私と憲法69号(2007年1月25日発行)


戦争の記憶と改憲手続き法案廃案への決意

富山洋子

2006年12月、ついに「教育基本法」の改悪が強行された。無念極まりない。
1947年3月31日に施行された「教育基本法」は、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため」に制定された。

日本国憲法の前文では、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と高らかに謳われている。教育基本法は、主権者のこの決意を踏まえて制定されたのだ。

教育基本法の改悪は、日本の平和憲法の拠点を大きく崩す意図の下に強行されたと言える。だからこそ、私たちは、今国会での成立がめざされている「改憲手続き法・案」の阻止に向けて全力を尽くしていきたい。

私は、1933年生まれ、その2年前の1931年9月18日には、関東軍参謀らが柳条湖の満鉄線路を爆破し、いわゆる満州事変が惹き起こされ、日本は15年戦争に突入した。軍歌を子守歌として育った私は、1940年、尋常小学校に入学した。

尋常小学校2年になった1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を仕掛け、15年戦争が拡大された。1945年、小学校6年の夏、石川啄木が幼年時代を過ごした岩手県渋民村(当時)の寶徳寺で敗戦を迎えた。

天皇の「詔勅」の内容は全く理解できなかったが、教師から聞いて日本の敗戦を知った時、言いようのない安堵感を味わった記憶は鮮明である。

その年の梅雨の頃、私たち国民学校児童は、学童疎開先の静岡県から岩手県へ再疎開したのだった。静岡がたびたび空襲に見舞われるようになったからだが、通過した東京駅では、プラットホームに降りることさえできなかった。窓から身を乗り出す子どもたちをめがけて、親たちは、必死で集めた食べ物を投げた。私は、食べ物を受け止めながら、東京に暮らしている親たちとは、今生の別れになるのではないかと切なさで一杯になった。親たちも同じ想いであったに違いない。兵士として徴用された我が子、我が父、我が夫、我が兄弟を戦場に送り出す時は、私が体験した以上の切なさを、誰もが味わっていただろう。

敗戦の事実を知った時、私が味わった安堵感は、だれもがもう殺されずに済むという実感から沸いてきたものだった。

子どもは、いつでもどこでも、戦争においては被害者である。しかし、その後、日本という国家の侵略行為を知るに及んで、子どもの頃の私は戦争の被害者であったとは言え、加害者の立場に立たされていること痛感した。

戦争とは、国家の名による「人殺し行為」である。戦争を惹き起こす時は、必ず大義名分が掲げられるが、戦争に大義はない。武力で平和は守れない。

戦争によって国家が守ろうとしているものは何か。かっての日本においては、「國体」という得体のしれないものだった。

私は、子どもの頃の戦争体験から、個として国家に対峙する姿勢を貫かなければ、私たちは、被害者のみならず加害者の立場に立たされることを知った。

近代立憲主義に基づく日本国憲法は、国家を規制していく最高法規として位置づけられている。私たちの平和憲法もまた、第99条に「天皇又は 摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とされている。私たちは、日本という国家の憲法違反を糺していくべき主権者である。

平和憲法施行後、その理念、規定は活かされてきたのか。私たちは、暮らしの中で「平和に生きる権利」を実感してきただろうか。

私たちは、戦後一貫して沖縄の人々が平和憲法の枠外に追いやられていることを忘れてはならない。 私たちは、日本政府が、国際貢献、国際平和、人道支援の名の下に、自衛隊、つまり軍隊を海外に派兵させてしまっていることに手を拱いていてはならない。

思想及び良心の自由を「共謀罪」という罪名で抑え込もうとしている面々を、政治に関わらせてはならない。労働者・市民の権利を奪い取ろうとしている策動に歯止めをかけなければならない。教育基本法改悪という、まさに憲法違反に荷担した国会議員を再び当選させてはならない。

そして、私たち主権者は大結集して、「改憲手続き法・案」を廃案にしていこうではないか。
(日本消費者連盟)

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民主党は9条改憲に手を貸すのか~舛添・枝野対談を読んで

高田 健

6月の参院選を憲法「改正」の主張を掲げて、正攻法でたたかうと称する安倍内閣と与党にとって、166通常国会の目玉は「改憲手続き法案」と「教育改革関連法案」と位置づけられている。開会前になって安倍首相は共謀罪法案も進めるよう、与党に指示した。

発足後4ヶ月しか過ぎていないのに、安倍内閣の支持率はこのところ急落を続け、一部の機関の調査では支持率と不支持率が逆転するところまで出てきた。しかし、安倍首相は反面で野党民主党の支持率も延びていないことで強気を維持している。

春の統一自治体選挙と参議院選挙という大きな選挙を控えているので、野党共闘の足並みは大きく乱れがちだ。選挙という制度の持つ宿命でもあり、一概に高みからそれを批判するつもりはないが、野党は反安倍政権という課題で可能な限りの共同に努力してほしいものだ。昨今の報道を見ると、民主党執行部は166国会で与党の改憲手続き法修正案に賛成するという情報が流れている。それでは取り返しのつかない誤りを犯すことになる。

こうした民主党の危うさを裏書きするような記事が、元日の「毎日新聞」の舛添要一・自民党新憲法起草委次長と枝野幸男・民主党憲法調査会長の「改憲論議 節目の年」という特集的な対談であり、それにしても恐れ入った。

二人が「世代差」を共通のベースにして、改憲手続き法案についての「コンセンサスの醸成」(枝野)で相当に意気投合している。冒頭で舛添氏は自民党などの立法不作為論すら無視して、「(これまで改憲されなかったのは)怠慢だったからではなくて、十分、時代にマッチしていた面があったから」「いや、実によくできた憲法だな、マシンとして非常に完成したものがあると思った」といい、枝野氏も「できのいい憲法だったというのだ、全体的な評価だ」などと言うことで、「古い世代」との憲法認識との違いを強調している。

そうしたうえで、舛添氏が「新しい年の最大の課題は国民投票法案を自公民でまとめること」と言えば、枝野氏は「国民投票法制が間違いなくできる年になる」と応じ、「憲法改正問題を政争や政局の具にしないこと」を強調すれば、枝野氏が「投票法案は(憲法)本体の『トライアル』(試行)なんですよ」と応じている。

舛添氏が「民主党には旧社会党の臍の緒をつけている人もいっぱいいるから」と枝野氏も「(安倍は)古い印象だ。20~30年前、土井たか子さんを相手にしゃべっている印象がものすごく強い」と答える。

二人は対談の中で、従来の集団的自衛権の問題についての政府解釈を批判し、集団的自衛権についてのコンセンサスづくりを進める方向で共鳴して、安倍政権が進めようとしている集団的自衛権の行使問題の見直しを、結果として推進する方向に立っている。

蛇足ではあるが、ちょっと目をひいたのは舛添氏が「(改憲のテーマの順番で)実は私、まだぐらぐらと揺れ動いている。たとえば環境権のようなやさしいところから入って改正すべきなのか、一番難しい9条からダンと入って全体を動かすべきか」といい、枝野氏が「数年にいっぺんづつ憲法を常に見直し、変えている方が健全だ。最初の国民投票は大変だから、非常に賛同の得やすいテーマから入るべきではないか」と言っているところだ。なんとも人を食った会話ではないか。政争の具にするななどと言っておきながら、この党利党略ぶりは。しかし、これは「変化球」としては考慮に入れておくにしても、改憲の本筋はやはり9条であるはずだから、ゆるがせにはできない。

市民連絡会のリーフレットで指摘していることだが、改憲手続き法案は憲法調査特別委員会で議論をすればするほど問題が噴出し、こうした与党と民主党の現場の実務担当者の間で「修正協議・合意」していいようなシロモノでないことは明らかだ。このことにほおかむりし、マスコミの報道もあまりないことをいいことに、この対談のような形のなれ合いで法案採択を進める方向に道を開くことは許されない。

対談には二人それぞれのメッセージが載せてあるが、舛添氏は「憲法は文明なり」で、枝野氏は「以和為貴」だった。聖徳太子の「十七条憲法」の「以和為貴」は、現代の憲法とは全く異質のもので、奴隷制的な社会での支配階級の「和」の話であるし、歴史学としては聖徳太子そのものが架空の人物であるという有力説すらある。枝野氏は自民と民主の「和」を説くのだろうか。憲法が文明であるなら、近・現代の戦争の時代を止揚する平和主義こそが次代の文明ではないかと、皮肉も言いたくなる。

こうした二人の共鳴や合意は、法案の現状を見るとき、極めて危険なものだ。法案が持っている問題点にフタがされてしまうことは許されない。与野党の取引ではなく、広く公開された真摯な議論を要求せねばなるまい。

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介護の現場から(その3)
“カネで命を買う”時代にさせたくない

中尾こずえ

救急指定のA病院の院長は要介護5でベッド生活が中心だ。ケアに入ったある日のこと。
院長の娘である看護師が「昨夜、救急患者を一旦受け入れたけど、ホームレスだったので『満床だ』といって断り、他に回した」と、理事長である母親に報告していた。院長の妻は仕事をやりながらベッドのある居室にいることが多いので、さまざまな会話が私の耳にダイレクトに入ってくる。運び込まれてきた人はかなり重症だったらしい。

医療制度の「改正」は診療報酬を引き下げ、患者の負担を増大させた。結果、医療の世界では弱者切り捨てが横行し、二極化が進んだ。

また介護保険制度の「見直し」は“厚い保険料” “うすいサービス”へと、公的責任が後退した。
私はヘルパーになって6年目。特に昨年からのこの1年間、小泉内閣時代の“骨太の方針”のツケが介護医療の現場に重くのしかかっているのに直面した。地方自治体は財政対策とサービスの抑制を国から押しつけられ、職員は日々、「改正」手続きに追われている。財政基盤が弱い自治体は補助金削減の中で苦闘を強いられている。

私が籍を置く民間事業所の給付業務をやっている人はたびたび更新される「サービス実施記録」の扱い方や給付事務に追われている。ケアマネージャーやヘルパーはいっそうの不安定・低賃金労働のなかに投げ込まれた。「見直し」によって介護度の低い利用者はいなくなった。同居人がいるという理由で生活支援が打ち切られた人も多い。

A子さんは要介護度3。3人家族だが息子夫婦は共働きで独居と同様の生活を余儀なくされている。ある日、訪問すると、転倒して起きあがれないままでいた。生きるギリギリ条件の食と、排泄もままならないのは明らかだ。この例については、私たち現場からの訴えで、身体介護に生活支援も含めて、サービス内容を元に戻すことができた。

だが、今日の社会保障制度の改悪は改憲への動きと一体のものだ。
“カネで命を買う”時代にさせたくない。めざすのは、支え、支えられ、ともに生きる社会だ。微力だが、A子さんの場合のように、私の職場でも1件できた。

高齢者の生きる意味、幼い子どもの生きる意味、障がいを持って生きる人の生きる意味、これらを束ねて豊かな社会の同じ地平に取り戻していきたい。

声を上げるのが大切、たくさんの声にしていくのが大切だ。もうじき国会がはじまる。改憲の流れをくい止めるため、できるかぎりのことをやりたいと思う。
今年もどうぞよろしく。

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今こそ日本国憲法を外交の軸に

土井とみえ

昨年末の朝日新聞の書評欄に、各評者が近況を書いた短い記事があり、酒井啓子さん(東京外語大学教授)が「中東カフェ」の準備で忙しいとあった。「中東カフェ」?何かなと思っていたら、新年になって開催の案内を見つけたので、出かけてみた。渋谷駅からちょっと歩いた会場は、中東の料理や飲み物を出したり、演奏も展示もできるところもあり、若者の出入りが多いところだった。その日は寺嶋実郎さんがスピーカーとあって、100人ほどの会場は早くから一杯になっていた。

酒井啓子さんの説明では、「中東カフェ」は中東研究の成果を研究者だけでなく社会と共有するために、双方向に開かれた議論や交流の場を設けようという試みだということだ。政府の委託事業であり、今後は報道や国際援助、ビジネス、文化交流などのさまざまな現場で中東と日本をつなぐ仕事に携わる各界の方々をゲストに迎えてのトークショーや映画や文学などを切り口に中東の社会を深く知る講座など、多様な催しを定期的に実施していく予定という。せいぜい100人ぐらいで会場と話しのやりとりができるような規模で開催していきたいということで、その日も中東の飲み物のサービスがあり、片足を掛けて座るような高い椅子が用意され、ちょっと洒落た雰囲気で若者の参加も多かった。

寺嶋さんの中東つながりは、パーレビが倒されたイラン革命の時に、結局撤退することになったあの三井のIJPCに取り組んだ時からだから、日本人としては長い方だろう。寺嶋さんの話は若い女性ジャーナリストとの対話形式で進められ、多岐にわたった。話しの中で興味深かったことの一つは情報に対する各国の態度と日本との比較だった。イラン革命のあとアメリカ大使館員人質事件の救出作戦に関わったタスクホース全員に会えという社命を果たす中で、情報とは何かを深く認識したと話した。その後もイギリスやアメリカのいくつかの研究所などに籍を置きながら、それぞれ違いはあるものの、情報とは多様な立場から、バイアスをかけずに集めることであり、一見役に立たないように思えるものまでに及んでいることや、中東では生死を分けることにつながる情報の重さにも触れた。そうしてこそ本当に経済に役立つ情報にしていく現場を体験した話しはおもしろかった。これに比して、日本は企業目的にごく短期的に役立つ情報収集しかされていなくて、これでは情報研究をしているとは言えないという。寺嶋さん自身が独自に中東問題の研究所を立ち上るの準備をしているという。

もう一つは、アメリカのアフガン・イラク攻撃から4年しか経っていないが、ユーラシアの情勢が大きく変わったという寺嶋さんの指摘だ。イラク攻撃が始まった頃、アメリカはロシアの影響の強いキルギスタンに、歓迎されて米軍基地を置いた。しかし今では強い撤退圧力のために米軍が金を払って短期駐留させてもらっている状態になっている。一方、中国の提唱にロシアが応じて始まった上海協力機構は、発足したときとは違い参加国も増え、インドも関心を示すなど有力な機構として形成されつつある。当然ながら中国とロシアの経済的地位の高まりも見逃せない。いまやアメリカ中心の世界地図は大きく変わろうとしている。世界の動きをみながら、21世紀に日本が生きていこうとすれば、どうしてもアジアと向きあわなければいけない、と指摘した。

日本が軍事力を持つことをどう思うかという会場からの質問には、「軍事力のない大国はないという誘惑があるが、戦後60年、日本が挑戦してきたことはきれいごとだったわけではない。自衛隊が海外に出る場合、国際協力隊として一時外務省に籍を置くなどやり方はいくらでもある」と答えていた。

そうなんです。憲法の平和主義の現実はすべて美しくはないけれど、すでに60年もの積み重ねがある。明治維新から140年であることをみると、戦前と戦後のどちらが“私たちの国”なのかはいい勝負なのではないか。そして21世紀こそ現憲法を現実のものとする時なのだ。北朝鮮の核実験によって、東アジアは世界でも不安定な地域となった。私たちは05年11月3日の憲法集会で韓国から代表を招き、また韓国でも平和憲法に連帯する集会がもたれた。さらに昨年の北朝鮮の核実験以来、東アジアに平和のための民衆の連帯をつくることは切実に必要とされるようになった。この時に役立つのが憲法で、平和憲法は単なる理念ではなく、日本が国際社会のなかで採るべき指針になる。寺嶋さんの話を聞きながら、こんな確信がむくむくと大きくなった。

第3回の「中東カフェ」は2月10日、広島市で開かれる。

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鈴木安蔵に連なる憲法の糸

高田 健

福島県の南相馬市に住む友人のつてで、同市内の「はらまち九条の会」で講演をすることになった。講演依頼の手紙の中に、話の内容についての希望があって、私の通常のテーマである(1)改憲問題の現状、(2)改憲を阻止するために私たちができること、と合わせて、(3)ふるさとの憲法学者鈴木安蔵について、と書いてあった。

「ふるさとの憲法学者」、鈴木安蔵というのだ。
私も福島県の生まれだが、中通り地方の三春町の在だ。今は私の村は郡山市に組み込まれている。南相馬市は浜通り地方で、合併前は相馬原町や小高町などであり、鈴木安蔵は1904年にこの小高町に生まれた。その後、京大に入り、治安維持法違反第一号事件の「学連事件」で検挙された。以降、憲法学などを研究し、敗戦を経て、1945年に「憲法研究会」案の憲法草案要綱を起草。これがGHQに注目され、日本国憲法の制定に大きな影響を与えた。今、この鈴木安蔵を主人公にしたした映画「日本の青い空」がクランクインし、3月には完成するということで、全国で自主上映運動が始まっており、私もささやかな協力をしている。

鈴木は釈放後、憲法学、とくに明治期の私擬憲法草案運動などを本格的に研究した。彼は特高の監視下の暗黒の時代に、必ず役立つ日が来ることを信じて、黙々とこれらを研究していた。明治10年代に全国に何百もの民権結社が生まれ、それらの中から、民主主義、人権などを主張する私擬憲法草案運動が生まれた。植木枝盛の「日本国国憲案」や、のちに色川大吉さんらが発掘した「五日市憲法草案」はそれらの中での代表的なものだ。古関彰一さんらの研究で広く知られるようになったが、日本国憲法には鈴木等の努力によって、この明治期の私擬憲法草案運動の成果が引き継がれている。いわゆる「押しつけ憲法」論者は、これらの歴史の事実を認めない。

現行憲法の主権在民の思想は1945年の敗戦から突然に生まれたものではないし、米国の思想の直輸入によるだけというものでもない。それより60~70年前の明治期、すでにこの思想は日本の民衆運動の中で花開いていた。明治10年代の前半には全国各地に澎湃として生まれていた民権結社は憲法準備のための学習・研究に全力を傾けていた。

自由民権運動の最終段階、1884年には秩父蜂起があった。1914年から1925年までは大正デモクラシーの運動があり、「普通選挙運動」があった。民主主義の発展とは連続的、累積的なものだ。それがときおり、光を浴びたり、陰にかくれたりしただけだ。日本の人権思想はその過程で豊かになってきた。

福島県は高知・土佐などに次いで自由民権運動の盛んなところで、のちに歴史に残る福島事件なども起こった。土佐に立志社がはじめて創立された明治8年、早くも中通りの県南の石川町には石陽社が生まれている。これをつくった河野広中は出張の帰り道、馬上でJ・S・ミルの「自由の理」を読んだと言われ、石陽社の学塾規則第一条では、ベンサム、スペンサー、ルソー、ミル、ブルンチュリー、リーバーらの著作がテキストに指定されていたという。当時の青年たちの熱情の一端がわかる。私の育った三春地方でも河野広中らに代表される「三師社」などがあったし、相馬には「北辰社」があった。鈴木も地元にこのような運動があったことから何らかの影響を受けたに違いないが、私はそれを確かめてはいない。しかし今、この相馬においては「北辰社」から「鈴木安蔵」、そして「はらまち九条の会」と歴史の糸がつながった。

頃は60年安保闘争の終盤期、私が通学していた郡山の安積高校に、高橋哲夫という名物教師がいた。極度の会津なまりで歴史の授業をする先生で、授業には政府批判がポンポンと飛び出し、学生の興味を惹きつけていた。私はあとで知るのだが、高橋先生はこの福島における自由民権運動の研究の第一人者だった。「福島事件」(三一書房)、「福島自由民権運動史」(理論社)、「加波山事件と青年群像」(図書刊行会)など多数の著作がある。私の歴史好きはこの先生の影響かも知れない。

80年代の後半、私は友人たちと「幕末明治民衆運動史研究会」を立ち上げた。文久3年、千葉で起こった「九十九里叛乱」への関心がきっかけだが、フィールドワークや定例研究会などを積み重ねて、この会は10年ほど続いた。相楽の赤報隊事件、私擬憲法草案運動、秩父困民党なども研究の対象にしていた。当時、古本屋を漁り回って、高橋先生の本なども手に入れた。私はこの研究会と同時期に憲法改悪反対の運動にも取り組むことになり、いつしかそちらの多忙さで、「幕明研」は閉じることになってしまった。残念ではある。

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12・27東京地裁でアル・リカービさんが勝訴
――自衛隊イラク派兵に反対する主張を確認

国富建治 イラク人アル・リカービさんのことを覚えているだろうか。
陸上自衛隊が初めてイラクに派兵されてすぐの2004年4月、高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さんの3人が、自衛隊の撤退を求めるイラクの現地武装グループに「人質」に取られる事件が起こった。その時、WORLD PEACE NOWは連日、国会前で3人を解放するために自衛隊の即時撤退を求めて行動した。それとともに私たちは、国際的なネットワークを通じて、「人質」となった3人は戦争に反対するために活動してきたイラクの人びとの友人であり、ただちに解放するために助力してほしいということをメールなどを通じて訴えた。

それに応えてくれたのが、パリに在住していたイラク民主化国民潮流のリカービさんだった。彼はさまざまなルートでイラク国内にあたりをつけ、3人の解放への道を開いてくれたのである。

私たちがリカービさんと接触したのは前年の2003年12月にまでさかのぼる。彼は「東京財団」(日本財団の傘下組織)を媒介に日本政府の招きを受けて来日し、12月3日に小泉首相との会談を行ったのだ。そのニュースは「自衛隊が派遣される予定のイラク南部の部族長の一族が小泉首相と会見」と大きく報道された。まるで「イラクの有力者が自衛隊の派兵を歓迎している」かのような記事もあった。小泉首相もイラク派兵閣議決定を目前にして、そうした印象を与えるためにこの会談を設定したのだろう。しかしリカービさんはサダム・フセイン独裁体制に反対するとともに米軍による侵略や占領にも明確に反対する活動を国際的に行っていた。リカービさんの来日目的は、戦争で破壊されたイラクの平和的復興のために日本政府の経済的支援を求めたい、ということにあり、自衛隊の派兵にははっきりと反対だった。

小泉・リカービ会談の翌日の2003年12月4日、ATTACジャパンやWORLD PEACE NOWの仲間は、滞在先のホテルでリカービさんと会い、日本の反戦運動の主張を伝えた。リカービさんは12月8日に記者会見を設定して日本での報道の誤りを批判し、占領軍の一部となる自衛隊の派兵には反対という立場を明らかにした。翌月、2004年1月にインドのムンバイで開催された世界社会フォーラムでも、リカービさんは占領に反対し、あらゆる宗派・潮流を結集した憲法制定会議によるイラクの民主的再建を主張した。

しかし小学館発行の「週刊ポスト」2004年2月6日号は、小泉・リカービ会談についてまったく間違った内容の記事を掲載した。

「日本政府が百億円を拠出し、その資金を使ってイラク南部の部族を動員し、派遣される自衛隊の安全を確保することをリカービさんが約束した」というのだ。つまり小泉政権からリカービさんに百億円という大金が渡ったというデマ記事である。しかもこの記事は「週刊ポスト」の英語版ウェブサイトにも転載され、それがカタール国営通信のアラビア語ニュースで中東全域に配信されることになったのである。

これはリカービさんの名誉を傷つけ、彼の政治的活動に打撃を与えるものだった。彼の家族には「占領者の手先」という脅迫が行われ、「大金を受け取っただろう」という憶測が流され、後にイラク内務省のスポークスパースンがこの記事をネタにリカービさんを中傷するようなことまで行われた。

WORLD PEACE NOWは、2004年7月にリカービさんを招いて「『人質』解放、そしてイラク抵抗運動の今」と題した集会を行ったが、この機会にリカービさんは小学館を相手取って、名誉棄損による損害賠償を求める民事訴訟を提訴した。海渡祐一さんたちが弁護団を構成した。裁判の中では、「週刊ポスト」の記事のネタ元が首相官邸筋からの情報によるものだったことも明らかとなった。

そして2006年12月27日に東京地裁で出された判決はリカービさんの完全勝訴となった。
「被告(小学館)は原告(リカービさん)に対し440 万円と利息を支払え。被告が管理するウェブサイトに掲載された当該記事を削除せよ」。

判決文は戦争と占領に反対するリカービさんの政治的立場を確認し、「週刊ポスト」の報道がいかに事実と異なったものであるのかも明らかにしている。

判決後に司法記者会で行われた記者会見でリカービさんは、弁護団と支援の人びとに謝意を表明し、今回の勝訴をイラクと日本の民衆間の、イラクの平和的再建に向けた連帯を広げる契機にしたい、と語った。

私たちは、これはイラク反戦運動の成果でもあると考えている。

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私たちの「知る権利」は奪われている

山下治子 06年12月13日朝日新聞「私の視点」欄に載った渡辺鋼(重工業産業労働組合書記長)さんによる「防衛秘密―隠される民間人の戦地派遣」という一文は、日頃気づきにくい問題でもあり有益であった。

筆者は「防衛秘密」のもとに業務出張が隠されていることや、「テロ特措法に基づき16回50人、イラク特措法に基づき3回7人の民間人が派遣」されそれが06年5月に「国会議員の問い合わせ」で始めて明らかになったと述べている。また国が派遣された人たちの「安全配慮義務」を企業自身に負わせていることや、「防衛庁が企業名も派遣地域も答えない」ことに疑問を呈している。そして企業側もまた“だんまり”なのだという。

ここで筆者が指摘している自衛隊法122条の「防秘保全義務」について、早速「反憲法法令集」(鎌田慧 編)の第九章<罰則>を読んでみた。たしかにテロ特措法、有事法制にともなう「自衛隊法改定」審議のなかで、私がたまたま傍聴した日に当時の大脇雅子社民党議員が「防衛秘密」の拡大と「守秘義務違反」の拡大認定への懸念を表明し「改定」に反対していたことを記憶している。

さらに12月29日の新聞(朝日)には、かなり大きく「日米、軍事機密保全を強化」と言う見出しのもとに米が日本に「軍事情報一般保全協定」の締結を求め政府は応じることが報じられている。記者は「罰則の範囲も広がり(中略)国民の知る権利が制約される恐れがある」としている。

国の「外交機密」に関していま少し触れると、05年4月に元毎日新聞記者の西山太吉さんが国を相手に起こした「沖縄返還密約訴訟」が昨年12月26日に結審となっている(判決は3/27)。72年に「外務省機密漏洩事件」として西山氏と、外務省女性事務官は「公務員法違反」で罪に問われた(判決は事務官は懲役6月執行猶予1年、西山氏は無罪。直後に退社)。00年から02年にかけて米国の公文書から沖縄返還時の密約を裏付けるものが出た上に、06年には当時のアメリカ局長だった吉野文六証言で密約の存在が動かしがたいものになったが、国側は頑として否定し続けている。

当時の裁判長山本卓氏は「報道の自由を侵してまで守らなければならない国家機密かどうかを考えた」(琉球新報06、3/3)と述べている点は重要だ。「国の機密」を拡大し人々の知る権利を日常的に狭めている現実にもっと目を向けなければと思う。

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本誌67号の「靖国神社ーその虚実」の記述に関連して~「明治民法」による「夫婦同姓(氏)の強制」について

 「ふぇみん婦人民主クラブ」の赤石千衣子さんから、「辻子さんのお話は大変面白く読みましたが、函館戦争のときの『川内みゆき』という女性が実家の姓で祀られていることへの疑問は、ちょっと意味がわからない。明治初期までは日本では夫婦別姓が通例で、明治民法を作って夫婦同姓になったのではないか」とのご指摘をいただきました。

確かに、「明治初期」の日本は夫婦別姓であり、また庶民には名字はありませんでした。庶民が苗字を持つのは「明治3年」の太政官布告からであり、義務化されたのは「明治8年」に「妻は生まれ持っての氏を使用し、家を相続したときに夫の氏を称する」とされたときからでした。

夫婦同姓の強制は「明治31年」に明治民法がつくられてからのことでした(明治民法746条 「戸主及び家族はその家の氏を称す」)。この民法では、夫婦同姓は同じ「家」に入ることを意味していました(明治民法788条 「妻は婚姻によりて夫の家に入る」)。明治元年から2年にかけての函館戦争のときの「川内みゆき」は、苗字があったとしても実家の苗字を名乗ったことはあり得ることでした。

辻子さんのお話の要約のところで、編集部に不注意があったことをお詫びいたします。(編集部)

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