私と憲法275号(2024年3月25日号)


岸田改憲を失敗に追い込み、政権交代を

自民党の安倍派などによる裏ガネ疑惑の最中、3月17日に開催された自民党大会は異例の岸田総裁お詫びで始まった。運動方針では「毅然とした外交・安全保障で国民と国益を守り抜く」などと強調したものの、議論にはならず、最後に改憲実現を主張し、「来年は、自由民主党結党から70年の節目の年である。本年中にわが党の党是である憲法改正実現のため、国民投票を通じ、主権者である国民の判断を仰ぐことを目指す」と述べた。

 いつの間にか岸田首相が公言してきた改憲の期限が「総裁任期中」から「本年中」にすり変わってしまった。この理由について、運動方針案には一言の説明もない。

岸田氏の「任期中の改憲」については、この間、日程的に考えても無理だと思った中谷元・衆院憲法審査会筆頭幹事や上川陽子憲法審査会幹事(当時)が、昨年の衆院憲法審査会でしばしば助け舟を出して、「岸田総裁の言う任期中とは、今の任期中だけに限らない。次の任期もある」と述べたが、岸田首相はそれらの発言の直後に「そうではない、今の任期中のことだ」と頑固に言い張った。

 本誌は岸田氏が自民党総裁に立候補して言い出した時から「不可能だ」と指摘してきた。改憲の実現の期限だけが前のめりに設定されて、難問山積の改憲具体化の対策とスケジュールがまともに検討された節がないからだ。

案の定、ぎりぎりのここにきて、突然先送りされた。そして、3か月先送りしても、それが実現する保証がなにもしめされていない。新運動方針は空疎な「決意」を語っているだけだ。

岸田氏が空証文に過ぎない「任期中の改憲」にこれだけ固執したことには理由がある。

党内第4派閥(宏池会)の領袖に過ぎない岸田氏は党内最大派閥の安倍派(清話会)の支持なしに自民党総裁になることは不可能だった。自らの権力欲の実現のために宏池会の伝統的イデオロギーの「リベラル派」の立場を捨て、清話会の改憲派の立場に同調することを担保にして、総裁選での安倍派の支持を獲得し、自民党総裁になり、首相になった。岸田氏は自らの総理総裁の地位を維持するために、党内で2割は固いと言われる極右の岩盤支持層の支えが必要だった。安倍派という座布団の上に座らせてもらった首相だ。

だからこそ、その空手形の「任期中の改憲」をないがしろにできなかった。

ぎりぎりまで引き延ばして、いよいよ不可能という時点で先送りした岸田氏の改憲問題への姿勢をこの極右派はどうみるだろうか。遠からず岸田追い落としの動きが起きることは目に見えている。

折から自民党は安倍派を中心に裏ガネ問題で「派閥の解消」など、大騒動だ。能登半島の大震災への岸田政府の対応は完全に立ち遅れ、失敗だった。岸田内閣の支持率は各調査が軒並み1割~2割台だ。もはや政権としては末期症状を呈している。

これを切り抜けて政権を維持するためには、改憲へと暴走して自民党の極右派である岩盤支持層をつなぎとめるしかない。

自民党は裏ガネ問題の処分のありかたを含め、ガタガタになっている。

解散総選挙は、4月の国政3補選と同時か、6月の通常国会終了時か、そして早めて開催することもありうる9月の自民党総裁選の直後か、いずれにしても次の総選挙を岸田で戦うことを望んでいない党員・支持者が圧倒的多数だ。岸田首相の退陣は時間の問題となった。

岸田首相の下での改憲の実現は不可能だ。いまこそ改憲反対の世論の巨大なうねりで政権交代を実現し、「戦争への道」=改憲を葬り去る時だ。
(高田 健・市民連絡会共同代表)

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第26回 許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会(大分)報告

2月23日~25日、大分市で第26回市民運動全国交流集会が開催された。安保法制改悪につづく一昨年暮れの安保3文書による軍事費拡大と日米軍事一体化の進行、沖縄はじめ全国的に強められる基地強化を背景にして、大分の敷戸弾薬庫新設などの動きに危機感を強めて大分市での開催となった。

23日は午後3時より大分市の「アイネス(大分県消費生活・男女共同参画プラザ)」大会議室で公開集会が行われた。講師は名古屋学院大学教授の飯島滋明さんで、「永遠の戦後」を求めて~軍事体制への動きを止めるために~、と題して講演し、県内と全国の市民運動をになっている人びとが12都府県から140名ほどが参加し講演に聞き入った。沖縄県に国内留学中の飯島さんは、沖縄の自衛隊基地の拡張・強化の実態をほとんどリアルタイムの映像を交えながら報告、講演した(本紙4月号に詳細報告)。

全国の活動を交流、意見交換

24日の全国市民運動交流会議は市内のコンパルホールで10時~17時まで開かれた。午前は藤井純子さん(第9条の会ヒロシマ世話人代表)と山本みはぎさん(不戦へのネットワーク)の司会で進められた。藤井さんの開会挨拶に続いて菱山南帆子さんが基調報告を行った。(別掲)

各地の活動が報告された。各地で19日行動や「3の日」行動などの継続的な取り組みが報告された。また。軍拡に反対する女たちの会の立ち上げや、市民連合の呼びかけによるフェミブリッジが始まったことが報告された。一方、全国各地で基地を抱える地域からは急激な基地強化や活動の強化の報告があった。呉市では自衛隊との「共存共栄」とでも言いたいような事態にもなっている。名古屋では小牧基地や三菱重工への監視を強めていて、3月と11月に東海地域の軍拡に反対する一斉行動に取り組んだ。10月7日以降はガ各地でザへの攻撃に反対する様々な取り組みの報告も行われた。街頭宣伝ではインパクトのある「縦断幕」をその都度準備して特徴を出しているということも紹介された。

大分からは敷戸弾薬庫の課題を中心に報告があった。はじめ2棟の弾薬庫という話だったが7棟が追加されるという。自衛隊の説明会の当時にすでに9棟という計画はあったようだが住民説明会では言及がなく、すでに工事を始めてしまった。防衛上の理由ということで自衛隊からの詳しい説明はない。周囲3kmのところにミサイル連隊と司令部をおき、沖縄にある日米軍事基地の後方部隊に位置付けられて一体化している。周辺住民の被害の対応はどうするのか、友好都市中国との関係はどうするのか、いざというときに沖縄からの避難民はどうするのか。一切答えがない、と敷戸弾薬庫についての実情の報告があった。

沖縄から参加した具志堅さんは、長い間遺骨を収集して家族のもとに帰すことに取り組んできた経過や思いを話した後、沖縄本島南部の遺骨が混じる土砂を辺野古に基地を作るための埋め立ての土砂として使うとは何事か。防衛省に何回尋ねても答えない。全国に弾薬庫を作るというが、それは実はミサイル基地だ。移動式の車で発射する相手は中国で、当然反撃が来る。これでは日本中が戦場になる。これは沖縄だけではなく全国の問題だ。ミサイル基地は全国の自衛隊基地に作られ、地下化するなどで機能強化がすすんでいる。いま、自衛隊が軍隊に変わっていく、と危機感を訴えた。

その他、毎年の成人式にチラシを配布しているが、会員の年齢アップが課題だという悩みも報告された。熊本からは、台湾のTMSC進出に関連して、阿蘇山を源にする豊富な地下水が心配されている。台湾では市民団体が反対をしている。また、土地規制法の適用が進んでいることについても情報交換があり、地域によって対応に差がある。内閣府の情報などもみて恣意的に運用させないよう監視していくことが第1だとして、監視経験の報告もあった。

最後に開催中の通常国会での改憲動向について、岸田首相は任期中の改憲に固執している。憲法審査会では、衆議院で緊急事態条項について作業部会を作って改憲条文案を作るということを自民党は出そうとしている。しかし緊急事態条項といっているのは緊急時の議員任期延長についてだけで、緊急時の政令、財政、人権など議論の遡上にもない。4月の補選をはじめ衆議院選挙も控えておりともに頑張ろうとして終了した。

敷戸弾薬庫をめぐるフィールドワーク

2月25日は敷戸弾薬庫をめぐるフィールドワーク。大分駅をバスで出発する。出発から間もなく住宅地の中を進み、戸建て住宅が続く傾斜地の新興住宅地が広がる、広がる。東京でいえば多摩地域の住宅地のようだ。傾斜地を登り切って幼稚園の横にバスを停車すると、目の前が自衛隊基地だ。バラ線の塀の中には火気厳禁と書いたドラム缶が点在する。しかし古びていて役立つものかと首をかしげるような代物だ。公営アパートが並ぶ高台から基地を見渡して、自治会長さんが周辺の施設を説明をしてくれた。基地の周りには個人の住宅のほかに公営アパート、保育所、学校、建設中の病院、大分大学、国道、JR豊肥線が走り、ちょうど電車が走ってきて駅に止まるのも見下ろすことができた。自衛隊基地内の建物もよく見える。高台から降りて南門に移動すると、国道には渋滞まではしていなかったが車の利用が多いことは分かる。国道はミサイル搬入のトレーラーが移動するために、すでに拡幅工事が始まっている。大分大学の学生なども利用する豊肥線の線路も並走していて、駅もある。自衛隊基地に隣接している小学校は、基地の草地部分との境界がわからず、そのまま入り込んでしまうのではないかと思うような場所も見受けられる。

まさに住宅地で囲まれてしまった基地に、弾薬庫をトンネル式に作り、そこにミサイルを保管する危険性は計り知れない。軍事は機密なのだから住民への説明と納得は必要がないというのが、岸田政権が進める軍事力拡大の実態なのだ。しかも全国に130か所も新設する計画がすすんでいる。日本全土を軍事化し米国の指令の下に中国と対峙する計画の危険性は、そこに住む人々の命や人権とはかかわらない「国」の安全のためである断面を敷戸基地で見せつけられたフィールドワークであった。

基調提起

菱山南帆子(市民連絡会事務局長)
去年の大阪での全国交流集会後から1年間、様々なことがありました。戦後最悪の通常国会と言われた通常国会では、軍需産業支援法に軍拡財源確保特措法案など戦争に繋がる法律が大量に通されました。昨日の飯島さんの講演でもお話があったように岸田政権になってから軍事費が爆上がりしています。衆議院の憲法審査会は過去最多の回数で開催され、改憲への議論が進められました。

本日、24日でロシアのウクライナ侵略から2年になります。破壊と殺戮は続き戦争の周辺への拡大のリスクも高まってきています。また、一方でイスラエルによる植民地支配に対するパレスチナハマスによる反撃を口実にしたすさまじいジェノサイドは、今ラファに追い詰められたパレスチナ市民に対する一斉攻撃になろうとしており、死者は3万人以上にも上っています。昨日の開会あいさつでも私は話しましたが、人は生まれる場所も時も選べませんから、今、私たちは何をすべきかということを考えて実践していかなければなりません。引き続きパレスチナ解放のための運動に取り組んでいきましょう。

日本は当初、アメリカの顔色を窺って国連の停戦決議に棄権をしていましたが、国内外のジェノサイド反対デモや多くのイスラエルによるガザ地区への攻撃への抗議の声に押されるかのように、再度の国連の停戦決議に賛成に転じるなどの変化がありました。市民の声が動かしたのです。伊藤忠がイスラエルとの軍事企業との協力を切ったのも市民のあきらめない運動の成果でした。

しかし、今、日本政府は殺傷能力武器の輸出を解禁しており、人々の命を奪う戦争に日本産の武器によって加担してしまうことに繋がります。憲法9条を持つ日本が殺傷能力武器を輸出するなど絶対に許せません。私たちが軍拡反対、戦争反対、命が大事という市民運動を強めることは、日本が戦争に武器の輸出という形で加担しないようにすることに繋がります。

去年の臨時国会では公明党の北側氏が改憲派だけで作業部会を作り、改憲条文の案を作ろうなどと言い始めました。憲法審査会において、そのような暴挙は許されません。東京では傍聴行動や院内集会を開きながら監視抗議行動を行ってきました。年末にも閉会中審査で改憲議論を進めることを改憲派はもくろんでいましたが、自民党の裏金問題で一気に打ち破られ、今に至ります。

年明けには能登半島での大震災がありました。いまだに被災地では復旧が遅れており、断水が続いている地域もあります。岸田首相、石川県知事の馳氏は震災から2週間経っても被災地を訪れませんでした。訪れないどころか被災者救出よりもまず打ち出したのは北陸応援キャンペーンでした。みんなで格安で旅行に行って被災地を応援しようというキャンペーンです。まだ瓦礫の下敷きになっている人たちがいるのにも関わらず、一体何を考えているのでしょうか。食料も水もままならない、入浴もできず、お湯もなく寒さで凍えている被災者たちが多くいる中での、北陸応援キャンペーン。コロナ禍でのGoToキャンペーンを全く反省していない証拠です。命よりも企業、命よりも金。露骨なほどに現れたものです。

この能登半島には原発を作るという計画がありました。今回の地震で能登半島は西へ1メートル以上移動しました。もしもそのような場所に原発があったらどうなっていたでしょうか。さらなる大惨事になっていたことは間違いありません。つくづく地震大国日本に原発はいらないと皆さんが思ったと思います。しかし日本政府は相変わらず、原発推進姿勢を崩さないままです。また、馳知事は最近発表された石川県予算の中で1000万円を大阪万博に出す予算を組んでいたことが分かりました。その1000万円でどれだけの人たちが温かいご飯や救助作業が進むのでしょうか。救援のために石川県になけなしのお金を寄付をした市民はたくさんいます。大阪万博のために募金をしたわけではありません。ここでも命よりも金の体質が浮き彫りになってきます。

沖縄の辺野古新基地建設もそうです。何度も示されている沖縄の民意を踏みにじった大浦湾の埋め立ての代執行など、地盤的にも不可能な辺野古への新基地建設をこれだけごり押しするのも、大きな力とカネによるものです。そのためならば、民意だって環境だって無視したり、壊したってもいいんだという暴力的な行いに現地の仲間と連帯して闘い孤立させてはなりません。

辺野古新基地建設への動きに加えて、南西諸島での軍事化も深刻です。南西諸島に自衛隊基地が駐在し、台湾有事での足場にしようとしています。沖縄をはじめ、島々では弾道ミサイル飛来に備えて頭を抱えさせる、シェルターに逃げる、学校現場では防災頭巾をかぶらせて避難行動の練習をするなど、戦時下訓練が行われています。実際に数カ月前の沖縄でJアラートが鳴り、着弾後にも関わらず、全チャンネルでアナウンサーがヘルメットをかぶって、避難を促すアナウンスを繰り返していました。異常事態です。こうやって戦争への準備を煽っていると思いました。

また、ここ大分で、3日目のフィールドワークで現地に行きますが、敷戸弾薬庫の問題もあります。昨日の飯島さんのお話にあったように九州に限らず日本全国が基地化しようとしています。戦争への準備、そして戦争への心の準備に対抗していかなければなりません。

さらに先日不当な行政代執行を受けた、群馬の森朝鮮人慰霊碑撤去事件のように歴史修正改ざんも始まっています。群馬の森に私も駆けつけましたが、本当にひどい状況でした。朝鮮人慰霊碑一つを撤去するために、東京ドーム5.5個分もの広大な広さを持つ群馬の森公園を全面封鎖し、外から中が一切見えないよう高いバリケードを立てて、ちょっとでも近づくとバリケードの隙間から警察がにじり寄り、公安の車が背後に付けてくるという状態でした。朝鮮人慰霊碑は撤去どころか粉々に破壊されました。粉砕して撤去するというところに意図的なものを感じます。

若年女性支援団体のColaboが不正をしていないのにも関わらず、不正だ!と騒ぎ立て、活動を停滞させ、甚大な被害を被ったときと同じく、右翼団体そよ風などが、群馬の森の朝鮮人慰霊碑は撤去だと騒ぎ立てて今回のように撤去に至るようになってしまった経過は実に似ています。騒いだもん勝ちのような形で向こう側に成功体験を与えてしまいました。ちなみにColaboも活動拠点であった新宿歌舞伎町を追い出され、その後、後釜のように居座った団体のバックは日本保守党でした。第2、第3の群馬の森を出さないように私たちは常にアンテナを張って逆コースに行こうとする勢力と対峙していかなければなりません。

どうすれば戦争を阻止し、平和を実現できるのか。それは何よりも憲法を破壊し、戦争へと暴走する政権を倒し、憲法を実践する政治へと市民の力で国会外から圧力をかけて変えていくことです。最近国税庁が市民に向けて掲示し始めたポスターは、「脱税は犯罪です」というスローガンが掲げられています。ぜひ裏金議員のポスターの横に貼りたいくらいです。お腹が空いて100円のおにぎりを盗んだら逮捕されるのに、なぜ何千万円もの裏金つくりという脱税はお咎めなしなのでしょうか。裏金問題にみられるような金権腐敗政治と軍国化政策の共通点は、命をないがしろにすることです。金権腐敗政治を追放していくということは、私たち市民が主役の社会を作るということに直結していきます。

最近始まった運動の中で、とりわけ目立つのは女性たちの立ち上がりです。女性の権利、女性の解放を訴えるのと同時に軍拡に反対し、戦争に反対する運動が広まっています。ジェンダー平等が実現される社会には戦争は無いからです。ジェンダー平等と反戦運動は一体のものです。最大の暴力は戦争だからです。

去年の2月8日に結成された軍拡に反対する女の会、9月からスタートした市民連合のフェミブリッジ。これらは一気に全国に広まって市民運動を活性化しています。市民連合のフェミブリッジとは、フェミニストのブリッジ=女の架け橋という意味を込めた造語です。妊娠出産、中絶、性被害、入試差別、就職差別、賃金差別と女性たちは様々差別を受けています。今まで多くのツラい思いを受けて生きてきたのだから、もう私たちはこれからは楽しいことだけして生きていこう!戦争も闘う覚悟も全く関係のない世界を実現しようと、痛みに共感し、展望を共有する運動を展開してきました。このような運動を市民連合で始めたということはとても画期的なことだと思います。

このフェミブリッジで掲げているスローガンがいくつかあるので、ご紹介します。「自民でも維新でもない私たちの選択肢」「ミサイルよりも笑顔で暮らせる日常を」「さようならマッチョ政治」に加えて、新しく加わったスローガン、「金権マッチョ自民にNO!」「未来は女の一票で」です。ちなみにこの中で言われている「マッチョ」とは一体何を指すのでしょうか。決して「マッチョ」な人を指すのではなく、マッチョ政治とは、ヒエラルキーの中でしか生きられない、権威主義・しがらみ・忖度・ボス交の中で息づくものを指します。松本人志さんはまさにマッチョ社会そのものです。

権力の方向を向きながら自分の立ち位置を取っていくようでは、根本的な搾取構造は変わりません。ボス交にような、力のある者同士で物事を動かそうとするのは、民主主義を信じられていない証拠だと思います。その中で女の連帯・シスターフッド(姉妹愛)という言葉が輝いてくる。この女の連帯やシスターフッドの先にあるものは平等な関係性、平等な関係性には安心感がある。そのような平等な関係性を強めていく中で社会構造が変わっていくのだと思います。

普段から自分の立ち位置や運動の目的がぶれないように日頃から意識して行動していかないと、所属する組織やコミュニティの在り方や権力を批判しながら良心を貫くのはとても難しいです。例えば、アジア太平洋戦争の時に、侵略戦争や植民地支配を礼賛しないと生きていけない、食べていくには仕方ない状況の中で転向していく人はたくさんいました。そうならないように歴史を学んでいくことが大事です。

最後に、市民運動の重要性を私の経験から話したいと思います。今年の初めに私の地元、八王子市で八王子市長選挙がありました。そこで統一候補を立てて、選挙を闘ったのですが、事前の世論調査では何度も私たち側が有利な数字が出ていました。しかし、最後の最後で、小池百合子氏の録音音声によるオートコールなど自民公明の必死の金を使った巻き返しにより、負けてしまいました。そういったところに裏金が使われているのだと思いました。八王子市長選の翌日に萩生田議員は「実は私の事務所の引き出しに2728万円裏金が入っていました」というカミングアウトがありました。卑怯極まりありません。

この八王子市長選挙の統一候補は、都民ファーストの人の方でした。都民ファーストの人と私たちは一緒にはできません。しかし一緒にやらなくては負けてしまいます。

悩んだ私たちは、女性たちを中心に候補者に何度も、「一緒でなければ負けるんだ。それでいいのか」と説得をしました。その結果、候補者は都民ファーストを離党し、小池百合子氏とも手を切りました。小池百合子氏よりも市民と野党の共闘を選ぶよう、度重なる声掛けに答えたという形となりました。

よく保守層を取り込まないと、と言われますが、保守層を取り込む=こちらが譲るというような印象があります。しかし今回八王子市長選挙では、元自民のおじさんや自民党員の元市議会議員や元衆議院議員をも巻き込みましたが、決してこちらが信念を譲ったりぶれることはありませんでした。政策も姿勢もこちらは一つも譲らず、向こうに腹五分目でやるんだ!と主導権を最後まで市民が握りました。

このようなミラクルな共闘体制が出来たのは、日々の市民運動。毎月定例の集会以外に何度も顔を合わせ、会議や、何か緊急の時には緊急行動をする。約10年間の積み重ねと信頼関係あってのことです。市民運動の底力を見ました。元自民党のおじさんたちもすっかり今や市民運動の虜になっています。今まで動員された人々しか見たことがなかったので、自発的に運動に関わる市民の取り組みを見て感動したのです。なんやかんや言っても最後に頼るべきものは私たちの市民運動なのです。この市民運動をさらに深め、広めて、楽しいものにしていくためにも今日は皆さんと意見をだし合いながら丸一日充実した交流会にしていきたいと思います。

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新刊紹介

清水雅彦(日本体育大学教授)著
「憲法入門~法・歴史・社会をつなぐ~」(2024年3月・大月書店)

小川良則(憲法9条を壊すな!実行委員会)

清水雅彦さんと言えば、19日行動でスピーチしたり各地の市民運動の会合に講師として招かれるなど「行動する憲法学者」として名高い。その清水さんが今般、法学部生でなくても憲法に親しむとともに、現在の問題状況について考えるための手引書ともいうべき著書を上梓された。

「法・歴史・社会をつなぐ」というサブタイトルからもわかるように、本書は単なる条文解釈を扱ったものではなく、その規定が生まれた歴史的背景を近代市民社会の形成過程にまで遡って解き明かすとともに、現実に起きている問題の構造と本質を判例等も紹介しつつ明らかにするという構造になっている。そして、各章の冒頭には、ファッションの変遷や映画の話題など、読み手の緊張をほぐしながら本題に入っていけるような工夫が施されている。

序章では、電車内での痴漢被害や部活動での理不尽な仕打ち等を取っ掛かりとして、声を上げることの重要性を説く(9~11頁)とともに、自由権(国家からの自由)や社会権(国家による自由)等の人権のカテゴリーを歴史の発展段階との関わりの中で説いている(14~18頁)。また、第1章では、自らの手で近代市民革命を経験していない日本の社会に色濃く残る旧来の世界観に由来する「同調圧力」の問題を取り上げるとともに、人権は人類多年の努力の成果であり、不断の努力で保持すべきものであるとする憲法97条や12条の意義を説いている(19~23頁)。

憲法の本質は権利章典だが、あくまでも国家と市民の関係を規律するものである。とはいえ、実際には人権侵害は企業や学園等の場でも起きている。そこで、これを解決する法理として持ち出されるのが私人間の契約でも公序良俗に反するものは無効とする民法第90条で、この「公序良俗」とは憲法秩序を指すと解釈することで、間接的に憲法が適用されることを明快に説いている(23~24頁)。

また、人権の制約原理として登場する「公共の福祉」について、権利間の調整原理ととらえることを基本に、内在的制約説や比較衡量論等の学説史も紹介した(24~27頁)上で、人権の上に「公益及び公の秩序」を置く自民党の改憲案を批判している(29~30頁)ほか、外国人の人権についても触れている(27~29頁)。

各論編では、人格権・プライバシー権と監視社会の問題(34~40頁)や、平等原則に反する根強い家意識の問題(41~52頁)が取り上げられ、内心の自由との関係では、麹町中学校内申書事件や三菱樹脂入社拒否事件、学校現場における「日の丸」「君が代」の強制に関する判例を批判的に取り上げている(13~59頁)。

 また、政教分離の項では靖国問題(63~69頁)を、表現の自由・報道の自由の項では政府による特定の番組への介入や高市総務相(当時)の電波停止発言、さらには秘密法制の問題(70~87頁)を、学問の自由の項では学術会議の任命拒否問題(88~94頁)を取り上げている。いずれも、極めてタイムリーな話題であり、歴代自民党政権の無法ぶりを浮き彫りにするものである。
さらに、人身の自由と適正手続の項では、なぜ被疑者や被告人の人権が保障されなければならないのかを説いた上で、加熱する犯罪報道に煽られた厳罰化容認の世論や犯罪被害者の権利の問題に一石を投じている(101~116頁)。

 このほか、生存権の項では、生活保護の水準が争われた朝日訴訟の最高裁判決が原告本人の死亡により訴訟は終了したとしながら、「なお念のため」として、具体的な基準は政府の裁量とすることで実質的にプログラム規定説を採ったことを批判している。ただし、敗れはしたが訴訟を通じて実態が知られるようになった結果、生活保護基準が大幅に引き上げられたから無駄ではなかったと述べている(125~129頁)。ここでも、序章の「声を上げることの重要性」が改めて確認されたと言えよう。後段では「自助」が強調される反面「公助」を後退させた自民党改憲案を批判するとともに、コロナに便乗した緊急事態条項導入論や、保健所の統廃合で地域医療のインフラを疲弊させコロナ禍における医療崩壊を招いた新自由主義改革を批判している(133~134頁)。

 また、教育の項では、「国民の教育権」と「国家の教育権」という根源的な問題まで遡った上で、「こどもの権利条約」も踏まえつつ、教育基本法の全面改悪を批判するとともに、教育無償化のための改憲論の欺瞞性を暴いている(135~151頁)。なお、筆者から蛇足的に付言すると、改憲派が憲法調査会の発足当初から既に学説上も実務的にも決着済の憲法89条と私学助成の問題を蒸し返してくるのは、財政面からの政教分離の規定に手を加えることによって靖国神社の国家護持に道を拓くのが真の狙いであり、本書でも統治規定の部で触れている(233~236頁)。ちなみに、憲法調査会の与党筆頭理事等を歴任した船田元氏は作新学院の経営者の一族であり、現憲法下で私学助成の恩恵に浴している当事者である。

 統治規定の部では、象徴天皇制と国事行為や元号制、祝日の関係等を概観した後、そもそも特権的身分制度と主権在民の原則は矛盾することを指摘しつつ女帝論にも触れている(164~174頁)。

9条の関係では、戦争違法化の国際法の歴史の文脈の中に位置づけるとともに、平和的生存権という「人権」の問題としてとらえた憲法の構造を画期的なものであると指摘している。もちろん、安保法制や安保3文書への批判も忘れていない(175~191頁)し、統治行為論など司法消極主義の問題も取り上げた(217~223頁)上で、裁判官の人事も内閣が握っている構造の下での自民党長期政権の弊害も指摘している(225~226頁)。

財政の項では、時局収拾までを1会計年度とし経費を戦時公債で賄った戦前の反省から複数年度予算や公債の発行を批判している(234~236頁)。また、地方自治の項では、沖縄の現状を対置しつつ憲法理念と現実の政治との乖離を指弾するとともに、道州制につながりかねない自民党改憲案を批判している(2474~248頁)。最後に、改正の項では、これまでの改憲論の特徴を時系列に取り上げた上で、自民党の改憲案はもとより統一協会の改憲案も批判するとともに、改正の限界についても触れている(249~259頁)。

本書を読んで改めて思い出したのが、筆者の恩師の一人である小林直樹さんが1964年に岩波書店から刊行した「日本国憲法の問題状況」の第7章「国民世論と護憲運動」である。すなわち、①日本の社会になお残存する前近代的な要素と政治的無関心が保守勢力を支えてきたこと、②貧困は革新の発条となりうる反面、支配者への蒙昧な随順や怯惰な屈従を作り出してきた歴史は今日の憲法状況にも当てはまりうるのである。60年前の指摘が今でも通用してしまうことに忸怩たる思いを禁じ得ない。

ともあれ、本書はいま目の前で具体的に展開される政治状況を読み解き、行動するにあたっての導きの糸となるものであり、座右に置き、何かある度に読み返してみることをお勧めしたい。

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第180回市民憲法講座「パレスチナ・ガザのジェノサイドについて」

岡 真理さん(早稲田大学文学学術院教授)

(編集部註)2月17日の講座で岡真理一さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。

ガザで今起きていることはジェノサイド

今ガザの北部を追われ中部に来て、中部も追われてガザ230万人住民の200万人が家を追われています。そのうち150万人がエジプトに境界を接しているラファという町に難民となって集中していて、そこが攻撃にさらされています。エジプトがガザに接しているエジプト側のところを、ブルドーザーで地ならしして壁を作っているそうです。つまりバッファーゾーンを作って、イスラエルの侵攻があったら、ガザにいる150万の人たちがフェンスを越えてそこに来る準備をしている。

昨年10月7日の攻撃が始まり2週間後に、これはもうジェノサイドだということです。でも日本のマスメディアが全然その問題の本質を伝えない。「憎しみの連鎖」だとか「暴力の連鎖」というような言葉でまとめて、「イスラエルとパレスチナの紛争の背景には複雑な、入り組んだ歴史があります」「一言では語れない歴史がある」というようなことを言って、歴史的な文脈というものを全く覆い隠している。なぜ今こんなことが起きているのか。これは10月7日に始まったことではないということをとにかく伝えなければという思いで、10月20日と23日に京都大学と早稲田大学で緊急の学習会、セミナーを開催しました。そこでお話しさせていただいたことが「ガザとは何か」というタイトルで、大和書房さんから緊急出版されました。今日のお話は、そこで語ったこと、さらにそこから考えたこと、その後の話などもあります。

最初にポイントを4点だけお話しします。ガザで今起きていることは「ジェノサイド」です。しかしジェノサイドが、今起きていることの本質ではないということをお話ししたいんです。

今起きていることは「ジェノサイドである」。モンドワイスというアメリカのパレスチナに関する情報サイトがあります。時差があるので昨日の段階の数値ですけれども、攻撃が開始されて133日、133日もこのジェノサイドが続いているということ自体が、もうあってはならないことです。ところが4ヶ月以上も続いているので、メディアはほとんど報道しなくなっています。これが1日、また1日と続くこと自体が、本当にとんでもないことが続いているということです。この133日での死者。これはガザの保健省当局が身元等をしっかり把握している限りにおいての数ですけれども18,775人、負傷者は68,552人です。しかし瓦礫の下にまだ埋まっている遺体、行方不明者ですね、行方不明者が7,000人から8,000人と言われています。砲撃や爆撃を受けて瓦礫になったその下に、まだ救出されていない遺体が7,000体から8,000体あるということ。これも足すと3万5,000人を超えます。

ガザというのは14歳以下の子どもたちが人口の4割を占めています。ということは、12,000人以上の子どもたちが亡くなっていることになります。1ヶ月前、103日目のとき24,448人でした。わずか1ヶ月で子どもたちが4,000人亡くなったということです。毎日100人以上殺されています。ときには200人近くも殺されています。この間テレビを見て「えっ?」と思ったのは、ウクライナでは無人ドローンでウクライナ市民7名が殺されたというニュースをやっていて、もちろん亡くなった1人1人の命には同じ価値があります。けれども、ウクライナで7人殺されたことがニュースで報道されて、なぜ毎日100人、時には200人近く殺されている。そのジェノサイドが日1日と続いている。それが報道されないんでしょうか。あるいは報道されたとしても、そのことの重大さに見合った質の、あるいは量の報道がなぜなされないのか。

しかしそのジェノサイド「が」問題の本質ではない、というのはどういうことか。東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区、東エルサレム、ガザも1967年にイスラエルに占領され、東エルサレムは併合されてしまいました。昨年10月7日の攻撃が始まってからこの4ヶ月ちょっとの間に、394人を超えるパレスチナ人が殺されている。このことは、ガザのこのジェノサイドを一種のスクリーンにして、その陰では西岸の民族浄化が進んでいるということです。このことがほとんど報道されない。1ヶ月くらい前、西岸のことをやっていましたが、ガザで攻撃が激化して西岸でもこのような攻撃――パレスチナ人に対する攻撃が起きています、みたいな報道だった。「違うだろう」と。これはもっと前からずっとあるんです。とりわけ今年は9月までの時点で入植者及びイスラエル兵による暴力事件が約600件、そして既に10月7日の攻撃が始まるまでに100人以上が殺されている。だから、それは常にあったのが「激化している」。それがあたかも10月7日以降に始まったかのような報道でした。これは、今西岸で起きているこの事態も合わせて考えないといけないということです。

1947年に始まるパレスチナの民族浄化、パレスチナからその先住民であるところのパレスチナ人を民族浄化するということ。これが1947年からずっと続いている。それが今完遂を目指して、ガザではこのようなジェノサイド攻撃があり、南のラファに住民たちの8割を集めて、あとはもう地上侵攻をしたら、その者たちがエジプトにエクソダスですね、「出エジプト」の逆です。そのガザをほとんどパレスチナ人がいない状況にする。それと並行して西岸でもパレスチナ人が日々殺されているという状況が起きている。これは合わせて考えなくてはいけないということです。

巨大な難民キャンプ→世界最大の野外監獄→21世紀の絶滅収容所

ガザとは巨大な難民キャンプでした。1948年にパレスチナにユダヤ国家を企図する。ヨーロッパのユダヤ人によるユダヤ人のためのユダヤ人の国、イスラエルが建国される。パレスチナ人住民、パレスチナ人100万人以上が住んでいる。そこに限りなく100%純粋に近いユダヤ人がマジョリティを占める国家を作ろうとしたら、もともとそこにいるパレスチナ人を民族浄化、追い出すことによってしか、それは実現できない。イスラエル建国に伴う民族浄化によって、当時パレスチナに住んでいたパレスチナ人の4分の3に当たる75万人以上が家を追われ、故郷を追われ難民となりました。国境を越えてレバノンに行ったもの、シリアに行ったもの、ヨルダンに行ったもの、あるいはエジプトに行ったものといますけれども、48年には占領を免れた東エルサレム、ヨルダン川西岸地区、そしてガザ地区に行った者もいます。これが67年に占領されてしまいます。

ガザ地区には20万人が難民となっていきました。その当時のガザの人口は8万人です。もともと8万人しかいないところに20万人が難民としてやってきた。ということは、ガザの人口のマジョリティはこの48年の民族浄化で難民となった者たちです。つまり、このちっちゃいガザ地区自体が一つの巨大な難民キャンプだったということです。それが67年にイスラエルの軍事占領下に置かれ、そして2007年以降はイスラエルによって完全に軍事封鎖されます。世界最大の野外監獄と言われるようになるわけですが、それが10月7日以降はもはや野外監獄ですらない。21世紀の絶滅収容所と化している。

イスラエルとは入植者による植民地主義国家

イスラエルとは何か。19世紀末のヨーロッパでパレスチナにユダヤ国家をつくるというプロジェクト、これをシオニズム、政治的シオニズムと言います。そういう政治的な運動が誕生します。1948年、パレスチナ人を民族浄化することによってパレスチナにユダヤ国家――ユダヤ人がマジョリティを占めるユダヤ国家――イスラエルが建国されます。大英帝国の軍事力を利用して、パレスチナにヨーロッパのユダヤ人が国をつくった。つまりイスラエルというのは、アメリカやカナダやオーストラリアや、あるいはアパルトヘイトの南アフリカの白人国家と同じ、入植者による植民地主義国家です。もう一つ非常に分かりやすい例を挙げれば満州ですね。満州というのは大日本帝国というものがつくった、入植者による植民地主義国家であったわけです。現在イスラエルが支配している全域、すなわち48年にイスラエル国家となった地域、および67年に占領した東エルサレム、ヨルダン川西岸地区、カザ地区、これらすべてがユダヤ人至上主義のアパルトヘイトが敷かれているということです。

今ガザで起きていることはジェノサイドです。この現在進行形のジェノサイドという暴力の根源にはこの入植者、植民地主義国家としてのイスラエルという問題があります。すなわちイスラエルが植民地主義的な侵略によって、そこにもともと住んでいたパレスチナ人を民族浄化することによって作られ、現在に至るまでアパルトヘイトの体制を敷いている、こうした暴力があるということです。

10月7日の攻撃は、「ハマースが」「ハマースが」と言われます。けれどもハマース主導によるものであって、そこに参加しているのは、ファタハのアル・アクサ殉教者旅団であるとか、それからPFLP、これもマルクス・レーニン主義を掲げているバレスチナ人民解放戦線であるとか、これまでバレスチナをイスラエルの支配、植民地支配あるいは占領からの解放を企図して結成された様々な武装組織があります。ハマースというのは、この脱植民地化を目指し、脱植民地化闘争を戦う民族解放組織であるということです。今、ハマース―イスラエル戦争、紛争とか、あるいは戦闘とか言われているけれども、これがイスラエル側の主張では、テロリスト、ハマースによる「テロとの戦いである」、「テロに対する自衛の戦いである」という構図になっていると思います。多分、ここに今日こられた市民の皆さんは、今すぐ停戦しろ、ジェノサイドをやめろという、そういった立場の方たちであると思うんです。けれども、デモに参加して「今すぐ停戦」、「即時停戦」、「ジェノサイドをやめろ」と主張されている方たちの中には、これは対イスラエルの自衛だとしても、もはや自衛ではないのではないか。つまり、テロリスト、ハマースからテロ攻撃を受けたイスラエルが自衛の戦争を行っているけれども、今やっていることは自衛というにはあまりに過剰ではないか。これはジェノサイドだという、そういう理解で、攻撃をやめろと、子どもを殺すなと叫んでいらっしゃる方もおられるのではないかと思います。

でもそうではないということ。いま起きていることは止めなければいけない。だからどんな理解であれ、即時停戦、ジェノサイドをやめろと主張する、その声を今糾合するということは大切です。けれども、この「ジェノサイドが問題なんだ」と理解するとしたら、それは「理解」ではなく「誤解」です。私たちは、なんでジェノサイドをやめろというのか。ジェノサイドだけが問題なのか。今こうやって攻撃にさらされ、殺されているから問題なのか。そこの視点からは、要するに西岸でも殺されているというのは見えなくなるんです。殺されているだけじゃない。西岸がどういう状況に置かれているか、あるいは10月7日以前のガザがどういう状況に置かれているのか。憲法9条の会は全国各地にありますが、私は「憲法9条イスト」ではなくて「憲法前文ニスト」と言っているんですけれども、日本国憲法のその前文の理念ですね。それにのっとったときに「ジェノサイドをやめろ」だけでいいのかという、そこが問題の本質ではないということを今日はお話ししたいと思います。

歴史ある近代都市をイスラエルが何度も攻撃と破壊

先ほど地図もなく説明してしまったので、わかりにくかったかもしれませんが、ここが日本でここにパレスチナがあります。ほぼ同緯度ですね。ということは今冬なんです。ガザはすごく寒い。雨が降って。その拡大図、ここがパレスチナでパレスチナの拡大図がこれです。この青い部分が48年に占領されてイスラエルとなった部分、そしてここがヨルダン川西岸地区、ここがガザ地区ですね。これとエジプトのシナイ半島とシリアのゴラン高原が1967年の戦争で占領された。東エルサレムとゴラン高原はイスラエルに併合されました。シナイ半島はエジプトとイスラエルの単独和平によって82年までに全面返還されていますが、西岸、ガザは依然として併合ないし占領されている。これも全部国際法に違反しているし、安保理決議にも違反しています。

これがガザ地区の拡大図になります。地中海に面していて、ここが大体40キロぐらい、そしてこのエジプトに面している、ここが10キロぐらい。ここは4キロ。地中海からこのイスラエルとの境界まで歩いて1時間ぐらいで行けてしまう、それぐらい小さな地域です。360?に230万人が住んでいます。このガザ・シティというのが一番大きな都市です。この地区の一番大きな都市のガザにちなんでガザ地区と呼ばれるようになりました。ジャバリアというのは難民キャンプです。今回の攻撃で壊滅しましたけれども、北部の人口は100万人ですから、ジャバリア難民キャンプは1?あたり10万人という人たちが住んでいるんですね。

ガザ・シティの歴史です。私たちは破壊されたガザしか知らない。みんなテントで暮らしていて子どもたちが食糧を求めたり難民となった。そういうのしか知らないわけですね。でも、ガザってすごい歴史がある。日本よりはるかに古いです。4000年前に遡る歴史があるんですね。さまざまな王朝・帝国の支配下に置かれ、アレキサンダー大王の征服後、ヘレニズムの文化の拠点になりローマ時代を通じて繁栄し、その後ローマがキリスト教を国教にしたらキリスト教に改宗が進みました。637年にアラブ・イスラームによって征服されるとイスラームへの改宗が進み、10世紀くらいになるとムスリムがマジョリティになり、そしてオスマン朝下でも繁栄するという、そういう都市なんですね。だから遺跡もいっぱいあります。その文化遺産も今無差別に破壊されています。

このガザ地区が2007年からイスラエルに、またエジプトによって封鎖されてしまっている。では、封鎖が始まって何度も攻撃される前のガザどんなだったのかというと、こういう「都市」なんです。大学で学生に見せたら、ガザって見る写真は爆撃されてみんな灰色のものばっかりだと。でもこんなカラフルなんです。どうでしょうか。東京と比べても遜色ないというか、超高層ビルはないけど高層ビルだってあるし、向こうは地中海ですね。海の側から撮るとこんな高層ビルもあります。こんな綺麗な街だった。こんな綺麗な都会です。この写真を見ただけで、ガザのパレスチナ人がどういう生活をしているか想像つきますよね。つまり私たちと同じ都市生活、近代的な都市生活をしている人たちだということが、この写真からもわかると思います。それがこうなってしまった、ドミサイドと言われています。ジェノサイドに対して、ドミサイド、ドミシール、住宅のことです。住まいのことです。住まいを破壊する。今はもうガザの住まいの60%が全壊ないし半壊になり、そして65万人がたとえ停戦になったとしてももはや帰る家がなくなってしまったという状況です。

ガザがこのような一方的な殺戮と破壊に見舞われるのは今回が初めてではありません。日本の報道を見ていると、あたかも10月7日に全てが始まったかのような報道ですけれども、2007年に封鎖されて、ガザから出ることはできないんです。ガザに閉じ込められている逃げ場のないその人たちに対して、封鎖が始まって1年半後の2008年から2009年にかけて22日間、1400人が殺されました。2012年11月、8日間で、また100人以上殺されました。そして10年前の2014年7月から8月にかけての51日間、2000人以上が殺されました。民間人の死者は1463人、子どもたちは500人が殺された。2021年にも15日間で、200人以上の民間人が殺されましたが、この8日間とか15日間程度では、日本のメディアはほとんど報道しません。でもガザというのは、パレスチナというのは「最悪を更新し続ける」んです。

「漸進的ジェノサイド」を忘れてはいけない私たち

2009年1月10日の最初の攻撃の時、「ウォール・ストリート・ジャーナル」に「イスラエルは戦争犯罪を犯している」という記事がありました。これはジョージ・ビシャラートさんとおっしゃるカリフォルニア大学サンフランシスコ校の国際法の先生の記事です。まず、これはイスラエルの側がガザに攻撃し、それに対してハマースが反撃をした。最初に攻撃しているのはイスラエルだから、イスラエルは自衛の戦争を主張することはできないという記事です。「ウォール・ストリート・ジャーナル」というアメリカの主流の新聞にこのような記事が載ることにすごく私は驚きました。その後、ジョージ・ビシャラート先生にお会いする機会があったので、よくこんな記事が載りましたねと申し上げたら、でもその後ウォール・ストリート・ジャーナルがシオニスト資本の傘下に入ったため、もうこういう記事は載ることができなくなった。これが最後の記事だとおっしゃっていました。

51日間戦争の時はさすがに日本のメディアも報道していたけれども、10年前のその記憶が全くないかのように、リセットされてしまったかのような報道だと思います。これは51日間戦争の時にドローンで空撮されたものです。スチール写真だけだと破壊の凄まじさは分かるけども、それが一体どれくらいの規模であるのか分からないですね。これを最初に見た時は、東日本大震災の津波の被災地、あるいは原爆が投下された直後の広島を私は想起しました。実際にこの時「ヒロシマ型原爆」と同じだけの爆薬が使われている。画像の赤くなっている部分が、今動画でご覧いただいたような焦土にされてしまった地域です。

パレスチナというのは常に「最悪を更新し続ける」と言いました。この最初の攻撃の時、人間をそこに閉じ込めておいて、空から海から陸から一方的に22日間にわたって無差別な攻撃、殺戮をしまくるということは本当に信じられなかった。しかし、5年後に51日間にわたって2000人以上が殺される。常にパレスチナって最悪を更新し続けている。今と比べたら「全然大したことないや」と思ってしまいませんか。2000年から2005年にかけて4年3ヶ月にわたって第2次インティファーダ――インティファーダというのは、イスラエルの占領に対する占領下民衆の一斉蜂起です。この時、毎日のようにパレスチナのどこかで人が殺されている状況で、私は本当にそれしか考えることができなかった。その時の死者が、4年3ヶ月で3000人です。いま、4ヶ月で3万5000人という、このすさまじい、今起きているそのジェノサイドだけ見ていたらわからないです。パレスチナはずっとこの状況が続いてきた。

イラン・パペというイスラエル出身のユダヤ人の歴史家がいます。彼はこれをインクリメンタル・ジェノサイド、「漸進的ジェノサイド」と呼んでいます。漸進というのは「徐々に」という意味です。つまり、一つ一つの殺戮をとったら、それはジェノサイドと呼べるような規模ではないかもしれないけれども、パレスチナの場合は1947年からずっと60年、70年かけてジェノサイドが徐々に徐々に漸進的に続いていると。その漸進的ジェノサイドが10月7日以降、もう世界の目もはばからない、国際法も「知るか」というような、あからさまなジェノサイドになっている。なぜこのようなジェノサイドが可能であるかといえば、この漸進的ジェノサイドを私たちがずっと許し続けてきたということですね。言っている自分自身、もう慚愧に耐えないけれども、攻撃があるたびにこういう形で呼ばれて、そのたびに100人200人、時には300人というような人たちが参加してその話を聞く。

これも「ガザとは何か」に書きましたが、韓国の詩人の言葉、「忘却が次の虐殺を準備する」。だから停戦になっても、この殺戮を私たちが忘れてしまったら、それは次の虐殺を私たちが準備していることになるんだと。私たちは今、ガザの殺戮の後にいるのではなくて、次の殺戮、次のガザの前にいる、ということを忘れてはいけない。私自身が何度も何度も繰り返し語っていながら、でも、結局停戦になってしまったら、あたかももう何も問題にすることはないかのようにメディアも報道しないし、私たちもそれを忘れていく。その忘却がこのようなどんどんスケールアップ、バージョンアップしていく虐殺、殺戮と破壊を繰り返し、それが今のジェノサイド、ドミサイドになっている、ということです。

死を悲しむことが月並みな出来事になった

第2次インディファーダの時、今のジェノサイドは家族が誰もいなくなってしまった、傷ついた子どもというようなテクニカルタームが作られるぐらい、家族数名じゃないです。一族みんなです。ガザの人たちは大家族です。とりわけ難民の人たちはそうです。家族といっても、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんたちの家族、自分の兄弟、いとこたち、20人、30人、40人という人が一緒に暮らしています。それが絶滅してしまう。そういう攻撃が起きているんですが、それと比べると、なんであの頃あんなに大騒ぎしていたんだろうと逆に思ってしまうような、でもこの当時はそれが最悪だった。パレスチナのどこかでいつも誰かが殺されていて、自分の家族や友達や肉親や、あるいは友人や知人や隣人の誰かを殺されていない者など、誰もバレスチナにはいないというような状況です。愛しているものが亡くなって、その死を悲しむことが日常の出来事になってしまった、極めて当たり前なことになってしまった。愛するものの死を悲しむことが月並みな出来事となってしまった。

その状況に対して、ガザのサカキーニー文化センターというところが企画して開催された展覧会があります。愛するものの死を悲しむ、悲嘆にくれるということが月並みなことになってしまった。それへの抵抗として、「100人のシャヒード・100の命」というアート展が開かれました。「シャヒード」というのはイスラエルの攻撃によって殺された者のこと、殉難者です。この写真はその人たちの遺影ですね。残された写真に、名前そして形見の品、遺品ではなくて、この人はこんな風に殺されたという、殺された時の現場を物語る品ではなくて、この人がどう生きたか、何が好きで、何を大切にしていたかという。その形見の品を、このように、これは柔道着かな、四角に折りたたんで麻の紐でリボンをかけて、プレゼントのようにこのアクリルケースに入れる。こういうアート展が開かれました。

このアート展、「シャヒード、100の命」と題して、日本でも東京の明大前にある「キッド・アイラック・アート・ホール」、京都の立命館大学の平和ミュージアム、それから沖縄の佐喜眞美術館、大阪の人権ミュージアム、長野県の松本市の5か所でこの展覧会をしました。アクリルケースに入らないのはこの奥にある自転車ですね。それから水煙草はこういう形になっています。これは英語版の図録ですけれども、写真と名前と、どのように生きたか、そして最後にいつどこでどんなふうに殺されてしまったのか。その形見の品の写真が極めてアーティスティックな形で撮られています。

こちらが日本でやったときの図録になります。英語と日本語の対訳になっています。これをちょっと回していただけますか。お手に取ってご覧ください。この本はまだいっぱいありますので、ご希望の方、特に学校とか図書館関係とか、そういうところに置いていただけると嬉しいです。ご希望の方がいらっしゃいましたら、お分けできます。この当時、パレスチナ人による自爆攻撃が相次いでいて、パレスチナ人にはテロリズムの文化的遺伝子があるようなことが、イスラエルではまことしやかにささやかれていました。人間がパレスチナに生まれて、パレスチナ人として育つ過程でみんなテロを「聖戦だ」というような、そういうテロリストになる。そういう文化の中で育つのだと。でもそうじゃない。殺しているのはお前たちだろう。私たちはライフ、命を、生を、大切に愛する者たちだという訴えがこのアート展に込められています。

昨年の10月13日、攻撃7日目の記事です。それによれば、わずか1週間でガザは6000発の爆弾で爆撃され、それはアメリカが1年間にアフガニスタンに対して落としたもと同じだけのものです。この無差別爆撃によって「エンタイア・ファミリー」、ファミリーって日本の核家族を想像しちゃダメです。何10という親族全員が殺されてしまい、そして居住地一帯が土砂の海にされてしまった。グテーレス国連事務総長が、ガザは子どもたちの墓場になってしまったと言いましたが、ガザという巨大な難民キャンプが野外監獄になり絶滅収容所になり、いま本当にガザというのは巨大な墓地ですね。もう1つご紹介したいのは、イランの首都テヘランでイラン人のアーティストが、ガザで殺されている子どもたちの死を悼んだアートのインスタレーションです。とりわけ、子どもたちの大量殺戮ですね。それに抗議した、アートを通じた抗議です。

イスラエル軍は墓を、墓地を作っているだけじゃなくて破壊もしています。パレスナ人の墓地を10幾つ破壊している。ハマースが墓の下に隠れているとでも言うのでしょうか。墓地を壊すっていうのはどういうことだと思いますか。歴史的な墓地だってありますよ。そういうまさに文化的遺産としての歴史的な墓地も破壊されているけれども、自分たちの家族が埋葬されている墓地もこうなっています。皆さん想像してみてください。自分の愛する家族が、お父さんやお母さんやおじいちゃんやおばあちゃんが眠っている、その墓地が破壊されるということが何なのかを。すごくそれはつらい、悲しい、痛いことですよね。つまり大量死だけに目がいくけれども、そういう形でメンタルにも、精神的にもものすごい苦痛を与えているという、そういう攻撃が起きているということです。

イスラエル不処罰とICJによる仮処分命令の意義

これはジョー・サッコというマルタ出身のグラフィックノベリスト、劇画作家ですね。彼が書いた、第2次インティファーダの時をテーマにした「パレスチナ」という作品ですが、これは日本語で翻訳されています。その彼に「FOOTNOTES IN GAZA(ガザの脚注)」という作品があって、これはまだ日本語で翻訳されていません。第2次インティファーダの時にこの作品に結実する、その取材をガザで行っていた時、1956年にラファで集団虐殺があったということを聞いて、その時のサバイバーたちを探してインタビューをして作ったものです。1956年の忘れ去られたラファの、ガザの集団虐殺を描いたもので、読みましたが、すごく凄惨です。

この前書きで作者が言っているけれども、2000年の時、40年以上前に起きた集団虐殺のことを聞き回っている。その自分を見てガザの若者たちは、今殺されているのに、なんでこいつは昔のことを聞き回っているのかというふうにいぶかしく思っていた。自分の取材が理解されなかったとジョー・サッコは書いています。パレスチナ人は集団虐殺、そうした傷が癒えないうちに次の虐殺が起きて、彼らには死者を悼むというような贅沢が許されたいんだ。そういう趣旨のことを書いています。

毎年ホロコーストの犠牲者が追悼されますね。毎年日本では8月15日にアジア太平洋戦争の戦没者の慰霊祭が行われます。なぜ私たちは慰霊できるのか。なぜ毎年そうやって追悼ができるのかというと、それがもう過去のものだからです。ガザのように、もっと言えばパレスチナ、パレスチナ人のように、ずっとこの76年の歴史を通じてずっと漸進的なジェノサイド、ずっと形を変えた民族浄化が続いているところでは、そうした過去に起きた集団殺戮を記憶してそれを次の世代に伝えていく。そこで亡くなった者たちの死を悼む、追悼するというような、これは贅沢だ、ということです。

集団虐殺も戦争犯罪も、この間何十年もガザでは、パレスチナでは繰り返されてきました。しかし、一度も裁かれなかった。このイスラエル不処罰。イスラエルがどんな戦争犯罪を行おうと、どんな人道に対する罪を行おうと、イスラエルは国際的に裁かれないというこの国際社会の「伝統」、それが今このようなジェノサイドを可能にしている。ラジ・スラーニさんはガザに拠点があるパレスチナ人権センターを設立した代表です。国際法を専門とする弁護士さんで、彼が来日したときに強調していたのは「とにかくガザに国際法を適用してくれ、それだけでいいんだ。国際法をちゃんと適用しさえすれば、イスラエルはこんなことを続けることができない。それどころか、戦争犯罪者として裁かれる」ということです。

逆に言えば、それがなされていない。なぜなされないのか、それはその状況を私たちがずっと許してきた、ということです。この方はホロコースト研究専門家の方です。ラズ・シーガルさんとおっしゃる方で、10月13日の時点で、攻撃始まってわずか1週間の時点で、今起きていることは、「A Textbook Case of Genocide」、教科書にジェノサイドというのはこういうものですよと載せるような、そういうジェノサイドだということを言っている。

ようやく12月になって、南アフリカが国際司法裁判所に対してイスラエルのジェノサイドということを訴追しました。それに対して国際司法裁判所(ICJ)は仮処分ですね、暫定措置――イスラエルにはジェノサイドにならぬよう予防をしろ、予防措置を講ぜよという仮処分命令を出しました。日本の報道はジェノサイド防止を命令したけれども、作戦停止の命令までは踏み込まなかったというネガティブな形の報道です。でもこれは画期的なんです。何が画期的かといえば、要するにずっとイスラエルが何をやっても、それが裁かれて、司法の場に、このように法廷でそれが裁かれるというようなことがなかった。それに先鞭をつけたということです。2014年の51日間戦争も、ラジ・スラーニさんをはじめガザの人たちが、とにかくこれを調査してくれということを国際刑事司法裁判所に言って、ようやく調査しますとなったのが5年後です。でも調査しますと言ってからずっとそれは棚上げされていて、今新たなジェノサイドが起こっている。要するに、過去10年前にどんな戦争犯罪が行われたかという犯罪の痕跡も、また瓦礫にされてしまったんですね。三牧聖子さんとおっしゃるアメリカ政治のご専門の方が「問題は残るが、ここに至る歴史的過程を考えてもこれは極めて歴史的といえる判断ではないか」と、まさに的確なコメントをされています。

戦争さえなければそれでよいのか

これは同じ頃に朝日新聞に載っていた「終わらぬ戦闘…、その時拍手が起きた『地獄』のガザで広がるうわさ」です。この記事を読んでいると、ガザの現地の人と取材した現地のローカル記者が電話のやり取りで多分記事をつくられておられると思いますが、「戦争の前から生活は苦しかったが、イスラエル軍は夢も未来も破壊した、と現地の人は訴える。井戸から生活しつつの水を汲むのにも8時間かかるような日々だ。こんな苦しい生活が続くなら、早く死んでしまった方がマシだったという住民たちもいる」。この言葉を受けて、記者の方が「記者である私も思う。戦闘が始まった10月7日以前が希望に満ちていたわけでは決してなかった。不安も不満もむしろ山ほどあった。でも今はその日々に戻りたい『つらい、苦しい』とこぼしながらも、自らの手で日々暮らしを築き、なんとか守ろうと生きていた日々を取り戻したい。この戦争で私たちは、守るべきものさえも壊された」というふうに結んでおられます。

これを読んだとき私は衝撃を受けました。いろいろなところで批判していて、記者さんには申し訳ないけれども、10月7日以前のガザが一体どんな状況であったかということを知って言っているのかと思います。本当にガザの人たちは10月7日以前は自らの手で日々暮らしを築き、なんとかそれを守ろうとして生きていたのか。その当時ですでに16年以上、ガザでは封鎖が続いていました。この封鎖のもとで生きるということを、ガザの人たちは「生きながらの死だ」と言っていたんです。まさにこれこそイスラエルが望んでいることです。ハマースは、あるいはハマースと一緒にガザの戦闘員たちは、なぜ10月7日、あの越境奇襲攻撃を行ったのか。なぜハマースが停戦に応じないのか。ガザの封鎖解除を条件にしているからです。そして主権を持ったパレスチナの独立国家を求めているからです。

封鎖は国際法違反です。そしてパレスチナ人が独立国家を持つのは、国際的に認められているパレスチナ人の民族的な権利です。正当な権利を主張している。そしてあの攻撃を行った。もちろんそこでイスラエルが宣伝しているような、赤ん坊の首をはねただとか、焼き殺しただとか、大量兵器だとか、そういうのは起きていないけれども、でも戦争犯罪があったのは事実です。それはなぜ起きたかといえば、これは植民地戦争なんですね。植民地支配からの解放を求める民族の戦いである。それに対してイスラエルは殲滅戦を行っている。まさにこう思わせたいわけですよ。難民の帰還だとか、封鎖の解除だとか、占領の終結だとか、独立国家だとか、そんな要求をしたらどうなるか。そんなものがなくたってこんな目にあうよりはまだ10月7日以前の封鎖下の生活の方がまだましだっただろうと、そう思わせたいわけですね。

実際にガザでこの攻撃にあっている人たちがそう思ったとしても、それは不思議ではないです。こんな目にあうんだったら、まだ10月7日以前の方がましだったと現地の人がそう思っても、それは仕方ないことです。でもそこに寄り添うような感じで、先ほどの文章は、まさにイスラエルのこのジェノサイドを正当化することと同じことを別の形で言ってしまっているんですね。本当はジャーナリズムは、10月7日以前の封鎖というのは一体どういう生活だったのかということをむしろ伝えなければいけないはずなのに、それをしない。戦争さえなければいいんでしょうか。まさにそれですよね。「戦争がいけないんだ、戦争さえなければいいんだ。こんな攻撃をしたハマースが悪いんだ」という。

構造的暴力によりガザで激増している若者の自殺

この方はムハンネド・ユーニスさんというガザの青年で、2017年に21歳の若さで自ら命を絶ちました。2017年というと、封鎖がもう10年続いている。彼は10歳、物心をついたときから封鎖されたガザにずっと閉じ込められていたわけです。彼はガザの青年たちの中では非常に恵まれていました。薬学部で学んでいて、卒業も間近で、そしてコンスタントに自分の小説をブログに発表するなんていうこともできたんですね。ガザの若者として大学に卒業間近で在籍できるなんてすごい特権です。

ガザには大学が10いくつありました。それが全部破壊されました。ガザの大学で教えていた研究者も殺されています。世界でトップ2%に入るという物理学の研究者で、イスラム大学だったかの学長さんも狙い撃ちされた。イスラエルは「ハマースが、ハマースが」と言っていますが、決してハマースを攻撃するために大学を攻撃しているんじゃありません。ハマースなんていないんです。病院を破壊し、大学を破壊し、医療関係者を殺し、大学のアカデミシャンを殺す。そうすることによって、物理的に住宅を破壊しているだけじゃなくて、学問の場であるとか医療の場であるとか、そういったところを徹底的に破壊することによって、もはやガザで人々が社会的な生活を営むということができない状況を今作り出しているんですね。

ジャーナリストも100人以上殺されています。狙い撃ちされていますが、殺されてもいいからガザの状況を世界に伝えたいと思って報道しているジャーナリストは大勢います。ジャーナリスト本人だけではなく、その家族一族もろとも大量に殺す。だから自分は信念を持ってやっているけれども、家族親族何10人もがその巻き添えになるのは、ということで、やむなく報道を辞める人たちもいます。でも殺されることを覚悟で報道しているジャーナリストがいます。私も2007年に1週間ほどですがガザに入ることができました。みんな一生懸命学んでいますが、学費が払えなくなって中退を余儀なくされる人たちもいます。だから4年間学費が続くということが、ガザではすごく特権的なんですね。その彼すらも命を絶つということは、明日に未来に希望を持てないからですね。彼の自殺はガザでは大きな衝撃になりました。ガザは、パレスチナはイスラム社会です。イスラム社会において、自殺というのは宗教的に最大のタブーです。

日本はとっても自殺に対して甘いですよね。例えば「親子心中」なんていう言葉がありますが、あれは親による子どもの殺人です。でも日本の場合、そうは見ない。そして自殺せざるを得なかった人、あるいは親族が自殺された方たちにやっぱり同情をする。でもイスラムにおいては自分を殺すというのは他人を殺すのと同じような罪です。だから家族が自ら命を絶った人の家族というのは、日本で言う殺人者の家族と同じように見られるという。しかも自ら命を絶った者は地獄に落ちるとされています。そのガザ、とりわけ2014年以降です。自ら命を絶つ人が劇的に増加しています。いま若者の4割近くが一度は自殺を考えたことがある。今やガザでは自殺というものが普通のことになってしまっています。つまり封鎖が、ガザの、とりわけ若者たちを自殺にまで追い込んでいる。

封鎖という暴力でおきていること

封鎖ってどういう暴力なのか。ヨハン・ガルトゥングというノルウェーの「平和学の父」と言われている方が暴力を3つに分類しました。直接的暴力と構造的暴力と文化的暴力。直接的暴力というのは物理的暴力です。つまり、物理的な破壊や、物理的な身体的な殺傷を伴うものですね。それに対して構造的暴力というのは、貧困や差別や人権の剥奪や占領や封鎖といったものです。物理的暴力で最たるものがまさに戦争なわけです。文化的暴力って何かというと、直接的暴力や構造的暴力を正当化したり維持したりする態度や考え方などのことです。封鎖下のガザというのは世界最大の野外監獄です。「封鎖されている」というと、単にそこから人間が出られないだけみたいに思われるかもしれませんが、そうじゃない。まず人間だけじゃなく物資がガザに出たり入ったりする。それが著しく制限されていて、水とか食料とか、医薬品とか燃料とか、そうしたライフラインが本当にごくわずかしか入ってこないんですね。

封鎖が始まった初期の頃、ガザの封鎖というのは人道に対する罪ではないか、というような法廷闘争がイスラエルでありました。最高裁がどういうことを言ったかというと「人間が生命を維持するのに必要な最低限のカロリーは提供されているから、それは合法である」という判断です。逆に言うと、生命維持をする最低限のカロリーしか提供されていなかった。ごくごくわずかなお金持ちはいいですよ。でもガザの圧倒的多数の貧困層は本当に飢餓線上にある。だから人道危機は10.7の後始まったんじゃないんです。それ以前からずっと続いていたということです。

燃料も入ってこない、工場も稼働しない。仮に工場製品を作っても、農産物を生産してもガザの外には持ち出せない。産業基盤が破壊されます。失業率は今47%で世界最大です。それによって食べ物も買えない、子どもたちは栄養失調です。重病患者は、イスラエルがセキュリティを理由にガザから外に出さないので、ガザの外に出たら病院で適切な治療を受けることが可能な人も、結局ガザの病院で亡くなっている。戦争のような直接的暴力とは違って、封鎖というのは構造的な暴力です。軍事攻撃と同じように、非常に複雑な因果関係をたどってそれが致命的なものとなる。先ほどご覧いただいたような動画だとか写真で、すごい破壊と遺体の数でその暴力性って一目瞭然ですよね。でも構造的暴力って、それがどんなに致命的な暴力かというのを説明してもなかなかわからない。そういうものです。

「世界最大の野外監獄」での暮らしは

海です。ガザの基幹産業は漁業です。ガザの領海は20海里ありますが、この辺に天然ガス田があって、これはガザのものです。ところが、イスラエルはこれを我がものにするために6海里あたりに哨戒艇がいて、ガザの漁師が出漁すると銃撃したり、生活の糧であるボートを没収したり、彼らを全裸にして海に突き落としたり、イスラエルの刑務所に連れて行ったりするので、怖くて出漁できない。それで近海で漁をする。取ってはいけない小魚まで取ることになってしまい、近海にはもう魚がいなくなってしまった。海があるのに魚が食べられないという状況です。

農産物も、ガザは農地がいっぱいあります。北部の方もこの戦争でもめちゃめちゃにされてしまったけれども、「苺の里」と呼ばれるような、本当に大粒の甘い苺をいっぱい作っているところがあります。そこも同じバレスチナなのに西岸には出荷できないし、EU市場に出してもいいけれどもイスラエルの仲介企業を通さなければ輸出できない。マージンを取られます。それが価格に競争力がなくなるので、結局ガザで消費する。地元で消費するのと変わらない。ガザの人たちがどんなに一生懸命頑張っても経済発展できないように、この「De-development(反開発)」、これがイスラエルの占領のポリシーになっています。

世界最大の野外監獄であるとは一体どういう意味かというと、単に物が入ってこない、物不足になるというようなことではなく、占領者が自分たちに都合のいいように何でもかんでも決めて、ガザの人たちは占領者の恣意に服従しなければならない。生殺与奪の権利を占領者が握っているということです。ガザの人たちが、自分のあるいは自分たちの未来や運命を、自分たちの手で決定することができないということです。

これはガザのビーチです。入植地があった頃は、ガザのビーチもパレスチナ人はそこに行くことができなかったけれども、ガザからイスラエルの全入植地が撤退したことによって、海がガザのパレスチナ人に戻ってきました。でも入植地がなくなったことによって、結局今のような無差別な攻撃が可能になってしまったわけです。この海。燃料がない、だから、下水処理施設が稼働しない。あるいは攻撃で破壊されても、建築資材が入ってこないから再建できない。再建したとしても燃料がないから稼働できない。それによって230万人の生活排水が汚水処理されないまま、トイレの水から何から何までガザの川、ガザ渓谷に流され、それがそのまま海に流されている。だから渓谷流域の地下水も汚染する。

入植地があったとき、イスラエルのユダヤ人たちが大規模プランテーションを経営していて、地下から過剰に地下水を摂取したために、地下帯水層の水が少なくなって海水が浸透してきているから、塩水化も進行しています。その結果、ガザの水道水の95%が飲料に不適切です。本当にわずかなお金持ちは浄水フィルターだとかミネラルウォーターを買うことができます。けれどもガザの大半の貧しい者たちは、健康に悪いとわかっていても水を飲まなかったら死んでしまうから、飲料には不適切な水を飲まざるを得ない。ガザの人たちにすごく病気の人が多い、その主たる原因はこの汚染された水を飲んでいるからです。そうした塩水で顔を洗ったりしますから、眼病とか皮膚病も多いそうです。

この海も汚染されてしまった。ガザのビーチの大半が遊泳禁止です。泳いだら感染症で命の危険があります。当然のことだけれども、その海の汚染がイスラエルの領海にまで及ぶようになって、2年ほど前にドイツの援助で下水処理施設が作られ、今は多少海の汚染が改善されて、ビーチの一部で海水浴が解禁にはなっているそうです。ガザの世帯の6割が満足に食事も取れないし、過半数の乳幼児が栄養失調です。お腹に赤ちゃんがいるときにお母さんが満足に栄養を取れていないわけですから、生まれた時から栄養失調状態です。住民の8割が、国際機関の配給がなければ今日を食いつなぐことができないという状況です。

これは国連の支援の写真です。ガザの人たちの7割、170万人ぐらいが難民とその子孫ですが、小麦粉や油、お砂糖が配給されます。でもお肉だとかは買えない。良質のタンパク質が取れないから、小麦粉でパンをいっぱい焼いて油をいっぱい使って凌いでいます。土井敏邦さんが撮られてきた映像の中で見ましたけれども、貧しい家庭が配給の小麦でパンを焼いて、それを油で炒めて食べる。あとお砂糖ですね。こんな食生活を続けていたら生活習慣病になります。だから今、糖尿病がガザの風土病になっています。さらに燃料がなくて、私が行ったときには1日8時間から16時間の停電でした。その後はもう1日4時間とかです。ガザというのは東京と同じような近代的な都市で、都会生活をしている。そこで1日に4時間しか電気が供給されなかったらどうですか。

ガザに行くまで私は考えたこともなかった。なぜ3階とか4階とか上の方の階で、水道の栓をひねると水が出るのか。電気のポンプで組み上げているからなんですね。だから電気がなかったら、夏でも扇風機を使えない、エアコンを使えない、冷蔵庫も止まっちゃう。エレベーターも動かない。水も出ないんです。だから子どもたちはロウソクで勉強を余儀なくされている。火事で亡くなった子どもたちもいる。その後、充電式の中国製の明かりをみんな買うようになったけれども、それも毎日何時間も使うわけだから、すぐに買い替えなきゃいけない。これも家計を圧迫します。テレビも見られないわけですよね。それが17年間続いている。

かつてパレスチナ人といえば、アラブ世界の中でも教育ナンバーワンでした。パレスチナを解放するために、ということで教育にものすごく力を入れていた。それがこの17年続く封鎖によってガザの子どもたちの教育水準がものすごく下がっています。

近代医療というのは電気に依存しています。これは腎臓の人工透析です。これも北海道の猫塚義夫先生がおっしゃっていましたが、猫塚先生は毎年パレスチナに行って西岸やガザの人たちの医療支援活動をされています。猫塚先生は、例えば本来何時間かしなければいけない透析が、燃料がないせいで、電気節約のせいで、半分しかできない。だから今すぐ死ぬわけではないけれども、長期的に見たときにそれは命を縮めている。ガザを出て、適切な治療をしたら生き長らえていたかもしれないのに、封鎖のためにガザで亡くなっていった人たち。カルテには心臓病とかガンとか、それが原因と書いてあるかもしれないけれども、やはり封鎖によって殺されている。ラファでは寒さの中、薬も食料もない。感染症で、言ってみれば災害関連死ならぬ攻撃関連死で命を落としている人がたくさんいます。仮に停戦になったとしても、この攻撃関連死が何十万と出るのではないかという予測もあります。

「生きながらの死」としての封鎖

ガザは地中海式気候ですので、冬になるとまとまった雨が降ります。燃料がなくて下水のポンプが稼働しないので、毎年ガザでは冬になると低地は洪水状態になります。これがずっと続いています。これは最新の写真ですね。難民たち、避難してきた人たち、テントで暮らしながら、今こういう状況になっている。79年前、ユダヤ国家建国による民族浄化、これをアラビア語で「ナクバ」、「Great Catastrophe」、「大破局」と言います。ナクバで難民となった人たちが国連が提供するテントで、まさにこれでした。イスラエルの高官たちが「パレスチナ人に第2のナクバを味あわせてやる」と言ったように、まさに同じ状況になっている。

これは私がガザに入ったときに撮ってきた写真ですが、漁業組合の事務所に行ったときに貼ってあったポスターです。ガザというのは、漁業が基幹産業なのに、漁師さんは出漁できない。失業している。失業しているのは漁師さんだけではないけれども、トラマドールという鎮痛剤に覚醒剤と同じ効果があるということがわかって依存症になっている。イスラム主義のハマースが統治していますので、アルコールはないんです。アルコール依存症になっても不思議はない状況ですが、主に男たちですけれどもこの状況から逃れるためにトラマドールで、覚醒剤効果で依存症になる。それに対して「トラマドールに手を出すな、覚醒剤に手を出すな」という啓発ポスターです。

パレスチナ難民2世のベイルート・アメリカン大学で教鞭をとっているサリ・ハナフィさんという社会学の研究者です。彼は、今起きていることはジェノサイドだけど、それ以前のパレスチナで起きていることはジェノサイドではないかもしれない。つまり一度に大量の人間が殺されるというものではないかもしれないけれども、これは「スペシオサイド(Spaciocide; 空間的扼殺)」だ。スペース、空間を再度殺している。この場合の空間というのは、人間が人間として生きることを可能にするあらゆる生の条件のメタファーですね。それを圧殺していくことによって、そこで生きることを不可能にしてしまう。ガザというのは、まさに「スペシオサイド」がこれまでずっと行われていたところだ。51日間戦争のときに、それが始まって2週間ぐらいしたとき、エシプトが仲介してイスラエルとの無条件停戦というのを提案したところ、ハマースはそれを蹴ったんですね。封鎖解除を条件としない停戦は受け入れられないと言って。

そのとき日本のメディアの報道は、せっかくイスラエルが停戦を提案してくれたのに、ハマースが自分の条件に固執して、ありがたいこの提案を蹴った。それでパレスチナ人がまだ殺されていると、ハマースを批判しました。殺しているのはイスラエルなのに。その1週間後ぐらいに、ガザの市民社会の代表たちが、英語で「ガザに正義なき停戦は要らない」というメッセージを発表しました。英語ということは世界に向けて「今お前たちはハマースを、封鎖解除を条件としない停戦を受け入れないということを批判しているけれども、単に無条件停戦を受け入れるということは、戦争が始まる前の状態、すなわちその時点ですでに7年続いている完全封鎖の状況という既成事実に戻れということだ。単に戦争前の既成事実、封鎖の状況に戻れというのは我々に生きながら死ね、というのに等しい。だから、封鎖解除というのは、これはガザの市民の総意だ」という、そういうメッセージです。

封鎖下で生きるというのは、「生きながらの死だ」ということです。「生きながらの死」に等しい。そんな生っていうのは、果たして先ほどの新聞記事にあったように、自らの手で生活を築いていたあの日に戻りたいなんていう、そういう、生を生きていたんでしょうか。逆に言うと、人間が生きるっていうのは一体どういうことなのか。ただ生きていさえすればいいんでしょうか。最低限のカロリーだけで、国際社会の支援で今日を食いつなぐ。それだけが自分の関心事になってしまうというような、そして大学を出たところで未来に希望がないというような、そこでただ生きていさえすればいいんでしょうか。

難民だったパレスチナ人が政治的主体になった

2008年から2009年の、最初の攻撃のとき、サラ・ロイさんという、彼女はユダヤ系アメリカ人の研究者で、パレスチナの政治、経済、とりわけガザに関する研究の世界的な第一人者です。その彼女がこう言いました。「世界は60年かけて難民を再び難民に戻すことに成功した」。

どういうことかというと、この2008年、2009年の時点でパレスチナ人が難民となって、ガザの人たちが難民となって60年経っていました。その60年前、1948年、彼らが難民となった当初はテント暮らしで、国連の配給の列に並んで、という生活だったわけです。でもとりわけ67年の戦争で西岸や、ガザ、聖地なる東エルサレムも占領されてしまった。それまで難民となったパレスチナ人は、とにかく待っていれば、国連が、あるいは国際社会が、あるいはエジプトのナセルがイスラエルと戦って、あるいはこれを政治的に解決して我々をパレスチナの故郷に戻してくれると思って、ずっと難民としてテント暮らしをしていたわけです。

ところがその19年後に起きたのはパレスチナのさらなる占領、パレスチナが全部占領されてしまった。ここで彼らは気がつくわけです。いつか国際社会がこの問題を解決してくれるなんて思っていたって、国際社会にそんなことをするつもりは毛頭ないんだ。難民の帰還も、パレスチナ人が国家を持つことも、パレスチナ人の権利だと言いながら、でも国際社会は難民となった我々にテントや食料を配給して、「かわいそうな難民」として同情する。国連が1947年にパレスチナを分割して、そこにヨーロッパのユダヤ人の国を作るということを決めた。国際社会がこの紛争の種をまいたんですね。政治的な問題であるにもかかわらず、気の毒な、かわいそうな難民として同情はしても、国際社会が種をまいたこの紛争を政治的に解決するなんていうつもりは、国際社会には毛頭ないんだ、と。つまりこの問題を解決するには、自分たちで銃を取って戦わなければ解決することはできない。

60年代後半から70年代にかけてPFLPなどパレスチナの武装勢力がハイジャックをした、これはテロですね。国際法違反ですね。だけどそうするしかなかったわけですよ。そして1974年、PLOのアラファト議長が国連に呼ばれて、「今日私はオリーブの枝と銃を携えてやってきた」、「どうか私の手からこのオリーブの枝を落とさせないでください」。銃による戦いは放棄しないけれども、今、対話のためにやってきた。私たちが対話を継続するか否かは、国際社会にかかっているということを訴えた。翌75年には国連総会が、イスラエルのナショナル・イデオロギーであるシオニズムは、レイシズムは人種差別だという。そういう総会決議を採択している。この決議は1991年、湾岸戦争後にひっくり返されている。

1987年12月には、この軍事占領下に20年置かれていたガザ、そして西岸のパレスチナ人が一斉蜂起します。「石の革命」と言われました。子どもたちでさえ素手に石を持ってイスラエルの戦車に向かっていった。こうしてパレスチナの和平プロセスが始まるわけです。つまりその何十年か前、難民だった者たちは、自分たちの手で自分たちの運命を切り開いていく政治的主体になったんですね。自分たちの手で自分たちの歴史を作っていく、そういう政治的主体になった。しかし今、ガザの状況は再びこうした国際社会の「温情」に依存して今日を食いつないでいかなければいけないという、まさに今から76年前の状況に居直されてしまったわけです。

10.7、このジェノサイド攻撃が始まる以前から、ガザはずっとイスラエルの封鎖によって、イスラエルが意図的に人為的に政治的意図を持って作り出した貧困によって、人道的危機状態にあった。国際社会が支援しなければ8割の人たちが食いつないでいけない状況にあった。人道危機はあるけれども、では人道支援だけをしていればいいんですか。人道支援だけをしているというのは、結局生かさず殺さず、という封鎖や占領、その維持に加担することです。人道支援がいらないと言っているのではないですよ。なかったら生きていけないから。でも「それだけやっていればいい」というのは、結局この状態の永続化に貢献している。そして何年かに一度、大規模な軍事攻撃があって破壊されて殺されて、そのために復興支援をします。日本もODA、この間に莫大な額を使っています。それがまた次の攻撃で破壊されても私たちは何にも言わないんです。そしてこの状態の永続化に協力してきた。ですからこのような人道危機というのは、一旦は自分たちの手で自分たちの運命を、歴史を作っていく、切り開いていく、そういう政治的主体となったパレスチナ人を、もう一回、国際社会の「恩情」がなければ生きていくことのできない難民にするというポリティサイド、ポリティクス(政治)+サイド(殺すこと)、つまりその政治的主体性を抹殺するためのものだということですね。

だから、NGOでガザに入って活動している、日本にもそうした国際的なNGOがいくつかあります。この国際NGOを支援すること絶対に必要ですがNGOの人たちは、ガザに入って活動することをイスラエルに許可してもらうために、支援が必要ですってことは言えても、人道支援の部分しか言えないんですね。イスラエルがアバルトヘイトをしているから、ジェノサイドをやっているから、それ以前にこの植民地主義的侵略で民族浄化をして、要するにパレスナ問題っていうのは政治的な問題だなんていうことを言ったら、もうガザに入って活動することができなくなるので言えないんです。

脱占領、脱植民地主義、脱アパルトヘイトのために

これは「帰還の大行進」という2018年、パレスナ人が難民となって故国を失って70年目のナクバ記念日を目指して、3月30日の「土地の日」という記念日があり、そのときはガザの人たちが大道団結です。「ハマースが」じゃないです。いろいろなガザの人たちが呼びかけて、大勢ガザの市民たちがイスラエルとの境界フェンスの近くまで行って、難民の帰還の主張、それから封鎖の解除を主張する。封鎖は国際法違反だし、難民の帰還というのは国際社会が認めているパレスチナ人の基本的な人権、民族的な権利です。その主張と、その前の年にトランプ大統領が、イスラエルが国際法に違反して併合して首都にしてしまったエルサレムにアメリカ大使館を移転するという、これも国際法違反ですが、これがあります。3つ目として、大使館移転反対を掲げてこうしたデモを非暴力で行った。このフェンスのこっち側にいるイスラエルのスナイパーが撃って、100人以上の者たちが殺されている。

さらに何百人もの若者たちが負傷しているんですが、イスラエルはとりあえず若者の足を狙うんですね。この時使われる弾丸が、バタフライ・ブレットとか榴散弾と言われるような、弾した時の衝撃で弾頭がパーッと開いて、刃のように開く。それで周りの神経組織や血管をズタズタにしてしまう。そういうものが使われていて、これを足に受けると切断せざるを得ない。これがイスラエルの戦略で、殺すために撃つのではなく、障がい者にするために撃つという戦術をとる。ガザの大勢の若者が、片足の切断を余儀なくされています。そういう若者は失業中の父親に代わって家族を養っていたのかもしれない。でもその青年が障がい者になることによって、家族の負担はいや増すわけですね。ガザというのは人為的に作られた大量の障がい者を抱える。ガザは政治的な主体性の抹殺だと言いました。今日を食いつなぐのでやっとの人が、難民の帰還だとか、主権を持った独立国家なんてそんなこと言えないですよね。同じようにこうして大量の障がい者を作り出していく。

自殺の激増に話を戻すと、若者たちがバッファーゾーンに侵入して、あえて射殺されることを選ぶ。そうしたら、祖国解放のために敵に向かっていって殺されたから自殺ではないということになる。転落死が多いそうです。事故と区別がつかないからということで。その一方で、自ら軽油をかぶって火をつけて亡くなる人もいる。一連の「アラブの春」の契機となったのが、チュニジアで貧しい地方の行商の青年が社会に抗議して焼身自殺を行ったことが、チュニジアの民主化をもたらし、エジプトのムバラク独裁に終止符を打った。それになぞらえているんだと思います。こんな死に方をしたら世界が注目してくれて、この封鎖を何とかしてくれるんじゃないかという、まさにそういう叫びだと思います。あるいは家長として、父親が自分の子どもたちの胃袋を満たしてやることができない、そういう責務を果たせないという思いで亡くなる。妊娠中のお母さんが、こんなガザに子どもを産み落としたくない、もう食べるものがなくて栄養失調で死んでしまうかもしれないし、次の攻撃で死ぬだけかもしれない。そんな命は産み落としたくないといって、こういう自殺が増えている。若者の選択肢というのは自殺かドラッグか、あるいはガザを脱出するかしかない。

定期的にガザに入ってメンタル、精神的な診察をしているお医者さんが言っていましたが、社会的な絆というものが崩壊している。かつてはあった運命共同体的な感覚がなくなって、みんな自分中心的になったり、他者に無関心になったり、そして人間性の破壊ですね。他者に対する共感の喪失というものが起きているということを言っている。

これは2011年6月にガザの1万3000人の子どもたちが、ビーチに集まって凧をあげたんです。ギネス記録です。この写真も同じように凧をあげていますが、毎年3月11日にガザの子どもたちは東日本大震災を悼んで祈念のタコあげをしてくれる。東日本大震災が起きたときに、ガザの人たちは家を失うことの辛さを私たちはよくわかっていると言って、その時点でもう封鎖があるんですよ。2008年、2009年の攻撃に見舞われて、そのガザの施設で義援金を集めたんです。毛布とかも集めたという話を聞きました。義援金はわずかだけれども日本に届いたそうです。忘れずにこれまでは3月11日に凧あげをしてくれていた。

これは2018年に破壊された文化センターの跡です。このような5階建ての文化センターが狙い撃ちされて、もう瓦礫にされてしまいました。かつてはこんな劇場がありました。この文化センターというのは、音楽やお芝居や、それから映画を見たり、それから「ダブケ」というパレスチナの民族舞踊のチームもあって、本当にその文化の拠点でした。だから封鎖で食うものに困っていても、彼らはここで詩を読んだり、朗読したり、あるいはお芝居をしたり見たり、それから音楽をやったりという形で、自分たちの人間性を失うまいとしていたんですね。瓦礫になってもこのセンターの破壊の跡地で演奏している。

パレスチナ人はずっと戦ってきました。武器を持った戦いもあれば、非暴力の抵抗もありました。それは脱占領、脱植民地支配、脱アパルトヘイトのための戦いです。そしてまた、難民が故郷に帰還するための、そして主権を持った独立国家を持つための。一言で言えば、自分たちの運命を自分たちで決定するための。今はそれが奪われています。それを手に入れるための戦いです。武装闘争は確かに暴力の行使を伴いますが、抵抗の暴力と、侵略・占領の暴力を同じ「暴力」としてしまってよいのでしょうか、というのが私からの皆さんへの問いかけです。侵略の暴力があるから抵抗の暴力が生まれるわけです。パレスチナ人は、非暴力でも戦っています。でもそれに対して国際社会が何もしないとすれば、もうあとは武器を持って自分たちで戦うしかない。そして国際法上も、植民地支配下や占領下にある人々が、その植民地あるいはその占領国に対して抵抗することは、正当な抵抗権と認められています。これは武装闘争も含めてです。

最初の話に戻りますけれども、10月7日のパレスナの戦闘員による攻撃というのは、確かにそこにおいてテロと呼びうる戦争犯罪は起きている。けれども、私たちが考えなければいけないのは、「テロリスト組織がテロを行った」ではなくて、この占領や侵略の暴力が、76年間ずっと続いている。その中で脱植民地化の抵抗の暴力を行って、その抵抗の戦いを行っている。それに対する殲滅ですね。これはかつて日本が、例えば台湾で先住民の武装暴起があったときに、あるいは朝鮮の人たちの反乱があったときに行使していた殲滅の暴力、植民地支配下の民衆が独立を目指して抵抗する。それを殲滅する、その暴力と同じ暴力が今のジェノサイドであり、そして今パレスチナ全土の、76年前にイスラエルが完遂することのできなかった民族浄化というものを今完遂しようとしている。そしてアパルトヘイトがあるという。今のジェノサイドは、一刻も早く終わらさなければいけないけれども、終わったからよかったねという話ではないということです。これがある限りパレスチナの人々は常に恐怖を抱え、欠乏のもとに生きている。その欠乏の最たるものが、自らの運命を自らの手で決定するという権利です。

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