自民・公明・民主の衆院憲法調査特別委員会理事らが、12月20日、9条などの憲法改悪をめざす「憲法改正国民投票法案」の通常国会での成立をめざすことに合意したと報じられた。年明けから本格的な協議に入り、3月末の予算成立直後の提出を予定しているという。出席したのは中山太郎衆院特別委員長、船田元・自民党憲法調査会長、太田昭宏・公明党憲法調査会座長、枝野幸男・民主党憲法調査会長らだ。
もともと改憲議連案を基礎にした自公与党案骨子と民主党の案の間にはいくつかの問題で違いがあったが、この3党の実務者協議では「与党案には固執しない。譲れる部分では譲る」(船田)として、与党案で「虚偽報道禁止」などを打ち出していたメディア規制問題は「原則自由」に転換し、投票権者の年齢も公選法通りの20歳を主張する与党と18歳の民主案との妥協案も検討され始めたといわれる。また投票方式も自民党は「一括方式」が主流だったが、公明の加憲論が個別投票方式と関連せざるをえないこととも合わせ、民主の個別方式との妥協が探られている。
これらの協議は自民党の新憲法草案が自衛軍設置=9条改憲、民主の前原党首の米国での発言(シーレーン1千カイリ海里以遠の防衛のための集団的自衛権行使を可能にするため)=9条改憲、公明の太田座長の日本記者クラブ発言「9条1、2項プラス国際貢献と自衛隊明記の別項追加」(20日)=9条改憲と、事実上3党指導部が9条改憲で足並みをそろえてきたことを背景にしている。その意味でまさに「9条改憲のための国民投票法案」というこの法案の本質がいっそう明らかになってきたなかでの実務者協議だ。こうした共通の目標が明確になってきた以上、自民党からみれば「小異」は譲ってよろしいということに他ならない。
しかし、衆院で圧倒的多数議席を確保しただけに自民党も全てを譲る訳ではない。メディア規制も「訓示規定」などで残そうとしているし、年齢も公選法との同時改正などを主張しているようで、実現の時期は不透明だ。投票方式はもともと法案には明記しないというのが与党の方針だから、これも保証はない。これ以外にも問題は山積している。もともと民主党案にすら15歳問題はないし、憲法96条の「過半数」の意味など分母の問題、公務員や教職員の運動制限をはじめ公選法に規定されているような様々な反民主主義的な運動規制、与党案では異常に短い国民投票運動期間問題、定住外国人の運動権や投票権問題、投票率との関係での投票成立規定がないという問題、等々、問題はたくさんある。9条改憲では世論上では不利な改憲派が、改憲を実現するための仕掛けは凝らされている。
ことは憲法の問題であるにもかかわらず、これらがほとんど「国民的議論」になっていないうちに、この通常国会で決めてしまうなどもってのほかではないか。このような国会議員の傲慢不遜な行動は許されない。
確かに自公民3党の実務者がこうした合意をしたことは危機的状況だ。しかし、あきらめてはいけない。共同声明運動、署名、集会・デモ、ロビー活動、メディアへの働きかけなど、あらゆる可能性を駆使して、いまこそ全力でこの法案の国会上程をとめなくてはならない。まず国会開会日の1月20日午後13:30~の院内集会への結集を!。(事務局・高田健)
石埼 学(亜細亜大学助教授)
(編集部註)11月26日、市民憲法講座で石埼さんがお話しされたものを、編集部の責任でテープ起しした上、大幅に要約したものです。文責は全て編集部にあります。
自民党が新憲法草案を発表し、民主党も憲法提言を発表しているというので、少なくない人たちが自衛軍を創設して、しかもおそらくアメリカと海外で共同作戦をする、そういう自衛軍を創設していくというということに危惧を抱いていると思います。
しかし、今の改憲の動きにはいろんな側面があって一概にいえないのですが、日本の憲法運動の中で、この「国民保護」の問題が憲法にすごく深くかかわりあうんだと考える人がまだまだ少ないと私は思っています。
日本国憲法は、なによりもかつての日本の軍国主義の侵略戦争を反省して二度と侵略をしないために一切の軍隊を放棄する、戦争が起こってしまえば普段どんなに立派な人権保障の仕組みがあっても、そんなものは吹っ飛んでしまうということを念頭に置いて、本当に人権が保障されるためには戦争を放棄するしかないという考え方にたっています。
特に日本国憲法前文に「全世界の人間が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利がある」と、「平和のうちに生存する」というのが権利なんだということをはっきり書いてあるのが大きな特徴です。平和のうちに生きることが権利だからこそ、戦争の手段である軍隊を放棄した憲法9条があるということなのです。平和のうちに生存する権利を確実なものにするために軍隊を放棄する、もう二度と戦争をしないというのが日本国憲法の平和主義の仕組みになっている。日本国憲法が施行されてもうすぐ60年経ちますが、戦後の日本の憲法学はずうっと憲法9条の問題についても非常に精力的にいろんな研究をしてきて、もう憲法9条についての議論は出尽くしてるんじゃないかなという感もあったのですが、まだまだ憲法9条については色々議論すべきことがあるわけです。
今から10年くらい前です、樋口陽一さんが「憲法9条というのは自由の問題でもあるんじゃないか」という問題提起をした。「講座 憲法学」という全6巻の講座ものがあるのですが、その中で樋口陽一さんが「戦争放棄」という論文を書かれて、特に日本においては憲法9条によって軍隊を放棄するということは自由を守るという意味でも非常に重要なんだという問題提起をされ、一人一人が自由に生きていくためにも戦争と軍隊を放棄しなくちゃいけないんだということを、初めてといえば初めてきっちり論理立てて説明して見せた。
9条の問題とか自衛隊の問題というと、とかく憲法9条2項の一切の戦力を放棄したことと自衛隊の存在、あるいは日米安保条約の存在が両立するのかどうかとか、今の局面だと海外に派遣する自衛隊を認めるのか認めないのかという議論に力がおかれがちですけれども、それだけじゃなくて私たちの身の回りでの自由というのを結局軍隊を認めて戦争することを前提にした仕組みを作っていくと、一人一人の自由も狭まっていくのではないか、そういうことをこれから強調していかなくちゃいけないと思っています。
樋口陽一さんが2000年に出された「個人と国家」という集英社新書の中でも、第8章の1章を割いてこの自由と9条の関わりというのを丁寧に説明されているので、ぜひ機会があったら読んでいただきたいと思っています。
そこの中から一部を引用します。「なんといっても、基本的に1945年以前の日本社会は軍事的価値を最上位に置く社会でした。/第9条の存在は、そういう社会の価値体系を逆転させようとしたことに、大きな意味があったのです。俗っぽく言えば、戦前の子供に『将来、何になりたいか』と言えば、『陸軍大将、海軍大将になりたい』と言ったものでした。そのような社会における軍事の優先価値をいったん否定する、ということでした。もっと具体的にいえば、かつての天皇と軍とそのために死ぬことを力づけた国家神道、この三者の結びつきをいったん否定する。統治権の総攬者としての天皇から『象徴天皇』へ、国家神道から『政教分離』への転換と並んで、軍事価値の否定というところに、憲法9条が持っていた大きな意味があった。その意味はだれでも実感していたはずなのですけれども、正面からとらえ切ってこなかったのではないでしょうか」(下線・石埼)
軍事的な価値、あるいは軍事の要請というものが跳梁跋扈するような社会というのがかつて日本にありました。日本国憲法というのは9条に限らず、例えば憲法31条以下の非常に細かい刑事手続きについての規定、そういうことも含めてかつて日本にあった軍国主義社会を否定するという側面が非常に強い憲法です。
どこの国の憲法も、その時々の状況の中でこういう社会はだめだということをはっきり書く。この社会はだめだという書き方を日本国憲法はしていないけれども、丁寧に読んでいくと、昔であればまともな刑事手続きも経ずに思想犯が逮捕されて拷問を受けて場合によっては殺されちゃうということは二度と起こらないようにということで、刑事手続きについての規定を細かく置いたりということになっています。憲法9条も戦前の軍国主義社会を否定するという大きな意味があったはずです。
まず前文ですが、「ここまでする?」という感じのものが出てきた。例えば「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概を持って自ら守り支える責務」というような事です。愛情とか責任感とか気概とかおよそ法律の用語になじまないようなものを入れたり、あるいは国民に国防の義務を負わせると読めるところもあって大問題です。
けれども日本国憲法にあって自民党の新憲法草案から消えたものに注目すると自民党の新憲法草案の特徴が非常によくわかる。日本国憲法の前文にあって自民党の新憲法草案の前文にはないものが、大きなもので2つあると考えています。
ひとつは「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し」という言葉です。そのために日本国憲法を作るという、いってみれば日本国憲法を作って守っていく「動機」の部分が消えている。
もうひとつは「平和のうちに生存する権利」が消えてなくなっている。日本国憲法の前文では「全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と書いてある。なぜ日本国民だけでなくて全世界の国民かというと、これはかつて日本が侵略したアジア諸国あるいは太平洋のいろいろな国々の人たちの平和のうちに生存する権利を日本政府は二度と侵しませんよと、平和のうちに生存することを保証しますよということをはっきり書いた文章なのです。
この自民党の新憲法草案の前文を読んでいてつくづく思うのは戦争だけではないですが、痛みの感覚というか、かつての侵略戦争とか空襲とか原子爆弾とかそういう被害にあって非常な苦痛を抱えて生きておられる方、かつての戦争の痛苦の体験というのがまだ全然消え去っていないのに、あるいはまたさらにイラクへの自衛隊派遣とかが起こって、9条に関わることだけを見たって多くの人たちがいろんな痛みを抱えて生きているわけです。これは日本国籍を持っている人だけじゃなくて、例えば日本に住んでいる在日のコリアンの人たちもそうでしょうし、そういうことがたくさんあるのに自民党の新憲法草案がかつての戦争の反省として「二度と政府の行為によって戦争の惨禍が起こることのないように決意し」ということをいともかろやかに消して見せるというのは、この政党は、少なくともこの草案作りに関わった人たちはそういう痛みの感覚が全然ないということを感じました。
9条の1項についていえば憲法学の通説の理解では「国際紛争を解決する手段として戦争や武力の行使や武力による威嚇は放棄した」というところについてはこの国際紛争というのは国際的には侵略戦争を意味してきたと考えられているので、否定したのは「侵略戦争」だというのが学会の通説であります。山内敏弘先生とか浦部法穂先生などは別に国際的な用語にこだわる必要はない、9条1項で自衛戦争も放棄したと考えればいいだろうというお考えを表明されています。しかしいずれにせよ歴史的には自衛戦争だと称して侵略戦争が行われてきたということも考えなければいけないということです。
9条1項で放棄されたのが侵略戦争だとしても、侵略戦争をしないためにも、侵略のためにも自衛のためにも使える軍隊というものは一切放棄しようというのが憲法9条2項ですので、2項の「一切の戦力の放棄」を削除してしまえば、日本国憲法の平和主義というのは完全に換骨奪胎されます。前文の平和への決意とか平和を人権としてとらえるというのを削除しているところから見ると、自民党の新憲法草案というのはいかなる意味でも平和憲法と呼べるものではないと考えます。
9条2項で自衛軍の創設というのを書いただけでも、当然自衛権は有する、その自衛権とは何かといったら国連憲章51条に書いてある集団的自衛権も含むということになるので、9条2項を自民党の新憲法草案のように仮に変えられたとしたら、明らかに集団的自衛権の行使に踏み込んでいくことになる。さらに、何の歯止めもない「国際的に協力して行われる活動に積極的に参加する」などということが書いてあって自衛権とか集団的自衛権の行使ですらないものについても、軍が世界に展開していくというような、何の歯止めもない内容になっている。
日本国憲法9条が自由の問題であったということとも関わるのですが、軍隊を持つことになる自民党の新憲法草案では人権の制約が入ってくる。具体的には自民党の新憲法草案の12条とか13条に「公の秩序」、公益のために人権は制約されると書いてある。今の日本国憲法でも12条と13条と、財産権についての経済的自由についての22条、29条というところに「公共の福祉」という言葉が入っている。「公共の福祉」という言葉と自民党の新憲法草案の「公益」とか「公の秩序」という言葉は解釈のしようによっては同じようにも解釈できる言葉だと思う。ところがなんでわざわざ自民党の新憲法草案が「公共の福祉」という言葉を使わないで「公益」とか「公の秩序」って言葉を使ってきたのかということはよく考えなくてはいけない。
「公共の福祉」という日本国憲法の言葉はそれこそ戦後の60年近い憲法学とかもちろんそれを支えたいろんな市民の人たちとかあるいは裁判所の判例、判決などによって、「他人の人権を侵害することは人権ではない」という意味だと理解されてきました。今は最高裁判所もそう考えています。例えば表現の自由と誰かのプライバシー権が衝突した場合にどちらを優先させるのかという判断をするというようなことで、専門用語で利益考慮というのですが、大事な人権と大事な人権が衝突したとき、そのバランスの取り方を「公共の福祉」と理解しているということです。多分、自民党にとっては不都合なのです。人権といえどももちろん人を殺す権利はないし、人をぶん殴る権利はないし、勝手に公害物質を垂れ流す権利もない。そういうのじゃ困るからということで、もっと何か人権の限界を示す、何か上から人権を制約するようなことを可能にしたい、それでわざわざ文言を変えたと思います。
そうすると今の日本国憲法からの学説だとか判決からは導き出せないので、文言を変えると導き出せるかもしれないことの一つはやはり軍事的要請になると思う。
新しい人権について保証すると憲法に明記しようというのがこの間、「憲法改正」を主張する人たちの大きな主張の一つでした。世論調査で5割を超える人たちが憲法改正に「賛成か反対か」と聞かれれば賛成と答えてしまう理由の多くがこの新しい人権を明記した方がいいということだと思います。
ふたを開けてみれば自民党の新憲法草案には「知る権利」と「環境権」についてはむしろそれは権利じゃない、人権じゃないんだということをはっきりさせるかのような文言になっている。新憲法草案の21条の2項だと「国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」とだけ書いてあって、これが多分「知る権利」に対応する文言なのかなと思いますけれども、そもそも主語が「人は」とか「国民は」という言葉ではなくて「国は」になっているというところから見てこれは権利を保障した規定とは言い難いし、自民党の新憲法草案の25条2項の「国は、国民が良好な環境の恵沢を享受することができるようにその保全に努めなければならない」という規定も、一応「環境権」を意識した規定なのかなと思うんですけれども「努めなくてはならない」と書いてあるとおりに国の努力義務にすぎないわけです。むしろこういうのが明記されるとかえって環境をよくするのは国の努力義務にすぎないという解釈しかできなくなってしまって、知る権利とか環境権の主張がしにくくなると思っています。
あと軍事裁判所の設置が76条にはっきり書いてある。軍隊を持つということはそういうことになるんだということです。軍事裁判所を設置するということは当然軍事裁判所で適用する法律で、昔でいえば海軍刑法とか陸軍刑法といったようなもの、あるいは軍機保護法といったようなものが作られるようになる。軍隊をつくるということは今の日本国憲法と比べて人権を軍事の論理によって制約していく可能性が強まっていく。これは憲法改正にとどまらず、例えば刑法とかそういうものの中味も変わっていくということになっていく。日本国憲法が制定された時に明治憲法下であった不敬罪というのはなくなりました。天皇は昔は神様だったけど、ただの象徴になったから不敬罪はなくなった。このように憲法をいじるということはその下位にある法令もいじらなくてはいけなくなってくる。その中で特に軍を批判するような言論というのは厳しく取り締まられてしまうかもしれません。他の国、「ふつうの国」では軍事裁判所はありますが、戦後60年日本はこれがなくて困ったことは特にないと思います。
まだ憲法も改正されていないのにもう事実上日本国憲法が改正されちゃって自民党の新憲法草案が憲法になったかのような動きがいろんなところで起こっています。立川の反戦ビラ事件のように、なにも逮捕して拘留する必要はないという、その場で注意して住民から苦情が出てるんでやめてくださいませんかといったらそれですむだけの話、わざわざ刑法を発動する場面ですらないと思うんだけれども、そういうことが次々と起こっている。
日本経済団体連合会(日本経団連)の今年の1月18日の答申の中でとんでもないことを言っている。「また、何時発生するかも知れない予測不能な多様な事態への対処を憲法改正に委ねてはならない。・・・現在の憲法解釈が制約となっているもの、新たな立法により措置が可能なものなどについては、内外諸情勢の大きな変化を踏まえ、憲法改正を待つことなく、早急に手当てすべきである」と。
僕は財界人が憲法の基本原則も知らない人たちだとは思わない。なぜ財界の人たちが、憲法改正しなくてもやっちゃえっていうようなことをいっているのか。この国民保護体制が整備されていっているということも含めてで、こういうのをどんどん放っておくと、数年後にこういうことが起こるんじゃないかなと思う。憲法を改正するか、このまま憲法を破壊するかどっちを選ぶというような訳の分からない選択肢を突きつけられそうな気がします。
自衛隊がそうです。そもそもなんとなく警察予備隊としてできてきて気がついたらだんだん大きくなり、気がついたら海外にいってる、既成事実ができちゃったと。そういうことになった上で改憲派の人たちが「ちゃんと憲法を改正して自衛隊を合憲化しないと立憲主義の見地から良くない」という。「だから立憲主義をちゃんと守りたければこの事実と憲法の乖離を直して自衛隊を合憲化しよう」ということをいう。このまま憲法が形骸化して憲法がないような社会になっちゃうよりは改憲した方がましでしょうというふうに世論を誘導していこうということが、例えば財界のとっても頭のいい人たちがいっているわけです。そういうふうに既成事実をつくっていく流れの一つが国民保護体制です。
国民保護法、これは有事法制の一つで、有事法制の他のところでは米軍の行動円滑化法案とかいろんな侵略的側面の強いものもありますけど、とりあえず国民保護法のところだけ見ていきます。国民保護法は去年できて、その後に国の基本指針が今年の3月に策定された。この基本指針の中で有事法制の一番中心にある武力攻撃事態法が定める有事というものを「武力攻撃事態」、「武力攻撃予測事態」、「緊急対処事態」というのを詳しく書いている。その内容が8つの事態だという。それが「国民の保護に関する基本指針」という国民保護法に基づいて政府がこの3月に発表したもので書かれている事態です。
武力攻撃事態法の類型とあわせていくと予測事態というのをはめると難しいのではずしますけど、一つは着上陸侵攻、どこかの国の正規軍が大挙して上陸してきて占領するような露骨な侵略戦争、もう一つがゲリラや特殊部隊による攻撃、もう一つは弾道ミサイル攻撃、航空攻撃、この航空攻撃というのは空襲とかを念頭に置けばいい。空襲じゃなくてトマホークミサイルみたいなのをどんどん打ち込める国というのはアメリカの他にそうそうない。
着上陸侵攻と航空攻撃は去年の政府の新防衛計画大綱の中で、発生する可能性は「極めて低い」というようないい方をしていて、自衛隊の装備もこういうのを想定しない方向に変えていこうとなっているもの。政府自身がこんな本格的な侵略事態はないだろうといっているものです。
もう一つの弾道ミサイル攻撃については有事法制についての議論の中でも、もしどこかの国が弾道ミサイルを発射した場合には打ち落としたりするのは困難だから弾道ミサイル攻撃に対して一番有効なのは先に相手の基地をたたくことだという。どこかの国が弾道ミサイルを発射すると日本に着弾するまで数分しかないと、しかも発射された時点では通常の弾頭が積まれているのか核弾頭が積まれているのかもわからないらしいです。しかも目標がどこかも実はわからないらしい。日本かアメリカかすらもわからないらしいということなので、ほとんどこんなことが起こってしまった場合にはどうしようもない事態だということで、こういうことが起こらないように外交努力するしかないという事態です。そういうことを考えると、これらに備えるために何か国民保護法制を整備していくというのは全くナンセンスというか必要がないことです。仮に必要があったとしても備えてもしようがないという事態です。
あと4つの事態をこの基本指針は書いてあるのですが、「危険性を内在する物質を有する施設等に対する攻撃が行われる事態」、簡単な話が原子力発電所に対して攻撃が行われるというような事態です。こういうのが起こらないように横須賀基地に原子力空母を配備しない方がいいと思います。原子力空母、「危険性を内在する物質を有する施設」を、首都圏にわざわざ持ってきておいて何をいっているのか。
もう一つが「多数の人が集合する施設、大量輸送機関等に対する攻撃が行われる事態」、スペインのマドリードでの列車爆破事件とかそういうものを想定しているものです。そして「多数の人を殺傷する特性を有する物質等による攻撃が行われる事態」、NBCテロなどといわれるものだと思います。核兵器だとか生物化学兵器による攻撃だということです。もう一つが「破壊の手段として交通機関を用いた攻撃等が行われる事態」、9.11の事件のように航空機を使って高層ビルに突入するようなことだと思います。
これらを想定して「緊急対処事態」というふうに呼んでいます。
この8つの事態を基本指針で定めて、こういうことが起こったときに住民の生命や安全や財産をいかに守るか、被害を最小限に食い止めるために、国民保護法なり国民保護計画なりを作っていく必要があるのだということです。ちょっと冷静に考えるとこの8つの事態については、いくつかはむしろ外交努力なりで何とかするしかない事態で、いったん起こってしまった場合、甚大な被害を及ぼすことは避けられないということです。
もし武力攻撃事態が起こったときには2つのことが同時に行われる。
ひとつは「侵害排除」です。要するに攻撃してくる敵の軍隊なりゲリラ・特殊部隊と自衛隊、米軍が戦うということです。政府が一方で侵略なり何らかの攻撃をしてくる敵との戦いをする、それと同時に国民保護、国民を安全なところに避難させる国民保護措置と同時に進めていくことになります。
そうすると場合によっては敵との戦いに行く自衛隊なり米軍と避難してくる住民とが交錯するという事態が起こるわけです。実際に鳥取県でシュミレーションをしたときにそうなったようです。日本海側から武装工作員が攻めてきたというので60万人の鳥取県民を岡山県側に避難させるシュミレーションをした。そしたら岡山県側から岡山県にある第8普通科連隊という自衛隊が敵を迎え撃つところと同じ道路になるということで結局、鳥取県で60万人の県民を岡山県側に避難させることは無理だったという結論を出しています。60万人というと東京でいうと練馬区の人口、まず東京では到底無理です。例えば首都圏で何かこういう事態が起こったというときに、練馬の駐屯地なり立川の駐屯地から自衛隊がやってくる、例えば立川から国道20号線を通ってやってくる、そうしたら首都圏からそっちに逃げようとする人たちとかち合ってしまう。
政府が出した基本指針の中でも大都市部においては住民を避難させることは極めて困難、とはっきり書いてある。困難だから混乱の防止に努めるようにと書いてある。避難させることはできないからせいぜい混乱が発生しないようにって何をするのかわからない。来年の3月にも内閣の同意を得ることになるんですけど、都議会に報告だけになる。東京都の国民保護計画素案の中にも「首都防衛と住民避難との錯綜の防止のために国との連携強化を図る」という箇所がある。とりわけ大都市部ではそもそも国民保護措置をこうじる、避難させるということ自体が無理ではないかということがだんだんはっきりしてきています。
侵害排除と避難措置、その避難・保護措置について詳しく定めたのが国民保護法であり、それをより具体化したのが基本指針です。これがさらにこれからどんどん具体化してくる。国民保護法自体に規定がある。
ひとつは自治体で、今も都道府県だと沖縄をのぞいてほとんどの都道府県で条例ができてしまいました。国民保護協議会条例と対策本部設置条例というものです。国民保護協議会条例というのは何かというと都道府県あるいは市区町村の国民保護計画の作成を行う協議会です。東京都の協議会の場合は実際にはここではほとんど作業していません。別のところで計画作りをしています。もう一つは対策本部設置条例です。この対策本部は実際に何か武力攻撃事態なり緊急対処事態が起こったときに立ち上げられる対策本部の根拠になる条例です。これがすでにほとんどの都道府県で制定されていて、来年の春までに日本全国の市区町村でこういう条例が制定されることになる。実際の対策本部の方については実は今の時点ではそんなに重視しなくていいんじゃないかと思っている。なぜかというとそれは実際に武力攻撃事態とか緊急対処事態が起こったときのものですから。
国民保護協議会が都道府県、市町村でできて、それに基づいて国民保護計画を作っていくという動きがどんどん進んでいるということです。これは都道府県単位で作っていて、すでに鳥取県と福井県はこの国民保護計画を完成させて内閣の同意を得ています。明日(11月27日)、福井県は「原子力発電所が武装工作員に襲撃された」という想定の下に自衛隊や警察や地域住民が一緒になって実働訓練をやります。この国民保護計画が来年の3月までに基本的には全都道府県でできる。政府が作った基本指針の中味をもっと都道府県別に具体化していくというものになります。さらに都道府県単位のをもっと市区町村レベルで具体化していく。東京では墨田区ではもうこの条例を作ったらしい。今から来年の春に向けての市区町村議会でいっせいにこの条例が出てきます。都道府県も市区町村もこれから2~3年かけて計画作り、何でもかんでも計画作りということになってくるということです。ちなみに東京都の国民保護計画の素案の段階で250ページあります。鳥取県の場合は280ページくらいあるものができています。東京都の場合は新聞記事をめくっていたらこれを作るために自衛隊からの現職の自衛官が東京都に出向しているその人が作っているということがわかりました。現職の自衛官が東京都庁の中に入ってこれを作っています。
計画を作るのはここだけではなくて指定公共機関、公益性のある団体で、中央省庁なんかも含めて、内閣総理大臣が指名するもので、ここの計画作りも11月はじめくらいの朝日新聞の報道ではもうできたといっています。
もう一つが指定地方公共機関、東京都の場合だとおよそ鉄道とかバスとかタクシーとかの業界団体だとか、あるいは医療機関の業界団体だとかが全部軒並み指定されています。あとガス会社とか、わかりやすい例だと「ゆりかもめ」というモノレールだとか、そういう企業で全部国民保護のための業務計画作りというのをやっているはずです。これが訓練になっていく。ただ計画作って紙を作るだけじゃなくて訓練とかあるいは啓発活動、ということがまさに市区町村まで含めて全国津々浦々で行われることになっていく。
なにぶんにも軍事に関わる問題なので、例えばミサイルの被害の特徴だとかあるいは伝達の仕方とか含めて専門知識を持っている人っていうのは基本的には自衛官です。あるいは一部の自衛隊と仲のいい、いわゆる知識人とかです。実際にこの法律ができる前からシュミレーションしていた鳥取県では、第8普通科連隊という陸上自衛隊の人がきて鳥取県下の市町村の職員向けに講演会をやっています。それで手が回らなかったら、多分自衛隊なり政府なり都道府県が作った啓発ビデオみたいなのを見るということになってくる。こういうのが全部できてきちゃうと憲法9条が否定したはずの軍事的要請というのが社会の全国津々浦々に行き渡っちゃうという非常に危惧すべき事態です。
平和憲法が否定したはずの社会が復活していくことが非常に問題だということ、そういう批判がまず大事だと思う。もうひとつは、仮にそれこそ万が一の事態が起こったとしてということを念頭に置いて役に立つのかと、いうことを考えてみることも必要だと思う。一つは弾道ミサイルが飛んできたとして、あるいは武装工作員が、どこの国か知りませんが、例えば北朝鮮が拉致事件を起こしましたけれども、それと武装工作員がやってきて侵略してくるというのは全く別の問題で、その辺ちゃんと分けなくちゃいけないと思うんです。武装工作員なりゲリラが密かに潜伏してきて破壊活動を行うということがなかなか考えにくいんですけど、仮にそういうことが起こったとしても役に立たないということがよくわかります。ひとつは実際に避難誘導にあたるのは政府でもなければ自衛隊でもなくて警察でもなくて、自治体の職員ですらなく消防団などのボランティア、つまり住民自身が避難誘導にあたるということです。
鳥取県の避難訓練のシュミレーション作り、そのあとに続いた国民保護計画作りに関与したといっていい岩下文広さんという人が「国民保護計画を作る」という本を書いているんです。その本の中で「間違いなく覚えておいてほしいのは、市町村の職員にできるわけがないということだ。一市町村全域で避難するため、避難誘導まで手が回るわけがない」っていってる。何かが起こったときに、警察や自衛隊はおろか自治体の職員が住民の避難誘導をして安全なところに導いてくれるわけでは全くないということなのです。政府の内閣官房が「国民保護ポータルサイト」というのを開いていて、そこの中でも「自助7割、互助2割、公助1割」とはっきり書いてある。要するに武力攻撃事態とか緊急対処事態が起こっても自己責任で逃げなさいということです。政府はこういう事が起こった場合には避難指示と警報の発令をするだけです。それを受けて自治体が避難誘導の指示なんかをしていくわけですけど、実際にはそんな住民みんなを避難させることなんかできるわけがない。だからこそ普段からの訓練、啓発になってくる。政府のサイトを見ていると本当にばかばかしいことがたくさん書いてあってですね、例えば核兵器が爆発したときというので、「風上に逃げましょう」だとか、あるいは「なるべく皮膚が表に出ないよう服を着ましょう」とか、およそ被爆国の政府が書く事じゃないだろう。
東京都の素案にも恐るべき事が書いてある。東京都の国民保護計画の素案の中に「学校における教育」というのが書いてある。学校でも、都立学校で特に、私立学校にもお願いすると書いてありますけど、都立学校で安全教育をするって書いてある。ということはこの国民保護計画を東京都が策定した場合には都立学校で、あるいは市区町村立学校で安全教育、何の安全教育かといったらこの場合は防犯ですらないです、戦争が起こったときの安全教育です。全国津々浦々、子どもたちまで、どういう教育をやるのかっていうのは、想像を絶するんですけど、例えば弾道ミサイルが飛んできますとか、そんなのシュミレーション、避難訓練とかをするんだろうか。学校単位でというようなことになっていて戦前の軍事教練とは全然違います。あくまで避難ですから、でも場所によっては例えば自衛官なり専門知識を有する人が講演に来たりとか、そういうことになっていくんでしょうということで、簡単な話が「日の丸・君が代」の押しつけと同じ問題が起こるだろうと、現場レベルでそういうことにおかしいと思う人もいるでしょうし、何よりも憲法9条の下でまさかそんな教育を受けさせられるはめになるとは誰も思っていない、ということが行われていくということです。
自然災害と違うのは戦争自体は人間が起こすわけですから、絶対にこういう事が起こる前には外交政策の失敗とかあるわけです。よく地震とか台風とかで甚大な被害が出て多くの方が亡くなったりすることもあるけど、そういうのと決定的に違うということです。避難するにしても例えば地震が起こったときに大きな地震であっても避難先をねらって余震がくるはずはない。自然現象ですから、たまたまということはあっても。ところが武装工作員というのが仮にいるとしたら、僕が武装工作員だったら、大量殺戮をしたいと思ったら攻撃して避難先で人が集まったところを攻撃しますよ。もちろん国際人道法違反ですけれども。ということなんかも考えてもやっぱり変な話になっているなと思います。
鳥取県の計画を紹介しておきます。
一つは知事なり市町村長が平素から「県民に要請すること」として避難に関する訓練への参加ということが盛り込まれています。普段から武力攻撃事態等に備えた避難訓練に住民が参加することを知事や市町村長が要請すると。もちろん強制力はないですが。具体的には「消防団が普段から住民を説得しておくように」となっている。
だからこういうのが全国でやられるようになると普段から消防団の人がやってきて、避難計画があるときは参加してくださとお願いに回るような社会になりかねないということです。そうすると日頃の防火、防災というか被害が起きたときに消防団に対する住民の信頼も崩れかねないようなことになるだろうと思う。
鳥取県の国民保護計画に「県民に期待する取り組み」というのが書いてある。
一つが「地域内の危険箇所を把握します」ということがあります。「最寄りの集合施設を把握し、経路を確認します」というようなことも書いてあって、「水(1人1日分の最低必要量3リットル)及び食品3日分程度の備蓄、並びに医薬品、携帯ラジオなど非常持出用品を準備します」と書いてある。さらにもうおかしくて、「家族で対応措置を話し合います」というので国民保護計画の中に書いてあるんです。武装工作員が上陸してきたときの対応措置を家族で話し合っておくということになる。「役割分担、非難や連絡方法などをあらかじめ決めます」というのは家族の誰かが学校に行ってたり仕事に行ってたりしたときにどういうふうに連絡するかとか、誰が非常用品を持ち出すのかとかを決めておけと。あとは「高齢者、障害者、乳幼児等がいる家庭では、情報の伝達方法、避難方法をあらかじめ決めます」というのでこの3つは簡単な話が鳥取県は鳥取県に住んでいる人たちに家族に、一つ国民保護計画を作っておきましょうというふうにいっているに等しいんですね。
あと「各家庭では、シールド・ルームを準備します。ナイロンシート、ガムテープで特定の部屋の窓や扉を密封し、外部から化学剤の侵入を少しでも遅らせようとする措置です」って書いてあるんですけど、東京に住んでる人で、一つの部屋を全部こんなシールドルームに平時からしておけるような立派な部屋に住んでいる人もそう多くはないだろうし、こんな事やっていたら防犯パトロール隊員から「あの家、不審だ」と見なされかねない。
あと「住民への啓発」と称して「国民保護法の啓発普及」とか「国際人道法の普及啓発」とかいろいろなことをやりますと書いてあって、東京都の素案でもこういう内容は入っています。最近だと「9条を守れ」とか、「教育基本法改悪反対」とかそういう講演会が多いですけど、そのうち「国民保護法啓発普及講演会」とかがこの辺で行われるようになるのかな、戦前ってそうだったみたいです。
こういうのができていくと何よりも平素の生活が武力攻撃事態とか起こらなくても、こういう仕組みが整えられていくことによって戦争モードになっていくということで、具体的にどこかの国と軍事的な緊張関係にあるとか、そういうことがなくても普段の生活がだんだん変わっていっちゃうというふうなことを非常に危惧しています。
まず最初に大変なことになるのは自治体の職員だと思う。この国民保護計画作りに関わらされる人も出てくるでしょうし、あるいはこの訓練だとか啓発だとかっていうのを受けさせられると思う。鳥取県は早くからやっていたので自治体の職員、市町村の職員を集めて自衛官の講演会などをやっています。おそらく職務命令として行ってこいということになると思うので拒否することはできないんじゃないか。自治体の職員などで、特に消極的な人が「非国民」扱いをされるような下地を作っていくということになると思いますし、自治体じゃなくても指定地方公共機関とかそういうところに勤めている人もかなり多くの人が、戦争が起こらなくても、いわゆるテロが起こらなくてもこういうことに巻き込まれていくということになってしまうということなのです。
もう一つは鳥取県の計画には「情報戦、心理戦による被害」として、「敵の謀略的な宣伝や広報が実施された場合、国民保護措置の実施に対する住民の自発的な協力を得られなくなる恐れがあります」という。「敵の謀略的な宣伝や広報」を想定すること自体が日本国憲法下ではびっくりなんですけれども、こういう事をいいだしたら、やれスパイだなんだかんだといって、別に敵というのは外国籍の人だとは限らないわけです。例えばロンドンの地下鉄爆破事件を考えてみたら実行犯とされているのはイギリス人の青年が入っています。そういうことだけじゃなくても例えば戦時中に沖縄戦で沖縄の住民がスパイ扱いされて日本軍に虐殺されるというようなことも起こっている。ということを考えると「敵の謀略的な宣伝や広報」によって「住民の自発的な協力を得られなくなる」という被害を想定すること自体が言論弾圧につながっていく極めて危険な考え方です。
最後に、東京都の場合はこの国民保護協議会条例というのを今年の3月の議会で作って国民保護協議会というのをもう2回やっています。そろそろ3回目をやって来年の3月には計画ができると思う。第1回の協議会で石原都知事が「憲法に反してでもあるいは超法規的措置をとってでも国民保護措置を講じるんだという意気込みでやってください」とあいさつしている。「天然痘がばらまかれたらうんぬんかんぬん」ということをいいながらこういうことをいったらしいのですけれども、さっきの日本国憲法の理念とか具体的に定めていることと違うことがどんどん起こってくる中でときどきこういう影響力のある政治家がぽんとこういう「憲法に反してでも」という。けれども都知事は典型的に憲法尊重擁護義務のある人で、その人がまさしく公務の中で、憲法に反してでもやるべきだといっているのは大問題です。あるいはこの「超法規的措置をとってでも」というと憲法に違反すると僕は考えているんですけれど、この国民保護法さえも無視してもやってしまえということなのだろうかと思う。
この石原都知事の発言は憲法尊重擁護義務違反で非難すべきだと思うのですけど、ある意味では戦争というものの事の本質をはっきりと言い表した面があると思う。結局、武力攻撃事態だとか緊急対処事態ということが起こるということを想定してやっていけば、法律や憲法なんていうのは吹っ飛んでしまうんです。だから憲法とか立憲主義とか、人権を尊重するために日本国憲法は戦力を放棄してしまえと、それが一番いいという立場に立ったんだということにして、なんかまとまったような気がします。
小泉内閣の2005年は「戦争加担」と「福祉切り捨て」という2大憲法違反の大罪に終始した。12月22日の朝日新聞は「介護両用病床2010年全廃」の見出しで、厚労省が前日決定した方針を載せた。介護保険から費用が支払われる介護型両用病床の患者を居住系施設(有料老人ホームやケアハウスなど)へ移行させることを想定している。家族の支えや介護サービスがないため退院できない「社会的入院」を減らす狙いだ。しかし医療設備やスタッフの少ない介護施設に移った場合、適切な医療や看護を受けられる保証はあるのだろうか、大きな疑問だ。
05年6月に国会で可決された介護保険制度の「改正」は06年4月から実施される(すでに始まっているものもある)社会保障制度改悪の推進組織は、小泉首相を議長とする経済財政諮問会議であり、毎年ここからいわゆる「骨太の方針」を出している。「骨太の方針」は財政赤字を理由に利用者の自己負担を増やし、ケアサービスの総量規制を推進しようというものだ。
厚労省の介護保険制度の「改正」はこれまでの要介護(1~5までの区分ランクで1が最軽度)の保険制度利用者の7~8割を新区分の要支援(介護予防メニューを実施する対象)へ移行するのが狙いだ。施設に入居しているお年寄りの居住費や食費を増額したり、「介護」を「支援」に切り替えてサービスを減らし、その上、介護予防メニューの過酷な「トレーニング」を強要するというものだ。専門医からは「筋トレなど行っても実際の効果はいかがなものか、また逆に危険性を伴うのではないか」と疑問視されている。何とむごい「改革」だろうか。
2例紹介する。
「嫁」や「主婦」がやって当然とされてきた老人介護を「社会が支えて」、「行政のお仕着せではなく本人や家族がサービス内容を選べる」と鳴り物入りで導入されてから5年、多くの問題をかかえながらスタートした介護保険制度は、いま「混乱期」に突入した。私は導入にあたって掲げられた理念で「社会が支える」ことを強化し発展させたいと思う。
かつて1978年に出された政府の「厚生白書」では「日本の家庭の老親との同居率の高さは日本の福祉の含み資産」として、「主婦」を福祉に利用する資産扱いにしていた。そこから主婦への『福祉の一極集中』にNOの声があげられていった。いま市場原理優先の社会で多くの困難を伴いながらも、『主婦への一極集中』は解き放されようとしており、社会の事業として位置づけられようとしている。人権無視の制度にさせないために一人一人の声が大事だ。まだ「自己決定」「自己選択」の理念は変わっていないので、もし、介護予防の対象者と認定されても、気の進まないサービスは断り、ケアプラン作成時にケアーしてほしいサービス内容をしっかり伝える事が重要だ。あわせて詳しく内容を注視して、疑問があれば声を上げていくことが重要だ。
今、「戦争ができる国」作りの裏側で、福祉が切り捨てられようとしている。福祉と戦争は裏表の関係で、戦争になれば福祉や社会保障は全て奪われてしまう。戦争と人権は共存できない。豊かな命を生きるため一人一人の声が大事だ。 (中尾こずえ)
憲法25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
アメリカの9.11は対テロ戦争とアフガン、イラク攻撃を許すことにもつながったが、日本の9.11は郵政問題の賛否だけが問われたにすぎないのに、圧倒的な議席獲得の結果、以後首相独特の政策をトップダウンによって押し切る、小泉が一言いえばすぐに決まってしまうような、憲法や法律よりも首相の一言が上位になるような状況を許すことになった。
秋に閉会した特別国会では首相が登場すると、チルドレンといわれる新人議員から一斉に拍手が起こり他の与党議員も追随せざるを得ないという異常な状態だったと聞く。自民党の総裁任期が切れる9月までだとしても、どこかの国を思い起させられたりして気持ちが悪い。
こうした手法は石原都知事も同じだし、むしろ小皇帝として石原の方が先行しているのかも知れない。私は石原都知事の「ババァ発言」裁判の原告の一人だ。この発言は「ババァ」が有名になっているが、生殖の能力を失った女性が生きているのは地球にとって無駄で罪だ、という酷い発言だ。知っての通り石原は障害者や在日外国人をはじめ、彼の基準での異なるものへ公然と排除と差別をする人物だ。ポピュリズムの最たるもので民主的な社会形成に反する行為を重ねている。
9.11後のアメリカでもそうだったが、市民のなかには疑問や明確な反対意見があっても、それが見える形では表現されにくくなっている。マスメディアの批判力の欠如が拍車をかけている。
05年は自民と民主の改憲草案が出された。特に自民党は、発表を何回も小出しにしてその度に話題づくりをしていく手法で、改憲論議を加速させた。改憲に反対する立場からも年の後半は、いろんな人びとがこの議論に加わってきた。「九条の会」は全国で急速に広がっているし、現憲法下で戦後60年間に経験してきた民主的な力も決してあなどれないものだ。
悲観的になりがちだが、やっぱり特効薬はない。あきらめずに、これを越えるような地に足の着いた語りあいが広がることを期待したいし、そのために少しでも努力したいと思う。
(土井 とみえ)
小泉内閣が自衛隊のイラク派兵基本計画をさらに1年延長したことに抗議し、自衛隊の即時撤退を求めて、12月11日、「WORLD PEACE NOW 12.11 終わらせよう、イラク占領 タイムオーバー、すぐもどれ自衛隊」は東京・上野水上音楽堂で午後1:30~開かれました。
オープニングコンサートは「ミューズ分会」さん、労働組合を結成して以降、会社の不当労働行為と係争中ということですが、元気に演奏してくれました。開会前から右翼の宣伝カーが雑音をがなり立てて妨害し続けましたが、それを跳ね返しながら、元気に開会。司会は大塚照代さん、WPNを代表して開会挨拶は富山洋子さん。発言では米軍再編・強化に反対して行動を続けてきた神奈川平和運動センターの金子豊貴男さん、イラク戦争反対運動のはじめから運動を続け、PEACE ONを設立し、イラクの人びとをサポートしつづける相澤恭行さん、韓国での平和会議から集会場に直行し、この日の行動の意義を確認する発言を行ったピースボートの川崎哲さん、それぞれの熱いメッセージがありました。この3年の間にWPN参加の各団体がそれぞれに鍛えられ、元気に、継続して運動に取り組んでいる様子が活き活きと伝わってくる発言でした。
コンサートは喜納昌吉さんとチャンプルーズの力強い演奏とエイサーでした。寒い中でしたが身体が暖まるような熱演でした。
参加者も次第に増えてパレード出発時は約1000人になっていました。ピースボートのDJカーを先頭に「9」のプラカードを掲げて元気に跳び回る若者たち、たくさんの虹旗を先頭に色とりどりののぼりが掲げられた市民グループ、労働組合などの旗が林立する平和フォーラム傘下の諸団体、にぎやかに師走の買い物客でにぎわう御徒町周辺を多くの視線を集めながらパレードしました。幾度も幾度も右翼の挑発はありましたが、最後まで元気なパレードでした。
解散地では、WPNは自衛隊の即時撤退を求めて運動を継続すること、1月20日からの通常国会に対しても可能な働きかけを行いたいこと、3月18日は日比谷野外音楽堂で大きな集会を行うことなどを確認しました。(WORLD PEACE NOWのサイトより)