私と憲法63号(2006年7月25日発行)


自衛隊「海外派兵恒久法」など許せるものではない

陸上自衛隊のイラク・サマワからの撤退を契機に、自衛隊「海外派兵恒久法」の制定が語られはじめている。

額賀福志郎防衛庁長官は陸自派遣部隊をクウェートに迎えて、「(自衛隊の海外派兵を随時可能にする恒久法整備について)機敏に対応できるように一般法を作り、自衛隊活動が広がることが望ましい。与党で議論してもらうといい」などと述べた。すでに法案については「自民党内で検討が行われている」(安倍晋三官房長官)のであり、額賀長官も「何か起こったときに、新しい法律を作るのではなく、その時の状況判断で自衛隊の活用ができる環境を作っていくことがこれからの課題だ」とも述べている。「産経新聞」も「この問題(治安維持活動も派遣部隊の任務とすることなど)を整理し、(憲法の)解釈を変えない限り、日本は国際社会の平和と安定のための責任を実質的に果たせない。治安維持を他国に押し付ける特殊な国でいいのか-略-『恒久法』制定を急ぐべきだ」(7月19日、社説)と主張した。

先の国会に出された「防衛省昇格」法案や、今回の北朝鮮のミサイル発射実験に便乗して噴出している「敵基地先制攻撃」論などと合わせ、この「海外派兵恒久法」も「ポスト小泉」政権で「憲法9条解釈」の範囲を事実上跳び越えて本格化することになる危険な戦争法だ。

この「恒久法」の口実にされている陸自のサマワ撤退問題について、いくつかの問題点を確認しておかなくてはならない。

第1、イラク派兵は米国の「大量破壊兵器」を口実とした戦争に協力させられたものであり、小泉首相が「大量破壊兵器はいずれ見つかる」(03年6月)などといって正当化した前提そのものが虚構であり、「指揮下には、はいらない」と言い訳して「多国籍軍」にまで参加してしまったことなど、「特措法」による派遣とはいえ、これらは憲法違反そのものであったこと。

第2に、今回行われた自衛隊のイラク撤退は英豪軍の撤退で余儀なくされたサマワの陸自のみであり、空自は残留するばかりか、陸自撤退の代償として米軍などの兵員や物資の輸送支援の活動領域をバグダッドや北部アルビル地域にまで拡大することを約束させられたこと。

第3、自衛隊のイラク派兵は「非戦闘地域での活動」を前提とし、「国または国に準ずる者による組織的、計画的、国際的な武力紛争の一環としての武力攻撃が行われていない場所」とされてきた。政府は武装勢カとの戦闘がつづくバグダッド空港とクウェートからの飛行経路という「点と線」に限って「非戦闘地域」とする「フィクション」(防衛庁関係者)で「イラク復興支援特別措置法」の範囲内であると強弁している。さきに小泉首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」(04年11月)という「迷言」を残したが、こうしたご都合主義的対応は変わっていない。

第4にインド洋とその周辺にはテロ対策特別措置法によるアフガン作戦支援の海上自衛隊が米英軍などの兵站活動を続けている。

第5に政府はこれら「特措法」を延長に次ぐ延長というやり方でやってきており、これらの作戦は終了していないどころか、泥沼に入ったと見るのが正解だろう。

第6に、米軍の全世界的なトランスフォーメーションの中で、在日米軍の再編も進み、自衛隊と米軍の軍事的一体化が進んでいる。今後の「対米協力」は、このイラク派兵が切り開いた水準を最低水準にした、次の段階への踏み込みが要求されることになる。自衛隊はすでに来年3月から第一空挺団や特殊作戦群などを含む防衛庁長官直轄の海外派遺担当の「中央即応集団」(3200人)を組織することを決めている。

第7に、今回の撤収を小泉首相は「自衛隊の諸君は一発のピストルも撃たずに取り組むことができた」などと言い、さまざまな御用評論家たちも「秀吉の中国大返しに匹敵する歴史的事件だ」「一発の銃弾も撃たず、一人の犠牲者も出さなかった」などとはしゃいでいるが、実際のところはそうではない。この2年半で自衛隊は14回のロケット弾攻撃を受け、4回は宿営地に落下し、車列攻撃を受けた際は隊員は実弾装填をし、戦闘勃発寸前になった。5500人の派遣隊員のうち、事故で重傷を負った者も幾人かあったし、帰国後、すでに6人の隊員が自殺し、他にもPTSD障碍者も多数発生している。決して「無事」などと言えるものではないし、直接の戦死や殺害がなかったのはほとんど偶然に過ぎない。

第8に、イラクヘの援助資金を別にしても、この間、派遣された自衛隊にかかった費用は3月末までで実に743億円である。これをNGOがイラク支援に使った場合の効果を想像すれば、いかに巨大な浪費であったことか。

「派兵恒久法」への動きは小泉内閣のもとで福田官房長官(当時)の私的諮問機関「国際平和協力懇談会」が「『多国籍軍』へのわが国の協力について、一般的な法整傭の検討の開始」を提言し、その後、凍結されていたのに端を発している。「恒久法」の制定は、従来の国会による「特措法」の制定というやり方をさらに押し広げて「恒久」的な法整備で、自衛隊の派兵を内閣の判断に委ね、迅速な対応が可能になるというのである。自民党がいま検討している「恒久法」の原案では、国連決議や国際機関の要請がなくても「国際平和活動を行う」ことができるとされ、派遣の条件を「非戦闘地域」というだけにして、治安維持活動も可能にし、その際の武器の使用は警察権」の範疇であり、憲法の禁ずる戦争ではないと強弁されようとしている。要するに今回のサマワ駐留になぞらえれば、英、豪軍の役割を自ら務めて自衛隊が活動する状態である。これはまさに「治安維持を他国に押しつける特殊な国」(前出・「産経」杜説)ではなく、ほとんど「普通の国(普通に戦争のできる国)」の姿である。

「特措法」派兵から「恒久法」派兵へ、いつでもどこでも米軍と共に戦える自衛隊、あるいは米軍と分担すれば単独でも戦える自衛隊へ、である。

「ポスト小泉」が、小泉路線の継承を唱え、「反北朝鮮」の扇情的なキャンペーンを展開するなど、ある意味で小泉以上にタカ派色の強い安倍晋三・現官房長官になる可能性は濃厚である。全体として安倍氏らのもとでは、日本は隣国との関係を従来にもまして緊張させ、ますます「世界の中の日米同盟」の強化に走らざるを得なくなる。今後、自衛隊の「海外派兵恒久法」にみられるような「海外でいつでも戦える自衛隊」への飛躍が加速されるに違いない。

9月29日に始まる予定の第165臨時国会はこれらの戦争法案がぞろぞろと出てくることになる。平和を願うアジアの人びと、世界の人々と手をつなぐことは日本の平和運動にとっていまいっそう重要な課題になっている。

合わせて、国内での可能な限り最も広範な共同を組織し、先の通常国会で成立が阻止された憲法改悪のための手続き法案、共謀罪設置法案、教育基本法改悪案、防衛庁の省昇格法案、自衛隊法改悪案など、「戦争のできる国」づくりをめざす諸悪法案をこの臨時国会で廃案に追い込み、派兵恒久法案を阻止するため、全国各地からたたかいの波を起こすことが求められている。(事務局 高田健)

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第13回市民憲法講座(要旨)
「女性の労働と人権」

中野麻美(弁護士)

(編集部註)6月24日、市民憲法講座で中野さんが講演したものを編集部の責任で大幅に要約したものです。文責はすべて編集部にあります。

グローバル化と市場原理主義

女性の労働を中心に職場の人権の課題を問題提起させていただければと思います。最近の職場の状況は大変に厳しいものがあります。グローバル経済を身近なところでいうと、ニューヨークとかロンドンのマーケットの動きが日常の天気と同じように、情報提供されるようになっています。株と為替の動きが天気予報と同じように人々の生活に食い込んできたことが、グローバル経済が私たちの身近なところで実感される局面だと思います。

グローバル経済は究極的に何をもたらすかというと、資本の完全な自由を意図するわけです。一方、国際社会では労働者を保護するレベルも大きく違っています。たとえば、アジアの領域で見ても、中国とかインド、あるいはタイ、フィリピン、それから日本で、労働基準はまったく違うわけです。

私のお客さんで、プラスチックの型を作る工場だったのですけれども、大手商社から話を受けて、一億円投資をして採算ラインにのるところまで製造・開発をしてきた人がいました。その方に「もう倒産だ」と相談を受けたんです。話をもってきた大手総合商社が、「採算ベースにのることがわかったら、お宅ではもう依頼はしない」「中国に持っていく」と言われたというんです。採算ベースにのせるところまで利用しつくして、中国の労働者で、安上がりに製造させるというわけですよ。それでやむなく代々の土地と工場兼居宅を売り払った。

今後のことをお聞きしたら、「中国で、工場長で雇ってくれるところがあります」ということでした。そこで、日本で培ったノウハウを発揮して、中国の工場で、現地の労働者に指揮監督するのになんと月額の賃金が16万円だそうです。中国では(月に)2万円もあればぜいたくな暮らしができる、残りの14万円を家族に仕送りするんだそうです。中国に(仕事を)奪われながら我が身は中国で労働し、日本にいる家族にお金を送る、そういう時代が来るのだな、と痛感させられました。

資本の「自由」の獲得と労働基準の切り下げ

これがある意味ではグローバル化の一つの側面でもあるわけです。このように、賃金だとか、労働基準も、各国で非常に大きな違いがあるわけです。資本は最も効率的なところに流れていく。資本が逃げ出さないようにするために、各国はものすごい努力をする。労働者も努力するわけです。雇用を失われないように、自ら労働時間などの権利を獲得してきた水準を抛棄せざるを得ない。そういう力が「低きに流れる」方向で、各国の労働基準を規制緩和させる方向に圧力をかけるようになる。そのことによって、従来以上に、労働者を「自由に使える」という、資本本来の「自由」を獲得していくことになります。グローバル化は「資本の自由」を与える方向に作用してきているわけです。

私は1990年代の終わりに、ニュージーランドで郵政の民営化を調査してきているので、その時の打撃的な話は、この郵政民営化で総選挙をやった時に、発信したいくらいの思いだったんです。 ニュージーランドでは、民営化と労働分野における規制緩和がドンドン進められていて、もう労働組合は一網打尽。全国一律賃金だとか労働時間だとか、様々な権利を擁護してきたアウォード・システムというのが全部破壊されました。各企業の業績ごとに、一人ひとりの働きごとに支払っていくのだという、労働組合の存在価値を無化するような労働改革をやったんですね。郵政の民営化とか、公営でやってきたものを全部民間に丸投げしていく鋭い民営化政策がとられていった。

この、ニュージーランドの民営化は、日本の国鉄分割民営化の域をはるかに超えてました。国鉄分割民営化は、そのまま日本の民間企業として新しく誕生させる手法をとっているのですけれども、ニュージーランドでは、外国資本に売ってしまいますからね。こうしてニュージーランド経済はグローバル化に対応しようとした。その結果起きたのは、もう本当に「二極化」です。

「失業率は改善された」と言われたけれど、その失業を改善する最も大きな雇用は、最も低賃金で働く最も細切れで不安定な雇用だった。その結果、生活保障や生活保護などの貧困世帯が増えていく。日曜日も24時間あいているメガマートの前で小さな女の子が、ケースを開いて、小さなバイオリンを弾いているんですよ。女の子は、フリルのついたちょっと汚れた服を着ている。そんな社会を見たら、もう、とてもじゃないけど「成功した」という雰囲気ではないですよ。

ところが、帰ってきたら、日本の国会では「ニュージーランドのように(規制緩和を)ドンドンやれ」って、ニュージーランド大使が演説をぶっている。小泉内閣がやったことは、労働分野における規制緩和から民営化から、ものすごい勢いで規制を緩和してきたということなんですね。

規制緩和で顕在化した自立できない反憲法的低賃金

 今年のはじめにルポが公表された雑誌『文藝春秋』の「衝撃ルポ・格差社会」をお読みになった方がいらっしゃると思います。就学援助金は生活保護給付をちょっと上回るくらいの収入しか得られない世帯に、子ども一人あたりに年間10万円ほどの給付金です。足立区は子どもさんを抱えている世帯の42%に就学援助金を交付しなければいけない、多くの貧困世帯を抱えている地域ですけれど、この地域の生活の実態をルポしています。

ルポでは主婦たちの売春で生活をつなぐとか、夫婦で働いても生活保護給付にも満たない金額しか得られない世帯のことを紹介しています。こういう労働が放置され、規制緩和がすすんだ今日、男性をも巻き込んで非常に深刻な事態になってきています。しかし日本の社会は昔からこういう労働を放置してきたわけで、それが女性労働の分野だった。日本の社会は自立して生きていけないような低賃金労働を放置してきた。そのツケが、グローバル化が非常に激しく人々に不利益をもたらすような時代になって、ボディブローのように影響がでてきたのだろうと思っています。日本の社会が放置してきたこの反憲法的なもの、水面よりも上には現れなかったものに改めて光をあてて、どうしていくのかということが問われるようになってきている。そういう時なのだろうと思います。

小泉規制緩和のファシズム的手法

日本の国は、小泉内閣をその筆頭にして市場原理主義者による規制緩和が、強力に進められるようになったけれども、これと保守主義が非常に仲良く手をつないで社会を跋扈するようになったのが今日的な特徴の2点目でもあります。

市場原理主義者たちは、労働分野や産業分野における規制緩和の方針を決定する会議を、名前を変えて、一貫して持っています。これは法律にもとづいて設置されている会議で、例えば「規制緩和推進会議」などです。だいたいこの会議に顔をだすメンバーは一定しています。アメリカのシカゴ学派だとか、市場原理主義を学んできた学者、市場の規制緩和に直接利害を持っている資本家・企業家――例えばオリックスの宮内さん、派遣会社・アール代表の奥谷さんです。こういう企業家、学者たちによって成り立っています。

通常、政策を決定する場合、それに利害関係をもつあらゆる人々が、法的に正式に根拠を置いて国の政策を決定する、そこで話し合われた結果が内閣を拘束するという制度的な根拠を持たされているならば、当然のことながら労働組合の代表も、中小零細企業の事業主も、その会議に入らなければいけない。規制緩和に反対する人たち、たとえば内橋克人のような学識者も、入れなければいけないはずです。ところが、この会議のメンバーは、すべて、規制緩和を推進させることで一致している人たちで、ここで決めたことを内閣の方針にしてしまう。これほど反民主主義的な政治手法はありません。ファシズムと同じですよ。

あのアメリカン・スタンダードとかいって日本が学ぼうとしているアメリカは、規制緩和を進めるうえでも、色々な多面的な意見を委員会の中に反映させてきています。日本評論社の『規制緩和の神話』という本でその様子がわかります。あれには、規制緩和をすすめて10年ほどたった到達点を多面的に検証しています。日本の場合には全然それがないところが特徴的です。

市場主義の過酷さを補完する保守主義

それで、保守主義というのは一体何なのか。規制緩和・市場原理主義は、非常に現代的・合理的な装いをまとっている。それに対して保守主義は「国家神道の再来である」のような、アメリカで言えばイエス・キリストが何ごとも決めていく、というような考え方です。社会の方向性を何が決めるのかというと、リベラルは「人間の理性が決める」けれど、ブッシュが背景にしている保守主義は「神が決める」と言う。「神がつくりたもうた自由の道を一路突き進んでいくのだ」なんて教書演説をしたりする「反人権の流れ」が彼の持っている保守主義なわけです。

こういうものと、現代的な市場原理主義は相容れないと軽視する傾向があるのは、私は非常に問題だと思うんですね。例えば、男女共同参画基本法ができて、それでジェンダー・バッシングだとかバックラッシュだとか言われていますが、ある学者は「あんなのは国際化するなかでは、あり得ない話だから、局地的で一時的なものだ」と判断していることに、私は驚きました。だって市場主義は非常に苛酷なものを人々に強いていく過程です。完全なる資本の「自由」を獲得した時に、人間がどうなるかを考えてみて下さい。人間のすべてが差別され、貧困の渦の中に投げ込まれた人たち、しかも、そういう人たちが多数派ですよ。この人たちに納得してもらえる民主主義的な手法なんてないんですよ。もっと貧困が進んで国家財政がボロボロになるところまできたら、生活保護制度そのものを抜きにするか、憲法25条を抜きにするか、という議論になるんです。

こういう時に、保守主義はテキメンに、人々を統合していく一つの非合理なものとして機能する側面があるわけです。日本の社会では、例えば「選ばれた者」という意識を持たされることによって、そして新たな被差別集団を見出し、そちらに対する攻撃力を見出しながら、自分自身の存在意義を確認し、矛先を納めていく。強いものに対しては、決して、抵抗することにならない。強いものではなく、弱いものに向かうのを用意していく支配の手法があるわけです。だから、市場原理主義と保守主義は実は非常に仲良しで、二つが重なり合いながら、差別と暴力の連鎖が今の職場にもたらされてきている実感をもちます。

男女間の分離と不平等の拡大

男女間の格差は拡大し続けています。政府はこの事実についてまったく人々の目をそらそうとしている。福島瑞穂さんが、格差社会について国会で追求した。それに対抗して「格差はそんなに開いていない」という学者の意見が出てきた。そのペーパーを見たら、学歴別・男女別で統計をとって「同じ学歴の人たちの間で格差が開いていない」「同じ男と女と、その集団の間で格差が開いているわけではない」と言う。何を考えているのかと思うのです。むしろ「雇用形態間」とか、「パートと正社員」とか、「男と女」とか、「高卒と大卒・院卒」なんていうのは、明らかに格差が開いてきているわけです。社会が高度化していく中で、自分のスキルを合わせることができない人たちがたくさん出てきていて、時代の変化に対応していく力といったら、基礎的な力をどれだけ多く育んでいるかですよね。例えば言語力とか、理論的に考える力だとか、そういったところできちんとした教育を受けられなかった人たちが大きな不利益を受けている、ということをまったく見ようとしない。

教育格差がさらなる貧困を生みだしていく構造は、本当に深刻なものです。最近「平等」「不平等」という言葉を使わなくなっていることに私は大きな危機感も抱いています。「格差」というように、きれい事にして、なにか他人事のように受け入れることができるのが、「格差」という言葉だと思うんです。「不平等」という言葉を使ったらどうですか。

不平等を覆い隠す「格差」という言葉

ある人が格差という言葉を英語に翻訳しようと思った時に、ハタと思いとどまった、と言うんですね。「格差」に対応する英語はない、やっぱり「不平等」なんだ、と。なぜ日本の社会は「格差」という言葉を使って、「不平等社会」とは言わないのか、と。それはこの所得格差が意味している本質的な部分が、日本がいかに差別を許容し、不平等を許容してきた社会であるのかを気付かせない一つのイデオロギー操作なのではないか、と思うのです。「格差社会」という呼び名そのものが、事態の深刻さから人々の目をそむけさせている一つのイデオロギー操作になっているということは、ひとつ申し上げておきたいと思います。

これが憲法14条で法の下の平等を保障し、憲法25条で、誰にも健康で文化的な最低限の生活を営む権利があるとうたいあげ、人権保障と、一人ひとりが軽重なく国の主人公であって、誰もが平等に政治に参加する権利があるという、民主主義社会を標榜している日本国憲法の下で起きている出来事なんです。

女性の低賃金化と差別

 男女間の格差が覆い隠されていることを申し上げましたけれども、私の資料の「主要国の男女間賃金格差の推移」を見て下さい。これは 森ます美さんの本からとらせていただいたものですが、オーストラリア、フランス、オランダ、イギリス、ドイツ、アメリカ、日本、韓国で、男女間の賃金格差を比較したものです。これを見ていただきますと日本は、1982年から均等法が制定される86年にかけて韓国のすぐ上をいく水準で、主要7ヶ国で上から6番目の地位にありました。2003年には韓国に追い抜かれ、ほんとにどん底に、格差が拡大をしている状況です。

それでも全体としてみると、日本も男を100として、女性はだんだんその充足率を上げてきているようにみえます。実はこの数値は、厚生労働省『賃金構造基本統計調査』からとっていて、正社員で働いている男女が対象なので、パートは含まれません。細切れ雇用の有期労働者は含まれません、派遣労働者も含まれません。

そして、非常に深刻なことに、パートタイム労働者と正社員の男性との格差は、拡大しつづけてきています。その状況を示したものが、「雇用形態別にみた男女の給与格差」と「正規・パート間の所定内給与・時給格差の推移」という表です。格差が開いている実態が出ています。この表は、男は男、女は女で比較していますので、ちょっと不十分なのですが、男性の正規労働者を100として、男性パート、女性パートで比較してみると、大体どれくらいの水準なのかがおわかりになると思います。こういう、非正規で働いている人たちも含めて、働いている人たち全体に男と女でどれだけ賃金が配分されているのかを見なければ、男女間の格差の実態はわからないはずです。それで、「正規・パート間の所定内給与・時給格差の推移」からも見てとれるように、一時金はこの中に含まれていません。退職金も時間外の割増賃金も含まれておりませんので、格差はもっと大きいということです。で、これが日本の男女間格差というものの実態です。

均等法施行でも埋まらない男女賃金差別

さらに「性別・年齢階層別にみた非正規労働者比率」グラフで見ると、男と女でまったく質的に違うことがわかります。男では増えているのは、若者世代とリタイアした以降の世代で増えてきている、若者世代は最近もっと多くなって、30%を超える状況にあります。この人たちの雇用が上向いて正規雇用にも門戸を広げるという形で改善されているのですが、女性たちの雇用なんて何ひとつとして改善されていません。女性たちは、長期安定成長じゃないけれども、年齢を重ねるごとにこの非正規比率は高まっています。30才を超えたところでもう、非正規労働者が50%を超えてしまう。それなのに依然として正規雇用で男女間の賃金格差の統計をとっているのは一体何なのか、と思うわけです。非常に差別に鈍感な、行政の体質というものを物語っています。

だいたい均等法が制定されているのに何故これだけ賃金格差が埋まらないのか、あるいは拡大するのか、その根本的な原因はどこにあるのかを真摯に究明するのが行政の役割であるはずです。政策の舵取りをしている官僚たちは、「正規は正規、パートはパート、派遣は派遣」というこのグループ分けを、非常に強固に持っているんですね。それで、「正規とパートは比較するものじゃあない」と。それで、同じ正規でしか条件は同一でしかないのだから、ここで男女間の格差を比較していく、という発想にたっている。まったく話にならない。

雇用形態別の差別で非正規雇用が拡大

この中で隠蔽された差別が、雇用形態間における差別だったわけです。だから女性たちは、均等法が86年にできて「小さく生んで大きく育てよう」と、労働組合をリードしてきた人たちが決意を新たにして、均等法を武器にして格差を縮めるために努力してきたわけです。しかし均等法には、その努力を無化するキーワードが含まれていました。それは「募集・採用・区分ごとに」という、男女間の格差を拡大するような仕組みがつくられていた。だから、正規雇用の中でも、多様化がすすみました。女性は一般職、男性は総合職、というコース別雇用管理の下に全部振り分けて、女性たちを差別化していった。そして、女性の労働分野はもう正規雇用では雇わない、非正規雇用しか門戸を開けない、というかたちで、ドラスティックな常用代替を進めていったわけですね。ある会社では、正規で働いている女性を全員パート化するとか派遣化するという、大胆な常用代替措置をやってのけ、それで低賃金労働に押し込める、ということをやってきたわけです。この格差拡大のもっと根源的な要因は、パートタイム労働だったと思います。女性たちが働きに出ようと思った時「パートしか働き口がない」という、このパートです。

パート賃金=反憲法的パラサイト的低賃金

これらの形態で働く人たちの賃金水準がいかに非人間的なものかということを私は例に出して申し上げています。DV(ドメスティック・バイオレンス)で夫から逃げて、子どもたちと一緒にシェルターに保護され、生活保護給付を受けて、自立のための準備をする、というような時に、母子世帯3人で、東京で20万円ちょっとの保護給付を受けることができます。年間で約250万円です。この250万円の生活保護給付水準を、パート労働で得ようとしたときに、時給800円の労働者は年間3000時間働かなきゃいけない。時給1000円の労働者でも2500時間働かなきゃいけないんです。2500時間といったら、「働き過ぎだ」という男の、平均的なサービス残業も含めた労働時間数よりも、200~300時間、多い。3000時間なんていったら、過労死ギリギリの水準ですよね。日本のパートタイム労働は、憲法25条に保障された自立を求めるのだったら、死ぬほど働けという水準なんですね。とても「パート」といえない。だから日本の社会は「フルタイムパートタイマー」なんていう(笑)変な言葉を許容してしまっているんです。フルタイムよりもっと長く働かなければ生きていけない、そういう労働だから、これを「反憲法的な賃金」、あるいは「反憲法的な労働」だと位置づけることができるのではないかと思うのです。

誰にも保証されるべき仕事と家庭の両立

それに加えて、この水準では誰かにパラサイトしなければ生きられない、そういう水準でもあるのです。夫の暴力から逃れようとした時に、「この子たちを抱えて、生きていけるのかしら」と思ったら、「やっぱり逃れられない」と思ってしまう。それは「パラサイト的低賃金」と言うに匹敵するわけで、日本のパートタイム労働は、そういう反人権的な労働なんですね。これを許してきたイデオロギー的な基盤に、注目しなければならないです。みんな、このことを、放置してきたのではないですか?

その究極の理由は企業が一番良く知っていて、私たちがパートの賃金とかパートの首切りの時に「不合理だ」と主張すると、企業側から必ず返されてくることは、要するに、家計補助的労働であるということと、仕事と家庭の両立をはかるという企業との結びつきの弱い労働だ、と言うのですね。仕事と生活の両立をはかる、仕事と家庭の両立をはかる、と言ったら、「男は保障されなくていいの?」という、こういう論理で、ちょっと考えてみて下さいよ。

パート賃金の反憲法的性質

仕事と家庭の両立は、誰にも保障されなくてはいけないことなんです。それが、まっとうに生きる賃金を保障しなくてもかまわないんだ、という理由に、正々堂々とさせられていて、それに対して不思議にも思わないというのはいったい何なのか、ということです。これを支えるイデオロギーがまさに「性役割」、「男は仕事、女は家庭」なんですね。それがあればこそ、女は働くのが例外的で、「仕事も家庭も」というのは例外的であって、「働きに出る時はウチのことをしっかりやってから出ろよ」という話がどこに行っても出てくる。

そういった性役割が根底にあって、人々がそういう働き方なり賃金を容認してきた歴史があるわけです。で、これがいったい差別ではないのか、ということが問われないと、日本の格差構造は、絶対になくせないんです。今では、女たちが当たり前のようにして働くようになりました。これは男たちがリストラされる危険があるから妻たちが働きに出ないと、セーフティネットが組めないことになる。「男は仕事、女は家庭」という20年くらい前の性役割から新しく再編成されて、「男は仕事、女は仕事と家庭」という具合に、それが非常に強固になってきた、ということですね。このパートの賃金面から見て女性が不利益に扱われているという、反憲法的な性質をおさえて下さい。

労働時間デバイドと「男は仕事、女は仕事と家庭」の新・性別役割

じゃあ男はどうなのか、という話をしなければならないです。「男は仕事、女は仕事と家庭」という新・性別役割として非常に強固に、新しい分業体制、家父長制が日本の家族のなかに貫かれてくる歴史的な経過は、市場主義とあわせて貫かれてくるんですよ。その傾向をみるものとしては労働時間ディバイドの経過を見れば明らかです。

男たちの平均的な労働時間、これは2000時間を超えています。政府は1800時間という労働時間短縮目標は到達できないので、ごまかしをやろうとした。残業代を払わなくても長時間働いて良い制度で、統計データに長時間労働が反映されないごまかしをやった。加えて「1800時間」の目標を下げた。これがこの間の法改正でした。労働力調査で、男性たちの長時間労働の実態をみると、やっぱり2000時間を超えている。

それに対して、女性はパートで働いている人たちを中心として、1100時間台というのが非常に多くなっている。平均的なデータが1100時間です。だから、労働時間が男女でディバイドされる(二つに分かれる)という結果がでています。そして、二千何百時間も働かなきゃいけない男たちに対して「家庭に戻れ」なんていうことをいったって、できっこない!というのが出てくるわけです。

  しかも、どの年代で労働時間が長いかというと、子育て真っ最中が一番です。企業は、新人を雇い入れて、20歳代の後半までは「訓練期間」として位置づける。払っている賃金の元はとれず投資する感覚です。30代には自立して、ドンドン仕事をしてもらって、40代過ぎたあたりから、部下をもって後進を育てる、という役割を期待する。ちょうど結婚して子供を産んで育てていく時期に重なる。女性はこの企業システムの中で残っていくには、「子どもを生まない」という選択になりますよね。男は家庭なんか考慮するよりは、どんどん働かなくては、となっていく。そこに業績主義なんかがポーンと導入されると、もう目はまっしぐらに職場、ですよ。

こういうところで労働時間がディバイドされていくと、社会のヒズミは非常に大きく出てくる。少子化はその結果として出てきているわけですね。それからやはり若者たちの低賃金化。明日のことがわからないで、なんで子どもが育てられます?人生の設計ができないくらい生活の安定性が失われ、一方では長時間労働の中に投げ込まれる正社員像がある。ここで生きてかなきゃいけない男は、果たして人権が保障されていると言えるのだろうか?というのが一つの論点設定ですね。

保証されない「労働は人権」

生きるということは、稼いで生きる、ということです。自立していけるだけの収入を得て、働いて生きる、ということです。労働は生きることだし、いろんな意味で人間的な成長や発達にも影響がある。だから労働は人権なんですね。だけどその労働のために自由な時間がない。「おい、メシ、フロ」って言ってパタンキューと寝ちゃうことになる。サラリーマン川柳で「まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる」っていう生活を強いられて、いったい人間としてなんなんだ、っていうことを問われた時に、やっぱり、それは人権じゃないよね、っていうことですよね。

女性は、持っている力以上には期待されないで、「まあ、これでいいのよ」っていうくらいに縮められ縮められ差別されて人権が保障されない、という状態に置かれていますが、男は、持っている力以上のものを期待されて、張りさける以上に力で引っ張られる。それでウツ病で過労自殺したり、心臓疾患でなくなったり、過労死が問題になるわけです。家族と一緒に生きることができないことから、やはり存在感がないですよね。家族との絆も薄れている。企業から自立して、固有名詞としての自分に戻った時に、いったい労働は自分に何をもたらしたのか。「働く」ことが人権だということの本質的な意味を問わなければならないと思うんですよ。

この状態はやはり、憲法25条を充足していない。人間というのは生命を閉じるまで、その一瞬まで人間的に生きられて初めてやはり「健康で文化的に生きる」ということですからね。障がいとつきあいながら、病気や怪我とつきあいながら、老齢とつきあいながら、心身の機能を減退させていくなかでも、生命を閉じる一瞬まで人として生きていく、ということが保障できてはじめて人権が保障される、ということで、そのための条件といったら何なのか、といったら、「みんなと一緒に生きられる、つながりを持てる」ということですね。

正社員として差別化を求められる職場

バランスのとれた生活がトータルに保障されていない労働が、規制緩和のなかで苛酷さを増している。いまや非正社員と正社員との間の競争関係というのは激しいです。正社員労働がより苛酷化するのが、絵に描いたように見てとれる。低賃金で働いている非正社員の人たちと正社員の人たちが比較される時代になりました。だから規制緩和派の人たちは「均等待遇」という言葉をよく出します。彼らがいう「均等待遇」は、「正社員は甘えている、既得権の上にアグラをかいている」ということです。これは、非常によく効くんです。

今の水準の賃金を確保したければ、パートや非正社員と比べて働き方で自分を差別化しなければいけない、というプレッシャーを加えられる。そのプレッシャーが業績をあげたか、責任を果たしたか、ということなので、業績主義賃金とか成果主義賃金は、非正規化が進むと、均等待遇をやろうとしたらそれをやる以外にない、という必然性があるわけです。使用者側のほうが均等待遇やりたいんです。格差を利用したダンピングを職場全体に仕組んでいく構図にあって、そのなかで女性たちが大量にパートへの転換を余儀なくされています。つまり全国転勤できるかとか、長時間働けるかとかそういうことを問われて、「できません」て言ったら、「じゃあパートでね」という話になる。

女性に対する職場での暴力

こういう具合に社会全体の低賃金化、反憲法的な働き方が進んでいくサイクルができあがっている。そのなかで暴力が非常に増えている。人間は自分を大事にできないと他人を大事にできません。自分でゆとりがないと他人に対して優しくなれないんです。例えば男性の正社員が、日々業績を問われる長時間労働で、家庭の中でも自分の身の置き場がない、というストレスにさらされている時、それは誰に向かうかというと、派遣社員に向かうという構造です。セクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントはそういう構造を持っているんですね。

職場の暴力は非常に珍しいことかというと、私はそうではないと思うんです。差別だとか暴力という言葉を聞いた時に、みんなが「いけないことだ」と自覚することができると思います。だけれども、なくならない。それは何故か、といったら、形を変えて生き残ったり、「無きもの」にされたりするからなんです。「お前は同意したんだ」とか、「それに従ったんだ」というかたちで、「無きもの」にされる。あるいは「暴力をふるうのは教育だったんだ」という。女たちが家庭でふるわれてきた暴力はそういうものでした。子どもたちに対しても教育という名で折檻をしたわけです。社会がそれを可視化しなかった、壁をつくったというのはあると思います。

差別については、法律によって禁止すれば形を変えて差別を温存させ拡大していく力が作用する、ということです。人々はいろんな口実で「これは差別ではないのだ」ということを言い続けてきました。例えば女性の場合「能力が足りないからだ」「努力が足りないからだ」「パートを選んだからだめだ」というかたちで、その格差を合理化してきた。だけれども差別されている側は、そんなこと一言も言いません。そう言う人たちは、結局のところ「差別されない」人たち、それから高い所得を得ている人たち、パートではない正社員の人たちです。

彼らはがそれを言うのは、自分のステータスを正当化しなければならないからです。そういうものをうち破っていかないと、差別だとか暴力はなくならないんです。それをうち破っていく仕組みが社会には必要になっていて、私はこれからの人権を保障していくキーワードは、「性役割を変える」ということ、男性であろうと女性であろうと、仕事も家庭も生活も、どういう性に帰属するかによって判断するよりは、それらの前に人間なんだ、ということをどれだけ大事にできるか、ということがあるんですね。

間接差別を排除する仕組み

もうひとつは、可視化させていく手法が必要だと思います。可視化する手法については、均等法が間接差別を排除する仕組みを、きわめて不十分な形ですけれどもで盛り込んだ。こういう仕組みは社会の中で不可欠だと私は思います。つまり或る集団間で格差があるのならば、そこに差別があるのではないだろうか、という発想に社会が立つ、という手法です。

「私は差別を受けたのではないか」と葛藤を強いられることがたくさんあります。例えば、私自身も正当に評価をされていないのではないか、こういう言動を受けるのは自分が女性だからではないのか、という葛藤に苦しむ時があります。人種差別について紹介をした本の中に書いてあったのですけれども、レストランに案内をされた時に、白人のウェイターから真ん中のとても素敵な席が空いているのに、片隅にすわるように指示された時に「それは自分が黒人だからではないのか」と苦しまなくても済む、これが差別のない社会だ、と言っています。その時に、そういう取扱いをした当の本人から「自分が差別をしたというならその意思を立証してみろ」と言われることくらい、屈辱的なことはないはずです。

今までの差別を告発する場合に必要な手続きは、すべてこの「差別意図」を立証するように人々に求めてきました。企業に対して、労働者が賃金格差を差別だと求めた時に、「差別する意思がどこにあったというのか。それを立証してみろ」というふうに、企業から言われ続けてきたわけです。ですから遅々として格差が埋まらない。私は、差別に、葛藤に、苦しまなければならない人たちが、さらに葛藤を強いられることがなく差別を是正することができるシステムを、人権原理として当然のこととして社会が開発し、それを起動させた時に、初めてまともな社会が生み出されるのだろうと思います。

グローバル化というものはやはり、とどめようもない流れだと思いますし、これを後戻りさせることはできません。ただ、公正に人々が生きていくことができるように新しいシステムを生み出さなければならないことは間違いのないことで、この憲法に保障された平等ということと、生きていく権利を組み合わせながら、どのようにして人々が法というものを育てていけるのか、ガバナンスをそれぞれの持ち場で発揮できるのかということが問われていると思います。

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