私と憲法32号掲載(11月)

ノーマ・フィールド(シカゴ大学教員) 法律を慈しむとは

憲法の抽象性と具体化への努力

日本国憲法についての集まりをもてる日本の人々をうらやましく思います。第二次世界大戦という大変な代償を払ってこういう集会が開かれるのではないかと思います。アメリカでは一般の市民が数百人も休日に集まって米国憲法を論じるということは考えられません。また加害大国であるアメリカでは――たとえばわたしのまわりには今の戦争を支持している人は誰もいませんが、こういう集会にいくということはほとんどありません。それだけ現状に対する意識と知識が希薄です。その意味で日本の人びとが日本国憲法を自らのものにした戦後の歴史の重さをあらためて感じています。その意識を世界に広めなければならない。地球の存続が危ぶまれる今、本当にそういうふうに決意をしなければならないと感じています。

戦後、よく憲法改悪、とくに9条に反対する人たちは、日本人が戦後の歴史の流れの中で平和ぼけをしてしまったというけれども、私はこのぼけは、世の中の危険に対するぼけでなくて、平和の大切さに対するぼけではないかと思います。これは微妙な違いでありますが、非常に大きな違いではないでしょうか。

平和がなくては全てが始まらないわけです。いま平和でなかったら、空爆の対象であったら、この会場に集まることはできないし、また家に帰って食事をしたり、テレビを見たりできない。また明日仕事に行くこともできないわけです。そういう意味で平和というもの、私たちの生活の全ての根拠である平和というものは、私たちの生活全てにとけ込んでいる根拠であるからこそ、見えにくくなっている。平和という抽象的な言葉で私たちはいいますけれども、その実態をとらえることの難しさ、平和しか知らない人たちに、その貴重さ、かけがえのない大切さを訴えることの難しさ、それは逆に平和があまりにも私たちの日常の根拠を支えているからこそではないでしょうか。そこに一つのチャレンジがあるわけです。

もう一度、何に対して平和ぼけしているのかというと、それは紛争を暴力で解決する手段、その危険に対するぼけではないでしょうか。9条が非現実的ではないか――武器、武装を放棄することの非現実性ということがいわれてきました。しかし考えてみると法律というものは、ほとんどの場合、現実を肯定しているものではありません。もちろん、法律の種類によりますが、法律を立法するときは、何かことを起こさせるために法律をつくるわけです。さらに法律は一人ひとりの個人よりも、ひとつひとつの課題よりも大きいものである。そういう意味では法律というものは、必ず抽象的なものである。抽象的である以上は、身近な現実とはすぐにはつながらないように私たちは経験するのではないでしょうか。

きょうのタイトルの法律を慈しむの「慈しむ」ですが、ふと浮かんで、やはり私にとっては課題であると思ったのは、法律というものの抜きがたい、抜いてもいけないような抽象性をどうやって身近なものにするのかということです。抽象的な法律を具体的な行動、生活環境、それから私たち一人ひとりの現状に訳していかなければならない。つまり抽象性を具体性に戻していく営みが必要である。ひとつは私たちが知っていること、知っている人に還元させていくこと。もうひとつ逆に想像力を発揮して、私たちの知らない人たち、知らないところ、知らない事件に身を置いてみる。そういう二つの行為が必要ではないかと思います。

私たち一人ひとりより大きな問題、一人ひとりが完全に含まれているけれども一人ひとりではとらえきれない問題を対象にするため、法律というのは必ず抽象的であるわけです。だけれども、私たちの身近な生活がそれによって規定されていく。先ほど申したように平和なしでは何一つ始まらない。その意味で法律に対する私たちの感性を、9条に対する私たちの感性を、どうやって育てていくかというのが大きな問題ではないでしょうか。

「9条=非現実」を考える

9条の非現実性がよくいわれますが、久しぶりに日本国憲法を読み返してみて、現実性をいうならそれこそ日本国憲法は非現実的な理念ばかりではないかと思います。たとえば第3章は、国民の権利及び義務などについて非常に理想的な理念を掲げているすばらしい章です。ここにはアメリカの憲法やその啓蒙思想を受けた法制度の中でいろいろ盛り込まれているような言葉が入っていますが、ご承知のようにアメリカの憲法にないような、たとえば性の、ジェンダーの平等のような要項がはいっています。

読んでいて非常に感動し、涙が出てくるような第3章だと思います。たとえば13条、「全て国民は個人として尊重される」。でもこれは現実であるべきであって、実際どの程度現実であるでしょうか。さらに第25条、「全て国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。文化的というのは非常にいろいろなものが入ってくる言葉です。抽象的であり、具体的に文化的生活というのは何か、やはりきちんと考えていかなければならないわけですが、健康を保障する、それだけでも大変なことではないでしょうか。唯一の超大国のアメリカでは大半の国民には健康は保障されていません。第二項では、「国は全ての生活部面について――全てのですよ――全ての生活部面について、社会福祉、社会保障、および公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」。こういう国の責務が第3章に明記されています。これは現実感において9条とどれほど違うでしょうか。

日本の福祉社会はアメリカと比べれば、比較にならないほど健全ですから、それほど身近には感じられないかもしれませんが、私のように大学教員で比較的優遇されている人間でも、このような体験をしました。夫が、最近急にめまいを起こして ER(緊急治療室)に行けといわれ、シカゴ大学病院のERで8時間過ごしたのですが、優遇され、保険を持っている我々でも、そういうところに行くしかない。5時間6時間待てば医者に診てもらえるが、ERがなぜ救急に対してそんな対処しかできないのか。若い独身女性に出会いました。彼女は多分流産を起こしているだろうと自分で考えていたのですが、5時間も待たされっぱなしでした。一般の定職に就いてない人間は保険に入っていないのですから救急室にいくしか、赤ん坊の風邪でも中耳炎でも手段がないわけです。その結果、本当に緊急の手当を受けなければならない人も一緒にならざるを得ないのです。憲法の25条も闘って確保していかなければならない、そういう情況だと思います。アメリカの福祉国家はますます縮小されています。イラクの戦場は大変な国民の税金を払って進行している。アメリカの福祉制度がどんどん縮小されているのは明らかです。イラクに兵を送るその期間が長引けば長引くほど、ますます公教育や、医療が犠牲にされていくのは明らかです。

もうひとつ、忘れていけないのは徴兵制度がなくなったアメリカの軍隊についてです。なぜ軍隊に入るか、圧倒的な理由は高等教育を受けたい、医療保障がほしい、そういう目的から社会の底辺の人たちが軍隊に入っています。これからイラクに送り込まれる自衛官の人たちも好んで行くとは思えません。好んで自衛隊に入隊したとも思えません。そういう意味で自衛官、自衛隊の人たちを皆さんが支えていかなければならない。国のやることを批判しながら支えていってほしいと思う。ちなみにイラク空爆が始まる前にニューヨークの下院議員であるダニエル議員が「徴兵制度なしでは黒人の負担が大きすぎる。平等をいくらかでも取り返すために徴兵制度を復帰しなければならない」といいました。これは皮肉な提案で、現実的、戦略的にダニエル議員がそういったと思います。徴兵制度を復活しなければ平等を回復できないという情況は本当に憂うべき情況ではないでしょうか。これが大国アメリカの実態です。

さて非現実的である法律、条項をどのように考えたらいいのでしょうか。宣言・理念というものを法律の威厳を持たせて提示しなければ、アメリカや日本でも、政府のやっていることの違法性、嘘の度合いを測る手段があまりないわけです。ですから非現実的なことが本当に非現実的であろうか、そのへんで私たち市民が尊重したい法律を本当に遵守して、注意深く読み、関心を持って守らなければ、たとえばブッシュが今の戦争を平和と民主主義のためだといったときに、嘘の度合いを測ることがなかなかできません。私たちとしては、平和も民主主義も理念としては決して反対できません。でも、内容を見ると、たとえば個人の尊重、文化的な生活、そういうことをイラクの人びとにもたらしていないわけです。それから、アメリカの軍隊に入っている人たちにも、もちろんもたらしていないわけです。イラクに自衛隊を派遣しようとしている小泉政権も、日本人の平和と民主主義のために貢献すると思っているはずもないと思います。その嘘を私たちがどのようにはっきりつかむか。この問題を常に目前においておきたいと思います。9.11以後、アメリカは愛国者法が定められ、人権がどんどんむしばまれています。貧富の差もますます拡大し、アメリカの社会は生きにくくなっています。日本のみなさんに真剣に考えてほしいのは、本当にアメリカの社会のようになっていいのかということです。

改憲論をめぐって思うこと

もうひとつは、あまりも現実離れした9条に国民が憲法や法律に関心を持たなくなった、議会制政治に関心を持たなくなった、投票しても意味がないと感じるようになった、もう少し現状を配慮した改憲が必要ではないかという良心的な意見、9条批判も久しく出ているわけですが、私はそれに対して反対です。逆のことをいえば、なぜ50年間以上、長い55年体制以降の政権がこれほど夢中になって「憲法改正」に熱を上げてきたのでしょうか。彼らが9条を破棄しなければならない、乗り越えなければならないと思ったところに、逆に私たちは憲法9条が果たしてきた役割を測れるのではないでしょうか。つまり本当に無効な9条だったらわざわざ改憲する必要がないのではないでしょうか。9条を破棄して、もっと現状に即した法律を作るというのは本当に危険なことだと思います。

それから、もう少しで戦後60年になりますが、ここまでがんばってきた人びと、それからアジアの人たちの犠牲にもよってこの日本国憲法ができた歴史、これを私たちは軽視することはできないと思います。

一国平和主義ではしょうがないともいわれます。でも、ここまでアメリカと密着してきた日本がそれでも憲法のなかに平和主義をかかげてきた、それは世界の人びとに力になりうるし、私たちはむしろ、もっと実体となるように努力しなければならないと思います。

このページのトップに戻る
「私と憲法」のトップページに戻る