私と憲法279号(2024年8月25日号)


生かそう!自民党政治を終わらせる最大チャンス

8月14日突如、岸田首相が次期自民党総裁選出馬を取りやめた。つい一週間前までは、「改憲する」「憲法9条に自衛隊を書き込む」など、櫻井よしこ氏など保守派団体の顔色を伺うような発言をし、総裁選への出馬意欲を感じさせていた。しかし、自民党存続の危機を党内の誰しもが感じていたようで、岸田氏の再出馬は封じられた。

岸田首相本人も、自民党の今後の存続のため、そして何よりも自分自身が総裁選に出て落選しようものならば政治生命を失いかねないと判断し、自民党のため、そして自分のために判断したようなものである。そのような状況に追い詰めたのは、紛れもなく私たちの市民運動の力に他ならない。メディアでは「森喜朗が」「菅義偉が」などと自民党の中で力を持っている人たちの力関係によって左右されているかのような演出がなされているが、とんでもない世論誘導である。

岸田改憲を打ち砕き、岸田首相を退陣に追い込んだのは、粘り強い市民運動と、この間の市民と野党の共闘による首長や補選の勝利があったからである。都知事選挙後もしつこく行われた蓮舫氏へのバッシングと野党共闘バッシングはまさに、私たちの共同の闘いに恐れをなしている証拠だ。このような反共分断攻撃には毅然として市民と野党の共闘を進めることによって対抗していこう。

いま、自民党総裁選が連日のトップニュースになっている。自民党はこの間のカルト統一教会との癒着や裏金疑惑、政治資金問題を覆い隠すかのように、自民党総裁選劇場を盛り上げようと必死だ。各メディアも一生懸命になって報道している。これがあと1カ月も続くのかと思うとウンザリする。自民党総裁選に直接投票権を持って関われる人は自民党支持者だけだ。市民の圧倒的多数は無党派層であり、この自民党総裁選には関わりようがない。自民党総裁選をこれだけ大々的にクローズアップして報道するのであれば、都知事選や国政の時も同様の扱いにすべきではないだろうか。

このような劇場型手法によって民衆の怒りを鎮めたり、交わしたりして自民党は生き延びてきた。今回も一カ月にわたるメディアジャックによって自民党内の裏金疑惑やカルト統一協会との癒着を有耶無耶にしようとしている。私たちは、この劇場型手法を暴き、問題の本質を可視化するような運動をさらに強めていこう。

衆議院選挙は早くて年内、遅くても1年以内には必ずある。自民党政治を終わらせる最大のチャンスを逃してはならない。岸田首相は安倍元首相がやれなかったことを代わりにやり遂げた、とんでもない首相だった。2プラス2を開き、自衛隊と米軍の指揮統制の連携を強めるために在日米軍を再編し「統合軍司令部」を作るなどと発表し、よりアメリカとの軍事一体化を進めてきた。敵基地攻撃能力の保有の議論を進め、次期戦闘機の輸出、ミサイル爆買いなど、具体的な戦争する国づくりへと大きく舵を切ってきた岸田政権の歴史的責任は重大だ。まずはせめても2015年までの状況に戻していくことが市民運動に求められている。安倍政権から続く、なんでも閣議決定、強行採決など数の暴力によって長年市民は絶望と諦めを植え付けられてきてしまった。でも何か変えなくてはならないという気持ちは多くの市民の中に燻っている。その燻った気持ちが私たちのもとに行かないように、石丸氏のような権力に決してたて突かないような存在をかませ犬のようにチラつかせてくるのだろう。裏金議員や金権政治を糾弾するよりも居眠り議員を吊るしあげる方が受けてしまう空気は競争と分断が生み出したものではないだろうか。真っ当な選択と判断ができるような余裕と寛容性のある社会を土壌から作り上げていかなければならない。

8月8日、九州で大きな地震があった。南海トラフ大地震の前触れではないかと言って連日テレビの画面に南海トラフ注意のテロップを流しており、今年は地震に怯えながらのお盆となった。東京でも神奈川西部での地震を受け、緊急地震速報が流れ、電車が大幅に遅延することがあった。地震に備えて徐行運転をするなど慎重すぎるほどの対策が取られた。ここまで電車の運行には慎重になれるにも関わらず、なぜ、地震発生後の原発に関しては光のような速さで「異常なし」の報道が出るのだろうか。いつ大地震が起きるか分からない日本に原発は危険だと再認識する。自民党はこの日本で原発を新増設するということを進めている。とんでもないことだ。誰も住めなくする気なのか。儲け優先で命と暮らしは二の次、三の次の自民党政治を変えなくてはならない。能登の震災復興もせず放置しているにも関わらず、改憲議論時には震災を利用してくる改憲派の姿勢を許してはならない。

7月28日に東京・池袋で「女性の相談会」が開催された。能登震災支援に女性相談会のメンバーで行ったりと、様々なことがあり、前回の相談会から1年以上の間が空いての開催となった。

開催日、会場に訪れた人数は1日の来場者としては過去4年間の中で最高数だった。参加者は皆、この「女性相談会」を心待ちにしており、1年以上毎日のように図書館に行ってはパソコンで次回の相談会の開催日を調べていたという方もいた。託児スペースは常連の子どもたちに加え、初めて来る子どももいて、絶えず子どもの笑い声や泣き声が響き賑わった。約4年間の「女性相談会」の中で常連の子どもたちの成長を見ることもできた。なかなか親と学校の関係以外での人間関係がない中で、第3者の大人の介入は親御さんにとっても嬉しいようだった。

また、今回の女性相談会での特徴的だったことは、相談に来た方たちが自分の取り巻く状況について言語化してとらえて来ている人が以前より目立ったことだった。「被害」として認識しており、それは女性差別やDVなど構造的な差別の中から生まれていることだと自覚している人が増えていた。これは長年にわたり、私たちが行ってきたフェミニズム運動や反戦反差別の平和運動が蒔いた種が芽吹いたものだ。民主主義は時間がかかる。一人一人がこの社会の中で受ける不条理や違和感に向き合い、怒りやモヤモヤする気持ちを言葉にし、主体的に社会へと立ち向かうところまで行くには途方もなく時間がかかる。その過程の中で、確実に私たちの日々の活動や発信が構造的差別の中で苦しむ女性たちに言葉と影響を与えたということがやっと表面化してきたのだと思う。

相談会のブースには朝ドラ「虎に翼」の言葉をお借りして「はて?コーナー」を作って、さらに女性差別を受けてモヤモヤした気持ちなどを紙に書き出して貼りだすスペースも設けた。立場を越えて女性たちがシスターフッドで繋がり合う女性相談会は日本の運動に大きな影響を与えている。

このような私たちの長年の運動が次の世代に影響を与えることが最近もあった。7月に行われた東京都知事選挙期間中、爆発的に広まった「ひとり街宣」。もともと「街宣」という言葉は「街頭宣伝」の略語であり、運動界隈の中で通用する用語だ。世間一般的に「街宣」と言っても通じる人はごく一部であろう。これだけ「ひとり街宣」が市民権を得て、東京に留まらず全国各地、NYまでもに飛び火した背景には、長年の草の根運動、とりわけ2015年の安保闘争時の「1人スタンディング」など「1人でもやれる」と、主体的に運動に関わり、民主主義を鍛え上げて来た10年間があったことが大きい。

市民運動の「街宣文化」は静かに人々の生き方に影響を与えて来たことは間違いない。街中で多くの素通りにあい、心折れそうになることもあるかもしれないが、「ひとり街宣ブーム」の成功体験を忘れず、私たちはもっと自信を持ち、運動を進めていこう。各地の市民運動は1人1人が主体的に立ちあがれるような受け皿になっていこう。
(事務局長 菱山南帆子)

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2024年8・15 日韓和解と平和プラットフォーム共同声明

ロシアのウクライナ侵攻以降、世界が「民主主義国家」対「専制(独裁)国家」という対立構図で語られることが多くなっています。 しかし、ガザ虐殺に対していまだにイスラエルに制裁措置を取らない欧米の「民主主義国家」の態度は、ロシアに対する措置と比較して二重基準だと批判されています。 また、新自由主義経済のグローバリゼーションによる格差の拡大で、民主主義を掲げる国々でも移民排斥を主張する自国第一主義の極右政党の台頭が懸念されています。

日韓両国の場合、米国との軍事同盟を強化し、日本の自衛隊を米太平洋軍司令部の統制下におきながら、外交よりも米国が敵視する諸国を、東アジアにおいてもNATOをはじめそれに類する軍事同盟(クワッド、AUKUS)によって封じ込めようとする計画が推進されています。米国・NATOが敵視する諸国を封じ込めようとする東アジアでの戦略が去る7月9日から11日にワシントンで開催されたNATO首脳会議でも明らかにされました。そのように戦争拡大の危機の世界において外交的解決の努力が軽視され、ひたすら米国に従属することを国益と考える勢力と、植民地支配の負の遺産を清算し、被害者の人権を回復して「和解」を実現し、外交を通じて朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)、中国との関係改善を実現しようとする勢力とが現代世界と東アジアにおいて拮抗する状態となっています。 この分断は日韓両国の間に存在するのではなく、日韓両国内の二つの勢力の間に生み出されているのが真相です。

日韓和解と平和プラットフォームは、日韓両国が人権を尊重し、平和な北東アジアを作るために、志を同じくする市民、宗教人たちが世界の反差別、脱植民地主義、脱軍事化を追求する国際的な運動に呼応して活動を続けています。
日本の敗戦、朝鮮半島解放79年を迎える今年8月15日、私たちは次のように訴えます。

韓国戦争を終わらせ、平和協定を締結しよう。 日朝国交正常化を実現しよう

2018年、南北首脳会談、米朝首脳会談が開かれ、朝鮮半島の平和体制と非核化に向けて前進しようとしたが、交渉は不信の中で決裂しました。 その後、朝鮮は急速に「核武力の高度化」を進めています。 また、「拡大抑止の実質化」という名目で核兵器に依存する韓米日軍事協力を通じて、米国は「インド・太平洋」地域で軍事的覇権を強化し、韓国は朝鮮に対する「戦争不可避」の武力示威を強化しています。 韓国は当初禁止していた拡声器を利用した宣伝放送を再開し、朝鮮は汚物風船を韓国に送っている。 汚物風船は誤爆の危険も抱えています。 ユン・ソンニョル大統領は国防会議で自国の核兵器開発に言及しました。 岸田首相も日米共同声明発表後、「日本は米国と共にする」と述べ、専守防衛を中心とする憲法解釈改憲を推進しています。 外交による対話がない状況では、軍事力増強と同盟国の存在も偶発的衝突を防ぐことはできません。 偶発的衝突は戦争に発展します。 米国は中国と朝鮮を軍事的に封鎖するための抑止力として、韓国と日本列島、琉球列島の軍事的要塞化を推進しようとしています。 これは米国本土を守る抑止力になるかもしれないが、北東アジアに住む私たちにとっては、自国が戦場になるリスクを高めるだけです。 朝鮮半島の非核化は、まず朝鮮に脅威となる要素を取り除き、朝鮮体制の保障なしには実現できません。 日本にとって日朝国交正常化はまず過去清算の一環であり、これは朝鮮にとって脅威を取り除くことであり、朝鮮半島の非核化と朝鮮戦争の終結、停戦協定の締結にも間接的に影響を与えることになります。 日韓両国の核兵器禁止条約への加入も、韓半島非核化のためのステップとなるでしょう。 韓国政府及び関係国政府は、朝鮮戦争の終結と平和定着を求める市民の声に応え、71年間続いた戦争を終わらせ、平和協定を締結しなければなりません。

日本の平和憲法は、侵略戦争で多くのアジアの人々が犠牲になったことを反省し、二度と戦争を起こさないと宣言した約束です。 私たちは、日本政府が平和憲法を捨て、戦争ができる国になるための試みを止めないことに深刻な懸念を抱いています。 私たちは、日本政府が平和憲法を守り、平和憲法の精神を正しく実現することを要求します。

歴史修正主義・歴史否定主義を許さない

現在、日本で横行する歴史修正主義・歴史否定主義は看過できない状況です。
群馬県は、高崎市県立公園「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑「記憶と反省、そして友好」追悼碑を粉々に破壊し、撤去しました。 この追悼碑は、アジア太平洋戦争当時、日本政府の労務動員政策によって強制連行され、強制労働で犠牲になった朝鮮人を追悼するため、市民団体が群馬県の許可を得て設置したものです。 群馬県は、記念碑の前で行われる追悼集会が政治的であるとして設置許可の延長を不許可とし、司法もこれを追認して撤去に至りました。 その背景には、毎年東京都墨田区横網町公園で行われる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式を妨害する団体「そよ風」が、群馬県議会に追悼碑の設置許可取り消しを求める請願を提出し、賛成多数で採択されたことがあります。 東京都知事選挙では、毎年朝鮮人犠牲者追悼式に追悼の辞を送らない小池百合子都知事が再選されました。 ドイツ・ベルリン・ミッテ区にある「平和の少女像」が日本政府の圧力で撤去される危機に瀕しています。 日本の文部科学省は、2025年から使用される中学校の教科書検定で、令和書籍の教科書を合格させました。 この教科書は「国史教科書」と名付けられ、皇国史観に基づいた歴史教科書です。 文部科学省が検定で合格させたということは、令和書籍の歴史観が日本政府が認めた歴史観になったことを意味するものであり、看過できません。 育鵬社、自由社に加え、歴史修正主義・歴史否定主義の教科書が3種類になったのです。 また、私たちは、オンライン上で歴史を歪曲し、差別と偏見を助長する誤った情報があふれている現実に深刻な懸念を表明し、オンラインをはじめとするメディアに対する批判的な監視のために共に努力していくことを明らかにします。

世界遺産について、7月末にインドのニューデリーでユネスコ(UNESCO、国連教育科学文化機関)世界遺産委員会の審議が行われました。ユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)は、「佐渡鉱山」を世界遺産として審査するため、新潟県に3つの追加情報の提供を要請しました。 さらに、配慮すべき事項として「歴史全体を現場レベルで包括的に扱う説明・展示戦略」も求めました。2015年に長崎県の端島(軍艦島)が世界遺産に登録された際、世界遺産委員会は日本政府に歴史全体を理解できるようにすることを要求しました。 日本政府は東京・新宿に「産業遺産情報センター」を設置したが、強制労働についての説明は一切ありませんでした。 佐渡鉱山では同じ過ちを繰り返さず、強制労働についてもきちんと展示することを求めます。

戦後補償-日本社会で「韓国併合は違法」という認識を定着させることがカギ

強制動員被害者の請求権を認めた韓国最高裁の判決、日本政府に日本軍「慰安婦」被害者に対する賠償を命じたソウル高等法院の判決は、日本の植民地支配の責任を明らかにせず、個人補償問題を先送りし、日韓基本条約及び日韓請求権協定の終焉を告げる始まりを意味します。 韓国市民がこのような司法判決を勝ち取ったのは、韓国民主化の成果であり、植民地支配被害者の支援と真相究明のために努力してきた日本市民運動の成果です。 これが、被害者を無視して日韓両国政府が政治的妥協を試みる日韓友好ではなく、人権に基づいた友好を追求する「日韓和解と平和のプラットフォーム」が志向してきた市民協力の姿と考えます。 また、日本政府に日本軍「慰安婦」被害者への賠償を命じたソウル高等裁判所の判決は、重大な人権侵害に対しては国家は他国の司法に服従しないという主権免除の論理を排除しました。 これは最近の国際法の流れに合致する先進的な判決だった。 私たちは、人権と人間の尊厳を尊重する社会を作るために闘ってきた人々の成果を結実させ、私たちも少しずつでも社会変革に貢献していきます。

 全世界に大きな影響を与えたBlack Lives Matterは、単に黒人差別を告発する運動ではありません。 差別の背景である奴隷制と植民地支配に対する歴史認識も問題視しました。 世界各国で、かつて英雄視された人物の銅像が、奴隷制や植民地支配に加担したという理由で撤去される映像や写真を見た人も多いでしょう。2001年の南アフリカのダーバン会議(反人種主義および差別撤廃世界会議)宣言(ダーバン宣言)では、人種差別を重大な人権侵害とし、奴隷制を人道に対する罪と規定しました。 政府間会議宣言では、植民地主義をインドに対する罪として規定することはできなかったが、NGO会議宣言には「植民地主義によって苦痛を与え、植民地主義があったところはどこでもいつでも非難されるべきであり、その再発を防がなければならない」という内容が盛り込まれました。 ヨーロッパ諸国でも、過去の植民地で犯した人権侵害と虐殺について事実を認め、謝罪する国が増えています。今、ガザ地区ではこの流れに明らかに反するイスラエルによるジェノサイドが行われている。 今すぐイスラエルはパレスチナ人に対する虐殺をやめ、戦争を止めるべきです。

日本では昨年6月から、外国人が3回以上難民申請をすると強制送還の対象になるなどの内容を盛り込んだ改悪出入国管理法が施行されました。 さらに今年の入管難民法の改定においては外国人の永住資格の取り消し要件も拡大され、永住者が税金や社会保険料を滞納した場合などにも永住資格が抹消される改悪化が6月14日に成立してしまいました。 この改悪化に対して、国連人種差別撤廃委員会は「永住者の人権への影響を懸念する」という書簡(6月25日付)で日本政府を批判しました。私たちは、植民地主義克服という世界的な流れに明らかに逆行する日本政府の反人権的な出入国難民政策を強く非難し、これを直ちに撤回することを要求します。

植民地主義は非難されるべきであり、再発を防止しなければならないということは、国際社会で徐々に共通の理念として定着しつつあります。私たちはこのような世界の流れに加わり、日韓両国政府を動かしていきます。日韓和解と平和のプラットフォームは、日韓市民の声を盛り込み、植民地主義を克服し、東アジアに平和を開いていく努力を止めません。

2025年、解放・敗戦80年、日韓国交正常化60年を迎える

来年は日本の敗戦、朝鮮半島解放80年、そして日韓国交正常化60年になる年です。 米国の圧力で歴史認識問題、戦後補償など人権問題を後回しにして政治的妥協を試みる日韓両国政府の合意は60年前にさかのぼります。 大韓民国を朝鮮半島の唯一の合法的な政府と規定したことは、韓国国籍でも日本国籍でもなく、国籍とも見なされない「朝鮮籍」在日朝鮮人の権利保障に今日までも影響を与えています。日朝国交正常化もまだ実現していません。 米国の防衛戦略に基づき、中国と朝鮮を仮想敵国とする「新冷戦」と歴史認識問題、戦後補償問題を先送りした「65年体制」を終わらせるための努力を今から推進しなければなりません。

 私たちは、世界各地で絶え間なく続く戦争が軍拡競争を煽っている悲しい現実の前に、どんなに強い軍事力も決して平和をつくり出せないという歴史の教訓を思い起こします。 私たちは、歴史の真実を直視し、過去の過ちを克服する努力が東アジアの平和を守るという事実を改めて確認しながら、東アジアの市民とともに歴史の正義と平和のために絶え間なく努力していくことを表明します。

2024年8月13日
日韓和解と平和プラットフォーム
日本運営委員会
【共同代表】
小野 文珖(宗教者九条の和)
髙田 健(戦争させない・9条壊すな!総がかり行動)
野平 晋作(ピースボート)
光延 一郎(日本カトリック正義と平和協議会)

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今年の8.6ヒロシマ 入場規制と過剰警備の異様
8.6新聞意見広告の掲載の小さな成功に感謝

第九条の会ヒロシマ:藤井純子

異様な8.6ヒロシマの朝

8月6日早朝、広島の原爆ドーム周辺は、昨年のG7に次ぐほどの警察車両が並び、異様な風景でした。私たち市民による「グラウンドゼロのつどい」は、今年は例年のように原爆ドーム前で行うことはできず、平和公園外の電車通りを挟んだ北側で行うことになりました。「つどい」の前には多くの警官が立ちはだかり、40年続けてきた8時15分のダイ・インも、反原発デモの出発も、原爆ドーム前ではできませんでした。

広島市はなぜこのような入場規制をしたのか?

それは、昨年の8.6原爆ドーム前で大音響集団のメンバーが右翼がらみで市職員との衝突があったことを口実に、広島市は平和式典に際する入場規制を強めることにしたのです。

第九条の会ヒロシマは1992年から毎年8.6の朝原爆ドーム前で、8.6朝刊に掲載した新聞意見広告カラー版を配布していました。その頃、喜んで受け取ってくれる人も多く、8.6早朝の原爆ドーム前は、原爆の日に様々な思いをもって集まってくる人を優しく包む温かく開放的な場所でした。

ところが3.11福島原発事故があった2011年から「8.6ヒロシマ大行動実行委員会」(中核派)が原爆ドーム前で大音響で抗議一色の集会を始めると、騒然とした風景に変わってしまいました。それに対し、保守系の議員や市民から、平和公園は祈る場所なので静かにしてほしいという声が出て、広島市は拡声器条例を作るなど、何とか規制をしたいと考えていたようです、そこへ昨年の「衝突事件が起こり、広島市はそれを利用して入場規制に踏み切ったのでしょう。

広島市の平和公園入場規制は、これまで式典会場だけでしたが、今年は、原爆の子の像や原爆ドームがある北側も含め、平和公園全体へと広げました。広島市の市民活動推進課も、「この規制には何の法的根拠もない」ということを認めながら「安全対策」だとして、6か所もの手荷物検査場を設置し、警察官も配置して、プラカードや横断幕、スピーカーの持ち込み、はちまきやゼッケン着用さえも禁じました。ですから公園内に入るには、検査に応じた上、黄色のリストバンドをつけなければなりません。しかし聞くところによると、上記集団は前日5日夜10時から集会を開き、6日の朝5時から「退去命令」が出てもダイ・インまで居座り続けたようです。今年は様子見のためか、ごぼう抜きなど実力排除はなかったようですが、過料5万円命令が出されました。広島市は、これらを口実に被爆80年の来年に向け、新たな規制強化策を練ることは間違いありません。

この規制について、田村広島大名誉教授(行政学)も言うように、一般市民にとって「言論の自由や集会の自由の制限に当たり、憲法違反である」ことは明らかです。この過剰警備により今年は式典での被爆者席は空席が目立ちました。しかも8.6平和式典にパレスティナを招待せず、ガザへのジェノサイドを続けるイスラエルを招待したのです。平和公園から「軍拡反対・核廃絶を願い行動する人々」を締め出し「表現の自由」を奪い、「核抑止論に頼る人・国々」を招き入れたかのような松井広島市政に怒!

この入場規制が発表された5月以降、「8・6ヒロシマ平和へのつどい」も広島市に申し入れを行い、JCJ日本ジャーナリスト会議や原水禁、様々な市民・団体も規制をやめるよう要請を続けてきましたが、広島市は強硬姿勢を変えませんでした。そのため「松井一實広島市政による原爆ドーム周辺での入場規制・『表現の自由』?圧殺に反対する緊急共同声明」を発して署名を呼びかけたところ、わずか数日で1万5千人を超える人から賛同を得ることができ、8月1日に広島市に届けることができました。この市民連絡会からも多くのご賛同をいただき感謝しています。

広島市政の変質については納得がいかないことが続いています。「はだしのゲン」や「第五福竜丸」の記述を平和ノートから削除し、平和記念公園と米軍施設の1部でもあるパールハーバー国立記念公園との姉妹協定を結びました。市の幹部が米国の原爆投下の責任議論を「棚上げする」と答弁したり、核の拡大抑止へ突き進む米国にすり寄る政府自民党、それに追従する広島市、「G7」に広島が利用されたことはその象徴ではなかったでしょうか。また、国の政策や米国の意向に反対する市民活動の排除を狙っていたことも確かで、最近、原爆資料館の会議室使用も、原爆、またはその継承がテーマでないと許可しないなど、様々なところでその姿勢が顕著になっていました。

これらは戦後日本の根の深いところに通じる問題であり、私たちは非常に困難な問題に直面していますが諦めるわけにはいきません。まずは9月にJCJ広島が中心となって規制問題を検証する「被爆地で何が起きているのか」集会が予定され、今後を考えることになるでしょう。

「戦争の準備をするな!」今年も!8.6新聞意見広告を掲載しました。
8月6日、朝日新聞全国版と中国新聞全エリアに掲載すると、嬉しいことに8.6新聞意見広告を見て「思いは同じだ」「頑張ろう」というメールやFAX,カンパを送ってくださった方もありました。

意見広告のイラストに示した中島町には、人々の暮らしがありました。川に挟まれた街にその数字が並んでいます。タバコ屋さん、八百屋さん、お医者さん、役所や映画館、お寺や神社もありました。その街を原爆は一瞬にして破壊し、あらゆる命をのみ込み、焼き尽くしました。まさにジェノサイドというべきではないしょうか。しかし米国をはじめ核大国は、放射能の恐怖と核抑止という危険性を、現在も拡大し続けています。

また広島は、かつて陸軍の兵士が集結して出撃するという「軍都」として発展した街でした。岸田政権は退陣するようですが、加害の歴史を反省するどころか安倍政権を引き継ぎ、大軍拡・大増税、核の拡大抑止を進め、近隣諸国との緊張をますます高めています。

非戦・非核・非ジェノサイドを願い、そんな日本政府の大軍拡を憂えている人は多いはずです。「戦争をしない国」のままであってほしい、そのために自分に何ができるか探している人も多いはずです。全国の皆さんのように方法は様々ですが、私たちは、新聞意見広告も「意見表明」の一つの方法であり、それを見て考え、賛同してもらいたい、できれば名前を出して参加してほしいと願って毎年掲載をしているのです。

戦争を始めたのはだれか、何のために? 自国に侵略戦争の反省・謝罪を求めることはもちろん、米国にも原爆投下の謝罪を求め、戦争・核兵器使用を回避し、命、人権を守るために私たちにできるかを考え行動しませんか。非戦・非核・非ジェノサイド、そしてストップ改憲をご一緒にと。

この秋、上記の平和公園規制問題に加え、自衛隊海上自衛隊基地のある呉市で、今、自衛隊拡大・強化が進められている沖縄をはじめ大分、佐賀など西日本の各地との連携を深める西日本交流集会を行います。また、中国電力が予定している12月の島根原発再稼働をストップさせるため、中電本社のある広島での行動を計画中です。

岸田首相には聞く耳はないのか?と腹立たしいこともたくさんありましたが、地元広島事務所へ申し入れに押しかけたり、声明や抗議文を送ったり、最終地点を岸田事務所前としたデモを何度行ったことか、岸田首相に聞こえないはずはありません。広島の私たちも、岸田政権任期中の改憲を阻んだ国会前をはじめ、全国各地で行動された仲間に加わることができたかな?

皆さんの健闘と、8.6新聞意見広告へのご協力、ご支援に励まされて、今後も頑張っていきたいと思います。
2024年8月

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第185回市民憲法講座 あらためてウクライナ侵略を考える

お話:加藤直樹さん(ノンフィクション作家)

(編集部註)7月27日の講座で加藤直樹さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。

私がウクライナについて学び始めた理由と学び方

2022年2月24日まで、私はウクライナについて考えたことほとんどなかった。あの戦争が始まった時点では、多くの人たちと同じように、私もウクライナはロシアみたいなもの以上の印象はなかった。しかし侵攻が始まると、これはひどい。これだけあからさまな侵略戦争が始まったら、誰もがそのひどさに抗議する声があるだろうと思い、私が何かそれに加えて言う必要はないな、皆さんが言っていることを読んでいればいいだろうと思っていました。

ところが衝撃を受けたのはSNS、主にFacebookでの書き込みで一挙に「ウクライナバッシング」の文章がどんどん出てきた。「ゼレンスキーが挑発したせいで戦争になった」とか「ウクライナはネオナチに支配されている」、「ウクライナが大日本帝国に重なってみえる」という人がいて驚きました。僕の理解では、大日本帝国というのは例えば朝鮮や中国に侵略した国家だと思っていた。ウクライナはどこに侵略したんだろうか。侵略されているのではないのか。あるいはゼレンスキーを「銭ンスキー」というふうに揶揄する。60歳までの出国を男子が禁止されたことを、「60歳までの出国を禁止するような連中に共感は100%ナシ! ワッハハ」。「ワッハハ」までつけている。これを書いているのは野党共闘が絶対必要だと熱く護憲運動をやっている人だったりします。「非暴力に徹したプラハの春とは大違いだ」と、プラハの春を持ち上げてウクライナをあてこするのも全然わからない。とにかく違和感でいっぱいになりました。

気づいてみると、ウクライナ侵略を擁護する議論は幅広くある。右から左までいて、まず外務省出身者です。保守政治家、エネルギー関係者、この辺りはみんなプーチン政権との間に利害がある人たちでしょう。それから極右差別主義者です。朝鮮人虐殺の問題で、虐殺否定で動いている右翼の連中がいます。その人たちの半分くらいはロシア擁護論だったりする。これは多分イデオロギー的なものですね。プーチンの非常に反動的な思想に共鳴している人たちではないか。それからワクチン陰謀論ですね。そして左翼リベラルとくる。一体これは何なのかという衝撃がありました。

ただ右翼の、もともと「侵略って何が悪いの?」という人たちがロシアの侵略を擁護することについて、思想的には何か言う気にはなりません。けれども本来だったら侵略に強く反対するはずの人たちが、侵略を相対化するような議論をする。これは一体何なのか。左翼リベラルの中にある議論というのは、どこに由来しているのかということに関心が向きました。

さらにそれを越えて、だんだんウクライナという国そのものに私は関心が向いていきました。最初のきっかけは、ザポリージャ原発にロシア軍が近づいてくるときに、ロシア軍が近づけないように市民が人間の壁となって通りを埋め尽くした。侵攻が始まってからたぶん2週間です。あれを見たときに、それまでFacebookでは、ウクライナはネオナチが支配している極右全体主義の国で、破綻国家で崩壊寸前だというようなことを言っていたのは、これは違うなと思った。市民が自発的に能動的に立ち上がっている。これは何かあるぞと思った。そこからウクライナという国そのものに興味を持って、ずっと勉強をし続けました。おかげでとりあえず本も出せた。一応ウクライナ関係の研究の人にも何人か読んでくれた人がいて、どうですかと言ったら「いや、別に違和感はなかった」という答えだったので、まあ最低限、変なことは書いてないとほっとしたんです。

私の考えたいこと――原則、方法、事態の本筋

では、どのように調べたかということもお話ししたいと思います。「考える」ということを「学ぶ」というときに、私がどういう手順というか、原則を課したかというお話からします。

3つの単元を立てていて、1つは原則、理念ということです。世の中で起きた物事に対してどう向き合うかというときに、理念というものは当然関わってきます。今日、こういうツイートを見ました。パリのオリンピックの開会式にドラァグクイーンのショーが出てきたらしいです。プーチンはこういうのを指して、西側は悪魔崇拝の世界になったと書いている、皆さんどう思いますか?という内容です。当然、プーチンはバカなことを言っているね、ということを言っていると思いました。しばらくして「ちょっと待て、もしかして」と思ってそのツイートの過去も見たら、プーチン礼賛のツイートです。つまりその人はドラァグクイーンが開会式に出るなんて悪魔崇拝だと思っている。同じ現象を見ていても、立っている理念が違えば全然違って見える。

私たちはどういう理念に立つか、性差別とか民族差別を否定する方向で見るのか、必要だという方向で見るのか、あるいは侵略を肯定的に見るのか否定的に見るのか。そういった理念の問題があります。また、この理念の問題は、複雑な現実の前に理念として向き合うというのは実は難しく、簡単に答えが出ないときもある。でもその理念に立ってみようとすること、これが原則ということですね。

もう1つが考える方法です。インターネットを見ていると、「自分の頭で考えるべき」だとか、「自分の頭で考えないのか」というようなことを言う人がいますが、自分の頭で考えるって簡単なことじゃないですね。方法論がある。特にこのウクライナについては、インターネット上でこれは何なのかという情報も大量にあって、その中で自らでは判断がつかなくなることがあると思います。ですから、ますますもって考える方法が大事になってくる。この理念・原則、これは私に属するものですが、原則と、そしてそれをもって現実と対峙するときの考える方法。この2点でもって勉強してきてその中で見えてきた、私の考える事態の本質という話をしたいと思います。

私の原則(理念)は「反侵略」

私の原則とは「反侵略」です。これは私の本の最初でも書いています。反侵略ということを私は積極的な意味で言っています。侵略戦争に賛成だという人はなかなかいないと思いますが、それを強調して言っています。こう書いています。「民主主義対専制主義という構図とは関係ない」。「侵略されている国がどのような国内問題を抱えていても、それは侵略の責任を相対化しない」。「侵略の暴力と抵抗の暴力は同列・等価ではない」。こういう原則は、私は過去の自分自身の短い経験や、いろんな出会ってきた歴史的な出来事から掴み取ってきたものですが、一番わかりやすいのはイラク戦争です。イラク戦争のときにこの問題をすごく考えました。

アメリカはイラク戦争でもアフガニスタン戦争でも、いかにフセイン政権がひどい政権であるかということを強調していました。実際ひどかった。クルド人に対して毒ガスを使っていた。だからアメリカのイラクに対する攻撃は、イラクを解放するものだというようなことさえ言っていた。アフガニスタンについて、女性たちがブルカをかぶせられ強制されている。そういった言葉でアメリカは、ブルカをかぶった女性たちの頭上に爆弾を降らせたわけです。ここには正しい理屈、場合によっては、人権とか女性の解放とか、どう考えても進歩的な正しいスローガン、あるいは意図と言ってもいいかもしれない、そういったものが侵略の口実になっている構図がある。このときに、そんなのは口実だ、嘘なんだ、本当はアメリカは石油が狙いだ。だから、女性の人権なんかどうでもいいと思っていると言ってしまえば簡単ですね。

ところがそう簡単ではない。特に帝国主義というのは、常に進歩的な正義を掲げて侵略する。日本の日清戦争もそうだった。あれは朝鮮の清国からの独立を支援する、野蛮な清朝から朝鮮を解放すると言った。「文明と野蛮の戦いだ」と当時の日本は言っていました。日清戦争はともかく、イラクやアフガンについて言えば嘘ではないわけです。女性たちがブルカを着ているのは本当だし、フセイン政権がクルド人へ毒ガスを使っているのも本当です。じゃあ、良くない政治をしている国に対して侵略が行われる。より進歩的な旗印を掲げた国が侵略することをどう考えるべきかということを、思想的にすごく当時考えました。

当時、人道的介入という議論が結構ありました。結論として自分の中で出した答えは、侵略されている側の国にどういう国内問題があろうが、そこにどんな抑圧や弾圧があろうが、侵略をするのは間違いである。侵略戦争には反対すべきであるという結論です。思想的に言うと、私は竹内好に大きな影響を受けていますが、竹内が戦前の日本のアジア主義についての評論を書いています。竹内は黒龍会とかアジア解放を掲げながら、結局日本の帝国主義の尖兵になった人々について書いていますが、それを頭ごなしに否定するという書き方はしません。肯定もしない代わりに、侵略と連帯をどこで分けることができるのかという謎めいた問いを出します。これはすごく普遍的な問いでして、例えば日本共産党が戦前から戦後にかけて、在日朝鮮人も共産党に入って戦っていますが、結局民族的な問題が分かっていなかったという批判を受けたりします。つまり、連帯と侵略を分けるのはそう簡単じゃないという竹内の言葉は、実は重いと思っています。

苦しみ、選択、リスクはすべて当事国の人に属している

ウクライナ戦争が始まる直前まで僕がやろうとしていたのはアジア主義批判で、企画書を出版社にいった帰り道に戦争の話を聞きました。侵略と連帯をどこで分けることができるかという竹内の問いに対して、僕の暫定的な答えは、相手を他者として見るか、相手を主体として見ることができているかということです。それが僕の暫定的な答えです。

日本の歴史では、日清戦争前の自由党左派の大井憲太郎が大阪事件を起こします。これは、自由民権運動を日本の中でやってきたけれど、なかなか明治政府を倒せない。隣の朝鮮でも強権的な政府が支配しているらしい。だったら、先進的な自由民主主義をもった日本の志士たちが朝鮮に押し渡って、朝鮮の反動的な政治家をやっつけてしまえば、朝鮮の同じ志を持った人たちと連帯できる。そうしたら日本と朝鮮で一挙に革命ができる、というようなことを考えて起こした事件です。大阪事件を、日朝の連帯と見るか侵略と見るかという議論があって、私は基本的に結論からいうと侵略だと思っています。

というのは、大井憲太郎の供述なんか見ても朝鮮のことは何も知らない。漢文で書いた檄文のビラしか持ってない。朝鮮側の人たちと話をしている形跡もない。結局海を渡る前に捕まって、いいことをするつもりだったと言っている。ところが仲間たちの供述を見ると、朝鮮と揉め事が起きれば日清が戦争を始める、そうしたら日本で革命の機が熟するという。要するに、道具として考えていたことがあからさまです。こういうところに見えているのは、相手を主体として見られてないということだと思います。相手を他者、主体として見て連帯することはそう簡単なではない。しかしそのことを意識するか、しないかということが、侵略と連帯をかろうじて分けるのではないか。これがアジア主義批判の私の結論だった。そのこととイラク戦争が重なって、侵略についての考え方があります。

なぜ侵略が解放ではないかというと、侵略は相手の主体性の否定です。例えばイラクの人たちだって、フセイン政権がひどいことをすれば、ひどいと思っている。イラクの人たちも、フセイン政権を変えようとか、あるいは打倒しようとか、あるいは政権の内部から変えようとかいろんなことができる。イラクのことは、イラクの人々が判断して行動して選択できる。ところが侵略というのは、そういったことも全部ひっくるめて相手の主体性を否定し、「お前のためだから」といってやるものです。究極の他者否定、主体否定が侵略だと思います。それが私の反侵略という言葉の意味です。ですから、相手の国がどういう国内問題を抱えているかは関係ないんです。

もう一つ、侵略の暴力と抵抗の暴力は同列同等ではない。他国の人々が主体であることを認め、その当事者性を認識することが私の原則です。その国にはその国の固有の事情があります。いろんな政治的事情や経済的事情があって、その中での苦しみというものはその国の人が苦しんでいる。ではどうしようかという選択も、その国の人々が選択する。その選択は常にリスクがあるので、その選択は正しくないかもしれないという時も、選んだ結果のリスクも当事者であるその国の人々が受ける。ですから、我々は他国の人々との環境を考えるときに、自分たちが他者である、相手が他者であるということ、我々が当事者ではないということを自覚する。これを意識するってことが自分の中の重要な原則としてあります。

私の「考える方法」

考える方法について、ここからウクライナの話になります。皆さんも気づいているように特にネット関係です。ウクライナ戦争の関係の現実は、本当に虚偽とか、意識的なミスリードがものすごく多い。虚偽っていうのはわかりやすい。例えば、AIを使ってゼレンスキーが麻薬をやって「らりっている」みたいな映像が流れてきていました。あれは合成で作った映像だったりします。あるいは全然関係ない映像をもってきて、こんなことが起きているぞってやったりする。ミスリードもあります。この手の政治的な情報空間について専門用語では「ナラティブ」っていうみたいですけれども、どのようなお話、何が起きているかについての説明で、ミスリードする議論が結構ある。

例えば一つの例ですが、大前研一が書いていた文章です。プーチンがなんで侵攻したのか、その答えが「ゼレンスキーが核武装しようとしたからだ」と言う。こう書いています。「ところがゼレンスキーは2022年2月に『ブタペスト覚書は再検討できるはずだ』と発言した」。「『ロシアに小突きまわされるのは核兵器を手放したせいで、核を保有すればロシアと対等に交渉できる』という意味である。EU加盟、NATO加盟、核再武装は、ゼレンスキーが支持率を回復するための3点セットだった」。「しかし、『こいつは思った以上にワルだ』とプーチンのイライラは頂点に達したのだ」。つまりゼレンスキーが核武装を目指したからプーチンは侵攻したと言うんですね。これなんか変だな、本当かなと思った人は、常識的な勘が強い人だと思います。

実際は全然違います。同じゼレンスキー発言について書いた日経の記事があります。ゼレンスキーが発言したのは、2020年2月19日です。「…ゼレンスキー大統領は19日、ドイツ南部ミュンヘンで開催中の安全保障会議で演説し、ウクライナの安全を保障する2つの首脳会議を開くよう提案した。…ゼレンスキー氏が提案したのは、1994年のブダペスト覚書の署名国である米英ロとの首脳会議だ。ブダペスト覚書はウクライナが核兵器を放棄する代わりに、同国に米英ロが安全保障を提供するという内容だ。…その意義を問い直し、署名国から保証を得たい考えだ」。

ゼレンスキーが再検討する必要があるといったのはこういうことです。ブダペスト覚書というのは、ソ連が崩壊したときにソ連の核兵器がウクライナに残っていた。米英ロが核を手放しても安全を保障するから、その核をロシアに渡すという枠組みです。その結果、ウクライナは核兵器をロシアに渡し、ウクライナには核兵器がなくなった。米英ロの3カ国がウクライナの安全を保障すると言っていたのに、その1カ国であるロシアが安全を脅かそうとしている。これは戦争の直前です。そういった状況の中で、ゼレンスキーがブダペスト覚書を再検討する必要がある。つまり、もう一度そこに立ち返る必要があると言った。

この再検討という言葉を大前研一が、というか大前研一の書いた元ネタの誰かが、に核武装しようとしているというゆがんだ解釈をして、それが侵攻の原因であるというような説明をしている。でも冷静に構えてみてください。まず、実際そういう発言がなかったことが日経の記事でわかります。この2月は、いつロシアが攻めてくるかわからない直前でした。その時にゼレンスキーが、もう一度ブダペスト覚書の枠組みに立ち戻って、首脳会談を開いてくれと要求している。これが大前研一の発言のように核武装を目指している発言だったらどうですかね。

ウクライナがロシアから身を守るには、欧米の支援が不可欠です。プーチンが侵攻してくる5日前に「ウクライナが核武装することに決めた。核不拡散条約を脱退する」と言い出したら支援は増えますか、減りますか。ましてや、3年、4年、5年の猶予があれば核武装もできるかもしれませんが、もう差し迫っていた。その前年の暮れからどんどん大軍が集結して、いつ侵攻があるかわからないと中で、いきなり核武装すると宣言するはずがない。この2日後にはプーチンがルガンスク・独立派の共和国の独立を支持、承認する。もういつ侵攻があってもおかしくない状況だった。その中で、ゼレンスキーがこう言ったから侵攻されたというような説明は、明らかに歪んでいる。こういったことがすごくたくさんある。「政治家がこういった」、メルケルがこういったとか、片言隻句を全く歪めて語る。それを結構偉い人がやるんですね。

ロシア研究の大家の下斗米伸夫さんが、2014年のマイダン革命の政権交代に、アメリカが関与した、オバマが認めていると、いろんなところで書いている。ところがオバマが具体的に何を言ったのかは彼らは紹介しない。私はずっと探していて、ようやく見つけましたが、オバマはそんなこと言ってなかった。まったく誤読ですね。こうしたことが起きています。

「ブチャ虐殺は自作自演」は南京虐殺と同じ議論

ブチャ虐殺は自作自演という議論です。これなんか本当に南京大虐殺否定論とまったく同じで、こういうふうに言っています。カチンの森事件がありました。ポーランドの将校たちをソ連が虐殺して森に埋め、ドイツの仕業に見せかけた事件です。「カチンの森」の時には死体を埋めた、隠したと、その上で我々はやってないと言ったはずだ、と。ところが今回、死体が路上に転がっている。それだけ取ってもロシアがやったということは疑わしいといいます。そんなことは恣意的な比較です。カチンの森とブチャ虐殺の事件とを恣意的な比較をして、よくよく考えてみると説得力ないことを言っている。あるいはウクライナ軍だけが使っている特殊な弾丸がその遺体から見つかったとか、もっとひどいのは遺体が動いているのを見たぞとかね。あれは偽物だとかいろんな議論があった。

これは全部南京大虐殺の否定論でもあります。例えば、南京を攻略した日本の方が銃弾が足りなくて困っていたのに、捕虜を何千人も銃弾を使って殺すようなことをするはずがない。それだけとっても南京大虐殺なんておかしい、とか言います。実際には陣中日誌などから、貴重な弾丸を使って捕虜を何千人も殺していることがはっきりしている。現実とはそういうものです。すごく上っ面的な「こうだからおかしい」というのは、よほどはっきりしなければそういう比較は成り立たない。カチンの森とブチャの場合は全く違う。

もう一つ重要なのは、ブチャで殺された人たちの問題は、路上に倒れている遺体だけが問題じゃない。証言でたくさん出てきました。拉致されて殺された事例がたくさんある。ブチャだけでなく他のところにも、路上に転々としている遺体という写真に映って、それがインパクトが強い。そこに集中してそれを否定することで虐殺全体を否定する。これは南京大虐殺とか虐殺否定論がいつもやるパターンです。非常に曖昧な根拠でロシア軍がやったとは思えないと言って、暗にウクライナ軍がやったと。あとは根拠不明な情報を持ってきて、ウクライナ軍がやったことにする。 親ロ的な人たちをこの機に乗じて虐殺したとか言うけれども、

ブチャというのは戦場のど真ん中にあるのではなく、キーウの近郊です。距離でいうと、東京駅から八王子ぐらいの距離です。ど真ん中で、しかも何年にもわたる戦争で起きるのならともかく、侵攻始まって1ヶ月で、この機に乗じて殺してしまえ、というようなことが非常に薄弱な想像だと思います。いろんな点と点を恣意的に繋いでいって、すべてが不確かであるといった方に持っていくのは、これは虐殺否定論のいつものパターンですね。

では、非常に不確かな情報が多い中で確かさをどのように言えるか。私が考えた原則は、トリビアル(細かい)な事象に溺れない。ネット時代が非常によくないのは、大量に写真が出回ります。これがウクライナ軍が殺した人々の死体だ、とかそういうのがあったりします。そういうようなもので全体を推し量れる、その写真が本物か偽物か、以前にそういったもので語れることって、実はそんなにありません。しかしインパクトが強いから、そういうものに引っ張られる。要するに確認できないトリビアルな事象がたくさんある中で、それから距離を取ることです。

現実って非常に複雑で矛盾をはらんでいる。特に現場に降りれば降りるほどいろんな複雑さがあります。例えば、一般的に言って、その世の中で大企業が下請けの企業に対して横暴に振る舞っている構造がある。でも現場に降りていけば、大企業から来た若い出向者を、中小企業の人がみんなでいじめているということがあるかもしれない。その上で、「一概に言えない」とか言い出したら、それは違うわけです。そういう複雑で矛盾をはらんでいる現実の中で、本筋がどこなのかということが重要だと思います。

「嫌韓本」から学んだこと、国の主流の考えを知る

もう一つ、その国の主流多数派の考え方や議論をまず知るということ。これは主流の考えが正しいということではなくて、まずそれを基準に考えるということです。どうしてそういう考える方法を考えるのに至ったかというと、嫌韓本です。私は嫌韓本とか嫌韓的なものに対する批判をずっとやってきたわけですが、嫌韓本というのはまさにその手法です。真偽の確認が難しい事象をどんどん出してくる。例えば韓国の小学校では、日本人を殺せば英雄だというような絵を描かせているぞと言って、子供が描いた、誰かを殺しているように見える絵を写真をバンバン流したりする。それがどういう文脈で描かれているのかわからないし、仮にそれが本当に日本人を殺して英雄として褒められている絵だとしても、そういう教育を韓国の学校がみんなやっているかもわからない。トリビアルなものを次々出していって、全体として韓国人は、日本人を殺してしまえと思っているんだ、というような印象作りにしていく。そして点と点、韓国で起きたいろんなネガティブな出来事を全部繋いでいく。

こういう嫌韓本をどう批判していくかと考えていったときに作った姿勢は、トリビアルな事象から距離を置いて全体に位置づけて相対化することです。まずはその国のメインストリームの考え方や議論を知る。一時期、嫌韓本でよくあったのは、韓国でも反日的な進歩派の考え方に嫌気がさしている人も大勢いる。日本が好きなんだとかいうような議論をします。韓国の人は日本を好きですよ。ただそれは日本の植民地支配のときがいいと思っているのとは別で、植民地支配をいいと思っている韓国人はわずかですがいるわけです。反日種族主義という本が売れたりしましたね。「日本万歳」みたいな人はいます。自宅に旭日旗を掲げたりする人もいる。自宅にハーケンクロイツを掲げる人がいるのと同じで、そういう人はどこの国にもいます。そういう人を捕まえてきて、これが本当の韓国人の思いだみたいなことをいうのが、一時期はやっていた。これは都合のいい韓国人を、安心できる韓国人を作っているわけです。そうではなくメインストリームの人々がどう考えているか、韓国なら韓国をそういうふうに見なければいけないと思っていました。

「嫌韓本」から学んだこと、敬意を持ち主体を認める

もう一つは敬意ですね。敬意っていうのは好きというのとは違います。相手の主体を認めることも含んでいて、敬意です。敬意があるとそうはならないだろうという議論は確かにあります。例のカホウカ・ダムが破壊された出来事がありました。ダムが破壊される1ヶ月くらい前に、ウクライナ当局が、ロシアがザポリージャア原発を爆破しようとしている兆候がある、みたいな発表をしました。その時にIWJは、ウクライナ軍はロシアがやるという偽旗作戦で騒いでおいて、ヘルソンで水爆を使う計画があるとメールで書いた。それでびっくりした。自国で水爆を使うというのは大変なことですよ。自国内で水爆を使ってかつ、それを敵軍のせいにしようとしている。

それだけの作戦をするには何が必要かというと、ゼレンスキーが人倫から外れた悪質な為政者である必要があります。戦争に勝つためには自国の人たちを核で殺してしまうことができて、しかもそれを嘘ついてやってしまえという人たちである必要がある。もう1つは、それをちゃんと隠しおおせないと意味がないわけです。それだけの絶対的な秘密を守りきれる独裁体制がないと、それはできない。3つ目に、それだけの作戦をアメリカなんかから隠してやるのか、それともアメリカもやれやれと言っているのかわかりません。こう考えていくと、普通に考えたらありえない話だということがわかると思います。

ではIWJはどこから情報を手に入れたかというと、モスクワのテレビです。モスクワのテレビに日本で言うと、「そこまで言って委員会」のような番組をモスクワの国営放送でもやっている。いろんな右翼の評論家たちが出てきて「もうウクライナなんかいてまえ」「全部皆殺ししたらいいんや」みたいなことをみんなで放言している。よくそこで出てくる極端な発言がツイッターの中に流れてくるんです。そういう中で軍事評論家が「いや、どうもね。ウクライナがヘルソンで水幕を使おうとしているらしいで」っていうことを言っていた。それが証拠だというんです。偽旗作戦っていうのは隠しおおせないとダメなわけでしょ?自国内で水幕を使うというようなことは、なかなかあり得ないってことだと思います。なんでその大変な秘密をモスクワのよくわからない軍事評論家が知っているのかという話ですよ。こういう発想は、どう考えてもウクライナの人たちに対する敬意と、まともな現実的判断があれば出てこない発想です。だからやっぱり敬意って必要だと思います。相手に対する敬意がないと、判断がおかしくなるんですね。

大学のウクライナ研究者の論文・書籍を読む

では、私はどういうふうにそういう構図の中で学び方を選んだか。一つが大学のウクライナ研究者の論文・書籍を読むことです。ネットで流布している情報について、一つ一つを本当なのかどうなのかを判断していくのではなくて、ウクライナについて専門的に研究している人の論文とか書籍を徹底的に読みました。そういった人たちの中にもいろんな幅はあります。例えば、マイダン革命について肯定的に見る人もいるし、否定的に見る人もいる。大事なのはその幅ですね。専門的なウクライナ研究者で「あれはCIAがやらせた」と書いている人は1人もいませんでした。

大学の論文というのは査読があるわけで、何でも思いついたことを書けば論文ではないです。通るものしか論文にはならないわけです。一定の訓練を受けた人たちが書いているものですから、そこで書かれない、そこで相手にされない見方ではなく、専門家がどのように言っているかというのは一つの基準になります。そうすると、CIAの仕掛けたクーデターだとは言えないだろうということがわかります。

ややこしいのはロシアの研究者だから、ウクライナについても語っているタイプの人がいます。こういう人は結構適当なことを書いています。ウクライナのみを研究している人は実はいませんが、ソ連圏を研究していてウクライナについても専門的に研究している人のものをちゃんと読みました。

もう一つは、普通のウクライナ人がどのように考えているかを知り、感じてみることです。これはウクライナ人が何を支持して、どういう政治思想を持っているかではなくて、普通の人がどのように今起きていることを感じているか、考えているかというあたりです。もちろんウクライナの中にも右の人もいれば、左の人もいます。ウクライナ人Aさんがトランプ大好きと言ったから、ウクライナ人はトランプが好きだということではなくて、その言葉の向こうにウクライナ人がどう感じているかを想像してみる必要があります。

メインストリームの普通のウクライナ人が感じていることを感じるように、いろんなものを雑多に、ウクライナ人が書いたものを読みました。そういったことを踏まえて見えてきた、私が考える本筋というのが、この3つに集約されます。「これは大国による小国への侵略である」。そして「これは支配―従属関係の回復を目指す侵略である」。「これは(一義的には)『二国間戦争』と見るべきである」。3つ目は事実というよりはそのように見る姿勢が必要だ、という意味です。

これは大国による小国への侵略である

まず、「これは大国による小国への侵略である」。ここからして非常に相対化して曖昧化しようとする人たちがいるので、くどくても説明しないといけないんです。ウクライナとロシアの大きさの違いは、まず人口が3.5倍、それからGDPが8倍、GDPだけではなくてその中身です。ロシアの場合、天然資源を持っている。だから、これだけ制裁を受けていても天然資源は絶対に需要がありますから、経済は安定している。そして軍事費では10倍、総兵力4倍、戦車5倍、戦闘機11倍。これだけの差異があります。そして核兵器は、ロシアは6,375発あり、核爆弾の数でいうと世界1位、核弾頭の数でいうとアメリカに次ぐ2位です。核兵器を持っているというのは、これ以上敵対すると核を使うぞというふうに脅せる。だから、ロシアが核を持っていること自体が侵略を止められない理由になっているわけです。

もう1つが、安保理の常任理事国であるかないかです。ロシアは安保理の常任理事国です。だから気に食わないものは全部否決できる。ウクライナは国連に加盟している190何カ国の1つでしかない。1票しか持ってない。だから国際的な権力の違いというのは歴然としている。このことは戦争目的の差異として出てくるわけです。ロシアのこの戦争での目的は、ウクライナを征服する、あるいは併合する、割譲させる、あるいは政治的に屈服させる、あるいは従属化する。こういったことが狙いです。ウクライナの目的は被害の回復だけなんです。つまり、戦争前に戻してほしいという以上ではない。モスクワをよこせとは言ってないんですね。そんなことを言う力もない。圧倒的な存在としての差異がある。大国と小国という差異は絶対的なものがあるわけです。ですから、これは大国による小国の典型的な侵略です。

もう一つ、従属の回復ということではどうか。歴史的に言ってロシア帝国の中で19世紀以降、ウクライナ民族というのは、徐々にウクライナという別の民族だというような、自分たちのネーションを作りたいというような運動が高まっていった。それが弾圧されながらも高まっていって、1917年にはウクライナ人民共和国というのが一旦はできて、結局崩壊して1991年にようやく独立した。ロシアとウクライナの関係は、支配と従属の関係にかつてはあった。レーニンがそれについてこう言っています。「ロシア人は『大国民族』『抑圧民族』、ウクライナ人は『従属民族』という関係であり、その関係を解体しなければならない。」。そういう関係であった。そしてプーチンがやろうとしているのは、それをもう一度従属関係に戻そうということです。

この場合の従属とは何かというと、ウクライナという主体はない、ロシアの一部だ、ということです。例えば今の日本では、沖縄は昔から日本の一部で、沖縄の言葉、琉球諸語というのは日本語の方言だということになっている。これは全然嘘ですね。日本語と琉球諸語の違いは、英語とドイツ語ぐらいの差異がある。ロシア語とウクライナ語も実は近いんですが、近いといったってポーランド語やベラルーシ語のほうが近いというぐらいの近さです。だから方言なんだというふうにして、ウクライナを否定しようとしているのがプーチンの今の考え方です。かつての従属性、ウクライナという主体は存在しないという世界に戻そうとしている。

これについて木畑洋一さんという、岩波新書で「20世紀の歴史」という素晴らしい本を書いている。彼は20世紀の歴史を社会主義対資本主義ではなく、帝国や帝国主義の支配を受けていた人々が独立していって、自分たちのネーションステートを作るようになっていった。そのように解放されていったというのが20世紀の主調音だと言っている学者です。彼はこう言っています。「ロシアによるウクライナ侵攻は、このような脱植民地化後の世界の状況から時計の針を巻き戻そうとする動きに他ならない」。私もそういうことだと思います。

ロシアの侵略責任を相対化するロシア擁護論

その上でロシア擁護論の批判ということになります。ロシア擁護論と言っても、定義をしたいと思います。宇山智彦さんという人が書いている文章ですが、「論理的なつながりや釣り合いを欠いた話でありながら、ウクライナや欧米の非を言い立ててロシアの責任を相対化させる議論が実に多い」と言っています。

これはよくできた定義だと思ったので、こういうふうにしてみました。①論理や事実に照らして歪んだ論法によって、②ロシアの侵略責任を相対化する。要はロシアの侵略が悪いというのは、いろいろな部分的な正しさを歪んだ形でつなげて、ロシアの侵略責任を相対化しようとするとき、そこに歪んだ論法があれば、それはロシア擁護論ではないかと定義しました。

その目でどういうふうに言えるか。1つ、それは大国主義である、というのが僕の考えです。これは「社会主義」という社会主義協会の機関紙に載っていた文章です。その中で平和運動研究会代表の大槻重信さんという人がこう書いています。「ロシアがおかれている立場からして、今回の進攻が自国に対する侵害を防止するための『予防的軍事行動』であったことは否定し得ないだろう。…国際法で認められる『防衛のための攻撃』という性格を有していることも認め得るだろう。このため、国際法で禁止されている『予防戦争』には当たらないだろう」。つまり、ロシアが攻撃されるかもしれないから、予防的にロシアが軍事行動した。これは合法であると彼は言っている。

確かイラク戦争の時もアメリカは同じことを言っていました。アメリカに対する危険があるから自衛権の行使としてイラクを攻撃すると言いました。ロシアについてはどうか。大槻さんに言わせるとウクライナがNATOに入ると、ウクライナ国境からモスクワまで天然の阻害する地形がなく、平原がだだっ広く続いている。だから危険だと言います。そんな理由で他国を侵略することが自衛・防衛の行動になるのか。僕はならないと思います。ウクラナがNATOに入ったとしても、NATO軍とウクラナ軍が国境を越えてモスクワに進撃を開始する可能性は非常に低いと思います。なぜかというとロシアは核を持っていまし、通常兵力では世界第2位の軍事力を持っています。

逆もそうですよ。ロシアがこのままフランスやイギリスまで侵略することはまずないと思います。NATOに入ればアメリカとの全面戦争になります。同じようにNATOだって、ウクライナとロシアの国境を越えてモスクワを目指せば、これは世界戦争になり、そんなことをする動機もなければそれだけの冒険をする利益もないわけです。なかなかないだろうことをもって予防的な軍事行動だと大槻さんは言っている。

でも逆にロシアがウクラナを侵略する可能性が非常に高かったわけですよね。現にそれが起きてしまった。だとしたら、予防的軍事行動をする権利を持っているのはウクラナだったのではないか。では、ウクライナがそれをできたかというと、できないと思います。先に軍事力を送ると言えるのは、大国の特権です。小国にはできないことです。

これを見て思い出したのは主権戦と利益戦。山形有朋が第1回の帝国議会で演説しました。日本が守るべきは主権戦と利益戦の2つの線がある。主権戦というのは国境。でも国境の内側の日本を守るためには、国境を脅かすかもしれない外の地域も、日本のコントロール下に置く必要がある。それが利益戦。この利益戦は中国と朝鮮の間ぐらいにあるので、朝鮮半島を自分の支配下に置かないと日本が安全にならない。だから朝鮮を支配すると言っている。日本の安全のためだということです。ロシアの主権戦はロシアとベラルーシ、ウクライナの間の国境ですが、ロシアの利益戦はベラルーシ、ウクライナの方にある。ウクライナをロシアの勢力下に置いていればロシアは安心できる。そういう安全保障を、大国が自分たちの勢力を守りたいという安全保障と、小国が国境の中だけは守りたいという安全保障を同列には論じられないと思います。そのことに対して無自覚でいるのは、やっぱり日本も大国だったからだと思います。

代理戦争論とは小国の主体性を剥奪する理論

この戦争は代理戦争論という面もあります。アメリカやヨーロッパが別に慈善事業でウクライナを応援しているわけではないわけです。米欧対ロシアというような構図は確かにあります。しかし、そのことを前面化する見方というのは非常に歪んでくるというのが私の考えです。ベトナム戦争について松岡完さんという人が書いた文章の前書きにあります。「かつてこの戦争は米ソないし米中の代理戦争と片付けられた」。ベトナム戦争の頃、あれは東西冷戦の中で熱戦に転じた代理戦争だ、ソ連・中国対アメリカの戦争だというような見方がすごくありました。そのことのアメリカ側の理論的な反映が、例のドミノ理論です。ドミノ理論では、ベトナムは東側陣営、つまりソ連、中国のコマとして見えていて、ここで抑えなければいけない。

ところが、当時からそうではないという批判があった。確かにベトナムの独立戦争、ベトナムの戦いを指導しているのは共産主義者だけれども、これは共産主義対資本主義の戦いではなく、ベトナムの人たちが民族自決を求めているんだという議論がありました。結局、最終的にアメリカはたくさんの人を殺して撤退したわけですが、今は保守派も含めて、ベトナム人が民族独立を求めてやった戦いだったというのは常識的な結論になっている。ベトナム人はモスクワや北京のために戦争をしたというのが代理戦争の意味ですね。ウクライナ人はワシントンのために戦争をしている、というのが今の代理戦争論ですが、ウクライナの侵略に対して、抵抗しているのはウクライナ人ですよ。彼らが嫌だと思っているから抵抗している。

ウクライナについての代理戦争論というと、もう一つ面白いのは、武器の支援を受けているから、ウクライナ人は代理に過ぎない。ロシアと戦っている主体はアメリカだとする。ロシアもイランや北朝鮮から武器をもらっていますけれども、こちらはさすがにロシアを代理とは言わない。本当に戦っているのは北朝鮮やイランだとは言わない。ロシアは主体になっている。ロシアも主体。北朝鮮やイランも支援者として主体。アメリカは支援者としての主体プラス戦争の主体にもなった。唯一このアクターの中で主体を剥奪されたのはウクライナです。だから代理戦争論というのは、実は「ウクライナ主体剥奪論」です。ですから代理戦争論というのは小国に同情するようでいて、小国の人々の主体性を否定する議論だと思います。その結果は非常に不幸なことになることが多い。

代理戦争論というのは一見優しげで、実は非常に小国を否定する側面を持っている。もちろんウクラナ戦争には代理戦争という面もあります。しかし、第一義的にはウクラナの人々が侵略に抵抗している戦争だということを見るべきだと思っています。

「ウクラナは破綻国家」なのか

「ウクラナは破綻国家だ」という議論があります。破綻国家というのは実は適当に使っていい言葉ではなく、ちゃんと定義があります。破綻国家ランキングがありますが、ウクライナは92位、75位がロシアです。1位がソマリアで、破綻しない国ほど下になります。破綻ランキングではロシアの方が破綻している。だからロシアがしょうもない国だということではなくて、世界に190カ国ある中で、ウクライナは92位、つまり普通の国です。ウクライナよりもっと低い中に、タイとかモロッコ、インド、ネパール、南アフリカなどの国があります。こういった国々は普通の国です。ウクライナは汚職がひどいとか、車で走ると道路がガタガタとか言って、だからウクライナはダメな国だということを書く人は大勢いますが、ネパールや南アフリカの道路だってガタガタですが、ネパールもウクラナも南アフリカも普通の国です。ウクラナは破綻国家だという言い方は、そういった国々をバカにする議論です。破綻国家だ、道路がガタガタで汚職があるから侵略していいのかということです。ここには明らかに新興国に対して蔑視がある。蔑視を煽っている。

日本的平和主義の「傲慢」、相対化できない被害と加害

もう一つが「『平和主義』の傲慢で」です。海老坂武さんが「市民の意見30の会」に書かれた文章で、こう言っています。「私は大東亜戦争が勃発した年に国民学校に入り、『愛国心』を徹底的に叩き込まれ……戦後発見したことは、この『愛国心』という言葉の愚劣さ、瞞着である」「ウクライナの兵士なり市民なりが『国を守る』としてみずからの意思で銃を取ること、これは、『お国のため』に死ぬことの愚かさをかつての戦争をとおして感じとっている私から見ると愚かだとは思うが、批判するつもりはない」。この後「自分はのうのうと殺されない場所にいて、戦争を指揮しているゼレンスキーに頭にくる」と続きます。私はこの言葉が非常に戦後的な平和主義の弱点が出たと思っています。

よく考えてほしいんですが、海老坂さんが国民学校で愛国心をたたき込まれたときの戦争とは、侵略戦争です。その経験から愛国心という言葉の愚劣さ、瞞着ということを受け取る。これは間違っていないと思います。戦後の日本というのは、個人に尊厳があるということが戦後の進歩だと思うので、それは否定しません。しかしウクラナの人々は、当時の海老坂さんになぞらえると、海老坂さんの側の人々じゃなく、中国の側に対応するわけです。中国でも多くの若い人たちが、日本軍の侵略に対して武器を取った、取りたくもないのに。それに対して「愚かだと思う」という言葉が出るのか。つまり侵略者の戦争と、侵略に対してやむを得ず武器を取っている人々の違いに対して非常に鈍感なのではないか。そこにあるのが侵略と抵抗、加害と被害ということに対する「不在」だと思います。

よくウクラナ戦争の議論の中で使われるフレーズが、「侵略が悪いのは言うまでもないが」です。でもなんでそんな簡単に、侵略という問題をまたぎこせるのかと私は思います。侵略というものはそう簡単に、軽くまたぎこしてはいけないと思っています。そこにあるのは被害と加害です。侵略する国と侵略される国は、加害と被害の関係にある。だから被害と加害を相対化してはいけないし、被害者と加害者を相対化してはいけない。そういうふうに考えています。

もう1つは、やっぱり侵略国だったという視点の不在ですね。上海事変の時に、日本の軍人たちを爆弾で殺した朝鮮独立運動の活動家のユン・ボンギルという人がいます。この人は結局日本の軍事裁判で処刑されて、金沢の地にどこともわからない形で埋められた。このユン・ボンギルの碑を金沢の人たちが頑張って作りました。そのために募金する過程で「日本は悪いけど、テロもいけない」という声が多かったそうです。それについて山口隆さんという人が書いたのは、「侵略に対する抵抗を、侵略の暴力とひとしなみに見て否定してしまうというのは、侵略に対する肯定なんだ」ということを書いていました。侵略者の側も武器を取って、大砲を撃っている。抵抗する側も武器を取って大砲を撃ったりするわけで、同じように戦争だと言えるし、そういう事件は確かにあります。

侵略された側・当事者は抵抗することを選べない

今回の戦争で印象的だったのは、アメリカは2022年2月までずっとプーチンは侵略する気だと言っていました。あんまり言うものだから、何か裏があるのではないかと疑っていた。でも本当だった。あの時にプーチンに融和的な人ほど「いやプーチンは侵攻するわけがないよ。だって何の利益もないだろう」と言っていた。それもそうだなと思いました。でも侵攻したということは、逆に言うと侵攻しない選択肢もあったということですね。侵攻しなくてもプーチンなりの政治目的を達成できたかもしれない。その意味でもこれはプーチンが選択したことです。侵略する側は、しなくてもいい戦争を選択している。

ところが侵略される側は、しなくてもいい抵抗を選んでいるのではなく、抵抗するか降伏するしかありません。侵略と抵抗の相対化ということは、これはやっぱり違うのではないか。これについてウクライナの当事者の言葉を紹介します。タラス・ビロウスという人で、「社会運動」というウクライナの左翼グループの活動家です。戦争が始まった後、自分で領土防衛隊という準国軍に志願して軍に入った人で、「西側の左翼への手紙」と、他の文章からの引用します。

彼はこう言っている。「社会主義者であり国際主義者である私は、もちろん戦争を嫌悪している。しかし民族自決の原則は、プーチンの残忍な侵攻に対するウクライナ人の抵抗を正当なものとした」。「私たちは抵抗の必要性を疑わず、私たちがなぜ、何のために戦っているのかをよく理解している」。「絶対多数のウクライナ人は抵抗を支持しており、単なる受動的な犠牲者にはなりたくないと思っているのだ」。

さらにここが重要だと思いますが「ロシア―ウクライナ戦争に関するこれらの(西側左翼の)論争の多くで恐らく最も印象的なことは、ウクライナ人の見解に対する無視だ」。「ウクライナに暮らすわれわれ以上にこの戦争の終わりを熱望している者は誰もいない。しかしウクライナ人には、まさにこの戦争がどのように終わることになるのか、もまた重要なのだ」。

これはほとんどその通りだと思いますが、当事者がこういう思いでいるということです。我々自身の選択について、外国の皆さんは知ろうとしていないじゃないかということを彼は責めている。この戦争を一番終わらせたいと思っているのは、我々自身だ。しかし、どのように終わるかということが切実な問題だと。当たり前です。その切実さをウクライナ人以上に背負える人は誰もいないわけですね。ここには当事者であることの重さがあります。ビイロスの言っていることに賛成するかどうか以前に、当事者が持っている選択の重さに、まず向き合わなければいけないと思います。いつまでも抵抗しているのはおかしい、どっちもどっちではないか、というような議論の根底にあるのは、他者感覚であり当事者性の意識の低さです。

困難な選択肢に向き合う「歴史の中にいる人たち」

それから歴史感覚の不在も問題です。歴史感覚の不在とは何か。歴史の本に書いてあることは全部終わったこと、結論が出たことを読んでいます。しかし歴史の中にいる人たちにとっては、それは見えません。「歴史の中にいる人たち」という言葉には2つの取り替えのきかなさがあって、1つは当事者性です。もう1つは予見不可能性だと思います。2つの例え話をします。一つは救命ボート。船が沈没して私が救命ボートに乗っているとする。でも、そのボートは2人乗りです。あと1人しか助けられない。そのとき波間に2人の人が溺れている。1人が兄で1人が親友だとする。どちらかを選ばなければいけない。このときにどちらを選ぶかについて、他人はとやかく言えるだろうか。その痛みを一番感じているのは、選んだ人ですよ。今、ウクライナの人々はそのジレンマの中にいます。

抵抗戦争を続けるということは、ずっと人が死ぬということです。僕はウクライナの人々のツイッターを毎日見ることを日課にしていますが、本当によく周りで人が死んでいく。労働組合のツイートを見ていると、どこそこ炭鉱の組合員の何とかさんが戦死されましたとか、私の幼馴染が死んだ、もう一日中泣き腫らしたと書いていて、本当によく亡くなります。運動の中でも、活動家の誰それさんが亡くなったというようなことが来ます。今状況が厳しくなってきて、どこかで停戦してロシアが占領している状況、というのは追認せざるを得ないところにいくかもしれません。それもウクライナの人が決めることだと思いますが、それもまた身を切る犠牲を伴うわけです。

占領から取り残された人々もいます。ロシアのパスポートを受け取ってロシア人として生きるには大丈夫ですが、私はウクライナ語を使いたいという人たちは弾圧されている。多くの人が拉致されたり拷問されたりしていることが報道されています。そういった人々を残してくることにもなるし、公正さの感覚を諦めることでもあります。被害者が被害について諦めることです。抵抗戦争を続けることで流れる血もあるし、やめことで流れる血もある。どちらを選ぶか、これは当事者しか決められないことだと思います。

もう一つはカジノの例えです。ある人がカジノであり金を集めて、10万円を右か左かに振り込もうとしているとする。そのときに横から「いや、それは右だ。絶対右だから」と言って、右に振り込んだ10万円がパーなった。「ああ残念だったね」と外の人は言いますよ。その10万円を失うのは当事者です。やっぱり当事者と外部の人間には絶対的な差異、存在としての差異がここにあるわけです。

侵略の軽視、抵抗の暴力という視点の不在

歴史で言うと、ベトナム戦争がそうです。長期にわたる残酷な戦いで、ベトナムの人々が、もうアメリカに抵抗するのをやめて、このまま南北分断、固定化したままでいいじゃないかとか、南ベトナムの腐敗した政権のままでいいじゃないかとか、植民地のままでいいじゃないか。そうじゃないと、ずっと戦争続けたら死ぬんじゃないかって思った人もいたと思います。もうこれ以上戦争をするのは嫌だ。でも彼らは続けること、抵抗することを選んだ。そのことについて、外の人間が「いや、もうやめたほうがいいよ」と言う権利はないと思います。彼ら自身の問題ですから。ましてや、「お前らが抵抗を続けるからナパーム弾とか枯葉剤を落とされるんだ」「お前らが抵抗するのが悪い」と言ったら、相当歪んでいると思います。

でも、ウクラナについてはそういう議論がよくあります。抵抗するからいつまでも爆撃されるというような人がいますが、爆撃しているのはロシアです。フランスについて言うと、フランスはレジスタンスがありました。あのレジスタンスは最初からバーッと立ち上がったのではない。最初は、ドイツに抵抗しても無理だろうとなかなか広がらなかった。それが徐々に広がっていく。でも連合国の政府は、フランス人は抵抗しないだろうと見ていて、ずっとレジスタンスを無視して、親独派のフランス人を取り込もうとする。だから歴史というのは先が見えないんですね。

もう一つ、これは現実の複雑さという話に繋がります。フランスがドイツから解放されたときに、そのレジスタンスたちが対独協力者たちを6千人くらい処刑しています。きちっとした裁判を受けて死刑になった人もいますが、ほとんど裁判もなしに、「こいつドイツに協力した」という程度で殺されている人もいる。こういうディティールをとらえて「見ろ、フランス人もこれだけひどい残酷な殺人をしている、ナチスもフランスも、どっちもどっちだ」とも言える。そういう見方はあっているか、あっていないですね。

あるいは日中戦争でも、日本人居留民が残酷な形で中国人に殺された事件も結構あります。だからどっちもどっちだというふうに日本の右翼はしたがる。大キャンペーンを張っている。通州事件とかです。でもそれは日本が侵略者だったという本筋を否定するわけにはいかない。残酷に殺された人がいることはひどいことだけれども、それは本筋の中で見れば、日本の侵略の中で起きたことです。だから複雑な現実の中で本筋をどう見るかということは非常に重要です。そうじゃないと、ディティールに引っ張られて日本人も中国人も殺し合ったから、どっちもどっちだ。フランス人とナチスも、どっちもどっちだとかいうような話にもっていかれてしまいます。そういうことになってはいけないというのが私の考えです。

ロシア擁護論の由来・ロシア中心的な言論空間

なぜそういうロシア擁護論が強くなったのか。単純な話ですが、われわれの共有空間の中でロシアというものの大きさに比べて、ウクライナはすごく小さい。例えばロシア文学といえば何人も名前が出てくるけれど、ウクライナ文学は誰も思い浮かばないですね。ロシア文学は既に世界文学だけれども、ウクラナの文学は何だかわからないでしょ。大学なんかでも第2外国語でもドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語みたいな感じで、常に主要の側にありました。紀伊國屋に行くとロシア語の参考書はたくさんありますよ。ウクライナ語の参考書ってほとんどないですね。そういう共有空間における存在感の違いは、たぶんそのままロシア中心の目線というものを受け入れるようになってしまったと思います。

最近、ヨーロッパなんかで見直そうじゃないかと議論が始まっているのは、スラブ世界のことをロシア中心に見てきた見方はよくなかったんじゃないか。「脱植民地化」と言うらしいですが、デコロナイゼーションといってスラブ世界、東欧の見方を、ロシア中心の見方から解体していく必要がある。複数の主体があると見ていく必要があるという議論があります。

日本でもウクライナ戦争を、ロシアの研究者が解説することが圧倒的に多く、ロシアの研究者の中にやっぱりロシア中心的な視線の強い人が多いですね。例えば和田春樹さんですね。彼はこういうふうに言います。「ロシアとウクライナは350年間、一つの国だった」「わずか30年前に分かれた国同士なのである」。「だからこのたびの戦争は…ロシアの内戦だと見ることもできる」。僕は非常にこの「と」が引っかかった。ロシア「と」ウクラナは一つの国だった。日本「と」台湾は一つの国だった、日本「と」朝鮮は一つの国だったと言えるでしょうか。もちろん朝鮮や台湾と日本の距離とロシアとウクライナの距離はだいぶ違いますが、それでもやっぱり対等な「ロシナイナ」とかいう国があったのではないですね。ロシアという国の中にウクラナが飲み込まれていた。その中でそれは嫌だと言って、30年前に独立した。30年ってすごい時間ですよ。それをロシアの内戦だと見ることもできるという見方は、非常に危ういと思います。ロシア中心的な目線がある。こういったものが、やはりロシア側から見る雰囲気を作ってしまうと思いました。

同時に、植民地状況から独立していった国の困難というものに対する視点の弱さがあると思います。ポーランドの活動家がそのことを指摘しています。ウクライナはポーランドとロシアによる民族抑圧の中からようやく独立した国なので、その脆弱さの中でもがいていると言っています。私もそういうことだと思います。ロシア擁護論は、言い換えればウクライナ否定論だ、というのが私の考えです。大事なことはウクライナの人々を他者として見ること、主体として見ることだと思います。そのための材料は非常に少ないですが、ようやくウクライナの本も翻訳されるようになってきているので、環境が変わったかなと思います。

ウクラナからの声、知識人、活動家を中心に

最後にウクラナの知識人や活動家の声を紹介したいと思います。私は毎日ウクライナの人々のツイッターを見ています。知識人や活動家の人が多いので、市井の人々とはちょっと違いますが、それでもいろいろと受け取るものがあります。いくつか紹介します。

これはウクラナのツイートでよく紹介される。空襲警報の絵です。空襲警報が鳴るとスマホにこういう図が出る。赤が強いほど爆撃がある可能性が強い地域です。そうするとすぐさまシェルターに入らなければいけない。これは真っ赤になるときもあります。こういうのが毎日、この間までのハルキウでは、1日5回とか空襲警報が鳴っていたみたいです。そのハルキウ人、「私は今、ロシアのミサイルから身を隠すため、自宅のバスルームに座っている。停電で真っ暗な中、震えが止まらない。接続は数分ごとに悪化し、まだミサイルが飛んでくる」というツイートをして、この人は結局ノイローゼンになってハルキウを離れました。こういうようなことがずっと続きます。

戦地でも、ウクライナの人は平気な顔をして戦争をやっているわけではありません。これはトランスジェンダーの人のツイートですが「私は戦争を声高に語ることが嫌いだ。戦争はクソだ。昨日、砲撃でロシア軍陣地を制圧したあと森の中に足を踏み入れた。あたり一面に、ロシア兵の手や足、頭が転がっていた。戦争はクソなんだ」。こういう思いで、しかしやらざるを得ないというのが彼らの状況です。

このアリーナ・サラナツカさんは、もともと暴力の被害を受けた女性NGOで活動家だった人で、戦争が始まった後、医療の心得もあって、地下鉄のホームに避難している時に呼吸困難になったりする人を介抱したりしていた。そうした中で、自分ももっとできることがあると思って衛生兵になって前線に行きます。衛生兵になるということは、次々と周りの人が死んでいくことです。だからずっと彼女のツイートを見ていましたが、ひとりひとり亡くなる度に追悼のツイートを出していた。結局、本人もPTSDになって、今はクラクションが鳴ると、身体が凍ってしまう。後方の任務に戻りましたが、彼女が去年の年末に出したツイートはこうでした。「ファルコン、“旅人”、シュルツ、ウィンター、フロスト、シュリク、ローラが死んだ。“言語学者”、ファントム、“黒い男”、それに祖父も死んだ。重傷者は数えない。彼らはまだ生きているから。それ以外はどうでもいい」。こういう怒りと喪失感のようなツイートです。「ファルコン」とか「旅人」は部隊でのコードネームです。

ウクライナには、そんなに規模が大きくないですが左翼の人々がいます。その中でも、民主的社会主義を掲げている「社会運動」というグループがあり、私はこの人たちにカンパを送る運動をしました。彼らは鉱山とか看護師の労働運動を支援しています。あとはエコロジーとかフェニミズムとか労働相談とかいろんなことをやっているグループで、若い人が多い。他にダイレクトアクションという学生組合があります。この人たちは2000年代初めから、ずっと大学の新自由主義化に反対する運動をやり、文部省みたいなところに座り込みをして要求を飲ませたりしている伝統があるグループです。今でも学生たちが引き継いでいて、最近は西ウクライナでヘイトスピーチをやっていた講師に対する抗議運動をして、キャンパスで抗議したりした大きな動きになりました。

それから、「ソリダリティ・コレクティブス」というアナキストクループがあって、これはハルキウの人たちです。占領から解放された地域の人は困難な生活をしているので、そこにいろんな人道物資を送ったりする運動をしています。抵抗委員会という、自分たちで部隊を作って参加しているアナキストグループがあります。ウクライナには、国軍の他に準国軍みたいなものがあります。民間人が自分たちで部隊を作って登録して、地域の後方の部隊に参加できるので、それで彼らはこういうのを作ったんですね。

この10年は、限りない連帯と共感の年月

最後に「社会運動」の活動家のハンナ・ペレコーダさんという人の言葉を紹介します。この人はドンバスのドネツクの出身です。さっきのタラス・ビロウスもハンナ・ペレコーダも自分たちがこの10年の戦争の時代を、どう自分の家族が生きてきたかということをすごくいい文章で書いています。僕はそういう文章を通じて、本当に現実の中を生きている人たちの姿に触れた気がしました。

ハンナ・ペレコーダが今年の2月に書いていた文章です。「戦争が始まったとき、私は20歳だった。今、私は30歳だ。10年前、プーチンの軍隊は私の大好きなクリミアを占領した。その数週間後、私の生まれ故郷であるドネツクが占領された。10年経っても私は故郷に帰れない。2年前、彼は私の国、そのすべてを奪おうとした。私の人生のこの10年は、絶え間ない怒り、いら立ち、絶望に彩られていた。しかし、この10年は、限りない連帯と共感の年月でもあった。私は、世界中から私たちの闘い(sturuggle)を支援し、私たちの声を届けるために多くの時間と労力を捧げてくれるたくさんの人々に出会った。彼らの貢献は計り知れない。もし彼らが存在するならば、まだ希望はある」。

ここでの最初の「戦争」は2010年のドンバス戦争です。「闘い」は「sturuggle」なんですね。「war」じゃない。この「社会運動」とかアナキストの人たちは、ロシアさえ出ていってくれればそれでいいというのではなくて、やっぱりウクライナはヨーロッパ辺境の国として、新自由主義化の波に襲われている。あるいはソ連時代にいろんな負の遺産もあって、オルガルヒとかの支配がある。そういうのと戦ってきた人たちで、より人間的な社会を作ろうと頑張ってきた人たち、その延長線上で今、抵抗しているということです。

この「社会運動」の人たちは、去年10月以降のガザ地区の攻撃に対して声明を発表しています。「パレスチナの人々への連帯を表明するウクライナからの所感」。正確には「ウクライナの人々からの所感」なんですが、500人ぐらいの活動家や芸術家が署名しました。「私たちウクライナの研究者、芸術家、政治・労働活動家、市民社会の人々は、75年にわたりイスラエルの軍事占領、分離、入植者による植民地支配、民族浄化、土地の剥奪、アパルトヘイトにさらされ、それに抵抗してきたパレスチナの人々と連帯する。私たちはこの手紙を民衆として、民衆に宛てて書いている。…私たちの連帯は、不正義に対する怒りと、私たちが自らの郷土で経験している占領とインフラへの砲撃、人道的封鎖の壊滅的な影響への深い痛みから生まれるものだ。…私たちは、世界がウクライナの人々のために連帯するのを目の当たりにした。私たちは、同じことをパレスチナの人々のために行うよう、全ての人に呼びかける」。

非常にいい声明だと思いますし、また今日の最後にしたかった話が全部書いてあると思います。去年以降、ガザに対するジェノサイドというべきイスラエルの攻撃が続いている。このイスラエルの攻撃に対しては、ウクライナとは逆で、欧米がそれを支援しています。日本もそこに加担している。この二重基準というものが非常に批判されているし、当然だと思いますが、私たちは二重基準を見せた世界の中でいろんな態度がとれると思います。例えば、みんな二重基準やっているんだから好きにすればいい、強い者勝ちの世界でいい、というような見方もできる。これはプーチン政権がそういう声明を出している。侵攻の後に発表するはずだった文章が出てしまい、結局引っ込めましたが、その中で「新世界の到来」、「ロシアのなんとかと新世界の到来」というタイトルの論説がある。そこでは、世界はもう欧米のいうことを聞かないでいいんだ、と。全てのことは世界の諸文明とその中枢が決めるんだ。つまりこれは強い者が決めればいいと言っている。そういうようなニヒリズム的な見方もできる。

あるいは逆に二重基準に見せた世界の中でどれか一つの大国、ロシアという大国の味方をするか、アメリカという大国の味方をするか中国でもいいですが、そういった大国の味方をして、そこから自分の立場を決めるというあり方もあると思います。しかしそうではなく、いろんな大国の思惑で動いている世界の中で、普遍的な基準で、原則でもって世界の人々とつながっていくという道もあると思いますね。ガザの問題で南アフリカが国際司法裁判所に提訴したというのもその方向だと思うし、シリアのクルド人たちもパレスチナ連帯を掲げたように、あらゆる国の若い人たちが「フリーガザ」を叫んだわけです。ここにはやっぱり世界的な普遍的な正しさが、人間の解放という方向があることが示されていると思います。

非常に現実は複雑ですが、その中で私たちはなるべく普遍的な原則に立って判断していく必要があると思います。そう考えたときにウクライナの問題について言えば、ロシアは撤退しろ、侵略はダメだという立場に立つべきだと思うし、事態を見る時にウクライナの人々の主体というものを見ていくべきだと思います。それはアメリカがいいやつだとか、世界的な冷戦構造に賛成だとか、そういうこととは違う。そういったことを見極めながらやっていくべきじゃないかと思っています。

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