私と憲法68号(2007年1月1日発行)


9条改憲のねらいを隠し、安倍政権のための党利党略で成立を急ぐ改憲手続き法案を廃案に

1月から始まる第166通常国会の最大の対決法案は「改憲手続き法」案だ。自民党や公明党、および民主党の一部などの国会議員による「憲法調査会設置推進議員連盟(改憲議連)」発足以来10年にわたって、国会における改憲派の策動は憲法調査会設置、憲法調査常任委員会の設置と進められてきた。「改憲手続き法」は憲法改悪のための準備作業の最終段階のハードルだ。

たしかに改憲の動きはここまで来たのだが、この10年にわたって改憲の動きを阻止してきたのはそれに反対する世論と民衆の運動なのだ。改憲派のねらいは、冷戦後の世界においてグローバルな規模で米軍とともに戦争のできる国をめざして、なにはさておきその最大の障害である第9条を変えようというところにあった。これは米日政府や支配層にとって、喫緊の要請だった。改憲派の懸命の策動が続けられた。米国の世界戦略の要請に間に合わせようと、有事法制がつくられ、テロ特措法やイラク特措法での海外派兵は常態化させられた。憲法と裏表をなすといわれた「教育基本法」の改悪もこの臨時国会で強行され、この国は防衛省を持ち、自衛隊の海外派兵は本来任務とされた。これらは明らかに憲法9条の精神に背く者であり、それを陵辱するものだ。

しかし、それでも「しかし」と言わねばならない。この10年、9条の明文改憲は阻止されてきた。傷つけられたとはいえ、9条は依然として日米政府が切望する「集団的自衛権の行使」のまえに立ちはだかっている。彼らの改憲のスケジュールはガタガタに狂わされている。改憲発議のために必要不可欠の手続き法すら、いまだに成立していないのだ。

臨時国会を終えて、12月19日の記者会見で安倍首相は「(新憲法草案は)第2次案を自由民主党として出すことは、今の段階で考えていない。国民的な議論を是非巻き起こして、最終的な(改憲案の)成案を政党間で話し合いをしながら得なければならない。スケジュールについては、これは大変な大作業で、歴史的な大作業であり、在任中に何とか憲法の改正を成し遂げたいと考えている。まずは改正手続法である国民投票法案を来年の通常国会において、成立をさせたいと思います」とのべた。安倍の在任中の改憲など断じて許すことはできないし、次期、通常国会での「改憲手続き法」の成立は絶対に阻止しなければならない。

この新年、「改憲手続き法」案の廃案をもとめるたたかいを展開するにあたって、あらためて同法案の主な問題点を指摘しておきたい。

第一、 この法案は改憲派がねらう改憲のための法案ではなく、それと切り離された「国民投票権の保障」のための、ニュートラルな法案である、「立法不作為」をあらためるものだ、などという法案推進者の欺瞞がますます明らかになった。民主党や市民団体の一部にあるこの種の意見は全くの幻想だ。このことは安倍首相が先の所信表明演説でも、また前掲の記者会見でもはっきりと自白している。「改憲を在任中に成し遂げるために、まずは同法を成立させたい」と。この嘘は、ブッシュ大統領のイラク攻撃の理由の嘘にも匹敵する大うそで、この一事だけでも同法案は廃案にされなければならない。

第2に、発議方法については、評判の悪かった環境権と9条を「一括」投票にするようなやりかたはとらないとされたが、「内容において関連する事項ごと」に発議するという中に、「専守防衛」も「海外派兵」も「一括」にすることは当然視されている。これは「抱き合わせ商法禁止」の独禁法違反にも匹敵するペテンではないか。たとえば今回の自衛隊法の改悪で定められた「海外派兵の本務化」のように、これを憲法違反とする選択は閉ざされている。仮に、現行9条でいえば1項、2項はそれぞれ個別に問われるべきで、まして公明党がいうような海外活動容認の第3項を付加するなどというなら、なおさらだろう。

第3に、憲法96条が定める改憲の承認に必要な有権者の「過半数」について、憲法のあり方にかかわる本質的議論が回避され、改憲派に有利にするため極めて恣意的な解釈によっていること。まず有権者の規定が年齢は18歳にされようとしているが、この下でより長期に生きていくであろう青年たち(例えば義務教育終了年限者以上18再未満の者)が排除されているし、定住外国人の権利も一方的に奪われている。また、最低投票成立規定などを排除することで、「有権者の過半数」の精神をできるだけ生かすための努力もされていない。それどころかいま議論されている案は「投票総数の過半数の承認」ですらない。

第4に、民意を真に問おうとせず、カネと力による恣意的な投票結果を得ようとする意図が濃厚である。まず「国民投票運動期間」が60~180日と極めて短く、有権者の熟慮期間が保障されていない。60年以上にわたって定着してきた憲法の、とりわけ第9条にかかわる改憲のための、初めての国民投票において、わずか半年で投票に付されることの危険性は、先の「郵政国民投票」といわれた総選挙を見ても容易にわかることだ。権力者の扇動による熱狂をさける意味でも冷静な判断を得るための熟慮期間は不可欠だ。また、テレビやラジオのスポットCMなどの規制も投票日前1~2週間の制限という議論はあるが、期間全体を通じてはほとんどない。放送時間の量や時間帯、政策資金など資金量で効果に決定的な差が出ることへの対応がされていない。「広報」においても不可欠な公平性は確実には担保されていないし、公費での広告は政党のみで、憲法改正国民投票の真の主体である市民や在野の団体は除外されているなど、民意を反映させる道はとられていない。国会に設置される「広報協議会」の仕組みとしごとにも問題は残っている。

第5に、法案成立後の国会で設置されるとしている常設の「憲法審査会」は、改憲を目的にした「憲法の調査」と「憲法改正原案」などを常時議論する場であり、この審査会の議論で多数派による解釈改憲の動きの世論作りの常態化がすすめられる可能性がある。また政府と国会議員の憲法遵守義務が軽視され、たとえば最近問題になった麻生外相の「核保有議論の自由化」などに道が開かれかねない。
第6に、与党案には公務員や教育者の「地位利用による国民投票運動の禁止」条項があり、罰則規定を設けないなどと説明されているが、これは誰もが憲法国民投票について自由に意見を表明する権利への干渉であり、運動の萎縮効果を誘導するもので、他の法律を使った権力による不当な弾圧を招きかねないものだ。法案に設けられている「組織的多人数買収罪」も弾圧に適用される可能性を排除できない。

詳細に見れば、同法案はこれらのほかにも問題を幾つも指摘できるだろう。同法案の廃案をもとめる運動はますます重要になった。これを広範に暴露する闘いは決して容易ではないが、私たちは新年には、9条改憲のための手続き法案廃案の闘いに全力で取り組まなければならない。 (事務局 高田健)

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第18回市民憲法講座(要旨) イラク・中東情勢をどう見るか~NGOの活動を通じて考えること

熊岡路矢(くまおかみちや)さん(日本国際ボランティアセンター)
(編集部註)11月25日、市民憲法講座で熊岡さんが講演したものを、編集部の責任で大幅に要約したものです。文責はすべて編集部にあります。

なぜ、NGOの活動に入ったか

今日は一緒に働いてきた原文次郎君が来ているので、うまく交代をしながらみなさんの関心のあるお話したいと思います。まず、自分自身がなぜ、このようなNGOの活動に入ったかというあたりも話してイントロダクションにしたいと思います。

自分の母親が横浜の人で、小さいときに両親を亡くし13歳上のお姉さんに育てられていたんです。1945年、第二次世界大戦の末期に、母は仕事で東京に勤めに行ってその間に横浜大空襲が起ありました。5月29日です。母の上司が横浜出身の人は戻るようにといって、それが午前9時、10時ごろで、途中で東海道線、京浜東北線もみんなストップしてほとんど歩いたらしいです。多摩川の橋を越えて、川崎を抜ける結構大変な距離ですけれど、帰ってきたら家は焼けていて、近くの防空壕――若い方はご存じないかもしれませんが、簡単に言うと上からの空爆、空襲から逃れるための穴みたいなもの--に行ったら母の姉も含めて十何人が、焼け死んだのではなく、焼夷弾でやられていました。今でいうナパーム弾はふたつ以上機能があって、直撃されれば家も人体も焼かれてしまいますが、例えばこの部屋の入り口のちょっと先で焼夷弾、あるいはナパームが破裂すると酸素、空気を全部持って行かれ窒息死になる。母の姉は一種の一酸化炭素中毒みたいな状態で、頬なんかも赤くて、死んだ直後ということもあって生きていたような状態だったらしいです。まわりの人も似たような状況で亡くなった。それはその時点ではアジアで、あるいはヨーロッパその他でたくさんあったことの、何百万、何千万のひとつにしか過ぎない。母は昨年亡くなりましたが、自分にとっては何度か話されているうちにその状況が思い浮かぶようになってしまっている。もちろん活動している直接の動機ではないですが、国際協力NGOとして戦争とか内戦の現場での活動もありますし、もうちょっと穏やかだけれども非常に生きて行くのが難しい状況での活動、開発の活動もありますが、ここ10年くらい自分がなぜこういう活動をしてきたのかというおおもとのひとつが、母親から聞いた話であると自分なりに最近納得してきています。みなさんでいえばご両親あるいは祖父母に当たるような方が、似たような体験を通して戦後に至っています。ただ戦争を直接知っている方々が減っているために、その辺の感覚が伝えきれない。もっと大きくは広島や長崎の体験など、もちろん一生懸命伝えてくださっている直接被害を受けた人たち、それから場合によっては二世の人たちもいますけれども、その辺の声がだんだん小さくなる。それにしたがって戦争や強い軍隊を持った方がよいという考えが、若い世代や国会議員なんかにも増えているように感じています。

自分自身のもう一つ大きなきっかけは、高校生から大学生位の時にベトナム戦争とぶつかった。日本が直接戦場になったわけではないけれど、私が通っていた学校のそばの王子に病院があって、そこに米兵の遺体やけがをした米兵が運び込まれ、一種の野戦病院化していた。それから中央線、総武線、南武線なんかも、戦争のための火薬、爆薬などを運ぶ列車が走っていて、これをストップしようという運動に参加したこともありました。

最近アメリカや場合によっては日本でも、現在のイラク戦争をベトナム戦争と比べる見方があります。現アメリカ政府が一番嫌がる見方ということになっています。率直に言って違いもずいぶんありますが、非常に共通するところもある。やらない方がはるかに良かったものを無理矢理はじめたという部分では共通性があると思います。とにかくその戦争で儲けた人たちがいるということも明確ですね。これはベトナム戦争の時も現在のイラク戦争でもそうです。自分の世代あるいは私自身のNGOの活動でいうと、ベトナム戦争とイラク戦争、もしくはパレスチナの紛争、アフガニスタンの戦争をどうしてもつなげて考えざるを得ない。

冷戦構造下の「東西問題」と「南北問題」

第二次世界大戦後を振り返ると、冷戦構造下では東西問題と南北問題があったと言われています。東西問題というのは冷戦構造下の紛争、戦争、内戦で、カンボジア、ベトナム、ラオスとかソマリア、エチオピアとか中米でアメリカとソ連が直接ぶつからない、ぶつかる直前までいったのがキューバなどでありました。けれども、直接にぶつかると第三次世界大戦、あるいは核戦争になるということで、そこに至らない範囲で局地戦争、代理戦争が多かったのが60年代、70年代それから80年代の中盤くらいまでだと思います。当時80年代になんとか紛争の時代は終わるかと希望を持ちました。その上でNGO活動をしていました。他方、南北問題は当時でいうと北の豊かな国と南の貧しい国の差という言い方で貧困もしくは極端な貧富の差の問題の解決が課題だった。冷戦構造下はこの南北問題がある意味で競争になった。システム、制度、イデオロギーの違うふたつのグループが貧しさをなくすことで「競争」、つまり「援助合戦」みたいなものがあった。援助は必ずしも貧困とか貧富の差をなくさないという側面もありまが、まだ少なくとも問題意識があったというのがこの時代の特徴だと思います。

ベトナム戦争に戻ると、共同通信社の厚い本でマクナマラの回想みたいな本が出ています。マクナマラは首になったアメリカの国防長官・ラムズフェルドと同じポジションに、ベトナム戦争の時にいた人です。もっと言うとマクナマラは日本への空襲を考えた若手将校の一人だったそうです。マクナマラの回想が映画のようになっていますが、彼はその中で米軍による日本の空襲、それから広島、長崎への原爆投下も、はっきり言えば戦争犯罪だと言っています。自分たちが罰せられなかったのは、ひとえに勝ったからだという言い方をしていました。その彼が90年代に生き残ったベトナム側のリーダーたちと政治、軍事の話をして、アメリカ側にもいくつかの教訓を出しています。その一つはあまりにも相手のことを知らないことに加えて、あまりにも相手の脅威を過大に拡げて考える誤りを犯したと言っている。他にもためになる教訓が9つある。マクナマラは90年代後半に、現在でも同じような誤りを犯す可能性があり、あえて自分たちの失敗から学び次の世代に何かを伝えようと、彼なりのまとめ方をしています。このマクナマラの教訓のうちの2つでも3つでも、90年代後半あるいは21世紀の現在にしっかり学ばれていれば、アフガニスタンの戦争、イラクの戦争はしないですんだのではないかと思っています。

ソ連・東欧圏の衰退と貧困解決への希望

80年代後半、私は当時社会主義の国だったカンボジアと、その前後にベトナムに住んでいました。だからベトナム、カンボジアを支援していたソ連、東欧、東ヨーロッパの力の衰えを、カンボジアやベトナムの眼や立場を通して、非常に感じていました。が、まさかソ連邦の崩壊まで行くとは見えませんでした。ここではいくつかのチャンスがありました。大きなアメリカグループとソ連グループが戦う必要が無くなったので核軍縮を含めた軍備縮小のいい機会だったはずです。軍備にかけていたお金を南北問題、特に極端な貧困――身体を売るしかないような貧困――の問題を解決したり、極端な貧富の差を解決する機会でした。資源、お金、エネルギー、その他を、一般的には「平和の配当」という言い方もするけれど、せっかく平和になったのでその配当を広く開発、貧困問題などの解決のために使われるべきだという議論があった。そういう意味では希望を持った時代だと思います。

グローバリズムと新たな紛争構造の90年代

次に、ソ連などのグループがいわば砕けてしまったので、アメリカが唯一の超大国になって、ここからいくつかのポジションがでてきました。ひとつはチェック&バランスというか、お互いの「わるさ」をチェックできる相手側がいることで、一定の均衡が取れていたものが崩れた点です。南北問題との絡みでいえば、いわゆる途上国などへの支援とか援助の競争の必要が無くなった。この辺から世界の貧困問題への冷淡さが出てきました。これはアメリカの政治・経済・社会体制にもよると思いますが、ここから一気にグローバリゼーションという名前の新たな紛争構造ができた。

アメリカ、あるいは多国籍な巨大な企業――本籍地がアメリカであろうとイギリスであろうと日本であろうと巨大な多国籍企業は存在している――を頂点にした、あるいは僕らからは見えやすい製造業の後ろにいる金融業の大企業が頂点にあるような大きなピラミッドの中に、それぞれ日本の、例えば中産階級、労働者や農民が位置づけられる。そのさらに下に、例えばカンボジアの農民が位置づけられるという状況になってきてしまいました。それも含めて新たな紛争構造ができたのが90年代です。冷戦構造型ではないけれど、内戦状況や反政府ゲリラということも含めた国家対国家ではない衝突がありました。冷戦時に比べればはるかに紛争は少なかったと理解していますが、「9.11」後ではなくてあえてこの時代から、90年代から「敵を作り出す」という流れがでてきたと思います。

パレスチナ問題の解決の時だった

ひとつの例は湾岸戦争、これはイラクがクウェートを侵攻したのでイラクが原因を作ったとも言えますけれども、サダム・フセイン体制がアメリカ等の敵としてクローズアップされたということがあります。さらに90年代中盤から後半にいわゆる民族浄化という言葉とともにユーゴのセルビアの政権、ミロシェビッチ政権が悪玉として取り上げられ、これに米軍などを中心とするNATOが攻撃しました。私の理解では敵を作り出して戦争、あるいは戦争のための軍事力を強めたい人たちがいることを常に考えざるを得ないなと思っています。

90年代前半の冷戦構造が終わったところは本来パレスチナ問題の解決に取り組むチャンスでした。これは短く見ても1948年以来もつれてきたパレスチナ・イスラエル紛争、はっきり言えばイスラエルの不当な占領を終わらせることを中心にパレスチナ・イスラエル問題を解決することによって、欧米の言い方では「中東」という言い方になる西アジアの紛争、あるいは非常に不安定な構造の解決に希望があった。それは世界紛争の目玉だったので、世界の紛争、あるいは危うい構造、不公正さ、まともじゃない状態が続けばまともじゃない心理状態の人間が増えるわけですけれども、そういうことへの解決になるはずだった。瞬間的にはオスロ合意でパレスチナ問題の解決に進むかなと思われたときもあったけれど、いろいろな条件の中でまた後ろに戻ってしまった。 イスラエルの強気な政策が常に強力なアメリカの軍事支援、経済支援で支えられているという事実がある。パレスチナの中にもいろんな政治グループがいるけれど、彼らが行ういわゆる「テロ」への非難、批判がイスラエルの軍事攻撃、占領を相対化させる、ちょうどバランスを取ったものとして理解させられて、いわゆる憎悪の悪循環みたいなことで、なかなかパレスチナ問題の解決、イスラエルの占領を終わらせるという流れが明確に出てこなかったのが2000年から2001年の状況でした。

ここにある、不安定構造の存在とその背後に戦争がないと儲からない強力なグループ、これは軍事産業といえばわかりやすいけど、さらに軍事産業に投資して儲ける金融のグループも含めて、そういうものの意図、なかなか表には出てこないし証明するのは難しいけれど、そういうものが背後にあったということは改めて今の時期に少なくとも私自身は感じます。

軍事でない解決が可能だった「9.11」事件

「9.11」事件をどう見るかはいくつか立場がありますが、一番強烈なものは「陰謀」節です。「陰謀」といっても、アメリカの戦争をやりたいグループが自分たちで起こして戦争の流れを作ったという理解もありますし、もう一つはアメリカの現政権が何が行われるか知っていた上で見逃したという説もあります。ここでは話を基本的なものにするために陰謀説は採らずに、よくわからないアルカイダというグループが反米のためにやったという考えを仮に採ります。「9.11」事件への非常な反発は理解できますが、それをアフガニスタンへの戦争とかイラクへの戦争にもって行かなくてもいいやり方があり得たと思います。しかし報復だとかいろんな理屈で、強引に感情的に情緒的にもって行かれちゃった。戦争・軍事的ではない方法が十分可能だったと考えています。というのはタリバン政権もアルカイダ、ビンラディンなども、もともとソ連がアフガニスタンに侵攻した1979年から約10年間、アフガンゲリラあるいはアフガンにおけるアラブゲリラがソ連と戦っていた時点でアメリカがパキスタン政府、サウジアラビアと協力して密接に援助、支援していたんです。だからアメリカは戦争じゃないいろいろな方法でアルカイダグループなりタリバン政権と話すチャネルはありました。けれども一気に戦争にもって行った。当たり前ですけれども軍事的にはお相撲さんと幼稚園児が戦うようなレベルなので、特に空軍という意味では、アメリカが勝った。とはいえ最近は1年、2年遅れくらいでアフガニスタンの「イラク化」が進んでいる状況です。

それからイラク。これはみなさんも含めて2002年から戦争に突入する前の2003年3月20日の開戦前に多くの国々、多くの人々、それから国連の中でも反対する声が強かった。しかし、きわめて強引に、そして後でわかった事実も含めていうならばこの戦争でいろんな意味で儲けたい人たちの利益によって無理矢理に始められてしまったと理解しています。軍部だったり軍事産業だったりその軍事産業に投資する金融資本などの利益です。しかもベトナム戦については「愚かな戦争」という言い方があるけれど、イラク戦争は「よこしま」というか本当に「邪悪な戦争」だと思います。それは政策を誤ったという意味での「愚かさ」もありますが、意識的か結果的かわからないけれど、この人命を犠牲にして大きな金儲けをした人々がアメリカの政権の幹部にいることが非常に「よこしま」です。こういうものをなぜアメリカの人々が許しているのかという気もしていましたが、今回の中間選挙で上院、下院、州知事選も含めて、アメリカの人々がイラク政策も含めた見直しを行ったのは、遅すぎたとは思いますけれども、アメリカの社会の一定の健全さ、まともさが回復されているプロセスなのかなと思います。

ますます難しくなるイラク問題

イラクの現状については原さんの方が詳しいのであとで話していきますが、本当に難しい。内戦とか戦争がある国の中でも最悪の状態がイラクではここ一週間ではなく何ヶ月も、1年以上、2年くらい続いていると考えざるを得ません。これをどう変え、直していくのかは本当に大変なことです。ベトナム戦争の時はまだ何か目処がそれなりに思いつくことができ、またそういう方向で集結したけれど、イラクの場合はアメリカ軍を含めた外国軍の撤退問題ひとつ考えても、撤退すれば治安も含めて良くなるのかという保証もない。撤退しないからといってもちろん良くなるわけでもない。ここまでひどくしてしまった責任はどうなるかという議論も考えますと、なかなか明確な結論は出てこない。最終的にはパレスチナ問題の解決を並行して行う努力抜きには出来ない。9.11事件、アフガニスタンでの戦争、イラクでの戦争そして今年の7、8月にあったレバノン戦争などにもつながっていたと考えれば、やっぱりパレスチナ問題の解決を本当に真剣に考えないといけないと思っています。

この辺から原さんとふたりで一緒にやりますが、私自身もサダム・フセイン政権の時に1回、原さんと一緒に動いたのが2回ほどイラクの経験があります。イラク国内のイメージを作っていただくためですが、これは今から見るともうちょっと平和な時と言えなくはないですけれど、原さんから説明してもらいます。

原文次郎さん(JVCイラク担当)の写真説明

JVCでイラク担当をしております原です。最初にイラクに入りましたのが2003年の7月からです。それから3年間、今も医療支援とを続けています。残念ながら私がイラクの現場にいることができたのが最初の1年くらいで、今からご紹介する写真も、自分が撮ったものですが2004年のものです。最近のイラクの動きからしますとかなり昔話のような感じがします。どう昔話なのかということも含めてちょっと紹介します。

私も報告会を何度かしていますが、最初にこの写真を好んで出しています。市場にいろんな野菜、果物、バナナが下がっていて、色もきれいです。なぜこの写真を出すかというと、イラクなどNGOが現地支援をするような国はみなさん一定のイメージをお持ちかと思います。今回我々は緊急ということでイラクの支援を始めていますが、そのようなケースもあり、あるいは貧困への支援が必要なケースなどいろいろあります。NGOが支援をするような国で市場にモノがあふれているのは、普通はみなさん考えつかないんじゃないかと思い、そういう意味でもイラクの事情はかなり特別だということが一目瞭然なので紹介しています。

モノはあります、が、この「が」がポイントです。この写真では食べ物ではなく道端でいろいろなものを売っています。当時、私はここに行くことができましたし写真を普通に撮ることができました。現在の写真はないです。それは私が行けないということと、やはり治安が悪化してみなさん店を開いているわけにはいかなので、こういうにぎわいは今ありません。もう一つ、モノがあっても買えないことがもっと大きな問題です。お金さえあればこういうモノは手に入ります。街頭に物売りなんかが出ていまして、砂嵐の中で頑張っています。カメラを向けると喜んでカメラにおさまる陽気なところもあるイラク人ですが、すべてお金がなければ買えません。

食糧配給がないと食べていけない、失業率も6割

一般の人の状態は、この写真も2004年当時のものですが、配給場です。湾岸戦争のあとにイラクはまず経済制裁を受けました。これによって100万人でしたか、あまりにも厳しい経済制裁によって多くの命が失われました。弾が飛び交う戦争ではなくて別のかたちでの戦争と言っていいと思います。90年代です。あまりにひどいので、確か1996年から、イラクの石油を売って人道的にどうしても必要な医薬品や食糧は手に入れることはできる仕組みができました。「オイル・フォー・フード」、「食糧のための石油交換計画」という国連のプログラムです。実はこのプログラム自体、これによってかなりお金を儲けていた人がいたので大いに問題ではありますが、それによって食糧配給が始まりました。2003年のイラク戦争のあとでも「オイル・フォー・フード」に引き続いたかたちで食糧配給は行われていまして、今も行われています。ただここ1、2年は配給も滞ったり質が悪くなったということも聞いています。ここに2006年の世界食糧計画(WFP)の報告も挙げておきました。2006年現在でも、イラクの人口の47%という多数の人が、食糧配給がないと食べていけない状態にあります。失業率も6割といわれています。

この写真は、これも有名になったテレビ局など通信社が入って中継基地に使われていたパレスチナホテルです。下をよく見るとコンクリートで囲われて要塞のような状態になっています。2004年の時です。街の中心部は、もう戦後なのでサダム・フセインの肖像画は破られ「独裁者はいなくなった」ことか、と思うんですが、残念ながらこの街のにぎわいも今は多分ないと思います。これはかなり街の中心部ですがこのあたりでも頻繁に自動車爆弾とか迫撃砲が撃たれる事件が起きていますので。

イラクっていうと宗教的に厳しいイメージをお持ちかと思いますが、サダム政権の時はそんなに厳しくはなかった。今の方が宗教勢力が力を伸して厳しいです。これは2004年で、「ハッピーニューイヤー」とか「メリークリスマス」と英語で書いてあります。私はこの頃となりのヨルダンにもおりましたが、シーズンになるとラマダンの飾りを取り外して今度はクリスマスの飾りを飾るという、日本みたいに結構柔軟なところがあります。多分今はこういう飾りをやること自体も反イスラムであると攻撃の対象になると思います。

警察、元軍人、子どもたち

この写真は2004年9月頃発足したイラク警察です。私がカメラを向けてもポーズを取ってくれるくらいで、まだできたてほやほやのイラク警察、この当時は緊張感が比較的なくてまだ良かったなと思います。今は警察の中にある種の宗教勢力が混じって、いわゆる民兵です。本来警察というのはイラクならイラクの治安を守り、その国全体の公共の利益のために働く人たちですが、そうではない自分たちの利益のために働く人たちが出ている。あるいは正義感に燃えて仕事をしていた人がいたとしても、そういう人がそういうものをだめにしたい勢力や敵対する勢力にやられてしまうことが起きているのが現在です。

これは支援の関係でよく通っていた、英語で「ミュージックバレエスクール」と書いてある音楽とか踊りを教えている学校です。そこの前で長蛇の列があり、列の先には昔の軍の施設があります。サダム政権の時代は軍事国家ですからたくさんの軍人がいました。その人たちが戦後になって職にあぶれただけでなく、もともと軍人で武器を持っていたのでこういう人たちが悪さをするということで、この時期までは生活のためにお金を元軍人に配っていました。これはアメリカ軍がバックにいたんですけれど、今はこういう風景はなくなっています。

どの世界でも子どもたちが元気で過ごしていることは、国の将来の希望だと思いますし、そういう堅苦しいことをいわなくてもこういう笑顔に会うと本当に楽しく救われる思いです。子どもたちはこの当時、外に出ることは出来ました。「当時」という言い方をしたのは今は出られないからです。今は治安が悪化しているので、イラクは9月に学校が始まりますが、なかなか子どもたちが学校に通えないという話も最近は聞いています。この写真は2004年のラマダン明け、日本でいうとお正月みたいにいろいろおもちゃを買ってもらって遊んでいる時期です。右から二人目の女の子がピストルみたいなものを持っていますが、子どもでもおもちゃの武器が好きで、どうかなと思っちゃったりします。僕らが支援していた癌とか白血病にかかっている子どもたちも、裕福な家の子でしょうけれど病院にビデオを持ち込んで見ている子どもさんに「何が好きなの」って聞くと、やっぱり「軍隊もの」で戦っているビデオで喜んでいたりして、こちらは非常に複雑な心境になったりもしました。

病気とも貧しさとも闘う医療現場

JVCは癌の子どもたちを助けたいと、病院にいろいろな支援物資、医薬品を持っていっています。ある時病院で会った一家はバクダッドからちょっと離れたところに住んでいました。写真のお母さんが真ん中で抱きかかえているのが子どもです。このお子さんが病院で熱を出して、本当は一週間くらいの入院で退院できるはずが、ずうっと長く熱が下がるまで帰れなかった。その間お母さんが看病していて、ずっと暗い顔をしていたのが印象的で、この日やっと退院できることになってすごく明るい顔をしていました。ただ、退院ができたのはいいけれど、お金がなくて車に乗ってさっと自分の家に帰るわけに行かないんです。「安いバスに乗って帰る。バス乗り場に行くまでのタクシー代が……」とかいっているので、「じゃあ一緒に行きましょうか」といって、僕らの車でバス乗り場まで送ったんです。患者さんは病気とも闘っていますけれども、貧しさといいますか、経済的なところも今苦しいのがイラクの現状だったりします。

この写真はそういう病院のためにトルコ製の冷蔵庫を車の後ろにくくりつけて運んでいるところです。最初はこんな感じで薬を冷蔵する冷蔵庫もないというので支援をしました。でも、これも今は昔という同じ但し書きがつきます。今は危なくて、街中でこんなに大きなものを買って堂々と車に乗せて運ぶことは出来なくなっています。

イラクは産油国ですが、非常にガソリンの値段が上がっています。イラクをWTOに加盟させるとアメリカが言い出し、そのために国際通貨基金、IMFが去年(05年)の12月頃、強力にイラク政府に指導を入れました。非常に安い値段で庶民がガソリンを使えるようにしていました。それを国際価格に引き上げようというのがIMFの指導で、ガソリンの値段が3倍とか5倍になり、庶民がなかなか買えなくなりました。この写真を撮った時はけっこう危険でした。これは闇のガソリンを買って自分でタンクから給油しているところです。真ん中に写っている人は当時運転手をお願いしていた人だから、写真が撮れたましたが、そうでないとこういうシーンも危なくて「お前、なんだ」とか言われてしまいます。

最後になります。これは小学校5年生くらいのクラスで、日本から子どもたちのメッセージを持って行く依頼を受けたこともあり、小学校を紹介してもらいました。今はとてもそういうことは出来ません。この小学校はイラク戦争前までは女子学校でして、戦後に共学にしたので、最初の一列だけ男の子がいる非常なアンバランスで、でも一緒に教育を受けている学校でした。3人1列で机も狭いしすし詰めの状態です。5年生から英語を勉強するので、中学生くらいになると僕らでも英語で「かたこと」の話が出来るくらいです。お父さんお母さんと話すより子どもの方が英語が出来ちゃったりして、イラクのちょっと意外な面もご紹介したいと思いました。もう一つイラクの教育で欠かせないのが、英語の教科書でいろんな国の国旗が並んでいる中に日本も紹介されていますし、広島・長崎のことは授業で習っています。ですから子どもも大人も日本から来たと話すと、どなたからも広島や長崎の話が出ます。広島や長崎でアメリカにこてんぱんにやられたけれど、それに対して力ではなく、戦争をやめて平和な方法で、経済力で、イラク人も日本車とか電化製品で日本をイメージするので、そういう立派なものを作るようになった非常に立派な国だということを言います。イラクもアメリカに戦争でやられてしまったけれども日本を見習って平和で経済力のある国にしたいということをいろんな人に言われました。こういうふうに話すのが全部過去形になってしまっているというところが厳しいところでして、復興支援に関わりながら私も残念なところであります。

再び熊岡路矢さんの話し
通常の暮らしが出来ないイラクの現状

このあとはイラクのこと、国際協力NGOとしての「日本国際ボランティアセンター」の仕組みや、どういうような気持ちで人道支援を行っているかをお話しします。

イラクは、今はもう一つの国といえないような状態です。一般の人たちも僕も原さんも今は想像するだけですけれど、通常の、学校に行って帰るとか通勤して帰るとか買い物に行ってくるとか、ものすごい不安感の中でやっていると思います。全体の人口から見れば1万分の1とか千分の1の確率かもしれませんが、さまざまな銃撃戦――これは外国軍と地元ゲリラとの戦いだったり、イラク人同士の戦いかもしれませんが――銃撃その他爆弾事件などに巻き込まれる率は本当に高い状態で暮らしています。

そこであえてサダム・フセイン政権の時代、サダム・フセイン自身とサダム・フセイン政権が人権の点で問題のある政権であったことは間違いないと思いますが、それと比べてどういう点が同じで、どういう点が違うかということを簡単にお話ししたいと思います。団体としては結構長くいましたが、私自身は短期間サダム・フセイン政権下に入っただけですから、必ずしも全体像をしっかり把握しているかということもあります。でも自分が行った範囲の学校、病院、小さいクリニック、クリニックは主に戦争が始まるもっと前から行った母子保健病院など、日本でいえば赤十字病院のようなかたちで現地では赤新月社の病院への支援をしたりして動いていました。

増え続ける犠牲
「フセイン時代の方がまだよかった?」

まず、僕らはフセイン政権下でもかなり自由に動けました。一番印象的なことは、女の子たちが小学生、中学生、幼稚園児あたりだと誰かと一緒ということはありますが、小中学生は女の子一人であるいは友達同士で学校に通って戻る姿を見てきました。バクダッドとそれ以外はまた違うと思いますが、バクダッドでは、女性たちが小中高、大学まで行く機会は非常に多く、イラクは勉学に機会を開く国で、識字率もある時期まで非常に高かった。女子の学習、勉学と卒業後の仕事もかなり幅広くあって、国家公務員が多いですが学校の先生、さまざまな社会福祉施設の職員もありました。一部にはビジネスをやっている人たちの中にも女性がいました。

サダム・フセイン政権の特徴は広い意味での社会主義政権と世俗的な政治運営です。あまり宗教を前面に出さないことで女性の機会もかなり均等に近いかたちで認められていたことが印象的でした。女性も、バクダッドでは働きやすい服装で、それで石をぶつけられるということはありませんでした。

もちろんサダム・フセイン政権下で抑圧されたり粛清された人は数万人以上います。戦争後、本当にびっくりしたのは、大きな高速道路の橋桁みたいなところが鉄板で囲まれていて、サダム時代にはそういうところに政治犯を入れていたと、一緒に動いていた人は言っていました。ちなみにイラクは8月には50度、55度を超すくらい、もの凄く暑いです。冬はバクダッドでちょうど0度くらい、もっと遠いところに行けば零下もあるという温度差のひどいところで、政治犯をそういうところに閉じこめていること自体が処罰であったわけです。サダム・フセインの政治運営には大きな問題がたくさんあったことは確かです。

とはいえ先ほど言った女子の教育、チャンス、それから女性の仕事、その他湾岸戦争でかなりイラク、バクダッドも含めて電気、水、通信、道路、病院など壊れたけれど、イラク人はおおむね3ヶ月、長くても4、5ヶ月位で回復できたと言っていました。国際社会、国連の経済制裁、その中で何とか生活の基盤を守ること、あるいは作ることができたことははっきりしています。停電はサダム・フセイン政権下で2日に1時間とか3日に1時間くらいはありました。とはいえおおむねノーマルな家庭生活、お金のある家だったらエアコンが動くし、エアコンがない家でも扇風機が動いていました。

戦争の2003年3月20日以降、そういう基本的な生活基盤が壊されたほかに基本的な安全の仕組み、安心の仕組みも壊されてしまいました。これは他の紛争地でも働いたことのある僕自身の感覚ですけれども「権力の空白」がある意味で一番怖いですね。つまり2003年3月、4月、5月、6月あたりで、サダム・フセイン政権という大きな権力とそれを支えるバース党の基盤が、とにかく物理的に軍事的に壊されて、当然それを補わなければいけない。日本の場合は戦争を行った行政、官僚機構、「負けました」という宣言をした広い意味での政府、行政、官僚機構と敗戦以降の復興を担った官僚、行政機構は基本的にほぼ同じです。もちろん敗戦時に約2万人の公職追放、中には軍事の責任者で死刑になった人もいて、政権あるいは行政のトップから外されました。けれどもおおむね継続性が保たれ、その中には一部警察的な機能もあった。一番印象的な話を聞いたのは、日本の敗戦時の1945年8月15日、例えば7時発の何とか行きがやっぱりほぼ時間通りに走っていったという、それは電車でありインフラでですけれど、そういうものが守られたということです。

ほんとうに難しい状況になった

イラクでは根拠なく戦争をしたこと自体が問題ですが、一歩おいて戦争が起きてしまったなかで、国民、市民の、弱い立場の人たちのために考えると、権力の空白の補い方は3つしかなかったと思います。ひとつはバース党政権、もしくはバース党という名前を使わなくても行政を担ってきた人々、場合によっては軍隊の建設を含めて上の1割、2割ははずしても実務をやっていた8割の人たちを温存して行う、これが選択の1です。そうしないと行政、あるいは権力の空白のために安全が失われてしまいます。2番目は、その時点で亡命イラク人が相当数アメリカ、イギリス、フランスなどにいたわけで、イラクの言葉、アラビア語なりがわかり、イラクのさまざまな社会、文化がわかる人たちが、権力の空白を防ぐ意味で行う。これがチョイスの2です。3番目、これは実際には有り得ないけれど、アメリカ人全体の中で軍やアメリカの国務省を中心に言語も含めてアラブ理解、イラク理解を十分にした人たちが行政を行う。でも結局はイラクの人たちが実際にはやらなければならないので、チョイスは最初の1か2しかないと思います。

何が言いたいかというと、人々が学校に行くとか買い物に行くとか仕事に行って帰るという本当に基本的なことが安心して出来なくなった。つまり権力の空白でそれまでイラクの社会の下の方に隠れていた犯罪組織――人身売買もあれば内蔵を売るとか、そういう犯罪組織が自由に動けるようになった。

本当に悪い意味でアナーキーな無政府な社会にしてしまった。今だけ見るとシーア派とスンニ派が戦っているような言い方をブッシュがしています。もの凄くふざけた無責任な言い方です。今のような現象が起きた最初の条件はアメリカが作ったのに、何を言うのかという感じです。とにかくアメリカがしたことは最悪の最悪です。サダム・フセイン政権を相手にしても大量破壊兵器の問題を解決する道筋はあったし、そもそも大量破壊兵器はなかったわけです。アメリカは解決のシナリオを持つ責任感もない状態で今に至っています。

人道支援を通して平和提言さぐるJVC

NGOとしては、市民としては仕事とか家族、家庭との関係で自分のいるところで平和運動を行うこともあります。JVCの場合は日本を拠点にしながら国際的には主に3つの分野で活動しています。ひとつはこのイラク、パレスチナを含めて紛争地の人道支援を通してですが、僕らの場合は単に人道支援が出来ればいいということではありません。例えばパレスチナでは子どもたちの栄養状態は悪いけれど、そこにミルクとかビスケットを持って行っています。それをひとつのバネにしながら今のパレスチナのあり方、原さんの活動でいえば今のイラクのあり方に警鐘を鳴らすといいますか、何とかより良い方向になるように、現地の声を伝えたり、可能な範囲で平和が作られるための提言を行っています。

人道支援そのものを目的にする団体があって、それはそれでいいと思います。しかしJVCの場合は、人道支援を「てこ」にしながらその紛争、戦争の問題を伝える、アピールしながら平和につながる動きを作っていきたいと思っています。

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「憲法と平和を守る大分県民集会」について

実行委員会会長  岡村正淳(弁護士)

11月19日に大分市で、朴慶南さん、高田健さんを講師としてお迎えし、「憲法と平和を守る大分県民集会」を開催しました。朴慶南さんは「『私以上でもなく、私以下でもない私』~戦争・暴力・差別から命の尊厳を取り戻そう~」という演題で、高田健さんは「九条が、この国を守ってきた。」という演題で、それぞれ熱烈で感動的な講演をしていただき、参加者一同、憲法・教育基本法を守る決意を新たにしました。参加者は650名で、大都会で開催されているこの種の集会に比べればささやかな集会ですが、文字通り思想信条の違いを乗り越え、県下各地の45団体が実行委員会を結成して取り組んだ画期的な共同行動であり、大分県における憲法運動の新しい地平を切り開くものとなりましたので、その経過を報告します。

どこでもそうでしょうが、大分県でも、政党や労働組合の外に、平和と民主主義、基本的人権にかかわる活動に取り組んでいる多様な運動や団体があります。20年以上も継続して、毎年8月15日に憲法9条を守ろうという新聞一面の意見広告掲載を続けてきた「赤とんぼの会」、沖縄から移転してきた155ミリ榴弾砲の演習に反対し、沖縄と連帯する「沖縄と日出生台を結ぶ大分県女性の会」、「憲法・教育基本法の改悪に反対する市民連絡会」など様々です。2005年以降は、臼杵、津久見、日田などの地域の九条の会、宗教者、俳人、マスコミなどの分野別九条の会の結成が相次ぎました。これらの運動を結集し、今回の共同行動の中心になったのは、1971年から、毎年欠かすことなく5月3日に開催してきた憲法記念日講演会の共同行動です。この講演会は当初は青年法律家協会と科学者会議中心の小規模の講演会でしたが、1980年前後頃からは、社共両党、旧県労評・大分地区労、青年法律家協会、科学者会議の6者共催となり、規模も拡大し、内容(演題・講師)も年々充実してきました。その過程では、共催の維持が困難となりかねない状況にも何度か直面しました。社共両党の意見の対立、県労評が解散し、その運動を県・大分市の平和運動センターが継承した一方で、新たに結成された県労連が共催への参加を要請してきた問題などです。筆者は1971年からずっと憲法記念日講演会の世話役を続けてきましたが、共同行動もこれまでかという思いにかられたことも何度かありました。しかし、この憲法記念日講演会は、いつしか、平和憲法を守ろうという幅広い個人や団体が、思想信条の相違を乗り越えて5月3日に参集し、共に学習し、護憲の決意を新たにする唯一の機会として大きな期待を寄せられるようになっていました。何とかしてこの1日共闘を持続していかなければならないとの思いから、各団体が譲歩し合い、意見の相違は留保しながら分裂を回避して共同行動を継続しているうちに、共同行動の意義についての確信と信頼関係が強まってきました。憲法改悪の動きが顕著となってきた2004年の憲法記念日の前後頃からは、5月3日の1日だけの共同行動にとどめず、持続的な共同行動ができないかという機運が出始めました。その思いで議論を始めた頃、イラクで人質となり、「自己責任バッシング」を受けた高遠菜穂子さんを大分に呼ぼうということになり、同年12月、その集会を6団体で主催して成功させました。その成功が、持続的な共同行動への思いをさらに強め、6者共催を基盤にして持続的な団体を立ち上げることになり、2005年2月頃から、県内の著名な有識者に呼びかけ人になってもらって取組みを進め、同年5月3日、恒例の憲法記念日講演会に引き続き、「平和憲法を守る会・大分」を立ち上げるに至りました。憲法記念日講演会の参加者は2004年までは最大でも400名に届かなかったのですが、この日の集会の参加者は450名を超え、かつてない熱気溢れる集会となりました。村山元総理も、一市民としての立場で呼びかけ人となり、この集会にも出席されました。

発足した「平和憲法を守る会・大分」は、学習会や佐高信氏を迎えての講演会などを実現してきましたが、憲法や教育基本法改悪の危機感が高まる中で、前述した県内の運動を総結集し、もっと大きな共同行動を実現しようという機運が出てきました。そこで、2006年に入り、守る会・大分が呼びかけ団体となって、「憲法九条を守る大分県民集会」実行委員会の結成を呼びかけ、議論を重ねて標記の集会を実現するに至ったものです。

大分県という片田舎におけるささやかな憲法運動ですが、この運動は確実に正しい方向に発展してきたと思います。もし5月3日の共同行動の積み重ねがなく、意見の相違を乗り越える知恵がなかったら、今回の共同行動は実現せず、草の根とはいえ、各団体が細々とタコツボの運動をするだけで、大きなうねりをつくることは難しかったのではないかと思います。実行委員会は解散せず、もっと大きな共同行動に立ち上がることを確認しています。教育基本法改悪は強行されてしまいましたが、中身の勝負はこれからですし、憲法は傷だらけであってもまだ生きて輝いています。まだまだ不十分ですが、これからもより広くより豊かな憲法運動を目指して取り組んでいきます。

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