自民党は4月12日、高市早苗首相(党総裁)の就任後としては初めてとなる党大会を開いた。首相は「日本人の手による自主的な憲法改正は党是だ。時は来た」と高揚したトーンで主張した。「改正の発議にめどが立った状態で来年の党大会を迎えたい」「(国会での改憲議論は)議論のための議論であってはならない。国民の負託に応えるためには、決断のための議論を行うべきだ」と述べ、「新たなページをめくるべきかどうか、国民に堂々と問おうではないか」と強調した。27年の党大会をまえに、憲法改悪の準備を整え、来年にも憲法改悪の実現を狙っている。
首相が改憲発議の時期を区切って旗を振るのは立憲主義からみて許されない。
そもそも高市首相の憲法認識は「どのような国を作り上げたいのか、理想の姿を物語るのが憲法だ」などという謬論を繰り返し主張するなど、憲法を語るに値しない認識でしかない。
例えば「憲法とは何か」について記述した日本弁護士連合会のサイトには、「憲法は、国民の権利・自由を守るために、国がやってはいけないこと(またはやるべきこと)について国民が定めた決まり(最高法規)です。たとえば、国民の表現の自由を守るため、憲法21条は『…表現の自由は、これを保障する』と定めて、国に対し、国民の表現活動を侵してはならないと縛りをかけているのです(これが「基本的人権の保障」です)。このように、国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを「立憲主義」といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です」とあるように、高市首相の認識は立憲主義ではなく、その憲法認識は根本から誤っている。
その首相が「時は来た」などと叫んで、改憲を呼号することなど、主客転倒もはなはだしい。
先の総選挙の結果、26年2月18日、第2次高市早苗内閣が発足したが、これは「改憲と戦争準備内閣」だ。「台湾有事=存立危機事態発言」にも見られるように、高市内閣は本格的に戦争準備に取りかかる政権になるにちがいない。
その第1が「改憲」だ。高市首相は改憲と敵基地攻撃能力の保有、膨大な軍事費増をしゃにむに進めていくという持論の実現を狙って、その権力を利用し、党内にすら広くあった解散反対の声を押し切って総選挙をしかけ、それが図に当たり国会の圧倒的多数を手に入れた。今回の高市解散・総選挙の最大の問題は、抜き打ち解散によって、何が選挙の争点なのかを有権者に対して明らかにしないまま、「国論を二分する政策に挑戦するために国民の信任が必要だ」「私が首相でいいか」とばかりに、白紙委任を要求したことだ。高市首相の党利党略の大博打で、通常国会の冒頭で解散し、雪国では投票すら困難な厳冬期に、戦後最短の選挙期間で投票を強行した。その乱暴さは選挙の事務手続きさえ追いつかず、有権者に公報も投票整理券も届かない状況だ。選挙戦においても、首相はテレビ討論を突然欠席して政策論戦も回避するなど、デタラメ極まりない。
事実、髙市首相は改憲や戦争準備、安保3文書改定などについては選挙演説でほとんど語っていない。それにもかかわらず選挙で勝った後は、これらの「国論を二分する」危険な政策が、全部「選挙で信任された」ということにされた。
今回の与党の勝利の要因の一つは、市民と野党の共闘から立憲民主党を分断することに「成功した」ことだ。立憲+公明党=「大きな塊」になるという幻想にとりつかれて、政策も大幅に公明党に妥協した立憲民主党指導部は、見事に公明党に吸収された。「15年安保」闘争の結果生まれた「市民と野党の共闘」によって、政権交代の危機を感じた政府・与党はこの市民と野党の共闘をぶち壊すのに必死になった。執行部の脅迫じみた党運営の下で、立憲民主党の多くの議員は中道改革連合に入る以外の選択肢がない状況に追い込まれた。結果、中道改革連合、とりわけ旧立憲民主党の惨敗となり、高市政権の基盤は強化された。
衆議院総選挙後の26年冒頭に再編された衆院憲法審査会(委員は50名)の力関係の概要は毎日新聞の調査では次の通りだ。
自民党=34名(改憲賛成33、無答1。9条に軍隊明記1、自衛隊明記31。9条改憲反対1、無答1)、中道=5名(改憲賛成3、反対1、無答1。9条改憲自衛隊明記1、反対4、無答1)、維新=4名(改憲賛成4。9条に軍隊明記2、自衛隊明記2)、国民=3名(改憲賛成3。9条自衛隊明記2、無答1)。参政=2名(改憲賛成1,無答1。9条に軍隊明記1、無答1)、みらい=1名(改憲賛成1。自衛隊明記1)。共産=1名(改憲反対1。9条改憲反対1)。中道の改憲反対は有田芳生氏、改憲賛成3のうち、2は9条以外の条項と思われる。自民の上川陽子氏、参政の豊田真由子氏は全項目に無回答。自民党の藤丸敏議員(故・古賀誠氏の秘書)は「憲法9条ではなく第73条に自衛隊を明記すべき」という立場だ。
先の自民党大会での高市発言などを勘案すると、今後の憲法審査会は「改憲原案条文起草委員会」の設置と改憲発議に向けてピッチを上げていくことになる。
髙市自民党の圧勝で、髙市以前の、緊急事態での議員任期延長改憲で自公維国参の合意による「お試し改憲」の段階(現在でも、国民民主党がこれを先行させるよう主張しているが)にとどまる必要もなくなり、持論の9条改憲も打ち出しやすくなり、全体として改憲派は9条改憲も含めて条文起草委員会の設置と、そこでの多数の合意の方向に進んでいる。改憲派にとって緊急事態条項は、むしろ本筋では憲法審査会の多数派の合意ができていた「議員任期延長」以外の「緊急政令」「緊急財政措置」などであり、この問題でも、総選挙後の力関係を使って、中道をなだめすかしながら、合意に持ち込む可能性が強い。
先の日米首脳会談での自衛隊派遣のやりとりにもみられたように、自衛隊明記(9条改憲)なしに、「台湾有事」(戦争)に本格的に介入するのは立憲主義の建前からして難しい。今日の情勢からみて、緊急事態条項だけの改憲を先行するのは、高市政権にとっては妥当ではないだろう。9条改憲を至上命題とする高市首相らは9条改憲も含めた安倍時代の「改憲4項目」の立場に帰ろうとするに違いない。
中道新党は旧公明が主導して「憲法のどこか(72条、73条)に自衛隊明記」の改憲という路線に固執するか、どうか。それとも自民案の「9条の2」を設けて自衛隊を明記する方向の容認に踏み切るのかの選択が問われざるを得ない。総選挙の結果、改憲派にとって、中道の取り込みは必須ではなくなったところが、中道の屈伏をまねく要因になるのかもしれない。
自民は今のところ安倍が提唱した4項目改憲(高市はいまでも国防軍などを規定した2012年版自民党改憲草案がベストと言っているが)だ。現行9条2項削除を主張する他の改憲派野党と、安倍4項目(実質2項目)改憲の調整をすすめ、世論も考慮し、衆院憲法審査会の多数派は自民4項目案の線で改憲条文案をまとめる可能性が高い。
月刊「選択」4月号に掲載された記事が話題になっている。右翼売文雑誌の記事だから、真偽のほどは明らかではないが、衆院の解散時期を指南したとされている今井尚哉(内閣官房筆頭参与)が、ホルムズ海峡へ自衛隊を派遣する腹積もりだった高市首相に猛抗議し、高市首相を激怒させたという話だ。高市首相が訪米する前、ホルムズ海峡への自衛隊派遣を要求するトランプ大統領に応じる意思を高市首相が固めつつあることを知った今井参与が「国難だ」と怒り、首相執務室に乗り込んで高市首相と激論になった。今井参与は「あんた、何考えているんだ。どうなるかわかっているだろうな!」と叱り飛ばしたという。
結局、高市首相は今井氏に屈し、自衛隊派遣の約束を断念し、首脳会談冒頭での「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけだ」との歯の浮くような発言のパフォーマンスの効果で会談を切り抜けた。だが、後日、官邸に集めた政府関係者を前に、高市氏は「あいつに羽交い締めにされた。許せない。切るつもりでいる」と怒りを示したという。今井氏を、“三顧の礼”で迎えた高市首相が「解任」するとまで口走るのはよほどのことだ。しかし、これで今井氏の首を切ったら、記事が事実だということになり、首相としても、痛しかゆしの状況であるはずだ。
日米首脳会談に際して、髙市首相はトランプ大統領に対して「日本の法律の範囲内でできることと、できないことがあるので、詳細にきっちりと説明した」、イラン情勢について「事態の早期沈静化の必要性をはじめとする我が国の考え方をしっかり伝えた」としている。同席した閣僚も「9条の話はでた」と証言している。このことから、「9条がホルムズ派兵の盾になった」という評判がある。しかし、この説は危うい。高市は「いまのままでは難しい。だから私はこれを変えるつもりだ。待ってくれ」くらいのことは言ったかもしれない。これは「9条」という条文を譲らずに貫こうとする世論の反映だ。9条は世論があって初めて活きるものだ。
選挙の直後、2月10日の官邸前には「落ち込んでいる場合じゃない」と「9条壊すな!実行委員会」が1日前にSNSで呼びかけた集会に予想を超える400人が集まった。
2月19日は総がかり行動実行委員会が主催する国会議員会館前行動に1000人、2月22日の有楽町の市民連合のペンライト集会も1000人、24日のスパイ防止法に反対する議員会館前行動は900人、27日のWE WONT OUR FUTURと9条壊すな!実が呼びかけた官邸前行動は3600人、3月10日のWWOFと9条壊すな!実が呼びかけた国会正門前行動は8000人、そしてアメリカのイラン攻撃の最中、日米首脳会談が開催される3月19日の総がかり行動の19日行動はとうとう11000人を超えた。25日の国会前行動は雨の中にもかかわらず25000人、市民連合の4月5日の池袋での行動は6000人、4月8日のWWOFと9条壊すな!実が呼びかけた国会正門前ペンライト行動は30000人に上った。4月の19日行動は、国会正門前と南庭、北庭を埋め尽くして、ほぼ国会包囲状態の36000人になった。参加者はマスコミ報道(共同通信など)によると30歳代が最多で、女性が6割と報告されている。
毎回の行動の中では日本国憲法の条文がいくつかずつ読み上げられる。参加者はスマホで検索して唱和する。前文、9条、13条、97条、99条……。
3月の19日行動は画期をなす素晴らしいものだった。この間の議員会館前の行動で、警備警察が人々の集合を阻止してきた議事堂側の向かい側の通路、これは2006年の教育基本法改悪反対の「人間の鎖」行動以来(この時は議員会館側には並ばなかった)だし、官邸が近いからと阻止されてきた第1議員会館前にも、そして第1議員会館と第2議員会館の間の坂の両側にまで人の波が溢れた。国会図書館前の広い通路はあふれて、工事中の憲政記念会館前の交差点まで達し、逆流して旧永田町小学校から自民党本部前方向に人びとの列が延びた。通路は4重、5重の人並でぎっしりだった。これらが暗い夜に輝く色さまざまのペンライトの波をつくった。行動の膨張は警察も阻止しきれず、整然とした自律性にみちた行動だった。
このペンライトを駆使した「光の革命」運動の日本の市民運動への導入は、韓国の尹・前大統領退陣を実現した民衆革命の現場に参加し、学んできた総がかり行動実行委員会の菱山南帆子共同代表の提唱で始まったものだ。風で消えるといわれたキャンドルから消えないペンライトへ、「動員」という中傷を皮肉る各種の団体旗から架空の団体旗へと発展していった韓国民衆の革命運動は、一人一人の市民が自分の要求を掲げ、市民として自律的に行動する、自発・自立・自律・連帯の大運動だった。さまざまな障害、市民運動の敷居・限界を突き破って大運動化することを可能にしたツールこそ韓国の市民運動に学んだペンラだった。日本の市民運動も巧みに多彩色のペンラや架空の団体旗(例えば、「山田よねと共に怒る会」「全日本体力ない人協会」「モンペは嫌だ、着物を着たい会」などなど)を使いこなしている。
「台湾有事、戦争挑発やめろ!」「憲法改悪反対!」「スパイ防止法いらない!」のコールにあわせて、色とりどりの大小のペンライトがゆれる。ドラムや太鼓、カスタネットの音が響く。高市首相の登場に危機感を抱いた20代から40代くらいの女性たち中心の若い人々、現役世代の人々、それも圧倒的に多くの個人参加の女性たちがかかげる「推し活」用のペンラが、街灯もほとんどない国会議事堂周辺で波を作ってゆれる。韓国の尹退陣を実現した「光のデモ」そっくり。
「ひとりで来た」「退社時にサクっとデモにいってきますといった」「初めてのデモでビューです」「コールで声をあげるって気持ちいい」「こんなにたくさんの仲間がいる」、行動の前後のXには無数のこんな会話があふれる。
もちろん、この人々はまだ社会の多数派ではない、むしろ、この前の選挙結果からみれば少数派だ。大事なことはその人々が行動をし始めた、表現し始めたということだ。「焼け野原」のあとの、芽吹きのように、だ。
3月25日には3たび呼びかけられた2団体共催の「戦争に反対し平和憲法を守る」行動が、折からの雨の中、国会正門前で25000人の規模だった。混雑対策で多くの参加者は傘持参ではなく、ビニール合羽かポンチョ姿だったのも、参加者の努力が見えてうれしい。
4月8日の4回目の共同行動は、主催者はステージを2つに分け、一部のスピーカーは移動しながら開催した。参加者は30000人だった。15年安保をほうふつとさせる警察の異常な警備体制の下で、結果としては事故もなく、無事貫徹できた。SNSでの集計によれば、この日は全国47都道府県のすべてで、計160~170か所で行動が展開された。
4月19日の行動は総がかり実の主催で、16年以降では最高値の3万6千になった。警備警察はデモ隊の行動を抑え込むのに必死になり、各所に通行止めの鉄さくと機動隊を配置したが、主催者はグランドルールを申し合わせ、自律的に行動した。日曜日の昼間の行動だったこともあり、国会前の南庭・北庭も開放され、自然発生的なピクニック・デモが行われ、ドラム隊エリアも、盆踊りエリアも誕生し、撮影禁止の肖像権保障エリアも設けられた。暑い日で救護班もがんばった。お祭り、上等!
この大衆運動に転化した日本版「光の革命」運動を、今後どのように前進させられるか、いまそれが問われている。
(共同代表 高田 健)
5月は言うまでもなく、3日の憲法記念日があり、憲法週間、憲法月間ともいわれる。80年前の日本国憲法制定過程の中でも極めて重要な出来事が集中していたのが5月である。本来の憲法施行日(憲法記念日)は1947年5月3日なのだが、実はまだ憲法が制定されていない前年の5月3日、偶然にも、憲法に関わる重要な出来事があった。その日、枢密院審査会で松本烝治(憲法問題調査会長)が「政府案は修正できない」という発言をしたのである。ここでの政府案は、GHQとの交渉の結果、承認された「政府案(GHQ草案を基礎にした4月17日政府案)」であり、「日本側の独自判断で修正する余地はほとんどない」という趣旨だと説明された。松本は「帝国議会での修正権は当然に存在する」とも述べていたのであり、帝国議会での修正を一切認めないという意味ではなかったのだ。政府(内閣)はGHQとの合意を破る修正はできないが、帝国議会は憲法改正の主体であり、修正権は否定しないという立場であった。
また、これも偶然なのか、5月3日当日、極東軍事裁判(東京裁判)も開廷され、戦争責任、脱軍事国家など戦後改革の流れが見えてきた。平和憲法への流れに軌を一にする影響がなかったとはいえないであろう。
さて、現在、沖縄でも5月3日は憲法記念日ですが、米軍統治下の1965年4月9日、立法院で「日本国憲法の施行を記念し、沖縄への適用を期する」日として、5月3日を憲法記念日としたのである。いかに平和憲法が、軍事植民地状態の沖縄にとって、その適用が求められていたかを示すものだと言える。これまた偶然か、立法院は同じ日に、慰霊の日を6月23日とすることも合わせて議決したのである。
沖縄にとって、憲法記念日と慰霊の日は平和の重みを考える日であり、同意義のものである。その二つの日が新たに沖縄の休日として同時に議決されたわけですから、単なる偶然ではなかったのかもしれない。憲法月間に言及したが、沖縄ではほぼ2か月の憲法月間があるといってよい。憲法から分離された4月28日から、憲法記念日の5月3日、憲法が適用された沖縄復帰の5月15日、そして憲法と同質の慰霊の日の6月23日までが平和憲法関連月間になるのだ。憲法記念日は沖縄にとって特別である。米軍基地から派生する人権侵害にあえぐ沖縄住民にとって、単なる日本への復帰ではなく、「平和憲法の下への復帰」なのだという意味を日本政府は重く受け止めなければならない。沖縄で憲法記念日を祝日としてから20年目の1985年5月3日、那覇市は悲惨な沖縄戦から40年目の平和に生きることの思いをも込めて憲法九条の碑を建立したのである。
沖縄が「平和憲法の下への復帰」の中身として求めてきたものは。憲法前文の「平和のうちに生存する権利」である。沖縄の過去5月に発生した 平和的生存権を侵害する事件・事故も多いが、嘉手納の「燃える井戸水」(1967年5月4日)の出現と、水爆を積んだ米軍機が沖縄近海で水没していたことが明るみに出たこと(1989年5月8日)とは、まさに驚愕する事件・事故で、復帰前と復帰後の変わらない平和的生存権侵害状態を露(あらわ)にするものであった。
ところで、現下のイラン情勢の問題であるが、佐世保から強襲揚陸艦トリポリが出港し、沖縄で第31海兵遠征部隊を載せてイラン攻撃に派遣された。日米は、安保条約第6条に基づき、日本国内の基地から行われる戦闘作戦行動など3つの条件を「事前協議の対象」とすることで合意している。在日米軍が日本の基地から中東へ向かい、海兵隊を載せて、イラン攻撃のための作戦行動をとっているのだ。にもかかわらず「事前協議」は行われていないのである。驚くべきは、湾岸戦争(1991)、アフガニスタン戦争(2001)、イラク戦争(2003)でも、沖縄からの出撃について事前協議は行われなかったことだ。日本政府の解釈では、「米軍が運用上の都合で日本国内の基地から他地域に移動するのは事前協議の対象ではない」ということである。
1962年5月13日、ケネディ米大統領が在沖米海軍に出動待機命令を出し、米第3海兵師団がラオスへ出動態勢をとったことがあった。大統領が誰であろうと、沖縄基地を米軍が自由に使えるものと捉えていたのだ。事前協議など必要もなかった沖縄基地から戦闘作戦行動に出ることは何度もあったわけである。復帰後も日米の事前協議事項を日本政府自らの解釈で外し、沖縄を憲法の埒外に置くことが常態化している。しかし、今回は佐世保からの強襲揚陸艦も関連しており、日本国内全体が「沖縄化」つまり軍事植民地化している状態なのだ。日本政府自らも軍事植民地化した政治を行っていることに気づいていないことは主権者国民が最も憂慮すべきことである。
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」という理(ことわり)を確認しようではないか!
(共同代表・琉球大学名誉教授 高良鉄美)
小川良則(憲法九条を壊すな実行委員会)
国論を二分する政策の実行には政権の安定化が必要と言いながら、その争点が何かは明らかにされないまま強行された解散・総選挙は「初の女性宰相」という根拠なき幻想もあってか、自民党の圧勝に終わった。単独で3分の2を超す議席を得た自民党は、制服姿の現職自衛官に「君が代」を歌わせた4月12日の大会で改憲を死活的に重要な課題と位置づけ、高市総裁は改憲に目途が立った状態で来年の大会を迎えたいと絶叫した。
自民党と維新の連立合意にも改憲が明記され、改憲実現本部の初代会長の古屋を会長に、事務総長の新藤を与党筆頭理事に据える露骨な改憲シフトを敷いた衆院憲法審査会は、50人中34人を自民党が占め、維新、国民民主党、参政党、チームみらいを合わせた改憲勢力全体で44人を占めるところとなった。また、枝野、逢坂など名うての論客が軒並み落選の憂き目を見た結果、野党筆頭理事には先日まで与党席に座っていた公明党出身者が就くことになってしまった。
こうした中で、岩波書店発行の雑誌「世界」の5月号に「高市改憲のタイムライン」と題した記事が掲載された。執筆者は桐蔭横浜大学の教授で法学博士の福井康佐氏で、同氏は第一次安倍内閣が改憲手続法を強行した際に、参考人として概略次のように陳述している。
「国民投票に民意を反映させるプロセスとして、改憲を論点あるいは公約として問う選挙、国会での議論や合意形成、国民投票の3段階があり、選挙というプロセスが欠けると国民投票で否決されることも少なくない。投票率が低いと国民投票の結果は必ずしも国民の多数の意思ではないこともあるし、複数項目の一括投票では民意が正確に反映されないし、投票結果が提案者であるリーダーの人気と直結する例もある。
日本の憲法が硬性憲法であり、憲法の改革を急速な改革ではなく漸進的な改革を求めている」
今回の記事も、ほぼそのスタンスに沿ったものであるが、その要約と問題点を以下に指摘しておく。
まず「改憲困難性と憲法軽視の姿勢」として、憲法はその改正にあたっては議会での特別多数の議決と国民投票を要するという硬性憲法であり、そのゆえに安易な改憲が抑制されてきた一方、想定外のことを法律や解釈で済ませてきたことの行き着く先は憲法の軽視であると述べている。
確かに、閣議決定で集団的自衛権を解禁する政府のやり口は立憲主義の無視と言わざるを得ないが、その引き合いに出されたのが敵基地攻撃能力と並んで裁判員裁判であったことについては、意図的なものを感じざるを得ない。なぜなら、戦前の一時期にも陪審制が導入されていたという歴史的事実があり、司法への市民参加はあくまで刑事法制上の問題であって憲法問題ではないからである。このことと平和主義という根本規範はもとより国連憲章にも違反する先制攻撃を閣議決定で認めたこととを同列に並べるという問題の立て方は、とてもフェアなものとは言えない。
さらに、この章の締めくくりとして、国民投票の実施は国民が憲法を真剣に考える機会となるとか、熟議を経た改正は憲法を尊重する姿勢にもつながると述べているが、資金力にものを言わせた一方的な宣伝やフェイクニュースの垂れ流しの中で「熟議」がそもそも成立するのか大いに疑問があるし、国民投票の正統性に疑義が残る形で改正されたものが真に「尊重」に値するのかという根本的な問題が放置されている。
次に、第2章では「憲法改正のタイムライン」として、改憲発議を秋の臨時国会後か来年の予算成立後と想定した上で、改憲の過程について4つのステージに分けて考察している。これについても、そもそも発議の時期をいつと決め打ちすることが適切なのかという問題がある。実際にも、安倍内閣の下で両院の7~8割が改憲派に占められていた時期でさえ改憲発議に至らなかったし、それゆえに安倍も岸田も政権を投げ出しており、その背景に議席は少数でも存在感を示した世論と運動の要素は無視できない。
それはともかく、記事の流れに沿って言えば、(1)改憲案の作成、(2)国民投票運動、(3)投票、(4)投票後のそれぞれについて以下のように述べている。
このうち(1)については、発議する側が答える責任をないがしろにすれば反対運動への恰好のネタになるし、強行採決をすれば情報提供の機会が失われることになると強引な議事運営を一応は戒めている。また、公聴会は透明性の確保にはなるが情報収集程度にしか機能せず、民意の反映には不十分であると指摘している。しかし、高市一強体制の下で議席数に応じて委員が割り当てられる憲法審査会で、公平な議事運営が担保されるのかという問題には言及がない。曲がりなりにも与野党の協調と公平な運営を心掛けていた「中山方式」を投げ捨てた古屋-新藤体制は東京新聞のインタビューで強行採決も辞せずと述べていることも指摘しておかなければならない。
続いて(2)では、資金規正がなく寄附も支出も青天井であることや、言論内容への規制もフェイクへの罰則もないことが指摘されており、(3)では最低投票率の定めがないため投票結果の正統性への疑問が生じかねないことが指摘されている。これはかねてより指摘されてきたことであり、改憲手続法の成立当初や改正にあたっての附則で「宿題」とされてきた経緯があるのは周知のとおりである。ただ、フェイクニュース対策は言論・表現の自由との関係もあり、中にはこれに便乗して「ネット社会における新しい人権」として改憲の口実にしようとする向きもあるので、警戒が必要である。
この章の最後では、訴訟による異議申し立ては手続的な違法に限定されるという現行の改憲手続法の構造を紹介はしているものの、それ以上の深掘りはしていない。また、改憲成立後の関連法制の整備で再び賛成派と反対派が衝突すると書いているものの、どこか他所事のように突き放している感は否めない。
「熟議の成立条件」とした第3章では、以下のような条件を提示している。
まずは、改憲案そのものが明瞭で判断しやすいものであることであり、そうでなければ国民は改正後の国の在り方に不安を持つとして海外事例を示している。例えば、オーストラリアでは先住民族の声を反映させる機関の設置案が特権を与えるものだとして否決されているし、英国では死票の多い小選挙区制の廃止提案が、これに替わる制度が難解だったために否決されている。
また、改正内容が国民の望むものであるかどうかも重要であり、形式的には英国王の代理人である総督をトップとするオーストラリアで、大統領制への移行を提案したところ、国民は直接選挙を望んでいたのに、提案内容は議会による間接選挙だったために否決されている。
十分な情報提供による熟議の土台づくりは国民投票運動においても要請されるが、ここでの問題は、SNS等における真偽不明な情報の蔓延やAIの悪用であると指摘している。このことについては異存はないが、例として持ち出した内容には疑問が残る。
例えば、九条改憲反対派の軍拡・増税が止まらなくなり、徴兵制や軍法会議が導入されるという主張を誇張や誘導としているが、これらは軍隊を持つということの意味から導き出される法理論上の指摘であって、決して誇張などではない。何故なら、軍隊の保有を盛り込んだ2012年の自民党新憲法草案(高市は憲法審査会でこれが理想と発言している)では「奴隷的拘束」の禁止を「社会的・経済的関係における身体の拘束」の禁止にすり替え、強制徴用に余地を残しているし、特別裁判所の禁止規定を形式上は存続させつつも、別途、軍事法廷設置条項を設けているからである。
大量のCMや感情的な議論で熟議が後退することや、ファクトチェックの重要性についても、英国のEU離脱では偽情報の打消しが投票に間に合わなかったことも含めて指摘されているが、第2章の②と重複するので、ここでは割愛する。
また、リーダーの人気・不人気が投票結果を左右したことの事例として、フランスのドゴールやイタリアのレンツィの例を示しているが、それに続けて高市人気に陰りが生じてからでは云々という箇所は、熟議を求めるという文脈の中であることを脇に置いたとしても、適切なものだったかどうか疑問が残るし、資金力による影響を語るのは必要だとしても、九条改憲の賛否のスポンサーを防衛産業と外国勢力という図式で語ることも不適切かつ稚拙の誹りは免れないだろう。
最終章では「熟議による投票の難しさ」として、安全保障や外交上の理由で説明可能な情報が限られることを指摘している。しかしこれは、秘密だから答弁を差し控えるという政府の言い分を鵜呑みにするものでしかなく、自民党新憲法草案21条の2でも明記されている政府の説明責任を厳しく求めていくことの方が先決ではないか。また、同性婚の問題がリベラルな改憲の阻害要因にもなりかねないとの指摘も、わざわざ九条改憲への反対を貶めるために持ち出してきたとの印象をぬぐえない。
この記事を一読した感想としては、「熟議」とそのための土台づくりを強調している点について共感できる部分もあるものの、個別の論点として例示された項目については、その項目の選び方や示し方について不適切なものを感じざるを得ない。
何より、問題を国民投票(とその前後)という改憲プロセスの中の一局面だけに矮小化し、市民による世論形成や運動による議会審議の監視の力が過小評価されていることに根本的な疑問を抱かざるを得ない。
三浦まりさん(上智大学教授)
(編集部註)3月28日の講座で三浦まりさんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
高市政権とジェンダーということで、憲政史上初の女性首相が誕生したということに、ここにいらっしゃる皆さんももやもやした気持ちを抱えているのではないかなと思います。
私も女性の政治参画を進めていたので、高市さんが総裁に選ばれた時から、そして首相に選出された時から、メディアからたくさんの取材を受けたけれども、結構断ったりもしていました。というのは、最初のハネムーン期間というのがあるので、初の女性首相、良かった、みたいな論調でしか記事が出なくて、私に聞いてくるのは、高市さんの評価のごく一部の、女性がなったということの意味だけですね。それは両義的で、女性がなったということのプラスの意味もあると思います。でもいろんな問題があるという伝え方をすると、最初しか出ない。いや、いや、政治と金の問題が消えているけれど、みたいなものが消されていくのをメディアの取材を通じて感じました。
少し落ち着いてから、取材していくときに交渉するところもあるので、こういった出し方だったら答えます、これだったらちょっと今は、みたいな形でせざるを得なかった。それぐらい、高市旋風というのが、メディアを通じて作られてきたのが、この秋から今に至るまでの流れだったという風に思っています。
今日来てくださった多くの方は、もやもやどころか、いろんな感情がうずまいているのではないか。怒りもあれば、悔しさも、侮辱?屈辱、いろんな感情があると思います。そういうのを皆さんと共有しながら、一体私たち、この人をどういう風に受け止めたらいいのだろうか。社会全体としては、極めて高い首相と内閣の支持率があることもまた、我々の気持ちを一層奮い立たせるのか、萎えさせるのか、複雑なものにさせている一因だと思います。
高市さんであれ誰であれ、女性が首相になったら、それなりの人気を博すのかなと思っていましたが、高市旋風は私の想像を超えるような高い支持率だったと思います。これをどう読むか。何と言っても女性であるという、その一点のみが、どれだけイメージを刷新させるのか、そのことを表していると思います。高市さんが選ばれる前の、ここ最近の選挙でずっと女性が強いんですね。特に地方選はそうです。トップ当選とか上位当選は軒並み女性で、男性のベテランの保守系、自民党系の人が意外に落選していくことが地方から始まっていて、むしろ永田町の人の方がのんびりと構えていた。国政なのでそこまで影響を受けないと思っていたのが、自民党にもやってきたのが、前々回の衆院選と参院選だったと思います。
ではなぜ女性というだけで、思想を問わず、期待を集めてしまうのか。これまでの日本政治があまりに男性中心的で、中高年の男性のみで営まれている。それを与党も含めて、思想、政党を超えて、閉塞感、変わってほしい、といった期待があっただろうと思います。
かつての高度成長期、昭和あるいは平成ぐらいまででしたら、日本の経済状況もさほど悪くなかったのかもしれません。けれどもコロナ期ぐらいをきっかけに、誰しもが感じるような生活の苦しさ、物価高、全世界的に経済は厳しいけれども、中でも日本だけが突出してまずいことが隠しきれない状況になってきた。そうなると、日本だけがうまくいっていないというのは、結局、政治の問題だということになっていく。
その政治のどこが問題なのかと言ったときに、一つ決定的なのは、どの国と比べても女性が意思決定に殆ど参画していない。こんな国は日本しかありません。なので、ようやく首相に出たことが、非常に大きな期待感を膨れ上がらせていると思います。
でも一皮向けば、自民党の実態は何も変わっていないということは、すぐ分かる筈です。しかしメディアの論調を見ていると、こんなにも人を騙すのは簡単なのか、怖いなという風に本当に思います。何しろ、高市さんがなれた最大の立役者は、麻生さんの一押しが無ければ、おそらく小泉さんになっていたであろうという風に思います。
彼女がなぜ選ばれたのか。旧安倍派の人たちが、軒並み政治と金の問題で、選挙に公認にさせてもらえない状況があった。彼女は、安倍さんから目をかけられて首相候補者として上がっていく。けれども安倍派ではなかったので、裏金問題では追及されることがなかった。そういうラッキーなポジションにいた。でも彼女を首相にさせる、総裁にさせることの意味は、裏金議員が復権するために、彼女が総裁のポジションにあったということです。そんなの、見れば明らかだけれども、こんなにも簡単に人々は忘れてしまうということに、本当に怖いなと思います。
他方で、これだけ女性がトップにいない日本において、首相というところに女性がついたことの意味はあると思います。ただ、みんな首相にあまりにも集中して、インタビューに来る人が、何でもかんでも全て、高市さんが世の中のことを決めているかのような、女性が首相だからどうなんですかって聞かれることが多い。もう忘れましょうよ、高市さんのことは。日本は独裁国家ではない筈です。制度的に意思決定を持っている人たちが、共有しながら分有しながら意思決定をしている国の筈です。なので彼女がどうかということだけに、みんなの関心が集中すること自体が、非常に不健全だと思っています。とはいえ、トップにつくことのシンボル性はあると思います。
高市さんの前にも、いろんなところで女性のトップが誕生しています。連合の女性も3期女性ですね。全労連の方が若干早かったかなと思います。あるいは日弁連であるとか、刑事総長であるとか、いろんなところに女性のトップが出つつある状況です。女性トップという意味では学長ですね。大学も非常に少ない状況なので、私がいる上智大学も、ようやく女性学長になりました。私もこの秋から日本政治学会の理事長になります。初の女性理事長ということで、今いろんなところで女性理事長が誕生しつつあります。ようやくここ数年ぐらい、いろいろなところで女性トップが出てきたと思います。何故なのかと言うと、あまりに女性がいないということをみんなが意識して、やっぱりそろそろということになるんですね。
この後、持続して大体2回に1回は女性がなる状況が訪れるかというと、殆どありません。高市さんがどう終わるのか分からないけれど、無残な終わり方をした後には、やっぱり女だったからダメだったんだということが言われる。その時には、いま封印されている醜いまでの女性叩きみたいなものが、どれだけ醜いことになるかというのは非常に恐れています。今なぜか封印されて、右翼も高市さんにすがるしかないから言っていないと思いますが、それが出てきた時には、どれだけ醜いことになるか。
健康問題などを理由にして、女性であるからということではなくて終わっていいかとは思うんです。最後までしがみついて、支持率も10%みたいなところにいった場合には、女であるということが、今はもの凄いプラスに働いているけれど、一気にマイナスになる。それは彼女だけではなくて、この場にもいる女性たち全てが女だからダメなんだ。女をトップにしたら、どれだけ国が壊れるのかということになっていく。確実にそういうことを言われますから、皆さんも女性であるということを、高市さんという個人の問題とかで、色々と切り分けて考えていく。そういったことは凄く重要だという風に思います。
ガラスの天井を破れたという風な歓迎ムード。私はガラスの天井を全然破れていないと思います。小さな穴が開いて、スッと麻生さんに釣り上げて貰ったから彼女一人は通れた。だけど、他の人にとっては相変わらず天井があると思います。ガラスの天井が出てきたのは、ヒラリー・クリントンさんが大統領になれなくて、ガラスの天井が破れなかったという有名なスピーチがありました。アメリカは国会議員に女性は少ないけれど、社長とか企業の幹部とか、凄く女性が多い。最後の最後の大統領というところは、なかなか破れない。それをヒラリーがパーンって破ったならば、その後次々いろんな人たちがトップになる新しい時代が訪れるだろう、というニュアンスだった。
高市さんが例え破れたとしても、その後続くとは思われないので、天井という比喩を日本の文脈で使うのは非常に違うのではないかな、という風に思いました。他方、多くのフェミニストは、上野千鶴子さんが一番有名かもしれませんが、フェミニストは高市首相を歓迎しない、というのが結構流れたりした。私からしたら、歓迎するフェミニストっているの?という風に思っていたので、当然だと思っていました。
むしろ、フェミニストを揶揄したい人たち、あるいはフェミニストに関心のない人たちからすると、フェミニストなのに歓迎しないの?みたいな人たちが世の中にたくさんいる。そして、それにげんなりする人たちがいるというのもたくさん聞きます。高市さんを支持したいわけではないけれど、フェミニストだから歓迎しろよ、という。その声が本当に“イヤ”みたいなことは、とくに言われていたと思います。
何でフェミニストが彼女を歓迎しないのか。今日、いろんな角度からお話ししていきますけれど、選択的夫婦別姓で象徴されるようなジェンダー平等政策には、後ろ向きな人であるというのが理由の一つです。でも私がメディアとこういう取材をする中で、それは一つのパッケージで、みんなが流通している言説ですね。高市さんは非常に右翼的な人で、排外主義的で、フェミニストというよりはアンチフェミニストの人である。女性だけれど、アンチフェミニスト。選択的夫婦別姓の反対というところは、女性たちが声を上げても割と掲載してもらえます。
世の中で選択的夫婦別姓とかフェミニストのイシューに関心がある人はどれくらいいるかというと、あんまりいないので、記事のちっちゃいところにちょっと載るだけです。だけど、高市さんの金と政治と問題を消してしまうようなそっちが問題ですね、と言うとそれは載せてもらえない。女性が女性に対して批判しているのは面白そうだから、ちょっと載せてあげる。選択的夫婦別姓では載せるけれど、政治の王道というか、中心的な男性たちがよく話をするような政治と金みたいな問題について女性が言と、別に女性の話じゃないんだから、なんで女性がそれ言うの、みたいに言って載せてもらえないことが凄くあるというのをメディアとの関係で感じます。
メディア自体は、本当に高市人気を作り上げていると思います。メディアの人はみんなげんなりしていて“高市さんは”、と言っている。そう思っている記者が多いにも関わらず、何でメディアを通じて高市人気が作られるのか、と見ていくと、やっぱり紙面の一面では出ないんですね。
通称使用の拡大を言った、みたいなのはちょっと大きめに出るけれど、そのことの意味を読み解ける人が実は有権者の中では大きくなく、結構高市さん頑張っているんだ、通称やってくれるんだ、みたいになってしまう。むしろ書くべきは、もし高市さんが通称拡大しようと言ったら、高市首相、夫婦別姓疎外とか、夫婦別姓潰しとかいうのをダーンとか大きく言ってくれたら、みんな気づいていく。この通称というのは、夫婦別姓を潰すためにやっていると多くの人が気づけるのに、そんな大見出しの打ち方は決してしない。社説では書いてありますよ。でも誰も社説では、やっぱり伝わっていかないんですね。
私の学生なんかも、高市さん凄く好きです。残念ながらびっくりしちゃいました。10月11月に、さんざん授業でジェンダー平等を言ってきたつもりだったのに、伝わっていなかったかという感じです。授業で、先生、高市さんどうですか、みたいなキラキラで聞かれました。私が、高市さんに何も期待してないからと言ったら、学生たちが、ゾワーンって、もう“えぇー”みたいな、聞いちゃいけないことを聞いちゃった、みたいな雰囲気になったんですね。高市さんは、夫婦別姓しないでしょ。ジェンダー平等に反対だからね、と言うと、本当ですか、みたいな反応だった。いろいろと言ってきた筈なのに、なかなか伝わるのは難しいんだ、と改めて私の非力を感じるわけです。
私の非力を超えて、やっぱり社会全体にフェミニズムのこととか、ジェンダー平等とか夫婦別姓とかに関心のある層は、凄く限られている。言葉としてジェンダーとかジェンダー平等は、大学生は大賛成ですね。10年前はそんなことなかった。だから確実に社会はジェンダー平等がいい、という価値観に若者は変わっている。だけど個別の案件を見たときに、何がジェンダー平等を支える法律なの?といったときに、そこは乖離がある。高市さんは女性だし、首相になったし、これからジェンダー平等進むんだ、という短絡的に線が結ばれてしまう。メディアも、それを修正するような報道はしていないなという風に思います。
フェミニストは、いやいやいや、そこは、線はつながりませんから違うんですよと言うと、今度はフェミニストバッシングになります。なんかフェミニストが過激なことを言っている、極端なことを言っている。うんぬんうんぬんと言われてしまいます。
また、違う角度から女性たちの中でも高市支援があるというのも、メディアで出ている女性たちの50代以上かなと思う意見を感じるところはあります。
想像するに、社会の厳しい中で本当に悔しい思いを何度も何度も何度もしてきた女性たちからすると、どんな思想の女性であれ、女性が男性をかしづかせているような光景を見るだけでスカッとするというか、溜飲を下げるというか、そういう構造ってありますね。高市さんが一人立っていて、後ろに男性がずらっと並んでいるみたいな場面。官邸もちゃんと分かっていて、その角度から写真撮っていると思います。ああいうのを出したら、今までの自分の責年の悔しさみたいなものが、ちょっと救われる。思想を超えてそういう風に思う人たちも女性たちの中にいるというのは感じるところです。
同時に、あの媚態をどう捉えていいんでしょうね。トランプさんに抱きつくとか、ちょっとありえないくねくねな態度など。あの後、2月になって授業が無くて、学生たちと話していないので分からないけれど、かっこいい女性だから、強い女性だからと憧れているのは、まだわかります。三大女傑、小野田さんと高市さんと、それから片山さんが、どんどん若い子たちのインスタに流れてきている。それもどっちかといったら、野党をやっつけたみたいな感じの、威嚇をして恫喝して勝ったみたいなのがどんどん出ます。そういうのを若い子たちが、かっこいいみたいに見る。はぁー、そういう時代なんだ。私なんかはおばさんなので驚きます。多分ある年齢の人は、凄く痛い。凄く痛いのは、ああいうことを自分もしていたかもしれない。あそこまで痛くなくても、しないと生き残れなかった。そういうことを、凄く嫌な形で見せつけられて、凄く屈辱的だけれど、それを屈辱と認めることも、自己否定になるからできない。もの凄く複雑なものを抱えてしまいます。
だけど、若い子たちからしたら、またなんか違う気がしています。あざとかわいくていいよね、早苗ちゃんみたいな。そういう雰囲気で、私の世代も本当わからない。多分ここに来ている人も多分わからないけれど、菱山さん以下ぐらいだと、ちょっと通じるのかな。あざとかわいいなんて皆さんも知らないですね。私も知りませんでした。あざとい感じで男性をちょっと転がすのが可愛くていいというので、そういう歌もあるんですね。
あざと可愛い女性というのは日本にしかない文化だと思いますね。これはいい意味ではなく、ああいうのを見ると私は凄く抑圧を感じます。今の若い子たちが、ああいう風に男性の前では、あざとく可愛く、自分は男性よりもちょっと下で、あんまりよく物を知らなくてみたいなふりをしないと、絶対男性にモテないよね、というメッセージを強烈に発している。ああいうのを内面化させられる日本文化とは何だろう。
非常に私は大きな怒りを感じるんですが、それを見せられている10代20代の子は、また違うのかもしれません。いずれにしても、高市さんというのは、そういったものを象徴しているような存在である。そう考えていくと、日本って本当に政策議論が不調だということです。
彼女のシンボルとか振る舞いとか、バックとか、化粧とか、そういったことが話題になって、それが人気を生む。けれど、どういう思想を持って、なんであんな軽はずみな発言を何度も繰り返すのかの分析が決定的に欠けている。この政策論議が不調であるという、こういう時代背景の中で作られたスター性だなと思います。
ほとんどの組織は日本の場合、男性中心的で、その中で女性が生き延びていくのは、生やさしいものではありません。リーダーになろうとすると、ダブルバインドだという言われ方をします。その組織にとって相応しいリーダーがどういう人か、どんな組織でもイメージがあると思います。国家の場合だと、殆どの場合、男性らしいのがリーダーとして望ましい。国家の場合は、戦争を遂行する。幸いにして日本のリーダーは、戦争を遂行する能力を求められていない平和国家のままに今のところいます。日本以外の国においては、国家のトップであるのは、戦争を遂行するだけの能力があるのかということが厳しく問われます。
とくにアメリカはそうで、常に持っている、核のボタンのアタッシュケースを押せる人なのかどうか。ヒラリー・クリントンの場合にも、そういった非情なことができるだけのリーダーシップがあるのかどうかということが査定されてくる。男性らしくあることはイコール、リーダーとして引率力もあるし交渉力もある存在なので、男性らしさイコール、リーダーとしての適格性を証明できる。でも女性が男性らしくすると、リーダーとしてはいいかもしれないけど、猛々しいとか否定的なことを言われて、女性のくせにみたいなことを言われてしまう。
ヒラリー・クリントンなんかそうで、共感力がなかったり、慈しみがなかったり、女性としてはどうなのかみたいな批判になる。では、女性らしさを見せると今度はどうか。女性らしさとリーダーは一致しないので、女性らしくすると、女々しいみたいになる。リーダーとしては、ちょっと物足りない、弱い、という評価になってしまう。
そうすると、男性は男性らしくいればリーダーとしても評価されるから、あんまり複雑なことを考えなくていい。女性のリーダーは、ある時には男性以上な強いところを見せる一方、女性らしさも、どこかに残しておかないと叩かれていくから、その加減をどうするのかということは、とっても難しくなります。
高市さんは、それをある意味うまくこなしている。多くの人が気づいていると思いますけれど、お化粧を変えた。総裁戦の前くらいからそうだったと思います。眉をちょっと柔らかめにして、怖かったら、ちょっと優しい感じを出す。あの笑顔、あれだけ笑っているリーダーを私は見たことないですね。毎日満面の笑顔。いや、そこで口角上げる瞬間じゃないでしょう。常に常に笑っていますよね。クッと喋っていると、活舌も悪くなりそうなんですが、ともかくあれは意識してやっている。政治的なアピールとしてやっている。強い、怖い、そういったイメージを出す一方で、本当に笑顔を常に絶やさないことでアピールしていく。
これ、男性だったらやる必要がないし、もし石破さんが、あの笑顔をずっとやっていたら、みんなも気持ち悪いとか言って、非難轟々ですよね。だから、男性と女性には、私たちがリーダーを見る目で違ってくるというのが、とってもよくわかる例だと思います。
女性の場合には過剰な査定があるので、本当に女性なのに首相が務まるのかとか、女性なのに防衛大臣できるのかな、という目で晒されます。調子がいいときはいいけれど、転落したときは、女性だからということで叩かれる。稲田さんも防衛大臣だったときに網タイツを履いて、いろいろと非難をされていました。スキャンダルとか、問題があって辞任をされたりすると、やっぱり女には防衛大臣はどうなのか。稲田さんが防衛省の問題ではなくて、女だからみたいなのが出てきてしまう。
同じように、女性であることが、常々晒されている高市さんが首相として失敗したとき、女だからだということになってくる。常に女性であるというだけで、過剰な査定がある。あらゆる組織の女性たちは分かっていますから、片肘張って隙を見せないようにしている。男性だと、こういう経験するのはいいよね、みたいな感じになる。成長の糧になっていくけれど、女性だと一発アウトみたいなこともあるので、本当に男女で置かれている状況は違います。
それは、あまり男性には見えないかもしれない。でも女性はそういった悔しさを経験している人が多いので、だからこそ高市さんが成功することを、思想を超えて応援する人もいる。男性組織で女性が生き延びるには男性化せざるを得ないから、過剰に同調して男性的になっていく。
下ネタみたいなものが普通にあるような組織だと、自分もそれをこなせるみたいにならざるを得えない。飲み会みたいなところだと、それもできるのが、何か身のこなし方としていいものだ、みたいな。謎の教えも代々教わり、多くの女性は、それもせざるを得ない。そういうのをしないと、なんとなくマージナルな存在になっていって、出世街道から外れていく、というのが、男性組織にありがちなことだと思います。
他方、女性役割が期待されているから、高市さんの場合は笑顔ですけれども、いろんなケア役割を組織の中で女性が担わされる。昔で言うとおにぎり握っているのは女性だけみたいなことです。いろんな意味での感情労働とか、組織の中でのいたわりとかサポートとか、そういったことは女性に期待されていく。でも、それはなぜか組織の中で、あまり評価されない。評価されるのはその組織で利益をもたらすとか、組織を拡大するとか、そういった人が組織の中で評価される。でも、組織を運営するために、いろんな活動が必要で、おにぎり含めてサポートがいろいろ必要なのに、それは女性たちがやってくれるものであって、言葉は悪いけれど、実質搾取しちゃうわけです。だから、そういったところで生き残ろうとする女性たちも過剰に男性化したりする。でも、やらなきゃいけない女性役割に対してもの、凄い抑圧を感じて悶々としているという状況かと思います。
よく言われるのが、インポスター症候群、詐欺師とかいう意味です。女性は、人として評価されることが少ない環境にいるので、評価を受けた時に、いや、いや、自分は世間を騙しているんではないか。自分はそんなに凄くない、そんなに評価されるほど凄くないんですと、遠慮してしまうことですね。これはアメリカでも、西洋でも、いろんな国の人たちが告白をしている。ミシェル・オバマさんなんかもそうです。世間から見たら素晴らしい活動をしているような女性たちが、実は心の中では、自分はそんなに凄くない。虚像が勝手に社会で流通してしまって自分は世間を欺いているという意識になる。自信が持てないということが言われています。それは小さい時から女の子への声がけが、自信を持つようになってないからだと思うんですね。
先ほど男性が失敗すると成長の糧みたいに言いました。女の子の場合には、最初から、失敗したら周りが防御的になっていく。女性であることが、多くの場合は、男性から好かれて結婚できて一人前みたいな価値規範の中にある。社会の中で親が言わなくても、あるいは親から言われて、そんなことをするとみっともないとか、厚化粧はダメとか、化粧しなきゃダメとか、細かいこと、振る舞い、すべてにいちいち言われて、こうあるべきみたいなのが押し付けられる。
男性も、もちろん押し付けられることがあると思います。しかし男性の方が、幅がもうちょっと自由で、成長として見られる。女の子の場合は、あくまで女の子、女になるということのための声がけが、強烈に社会的批判としてあります。それがあざと可愛い、というところに行くわけですね。
全員がそんな期待に応えられないわけです。自分の体に自信が持てないとか、自分のやっていることに自信が持てないという中で成長して、一定の業績を上げた。じゃあそろそろ部長になってもいいんじゃないかと言われた時に、いやいや、自分はとてもそんなことはできないと、遠慮しているのではなくて、本心から思う。男性の場合は、ようやく自分の番が来たか、みたいになる。この差は凄く大きいと思います。
教員の目から見たらいろんなタイプの学生がいます。女の子は凄くできているなと思っても、クループの中からみんなで発表して選んでくださいというと、確実に男の子が選ばれます。女の子の方が遠慮するし、みんなに発表が良かったと言われても、いや私なんか全然ダメです。準備不足の男の子が選ばれる確率が凄く多い。私の方から選んで、やってくださいとしないと、女の子は見えない存在になってしまう。
こういうことの積み重ねが日常の中でいっぱいあって、ある程度の年齢になった時、リーダーは誰?といった時に、女性がいないように見えてしまうのは、こういったことが生まれた瞬間から人生のように毎日のようにあるからだと思います。首相というところまでいった高市さんは、こういったことを乗り越えたんだという風には思います。そして、女性性を彼女なりに利用するという、そういったやり方をしてきた。それを今はプラスに言っているけれど、この後、あの女性性の使い方とどう落とし前付けるんでしょうか。凄く気になりますね。
現在は、右傾化の状況が激しい中で、保守的な女性リーダーも増えてきました。これはどう読み解くかということをちょっと考えたいと思います。
フェミニズムって、あまり関心の無い方からすると、一枚岩というか、平板なものに見えるのかもしれないですが、平和運動の中でもいろんな路線対立があるように、女性運動の中にも路線対立が当然あります。別に女同士が戦っているとかではなく、男性同士も戦っているのと同様に、です。女性が自由になるとか、女性を解放するという大きな方向性は一緒だったとしても、そこにたどり着くまでの道とか現状の分析とか、今取るべきプライオリティとなってくると、意見が違ってきます。フェミニズムズと複数形で言うぐらい、いろんな考え方があります。
その中でも、リーン・イン・フェミニズムとか、ネオリベラル・フェミニズムといった思想というか方向性が、ここ10年、20年かなり強まっています。リーン・インというのは、前に一歩出すという意味です。フェイスブックの元COOのシェリル・サンドバーグさんという人がリーン・インという本を書かれました。女性はインポスター症候群とか、いろんな問題を抱えているから、一歩踏み出す勇気が必要で、それがあることによって、あなたもリーダーになれるよ。そういう声がけをしたんです。女性をもっと元気づけて、エンパワーして、女性たちが自分の主体性を獲得することによって、ジェンダー平等になっていこう、というのがリーン・イン(前に一歩踏み出そう)フェミニスト、フェミニズムです。
そのこと自体は、多くの教員が女子学生に会うときにやっていることです。やっぱり女の子って、なかなか自信が持てない現実があるから、女の子たちを鼓舞する。見た目とか気にする必要がないよ、もっと自由になっていいんだよ、とかいろんな声がけは、いろんな女子大学や女子校でやっていると思います。
でも、これが凄く保守的でネオリベラル的だというのは、結局あなただけが勝ち残ればいい、というメッセージになっている。社会全体の構造、女性が経済的にも、男性と比べると十分に稼げないような状況を変えるのではなくて、あなたがエンパワーされて、あなたが勝ち抜くことがいいんだ、という個人主義的なアプローチになっているのではないか、という批判があります。最近ではネオリベラル・フェミニズムの中で、ワークライフバランス、それ自体は別に悪いことではないけれど、ワークライフバランスを誰が図るのかというと、個人なんですね。
個人として忙しい中、何とかワークとライフをバランスさせて、社会的な資源の保育園とかも使いながら、場合によっては市場でお手伝いさんとかいろんなサービスを買いながらバランスをうまくやる人こそが、今の成功する人であるみたいなメッセージが発せられた。そもそも女性の仕事って、殆ど非正規しかない、みたいなところに発想がいかなくなってしまいます。ネオリベラル・フェミニズムの言っていること自体は、そこだけを取り上げたら悪くはないけれども、そこしか言わない。そこだけやれば他の問題は無い、みたいな切り取りになっている。
要は市場でみんな勝ち抜けるし、勝ち抜かなきゃいけないし、勝ち抜けなかったとしたら、あなたが悪いという自己責任になってしまいます。こういったタイプのフェミニズムも、それなりに日本の中でもちょっとだけ力を出てきましたが、アメリカはとても多いです。日本はそもそも誰もリーダーに今までなれなかったので、あまりリーン・イン・フェミニズムを心配する必要は無かったんです。最近は、いろんなところでトップが出るようになってきたことによって、リーン・イン的な雰囲気がちょっと広がってきたかな、という風には思います。
もう一つ違うタイプの保守的なフェミニズムとして、フェモナショナリズム――フェミニズムとナショナリズムをくっつけた言葉です。フェミニズムだけれど、ナショナリズム。日本人ファーストなフェミニストということになります。これはヨーロッパとかアメリカでも、保守とか極右の女性たちが女性の権利を守る。西洋は女性の権利を守る、進んだ文明である。それに対して、イスラムは女性にスカーフを強要するような野蛮な文明である。移民がたくさんヨーロッパ、アメリカに来て、イスラムの男性女性が来ているときに、西洋の進んだ女性の権利を守ることを名目に、移民排斥に加担をするようなフェミニストが残念ながら出てきています。それをフェモナショナリズムという言い方をします。
スカーフをしている女性たち、アフガンの解放なんかもそうです。一見いいけれども、凄く白人中心的な、一方的な白人の価値観です。白人の女性解放が文明的に素晴らしく、日本とかイスラムは野蛮な国だから女性が抑圧されている。それを白人女性が解放してあげているという、そういうロジックになります。
ベールをかぶった、スカーフをかぶった、あるいは日本女性は弱くて自分で意見を言うこともできないし、男性に従属的な立場だ。だから白人女性が代わりに代弁してあげて、解放してあげないと、意見さえ言えない。それぐらい野蛮な国というような位置づけ、そういったオリエンタリズムな目線で見ていくのがフェモナショナリズムです。 白人だけのフェミニズムのこと、ホワイトフェミニズムという風に言う、そういうものですね。
日本人は、名誉白人であるということが、ここ100年以来の日本の立ち位置でした。ですから日本のフェミニズムも、とってもホワイトフェミニズムなところはあるだろうという思います。むしろ自分たちを白人の立場に位置付ける、というのが日本の自負だった。だから中国に対して、なんであんなに反中で敵視しているのか全く謎ですけれども、中国に対する蔑視が出てくる背景には、脱亜入欧で、日本人だけが野蛮とされていたアジアの中で、唯一白人化できた国である。だからトランプと骨の髄までついていって、白人の優位性を示している帝国主義だから、日本はそっちの立場である。あくまで中国とかイスラムとか、そういった人たちの優位にある存在である。高市さんの抱きつきは、それを象徴的に表していると思います。
あれってフェモナショナリズムなのか。私からするとフェミニン・ナショナリズム、全然フェミニストでも何でもないので、女性性を本当にあざとく使っているから、せいぜいフェミニン・ナショナリズム。あれをどうして右翼の人たちは怒らないのだろうかと、とっても不思議です。男性は男性に抱きつかないと思いますが、男性がアメリカと対峙するとき、石破さんでも、岸田さんでも、安倍さんでも対等であるというイメージを醸し出さないといけないでしょうね。ロン・ヤスとか言って山荘に行って、ほら貝を吹いていた。あの時もやっぱり対等性を演出することが、日本男性を納得させるためには重要ですよ。本当は従属的な日本の立ち位置、敗戦をして屈辱的な立場にある日本だけど、対等であるようなイメージをかもし出さなければいけない。
でも高市さんは全然対等性を最初から捨て切っている。あれができるのは女性だからですよね。女性は男性に従属的な存在だから、日本がアメリカに従属的であるのは、何故か高市さんであることによって、女性が男性に従属しているものに見えてしまう。フェミニズムが浸透していない日本で普通の絵柄だから、今まで以上に日本がアメリカに対して従属的な振る舞いもしているにもかかわらず、右翼も怒らないという不思議なことが起きているという風に思います。
世界における日本女性への眼差しは何だろうと思うと、芸者のクリップを出しました。西洋から見たらそう見えるだろうなという風に思います。
プッチーニの蝶々夫人の楽曲は素晴らしい旋律ですけれど、あのストーリーを見れば、女性を差し出して、男たちはそこでうまくディールをするわけです。差し出される女性がいる中で、日本が開国して国を作ってきた高市さんがアメリカに行った。ちょうど「虎に翼」のスピンオフで、山田轟法律事務所を開いた話しの中で、戦後直後のパンパンの話が出た。私も録画して見ました。私たち日本女性はあんまり思わないけど、西洋から見たら日本って本当に芸者の国だと思われている。
どういう意味かというと、ポルノ産業がこれだけあって、アジアに行ったら、日本のポルノは本当に流通している。海外に行くと、ポルノ女性、私も全然知らない名前がもの凄く有名で、それは男性たちが言うからですね。男性に対して非常に従属的な演じをしているから人気で、日本女性はそういうのを受け入れている人たちという風に思われている。それがイメージとしての芸者ということになります。
今、アメリカへの入国は凄く厳しい。私も1年間アメリカに行ってきて、いろんな苦労をして、精神的にストレスを感じて帰ってきました。独身の日本女性はとりわけ入りにくい。なぜかというと、アメリカに売春に来ているという風に思われ、そういう質問をされる。これはアメリカにいる日本人だったら、みんな知っているストーリーです。日本女性の若い人が独身一人で来るというのは、そういう目線、眼差しです。
でも、日本にいたら気づかないですね。屈辱的だから気づきたくないけれど、でも、これから日本がどういう立ち位置で外交をしていくのか。アメリカとの関係をどう築くのか。あるいは、より重要な中国やアジアの諸国とどういう関係を築くのか。こう考えた時に、日本女性に注がれている目線は、こんなものであるということを知った上で、やっぱりそうではない、もっと凛とした女性のあり方が日本の中にはある筈です。それを体現するような首相でなくては、ましてや女性の首相であれば、凛とした日本女性を体現するような人がならなければ、どれだけ日本女性が沖縄中心に、また性暴力にさらされるのだろうかと、本当に暗たんたる気持ちになります。
今年の3月8日に世論調査会社がやったアンケート調査があります。「自分のことをフェミニストだと思いますか」というのに、どれくらいの人が賛成をしたのか。左側の紫がはいと答えた人で、一番下が日本です。調査した国30カ国ぐらいあると思いますけれど、日本が一番少なくて14%です(強く思うか、やや思うかの合算)。いいえが64%、次に少なかったのが韓国です。日本から見ると凄くフェミニズムが流通して大衆化している国ですけれども、韓国で21%、むしろ反対の人が74%です。韓国の場合には、若い世代中心にフェミニズムが本当に大衆化しているので、その分男性の反発もひどく、ジェンダー戦争と言われるような状況が起きています。
日本はフェミニズムが弱いので、まだジェンダー戦争というところまでは行っていないのが見て取れるかと思います。ですから、あまり男女で差がないんです。フェミニストと思うという男性が14%、女性が15%と少ないですが、韓国だと男性が13%、女性が28%と、すごく乖離があります。日本は、あざと可愛いが流行るぐらいにフェミニストやフェミニズムというものが浸透していません。
その中で、ちょっと倫理的なものだけがほんの少し利用されて、それが女性活躍です。ジェンダー平等ではなくて、女性活躍という言葉の中で女性も働いてもらわないと経済回らないから、働け、働けという。そこだけが出てきた状況ではないかなと思います。
ミソジニーにみる差別が儲かる社会へのネット対応
一方、フェミニストの力が増えると、他の国では、それに対するバッシングがより可烈になっています。それがジェンダー戦争みたいな状況になっています。日本も弱いとはいえ、やっぱり声を上げたり、特に性暴力とか性搾取に対して声を上げた女性たちが、本当に叩かれる状況は出てきていると思います。それをミソジニーという言い方をします。「女性嫌い」という訳が一般的に言われますが、むしろ正確な「女性処罰」ですね。男性にタテ突いた女性を罰するというのが、ミソジニーの基本的な構図です。
なんで、これが世界的に広がっているかというと、2017年ぐらいから、#MeTooが世界的に広がっていった。その頃からSNS、ソーシャルメディアの力がとても広がって、そこでハッシュタグをつけて#MeToo運動が広がっていくと、それに対する巨大な反発として、#MeTooをやっている女性たちを攻撃するようなことがネットの世界では広がっています。
男性たちだけが入る、日本で言うと2チャンネルみたいなものが世界中に作られていて、そこで男性たちが入って、自分たちがこんなに不遇なのはフェミニストのせいだということを、日々生産して広げている。非常に有害な男性性と言われるような言説で、全てフェミニストが悪いと。日本で言うと「弱者男性」論みたいなことを言われたりします。あるいはインセルみたいな言い方を英語でしたりする。要は、女性のパートナーが見つからない。自分はモテない。このモテないのは、女性がフェミニストに感化されて強くなっているからだという。そういう歪んだ発想を持って、感化された一部の人たちは、本当に女性を殺す事件が起きています。ミソジニーというのは家父長制的な、男性優位的な発想に歯向かう女性を処罰するため、処罰して思い知らせる。
日本の場合に一番可烈な被害は仁藤夢乃さんだと思います。コラボという女性支援をやっている彼女が暇空というインフルエンサーから狙われた。暇空がやっている裁判で仁藤さんは全て勝っていますけれども、おびただしい数の裁判、個人攻撃をして、被害たるや保証金がそれで受け取れなくなったり、住所を変えなくてはいけなくなったり、身の危険を感じたり、甚大な被害が生じています。
裁判で保証金が払われたといっても、今はミソジニーが収益化しているので、差別をすると儲かる社会になってしまった。本当にもう醜悪なことだという風に思いますけれども、人種差別であったり、女性差別であったり、そういうコンテンツを消費して買う人がいる。そうするとますますそれが増長していく。かつてのように対面だったら、人間の中で抑制されていたような、この負の感情とか差別感情が、匿名性の中の話になった。それで収益を上げる人たちがそこに目をつけて、ビジネスモデルとして確立をしている。
それがまたプラットフォームがいろんなレコメンデーションとか、私たちのわからないアルゴリズムの中で、ちょっとクリックすると、そこから、どんどん自分が選んでないのに、いろんなリコメンテーションが来て、それをクリックすると、主体的に選んだ感じになりますね。ちょっと選んだりするとある種能動性があるから、より自分がコミットした感じでも、実は知らないうちにお勧めされたものなわけです。そこの滞在時間だけも、それが全部収益になっています。私たちが使っているソーシャルメディアが、どれだけ歪んだ負の感情を増長させ、とても危険な非道徳的な非倫理的なものになっているか。これからいろいろな規制が出てくると思いますが、今は過渡期なので全然追いついていない。その中に、女性、障害者、外国人の方、ありとあらゆる差別感情の対象となるような人たちが攻撃されている状況です。
これがネットの世界だと、クリックするとか、シェアするとか、見るとか、これがエンゲージメントとして数値化されて全部お金になります。そのロジックは選挙と近いわけですね。選挙は一票だから、票を動員してくれるボランティアをどれだけ集めるとか、数の世界なので凄く親和性があります。ネットの世界での儲け方にある種の才能を発揮した人たちが、今度は選挙市場にやってきている。ネット選挙がまだ規制が足りていない中で、その影響力が増えています。
今までは、ネットであまり見えない一部の人たちだったかもしれないものが、表の舞台の選挙にも出てきて、非常に大きな力を持って政治を歪めさせようとしている状況になっています。これはこの1年半ぐらいの日本の選挙の状況かな、という風に思います。ですから、選挙中になると人種差別もできちゃうみたいで、凄いです。普通だったらヘイトスピーチで取り締まらないといけないことが、選挙中の方が無礼講で出来るという、あってはならないことも起きている状況です。
でも、これをまた過度にやると、今度は政治表現の自由など政権を批判するのもダメになりかねない。スパイ法なんか出てくると、そういうことになると思います。道徳的に倫理的に許してはいけないヘイトなどや、私たちが政治的に首相の振る舞いを批判すること。これを分けてどこかに線を引かなければいけない。そのルール作りを、もっともっと議論して、決めていく必要があると思います。
これは日本だけではないんです。アメリカが震源地で、いま反DEIというのをやっています。実はこれは30年戦争で、90年代から世界的に広がってきた現象と同じことが日本でも起きているという風に考えた方がいいです。全然、日本だけの現象ではないということです。世界でこの30年間、何で反ジェンダーが起きたのか見ていきたいと思います。
アンチジェンダーキャンペーンという英語の訳を、私は反ジェンダー攻勢と訳しています。反ジェンダー運動と訳す人もいますが、運動というと、ボトムアップで、自主的に社会をこういう風に変えていこうということを言うわけです。しかしこれは明らかに攻勢で、一部の権力を持っている人たちは仕掛けているので、自発的な運動という側面もあるけれど、やっぱり誰がどういう思いを持ってやっているのかを読み解いたほうがいいので、反ジェンダー攻勢という言い方をしています。
発端は国連です。1990年代に国連で、ジェンダー平等とか、性と生殖の権利、健康に関する議論が深まりました。1994年には、カイロ人口会議が開かれて、1995年には北京で世界女性会議が開かれています。その頃が、女性を中心とするマイノリティの権利の、ある種、国際規範のピークです。この時議論されてきたのが、特に、性と生殖の権利、健康ということです。セクシャル・リプロダクティブヘルス・ライツの頭文字をとってSRHRと書いてあります。90年代半ばから言われて、特に中絶の権利です。予期しない妊娠をした時に、女性が中絶をする権利を認めていくという議論が国連の中で出てきます。
ジェンダーという言葉も、その頃から国際社会で使われ、ジェンダー主流化ということも言われました。後に、アファーマティブ・アクション、とか、クォーターというのも90年代に出て、少なくとも30%は意思決定に女性がいないといけない、といったことも、議論が出てきたのが90年代です。その時に出てきたジェンダーという言葉、もともとは学術的な文法用語として出てきたのが、学術的に広がった。セックスという身体的な生物的な性別ではなくて、社会的文化的に構築された性のあり方、男らしさとか女らしさ、それをジェンダーと言おうということで、2つの概念を分けたのが90年代です。それまではセックスと言われていたのを、ジェンダーという言葉で理解するように広がたんですが、分かりにくいですね。
日本も昔、ジェンダーフリーの言葉狩りがありました。ジェンダーと言われても、日本人も分からないけれど、フランス語にも無かったし、ロシア語や東欧の言葉にも無いので、凄く外国のものとして、なんかよくわからない言葉が突然入ってきた。性別に相当する言葉は、どの社会もあります。どの国の言葉にも、男とか女という言葉はあって、男と女がいるという認識は、全世界共通に人間は持っています。でもジェンダーと言われると、何だ、それはということになって、不安に思ってくる人が出てきます。そこに目をつけて、ジェンダーっというのはいかがわしい概念だ、という攻撃が始まります。
もともとそういうことを言い出したのは、バチカンです。カトリックのバチカンが言い出して、特に中性の権利と、同性愛が合法化されていこうとする動きに危機感を持った。ジェンダーは社会秩序を脅かす、社会を壊すものだというキャンペーンを張っていきます。作った言葉がジェンダー・イデオロギーとかジェンダーテオリー・ジェンダー理論とか、ジェンダリズム。あまり日本語ではないけれど、英語ではしょっちゅう出てきました。もしジェンダー・イデオロギーという言葉が出たら、ハハーンというか。それはバチカンが作ったジェンダー・イデオロギーですね、という風に脳内転換して頂きたいんです。全然中立的な言葉ではなくて、カッコで使うような、ジェンダーをバッシングするための言葉として出てきたものです。
何を恐れていたのか。例えば、伝統的な家族が壊れること、同性愛で異性愛で、そして女性はカトリックですから生前には性行為はしないし、コンドームは使ってはいけないし、避妊してはいけないし、子供はたくさん産まなきゃいけないし、という価値観ですね。
それに真っ向から対立するのがこのSRHRの発想です。場合によってはもちろん苦渋の上の決断だと思いますけれど、中絶をすることは権利として保障されているし、避妊をする権利もある。それに対して教義とは合わないということで、バッシングをしていくわけです。これはもうある種の文化戦争、イデオロギー闘争であると。
ジェンダーという言葉が流通してしまうと、みんなが今までの秩序、男はこうあるべき、女はこうあるべきという秩序から解放されてしまう。そうしないように伝統的な家族観こそが正しい守るべきものなので、ジェンダーという言葉は、過激な偏った思想であるという攻撃をしていきます。懐かしいでしょう、日本のバックラッシュを知っているから、あれかみたいな感じだと思います。
90年代後半から2000年代前半に、ジェンダーとかジェンダーフリーという言葉が日本では使われました。ジェンダーフリーは過激なものである。行き過ぎたものである。男と女がない、なめくじみたいな中性的なものを作ろうとしている、共産主義だ。いろんなことを、あの時言っていました。これは英語圏で同じようなものがあって、それを読んだ人が日本に持ってきたんだなと思います。
そしてまた男女、トランスジェンダーは絶対受け入れられない。それを変えることもできない。だから、ホルモン治療とか手術をして変えることは不自然なこと。神の説理に反する不自然なことだから、絶対やってはいけないことだというのは、こちらの立場になります。
そこから第1波、第2波、第3波、第4波と、反ジェンダー攻勢が広がっていきます。今話した第1波は、90年代にバチカン発で出てきて、この時に思想の原型は全て作られているので、いろんなところに発信をされていきます。
第2波は2000年代です。反「ジェンダー・イデオロギー」で、いろんな本が出てきていて、より大衆化した形での理論を90年代ガチッと作り、2000年代はそれを広げていく第2波の時代になります。
転機が第3波と言われる2013年です。この時にフランスで同性婚の反対運動が起きます。フランスはパートナーシップ条例みたいなもので、パートナーシップを認めていた国です。まさかフランスでパートナーシップを格上げする同性婚に、こんなに運動があると思わず、本当にみんなびっくりします。巨大な大衆組織となって同性婚反対運動が起きました。
この頃から、とりわけカトリックが強いラテンアメリカ中心に、またプロテスタントの国やいろんなところにも波及をしていきました。その頃からヨーロッパに出てきた極右的な右翼ポピュリストが目をつけて、人々が不安に思う、ジェンダーとか同性婚が許されちゃうんだって。日本だと同性婚が許されるのは、多分、文化的にそんなに禁忌が無いので分かりにくいと思います。ヨーロッパの文脈だと、もの凄く道徳的なタブーです。それが法的にも許されることに対する衝撃を、うまくポピュリストが目をつけて、フェミニストとかジェンダーとか言っている人たちは、社会の根幹の根底たるものを覆すような悪魔みたいな存在だというキャンペーンを張ると、不安を持った人たちからすると、そうだそうだ、ということになりますね。
それが出てきた2013年以降、いろんな国に広がりました。とりわけ右派ポピュリストたちが手を結んで、ジェンダー、アンチジェンダーをやっていきます。
さらに第4波は、現在です。全世界、ロシアであるとか東欧、(今日、東欧のスライド後でしますね。)それからトランプが一番ひどいです。この頃になってくると、リベラル陣営とかフェミニストも加担していきます。とりわけトランスジェンダー問題で、トランスジェンダー対フェミニズム、女性という形の構図が作られます。女性の中の一部がむしろ保守に接近をして、女性を守るという立場からアンチトランスになっていきます。
日本でいうと、女子トイレをトランスジェンダーの女性が使うことの是非みたいなところです。女性たちが、いやいや男女を分けないと、そこで性暴力が起きるかもしれないからみたいなことを言って、トランスジェンダー対女性という構図が作られていきます。
今、オリンピックでトランス女性が女子スポーツに入るのを禁止するということが出てきています。トランプが就任した時に、すぐに出したのがその方向性でした。日本はそこまでアメリカほどは来ていないけれども、最高裁判決もあったりすると、大きく来る論点がトランスジェンダー対シス女性の対決になることが予想されます。女性たちがどんどん保守の方に、片山さつきとかが喜んでIOCの決定をリツイートしていました。片山さんとか高市さんも、山谷さんとかは、女性を守るということで、アンチジェンダー、アンチトランスになっている女性たちを取り込もうという構図が作られています。
東欧の話です。東欧は、私たちからちょっと遠い国で、いろんなジェンダーバッシングが起きているらしいぐらい聞くと思いますけれど、ある種実験場なんですね。どういう政策をすると、どうやら人々の不安感が煽られて成功するのかという、いろんなことが試されている。試して成功すると、それがプレイブックとしてマニュアル化して、他の国に飛んでくるみたいな状況だと思います。
私はトランプが出る前の去年、2024年に1年間アメリカのハーバード大学にいました。そこでもLGBTを支援する大学の部署があって、そこでいろんなセミナーがあったので、私も行っていました。その時東欧のトランスジェンダーアクティビストをハーバードに呼んで、1週間くらい議論したりしていました。アメリカ人からすると、東欧大変だね、みたいな他者目線で応援しているという感じです。いろんな国の人が、ポーランドではこう、ハンガリーではどうという話をしていて、2月になったらアメリカも同じになってしまいました。どうやって戦ったのか教えて下さいみたいに、論調がガラッと変わったのは本当に印象的でした。ハンガリー、ポーランド、ブルガリアなどで起きていることは、遠いところで起きているものではなくて、そこで成功したものが日本にも持ってくるだろう。それぐらい国境を越えた右派の連携があるという風に思います。
どんなことがあるかというと、一つはジェンダー研究が狙われる。ジェンダー研究にまずお金を出さない。それからポストを取り上げる。そのうちそれは学位の名前としても、ジェンダーを消してしまう。そういうところまでハンガリーは行っています。アメリカもそういう感じです。違法なDEIができないので、ジェンダー研究みたいなものにお金は本当に厳しくなっているし、そういうことを標榜することさえ難しい状況です。
日本では、ようやくジェンダーが使えることになってきた状況なので、女性活躍とか言える状況ですけれど、20年前はやっぱりジェンダーフリー言葉狩りがありました。ですから、もしジェンダー教育をやらないとか、いかがわしいとか、行き過ぎだとか、そんな論調が出てきて、本当に資金が削られてくると、本当に危ない。
研究だから、あまり関係ないとかではありません。ジェンダー研究が元になって、あなたたちが見ているこの自然とか伝統と言われたものは、凄い抑圧的であって、人間はもっと自由にいろんな生き方ができるという考え方が、彼らにとっては危険なわけです。そんな行き過ぎた危険思想を大学が発信源になって、若い世代に教えてしまっている。今、若い世代はみんなジェンダー平等が当たり前だと思っていますから、この思想をひっくり返さなければいけないと思う動機はあります。今後、日本も大学におけるジェンダー研究が狙われても全然おかしくないと思います。
ノンバイナリーとかトランスジェンダーを標的にしていくので、法律で性別は男と女しかない、変えることはできないという風になっていく可能性はあります。日本はまだ、レインボーマーチとかプライドマーチとかを大きくやっています。けれどハンガリーなどでは、禁止や弾圧が起きています。だから、それもチェックポイントで、マーチがどのくらい自由にできるのかも資金石です。
ポーランドは本当にひどいと思ったのは、LGBTフリーゾーンというのを作っています。ポーランド語では分からないけど、緑に白字で書く道路標識に、どうやらトランスジェンダーフリー圏と書く。ここにはトランスジェンダーいませんというのを、国として作って村に掲げています。私が聞いたのは、そこの村出身のトランスジェンダーの人で、自分が住んでいた村がトランスジェンダーフリーゾーンになって、掲げられてしまった。凄く居心地が悪いけれど、本当に脅迫されるというか、身の危険を感じて出て行きたくない。自分のコミュニティはここだから、ここにいるけれど、と写真を紹介してくれたりしました。凄いことだなと思いましたが、一時期は約3分の1の自治体でやっていたそうです。
日本だと非核宣言とかが出ていますけれど、うちはLGBTいない宣言、とか出すわけです。それが街のそこら中に、道路標識と同じように掲げられる。それが国土の3分の1になることを、想像しただけでも、LGBTの人にとってはどれだけ怖いか。フリーゾーン、そういう人たちがいないというのは、悪魔化されて道徳的腐敗をもたらしています。子どもたちに同性愛もあり得るとか、あなたはひょっとしたらトランスかもしれないということを教えて、誘導して、悪魔的な存在だと教える。道徳的な荒廃を招いている、というような言われ方をして、攻撃されていることになります。
その後、政権交代があって、今はそれが無くなったというので、本当に良かったと思います。とりわけセクシャリティということに対する禁忌が強いキリスト教圏では、こんなようなことが起きています。教義としてだけではなく、非常に反自由主義的なポピュリスト運動としても、ジェンダーに目をつけて狙っているわけですね。
ポピュリストというのは、敵と味方を分けて、人民とエリートを分けて、自分は人民の側であるという戦略を取るわけです。必ずスケープコートが必要です。敵が、外敵が必要なんですね。その敵が中国なのかもしれないし、移民だったり、イスラムだったり、いろんなカテゴリーの人のどれかと目をつけて、みんなが怖がるようなものがあれば、何でもやっていくという状況になります。その時にフェミニストだったり、LGBTQだったり、時々の分野向きに応じて何が選ばれるのかは変わっていきます。選ばれて、その人たちが社会秩序を解体していく、そういうことを目論む勢力であるということになっていきます。ヨーロッパだと反EUが凄くシンボルになっています。
イスタンブール条約というのは、性的自己決定権を保障する、またトランスジェンダーのことも入っている、とても重要な条約です。日本もぜひ批准してほしいと思いますが、イスタンブール条約も本当に攻撃をされている状況です。日本でも参政党とかが男女共同参画社会基本法反対とか言っているのは、同じような文脈なんですね。
研究者たちは、反ジェンダーはあんまり中身がない。とにかく敵にしたいものを入れて、凄く空想なシンボルであって、なんでもいいから、その社会で敵にしたいものを放り込んでやっているものだ。なんでこの人たちがフェミニズムとかジェンダーを考えているのかというのは、とにかく敵を見つけたいというロジックで入れている。そういう風に見るべきだ、というような言い方をしていたりします。
日本も、なんでクルドの人が、あれだけ差別されるんだろうか。それまでは違う人たちだったわけですね。もともとは植民地との関連とか歴史的な経緯から、ある人たちがターゲットにされてきました。違うということで日本社会に楯突くとか。そういったことがあると、シンボル性をもって狙われる対象になってくるから、ジェンダーという言葉、あるいはLGBTも、そういうものとして狙われているという風に取るべきではないか、ということになります。
これがまた、反グローバルと共振する参政党が象徴的ですけれど、グローバル企業はこの間、女性登用とかLGBTフレンドリーを凄くやっていた。日本の企業もそうですが、むしろグローバル企業であるほど、みんなレインボーのものを付けたり、積極的にやっていたところがあると思います。日本も商業主義的なものを使いながら、でもそうすることがメインストリームになっていくための一つの選択だったのかもしれないです。それがむしろ今は、より草の根の人たちの普通の感情からすると、グローバルエリートだけが、人権だとか、ビジネスと人権とLGBTだとか、女性登用とか言っちゃって、みたいな反発になっている。反グローバルが、イコール反女性、反フェミニズム、反LGBTなんかについてくる。
このあたりの心理も、やっぱりアンチがアンチを呼ぶみたいなところがあります。差別している人たちに対して、リベラル側が差別反対というと、そのリベラルが嫌いだから、反反差別になる。敵の敵だからというロジックが、微妙にダイナミズムとして働いているところがあるように思います。
反グローバル自体は、私も一理あると思うけれど、反グローバルなリベラル男性が、凄く反フェミニストにもなっている状況もあります。今のようなロジックで、グローバルがやたらフェミニストを盛んに奨励していることに対する反発、みたいなことが起きています。
ジェンダー平等は、決して平板な政策ではないという話をしました。ジェンダー平等は、どちらかというと左派的な、リベラル的な政策だという風に思われそうですけれど、でも保守もやるジェンダー平等は、いっぱいあります。ジェンダー平等を一枚岩、平板で捉えるのではなくて、リベラル左派しかやらないものと保守もやるものの両方があります。これからは保守、高市さんもそうですが、保守の女性ができるジェンダー平等は進みます。でも、保守が受け入れないものは進まない、という両方が現れると思います。それをちゃんと見ないと、高市さんもちゃんとフェミニズムとジェンダー平等をやっていると勘違いしてしまうのは、ジェンダー平等を一枚岩に見てしまうからだと思います。
どこが分水嶺なのか。どこが境界線で、保守でもやれて、どこからが保守は出来ないものなのか。健康はわりと保守はOKです。女性の健康、フェムテックとかは割と好きです。プレコンはもっと好きです。プレコンというのは、妊娠するためのプレコンセプション。懐胎する前の時期の教育をしましょうと、首相の所信表明でもちょっと言っていました。女性がちゃんと妊娠できるような体になるために、自己責任でちゃんと健康にいなさいという教育を、これから学校でやりましょう。もうすでに始まっていますけれど、これはプレコンで、出産支援ということですね。産めよ、増やせよと言ったら、みんな聞く耳をもたないから、プレコンとかって言っちゃって、何かいい感じとか。でもちょっと勘違いしていますね。そういうプレコンがじわじわ来ています。
あと、更年期とかですね。高市さんは、そういうのは割と積極的で、女性の健康系、それも商業主義と自己責任がマッチした、ネオリベラル的にいくわけです。要は、国家主義的に、国家のために子どもを産んでもらわないと困る。だけど、そういうとみんな嫌がるから、あなたのためよって言い方をして、教育をして、健康な子供をちゃんとたくさん産むのが女性の幸せ、みたいな教育を小学校ぐらいから始める。プレコンという名前で人生設計をさせて。何歳までに産まない。産まないなら、卵子は凍結してみたいな、そういう一連のパッケージの生き方を女性たちに強いることになります。
これは保守もやる。保守は大好き。こういったものが出てきたときに、更年期対策は女性にとって誰でもいいことです。高市さんがそこで予算を講じたら、歓迎はしますけれど、そこの背景には、こういうことがあるということは、やっぱり警戒をしていく必要があると思います。
それから、これから買春行為を規制強化していくこと。これはフェミニズムの一大論点なので、セックスワーカーの権利を認めるのか、それとも、買う行為を処罰していくのかというのは、とても複雑な議論が背景にあります。そこにくさびを打つというか、フェミニストを別れさせ、お互いを対決させるにはとてもいい論点なので、そこに今、目をつけて、買春規制をやろうという話になっています。
女性活躍も大好きなので、女性の登用とか、ハラスメントの規制も多少は進むと思います。でも、非正規雇用との格差は相変わらず放置したままということになるので、一部のエリート女性については活躍の余地はもっと広がるけれども、大多数の女性にとっては状況変わらない。あるいはもっと厳しくなるということが、右派が好きな女性政策です。
右派が絶対できないものは何かというと、選択的夫婦別姓です。これはもう、戸籍制度に象徴されるような家父長制を解体するものなので、いや戸籍は解体しませんよ、とかって言って賛成派を増やす運動もあるかもしれません。本丸は家父長的な戸籍が崩れるということだと思いますから、右派は徹底的に、反対ということになります。同性婚も東京高裁、最後の判決は、合憲が出ました。やはり同姓婚も保守の教義からすると、受け入れることはできません。
女性の性的自己決定権は全て受け入れられないので、本来だったら中絶も、もっと禁止したい。刑法には自己堕胎罪は残ったままです。世界からすると、日本は中絶をいまだに犯罪化している。先進国とは到底思えない状況ということになっています。
そして、また女性女系天皇もダメ、性差別禁止なんかもダメということで、とにかくイデオロギーとして伝統的家族を維持する。それに抵触するようなものは受け入れられない。男性家長がいる、異性愛である、子作り熱心な女性。この辺りは牙城ですね。
私も、地方でよくお話しすることがあるけれど、自治会、東京の自治会もそうだと思うけれど、結構1家1票ですね。なんとなく1人だけ行けばいいかみたいなことで、行かないのもあると思います。地方だと本当に1家1票だけなので、戸主しか行かない。地方にいて戸主?もしもし?みたいな。それは、もう民法改正で無くなったんですけれどと言っても、なんですか?と逆に言われてしまいます。
戸主って本当に普通に使われている。自治会総会は戸主だけです、みたいに言っている。男性しか来られないと。それを1家1票から1人1票に変えようと、長野でこれから変えようと話しているらしいです。それぐらい、まだまだ伝統的な地域社会がある。多分、東京以外の地域は殆どそういうところになっていて、そこでは家中心で地域の意思決定はする。戸主が決めていくと、戸主だけが投票権を持つのは当たり前です。ちなみに今年は女性参政権80周年ですけれど、地域社会では、まだ女性は参政権を持っていないのが実態といえます。
そういったところを束ねているのは自民党なので、当然、女性が多いわけがないというのも全部くっついている。いずれにしても、右と左で同じジェンダー平等といっても進める方向性は随分違います。
日本は、本当にジェンダー平等は進んでいません。処方箋なしの緊急避妊薬が2月から買えるようになったから良かったと思いますけれど、でも目の前で飲まなければいけないとか。残されている。懲罰的ですね。
去年、私がいたボストンの近くのところでは、薬局では50ドル7500円で高いけれど、保険適用されるので4.5ドルで買えます。無料で配っているところもあります。日本は殆ど妊娠出産保険、全く適用されません。私が行ったフェミニスト本屋さんでは、トイレに山積みになっていました。見たことないし、日本では無かったから、びっくりして、これって緊急避妊薬ですよねと、興奮して店主さんに言って、どうしてこんなにあるんですかって訊きました。そうしたら、だっているでしょ、あなたも持っていって、どうぞ、どうぞっ、です。どうして無料で置いてあるのか訊いたら、区役所で配っていたから大量に持ってきて、必要な人いるだろうと思って置いたんですと言う。衝撃的でした。アメリカには、中絶できない地域もあるけど、それぐらい、いろんな地域もあるわけです。
日本は、中絶の配偶者同意も残されています。テキサスは中絶できない、とっても厳しい州ですが、その議論の中で、配偶者同意を入れようとした時も大反対でした。中絶は禁止するけれど、いくつかの事例でできることもあります。レイプ等、近親相姦だったり、いろんな例では、できる時に配偶者同意は絶対入れたらダメです。入れたら、どれだけ女性が大変なのかと、大反対で入らなかったのに、日本はあるんですよ、法的にあるんですよ、と言うと、アメリカ人みんな卒倒します。そんなのがある国があったの?みたいな。でも、日本は、まだある。中絶ができる国という風に勘違いされていますけれど、全然そんなことないです。
今年は女性参政権80周年です。戦後まで女性参政権の運動があったにもかかわらず、なかなか貴族院が通らずに戦前にはなりませんでした。1930年ぐらいまでが女性参政権運動のピークで、満州事変以降は、日本の国全体が戦争になってしまったので、参政権どころではないということになっています。皆さんも、歴史の教科書などで、女性たちがいろんな論争をしていた話を聞いたことあると思います。
今日もフェミニズムは一枚岩ではなく、いろんな方向性があるという話をして、その中の一部の、自由主義的なフェミニズムの今のバージョンであるネオリベ的なフェミニズムを紹介しました。この100年近く、世界的に議論されている女性解放のあり方として、男性中心の社会の中に女性が組み込まれていく。男女が同権であるという、より自由主義的なフェミニズムの立場もあれば、与謝野晶子さん、市川房枝さんなんかも、そういう方向でした。そうではなく、男女は違うんだ、女性は母性というものがあって、その母性というものを正当に評価していくべきだ。母性主義的な方向でのフェミニズムもありました。平塚らいてうさんなんかは、そういうのを主張していた方です。
それに対して、もっと社会主義的なフェミニズム、男性自体も凄く資本主義の中で搾取されている。資本主義の中で、男性と女性が対等になるだけでもない。また国家主義的に、生む性として女性が国家から評価されるのでもなく、社会主義的な、より平等な社会を築いていくこと無しには、男性も女性も解放されていかない。そういう社会主義的な立場から議論も、山川菊栄さんなどが出ていました。その論争は、あの時代の論争だけではなく、今でも続いている。資本主義がある限り、ずっと続いていく普遍的なものがあるという風に思います。
日本は残念ながら、社会主義的なものが凄く弱まっています。社会的に見ると、資本主義の行き詰まりがあまりに明らかなので、それに対するオルタナティブを求める声が広がってきているという風に思います。
フェミニズムの中でも、リーン・イン的な自由主義的なフェミニズムも凄く限界があります。今の資本主義的なものの暴走にずっと付き合っていることになる、かといって母性主義的なものは、産めよ、増やせよ、という方向に行ってしまうと、おそらく第三の道というか、新しい方向性としての、より平等な社会主義と近接したようなものが今後もっと広がってくるのではないかと思っています。
日本の中では、廃娼運動とのつながりが婦選運動の中では非常に強くて、女性が搾取されている象徴的な
ものとしての性売買ということを廃止していく運動と手を携えながら、婦選運動が出てきた歴史がありました。戦後、女性が参政権を獲得した後、そこで終わるのではなくて、参政権を得て何をするのか。最初に一番重要だったのは、この売春防止法を作る、そこまでが戦前から続く婦選運動の一つの流れと捉えるべきだと思っているところです。
今年は80周年なので、憲政記念館で憲法のいろんな面白いものを出しています。女性参政権のコーナーもあって、入れ替え制で、前半の時に出てきたものがあります。女性参政権運動では、女性弁士が演説をしていると、男性が子育てさせられています。こんな参政権なんか、女性なんか婦人なんかに与えてはいけないみたいな、反対のためのポスターが作られていたんですね。同じようなものが、アメリカでもたくさんあります。アメリカは1920年に女性参政権が実現したので、時代はもうちょっと前ですが、全く同じですね。女性たちが演説して、参政権だとやっているのに対して、男性が家で赤ちゃんの面倒を見させられている。女性に参政権与えたら、男がこんな家事育児をする大変な国になると言って、男性が反対をしていた。国を超えて本当に同じだなという風に思います。
今はさすがに、こんなことを言う人は無くなった。男性も育児をしようということにはなって、若い世代は本当にそうです。でもどこまで本当に育児、家事が平等になっているかというと、やっぱり時間で見ると3倍ぐらいの開きがあって、女性は外の仕事もやるけれど、家もやる。男性は外がメインで、ちょっとだけやるぐらいな感じですよね。
家の中での男女平等が、どこまでいけるのか。80年を超えてまだまだ追求しなければいけないテーマではないか、と思っています。