米中会談において高市首相はトランプにはしごを外された状況となった。トランプは台湾に関する踏み込んだ発言はせず、大国間取引を優先させ、お互いにことを荒立てない姿勢で、会談は終わった。勇ましく台湾有事発言をし、横須賀米軍基地の原子力空母上においてトランプの横で跳ね上がっていた高市首相は逃げるように韓国に訪問した。しかし、韓国でも思うような成果は上げられなかったようだ。ハンギョレ新聞では、日本が望む相互軍需支援協定(ACSA)について「締結を検討していない」と線を引き、「韓中日3カ国が互いに尊重し協力し、共通の利益を模索することが重要だ」と述べ、中国にも配慮した賢明な対応と李大統領を評価していた。
本来の目的も達成できない高市首相は名誉挽回を図ろうと、中東情勢をめぐるエネルギー不足に対する対策を協議して、原油や石油製品、液体天然ガスの相互融通を進めると確認してきたそうだが、日本政府として平和外交の努力もせず、融通してもらうなど図々しいにもほどがあるのではないだろうか。長生炭鉱を巡っても国としての進展は全くなく、日本による加害の歴史への清算の姿勢は見られない。にもかかわらず、都合のいい時だけ韓国を利用しようとする「ご都合主義外交」は許しがたい。真の友好関係を築くには加害の歴史に向き合い、反省するところからしか信頼関係は生まれない。
ナフサ不足は深刻だ。カルビーはポテトチップスのパッケージを白黒にするなどしてナフサ不足対策に出ようとしている。このことに対して世論の動揺は大きかった。「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵」などと言った戦中を彷彿させるようなパッケージの変更に、より多くの人々は反戦の声をあげるようになった。政府はカルビーに聞き取り調査をすると言っていたが、的外れも甚だしい。まず政府としてやるべきことはカルビーへの聞き取りではなく、中東情勢の悪化の原因を作ったアメリカ・イスラエルの蛮行に平和憲法を持つ国として毅然と抗議すべきではないだろうか。
今国会では見送りとなったスパイ防止法だが、国家情報局の設置は強行されようとしている。韓国ドラマ「愛の不時着」の中で国家情報院が出てくる場面があるが、捜査員は良い人たちで人情に厚い描かれ方をしていて、日本でもそのような組織ができるのだと勘違いをされがちであるが、実際はドラマのような心優しき人々の集まりではない。韓国においてはもともとKCIAと呼ばれ時の政府と肩を並べるほどの影響力を持ち、民主化運動への弾圧をする部隊として動いていた。その後、このKCIAの体制に疑問の声が上がり始め、何度か改名と改組をしている。1999年に国家情報院となり政治的には中立を表する組織になったとは言えども、あり方については未だに非難の対象になっている。このような民衆運動の弾圧に深く関わっていたものを、日本でも今回新たに作るということだ。韓国は民衆運動の力で改組や改名を勝ち取っては来たが、日本はこれから作ろうというのだ。この法案に衆議院では中道改革連合は賛成に回った(付帯決議付の条件付きで)が、参議院においては立憲民主党は反対に回った。中道の中にも心ある議員はいる。国会内において多くの同志議員たちを失った今、私たちが野党の代わりとなり、国会外の運動を強め、国会内に残る議員たちを励ましていこう。
衆議院での憲法審査会は毎週開催されている。7月の国会閉会まで相当数の開催が予想される。5月14日には衆議院法制局がまとめた「緊急事態条項」のイメージ案が出された。内容は「イメージ」という名の完全なる改憲案そのものだった。これに対し、共産党はきっぱり反対、中道は異論を唱えた。参政党も緊急事態条項には反対の立場で発言をした。しかし、参政党は緊急事態条項によってコロナワクチンの強要を危惧する陰謀論的視点からの反対であるため、「仲間」だともろ手を挙げて受け入れることはできない。
この間、参政党や一部のカルト団体は「押し付け憲法論」を声高に叫び、「和訳の憲法ではなく正しい日本語で憲法を作ろう」と「創憲」を主張してきた。改憲派なのにも関わらず、緊急事態条項に反対するのは参政党の支持層の多くをコロナ禍でのパニックと不安に付け込んで「緊急事態条項が出来たら無理やりワクチンを打たれる」「ワクチンを打つ名目でチップを埋め込まれ国民総監視社会を作ろうとしている」「ワクチンは母体に悪影響を及ぼす」などといった根拠のないデマを煽り獲得した背景があるためであろう。「緊急事態条項反対」を口実に、この間のペンライトを中心とした改憲反対の運動の盛り上がりを舌なめずりしながら掠め取りを狙っているに違いない。
「9条改憲よりも緊急事態条項創設の方がずっと危険だ」など、緊急事態条項のことばかりにフォーカスした発信をするアカウントや団体がいたら要注意である。全国の市民運動は細心の注意を払って、「緊急事態条項反対」を訴える中には排外主義のカルト集団も紛れ込んでいるという事に気を付けて、新たな運動の参加者を守って行こう。
そして、高市首相は来年春までに改憲発議の目途を立てると言っているが、国会外の行動を積み重ね、勝手につけた「目途」が永遠に訪れないほどの運動の高揚で圧倒しよう。
今年の5月18日の光州民衆抗争記念日に向けて、日本側の「日韓和解と平和プラットホーム」と韓国側の「東北アジア平和体制国際連帯」共催の討論会が光州で開催された。許すな!憲法改悪市民連絡会では共同代表の高田健さんと、事務局長の菱山が光州での討論会に参加し、そこで作成された日韓共同声明を公式の式典にて読み上げてきた。
1980年5月18日、戒厳令が全国に広まり、韓国光州ではこの軍事による政治に反発した学生や教師に市民が共感し、大きな民衆運動へと発展していく中で戒厳軍が軍事力で鎮圧したために、多くの光州民衆が虐殺された。急速な経済成長から置き去りにされていた光州民衆は、民主化に大きな期待を持っていた。また、農民運動が盛んだったりした背景から光州の民衆は民主化のための立ち上がったのだ。
アメリカから許可を得て出撃しに来た戒厳軍は、容赦なく、住民を殺して回った。5月18日以降初めての犠牲者は、聴覚障がい者だったそうだ。その後、多くの市民が理不尽な殺され方をする中で、民衆の中から「市民軍」が自然発生的に作られた。
市民軍は警察や様々なところから武器を奪い、武装した結果、一度は戒厳軍が光州から退いた。その数日間は「解放光州」と呼ばれ、軍や警察がいなくても光州の自治は保たれるという事を証明するために、非常事態ではあったが、みんなで食事を分け合い、新聞もニュースも検閲されていたので、自分たちで、放送して回り、負傷者のための血が足りなければ呼びかけ、多くの市民が放送を聞き、献血に病院に駆けつけたそうだ。
食器が足りなかったので、配られた食事は「おにぎり」。日本の三角型をしたのとは違い、混ぜご飯を丸く握った「チュモッパ」と呼ばれるものだ。丸い理由は団結と連帯を表す拳の形から由来している。「串カツ田中」など全国的チェーン居酒屋で人気メニューになっているなど、最近日本でも流行しているチュモッパは、光州民衆抗争での分かち合いの文化から根付いた郷土料理なのだ。光州の象徴はおにぎりと献血パックだそうだ。
光州民衆抗争を描いた、映画、タクシー運転手のなかで、何度もおにぎりのシーンが出てくるのはそんな背景があったからだと深く理解した。そして、1987年6月民主化抗争の時には、殺された青年の靴が片方脱げた状態だったという事で「片方の運動靴」が象徴となった。映画タクシー運転手の中でも戒厳軍に虐殺された学生に靴を履かせるシーンや、自分の娘に光州の帰りに靴を買っていくシーンなど、靴の場面が多いのも感慨深い。時を経て、老年になったタクシー運転手が、客を乗せる映画の最後のシーンで、客が「光化門広場へ」と行き先を告げるのは、2016年に光化門広場でキャンドル革命が起きたので、その民主化運動の継承を現したメッセージが含まれているのだ。
こうやって、自由と民主主義を守るために血とご飯を分けた光州共同体の精神は、今の韓国の民衆運動に根付いている。
尹大統領退陣デモの時、多くのキッチンカーが出て、無料で飲食をデモ参加者に分け与えていた。デモには行けないからコーヒーや食べ物を分ける、分かち合いの共同体は、まさに今日本でも起きている。衛生法が厳しい日本は、韓国のように気軽にキッチンカーは出せない。けれども、デモに行った帰りにコーヒーを飲んで一息ついてね、の気持ちを込めた「#デモ茶」「#コーヒー連帯」といったハッシュタグと共に、コンビニやファーストフード店などで、数量限定で無料で飲食物をもらえるクーポン券を個人が購入し、そのナンバーをSNSで公開する。デモに行った人たちが受け取り、飲食をして、デモ後の自分を労わるといった運動が全国各地で広がり始めている。
他にも、国会前には行けないけれども、地元や家で連帯の行動を企画し、全国各地の運動を可視化できる「デモカレンダー」を作り、自分のできる範囲で、行ける範囲で、市民運動に参加できるスタイルを作ってくれた福岡の女性もいる。
ノーベル文学賞を受賞した韓国作家のハンガンさんは、「過去は現在をたすけるのか」という問いかけをした。まさに私たちは、過去に自由と民主主義のために血とご飯を分け合った、光州共同体の運動に助けられているのではないだろうか。
10日間の光州民衆抗争最終日前夜の5月26日深夜。光州だけ電話回線を遮断され、孤立化させられた光州に再武装し体制を立て直し、侵入してきた戒厳軍に最終決戦を覚悟した市民軍は、青少年と女性に「生き残って歴史の証人になるんだ」と自宅待機を呼びかけた。
「あなたのための行進曲(イムのための行進曲)」を歌いながら道庁に向けて死の行進をした市民軍は、武装ヘリや戒厳軍から虐殺され、5月27日朝9時には鎮圧された。その後すぐに電話回線は復旧。
その7年後の1987年6月、多くの犠牲者を出しながら悲願の民主化を勝ち取った韓国。光州の国営共同墓地には、両手でアーモンド形の球体を支えているモニュメントの奥に、多数の墓標が広がる。このモニュメントは「目」と「種」を両手で包み、守ることを意味し、最終決戦の時に目撃者として歴史の証人になるよう呼びかけ、殺されていった光州民衆の思いを現したものだ。
闘いの場となった道庁前に立つ時計塔は、「目撃者」として毎日夕方の5時18分には「イムのための行進曲」が現在も流されている。その横にある245個の銃痕が残るため
「245ビル」と名付けられたビルには、光州の民衆の立ち上がりを憲法に書きこもうとした改憲案の巨大な垂れ幕が掛かっていた。悪い方へと憲法を改悪しようとしている日本とは真逆の状況である。
韓国の記憶と継承の実践に、日本の市民運動も学ばなければならない。忘れてはならない、日本は光州民衆抗争のような、韓国での長きにわたる軍が支配する政治や政治の混乱を引き起こす発端を作った、侵略戦争をした張本人だということを。この加害の歴史にしっかりと向き合い、反省し、平和憲法は何があっても変えさせないためにアジアの市民の皆さんと力を合わせていこう。
韓国は1987年6月民主化を勝ち取ってから、銃や火炎瓶を持って闘ったその手に、蝋燭やたいまつを持って非暴力民衆運動の新たな象徴を作りながら民衆運動を発展させていった。2016年には「ガラス一枚も割れなかったキャンドル革命」を起こし、蝋燭はLEDのキャンドルに変化し、2025年にはキャンドルからペンライトに変わり光の革命が起きた。
日本では、最近「冷麺はじめました」の旗がデモに登場した。これは韓国での民主化運動の時、催涙弾で目が見えなくなりながら、手探りで赤い旗を探して掴んだところ、飲食店のものでそこには「冷麺開始」と書かれていたという、有名な話に基づいたものだ。この旗の画像は韓国のSNSにも広がり感動を呼んでいる。
もう韓国は近くて遠い国ではない。分かち合い、分け合い、楽しみながらこの運動を継続させていこう。今日本の民衆運動は、長い冬の時代から新たなステージに移行し始めている。2月8日の衆議院選挙の結果による焼け野原から奇跡の立ち上がりを勝ち取ってきたことは大きな成功体験だ。この成功体験をさらに広げていこう。
権力には笑顔で立ち向かおう。
(事務局長 菱山南帆子)
池上 仁(会員)
改憲反対の声が大きく拡がる中で迎えた今年の5.3憲法集会は、全国で232カ所、約10万人の結集が伝えられた。東京の有明防災公園でも「つながろう 憲法いかして平和な世界を!2026憲法大集会」が開かれ、5万人が結集し、「憲法守れ!」と声をあげた。国際展示場駅に降り立った時から、これは例年よりだいぶ多いな、と思った。色とりどりの旗をなびかせて会場に向かう人々の密度が違う。会場について全体見回すと遥か彼方に出身組合の幟旗が見えたが、人波をかき分けて合流する元気がない。ステージ前の空きスペースに携帯椅子を置いてノートを広げる。
司会は高校生平和大使OBの福元響さんと、朝ドラ「虎の翼」に触発されて昨年から憲法集会に参加した安田葵さんの若者コンビ。最初に実行委員会を代表して秋山正臣さん(憲法をまもり・いかす共同センター)が挨拶…集会参加者の総意としてイラン戦争をはじめとするすべての戦争をやめるよう当事国に強く求める。今年度から防衛増税としてたばこ税が値上げされ、軍事費のための1%増税が来年から始まる。武器輸出の解禁まで閣議決定した。歴史は繰り返す。今の政府は同じ轍を踏んでいるのではないか。この日本の社会を変えるには高市政権、自民党政権を打ち倒すしかない。
吉岡 忍さん(ノンフィクション作家・日本ペンクラブ前会長)
国家の肥大化が様々な法案によって図られている。原発再稼働も寄らしむべし知らしむべからずで進んでいる。強い国=戦争する国というのは実は弱い国なのだ。内部を純化する、一体化を強める、外国人を排斥する、そうしてできた自国民しかいない国はいくらでも攻撃できる、日本もドイツもそうやって敗れた。世界各国からのインバウンドは攻撃を受けない最大の安全保障になっている。国家、国家の掛け声に踊らされず、趣味でも仕事でも一所懸命やる、そこで体を動かして得られる勘・経験・知識・情報が揺るがない耐性をつける。国家から自分を切り離す、その足場は憲法だ。幅の広いスケールの大きい知識を日本国憲法を基盤にして作り上げることが大事だ。
仁藤夢乃さん(一般社団法人Colabo)代表
虐待や性搾取の中にいる少女を支える活動をしている。戦争で最も手軽な支配の手段は性暴力だ。戦時中日本はアジア各地で、沖縄で慰安婦として女性を性奴隷とした。戦後も女性の体を防波堤として利用、今の合法的な性売買となった。戦争と搾取は表裏一体、人の体を支配し消費するものだ。15年間活動を続けてきた。2022年、女性支援法が成立してから一部政党・政治家を含んだひどい攻撃を受け、殺害予告やレイプ予告までされた。行政が支援から手を引き、少女たちを危険の中に置き去りにした。拠点のセンターを作りたい。これからも繋がり私たちがいることを示していこう。私たちは一人ではない、一人ひとりの力を誇ろう。自分の言葉で語り続けよう。
吉田忠智参議院議員(立憲民主党)
立憲民主党は憲法を変えるのではなく守り生かすために全力を挙げる。高市による解散権濫用の結果、改憲勢力が3/4を占める結果となった。トランプ・アメリカの国際法違反のイラン攻撃にたいし、日本は立ち位置を生かして戦争終結に向け役割を果たすべきだ。改憲派が圧倒的な衆院憲法審査会では前のめりな議論が行われているが、参院では憲法を守り生かす慎重な議論をしている。緊急事態条項は憲法54条の参議院の緊急集会があるから必要ない。野党筆頭幹事として頑張る。
田村智子衆議院議員(日本共産党委員長)
戦争反対、憲法を守れ!この声が幾度も国会を包み込むという希望がある。5.3は改憲反対の世論を巻き起こすキックオフ集会だと決意して参加している。高市首相は国是を投げ捨て殺傷武器まで輸出全面解禁をしている。国家が2度と戦争をしないという最後の縛りをなくし、海外派兵を可能にする。国連憲章を踏みにじり不法な戦争を繰り返すトランプ政権になぜ戦争やめろといえないのか。高市首相は中国との緊張を高める発言も撤回しないで危機、軍拡をあおっている。
山本譲司衆議院議員(れいわ新選組幹事長)
今ある憲法を守れない者が憲法を変えるな!と一貫して訴えてきた。今日本では6人に一人が貧困にあえいでいる、中小企業の倒産が続く、癌患者に命の選択を迫るような高額医療費の改悪、介護も老々介護、介護殺人ということが日常的風景になりつつある。国民の命を守ろうとしない者が憲法改正、軍備増強と言っている。高市政権をひっくり返そう。
福島瑞穂参議院議員(社会民主党首)
高市はホルムズ海峡に自衛隊を送りたかった。トランプに法の範囲内でできることとできないことがあると言ったと。法律範囲内でできることなどないと思ったが、高市・茂木たちは法律の中に憲法も入っているという。茂木大臣に質問した、この憲法とは9条のことかと。憲法尊重義務を誰よりも負っているのは高市首相本人だ。9条があるから自衛隊はホルムズ海峡に行けない。9条が、日本が戦争することを実際に食い止めている。スパイ防止法は戦争への道だ。
伊波洋一参議院議員(沖縄の風幹事長)
この10年、島々にミサイル基地が造られ、毎年何度も戦争演習が行われている。今日は政府の戦争計画をやめさせることを訴えに来た。1月29日、4回目の沖縄県国民保護共同図上訓練が行われた。先島5市町村の住民12万人余りを九州・山口に避難させるものだ。縦横長さ100Cmのバッグひとつで生活を捨て避難しなければならないのはなぜか。全国でもミサイルの配備が始まっている。戦争が起これば全国的ミサイル戦争だ。沖縄は今必死に考えている、共に考えてほしい。
佐々木寛(新潟国際情報大学教授)…今、戦後最も戦争に近づいている。数と力の論理に頼り国会の審議を経ることなく高市政権は武器で儲ける国へと舵を切った。スパイ防止法、緊急事態条項、非核3原則見直し、失われた30年、40年へと。イスラエル・アメリカのイラン攻撃で私たちの生活は危機に直面している。政府はこの生活の行き詰まりを憲法改正の議論へと結びつけていくだろう。平和で慎ましい生活を守りたい、そういう人々が全国各地で一人一人の心の底からの声をあげている。
次に菱山南帆子さんから憲法九条が高らかに読み上げられ、プラカードアピールが行われた。コールに合わせ何度もプラカードが掲げられる。中道連合改革連合からメッセージが届いていることが紹介された。
武藤類子さん(原発事故被害者団体連絡会共同代表)
ウクライナ、パレスチナ、ベネズエラ、イラン、レバノン、そして日本のスパイ防止法、国家情報局、自衛隊演習事故、ニュースを耳にするたびに苦しくて心がザワザワする日々を送っている。東電福島原発事故から15年、事故は今も収束すらしていない。放射能は今も空に海に流れ出している。汚染水が意図的に海に流され、除染で集められた汚染土が復興再生土と名付けられ、全国の公共事業に使われようとしている。甲状腺癌の多発、避難者の住宅追い出し裁判、避難解除しないままの帰宅困難地域での活動自由化。理不尽で困難な問題が次々起きる中で福島イノベーションコースト構想やF-REI福島国際研究教機構によって最先端の研究都市が造られ、軍用転換可能な技術の開発が莫大な復興予算を使ってやられる。原発と原爆は同じ技術。戦争によって攻撃されればそれが自国を破壊する兵器になる。実際にザポリージャ原発、チェルノブイリ原発はロシアに攻撃され、イランの核施設はアメリカの標的になった。日本中の原発を止めなくてはならない。
中島優希さん(核兵器をなくす日本キャンペーン)
核兵器をなくす日本キャンペーンは、「核なき世界を日本から」をスローガンに2年前に発足したNGO。2030年までに核兵器禁止条約への日本政府の参加を目指して超党派、超世代、超地域で活動している。代表理事は日本被団協代表委員の田中熙巳さん、理事は核廃絶国際キャンペーンの川崎哲さん。81年前、広島長崎に原子爆弾が投下され多くの尊い命が奪われ、後遺症で苦しむ方もたくさんいる。非核3原則の見直しなどもってのほかだ。平和憲法のある日本だからこそ、安全保障での核兵器の役割を大きくするのでなく、対話・交渉第一で進むべきだ。核兵器の禁止を訴える責任がある。
海渡双葉さん(弁護士)
秘密保護法対策弁護団の事務局長を務めている。スパイ防止法は自民・維新の連立政権合意文書に登場する。基本法、外国代理人登録法などの総称だ。来年には国会に上程され、さらに対外情報庁というものを作っていくという流れに位置付けられている。諸外国での乱用の事例を見るとその危険性は明らかだ。第一次大戦中にアメリカでは、徴兵制反対の主張がスパイ防止法で有罪とされた。憲法を守れ、戦争反対の主張も敵を利するという形でスパイ行為とされてしまうことになりかねない。排外主義・人種差別が横行している中で、政府がこれを助長させる。スパイ防止法は明らかに戦争準備の法律だ。
集会を終え参加者は歌声に送られて続々デモ出発点に向かった。
たからてつみの最近の憲法問題3
80年前の6月は、GHQと極東委員会による占領下での民主化改革と新憲法審議が本格化した時期である。6月20日には「帝国憲法改正案」が帝国議会に提出され、翌21日には吉田茂首相が食糧危機の克服や経済基盤の再建、そして新憲法審議の推進という戦後復興の最優先課題を示す施政方針演説を行っていた。
深刻な食糧危機とインフレの中、メーデーには皇居前広場に25万人が大集合した。時勢を反映した「ヒロヒト 詔書 曰ク 國体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね」と書かれたプラカードがあった。これを掲げた人が不敬罪に問われたのが「天皇プラカード事件」である。日本国憲法はまだ制定されておらず、表現の自由も十分保障せずに逮捕され、旧刑法の不敬罪で起訴されたのが、6月22日であった。裁判所も混乱、戸惑い、躊躇などが入り混じり、地裁、高裁、最高裁の判断が異なった。不敬罪ではなく名誉棄損とした地裁判決が出て、被告側も検察も直ちに控訴した。翌日に日本国憲法が公布され、恩赦が出た。東京高裁は、刑法の不敬罪は名誉棄損の特別罪として有罪と判断したが、恩赦で免訴とした。 最高裁は恩赦が出た以上審理をすべきではないと三者三様の判断をしたのである。
ちなみに、プラカードの裏に書かれた言葉は「働イテモ、働イテモ、我々ハナゼ食ヘヌカ 天皇ヒロヒト 答ヘテ呉レ」というものだった。物価高で苦しむ今の日本と80年前の国民の暮らしは変わらないようだ。
6月の憲法審議では、主に “審議の前提条件” と “基本原則” が集中的に議論され、本格的な条文審議については7月以降なので来月号に譲りたい。ただ、基本原理としての戦争放棄(9条)について政府は、国際平和の理念を示すものであり、国際社会の信頼を得るために必要、と明確な回答をしている。 6月21日にはマッカーサー声明(審議の3原則)が出され、①十分な審議時間(日本政府が拙速に通過させないこと)②明治憲法との法的連続性(「改正」の形式を維持すること)③国民の自由意思の反映(審議を通じて民意を反映させること)が要求された。6月25日には帝国憲法改正案が衆議院本会議に正式上程され、いよいよ28日には芦田均委員長の「帝国憲法改正案委員会」に付託されたのだった。
帝国議会で憲法審議が始まった80年前の6月、沖縄は本土の政治状況と違い、米軍軍政府による直接統治が沖縄本島上陸以来継続していたのである。本土では、民主化、非軍事化、軍の解体、基地の縮小・返還が進み、憲法9条の求める環境が見えてきた時期でもあった。一方、沖縄は憲法9条と真逆の方向に追いやられ、米軍が軍事拠点化を図って、すでに恒久基地として整備を開始していたのだ。悲惨な沖縄戦の後、収容所から戻ると家や畑は基地と化していた。憲法9条を見たときには光がさしたような感覚だったという。アメリカ世の沖縄だけれども、いつかは平和憲法が沖縄を照らしてくれる!この希望が平和的生存権を求める復帰運動のエネルギーの本質なのだ。平和憲法があるから!しかし、現在の国政状況はまるで明治憲法下の大日本帝国の大和世で、平和憲法をないがしろにし、特に9条を無力化しようとしている。
さて6月といえば、沖縄では23日の「慰霊の日」が浮かぶ。悲惨な沖縄戦の組織的戦闘が終わり、生き残った住民は明治憲法下の軍隊から解放された安堵感と平和の重さを受け止めていた。沖縄戦の強い教訓である「命どぅ宝」(命こそ宝)の思いを込めた「慰霊の日」がなくなるという窮地に追い込まれたことがあった。1988年の地方自治法改正で新たに4条の2(地方公共団体の休日)が追加され、土日、国民の祝日、年末年始の中から選ぶことが条件となった。これによって、休日からはじき出された地方公共団体の休日の一つが沖縄の「慰霊の日」であった。県議会は規定に従い「慰霊の日休日廃止条例案」を提出したものの、ひめゆり学徒隊や遺族会、沖縄県民の強い反対にあった。沖縄の憲法・行政法学者も地方自治法4条の2は、地方自治の本旨(憲法92条)に反するとの声明で①地域の歴史・文化・記念日を自治体が条例で定める権限を奪う②「慰霊の日」は沖縄の歴史的・社会的意義を持つ日であり、国が一律に否定するのは地方自治の侵害である③住民の4人に1人が犠牲となった、沖縄の戦争体験の特殊性を無視している④県民が自らの意思で制定した「慰霊の日」(1965年4月9日立法院可決)を国の法技術的理由で否定するのは憲法上疑義がある旨を発表した。全国的な運動もあり、91年には4条の2第3項が追加され、「特別な歴史的・社会的意義を有し、住民がこぞって祈念する日」は休日にできることとなった。慰霊の日は県民の一致した強い思いで法的に休日と認められることになった。憲法9条と憲法92条の理念が合体した、主権者の力が国会の法律を変えたのだ。私たちが動けば憲法は大きな力を発揮するのである。
(共同代表・琉球大学名誉教授 高良鉄美)
清水雅彦 著
同時代社 A5判 120頁
定価本体1200円+税
このほど、清水雅彦さんが「シン・ケンポウ」と題して「やさしく学ぶ日本国憲法」の本を出版した。
全国各地の市民運動や労働組合運動のなかを駆け回って講演している清水さんの著書らしく、憲法運動の中で多くのみなさんが必ず直面する諸々の意見や質問、疑問を50個のテーマにまとめ、親しみやすいイラスト入りでわかりやすく答え、解説している。
本書は憲法問題の入門書の多くが日本国憲法の解説を前文からはじめて、逐条的に説明していく方法をとるのではなくて(これらの多くは一般に経験しているのかもしれないが、読み進めるうちに苦痛を感じる時がある)、「キホン」「人権」「国家機関」の3つに分けて論じている。憲法問題に取り組みはじめた市民活動家の手引きとして、また自民党をはじめ日本社会に流通している自民党や保守改憲勢力の憲法論に対する反論にとどまらず、今日の情勢の中で高市政権や参政党などの「新手の(?)」改憲論とたたかう具体的な市民運動にたずさわる活動家たちの憲法事典としても、とても便利な使いやすい本だ。
清水さんは本書の「4」で「私は『改憲派』ですが」というドキリとしそうなタイトルをつけている。清水さんは、憲法は完全無欠な「不磨の大典」ではなく、「天皇制」条項や、第3章の「国民」という表現など、本来不十分なところや不必要なところや、時代にズレていくところなどはある、と指摘したうえで、「今必要なのは、自民党などが憲法を『改悪』しようといているので、まずは憲法理念の実現を目指すことです。今、私のような『改憲論』を唱えたところで、逆に利用されるだけです」と書いている。同感だ。私たちの「許すな!憲法改悪・市民連絡会」を結成するとき、同じような意味で「護憲派」と言われたくなかったのであえて「憲法改悪に反対する」という名前にしたのだった。いまでも「市民連絡会」は「護憲派」にひとくくりにされ、たいへん居心地の悪いことがしばしばあるが、いちいち「異をとなえる」ことはしていない。
末尾になったが、定価も安価であり、是非、ご購読をお勧めしたい。(高田健)
青井未帆(学習院大学)
(編集部註)4月25日の講座で青井未帆さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
私は今学習院大学に勤めております。所属がロースクールというところでして、学部も持っています。学部が1年生、2年生をローテーションで持つ形で、ロースクールは少し年代的にも上の方もいらっしゃるので、比較的広い世代を見ているかなと思います。
若い世代なども今般のこういう動きを前にして少し雰囲気が変わってきたようなところもあります。今、前期の大学学部のゼミでは、憲法改正について考えようということで、久々に半期丸々憲法改正問題を、それぞれの学生さんが興味のあるところで調べてもらって、みんなで考えるという試みもしております。
なかなか興味深いです。最初に自己紹介がてら聞いてみたところ、今の3年生、4年生は公立学校で教育を受けた方ですと、2014年以降の政府解釈で勉強してきた方が主となっています。今回、自己紹介のときに聞くと、今まであまり考える機会がなかった、というようなことを言われる方もいらっしゃいます。
受験勉強とか定期試験のところでは、第二次世界大戦など勉強したけれども、現実にどうだったかは立ち止まって考えることはなかった、という発言を聞きました。だから一旦立ち止まるためにも、身近なところで自分の人生経験と憲法改正が、具体的にどう関わってくるのかに注目しながら調べてみましょうというような形で動かしていまして、私自身学ぶところが非常に大きいところがあります。
私自身の自己紹介もかねて、なぜ憲法九条に興味を持ったのかということを先にご紹介したいと思います。
私は学部の時に奥平康弘先生の憲法を聞きまして、なんて面白いんだろうと思って憲法学を志すようになりました。当時、奥平先生は九条の大家とか、九条を専門にやっているというより、表現の自由の大家で広く知られているような段階でした。
学部の私が憲法を志した時点では憲法九条を専門的にやっていこうということではなく、司法権の方で出発をしました。信州大学に奉職した後に、ミサイル防衛の話が起こりました。ミサイル防衛のお話の中で、武器輸出三原則がその当時まだ国是と言われておりました。国是という言葉がマスメディアの報道の中でも使われていました。そこで「国是」とは一体何だろうかと興味を持ったのが最初でした。
調べてみたところ、もちろん憲法にも武器輸出三原則と書いているわけではないし、外為法という経済法の中にそのまま書いてあるわけでもない。その外為法の下にある、政令の別表1の運用指針であることが分かりました。それを国是という。なるほどこれが憲法九条の形なんだと、合点が言ったと言うか、腹落ちしたところがあります。
九条があって、その下でいろいろな施策政策を積み上げてきている。その一つとして、佐藤内閣の時に武器輸出三原則が国会で示された時は、当時の通産省の内部基準でココムの内容そのものだった。そういうココム規制の一内容だったものが、最終的に国是、九条、平和国家と結びつけて発展した。憲法を木に例えることもありますけれど、生きている憲法の木というような形で興味を持ったのが最初期ですね。
そういうことで、九条というのはそもそもどういう規範なのか、どういうものなのかということは、それ以来ずっと考えてきています。
『世界』の2月号に寄稿させていただきましたが、その寄稿した論文の元となったのが「安保法制違憲訴訟・女の会」の東京高裁で陳述した意見をベースにしているものです。このごろ九条について改めて考えるところがございますので、そのあたりをお話しさせていただいて、皆様のご感想なりご批判を受けつつ、新たに考えていきたいという趣旨です。
まず、日本国憲法が平和憲法と言われることにどういう意味があるのか。私はすごく大きな意味があると思っています。
前文とか憲法九条の強い平和へのコミットメントを指して、全体を平和憲法という言い方をしています。ここへ来て憲法改正の機運を醸成しようというものが急だったり、あるいは国会議員の先生方をはじめ、かなり前のめりな発言が目につくようになっています。そして先ほど武器輸出三原則のことを申し上げましたけれども、基本的に殺傷能力のある武器も、実質的に解禁されたというのが、つい最近の動きでもありました。
こういう中で、安全保障、経済安全保障という中身を再び考え直そうという動きがあります。要は国民がじわじわと一層関わるようになってきている。この辺りが、国民からはちょっと遠かった存在の憲法なり、理想としての平和ということから、現実の日々の生活における変更の直前といいますか、その端境期にあるのではないかという気がしております。
2022年の安保戦略の中で、なんで2013年の安保戦略を改定するのかという説明をしています。この中で、「国民の決意」という言葉が使われています。「国民の決意」とは一体何であるのかということは、きちんと説明されなかった。
ここなんだろうと思うんですね。
今回また改定をするという中で、具体的に「国民の決意」というのが、どういう言葉に変更されようとしているのか。あるいは今、諸々の分野で一気に進んでいる中央集権的な仕組みの中で、国民がどう関わってくるのか、いよいよ直視しないといけなくなっているのではないかと思います。
私の理解するところ、この安全保障とか平和安全保障、国が説明している安全保障は、言ってみれば、ドーナツ型の構造です。真ん中の部分とその外縁部分と分けた方が分かりやすいと思います。ドーナツだと真ん中がないけれども、この真ん中部分が、具体的に武力行使を伴うようなところなので、ここはまだ法制度上ガチッとしています。
ホルムズ海峡に自衛隊の艦船を送らないというような説明をした際に、国内法、憲法を含むといった形で、トランプ大統領に話したという報道がありました。高市さんが話したという報道もされています。現実のところ、自衛権、集団的自衛権も含めて、意外とこの真ん中にはきつい縛りがまだあります。
九条改定になると、ここが一気になくなります。気をつけるべきはその外側の、ドーナツで言うと身の部分、食べる部分ですね。食べる部分がものすごく大きくなっている。隣接というか、外接しているところと私は呼んでいますが、ここに私たちの生活がほぼほぼ入ってきています。
経済安全保障という言い方もそうですし、この前の
インテリジェンス能力の強化も、あれは箱を作っただけです。しかし、警察法二条は組織法なのに、作用法であるかのように権力的ではない情報収集として、警察法二条のもとにやっている。これは組織法なので権利制約をしないからいいです、みたいな答弁がありました。けれども、かなり怪しい話だと私は思います。それから宇宙の分野とか情報の分野、AIとか、諸々のところもあります。
地方自治法改正が2024年に行われました。補充的指示権、国が地方公共団体に、一般的ではないけれども、一般法がないところで指示ができるという回路もできています。そうすると、地方公共団体は日々の生活の中で最終的に鍵を握っていますね。警察なり消防などの活動をしている。それから国民保護、避難にも関わっていますね。そういう中で国の回路がこれだけ強くなって、箱がどんどんできているという形になると思います。
まだ具体的に権利制限とか義務付けはなかなかできない。何でできないかと言ったら、九条があるからなんですね。憲法改定するというのは、私の理解するところ、一番ここがメインだと思います。憲法に根拠があるので、法律で権利制限とか義務付けは容易となります。憲法を変えたからといって、そこが一気に義務を発生させるものでは、もともとないんです。
いずれにせよ権利を制約したり、義務を課したりするために、法律を作らなければいけないです。
でも、特別に権利を制限するとか、特別に義務を課すといった場合に、何を根拠にするのか。九条が軍事を否定しているにもかかわらず、国防の義務を課せられるのか。なかなか難しいので、有事法制の時も、もっと義務付けをしようというような意見に対して、突破できない壁がありました。
これが憲法改定によって、例えば緊急時も九条も、特殊な規定が入る。これがあるから、一定の通常ではない権利制約も可能であるというような形で、私たちの生活に密着に結びつくのは、ここのレベルで、法律です。
法律がどれぐらいの規模で変わっていくのか。今すでにドーナツ構造で、身の部分の中で箱がいっぱい作られていると言いました。ここにさらに具体的な権利制限とか義務付けがどこまで入ってくるのか。このあたりは全然見えなくて、説明されていないんです。
改憲の条文起草委員会が言われています。条文起草は、もちろん改憲の条文も重要です。けれども憲法の条文をなぜ、何のために変えて、どこまでを射程に収めているのかというところが、めちゃくちゃ重要であることは強調しておきたいと思います。こここそが「国民の決意」に関わる部分だろうと思います。
すごく前のめりになっているような憲法改正を進める動きです。けれども、どこまで変えるのか全体像が不明な中で、あたかも目隠しをされて賛否を迫られているようなものではないかという危機感を抱いています。
5月3日には報道されますが、例年この時期は世論調査を行いますね。
私はこの前、NHKと共同通信の世論調査の結果を拝見する機会に恵まれました。すごくびっくりしたのが、NHKの世論調査で、「あなたは憲法の理念とか、憲法の内容を知っていますか」という質問に、約6割の人が「あんまり知らない」とか「全く知らない」と答えました。
でも、問2以降の、「賛成ですか反対ですか」という問に、みんな答えています。すごく不思議だなと思いました。知らないのに答えてしまう。それが人間なんだろうと思うんですね。分からないけれど、賛成か反対かと言われたら、賛成?みたいな、そんな感じで、雰囲気で決めるんだと思うんです。
多分にこれは雰囲気的なところがある。これだけ改憲必要だ、必要だ、世界情勢変わった、時代は変わりました、みたいなこと言われると、変わったかもしれないというふうにもなる。でも本当にいいのかなっていうところが、そういう世論調査の結果に現れているのかなと思っています。
興味深いのは、緊急時に議員任期の延長をどう思いますかという問です。どう思いますかと。いいんじゃないのって人々は思うんですね。
でも、緊急時に行政権へ権限を集中させると、どうですかという問です。義務が発生するのはどうですかというと、義務が発生するとまずいんじゃないの、と思うわけです。そのあたりの部分が、そういうものなんだと思います。そういうものだと思った上で、闘わなくちゃいけないと思いますね。
共同通信さんの方は「知っていますか」という質問はなかったと思いますが、基本的に似たようなところだったかと思います。
改憲は必要なんじゃないのかというような雰囲気もあります。でも丁寧な合意形成はやっぱり必要なんじゃないかとか、拙速はいけないんじゃないかというのは、まだ多い方の雰囲気のように思います。
詳しくは統計的な分析と専門家の分析を待たなくてはいけません。けれど、こうした感想を抱いたということで、情報を共有したいと思います。
イカロスの翼のイメージ図を示しました。このアイディアを頂戴したのが、「女の会」の準備をしている時の会議で、ご質問をたくさん受けて、イカロスの翼の例を出したら、自分で納得して使っています。イカロスが蝋で作られた翼を得て、いい気になって飛んでいた。大日本帝国憲法下で、議会はすごく限定された権限しか持っていなかった。しかしながら日本国憲法になった時に、宮沢俊義先生などが太陽系の中の太陽なんて言い方されましたけれども、議会は中心に位置づけられました。
現実には、政治というのは大人数の中では行われないので、内閣が中心になってしまいます。けれども、一応憲法上では、ガシッと予算も握っているし、法律も作るという強い権限を持っているのが国会です。だから本当はもっと飛び回れるはずです。
そういう中で私の理解するところ、2014年は通常の政治ではない。私たちが、選挙で国会議員を選んで内閣が組閣されて、限定された権力をそれぞれの持ち場で果たす、といったような構成が通常の政治です。2014年は通常の政治ではないような、異常な判断だったと思っています。
いってみれば国家主権がギラッと光るような瞬間でした。憲法が政治の仕組みを定めていて、憲法に従った政治がぐるぐる回っているのが通常だとすると、その外側からギラッと光るような光に照らされて圧倒された、蝋が溶けたような、こういう瞬間だったのではないか。立法府がうまく働かなかったような、「人間かまくら」と言われた。立ったり座ったりしているうちに、いつの間にか安保法制も通ったということを思い出していただきたい。いわく言い難い、変なことが起こりました。そういう瞬間って、やっぱりあるんですよね。
これ、権力に他ならないと思うんです。
権力が集中されて、あまり一つに集中すると危ないので分割する、というのが権力分立です。でも分割されても一つなんですよ。一つなんです。その一つが後ろにある。この後ろにある主権、これを私たちは国民主権という言い方をしています。過去、現在、未来にまたがる概念なので、今生きている私たちが主権者というわけでは必ずしもない。
過去に生きていた人も、これから生まれる人も、この後ろに控えている一つの大きな塊、これがないと国家は一つじゃない。一つにまとめるための強力な太陽みたいなものを思い浮かべてください。後ろにあって、でも太陽はあまりにも強いので、そういう核融合が日々の生活に起こると、危ない。危ないので一旦これを封じ込めて、私たちに扱えるような温度の、扱えるぐらいの小ささにして、政治過程がそれぞれの権力を、分割した権力の範囲内で政治を行うこと、これが憲法という仕組み、考え方ですね。
この太陽を使いたいという人が出てくるんですね。今アメリカにいますけれども、日本にもいるでしょう。使いたくなってしまうんですよね。ちょっとでも太陽の一つの欠片でも見せると、どこかの国の大統領夫妻まで、法執行と称して拉致することもできる。あるいは攻め込むこと、先制攻撃もできてしまう。これは、国内法のレベルでも国際法のレベルでもやってはいけないという法はあるんです。
あるけれども無視したくなるというのは、何でもできてしまう力をちょっとでも使いたいという、そういうできちゃう力が後ろにある。これがギラッと光った瞬間なのかな。ギラッと光ったので、立法過程も現実に憲法が想定しているような立法過程が動かなかったのだと思います。
だから安保法制違憲訴訟などで私が申し上げていたのが、裁判所がバランスを取るしかないということです。立法政治部門がやったから、それで正当性があるという話ではなくて、異常な事態だったのだから、異常事態の大きさに見合ったような扱いをすべきだ、というのが言いたかったことです。それを図に表現するとイカロスの翼。いかがでしょうかね、私すごく好きなんですけれど。
2014年の政府解釈変更――これがまさに後ろに控えているべき主権がギラッと光った。断絶的な決断だったのではないか。だからこそもうちょっとタガが外れた、無理が通れば道理引っ込むというようなところで、2015年の法制化による恒常化で、この政府解釈系の憲法論で、2014年以降にドーナツの身の部分がものすごく広がったんですね。
昔は安全保障というと、憲法的にどうなのかという議論が付随していました。けれども、経済も安全保障だ、宇宙も安全保障だ、情報も安全保障だ、外交も安全保障だ。安全保障の軍事力がないとできないんだ、みたいなことが赤裸々に語られるようになったのは、おそらく2014年以降の一つの特徴だと思っています。
ここへ来てホルムズ海峡その他諸々の対応の中で、九条の働きを可視化しているというのが新たな動きかと思います。
最終的に、できることとできないことはあるんですね。ここを仮に高市さんが、「行きます」というようなことを言っていたならば、これは新たな主権的な決断だったと思います。その前までの説明が効かない、今までの説明では説明しようがありません。
2014年もそうだったので断絶と言いました。仮に自衛隊を派遣しましょう、完全派遣しましょうというようなことを約束してきてしまったら、新たなギラッと光る瞬間、ギラッと光らせてしまう首相ということになったかと思いますが、やらなかった。
前のめりにいろいろ憲法論がなされていますけれども、可視化された九条の、このカシッと止めている内側の部分が一つあるということです。安全保障関係の話を位置づけるには、真ん中の部分とその外接部分とに分けて考えた方が良いと思います。
ロジックそのものも違います。軍事力は、国家そのものに近いんですね。いろいろなところで情報などがボーダーレスになったり、勝手に簡単に国境を越えるような状況になっています。けれども主権国家体制が仮にも残る限り、軍事力というのは最後まで国家と密接に残り続けるはずです。
国内における治安等維持の権力、核として一つにまとめるという力、体内と体外の両方を含みますけれども、最後まで残るものだとすると、いよいよ九条という働きがドーナツ部分に一気に波及してきます。一旦いうものの扱いについて、今考えておくべきだろうと思います。
自民党大会で、「死活的に求められる憲法改正」みたいな言葉遣いもされています。改憲への気運盛り上げのような情勢が、とみに激しくなっているところです。一旦のまとめとすると、全容がわからないままに期が熟したとされて、来年の党大会までにといった期限まで切られようとしています。主権者として目隠しされたまま決断を求める危険は、かなり強まっていることをまとめておきたいと思います。
なんだかんだ言っても、中核は九条改定になるはずで、そうでないと改定する意味がないだろうと思います。私の見立てだと、「国民の決意」――言ってみれば国民の覚悟というようなところで、マンパワーが喉から手が出るほど欲しいと思います。
国家とか安全保障とか抽象的な概念ですけれども、現実には人間が働かなくてはいけないわけです。今、予備自衛官が足りないので公務員で補充するという話もあります。けれども、ロジスティックスを担当するあるいは医療関係者等々、マンパワーという面で見ると、動員するためには法律が必要です。憲法九条がある限り、これはできないんです。
継戦能力というようなことも言っています。戦い続ける能力とは、誰が戦うのかというところもありますけれども、中核はいずれにせよ九条改定だと。
そこまでの段階で、議員の任期延長というのは、国民の多くにとってどうでもいい話というふうにも聞こえているのかもしれません。そういう意味で、改憲に一度慣れていただくというようなことがすでに言われています。そういうところから入るかもしれないとも思います。けれども中核は、おそらく九条改定というのは明らかだと思います。
この歯止めが課題ですね。いまお話ししたように、歯止めというのがなくなっている中で、私たちが生活の中で、もしかすると地球の裏側まで行って、人を殺し殺されるといったような事態も予想されます。そうしたことに加担する、あるいは被害者になる。そうした諸々についての想像力が求められるところなのではないかと思います。
ここでNHKの世論調査で興味深いと思ったのは、世代ごとのクロス集計です。
18歳から39歳という世代と、40代50代60代70代80代以上というような区分です。改憲についてどう思うかというような、前向きさを図る質問の中で、40代から70代がちょっと積極的です。それに対して18から39と80代以上が、慎重だというような結果が見えます。かなり特徴的に差が出ているように私には見えました。それは何でなのだろうなと思いますね。
NHKの世論調査は定点観測をしているので、比べられるわけです。今の80歳以上の方が70歳代だった時の世論調査の結果と比べることもできて、あんまり変わっていないんです。それは戦争体験というようなことと密接ではないかと思われます。
18歳から39歳までが、40代以降の積極さに比べて、慎重さを求めている。これは、まさに自分ごととなるからではないかという気もします。40代以降は仮に状況が変わったとしても、実際は行かないだろうというところがありますよね。
こういう赤裸々なことは、NHKのインタビューでは答えませんでしたけれども、人生経験も含んでいるし、安全とか国家とか、そういう抽象的な言葉も使い慣れているところもあるかもしれません。日本が、中国が、アメリカが、というような話法にも慣れているかもしれません。また男性と女性でも、ちょっと有意な差があるように見受けられます。それもまた想像力と諸々のことが考えられるかと思います。
全部ならしてみても、改憲に一定の積極度は見られるけれども、とくに九条とか緊急事態への注目はあるようです。では、今すぐにでも変えるべきかというと、そこは違います。慎重抑制的な姿勢を示しているようにも見え、また賛成反対を広く合意形成すべきだというところは、多くの方が思っているようにも見えます。このような世論調査を私が見たのは、共同通信とNHKです。他社でも行われているはずで、おそらく同じような傾向だと思います。そうした時に、国会での議論とか内閣の言っているような前のめりな姿勢と温度差がある。これは少なくとも言えると思いますね。
この世論調査をもとに憲法を改正する事実があるというのは、絶対無理だと思います。法律を改正する時も、法律改正を支える事実があるかというのはすごく重要なんですね。これは立法事実と言いますが、憲法を改正する事実については、何というかというのはちょっと難しいです。一般的な用語はないかと思いますけれども、憲法事実と言ってもいいのかもしれません。改憲事実と言ってもいいのかもしれないけれども、憲法改正を支える事実って、ちょっと平たく広げていった方がいいかなと思います。この世論調査を憲法改正を支える事実とするのは、私は無理があると思います。これを使ったら不誠実だと思います。
私たちとしては、今どこまで変えるのかわからないと、目隠しをされたまま、賛成ですか反対ですかというようなことを求められるのはおかしいと言うべきです。何をやろうとしているのかきちんと説明すべきである。それは憲法改正の条文だけでは足りないということも、言わなくてはいけないと思います。
これを変えたら、憲法改正をした後に、どこまでの法律を改正するつもりがあるのかというところまで言わなければいけない。こんなことを言うと、権利義務――権利の制約と義務の義務付けが出てくるから国民が怯むだろうと、言わないだけだと思います。考えているのは間違いないと思います。
その点で、連立を組んでいる維新の会と、それから自民党が示している憲法改正の草案で、自衛隊を書きこむという草案の違いは興味深いです。維新の会の方は九条二項を削除、ということを言っている。
さらにですが、安倍政権が2014年に集団的自衛権の行使容認をしたときです。その前に安保法制懇が首相から諮問されて報告書を出しました。その報告書の中で、芦田修正も含めて、今までの憲法解釈を変えるべきだと言っていたのを採らなかった。これまでの整合性があるからということで、報告書が捨ててしまえと言っていたのに採らなかった。これも引き合いに出して、維新の会はあれが間違っている。根本的に憲法を変えるべきだということを言っている。
それだけ見ると、ものすごく大きい違いじゃないですか。国防軍にしてしまえということとか、そもそもの日本国憲法の出発時点がおかしかったと言っているので、かなり勇ましく思えますね。もし私がそういう勇ましいことを言うのだったら、主戦場はどこかとて言ったら、やっぱり防衛二法ですね。
自衛隊法と防衛省設置法が足枷なんです。これがあるからこそ軍隊になれない。今は、その呼び方を変えようということも言っていますけれども、根本的に作りが違うんですね。
自衛隊法と防衛省設置法が足枷
防衛省設置法は、わざわざ他の省庁と倣う形で作っています。例えば私の関連で言うと文科省とか法務省ですけれども、そういうような省庁の内側を作っているルールを、そのまま横滑りして防衛省が基本的に作っています。政府が防衛省を、機能面から見ると自衛隊だと説明してきました。私が説明しているのではなく、政府が言ってきた。政府は防衛省、イコール自衛隊だって言ってきたわけです。
これものすごい大きな足枷ですね。省庁が、実力行使するにふさわしい組織ですかと。考えてみてもふさわしくないですね。だから軍隊組織として思う存分実力を発揮したいと思ったならば、防衛省設置法は、もうてんでダメなんです。変えなくてはいけないと思うはずですね。
自衛隊法も、できることは何かということを一個一個示している法律ですので、石破さんがよくおっしゃっていたようにです。アメリカの軍隊というのは、できないことは国際法の規範で、今はもうアメリカの大統領はそれもないと言っているわけです。日本の場合はできることを書いて、これは真逆だと言っていますけれども、本来そう考えるべきだと思うんですよ。
そうすると、勇ましいことを言って国防軍にするんだというふうに言うならば、この二法を変えるべきだというのが、私は論理必然だと思いますね。
維新の会の草案を、ある意味そうくるだろうと思って読んでいくと次のようです。
軍政・軍令について言えば我が国には防衛二法があり、十分とは言えないがそれなりにできていると言って、すぐにその先の軍事司法の裁判所を設けるという話に移っています。
怪しいですよね。
この語られないってところが一番怪しいと思います。本当はここをどうするんですか、ここが問題なんじゃないですか。ここが問題だから国防軍にするんじゃないですか、というふうに思うわけです。ああいうふうな、語らないでやろうというのは本当に悪い癖ですね。
自衛隊を書き込むというのは基本同じ、思想としては同じです。単に国民の耳当たりがいい。自衛隊は変わりませんよ、そのまま書くだけですよというような、耳障りがいいためにこれまで自民党がずっとやってきている。変わらないように見えてちょっとずつ変えていって、変わらないところ変わりませんと言ってみんなが受け入れたなと思ったら、ちょっとずつまた変えていく。こういう手法を取っているのが自衛隊を書き込むというだけなので、行き着く先は比較的維新の会に近いでしょう。
だから維新の会と並べたところを出して、アドバルーンだと思います。維新の会に対して、国民がどれくらいアレルギー反応を示すかによって、ちょっと変えていくという戦法かなと思いますが、いずれにせよ似たり寄ったりだと私は思います。
本当は語られなかればいけない課題があります。かつての統帥権、統帥作用をどうするのか。本当は変えると言うんだから、正面からそこまで言うべきではないですか。そもそも政府解釈が間違っていたと言うのだったら、ではどうするべきだったのか。そういうところで見ると、全然語られてないことがよくわかると思います。
憲法改正が求められるとするならば、ここのあたりこそが、すごく誠実にいわれなければいけない。ここが、イコール国民の決意なり覚悟なり、私たちの権利制約なり義務にも直結するところであることを強調しておきたいと思います。
平和国家とは何か。今の自衛隊、防衛二法が、なんだかんだ言って効いています。これを国際的な文脈で見なくてはけないと思います。
日本国憲法が特殊だというところから出発するのではなくて、国際法秩序というのが、第二次世界大戦後に併用した理由、倫理的道徳的な出発点を忘れてはいけないと思います。国際法秩序が揺らいでいる、法の支配が揺らいでいる、もう終わったというような言説も時折見かけます。けれども、そんな簡単に終わったと言えるのか、私は言えないと思います。
第二次世界大戦による死者数が6000万人ともいわれ、もっと多いとも言われております。我が国で300万人、アジアで2000万人といったような死者数です。想像できないくらいの命がなくなったからこそ、これでいいのか、こんなことが許されるのかといった倫理的な、道徳的な問いが、第二次世界大戦後の秩序だったはずだということを思い返したいと思います。
国連憲章も、だからこそ国家の実力行使を、戦争のみならず武力行使の原則禁止と原則違法化という形で制約したわけです。
もっとも、国連憲章では例外的に許される自衛の措置として、自衛の措置、個別的及び集団的自衛権と集団安全保障体制というのが例外にありましたけれども、こういう枠組みだった。国際的にみんなこれを守っているならば、国際の平和は守られるでしょう。そして国内においても、それぞれの国できちんと人権が守られ、平和が守られるようなことをすれば、みんな平和になるでしょう。こういう二層立てです。
国際的には主権国家体制ですので、一つ上の国内法秩序のように段階構造になってはいませんけれども、ダブルでですね。国際的にもそして具体化する国内法秩序でも、平和を探求していくべきだという出発点で、先ほどお話をした防衛二法は、自衛隊が海外派遣される前までは、それなりにこの枠組みの中で説明できたのかとも思っています。
それなりの努力だったかなと思っています。
国家としての実力行使が、対外的に許されるか許されないかというのは、基本的には国際法のお話です。国内法のお話ではなくて国際法のお話として、後からそれが自衛の措置であったかどうかというのが国際法に照らして判断される。これを国内で、日本国憲法の下で、国際法的に許される自衛の措置を仮に具体化するとする。それは他の国から攻撃を受けた時に反撃するならば、国際法的にも違法ではないし、国内法的にも説明できる、というのが基本的な政府解釈の骨格だろうと思います。
これを具体化したのが自衛隊法だった。これはすごく枠付けが厳しいです。
それが本当に許されるのか、可能なのかというのが、いろいろな解釈、成り立ち得る解釈の一つというふうに私は理解し、整理をしております。国際的な平和を求める努力の、一つの国内法的な説明だったと言えるかもしれません。
私たちの命や、生活関係性の喪失があまりにも大きかったがために、国際法秩序を転換させて国内の法治秩序としても、日本国憲法のようなものに結実したということを確認したいと思います。
そこで日本国憲法がとったのは、極めて面白い方法だと思います。先ほど国家の権力、国家そのものとすごく密接に結び密着しているものとしての軍事、という説明をしました。国家と軍事とすごく密着に結びついている軍事を、内側の通常政治の世界から放逐した、外して外部化したというのが憲法だったんだと思います。外部化するというのが、なかなか手法として面白いと思うんですね。
憲法でも基本的によく説明されることですが、憲法制定権力というのは、基本何でもできる。さっきの例えで言うと太陽みたいなもので、何でも作れてしまう。
れはギラギラと光って、かなり主権に近い、ギラギラと光るようなものなので、これが抜き身で存在すると危ないというか、誰も使いこなせないので、一旦成文憲法になったならば、これが凍結されてと言うか、内側にしまい込まれる。基本的にはこれは憲法改正権、日本国憲法だと96条ですけれど、憲法改正権という形で内側に取り込んだ。主権者である国民が、これを発動させて憲法を変えることはあっても通常は出てこない。通常出てこないものとしてしまい込まれて、もともと作った憲法制定権力そのものは外側の話として後ろに抑え込んでおく。
でも、憲法があって、その下で通常政治を行うということだけだと機能しない。だから一つにまとまらない。国民主権である、という説明をされます。けれども、過去・現在・未来にわたる、国民が主権を持っているということは、これは抜き身で存在しません。そのものでは動かない、動かないものです。過去・現在・未来なので、概念としては動きようがないんですね。
でも動かないものとしてあって、これが正しいことをするか、正しくないことをするのかという次元ではありません。間違えることは通常政治にもあるけれど、それを超越したようなもの。私たちの社会とか、私たちが生きていく上では、こういう超越的なものって必要ではないかと思いますね。
宗教ってそういうところがあるかなと思います。私たちの世界に回収されないお話って、絶対必要だと思います。全部説明して回収できちゃうと、不正義も当然起こるんですね。回収されないものがあるからこそ、これ一つなのではないですかね。
人間は間違えますので、間違えることも当然前提にした上で、これが一つ動いて行きつ戻りつする中で、一つに保つものというのは何が必要なんだろうと思いますね。
主権国家というのも、時代遅れの概念だとか、そういうふうにも言われます。情報なんて国境を超えますから。実際のところ、いま権力を持っているのは誰ですかと言ったら、国家ではなくてむしろGAFAじゃないか、ということも当然言われますね。民間企業ではないかという話です。
あるいは、そのテック・リバタリアンのような方々からすると、国家とかなんとか全然関係なく、自分たちの世界だけを持っていればいいという人もいます。すごく時代遅れに思われるかもしれないけれど、何か一つのものを維持しようと思ったならば、それが一つであるためには、複層的にならざるを得ないのかなと思います。
人間一つの存在を考えてもそうではないかと思います。私というものが毎日更新されていく。けれども、どこかで私というのが一つ理解できるとすると、それはどこにあるんだろうかと。
そしてまた、私は一人で、個人だけれども、必ず人生の最初と、場合によっては最後、誰かのケアを受けるということもあります。一人前になるまでの過程で、誰かとの関係性の中で、個人というのは存在せざるを得ない。だから、この辺りがこの頃考えているところで、世界の論文にもジョルジョ・アガンベンは散々使っています。アガンベンがものすごく面白くて、久しぶりに真剣に参照したんです。
神学をベースにした三位一体のお話でもありますが、神とキリストと精霊というような関係で、分散しない。分割する勢いがどうしても生ずる中で、どうやったら一つでいられるのか、一つでいるためには三位が一体として理解することが、良いというような思考がですね。
憲法もそうなんだろう。こういう近代憲法のお話です。基本的には私たちが、私たちの社会を自由に保つ、あるいは人権が保障されるといった概念だけだと意味がないんです。私たちの自由を制約するためには、誰かアクターがいるからこそ、こういう仕組みが必要になるわけでですね。
憲法が自由を保障しています。私たちの生きていることを守るためには、憲法に従って作られた法律がきちんとしたものであること。だからこそ自由は一定程度制約されても、私たちが作ったのだからという理屈になって、ここにきちんと回っている限りにおいての自由だというような発想になります。
自由が守られるためにこそ通常政治がきちんと行われなくてはいけない。この通常政治を時折破るもの、ギラッと光るものがあるというのを私たちは見ているわけですが、それが通常政治の世界だと見えない。説明できないんですね。
これをやってはいけないと書いてあるのに、やってしまうわけです。やってはいけないと書いてあるからおかしいんですね。ということを超えて、とんでもなく大きな力も発揮されてしまうわけです。
一番目に見えやすい形で言うと、革命とかクーデターでしょう。石川健治先生が2014年の閣議決定についてクーデターっておっしゃって、まさに私もそうだと思います。なんでクーデターかと言うと、普通の政治じゃないんですね。普通の政治の中で説明できないこともやってしまいます。
それが権力に他ならない。これが何でもできてしまうからこそ、私たちは知恵を絞って、憲法で縛ろうということを考えます。憲法で縛るというのを具体的に言うと、通常政治を行うことをいくつかのアクターに分けます。よく高校までの教科書だと三権分立とかを使ったりしますね。それぞれが限定された権限を行使して、お互いチェック&バランスをするから、権力を分割して人権保障をする仕組みであると。
こういう仕組みだけれども、うまくいかない。うまくいかないというか、いったためしがないと言った方がいいのかもしれないんですね。
うまくいかない上に、説明のしようがない権力行使というのもなされる。ここで主権とすごく近いところにあるのが軍事だと思います。
ということで、憲法改正とか通常政治だけではなく、もうちょっと大きい、内側に回収されない次元もある。内側に回収されない不動のところ、動かないところと動くところという対比で見てみると、これを区別して、ここの間を維持することはすごく重要です。
いつでも動く、何でもできてしまう力が、偏在してしまうとなると、自由がなくなってしまいます。いつでも動かないために外側に置いて、私たちに扱えるぐらいの大きさにして扱っています。これが偏在するのが緊急事態状況で、問題となるようなお話です。
あれは憲法が止まる瞬間を認めるという話ですから、止まる瞬間って何かっという話です。基本的には私たち人間社会は生身の人間で構成されているので、行政権を握っている人たちが、こっちの世界の話を、あたかも自分の力であるかのように行使したくなり、行使しているのも、今見ているようなところです。
私の理解するところ、九条の試みがすごく面白いのは、軍事について憲法で定めることなく否定した。こちらの世界から否定したので一旦放逐された。放逐されたので基本できないわけです。
例外としてどういう場合にできるのかという議論にならざるを得ないところもあります。外部化したがゆえに、内側の行政権を中心とする通常政治の中に、本来的に入らないので、入るという説明しなければいけなかった。
行政作用であると言っていました。今も言っていると思いますけれども、政府は、防衛作用は行政作用にほかならないと言ってきたので、少なくとも形は通常政治の中の行政権として説明せざるを得なかったということになります。説明せざるを得なかったので、行政作用ですから通常の行政作用とどう違うんですかと、憲法が軍事否定しているから特別扱いできない。
もともと軍事に関わる作用は特別扱いされたがります。特別扱いの権化みたいなものになっている。だから、特別扱いされて然るべきであるという風な主張をしたい権力です。いざとなったら、実際のところを破壊、殺戮というような形で行使され得るものです。九条はこの外部、内部、動かないもの、動くものということで言うと、動かない方にロジックとして置く。このことで、通常の動く普通の世界の中に、説明責任といいますか、説明を求める、説明させなくてはいけないというような効果だったと思っています。
もう少し言葉にしているのが、何でもできてしまうのが火の玉です。月刊「社会民主」5月号に寄稿させていただきましたが、その中で、あたかも火の玉をビー玉のように扱おうとしている。維新が言っているのは、内側の話です。でも本来的にはその外側の、触れたら火傷するようなお話なのに、なんか淡々と。
主権というのは取扱い注意の概念です。何でもできちゃうような力に近い軍隊は、国家の主権的作用に近い、法を免れたがる傾向がある。だからこそコントロールが難しいからこそ縛りの試みがありましたという説明となります。
樋口陽一先生が日本国憲法九条について、自由を下支えしてきている、というようなことをおっしゃっています。私も何回もその引用はしてきたけれども、改めてそうなのだろうな、と思います。
外側に置いたことによってで、特別扱いできないので、国防のためだからとか、安全保障のためだから、自由を我慢しなさいという論理が基本成り立たない。言ってみれば、日本国憲法典、日本国憲法というような憲法典による自由ということを可能にしたのが、九条だったかなという気もしております。
九条は何を止めてきたのか。「軍隊だから仕方がない」と言うような、何でもできてしまう流れを止めることはしてきている。安全保障のため、というだけで我慢しなさいと簡単に人権を制約する論理は通用しませんでした。2013年までは国家の機密についても、通常の秘密と同じような扱いでした。今は、本当に特別扱いするようになっています。
武力行使を止めるというのは、これはまだまだ効いているところです。
同盟圧力も、まだ効いていると見ていいのかと思います。日米安保体制と不可分だというのは、否めないところがあります。
外部化したことがなぜ効いたのかというと、日本国の中では完結していなかったところも多分あると思います。ただ、どこまでも同盟国のいうことに従わなくてはいけないかというと、そうではない論理も提供してきたのが九条だったろうと思います。
非核三原則も、おそらくそういうようなお話です。持ち込ませないというのは、すごく強い反同盟的な作用ですね。それやこれや止めてきたところがあります。
中核を、武力行使そのものにかかわるコア部分として、外接部分と区別するのがいいのではないかと思います。コア部分は依然として憲法九条の制約が強い法制度を維持しています。外接部分はものすごく大きくなってきていて、武器輸出、経済安全保障、物流、医療、情報、学術、AIといった各種の領域で、憲法との関係が前面に出されないまま政策が拡張してきています。このあたりは2014年以降に特に政策が拡充されています。
下のスライドで、安全保障と普段の生活を両極端に置いてみました。実際には生活と安全保障をつなぐ回路として、この外接部分が整理されてきているということを確認したいと思います。
2014年の補充的指示権は、すごく大きいことだったと思っています。この間ですね、東京大学の金井利之先生が中心となって、日本評論社から本が出ました。[*『「地方自治の本旨」を侵害する補充的指示権-再集権化の危険性を読み解く』]
補充的指示権に的を絞っていろんな分野で書いています。私も安全保障との関係で一章書かせていただきました。そんなに厚くない本ですけれども、中身がめちゃくちゃ濃いんですね。自治体、医療、物流・・・ぜひお読みいただくといいかなと思います。
補充的指示権が作られた地方自治法の改正は、もともとどういうところから議論が出てきたのかというと、DX化、デジタル化から出てきた話です。より滑らかに、というようなお話の文脈から、いきなり補充的指示権が出て、滑らかとはちょっと話が違いますね。
実際のところ地制調の中では非平時というような言い方もされています。要は平時じゃない時代に備えると。でも非平時というと、疲れているみたいだからやめようとか、そんな冗談みたいな議論がされています。金井先生はその言葉が気に入ったようで、非平時とかいうことを論文の中でも書いています。平時ではなくて有事でもないというところ、ここがポイントなんですね。
ドーナツ型の身の部分が何で重要かというと、この平時と有事をつなぐところなんですね。
思い出していただきたいんですが、2014年の閣議決定の表題、あれ「切れ目のない」と書いてありました。そこなんです。切れ目がないとは具体的にどういうことなのかということは説明されてなかった。あの時、私たちは集団的自衛権にちょっとフォーカスしていたけれども、今、これを読み返してみましょう。
2014年の閣議決定は、最初にグレーゾーンの話があって、国際の関係の話があって、自衛権の話がある。それは、やっぱり切れ目がないということにほかならず、それを法律の処方で、省領域で具体化していったのが、2014年から今までなのでしょう。
ということなので、非平時なんですよ。
平時から、非平時と有事を結ぶ。この回路の部分、器の部分がだいぶできている。真ん中の部分、中核部分が一旦、こう変わるとなると、器がどんどん埋まっていく。オセロがとパラパラと変わっていくような形で変えられる。すでに器ができているということになるかと思います。
こんなことまで2014年時点で説明していたかというと、説明していなかった。
学術の問題だって、軍事ですよね。
軍事研究と密接に結びついていたからこそ、学術に国が関わるというような、日本学術会議問題が起こったということに他ならないわけです。あるいは経済安全保障とか、情報・宇宙とか、ここまでのことは2014年段階では言っていなかった。間違いなく言っていなかったはずです。
一旦器が作られると、さらにそれが次の器というか次の縛りにつながっていくのがこの間の動きです。内閣がまず必要性を判断する。これは必要だと。
例えば集団的自衛権行使容認の閣議決定をする。そうするとそれを法律化する。立法府が後を追っていく。次にそれが一段落すると、新たにまた内閣がこれが必要だというような一歩を踏み出して、また法制化していく。結果として生じていることは、ドーナツ型の食べる部分について言うと、内閣の裁量がかなり極大化しています。
最終的に、判断は内閣が総合的に行うというような仕組みが、諸々にできている。これは、要はお任せくださいということです。お任せくださいと。
国会で聞かれても、いえいえそれは手の内を明かすことになりますので明かさない、となる。いよいよもって、ブラックボックスになっていきます。
では、日本がそれ決めているのか、というお話もあります。インテリジェンス能力を今でも十分持っている。これからもっと持つんだというような言い方もしています。けれども、そもそも特定秘密保護法が何で必要とされたかというと、アメリカとの関係で日本がリンクの中の弱い部分だ、きちんとしないと情報をあげないよ、と言われて作ったわけです。
そうした時に重要な安全保障に関わる情報が、特定秘密というような分類になると、国会もアクセスがすごく制限される。地方公共団体なんて、もともとカヤの外です。特定秘密を事前に共有するという発想がそもそもありません。
内閣とアメリカ政府はがっちり交流するけれども、それ以外に出さないというのが特定秘密なわけです。そうすると、情報がないのにどうやって避難するんですか、どうするんですかということにもなっている。お任せくださいというのがこれだけ広がっているということになります。
中核はまだ効いているけれど、医療、物流、エネルギー、情報、AI、学術など、結果として一歩手前が分厚くなっています。国民の通常の生活と密接な局面で、国が指示しうる回路が国家安全保障の論理で動きだす可能性に接近してきています。
ここが国家安全保障の論議で、転轍(てつ)というんですか、軌道がガラッと変わるというようなことが、容易になってくるとなると、具体的な生活の問題に近接するというような話です。
こういう試みを変えようというようなことが、今の改憲論になります。これを変えるというわけですから、今ある自衛隊と変わらないはずがない。変わらないはずがないわけで、憲法に入れることによって、基本的には特別扱いの理由になるというのが、大きいだろうというのが私の見立てです。具体的には国民の義務付けとか、権利制約とか自衛隊への特別扱いといったようなことが、帰結として出てくるでしょう。
これを逆に見ると、憲法九条はそういう特別扱いをさせない理由であるということを改めて見る必要があるでしょう。
合理性という言葉で見てみると、軍事はまさに合理性が強く求められるところですね。
一番勝つタイミングで、一番勝つ方法で行う。合理的に行う。軍事行動を起こす人たちは、そのために人が死んでも、それは仕方がないというふうに思う。軍事的な合理性と人権と比べたときに、どっちが勝つかというと、軍事的合理性が勝ちます。これが一番合理的であるというようなところで判断する。
でもそれを合理性の前に抗うものが九条だったんだろうと思います。合理性の前に人権は低く見積もられるのが当然というか、通常である。国益とか国防とか安全保障とかを考えた時に、それが多くの人の命の問題なのだから、あなたは我慢しなさいという、そういう理屈がなされがちです。
古今東西そういうことがずっと起こってきたし、今も起こっている。でも安全保障のためだからということで、簡単に人権を制約させない、というのが抗う根拠となって、理屈を提供してきているのが九条だと思います。
そこで、この『セイレーンの歌声』で間違った行動をしないように、自分の体をマストにくくりつけて、蜜蝋で耳を塞ぐというような、要は自己拘束ですね。
[*セイレーン(Siren)は、ギリシャ神話に登場する、上半身が人間の女性で下半身が鳥(後に魚)の姿をした海の怪物・妖精です。美しい歌声で航行中の船乗りを魅了し、岩礁に誘い込んで難破させ、死に至らしめる危険な存在として知られています。英雄オデュッセウスは、部下の耳を蜜蝋で塞ぎ、自分は帆柱に縛り付けられることで、セイレーンの歌声を聴きながらも難破を逃れました]
安全保障問題を根っこ部分で規定するというのがこの九条の試みだとすると、最大の権力抑制かな。安全保障が権力行使の最も最たるなものになるものなので、これを根っこ部分で規定するというのはかなり強いものだったと思います。
自衛隊そのものは自衛隊法・防衛省設置法という防衛二法の法律で、基本的な枠組みは作られています。九条が強い制約として残っており、軍事はなんだかんだ言って特別扱いしにくい。もうすでに特別扱いをされてきつつはありますけれども、簡単に特別扱いはできない。しかしながら仮に改憲するとなると、憲法上の存在になります。
国防軍ないし自衛隊が、安全保障を理由に例外が増えていき、どこまで影響が及ぶのかわからない。論理が逆転するというところです。
この間、政府がずっと言ってきているのは、世界のどこで起こっても日本の安全保障の問題なんだということです。2014年の閣議決定もそうでした。
さらに日米同盟とか、最近ではフィリピンとかオーストラリアも含めて同志国とか準同盟国とかそういうことを言っているわけです。そうすると、国防軍とか自衛隊ということになった時に、日本から非常に遠いところにも武力行使に関わって出ていく可能性が非常に高くなります。これを、九条が依然として相当部分止めているというのはすごいなと思います。
集団的自衛権はもうとめどがなくなる、ということを私も言ってきました。けれども、こういう事態でもなおかつとどめているというのは、すごいなと思いますね。集団的自衛権そのものとしては、もっともっと広がっても仕方がないような断絶的な判断だったわけです。にもかかわらずこれだけ止めているというのは、かなり元々の論理が強いのだと改めて思います。
自衛隊を国防軍化した時に一気に回路がつながって、転轍(てつ)するというようなことになった時に、私たちの生活にかなり密接してきます。それは、かつて否定した高度国防国家ではないのか。かつて求められた高度国防国家は何が肝だったかというと、国民が直接に関わることが重要だった。
焼夷弾が降ってきてもその場に留まって、箒で消せという命令。こういったことを守らせるために、生活の全部面が組み込まれていた。生活部面が全部組み込まれるという、樋口先生がおっしゃったような意味での下支えがなくなった自由に、安全保障がくまなく及んでいる現状が関わってきます。
軍事力に基づく外交を、当たり前のように語るようになっています。外交は必要だと言ったその瞬間に、その次の文章で、そのためには軍事力が必要だというような説明をしています。民間人も含めて、殴られ殺される側は想像しないようになっていくときに、それは平和国家と言えるのだろうか。それは平和国家なんだろうか。
かつて宮沢さんが、我が国は兵器の輸出をして金を稼ぐほど落ちぶれてはいない、というような言葉を言いました。この言葉を使って国会で質問されたときに、高市氏は「もう時代変わりました」と答えた。これはすごくびっくりしましたね。この一言で変えられるんだったら、なんぼでも変えられます。時代は変わったんですからね、というような、これはすごいなと改めて思っています。
結局、それは私たちにとっての問題だろう。どこまでどう変わっていくのかを見続けなくてはいけない、ということを今日は強調したかったところです。
戦後の国際法秩序が「力こそ正義」を否定したわけです。ここに改めてしがみついていく必要があるのではないだろうか。国際法や法の支配そのものが揺らいでいる中で、時代は変わった、終わった、ということを言っていいのだろうか。声の大きい国の2軍となって地球の裏側で人を殺める側になっていいのか、というところが問われると思います。
そういう出発が、倫理とか道徳を含んでいたというのはすごく重要で、我が国の日本国憲法もそうです。あれだけ人の命の犠牲を生じさせた中で、人の命に対する責任が、倫理道徳的なところが、おそらくあったはずです。私が武器輸出三原則で一番関心があったのはそこの面でもあります。
戦後直後は、もともと武器の引き合いがなかった。砲弾とかの取引はありましたけれども、そんなに大々的に行っていませんでした。でも残念ながら朝鮮特需で潤いました。またベトナム戦争でもトイレットペーパーからナパーム弾まで、日本から物資が運ばれ、特需がありました。このようなことが、それでいいのかというような辞言を与えたと思います。
今、私たちが平和国家ということで思い浮かべるのは何か。武器に関する一定の制約は少し前まであったとか、非核三原則とか、GNP1%枠とか、こういうのは60年代、70年代に作られました。その後の、諸々の「それでいいのか」というような倫理的な部分が支えてきたはずだというのが興味あります。
猪口邦子さんが国連の軍縮大使だった時に、モラル・ハイ・グラウンドという言葉を使われました。日本はモラル・ハイ・グラウンドに立って武器輸出をしないのだと。だからクリーンハンドで臨める、というようなお話もされていたりしました。
[*クリーンハンド(Clean Hands、クリーンハンズ)は、主に法律・裁判用語で「不正や違法行為をしていない、清廉潔白な状態」を指し、自ら法秩序を乱した者は保護されないという原則(クリーンハンズの原則)です。
法律・法諺(クリーンハンズの原則): 「権利を主張する者は、自らの手もきれいでなければならない(He who comes into equity must come with clean hands)」という英国のエクイティ法(衡平法)に由来する原則です。不正行為をした者が裁判所に保護を求めても、裁判所はその要求を拒否できるという考え方です。]
このモラル・ハイ・グラウンドというのは、言い得て妙だと私は思っていて、大事にしなければいけないところだと思います。少なくともある時期までは、外務省もそれを掲げていました。軍縮外交ということで、クリーンハンドを臨めるということも言っていました。そういう政策が、単にロジックの問題としてできなかったからというところを超えて、九条があるのだからおかしいのではないか。それでいいのかというような部分が国民の中でなかったら、こういう政策は展開しなかっただろうと思います。
そのモラル・ハイ・グラウンド――モラル道徳的な
倫理的な面と、外部化して、国内だけで回収せずに、私たちの倫理と結んでいく。超越的なところで倫理道徳と近い部分がありますので、最終的な倫理的判断への最強の防波堤になっているのではないかと思います。力の行使を言うようなことに対して、いやそれは、というような論理としての制約と、私たちがそれでいいのかと声を上げる、その礎というような部分にもなり得ます。倫理的判断への最強の防波堤というようなことだったのではないかと思います。
力が物を言うことを諦めないとするならば、改めて国際法秩序、武力行使原則違法化の意味を再考する。近代憲法がそうですけれども、力の統制をすることを、どう知恵を使うのかを再考する。統治権を国際法によって制約するという局面と、国内においては近代憲法によって制約するということで、相対的に力の抑制をしてきたはずだろうと思います。
改めて、近代憲法とは何かといったときに、私は次の2つだと思います。権力を分割するということと、弱い側に権利を保障する。権力分割、権利保障・人権保障、この2つで言われますが、さらに弱い側というのは重要だろうと思います。
強い側に、人権を改めてプラスしなくてもいいんです。必要なのは弱い側である。憲法が人権保障をしているのは、合理性とか、なめらかに統治を行うという時に、簡単に負けてしまう側にこそ、プラスアルファをしなくてはいけない。弱い側にこそ権利を保障するというのは、近代憲法の知恵だったのでないか。力の強い人のお話、力の強い人向けではないんですね。弱いからこそこういうような知恵が必要である。多くの人の命の重みを直視して出発したことを考えるならば、感度と見識が問われる事態だと思います。
今日は、自由という中で生身の人間ということを強調してきました。日本国憲法の前文は、そういう意味でもう一回読むとなかなか含蓄が深く、主語に気をつけて読んでみると、人間という言葉が使われています。
「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を…」、これ国家ではないんですね。面白いですよね。第二次世界大戦後は、人権保障というのは、国家と国家の国際的なお話にもなったけれど、かつて人権は、国内の問題だった。
国際は国家と国家の話で、人権は直接出てこなかった。それが常識だった時に、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わった時に、戦争の惨禍によって同じような苦しみは味合わないとか、日本国政府と国民と人間というような言葉遣いがされているのは極めて面白いと思います。
戦争の惨禍で苦しむのは、体を持っている私たちである。最終的に、国家は痛みを覚えない。国家は死にません。憲法を変えられたら、憲法の国家は変わります。死なない国家が、死ぬ人間を使って行うのが戦争です。その戦争の惨禍で苦しむのは、身体のある人間であるということです。
さらにです。AI時代の九条という意味は、さらに開拓の余地があるということを、付け加えました。今度、平和学会で私が報告することになっています。そういうことで、最近つらつらと認知と平和について考えているので、この1枚付け加えました。
平和憲法は、人の命の重みを出発点にしていることを改めて確認したいと思います。その上で、「理想を謳う条文」である。同時に「国家の暴走を防ぐ現実的な仕組み」でもある。身体を持った私たちの話こそリアルなはずです。
こういう視点から、諸々の法律改正のどこまでを変えるのですか。何を考えているんですか、ということも含めて、今、私たちがやらなくてはいけないことはたくさんあるということを確認したいと思います。