憲法と一体の深い関連をもつ教育基本法の問題について話します。 この20年余りにわたって行われてきた教育改革、じつは改悪なんですが、その集大成としての教育基本法の改悪という段階にきています。
教育改革は、「ゆとり」と「個性化」という名のとても耳触りの良いことが掲げられていますが、しかし実際には教育現場を追い込んでいるものです。
「ゆとり」では、学校の完全5日制と学習内容の3割カットが実行されていますが、ゆとりは生まれていません。先生方の100人中100人が、まったくゆとりがなくなったと言っています。さまざまな生活指導とか心のケアとかの教育活動は減っていないし、逆に多様化していて、5日の間、走り回っている状況があります。それでも足りなくて土曜日曜もいろいろ仕事があります。
教科書は薄くなり、時間数は減っていて、時には1週間も間があいて、授業の前半は先週に習ったことを思い出させるのに時間が取られていて、ゆっくり教えることが出来なくなっている。そして、ついて行けない子どもが出てきてもどうにも出来ない。いま言われている「ゆとり」とは公教育予算のカット、教育の私事化、教育への社会の責任の放棄です。一方で私立の学校では教育時間は減っていない。教育費を負担できる子どもだけが教育を受けられるということです。
もう一つのスローガンの「個性化」ですが、これは現行の教育基本法で言われている個性とは全く違って、学校目標の個性化ということです。
また、新しい学力観では、子どもの意欲や態度を採点する、それも教科ごとに採点するということになっています。40人学級でこれまでの授業の他にそんなことがどうしてできるでしょうか。結局、手を挙げる回数程度で判断するしかなくなっています。そして、先生方は職員室でその結果をパソコンに打ち込む。他の先生と対話する時間だってなくなります。でも、それが教育委員会でいい先生だと評価されています。
このような風景は学校だけでなく日本のほとんどの職場でおこっていることだと思います。先生方も形式的なことばかりが優先されていて、教育基本法とか憲法とか、大きな問題には関心がもてなくなっていっています。教育現場では、心とか個性とかとても人間的な言葉を使いながら、逆に非人間的な状況がひろがっています。多忙で個性を許されない教育現場です。そして教育熱心な先生方であればあるほど悩んで学校現場を去っていってます。
教育基本法改悪の最大のポイントは、大競争時代の国家戦略として教育を位置づけることです。現行の教育基本法では個人の尊重、個人の尊厳など個人がポイントです。これに対して、国家戦略として教育を位置づける。その重点は2つです。ひとつは、グローバル化した経済競争に勝ち抜くための人材育成、もうひとつがグローバル化した市場秩序を維持するための人材育成です。新自由主義の競争原理と国家主義の導入で、「たくましい日本人」「郷土や国を愛する心」「伝統・文化の尊重」などがうたわれています。教育改革では、復古主義・戦前回帰の面だけではなく、新しい派兵国家を支える人材の育成が狙われています。今年3月に出た中央教育審議会の答申は愛国心と教育振興基本法の導入を言っています。理念法から行政施策法へ、教育内容に対する文部科学省の介入の変更であり、これが導入されると教育が根本的に変わってしまいます。
教育基本法の改悪を主張する人たちは、これからの日本では一部の勝ち組エリートつまり積極的に戦争命令を出す人と戦争に参加させられる多くのノンエリートとの社会的格差が拡大し、社会不安が広がる、だから人びとが反抗的になったり荒れないような対策が必要で、それが教育改革だと思っています。そのために道徳教材の「心のノート」などで、行政あげて子どもの心をコントロールしやすい方へ導くようにする。最近でた日の丸・君が代に関する東京都教育委員会通達などもその一環です。
憲法と教育基本法は条文がほとんど対応していますから、日本国憲法改悪と教育基本法改悪は表裏一体のものとして進められています。小泉首相は、自民党の結党50年の2005年11月までに党としての憲法改正案を策定すると言っています。教育基本法改悪は小泉改造内閣のこの数年に達成すべき課題となっています。
いま、戦争の出来る国家づくりの最後の課題として、根強い平和意識の払拭、軍事行動に対する肯定的な国民意識の育成、戦争を担う国民を育成していくことが、教育改革といわれているのです。教育基本法改悪がどうなっていくかは、この国が戦争の出来る国家になるかどうかの分かれ目になっています。