私たちは58回目の憲法記念日を、改憲派によるかつてないほどの憲法とりわけ第9条への攻撃と、これに反撃する市民運動の全国的な高揚のはじまりという緊張した政治的雰囲気のなかで迎えることとなった。
5年余にわたる両院憲法調査会の「調査終了」と最終報告書の発表、自民党や財界などから相次いだ改憲試案作成の動き、政府による国連常任理事国入りの画策など米国に呼応する小泉琉グローバリズムの戦略の具体化、先制攻撃論と単独行動主義のブヅシュ政権のもとでの米軍の全世界的な規模でのトランスフォーメィションとそれによる日本の『不安定な弧」における出撃拠点化=事実上の日米安保の再々定義と新々ガイドライン化などの危険なうごきが進んでいる。そしてこれを敏感に察知した東アジア諸国とそこでの民衆の反日・抗日のうごき等々、日本国憲法の危機が具体的な国内外の緊張の高まりとして情勢に投影されている。
このような情勢のもとで、政権政党である自民党は「自民党らしい改憲案」として全面改憲案=新憲法案を出すうごきを示した。それは9条改憲を軸にこの党の地金の国家主義的傾向を顕著に表現している。それは9条に代表される戦争をしない国、戦後民主主義的な価値衝の全面的な否定と、戦争をする国、復古主義的な価値観の復活を示している。私たちはこの自民党の改憲案の方向が同党の当面ただちに達成するための目標ではないにしても、ここまで明確に反動的な綱領的立場をうちだしたことに警戒心を強めなくてはならない。自民党のメッキがはげたのではなく、自らはがして地金をだしたという状況であり、こうしたことが可能な杜会状況になったという問題こそ重要だ。
今日すでに死語であるかも知れないが、あえて「革命は反革命を呼ぶ」の警句になぞらえれば、こうした改憲の歴史反動は、それへの対抗カを引き出していることもまた真実であり、昨年からの9条改憲反対の声の高揚の開始(「はじまり」と自重して言うのだが)、この力強いうごきも見なけれぱならない。市民運動や労働運動の至るところで9条改憲反対のプラカードが立っようになった。私たちの市民連絡会が誕生した頃とくらべれぱこれらの運動の状況は様変わりだといってよいだろう。新生の事物である『九条の会」は1年にもならないのに全国千数百カ所で結成され、さらに広がっている。9MAPや9LOVEなどのあたらしい若者の運動も進んでいる。数年前から登場したイラク反戦の新しい高まりがこれと結びついている。講演会や学習会は多様に組織されている。この巨大なネットワークの形成こそが改憲派の策動への対決を可能にするだろう。
3日の各紙社説を見ると、従来、改憲の動きに比較的ブレーキをかけてきた「朝日」や「毎日」が政財界の改憲騒ぎに引きずられ妥協的になっている。「朝日」は「憲法を改めることで暮らしよい世の中になり、日本が国際的にも尊敬されるなら拒む理由はない」とか、「9条を変えるなら、それ(戦後の日本が作ってきた平和ブランド)を捨て去るのかどうかの議論が欠かせない」などと及び腰だし、「毎日」は「集団的自衛権をめぐる神学論争から抜け出し、正常に外交問題を論じるうえでも、政治のエネルギーをもっと常任理事国入りに傾けることは改憲より遙かに効率的で有効だ」等と、「改憲への3原則を確認する」というタイトルを付け、改憲の方向自体は容認する姿勢をとった。これに比して従来からの改憲派は、「読売(新憲法へと向かう歴史の流れ)」「産経(不磨の大典に風穴を)」「日経(成熟した民主国家にふさわしい憲法に)」とそれぞれ改憲の方向を明確にしたタイトルを付けた。
しかし、この中で注目に値すべきは「産経」で、改憲派もまた事態は容易ではないことを告白している。「産経」は憲法調査会報告で「論点は多岐にわたっているため、このままでは一致点を見出すことは至難の業だろう。時間だけを費やし、緒局は、あるべき国のかたちを欠いた奇妙な改憲案になりかねない」とし、「ここはまず、国民の平和と安全を守るための9条などの見直しと憲法改正要件の緩和という緊急かつ必要なものにしぼって、段階的な改憲を視野にいれるときではないか」としている。これは先の日本経団連の提言と全く同様な見解であるだけに、改憲派が最終的に提起する現実的な判断の落としどころとして警戒しなくてはならない。同じ日の「産経」の別の紙面で百地章(日大教授)は「憲法改正の当面の目標としては、第9条2項を改正し、軍隊の保持を明記することが考えられる。つまり、第9条第1項の『平和主義』は維持しつつ、2項だけを改正するというものであって、これなら先の両院憲法調査会報告書や自民・民主両党の改憲案から考えて、実現可能と思われるし、国民多数の支持も得られよう」と述べているのも注目しておこう。
一方、地方紙の社説には見るべきものがある。「東京」は「見過ごせぬ『戦後』否定」と題して、自民党改憲案はもとより民主党の議論にさえ立憲主義の否定、「戦後的価値観の否定」が随所にあり、明治期の森有礼・文部相と伊藤博文の議論のレベルにすら達していないと鋭く指摘する。「こう考えてくると、自民党が『憲法改正草案』ではなしに『新憲法草案』をつくろうとしていることの危険性を理解できるはずです」とまで指摘している。「さまざまな憲法論議を、明治憲法下の価値観と現行憲法下の価値観に照らして分析、評価しましょう。そうすることで、選択すべき道はおのずから明らかになるでしょう」と言っている。拍手を送りたい。「沖縄タイムス」は「平和主義こそ国の基礎だ」と題して、「改憲をめざす党も『国民主権』『基本的人権の尊重』『平和主義』という基本原則を堅持するという。ならば変える必要はないのではないか。原則をのこしながらも変えようとするのは、意図があるからだろう」「私たちは憲法の3つの原則と安保条約がぶつかる島から、この国の針路を見つめ続けてきたのである」「9条の理念は、世界的にきな臭さが漂う今だからこそ世界に向かって発信すべき意義を担う」と指摘する。大マスコミの腰のふらつきと比べると、これら地方紙の姿勢の毅然とした論調がよりいっそう浮き彫りになる。
58回目の憲法記念日に際して改めて思う。
9条改憲阻止はすでに理念や信条の表明の問題にとどまらない現実の課題になった。私たち市民連絡会はこの5年来、5・3憲法集会の共同行動の実現をはじめとして、改憲阻止をめざす道筋をくりかえし提起し、全国の仲間たちや、多くの友人の皆さんと共にその具体化を進めてきた。そしてこの9条改憲阻止の広範な共同行動を作り出す道は、意見の違いを暴力で解決するという立場を容認しない非暴力運動の原則が前提であるべきことも、非妥協的に訴えてきた。そして、その表現として、ある時は「9条改憲反対の、思想信条政治的立場の違いを超えた壮大なネットワークを」と主張し、あるいは「従来の同心円型ではない同円多心の共同行動を」と訴えてきた。決して容易ではなかったが、この路線をみんなが歩むことで、次第に道が造られ、広がってきた。「2005年5・3憲法集会」を成功裏に終えて、今、その確信を胸に秘めつつ全力をあげてさらにこの大道を邁進したいと思う。(事務局・高田健)
憲法調査会市民監視センター・専修大学社研の共催
4月23日午後、東京の専修大学で「第4回けんぽう市民フォーラム」が開催された。憲法調査会市民監視センターと同大杜研の共催によるもので研究者や市民が参加した。今回は焦点になっている『憲法改正国民投票法案』の問題点」がテーマで興味あるブォーラムになった。はじめに杜研から吉川純さん(専修大学)、監視センターから筑紫建彦さんが開催の趣旨を述べ挨拶とした。主報告は飯島滋明さん(工学院大学)で、この報告に奥田喜道さん(東京都立短期大学)と内藤光博さん(専修大学)がコメントして、さらに参加者からの準備された発言の後、意見交換をした。専門的な内容が多く含まれていたが、理解した範囲で言えば、その報告は次のようであった。
飯島滋明さんの報告の要旨。
国民投票法案は1953年に自治省が出して2日後に引っ込めたことがある。2004年の自民党案は、憲法調査会推進議連が2001年に作った案が下敷きになっている。目本の憲法が立憲主義でありながら、国会議員が発議権を持つということは矛盾がある。しかし各院の3分の2の賛成と、国民投票でカバーしているといえる。
2001年の案で国民投票法案の問題点をあげると、篤1は国民投票における「その遇半数」とは何かだ。「有権者数説」「投票者数説」「有効投票数説」がある。ジャコバン憲法の国民投票をみると、1793年には、700万人の有権者で棄権率が73,3%、賛成は26.48%、反対は0.18%だった。同じく1795年には棄権率が86.3%、賛成は13.06%、反対は0,59%だった。有権者の大多数が棄権している。投票率を一つの要件にすることも考えられる。一方では1933年に成立したナチスのジュゲ法の例は、国民を大動員し合法的な手法で戦争に肉向かった。
第2は、投票方法の問題で、「一事項一投票主義」であるべきだが、中曽根元首相は一括投票を言っているし、法案では明らかにしていない。さらに法案の反国民主権的性格が重大だ。法案では「国民投票運動禁止」「予想投票の禁止」「虚偽・歪曲報道の禁止」「新聞紙又は雑誌の不法利用等の制限」をあげ、大幅に主権者としての役割を制限している。また「表現の自由(憲法21条)に対する正当性のない制約がある。「公正確保」を理由として公務員の「国民投票運動」は事実上できなくなっている。国・地方公務員、特定独立行政法人・公団等の役員、学校長・教師は「地位利用」の禁止になっていることでもわかるように、多くの国民を国民投票運動」から排除している。「虚偽・歪曲の報道及び論評」として報遺についても公職選挙法よりも厳しく、法案は表現の自由が前提になっていない。このように正統性のない政治活動の自由の制限や言論統制の結果として、法案は国民主権がまったく不十分である。国会が発議してから「30日以後90日以内」または「国政選挙の日や国会が議決した日」に国民投票を行うとした期間の短さも国民主権を制約している。法案は政権担当者の出したものにお墨付きを与えるだけの役割しかもたない危険性がある。
奥田喜道さんは飯島さんの報告にコメントする形で、スイスの国民投票を紹介した。スイスでは憲法改正で国民投票が義務付けられ、過半数が必要なことなどは日本と同じだ。しかし異なる点は、発議権1発案権は国民とカントン(邦・州)にあること、憲法改正の承認は有権者の過半数とカントンの過半数の二重の多数が必要であること、例外を除いて憲法改正には限界がないこと、憲法改正以外にも法律改正や条約、国際安全保障条約への加盟などでも国民投票がある事などだ。国民投票の流れは、登録から18ヶ月かけて10万人以上の署名を集めるところから始まる。改正案と署名の審査をへて成立すると議会審議や国民投票運動など成立から5年で投票になる。投票に対する規制はほとんどなく、非常に自由な投票運動が行われる。投票には外国人も加われる。投票運動を積極的にした側が多数を獲得することが多い。投票率や定足数の規制はない。歪められることのない有権者の意思形成を保障しようということだ。スイスでは1999年に憲法を全面改正した。100年ぶりだったが、40年も論議してきた。
内藤光博さんはイタリアについて報告した。イタリアでは憲法改正の権限は議会にある。14回の改憲が行われたが、内容は国会の議席配分、大統領の権限、議員の特権の廃止など政治機構についてが主なものだ。ある条件で国民投票に付される場合があるが、有権者の50%以上が投票し、有効投票数の過半数を獲得しなければ成立しない。国民投票は1回しか行われたことがなく、地方自治への移行の問題だった。憲法改正の限界については「共和政体」の変更の禁止と、人権規定や民主主義そのものを否定することは禁止されている。
報告とコメントのあと質疑が行われたが、報告されただけでも各国の歴史や杜会・政治によって国民投票の違いが大きいことを考えさせられた。(土井とみえ)