暉峻淑子(埼玉大学名誉教授)
2024年10月の衆議院選挙で、長年続いた自公政権が過半数割れとなり、久しぶりに一縷の光が見えた気持ちでいます。これまで、どれだけ自公政権が反民主主義的行為を行い、法治国家をないがしろにした独裁的行為をしても、無関心にみえた有権者の態度を見て、10月の選挙でも期待していませんでした。憲法が改悪されるかもしれないこんな社会を子供や孫の時代に残さなければならない私たちの無責任を思って、悲しい気持ちになっていました。でも、僅かでも変化のあったこの機会に、気を取り直して、このチャンスをできるだけ活かしたいと思います。自公で過半数をとれなかったことに、ほっとしていますが、投票率が上がったわけではないし、論拠ない刹那的なSNSやXやユーチューブに流されやすい世論を見ていると、それに対抗できる説得力あるどんな方法があるのだろうかと、自分の額や頬をパンパンとたたいて、ない智恵を引っ張り出そうとしています。
今、誰もが思い浮かべているのは、韓国の突然の戒厳令に対して、戒厳令を解除させるために急遽、議会に集まった国会議員やそれを助けた市民たち。国会前から地平線までつづきそうな老若男女を問わない、市民の真剣な表情と行動力・・・・それをニュースで見た、あるいは韓国の友人から送られてくるメールやPDFで見て、私たちは、どんなにその勇気に感動したことでしょう。彼らは自分の手で軍事政権を、民主主義政権に変革した経験を持っているので、自分が何をしなければならないかを知っている、と思いました。傍観的第3者の自分ではなく、国から自分を取りもどし奪い返さなければならないことを知っていると思いました。
私たちも集団的自衛権の国会通過に反対して地下鉄の駅で、身動きもできなかったほど、国会前に集まりました。でも国会を動かすことが出来なかった。一度も市民の抵抗が成功したことがない、という諦めが、市民の間に無意識に沈殿しています。政権側も一度市民の抵抗に屈したら、市民の抵抗は燎原の火のように広がることを知っているので、抑え込むことに全力を尽くしています。「国民は国のすることに反対なんかしてもダメだよ」と諦めさせることに全力を尽くしています。ここをどう突破するか。綱引きの時です。人権と平和の綱を引っ張る手が今年は1本でも多くなるように、どんなしわだらけの手でも、か細い手でもいい、1本でも綱を引く手が多くなることを願っています。私たちも新しい情報の拡散のし方を研究し、新旧取り混ぜて、行動したいものです。一度穴を開ければ、堰をきったように、耐えてきた、あふれ出す想いというものがあるのではないでしょうか。韓国の市民が軍事政権を民主主義政権に、市民の力で変革した時、誰が何を言わなくても収監されている囚人への食事が変わり、新聞を読んでもいいことになり、政権が変わるということがこんなに末端まで、社会を変えるのかと、監獄の中の囚人も驚いたという話を当事者から聞きました。先月、となりの国、韓国に行って、今や日本は、政治の傍観者になっているうちに、アジアの遅れた国になっていることを痛感させられることが多々ありました。でも、勇気と希望をあきらめません。
今年こそ、1歩でも5歩でも、と思っています。
高良鉄美(参議院議員・琉球大学名誉教授)
戦後80年、明けまして、おめでとうございます。あらためまして平和憲法を意識した皆様の活動に敬意を表しますとともに、本年も「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」ために頑張って参りましょう。今年の干支、巳年の意は、長く隠されてきたものが露呈したことによって、劇的な変化が起きる年だそうです。果たして、この巳年、どのような政府の行為、秘密が、明るみになるのでしょうか?
巳年の戦後80年巳の方向は南南東を指します。東アジアの南南東にある島々が琉球諸島です。沖縄県立博物館にある「万国津梁の鐘」には、琉球を紹介する漢文が刻まれ、東アジアの平和の問題が垣間見えてくる一文があります。日本語訳では「琉球王国は、南海のすばらしい地であり、中国、朝鮮国、日本の各国と親密な関係を持ち、これらの国の中間に位置する大地から出現したあこがれの島である。船で各国へ渡り、万国の架け橋となり異国の産物や貴重な品々は、国中に満ちあふれ土地がらも人々の心も遠く日本や中国のすぐれた徳の教化をまねく」という内容となっています。東アジアは、本来このような地域であったはずです。
政府は「我が国を取り巻く戦後最も厳しい安全保障環境」である旨を繰り返し、脅威をあおって、軍拡に走っていますが、果たしてその環境認識は自然にできたものでしょうか、それとも人為的でしょうか。「台湾有事」という言葉も刷り込みのように使っています。馬毛島、奄美、沖縄本島、宮古、石垣、与那国など南西諸島を防波堤(いったいどこの国の?)どころか、国民が物価高で、生活に苦しんでいる御時世に、巨額の税金を大陸に向けた攻撃基地建設に躍起になっている「政府の行為」は滑稽ですが、怖いことです。しかし、刷り込みに乗って、黙って見ている主権者が過半数だとすれば、もっと恐ろしいことです。
沖縄は「ホット・スポット」だとよく言われます。ホット・スポットとは何でしょうか?「紛争地域、危険な場所」という意味では軍事作戦シナリオで作られてきた「基地の島」の姿かもしれません。しかし、「人気のある場所、現在注目されている場所」の意味では、東アジアの「万国津梁」の観光の島というのが、現在進行形で見えている沖縄像なのです。それはまた、平和憲法が描く、たとえ紛争国同士であっても間を取り持つべき日本の「国際社会において名誉ある地位」を占める姿だとも言えます。
巳の象形であるヘビが注目される年ですが、沖縄のヘビといえば、ハブをすぐに思い浮かべるかと思います。南西諸島は生物多様性が非常に高いところです。2021年、奄美、徳之島、沖縄本島北部、西表島が、国際的にも希少な固有種に代表される生物多様性の保全上重要な地域として、世界自然遺産に登録されました。実は、ホット・スポットには、「生物多様性が高いにもかかわらず、生態系破壊の危機に瀕している地域」という意味もあります。驚くことに、ホット・スポットに日本が指定されているのです。辺野古新基地建設工事に代表されるように、絶滅危惧種を含む生物多様性の高い地域に米軍基地や自衛隊のミサイル基地建設を強行しているのですから愚の骨頂と言っても過言ではありません。
巳とよく似た字に己があります。「おのれ」は、私であり、あなたでもある、両方の意味を持っています。己はヘビの象形由来ではなく、手に持つ3本木を組みあわせた糸巻器の象形だそうで、糸すじを整える意味もあると言われます。糸すじ、つまり物事のすじ道を整えて、考えるのであれば、前述の世界自然遺産の近隣の基地建設など言語道断であるは明白です。私も、あなたも、そして己の国の政府も糸すじをしっかりと整えなければ、憲法の構造はヨレヨレになることは必至です。
高田 健(総がかり行動実行委員会運営委員)
私たち日本の市民運動が韓国の民衆からもらった勇気は計り知れない。12月3日深夜、韓国の尹錫悦大統領が「非常戒厳」の宣布を発表した。ソウルの国会議事堂の外に刻々と押し寄せる市民たち。偶然、現場にいあわせた猿田佐世弁護士の報告が描く韓国民衆の勇気に感動した。猿田さんもいつ軍隊が出てくるかという緊張の中でそこにいたのだろう。
私の近くにいた男性が、「左から軍が投入された」と叫んだ。「ついに逃げるか」と私は身構えた。しかし、なんと、その声を聞いた何人もがすぐに彼に呼応し、「軍を入れさせるな!」と叫んで、彼と共にそちらの方向に向かっていった。他の人たちも続き、後ろを振り返って「みんなこっちへ!」と呼びかけながら走っていった。みんな、1980年5月の光州を思い出していたに違いない。軍の国会突入を阻止するために走って立ち向かっていった市民たち。
そして猿田報告ではこういう市民もいた。
警察車両の真ん前に立ちふさがって、たった一人で車を止めていた20代くらいの女性もいた。彼女は、ただただ静かに警察車両の前から動かなかった、という。
この猿田報告ですぐ思いだしたのは1989年天安門事件の翌日の6月5日、天安門前の10車線道路で、一人の青年が鎮圧に現れた59式戦車の車列の前に立ち、行く手を遮った。戦車は何度も彼を回避するために横に迂回しようとするが、その都度彼は戦車の前に立ちふさがり侵入を防いだ。この青年だ。
2024年、過ぎた1年は世界も日本も大激動の1年だった。元日の能登の大震災はその前兆だった。砲火が飛び交うウクライナ、パレスチナ、ビルマなど、そして軍事的緊張の続く、中東、東アジア、アフリカなどはいうまでもない。欧州をはじめ世界各地で台頭する新ファシズム、民族排外主義、貧困、差別、暴力主義。人類は21世紀に至ったのに、どうしたのだろうか。
しかし、こうした暗黒の中でいつも勇気をもらうのは、世界のいたるところにいる抵抗する市民だ。わたしもその一人でありたいと願っている。
2015年12月3日、韓国・ソウルで「第3回李泳禧賞」(主催・李泳禧財団)授賞式が開かれた。故・李泳禧氏は、行動する言論人として、韓国の軍事独裁政権を批判するなどし、5回の投獄、記者、教授職を計4度解職されながらも闘い続けた。同賞は「真実を明らかにし、時代の偶像を打破することに生涯を捧げた」李泳禧氏の精神を継承・実践することを目的として創設。本年は、高田健さん(「許すな!憲法改悪・市民連絡会」事務局長)とキム・ヒョスンさん(『ハンギョレ新聞』元論説委員)の2人が共同受賞。高田さんは、自身「2015年安保闘争」と呼ぶ、戦争法案反対運動をはじめ、20年以上にわたる護憲運動が評価された。「自分がこの賞をいただいていいのか?」と戸惑いながらも、受賞は韓国市民社会との“連帯の証”と、知人から背中を押されて韓国に来たという高田さん。先日、事務局を務める「九条の会」がノーベル平和賞候補に挙がりながらも、受賞に至らなかったことに触れ、「李泳禧賞をいただくことは、ノーベル平和賞をもらうよりも、本当にうれしい」と述べると会場からは、笑いがこぼれた。(週刊「金曜日」2015年12月11日号)
かつて魯迅は「希望とは道のようなものだ」といった。「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない」といった。「抵抗する市民」とその増殖のなかにこそ「希望がある」、「道」がある。私もこれまでけっこう長い道のりをあるいてきた。しかし、私は今年も大地を踏みしめながら、足が動く限り歩き続けようと思っている。
内田雅敏(弁護士)
2025年、は戦後80年、1965年の日韓基本条約から60周年です。この60年間を振り返るに際して、1965年の日韓基本条約で何が議論され、何が合意され、何が合意されずに積み残されてきたか、そして、その積み残された事項についてこの60年間の中でどう議論されてきたかを検証する必要があります。日韓間で合意に達せず、積み残されてきた最大の事項は植民地支配についての評価です
日中国交正常化(回復)を果たした1972年の日中共同声明では、日中両国が「一衣帯水」の間にある永遠の隣国であり、「長い伝統的友好の歴史」があったことを確認したうえで、「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に対し、重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べました。先の日本軍による中国侵略について、日中両国間で歴史認識の「共有」があったのです。
日韓国交回復を果たした1965年の日韓基本条約では、長年にわたる国交回復交渉の中で、植民地支配について、日本側は国際法上合法であったとし、韓国側は、当初より違法無効なものであるとし、その合意が得られないままに、1965年の現時点では「もはや」無効であるとされました。
すなわち、1965年の日韓基本条約では、最も重要な懸案事項であった植民地支配について日韓間で歴史認識の共有がなかったのです。植民地支配についての両国間での歴史認識の共有は1998年の日韓共同宣言まで待たねばなりませんでした。
1998年、小渕恵三首相と金大中大統領によって発せられた日韓共同宣言では、「小渕首相は今世紀における日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期、韓国国民に対し植民地支配により多大な損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。」と小渕首相が述べました。これを受けて、金大中大統領が「かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受け止め、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて、和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるために互いに努力することが時代の要請である旨表明した」ことにより、植民地支配についての歴史認識を日韓両国で共有することとなりました。
日韓共同宣言は、1995年、戦後50年に際し、閣議決定を経てなされた村山首相談話「植民地支配と侵略により多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました。私は未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて、痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします。」1993年、慰安婦問題に関する河野洋平官房長官談話を下敷きとするものでした。
村山首相談話は、我が国が世界に向けて発した公約であり、1998年の日中共同宣言においてもその遵守が確認されています。
村山首相以降も、同談話は「日本を取り戻す」を呼号した安倍政権を含む歴代政権によって踏襲されてきました。
日韓基本条約締結以降の上記経緯を考慮に入れれば、1965年の日韓基本条約において最大の懸案事項であった植民地支配を巡る日韓両国の認識の差は、前記1998年の日韓共同宣言によって修正(改修)されたものと解すべきです。
今、日韓基本条約から60年を考えるに際しては、修正前の「65年史観」」でなく修正後の「98年史観」に拠らなければなりません。具体的には、日韓基本条約当時植民地支配に向き合わなかったことにより放置されてきた元徴用工問題等の解決です。
今井高樹さん(日本国際ボランティアセンター前代表)
(編集部註)11月23日の講座で今井高樹さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
私は、2007年にJVCに入りまして10年ぐらいは南スーダンとかスーダンに駐在しておりました。その後は日本に戻り、代表は6年間やりました。その間に安保法制違憲訴訟の原告側証人をやりました。それから朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮との市民交流に参加してきました。その他政策提言の活動として外務省とNGOの協議会がありますが、このODA政策協議会のコーディネーターは今もやっています。NGO非戦ネットというネットワークの運営委員もやっています。
日本国際ボランティアセンターという団体は、1980年に創設され、40数年やっている日本では古手の方の団体になります。今は、パレスチナ、イエメン、スーダン、ラオス、コリアの5カ国で活動しており、紛争地の活動が結構多くなっています。パレスチナのことは大きく報道されていますけれども、スーダンも大規模な紛争が起きて1年半ぐらい経ちます。国内国外の避難民、難民を合わせて1100万ぐらい出ていて、亡くなった犠牲者の数も2万とか3万とか言われています。これも専門家によっては十数万ぐらいだというような方もいらっしゃるので、数の問題ではないんです。ただ数から言うと、ガザと同じぐらいの方が犠牲になっているようですけれど、全然国際的には話題にならないという、そういった場所でも活動をしております。コリアというのは、南北朝鮮と日本の市民交流を20年来やってきています。団体としては紛争に「縁がある」というと変ですけれども、平和のことを考えさせられながら、それに関係する政策提言や、外部に向けた発信もしてきた団体です。
かつてないくらいアジアで軍備拡張が進んでいる
今の世界情勢は、とにかく軍備拡張がこんなに進んでいる時代というのはかつてないくらいですね。ストックホルム国際平和研究所が毎年数字を発表していますけれども、2023年、統計を取り始めてから最大規模になっています。日本円で277兆円ぐらいの軍事費が出ていて、伸び率も6.8%、前年度伸び率も最大になっています。ヨーロッパ、それからアジア、オセアニア、中東で大幅増です。ヨーロッパはロシア、ウクライナのことが大きくなっている。中東は、これもパレスチナのことだけではなく、アジアでもだいぶ増えています。中国が6%増加で、軍事費が世界第2位なわけです。日本は11%増加で増加率としては相当高くなっていて第10位です。軍事費を倍増させるという政権の計画がまだ始まったばかりで、そのとおりになったら、日本は軍事費でいうと世界第3位になるという数字も出ていました。そんな状況でアジアが非常に増えている。中国の軍事拡張というだけではなく、中国と日本あるいは韓国とか台湾も含めた軍拡のエスカレーションがアジアで起きている。今後さらに加速するだろうという予測を立てています。
世界では非常にアジアの状況が懸念されていますけれども、これは軍事費のトレンドのグラフで、見ていただくとわかるように、冷戦終結後1990年に軍事費は世界的に下がります。その後2000年ぐらい、ちょうど対テロ戦争といわれるものが始まった頃からまたどんどん増えていって、特にアメリカが劇的に2000年代に増えていきます。2010年代になるとアメリカは横ばいぐらいになり、その頃から他の地域がどんどん増えていく。特に全体の中でのアジアの占める割合が、金額的にもどんどん大きくなっていくのがわかります。こういう形で非常にアジアの状況が懸念される状況です。日本がそのうちの一翼を担っています。そういった状況の中で「NGOは平和に貢献していますか」ということで、私は率直に申し上げて、頑張っているけれども実はなかなか難しくて、できていないのではないかという感覚はありますが、もちろんそれぞれの団体が頑張っていると思います。
ここで貢献する中身ですけれども、1つは「社会開発を通じて平和に貢献する」ことは、いろんな団体の方がおっしゃることです。これは、途上国とか、紛争地での人々の収入向上とか、教育、保健医療、水・衛生といった活動で平和に貢献しています。社会開発をやっています。この話は前提として、社会が安定すれば、あるいは教育が普及すれば、貧困がなくなれば、紛争は起きないというか少なくなるという、そういう前提があります。社会開発を通じて平和に貢献しているということになるけれども、ただ本当にそうなのかというのは、検証はあまりできないですね。私としては別にそれを否定するわけではありません。ただ本当にそうかという疑問は、現地でも活動してきて、なくはないわけです。
例えば、教育が普及すれば紛争は起きないのかというと、ユニセフの方々は教育が普及していないとか、識字率が低いとか、学校に行っていないから紛争になるということを結構おっしゃる方がいらっしゃる。けれども、実は世界で紛争を起こしている人は、頭のいい人たち、頭のいいひと握りの人が、いろいろと悪いことをして、でも自分たちの身に降りかかる戦争ではない。途上国というか紛争地で、代理戦争という言い方だけではないけれども、紛争地でそういうことが起きるようにしてしまっていることがあります。実は識字率が低いところとか、就学率が低いところがみんな紛争になっているかというと、決してそんなことはない。むしろ紛争が起きてしまって、そのことの結果として就学率が上がらないことがあるという感覚は私にはあるわけです。やっぱり社会開発を通じて平和に貢献するということです。
2つ目です。今日はこの2つ目についてのお話をさせていただきます。平和構築というか、平和をつくる活動をしているということで、ここにいくつか箇条書きにしています。これは私個人の整理で、一般的にこういう分類があるわけではありません。1番目からいくと、「紛争当事者の仲介とか対話の促進」です。紛争当事者といっても国のレベルもあれば、地域的な有力者というか、武装勢力もあります。その仲介とか対話の促進というのは、実際にNGOがやっているところはあります。日本のNGOは、これができているところは少ないと思います。ただ国際NGO、外国NGO、現地のNGOの中には実際にやっている団体は少なくないです。私が南スーダンとかスーダンで現地にいたときには特定の地域の武装勢力と、それから別の武装勢力、反対勢力とか、あるいは政府と反政府の間で、NGOが仲介になる。例えば対話集会といいますか、和平交渉をアレンジして両方の人を連れてくる。交通費とか宿泊代とかご飯代とかみんな出して、話し合いのテーブルについてもらうということをやっているNGOもあります。これが1番目ですね。
2番目の「紛争要因となる問題の解決」。紛争の原因分析は、平和構築の理論では、よく分析をして、その分析の結果で根本要因というようなものに対して解決をするとか、そのプロセスみたいなものがあります。例えば水の問題なんていうのがよくある話です。水場を巡って2つの住民グループが対立をして暴力的なことにもなってしまう。比較的多いのは牧畜民は大量の水を家畜に飲ませるので必要になる。つまり、何百頭とか何千頭の牛や大型の家畜なんかを持っている牧畜民なんかは、大量の水が必要になる。それは定住農民のところで、水場から飲むとか井戸の水を飲むというときに、どうしても対立、いさかいなんかも起きやすくなります。そういったときにNGOが水場の整備とか新しく井戸を掘るとかで、原因になっている水の問題を解決するというものがあります。これは一般的な社会開発よりも、具体的に紛争の原因解決ということでやるわけですね。
3番目に「紛争現場での目撃者として発信する」と書きました。これは「国境なき医師団」なんかは、こういう活動を非常によくされていると思います。実際の現場でこんなにひどいこととか、人道にもとることとか、国際法違反が起きていることを、目撃者として国際的に発信をする。今のガザなんかもそうですけれども、そのことによって国際世論を喚起するとか、国際社会に圧力をかけてもらうということですね。そういう活動があり、重要なことだと思います。
4番目は「人間の盾」です。これは紛争が起きているところに生身の人間が行って「盾」になるというか、第3者としてそこにいることによって、双方が武力を思い留まるようなことをすることです。実際にやっている団体はあります。有名なところではノンバイオレンスピースフォースというところがあります。ただ日本の団体では見当たらないかと思います。
5番目は「一般市民を含む当事者間の相互不信の払拭」ということです。1番目に当事者同士の仲介ということを言いました。でも本当の当事者とは別に、一般市民も含む意味でも当事者なわけですね。そういう方々が紛争の時には大きな役割を果たすのは確かなことです。紛争の場合には相互不信とか敵対意識なんかが、一般の人も含めて大きな敵対意識を持って、そのことによって紛争がエスカレートしてしまう。あるいは武力攻撃を正当化してしまうことがあったりします。そういった普通の人が相互不信を払拭するための交流活動も行います。6番目は「戦争政策や軍事援助をやめさせる政府や企業へのアクション」ということで、これはわかりやすいかと思います。7番目が「平和学習」です。
まずパレスチナとガザのお話から始めます。これは「目撃者として発信する」とか、政府とか国会への働きかけと企業の話も出てきます。ガザで何が起きているかは、今更申し上げるまでもないと思います。現地で活動する日本のNGOが6~7団体ぐらいあります。そのNGOが協力して、去年の10月7日以降様々な働きかけ、アクションを行ってきました。その目的はもちろん、停戦のために日本政府に働きかけてもらう。国連安保理ですとか直接的に外交の場でやってもらうために働きかける。それから国際法遵守、これはイスラエルに国際法を守らせるということで、国際司法裁判所の暫定措置がありましたね。ジェノドサイド防止のための暫定措置を実施する。
あるいはUNRWAという、ガザも含めて、その周辺国でパレスチナ難民などの支援のために活動している国連機関への活動停止に反対する。今年の1月12日でしたか、イスラエルがUNRWAの職員がハマスと通じているという疑惑をかけて、その後日本も資金援助を拒否しました。そこで日本政府に対して資金拒否の取り消しを求めるアクションをしました。日本政府は結果的には取り消しました。最近もイスラエルがUNRWAの活動を禁止する法律を作ったので、それに対する反対の声明文を今用意しているところです。そういった課題でアクションをしています。具体的には、外務省に要請文を出す。これは今まで4回やりました。去年の10月の攻撃が始まった後、10月11日に1回目をやり、その後4回やっています。5回目をUNRWAの活動禁止に対して、日本政府がイスラエルに対する何らかの圧力を含めてやってくださいということで準備をしているところです。
政府・国会、メディアへのアクション
それから国会議員への働きかけですね。院内集会とか、外務省との交渉とか、議員に対しての働きかけをやっている。それから記者会見、メディアに向けての取り組みです。一般の方とかメディア向けのイベントや国際署名に賛同する、といったことをやってきています。去年の10月20日に、停戦を求めて緊急の院内集会を参議院の議員会館で国会議員の方、衆議院も含めて呼びかけて行いました。この時は、ちょうど攻撃が始まった直後だったということもあり、皆さん非常に関心が高くて、議員の方が26名参加していただきました。その場に来ていたNGOのメンバーは「こんなに議員がたくさん来ている集会は初めて見たよ」という話がありました。この時は主要会派がみんな来たという、NGOがやるものとしては非常に珍しいことで、自民党の方も一人だけでしたけれどもいらっしゃった。公明党の方も複数、維新の方も国民民主もれいわ新撰組の方も広く集まりました。ここで、とにかく国会でもそういった働きかけをしてほしいというようなお願いも含めて、現地のことを皆さんにお伝えしました。実際、その後議員の方、衆議院、参議院の委員会でそういった発言、質問をしたり、確かにいろいろとやっていただきました。
記者会見は去年の12月にやりました。議員さんの動きでこの問題に関心を持って、イスラエル議連とか、パレスチナ議連というのもあります。実は私にも理解できないいろんなしがらみがあって、パレスチナ議連ではこの問題をあまり扱えていません。パレスチナ議員連盟ではない議員さんの集まりで、ガザの停戦を求めることに関心を持っている議員さんがやってきていました。その方々が「パレスチナ」とか「カザ」とか名前は出さないけれども、人道外交議員連盟ということで、今年の5月に発足をされました。その議員連盟の中では、NGOは毎回のように呼ばれて、中東の専門家も呼ばれ、現地の状況ですとか、この問題の背景についてブリーフィングをしてきていました。
今、写真に写っているのは、設立総会で一番奥の席に座って腕組みをされているのは石破さんで、隣が中谷さんです。お二方に議連を引っ張っていってほしかったけれども、今は総理大臣、中谷さんは防衛大臣になって、この議連も出直しみたいなことになっています。石破さんと中谷さんは、ガザのことに関しては非常に関心を持っていただいて、人道的な対処が必要だということで、議員連盟を呼びかけで自ら代表などになってやってくれていました。事務方をやっているのは立憲の阿部知子さんで、実際に来ている議員さんは立憲の方が多いけれども、共産党の方を含めてなるべく超党派で今後もやっていきたいということです。写真の一番右の奥で話をしているのがJVCのパレスチナ現地代表の大澤みずほで、たまたま一時帰国をしていたので現地の状況を伝えています。
今年の10月、1年経った時にイベントで「停戦を今すぐ」ということで増上寺でキャンドルアクションをやりました。本物ではなくてLEDライトのキャンドルで字を書いきました。これは主にメディア向けにやって、その後各紙の記事にはなっています。このイベントで現地からメッセージをいただいて、JVCは現地代表の大澤が次のように話をしています。
「皆さん、こんにちは日本国際ボランティアセンターエルサレム事務所現地代表の大澤みずほです。昨年10月7日からもう1年が経とうとしています。こんなにも明確に国際法や人道法に反している攻撃が目の前で繰り広げられ、多くの命が奪われているにもかかわらず、1年もの間このような状況が許され続けていることは今でも信じられません。JVCは2つのパートナー団体とともに粉ミルクや医薬品の配布、2歳以下の子どもの簡易的な検診と栄養失調予防食の配布、そして保護者への啓発活動などを実施していますがそのパートナー団体のスタッフ自身も多くが避難生活を強いられています。その人たちも、私たちの想像を絶する地獄のような状況の中を何とか生き延び、自分たちがいつ命を奪われるか、1日の終わりに無事に家族と会えるかという不安や恐怖と戦いながら、日夜できる限りの力を尽くしています。
JVCが現在行っている緊急支援のパートナー団体の一つPMRSの医療チームは、医療物資を携えあちこちの避難所や、時には道端で人々に医療を提供して回っています。破壊された街、そこら中で見かける無残な遺体、街や避難所の惨状、医療物資や施設の不足によって十分に患者さんたちに対応できないことへの悔しさなど様々な気持ちを抱え、泣きながら帰ってくるスタッフもいるそうです。もう一つのパートナー団体であるアルデルインサーンのスタッフはまだ自宅に滞在できている人もいれば、子どもたちを連れて何度も避難を繰り返し、テントで生活しながら活動地に通って子どもたちへの栄養支援を行っている人がいます。活動に参加してくれているボランティアの中には、爆撃で家族を失ったり、夫がイスラエル軍に連行され、数ヶ月も行方がわからないままになっている人もいます。人々はもうたくさんだ。この状況に疲れ果てた。支援をするにもとにかく停戦が必要だと言っています。JVCの現地スタッフは、裕福でなくても、ただ平和に安心して暮らしたい、それがガザの人たちの夢だった。今では停戦すらも夢になってしまったと言っています。
各国の政府が国益ばかりを重視して足踏みをしている間に、多くの市民が家族や友人、家、仕事、生活、そして命まで奪われています。力を持つ人間が何でも自分の思い通りにできる、そんな世界でいいのでしょうか。そんな世界にしないためには、市民一人一人が声を上げること、そして政府も動かしていくことが重要です。一刻も早い停戦と占領の終結に向けて世界中の市民が声を上げ続けています。どうか私たちと共にその声の一つになってください。最後にJVCのガザ現地スタッフであるバッシャールからのメッセージをご覧ください」。
「ガザはもう1年も悪夢のような人道状況に閉じ込められています。私は苦しむ市民を代表して話します。4万1千人以上の命が失われ、他の無数の人々は想像を絶するトラウマを生きています。人の数だけ粉々になった人生や悲嘆にくれた家族、コミュニティがあります。私たちは即時の停戦を求めます。私たち市民は今すぐ平和が必要です。全人類のためこの紛争を終わらせなければいけません。これは基本的人権の問題です。平和と希望に生きる権利は私たち全員が守るべきものです。私たちは国際社会が圧力をかけこの紛争を止めるよう求めます。今すぐに行動してください。毎秒毎秒命が失われています。停戦を、今すぐに」。
JVCは現地駐在員をエルサレム事務所に2名配置していますが、ガザの中ではバッシャールさんをJVCの現地スタッフとしています。そこで支援活動のアレンジをして実際に活動しているのは動画の中にも出てきたパートナー団体のスタッフ、もちろん皆さんガザの住民で自ら避難している方々が活動している、といった状況です。
日本政府の外交姿勢は確かに国連での投票行動を見ても、去年の10月の当初から見ると変化はしてきていると思います。最初は停戦に向けた国連での決議に対して日本は棄権、という行動を取りました。これはパレスチナでは大バッシングを浴びて、JVCの現地の駐在員なんかも「日本は一体どうなっているんだ」とか「何考えているんだ」とずいぶん言われました。日本は1970年ぐらいから、パレスチナの中東外交については必ずしもアメリカ追従ではない。つまり、イスラエルの占領は国際法違反であるという、一応そういう見解を明確にしてきました。それは70年代に石油を輸入しなければいけないから、そういうポジションを取るという経済的な目的はあります。比較的中立的な立場を取ってきて、中東の人たちからは非常に日本に対する印象はいいわけです。
でもガザのことで日本がアメリカべったりみたいな投票行動をとって、随分日本を見損なったと言われたことはありました。ただその後、私たちのアクションも一つの要因ではあるでしょうけれども、様々な人々の声ですとか国際的な動きの中で日本の投票行動も変化をして、9月18日にはイスラエルの占領の終了を求める決議に日本は賛成をしています。アメリカは反対をして、イギリスとかドイツは棄権をしていますから、日本が賛成したというのは、確かに変化は見えるかなと思います。ただ、一方でイスラエルへ直接的な外交的圧力をかけているかというと、そこまでは踏み込んでいません。イスラエルとの防衛協力は変わらず協力関係も進んでいる。アメリカに働きかけをすることもないし、パレスチナの国家承認も、日本は棄権をしています。ただこれは最近の報道では現在検討しているようではあります。
私たちのアクションにも一定の限界があって、現地で活動しているとイスラエルの許可がないと現地に行けないんですね。パレスチナというのはご承知の通り実際にイスラエルが占領しているので、そこに入国するにもイスラエルが国境管理をやっています。ですから、まず飛行機でいけばテルアビブの空港でイスラエルに入国をして、そこからパレスチナに行くわけです。そうすると、イスラエルに対して非常に明確に反対をしているような団体、あるいは個人は目をつけられることもあります。政府に対する要請文についても、NGOの中でもちょっとこの内容だと署名できませんとか、名前を出せませんとかいうこともあります。そういった限界は現地で活動するNGOはパレスチナの問題に限らずあるけれども、何とかぎりぎりできるところでやっていこうとしているわけです。研究者の方も同じ悩みがあります。専門家の方も、明確に主張してイスラエルから目をつけられると、実際の研究のために現地に入国できないことがあるので、そういった制約というか課題があります。
次に企業へのアクションです。これは国際協力NGOではない市民の方々がやっているアクションで、イスラエルに対するBDS運動というのがあります。これはずっと以前からある国際的なキャンペーンで、ボイコット(Boycott)、投資引き上げ(Divestment)、制裁(Sanctions)ということがBDSという言葉です。イスラエルに投資をしているとか、取引がある企業とか、イスラエルで作られたものは買わないという運動です。日本では今回このガザの件に関しては武器取引反対ネットワーク(NAJAT)がやっている企業への行動があり、学生さんとか、特に若者を中心にかなりこういった活動がされています。例えばエルビットシステムズというイスラエルの主要な軍事企業あります。そこと伊藤忠アビエーションという伊藤忠商事の子会社との協力関係を批判して、伊藤忠本社前での抗議行動なども行い、結果的にその協力の覚書を伊藤忠が終了させた、といった成果が出ています。これは結構国際的なBDS運動の中でも、最近の特筆されるべき成果と言われています。
伊藤忠がこれをやめたのは、大きかったのがファミリーマートは伊藤忠の子会社ですけれども、このファミリーマートがマレーシアで不買運動を起こされたんです。マレーシアというのはイスラム教徒の方が多くて、ガザのことに関しては、非常に反対し怒っている方々が、伊藤忠の子会社であるファミリーマートを使わないぞ、買わないぞ、というようなことをやったので、伊藤忠は判断を変えたのではないかとも言われています。公式には伊藤忠アビエーションは「国際司法裁判所の措置」と、「日本の外務省がその措置の誠実な履行を求めたこと」によって、エルビットシステムズとの協力を終了しましたと説明をしています。確かに企業がそういった行動をやめるときに建前的な理由は必要でしょうから、国際司法裁判所の措置ですとか、あるいは外務省のコメントというのは意味があると改めて思いました。
国際刑事裁判所については、つい一昨日イスラエルのネタニヤフ首相に対して逮捕状が出ました。これは相当大きなインパクトがあると思います。これからこういった様々なアクションについても、そういった逮捕状が出ていることが一つの根拠にもなってくるでしょう。企業の行動にとってみれば、あまり首相の逮捕状は関係ないかもしれませんけども、外交上のことでも圧力をかける上では大きなインパクトがあるかと思います。企業というのは、ある意味、政府よりも行動を変えるというか対応を取るんですね。それはReputation risk、「評判のリスク」ですね。評判が下がって、消費者から反感を持たれることを企業は相当恐れるわけです。だから伊藤忠なんかは、ファミリーマートで買ってもらえなかったら困るわけです。そうすると企業の経営判断としてわざわざそんなリスクを犯してまでエルビットシステムと協力関係を持つ必要はないわけですね。そういったアクションというのは大変重要かなということはあります。
日本の戦争準備に対してNGOがどんなことをやっているのか。NGO非戦ネットというグループはイラク戦争の頃から20年ぐらい、あるいは安保法制のときもNGOとしてそういった動きに反対することでやってきたネットワークです。この2年ぐらいは安保3文書に基づいて国際協力をどんどん軍事化させていこうという動きに対して取り組みを行っています。院内集会、議員会館での報告会もやりました。
国際協力だけではなく、「平和国家日本」というのはすでに過去形になってしまったのではないか。本当に言いたくないけれどもこの10年間で大転換してきている。集団的自衛権の容認とか敵基地攻撃能力、武器の輸出の禁止も2015年に輸出が解禁されました。国際協力とか外交とかという意味でいうと、今も日本政府は平和外交と言います。国際協調主義であるとか、平和外交ということを日本は長らく国是にしてきたわけです。これは平和憲法に基づく日本の外交の基本方針ということで、中東に対するわりと中立的な政策なんかもその一環だったと思います。これが大きく転換をして、安保3文書の中では「同志国」という言葉が使われた。外務省は決して具体的な国名は説明しないけれども、一言で言えば、アメリカとの同盟関係、中国に対抗するような意味で同志になり得る国ということです。そういったところを重視する軍事同盟、軍事ブロックを作るような外交になっています。
国際協力に関しては非軍事原則というのがありました。これが2015年に開発協力大綱というのが改定されて軍事的な援助が解禁されました。さらに2023年から、政府安全保障能力強化支援ができて、軍事的な、もっと直接的に武器を無償で援助できるようになりました。防衛協力というのは非常に進んでいて防衛装備品技術移転協定というのを、今日本は15カ国と締結しています。この協定を締結する相手の国には、武器を輸出したり移転することができます。昨年はアラブ首長国連邦(UAE)と、中東の国では初めて協定を結びました。今まではいわゆる先進国というかNATO諸国ですとか、アメリカとか日本と防衛同盟がある国、それから東南アジアから南アジアにかけての国でしたが、中東の国ともこういった協定を結んできているということです。
協定は結んでいないけれども、ウクライナ、ヨルダン、それからイスラエルとは協力関係、具体的には覚書とかそういったものを締結して協力関係を結んでいます。イスラエルは2022年に防衛交流に関する覚書を結び、さっきも触れたドローンです。今年の1月から2月に日本の防衛省が購入した実証用の攻撃用ドローン7機のうち、5機がイスラエル製でした。このドローンは、2025年度に本格導入するということで、すでに予算の概算要求に入っています。いま国会の勢力も変わったので、これからそれが止まることは期待します。けれども導入されれば、イスラエルのドローンを実証実験していますから、日本もイスラエルからたくさんのドローンを輸入して自衛隊で使うことになります。
このドローンを作っているのは、イスラエルでいうと8割ぐらいエルビットシステムズという伊藤忠との関係で出てきた企業です。このエルビットは、「私たちが作るドローンは実戦で証明済みです」というわけです。非常に許せないような言い方です。ドローンに限らず武器は実戦で証明済みというのは、要するにパレスチナとかガザに対する攻撃で使っている。実際に使っているから信頼がおけます、ということを言っている。とんでもないことを言って売り込んでいるのがイスラエルの軍事企業です。
国際協力は今年70周年だと財務省は言っています。1954年に日本は東南アジアのビルマとかインドネシアという国々に、戦後賠償という形で始めたのが国際協力の始まりです。日本は賠償から始まって、アジア大洋戦争でこんなに侵略したことの一つの償いとしてやっていた。当然、日本はもうそんなことはしません、あくまでも平和国家であり非軍事的な協力ということで協力を始めたわけです。
それがどんどん変わって非軍事原則が崩れてきて、2015年と2023年に大転換した。このOSA・政府安全保障能力強化支援というのは、対象になっているフィリピンとかインドネシアとかベトナムも、日本の企業が作った日本の武器を、そのままただで相手にあげる。日本の三菱重工とか川崎重工とか三菱電機とかの会社に、日本政府がお金を振り込むというようなことなので、かなりとんでもないことだと思います。けれども、あまりメディアも含めて話題になっていない。私たちの発信が弱いということですけれども、そういうようなことが実際に始まっています。
防衛協力の対象として突出しているのはフィリピンです。フィリピンには2010年代の半ばぐらいから、ほぼあらゆる可能な方法で軍事協力をしてきています。自衛隊の中古機材の無償供与、これは海上自衛隊の練習機から始まり、ODAではフィリピン軍への支援です。ODAでは明確に軍事的に使えることはできないように今もなっていて、防災のための機材とか対テロ資機材という形で支援をしていて、その中には巡視船もあります。これは沿岸警備隊に12隻プラス新規に大型の5隻を納入します。大型というのは100メートル級の巡視船を去年合意して、2026年ぐらいまでに納入して支援することになっています。自衛隊による能力構築支援もあります。これは自衛隊員がフィリピンに行って軍に対する研修をするみたいなことです。流れとしては日本が資機材を供与して、使い方を自衛隊が行って教えるといったことです。
武器の民間輸出も、今まで唯一完成品を輸出したのがフィリピンで、三菱電機のレーダーを輸出しています。このOSAという無償の供与は、これも初年度の昨年は、沿岸警備レーダーの供与でした。間違いなく三菱電機が受注するのではないかという感じがあります。三菱電機のレーダーをフィリピンに供与してその後どうするかというと、そのレーダーでの情報を全部自衛隊と共有すると言っている。そういう軍事一体化も進んでいくということです。
部隊間協力円滑化協定というRAAというやり方も今年の7月に締結しました。これは一種の地位協定です。自衛隊員がフィリピンに行くこと、フィリピンから日本というのも同じで、今までも行っていますけれど、より一層簡単に、手続きを簡略化してそこに行って活動することができることになります。実はフィリピンのルソン島の北のほうですが、そこに対して最近アメリカは基地を使えるような協定をフィリピンと結んでいますです。ちょうど台湾を挟んで南西諸島が北の方にあり、南の方はフィリピンになります。ですから南西諸島・琉球弧から、ずっと台湾からフィリピンにかけて対中包囲網というか、軍事要塞化が進んでいる。そこにアメリカと日本が大きく関与しているというのが実態かと思います。
巡視船の話ですけれども、中国への対抗で、南シナ海に日本のODAで供与した巡視船が投入されています。フィリピンの沿岸警備隊というのは中国の海警局と対峙をしているけれども、フィリピン沿岸警備隊はほとんど日本の丸抱えと言われています。船を供与した後、海上保安庁の人たちなのか、それとも海上保安庁のOB、OGなのかわかりませんけれども、実際にフィリピンに頻繁に行き、使い方の教育とかフォローアップをしています。しかもこのODAで供与した船がフィリピンとアメリカの合同軍事演習、「バリカタン」という大規模な演習にも参加しています。さすがに私も驚きましたけれども、これはそのODAのルールから明らかに逸脱している。一応相手国の軍に支援するのはOKになったけれども、でもその目的は、防災関係とか、違法漁業の取り締まりとか、海賊対策ということです。
この巡視船も一応建前では、違法漁業の取り締まりとか海賊対策、そういった違法漁業を取り締まることで、現地の漁民の収益が向上するというロジックでODAをやっているけれども、実際に、これはそうじゃないでしょう。中国と一触即発のところにどんどん日本の大型船を投入していこうということです。目的が安全保障、国と国との国家主権の争いの現場に行っているでしょう、と私も外務省にも申し上げました。けれども外務省は「あくまでも外務省としては、社会経済開発とか違法漁業を取り締まるために使われていると承知しております」というような答えを繰り返すだけでした。このような実態があります。
地位協定にあたるRAAの締結ですけれども、準同盟関係に日本とフィリピンがなったということに基づいてということです。新聞なんかでも大きく報道されています。こういう流れの中で、来年からアメリカとフィリピンの合同軍事演習に日本の自衛隊が本格参加することになっています。日本よりもフィリピンの方が市民運動で非常に反対が大きいようです。現地の日系の新聞でも、締結の当日に日本大使館前で、フィリピンの団体が抗議運動を行っています。抗議をしているこの写真の真ん中に立って話しているシャロンさんという方に、私たちが9月に議員会館で集会をした時にメッセージをいただきましたので、それをご紹介します。
「平和へのあいさつと戦争のない世界への願いを込めて。私たちはリラ・ピリピナという団体です。フィリピン人『慰安婦』、日本の戦時中における性奴隷の被害者の団体です。第2次世界大戦が終わってから約80年が経過しました。フィリピン人被害者の大半は果敢に闘い、追い求めてきた正義を勝ち取ることなくこの世を去りました。日本政府はフィリピン人『慰安婦』やそのほかの戦時中の被害者に対し真摯に謝罪したことは一度もありません。1990年代、日本の国家指導者によって送られた非公式のお詫びの手紙には公式な謝罪はありませんでした。アジア女性基金の設立も真の反省を示すものではなく、実際には資金は民間の市民による寄付でした。日本軍の犯罪による被害への賠償金では決してありません。この罪に対し日本軍が全責任を負うべきです。
この歴史的な不正をただすために闘い続けている間に、フィリピンと日本の政府は今年7月、部隊間協力円滑化協定(RAA)を締結し、日本軍が再びフィリピンに入国できるようにしました。私たちは他の団体と共に、日本大使館の前でRAAに対する抗議活動を行いました。RAAがモデルにしているのは、アメリカとフィリピンとの訪問軍に関する地位協定(VFA)です。これは防衛力強化協定(EDCA)などとともに事実上米軍の自由な活動を認め、フィリピンを巨大な米軍施設に変貌させています。日本はアメリカのアジアへの軸足におけるジュニアパートナーとして、フィリピンと同様の協定を締結しこの地域における戦争計画を遂行しようとしています。
RAAを締結した直後、日本の外務省はフィリピンのテレビにおいて表明しました。日本はすでにフィリピン人『慰安婦問題』について深い反省を表明しており、この問題は1956年のサンフランシスコ条約で解決済みだと表明しました。これは明らかな歴史的事実の歪曲でありRAAを正当化し、フィリピン国民に受け入れられるようにするための不当な行為です。この外務省の声明は、日本が主張する否定的な立場の繰り返しにすぎません。
実際「慰安婦」問題が明るみに出たのは1992年で、日本政府による最後の戦争賠償金が支払われてから約20年後のことでした。賠償金は主に、日本からの資材提供やインフラ建設という形で支払われましたが、性奴隷や強制労働、その他の残虐行為の被害者など個人に対しては賠償金の支払いを考慮されることはありませんでした。被害者たちがRAAに対して懸念を抱いているのは日本の自衛隊員の送還に関して司法権に抜け穴があるためです。さらにRAAは、フィリピンを巨大な軍の倉庫に変えてしまいます。戦争に使う物資や危険物が保管・輸送され国内に持ち込まれることになり、日本軍が製造・販売するミサイルや破壊兵器が持ち込まれることを恐れています。
日本とフィリピンの人々が一緒に声を上げ、アメリカの戦争計画に巻き込まれることに対し憤りと反対を表明することが重要です。この帝国主義的な戦争から解放されるために私たちはお互いを支えあい強固な連帯を築かなければなりません。戦争による占領は、占領された人々にとっても支配する国の人々にとっても決して利益をもたらすものではありません。戦争は死と破壊をもたらし国の発展を妨げ、女性に対する性暴力を引き起こします。私たちの声を大きくはっきり届けましょう。戦争にNO!平和のために立ち上がり、侵略戦争に反対します。」
フィリピンの市民運動は、相当日本とのRAAという協定に危機感を持っています。必ずしも正面から反対する団体ではなくても、国会議員らも含めてこれは地位協定的なものなので、例えば裁判管轄権がどうなるのかとか非常に関心を持たれています。日本のほうが全然関心が低い。おそらく来年の1月の通常国会でこのRAAの批准があると思いますが、そこに向けて私たちも何かできないか非戦ネットとしても考えていて、そのまま通るようなことはないようにしたいと思っています。
日本とフィリピンとの軍事協力関係ですが、フィリピンから見ると大国の争いです。中国とアメリカ、アメリカプラス同盟国・日本を含めての覇権争いの中で、フィリピンに破壊兵器が持ち込まれて弾薬庫にされてしまう。戦場になるとすれば、それはアメリカでも中国でも日本でもなくてフィリピンだ。南シナ海は今、国際的には台湾海峡よりも危ない。一触即発の危険があるという危機感を持っていると思います。フィリピンの市民団体の方が言っているのは、こういうことが80年前、つまり第2次大戦・アジア太平洋戦争のときにも状況とかコンテキストは全く違うけれども、同じようなことがあったと言っていました。
振り返ると、第2次大戦のときのフィリピン戦、1942年から45年、この時フィリピンの民間人には100万人を超える犠牲者が出ています。マニラの市街戦だけでも10万人なので、東京大空襲に匹敵するくらいの犠牲者がこの時に出ています。ちなみに日本国内での第2次世界大戦の民間の人の被害が80万人ぐらいと言われています。数の問題では決してないけれども、いかにフィリピンで多くの犠牲が出たかということは実感します。
フィリピンの方に言われたのは、日米によるフィリピンの支配権争いだったということです。ですから第2次世界大戦の捉え方では、日本の軍国膨張主義があり、それがどんどん追い詰められてフィリピンにもアメリカが攻めてきたという感じです。けれどもフィリピンの側からすると、帝国主義国である日本とアメリカがフィリピンの奪い合いをして、その中で犠牲になったということで、ある意味、日米の共犯関係ではないかということをおっしゃっている方がいました。
フィリピン現地で活動してきた「アクセス」さんというNGOがあります。この団体はフィリピンで平和学習を30年以上活動していて、ちょうど活動地が第2次大戦のときの激戦地と重なっています。活動する中で、現地の人が日本軍からいかに残虐行為を受けたかということを語り継がれていて、日本が何をしたかということを理解をしなければいけないということで、日本の若者が現地に行くスタディーツアーがあります。そこでは必ずフィリピンの戦争被害者のご遺族の話を聞くプログラムを組み込んでいます。「アクセス」のウェブサイトに載っているこの方は、父親が日本軍の残虐行為で足が不自由になってしまい、家族で苦労したという話をされたそうです。必ずフィリピンの被害者の方が言うのは、日本の若者に責任はないけれども、日本の政府や軍隊が二度と同じことを繰り返さないようにしてほしい、ということを幾度もおっしゃるそうです。それを考えると、まさに今また同じことの繰り返しが、自衛隊がどんどん出ていくという形でされてきていると思います。
フィリピンの市民運動の方が言っていた共犯関係のことですが、アジア太平洋戦争の善悪感というのは、戦後に定着した善悪感があると思います。これは日本の軍国主義、ナチスを含めたファシズムが悪であって、アメリカとか連合国は自由民主主義を掲げてファシズムと戦った善だったという印象が定着していると思います。ただフィリピンの人から見たら、日米は共犯だったということです。多くの戦争とか紛争における当事者同士というのは、私はある意味での共犯関係があると思いますね。これは私が実際にアフリカで経験したいろんな国内の紛争でもそうです。ウクライナでも、やっぱりロシア側とNATO側、アメリカ側との一種の共犯関係、どちらもおそらく利益を得るために戦争をしているというのもあると思います。米中対立もそうですし、日本と北朝鮮なんかも、これも日本としては北朝鮮を一種のカードに使っている。つまり和解をするのではなくて、北朝鮮との対立で敵対をカードにして日本の軍国主義を正当化していく。いろいろと共犯関係というのがあると思います。
そのことによって犠牲になっているのは市民です。「国を守る」というわけですが、それは決して一般市民ではなくて、国家とか体制とか、支配や利益を守るためだということです。あるいは安全保障という名前で国内の統治体制の強化ということもできてしまいます。フィリピンでも、前のドゥテルテ大統領の時に様々な「超法規的殺人」――法律にはない形で、政府に対して反抗する人たちをどんどん殺人していった。今のマルコス・ジュニアの政権になっても、基本的にあまり変わってないとフィリピンの方はおっしゃいます。それをテロ対策とかそういった治安対策の名前でやっていく。つまり敵を作ることで、これはテロリストという敵だとか、あるいは中国とか北朝鮮でもそのことによって国内の弾圧体制とか治安強化をやっていく。そういう利益があるという意味でも、共犯関係、敵がいると都合がいいということです。そのことによって人々を心理的に動員していく。なかなかこの共犯関係とは見えにくいもので、騙されて動員されてしまうことが多いかと思います。
今年の7月に出た本で、「戦争ではなく平和の準備を」という川崎哲さんと青井未帆さんの2人が編集しています。私も1章担当しました。この第9章、君島東彦さんという立命館大学の教授が執筆した「平和のアジェンダを再設定する」を紹介しながら平和交流の話をさせていただきます。君島さんは、日本国憲法というのは「しない平和主義」と「する平和主義」があると書かれています。憲法9条は「しない平和主義」、つまり軍隊を持ちませんというふうに「何とかしません」という平和主義だ。けれども同時に憲法の前文は一種の政策規範でもっていて、これが「する平和主義」だと言っています。国際平和貢献への決意表明が前文には書いてある。この「する平和主義」がなければ「しない平和主義」は機能しない。つまり「しない平和主義」で軍隊を持たないだけだったら、攻められればどうするのか、必ずそういう論議や質問、批判がある。やっぱり「する平和主義」、国際的な平和を作っていく、それに貢献していくということがあって、初めて「しない平和主義」が機能していくということを君島さんはおっしゃっている。
憲法前文には、平和と平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持する、ということで、そういう国際社会において名誉ある地位を日本は占めたいということが表明されています。ですから日本は国際的な平和をつくるということを、憲法に基づいてやらなければいけないと君島さんは強調しています。具体的には、戦争を防ぐには相互の不信感を払拭することであり、相手を信頼できるかどうかがポイントになる。不信感があるから抑止力をつけなければいけないとなってくるわけです。東アジアにおいては本当に不信感があり、東アジアにお互いが共に生き残るための安全保障の枠組みを作らなければいけないということを提唱しています。
共に生き残るというのは、どんどん抑止力をつけることで、中国も日本も韓国もフィリピンにしても、どんどん軍事力を強化していったら、どこかで暴発する可能性はあります。そうならないために、お互いに生き残るためには、お互い信頼し合う関係で何らかの安全保障の枠組みを作らなければいけない。そこで参考になるのが、OSCEというヨーロッパの冷戦期にできた枠組みです。旧西側と東側の国、つまりソ連もあればNATOの国も入った形の安全保障の緩やかな枠組みがあった。今もOSCEはあります。そういったもののアジア版、中国も入っているし、できれば朝鮮民主主義人民共和国も入り、日本、韓国、フィリピンも入るというものを作る必要があるのではないか。
日本は、アジア太平洋戦争の後の和解をきちんとしてこなかった。きちんとしてこなくて不信感が残っているから、そのためにアメリカの軍事力にずっと依存してきている。信頼環境を作ること、例えば日本の米軍基地の撤去ですとか、日本が軍事拡張しないということにもつながっていくと思います。君島さんは、そのために日本政府がそれをやってもらいたいけれども、なかなかそうもいかないときに市民としてやることが大事ですという。「マルチトラック市民外交」ということを提唱されていて、大学とか市民団体とか、自治体もあるというふうにおっしゃっています。
1つの例としてご紹介するのは、市民・NGOによる対話交流の試みということで、私たちJVCのほか、いくつかの市民団体が一緒にやっている日朝の大学生交流があります。これは日本の大学生と平壌外国語大学で日本語を学ぶ学生が交流するプログラムで、2012年からコロナで中止する2019年まで毎年やってきました。夏10日間ぐらい平壌を訪問して、現地で大学生同士が交流するというプログラムです。
私もその事務局のメンバーとして2018年と19年と2年間参加をしました。朝鮮民主主義人民共和国は、日本では大変な国であり敵視の対象であり、非常に孤立していて「トンデモ国家」だというふうに言われています。でも国際的には、日本で言われていることは必ずしも正しいわけではありません。例えば朝鮮民主主義人民共和国と外交関係を持っているのが何カ国ぐらいあるか。実際は160カ国ぐらい外交関係を持っています。この160という国は、ちょうどイスラエルが外交関係を持っている国と同じくらいです。北朝鮮が孤立していると言うのであれば、同じようにイスラエルも国際社会から孤立している国だ、ということになります。そういうことがマスコミの報道だけだとわからないような状況があります。
私が2019年に行ったときは、たくさんの観光客がヨーロッパからも来ていました。この後コロナがあって、北朝鮮は対外開放的な政策を今はちょっと変えています。今、韓国と北の関係って非常に悪くなっています。これは韓国の政権が尹錫悦になって韓国の側が対北の強硬政策になったというのが一つの背景です。それだけが理由ではなくて北の方が強硬になっているのは、今のグローバルサウスの動向とか、アメリカの覇権が低下をしてきて、国際社会の中では中国とかロシア、特に中国が力を持ってきている。北から見るとアメリカとの関係は、以前に比べれば重要ではなくなってきている。北として見たら、中国とロシアとグローバルサウスと良好な環境を作るほうが体制を守れるという判断を、一定程度舵を切った。独自路線で、ロシアとの関係を強化しながらやっていっているという路線変更はあります。
いずれにしても、北というのは日本の人々がイメージしているものと結構違います。学生が交流に行くと皆さんびっくりする。平壌の市内の様子を見ると、市民の皆さんが笑顔を見せながらあちこちでレクリエーションしている。学生がその辺の道端で買い物をして買い食いをしているとか、そういう光景があります。その中で日本の学生と交流するわけです。北朝鮮の学生ってどんな人なのか、会ってみるまではとっても怖かったと日本の学生は言うけれども、会ってみたら普通の学生でしたということです。お互いに恋愛話とかいろいろとしながら交流をして、スポーツ交流をしたり、一緒に地下鉄に乗ったりします。意見交換会、討論会はもちろん、交流の中で車座になって話もします。そこでは日本の植民地時代の賠償問題とかを、平壌の学生が持ち出します。日本の学生は拉致問題とか、ミサイルの発射についてとか、在日米軍基地も含めて政治的なこともやり取りがされるという非常に貴重な機会です。
日本の学生は、なぜ北はこんなミサイルの発射や核開発をするのか、日本の人は不安に思っているということを言います。平壌の学生は、私たちは日本とアメリカの軍事的な脅威といいますか、朝鮮のすぐ近くの海にまで軍艦が来ているとかミサイルを配備したとかということに脅威を持っていて、だから対抗として国を守らなきゃいけないということを言うわけです。平壌の学生が日本の学生に、どうして日本にアメリカの基地があるんですかと聞くわけです。そうすると日本の学生はみんな答えに困ってモニョモニョとかとなります。そうすると平壌の学生は、在日米軍基地がなければ日本にミサイルを撃つことなんかありませんと言うわけです。それはそうだと思うんですね。日本にアメリカの基地がある。そのことによって、中国とか北に向けて軍事的な挑発をしていることが非常に東アジアの緊張を高めているし、それは相手にとって脅威になっているということは、少なくとも日本の学生がそこで初めて認識をします。自分たちの国が相手に脅威を与えていることは、思っても見ないことに気づくというのがこの交流の一つの役割で、もちろん朝鮮の政策が正しいわけではないけれども、少なくとも相手にとってどう見えているかということに気がつくわけです。
意見交換を終えた後に感想として、平壌の大学生の方も日本人というのは非常に好戦的な人だと思っていたらしくて、日本人から平和を望む声を聞いて感動したとか、将来は東アジアでもパスポートなしで行き来できるような関係になりたいとかという発言が出てくるわけです。日本の学生はそれを聞いて驚いています。ですから不信感を払拭するという意味ではこういった市民交流は非常に重要です。君島先生はご自身で、中国との大学とは交流を非常にやってらっしゃる方で、そういったチャンネルを特に東アジアでは増やさなければいけないのかなと思います。
NGOが、現地で起きていること、世界の各地で起きていることを目撃者としても発信をしていくことは大切です。そのときに何を伝えていくのかということでは、現地で起きている惨劇だけではないと思います。そういった戦争とか紛争の場で、私たち日本に住んでいるものから言えば自分たちが加害者であることを伝えることが重要かと思います。敵を悪魔化することによって知らない間に共犯関係に巻き込まれてしまって、軍事強化に賛成してしまうということに対して、自分たちがアジアの国に対して過去においての加害者ということもあります。現在においても同じようなことをまたやろうとしているということです。
ガザのことで言えばイスラエルと日本が軍事協力関係を結んで、イスラエルの軍事企業を支えてもいる。世界各地の紛争を見ていくと決して私たちに関係がないことではなくて、日本がいろんな形で、あるいは日本企業が関与している。今のスーダンの紛争なんかでは武装勢力に非常に軍事援助をしています。アラブ諸国連邦と日本は、軍事交流進めようとしているので、一種の加害責任があるわけです。NGOはそういったことをちゃんと発信していくことを、もっともっとしなければいけないのではないかと思います。遠くで起きていることが、悲惨でかわいそうな人たちがいるから何とかしましょうという。そういうだけではなくて、自分たちが当事者であるということを皆さんが想像する上でのお手伝いができなければいけないと感じています。
京都市在住 小出真理子
私は、現在京都市に在住、普段は大阪で労働組合の役員として活動しています。そんな私に菱山南帆子さんから、「大分でフィールドワークと平和集会あるよ!行こう!」と連絡があったのは、確か9月の下旬頃。今年の2月にも大分でのフィールドワークがあるよと声をかけてもらっていたのですが、その時は日程的にどうしても参加できず、今回は絶対に何が何でも参加しようと思っていました。とにかく、スマートフォンのカレンダーに12月1日は「大分集会」とだけ入力し、他の予定が入らないようにして、いつでも動けるようにしていたのです。
どうしても大分に行きたかったのは、九州で活動している労働組合の仲間から自衛隊基地に弾薬庫が次々と配備されていく現状に対する悲痛な声を聞いていたからです。その悲痛な声が「戦争に備える」発想に変わっていく前に、何とか阻止する声や阻止する運動に繋げたいと思い、そのためにも自分の目で現状を見て、現地の方の声を聞きたい、大分に行きたいと思っていました。総選挙で菱山さんが非常に多忙な時期もありましたが、なんとかお互い飛行機の手配等も終え、当日を迎えることが出来ました。
フィールドワークと集会は、12月1日(日)に開催されましたが、私たちは前日である11月30日の夕方に大分行きの飛行機に乗り込み、夜には大分に到着。そこで菱山さんと合流しました。せっかく大分に来たのだからとおいしいごはんとお酒をほんの少し。宿泊したホテルには天然温泉もあり、少しだけ日頃の疲れも取れました。
12月1日(日)は、9時前に大分駅に集合し、敷戸弾薬庫に向かいましたが、想定よりも多くの方が参加したのか、マイクロバス1台で行動するのかと思いきや、私たちはタクシーを利用することになりました。タクシーは他にも2~3台準備されていたので、本当に多くの方が全国から集まっていたのだと思います。同じタクシーに乗車した方は、大阪から来られていたようです。年齢層もバラバラで、若い方は、20代くらいの方も参加していたように感じます。普段、大阪や京都で参加する集会等ではあまり若い方を見かけることがないため、フィールドワークにこんなに若い方が参加しているのが意外でしたが、それだけ注目されているのかとも思いました。
タクシーに乗車する前に、資料をもとに簡単な行程の説明を受け、自衛隊大分分屯地をめざしましたが、菱山さんは二度目のフィールドワークと言うこともあり、前回の訪問を踏まえてタクシー車内で案内してくれます。いかに住宅地に近いか、住宅地のみならず、保育所や小学校、病院まで隣接していることも教えてくれましたが、実際に分屯地を見渡せる市営住宅に到着し、資料に掲載されている写真や地図等と目の前の分屯地を見比べながら、あまりの近さに言葉を失いました。時間の関係もあり、今回は保育所のそばには行けませんでしたが、分屯地の北門の近くまでは行くことができ、すぐそばには立派な病院がありました。また、タクシーを下車して、分屯地周辺の国道を歩きましたが、「火気厳禁」の看板や消火用水と書かれたドラム缶、そして、消火用の水が入っているであろうタンク等がありました。これは、パフォーマンスなのか、冗談なのか、どういう意図なのか教えてほしいと思いながら、写真を撮りました。この消火用のドラム缶はどうやって使うのでしょうか。焚火くらいは消せるのでしょうか。いや、あそこで焚火をして森林に延焼したらすごいことになるのではないかとひとり考えていました。しかし、「焚火をする」どころか、大分分屯地には弾薬庫があるのです。なお、資料によると保育所から弾薬庫までは、250メートルあまりだそうです。
地元自治会の方が弾薬庫建設の状況を説明してくれましたが、反対運動の難しさや苦悩も語られ、その点については、沖縄から参加されていた具志堅隆松さん(ガマフヤー)さんが言葉を繋いでいました。自衛隊は地域に溶け込み、基地建設に反対しづらい状況が作れていること。特に沖縄では、離島を中心に、人口に占める自衛隊関係者の増加についても語られました。自衛隊基地関係者が増加することは、自治体選挙の結果にも影響するものです。また、今の日本社会では多くの企業が人員不足で、どうやって人員を確保しようかと頭を悩ませていると思いますが、それは自衛隊も同じだと思います。しかし、特に地方で、安定した(安定しているように見える)企業が限定される中、自衛隊は「公務員」であり、就職先のひとつになっている現状もうかがえます。実際、沖縄に住む仲間と話した際に、家族・親戚・友人を見渡せば、自衛隊員はどこかにいると思うと言っていました。
わたしが通っていた高校の隣には陸上自衛隊駐屯地があり、官舎もあったことから、同級生には親が自衛隊関係者と言う人が複数人いました。親が自衛隊関係者だから友人関係がどうこうはないのですが、高校生ながら複雑な思いになったことは記憶しています。しかし、私が高校生の頃の自衛隊と今の自衛隊は、大きく変節しています。大分のみなさんや、具志堅さんも語られていましたが、今の自衛隊は「専守防衛」を捨て、攻撃される対象になっているということです。その自衛隊基地が市民の居住地のすぐそばにあり、さらに弾薬庫まであるということがどれだけ恐ろしいことか。しかしながら、住民の中には、自衛隊は「国を守る」組織であり、自衛隊がいることで安心できると思っている人もいると聞きました。また、自宅のすぐそばに弾薬庫があるということを知らない人もいるのかもしれません。一方で、住民の中には不安を感じ、抗議の声も上がっていますし、だからこそ今回のようなフィールドワークが実施できるのだと思います。
私は、現在、陸上自衛隊駐屯地のすぐそばに住んでおり、たまに自衛隊車両が道路を走行することも見ますが、とりあえず睨んでおくことくらいしか今は出来ていません。自衛隊はわたしにとっては、何の安心感ももたらしておらず、自衛隊員個人を「睨んでいる」わけではなく、国際的には軍事組織(軍隊)としか見なされない自衛隊を睨んでいるだけですが、市民を分断することのない、運動の難しさを感じます。
さて、敷戸弾薬庫から大分駅までは車で30分程度でしたが、昼前には大分駅に戻り、午後からの集会に備え休憩を。集会は、「ミサイルも弾薬庫もいらない!平和をめざすつどいin大分2024」と題して、市民団体、労働組合関係者、立憲野党のみなさんを始めとする様々な方が集まっていました。もちろん、大分の方が一番多かったと思いますが、前日に開催された交流集会にも参加された方々を始め、西日本を中心に全国から多くの市民が参加していました。また、集会では、交流集会に参加され、フィールドワークでも話された沖縄の具志堅さんの報告や、「湯布院駐屯地敵基地攻撃ミサイル問題を考えるネットワーク」の方の報告もありましたが、「湯布院は基地の街」と言われていたことが驚きでもあり、自身の無知を恥じることにもなりました。「大分と言えば温泉」「湯布院は温泉の街」と思っていたのです。その湯布院では、今後、敵基地攻撃能力を保有する長射程ミサイルが導入される予定と知りました。
次に、集会ではパレスチナと日本にルーツを持つラッパーのDANNY?JINさんも登場し、平和への願いを込めた曲を披露しましたが、その中でイスラエルのジェノサイドに加担する企業のボイコットをテーマにした曲もあり、わたしのボイコット企業リストにも追加することが出来ました。
さいごに、今回のフィールドワークと集会に参加して、これらは決して、一部の地域の問題ではなく、日本全体の問題だということを京都でも大阪でも伝えなければならないと感じました。特に、私が住んでいる京都においては、精華町にある陸上自衛隊祝園(ほうその)分屯地で弾薬庫の建設が予定されています。祝園分屯地は、大阪・京都・奈良にまたがる関西文化学術研究都市にあり、まわりには住宅地がひろがり大学や研究所、企業も集中する地域です。まわりに住宅地がなければ良いということではありませんし、日本全国どんな場所であっても偶発的にでも自衛隊基地が攻撃されるということになれば、甚大な被害が発生することは想像できます。
日頃、京都で生活し、大阪を中心に活動していると、沖縄や九州のみなさんと比較して危機感や不安感を持ちにくいのかもしれません。ただし、不安を感じ危機感を持った時に、万が一のことが発生した時のことを考えて、「戦争に備えよう」という発想ではなく、万が一を発生させないために、「知ること」「仲間と繋がること」そしてそのことが、止める力になると感じた大分での1日でした。あの時、なぜ声を上げなかったのか、なぜ抗わなかったのかと後悔しないよう、引き続き、全国の仲間と連帯した行動を継続しようと思います。 以 上
菱山南帆子(事務局長)
告示日の第一声。立憲民主党の野田代表が立憲民主党の第一声の場所と選んだのが八王子だった。市役所で届け出を済ませ、選挙に必要なグッズを受け取り、演説場所まで直行する。この時間に通常であれば、公営掲示板にポスターを一斉に貼るのだが立憲民主党の第一声に合わせて街頭に行かなくてはならない。
そこで大活躍してくださったのが、共産党と労働組合、市民の皆さんだ。ほとんどの公営掲示板のポスター貼りを共産党さんがやってくれたと言っても過言ではない。立憲公認の候補者のポスターを他党の皆さんが一生懸命貼ってくれる。これだけでも初日から市民と野党の共同の闘いの積み重ねにジーンとした。
八王子は年はじめに市民と超党派の共同で市長選を闘い抜き、その枠組がほぼスライドされる形で都知事選挙も同様に頑張った。そして約2か月後に衆議院選挙だ。年が明けてたったの10か月の間に選挙を3回も連続して行ったため、準備運動は万全だった。ポスター貼りの役割分担やポスティングの区割りなどはしっかりと市民と野党の共闘さえできていれば完璧にこなせた。だからこそ八王子の運動に参加もしない、足を踏み入れたこともない人たちが八王子の運動をとやかく言ったり、勝手な物差しを押し付けてくることが許せなかったし、完全にそういった動きや言動は拒否した。
全国注目選挙区となると見たことも聞いたこともないような選挙ゴロツキが現れるものだなと思った。
準備不足と寝不足の中で1日おきに市民選対会議を行った。市民と野党の共闘をぶち壊すような圧力に押しつぶされそうな時も正直あった。でも市民選対のなかで長年一緒に運動をやってきた仲間たちが「菱山さんが呼びかけているから選挙やっているんだよ。」と口々に言って外圧から私を守ってくれた会議の日は忘れられないほど感動した。支持政党が違っても長年一緒に暑い日も寒い日も一緒に活動をしてきた仲間たちの信頼関係は揺るがない。最後の最後は人と人との繋がりなのだということを改めて確信した瞬間だった。吹っ切れた私が書いた文章は選挙期間中に発行された「私と憲法」の巻頭言によく表れている。闘いの中ででしか、現場の中ででしか生まれてこない言葉だ。
選挙期間、日を重ねるたびに有田さんの応援の輪が広がっていくことを実感した。後半になればなるほど、選挙カーを走らせるとあちらこちらから手を振られ、応援の声をかけられる。飲食店からも人が出てきて手を振ってくれる。住宅街に入れば、車が前に進まないほど家の中から住民が飛び出してきて有田さんを取り囲む。事実、朝、選挙カーを走らせると着替え途中のパンツ一丁の状態やステテコ一丁のオジサンが大慌てて胸元を隠しながら、玄関から手を振りながら飛び出してくるのだ。玄関から飛び出す下着姿のオジサンを住宅の角を曲がるたび、連続して目撃してしまった時には、この町はパンツ一丁で外に出てくる習わしがあるのだろうかと思うほどであった。「有田」と聞けば家を飛び出し「萩生田をなんとかしてくれー!」と言いたくなるほどまでに八王子市民の怒りは燃え盛った。
有田さんの選挙には実に様々な方が応援に来てくれた。応援と言っても形は様々だ。池田香代子さんや中沢けいさんは最終日まで表には出ず、事務所に通い詰めて証紙貼りや細々とした作業をしてくれた。市民連絡会のメンバーも連日遠い八王子まで通って、事務所で電話かけをしてくれた。平和フォーラムの仲間たちは毎日誰かが、現場に同行して縁の下の力持ちとして力を発揮してくれた。まさに「総がかり」の運動が東京24区選挙区を支えてくれていた。
前川喜平さんは連日「菱山さんに呼ばれて・・・」と言いながら八王子に足しげく通ってくれた。前川喜平さんが来たからと言って人を集めるわけではない。前川喜平さんを選挙カーに乗せて街を回るのだ。住宅地で「元文部科学省事務次官の前川です」と、突如閑静な住宅街に流れる候補者カーからのアナウンスに驚いて窓を開ける人が続出した。時には前川さんを教育センター前にお連れして教育界の皆さんに向けて訴えてもらったり、萩生田氏の自宅周辺を車内から有田さんとの掛け合いで演説してもらいながら踏み荒らしてもみたりもした。周りからは「前川喜平の無駄遣いだ」と言われるほどだった。
地元の連合傘下の労働組合も、有田さんの推薦を出してくれたところは全力で応援してくれた。私鉄労組に関しては選挙カーの運転はすべてお願いしたうえに集会の動員に手書きの公選はがきなど、感謝してもしきれないほど選挙戦を伴走してくれた。超々短期決戦を、市民運動と労働組合と政党が全力を出し切った。
このように八王子市民や地元の労働組合、縁の下の力持ちの市民運動家たちが集まって支えてくれたため、有田さんと私たちは安心して選挙カーで地域を丁寧に周り、1度の大きな集会ではなく細かく路上や公園での演説会を繰り返すことによって、選挙前に行えなかったどぶ板を選挙期間中に同時並行で行うことができた。
一度住宅地に入り込むと、駅などにはなかなか向かえない。八王子は広いので、駅まで戻るにも相当な時間を要する。選挙後半は時間節約のため立憲の国会議員の応援弁士も断り、八王子を細かく回り市民の声を聞くことに集中する方針を取った。駅頭集会に集まる人たちはほとんど有田さんの支持者だ。その支持者には集会ではなく支持拡大のために動いてもらい、候補者は高齢化の進む八王子において、お家の中にいる市民に直接声を届けるスタイルを確立していった。
候補者カーが山奥の方に向かう日は丸一日駅周辺がガラ空きになってしまうので、市民たちが手作りのプラカードなどを持って「裏金議員いらない」、終日八王子各駅で1人スタンディングをした。「塊と分散」を繰り返しながら選挙を闘った。
全ては走りながら考え、走りながら決めていった。有田さんの演説を聞きながらどういったキャッチフレーズが響くのか考える。選挙カーのアナウンスをしながら、反応の良い言葉はメモをして選挙後半に向けての戦略とイメージを有田さんと共有する。もっと時間があったら広まったであろうフレーズの1つが「オジサンは頑張るぞ」と「信じられる未来」だった。
「信じられる未来」は、アメリカのバーニー・サンダースの言葉をそのまま和訳したものだ。今の日本にぴったりあてはある言葉ではないだろうか。信じられる未来がないから足元や目の前のことしか見えず、フェイクやデマなどにも騙されやすくなってしまうのではないかと私は考えている。だからこそ信じられる未来の提示と、信じられる大人が必要だと思ったのだ。
そのような思考の中でピタッと来た有田さんの演説があった。有田さんが尊敬する俳優の小沢昭一さんの言葉を借りて「オジサンは頑張るぞー」と話す場面があり、横で聞いていた私は瞬時に「これだ!」と思った。若い人たちに限らず、「若者がんばれ」「あなたが主役」こういった言葉が重荷に感じる市民が多い中、「誰かに託したい」「誰かに変えてもらいたい」というような流れに今までファシスト系政党や人物が受け皿になってきた。今回、有田さんがそのような政治への絶望層にどうアプローチするのかという課題に、「オジサンは頑張るぞ」のセリフはストンと落ちるものがあった。八王子選挙区の候補者の中では一番年上な有田さん。そこをクリアするためにも「頼れるオジサン」「悪い奴をやっつけるために頑張っている良いオジサン」、というようなイメージを広めることはとても効果的だった。
さらに「オジサンは頑張るぞ」にプラスして「大人の責任」という言葉も付け加えることにした。自分たちのせいでこんな世の中になったわけじゃない。生まれた時から先の見えない不景気で安倍一強政治しか知らない若者に、「未来を変えろ」というのはあまりにも理不尽だ。大人たちがよく言う「こんな世の中になるとは思わなかった」というセリフから広げ、「こんな世のなかにしたのは自分たちだ。大人の責任だ。これからを生きる市民のためにオジサンは頑張る。ズルして得する社会は許さない」というメッセージで締めることによって、政治不信、大人不信からの脱却を狙った。その後、選挙戦が後半になるにつれて選挙カーを追いかける子どもたちが続出した。「オジサンは頑張るぞ!」から「がんばれオジサン」に代わった瞬間だった。 萩生田陣営は勝共連合や統一教会、創価学会を頼りに頼っていた。選
挙期間中、私たちに対する嫌がらせはデットヒートになるほど強まった。まずはお得意のポスターはがし事件は多発。夜中に数名の支援者の携帯に非通知で電話がかかってきて「首を洗って待ってろ」と言われたり、さらには演説中の有田さんに対して「死ね」と言い放ち、首を切るジェスチャーをする萩生田支援者や、別の日には演説中に水をぶっかけられたりすることもあった。焦りの証拠とは言えども卑劣極まりない。
あっという間の走り抜けた総選挙。結果は大変残念だった。8000票差で小選挙区での萩生田氏の勝利を許してしまったのだ。後半の萩生田陣営の追い込みはとにかく「八王子以外の有田に八王子は任せられない」の一本調子だった。裏金脱税しておいて何を言うか!という感じだが、その効果はかなりあったように感じた。ネット部隊もフル動員して有田批判を猛烈に行っていた。萩生田氏の必死さはすごいものだった。
小選挙区で勝ったにもかかわらず、選挙事務所に現れた萩生田氏の表情は暗かった。その時には有田さんの比例当選も固まっていたからだろう。その上本人も予想以上に票差が開かなかったことに、来たるべき次の総選挙を思いやられたのだと思う。実際選挙が終わり、落ち着いて票の分析をしてみると、萩生田氏が当
選しても暗い表情の理由が分かる。
今回の総選挙で、24区は区割り後初めての選挙であった。八王子の一部の地域は、お隣21区の立憲民主党の大河原雅子さんの選挙区となったのだ。新たに21区になったところは、ニュータウン地域でリベラル勢力の大票田なのだ。ここが21区に行ってしまうことは私たちにとっては苦しく、票田・ニュータウンが切り離されることによって、完全なる萩生田王国が出来てしまうと懸念されていた。予想通り、21区に移った部分の票数は、自民と立憲でダブルスコア以上引き離されていた。これが24区だったら確実にニュータウン票を得て、有田さんは大きく差をつけて小選挙区当選していたのです。悔しい。しかもこの区割りに関わったのが萩生田氏だという話もあるから、なおのこと悔しい。悔しいが、権力者は権力にしがみつくためには何でもするということなのだということも学ばされた。
選挙後初めての八王子市内での大きなイベントに、有田さんと参加した。八王子では長らく比例当選議員がいなかったため、比例当選議員である有田さんには招待状はおろか名前さえも呼んでもらえなかった。呼ばれてなくても押しかけるように会場に行ったところ、スタッフが有田さんを発見し大慌てで来賓席に通してくれた。来賓を代表して萩生田氏が挨拶をした。同じく八王子の一部が入った21区選挙区で小選挙区当選をした大河原雅子さんの挨拶時間は無く、名前の紹介だけだった。萩生田氏だけが特別に時間をもらえる。「俺の物は俺の物、お前の物は俺の物」何度も繰り返すようだがこれが萩生田王国の実態だ。
有田さんと並んで萩生田氏のスピーチを聞いた。やはり長年政治家をやっているだけあって話し方は上手い。ノー原稿で、会場を見渡しながら余裕しゃくしゃくと言った感じだ。憎たらしいやら悔しいやらも感心しながら聞いていたら、ふと萩生田氏と私の目が合った。そして私の隣にいる有田さんをちらりと見るや否や、流暢に話していた萩生田氏が噛んだのだ。そしてすぐに気を取り直すかのように反対側の客席に顔を向け、以降一切私たちが座っている側の客席を見ようとしなかった。
私は姿勢を正し、なるべく背筋を伸ばして萩生田氏の目を追った。そして「アイツ(萩生田氏)も人間なんだ!」という言葉が頭に浮かんだ。小選挙区で勝ったとはいえ、30年近く365日、八王子で選挙活動をして金も権力もすべてつぎ込んでいたのに、たった3週間で突如八王子にやってきた有田さんに肉薄されたのだ。今回は逃げきれても、比例復活した有田さんがこれからも八王子で活動すると思うと怖くて仕方ないのだろう。私たちは萩生田王国にヒビを入れたのだ。小選挙区で勝つことが出来ず、また萩生田氏を国会に戻してしまったことはとても悔しいが、物語としてはこっちの方が面白い。私たちは萩生田氏の目の上のタンコブとして徹底的に闘うのだ。萩生田氏打倒、安倍政治を完全に終わらせるために。
19世紀の自由民権運動は21世紀の自由民権運動へと繋がった。八王子物語はこれからも続く。