私と憲法54号(2005年10月25日発行)


「国を愛する責務を共有する国民」と「戦争のできる国」をめざす自民党新憲法案

高田 健

【はじめに】

自民党新憲法起草委員会(森喜朗委員長)は10月28日、来る結党50周年大会(11月22日)で採択する「新憲法案」をまとめ、党政審・総務会で了承された。この新憲法案は8月1日に発表された「第1次案」に「前文」部分を付加し、「9条」部分については再度書きあらためたものである。

「新憲法案」の「前文」では「国を愛する責務を共有する国民」という極めて復古主義的立場を導入し、「9条」では第1項を残すとしながらも第2項を全面的に書き変え、国の平和と独立、安全の確保のための「自衛軍を保持」し、戦争を合憲化して、「国際社会の安全確保」と「緊急時の秩序」のために国の内外で軍事的行動をすることを明確にした。

今回の「新憲法案」は、これらに加えて、従来の案でうち出された「第3章」の「国民の権利及び義務」に関する部分で、憲法の意味・意義を転倒させ、近代立憲主義原理を否定しようとする立場と、「第96条」の憲法改正条項を大きく緩和させ、自民党がめざす今後の国作りのために憲法改悪をいっそう容易にしようとする立場などが示されている。

新憲法草案は憲法「改正」という形ではなく、「新憲法案」という全面改憲案の形をとっているが、「前文」を全面的に書き変えたほかは、上記の「9条」「第3章」「96条」の改変にとどまっている。にもかかわらず「新憲法案」としている意味は、ひとつには自民党の中に根強い「押しつけ憲法論」「自主憲法制定論」など現行憲法の「正当性」に対する疑問の反映としてのものであり、いまひとつは歴史的な危機に直面する日本社会にたいする自民党の側からの全面的な社会改革・革命綱領としての位置づけを持たせようとするものであり、党創立50周年という区切りにおいて自民党としての独自性を持ったものを示そうとしているからに他ならない。

同時に上記の指摘と一見矛盾することであるが、今回発表された草案の「前文」部分にはっきりと現れているように、公明党や民主党など他の政党との妥協による改憲案づくりを意識し、4月4日に発表された「小委員会要綱」や、7月7日に発表された「新憲法試案要綱第一次試案」よりも「自民党らしい」復古主義的立場を薄めるよう一定の配慮がなされていることが特徴でもある。これは自民党とその支持基盤層に存在する復古主義的・国家主義的傾向、ナショナリズムに配慮し、その「独自性」を一定程度許容しながら、なおかつ民主党などの決定的反発を買わないように配慮することで、今後の改憲案調整作業に道を開けることを狙ったものである。これらの点については当然、党内の両側に不満が残るのも避けがたく、正式に採択する大会の前後や、将来、改憲発議のための案文づくりの際に問題が噴出することも十分にあり得ることである。

ともあれ、この自民党新憲法案は私たちが指摘してきたように、「欧米列強並に『戦争のできる国』となることをめざす」ものであり、「ナショナリズムとグローバリズムの結合による『戦争をする国』づくりをめざす」ものであり、「新たな歴史反動」の綱領案であるといわなければならない。

なお、第3章以下は自民党が8月1日に発表した「新憲法第1次案」と基本的には同じであり、その検討は、時間の都合で筆者が8月3日に発表した「欧米列強並に『戦争のできる国』となることをめざす自民党改憲草案」を添付することで代替することをお許しいただきたい。但し、「新しい人権」に関する項は大幅に書き加えられているので、この検討は本稿においても書き加えることにする。

【復古主義と新国家主義にいろどられた前文】

新憲法案はその冒頭でことさらに「自らの意思と決意に基づき……新しい憲法を制定する」と述べ、自民党結党以来の自主憲法制定論を継承し、事実上、現行憲法を否定する立場をとっている。今日までの58年間、最高法規として定着してきた現行憲法を自主憲法制定論の立場から否定することは、その歴史の大半において政権政党の立場にあった自民党にとって「天に唾する所行である」ことはいうまでもない。

また現行憲法前文には記述がない天皇制について「象徴天皇制は、これを維持する」と言及している。これはことある毎に天皇制を強化しようとする国家主義的傾向の表れであり、他の改憲条項、たとえば「自衛軍」規定の導入や、国民の責務をさまざまな形で導入する動きと関連させて考えれば見逃すことはできない点である。

この「前文」は簡略化した形をとりながら、その実、「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」として現行憲法が確認している過去の戦争に関する反省や、平和的生存権についての豊かで積極的な記述などを削除し、「国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権の尊重及び平和主義と国際協調主義の基本原則」を継承するなどとして、前文を獲得するにいたったわが国の戦争と軍国主義の歴史から切り離された、無味乾燥な表現にしている。

そして、現行憲法の理念とは両極にある「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有」するという記述を入れて、「国」を「愛」し、「自ら支え守る」「責務」を「共有」するという立場を明らかにした。このことによって、「帰属する国」への愛国主義を「国民」が「共有」すべき「責務」に位置づけ、「国民」の思想にしばりをかけようとしている。「社会」「愛情」「責任感」などという目くらましの言葉をちりばめながら、愛国心と国防を国民の責務であるという思想を導入し、現行憲法にも見られる「主権者国民による権力制限規範としての憲法」という近代立憲主義の思想を排除している。これは現行憲法の基本理念の否定であり、「われらは、これに反する一切の憲法……を排除する」とする憲法前文の規定に反する憲法の破壊であるといわねばならない。

また草案前文「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に願い、他国とともに」「圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う」としているが、これは現行憲法の平和主義と平和的生存権の規定と似て非なるものである。筆者はこの点を従来から指摘してきたのであるが、こうした草案前文の規定に草案の「第9条の2」として付加された規定、「自衛軍は……国際社会の平和と安全を確保するために国際的に行われる活動」を行うという規定が結合されるなら、「この論理はアフガンやイラクを一方的に攻撃したブッシュ米国大統領の『先制攻撃戦略』と同一のものとなる」(高田「要綱第一次素案批判」)のは明らかである。だれがどの国を「圧政や人権侵害」の社会であると断定するというのか。9条2項を放棄して武装した世界有数の軍事力を持つ国家が、国際社会の信頼を得ることができるのか。この日本国家が「国際社会において、他国とともに」「圧政や人権侵害を根絶させるため、不断の努力を行う」ことを憲法前文に書き込み、世界的範囲で『圧政や人権抑圧を根絶する』ために、米国あるいはそれを含む多国籍軍とともに日本の軍事力を行使することを宣言していることの傲慢さ、危険さは強調して余りあるものである。

【9条2項の否定と、「第2章戦争の放棄」の破壊】

今回の新憲法案は、現行憲法の9条第2項をまったく否定し、その「戦力不保持」と「交戦権の否認」原則を削除し、国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため……自衛軍を保持する」として国家防衛戦争を規定した。このほか、自衛軍の活動目的を国際協調のもとでの「国際社会の平和と安全の確保」=海外での軍事活動、及び「緊急事態における(国内の)公共の秩序を維持し、または国民の生命若しくは自由を守るための活動(治安出動)を行うことができる」とした。(2)第1項についても「第1次案」は改変していたが、従来、自民党が主張してきた「第1項は維持する」との立場に戻り、第2章の名称の「戦争の放棄」を「安全保障」に書き変える点は継承した。

米国や財界などが一貫して要求してきた「集団的自衛権の行使」については、改憲勢力の中でも十分な一致がまだないこともあり、憲法条文に記述することを避けた。しかし、これは「自衛軍の保持」を明記したことで「自衛には個別(的自衛権)も集団(的自衛権)も含まれる。その議論は終わった」(自民党新憲法起草委員会舛添要一事務局次長)という理解を前提にしているにすぎないのである。

自民党の念願であった自衛「軍」の保持を明記することで、憲法違反の自衛隊を不当な解釈改憲によって作りだし、強大化させてきたという違憲状態の解消を実現しようとしている。憲法で自衛軍の存在とそれによる国際協力などを合憲化すれば、米国によるイラクへの先制攻撃が「防衛戦争」と称されている例に明らかなように、現代における全ての侵略戦争は国家・国民のための「防衛戦争」として位置づけられ、遂行されているのであるから、まさにあらゆる意味で日本は「戦争のできる国」となるのである。さらに自衛軍の活動目的に「緊急事態における(国内の)公共の秩序を維持し、または国民の生命若しくは自由を守るための活動(治安出動)を行うことができる」としたのは、「内乱」鎮圧 はもとより、反政府活動一般、自立的な市民運動一般に敵対することになりかねない条項でもあり、「公共の秩序」の名の下に自衛隊を市民(日本社会に居住する日本国籍・外国籍などを問わず)に銃を向けることを可能にするための極めて危険な規定である。

先般(9月はじめ)の毎日新聞社の世論調査の結果を見てもわかるように、現行の平和憲法は日本社会に定着し、第9条の維持を望む声は全体で62%、20代では70%に達している。自民党はこの世論を恐れ、「1項も変える」として9条全体を否定した第2次案から揺り戻しをはかり、9条2項は変えるが「1項はそのままでよい」とした。筆者が第2次案の批判の際に指摘したように、「第1項は国際的にみても1928年のパリ不戦条約を起源にして、かなりの国々がこの条項と同様の文言を取り入れている。もとより、パリ不戦条約のもとでも自衛戦争は放棄されなかっただけでなく、自衛戦争の名による侵略戦争も繰り返されてきた。現行憲法の第9条が1項と2項を一体不可分のものとして、戦争放棄を規定したことにこそ、第9条の今日的な先進性がある」のである。

自民党新憲法草案によれば、現行憲法の最大の特徴であり、現代世界においても最も先進的で、輝きをもった憲法9条は無惨に改変され、否定されてしまうことになる。戦後60年、現行憲法の下で、歴代政権による解釈改憲という政策でズタズタにされながらも、なお集団的自衛権の行使に歯止めをかけ、海外における武力行使にくびきを架して、日本の軍隊が海外で殺し、殺されることを防いできた9条の歴史が、今回の自民党の新憲法案によって終わらせられようとしていることを絶対に許すことはできない。

【立憲主義の否定と国民の義務】

草案は「第3章 国民の権利及び義務」の項の現行12条に対応させて「国民の責務」という項を設置した。そして現行12条が「又、国民はこれを濫用しては ならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」としているところを、「国民はこれを濫用してはならないのであって、自由及び権利 には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と書き換えた。現行の「公共の福祉」という用語は、いずれも国家主義的用語に連なる「公益及び公の秩序」に書き改められた。これが前述した9条改憲の思想と結びつけられる時、基本的人権は破壊に導かれるに違いない。8月2日の読売新聞社説はこれを積極的に評価して「自己中心の個人主義ではなく、本来、憲法が想定していた『責任ある個人主義』に基づいて、社会の存立の基盤を確かなものとする意図が読み取れる」などと述べた。

そしてさらにこれに関連して「内閣」の項の73条では「法律の委任がある場合…義務を課し、又は権利を制限する規定」を設けることができるとした。こう した「義務」規定の強調などの改変は単なる用語の変更にとどまるものではなく、近代立憲主義にもとづく権力制限規範としての憲法、「権力を制限する憲法」 という考え方から、「国民が守るべき憲法」「国民の責務を規定する憲法」という反動的な憲法思想への転換であり、自民党改憲派の長年の願望の表現である。 自民党はこの憲法思想の転換のために、「いたずらに国家と国民を対立させることなく」などという俗論を振りまいて立憲主義に対する攻撃をしてきた。

信教の自由に関連して草案20条では「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教活動をしてはならない」などとして、「社会的儀礼の範囲」を合憲とした。このことによって 首相の靖国神社参拝や、玉串料への公金支出等を合憲化し、「信教の自由」を制限しようとしている。

一方、8月の「第1次案」に大幅に書き加えたものとして、「知る権利」や「環境権」などのいわゆる「新しい権利」を5項目ほどつけ加え、これによって、民主党内の憲法論議や、公明党の「加憲」論との妥協を図り、改憲の世論づくりを進めやすくしようとはかっている。「知る権利」には「国の国政上の説明責任」、「環境権」では「国は、国民が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受することができるようその保全に努めなければならない」等とし、ほかに「個人情報を守る権利」「心身障害者と犯罪被害者の権利」「財産権、特に知的財産権」なども挿入した。しかし、これまでの議論で明らかにされているように、「環境基本法などに環境権の明記に反対」し、市民の「情報公開」要求に抵抗して「知る権利」を阻害し、「盗聴法」など個人情報を強制的に暴き、「障害者自立(自滅)促進法」で心身障害者の人権と生活を破壊してきた改憲派が、ただただ改憲の世論を誘導するために党利党略で「新しい人権」を語ることは許されないし、これら必要な人権は現行憲法のもとでの立法措置などでまったくカバーできる問題であるに過ぎないことを指摘すれば十分であろう。

【改憲の要件の大幅な緩和】

第96条の憲法改正条項では、「この憲法の改正は…各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し」、国民投票の「過半数の賛成を必要とする」として、現行憲法の「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」という規定を大幅に緩和した。「過半数の賛成」で発議できるということは、最高法規としての憲法が国会の大勢 による合意ではなく、与党だけの賛成で発議できるということである。

自民党はこの条項を規定することで、今後の改憲に道を開こうとしている。「今回は、まず改正することに最大の意義がある」(8月2日「朝日新聞」桜井よしこ)というのである。与党・公明党や野党・民主党の合意が得られる情勢にないにもかかわらず、自民党がこの間、全面的な改憲案を提起しているのは、単に自民党の独自性を示そうとしているだけではない。自民党が描く当面の理想の国家像=憲法全容を示すことで、系統的にそれに向かって進む決意を示している。この時、96条の大幅な緩和は極めて重大な意義を持ってくるのである。

【終わりに】

走り書きで、校正すらろくにできないまま、人前にだすのは誠に心苦しいものではある。とりあえず、運動仲間のみなさんの検討にいくらかでも役立てばと思い、無謀にも短時間の作業で発表する。本稿で指摘したこと以外にも、新憲法案の指摘すべき問題点は少なくないと思われる。特に今後研究者の方々による専門的な批判が試みられ、議論が深められ、学ばせていただけることを強く願うものである。

私たちの住んでいる日本社会が、現行憲法が示す不戦非武装・平和の思想と民主主義、基本的人権の保障を実現しつつ、より高次の人権・福祉社会をめざして、国際的な平和と共生を実現する道をあらためて選びとるのか、自民党新憲法草案の示すこの危険な戦争と人権破壊の道を選ぶのか、いま文字通り歴史的な岐路に立っているのである。
(2005年10月28日)

憲法9条と平和をまもる10・22新潟のつどい、成功

10月22日午後に新潟市で開催された「憲法9条と平和をまもる10・22新潟のつどい」は、広範な人びとによる同実行委員会の主催で開かれ、「九条の会」が「協力」し、2100人を超える人びとが参加しました。

すでに1ヶ月前程からチケットが足りないという状況で、当日も用意された第2会場で映像で観る人びとも大勢いました。講演は「九条の会」の大江健三郎さんと澤地久枝さんでした。

永田町で強まる改憲の動きに対する草の根の危機感が、この集会の画期的成功として反映したと実行委員会の人びとは語っていました。[九条の会]はこの後、熊本や名古屋で地元の実行委員会に協力した講演会を開きます。今後の予定は同会のウエブサイトをご覧下さい。

「九条の会」はすでに全国各地で3000箇所を超えて結成され、すばらしい勢いでその運動を強化しています。私たちも九条の会の呼びかけに応え、思想信条、政治的立場のちがいを超えた九条擁護のネットワークとして、「九条の会」の前進のために奮闘しましょう。

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第5回市民憲法講座
「日の丸・君が代」の強制がねらうもの

澤藤統一郎(弁護士)

(編集部註)9月24日、市民憲法講座で澤藤さんがお話しされたものを、編集部の責任でテープ起こしした上、大幅に要約したものです。文責は全て編集部にあります。

私は物心ついた時から日本国憲法の空気の中で育ちました。私はあまり栄養状態の良い時期には育ちませんでしたけれども、「水と空気と日本国憲法で育ってきた」と自称しております。私の身体を切ると炭水化物とカルシウム、タンパク質などの他は日本国憲法で出来ていると思っています。その日本国憲法が大変危ない、本当に危機にあるといっていいと思います。

これは日本の憲法という法典の条文が変えられようとしているということだけではなくて、日本の国がよってたつ原理原則が根本から変えられてしまいそうな時期にあるんだということを意味していると思います。そういう意味で大変「憲法改正」に危機感を持っているもののひとりですが、今日は「教育」「学校現場」から報告をさせていただきたいと思います。

もちろんいま憲法改正の焦点になっているのは憲法9条、なかんずく九条2項と96条の2つに収斂されようとしています。96条とは改憲手続きです。憲法学では一番最初に学ぶことは憲法には硬い憲法「硬性憲法」、柔らかい憲法「軟性憲法」とがあり、「硬い憲法」とは変えにくい憲法、「軟性憲法」とはいくらでも変えられる憲法です。日本の憲法は変えにくい憲法、硬性憲法の典型だと説明されます。この硬い憲法をまず柔らかくしようというのが96条改正のねらいです。いまは国会議員総議員の2/3の発議がなければならない、そしてそれを国民投票で問うて、その過半数の賛成でなければ変えることが出来ないという大変厳しい改正のための要件があるわけです。このハードルをうんと低くする。これは経団連が「今の段階では憲法の9条と96条、まずこれだけでよい」ということをいいだし、自民党の憲法改正案がこれでまとまろうとしています。いままで自民党はいろいろ本音を出して「こういう憲法にしたい」「憲法改正ではなく自主憲法制定」「新憲法制定」というのが自民党の言い方ですけれども、それを民主党、公明党とのすり合わせが必要、現実的な案ということになって参りますと96条と9条2項、これだけに手を付けるということになってきています。96条がいじられますと、あとは毎年でも細かい憲法改正の発議をして改正をしていけばいいんだということになります。

そしてもう一つは憲法9条1項、これはどの勢力も守るといっています。平和主義の大原則は守る、9条1項は守るというふうにいろんなところがいっている。問題は今9条2項、戦争と戦力を放棄した、国の交戦権を認めない、そういう内容の恒久平和主義を守るかどうかというのが焦点になっております。

いまのところ憲法の教育の条項がすぐに変えられるということにはなっていません。しかしご存じの通り教育基本法「改正」の動きがあります。教育基本法は明らかに憲法の一部といってよろしいかと思います。いろんな基本法というのがあります。その基本法の第1号が教育基本法ですから、他の基本法とちがって本当の意味での基本法というのは教育基本法だけです。最高裁大法廷判決も教育基本法は他の教育法令、例えば学校教育法などより上位にあって憲法に準ずる立場にあるということを認めています。その成り立ちからいっても、内容からいっても教育基本法というのは憲法の一部です。憲法の一部であってまさしく憲法を補完するものだといってよろしいと思います。比喩的に言えば教育勅語が明治憲法と一体であったごとくに、教育基本法は日本国憲法と一体というような大変重要な法典の一部ということになろうかと思います。それが「改正」されようとしている。

憲法9条についても2項に違反する現実が積み重ねられてそして憲法9条改正、現実に合わせて法典も変えなければならないという論議が出てきたように、教育についても教育現場で法の理念、憲法や教育基本法の理念とあまりに離れたそういう現実がいま先行しています。そしてそのいわば「改正」先取りの現実に引きずられるかたちで憲法が変えられる。教育の基本は憲法23条、26条そして教育基本法ですけれども、それが変えられようとしている。そしてとりわけ重要なことは、「前文」がどうなるか、前文の中の理念がどうかえられるのかということが非常に大きいんだと思っています。今の憲法の前文も、教育基本法についている前文も大変立派なものです。

日本の歴史、伝統、文化、それにしても今の自民党の案ですと歴史、伝統、文化の中味は天皇を中心とした誇るべき日本の歴史、日本の文化、天皇中心の文化ということになるわけですけれども、天皇の文字をのぞいたところで国家あるいは国が入ることになろうかと思います。それが大変大きな意味を持っていると思います。

結論を先に申し上げておきます。教育については基本的な考え方として2つのせめぎ合いがあると考えています。ひとつは教育というのは国家社会に有為の人材を育てるためだという考え方だと思います。つまり国家や社会が必要とする人材を育てる、それが教育という営みの根本的な目的なのだという考え方です。これは時の国家や社会が何を要求しているのか敏感に汲み取って、国家や社会が要求している人材を供給するための教育をすることが当然だという考え方につながりますし、国家が営んでいる教育であり、国家のための教育であれば国家が教育の内容に容喙する、容喙するというよりも国家が要求する教育の内容であることが当然であるという考え方に行き着くことになります。「国家主義的な教育観」といってよろしいかと思います。今の私たちの憲法、教育法体系は全くこれとは無縁というか、こういう考え方を厳しく排してできあがっているものだということです。この国家主義的な教育観の典型はやはり天皇制の大日本帝国憲法下の教育であったろうと思います。そこでは教育勅語が非常に鮮明に宣言しているとおり「一旦緩急あれば義勇公に奉じ天上無窮のあまつひつぎを・・・」、ともかく一旦緩急あれば天皇のために命を捨てろというところまでいっている、そういういう人材を作ることが教育の究極の目的なんだ、ということをはっきり言った。そのための教育の結果が結局は国が滅びる基になった。その反省から日本国憲法の前文は「再び政府の行為によって戦争の惨禍を招くことがないように決意し」といったことの内容の中にこれが入る。つまり国家のための人材を教育するというようなことではない。それは結局天皇のために命を捨てろという教育に行き着くのだ、そういう教育ではない。何かといえば国家よりも個人が大切なのだ、国家があっての個人ではない、個人の人権がこれが一番大切なもので、その人権の集合体として国民があって、その国民がどういう国家をつくるのか、もう少しいえば国家を作るか作らないかも含めて、はじめに個人があり国民があり、そのあとに個人や国民の要求に応えたかたちで国家があるんだ。

教育もまさしくどういう国家を作るのかということをきちんと判断できる主権者としての国民を作るのだと。国民をのびのびと、国民自身の人格の完成、これを教育の目的とする。完成された人格としての国民、主権者が次の段階でどんな国家をつくるのかということを選び取るという、こういうことになっていく。これを「国民的教育観」とでもいいましょうか。教育の主体、誰が教育の内容を決定することについての権利をもっているかというので「国家教育建設」と「国民教育建設」と大きく分類されるということは皆さんご存じの通りですけれども、その究極にあるものは国家のための教育なのか、国民ひとりひとりを主人公にした国民ひとりひとりの人格の完成のための教育なのか、そこで、戦前の国家主義的な教育観を鋭く反省して、いま私たちは私たちが持っている教育法体系は、憲法と一緒になった教育法体系はこの国家主義的な教育観を徹底して排除していた。だから国家が教育の内容に介入するということを厳しく拒絶している法体系を私たちは持っているわけです。

国家が何を教えるとか、国家が国民の精神のあり方はこうでなければならんとかいうことをいう資格は絶対にないわけです。それは天皇制政府の教育に対する反省の末に生まれた現行の教育法体系であるということ、それが一番大切なことです。これが今壊されようとしている。石原慎太郎という大変特異なキャラクターをもった政治家が、少なくとも東京都の中で何をしようとしているかというと、これを壊そうとしているということだと思います。いま現象として出ていることは大きくは3つある。ひとつは「日の丸・君が代」の強制であり、ひとつはジェンダーフリー攻撃であり、もうひとつは性教育攻撃なんですね。そのいずれも本来は教師集団、父母・校長も含めた学校、専門職である学校と教員、こういう人たちがどういう内容の教育をするのか。「日の丸・君が代」をやるのかやらないのか、卒業式にそういうプログラムを入れるとして強制できるのかできないのか、あるいはジェンダーフリーの教育をどう押し進めるか、あるいは最も専門性の高い養護教育でハンディキャップをもった人たちにどういう教育をすべきなのか、こういうことについて教育の内容に国家が、あるいは東京都の教育委員会が介入することはいけない。それを少しずつ少しずつ浸食して中に介入しようとしている。それが学習指導要領であり彼が一期目にはじめた「心の東京革命」であり、そしてとうとう「日の丸・君が代」の強制にまでいたっているわけです。それの「てこ」になっているのが「愛国心」であり、日本の歴史、伝統、文化である。この中には例えば男女平等というようなものは入っていないわけですね。むしろ男性と女性は質的に違うということを強調している。誰も男性と女性が質的に同じだといっているジェンダーフリー論者はいないはずなのですが。

しかし、石原慎太郎は全部の校長を集めたところで「私はジェンダーフリーという思想は大嫌いだ、そして滑稽な思想だと思う」という。東京都の文書から一切ジェンダーフリーという言葉は消えているわけです。彼は得々と校長の前で「男と女のあり方はこうでなくてはいかん。自分は特攻隊員をテーマにしたシナリオを今書いている」と。「これが男と女のあり方なんだ」。それは彼が床屋か酒場で酒を飲んで言うならいいですけれども、東京都知事として校長の前でいうことではない。

それは完全に教育内容に介入している典型例だと思います。それから米長邦雄という人がいます。この人は棋士だそうですから一手指したら相手がどう反応するか読みながら話をするのが商売。しかしこの人は将棋は強いかもしれないけれど、他のことは全然わからない。この人が天皇に向かっていろいろしゃべって「全国の学校で日の丸・君が代を実施させるのが私の仕事です」という、誰が聞いてもおろかなことを、なんで東京都の教育委員が全国のことまでいうのか越権もはなはだしい。しかも彼が考えているのは子どもの学力とか子どもの人権とかということではない。「日の丸・君が代」しか考えていないということも非常によく現れています。しかし天皇に「強制でない方がいい」といわれて彼はびっくりしているわけですね。彼が一手指してどういう風に天皇が指してくるのを読んだんでしょうかね。彼は「そうだそうだ、ご苦労さま」とでも言ってもらえると思っていたんでしょうが、大変なヘボ将棋を彼はやったわけですが。その米長がいっているのは「日の丸・君が代問題はもう片が付いた」と、「次は混合名簿を全部廃止することだ」といっています。これも凄まじいことですね。その男性と女性をクラスで名簿を作る時に男性を先に全部名簿をつくる、そのあとに女性の名簿を「あいうえお順」にやるという、これが当然だと。男性と女性を混合して全部「あいうえお順」に並べるのはけしからんと、これを追放しなければならんというんですね。つまり、いま東京都がやろうとしていることは完全に教育内容に介入しようとしているということですね。もうご存じの通り国が教育行政ができるのは教育条件を整備すること、学校を作り、学校を整備し、教員に給与を払いあるいは全国の教育の水準が地域によってレベル格差が生じないようにそれなりに配慮をする、というようなこと、これはできる。しかし教育の内容に立ち入って、非常に微妙なところに、例えば愛国心というのが素晴らしいとか、それから「日の丸・君が代」を尊重する態度を養うというようなことは本来はしてはいけない、これが少しずつ浸食されてきているわけですね。そして最新の学習指導要領、去年の4月1日から施行になった小学6年生社会科だけ「国を愛する心の涵養」というのが教育目的についに入りました。

少しずつ浸食されてきた。それを一気にやってしまおうというのが教育基本法の「改正」であり、そして憲法前文の「改正」、その中に国を愛する心というようなものを書く、愛国心を書く、日本の伝統、文化、歴史を書き込むことによって国は実は何を狙っているかというと、もちろん国民一人ひとりの精神の中味について入ると同時に教育内容に介入しようということをたくらんでいるわけです。それがいま先取りのかたちで一番鋭く東京都に現れている。

改憲をしようとする人たちのねらいはどこにあるんだろうかと、今改憲のねらいは9条2項が焦点になっていることは周知の通りですが、それだけではないんじゃないかと考えています。むしろ国家を丸ごと作り替える国家存立の原理を根底から変更しようとされているのではないか。というのは、自民党はじめ、民主党も含めてもいいと思いますが、財界もそうですけれども、戦争をしようと積極的に考えているとはとうてい思えない。「戦争をしたい、したい」と考えているそういうマニアももしかしたらいるのかもしれませんけれども、自民党の主流、民主党の主流、公明党の主流、あるいは財界の主流含めてですが、戦争をしたいとか、しようとか積極的に望んでいるということではないと思います。やはり戦争というのを外交と並びあるいは治安政策などと並んで国益といいますか、社会益といいますか、資本の利益というか、何かの利益不益をひとつの手段として考えているであろうと思います。選択肢として戦争というものを排除しない国を作りたいんだろうと思うんです。あるいはアメリカと一緒になって場合によっては戦争ができるアメリカの戦争に追従して、今はイラクにまで行っています。これも憲法違反だと思いますけれども、それでも今の憲法9条がある限り憲法解釈としてイラクで武力の行使はできないわけですね。

そして今、前原さんという不思議な人が、例えばサマワで日本を守っているイギリス軍が攻撃を受けた時に日本はそれをイギリスと一緒になって武力の行使ができないのか、それはおかしいでしょう、常識に適わないでしょうということを平気でいっている人が野党第1党の党首になっているわけですね。私は彼の考え方などが今の改憲論の主流ではないかと。要するに戦争を積極的にやりたいということではない、しかし資本の利益、あるいはアメリカともっとうまくやるためには武力の行使という選択肢を残せる、そういう選択肢を選択できる国にしたいと彼らは今考えているだと思う。しかしそれは極めて危険なこと。私たちはそういう選択肢を絶対許さないという国家をつくったはずです。

私は日本の歴史を学ぶということの大半の意味はそこにあると思っています。非常に危険なことでそういうことはしてはいけないんだと思うんです。ですから9条を改正しようという人が考えているのは9条の奥にもっと色々なことを考えているんだろう。

ひとつ戦争という選択肢を選ぶ時には戦争するというとき9条を変えたら戦争できるかといったらそんなことできっこないですよね。本当に国民が総力をあげて戦争遂行に協力する体制をつくらなければならない。9条の文言を変えただけで戦争ができる、戦争を選択肢として選べる国にできるか、そんなことはできっこない。国民一人ひとりを作り替える。あらゆる社会のシステム国家のシステムを戦争ができるように変えていかなければならない。それは九条だけ変えたってダメですよ。私はそう思います。その時に国家が丸ごと変えられるということになるんだと思います。どのように国家を作り替えようとしているのかということですけれども、基本は支配層の利益を最大限実現する国家にしたいんだということだと思います。いままでそうでなかったのか、多分今までそうではなかった。別な言葉で言えば支配層の利益の追求に国民を奉仕させる国家づくりだと思っている。その中に戦争という選択肢もあるんだろうと思います。

国家改造のために国家に従順な国民を作るためにはまずはメディアを統制しなければならない。短期的にはメディア、長期的には教育ですね。「メディア」と「教育」これが私は大切なターゲットになっていると思います。両方とも相当危ないですよね。私は産経新聞はジャーナリズムとしては認めません。産経というのはセンセーショナリズムでもない、国策に自分が右翼的な潮流にあることは意識し右翼的なひとつの謀略をする組織として自分を位置づけていると思います。国立二小の事件は何でもない事件。2000年の4月5日に産経がトップで「生徒、校長に土下座要求。日の丸君が代おろさせる」。これで国立二小というのは火がついて、国立に67台の右翼の街宣車が来た。そして大変なことになった。私は国立二小の弁護団なんですけれども、産経というのはそういう役割をはたしている。これは意識的に内部文書をリークされて自分でやっているわけですね。「10.23通達」という2003年10月23日に東京都教育長が出した通達の中味を僕たちが初めてどこで知ったか、「出される、出される」ということは前からありましたけれども、正式に知ったのは10月23日朝、産経朝刊の一面トップの記事で我々は知ったわけです。もちろん都庁のどこからかリークされている。七生養護学校事件がどうして起こったか、これは産経が「まるでポルノショップ」という記事を出して学校現場に都会議員が乗り込んで学校の教員を排除して、そして産経に性教育のためのお人形さん、普段はそんなかっこうしていないのにポルノショップまがいのかっこうさせて、彼らが写真を撮って産経に載せた、そこから始まっている。右翼ジャーナリズム、これは特異ですけれども読売もそうですね。文春もそうですね。新潮もそうですね。一昔前では考えられないような中味になってしまっている。マスメディアはおかしいです。だから運動体が週刊金曜日のようなものを作らなければならないような事態になって、やっぱりメディアがおかしくなっていると、ただいくらメディアがおかしくなっているということをいくらいってもしょうがない。桂桂一さんという方とお話しした時に彼は名言ですけれども「国民はそれに合った、その水準のジャーナリズムしか持てないんだよ」とこういわれたんです。社会全体がおかしくなってる中でメディアもおかしくなっている。

教育も完全に乱れている。
そして国策に従順な国民をつくる3つめは治安対策だと思います。国民運動、市民運動、社会運動を押さえ込む。そのためには今まではタブーとされていたような逮捕、起訴を躊躇しない。公安調査庁というところがあります。かつて公安調査庁というのはリストラ対象の官所として名前があがっていました。1970年あたりまでは過激派対策だった。その前は共産党対策だったんですね。共産党が武装闘争をやらなくなってしまったもんですから、公安調査庁は共産党相手では食えない、そうすると今度は過激派だと、過激派といわれていたところもほとんど押さえ込まれていたようなかたちでそれほど目立たなくなっていった。そうすると彼らどこで飯を食ったらいいと思いますか。もちろん市民団体なんですね。私が日本民主法律家協会の事務局長になったばかりの時、公安調査庁から漏れた文書がスクープされました。53の市民団体の名前を挙げて日常的な調査対象とすると、その中にはペンクラブも入っている、アムネスティインターナショナルも入っている、もちろん私の所属している日本民主法律家協会も入っている、自由法曹団も入っている、青年法律家協会も入っている。日本国民救援会も入っている、主婦連は入っていないんですけれども日本消費者連盟は入っている。これ日常的に調査対象になっている。原水協、新日本婦人の会も当然入っている。こういう市民運動が軒並み彼らの調査対象になった。その時の僕らは相当愕然としてアムネスティやペンクラブの人たちと一緒に抗議行動をかなりしつこくやりました。日本弁護士連合会は非常に危機感を持った鋭い警告書を公安調査庁長官に出しました。

今もう一つ段階が進んでいます。
本当に些細なことで躊躇なく逮捕、起訴が行われている。目黒社会保険庁事務所の事件というのはご存じだと思いますけれども、この人はこの30年来なかった国家公務員の政治活動の罪で逮捕され起訴されたわけですね。この人を起訴するために1年4ヶ月尾行を続けているわけですね。ビデオを撮っている。今延々と法廷でビデオが検証されていますけれども、四人がかりでそーっとつけていた。そして何をしたというんじゃなくて社会保険庁の職員が選挙のビラをまいた、それが「国家公務員法違反」で逮捕、起訴。それから葛飾で共産党のこれは党員ではなかったようですが支持者のお坊さんがビラをまいた。これが逮捕、起訴されてます。罪名は住居侵入。

立川のテント村事件でも全く同じこと、これは最初の事件で一審で無罪になって、いま高裁で争っています。それから今度の選挙でも同じことが行われています。それから板橋高校では元教員、自分が一年生の時に教えた生徒が卒業するというので来賓として卒業式に参加した元教員が、卒業式の始まる5分前、卒業式が始まってからではなく、サンデー毎日の抜き刷りを保護者に配って演説をしたわけです。「いま東京都では異常な事態になっています。教員が君が代斉唱時に不起立だと処分されます。ぜひ皆さん一緒に教員を支援する意味でできたら不起立をお願いします」、といった。これが「威力業務妨害」ということになって逮捕されなかったけれど、呼び出しを受けた。出頭拒否、2回目呼び出し、出頭拒否、3回目拒否、4回目拒否、5回目拒否、6回目に弁護団と私も何度も板橋に足を運びましたけれども話ができて、「黙秘の調書をつくる弁護団は下に行って良い」と、それで黙秘の調書を作った。これで一件終わりかと思っていたら起訴。今裁判になっています。威力業務妨害ということで。つまりお上にものをいうというのは今いけないんですよ。大変なことになります。立川テント村の事件のビラもイラク派兵を事実上反対するという内容のビラです。国策に反対をする。共産党という過激な反対組織がビラをまくなんてことはいけない。それから元教員が東京都教育委員会の方針に逆らうような演説をすることはいけない。一昔前までは考えられなかった、少なくとも10年、15年、20年前までは考えられなかった逮捕、起訴が行われている。これは本当に大きなことなんですよ。起訴する側、訴追する側は大変な決意を持って、大変な根回しでやっている。一件今問題になっていますけれどもこれでやられれば、全部同じようにやられることになるわけですから当然に市民団体の運動は萎縮することになります。逮捕されてまでビラ配ろうなんて絶対思わない。権利だっていったって、実際に権力が牙をむいてくればこれはびびりますよ。そのびびらせるのが彼らのねらい。ここは本当に引けないところだと思います。大変な世の中になってきている。

私たちは憲法9条をこういう風に習いました。「いままで近代国家の憲法は必ず限定がついていた。どんなにいいことが書いてあってもそれは平時の限りという限定がついていた。戦時は全く別だよ」と、つまり平時と戦時と2つの法体系があって宗教の自由、表現の自由、あるいは教育の自由、経済活動の自由いろんな自由や権利が書きこんであってもこのカタログはすべて平時の限りという限定がついていた。つまり国民の安全や基本的な人権というのは国家が守ってくれて初めてあるんだから国家が戦時だと宣言した時にはすべて憲法に書いてあることは一旦停止になる。戦時には戦時の別の法体系が作動することになるんだ。これが近代のすべてのこれまでの憲法の原則であった。日本国憲法ははじめてそういう限定をすべて取っ払って戦時なんていうのはないんですよという、私は教えられて「そうだその通りだ。私たちは素晴らしい時代に素晴らしい憲法に巡り会ったんだ」と私は考えていた。それがそうではなく平時と戦時とこれから別になるんですね。

教育現場にはすでに改憲先取りの現実がある。それが「日の丸・君が代」強制である。「日の丸・君が代」というのはこれが国家の象徴です。この間ある保護者の方が予防訴訟の法廷にたって堂々と証言していただきました。その方は「10.23通達」が出る前のちょうど前年に上のお子さんを都立高校を卒業させて「10.23通達」のあとに次のお子さんを卒業させたというビフォアからアフターという珍しい方で、2人とも都立高校。でビフォアがどうでアフターがどうでということを証言したのですが、杉並区の中学校に写真を出していただきました。ビフォアの方はもの凄く大きな絵を子どもたちが作るんですね。毎年毎年、卒業制作でみんなが分担して大きな絵を作るんだそうです。小さな絵を組み合わせて大きな絵を作る。それが朝日の絵だったり山の絵だったり鳥の絵だったり希望とか、これからの躍進だとか若さとかを象徴するような絵を壇上いっぱいに描いて「今年はどういう絵だろうね」と地域の中で話題になる。それをそのままにして次の4月に入ってくる新入生がそれを見て中学校とはこういうところなんだと、自分も3年たったらこういう風にやっていくんだと、伝統として毎年毎年やっていた。それが10.23の一片の通達で全くなくなった。代わりに「日の丸」と区旗です。

非常にこれはわかりやすい。つまり誰が主人公だというのが本当に視覚的に表している。卒業生が作った絵を全面に貼ってみんなでお祝いをする会だったのが、正面に「日の丸」を掲げてみんなが起立して「君が代」を歌ってことある事にお辞儀をするそういう儀式ですね。情動的に情緒的に日の丸に頭を下げさせる、それが当たり前の国民のやり方だと思わせるやり方をやる。これが儀式というものの心理的な効果ですね。すり込み効果です。そこにあるのは「日の丸」、これが実は学校の主人公なんだと、国家が主人公。「君が代」と「日の丸」はあまりにも強く76年間も天皇制国家と結びついているわけですから自民党がいう日本の伝統、文化、歴史とまさに密接に結びついて「日の丸」があり「君が代」がある。私たちは1945年8月15日、あるいはポツダム宣言を受諾した時、新憲法を制定した時にそういうものと決別をしたんだと考えた。そして憲法を新しく作って国家よりも国民が大切なんだというあまりに明らか原則、そして「教育に国家が介入してはいけない」というこれも先進民主主義諸国の共通の原則を採用したはず、それが今こういうかたちで崩されようとしている。これが今の東京都の学校で先行している現実です。ですから私は「日の丸・君が代」強制に抵抗しなければいけない。これは国家主義への抵抗であり人間の尊厳を基本としたあるいは子どもや生徒を主人公とした教育を求める運動であると思っています。

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