私と憲法304号(2026年9月25日号)


リベラル派議員たちはいま一度原点に立ち返れ 全国のたたかう市民たちと共に!

高市第2次内閣改造が行われ、いよいよ臨時国会の開会が近づいてきた。今回の高市内閣の改造では裏金・統一協会癒着疑惑の議員5人の任用、再任用が問題となっている。これだけ世論が裏金や統一教会との癒着に怒っていようとも無視して組閣する、これが高市首相の本質である。

今回初任用となった文科相の関芳弘氏は統一協会との癒着も取り沙汰された人物だ。下村氏、萩生田氏と続き、文科相に統一教会関係者が就くこと自体、高市政権はカルト癒着政権であるという事は明らかである。

10月から始まる臨時国会では、議員定数の削減や選択的夫婦別姓を遠ざける旧姓使用の拡大、安保3文書の再改定、通信傍受法の拡大、改憲条文案起草委員会の設置など高市政権の悪事がもくろまれている。

議員定数削減は少数野党排除だけではなく、女性議員を露骨に減らす危険な政策だ。小選挙区制度の下、衆議院では選挙区から1人しか当選できない。そうなると多様な民意は尊重されず、いわゆる「死票」が増える。そしてたった1人が当選するにはその地元に根付いた人間が有利になる。地盤看板カバン、地縁血縁選挙になっていってしまうことは必然的だ。そうなると世襲議員は増え、このジェンダーギャップ指数が低い日本において女性はそもそも小選挙区で立候補するという同じテーブルにもつけない状況だ。そしていつ解散総選挙があるか分からない衆議院において小選挙区の候補者となると女性たちの人生計画にも関わる話になり一気にハードルが上がる。6年おきに改選を迎える参議院の女性の割合に比べ衆議院の女性の割合が著しく低いのはそのような選挙制度の背景に原因がある。

だからこそ、比例は女性にとっても障がい者にとっても政治に参加するために大事な枠組だ。それを45議席減らそうとしている。少数野党も女性議員もいらないと言っているに等しいではないか。この議員定数削減に反対する多くの女性たちが声をあげ始めている。臨時国会に向けてこれから様々な取り組みの呼びかけがされるだろう。

年内の安保3文書の改訂により、AIや無人機を用いた「新しい戦い方」と銘打った戦争準備の加速、軍事費の拡大、空港、港湾の軍事利用の拡大など沖縄・西日本にさらなる軍拡をもたらすことになる。国会内の多数工作に成功した高市政権にとってはここで一気に戦争できる国づくりを進めたい。しかし、長年の目の上のタンコブは玉城デニー沖縄県知事だった。安保3文書改訂を前にした沖縄知事選はなんとしてでも勝たなければならない選挙だったのだろう。今回も沖縄知事選は想像を絶するようなありとあらゆる手段を尽くした本土の高市政権による全体重をかけた玉城デニー氏に対する攻撃が始まった。フェイク動画やデマ攻撃が大量に発信された。辺野古沖での事故を持ち出し、お亡くなりになった学生さんの写真をプラカードにして玉城デニー氏の選挙に現れるなど度を越した妨害が相次いだ。玉城デニー知事になると沖縄が中国になると言った内容のデマは広範に広がり信じる人も多くなってしまった。

このようなデマ情報はどこから拡散されているのかと言ったら半数以上が本土から、東京から発信されているものであった。

高市政権の官房機密費の使い道を疑いたくなるようなSNSでのあからさまな沖縄分断、玉城デニー県政潰しだった。高市首相の台湾有事発言は長期にわたり嫌中意識を長引かせて政治に大きな影響をもたらすことに成功している。

今回の沖縄知事選の結果は、沖縄の歴史の風化と政府による歴史否定であるという側面にも向き合っていかなければならない。「責められてきたらどうするのだ論」や基地と経済の関係性についても説明ができるよう本土の私たちは諦めず闘い続ける沖縄の皆さんとさらに連帯しながら歴史を今一度学び伝えていくための活動を強めなくてはならない。

そして忘れてはならないのは沖縄知事選の真っただ中、全国で仲間たちが一生懸命玉城デニー当選のために声をあげ、街中に繰り出している時、中道改革連合は3党合流か否かの議論に終始していたことだ。今まで、立憲民主党として多くの政治家が沖縄に駆けつけ応援のために奔走していたが、今回はそのような姿はポツポツとしか見られなかった。2月8日の衆議院選挙で野党の議席が減り、沖縄選挙区では全滅だったこともあり、しっかりとした選挙応援のための基盤作りがひび割れたところからのスタートで後れを取ったことが敗因の1つにあるのではないだろうか。

沖縄県知事選に沈黙を貫き、最後まで一言も触れず、発信もしなかった元立憲の議員、落選者をしっかり見ておく必要がある。

1月に突如、衆議院の立憲民主党と公明党が新党を作った「中道改革連合」はたったの8カ月で終わりを迎えた。公明党出身議員は元の公明党に戻ることとなった。しかし立憲民主党出身議員らは立憲民主党に復党することが困難を極め、新党をつくることとなった。なぜ立憲民主党に現役の衆議院議員が復党できないのか、その背景には公明党との統一会派「中道」の存在がある。参議院の立憲民主党としてはこの統一会派の枠組みには党の方針と公明党は違い過ぎて入れないという理由から、立憲民主への復党はそう簡単に実現しなかったようだ。政党交付金を受け取りたいという思惑もあり、中道には1人を残し、後の議員は全員離党。新党へと流れることになった。

新党の名前は「民主改革の会」だった。本来なら全員で塊になって新党に移動する予定だったが、8カ月での政党の解体、1億を超えるクラウドファンディングの行方、政党交付金のための中道の存続、民主改革の会に向けられる世間の目は厳しかった。そこで、新党に移動せず無所属での政治活動を表明する議員が現れ始めた。立憲民主党の代表を務めた泉健太氏も新党合流を拒否した内の一人だ。

新党・民主改革の会、名前ばかりが取り沙汰されがちだが、肝心の中身の方が見えてこない。報道では中道の綱領を引き継ぐという事しか流れてこない。中道の綱領を引き継ぎ、実際にはどのような内容の新党を作ったのか全く見えず、何のために政党を立ち上げたのか、新党の政策的な方向性が見えてこない状況だ。
大きな塊論を言い続けているうちに、どんどん小さくなっていくのはなぜなのだろうか。それは永田町の中で多数を取ることにばかり集中し振り回された結果、信念を少しずつ自己解釈と言い訳によって曲げていくうちに市民からの信頼を失い、永田町の中でしか通用しない物差ししか持ち合わせていないことによる世間ずれが、このような事態を招いているのではないだろうか。

リベラル議員たちは今一度、原点に立ち返り、国会外の市民の立ち上がりに連帯し、その輪の中に入っていくべきだ。

今年も9月19日がやってきた。2015年安保闘争から11年の節目の日、全国329カ所(台風の影響で中止した開催場所が複数)で、国会正門前で行われた「19日行動」への連帯行動が同日に行われた。これはこの間の市民運動の中でも過去最多の行動数だ。

国会正門前を中心とした取り組みは、台風の影響もあり、子連れ、高齢者の姿が少なかったが、元気な若者が多く参加していたのが特徴的だった。11年前の安保闘争に参加していた人も多くいたが、参加したことが無かった方も多く国会前に集まった。

長年の運動の積み重ねにリスペクトを持ちながら、創意工夫が凝らされたプラカードや架空団体のぼり旗が国会前を彩った。市民運動の盛り上がりに鼓舞された労働組合も旗を持って国会前に集まり共に声をあげた。

このような光景が全国各地で巻き起こっていることに、運動の歴史に自信をもって前に進んでいこう。韓国の運動家が言っていた「韓国市民は「熱しやすく冷めやすい」所があるが、日本の運動は持続性があるところが凄い」という言葉が今の現状に当てはまるのではないだろうか。熱しにくいが一度熱したらなかなか冷めず継続して闘い続けることができる。いま立ち上がった人々の成功体験になるような運動を共に作り上げ、11年前よりも政治的状況はずっと悪くなっているが、それでも諦めず、楽しく豊かな発想と緩やかな繋がりを求めて頑張り合おう。
(事務局長 菱山南帆子)

このページのトップに戻る


「11年間の闘いを力に!主権者は私たち!9.19国会正門前大行動」

「11年間の闘いを力に!主権者は私たち!9.19国会正門前大行動」

9月19日、近づく台風の影響の小雨の中、総がかり行動実行委員会などが呼びかけた「9・19国会正門前大行動」15000人の市民が集まり、「戦争反対!改憲反対!高市やめろ!」の声を上げた。ババカヲルコさんの元気なコールに続いて、菱山南帆子さんが主催者挨拶し、「違憲の安保法制に反対してこの11年、市民は闘い続けてきた。この力に確信を持ち、市民と野党の共闘を再生させよう」と訴えた。

社民党のラサール・石井さん、立憲民主党の小西洋之さん、共産党の田村智子さんのあいさつと、沖縄の風の高良さちかさんのメッセージのあと、上智大の中野晃一さん、沖縄・西日本ネットワークの新田秀樹さんの連帯挨拶があり、韓国からのメッセージが読み上げられた。

恒例になっている一般参加者のスピーチでは今回も4人が発言した。ユーチューブで同時視聴したひとは全国で4万人、同時開催は47都道府県、330か所だった。

このページのトップに戻る


◇◇◇ 憲法9条と文民条項、地方自治の平和トリオ ◇◇◇―憲法92条「地方自治の本旨」のトリセツ―

琉球大学名誉教授 前参議院議員 共同代表 髙良鉄美  0

80年前の10月は、日本国憲法の「完成月」である。衆議院から送られた案に対して、貴族院では、参議院の緊急集会条項(憲法54条2項)と国務大臣の文民条項(憲法66条2項)が新たに加えられた。この貴族院修正案を衆議院が再可決し、枢密院の審議を経て、天皇の裁可、公布となった。大日本帝国憲法73条に基づく帝国議会の議を経た憲法改正手続きであった。しかし、実体は天皇主権が国民主権に変わり、軍国主義は平和主義へと、天皇の恩恵的臣民の権利は、生来永久不可侵の「基本的人権」へと変革した「新憲法の制定」であった。

文民条項は極東委員会(FEC)の強い要請に基づき、貴族院に持ち込まれた(先月号参照)。憲法9条2項の「前項の目的を達するため」という芦田修正に対し、中国から「日本が再び軍隊を保持しうる余地がある」旨の強い懸念が示された。日中戦争の被害国からの発言でもあり、FECの結論は、日本が自衛を名目に再軍備する口実になりうるので、軍国主義復活を防止するためには、軍人の政治支配を排除する規定が必要というものであった。

一方、貴族院議員は、「文民条項」をGHQの強い要請なら仕方がないと受け入れたのか?内実は、むしろ受け入れに積極的で、議論にも軍部に対する不信感や戦争の反省への強い思いが込められていた。貴族院議員の多くは、当時の10年前、1936年の2・26事件で大臣らが殺害され、軍部による議事堂占拠、議会圧迫を経験していた。「軍部支配の再発を絶対に防ぎたい」という強い感情を持つのも当然であろう。それだけでなく、軍部の暴走を止められなかった貴族院議員としての自らの戦争責任をも重く反省していたのだ。さらに社会状況は、物価高で食糧不足のうえ、失業者と戦災孤児であふれ、治安は悪化の一途をたどっていた。議員たちは軍部による政治支配がこの惨状を生み出したという認識を強く持っていたのである。

ひるがえって、日本の現状は、戦前軍部的指向性を持つ政治家(文民)による「新軍国主義」が蔓延(はびこ)って、やがてあの惨状を生み出しかねないとの危惧もある。主権者国民も戦争責任を問われることは指摘するまでもないが、全国民を代表する国会議員は戦争責任をどう捉えているのか見えてこない。文民条項には 憲法9条と相まって、戦争の惨禍を二度と起こさせないための安全装置としての作用があるが、今や文民だからといって安心できるわけではない。主権者による政治家の監視が最重要である。まさに、文民条項は、憲法9条はもちろんのこと、「再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言」した憲法前文とも軌を一にするものなのだ。

FECは憲法公布から1~2年以内の再検討を求めていた。吉田内閣が改正検討対象とした主な条項には、天皇条項や9条(戦争放棄)、文民条項、地方自治、司法制度、憲法改正手続などが挙がった。ただし、調査・研究は行われたが、「改正案」作成には至らなかった。吉田内閣は、全面改正ではなく、憲法施行後の経験等に照らして検討するという、消極的姿勢であった。むしろ、項目によっては条項を充実させる方向性を持った検討もあった。

地方自治が再検討候補に挙がった理由は、地方自治法(1947年)が十分ではないことや自治体の財政権限が弱く、独立性が不足しているからというのだ。法制局は地方自治の「本旨」の具体化や住民自治と団体自治との関係整理などに取り組んだ。特に重要なことは「地方財政の憲法上の保障強化」を挙げたことである。現在も中央からの予算額に一喜一憂する道府県の姿が目に浮かぶが、約80年も前から変わっていない。このような単なる税の再配分を超えた中央集権的体制は、地方自治や地方住民の選挙における投票意思、延いては平和主義の根幹まで揺るがせる危険がある。

地方自治がなぜ9条と文民条項との平和トリオなのか、「憲政の神様」といわれる尾崎行雄の中央集権に対する視点を紹介しよう。地方自治は民主主義の基礎という位置づけをして、「地方自治なき民主主義は存在しない」とまで考えていた。つまり、国民の政治参加は専制を防ぐ力を持ち、それが平和を守ることにつながるのである。そこには、中央集権が政治の腐敗と軍部の台頭を招いたという実体験と確信(次頁下段へ)(前ページから)があったのだ。

9条や文民条項、地方自治の平和憲法トリオには、当時の国民の戦争体験、軍部支配の反省が基底に存在していた。しかしながら、時の経過によって、この基礎が揺らいでいるのは否めない。平和憲法教育を体験的、実践的に構築していかねばならないのも確かだ。

沖縄の知事選挙はまさに、新軍国主義の中央と予算でコントロールされる地方、そして安全保障を名目に一地方における基本的人権の侵害も「未必の故意」(犠牲になっても仕方ない)状態の構図である。中央集権の反省でできたはずの地方自治が、中央の財政コントロールによって薄れていく。「地方自治の本旨」をあらためて9条と絡めて考える必要がある。

*お詫び:8月号で尾崎行雄の衆議院演説の紹介をした際、御年96歳は88歳の間違いで、96歳(95歳10か月)は亡くなる年の年齢でした。

このページのトップに戻る


「主権者は私たち!ひとりからはじめる政策提言」キャンペーン

高市政権は、今年の総選挙で「日本列島を強く豊かに。」と訴え、自民党単独で衆議院の約3分の2という圧倒的な議席を獲得し、その力をもって国政を一手に担ってきました。しかし、その支持率が徐々に低下していることにも表れているように、これまでと変わらず市民の生活は苦しくなる一方で、逆に多くが望まない戦争への不安だけが高まっています。食料自給率が37%まで下落したこの国の農村の現実や、能登や熊本の被災地で支援を待つ人々の姿は、いったい「強い国」とは何か、という根源的な問いも浮かび上がらせます。今後も、物価はさらに高騰し、高市政権の“メッキ”はどんどんと剥がれ落ちていくと思われます。しかしその場合、「何かを変えてくれるのではないか」と期待した人々の失望は次にどこに向かうでしょうか。

私たちには、政党や政治家たちを“選ぶ”権利がありますが、AがダメならB、BがダメならCと、単に既存のメニューを選択するだけの「政治の消費者」であるならば、いつまでも真の「主権者」になることはできません。「消費者」だけであるなら、昨今の硬直した政治そのものに絶望し、投票にも行かない多くの有権者の心情にもある程度共感できるのかもしれません。しかし、このような「おまかせ民主主義」を超えて、政治の方向性やメニューそのものを自ら考える、「政治の生産者」、つまり真の「主権者」が存在することなくしては、現在の深刻な政治危機の克服はけっしてできないでしょう。問題を一挙に解決してくれそうな「英雄」を待望し、彼/彼女に権力を“託す”という政治のあり方が、「ファシズム」と戦争を生み出してきたという歴史も思い起こす必要があるかもしれません。

幸い、すでに多くの「主権者」たちが、国会前、そして全国のペンライトデモに“参加”して、それぞれの言葉と表現で、まさに新しい“声なき声”の政治を生み出しています。“普通の市民”が自分の思いを自分の言葉で語り、その言葉への共感と共鳴から参加者同士が繋がる「ひろばの政治」を創り出しています。私たち市民連合は、この社会の行く末を想い、集い、語る、「ひとり一人の市民」こそが、民主主義の原点であると考えます。いつの時代でも、国家や制度は疲労し、機能不全に陥ります。そんな時、「主権者」である私たちは、原点に立ち還り、自分たちで戦争や暴力を回避する社会の道筋を見いださなければなりません。

私たちが真に望む社会や国のかたちは、どんなものなのか。今、「主権者」として、そのあるべき未来の姿を話し合う時を迎えています。先達たちがその生命をかけて生み出した「日本国憲法」の精神に再び導かれながら、今「ひろばの政治」で生まれている無数の“声”、そして市民のみなさんひとり一人の“日常”から紡ぎ出される、来るべき社会の青写真が必要です。”政策提言”と言っても、堅苦しい専門用語ではなく、自分たちの生活用語から成る、素朴な“想い”や“願い”が大切です。それら市民による言葉の束は、今後どんな政党や政権が生まれるとしても、大きな「指針」や「座標軸」となるに違いありません。私たち市民連合は、その日本政治のいわば「羅針盤」を、今「ひろば」から、再び創り出してゆくことを提案します。そしてまたそれは、私たちが「信じられる未来」を共に描き出すプロセスそのものに他なりません。ぜひ、全国各地で、ごいっしょに、「信じられる未来」についての対話を始めましょう。                             
2026.8.26 安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合

このページのトップに戻る


議員定数削減反対!緊急アクションの呼びかけ

自民党と日本維新の会の連立与党は、衆議院の議席を削減する法案を共同提出しました1。その法案には、1年以内に衆議院選挙制度協議会2において削減方法についての結論を得られなければ、比例代表の定数のみ45議席を削減することが明記されています。先の国会では成立が見送られ、継続審議(閉会中審査)となり、協議会は9月中に結論を出すことを目指していますが、各党の意見の隔たりが大きく、議論が収斂する見通しは立っていません。与党は次の国会で可決・成立させようとしています。

議員定数削減(特に比例代表の削減)は、議会の構成を歪め、民主主義の根幹を揺るがすものです。議席は国会議員の特権ではなく、わたしたち主権者のものであり、議員はわたしたちの声を代表するために一時的に議席を得ているに過ぎません。そもそも、日本の国会は世界の中で人口当たりの議員数が193か国中172位ととても少ないのです3。さらなる定数の削減は、国会の熟議の機能を今以上に弱体化させるとともに、多数派への権力集中を加速化し、主権者を切り捨てる結果をもたらします。

「ひとりひとり」の国民を尊重するには、国民代表機関としての国会にマイノリティを含む多様な議員が参画することが必要ですが、定数削減はその機会を狭めます。

特に比例代表の削減が女性議員に不利に働くことは、データ4から明らかです。国際比較からみて日本の女性議員が異常に少ないことは、国連からも繰り返し指摘されてきました。比例代表の削減は、女性議員を増やそうと全会一致で可決した「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律」の趣旨に逆行するものです。

また、比例代表の削減は小政党の議員を減らし、新しい政党の進出を阻む壁にもなります。現実の選挙における候補者選びが現職優先で行われていることを考えると、新人の挑戦の機会が減り、議員の新陳代謝を阻害することも懸念されます。

他方、国会議員の多様性が失われることと引き換えに得られる歳出節約効果5は、歳出総額のわずか0.003%にすぎません。「定数削減=身を切る改革」という聞こえの良いキャッチフレーズが目眩ましであることに、わたしたちは気づかなければなりません。

わたしたちは、主権者の幅広い声が反映される健全な民主政治をめざし、今、議員定数削減反対の一点において広く結集します。
Our Seats, Our Voices――民主主義を主権者が取り戻すべく、法案反対の声を大きく上げていきましょう。

そのために、以下の行動を呼びかけます。

〇「議員定数削減反対!緊急アクションにご賛同ください。
賛同団体・賛同人(性別・性自認を問わず)を募集します。
賛同申込先:https://forms.gle/whYC7hbuNt9npBmg9
事務局連絡先:sakugen.no@gmail.com

〇院内集会・国会包囲行動を通じた国会への意思表示

〇スタンディングやSNS発信などを通じた世論への働きかけ

〇全国各地での共同行動
2026年8月25日
<議員定数削減反対!緊急アクション呼びかけ人>(あいうえお順)
青井未帆/浅倉むつ子/雨宮処凛/アルテイシア/池田香代子/上野千鶴子/上原公子/大沢真理/太田啓子/大山礼子/岡野八代/小川公代/戒能民江/加藤陽子/清末愛砂/斉藤正美/杉浦ひとみ/高井ゆと里/武井由紀子/田中優子/谷口真由美/角田由紀子/勅使川原真衣/長尾詩子/中野麻美/糠塚康江/能條桃子/林 陽子/久道瑛未/菱山南帆子/平井美津子/福田和子/本田由紀/前田佳子/三浦まり/宮子あずさ/山口智美/山崎摩耶/山下泰子/和田静香(ライター)

議員定数削減反対!10.6緊急院内集会 参加ください
10月6日(火)17:00~19:00 参議院議員会館 講堂

1 https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g22105028.htm
2 https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g22105028.htm
3 列国議会同盟(IPU)資料https://data.ipu.org/compare/?field=inhabitants_per_parliament&region=0&chart=map&year_to=2026&sort=country_asc
4 衆議院の小選挙区・比例代表における男女別人数・割合(総務省選挙関連資料より作成)
5 国会議員の定数を45人削減した場合に節約できる歳費・費用合計は、約3,375百万円。2026年度の一般会計の歳出総額約122.3兆円の0.0027596%。

このページのトップに戻る


第207回市民憲法講座 日中戦争の現実と日本人の歴史認識

吉田 裕(一橋大学名誉教授)

(編集部註)8月29日の講座で吉田裕さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。

はじめに

(1)まず毎年12月8日に、アジア・太平洋戦争を想起する人はどれだけいるでしょうか。7月7日(日中戦争が始まった日)、9月18日(満州事変が始まった日)に戦争の時代を思い起こす人はさらに少ないと思われます。日本人にとって戦争の記憶が喚起されるのは、8月6日(広島原爆投下)から、8月9日(長崎原爆投下)、それから8月15日(いわゆる終戦記念日)と、非常に偏っているように思います。

(2)それから日本人の対米戦争観です。
アメリカとの戦争をどう日本人が考えているかというのは、なかなかデータがありません。一つ興味深いのは読売新聞社の世論調査(2005年10月27日付)です。

この調査は、中国との戦争とアメリカとの戦争を区別して聞いている。これはかなり珍しい世論調査です。その結果を見ますと、
『中国との戦争、アメリカとの戦争(イギリス、オランダ等連合国との戦争も含む)は、ともに侵略戦争だった』=34.2%、『中国との戦争は侵略戦争だったが、アメリカとの戦争は侵略戦争ではなかった』=33.9%、『ともに侵略戦争ではなかった』=10.1%、となっています。

後でお話ししますように、その後21世紀の初頭では、少し変わってくるのですが、この時点ではまだ侵略戦争と考える人が、かなりの方が多く、過半数だったわけです。ただ、アメリカとの戦争で考えてみると、どうもそう感じていない人がかなりいるということがわかります。「アメリカとの戦争を侵略戦争だと評価されることにわだかまりを感じている人がかなり分厚く存在していることが重要である」(吉田裕・森茂樹『戦争の日本史23アジア・太平洋戦争』吉川弘文館、2007年)

東京大空襲や原爆投下など、アメリカの戦争犯罪が不問に付されていることに関して、ある種の不公正感とか不平等感を抱くのは、ある意味当然なのですが、しかしだからといって、「どっちもどっち」(日米同罪論)という形で、処理していいものかどうか、ということがあります。

アジア・太平洋戦争が、日中戦争の延長線上に起こった戦争で、日中戦争とアジア・太平洋戦争は、不可分の関係にあるという問題=両者の不可分性が完全に無視されることになると思うのです。

(3)1972年の2月、敗戦を知らずにグアム島のジャングルに潜んでいた横井庄一さんが発見されてグアムから帰国し、羽田空港で記者会見をしました。私はこのとき高校3年生で、ほとんど記憶がないのですが、年配の方はご記憶がおありでしょうか。

その時の横井さんの発言を見てみますと、「私が知っている限りの遺族の方々を訪問して『あんたんとこの息子はここでこう戦った、こうなって餓死した』と報告して歩きたい」。餓死と言っているのです。

毎日新聞社の玉木研二さんは、「『餓死』には記者は少し驚いたらしい。〈餓死という言葉が記者団には異質に聞こえた〉と毎日新聞は書いている」と指摘しています(『毎日新聞』2009年2月5日付夕刊)。

当時の新聞記者たちも、餓死という意味を十分理解していなかったということになります。横井さんの餓死した戦友への思いは当時も受け止められなかった。そして忘れ去られてしまったわけです。横井さんはその後、窮乏生活をいかに耐えるか、みたいなサバイバル評論家にさせられてしまいました。横井さんの思いが当時も受け止められなかったし、そして忘れ去られてしまった。その理由を考える必要があるように思います。

そのことと関連しますが、今年は「戦後81年」、1868(明治1)年から1945(昭和20)年の敗戦までは77年。つまり、すでに戦前より戦後の方が4年も長い。この長い戦後史の中で、日本人・日本社会は戦争の歴史にどのように向き合ってきたのか、あるいは向き合ってこなかったのか、という問題を常に深める必要があります。*吉田裕『日本人の戦争観』(岩波現代文庫、2005年)も参照のこと

一.敗戦後の日本人の歴史認識・平和認識

戦後史の中で日本人は、戦争の歴史に向き合ってきたのか、向き合ってこなかったのかということを検証する必要があります。

一)平和主義的意識の形成

(1)悲惨な敗戦の結果、軍隊や戦争に関する強い忌避感が幅広い国民の中に形成されます。「軍隊や戦争はもうこりごり」という意識、こうした意識が「保守」「革新」という政治的枠組みを超えて形成されたことが重要だと思います。
例えば自民党元幹事長の古賀誠さんは、『憲法九条は世界遺産』(かもがわ出版、2019年)という本を書いています。非常に面白い本で、「あの大東亜戦争で、多くの人が無念の思いで命をなくし、その結果として、子どものために人生のすべての幸せを捨てた戦争未亡人はじめ多くの戦争遺族の血と汗と涙が流されました。その血と汗と涙が、憲法九条には込められています」、「世界の国々に大きな迷惑をかけ、いいしれない損害を世界の国々にも与えた日本の国が、そのことに対するお詫びをしているという意味あいをも、平和憲法というものが持っているということです」と書いてあるのです。

古賀さんは戦争遺児で、お父さんは戦争で亡くなられて、お母さんが一人で古賀さんを育てた。そういう方です。その立場から9条を位置づけていると同時に、後半も重要で、これは日本のお詫びなんだと、書いているのです。つまり加害という問題が認識されているわけです。

(2)ただし、平和主義的な意識にはらまれる独特の特質があって、日本人の平和意識の核心にあるのは、アジア・太平洋戦争の悲惨で凄惨な現実、被害者としての強い実感です。

軍人軍属でいえば、日中戦争以降の全ての戦死者のだいたい9割は最後の1年間で死んでいる。民間人の場合は最後の半年間で全て亡くなっている。一方的な戦闘の中で殺戮された。そういうことがありますので、そうなる面があるのはやむを得ないわけですが、被害者としての強い実感を基盤にして戦後の日本社会では、あの悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない、という点で非常に幅広い強固な合意が形成されることになります。

しかし、その合意は戦争の加害性・侵略性や戦争責任の問題には踏み込まないということを暗黙の前提にして形成された面があります。責任の問題に踏み込まないことによって、「平和国家」・「文化国家」の建設という新たな国家目標が保守・革新の枠を超えて幅広い国民から支持されるようになった面もあります。

それらは、体験的・実感的平和主義という側面を強く持つだけに、戦争体験世代の急速な減少によって、
その基盤が大きく揺らぐことになります。
最近の事態はそういうことだと思います。従来であれば軍拡路線に対してもっと強い反発が社会から出てきたと思うのです。けれども、戦争体験世代が減少することによって今までの「重し」が外れ、平和主義の基盤そのものが大きく揺らぐことになっているように思います。

(二)講和条約の締結とダブル・スタンダードの成立
(1)サンフランシスコ講和条約の発効

サンフランシスコ講和条約は、1951年9月に調印され、翌年4月に発効します。サンフランシスコ講和条約は、同時に調印された日米安保条約によってアメリカへの軍事的従属を余儀なくされたとはいえ、講和条約それ自体としては「寛大な講和」ということになります。

しかし、冷戦への移行に伴って、アメリカが日本の非軍事化・民主化、戦争責任問題の明確化よりも、同盟国としての日本の強化、安定した親米保守政権の成立を重視するようになります。この変化は大きいと思います。

その結果、主要交戦国は対日賠償の請求権を放棄し、近隣諸国の間に日本が軍事大国として復活することに対する強い警戒心が存在したにもかかわらず、講和条約には日本の軍備を制限する条項も日本に民主化を義務付ける条項もありませんでした。当初のイギリスの案で考えられていた、民主化の履行を監視する国際機関の設置も見送られ、そうした問題は全部なくなってしまったわけです。

戦争責任の問題でも、この条約では日本側に戦争責任があることが明示されていません。賠償自体は日本側に支払い義務があると条約でなっているわけですから、間違った戦争で、その責任は日本側にあることを認めていることになりますが、明示的に日本に戦争責任があることは書かれていません。

第11条で日本政府が東京裁判の判決(1948年11月)を受諾することが規定されているだけなのです。日本が遂行した戦争を侵略戦争と認定し、その戦争に責任を負う東条英機以下25人の国家指導者に有罪の判決を下した東京裁判の判決を受諾するという形で、間接的に戦争責任を認めているにすぎません。

この講和条約の締結によって日本は国際社会への復帰を実現することになります。ただし日韓国交正常化は1965年、日中国交正常化は1972年と大きく遅れ、この間植民地支配責任の問題や侵略戦争の問題は棚上げにされることになります。

(2)まぼろしの「謝罪詔書」

1.2019年夏のNHKの報道によって、初代宮内庁長官・田島道治の「拝謁記」の存在が明らかになりました。田島が天皇に拝謁した時のやりとりが克明に記録されている非常に重要な資料です。(『昭和天皇拝謁記』として岩波書店から刊行)

1952年4月の講和発効後に、昭和天皇は敗戦が大きな惨禍をもたらしたことに関し国民に対して遺憾の意を表明する、あるいは自らの責任に言及する「お言葉」を準備していたということがわかります。

2.ところが吉田茂首相が詔書の発表に反対をする。
1952年4月18日の拝謁の際に、田島長官は吉田の反対の理由を天皇に次のように説明しています。「要するに折角今声をひそめている御退位説を又呼びさますのではないかとの不安があるといふ事でありまして、今日は最早、戦争とか、敗戦とか、いふ事はいつて頂きたくない気がする、領土の問題、困苦になつたといふ事は今日申しては天皇責任論にひつかゝりが出来る気がするとの話でありました」(古川隆久ほか編『昭和天皇拝謁記3』岩波書店、2022年)。

つまり吉田首相としては、下手にお詫びの詔書を発表すると、天皇の戦争責任問題が再燃するのではないかということを警戒しつつ、戦争の時代へのこだわりを捨てて経済復興に専念する方向に国民の気持ちを切り替えることを重視した。吉田の現実主義的「未来志向」ということになります。

結局「謝罪詔書」の発表は見送られます。これにより戦争責任の問題、とくに国家指導者や日本政府の自国民に対する責任の問題、さらに言えば国民の戦争協力の問題をどう考えるかというような問題に関して、国民的な議論をする自前の機会が失われてしまったということです。

少し脇道に入りますが、この拝謁記で重要なのは昭和天皇の憲法観がよくわかることです。

彼は明治憲法から日本国憲法への切り替えができていない。いろんなことに自分で政治的な発言をして、それを首相に伝えさせようとする。憲法改正をした方がいいというようなことを言う。それから保守は合同した方がいいというようなことも言っています。

それから、実は安全保障の問題で吉田茂を批判しているのです。昭和天皇から言わせれば、吉田はシビリアンだから、軍人のことは分からないだろうという意識があるみたいです。ソ連の脅威をめぐって、吉田は日本本土までソ連が侵攻してくるような事態はありえない、現実的でないと考えている。ところが天皇は、そうではなくてソ連の脅威を非常に重視して、「吉田は甘い」ということを繰り返し言っている。

そういう諸々の発言を、田島道治を通じて首相周辺に伝えようとしています。これはやはり戦前的な発想です。田島道治は、象徴天皇制の枠を明らかし、「そういう発言は日本国憲法の下では許されません。ここだけの話にしてください」と繰り返し天皇を説得して、締めさせているのです。

田島道治は、日本国憲法の中に象徴天皇制がきちんと組み込まれていることを重視していて、その点では明らかに天皇とはずれていることも、非常にわかる重要な資料です。

(3)こうして戦争責任をめぐるダブル・スタンダードが成立します。
対外的には講和条約の第11条で、東京裁判の判決を受諾することによって最小限の戦争責任を認める。しかし、国内的には戦争責任の問題を否定する。あるいは不問に付す、という形で対外的対応と対内的対応を使い分けるやり方です。(前掲『日本人の戦争観』)

一番わかりやすい例は教科書検定です。

文部省の教科書検定というのは、1980年代に入るまでは侵略戦争という言葉は使わせませんでした。排除していたわけです。80年代に入って政策転換があり、ようやく侵略戦争という言葉が教科書でも使えるようになります。そういう使い分けの結果、対外的な責任だけでなく、無残な死を兵士や国民に強いた国家指導者・政府の責任問題も曖昧になります。空襲な民間人の戦争犠牲者に対する補償問題はその典型です。

軍人軍属4に関しては本人・遺族に対していろんな保障がありますが、民間人の戦争被害、空襲被害に関しては何もないのです。最近、世田谷区が空襲で被害を受けた方に、3万円ですが見舞い金を支給する制度を導入しました。私は、その委員会の申請書類を審査する委員なのですが、ちょっとショックだったのは、申請してきた数が1回目6人ぐらいしかいなく、なおかつ皆さん子供の時の空襲体験者だったことです。それは当然で、今生き残っているのは多くが当時子供さんだった。ですから、裏付けの資料を作るのが難しくて、空襲を受けていても、いつの空襲かわからない。親御さんがよほどそういうことに関心があって、きちんと伝えていないとわからないのです。こういうお見舞い金の制度でも、やはり遅すぎる、もっと早くと感じました。

ちなみに中曽根康弘・元首相は、かなり辛辣な発言を残しています。
占領期に軍国主義的な政治家、軍人、そういう人たちを公職追放する。ところが講和条約発効後に公職追放は解除され、戦前の政治指導者が戻ってくるということがあります。中曽根は、その日本の戦時指導者の責任問題について、「とにかく、あの戦争の指導者には日本人自らがきちんと決着をつけるべきだったにもかかわらず、冷戦がはじまり、別の温かい風が流れ込んできたため中途半端に終わってしまった」と語っている(中曽根『天地有情』文藝春秋、1996年)。

“冷戦という「温かい風」”、なかなかうまい表現で、冷戦が責任問題を曖昧にしたことを的確に表現しているように思います。

(三)高度経済成長の時代
(1)戦争体験の「風化」

1、こうした中で高度経済成長の時代が始まります。
1950年代半ばには主要経済指標は戦前の水準を回復し、55年前後から高度経済成長の時代へ入ります。1973年のオイルショックまで高い成長率を記録する。経済成長の結果、生活の向上が国民にもしだいに実感されるようになる。そうした中で戦争体験へのこだわりを捨て、戦争の時代を、遠く過ぎ去った過去の時代とみなす風潮が広がり始めます。

1956年の『経済白書』は「もはや『戦後』ではない」と宣言し、1964年の東京オリンピックが、戦争体験の「風化」傾向を促進することになります。

著名な財界人の郷司浩平は、「戦争体験と私」という特集の中で、「人間には“忘れる?というありがたい特権がある。戦争末期から終戦直後にかけての地獄のような苦しい生活体験も、二十年たったいまでは、はるかなる彼岸の出来事のように、われわれの記憶から消されて行くようだ」と書いています。(郷司「これから二十年の課題」、『潮』第62号、1965年)。

ただし「風化」に抗う動きも非常に強く出てきます。戦争体験の継承にこだわるということです。象徴的なのは、1970年前後からその動きが顕在化します。

一つは『沖縄県史』。これは、戦争を体験した世代の人たちからの聞き取り調査を徹底してやっている。それから、私は、東京大空襲戦争資料センターの館長をボランティアでやっていますが、「東京空襲を記録する会」が1970年にできます。これをきっかけに各地で空襲の記録を作る動きが、全国的に広がっていきます。そういう動きが出てきて、それが大きな影響を持ちました。

教科書を見てみますと1970年代の半ばまで、日本の高校の日本史教科書には東京大空襲は出てきません。それが70年代の半ばから80年代にかけて、一斉に東京大空襲という言葉が登場するようになるのです。ですから、これは押し戻しているわけです。戦争体験の風化に抗って、継承するという動きが日本社会に流れて、これが今でも続いていることになります。

2、政府は戦争体験の「風化」を傍観します。
戦死者の追悼問題を見てみると、講和条約発効直後の1952年5月2日に国の行事として全国戦没者追悼式を開催しています。しかし、これは忘れ去られてしまった追悼式で、ほとんど覚えている方はいらっしゃらないのではないでしょうか。一回こっきりで、その後、同様の追悼式は開催されず、ようやく1963年から毎年、全国戦没者追悼式が、現在のような形で8月15日に開催されるようになります。

この全国戦没者追悼式は、閣議決定によれば、日中戦争以降の全ての戦没者(軍人プラス民間人)を追悼する式典です。しかし、現在ますますその傾向を強くしているように思いますが、実際に念頭に置かれているのはアジア・太平洋戦争の戦没者だけになっています。

毎年開催するようになった最初の1963年の、全国戦没者追悼式における池田勇人首相の式辞では、「今次大戦」で、日中戦争は入るのかどうか曖昧です。昭和天皇の「お言葉」では「先の大戦」という言い方です。天皇・首相のこの表現は現在に至るまでほとんど変わりません。

閣議決定では「日中戦争以降の全ての戦没者の追悼」を決めながら、念頭にあったのはやはり対米戦争ではないかと思います。

ただし、サンフランシスコ講和条約発効直後の1952年5月2日に、1回だけ開催された前述の全国戦没者追悼式の吉田茂首相の式辞には、「日華事変以降の〔中略〕戦没者」、昭和天皇の「お言葉」には「今次の相次ぐ戦乱のため」とあります。日中戦争の戦死者の遺族、お父さんやお母さんもまたご存命の時代だということもあると思いますが、日中戦争は確かに念頭に置かれていたように思います。

ですから高度成長の時代に入る中で、アジア・太平洋戦争=対米戦争という認識が形成されたと思います。

3、「戦争被害受忍論」の形成
もう一つ重要なのは、この時期に政府・司法の中に、民間人の戦争被害に対する補償を拒否する論理として「戦争被害受忍論」が形成されます。「受忍論」とは、戦争という非常事態の下で一般の国民が被った犠牲や被害は、すべての国民が受忍しなければならないものであり、補償の対象とはならないという考え方です。ただし国との間に雇用関係があった軍人・軍属の犠牲に関しては、遺族年金や恩金を出すなど国家が補償するという考え方をとります。

戦争で財産を失ったカナダにいた日本人移民が、政府に補償を求めた裁判の最高裁判決(1968年11月)が「戦争被害受忍論」に基づき原告敗訴を言い渡します。毎日新聞の栗原俊夫記者は、「戦後補償史における、黒い画期」と呼んでいます。(栗原俊雄『東京大空襲の戦後史』岩波新書、2022年)

こういう考え方が一方で出てきます。

二、1980年代以降の動向

一)政府による軌道修正とその後の揺り戻し

(1)1980年代に入ると、政府による軌道修正と揺り戻しの動きが出てくることになります。

1980年代に入ると歴史教科書問題(1982年の教科書検定の国際問題化)や靖国神社問題(1985年8月15日,中曽根首相が公式参拝)で中・韓などのアジア諸国からの対日批判が激化をして、日本政府もかつての戦争が侵略戦争であったことをようやく認めるようになります。だから教科書に関しても、この時から初めて、執筆者が「侵略戦争」と書いてもチェックはされないようになります。

こういう大きな流れの中で、1995年8月15日、「戦後50年 村山首相談話」が公表され、侵略戦争と植民地支配の歴史に対する「反省」と「お詫び」を表明します。これが日本の対外的な意思表示となります。

(2)全国戦没者追悼式の中で「お言葉」と「式辞」がどう変わっていくかをみていきます。
1、「平成の天皇」の「お言葉」には、2015年以降「深い反省」の文言が入ります。この文言は、その後、2026年8月15日の「令和の天皇」の「お言葉」に至るまで継承されています。また「令和の天皇」の「お言葉」には2025年以降、「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ」が入ります。戦争体験の継承を重視しましょうということでしょう。

2、首相式辞は、1993年8月15日の全国戦没者追悼式における式辞の中で、細川首相がアジアの戦争犠牲者に対して初めて哀悼の意を表し、1994年以降の首相式辞ではアジアへの加害の事実に必ず言及するようになります。

しかし2013年の安倍晋三首相の式辞以降、加害への言及はなくなり、現在に至るまで続いています。それだけでなく、これまであった「反省」の文言も消えます。それでも最初のうちは安倍首相式辞の中に歴史に対する反省というニュアンスの文言があったのです。例えば2019年式辞には「歴史の教訓を胸に深く刻み」とあったのですが、2020年式辞からはそれも消えます。

2021年の菅首相式辞は、前年の安倍首相式辞をほぼ踏襲し、2022~2024年の岸田文雄首相の式辞でもアジアに対する加害の文言はなく、2020年の安倍首相式辞をほぼ踏襲しています。2024年の岸田首相式辞では「歴史の教訓を胸に深く刻み」が復活しますが、「胸に深く刻み・・・力を尽くしてまいりました」と、「これからも尽くしてまいります」のではなく、過去形になっています。

2025年の追悼式の首相式辞では、石破首相は「戦後80年首相談話」は見送ったものの、「進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません」という形で「反省」を復活させて独自色を出しています。

2026年の高市首相の式辞では、石破首相の式辞にあった「反省と教訓」が消えます。

3、石破首相が「戦後80年首相談話」を見送ったことの意味は無視できません。「村山首相談話」の棚上げです。ただし、首相談話に替わって公表された「戦後80年 石破首相所感」(2025年10月10日公表)では、侵略戦争であったことは明言しなかったものの、戦後50年・60年・70年の「内閣総理大臣談話」について、「私もこれを引き継いでいます」としています。村山談話は引き継ぐということです。

高市首相も2025年11月7日の衆院予算員会で、村山首相談話に関して、長妻昭議員から「首相の意見と同じでいいか」と質問されている。これに対して高市首相は、「これまでの首相談話を含めて、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでおり、これからも引き継いでいく」と答弁し、「首相は首相就任前、村山談話に否定的な考えを繰り返し示してきたが、それを封印した」と報道されています。(『朝日新聞』2025年11月8日付)

石破首相も高市首相も、村山談話を正面から否定することはできない。ですから「否定」ではなく「棚上げ」にする、触れないという形になります。

なお『読売新聞』や『産経新聞』が2025年に「昭和100年」キャンペーンを展開しました。周年で数えれば2026年が「昭和100年」であるのに、無理矢理2025年におこなったのは、人々の関心を「戦後80年」からそらすという政治的意味合いを持っていたと思われます。(拙稿「『昭和100年』の政治的文脈」、『世界』2025年8月号)政府の方はさすがにごまかしができなくて、周年で数えて今年の4月29日に「昭和100年記念式典」を開催しています。

*「首相談話」は閣議決定が必要で重いのです。「首相の談話」や「首相所感」は閣議決定を必要としない首相の個人的な見解ということになります。そういう違いがあります。

4、注目すべきことは、戦争の歴史的評価の問題(侵略か自衛か)を棚上げにしようとする動きが右派の中から出てきていることです。

2024年10月18日、靖国神社秋季例大祭当日祭における大塚海夫・宮司(元海上自衛隊幹部)は挨拶で、「本来神社は、静謐な環境下で御祭神を奉慰顕彰する場であり、戦争の善悪を判定する場所ではありません。戦争の評価は歴史家の仕事」と言っています。(『靖国』2024年12月号)

彼らが一貫して言ってきたのは、「あの戦争は侵略戦争ではない」ということです。それが「戦争の善悪を判定する場所ではありません」と、微妙に軌道修正をはかろうとしているのが分かります。

また、これまで日本会議や英霊にこたえる会は、毎年8月15日に靖国神社で「戦歿者追悼中央国民集会」を開催、声明文(中国・ロシア・北朝鮮の脅威を強調、憲法の改正を訴える、その上で首相や天皇の参拝を求める内容)を採択してきました。

ところが2025年8月15日の集会では、名称を「大東亜戦争終戦80年 追悼と感謝の集い」に変更し、声明文の内容も、国際情勢や改憲には全く触れず、3代の天皇が戦没者の慰霊に力を注いできたことを讃えながら、首相参拝の「再開と定着」、天皇の「御親拝」だけを求める内容になっています。(『日本の息吹』2025年10月号)

ここでも微妙に軌道修正を図ろうとしているように思います。今年の決議文はまだ文書で確認していませんが、そろそろわかると思います

(二)現代の日本人の歴史認識・戦争認識

(1)「侵略」か「自衛」かなど、戦争の性格に関する世論調査が始るのは1980年代に入ってからです。その前の段階では「侵略戦争と思いませんか」というような世論調査はないのです。日本社会の感じがそういうことでなかったということを世論調査のあり方自体が示しているように思います。

90年代の世論調査では、半数を超える人が「侵略」だと答えるようになります。「自衛」だと考える人の割合は、その後、現在に至るまで、1割前後で変わりません。ですから過去の戦争を正面から正当化するということに関しては、やはり日本人の社会にはある種のこだわりというか後ろめたさの感覚があって、少なくとも正当化することのできない戦争を戦った、という点では認識の一致が見られると思います。

(2)しかし、21世紀に入るころから、「侵略」認識に陰りがみられるようになります。これには、歴史修正主義、反中・反韓ナショナリズムの台頭、そして「侵略」と認識しないまでも、ある種の「うしろめたさ」の感覚を持っている戦争体験世代の減少などの影響があると思います。

(3)最近の状況を具体的に見てみます。
1、朝日新聞社の世論調査によれば、「1945年に終わった戦争」の評価は、「侵略戦争と自衛戦争の両方の面がある」=42%、「侵略戦争だった」=28%、「よく知らない」=21%、「自衛戦争だった」=8% (『朝日新聞』2025年5月3日付)、です。

侵略戦争だったが28%で、これはかなり減ってきています。「侵略戦争」と「自衛戦争」を両極にして中間に「両方の面がある」というある意味で折衷論な見解が分厚く存在し、「よく知らない」の割合もかなり多い。こういう結果が出てきています。

2、NHKが2025年に実施した世論調査によれば、「先の戦争は、アジア近隣諸国に対する日本の侵略戦争だった」との意見に対し、「そう思う」=35.1%、「そう思わない」=16.3%、「わからない」=47.9%、「無回答」=0.6% (『NHK放送文化研究所年報』第67号、2026年)

半分近くの「わからない」の多さに驚かされます。

ちなみに、2000年の調査では、「先の戦争は、アジア近隣諸国に対する侵略戦争だった」との意見に対し、
「そう思う」=51%、「そうは思わない」=15%、「昔のことだから、自分には関係ない」=7%、「わからない、無回答」=28% (『放送研究と調査』2000年9月号)

明らかに「侵略」が減って、「わからない」が増えているのです。

NHKは、1982年にも同様の世論調査を実施していますが、その結果は2000年調査とほとんど変わらない(同上誌)。ですから21世紀に入ってから世論の変化=わからないという人が増えてきている=が生じたということだろうと思います。

三、日中戦争は、どのような戦争だったのか

一) 第1次世界大戦後の国際秩序―ワシントン体制の形成
第一次世界大戦後の国際秩序は、ワシントン体制と呼ばれています。
(1)ワシントン体制とは

1、1921(大正10)年~22年に開催された国際会議(ワシントン会議)を基礎にして形成された国際秩序で、米・英・日・仏・伊などの列強相互の協調、国民党による中国の統一の支持を特徴としています。ただしソ連は不参加で、ソ連の封じ込め政策という側面もあります。

2、ワシントン会議の柱となるのは、主力艦の軍縮を決めた1922年のワシントン海軍軍縮条約と同年の9か国条約(米・英・仏・日・伊などが中国の主権・独立・領土保全の尊重を決める)、さらには海軍の補助艦の軍縮を決めたロンドン海軍軍縮条(1930年)がこの体制を補完しました。

3、日本政府もワシントン体制を支持し関連するすべての条約に調印し、第1次世界大戦終結後に創設された国際連盟の常任理事国にもなります。国内的には1924年に政党内閣が成立し、ワシントン体制を内側から支えることになります。

(2)ワシントン体制の歴史的背景

1、第1次世界大戦後、非常に悲惨な世界戦争になった反省から平和主義的な気運が拡大し、国際法の分野では、非常に大きな転換点になります。無差別戦争観から脱却し、戦争の違法化が国際法上で進みます。

それまでは、国際紛争を解決するため主権国家が戦争という行為に訴えるのは合法(無差別戦争観)だったのです。ただし、その戦争・戦闘に国際的なルールを定めるため、19世紀末から20世紀初めにかけて戦時国際法の整備が進みます。これは例えば捕虜は虐待してはいけないとか、空襲は軍事目標だけに限定するというような戦争・戦闘のルールです。

それに対して、第一次世界大戦後大きく転換して、国際紛争を解決する手段として戦争という行為に訴えること自体を違法とするのが戦争の違法化の動きです。具体的には紛争の平和的解決や軍縮を定めた国際連盟規約(1919年)、国家の政策の手段としての戦争の放棄を定めた不戦条約(1928年)などにあらわれています。

ただし各国は自衛戦争の権利を留保する、自衛戦争は別、とする立場に立ちました。
こうした戦争違法化の流れの中に、日本国憲法や国際連合憲章を位置づけることができます。

2、もう一つ重要なのは、朝鮮の3.1独立運動や中国の5.4運動(ともに1919年)に象徴される民族独立運動の高揚です。列強も先述のように、次第に中国に対する侵略を抑止し、中国の統一を支持するというように大きく変わっていったことです。

(二)日本の路線転換―ワシントン体制の打破へ

日本政府はこういう方向に一応コミットしますが、その後転換してワシントン体制打破という方向に移ります。

(1)満州事変の勃発

1、こうした流れを逆転させたのが、陸軍の謀略によって1931年9月に開始された満州事変です。
戦争が始まると、国民の中には中国に対する排外主義が吹き荒れ、軍部の強硬路線に対する支持が広がります。陸海軍の政治的な威信も強化されて、1932年5月の軍人による犬養毅首相の暗殺事件(5.15事件)によって、政党内閣も終わりを告げます。

2.満州事変によって満州の全土を占領した日本は、1932年3月には傀儡国家である満州国を建国し、国際的孤立を深め、1933年には国際連盟を脱退することになります。

(2)日中全面戦争からアジア・太平洋戦争へ

1、1933年5月に締結された塘沽停戦協定によって、日中間には小康状態が生まれます。蒋介石の率いる国民党政府が、対日戦より国内における中国共産党との戦いを重視し、満州国の存在を黙認したからです。

しかし満州国内では激しい抗日ゲリラ闘争が続きます。
1935年に入ると、陸軍が華北5省を日本の支配圏に組み入れようとする華北分離工作を強引に開始します。中国側はこれに激しく反発し、国民党と共産党が一致団結して、日本の侵略と戦うべきだとする気運が急速に高まりました。

こうした中、1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍の小規模な武力衝突が発生します。研究者の中では衝突自体は偶発的事件だったとされていますが、陸軍内に強力な拡大派が存在したこともあって、戦争はたちまち華北に拡大し、翌8月には日中間の全面戦争に発展します。中国側は抗戦を継続し、戦争は長期化・泥沼化していくことになります。

2、日中戦争が長期化して行き詰まりに直面すると、日本では、ナチス・ドイツと一体となって勢力圏の再分割戦争に参加しようとする勢力が急速に台頭してきます。その圧力の下で、日本は1940年9月に、北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐して武力南進政策を開始するとともに、日独伊三国同盟を締結します。しかし、この外交路線の大きな転換は、日米関係を急速に悪化させます。

そのため、1941年春からは戦争回避のための日米交渉が始まるのですが、アメリカが中国からの日本軍の撤兵を求めます。(これは日中戦争で日本が獲得したものを吐き出せということなのか、満州からの撤兵も含めているのかは、よくわかりませんが。)

撤兵を求めるアメリカに対して、日本が妥協を拒んで撤兵に反対し続けたため、交渉は暗礁に乗り上げます。その結果、1941(昭和16)年12月、日本軍は英領マレー半島と真珠湾への奇襲攻撃を開始します。アジア・太平洋戦争の開戦です。

日米交渉の最大の争点は中国からの撤兵問題にあります。日本がこれを拒否して戦争になった経緯を考えるならば、アジア・太平洋戦争は、日中戦争の延長線上に生起した戦争であったこと、両者の連続性は明白だと思います。

ですから、先に述べたアジア・太平洋戦争と日中戦争を切り離した「どっちもどっち」(日米同罪論)は、かなり問題だと思います。

(3)日本の国際的ウィークポイント

日本の国際的なウィークポイントがどこにあったかということも実は非常に重要な問題です。

1、満州事変以降の日本の侵略戦争は、国際法=国際連盟規約・不戦条約・9か国条約に対する違反行為だったということ。これが日本が国際的な孤立化を深める最大の理由だと思います。

満州事変のとき、関東軍が謀略によってしか戦争を開始できなかったことの意味を考えてみます。

満州をめぐって日中間の対立が激化していたのは事実ですが、当時にあっても戦争に訴えることはできないわけです。ですから何をやったかというと、自らの手で南満州鉄道を爆破して、「中国の攻撃があったので自衛のために反撃すると」いって戦争を始めた訳です。「天下の関東軍」でさえ、理由を整えなければ戦争に持ち込めなかったということです。

ということは国際紛争を解決する手段としての戦争は、違法であるという規範意識がやはり国際社会の中にあるわけです。鉄道が攻撃されたから反撃するといって戦争を始め、満州全土を占領してしまうのは、どう考えても「自衛」の逸脱です。そういう中で国際的に孤立していくことになります。

2、とくに、満州事変や日中戦争が中国の主権や領土の尊重を約した9か国条約に違反していることは明白だったため、日本は国際的孤立を深めることになります。

中国の主権や領土を尊重すると約束しているにもかかわらず、満州に傀儡政権を立てて中国と戦争を始め、中国の領土を占領するというのは、9か国条約に違反しているという批判が国際的には出てくるわけです。日本政府内には日本の行動を束縛するとして、9か国条約から脱退しようとする主張も存在しましたが、日本は最後まで9か国条約から脱退できませんでした。

これは、中国の主権の尊重、領土の尊重ということが国際的にも一種のルール・規範になっているということを示しています。日本政府も中国の主権や領土の尊重という理念自体は、公的には否定できませんでした。

3、日本の国家指導者を戦犯として裁いた戦後の東京裁判、これも最近大きく研究が進んだ分野です。

30年で情報公開する原則があるアメリカで1970年代以降、資料の公開があって、東京裁判研究はだいぶ進みました。日本側は公開していなかったわけですが、ようやく2002年に国立公文書館で法務省が持っていた東京裁判関係資料の公開が始まりました。現在では日本側が東京裁判にどのように対応したかが、非常に具体的に分かるようになってきています。

たとえば、戦犯釈放運動などをやるわけですが、実は旧軍人グループが水面下で動いたことが分かってきました。これは国立公文書館での資料の公開がようやく実現して、それに基づいて若い世代の研究者の研究が始まって分かってきたことです

私の世代はアメリカの資料を見るのがせいぜいで、日本側の資料は見ることができませんでしたが、アメリカ側の資料で、私はずっと被告になった人たちの尋問調書を読みました。とても印象的だったのは、9か国条約違反だとするアメリカの検察側の追及に、日本側は有効に反論できないことでした。

文官で唯一絞首刑となった広田弘毅の場合、事前の尋問の中で検察側の鋭い追及にたじたじとなっています。満州事変・日中戦争が9か国条約に違反しないかと追及されて、彼は「違反します」と認めてしまうのです。そうすると、「それを承知しながら、なぜあなたは満州事変、日中戦争期において内閣に属していたのか」と追求されるわけです。

(三)日中戦争に関しての私の研究から

(1)『日本軍兵士』(中公新書、2017年)では、特にアジア・太平洋戦争の時期における無残な大量死の実態の解明に取り組みました。『続・日本軍兵士』(中公新書、2025年)では、戦病死を軸に近代日本戦争史の歴史的特質の解明に取り組みました。

戦争で死んだ兵隊というのは戦闘で死ぬだけではなく、戦病死・餓死が非常に多いということです。この認識は、ようやく一般的な認識にもなりつつあるようです。石破元首相は、2025年7月のTBSラジオの番組で、「兵隊さんで亡くなった方々の6割は戦って亡くなったわけじゃないんです。病死や餓死だったということを考えねばならんと思います」と発言しています。(『毎日新聞』2025年7月23日付)

石破首相は、歴代首相の中では勉強している方だと思います。しかし、歴史に関して彼の頭の中にあるのは、国力に大きな差があったアメリカとの戦争になぜ踏み切ったのか、そのことの反省というのが中心で、満州事変・日中戦争はほとんど視野に入っていません。

(2)戦病死の歴史的な分析からいえること
【付表】として、「主な戦争の戦病死亡率(陸軍の場合)」をつけました。日清戦争では戦病死率は9割にも達しましたが、日露戦争以降、満州事変までの戦争においては、戦病死率は大きく低下しています。日清戦争以後、軍事衛生や軍事医療の面、補給等々の問題もかなりの改革・改良がみられ、戦病死率はずっと下がってきたわけです。満州事変では17%くらいまで下がったと推定できます。

しかし日中戦争の長期化とアジア・太平洋戦争によって、それは挫折、さらには退行し、日露戦争以前の水準にまで後戻りしてしまったことが確認できます。日中戦争の1940年あたりに大きく変化が出てきて、40年の1年間で、戦争で死んだ兵隊の46%病気で死んでいます。つまり日露戦争の前の水準に戻ったのです。アジア・太平洋戦争の時点では軍事衛生・軍事医療の面でも米軍との間に決定意的な格差・立ち後れが生じています。

(3)軍事的に見たとき、根本的な誤りはアジア・太平洋戦争の開戦ではなく、日中全面戦争の開始にあったのではないのかというのが私の意見です。

満州事変で政党内閣が潰れて、陸海軍が大きな権限を持つようになるので、政治的に見た場合には満州事変ということもあり得ますが、純軍事的に見た時に大きな転換があるのは日中戦争ではないかというのが私の説です。これによって日本はかつてない規模の動員を行います。100万を超える軍隊を動員する。兵力を急速に拡大しつつ、なおかつ軍備の拡充・軍備の近代化に取り組むことになります。

しかし、かつてない規模の大兵力を支える補給体制、給養体制、軍事衛生・軍事医療体制を構築するだけの国力を日本は有してはいなかった。そのことは日中戦争の現実が示していると思います。

また大規模な兵力動員は、軍備の充実・軍備の近代化、とりわけ陸軍の機械化・自動車化の阻害要因ともなります。日本の兵隊はアジア太平洋戦争の場合でも、基本的には何十キロというライフルや弾薬や装備を持って歩きます。これは本当に過酷な戦場ということになります。そうなったのは軍備の近代化、機械化が遅れているからです。

日本陸軍における機甲部隊の歴史を分析した元陸軍中佐の加登川幸太郎さんは、「陸軍の反省」という座談会をやって、陸軍に対する非常に手厳しい批判をまとめておられるのです。加登川さんは「この支那事変は、〔1936年から始まっていた〕日本陸軍の本格的軍備充実を吹きとばしてしまった。百万の大軍を大陸の野に戦わせながら、新軍備の蓄積をする力は、日本にはない」と結論づけています。(加登川『増補改訂 帝国陸軍機甲部隊』ちくま学芸文庫、2023年)大規模な戦争を戦いつつ軍備を近代化する、軍備を充実するということ自体が日本の国力からすれば無理だと言っているのです。

ちなみに自動車の生産台数を見てみますと、1938年における日本の自動車生産台数は2万4000台、アメリカの自動車生産台数は250万8000台です。(中尾充夫『世界自動車工業概史』非売品、1954年)

根本的に違うのです。日本の陸軍も戦場ではトラックを使いますが、一番頼りになるのはフォードなどのアメリカ製のトラックで、日本製のトラックは故障が多くて役に立たない。これは象徴的な出来事です。国力の格差にあらためて驚かされます。

アメリカとの格差ということでは、今日の朝日新聞の書評で、『兵士とリゾート~米軍保養地と日本観光の戦後史』(阿部純一郎著・慶応義塾大学出版会)という本の書評をしました。その本は、アメリカがいかに兵士の休養・休暇の問題を重視しているか。そして、兵士に休息と慰安を与えるための保養基地として、日本が安保体制の下で大きな役割を果たしたことを明らかにしています。

日本の旧陸海軍には、兵士の精神的肉体的負担を軽減することが、戦力の維持につながるという発想がなく、本格的な休暇制度はありませんでした。一方、アメリカは、すでに第2次世界大戦中にリビエラに軍用保養地を建設していました。日本でも、占領期には、日本の優良ホテルを接収した米軍専用ホテルでの休養を目的にした特別休暇制度を導入しました。講和条約発効後にかなりのホテルは返還されますが、その名残で、米軍基地の中に立派な宿泊施設やゴルフ場が今でもあるわけです。

朝鮮戦争とベトナム戦争では、長時間戦場にいると戦争神経症とかいろんな問題が出てきますから、ローテーション制 (一定期間の従軍の後に補充兵と交替させる制度 )も導入しました。

日本が、米軍の出撃基地・兵站基地としてアメリカの戦争に協力したのは、かなり知られてきていますが、この本は、米軍の保養・娯楽・観光といった面で日本政府が全面的に協力して戦争を支えてきたことを明らかにしています。

(4)戦後の日本人の歴史的関心は「アメリカとの無謀な戦争になぜ踏み切ったのか」という問題のみに向けられてきて、日中戦争の持つ重要な意味が忘れ去られてきました。しかし、軍事史研究の分野でも、21世紀に入った頃から、日中戦争の歴史的重要性が認識されるようになりました。等松春夫さんは防衛大学校の先生ですが、防衛大学校で自衛隊の制服組出身の教員が、いかに偏った歴史教育をやっているかということを内部告発して話題になりました。以下は、その等松さんの指摘です。

とはいえ、日本帝国にとどめを刺したものが原子爆弾に象徴される米国の圧倒的物量と科学技術であったという記憶が鮮明すぎたためか、そして敗戦後6年に及ぶ米国の占領統治もあって、日中戦争は一部の専門家を除いて戦後日本人の記憶では、日米戦争の影に隠れて後退してしまったように見えます。しかしながら、持続期間、投入兵力投下資金、死傷者数、日本および関係各国に与えた影響力などあらゆる点で日中戦争は有史以来日本が〔それまでに〕経験した最大規模の戦争であった。(等松春夫「日中戦争の多角的再検討」
(『軍事史学』第43巻第3・4合併号、2008年)

私はこうした見方に本当に共鳴します。こういう日中戦争の持つ重要性ということが認識されるようになってきたわけです。

おわりに

(1)前述のように、戦争の歴史的評価の問題(侵略か自衛か)を棚上げにしようとする動きが生まれています。
(2)高市首相にも同様の動きがあって、先ほど紹介したように村山談話を正面切っては否定できない。だから触れない、棚上げにする。

今年4月29日の「昭和100年記念式典」で、高市首相が「昭和戦前期」(戦争の時代)をどう評価するかが注目されたのですが、結局、首相は戦争の時代の評価には言及しませんでした。悲惨な戦争の反省とか、多少なんか言うのかと思っていたのですが、全く無視です。「昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長、といった、未曽有の変革を経験した時代」と言っているだけです。

戦争の評価なしは、さすがにひどいと思うのですが、面白いのは、この式典には天皇・皇后も出席したのですが、何も発言の機会を与えられず、天皇の「お言葉」がなかったことです。

これについて記者から追及され、5月14日の定例会見で宮内庁長官は、「天皇陛下がおことばを述べる機会がなかったことについて問われ、主催した政府からの申し出に基づいた対応だった」と言っているのです。(『朝日新聞』2026年5月15日付)政府の方から「しゃべるに及ばん」と言われたからだと、かなり露骨な発言なのですが、天皇の発言の内容を規制しているように思います。

もし出席した天皇が発言するとすれば、反省の上に戦後の日本社会があるということを当然言うと思います。それを恐れて出席しただけで終わったのです。これは、あまり大きく報道されていませんが、重要なことのように思います。かつての戦争についての評価を棚上げにしようとする高市政権の意図が透けて見えます。

先ほど強調しましたように、戦争の歴史的評価について世論の方で「分からない」という評価が出てくる。それに呼応する形で、政府の側も戦争の評価を曖昧にしていくという方向に舵を切りつつあるように思います。そういう中だからこそ、加害の問題あるいは日中戦争・満州事変と、アジア太平洋戦争の関係性をきちんと指摘し主張していくということが、きわめた重要な意味を持つと思います。

このページのトップに戻る
「私と憲法」のトップページに戻る