今年も「8月」が終ろうとしている。8月は日本の報道では「戦争・平和報道」があふれる。それは揶揄(やゆ)を込めて「8月ジャーナリズム」と呼ばれる。せめて8月くらいはそうありたいから、私は「それでも結構じゃないか」と思う。
この8月を振り返り、思うところを書いておきたい。
人口に膾炙している「詠み人知らず」の名句がある。
八月や(は)六日九日十五日 見事に俳句の5・7・5のリズムになっている。
8月6日、9日、15日はいずれも先の「15年戦争」の歴史を振り返るうえで忘れられない日だ。
毎年、8月の6日、9日はヒロシマ、ナガサキで「平和記念式典」が開かれ、市民と、知事、市長、首相らが多数出席する。
今年も広島・長崎の式典に髙市早苗首相が出席した。しかし、今年は例年と違って「非核3原則」にかかわる首相の発言が注目された。
案の定、高市首相は広島でも、長崎でも「非核3原則を堅持している」とのべた。一見、歴代首相らのメッセージと同じように聞こえるが、実はこの発言には「非核3原則」否定論者の高市首相らしい仕掛けが潜んでいた。高市発言は「堅持している」と日本政府の現状の立場の事実関係を説明したにとどまり、今後とも「堅持する」とは述べなかった。
髙市以前の歴代首相は、安倍晋三首相も、岸田文雄首相も、石破茂首相も、1966年に佐藤栄作首相が国会で表明した「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」という「非核3原則」を「堅持しつつ、国際社会の取組を主導していく」と述べ、「国是」として位置づけてきた。今年の髙市首相の発言からはこれが削除されている。年末にかけて閣議決定されようとしている「安保3文書」の改定の動きの中で、「非核3原則」の修正が着手される恐れが指摘されている。
昨年12月、髙市内閣の安全保障担当の官邸官僚(市川恵一安保局長といわれる)が「私は核を持つべきだと思っている」などとオフレコで発言した。この人物はいまだに名前が明らかにされず、解任もされていない。はからずも高市首相が「非核3原則」の見直し論者であることを裏書きした事件であった。
小泉進次郎防衛相も今春の記者会見で「政府としては非核3原則を政策上の方針(国是とは言わない)として堅持する。その上で『持ち込ませず』の部分については2010年当時の民主党政権の岡田克也外務大臣による答弁を引き継いでいく」とのべ、民主党に責任転嫁を図りつつ、非核3原則の見直しを述べている。
この岡田答弁とは「(米軍の)核の一時的寄港を認めないと日本の安全が守れないというような事態がもし発生すれば、政権の命運をかけて決断し、国民に説明する」というものだ。この岡田発言自体が問題発言だが、歴代首相の非核3原則を継承せず、岡田発言のみを継承するというのは御都合主義が過ぎる。「非核3原則」は実際には在日米軍によってすでに破られているという説もある。そうかもしれない。しかし、あきらめてはならない。非核3原則という国是が日本にある以上、米軍は公然と核兵器をつんだまま原潜を横須賀や佐世保などに寄港させられない。核兵器は保有を公然化してこそ、抑止力効果を発揮できる。日本の非核3原則は東アジアで熱核戦争を阻止するうえで、いまだ有効だ。世界で唯一の戦争被爆国、日本の非核3原則は堅持されなくてはならない。
1945年に日本が敗戦した戦争は、1941年12月8日の真珠湾攻撃・マレー上陸から始まった戦争、一般に「太平洋戦争」(アジア・太平洋戦争)とよばれるが、当時の日本の東条英機内閣は1936年7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争を含めて「大東亜戦争」と呼んだ。戦後、哲学者の鶴見俊輔氏は、1931年9月18日の柳条湖事件(満州事変)勃発から1945年8月14日のポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの足掛け15年(実質13年11カ月)にわたる日本の対外戦争、満洲事変、日中戦争、日米(英・中など含む)戦争の一連の全期間を一括して「15年戦争」と呼称した。私は鶴見説が妥当だと思う。
1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言の無条件受諾による降伏を連合国に通告、翌15日、天皇による「玉音放送」で日本国民に終戦が伝えられた。一般にはこれをもって「敗戦記念日」と称するが、実際には9月2日、東京湾に浮かぶ米国戦艦ミズーリ号上で、日本政府全権代表の重光葵(しげみつまもる)外務大臣が降伏文書に署名したことで戦争は正式に終結した。法的にはこれが日本の「敗戦の日」だ。なお、これ以降もソ連軍の侵攻など中国・アジア各地で戦闘は継続し、また日本はその後、沖縄を除いて、1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効まで、実質的に米国の占領下におかれた経過がある。
日本で一般に「終戦の日(敗戦の日)」とよばれる8月15日は、無条件降伏受託の日(14日)でもなければ、正式な降伏の日(9月2日)でもない。8月15日は、ただ天皇が国民に降伏をラジオで報告した(玉音放送)日に過ぎない。「終戦の日」と呼ぶには無理がある。そうしたことから、米国やロシア、韓国・朝鮮などは9月2日を「対日戦勝記念日」とし、中国(台湾)は翌3日を「対日戦勝記念日」としている。ただし、日本の植民地からの解放を勝ち取った韓国は8月15日を「光復節」、朝鮮は「解放記念日」と呼んでいる。
こうした歴史的経過が明白であるにもかかわらず、日本ではなぜ8月15日が特別の記念日視されてきたのか。大きな理由は2つある。
1つは、終戦が天皇のご「聖断」によるという聖断説だ。天皇がこれ以上国民を悲惨な目に合わせるのを食い止めてくれたという、平和を望む天皇(天皇聖断説)という図柄だ。2は、日本は広島、長崎に原爆を落とした米国に負けたのだという、戦後の対米従属を正当化する従米史観だ。
天皇聖断説をとなえるものの殆どは、天皇の名のもとにこの戦争を始めた際の天皇の戦争責任を否定する。「天皇無答責」論だ。「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。 大日本帝国憲法第三条の規定により、天皇が国政上の責任を一切負わないこと(無答責)であり、責任を負うのは、天皇ではなく各国務大臣だという論理だ。このことから昭和天皇裕仁の戦争責任を問うのは回避された。天皇が「聖断」で戦争を終わらせることができたのなら、天皇が戦争を回避することも可能であったのは当然だ。本来、天皇の戦争責任は免れるべくもなかったことだ。天皇の「戦争責任」を問わないまま、戦後、米国の支配下で天皇を美化し、天皇の戦争責任を問わなかった日本の支配層と世論の責任は重大だ。
1945年2月14日、近衛文麿元首相が吉田茂らと相談して天皇裕仁に「時局収拾に関する意見書(上奏文)」をだしたことは知られている。 この上奏文は、近衛文麿らが日本の敗戦が避けられないという認識を示し、早期の降伏を進言したもので、①日本の敗戦は不可避であること ②ソ連の仲介による和平交渉の必要性・国内外の共産主義革命を防ぐための早期講和の重要性などが説かれていた。しかし、天皇裕仁はこの近衛らの意見を「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」(一撃講和論)と答え、取り上げなかった。もしも、この時点で天皇が近衛の意見をとり入れ、講和に進めば3月10日からの東京大空襲(死者10万数千人)も、それに続く全国の大空襲も、3月からの沖縄戦(死者20数万)も、8月6日の広島(14万人の死者)、8月9日の長崎(7万人の死者)の原爆投下もなかったのは明らかだ。
近衛上奏文は「つらつら思うに我国内外の情勢は今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存ず」「米・英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも政治的危機に見舞われつつあり。而して之等武装団を指揮しつつあるものは主として共産党なり」「飜て国内を見るに共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観あり。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及、之を背後より操る左翼分子の暗躍等なり」などというものだ。
これには支配階級としての近衛らが抑圧してきた民衆による「共産革命」にたいするおそれと妄想にみちているとはいえ、早期終戦が切々と述べられている。裕仁天皇がこれを「一撃講和」論で退けた責任は大きい。
1975年(戦後30年)10月、昭和天皇は初の米国訪問から帰国後、皇居で日本記者クラブとの記者会見で「戦争終結に際し広島に原子爆弾が投下されたことを、どのように受け止められましたか」(以下、読売新聞、10月31日付朝刊より)と問われ、次のように述べた。
原爆投下を「遺憾には思ってますが、戦争中であることですから、広島市民には気の毒であるが、やむを得ないことと思ってます」と。読んでいて怒りに堪えないが、まるで他人事としての感想だ。彼は広島の原爆犠牲者に対して、責任のかけらも感じていない。
同じ記者会見で記者から「ホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』という発言は、陛下が開戦を含めて戦争そのものに責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか」と問われたことに対しては裕仁天皇は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないでよく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」と答えた。「あの不幸な戦争」は誰が命じたのか。誰が継続させたのか。全く責任の自覚がない。
(6)日本の軍国主義をうち破った主力はアジアの民衆
先に8・15天皇聖断説の問題点の2.に「日本は広島、長崎に原爆を落とした米国に負けたのだ」という、戦後の対米従属を正当化する従米史観をあげた。1931年から本格的に始まった15年戦争は近衛が上奏文を出した1945年2月には日本の敗北としてほとんど決着がついていた。近衛の提言を受け入れていれば、沖縄戦と8・6、8・9の原爆投下は不必要だった。日本はすでに敗戦をさとり、降伏の準備に入っていた。米国で一般化されている米国の兵士をこれ以上戦死させないために原爆投下は不可避だったという説はまやかしだ。米国は戦後の日本占領と国際的規模での対ソ覇権争奪のために、原爆投下をおこなった。
日本は満州事変からアジア太平洋戦争まで、中国や東南アジア、南太平洋などの各地足でかけ15年におよぶ侵略戦争を行った。この15年戦争で日本は総力戦体制をとり、戦場の兵士だけでなく、銃後の女性や子ども、植民地の人びとまでもが戦争に動員した。1937年以降、中国戦線にはのべ数百万人におよぶ日本軍兵士を派遣し、中国の民衆の抗日戦争で抜き差しならない泥沼にはまっていた。朝鮮や台湾からインドシナ半島・南洋群島などにアジア各地に多数の人びとが戦争に動員され、朝鮮、フィリピン、フランス領インドシナなど各地で抵抗闘争にあっていた。日本の15年戦争を敗北に導いた主たる力はアジアの民衆の抗日抵抗闘争だったことはあきらかだ。
おわりに、これまで見てきた天皇制への批判と憲法改悪反対の運動の関係を述べておきたい。すでに見てきたように、私たちの市民運動は憲法第1章の天皇制の記述には賛成しないし、そのため現行憲法のすべてを擁護する「100%の護憲」ではありえない。いうまでもなく現行憲法は(1)非武装平和、(2)基本的人権の尊重、(3)主権在民などの憲法3原則を明白にしており、すぐれた憲法だ。
2012年4月27日、自民党は天皇元首制や国防軍を復活させることなど憲法3原則の破壊を内容とした、現行憲法の全面改定を主張する自民党憲法改正草案を発表した。これは文字通り憲法改悪であり、私たちはこの憲法改悪に反対する。
目下、国政の多数派である改憲派が、憲法の改悪を企て、憲法3原則など憲法を破壊しようとしているとき、これに反対する課題こそが緊急な政治課題だ。
こうしたおり、現行憲法を100%擁護できないからといって、「対案」を対置し、憲法改正運動を主張するのは、憲法改悪策動を利するものとならざるをえない。「象徴天皇制」などの持つ現行憲法の弱点は、改憲派の改悪策動を食い止め、現行憲法の3原則などを日本社会で徹底して実現したうえで、あらためて社会全体に問わねばならない。
象徴天皇制についての議論を封じる必要はない。憲法改悪阻止の運動を害しない範囲で、積極的に議論し運動する。安倍・高市など自民党がいま企てている4項目改憲案((1)自衛隊明記、(2)緊急事態対応条項、(3)参議院の合区解消、(4)教育環境充実)の憲法改悪阻止は目下、「喫緊の政治課題」だ。象徴天皇制批判はイデオロギー的、思想的課題であり、市民運動の背骨的課題だ。運動がこれを区別して対応することこそ重要だ。私たちが「許すな!憲法改悪・市民連絡会」を名乗る理由はここにある。いま必要なこと、100%「護憲」派も憲法「改悪反対」派も、全ての「憲法改悪反対」の声を結集し、焦眉の課題となっている自民党らの改憲と戦争への道を阻止することだ。
(共同代表 高田 健)
「文民条項」と「緊急集会」の意義
◇◇◇―80年の時空を超え、貴族院での帝国憲法修正について考えるー◇◇◇
憲法の根本原理に関わる議論が行われていた。衆議院で可決された修正案をチェック、確認し、貴族院独自の検討が行われたのだ。
大きな項目として挙げておきたいのが、「文民条項」である。文民という言葉が聞きなれないのは、貴族院での造語とされるからである。なぜ貴族院で問題になったのだろうか?これは衆議院での議論で修正可決された、憲法9条2項の「前項の目的を達するため」(芦田修正)の挿入句が要因だったのだ。この語句が入ったことで、極東委員会(FEC:米英仏ソ中のほかオランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィリピンなどから成る)から、自衛を口実に軍隊を保持する余地を残すのではないかという指摘が強くあったのである。ここでわかるように、国際社会、とくに中国、インド、フィリピンなどアジアの国からは日本の軍事力保持に対する警戒感が非常に強いことが表われている。しかし、衆議院では、憲法9条2項で戦力不保持をうたっているので、軍人前提の条項は意味をなさない旨の日本側の考えで、文民条項議論は外され、GHQも了承していた。芦田修正が衆議院で可決されたことで、貴族院での議論の際に、文民条項が必要だとのFECの要求として再浮上したのである。9条2項の戦力不保持をさらに徹底補強する憲法条文として、行政権の主体である内閣構成の大臣に「文民」という語を造ったのだ。
これには明治憲法の軍事組織の在り方と軍事行動による戦争の反省が大きく関連している。明治憲法(公布)の大臣構成では、わずか10人の大臣中、陸軍大臣、海軍大臣の二つのポストがあり、現役武官制がとられていた。その他の大臣や総理大臣でさえ、軍人が就いていた時期も多い。つまり軍部が政治を執るわけで、おのずと軍国主義の性格を強く帯びるのである。平和憲法のDNAには9条と文民条項の保障が必須の要素といえる。現在の日本の状況は、「芦田修正」による自衛のための戦力が政府解釈の素になっており、国民には再軍備は当然のことのように考える方も多いと思うが、文民条項導入の歴史を見ることにも大きな意義がある。たとえ9条が自衛のための戦力を認めているとしても、セットで考える補強面「文民条項」を注視すべきであろう。
貴族院修正のもう一つの大きな項目は「緊急集会」である。貴族院は早晩役割を終えたうえで組織的には消え、参議院が代わることになる中で、この「緊急集会」条項を入れた。「緊急」といえば、明治憲法下の「緊急勅令」が思い出されるが、これは、天皇が「法律に代わる勅令」を発する制度で、「公共の安全を保持し、…または緊急の必要により、帝国議会閉会の場合において」とされていた。実際には 軍部の握る内閣が天皇大権を利用して、議会を迂回する手段となるものであり、文民規定のない中で、民主主義を蔑ろにする面を持っていた。
一方、緊急集会(憲法54条2項)は、衆議院解散中に緊急の必要があるとき、内閣の求めによって参議院が国会として機能する制度である。しかも、次の国会開会後、衆議院の同意がない場合は効力を失う。同じ「緊急」でも天皇大権による議会迂回手段にもなる「緊急勅令」と国会を構成する参議院の一時的作用である「緊急集会」とでは、権力の民主的性質が全く違うことは言うまでもない。実はGHQ案にも政府案にも、さらには衆議院の憲法審議においても、「緊急集会」の規定はなかった。貴族院においてはじめて深く議論が行われたのである。内容的にも二院制の意義を示すもので、衆議院の優越や行政権(内閣の求め)とのバランスも配慮されたものである。むしろ注意すべきは、「緊急の必要のあるとき」の使い方で、参議院の「緊急集会」の意義とは別に「緊急事態」と結びつける憲法議論があることだ。衆議院の憲法審査会で、衆議院解散中の緊急災害時等における衆院議員任期延長が議論され、改憲提案理由に挙げている問題である。参院の緊急集会の条文意義を損ねることだけでなく、「緊急事態条項創設」への転用問題を滲ませていることに注目し、80年前の緊急勅令との民主的差異を意識した議論をしっかり想起すべきである。
最後に文民条項があっても心配な政治の現状問題として「新軍国主義」がある。文民条項は、軍国主義にならないように採用した文民統制(シビリアン・コントロール)の仕組みのはずである。しかし、形式的には文民統制のように見えても、選挙で選ばれた肝心の「文民「が統制する軍部を上回って軍国主義を展開しているのが、高市政権である。真の「市民統制」シビリアン・コントロールが必要だ!
琉球大学名誉教授・前参議院議員・共同代表 高良鉄美
藤井純子(第九条の会ヒロシマ )
1992年から始めた「8.6新聞意見広告」、今年も無事、朝日新聞全国と中国新聞にカラーで掲載することができました。ご賛同・ご協力してくださった皆さん、心より感謝申し上げます。
今年はご覧のように「ひよこ」のイラストで、その周りのアピールを「ひらがな」にしました。紙面の製作を始める6月末、デザインを担当してくれるメンバーが提示してくれた5つの案の一つでした。これを見た世話人の一人が即座に「このひらがなは、子どもや日本語に不慣れな人たちの居場所のような意見広告になるね」と感想を。製作者の狙いは、「子どもや日本語話者ではない人にも読め、漢字混じり文に慣れている日本語話者の大人が読みづらいと思うことから得る他者への眼差しや内省」。みんなも合点! 「ひよこ」案に決定しました。
ひらがなにしたわけを「子どもも読めるからよね」と受け取る人も多かったようですが、中には「子どもだけでなく、漢字を読めない人も、よく分かるのでいいですね」「ひらがな表記は思いやりが感じられました」「子どもにも大人にもしっかり響きました」と好意的に受け取ってくださる方もありました。私たちの思いは伝わったでしょうか?
ここ何年か、意見広告の紙面を原爆シリーズにしていましたが、世話人の間で、戦争の悲惨さを訴える原爆ドームに頼りすぎていなかったか?という反省があり、今年はイメージを変えて「大軍拡反対、9条壊すな!人権守れ!」、これをストレートに伝えたいと話し合ってきました。
かつて軍都として侵略戦争に加担した出撃基地・廣島が、原爆を投下された被害・悲惨さを訴えるだけでは共感は得られるはずはありません。現在も、広島の西の岩国には中国をにらむ米軍基地・海自航空隊、東には米軍弾薬庫3か所、ミニ空母・輸送軍のある海自呉基地、弾薬等の集積基地とねらっている日鉄跡地・・・。政府は呉を再び、いえ、もっと強靭な「加害基地」にしようとしているのですから。
「捨てた筈の武器をほんとうに捨てねばならない」この言葉はひじょうに重く、私たち市民の課題は大きく、しかし諦めるわけにはいきません。子どもたちの未来を明るい社会にしたいと考えました。その私たちの思いが伝わったでしょうか?
30代女性―広告を見ると、こんなにもたくさんの人が憲法9条を守ることに必死になっていると感じた。この声のおかげで、今までなんとか戦争をせずに日本はやってこれたんだと思う。みんなで声を上げることを決してやめてはいけないと思わせてくれた。―と意図をしっかり理解してくださっていました。
50代男性―憲法を遵守することは政治家の義務であるにも関わらず、公然と憲法改悪を訴えるあまたの政治家。ひらがなで書かれる主張にも心づかいがなされている。―と憲法をしっかり理解されているようでした。
50代女性―緊急事態条項の違憲性はナチスが証明していることなど歴史を学び、同じ過ちを繰り返さないようにしなければならないと。戦争だけではなく、もっと広く人権と命を守ることを考えなければ、本当の平和とはいえないと思います。―と、紙面をよく読み込んでくださったようです。
70代女性―イラストも素敵です、虹の旗のようで引きつけられました。ヒラガナのメッセージもグッドです。
目からインプットしてもらいたいと思い居間に貼り、孫たちにもアピールしたい。―嬉しくて、カラー版をすぐに送りました。
このように読んでくださった方に何かの形で残った、届いたのであれば、それだけで取り組んでよかった、です。
朝7時、「8.6ヒロシマ平和へのつどい」は、公園外のピースプロムナードで「グラウンドゼロの集い」を行いました。ドーム前集会はできなかったのは、広島市が今年も8月6日、早朝5時か9時までの4時間、式典会場だけではなく平和記念公園への入場規制をしたからです。平和式典の妨げとなるとして、マイク・拡声機・大きな音のする物、プラカード・のぼり・横断幕、ゼッケン・タスキ・ヘルメット・鉢巻等の着用、ドローンの飛行など、市の判断で禁止し、従わない場合は退去命令。2012年以降、ある党派の大音量による集会・デモを問題視し、市は安全確保を理由に24年から公園全体への立ち入りを規制したのです。
平和公園はいつでも誰でも自由に入れる都市公園であるはずです。市民の表現・言論の自由を侵すこの広島市の姿勢への抗議に皆さんも応援してください。
8時15分のダイ・インで核被害者の悲痛な思い・核使用への抗議を表現し、反核・反戦のデモに出発し、中国電力本社前についたら首都圏、関西、九州など遠くからの参加とともに座り込み。この一連の行動が毎年の私の8.6です。よろしければ来年はぜひヒロシマに!
高市首相は8月6日、広島の平和式典で 「わが国は非核3原則を堅持しており、核兵器のない世界の実現に向けた努力をたゆまなく続けていく使命を担っている」(中国新聞8/7)とだけ述べ、将来3原則を堅持するとは言わず、被爆者は勿論、多くの市民が失望し怒りを覚えました。8月15日の敗戦日には、「戦争の惨禍を二度と繰り返させない」(中国8/16)と述べました。中北浩爾教授は朝日新聞に「『繰り返さない』 は、自ら戦争を起こした日本が不戦の決意だが、『繰り返させない』は、相手国が戦争を引き起こし、日本の起こした『侵略戦争』ではなく、やむなく戦争に向かった『自衛戦争』だったように読める」と書かれていましたがその通りであり、到底許されません。日本の首相であれば「侵略戦争を繰り返さない」というべきです。しかしこれまで「反省はしない」と豪語しており、高市首相のこの戦争責任への向き合い方がアジア諸国との関係に影を落としているのです。そして男系男子に固執する皇室典範「改正」、国旗損壊罪、国家情報会議設置など、まるで戦前回帰の法律を続々成立させました。この夏、各地で大きな災害が起こり、防衛費増額より被災者支援を! 現代版「富国強兵」路線を突き進み、人々の生活に目を向けない高市政権は国内でも信頼を失うのは明らかです。
1昨年、西日本で結成された「沖縄・西日本ネットワーク」は、大軍拡に抗い戦争を止めようとする人々がつながり全国に拡がっています。各地で企画される集いに駆けつけ、時に東京で政府交渉が行われています。私自身はまだ、鹿児島、大分、熊本、舞鶴集会に参加したくらいですが、そのたびに地元の人たちの頑張りに触れ、「ため息をついてばかりはいられない」と元気をもらって帰ることができます。この秋10月には、全国から東京に集まり、9日は政府交渉、10日は「許すな!憲法改悪・市民連絡会」と合同集会が計画され、とても楽しみです。
自由を求め、民主主義を目指す私たち市民の頑張り時。戦争へ向かえば市民を監視し、市民同士が監視し合う息苦しい時代へ後戻り。もうゴメンです。「新聞意見広告運動」も緩やかなつながりの一つ、見て参加していただければ幸いです。皆さんの頑張り・つながりに感謝しつつ。
渡辺治さん(一橋大学名誉教授)
(編集部註)7月25日の講座で渡辺治さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
今日は、221国会での皇室典範の改正問題に焦点を絞ってお話をしたいと思います。
高市自民党は2月8日の衆議院選挙で圧勝し、維新と合わせて衆議院4分の3の議席となった。これを背景に、国民民主党とか参政党などを利用し、議員立法方式を多用するなどして、国会での審議を無視、蹂躙する、強権的な議事運営を強行し、法案の成立を図りました。
高市は、自維連立政権合意で書かれ、選挙公約でも掲げた政策を、法律として強引に通すことで、自分の支持率の維持が図れるとふんで、意図的に強権的な国会運営を続けてきたと思います。
この221国会の異常を象徴するのが、皇室典範の改定ではないか。何故、ここに焦点を合わせるのか。一つは、高市政権は戦争準備の体制づくりを加速化しておりますが、今まで歴代政権が重視して取り組んでこなかった国民動員統合政策、国民統合政策に踏み込んできているからです。
その一つが皇室典範改正であり、国旗損壊処罰法案という形で、強制と同意という形を作りながら、中国との戦争体制に対して国民の強制的な統合を図っていく。もう一つは、典範改正は221国会の議会検証を象徴するからです。衆参両院の審議時間が両方ともに3時間余り。そういうとんでもない形で典範改定が強行された。
高市政権は、衆院選で圧勝して公約実現に励んだ。ほぼ連立政権合意で書かれたものを片っ端からやっているという感じに見えますが、大きく言って3つぐらいの柱に分かれます。
1つは、高市が選挙で勝利した大きな理由でもありますが、参政・国民の支持者であった若手現役層を分取って、減税と選挙財政を掲げて、軍事産業・戦略産業への国家投資と支援によって、新自由主義政治がもたらした経済の、長きにわたる停滞からの脱却を目指す。それは福祉国家型の政治ではなく、日本が高度成長期に行った開発進化型の国家投資による成長でもって、経済停滞からの脱却を図るという方針が骨太の方針です。次年度の国会では近代財政原則の最も根本的な原理である、年度ごとに予算を国会が審議するという、その大原則をひっくり返して、複数年度で予算を組むという、とんでもない方針を出した。この開発進化型の投資を行っていくのが一つです。これは高市が考えている、強い経済によって軍事強国の土台を作るという意味もあります。
2番目に、岸田政権から始まった軍拡の戦争準備体制の加速化と、憲法の改悪です。高市は安保3文書改定を今年度中に行い、次年度以降の国会でこれを予算の中でも具体化していく。同時に、それを阻む改憲問題では、憲法審査会に条文案起草委員会の設置をしようと進めてきた。それから改憲手続き法の改正を強行して、改憲態勢をいつでもスタートできるような形にすることも、今国会でやりました。
3番目が、戦争準備に向けた強い国民統合体制を作ること。典範改定は、排外主義的なナショナリズムの涵養に政権が乗り出したこと。それから、これが本当に日本の国民的イデオロギーになるのかというと非常に疑問ですけれども、この万世一系の皇統、男系男子の皇統の継続による天皇イデオロギーを中核に据えて、男系男子の皇統継承体制を、制度的に無理やり確保していく。80年前に皇籍離脱をした宮家の男系男子を養子にして、皇族に迎え入れる。その結婚による子供を皇位継承者に入れていく。そういう乱暴なやり方でもって、男系男子皇統体制という、極めて性差別的な体制の維持を試みました。
それだけではなく、国旗損壊処罰法は国旗に対する損壊を処罰する、これは国家情報会議設置法による国家情報局の設置と並んで、反戦的言動への治安体制作りに入ったということが言えるのではないか。
こういう3つの政策的な柱に基づいて、高市政権の下での軍拡は新しい段階に入ったと思います。
前史としては第二次安倍政権がありました。この安倍政権の時代は、アメリカの世界戦略の転換による要請というよりは、安倍政権自身の軍事大国化の要請に基づいて、集団的自衛権行使の容認、安保法制、自衛隊明記改憲の提起が行われました。岸田政権の軍拡は、もっぱらアメリカの世界戦略の転換に伴う圧力に従って、日本がそれに対応するという形をとっていた。ところが高市政権になって、トランプ政権の圧力が一層強まると同時に、高市政権自身が日本の軍事強国化を掲げて取り組んでいくという点で、軍事大国化の新段階ではないか。
その特徴となるのは2つです。1つは、今まで日本の支配層が防衛政策問題で必ずしも十分に取り組んでこなかった、軍事産業の国内での育成です。国家的な投資と支援による軍事産業と、半導体産業をはじめとした戦略産業も含めた軍事国家づくりを打ち出した。今までの防衛費の拡大は、もっぱらアメリカの圧力に基づいて、アメリカの最新鋭の兵器を購入することにで、財政面でアメリカを支え、日本の防衛体制を作ってきた。
岸田政権のときから、当面はアメリカのトマホークを購入することが必要だけれども将来的に見ると、日本の軍事産業の育成が、日本の軍事国家づくりにとっては不可欠ではないか、という形の検討が行われてきました。高市政権になって一気に進みました。高市政権では戦争準備をにらんだ統合体制という新段階へ踏み込みました。
総裁選挙の演説では、これ以上大切なことは無いという形で、「皇統を男系で引き継いでいかれるような皇室典範に変える」、「自衛隊の存在を憲法にきちんと書き込む」と高市は言っていました。これは高市が、安倍の自衛隊明記論に一貫して反対してきたというのに、高市が総裁になった場合には、憲法への自衛隊明記論でいくことを示した点で注目していました。この2つの柱を総裁選挙で打ち出していた。自民と維新の会の連立政権合意でも、この2つを明記しています。
4月12日の党大会で、私たちはどちらかというと「時は来た」、来年の党大会までに改憲発言ができるような環境を整えていくというところに注目しました。しかし実は2つの柱、皇室典範の改定と憲法の改正を、かなり長い文章をとって高市が展開していることが分かります。高市はこの2つの柱を、非常に重要な柱として位置付ける。憲法と皇室典範というのは、明治国家、天皇制国家を形作る2つの柱でした。
高市が憲法改正と皇室典範改正を位置付けるということは、憲法が必ずしも高市が目指すような国家、明治憲法に匹敵するような憲法となっていないという問題がある。同時にそうした国家づくり、軍事国家づくりをやっていくときに、皇室典範が高市の中で大きな位置を占めているということが分かるのではないかと思います。
高市が言っている皇室典範の文言は、参政党が2022年の参議院選挙に向けて初めて登場した時の、3つの重点政策の中で言っていることと非常によく似ています。126代にわたって男系で皇統が継承されてきたという、世界でも比類のない歴史的事実こそが天皇の権威と正当性の源だという考えです。
これは総裁選挙で言ったことですが、126代という神話に基づく、歴史的な事実としては津田左右吉以来、その正当性が疑われている。そういうことを平気で喋る。小林鷹之が、「皇紀」2600年以上続いた日本の天皇体制を維持するということを、記者会見でのうのうと喋る。こういうような時代がやってきた。
これから3つお話をします。
1つは、そもそも何故、皇室典範に、男系男子による皇位継承が規定されたのか。明治皇室典範に男系男子が規定されたのか。ご存知のように男系の系統というのは一貫してありますが、近世までに女性天皇は何人かいたわけです。この男系男子の原則は、極めて緩やかな形で近世まで行われていたのが、明治天皇制国家において制度化されていく。これは何故なのかということをまず考えてみたい。
2番目に、明治皇室典範が改正を受けた日本国憲法の制定の下でも、皇室典範の中になんと男系男子による皇位継承が残った。これは何故だったのか。専制体制が無くなったにも関わらず、官僚たちが天皇制イデオロギーを、明治典範の時代と同じような形で重要な武器として温存を図ったと考えられます。なぜ男系男子の皇位継承が残ったのかということを2番目に考えてみたい。
そして3番目に、なぜ今典範改正なのか、その狙いも含めて考えてみたい。
最後に、こうした問題が提起している象徴天皇制を巡る、あるいは男系男子の皇統皇位継承という形が持っている憲法問題も少し触れたいと思います。
明治憲法で、なぜ女性女系天皇が否定され、男系男子による皇位継承が制度化されたのか。これを考えるときに、実は天皇制国家にとって明治憲法と明治典範はセットで、天皇制の専制国家の骨格を作った2つの基本的な柱・文書であることに、注目しなければならないと思います。
この2つの柱で天皇制国家の骨格を作っていく理由は2つありました。1つは、日本が遅れた形で近代国家として列強に対峙していく。この中で、近代国家として治外法権を改革し、近代国家としての体制を西洋諸国に認めてもらうためには、国民代表議会を創設し、権利章典と国家権力の制限を含み込んだ近代的な憲法典を作る必要がある。これが第一の要請です。
伊藤博文が、権利の章典と国家権力の制限のない憲法は憲法ではないということを書いています。そういう近代国家としての体裁を作る。同時に、欧米列強に並ぶ急速な軍事力の強化、富国強兵のためには、議会や政党に掣肘されて、急速な軍事力の強化が阻まれては困る。議会と政党に掣肘されない専制国家体制を作ることが、2番目の主たる目的になります。
そのために憲法・典範は、議会による介入や政権交代によっても影響されないような、天皇制国家体制の基本を作る車の両輪として作られました。
とくに重要なのは、憲法の場合です。議会が作られると、民党と言われている政党が入ってきます。実際に、後の政友会に見られるような大きな勢力。それから憲政会、民政党に行く民党の流れがあります。大日本帝国憲法は、そうした議会の多数派がたとえ政権を握っても、天皇制の政策が揺るがない、議会の関与を許さない軍事・外交、とくに軍事を大権として国会の承認を得ない形での天皇の権限としてこれを列記する。とくに重要なのは、統帥権独立という大日本帝国憲法11条です。これは単に議会の関与を許さないだけでなく、天皇が直令する軍事政策、軍事作戦の発動は、内閣、政府それ自身の関与を認めないという形で統帥権独立を確立しました。
いま論議になっている憲法の緊急事態条項ですが、私はドイツではなく明治憲法がモデルになっていると思います。緊急事態宣言の中にある緊急政令にあたる緊急勅令が、明治憲法の8条に規定されています。天皇が持っている、政党内閣によって規定されない専制的な権力が、いかに手厚く保障されたかということがわかります。
典範の方は、改正できない。天皇の発議が無ければ、憲法改正をできなかった。その憲法も、自由民権運動以来の民党の高揚の中で、もしかしたらその政権も落城するかもしれない。その時にも天皇制の体制が維持できるように、皇室典範は国会の審議を経ない、天皇が勅令する法律として作られています。ですから、いかなる政権ができても、皇室の自立性を担保するという形で皇室典範が作られた。従って大臣の副書が無いという形で、大日本帝国憲法と同じ1889年に作られ、典範皇室関係法規を憲法から外すことによって、政権交代でも存続できるようにする形になりました。
そこで典範が重視したのは、新しい天皇制の形、伝統を踏まえながら作っていくときに、3つのポイントを重視していました。1つは女帝を認めるかどうか。もう1つは天皇の退位を認めるかどうか。それから3番目に、これも現在の典範改正で出てきますが、養子制度を認めるかどうか。
この3つが明治典範を作るときに、大きく、天皇制官僚たちが議論をした中身となります。
女帝否認、庶子容認はなぜ決まったか
一番大きな議論は、女帝と退位という問題です。この女帝否認、庶子容認が何故出てきたのか。
元老院が作った最初の日本国憲案第一次案は、西洋諸国における君主制のあり方を見て、男系男子の継承を原則としながら、男系男子が払底した場合には女帝を認める。例外として女帝を容認するという体制を作って、規定を設けていました。ところが伊藤博文や井上毅らが、皇室法づくりに取りかかる中で、1886年に制度取調局を作り、井上毅が謹具意見という結構有名な論文を書いた。これで徹底した女系天皇批判論を展開し、女系天皇の否定、男系男子による皇位継承体制を確立するということに方向づけられます。
井上毅が女帝批判を行った。確かに、日本は近世までに女帝がいる。それを踏まえて、例外的に女系、女帝を容認すべきだという意見がありました。この歴代の女帝は、全て男子の継承へのつなぎにすぎない。「中継ぎ論」です。要するに男子が成長していない、あるいは男系男子の皇位継承者がいないときに、ピンチヒッターとして女帝が用いられたに過ぎない、というわけです。
今、古代史の女性研究者たちが、その中継ぎ論というのがいかに間違っているのかということを、いろんな形で研究しています。けれども、当時は中継ぎに過ぎない。その証拠に、すべての女帝は未婚である。つまり婚姻をして夫を設け、子どもを設けるということになって、女系の方、他の氏姓の方に万世一系の皇統が移動してしまうことを避けるために、女帝は全て未婚の女性である。これから見ても日本の男系男子の皇統というのは言える、ということも言っています。
いわば、家父長的な家制度の中で構成された女系によって氏姓が変わらないように、男系主義を貫くということから女帝も否定する。女帝を作ったとしても一代限りで、皇位継承は不安定になるだけだから、女系を否定するだけでなく、近世までにあった女帝そのものも否定すべきだと、井上毅は言っています。
明治典範の第一条で、大日本帝国憲法の第二条を適用することになります。大日本帝国憲法第二条で、明示的に、「皇位は皇室典範の定めるところにより皇男子孫これを継承する」。これを踏まえて、明治典範の第一条は、「大日本国皇位は祖宗の皇統にして男系の男子これを継承する」という規定が入りました。
何故これが入ったのか。大日本帝国憲法第一条の、「万世一系の皇統」というのは、日本の天皇制が、大日本帝国憲法によって、初めて正当性を得たものではない。日本の天皇制の体系は、皇紀起源で言えば2600年以前から126代にわたって続いている万世一系の皇統、この伝統によって、天皇は統治の権限と権威を持っている。それを憲法は単に保障した、確認したにすぎない。憲法によって天皇の権限が生まれたのではない。万世一系の伝統によって天皇の権威権力が生まれている、という大事な規定です。この万世一系の中身は、皇統による男系男子の継承、男系主義の継承に尽きるわけです。
男系による皇統の永続を、日本の天皇制国家の正当性の最も大きな根拠として定めるためには、男系主義を制度化しなければいけない。これが、第一のイデオロギー的な理由だった。
もう一つ大事なことは、現実に天皇制の専制国家体制を運営していくときに、その運営の意思決定のシステムにも、この女系天皇否定というのは関わっていた。単にイデオロギーとして、男系男子によって皇統が連綿と続いている。これが日本の万邦無比の天皇制の根拠だということで、国民に対してそのイデオロギーを強制していく。様々な形で強制していく根拠となるのは、皇室典範の第一条だった。それだけではなく、天皇は明治憲法によって、専制的な国家体制、国家権力を持っているわけです。
とくに重要なのは、軍事、外交、財政、行政、あらゆる所において、議会の関与を許さない大権を保持する。緊急事態においては天皇独裁、軍事独裁の権限も持つ形になっている。だからといって、日本の天皇制国家体制を天皇独裁にしたくない。天皇の個人君主に権限を集中しているけれど、君主の思うままに日本の天皇制国家を動かすということは絶対に避けなければいけない。支配階級の総意によって作られたことを天皇が認めて、それを運営していく。外形的には天皇が全権力を握るけれど、天皇の支配層の総意と食い違ったような、天皇の個人的意思は認めるべきではない。それから天皇を中心にして、支配層の総意を覆すような外部からの意思決定や力、これを遮断しなければいけないという考え方が非常に強くありました。
その場合、なぜ女帝が問題なのか。ここが非常に女性差別的な、当時の社会意識を前提にしないと理解できないわけです。女帝は必ず皇婿によって、皇婿つまりその夫によって支配される。従って天皇制国家の意思決定の体制に対して、その女帝を通じて、女帝の皇婿を通じて、外部の意思決定が入ってくる。女帝と、邪悪な意図をもって家族が結婚し、政治を牛耳ろうとする。そういう意思が女帝を通じて入ってくる。これを遮断しなければいけない。
退位を否定することも同じような狙いです。日本の天皇というのは“私”が無い。終身在位で生きている限り、天皇は政治権力の掌握者として働かなければならない、というイデオロギーでもあります。同時に、退位をちらつかせることによって、天皇が支配層の総意を覆すような行動に出ることがある。意見を聞いてくれないのだったら、自分はもう退位をする。明治天皇は、日露戦争でロシアとあんまり戦いたくなかった。そのとき伊藤博文に対して、退位でもしたいということで脅しをかけたということがあります。そういうことを避けるために、退位という制度は作らせたくはない。あるいは逆に、退位という制度があると反天皇的な政治勢力が、そのいかがわしい天皇を、自分と方針の合わない天皇を、強制的に退位させて、自分に見合った天皇を擁立するというようなことも行われる。り近世までの天皇制の歴史を見ると、退位を通じて様々な攻防が行われた。
こういうことは近代天皇制国家においては、絶対避けなければいけない。女系によって皇婿の影響力が入ったり、それから退位によって、様々な天皇の個人的な意思を介入させることもいけない。
養子についても同じです。皇族に対して養子を送り込むことによって、家族勢力や有力な閥族が天皇制の意思決定体制に介入しようとする。それもやってはならないということで、男系主義のイデオロギーと同時に、天皇制国家の専制的な意思決定を一部の専制的な官僚によって牛耳る。外部からの介入を許さないという体制を作るためにも、こうした皇室典範の厳格な退位否定、女帝否定、養子否定というような考え方が生まれ、制定されました。
男系男子による皇位継承制度はなぜ可能だったのか
男系男子による皇位の継承は、何故可能だったのか。明治典範で、今まで慣行としてしかなかった、女系女性天皇を一切遮断するということが制度的に取れたのは、どういう社会的な状況があったのか。2つの要因があったのではないかと考えます。
一つは、当時の天皇の妻というのは、様々なランクがある複数の人数がいて、しかもその妻の座を占められない側室というものがいた。実際に男子が生まれない場合には、次から次へと側室を替えて子どもを作る。その側室が男子を産んだ場合には、正妻の子ども、あるいは何番目かの妻の子どもとして承認して継承させる。皇位継承権を与えるという制度が、江戸時代、近世のあたりではほぼ確立していた。つまり庶子という制度、側室庶子という制度があって、初めて男系男子が恒常的につながれることになったと思います。
一つの例として、1735年、享保時代です。即位をした115代の桜町天皇がいます。桜町天皇から、大正時代に天皇となった123代の大正天皇に至るまでの190年間、ほぼ200年の間、9代連続で、天皇は側室から生まれた庶子でした。
側室庶子制度というものが無ければ、こうした差別的な制度に支えられない限り、男系男子の継承はありえなかった。男系男子で側室を批判するようなことが、枢密院の会議で問題にされます。その枢密院の会議で、側室なんてものを決めて、西洋諸国の中で日本が近代国家としての尊厳を疑われるというような議論をするときに、肝心の主人公である天皇は庶子である。大正天皇も庶子であるという事態があった。この側室による庶子制度が皇位継承を支えたわけです。
ところが西欧先進国では、すでに19世紀の中葉に一夫一婦制度が定着してきた。従って日本において、天皇制という、その継承に関わる制度の中に庶子というものを認めていくことは、非常に日本の法制官僚は苦慮せざるを得なかった。そこで井上毅は、種々の方法ありとか、何を言っているのかよく分からないようなことを言いながら、この庶子制度を認めていきます。「明治皇室典範」の第4条でさりげなく、皇子孫の皇位を継承するは嫡室を先にする、公嫡室子孫、皆あらざるときに限る。つまり嫡室、嫡室の子どもを先に皇位継承権を与えて、庶子は皇位継承権を有する。公嫡子が全ていなくなったら、公庶子にあたる、という形で差別をする。日本では公庶子という制度を、さりげなく4条と、7条の中に入れました。
もう一つ重要なことは、男系男子という性差別的な制度を、天皇制の万世一系の制度の中軸として世襲制度の中を入れていく背景には、女性差別を是認するような国民意識が、相当あったと考えられます。
皇室典範の女帝問題の議論の中で、自由民権運動の結社の嚶鳴社が女性天皇論争をやります。女性天皇、女帝を認めるべきか認めるべきでないかということを、当時の民権運動の活動家たちが集まって議論をしました。その議論の中で重要なのは、嚶鳴社の民権運動活動家の主要な一人で沼間守一とか島田三郎が議論しています。結構早く死んだのであまり有名ではないですが、沼間守一の女帝否定論を嚶鳴社は取ります。沼間は色川大吉さんが、近代国家の民権運動史の中で非常に高く評価した民権運動の活動家です。
その理由は、男を尊び女を癒しむの慣習、人民の脳髄を支配する我が国に至っては、女帝を立て、皇婿を置くの不可なるは多分を費やすを要せざるべし。女帝は必然的に皇婿に従順ならざるべからず。卑しくも陛下にして第二流、つまり第一流は女帝の旦那だ。第一流女帝の皇婿だと。従って陛下は女帝の場合に第二流であるが如き感情を全国人民に抱かしむのは問題だと言って、女帝を否定していく。こういう考え方が民権運動の活動家の中にも、かなりあった中で、女性差別的な制度を踏まえて、万世一系の天皇は男系男子による。そういう皇室典範の制度設計が可能になったと思います。
戦後日本国憲法の改正の中で、大日本帝国憲法が根本的に変わって、天皇の専制体制から天皇を象徴として、国民統合の象徴として認めるような体制に変わっていきます。その中で皇室典範はどのように変わり、どうして男系男子が残ってしまったのか。
戦後改革期の、皇位継承問題あるいは皇室典範全体の評価から言うと、日本国憲法も専制的な国家体制を民主化して、人権保障と平和主義、民主主義を掲げた。画期的な日本国憲法に変わりますが、当然、日本国憲法は一枚岩ではなく、古い明治の専制国家体制の規範である明治憲法を引きずるようなところもあります。
その一番大きな例が、天皇という世襲の君主を国の象徴としてであれ、第一条にもってきた。この天皇という規定は、日本国憲法の第一条、天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づくと書いてあります。この天皇は一体誰なのか、ということは日本国憲法にはどこにも規定がありません。
みんなが天皇といえば、あるイメージがある。日本国憲法では、天皇とはという規定がどこにもない。極めて珍しい。第一条に出てくる天皇とは、いかなる人物であり、いかなる形で制度が作られているのか。一言も書いていないことに証明されるように、大日本帝国憲法下の天皇制を引き継いでいる。
第一条でGHQの要請によって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基づく、という言葉を入れられました。これを入れるのを、日本の法制官僚は徹底して嫌がった。
この第一条は、国民主権の規定です、と私たちは言いますが、実は「天皇は」という形で始まります。後に、ちょこっと、この地位は、主権の存する国民の総意に基づくという形で、国民主権だということを想定する。こういう規定の仕方になっているところに、日本国憲法の矛盾の産物があります。日本国憲法のその矛盾に比べると、皇室典範の方は一層伝統的なシステムが残りました。
それは何故なのか。支配層は、敗戦の最後の最後まで占領軍や連合軍に対して「国体護持」を要求した。この国体護持というのは天皇制の維持と普通言われますが、一般的に天皇制度を残して欲しいということではなかった。全権力を持った天皇制度、全権力を持った天皇制の専制的な権力を持った天皇をそのまま残してほしい。これが国体の護持という意味だった。従って占領下で憲法の改正がGHQによって出された時に、日本政府の憲法改正案は、1条から4条の天皇制の部分については、全く改正はしない。そのままの形で残るという形で、日本の政府は頑強に天皇制の本体部分を守ろうとしていた。
当時、数十の民間憲法草案が出てきますが、民間憲法草案において、この天皇制を戦争の反省を踏まえてどのように憲法に書き込むかということが当然問題になった。天皇制が、日本の敗戦をもたらす専制国家体制を倒して共和制を実現すべきだという意見は、本当に少なかった。一つは日本共産党が11月に最も早く新憲法の骨子を出しますが、その中で日本の共和制ということを謳います。
もう一つは、日本国憲法にもGHQの翻訳を通じて、相当に影響を与えた憲法研究会、有名なのは鈴木安蔵です。憲法研究会の全体の案としては共和制案が否決され、中心的なメンバーの一人であった高野岩三郎が個人の意見として、憲法研究会の天皇制論とは別に共和制の憲法案を作った。この2人だけです。当時の日本の戦後改革の大きな流れの中で、いかに共和制という考え方が薄かったか。これは非常に大きな問題として、何故そうだったのか考える必要があると思います。
そういう中でGHQの天皇制に関する、あるいは皇室典範に関する方針が決まっていきます。マッカーサーが、天皇制の存続という方針を打ち出していく背景は2つありました。
1つは、日本国民にその権威が浸透している天皇制を、外部的に占領権力が潰し、共和制を取るという場合には、人民の多大な反抗を招きかねないという統治上の問題。もう1つは、逆に同じく統治上の問題で、日本国民に天皇制を存続させ、天皇の支持を得て占領改革を実現するということによって、占領改革の円滑な遂行が可能となる。こう考えてマッカーサーは天皇制を残しました。
ただし、あの専制的な権力である天皇制を残すことは、もってのほかです。天皇が戦争と専制の橋頭堡にならないような形で、戦争、政治権力から周到に除外する。これは日本国憲法4条で、国政に関する権能を有しないと明記し、天皇は列挙された国事行為を行う。その場合にも、内閣の助言と承認を得て行う。これだけの行為に限定する形で、象徴としての天皇制を残す。権力を完全に剥奪することによって、国民統合の権威としての天皇を利用したいのが、GHQの考え方でありました。
その結果、GHQの典範改正方針は、マッカーサーが全体としては天皇を権威として利用していくことになります。皇室典範の天皇の皇室制度は、憲法の人権あるいは民主主義の諸規定と矛盾するところについてはGHQは指摘するけれども、全体としては日本古来の伝統だと言われた場合には、GHQは相当甘くそれを認めていきました。従って日本国憲法を作るとき、日本側の当局とGHQとの厳密なやり取りの中で、緊迫した対抗が行われるけれど、皇室典範の改正問題は、GHQはよほど甘かった。
GHQが要求したのは3つで、1つは典範という言葉は日本の官僚が盛んに使っていて、結局これが日本の憲法の中に残ります。この皇室法は議会制定法でなければならない。つまり天皇家が勝手に作る法規範ではなく、国民代表の議会が議論して制定する典範でなければならないというのが一つです。民主的なシステムによって議論された、そういう法律として典範を作り直すというのが第一です。
2番目に専制的な天皇制に基づく規定で、これも明治典範で初めてできる元号制です。元号制というのは、元々は様々な祝辞とか災厄が起こった場合には、一人の天皇の下で元号を変えていきました。ところが明治の万世一系の天皇制を確保する中で、一人の天皇に対して一つの元号という、一世一代一元制が採用されます。そういうことが皇室典範の中に書かれていました。そういうものは無くす。天皇の生涯によって時代や時期を区分するのは、非常におかしい考え方だとして、これはやめてほしい。そういう形で、元号制は典範から削除されます。
もう一つは、憲法の20条の政教分離です。これに明白に背反する神道的な制度、三種の神器の継承とか大嘗祭の規定とか、こういうものは厳格に排除してほしい。この3つの要請以外の部分については、GHQは日本側の伝統を理由とした抵抗を結構受け入れた形になります。
そういう中で、昭和皇室典範も、女帝の禁止問題、退位問題、皇室の婚姻の自由の制限問題、それから養子の禁止問題、という辺りが大きな議論になります。
1946年3月、臨時法制調査会の第一部会の中でこうした議論が行われます。こうした議論が、明治の典範と違って密室で議論されたのではなく、臨時法制調査会の中で、学者とそれぞれの有力な政治家、官僚の中で行われていきました。その中では、女系問題あるいは退位問題あるいは民主主義の問題をめぐる、当時の日本の人権をめぐる対抗の状況がよく現れていると思います。
日本側の法制官僚の典範改正方針は、明治憲法体制と違って専制的な権力を正当化するという意味は無くなりました。民主主義的な体制が作られました。従って専制的な国家体制の正当化、万世一系のイデオロギーの必要性の訴えは無いけれど、当時の戦後保守政治の下では、天皇の権威というものが、戦後の復興に非常に重要な大きな役割を持っていた。そういう意味で、天皇イデオロギー・天皇の権威は、保守政治にとってできるだけ使いたい。GHQが目をつけない限り、全ての伝統的な典範の体制を残していく方針を取りました。
今でも有名な宮沢俊義氏とか杉村章三郎とか団藤重光、何人かの有名な憲法学者、刑法学者が入っていた。そういう者の意見と法制官僚の意見が激突する中で、いくつかの規定が決まっていくことになりました。
女帝の否定をめぐっては、明治典範と違って万世一系のイデオロギーを正当化する必要はなくなりました。また天皇は政治権力を持たなくなったわけですから、その外戚によって、あるいは皇婿によって、政治的な変な意見を持ち込まれる危険性はなくなります。天皇は象徴に過ぎず政治から一切隔離されている。女帝を作ったからといって、女帝の婿さんが政治的な介入をして、日本の国政、意思決定が乱れるとか、養子をぶち込んで、天皇家にある政治勢力の利益を実現しようとか、そういう必要は無くなります。
にもかかわらず、なぜ女帝は否定されなければいけないのか。なぜ養子は否定されなければいけないのか、なぜ退位はいけないのか、という問題が当然出てきて議論の対象になります。
とくに女帝問題については、日本国憲法の14条が規定され論議をされています。それを横目で見ながら臨時法制調査会としては、男系男子の皇位継承論は全くおかしいのではないか、という議論が当然出てきます。宮沢俊義氏もそういう意見を出した。その中で男系男子の皇統継承を残していかなければいけないという、防衛の論戦を官僚側が張るわけです。
ここで出てくるのは憲法二条です。皇位は世襲であって、国会の議決した皇室典範の定めるところによると書いてあります。皇位の世襲というのは、血統によって行われる世襲、位を血統によって受け継いでいくことに過ぎません。しかし、そうではないと法制官僚は言います。日本の万世一系における世襲の中には、男系男子による世襲という意味が当然含まれている。
一般的に親が子、子が孫という形で受け継がれている血統による継承ではなくて、男系男子による継承が、この世襲という言葉の中に含まれている。だから日本国憲法二条の「皇位は世襲のものであって」というこの世襲は、男系主義をもった世襲が日本国憲法の二条における世襲である。それを認めるとすれば、新皇室典範においても、その第一条において行われる皇位継承というのは、皇統に属する男系男子の継承を受け継がなければならない、というような議論をしています。
もう一つ重要なことは、法の下の平等で書かれている男女同権というのは、国民一般の中で、男性と女性が同じ権利を持っているということである。皇室典範の場合には、皇族であるという天皇の血統に伴うほんの一握りの皇族メンバーの中で、どういう形で世襲を行うかであり、男性と女性の役割分担は、日本国憲法が規定している男女同権とは違う。皇位資格者というほんの一握りの中での不平等というのは、国民一般の男女同権に違反するとは言えない、という議論を展開します。
これも後で奥平康弘さんなんかが議論するときに、この議論を非常に参考にしていくことになります。だから男女同権の法の下の平等の否定ではない。ほんの一握りの人たちの中で行われる男女同権の否定、つまり女性の皇位が認められないということは、国民全体の中での男女平等とは関係ない、という議論を展開します。
退位の否定についても同じように、盛んに官僚機構が主張して残そうとします。これは近世とか中世には後鳥羽上皇とかがありました。政治的混乱とか上皇の弊害ということで、官僚機構が残そうとする。で
も一番大きい退位の否定は、これを認めると、当時ふつふつと支配階級の中からも生じていた昭和天皇の退位論が出てくる。もし退位を認めてしまうと、戦争責任を取って昭和天皇は退位すべきではないかという、国民の中に鬱屈している意見が出てきた時に、それを抑えることができなくなるということが言われました。政治権力を持っていない象徴であるからという論理で退位を否定する。これは臨時法制調査会の中での議論です。
これが皇室典範改正論として帝国議会にかかります。帝国議会では、新しく登場した国会議員たちは、自由党の国会議員も含めて男女同権論から、男系血統の皇統は違憲ではないかという議論が盛んに行われます。その時に金森徳次郎は、様々な形で反論しました。金森は、皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところによって決められる。この国会の議決によって、男系男子の継承論も認めれば、それは合憲論になると。今で言えば立法裁量論という考え方です。そういう考え方を主張して、皇室典範の改正論を乗り切っていきます。
今から考えると、この時代の社会的な過渡的な状況があります。身分による差別、天皇制というものに対する国民の権威と、それに反対する空気。あるいは戦争責任を追求するような運動の議論と、それから社会的に広範囲に批判が始まっていた女性差別に対する様々な運動。それに伴う憲法や刑法の法改正をめぐる様々な議論が、今までの非常に差別的な戦前戦時の議論が急速に変わりつつあったとはいえ、非常に脆弱なものであったといえます。
例えば、刑法学において、天皇の不敬罪というものが残っていた。食糧メーデーのときに、日本共産党員の松島という労働者が、“朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね・・”という旗を掲げて行進をする。それを、治安維持法をはじめとして全て立法が廃止になってしまいましたから、警察当局は思い余って、この不敬罪が刑法の中に入っていて廃止にならなかったために、これを適用して発動し、不敬罪で逮捕するわけです。
そこからGHQの中に、日本にはまだ天皇に対する不敬罪というものが残っていた、ということが初めて明らかになった。その不敬罪が日本の戦前戦時期にかけて、いかに多くの社会運動の活動家や人々を弾圧したのかということが明らかになる中で、不敬罪が廃止になります。当時の刑法学会は、臨時法制調査会の中で不敬罪擁護論をとります。
団藤重光という、当時も最もリベラルな若手の刑法学者だった。この団藤重光が、なぜ不敬罪は合憲かと言ったら、天皇を象徴としている。その象徴としての天皇を保護するような規定は、憲法上、違憲とは言えないという議論を取ります。
あるいは、姦通罪というものが刑法の中に入ります。姦通罪というのは、もっぱら不義密通を男性については問題にしないで、女性が行った不義密通については、夫の申告罪によって姦通罪を徹底するという極めて性差別的であった。この廃止運動が起こると同時に、女性運動の団体の中でも姦通罪の廃止に反対して、いわば両罰規定、男性の姦通についても女性の申告によって姦通罪を処罰する。女性の不倫についても男性の発案によって、これは今の韓国がそういう両罰規定の姦通罪を取っているわけです。姦通罪というものは、明らかに女性差別の法律ですけども、そういうものをどうすべきかということについては、必ずしも一致して、これを廃止しろという風にはならなかった。そういう状況の中で、この皇室典範の改正がスルッと、男系男子の皇統を継承するという形で通ってしまったことが、大きな問題だと思います。
1947年に作られた昭和典範の改正以来、初めて皇室典範の本体改正が行われたのが、今回の典範改正です。80年近くの間、皇室典範はいじられなかった。2017年の皇室典範の改正は、平成の明仁天皇の退位を認めた典範改正です。明仁天皇も、多くの人々・野党の人々も、典範本体を改正して退位を制度化しろという要求をしていた勢力がありました。けれども結局退位特例法という形で、典範本体の改正には至らなかった。おおよそ80年ぶりの、初めての昭和典範の改正が今回の典範改正でした。
それは何故起こったのかということを見ておく必要があります。戦後の政治史の中で支配階級の中に、天皇をめぐる大きな2つのイデオロギー、天皇利用をめぐる2つのイデオロギーが、常に対抗しあった。ときに右派的伝統的な天皇論、天皇の利用論が優位に立ち、一方では保守政治の主流である、天皇を国民統合の補完的な道具として使っていこうというようなグループです。天皇利用をめぐる攻防が、保守政治の推移の中で展開ています。
天皇の制度をめぐって、これまで天皇の制度を強化しようとする法案が通りました。一番大きいのは1950年代から始まって60年代の後半73年に至るまで、繰り返し行われた靖国神社の国家護持法案の制定策動でした。当時の伝統的な右派勢力が、靖国神社を国家護持することによって天皇制の再建をもたらそうと言っていた。当時の自民党政治の保守本流の中で、結局のところ成立させることができなかった。自民党の主流は靖国神社国家護持に反対します。これは建国記念日の制定問題もそうです。当時、私も建国記念反対闘争なんかに行きました。そういう反対運動の中で、戦前の復興となるような政治が疑われる。そういうことが国民統合にとってはふさわしくないということで、事実上、自民党主流が潰しにかかり、これはできませんでした。
1966年には建国記念の日が、祝日法改正という形で通りました。79年になると元号法制化です。天皇の代を、一世一元制の元号法制化をすること行われました。85年には、中曽根康弘によって靖国神社の公式参拝が行われました。
この4つはいずれも保守の伝統派から、天皇の制度を強化することによって、国民統合に天皇の権威を利用していきたい。高度成長の中で、解体・分裂する社会的な状況に対して、その権威的な統合を図りたいという意見に基づいて、右派が推進し、一部については保守本流も納得してこれを通す。保守本流がやる気がない場合には、それが潰される事態になりました。
建国記念の日も、祝日法改正という形で、祝日が増えるよと国民に入れることによって建国記念日を決める。右翼にとってみると、極めて屈辱的なやり方で、この祝日法が通っていきます。
しかもその日から、ほぼ毎年何十年にもわたって、2.11は未だに集会が行われる事態です。
89年の大喪を境にして天皇の制度、あるいは天皇の行動について、推進するのはむしろ保守本流の側です。冷戦が終わって新しい時代に入っていく中で、天皇に国民統合の新たな役割を求めていく。こういうグループの保守本流の勢力が大きく前進して、天皇訪中を、右翼の反対を押し切ってやっていく。
大喪、即位の礼と大嘗祭についても、国際的な舞台で行っていくために、神道的な儀式と、そうではない非宗教的な儀式を峻別して行う。非常に折衷的なものですけれども、そういったやり方について、右翼の猛烈な反対の中で、実質的には政府が仕切っていく。天皇訪中についても、右翼勢力から初めて公然と天皇の訪中反対の声が上がってきます。
1999年には、右翼ではなくて野中広務によって、国旗国歌法を定めていきます。2005年~6年には女系容認の、男系男子継承を否定するような有識者会議の報告が出て、それが成立一歩手前までいきます。そして2016年から2017年には、ついに天皇の発意でもって退位が実現します。という形で、伝統的な天皇の権威派が押されて、むしろ保守本流の中で、国民統合にとって有用な女性天皇を認めて保守政治の安定化を図る。あるいは国民統合のシンボルとして女性天皇を使っていこうというような、保守政治の側での新しい意見が登場します。
天皇の、戦争や平和問題についての思いを利用しながら、明確な謝罪抜きに、天皇を謝罪の特使としてアジアに派遣する、中国に派遣するという形で、戦争責任問題を、これでチャラにしたいというような形で天皇を利用していく。
そういうことに対しては、右翼が猛然と反対して、そういうことに天皇を使うことによって天皇の権威を主張していくことは、とんでもない話だという形になるし、天皇自身が、そういうものに熱心に取り組む中で、右翼の天皇批判が非常に強まってくる、そういう時代でもありました。ですから、戦後政治の中で、天皇を国民統合のどういう形で使っていくのか。そのために、一つの争点として女系女性天皇を認めるべきか、認めるべきでないかという議論が登場する形になります。
画期となったのは昭和天皇が死去して天皇明仁が就任する時代でしたが、明仁では昭和天皇のような強い権威を持ち得ない。そういう明仁が自分の権威を確保するために、新しい天皇像を打ち出していく。その中には地域への行幸、高度成長と新自由主義の開幕の中で、荒廃する地域に寄り添う。あるいは被災地をめぐって様々な形でのイベントに参加をしていく。沖縄に4度も行き、サイパンやペリリューなどに慰霊の旅をする。あるいは環境問題で、原発にも批判的なコメントをする。今の社会の中で一定の役割を果たすことによって、天皇の権威というものを保っていかなければならない。
厳格に天皇の国事行為に限定した日本国憲法の規定を、明仁自らが蹂躙し逸脱する中で、公的行為を膨らましていく事態になりました。90年代には明仁の公的行為の拡大と同時に、明仁の次の皇位継承問題をめぐって、戦後では一度も登場していなかった、皇位継承問題が登場してきます。
戦後皇室典範は、男系男子の継承を決めました。明治典範の中で、男系男子の性差別的な制度を維持するのに不可欠な制度であった側室庶子制度は、当然のことながら、第二次世界大戦後の日本の政府によって否定されます。庶子制度を法的にも皇室典範の中からも削除する。国民の道徳の指標である天皇家が、側室と庶子によって維持されていることは、国際的にも全く通用しないので無くなります。
その時には男の子がたくさんいたので、別にどうということは無かった。90年代に入って少子化の流れが出てくる、明仁天皇自身が公的行為をどんどん膨らませ、従って皇族の人数も足りなくなってくる。同時に皇位継承者の男系男子が非常に不足してくる中で、皇位継承問題が浮かび上がってきます。皇位継承問題をめぐって、伝統派と保守本流派の天皇構想が非常に食い違って対立する事態になります
最初にこの問題に取り組んだのが、2005年の小泉政権の下での小泉有識者会議でした。この時は、明仁自身が皇位継承について強い危機感を持って、この問題に臨んでいました。明仁天皇は当然伝統的な天皇イデオロギーを保持しなければいけないという考え方でした。明仁天皇は男系男子の継承にこだわって、当時の皇太子の妻に対して非常に圧力をかけた。雅子が女性を産むと、次に男性を産まなければならないとか、努力をしろとか、セクハラまがいのことをやっていた。
2007年、第一次安倍政権の時には、自民党の柳澤伯夫が、女は子どもを産む機械だと言って、一発で退陣を余儀なくされました。同じようなことを、もっと露骨に宮内庁が雅子なんかに要請して、それから神経症になっていく。明仁は、ついに2000年代の初めになって、皇位継承のために男系男子の皇統継続を放棄する立場に達します。
それを受けて小泉政権は、男系男子の継承という原則をやめて、皇室典範を改正する。一条を改正して直系主義、それから長子主義に切り替える。つまり男女平等で直系と長子、これを前提にして皇位継承順位を決めていくという、第一次の改正に踏み込んだ。小泉は、1993年の総裁選挙の立候補のときから、女性の天皇を認めるべきだという意見を盛んに出していました。そういう形で国民統合の幅を広げる。同じようなことは中曽根康弘も言っていた。
中曽根康弘は非常に右翼的な人だと思われますが、実際には国民統合の中で女性の天皇をどんどん認めるべきだと言って、昭和天皇から嫌われたりしています。そういう系譜の中に小泉純一郎もあって、小泉純一郎は天皇の頼みを受けて有識者会議を開いて、ほとんど小泉一人の手で自民党多数の伝統派の反抗を退けて、有識者会議で女系天皇を容認するという報告書を作るに至ります。
いま問題になっている男系旧宮家の後続の養子案、これは全く国民の真を問うことができないという報告書を作って、女系に突き進みます。当時、安倍晋三は官房長官で、小泉純一郎の代貸なわけです。
ところが安倍晋三は、一方では右派の代貸の役割も旗頭の役割も果たしていた。当時国会で、高市早苗によって鋭く追及された。安倍は、今まで言ってきたことと違うじゃないか、男系男子の継承問題についてどう考えるか、と追及される事態も起こりました。右派は非常に強い反対運動を展開しますが、2006年の1月です。通常国会の会期中に、秋篠宮妃が懐妊した。あれは男だ、という噂が流れます。結局、小泉の有識者会議の報告と、通常国会で出す予定であった皇室典範改正論は、潰れることになりました。右派は一命を取り戻した形になります。
第2次安倍政権では、天皇が退位をしたい。元気なうちに退位して、拡大した公的な行為・活動をすべて皇族に委ねたい。高齢化して公的行為ができなくなり、その時点で縮小した象徴制度を手渡す。死んで手渡すのではなく、元気なうちに手渡したい。次世代に若いうちから手渡すことによって、象徴としての皇位継承を拡大していく。同時に象徴としての皇位継承も、女性天皇を認めることによって行いたいという、二重の皇位継承論を唱えて登場します。
安倍晋三は第2次安倍政権の中で、二つの皇位継承論に対抗して、何とか食い止めようとしたけれど食い止められない。皇室典範の中で、退位の制度を公式化、制度化することだけは防ぎたい。そこで、明仁天皇個人の思いを受けて、明仁天皇に限って退位を認めるという退位特例法によって、退位問題を乗り切ろうとしました。
しかし国会がそこに介入しました。天皇の地位は、主権を有する国民の総意に基づく、ということで国会が介入しました。有識者会議の退位特例法だけでは不十分で、退位特例法の中に付帯決議をつけました。女性天皇は否定されたけども、女性宮家の継承問題、皇室問題を中心に、早急に政府で議論して結論を報告するという付帯決議をつけて、安倍はようやく乗り切ります。
第2次安倍政権の7年8ヶ月で、皇位継承問題、あるいは皇室典範問題は絶対に触りたくないという立場に立ちました。さわると女性天皇問題が出てくる。女性天皇問題を防衛して、男系男子を維持することに安倍は自信が無かった。従って、皇位継承問題は、とにかく悠仁がいるから、あと何年か何十年か大丈夫だという形で、皇位継承問題を延期するという形でずっと対処していた。
それが明仁天皇の、安倍に対する二重の不満になります。戦争問題についておかしな考え方を持っているというのと、皇位継承問題について真面目に取り組んでくれない。この2つの不満がありながら、安倍はそれを乗り切ったわけです。
その事態ががらりと変わるのが、2020年代に入ってからです。菅に変わった時点で、事態が大きく変わりました。何が変わったかというと、皇位継承問題を女帝問題から、女性皇族が結婚しても宮家に残るという形で女性皇族を残す。場合によっては女性皇族に皇位継承権を認めて、女性天皇を認めていく。小泉有識者会議で正面から否定された、男系男子の継承のために皇籍離脱した旧宮家からの男系男子を養子に加える。その養子の子供については、皇位継承権を与えるという形で、無理やり男系男子の後継ぎを作っていく。そういう案が、21年から行われた菅の有識者会議の中で登場します。
これは、おそらく安倍が後ろで糸を引いて、皇位継承問題を盾に取って男系男子の性差別的な制度を安定化させる。とにかく男系男子の皇位継承で悠仁の次の世代を作るということになれば、その万世一系の皇統は維持できる。この考え方に基づいて、女性宮家の創出問題と男性養子問題を兼ねて、菅有識者会議の報告が出ました。
参政党とか国民民主党とか、維新の会とか、新手の新自由主義勢力が出てきます。新自由主義の被害を断罪しながら、新自由主義の被害や、新自由主義における停滞、アメリカの場合には移民の問題です。日本の場合には、新自由主義による財政縮小、緊縮、この問題に焦点を合わせて、積極的な財政出動と減税によって新自由主義政治を克服し、同時に新自由主義に代わる新たな開発主義的な体制を作っていく。
同時に新たな新自由主義勢力は、いずれも極めて右翼的な主張を唱えてくる。そういう勢力が20年代に急激に出てきます。その画期は22年の参議院選挙ではなかったかと思います。岸田が圧勝した21年の衆議院選挙と22年の参議院選挙。このあたりで、参政党、国民民主党、維新の会が、いずれも皇室問題について、皇位継承のために、皇統維持のための男系男子の養子案を、選挙公報の中で書いています。
参政党は、世界で唯一の皇統が継承されている日本、世界で唯一の皇統を日本のアイデンティティの根幹として未来に継承する。世界最長の正当な皇統を維持するため、先人の英知で紡がれている男系(父系)による皇位継承を堅持する。これが22年の参議院選挙で初めて公約にしています。
国民民主党は21年の衆議院選挙で、特例法の付帯決議による継承問題を真摯に取り組むといった。22年の参議院選挙では、皇統に属する男系男子を法律によって直接皇族とする案も含めて検討するということを打ち出します。
維新の会も古来例外なく男子継承の重みを踏まえて、宮家の皇籍復帰を選択肢に入れて、皇位継承問題を考える。皇族の養子縁組を可能とし、皇統に属する男系男子を皇族とする、と謳っています。
いずれも22年あたりを境にして、社会の分裂、貧困と格差。そういった問題が登場する中で、家族の解体が登場する中で、新自由主義的な右派勢力がいずれも一斉にこの問題を出してきます。
不思議なのは自民党です。自民党は、岸田時代の2つの圧勝した選挙、それから石破時代の24年の衆議院選挙、25年の参議院選挙、この4つの選挙で、いずれの政策パンフレットにおいても、自民党は一言たりとも、皇室典範改正は触れていません。そして910項目にわたる政策詳細パンフがあります。この詳細政策にも皇室典範は入っていないんですね。
では、いつ入ってきたのかというと、なんと今年の26年の衆議院選挙で初めて入ります。その背景にあるのは、去年の秋の高市の総裁選挙における、皇室典範改正を最も大事な仕事の一つとして掲げたことです。その高市が、維新との連立政権合意で皇室典範改正を入れて、男系男子の養子案を、主として第一次的なものとして実現することを謳った。その高市政権の方針によって今回の衆議院選挙で初めて自民党が打ち出しました。
そういう意味で言うと、自民党が推進するのではなくて、自民党周りの右翼的な新手の新自由主義勢力が囲い込んで主張をする。高市が自民党で総裁に当選し、その高市が選挙の政策公約において自民党として打ち出し、それが今回の国会における急速な皇室典範の改正問題の進展に結びつく。
20年代の初頭から急速に日本の軍事大国化、戦争準備体制が進むのと並行して、いわば政権補完野党の力を使いながら、高市自民党がこの問題を取り上げる事態になった。ここが重要なポイントだと思います。皇室典範の改正は、極めて古く、万世一系の皇統、男系男子によって紡がれてきた皇統の継続をすることによって、世界唯一の日本を誇りに思うというようなイデオロギーが、実際に入るのかというのはよく分かりません。おそらく若い人たちも含め、今の日本社会で、そういうもの入らないのではないかと思います。そういうものを皇室典範改正で、意図的な制度として作った。国旗国歌法を作ったときには、国旗に対する処罰規定は作らないと言っていた。今回、国旗処罰法案を作って、鞭と飴として並べることによって国民統合を戦争に向かって図ろうとしている。そういう中で、この万世一系の皇統論が、いわば彼らの一つの武器庫の中から出されてきた。そういう点を見ていく必要があるのではないか。
そうみると、皇位継承問題だけに絞ってみるのではなく、中国との戦争体制づくりへの国民統合の一環であり、様々な諸政策の一つとして高市がこの問題を出してきているところに、高市皇室典範改正の狙いがあるのではないか。
これは証明ができないけれども、もう一つの柱としてジェンダー差別撤廃の非常に強い流れの中で、これに歯止めをかける。日本会議が盛んに選択的夫婦別姓批判を展開しています。それとこの皇室の男系男子による世界唯一の天皇の伝統。こういうものを重ね合わせる中で、ジェンダー差別撤廃の流れに歯止めをかける旧姓使用法案。これも国旗損壊法案と並ぶような形で、旧姓使用法案と対になって皇室典範改正が出てきているというところも、見る必要があると思います。
高市政権による典範改定は、皇族数の確保という口実の下で、皇位継承問題は棚上げするという立法府の合意が取られてきました。その口実の下でありながら、80年前に皇籍を離脱した旧宮家の男子を養子にすることで皇族にする。その婚姻によって誕生した男子を、皇位継承者にすることによって、血統による差別制度に加えて、男系男子による皇位継承という、極めてグロテスクな形での強化、固定化を図るものです。これは反対しなければならないし、廃止を求める必要がある。典範一条を改正して、継承は直系長子優先主義によって行うべきであると私は考えています。
女性や女系天皇否定に対して、14条の法の下の平等を蹂躙しているとして、違憲を主張することはできないのではないかという有力な考え方があります。その考え方は、法の下の平等をはじめとして、憲法で保障されている人権保障というのは、対等平等な市民の間で実現される、万人に適用されるものである。平等な市民の間で適用されるべき原則が、法の下の平等であり、あるいは人権保障である表現の自由であり、婚姻の自由である。
皇族のように一握りの特権的な享受者の内部の女性が、その特権を享受しながら、女性が天皇になる権利を、法の下の平等として主張することはできないのではないか。問題は天皇制という大きな差別的な制度にあって、その制度を維持したまま、その一握りのグループ内の関係に人権を適用することはおかしい。天皇制自体が、人権保障体系の例外として憲法によって認められている。憲法によって認められている人権保障体系の例外として皇室制度があり、その特権を享受している女性たちが、同時に平等な市民の中で貫徹されるべき人権保障である、法の下の平等を主張するということはできない。
それを長谷部恭男さんなんかは、「身分制の飛び地」というふうに言っていて、天皇制自体が人権保障の例外として、身分制の飛び地を認めています。身分制の飛び地の中にいながら、人権保障を主張することはできません。もし人権保障を主張するなら飛び地を無くしましょう、という意見が展開されています。これは有力な意見だというふうに、私は思います。
しかし天皇制というのは、血統による差別とは独立して、性差別というものが貫徹しています。性差別の意識があることによって、身分的な差別、血統による差別に加えて、独立して男系男子による継承という性差別が、血統による差別に吸収されることもない。血統による差別に比べて、一部の人が言うように小さな差別でもない。国連の女性差別撤廃委員会がなぜ夫婦別姓と並べて、皇室典範の改正の勧告を行ったか。私は、それは正当なものではないかと考えています。
憲法は第2条で皇位の世襲を認めて、14条の例外を確かに認めています。しかし身分制の飛び地として、
性差別をはじめとした人権保障の一括排除の世界を何で認めてしまうのか。確かに皇室にいる人々は、少数の特権グループであることは間違いありません。しかしそのグループが、人権保障を一切合切すべて例外として排除しなければならないのか。飛び地という形で、一括して人権保障の例外を認めることは、おかしいと思います。
さらに、ここが非常に微妙な問題があると思いますが、論者は異口同音に、問題解決は天皇制の廃止だ、憲法1条2条の改正にあると主張しています。上野千鶴子さんは、憲法を改正するのは1条でしょう、と書いている。それから木村草太さんは、もし皇族が人権を保障してほしいと言うならば、憲法改正ですね、というふうに発言しています。
+ 私はこうした発言は、ある意味で性差別あるいは差別的な制度、人権の保障に対する逃げの口実となっているのではないか思います。憲法を改正すればいいということで話は終わってしまいます。当面する人権を享受したいなら、憲法を改正すれば良いというのであるけれども、それを口実にして、当面する高市政権による典範改定の強行に対する反対の態度、あるいは性差別制度に対する戦いを曖昧にしてはならないと思います。問題は、いかにして天皇制の廃止というものに持っていくか。
この種の主張をする人々は、おおむねこういうふうに言います。女性天皇を認めるということは、皇位継承者をいたずらに増やす。つまり象徴天皇制度という、私たちが無くしたい制度を増やすことになる。その延命を図ることになる。問題は天皇制を放っておくことによって、天皇制の自然死、枯死を招く。こういう戦略だと言います。私はそんなことはありえない、天皇制は放っておいても枯死などしない。今回の典範改定で明らかです。こんなに無理をして、やっぱり男系男子の継承をやってくる。
それを壊すには、天皇制を本当に無くしていくには、天皇制を私たちの力で廃止しなければできない。自然に打ちひしがれて、枯死するなんてことは無い。それどころか、今それと全く逆の方向が行われている。憲法改正をすればいいと言うけれど、いま憲法の問題で一番大きな問題は、軍事大国化について3分の2を上回る衆議院の勢力をもって、高市改憲が行われようとしている。
この問題に私たちがどう対処するかということが大きな問題であって、人権を保障したいなら、憲法を改正すればいいという問題ではないと、私は思わざるを得ない。いろんな議論があるだろうけれども、天皇制の廃止を求めていく場合には、今の改憲と軍事大国化による策動と戦って、それに立ち向かっていく運動の中から、新しい社会、平和な社会、自由な社会というものを作っていく、そういう方向が打ち出される。その中に初めて天皇の問題を入れて、天皇制の差別的なところをできるだけ無くしていく。
そして将来的には天皇制批判の論陣を起こしていく。私たちが明治期においても、また戦後社会期においてもできなかった大きな共和制をめぐる議論、人権をめぐる議論を起こしていく。その中で天皇制を廃止することも含めた、展望ある大きな議論を起こしていく。
大事なのは、象徴問題をこれだけ切り離した問題として捉えるのではなく、今の高市のやっている全体の政治の中の一つに位置づけて、それと戦う態度を改めて明らかにする必要があります。今回の皇室典範問題で一番大きな問題だったのは、天皇制の廃止を議論すべきだという議論が起こってきていることです。これは日本の運動の中でも、非常に大きな新しい目ではないかと思います。これを契機に、天皇制の廃止、天皇制の害悪、そういうものについても大きな議論ができるということを訴えます。