私と憲法52号(2005年8月25日発行)


解散・総選挙と憲法

延長国会も会期末目前となった8月8日、郵政民営化法案は参院本会議で否決され、小泉内閣は即日、衆院を解散した。否決したのは参院なのに、衆院を解散するのは解散権の乱用ではないか、内政・外交とも課題が山積している中で政治空白をつくるのは無責任ではないか等の問題は以前から指摘されてきた。また、院の構成が変わるのは衆院の側であり、総選挙後に法案を再提出しても同じ議席構成の参院では再度否決されることになるから、どうしても法案を通したいのなら衆院での再議決に必要な3分の2の獲得を目指すしかないのに、目標を過半数としているのも首尾一貫しない。しかし、多くの疑問点は残しながらも、現実には解散・総選挙に突入してしまった。

8月20日、全国遊説を始めた小泉総理は、国会が否定した郵政民営化について、改めて国民に信を問いたいと絶叫した。しかし、身近で切実な生活課題に触れず、郵政一点張りの内容に首を傾げる有権者も多かったとも報じられている。

東京や大阪にいると、民間の宅配業者が競合し街角のコンビニにATMもあるという状態が当然のように見える。しかし、地方の暮らしはそのようなものではない。国鉄の民営化でローカル線が切り捨てられ、通勤・通学、通院、買物など暮らしが成り立たなくなった地域も多い。民営化された電電の営業所の集約は、修理や工事等の作業時間より移動時間の方が長いというサービス低下にも直結する職場実態をもたらしている。郵政を民営化し、過疎地まで市場原理の中に放り投げることの弊害はその比ではない。

そもそも、「構造改革」と言いながら、小泉内閣の4年間は貧富格差の拡大と大阪や横浜の人口を超える失業者を生んだだけではないのか。業界と官僚と族議員の利権構造の解体ではなく、新たな利権の米国資本への投げ売りを推進しただけではないのか。つまり、争点を郵政民営化だけに矮小化しようが、構造改革全般について問おうが、そこで問われているのは、地域の人々の「生きる権利」そのものなのである。

また、小泉内閣の4年間を振り返る時、黙過できないのは,自衛隊の戦時・戦場派兵をはじめとする内容もさることながら、その政治手法である。内政・外交、いずれも国民や国会はおろか、与党内に対してすら説明責任を果たさず、対米公約による既成事実化を先行させている。これは独裁というほかない。そういう中で、「総理のリーダーシップの強化」と称して、議会や主権者による民主的コントロールを排除するとともに、集団的自衛権を解禁しようという改憲論議が進んでいるのである。

義務規定の追加を主張する改憲論に対して、われわれはよく、憲法は為政者に対する制限規範であり本質的に権利章典であると反論してきた。ところが、実は、憲法はわれわれにとてつもなく重い責務を課しているのである。それは、こうした社会契約論に基づく立憲主義を確立するまでには人類多年の努力を要してきたことに思いを馳せ,不断の努力によってこれを守るという責務である。誰かが何とかしてくれるとか、自分一人くらい棄権してもと思うことは、この責務を放棄することにほかならない。投票日の9月11日、ワールド・ピース・ナウでは、イラクからの自衛隊撤退を求めて集会を行なう。多くの皆さんが、生存権の破壊を許すのか、戦争への道を許すのか、よく考えて一票を行使した上で、集会に参加されるよう願ってやまない。
(憲法を生かす会 小川良則)

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「九条の会・有明講演会」報告「九条の会・有明講演会」報告

きっと9500人のさらなる行動のエネルギーになる

寺尾安子(平和憲法を広げる狛江連絡会)

昨年6月、著名な9人の方々の呼びかけで1000人が集まった「九条の会」結成記念講演会から1年目の7月30日、有明コロシアムで「九条の会」大講演会が開催された。

9500人の参加者で埋まった会場に荘村清志氏によるクラシックギターの優しい澄んだ音色が広がって集会が始まった。進行役は小森陽一氏と渡辺治氏。この1年間に「九条の会」講演会が全国9会場で延べ27400人が参加。全国各地域団体で3026もの「九条の会」が誕生したと報告された。

6人の方の講演の最初は9人の呼びかけ人の中の最高齢、88歳の三木睦子さん、「9人が9人とも年を忘れ東奔西走した1年だった。古いものたちが戦争のつらさを語らねばと思っている。私は戦争中、防火訓練の隊長で、焼夷弾がバラバラ降ってくる中、我子を抱いて逃げるわけにもいかず、お手伝いさんに『子供を連れてどこかに逃げて』というほかなかった。赤ん坊を抱いて、イラク派遣の夫を見送る母親の姿を見ると涙が出る。世界のどこをも敵にしないで、平和で静かな芸術の光あふれる日々に生きるため、9条こそ一番守らねばならない大切なもの。その9条が危ないと血を燃えたぎらせてやっている。」と語られた。

ついでに老哲学者の鶴見俊輔さんは「草加せんべい九条の会」から九条せんべいをもらった。自分は何ができるかと考える。私の目標は平和をめざしてもうろくすること。理屈は人間の知恵を奪ってしまう。新聞記者たちは明治・大正さまざまな理屈をつけて、殲滅戦を立派な行為のように飾ってきた。米大統領のかつての野蛮を超える野蛮な理屈の行き先を見極めたい。明治以来の戦争で殺された亡霊も参加する反戦運動を、もうろくを縦に死ぬまで続けたい、と話された。

作家でかつてのベトナム反戦運動のリーダーの小田実さんは「孫文は1924年に来日したときの演説で『強力な軍事力、技術力を背景に世界を制覇した西洋文明は「覇道の文明」。東洋文明は道徳、仁義を重んじる「王道の文明」だ。日本は早々と覇道の文明を取り入れ、ロシアと戦争をした。しかしこれからは西洋の覇道の手先になるのではなく、王道の文化を中国とともに作っていこう』と訴えた。しかし日本は覇道に走り、大量の命を奪い敗戦した。王道の道-平和な文化的な国-この中心にあるのが憲法9条だ。9条は日本だけのものではない。アジアに対する侵略戦争への反省でもある。世界、アジアの人々から信頼を得るのは平和憲法があってのことだ」と述べられた。

憲法学者、奥平康弘さんは「5年間かけた国会の憲法調査会は1000ページ近くの調査報告を発表したが、内容はスカスカで、占領軍の押しつけ憲法論も加憲論も打ち上げ花火に終わった。改憲勢力は9条2項に絞ってくるだろう。『9条1項は変わらないから平和主義は残る』という言い訳にごまかされてはならない。2項を欠いた1項はもぬけの殻になってしまう。アメリカとの軍事行動の何の妨げにもならない。9条の1点に絞った改定の動きを阻止するならば、日本の歴史上、画期的なことになる」と述べられた。

司会役の小森さんは奥平さんの話を受けて「なぜ5年間もかけてインパクトのない報告書になったかといえば、われわれ護憲勢力が頑張り、9条を守ろうという声を無視するわけにはいかなかったからだ」と会場の意気を盛り上げた。

作家の大江健三郎さんは、米軍上陸のときの沖縄の慶良間諸島のようすから語り始められた。「島では60発余りの」手榴弾が軍から住民に配られ、700人の人が集団自決をしたが、そうさせたものは責任を問われただろうか。また1980年、厚生省が被爆者に対し政府の考えとして『国を挙げての戦争であったから、国民が犠牲を被っても、それが原爆被爆者であっても受任しなければならない』という見解を示した。沖縄、長崎、広島で人々は人間として決して「受任」できない苦しみを被った。上からおっかぶされる「受任」という考えは押しつぶさなければならない。過去だけのことではない。有事法制によって、思想良心、信仰の自由の制限を受任させようとしている。アメリカの友人で詩人のシュタイナーは『求めるなら助けは来る。しかし、君の知らなかった仕方で』という詩をくれた。”助け”を”変化”という言葉に変えて若い世代に期待したい」と結んだ。

最後に劇作家、井上ひさしさんは「昭和20年の平均寿命は男性23.4歳、女性で32.3歳だった。戦争で死んだためだ。また広島の被爆者の記録の中に、燃える2階から『赤ん坊を投げるから受け止めて!』と叫ぶ母親の声を聞きながら、そのまま逃げてしまったことを60年たった今も悔やみ続けているという文がある。『そんな時代がすばらしかった、それこそ正しい日本だ』という人たちがいる。自分の日常を国家や企業に決められてはかなわない。『軍事施設がない』『兵士がいない』『戦争を望まない』の3つの条件がそろえば「無防備地域」を宣言ができる。それを宣言湿地域に対しては、どの国も攻め込んではならないとジュネーブ協定で決められている。第2次世界大戦中のローマ、パリでその効力は試されずみだ。この無防備地域宣言と憲法前文、9条をひっくるめて日本の基本形としたら、「日常」を守っていける。「俺の運命は俺が決める」と世界的な動きが一つになれば……。この奇跡に私も人生をかけたい」。

井上さんのお話で全講演が終わって、参加者全員で9条を読み上げ、渡辺・小森両司会役が今後の行動を呼びかけて集会は終わった。

1万人の大集会を計画し、準備してきた大勢のスタッフの方々の、周到で情熱のこもった奮闘ぶりがひしひしと伝わってくる会であった。6人の講演者は決して若い方々とはいえない。しかし「今、引き下がってはいられない!」という気迫がせまってくるのは、現況の厳しさを全身で感じていらっしゃるからであり、またこの1年で日本中に生まれた「九条の会」が後押しの力になっているからだと思えた。

この集会が9500人のこれからの行動のさらなるエネルギーとなっていくだろう。私の住む町、狛江市でも10月の「九条の会」発足をめざして、市民の賛同をもっともっと広げながら準備を進めていきたい。

「九条の会」の新しい訴え

「九条の会」は7月30日、つぎのような4項目の訴えを発表しました。

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第3回市民憲法講座
自民党改憲要綱案を読む

豊 秀一(朝日新聞記者)

(編集部註)これは7月22日、市民憲法講座で豊さんがお話しされたもの編集部の責任で大幅に要約したものです。文責は全て編集部にあります。

今回の自民党の改憲案は4月に発表したものから、ぎらぎらしたものをかなり落として、合意しやすいものにしたという狙いがあるのではないか。見方によっては、それだけ自民党も「憲法改正」に向けて本気になっているということがいえるのではないかと思います。

(1)逆立ちした憲法観

【国家権力を縛る憲法から国民を縛る憲法へ】

自民党の議論を読む場合、そもそも憲法というのは何なのかという、その軸、視点がまったく逆さまで、国民を縛る憲法という、およそグローバルスタンダードから離れた憲法議論が半世紀にわたって続けられてきた。これが日本の憲法論議をゆがめる最大の原因になっているのではないかと思います。

2000年に憲法調査会ができ、5年間ずっと傍聴してきて私が痛感したのは、自民党の方々には(民主党の方にも多いのですけれども)、憲法とは何かというのがわかっていない。あるいは「憲法は権力を縛るものだ」というのをあえて無視しようとしている、そこが最大の不幸だということを感じていました。この7月に発表した案を読んだだけだと少しわかりづらい所もあるんで、去年の6月10日に自民党の憲法改正プロジェクトチームが論点整理を出していますから、これも併せて検討します。この論点整理の中に自民党の憲法に対する基本的な考え方が冒頭に出てきているので簡単に紹介すると、自民党は憲法についてどう考えるかという点で、(1)、「国とは何か」をはっきり書くことで国民の中に愛国心が芽生えてくる。国民に愛国心を芽生えさせようとするための道具として、まず憲法を考えていると正直に言っています。(2)、家族や共同体が公共の場の中で新憲法の重要な位置を占めなければいけないと言っています。憲法13条に個人の尊厳がありますよね。本来憲法は多数によっても奪われない人権、つまり個です、個人の人権を守るというのがベースにならなければいけないのに、自民党は家族や共同体が新憲法の重要な位置を占めなくちゃいけないと。つまり個人ではなくて、公共の場(公共というのが念頭に置いているのは国家が主体だと思うのですけれども)、公共という名の国家を優先させる思想というのが強調されていました。(3)、「何を守らなくちゃいけないのか」と自ら問いかけてこう言っています。結局、占領政策を優先した結果置き去りにされた歴史、伝統文化に根ざした我が国固有の価値を守り、日本人のアイデンティティを新憲法の中に見いだすものでなければならない。我が国固有の価値を守るのが憲法であると。本来固有の価値なるのが何なのか何かわかりづらいし、人によって様々ですけれども、それを憲法に明記することで、国民に押しつける。そういうものとして憲法をとらえているというのが去年の6月の論点整理に明確に表れていました。

その中に続けて自民党の憲法観を明確に表している文章があります。これまではともすると憲法とは国家権力を制限するために、国民が突きつけた規範であるということのみを強調する論調が目立ってきたように思われるけど、これからは国民の利益を守り増進させるために、公私の役割の分担を決め、国家と国民とが共同しながら共生社会をつくることを定めたルール、その側面をアピールするのが大事だと言っています。つまり、本来それが憲法であるというのが常識というか、少なくとも西側諸国の近代憲法の原則ですけれども、それが特異な論調というふうにあえていった上で、「そうではない。国家と国民が協力し合うのが憲法だ」と、憲法の性格をここで変えようとしているのが明らかです。こういう憲法観にたって今回の新憲法起草委員会の要綱というのもできている。

たとえば、今年の2月の衆院の憲法調査会の議論だったのですけれども、自民党に永岡洋治さんという政治家がいて、彼が次のような発言をしていました。「近代立憲主義憲法を一歩踏み出し憲法を再構築したい。国家と国民の二項対立関係を克服し、新しい時代の権利関係、人権関係をかかげ、果敢な試みを行う時期が来たと私は確信する」と。つまり国家と国民が協力し合って作るのが憲法。それは権力を制限するのが憲法だという考えは古いんだと言うわけです。ところが「新しい時代だから、新しい憲法観があるんだよ」と言いながら、永岡さんは続けて、そこから国民の議論を書き込むだとか、家族の尊重を憲法に書き込むんだとか、ということ言います。 一見新しい憲法観を言いながら、言っていることは従来半世紀家族の尊重だとか、権利ばかりで義務が少ない、義務を増やせという自民党の主張と同じで、新しいどころか、従来の主張を繰り返している。

永岡さんもそうですけれども、政治家は、何か近代立憲主義から一歩踏み出すとか、果敢な試みを行うとか、とにかく昂揚しているというか、陶酔しているとか、言葉に酔っていることをしきりに言うのです。

7月15日に札幌で自民党の起草委員会の人たちがタウンミーティングをやりました。記念講演で中曽根康弘さんが最初のうちは普通に話していたのですが、話しているうちに気分が高揚してきて、「憲法改正をすれば民族の精神が高揚する」と非常に興奮されていたのがとても印象に残っています。そのへんは永岡さんの発想も非常に似ているんじゃないかと思います。中曽根さんは9条2項を変えるとして、これまで日陰の存在だったのが、これでようやく日向になれる、みたいなことを言っていました。つまりこれでは海外に自衛隊は出せません。その中で、今イラクに自衛隊が行っていると、小泉君はよくやっていて、よくやっているけれども、さらにもっと進めて9条2項を変えれば、ようやく日向の存在になれると、そういうことを言っています。中曽根さんは演説の最後を「新しい運命に向かって、新しい世界に前進するんだ」とということで、まさに「憲法を変えることは文明を変えることだ」みたいなことで締めていました。これは永岡さんだけでなく憲法を変えたいという自民党の政治家に相通じる発想じゃないかなと思います。

【特定価値の国民への押しつけ】

それで、前文に我が国固有の歴史とか、文化・伝統とかを明記すべきだという意見がでてきます。この要綱を見ますと、その中に中曽根案だと思うのですけれども、高い独自の文化を日本が形成してきたのは、その上乗せをもって国の繁栄を図ってきたとか、天皇とともに歴史をつないできたとか、いろいろなことを盛り込むと言っていますし、衆院憲法調査会の最終報告書でもそういう「我が国固有の歴史や文化・伝統を明記すべきだ」というのが多数意見だというのが載っている。

そもそも歴史とか文化とか伝統とかいっても、一様にこれが正しい歴史だとか、間違っているとか、これが固有の文化だとか、伝統だとか、あれは間違っている文化だとか、あれは間違った伝統だとか、そんな評価がそもそも可能かどうか、たぶん難しいと思うのですけれども、それを憲法に書くというのは、いったいどういう精神構造をしているかなと思うのです。

去年の4月に1週間ほど、ドイツの憲法裁判所の取材に行ったことがあるのですけれども、そのときにドイツの連邦裁判所の元裁判官の憲法学者にインタビューをする機会があったわけです。彼が言ってたのは日本の改憲論議の様子を聞いていて、どうも日本の改憲論議は、どうもワイマール共和国の頃の我が国に似ていると。つまり当時のワイマール共和国というのは、世界でもすぐれた良い憲法だというか、社会権の規定をくみ込んだり、先進的な憲法だと言われたわけですけれども、立派な憲法を持ちながらドイツの人たちは、どうも世の中がうまくいかないのは、憲法のせいだという議論をして、ナチスの台頭を生んでいった。そういうふうに似ているとドイツの裁判官の方はおっしゃっていたのです。日本の場合も、世の中が悪いのは全て憲法のせいだ。憲法を変えればなにかバラ色の未来が待っているんだみたいな、そういう風潮・論調が政治家だけでなく、テレビ等のメディアを通じて広がっていく危うい状況じゃないかと思うのです。

そういうナショナリズムの問題というのが改憲と結びついて、この国の歴史を危うくしているんじゃないかなという印象を受けます。

(2)絞られてきた焦点

【9条2項改正が明確に】

この要綱は、かなりコンパクトになり、スリムになるということによって、裏を返せば、誰の目にも9条が焦点になったということが明らかになったと思います。これは、先ほどお話しした中曽根さんがタウンミーティングで言ったことですけれども、「9条1項を変える必要はない、これは不戦条約と同じ考えだ。それで2項で自衛軍を明確化する」と言っています。たとえばそのころ4月8日の読売新聞の中でもこれは桝添要一さん(起草委員会の事務局次長をやっています)が、インタビューに答えて言っているわけですけれども、端的に「要綱のポイントは」と記者に聞かれて、彼は「最大のポイントは9条を改正して軍隊を持つということ打ち出したことだ」と言っています。従来は集団的自衛権が認められるか認められないかという議論をしていたわけですけれども、それで結局、軍隊・自衛軍を持てば、そういう議論は必要ないと彼は言っています。

同じ4月8日の日経新聞には自民党の憲法起草委員会の事務総長の与謝野馨さんのインタビューが出ているわけですけれども、与謝野さんも「ポイントは何ですか」と聞かれて、「焦点は9条だ」ということを言ってて、要するに1項は不戦条約の思想の流れを受け継いだ条項として、舛添さんと同じことを言っているわけです。それで2項で集団的自衛権を担保する実力組織を持つことは規定されると言っています。結局、一言でいうと、9条を変えて自衛軍を持つことが最大の問題であることが浮上したということだ思います。自衛軍を持てば集団自衛権の行使をめぐる議論も、もう変えないで行使が認められる、認められないにかかわらずに一言ですむということだと思います。

憲法の条文と自衛隊の存在にずれがあると、9条を変えて自衛隊を認めるのは良いんじゃないのと思っている若い人もいるんじゃないかなと思います。こういう人たちに向かって何を言っていけばいいのかなというときに、最近考えているのは、もともと憲法とは何かといったときに、憲法はやはり権力を縛る規範であると、そうすると憲法9条というのは、大きく権力を縛る規範だと考えれば、それは軍隊を勝手に政治家が動かせないようにする規範として、9条が役割を果たしているんだよといっていかなくちゃいけないということだ。それはたとえばどんな場面で表れるかといえば、イラク派兵とか、PKOの参加を巡る国会でいろんな議論が行われてきて、自衛隊を海外を送るとき、どの範囲まで参加できるのか、PKOはなぜだめなのか、武器の行使はどこまで許されるのか、それをめぐって様々な議論があり、いろんな摩擦があり、国民の中に反対意見があったり、それからそれがいろんな批判があって、国会の論議の中でも問題点が洗い出され、そういう経緯があって、自衛隊を動かすに当たっていろんな摩擦が起こる。その摩擦熱こそが9条の一つの効用じゃないかなというふうに思うし、そのあたりを強調していかなくてはいけないんじゃないかなと思います。

いま自衛隊を認めればいいじゃないか、大して変わらないじゃないかという人に対して、認めた場合どうなるのか、集団的自衛権が行使されたときどうなるのか、結局最近のイラク派兵をとってもそうですけれども、これはもし普通の軍隊でだったら、まさにアメリカがイラクに爆撃したときにも、ひょっとしたらそこに一緒に行って、罪のないイラクの人の頭の上にどんどん爆弾を振り落とす結果になりかねないし、アメリカが日本と全然違うところで戦争をやったときに、集団的自衛権だと言って、のこのこついて行かなくちゃいけない。集団的自衛権になればアメリカと一緒に、ずっと否応なくともに軍事同盟で一緒にやらなくちゃいけない。その歯止めとして、9条ががっちり歯止めの役割を果たしているんだということを言っていかなくちゃいけないかなと思います。これまで過去にベトナム戦争にも参加していませんし、湾岸戦争にも行っていませんし、まだ日本の軍隊が他国で人を殺したこともないし、それは世界に誇っても良いことでもあるし、それもまた9条の持つ効用じゃないかなと思います。

イラクの自衛隊の派兵に反対するビラを自衛隊の官舎にまいた人たちが逮捕されて、75日間も拘留された問題ですけれども、まさに時代はそういうところまできています。一方で逆に考えると、ひょっとすると9条があるからこの程度ですんだかもしれないし、かつ1審判決で無罪になりましたけれども、逆にもし9条がなかったらどうなっていたかと考えると、ほとんど反対運動が一番大事にそれに勝ち得ないという見方もひょっとしてできるんじゃないかなと、かなりあれは問題は大きいですけれども、ひょっとしてそれが無罪になったり、国民の批判を浴びる中で逆にさらされることが、9条があってこそだと思います。ですから9条というのは表現の自由、批判の自由という一説に結びついていく、そういうことをいろいろ迷っている人にアピールしなくちゃいけないとここのところ考えています。

【首相の靖国神社参拝の正当化】

「国民の権利および義務」の項は1・2・3とあって、信教の自由についてというところで、その(2)として「政教分離原則は維持すべきだけれども、一定の宗教的活動に国や地方自治体が参加することは、社会的儀礼や習俗的・文化的行事の範囲内であれば、許容されるものとする」という。これは結論を先に言うと、靖国神社参拝を正当化するためにこの規定を入れたということです。たとえば自民党の憲法調査会の保岡会長が今年2月の衆院調査会で明確に述べているのですけれども、彼は、「私は小泉総理が靖国神社の英霊に対して哀悼の意を表されたり、二度と戦争をしない決意を日本のリーダーとして知らせる。これはどの国でも行われる当然のことだと思います。これは靖国神社に行くと言うことにいろんな議論があるわけですけれども、私はその辺は総理が行うと国家のトップが行う、そういう行為について、違憲だとか合憲だとか、解釈が分かれるような憲法であってはならない。そういった意味で政教分離についてもう少し明確にしておくべきだ」、そういうふうに保岡さんは言っています。政教分離の規定が厳しいので、保岡さんあたりが地裁などで違憲判決が出たというと、「この規定を何とかしないといけない」と繰り返し繰り返し言っています。要するに社会的.習俗的、文化的行事の範囲内であれば、ということで、この中に靖国参拝を入れ込もうとしていることがわかる。

「国防の責務」だとか、いろんな責務が落とされたり、新しい人権として「環境権」「知る権利」「プライバシー権」などが一緒に落とされたりしながら、この政教分離原則をゆるめようという規定が入っているということで、ここはかなり本気というか、何とか靖国参拝を正当化したいという保守の政治家の理想をよく表れている部分だと思います。

ですからそもそも政教分離規定そのものがかつて日本が国家神道と軍国主義が結びついて、その超国家主義がこの社会を覆ったと。それでいろんなひどい目にあった。その反省にたって、政教分離規定が生まれたにもかかわらず、そこを変えようというところに日本の政治家がいかに過去と向き合っていないか、あるいは歴史と向き合っていないか、歴史を忘却しているのかということを象徴する問題じゃないかと思っています。そこのところが政教分離規定の所に表れているのかなと思います。

【憲法改正のハードルを低く~政治万能主義】

「改正および最高法規」という最後の部分があって、この(1)「国会の発議」のところに、国会での発議の用件について「各議員の総議員の過半数の賛成」に緩和するというふうに書かれています。今の改正定数は3分の2です。それを2分の1に変えようということです。実はものすごく危険なことで、いったんハードルを2分の1にしてしまうと、結局自民党だけで何でもやりたいことをやれるということです。たとえば、とりあえず9条については、国民の中にいろいろ議論があるので止めておこうということで全部やめといて、とりあえず改正条項の改正だけやります。それだけ最初にやります。そうすると別に良いんじゃないかということで憲法が変わると、次にそれが「軍隊をつくります」「非常事態もおきます」というような提案は自民党の過半数だけでできるようなる。このところが大変危険な提案で、要するに憲法の性格が簡単に変わってしまう。自民党がいっているように、権力を制限するんじゃなくて、まさに国民を縛るための道具として、憲法が機能するというか、そういうものになってしまう。きわめて大変な問題じゃないかと思っています。

ここで国民投票法案について触れておきたいと思います。まだ与野党の協議が始まっていないですけれども、国民投票について与党の案では、国会が発議してから投票までの期間が数十日間あるのですけれども、その数十日ある中でいろんな反対運動も含め、賛成運動もそうですけれども、ここが良いとか悪いとか、そういう運動をすると与党案は規定して、それに対してたとえば新聞が資料を使用して国民投票に影響を与える目的で論評したりすることはいけないという規定があったりして、拡大解釈によっては社説とか、この法案はけしからんとかどうだとかということすら書かせない内容になっています。あと虚偽報道の禁止というのがある。虚偽報道というとたとえば9条改正が自衛隊を軍隊にするとどういうことになるかという報道が、徴兵制につながるのではないか、徴兵制を求めているんじゃないか、と書いたとすれば、そういう言論すらひょっとすると「それは嘘じゃないか。誰もそんなこと考えていないよ」ということでそういうのも取り締まりの対象になりかねない。そうすると批判しにくくなる。そういう危険なことを今、与党は考えていて、つまりそこでメディア規制をかける。メディア規制をかけた上で、それで改正条項をまた変えてしまうということです。そうすると憲法改正を勝手にやられたい放題、やりたい放題。政治家のやりたい放題になりかねないという危険をはらんでいると思います。

実は舛添要一さんが読売新聞のインタビューに答えて、9条、96条が重なっているという見出しだったですけれども、そこを打ち出しているわけです。つまり伝統的に9条だったわけですけれども、そのうちに96条を出してきたわけです。今9条と靖国参拝と96条の記事を書いているわけです。このへんについてはかなり警戒しておいた方が良いのではないかなと思います。

(3)陰を潜めたかにみえる精神的自由の制約

【結社の自由、表現の自由への制約が消える】

これは4月の段階だと、たとえば青少年の健全育成に悪影響のある有害情報だとか図書・出版が販売は制限されうるということを憲法に追加しようとか、あるいは国家や社会秩序を阻害する目的でつくられる結社を制限される。破防法を憲法に昇格させようという規定があったのですけれども、その記述が消えています。これまでいろんな批判があって消えているわけですけれども、その背景には、メディアを何とかしたいというのがあるかなと思います。

いろんな精神的自由に制限を加えようというのは、たとえば「日の丸・君が代」の問題もそうですし、先ほどもお話ししたビラまきをしただけで逮捕するという問題もそうですし、あるいは教室で「国を愛する心を」社会科の通知票の中で評価する対象にするとか、そういういろんな一人一人の心の自由みたいなものを縛ろうというような動きとやはり連携しているのかなと思います。いったん消えていますけれども、これもいつまた出てくるのかわからないと思います。

【家庭を守る責務の留保】

「家庭を守る責務」というのは、草案の注のところに「家庭等を保護する債務など追加すべき債務」については議論すべき項としているわけですけれども、これもいつ復活するかわからないと思います。家庭のところは自民党は半世紀言い続けてきたところで、たとえば半世紀前の1954年の当時保守合同になる前の自由党憲法改正案でも「旧来の封建的家族制度の復活は否定するが夫婦親子を中心とする血族的共同体を保護尊重し親の子に対する扶養および教育の義務、子の親に対する孝養の義務を規定すること」と言っていました。いろんなことが50年前の、その流れをそのまま延々と組んでいると思います。

それと24条の問題と9条というのはセットになっていると思います。中里見博さんという福島大の先生が「憲法24条+9条」というブックレットを出していまして、「24条に手をかけたいという発想が9条とセットだ」とおっしゃっています。憲法9条というのは、国から戦争と軍隊を奪った、ということです。憲法24条はというと、男から男らしさ、女から女らしさを失わせたというのが保守の人たちはそういうふうに思いたい。結局24条の男女平等家族のもとでは、国を守るために立ちあがる男、あるいはそうした男を支える女も育たない。そこでかなり焦っているというのがこの先生の分析です。

しきりに自民党は、「公共の再構築」ということをいっています。その公共の中身は何かというと国のために戦う男性、それを支える家庭的な女性という、いわばその復古主義的な支えが公共というふうに分析しているのですけれども、そう見るのが妥当じゃないかなという気がします。この家庭を保護する責務というのは、論点整理の段階で男女の見直しと言っているのが、ものすごい批判を浴びて、それも引っ込めています。

後は、今回環境権とかは留保付きになっている。プライバシーや知る権利についてもそうですけれども、これまで自民党の人が新しい時代に入ったと。環境権とか知る権利とか新しい人権を明記しなくちゃいけないとしきりに強調していたのですけれども、そのままばっさり落とせるというのは、そっちの支障というのは真剣に考えていなかったのではないか。やっぱり9条が狙いだったのではないかというのが、そのことで表れているのかなというふうに思います。

(4)護憲的改憲論のまやかし

【半世紀前も「護憲的改憲」だった】

半世紀前、自民党の1950年代の憲法論では日本国憲法の「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を評価している。その上で新しい時代にあった前向きの憲法を作るんだということを昔から言っているわけです。

最近、護憲的改憲という「私、ハト派だけど、ちょっと9条をいじらせてください」みたいなソフト路線を言う人がいますが、これは昔からいっこうに変わっていないということだと思います。一般論では自民党の方々は今の日本国憲法の三原則、平和主義についてもこれを守っていくのだと言っているけれども、具体的な例になりますと中曽根さんみたいに我が国固有の歴史・文化・伝統だとか、愛国心を芽生えるようにしたいとか、こんなことを言ったり、自衛軍を保持すると、はっきりさせるんだということを言っているわけですから、全く実は、なにも半世紀何も変わっていないんじゃないかなと思います。

【護憲的改憲の非現実主義】

憲法と自衛隊の規定にずれがあると、ずれがあってずっと解釈改憲によってなし崩しにされてきた。むしろきちっと変えてそのことで歯止めをかけるんだという議論が学者の中にもあります。今の現実と憲法のずれを放置したままだと、ますます国民の間に憲法に対するシニシズムが広がっていって、憲法が尊敬されなくなると言うけれども、まず大前提として国民の間にシニシズムが広がっているというのはあまり聞いたことがない。この前提がおかしいと思いますけれども、それを抜きにしてもこれまで解釈改憲を許してきた人たちが、新しく憲法を書き換えて、歯止めにすると言うことで、歯止めにできる力はあるのかというとあなたちは何をしてきたんだということになって、新たに歯止めを作るという理論というのは、実は非現実的というか、この半世紀の解釈改憲の流れをきちんと把握していない理論だと思います。楽観主義に解釈してもおかしい。実際は非現実主義じゃないかなと思います。

あとよく市民側にたった人から聞かれる気になる理論があるのですけれども、自分たちの手で憲法をもう一度つくって、そのもとで国民主権を実現するのだ、というようなことを言う人がいます。憲法の選び直しとか、要するに憲法の字句は全く同じでも、もう一回国民投票をかけることで、そのことで真に憲法を国民に選ばせるんだというような理論があるんですが、この冷静に考えると、その今投票に行った人はスカッとするかもしれませんけれども、それはそのあと生まれた人とか、まだ小学生とかという人が成人になったとき、「自分たちが投票したものではない。自分たちにも投票させろ」と、しょっちゅう憲法改正していないと、国民主権が根付かないという馬鹿げた議論なんですけれども、それを大真面目にやる。

その基本的に憲法を変えてこなかったのは、改憲させてこなかったのは、これは自民党が憲法改正するために、自主憲法を制定するために生まれた政党がずっと戦後、与党であり続けたにもかかわらず変えられなかった。国民は常に変えないという選択を選び取ってきた。ということだと思うのですけれども。そういう議論にならないとというか、そのへんは気分的に善意でありながら、おかしな理論を背に憲法を変えることで国民主権が、というようなおかしな理論がやや広がっているような気がしたのですけれども、そのあとについては馬鹿げている、おかしいと言い続けなきゃいけないかなと思っています。

(5)メディアについて

最後にメディアの問題について言っておこうかなと思います。
自分もマスメディアの中にいるのですけれども、マスメディアがあまりにもおかしな憲法観をばらまき続けている。

ちょうど去年の5月3日の社説ですけれど、ちょうど憲法改正2004年試案というのを読売が出したのですけれども、その中で読売はこんなことを言っていました。社説の中で「日本経済は本格的な回復基調にのっていない。安定した将来像も見えない。治安の悪化など諸犯罪も増している。憲法は国家像を体現する。不透明な変化の時代だからこそ、国民の指針となる新たな憲法の制定をしておかなければならない」ということを言っているわけですけれども、憲法を変えたら、本当に治安が上向く、治安が良くなったりすると本気に考えているのか。こういうことを堂々と社説に掲げている。要するに世直しをするのは政治家が地道に世直しをしてもらえばいいわけで、そんな憲法をいじることではなくてやればいいのに、こういう発想でというのは憲法観がおかしい。あるいは憲法に対する過剰な期待をしている。結局まさに永田町の発想そのものだなと思います。かつ先ほど言った憲法尊重擁護義務を国民に課すとか、要するに国民を縛ろうとするわけです。読売新聞は。たぶんそのときのまなざしというのは、政治家のまなざし、権力者のまなざしと同じで、市民側の視点ではなくなっているというそこが問題だと思います。

4月21日に「もう『論憲』の段階は過ぎた」という社説があって、その中で読売新聞は、権力を縛ろうとしているのは憲法だ、政治にかけられたたがだという論調の「たが」にものすごく反応して、そんなことを言ったら政治は何もできないじゃないかと、政治の責任を放棄するのかとものすごく過剰反応していたのです。私はその社説を見て感じたのは、まさに読売新聞も権力者でそれに対して新憲法は自分たちの鎖になっているんだ。その鎖がいらいらするとその社説に出ていました。

ただそうやって大きい物語を掲げる読売新聞は自衛隊のビラのことをほとんど書いていませんし、あるいは石原都政下の「日の丸・君が代」の強制の実態についてもほとんど触れられていない。つまり憲法問題が起きているにもかかわらず書いていない。もちろん朝日新聞も不十分ですけれども、読売新聞は無視している。目の前で起きている憲法問題について、まさに人々の人権が侵害されていることについて無視して、大きな問題だけを書き続けているというのは問題だと思います。

実際に憲法を論じるときに、憲法は大きな話しということでなく、今、目の前にしている自由や権利というのは、何も最初から与えられたものではないし、たとえば教科書検定不十分ながら、昔ほどひどくはなくなってきた(今もひどいですけれども)それでもかなり変わってきたというのは、家永三郎さんの闘いがあったからだろうし、一票の格差のまだまだ変わらないことが多いですけれども、それを実践してきたのは60年代からの定数訴訟をやっていく中で少しずつ変わってきた。最初、最高裁は箸にも棒にもかけなかったのが、それが少しずつ一票の格差の問題というのを市民側から投げかけてきて、それが変わってきた。たとえば「知る権利」にしても、「プライバシーの権利」にしてもそうですけれども、ほとんど憲法に書かれていないですけれど、そこは権力と闘って、裁判で勝ち取って、それが徐々に広く権利として育っていく、権利のために闘いによって初めて憲法が根付いていくというようなことだと思います。それはけっして憲法の字面をいじるということではない。その当たり前のことをメディアが伝えていないというところに問題があるのではないかなと思います。

これは自分に対する反省ではあるのですけれども、こういう時代だからこそ、本当はメディアに対して相当大きな冷静なまっとうな議論を伝えていくのが我々の責任であって、けっして改憲の御輿を担ぐのが義務じゃないなと思います。ですから日本のメディアと政治の状況というのは、厳しいですけれども、そういう時に、こういう記事はおかしいとか、こういうのは良いとか、そこは市民の方から批判を寄せてもらったりしながら、やっていけたらなと思っています。

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欧米列強並みに「戦争のできる国」をめざす自民党改憲草案

高田 健

【まえがき】

8月1日、自民党は初めて条文の形での改憲草案「新憲法第一次案」を発表した。

筆者は自民党の改憲案については「たたき台」や「要綱素案」などの段階からくり返し批判してきたので、今回は要点の批判にとどめたい。

自民党による今回の改憲案の特徴をいくつかに絞って指摘すれば、第1に憲法第9条の全面的な改悪の方向を示したものであり、第2に「国民の権利」等に関する憲法の意味・意義を転倒させ、立憲主義原理を否定しようとするものであり、第3に第96条の憲法改正条項を大きく緩和させ、自民党がめざす今後の国作りのために憲法改悪をいっそう容易にしようとするものである。

【9条の全面的な改悪・否定】

第1に指摘した憲法9条の改悪は、今回の新憲法第一次案の最も明確な特徴であり、そのことによって今日の自民党の改憲の究極の狙いがここにあることをはっきりと示したものとなった。

その内容としては、(1)9条第2項をまったく否定し、その「戦力不保持」と「交戦権の否認」原則を削除し、自衛軍の保持を明記したこと。この自衛軍の活動目的を国の防衛=国家防衛戦争、国際協調のもとでの国際社会の平和・安全の確保=海外での軍事活動、国内の公共の秩序維持=治安出動の3点をあげた。(2)第1項についても、従来、自民党が主張してきた「第1項は維持する」との説明を覆し、戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は「永久にこれを放棄する」との条項を「永久に行わないこととする」と言い換えて「放棄」を削除した。そしてここに「国際社会の平和及び安全の確保」のために「主体的かつ積極的に寄与する」との宣言を挿入した。(3)米国や財界などが一貫して要求してきた「集団的自衛権の行使」の問題は、自衛軍の保持をうたったことで「自衛には個別も集団も含まれる。その議論は終わった」(自民党新憲法起草委員会舛添要一事務局次長)とした。(4)そして第2章の名称の「戦争の放棄」を「安全保障」に書き換え変質させようとしている。

自民党の念願であった自衛「軍」の保持を明記することで、憲法違反の自衛隊を不当な解釈改憲によって作りだし、強大化させてきたという違憲状態の解消を実現しようとしている。憲法で軍の存在を合憲化すれば、それが「自衛」のため、国、国家・国民の「防衛」のためだと説明されようとも、これは疑いなく現在の9条の戦力不保持の理念の完全な否定にほかならない。

米国によるイラクへの先制攻撃が「防衛戦争」と称されているように、いうまでもなく現代における全ての侵略戦争は国家・国民のための防衛戦争として位置づけられ、遂行されているのである。自民党はこれを可能にする国を実現したいのであり、自衛軍の活動に「国際社会の平和・安全の確保」を明記しているのはまさにこのためである。さらに自衛軍の活動目的に「国内の公共の秩序維持」をあげているのは、内乱鎮圧はもとより、反政府活動一般に敵対する条項でもあり、「公共の秩序」の名の下に自衛隊を市民に銃を向けさせるための危険な規定である。

今日、各種の世論調査を見てもわかるように、平和憲法はかなりの程度、世論に定着し、第9条の維持を望む声は大きい。この間、自民党はこの世論を恐れ、姑息にも9条2項は変えるが「1項はそのままでよい」などと言ってきた。これは国際的にみても1928八年のパリ不戦条約を起源にして、かなりの国々がこの条項と同様の文言は取り入れている。今回の改憲草案でも「平和主義の理念を崇高なものと認め…この理念を将来にわたり堅持する」との文言を入れ、この考え方を一応、踏襲した。もとより、パリ不戦条約のもとでも自衛戦争は放棄されなかっただけでなく、自衛戦争の名による侵略戦争も繰り返されてきた。

しかし、やはりわが国の改憲派にとっては「戦争の放棄」という表現は我慢がならないのである。前述したように第9条1項に挿入された「国際社会の平和及び安全の確保」のために「主体的かつ積極的に寄与する」との宣言と併せ読めば、海外での武力行使を積極的に主張するものとなっており、極めて危険な内容に変質させられたものであることは明白だろう。現行憲法の第9条が1項と2項を一体不可分のものとして、戦争放棄を規定したことにこそ、第九条の今日的な先進性がある。  

集団的自衛権の問題の自民党改憲草案の取り扱いは舛添の説明が全てを表現している。同党内にいくらかの不満は残っていることであろうが、大勢はこのやり方で決着である。海外での武力行使も含めて今後この具体化は「安全保障基本法」「国際協力基本法」「自衛軍法」(現行は自衛隊法)などで具体化のための諸条件を定めて行けばよいという考え方である。これらによって曲がりなりにも憲法の制約を受けてきた自衛隊の活動は、周辺事態はもとより、グローバルな規模において米軍との一体化した戦争遂行が合憲化され、限りない戦争の拡大に道が開かれることになる。たとえば今日のイラクにおいては英軍が果たしている役割と同等の軍事活動が展開されることになる。

こうして現行憲法の最大の特徴であり、現代世界においても先進的であり、輝きをもった憲法九条は無惨に改変され、否定されてしまうことになる。

【立憲主義の否定と国民の義務】

草案は「第3章 国民の権利及び義務」の項の現行12条に対応させて「国民の責務」という項を設置した。そして現行12条が「又、国民はこれを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」としているところを、「国民はこれを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」と書き換えた。現行の「公共の福祉」という用語は、いずれも国家主義的用語に連なる「公益及び公の秩序」に書き改められた。これが前述した9条改憲の思想と結びつけられる時、基本的人権は破壊に導かれるに違いない。8月2日の読売新聞社説はこれを積極的に評価して「自己中心の個人主義ではなく、本来、憲法が想定していた『責任ある個人主義』に基づいて、社会の存立の基盤を確かなものとする意図が読み取れる」などと述べた。

そしてさらにこれに関連して「内閣」の項の73条では「法律の委任がある場合…義務を課し、又は権利を制限する規定」を設けることができるとした。こうした「義務」規定の強調などの改変は単なる用語の変更にとどまるものではなく、近代立憲主義にもとづく権力制限規範としての憲法、「権力を制限する憲法」という考え方から、「国民が守るべき憲法」「国民の責務を規定する憲法」という反動的な憲法思想への転換であり、自民党改憲派の長年の願望の表現である。自民党はこの憲法思想の転換のために、「いたずらに国家と国民を対立させることなく」などという俗論を振りまいて立憲主義に対する攻撃をしてきた。今回の改憲草案はこれを基本的には書き込んだ上で、9条改憲と直接につながる「国防の責務」や国家に奉仕する国づくりとしての「家庭保護の責務」等、新たな責務は先送りした。

しかしこれも自民党のなかでは根強い要求であり、今後再浮上する可能性がある。またまた信教の自由に関連して草案20条では「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教活動をしてはならない」などとして、「社会的儀礼の範囲」を除外した。このことによって首相の靖国神社参拝や、玉串料への公金支出等を合憲化し、「信教の自由」を制限しようとしている。

一方、この間とりざたされてきた「環境権」など「新しい人権」は今回の草案では触れられていないが、今後、改憲案の野党とのすりあわせの中で合意形成の隠し球として復活画企てられる可能性は濃厚である。

【改憲の要件の大幅な緩和】

第96条の憲法改正条項では、「この憲法の改正は…各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し」、国民投票の「過半数の賛成を必要とする」として、現行の「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」という規定を大幅に緩和した。「過半数の賛成」で発議できるということは、最高法規としての憲法が国会の大勢による合意ではなく、与党だけの賛成で発議できるということである。

自民党はこの条項を規定することで、今後の改憲に道を開こうとしている。「今回は、まず改正することに最大の意義がある」(8月2日「朝日新聞」桜井よしこ)というのである。与党・公明党や野党・民主党の合意が得られる情勢にないにもかかわらず、自民党がこの間、全面的な改憲案を提起しているのは、単に自民党の独自性を示そうとしているだけではない。自民党が描く当面の理想の国家像=憲法全容を示すことで、系統的にそれにむかってすすむ決意を示しているのである。この時、96条の大幅な緩和は極めて重大な意義を持ってくるのである。

【終わりに】

7月7日に出された自民党「新憲法要綱第一次素案」と比べると、今回の草案は中曽根康弘元首相が起草したという「前文」は外されている。このあまりに復古主義的前文をどのように取り扱うか、起草委員会での合意が成立しなかったことによる。しかし、この中曽根「前文」は、条文を完成し終えたら検討するという「前文」を含めて、今後とも自民党の改憲草案づくりに影響を与えていくことだろう。

また、この小論の前書きでも述べたように、指摘すべき問題点は他に少なくない。今後の議論のなかで批判が深められることを強く願うものである。

今回の自民党改憲草案を検討するにあたり、以下の点を自戒し、また注意を喚起しておかなくてはならないと考える。

それは自民党の改憲案が繰り返し装いを変えて発表され、またその前後に政財界の各方面から相次いで改憲案が出されてくるという情勢のなかで、私たち自身がこれらの改憲案に慣らされ、いささかでも怒りを失って来るようなことがあってはならないという点である。政権政党である自民党が現行憲法の核心というべき第9条の全面的な否定と、「自衛軍」の保持を公然と提起してきたこと自体が異常なことである。このことへの危機感と怒りが萎えて、あたかも当然視してしまうような錯覚に陥ってはならないし、この暴露の努力とこれを阻止するための準備と行動を絶対にゆるめてはならないと強く思う。

いまこの国は、今回自民党が提起した9条改憲の道を許し、戦争ができる国、戦争をする国への道を最後的に開け放ってしまうのかどうかの歴史的な岐路に立たされたのである。(2005年8月3日)

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講演会のスタッフをやって

中尾こずえ

こんな大規模な集会のスタッフを経験したのは初めてのことだ。

準備段階で、有明講演会の実行委員会と九条の会事務局はかなりきめ細かなプランを組んでいた。何しろ数百とか数千とかの集会とはケタが違う1万人集会なのだ。

私が担当したのは「特別案内係」という部署。何が「特別」かというと、一般の案内係ではなく(そういう担当の方もいたが)、歩行困難なお年寄りとか、障害のある方、車いすの方たちの入場から退場までの誘導と安全を見守るというものなのだ。

このスタッフは会場のアリーナ席部分と1階席部分に計11人配置された。午前10時からの打ち合わせ会議の後、まず段差のない1階席の3カ所に「特別席」を設置し、準備した。場外から場内、そして特別席へと、案内係りが持ち場ごとにリレー送りで連携ができたのはすごい。実際のところ、かなりスムーズに対応できたように思う。集会の成功を願って準備してきた多くの人々の幾日もの努力と苦労がこういった形で実を結んだのだと思う。

私はこの特別席コーナーに、車いすの参加者の方々と一緒にベビーカーを押して川崎市から参加したという若いファミリーを案内した。ベビーカーの赤ちゃんの名は太一君、1歳になったばかりとのこと(聞く必要もないのだが、あまりにかわいいのでおしゃべりしてしまったのだ)。

「地元の商店街で9条の会のポスターに出会ったのが集会参加のきっかけになった」と若いお母さんが話してくれた。ポスターを見てから「私に何かできることはないのだろうか?」と考えていた矢先、朝刊の新聞広告で「9条の会・有明講演会」があるのを知って、夫と一緒に整理券を申し込んだのだそうだ。今回はこうした明らかに、いつもこのような集会に来いているるような人びとではないとおもわれる参加者たちが大勢いた。

気になってこのファミリーにときどき目をやったのだが、お母さんは講演内容を熱心にメモしている様子だった。

スタッフをやりながら、こんな光景をみて胸がジーンとしてしまった。改めて「9条」への確信と希望をもらった気がする。

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有明講演会に参加して

畠山 照子

イージス艦がインド洋に、重装備の軍隊がイラクにまで派遣されているという現状は、日本国憲法9条はコケにされ、集団的自衛権も実質的にホゴにされていると同じです。サマワの自衛隊員がもし一人でも爆死すれば、政府はここぞとばかりにナショナリズムを煽り立て、自衛という名の下に武力行使を行い、それを恒常化していくのではないか。自衛隊という軍隊は着々とその地歩を固め、国民はその存在と行為を次第しだいに容認させられていく・・・。9条の条文を残したまま軍事大国化するというブラックコミック状態も妄想と笑えない昨今の有りよう。

護憲運動はこのままでいいのか。現状維持ではなく実質的に9条を取り戻すには、従来と変わらぬ集会やデモや違憲訴訟で対抗していけるのか。今までとは違った画期的な護憲のあり方を編み出さないと飲み込まれてしまうのじゃないか、と気は焦るのだが一凡婦に妙案が浮かぶわけもなし。

大江健三郎さんはシュナイダーの詩を援用して10年後に賭け、井上ひさしさんは権力や世界経済を握る層に抵抗する層が生まれていることに期待を繋ぐ発言をしましたが、今回の参会者の殆どが中高年で、20代、30代の若い人は非常に少い。他の集会やデモでもこれは同じようです。私たちの思いを継いでくれる次の世代はどこにいるのかと不安になります。

鶴見俊輔さんは「国民投票を行い、9条撤廃数が多数ならその国民の実情を歴史にさらす勇気をもちたい」と言われたが、還暦を過ぎたばかりの私はまだそこまで達観できません。9条が廃棄され日本が交戦権を持つ国に変わったら、ヨノナカマックラダー、等など講演を聴きながらもマイナス思考の塊でありました。

でも、シュナイダーの「君の知らなかった方法」とは、あるいは、表面的には憲法に無関心の若い人たちが打ち出す思いもよらない方法なのかもしれない、なんせインターネットで世界が繋がれている時代なのだからナー、とIT世代のグローバルな発想に期待することに気持ちを切り替え、鶴見さん曰くの「モーロク」世代の末端を汚す一人としては、それしかなくても今まで通り、集会やデモや勉強会にせっせと参加しようと決意を新たにしたのでした。

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