「障害」といわれる子たちがおりました。修学旅行に行く前に担任の先生に呼ばれまして、私はクラスで結構優等生だったんですが、2番手に優等生だったみはるちゃんっていう女の子とふたりで、大変な4人をお前たちが修学旅行で面倒を見てほしいと先生からいわれました。修学旅行の時に、その親たちから私たちふたりは手を握って頼まれました。結果的に私は天王寺動物園とか法隆寺とか行ったらしいんですけど、どっこもおぼえていない。もう行方不明になった子を探し歩いている焦った気持ちばかりが記憶に残っています。点呼のときにいなくなった子の場所をいつも知っている子が、ひと言も口をきかない子だったんです。その子が、私の袖を引っ張っていって連れて行かれたら、そこにいることが何度もあり、無事に帰ってきました。でも大変大きく影響を受けたのはそのみはるちゃんと私でした。みはるちゃんは人格まで変わったかのようになりまして、修学旅行の話になると「楽しかったね」って騒ぐのはみはるちゃんです。みはるちゃんも天王寺動物園も法隆寺もおぼえていないんです。でもその時に私たちがもらったものはすごく大きかったんですが、そういうことがどんどんどんどん削られていく時代が始まっていきます。

75年以降、私は何年間かの空白を経たあと学校現場に取材に入りますが、その時の学校のあまりの変化にびっくりしました。校内暴力一辺倒といわれていた時代からの取材でした。学校で救われることをいまの若い方たちに言うと「そんな昔の話をされてもしょうがありません」といわれますが、あったことは事実です。あったことは書いて残しておかないとなかったことになってしまう、なんて思って大変いま焦っています。その頃いまの子どもたちがやっているようないじめは自分のまわりでは見たことがありません。小さなけんかはいっぱいありました。強い子が弱い子をやっている場面も見ました。でも必ず誰かが止めに入りましたし、弱い子どもをいじめることは卑劣なことだというのは共通認識としてあったような気がします。学校で救われた時代が確かにありました。

96年の「小選挙区制」、それからあとの教育基本法。いじめの問題が去年の秋からわーっと取り上げられまして、講演に行ってもみんなが「いじめのこと、いじめのこと」っていっているあいだに教育基本法はするするするっと通っていってしまって本当に悔しい思いでおります。いまからでも遅くはないんで問題点はやっぱり言っていきたいなと思っております。

いま思うこと、そしてこれから

憲法が「なし崩し」にされる中でいじめは広がっていった。いじめとたたかう支柱が憲法の基本的人権である、憲法を守ることがいじめを防ぐことになるということです。教育基本法の改悪はいじめ報道を利用して進められました。いじめの報道は特にテレビがひどいです。うそはないのかもしれませんが本当のことは全然出てきていません。断言できます。子どもが起こす事件に関しても本当のことはなかなか表に出ない構造があります。

ある少年が起こした事件でも、その少年は確かにひどいことをしたんですが、被害者とされた子どもの親御さんがいわば暴力を仕事にしている人で、その街を抑えこんでいる人でした。そのお父さんの威を借りた子どもが他の子どもたちを支配している、それに対して反旗を翻してその子に暴力を振るった子が「加害者」として新聞では責められていきました。その子は、もうその街には帰れないと死のうとして逃げ出していくんですが無事に身体は助かりました。新聞は父親の職業は暴力団なんてとてもじゃないけど書けないわけです。本当のことを街の人は皆知っているんです。でも、ちょっと離れた地域の人には加害者、被害者が全然わけがわからないまま、純粋にきれいな子ども同士のたたかいみたいに取り上げられてしまって加害者、被害者が認定されてしまいます。

昨今起きているいじめの自殺でもいじめられて自殺、あるいはいじめたことを叱られて自殺したというのも千葉県でありました。その背後にも実に様々なきわめて暴力的なおとなの要素が絡んでいる。もう10年以上前になりますが福島県のいわき市で中学生の子がいじめられて、山の中にあるあるお父さんの仕事場で自殺をしました。この子が毎日1万円から1万5千円を恐喝されていたんです。恐喝されてお金が払えないと殴られる。それから全員がおしっこをかけた草を食べさせられていました。この恐喝をしていた子の後ろにいるのはその学校の先輩です。その後ろをずっとたどっていくとその街の暴力団です。こうなりますともう学校の先生だけではどうしょうもないわけです。だから「いじめの張本人」というときにどこを区切って言うかで全然違ってしまいます。そういうことを丁寧に報道しないままやった側、やられた側って乱暴に分けて報道されています。

自殺がそこに入ってきますと私たち書いたりしゃべったりしている人間がつらいのは、死んでしまった人間をさらに引っ張り出して客観視するのはとても難しい。だから本当のことは死という現実があったところで追及が終わってしまいます。テレビは、新聞もそうですが、いじめの報道がこの自殺から始まっていくんです。そのために加害者、被害者が非常に乱暴にくくられて、見ている私たちは感情ばっかり煽られていきます。死という現実の前で、本当にかわいそうだと思いますので、「気の毒に」、「どうしてここまで放置したんだろう」という気持ちが前に出て、そのために冷静な判断がどんどんどんどん遠のいていってしまう。

そういう報道の中で「教育はどうなっている」、「教育は問題多々あり」っていいますがこれは全然違うことです。いじめのムードで煽られていることと教育はどうなっているっていうこととは立っている場所も違うことです。けれどもムードとしては教育基本法を変えることも仕方がないじゃないかとか、それから若いお母さんたちから「教育再生会議は結構新しいことを打ち出しているじゃありませんか、何でもいいから変えていかないとちっとも良くならないじゃないですか」という言い方が少なからずあります。「変えりゃいいっていうもんじゃないでしょ」という言い方が、またここではうんと浮いてしまうんで、「実はね」っていっていろいろ歴史をひもといたりして話をしていくんです。

教育再生会議の危険性

教育再生会議で「いじめた子を出席停止」というのが取り上げられています。私はこのごろ開き直っているんですが、一度、やってみたら初めていじめってわかるんじゃないかなと思うんです。例えば自分の子が「明日からお宅の子は出席停止にします」といわれたら、どの親でも「いつの、どの事件のどの時のことを指して出席停止になったんですか」って当然聞くと思います。そうすると何月何日の誰それちゃんに対するこういう行為だと、そうすると去年も同じようなレベルのことがあった、その時はそこにいたその子は誰にも認知されないまま出席停止にならなかった、どういうことなんだってどんどん広がっていきます。これは現実に実行されたら大変なことになるというのは現場の先生たちはよくわかっておられますので、冗談じゃないっていっています。けれども、一般の人たち、特に子どもが現在自分の身近にいない方たちはやった方がいいんじゃないかという方たちが結構多くて、「おかしい、おかしい」と一生懸命説明をして歩いています。

新しい教育基本法の第10条に「家庭教育」が入っております。「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」。私はこれを読んだときに「できるわけないじゃん」とつぶやいてしまったんです。いま「赤ちゃんポスト」なんていうのが取り上げられておりまして、安倍総理が、自分は反対だ、ポストという言い方が気にくわない、「子供を産む以上、親は責任を持ってきちんと育てなければいけない」と言っておられました。それはそうだって私も思いますが、「だから」って次が何かあるかと思ったらなんにもないんです。建て前のきれいな言葉だけで対応するだけです。この「家庭の責任」という言葉はいろんな「逃げ場」にこの条文がなるんだろうなって思います。

以前はなかった11条の「幼児期の教育」も、「親学」という言葉が再生会議の話し合いに出ています。「親業」というのが数年前からあるんですけれども、親になるになるための「学」、要するに勉強をたくさんの人たち、子どもたちに課していこうということがどんどん入ってきてしまう。正直に言いまして親はさらに追いつめられる。いまだって二極分解です。ものすごく熱心な親御さんはすごい勢いで子どもに向かって一生懸命です。片方はもう「あなた、子どもをなんで産んだの」っていいたくなるくらいまったくの放置と言えばいいのか、そういう二極分解が確かにあります。むしろ一生懸命すぎる親の方がすごく大変になるんじゃないかと思います。子どものことを全部家庭の責任とされてしまうということで。「本当はみんなで育てていくものだったのに」というのをもう一度思い出したいなっていうふうに思います。

先ほど「政治によって変えられた学校」という部分を歴史的にたどって説明した会があったんです。そこにいた若い方に「そういうマニアックなやり方は」と言われました。私はすごくショックを受けまして歴史的にたどりながら、そして自分がその時どうだったのかって考えていくことはもう「マニアック」と言われちゃう世界なのかなって思いました。でもそういう言い方に対してやっぱりめげずに、どんなに「うざい」と言われようと、ある意味では時代遅れと言われたりすることもあるんですが、やっぱりたどることはきちんとたどっていかないと腹の中の言葉として表現できませんので、実感を失わないで歴史をたどることはしていきたいなと思います。

いま起きている出来事を

個の力が育っているという視点で考える
いま起きている事件は教育が悪かった、育て方が悪かったからだという言い方がされるんです。去年の暮れにふたつあった、歯医者さんの家のお兄ちゃんが妹さんを殺したらしいという事件と「セレブなご夫婦」っていう事件です。これは本当のところはまだ全然わかっていません。このふたつの事件は20歳と32歳ですからどちらも少年事件じゃないんですが、「少年犯罪」だと思っている方が結構いらっしゃる。ここは大きなカラクリで、子どもの世代が起こす事件は全部少年犯罪みたいな括り方が感覚的にあります。ふたつの事件の加害者、被害者の4人の共通点は「有名校」が全員にくっついています。ちょうど私はあの事件の後、福岡に行くことがありまして、被害者の夫さんが福岡の出身だったので出会う人に出身校のことを聞きましたが、みんな「この辺ではトップです」「うちの子を入れたいとみんな思う学校です」という答えでした。こういうシステムの中でとらえていくならまだしも、育て方が悪かったから子が親を殺すのか、みたいなところでとらえていく言い方に対しては、そうじゃなくて個の問題で考えていきませんかっていう提案をそういう人たちにしていますが、これも時間がうんとかかります。

いま学校教育法11条の体罰禁止がどうなるのかをハラハラする思いで見ております。子育て中のお母さんたちにこの体罰禁止条項がなくなることはどういうことか考えたことはありますか、なんてちょっと脅しのようなことも言ったりしながら話をしています。自分の子どもはそういう目に遭わないと思っている方がとても多いんですね。いじめなんかも「いじめられる」ということばっかり言う方が多くて、自分の子どもが「いじめる側」にまわると思っている方は本当に少ないです。確率からいったらいじめる側にまわる方がずっと高いですが、いじめは話しているうちに消えてしまって、いじめられた体験を語る人はいっぱいいます、泣きながら。それから我が子がいじめられるんじゃないかって不安を訴える人もいっぱいいます。その辺を歴史をたどりながら、私は憲法が最後の根拠になると思います。この憲法が変えられていくことに対しては何としても阻止しなければって教育の問題をやりながら痛切に思います。

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市民一人一人が呼びかけ人になって STOP!改憲手続き法 3.12国会へ行こうアクション(第1波)報告

 安倍首相は「改憲手続法案」の「5月3日までに成立」が無理と見るや、今度は「今国会中に成立を!」と、衆院憲法調査特別委員会へ圧力をかけている。中山委員長は3月8日、「職権」で委員会を開き「中央公聴会開催」を採決しようとしたが野党(民主も含む)の猛反撥のもとで、この日の委員会は多くの傍聴者が見守るなかで「流会」となった。

3月12日、このような緊張のなかで「改憲手続法案」を廃案へ市民の声をひびかせようと、「国会前アクション」が行なわれた。「9条改憲」に反対し「改定教育基本法関連3法」「米軍再編特措法」「少年法改悪」「共謀罪」「イラク派兵特措法延長」などを阻止しようと約600名の人たちが国会前に集まった。この日の行動はこれらの市民活動に関る団体グループが「言い出しっぺ」共催したもの。開会前にはすでに市民・女性団体や個人のメッセージボードやのぼり、ペンライトなどが、目立っていたが、あたりが大分暗くなりかけた6時半、中村元彦さん(子どもと法・21)の司会で国会前リレートークがはじまった。

先ず衆院憲法調査特別委員会で50人中2名の護憲委員である、共産党の笠井亮議員と社民党の辻元清美議員の国会報告から始められた。3月9日の強行採決阻止にいたる様子が生々しく語られ、しかし次の15日は予断を許さない状況にあると。辻元さんはまさに「改憲準備法」だ、国会内だけのたたかいでは阻止できない、国会外の多くの市民と手を取り合っていかなければ。「町内会で9条を言う」など身近のところで話しを広めてほしいと訴えた。

参加団体からは「改憲手続き法」に加えて目前に迫る一連の(上記の)「改悪法」、「特措法」について共に力を出し合おうとアピールが続いた。
「国会前アクション」では呼びかけ人(個人)を募集し、この日までに650名。更に多くの呼びかけ人を!(募集継続中)。そして3月26日、第2波の<国会へ行こうアクション>では、さらに多くの市民で国会前をうめつくしましょう。
(山下治子)
第2波 3月26日(月)18:00~(終了しました)
第3波 4月17日(火)18:00~
衆議院第2議員会館前

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初めての講演会に取り組んで

厚木市民九条の会 角田京子

 「平和憲法を未来につなぐ可能性」―安倍内閣は憲法をかえてこの国をどうしたいのか―と題して、2月25日、厚木市民九条の会主催、他の厚木市内の5つの九条の会協賛で、「九条の会」事務局の高田健さんを講師に、講演会を行いました。

厚木市九条の会ネットワーク(市内の6つの九条の会・2006・11・7発足)の「9の日行動」では本厚木駅北口広場でビラまきをしました。かつて、自由民権運動の拠点だったこの地での展開です。無視して通り過ぎる人が多いですが、今回は4回目で、少しずつ受け取る人が増えてきました。 また、一人で団地にビラいれしたり、参加している会合で配ったり、友人・知人に郵送や手渡しをしたり、それぞれ出来る限り頑張り、宣伝を広げることができました。

25日当日の参加者は80名位でした。高田さんの講演内容が、今の反動的で閉塞感の充満する状況を撃ち、具体的で希望まで持てるものでしたので、9条の持つ可能性がビンビン伝わり、参加者は大いに元気付けられ、勇気付けられたように思います。

参加者からの感想、いくつか紹介します。
◎ご講演の「テーマ」から考えて、ずいぶん「カタイ」話かと思って参加したのですが、とんでもない勘違いで、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。運動をすすめる上で、本当に貴重な「コツ」を教えていただき有難うございました。

◎自分たちだけが大変に思ってしまうと重い気持ちになってしまっていたが、相手方のほうも大変だという見方に勇気づけられた。

◎大変良い話を有難うございました。机上の話でなく、いかにも運動家のお話というもので感銘をうけた。今後とも身体に気をつけて頑張っていきましょう。

◎1、自分の言葉で話している。2、なかなかのアジテーターです。3、厚木はかつて「自由民権運動」の拠点。頑張って下さい。座間市民です。座間で出来ることも考えたいです。4、政党臭のナイのが良い、です。「厚木市民九条の会通信NO,5」の「言葉のやわらかさ」にひかれて、どんな人たちが支えているのか、見たいと思って来ました。

◎裾野を広げなければといつも思っているのですが なかなか行動に結び付けられていません。安倍内閣、東京都知事などに対して腹が立つことがいっぱいあっても茶の間で怒っているだけです。「ここで吠えたって何にもならないよ」と脇でいう夫にも腹がたちます。自分でできること、少しずつでいいから表現していこうと思う。まず電話をとってTV局に「今のは、おかしい」とか…。

◎1、話がわかりやすく面白かった。2、九条の、平易にして大事なことが理解できた。3、運動論としての九条を守ることの多彩さ、多様さがわかった。4、講演は、もう少し少なくして質疑をもっと多くしたほうがよかったのではないか。 

◎1、「九条の会」呼びかけ人、9人の方々の多様性にあらためて認識させていただきました。(梅原猛さんと鶴見俊輔さんのちがいなど) 2、憲法改正反対が50%以上であるのに、反対の政党の支持率は13%しかない。この落差を埋めていくのが「九条の会」の運動、という指摘をあらためて認識し直すことが重要だと思いました。         

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「STOP!改憲手続き法案 3・2大集会」 2000人が参加

3月2日、東京・日比谷野外音楽堂で、2000年5・3憲法集会実行委員会の主催で「STOP!改憲手続き法案 3・2大集会」が開かれ2000人が参加した。

主催者あいさつをした高田健さん(許すな!憲法改悪・市民連絡会)は「5.3集会は今年で7回目になるが次第に日常的な共同行動に積み上がっている。今国会では安倍首相が何としても改憲手続き法を通そうとしていて、マスコミも通ることを前提にしているが、大きな行動で阻止しよう」と訴えた。

次に国会報告にうつった。日本共産党の笠井亮議員は「国民は改憲手続き法を望んでいないし盛り上がりもない。それなのに自民党は党内に推進本部をつくり与党単独でも採決しようとしている。公明党内は一様ではない。今こそ草の根のがんばりを発揮して闘おう」と語った。社民党党首の福島瑞穂議員は「私たちのたたかいで共謀罪は7回も継続審議に追い込み、まだ国会を通していない。国会の閉会中でも改憲について審査できる憲法審査会の設置を含むこの法案を、ガンバッて闘い、何としても改憲へのうごきをつぶしていこう。」と呼びかけた。

また、日弁連憲法委員会事務局長の菅沼一王さん(弁護士)は改憲手続き法の問題点として、最低得票率、公務員の運動規制、テレビCMなどを指摘し慎重な審議を呼びかけた。

会場内にアベ・マリアの高らかな歌声が響くなか偽安倍首相が登場し、ザ・ニュースペーパのコントが始まった。期待どおりの安倍首相への辛口コントに会場は大喝采で大いにわいた。

集会は最後に「改憲手続き法案を廃案に」という趣旨のアピールを採択し、国会へ向けてデモを行った。「ストップ改憲手続き法」「憲法改悪反対」などのシュプレヒコールが国会周辺にこだました。
(どいとみえ)

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やって良かった、全国交流集会in大阪
第10回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会を取り組んで

とめよう改憲!おおさかネットワーク事務局 松岡幹雄

 実行委員会の立ち上げが昨年の12月10日、交流集会までの準備期間がわずか2ヶ月でした。準備がスムーズにいったといえばウソになります。とくに、統一地方選の影響もあったりし参加者、報告者については最後まで心配していました。しかし、いざふたを開けるとオープン集会に135名、クローズド交流集会が全国から約80名の参加があり、準備に携わった一員として大変嬉しく思っています。皆様のご協力に大変感謝しています。

さて、今年の交流集会ですが、オープン集会での山内敏弘先生からの防衛省設置法、教育基本法改悪法、それに改憲手続き法案の問題点の指摘は大変参考になったと思います。とくに投票年齢を18歳からにすると与党が民主党にすり寄った問題。これは、日本の法律システム全体に係わる問題で日本の法体系の中で成年者は何歳にするのかという抜本的な問題である、との指摘は重要であったと思います。山内先生は、いったい、どこまで国民的な議論がなされているのか疑問であると述べられました。そういった議論をすることなく進む今日の法案審議の進め方は「ためにする手続き法」の本質を示すものとの指摘は重要だったと思います。

また、ビデオプレスのご厚意で今回はじめてDVDを上映し東京での国会前の取り組みを全国の皆さんに見てもらいました。これからもっと映像を通じて運動を共有化していけるのではないでしょうか。たとえば、全国各地の取り組みを映像化し全国に紹介し共有することだってできるかもしれません。沖縄や大分、広島、京都その他各地の報告も期待通りのすばらしい内容の報告が多くなされました。この一年で憲法改悪をゆるさない様々な運動の広がりを感じることができました。

クローズドの交流集会では、昨年広島での24条に続き、憲法25条(生存権)の問題に焦点をあてました。十分掘り下げた議論まで準備できませんでしたが今後も討論を継続していく重要な契機になったかと思います。急遽、相談にのって下さったふぇみん大阪やいこ☆る、しんぐるまざあずふぉ~らむ関西の皆さんに感謝したいと思います。 北海道から参加された山口たかさんに北海道夕張市が財政赤字再建団体になった問題をお話ししてもらう機会をつくれず申訳ありませんでした。じつは、山口さんがこの問題で「国が補償すべき基本的な生存権~夕張市、地域切り捨て許さない声大に」(労働情報713号2月15日)というレポートを出されていることをあとで知ることになりました。

翌日の9条世界会議の報告や当面する運動課題、改憲手続き法案廃案への取り組みについての討論は大変いい討論になったと思います。とくに、「国民投票法」ではなく法案の本質を暴けるネーミングについての討論は、この交流集会ならではの内容のある討論になったと思います。

さて、その後大阪では、毎月9の日行動として駅頭でのビラ配りを始めています。ビラは、ティッシュサイズのコンパクトな三つ折りです。3月2日の東京の手続き法案廃案への集会には大阪から元気な女性たちが車でかけつけました。3月9日には、民主党大阪府本部へ廃案の取り組みを強める申し入れ行動を取り組みました。そして4月9日には、STOP!改憲手続き法案大阪集会をひらきデモ行進も予定しています。やってよかった全国交流集会。大阪での開催は、大阪の運動にとっても大きなプラスになりました。

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