1月26日に開会した第213国会は、「自民党と裏金」問題に関する不信が吹き荒れる中で、通例、開会日冒頭に行われる施政方針演説に先立って予算委員会での集中審議が行われたため、岸田文雄首相の演説が30日に行われたことは異例だ。
ここで首相は改憲問題について「先送りできない課題」だとして、「あえて自民党総裁としていえば、自分の総裁任期中に改正を実現したいとの思いに変わりはなく、議論を前進させるべく、最大限努力したいと考えている。今年は、条文案の具体化を進め、党派を超えた議論を加速していく」とのべた。
改憲派の産経新聞(31日)は、これを「過去6回の施政方針(所信表明)演説では目標時期に言及しておらず、今国会で改憲論議を前進させる強い決意を示した」「首相ではなく、政党の代表としての立場で『ぎりぎりの表現』を模索」。前回は「条文案の具体化」にとどめていた表現も、今回は『条文案の具体化を進め、党派を超えた議論を加速する』と踏み込んだ」と評価した。
しかし、首相の「施政方針演説」の場で「(改憲)条文案の具体化」を進めると言及したことは、憲法99条の「国務大臣の憲法尊重擁護義務」を念頭に「あえて自民党総裁として」などと前置きしたとはいえ、憲法違反であり容認できない。
公明党の山口那津男代表は30日、首相が施政方針演説で自民党総裁任期が切れる9月末までの憲法改正実現を主張したことに異論を唱え、「(震災や政治不信の解消など)先送りできない優先課題を差し置いて憲法に力を注ぐ状況ではない」と強い不満を表明した。
一方、日本維新の会の馬場伸幸代表は1日の衆院本会議の代表質問で、改憲の国民投票には国会発議から周知期間として60~180日を要することを踏まえ、「今国会中に発議しなければならない。リミットは5カ月足らずだ」と迫った。そして「与野党5党派で合意形成されつつある緊急事態条項の創設を軸に、改正案の取りまとめに直ちに入るべきだ」と主張し、衆参両院の憲法審査会を「定例日」以外にも開き、議論のテンポを加速するよう要求した。この「与野党5党派で合意形成されつつある緊急事態条項」という馬場発言は事実ではない。緊急事態条項全般にはまだ合意がなく、議員自らが「緊急時の議員任期の延長」を決める点でのみの合意に過ぎない。
憲法54条の参議院の緊急集会規定があるにもかかわらず、国会議員の多数派が勝手に自らの任期延長を決めるという議席の私物化は許されない。
憲法の理念と日米安保体制の現実との乖離が拡大している。「ふたたび戦争をしない」と約束した憲法の下で、明文改憲なしに、「新しい戦前」といわれる時代が到来している。
従来は曲がりなりにも「専守防衛」(防衛費対GNP比1%、1976年11月に三木政権)(性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されない。大陸間弾道ミサイル(ICBM)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母の保有は許されない。1970年衆議院内閣委員会で中曽根康弘防衛庁長官が「攻撃的空母」を持たないと発言)などを事実上の「国是」化することで平和憲法との決定的な対立・破綻を回避しようとしたものだ。
しかし今日の日本の安保防衛政策の実態は、弁明しがたい違憲状態だ。政府与党は「今日のウクライナは明日の東アジアかもしれない」とか、「台湾有事」「朝鮮半島有事」に対応する軍事力強化が必要だとしてこれを正当化している。
自民党改憲派の9条への向き合い方の歴史的転倒が行われた。「専守防衛」から「敵基地攻撃能力保有」(相手領域内と解釈概念が拡大されている)への転換だ。従来は「戦える国」の「実現」のための改憲だった。安倍・岸田路線は「戦える国」の現実を作った上で、憲法を既成事実に合わせるための改憲だった。これは立憲主義の「転倒」というほかない。
この状況を反映して、日本の論壇の一部には「憲法9条は死んだ」とする見解がある。しかし、日本国憲法は現実にこの岸田軍拡路線の障害になっている。岸田改憲は、憲法を乗り越えて変質しつつある日本の違憲状態を合憲化して矛盾を解決するためのものだ。
12月7日の憲法審査会の会議の冒頭、中谷元・与党筆頭幹事(自民党)は「来年の常会(213国会)に、議員任期延長や解散禁止などを含めた緊急事態における国会機能の維持の憲法改正について、具体的な条文の起草作業のための機関(作業部会)を設け、作業のステージに入ることを提案」した。そして自衛隊明記については「ほぼ合意が形成されている」ので事務方に論点整理をさせることなどを提起した。この中谷氏の認識は事実ではない。
緊急事態条項挿入改憲の議論は210臨時国会で緊急事態におけるオンライン出席問題が議論され、憲法審査会では異例の採決がされて与野党7会派のうち共産党をのぞく6会派が賛成した。しかし、結局、議院運営委員会で預かりになり中に浮いたままだ。
しかし、憲法審査会で議論されているのは任期延長の議論のみにすぎない。参議院の緊急集会の読み方(54条解釈)はムリ強弁だ。任期延長改憲の緊急集会「平時の制度、70日間限定説」などは、実はためにするもので、まともな法令解釈、憲法解釈でない。参院では公明党もこの解釈に抵抗している。
第54条には「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる」とある。
緊急事態条項で必要な議論は、第54条の参議院の緊急集会の規定や、緊急事態条項に不可欠の緊急政令、緊急財政処分、人権制限の限界などがあり、これらについてはほとんど議論されていない。
安倍・岸田改憲の核心は自衛隊条項の導入だ。にもかかわらず、緊急事態条項だけの、「改憲」発議はありうるだろうか。幾度も国民投票を実施するのは容易ではない。また2項目ないし、4項目で投票するなら、現行改憲手続法下では別個に投票することになり、結果が分裂する可能性もある。改憲派は結果を予測できないという難点がある。
昨年の臨時国会後の閉会中審査の開催や改憲原案づくりの「作業部会」設置はできなかった。しかし、中谷氏が本年の213回国会から着手する方向をしめしたことは重大だ。
これに対して中川正春・野党筆頭幹事(立憲民主党)は「改憲論議が国民の分断をおこしてはならない。多数決では決めないという暗黙のルールが尊重されてきた」「緊急事態条項は憲法に明記する必要はない」と反論した。
野党第1党の立憲民主党の同意を得ないまま、改憲発議に着手するのは容易なことではない。強行すれば、改憲国民投票で改憲派が敗れる可能性がある。「日本維新の会」は次の総選挙で「野党第1党」の地位の確保を狙っているが、これが実現すれば、改憲は国会の同意を得たとして、自民党と維新の会の協議で改憲派は好き勝手に改憲に向けた国会審議を暴走させることができる。
この点には本年には不可避的に直面する総選挙とその結果が大きく影響する。
20%台から10%台などまで急落している内閣支持率に追い打ちをかけるように、政府・自民党幹部に安倍派をはじめ、政治資金規正法違反疑惑が続出し、自民党の国会議員が逮捕され、自民党の最大派閥・安倍派の幹部総体が取り調べを受け、自民党の大半の派閥が解散を宣言せざるをえなくなったなど、「自民党政治と裏金作り」で永田町に重大な激震が走った。加えて年頭には能登半島大震災が起こり、対応が極度に立ち遅れ、その無能ぶりをさらけだしたこと。
これは単なる岸田政権の危機でもなく、安倍派の危機でもなく、自民党政治そのものの危機だ。
足元が揺らいでいる岸田政権による改憲は容易ではない。有権者が「重視する政策」の世論調査(複数回答)では改憲は4~6%程度。世論は改憲など求めていない。
このような政治的危機の中では岸田首相の言う「任期中の改憲」の破綻は不可避だ。2024年の通常国会中(6月中)に改憲原案を作ることは容易でないし、原案の強行採決をしても、改憲手続法(国民投票法)によって、国民投票までは「2か月から6か月」の告知期間が必要だ。2か月は立法主旨からしてありえない。9月までの岸田総裁任期中に改憲国民投票を実施するための時間がない。通常国会の期間中に岸田を追及する運動の高まりさえあれば、岸田政権を追い詰めることは可能だ。そうなれば自民党も岸田首相に改憲を期待せず、次の内閣での改憲実現にシフトせざるをえない。
2024年は改憲と日本の針路を巡る重大な政治的衝突の年となる。崖っぷちの岸田内閣を改憲失敗に追い込み、政権交代に道を開くことが可能になる。
この点には来年前半には不可避的に直面する総選挙とその結果が大きく影響する。4月には東京15区、島根、長崎などの国政選挙の補選がある。
急落している内閣支持率に追い打ちをかけるように、政府・自民党幹部に安倍派をはじめ、裏金作りなど政治資金規正法違反疑惑が続出し、自民党の国会議員が逮捕され、自民党の最大派閥・安倍派の幹部総体が取り調べを受けたことなど、永田町に重大な激震が走った。
岸田首相らの改憲策動を阻止するためには、次の総選挙で野党が共同し、まず改憲派に改憲可能な要件の3分2議席獲得を阻止し、さらに政権交代を実現することだ。
「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」は2023年12月7日、「市民の生活を守り、 将来世代につなげる政治への転換を」と題する5項目の政策要望書を、立憲民主党、共産党など4党1会派との協議の場で提示し、立民、共産、社民、沖縄の風から合意を得た。
これらによって、広範な市民運動の展開を基礎に市民と立憲野党の共同を進め、可能な限りの候補者調整(一本化)を進め、次期総選挙で改憲派の3分の2議席の獲得を阻止し、自公政権打倒につなげていくことが必要だ。
12月7日の政策合意を受けて、連合内では、国民民主党支持グループが、このことを問題視し、議論の結果、12月21日の連合芳野会長の記者会見で次のようなやり取りがあった。芳野会長は「市民連合がイコール共産党の団体でなく、また当日も政策本位ではなく実際には市民連合からの要望をそれぞれの党が受けただけと承知しています」。
しかし、立憲民主党は12月28日付で、大串選対委員長名で次の文書を:出している。
「先般の市民連合からの政策要望の会合をうけて、連合事務局長から幹事長に対して一部の組合員の皆さんの懸念が伝えられたことは事実である。しかしながら、市民連合の会合そのものに参加すべきではないということではなかったと認識している。・私たちはかねてより、次期衆議院選挙に向けて、野党議席最大化のために各野党連携して、力を合わせていきたい旨を述べてきている。今回のような市民連合による会合はその主旨に沿うものであると考えており、今後も参加していく考えである。その際は連合とよく連携を取りながら対応していく所存である」
今後も自公政権の戦略は、野党共闘の分断であり、自公の側、自公政権にすり寄りたい勢力による様々な攻撃が仕掛けられてくると予測される。市民連合は野党共闘をめざして、引き続き全力で取り組む必要がある。最近、立憲民主党の泉代表は、政治改革など共通政策による「ミッション型内閣」などに言及している。これは前向きにとらえるならば、政策の一致を基礎に、野党が結束して闘えば自公政権を倒す可能性は十分ある。
(高田 健・市民連絡会共同代表)
ゲスト:石川 優実さん(アクティビスト)
菱山 最近、11月3日の国会前での憲法集会や市民連合のフェミブリッジや地域の市民運動の街頭宣伝などで「公園でChill」というユニットを組んで歌ってくれているのですが、この「公園でChill」の皆さんはどういう感じで集まったのですか?結成までの話を聞かせてください!
石川 私と、ババカヲルコさんというミュージシャンと私の友人で役者の宮澤もえみちゃんの3人で結成しました。ババさんはKuToo運動で知り合って、もえみちゃんは友達でって感じで。もともと舞台とか映画とかやっていたんですけれども、フェミニズム運動していると映画一緒に出ている友達や舞台やっている友達とかと壁が出来ちゃって。私、別に辞めてないのに「元女優」とか書かれるんですよ。それも嫌で。これからもやっていくつもりなのになーって気持ちがあって。
芸能活動している人が社会活動しているって馴染みがあんまないじゃない?
菱山 そうだよね、特に日本はね。
石川 そうそう、それで分けられちゃうなと思って。でも歌とか映画とか舞台とかってだいぶ社会的なことをやっているはずじゃない。
菱山 もともとそういうものだよね
石川 そうそう!なのに、役者の人たちが一個人の発言として社会的な話をしないというのは本当に変だなと思って。ならば普段社会運動がっつりやっている自分たちが歌とか芝居とかをやってみたかったって感じなんですよね。そこの壁を取り外したかったんですよね。
菱山 なんか社会問題や政治的な発言すると干されたりするよね。
石川 そうそう。だいぶ変わってきたとは思うけれども。役者の人も干されたら怖いって思うから言えない風潮を変えていきたいって言うのもあるし、単純に私が歌いたかったって言うのもある。
社会運動を数年やってきて、あんま楽しくなかったって言うのが正直あって、もっと自分たちが楽しいって思える運動を取り入れてきたいって思いがあって。デモに行ってずっと立って人の話を聞くのが結構しんどくて。もう少し工夫があったらいいのになって思ってはいたんですよね。
菱山 参加型がいいよね。一方通行じゃなくて。
石川 そうそう。話す側、聞く側って言うのがもう少しみんなでやっている感って言うのが良いなって。
菱山 俺の話を聞けー!みたいなのはつらいよね。
石川 そうそう、もう少し楽しいなって思うのがいいなって。あと、この前池袋アクションでも思ったんですけれども、チラシを配っている時、池袋の五差路でベビーカーを押しているお母さんがなかなかこっちを見なくて、それって余裕がないからじゃない。
菱山 うんうん。
石川 余裕がない人に聞いてもらうにはって考えた時に、今の感じじゃ伝わらないかなって思って。歌とかならもっと気軽に入れるのかなって。なんか歌が聞こえるくらいだったらちょっと興味持ってくれる人がいるのかなって思ったのがやり始めたきっかけです。
菱山 公園でChillの皆さんはきちんとした音響とかないと来てもらえないかなとか思ったりするんだけれども、普通の街宣でも来てくれるからすごくうれしい。最高じゃんって思う。
石川 いやいや、やり始めたばっかりだし、こっちからしたら聞いてもらいたいのは道行く人だったりするから、やらせてもらえるのはむしろ感謝です!
菱山 社会運動を楽しくやるって事は、参加のハードルが下がるってことですよね。石川さんはその先にどんな社会を思い描いていますか?
石川 今って社会運動する人もしない人も温度差があると思う。例えば、フェミニズムの人とフェミニズムじゃない人みたいな。でも本来、フェミニズムってフェミニストじゃない女性たちにも知ってもらわなければいけない事ってあって。あの人たちはこうで、あの人たちは違うみたいな壁をなくしたいんですよね。
私、5年前の社会運動する前は本当に無関心層だったから、そっちの立場にいるとそういう話ってなかなか入ってこないんですよね。今政治的なことを知ることになったのはたまたまで。となると、知らない人たちは悪気があって無関心でいるわけではないんだなと。そこにどうしたら聞いてもらえるか思いやりの気持ちを持たなければならないかなって。そこの壁ですね。
Twitter(現X)を辞めて思うんですけれども、社会運動していない人たちとの会話って社会運動している人たちの会話とは違いじゃない?
菱山 うん
石川 そこが、社会運動している人たちとだけで話していると、していない人たちとの喋り方を忘れてしまう自分がいて、これは同じところで生きなければならないなという気持ちが大きくなったんですよね。そこでもっとフラットな社会にしたいなと。社会運動は特別なものだと思われたくないなって考えたんです。
菱山 なんか石川さんと私たちっていろんなことしてきたじゃない?小田急フェミサイドで街頭行動したり、ひろゆきの辺野古座り込み侮辱行動に
して、一緒に抗議のテレ朝前座り込み行動したり!
そうやって怒りを行動に一緒に移すじゃない?今もそうだけれども、いろいろ嫌なことやツライことがあっても様々な工夫をしながら行動したり表現しようとしている原動力が知りたいです。思うことはあっても、行動に移す人は少ないのに、なんで石川さんは一緒に活動してくれるんだろうって。私はいつもワンパターンだけれども、石川さんって、いつも新しいことを考えながらやっているのが凄い!と思っていて。
石川 嬉しい!ありがとう。
菱山 なんでいつも行動するのかってことを知りたいです。
石川 なんだろう。いつもあんま考えたことないけれども、逆に、やらずにはいられない性分(たち)というか
菱山 私と同じなんだけど!!
石川&菱山 爆笑
石川 だってもったいなくないですか?やってみないと分からないし。全部が上手くいくとは思わないけれど、実践したうちのどれか一つくらいはあたるかなって。
菱山 わかる!わかる!数打っちゃあたる的なね。
石川 そうそう。とりあえず、気になったらまずやってみる!合わないなと思ったら中途半端に辞めることもあるけれどお、やってみないと分からないしね。近くに菱山さんとかがいてくれたからできたってこともあるし。自分だけじゃできないことはたくさんありますしね。KuTooもその中の一個ですよ。
菱山 KuTooはすごいよね。社会を変えてきているし。お正月の日航機の事故があった時、CAさんのみんながヒールを履いていたら、女性のCAさんだけ、裸足で救助活動をしなくてはならなかったわけで。あの誰も死者を出さなかった救出はできなかったかもしれないわけで。
石川 いま、JALってKuTooになってましたっけ?
菱山 JALは2020年から強制から選択の自由になったんだよね。
石川 選択が自由になったんだけど結局みんなヒール履いていたりしていたから
菱山 そうなんだ。今度見て見なきゃ。でも強制だったら、何かあったとき本当に大変ですよね。だからあの事故の時、石川さんの運動って人の命も救っているじゃん!って思ったんですよね。
石川 だとしたら嬉しいですね!靴もですが、これ以上女の人に痛い思いをさせないでくれって思う。
菱山 洋服もそうだしね。
石川 フェミブリッジの時も話したんですけれども、すでに女の人は色んな被害を受けているじゃないですか。本当はもう、運動もせずにただ楽しいことだけして、こうやって美味しいご飯を食べてお酒飲んで、ただただ楽しい時間を歌って踊って過ごしてもらいたい。でも男たちだけにやらしていると的外れになるから、一緒にやらなければならない。だからせめて、楽しく社会運動をしていきたいです!
このほど、茨城県日立市在住の市民運動家・角田京子さんの「さようなら原発・署名」運動の記録、「続・福島からの道」(B6判248頁1,700円)が出版された。前著「福島からの道」(B6判218頁1,500円)は2019年3月19日発行なので、約5年ぶりの続刊だ。この記録は地元で発行されている小さなタウン誌『月刊スペースマガジン』の巻頭に毎月連載された署名活動に関するエッセイをまとめたもので、大変具体的で臨場感のある文章が書き綴られている。角田さんは巻頭で「揺れる故郷・原発・人の心、を活動時の中心に据えて、事故後の市民の様子・言葉を捉えて記してきたものです」と書いている。
角田さんの署名活動は,内橋克人,大江健三郎氏ら9名の呼びかけた「『さようなら原発』 一千万署名市民の会」に賛同して始められた。角田さんは,東日本大震災が起こった3.11から4ヶ月後の2011年7月9日土曜日、たった一人で日立駅頭に立ち活動を始めた。以来毎週土曜日、1人で、あるいは複数の協力者と一緒に(角田さんは「チーム日立」と呼んでいる)駅頭に立っている。角田さんの脱原発の署名活動は「たぶん、日本で一番、原発反対署名のむずかしい駅」での署名活動」だといわれる。11年余が過ぎた2022年9月3日には署名数が2万筆に到達した(「続」のあとがきには、この年の11月20日には累計20098筆に達したと書かれている)。私はさまざまな署名運動を見聞きしてきたが、「チーム日立」(ほとんど角田さん1人で取り組んだのではないかと推察しているが)の約13年に及ぶ活動がこれだけの署名を集めたという例を寡聞にして知らない。角田さんへのお礼に「これは角田さんが建てた金字塔だ」と書いた。
いつごろからか、角田さんが届けてくれる署名には毎回、全国アクションが呼び掛けた「憲法改悪に反対する署名」も入ってくるようになった。
毎週、毎週、幟をたて、看板を出し、署名板をもって、日立駅前を通行する人々に、原発反対を呼びかける。容易なことではない。「街頭で署名を呼びかけていると、関心をしめさない人が多いことには愕然としますが、『賢明で聡明になっていく道を!』と願っている日々。中には必ず隣人を思う人、福島を思う人、原発に未来はないと思う人、います」と書いている。このように紹介すると角田さんは歯を食いしばって、挫けずに屹立しているように思えるかもしれない。しかし、記録を読むと、角田さんは実に明るく、時には茶目っ気たっぷりに、それでいて凛として人々に接しているのがわかる。毎号毎号のエッセイの最後はかならず短歌で締めくくられているという文才のもちぬしでもある。
今すぐに 故郷を返せ 人返せ
さ迷いし日々 丸ごと変えせ
この本を読みたい方は「私と憲法」編集部にご連絡ください。(高田)
宗教者・市民共同声明
去る1月10日、陸上自衛隊宮古島駐屯地の警備隊長をはじめ約20人の自衛隊員が宮古島市平良西里に所在する宮古神社に、制服を着用し、公用車を用いて参拝したことに、わたしたち宗教者・市民は強く抗議いたします。
また、その前日の1月9日、東京でも、陸上幕僚副長が、陸上自衛隊の航空事故調査委員会に所属する自衛隊員、事務官ら数十人と共に、年始の「航空安全祈願」と名をうって、やはり公用車を使用して靖国神社を参拝したことについても、断固抗議いたします。
上記の二つの自衛隊幹部による暴挙は、計画的な連動性も疑われ、明らかに「防衛省事務次官通達」(1974年11月19日)に違反します。その事務次官通達には、「1殉職隊員の合祀について殉職隊員の慰霊のため神社への合祀に関し、部隊の長等が公人として奉斉申請者となることは、厳に慎むべき.....部隊等がこれらの団体に合祀を推進するよう働きかけたり、宗教団体とこれら団体との連絡や合祀に必要な事務を代行することも宗教的活動に関与したことになるので注意しなければならない」また、「3.....神祠、仏堂、その他宗教上の礼拝所に対して部隊参拝すること及び隊員に参加を強制することは厳に慎むべき」と記されています。この度の自衛隊員による靖国神社と宮古神社参拝の行動は、この事務次官通達に抵触し、自衛隊に対する文民統制(シビリアン・コントロール)の原理を破壊するもので、わが国の平和憲法の保障する民主主義に対する破壊的行為とみなさざるを得ません。
さらに、これらの自衛隊幹部による行動は、憲法第20条、89条に謳われる「政教分離」の原則を破るものです。わが国の憲法における「政教分離」原則は、憲法第9条と深くつながり、国家神道体制のもとで戦争を宗教的正当化しながら日本国民とアジアの人々に測り知れない犠牲をもたらした、先の戦争に対する深い悔いと反省の精神に根差したものです。その考え方は、1995年8月の村山談話において「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」と表明されています。
制服着用と公用車の使用を伴う連日の神社参拝を「私人」による参拝と説明することは、明らかに詭弁であり、日本国憲法を著しく毀損するものです。
「有事」がプロパガンダによって煽られ、大軍拡路線が進められ、沖縄辺野古では新基地建設代執行が強行され、もはや「新しい戦前」とも呼べる事態となった今日の日本において、私たちは、この度の自衛隊幹部神社集団参拝に、さらなる戦争準備への軍靴の足音を感じずにはいられません。
木原稔防衛大臣には、この度の自衛隊幹部の靖国神社と宮古神社への参拝について、その事実関係を調査し、両者の関係性を糾明し、その責任の所在を国会の席で明らかにすることを求めます。
心をひとつに
1.自衛隊は文民統制を壊してはなりません。
1.自衛隊は憲法の平和主義を遵守しなければなりません。
1.自衛隊は能登半島大地震救援に専念すべきです。
以上呼びかけ、共同声明といたします。
2024年2月14日
呼びかけ 平和をつくり出す宗教者ネット
日本カトリック正義と平和協議会
平和を実現するキリスト者ネット
基地のない沖縄をめざす宗教者の集い
ミサイル基地はいらない宮古島住民連絡会
団体賛同 60団体 許すな!憲法改悪・市民連絡会も賛同しています
個人賛同 243名
広島弁護士会 会長 坂下 宗生
第1 声明の趣旨
当会は、広島市長に対し、教育勅語の引用が誤りであったことを認め、今後、職員研修の資料として教育勅語を引用することをやめるよう求める。
第2 声明の理由
2023年12月、マスコミ報道で、広島市長が、就任直後から、広島市の新任職員研修において、教育勅語の「博愛」や「公益」の尊さを説いた部分を研修資料に引用し、講話を続けてきたことが明らかとなった。
広島市長は、マスコミ報道の後も、「教育勅語を再評価すべきとは考えていないが、評価してもよい部分があったという事実を知っておくことは大切。今後も使用を続ける」「民主主義的な発想の言葉が並んでいる」などと、教育勅語を肯定する内容の発言を続けている。
教育勅語は、明治天皇が、天皇の「臣民」である国民に対し、臣民が忠孝を尽くしたことで国が栄えたことを称え、教育の淵源をもここに求めたものである。かかる教育勅語は、1948年6月の衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」及び参議院の「教育勅語等失効確認に関する決議」において、すでに廃止され、その効力は失われているものであり、その内容は、国民主権を原理とする日本国憲法および教育基本法とは、根本から矛盾する。
また、教育勅語には、「皇祖皇宗國ヲ肇??ムルコト・・・」や「天壤無窮??ノ皇運??ヲ・・・」などの国家神道を前提とする言葉が用いられており、象徴天皇制(憲法1条)や政教分離の原則(憲法20条1、3項)とも相容れない。
したがって、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負う公務員である広島市長が、公務員の研修に教育勅語を用いることは明らかに誤りである。
そもそも、日本国憲法との関係だけでなく、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ)とあるように、教育勅語が戦時下で国民を戦争へ動員する思想統制に利用された歴史的事実からすれば、教育勅語の一部を切り取って、市長が「評価してもよい部分があった」と取り上げること自体に非常に大きな問題がある。これは、平和都市広島であり、平和首長会議の会長都市である広島市の市長が、教育勅語の内容を、評価しているととらえられかねない発言だからである。
広島では、第二次世界大戦において、1945年8月に原子爆弾が投下され、同年のうちに14万人が亡くなったと言われている。今でも、原爆後遺症に苦しむヒバクシャが多数存在する。戦争の歴史、その背景を理解し、平和都市広島の市長としてふさわしい言動がなされるべきである。
よって、教育勅語の引用が誤りであったことを認め、今後、職員研修の資料として教育勅語を引用することをやめるよう求める。
* なお、2月16日、教科書ネットひろしまとJCJは広島市長に「教育勅語を職員研修での使用の中止を求める」要請書を提出した。
小森陽一さん(「九条の会」事務局長、東京大学名誉教授)
(編集部註)1月27日の講座で小森陽一さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
今日は大江健三郎さんについてお話させていただきたいと思います。基本的に私のお話の流れは皆さんにお渡ししているレジメに即してお話ししていきますが、私が大江健三郎という文学者の名前を意識し、そして初めて自分の金、といっても親からのお小遣いではあるわけですが、それで大江健三郎さん、ここから「大江健三郎さん」とさせていただきますけれども、『ヒロシマ・ノート』という岩波新書を買ったのが1965年の年末近くでした。
いろいろなところで皆さんもご存じだと思いますが、私は父親が世界労働組合連合の本部があるプラハに1961年から勤務していたこともあり、そこに家族で行っていたわけですね。ほぼ同時期に「平和と社会主義の諸問題」編集部というところに米原昶さんが勤めていて、その娘さんとしての米原万里さん、ユリさんと一緒に、プラハにある在プラハソビエト大使館付属8年生学校というところに入っていたのが1961年の年末以降ということなんですね。
それなりに今日のお話を聞いていらっしゃる方で、60年安保の記憶をその場で活動していたということでお持ちの方はかなり鮮明に覚えていらっしゃると思いますが、1960年代の前半というのは核兵器の保有をめぐって社会主義国であるソビエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国が真っ向から対立するという事態が発生する。それだけではなくて、そのことと連動した形で日本における原水爆禁止運動が大きく分裂していくという事態になるのが、60年代の前半、半ばに近い前半ということなんですね。ですから大江健三郎さんの『ヒロシマ・ノート』は、その辺りの1963年から64年の原水爆禁止世界大会ではどうだったのかということをルポルタージュとし叙述されたものだったわけです。
それが1965年に帰ってきた、当時12歳、小学校6年生の私が初めて親からもらった日本円のお小遣いで、池袋の近く、大塚というところに住んでいたんですけれども、池袋の書店では売っていなかったんですね。それでわざわざ新宿の紀伊国屋書店まで出かけて『ヒロシマ・ノート』を買って、一気に読んだわけです。なぜそこまでの切実さがあったのかということについてお話をさせていただきたいと思いますが、それは先ほども申し上げた通り、核戦争が本当に勃発するのではないかという危機的な状況に1960年代前半のヨーロッパの社会主義国の人たちは非常に怯えていたわけです。
それは1961年にキューバが社会主義国体制に、カストロの革命によって入る。それに対してアメリカ合衆国が、ケネディ政権ですけれども、干渉戦争を行う。それに対して、ソ連が開発したばかりの核兵器を搭載した艦船をキューバに派遣するという事態が起きるのが、61年の年末から62年の初頭にかけてです。ちょうど私たちが、そのころ海をわたってプラハでの生活を始めたわけです。
プラハに到着してすぐは、もちろんまだ安定した住まいを持っていないので、都心近くのホテルで生活していました。まだ父親は仕事でモスクワに出ていましたので、母と私と5歳下の妹と3人でホテル生活をしていたわけです。とにかく東ヨーロッパの食事はじゃがいもと脂ぎったお肉の料理で、母親は食事が取れないような状態になっていたんです。それで私と妹が、お札を持っていると危険だからということで、ホテルのフロントでお札を小銭に崩してもらって、ポケットをじゃらじゃらいわせながらホテルから外に出ていきました。日本でいうと八百屋さんとでも言いましょうか、そういうお店の前を通りかかった時にバナナとパイナップルとオレンジが、私たちがじゃらじゃらさせていた小銭で買える安さで売っていたわけですね。そこでは分からなかったんですが、とにかく小銭で買い込んで油っこい食事にへきえきしていた母親に食べさせて、それで「これはどうしてだ」と聞いたんです。そうしたら、それは今、キューバ革命以降ソビエトを中心とした東ヨーロッパの社会主義国がキューバを支援するために、キューバで生産されている果物をとにかく安値で買い込んで、みんなに買ってもらって支援しているんだという話を聞いたんですね。ですから翌日から私と妹は「ビバ!カストロ」と叫びながら八百屋にバナナとパイナップルとオレンジを買いに行くことになるわけです。
まさにキューバでの革命が起きて、そこにそれを防衛するためにソ連が核兵器を搭載した艦船を送る。だからソ連の衛星国である東ヨーロッパの社会主義国にアメリカの核兵器が撃ち込まれるかもしれない、という危機感が年末から62年にかけて高まって、それでキューバの果物が一切店頭から消えてしまうわけですね。だから何気ない食生活を通して非常に実感的にあったキューバ危機というものが、国際的な関わり、とりわけソ連系の社会主義国とアメリカとの対立をどう捉えるのかということが、最初からプラハでの生活の中では強く意識させられたわけですね。
そしてそのあと大江さんが『ヒロシマ・ノート』で書かれている部分的核実験禁止条約をめぐって、社会主義国ではソ連と中華人民共和国の対立が非常に強くなる。また様々な運動もそこをめぐって分裂していくという事態を、私たちはプラハで体験したわけですね。その意味で通っていたのが在プラハソビエト大使館付属8年生普通学校でしたから、圧倒的多数はソビエトの子どもたちなわけです。ですから米原万里さん、ユリさん姉妹と私は、「お前たち日本はこの部分的核実験停止条約にどういう立場をとるのか、中国の味方をするのか」。これは万里さんの話を聞くと、私が入るちょっと前までは中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国の子どもたちも、在プラハソビエト大使館付属8年生普通学校にいたそうなんですけれども、一斉に引き上げてしまった。それはなぜかというと、まさに核兵器開発をめぐる中ソ対立が、だんだん焦点化していったからだということになんですね。その部分的核実験禁止条約をめぐって、どういうふうに日本の原水爆禁止運動が分裂して、どういう論争が行われたのかということを、大江さんの『ヒロシマ・ノート』は非常にわかりやすく解き明かしている本だ。
これはつまり、私の父親や母親は日本共産党系の人たちだったわけですから、すでにある種の固定化した論点を持っているわけですね。それは聞き飽きるほど日々の生活の中で聞かされているわけですけれども、プラハから日本に帰ってくるとき、そういう大きな中ソ対立という中に日本の運動も巻き込まれていましたので、ソビエトでもかなりの日数を滞在し、それからシベリア鉄道で中国との国境まで行って険悪な中を入っていって北京や上海でもてなしを受ける。ですから、露骨に部分的核実験禁止条約をめぐる、中国が核兵器を保有するかどうかということをめぐるソビエト共産党と中国共産党との対立のただなかを、日本に帰国してきたわけですね。
私はプラハでロシア語学校に行っていましたので、ソ連にいるときに向こう側の接待を受けるときに挨拶する人がロシア語でかなり厳しい中国批判をやっているのを、日本語の通訳者が訳さないけれどもロシア語がわかる私としては分かったんですね。中国語はわかりませんけれども、中国でも多分そうだったんだろうなと。そういうことを抱えていましたので、社会主義国の核兵器をめぐる中ソ対立というのは一体何だったのか、そのことを自分なりに、親が属している政治党派の論点とは別建てとしてちゃんと納得したいというのが、大江さんの『ヒロシマ・ノート』、初めて自分が日本円のお小遣いで買いにいくということのきっかけだったわけです。非常に説得されましたし、何よりも広島に原爆が落とされて、原爆症の人々の治療に携わっている医師の言葉の中に貫かれている思想というものに大江さんが注目をして、その論点を明確にしているということに小学6年生でしたけれども心を打たれた。小説なんかは一切読んでいなかったんですけれども、この人は信頼できる表現者だという風に12歳のときに思ったわけですね。
65年に帰国して66年から中学生になったんですけれども、せっかく身に着けたロシア語を忘れてはならないということで、親にいろいろ心を砕いてもらって、日ソ学院という日本でロシア語を学んでいる人たちが集まるところに、ロシア語を忘れないようにということで夜に行かせてもらったんですね。私はロシア語は完璧にできるわけです。これから新聞社のモスクワ特派員になるとか、モスクワの大使館に赴任する外務省の人とか、そういう、ロシア語を一気に完成させる形で学ばなければならないという大人たちの教室に、小学6年生から中学1年生くらいの私がいたんです。それで会話の手助けはできないんですけど、1時間目と2時間目がセットになっていて、1時間目はプラウダやイズベスチヤの新聞記事をあらかじめ受講生たちに与えられて、それを翻訳して発表するという授業だったんですね。その授業が始まる前に、色々仕事が忙しくて十分に準備できなかったおじさんたちの手伝いを、私が喫茶店でしていました。私のその時の好みは、プラハにはなかったコーヒーフロートというアイスコーヒーの中にアイスクリームが浮かんでいる飲み物というか食べものがあって、それをおごってもらえればお手伝いします、と言ってやっていたんですね。
ちょうど中学生の時で日ソ学院に通っているときにいわゆる「プラハの春」が起きた。そしてソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍が、プラハに侵攻するという事態が1968年に起きるわけですね。それで私は国際郵便で文通していた友人たちとの接触がなくなってしまって、どうしたらいいのかと呆然自失しているときに、そのロシアの予習の手伝いをしているおじさんたちの何人かが、岩波書店の「世界」という雑誌に加藤周一さんがプラハへのソ連の侵攻について書いているよと、「言葉と戦車」という論文を紹介してくださったんですね。それで「世界」という雑誌も知らなかったんですけど、ただちにその晩に、近くの書店に行って「世界」を買って加藤さんの「言葉と戦車」を読んだわけです。それでこの人の言うことは信じられると思って、この人が書いているんだったらということで、岩波書店の「世界」を自分の小遣いで定期購読することに決めたんですね。
私は今70歳ですけれども、私よりも年上の方も含めてご記憶が残っていると思うんですが、あのころはちゃんとした本屋にはおいていなかったんだけれども、それぞれの地域にちゃんとした本屋さんがあって、週刊誌をはじめとして月刊誌などを売っていたわけですね。私はマンガ雑誌を買いには行っていたんですけれど、中学生がいきなりその地元の本屋さんに「『世界』という雑誌を定期購読したいんですけど」と言ったらその本屋さんはすごく喜んで、多分左がかった人だったんだろうと思うんですけれども、ちゃんと毎月配達してくれました。1960年代に「世界」を読んでいることによって、加藤周一さんと大江健三郎さんが一緒にその雑誌にのるという現場に立ち会うことになり、『沖縄ノート』に関しては毎月本屋さんが配達してくれる「世界」の中で読ませていただいたわけですね。
私はもうすでに高校生で、1969年の大学紛争の安田講堂への機動隊導入で非常に暴力的な権力の弾圧によって大学紛争が抑えられました。中学3年生のころは、通学していた中学校が文京区立第七中学校だったので、見に行ったりして大学紛争が非常に身近ではあったんですね。それで高校に入学して、私が生徒会長をやっていた高校2年生の時がいわゆる70年安保だったわけです。ですから1970年6月23日以降であれば、60年に結んだ日米安保条約を日本かアメリカのどちらかの国が廃棄通告をすれば廃棄できるということでした。そこで1970年に向かって日米安保条約を廃棄できる政府をつくろうということが、日本社会党や共産党を中心とする革新勢力の60年代後半からの運動だったわけです。それが60年代末の学生運動の中の「新左翼」が登場してくる中で、そういう甘っちょろい路線では駄目なんだという批判があり、先ほど申し上げたように69年に東大安田講堂へ機動隊が導入され、封鎖が行われていた大学へ全部機動隊が導入されるという「解決」があり、それをどう評価するかということをめぐる対立があり、という形で70年を迎えたわけで、とても日米安保条約を廃棄する政府をつくるというような状況ではなかったわけですね。
そういう中で、大江さんの『ヒロシマ・ノート』から『沖縄ノート』へという転換というのは、私にとって何をどう考えていったらいいのかということをめぐって指針になったんですね。『沖縄ノート』が岩波書店の「世界」で連載されて、そして岩波新書になるのは、ちょうど1970年だったんです。この時に大江さんが7月に『核時代の想像力』いう本をまとめられていて、大きくそれまでの、自らの青春期の記憶をベースにした小説から、まさに時代状況と結び合うような長編小説へ転換されていくわけですね。
1970年の1年前、69年の4月に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という小説を書かれて、そしてこの直後に『核時代の想像力』という評論集を出版され、雑誌の対談を中心として翌年1971年に『対談 原爆後の人間』という本を出されるんですね。ですから、その意味で『沖縄ノート』を「世界」の連載で読んでいた私にとって改めて、大江健三郎という小説家が今の時代を実際どう生きていけばいいのかということをきちんと導いてくれる小説家として位置づけられなおすということになります。
私は高校紛争のただなかでしたし、2年生の時に生徒会長になって、高校紛争をどう終結させるのかということにも関わったわけで、そのあたりはいろいろなところで書いていますので別の機会にお読みいただければと思います。いずれにしても運動ばかりやっていて受験勉強をほとんどしなかったわけですから、大学受験をどうするのか。でも浪人する余裕は家庭にもなかったわけです。とにかく現役で受かるしかないし、私立大に通う経済的余裕はないので国立大学しかない。それを実現するためには、姑息な手段として、子どものころロシア語の教育を受けてきた、これを使うしかないですね。当時国立大学でロシア語で受験できたのが東京外国語大学と北海道大学の2校だったんですね、東京外語大学にはすでに米原万里さんが入学していて、学生運動の対立のただなかにいらして、それで万里さんから「陽ちゃん、外語大に来たら殺されるよ」というようなことを言われて脅されて、両方受かっていたんですけれども、北大に進学したのが1972年の4月だったんですね。
そのまま学生運動の党派対立の中に巻き込まれていくわけですけれども、すでにその時に大江さんの存在というものが、自分にとっての政治的な問題を、親とは別の角度から考える上では重要な存在として位置づいていたんです。当時の大学生協では大江さんの新しい小説が出ると絶対平積みでダーッと並んでいたので、大江さんの本だけは買いそびれはないという状況だったんですね。それで大学に入学した年に『みずから我が涙をぬぐいたまう日』が出て、そして翌年『洪水はわが魂に及び』が出て、1974年に『状況へ』という評論集が出たんです。つまり大江さんが60年代末から70年代にかけての日本で起きている様々な事態に対して小説でも応答するし、評論においてもきちんと発言なさっていたということです。そして1976年、卒業する年に『ピンチランナー調書』が出たわけですね。
私はどうしても自分が歩んできた経歴や、親の問題で言うと、通常の企業とかもちろん公務員なんかになれない来歴を持っているので、とにかく教育免許を取って教師になるしかない。外国語科卒業なので教師になるしかない。学生運動ばかりやってちゃんとした蓄積はないので、とりあえず大学院に進学して、大学院の修士課程を出ると当時は一級免許が出たんですね。一級免許を獲得したらなんとか公立の学校に就職できるかもしれないということで、1976年に北大の国文科の大学院に就職するわけです。私の指導教師は、私の卒論は二葉亭四迷の翻訳文学、とにかく二葉亭四迷という日本で最初の近代小説を書いた人のロシア語の翻訳文学を比較研究するということでした。私は歴史学科に行きたかったものだから、それを書いて歴史学の大学院を受けようと思ったわけですね。当たり前のことですけど、ロシア語もできますから、西洋史のロシア史の先生は「大丈夫だ」と言っていたんですけれども、その先生の甘さと私自身も甘さがあったわけです。
西洋史というのはロシア史の先生一人だけではなくて、イギリス史とアメリカ史とフランス史とドイツ史の先生がほかにいて、私はロシア史の先生だけがわかる論文をロシア語の引用をふんだんに使いまくって書いて、ロシア史の先生は感動してくれました。けれども他の先生方には翻訳を付けていないから、読めなかったんですね。結果として何を言っているか分からないということで、私の大学院進学のための論文は没になりました。結果としてどうしようかなということで、これはいろいろなところで話していることですけれども、西洋史の先生から無理だよと言われて、エレベーターに乗った時に、歴史学科が5階なんですね。文学部は7階建てで、7階が哲学科で6階が国文科、6階から私の指導教師の亀井秀雄先生がエレベーターに乗っていて、3階くらいのところで「小森君、今日は肩が落ちているね」と言われたんです。「実は」とその話をして、じゃあすすきのに飲みに行こうかということで、「君の二葉亭四迷論は高い評価を受けている。大学の試験は語学で決まるんだから、ロシア語ができれば専門ができなくても大丈夫だよ」と言われて、それで国文の大学院に進むことになったのが1976年のことです。
文字通り『ピンチランナー調書』が書かれた1976年。「ピンチランナー」というのはただ走るだけで、リードをとって「リー、リー、リー」という声が印象的に使われていて、それが耳の中で鳴り響く中で国文科の大学院に進学したわけですね。ですからちょうど私が修士論文を書くときに大江さんが『小説の方法』という評論集を出されて、先ほど申し上げたように、私ができたのが特にロシア語だけでしたので、修士論文も二葉亭四迷のロシア文学を中心にやったわけですね。
その時にすでに外語大の博士課程に進んでいた米原万里さんが、今ロシア語のできる人たちの中で流行っているのが、ソ連時代にずっと禁書扱いとまではいかなかったけれども無視されていったミハイル・バフチンという批評家がいる。ちょうどこの1970年代半ばから後半は日本ではフランスの構造主義ですね、フェルディナン・ド・ソシュールという言語学者の議論をベースにしながら、その方法を使って止揚していく、というのがフランス経由で日本にも入ってきている。でもそれよりも遥かに精緻な理論的分析をしているのがミハイル・バフチンだよということを教えてもらって、まだ翻訳されていなかったんですよね。それを使った修士論文は絶対誰にも文句を言えない、といわれて修士論文を出したのが1978年です。大江さんの『小説の方法』はミハイル・バフチンの理論を使っていたんですね。
その後大江さんも言及しているので大江さんは誰の翻訳、まだ翻訳書は出てないですけど、誰から知恵を授かっていたのかっていうのが「・・・」なんですけど、ノーベル文学賞を取った川端康成さんの息子さんの川端香男里さんという方がロシア文学者で、彼がその後翻訳するんですね。多分、大江さんはそのことを知っていたんじゃないかと思うんです。そういう形で大江さんはミハイル・バフチンをベースにしながら『小説の方法』という一冊をまとめて、自らの小説についての論拠をしっかりと確立されていくのが70年代後半から80年代にかけてです。それまでになかったきわめて実験的な方法で79年に『同時代ゲーム』を発表され、そしてそれまでは基本的には政治に関わっている青年が主人公であることが中心だったんですけれども1982年に『「雨の木(レインツリー)」を聞く女たち』という女性たちを中心とした小説を書かれるわけですね。それは何よりも障がいを持って生まれた光さんと共にどうやって生きていって光さんの生活を支えていくのか、そしてその光さんを支えているもう一人の役割を果たしているのがお連れ合いですけれども、その大江家のかかわりが、いわゆる「私小説的」だという批判も受けられますけれども、小説の中心になってくるのが1980年代ですね。それで光さんを中心にした『新しい人よ眼ざめよ』を1983年の6月に発表されて、この小説で大佛次郎賞を獲得し、翌年、『河馬に噛まれる』で川端康成文学賞を受賞されることになるんですね。
この大きな文学賞を大江さんが受賞する頃に、私は実在の大江健三郎という作家と対面でお話をする機会を得ることができたんですね。それは1980年、私は北海道大学大学院の博士課程を、博士論文を出していないので「満期退学」ということで、当然両親は東京に住んでいて、それなりに年老いていましたから東京で就職するということは私にとって非常に大事な意味を持っていたので、本当は私の指導教師だった亀井秀雄さんが文学部長になったために今動けないので、それで亀井先生が私を紹介してくれたんだと思うんですけれども、28歳のときに成城大学に職を得ることができたんですね。私は成城学園という名前だけは当然知っていましたけれども、そんなに親しみがあったわけでもありません。成城学園というのは幼稚園から大学まであるんですけれども、4月に新しく入った新入職員、それから3月末で退職するお年寄りたちの歓送迎会があって、私が赴任するときの歓送迎会が京王プラザホテルの最上階のレストランだったんですね。それで私が舞い上がってしまう挨拶をしてしまったわけです。
簡単に言うと、高校紛争を生徒会長として終え、1970年の2学期には授業再開をするということになっていたんですね。ずっと1年生から生徒会長の2年生まで紛争続きだったので、アルバイトをする暇がなくて小遣いほとんどなしになってしまったので、これは1学期と2学期の間の夏休みにアルバイトをして稼ぐしかないな、と。これからのたたかいも長いし、70年安保闘争だし、と思って。それで70年安保闘争が敗北するのが1970年6・23ですけれども、
それが終わって即アルバイトをする。そのアルバイトが、ちょうど外側が全部出来上がって内装を整備する段階に入っていた新宿の京王プラザホテルの建築現場に、20歳ですって年を偽ってアルバイトに入ったんですね。水周り、トイレと、それからバスの穴が開いてるところに下水道と上水道のパイプを入れて、それが入ったら下からコンクリートで埋めていく単純な作業なので、たいしたことはないんです。けれども一応危険だったので20歳からとなっていたんですが、私は17歳でしたが20歳と偽ってそのバイトをやったんですね。それで3階から28階までだったかな、その中で自分が穴埋めした京王プラザホテルで、自分が成城学園に就職して迎えられて一番上のレストランで高いワインを飲み放題だというので舞い上がってしまったんです。そういう経歴も含めて、自分の指導教授は亀井さんで、大岡昇平論で群像新人賞をとったんだとか、顰蹙を買うくらい長い挨拶をしたら、私をとってくれた近代文学の先生が「小森君、向こうで大岡昇平さんが呼んでるよ」って言われたんです。
「えっ」と思って、大岡昇平さんは成城学園が最初は新宿にあったらしいんですけれども、成城に引っ越した時、成城学園から道路を隔てて3軒位のところに大岡邸がありました。今はマンションになってしましましたが。今なぜ成城学園がお屋敷町なのかというと成城学園ができてそこに子どもを通わせる家がみんなあそこに新しい住宅を買って、みんなお金持ちだったのでああいう高級住宅街ができたんですね。その京王プラザホテルで、大岡さんは、私の恩師の亀井秀雄先生の「大岡昇平論」を高く評価して、その時いろいろな話をさせていただいたんです。その大岡さんに京王プラザホテルのパーティー会場でワインを運ぶ係になった。それで私はたまたまワインが詳しかったので、それでそのパーティーは「これから赤は何を開けます」とか銘柄をちゃんと明示してあるんですね。それで「これはおいしいと思いますよ」とかそういう話をして大岡さんとワインを飲んだんです。
大岡さんは私のワインの目利きを評価されたんです。今の日本中にあるかどうかわかりませんけれども、成城石井というスーパーマーケットは当時は本当に成城にしかなかったんですね。そこは輸入食品をお金持ちに売る店だったんですけれども、そこに通って「今日こういうワイン入ったのでどうでしょうか」といって手に入れていました。私は若造だったので、そして当時の成城大学って国立大学定年退職した先生方の居場所だったんですね。ですから私が入った国文科のメンバーは全部で9人いたんですが、私のほかの8人とも65歳以上だったわけです。そうすると1限はつらいんですね。私は28歳で就職しましたからまだ若かったので、「1限全部やります」といってやりました。そうすると1限は9時から10時半なんですが、10時半になって暇になるとちょうど大岡さんがふらっとでてくる時間になって、私も「おはようございます」と。それで10時に成城石井がオープンしますから、今日のワインをちょっと探ってきますみたいなことで、大岡邸と成城学園と成城石井の間をウロチョロしているんです。
ウロチョロしているときに、ちょうど成城学園から出て大岡さんの家に向かっていく方向の向こうから、背丈のほぼ同じくらいの同じ黒縁の丸眼鏡をかけた2人連れがゆっくり歩いてくるんですね。なんとなくどこかで見た顔だなと思いつつ気にしていたんです。あるとき大岡さんに「いつも会うんですけどね」って、ちょうどその2人連れが通り過ぎて行ったあとくらいですけれども、「小森君、あれは大江君と光さんだよ」と大岡さんがおっしゃった。その時の大岡さんの言い方に引っかかって「なんで父親の方の大江健三郎が「大江君」で、息子の「光」は「光さん」なのか」って最初の一言でちょっとつっかかって聞いたんです。「いや光さんの音楽はね、もう完成の域に達しているんだけど、大江君の文学は、小説はまだまだだからね」とおっしゃった。「怖いことを言う人だな」と思ったんですけれど。
ちょうどその時1982年の5月ぐらいだったと思うんですけど、光さんがレコードを出して認められたということがありました。それで結果的に大岡さんを媒介にして大江さんと直接お会いすることになったのがこのころだったんですね。そして大江さんはまさに光さんを主人公にした『新しい人よ眠ざめよ』で1983年に大佛次郎賞を獲得し、84年に『河馬に噛まれる』で川端康成文学賞を受賞する。この『河馬に噛まれる』というのは、連合赤軍事件を基底にした連作短編集だったんですね。これがかなり大きな社会的な問題を派生させることになり、いろいろと危険な目にも合われることになっていくのが80年代後半ということになると思います。
そこから大きな転換点が起きるのは、この頃からずっと大江光さんの音楽活動が、大江健三郎さんも父親としてというよりもむしろ理解ある聞き手として支えていくことになるわけです。そういう中で今までになかった、ある程度SF的な世界にも踏みみ込んでいかれて1986年に『M/Tと森のフシギの物語』が発表され、89年には自分の実生活をベースにした小説としての『人生の親戚』『静かな生活』、しかし同時に非常にSF的な『治療塔』という小説も発表し、さらに『治療塔惑星』も発表されたわけですね。ですから、この時期が今から考えると大江健三郎という作家が、自分の障がいを持って生まれた息子の光さんの音楽的才能を開花させる中で、それが光さんの一つの自立の方向を生み出しながら、新しい関係性、その間ずっと光さんを支えて運動のために散歩していたんですけど、その間に交わされていたであろう言葉がここに結実してくると思うんですね。
それで私は10年間成城大学文芸学部で勤めた後、1992年に東京大学の教養学部のいわゆる駒場に就職していることになりました。それはちょうど大江さんの一連の評論その他に、ある時は「Y君」で出できたり、ある時は本名のフルネームで記載されたりするんです。大江さんが東京大学に入学して、当然最初は教養学部として駒場に行くわけですね。その駒場というのは基本的には語学でクラスが編成されているわけで、第2外国語に何をとったのかによってクラス編成が決まる。その同じクラスにいらした、山内久明さんが、その時、私が駒場に就職する時の教養学部の学部長だったんですね。そのことをお知らせのときに大江さんもとても喜んでくださって、わざわざその山内久明さんのところに挨拶してくださいました。私は近代文学の授業をやっているわけですから、私の授業の――大学の授業というのは4月から7月までと、夏休み明けの10月から2月末までという感じなんですけれど――、その私の講義の半期の一番最後に、大江さんが特別講義をしていただくという体制になっていたんですね。
ただ大江健三郎の特別講義を東大駒場でやっていた。その講義に出ていた学生たちから見れば残念なことなんですが、小説家大江健三郎にとってみれば、それは祝福するべきことなんです。1993年に『新年の挨拶』をお書きになって、94年秋10月にスウェーデンアカデミーからノーベル文学賞を受賞するわけです。ですから駒場の警察署からもう絶対大江健三郎特別講義をやってくれるなと言われたくらいの事態になって、ノーベル文学賞を受賞以来、特別講義は行われなくなるわけです。でもその後改めて、世界的な作家として大江さんは大きな評価を得られることになるわけですね。ですから、その意味で90年代のノーベル文学賞を受賞以降、それまでとは違った形で世界的な作家として大江さんが歩みを進められていることになるわけです。そして、政治的な発言においても日本の政治の在り方についてかなり率直な批判がされるようになっていくわけですね。
1990年代後半から、集英社の文芸雑誌「すばる」誌上で、井上ひさしと私が司会の役割を果たしながら「座談会 昭和文学史」という企画を始めることになったんですね。最初は昭和文学全体を俯瞰して何がどうなっていたのかということを語っていいただくのはだれがふさわしいだろうか、ということで加藤周一さんにゲストできていただいて、「昭和文学史」の企画が始まったんですね。ですから、どんなに著名な方であっても、担当させられた他人の文学について語らないといけない。例えば、小田実さんと鶴見俊輔さんという方には、おふたりがベ平連をやっていた時期の文学状況はどうだったんですか、みたいな話を聞くということだったんです。大江健三郎さんだけは特権的に自らの文学について語りつくしていただくという、もちろんノーベル文学賞作家ということもあったんですけれども、そういうふうになるわけですね。
運動されている方たちは実感されていると思いますけれども、1980年代に日本のいわば日米安保条約体制や日本の再軍備その他に反対する平和を求める運動というのは、党派によって分裂をさせられ労働組合も分裂をし、という事態に入っていくことになるわけですね。ですからなかなか「どこどこの労働組合」とか、「どこどこの政党」が主催者になると、幅広い人たちは集まってこないということで、1990年代の後半から、いわゆる学者文化人というたぐいの人々が呼びかけ人になって日本が再軍備をどんどん強めていって日米安保条約体制の中でアメリカの戦争に加担し協力していく方向に転換していくという事に反対する運動もそういう傾向を強めていくことになったんですね。
それで、90年代後半に始めた「座談会 昭和文学史」の全体を語っていただいた加藤周一さんと井上ひさしさんと私は、それがご縁だったわけではないんですけれども、なんだかよく3人セットでいろいろな地域の日本の平和を求める、憲法9条をちゃんと生かした、平和な方向に進むべきだという趣旨の集会の講演者として呼ばれることが多くなりました。3人の一緒になり方が微妙に問題がありまして、今は当たり前になっていますけども、日本で「嫌煙権」というのが言われ始めるのが90年代からですね。ですから、講演が終わったからといって、そこらでタバコを吸える状況ではないという事態になって、加藤周一さんも井上さしさんも超ヘビースモーカーだったんですね。多分、それがお2人の死因の主要な要因になっているんじゃないかと私は思うんですけけれども。
ですから、一緒に行った私が講演を終わったお2人が直ちにたばこを吸える、講演会場からもっとも近い喫煙所をきちんと探し当てで確保してお話しする。必ず3人で灰皿を囲んでぷはーとかやりながらいろいろな話をする、というのが1990年代後半から2000年代にかけての3人の基本的な在り方になってしまったわけですね。それで多分2003年のある時期にその3人で灰皿を囲んでいるときに、いきなり加藤さんがニヤッと笑いながら私に向かって「小森君、60年安保世代は今どうしているんだろう」とおっしゃって、それは私がその1960年安保のときには小学校1年生だったんだけど、母親の詩人小森香子に連れられて何度かデモに出たことがあります、みたいな話を何度もしていたということもあったんですね。
それでいきなり聞かれて「どういうことですか?」と聞くと「いや、例えば60年安保のときに大学2年だったやつは今どうしてるんだ」と。「私にそんなことわかるわけがないじゃないですか」って言ったんですけれど、隣でタバコを吸っていた井上ひさしさんが「加藤さん、それはいい思い付きだ」とおっしゃって、この2人がどこでどう合意しているのかということがよくわからないままだったんですけれども、加藤さんが改めて私に「小森君、例えば60年安保のときに大学2年生、20歳の学生が今いくつだ」、2003年の話ですからプラス43年だなっていうことで「63じゃないですか」といったら「そうだろ」と。そうしたら井上ひさしさんが相槌を打つように「全員企業や役所を定年退職していますね。ということは自由だ」、ということを言ったんですね。ですから私も九条の会の講演会でよく言っていることなんですけれども、九条の会の講演会に集まっていただける方は圧倒的に高齢者なわけです。「若い人はどうしているの?」みたいな話が必ず出てくるんですが、私は「いいんです。九条の会は発足させる時から高齢者のことを狙ってやってるんですから、白髪と皺には誇りを持ってください」って言っているんです。
まあそれはおいておいて、つまりこの60年安保のときに学生だった、ということは、まさに大江健三郎さんが作家としてデビューされた頃の学生なんですよね、その人たちは。それが頭にあったのかどうかは微妙ですけれども、その話をきっかけにして文化人を呼びかけ人として九条の会を結成しようという話が加藤、井上、小森の間でだんだん煮詰まって、じゃあ最初に誰に声をかけようかというときに加藤さんは「大江君でしょう」と一発でおっしゃって、それで私がお会いしてお話をしようというつもりでご自宅にお電話差し上げたんですけれども、もう即その場で「はい、やりましょう」となった。それで一緒にやるのであれば、ということで、九条の会の呼びかけ人になる何人かの大事な人の名前を大江さんが挙げられた。それが結果として今ご存命なのは澤地久枝さんだけになってしまいましたけど、九条の会の呼びかけ人9人が決まっていったのが2003年から2004年にかけてなんですね。
その意味で大江さんは2003年の9月に『「新しい人」の方へ』という、つまりこれからの状況をきちんと生き抜いていく人間のことを大江さんは「新しい人」と名付けたわけです。まさにそのために自ら、それまで決して立たれることのなかった政治的な集会や講演会の先頭に立っていかれたわけですね。九条の会は9人が呼びかけ人になったわけですけども、これは呼びかけ人の中心の1人だった井上ひさしさんの案だったんですけども、井上ひさしさんが3人のトリオお笑いの台本を書いていたということが一番根深い発想の根源だと思うんです。3人ずつトリオを組んで全国に九条の会の運動を呼びかけていったらいいんじゃないかということになって、それで事務局長としての私がその呼びかけ人の方の日程を調整して全国で講演会を開いていこうということになったんですね。
九条の会を発足させた2004年6月の段階では、まさに小泉政権がイラクに自衛隊を派兵する法律を作って、その小泉政権から第1次安倍晋三政権に政権が手渡される。日本が海外で戦争する国になるかならないか、そういう極めて危険な状況のときだったんですね。世論調査でも憲法を変えた方がいいという人たちが多数派になっていたのが2004年の状況でした。そこから九条の会が発足して、呼びかけ人が3人ずつトリオを組んで全国の主要都市で講演会を行っていくということになりました。私は事務局長として、ほとんど全ての講演会に呼びかけ人と一緒に参加させていただいたんですけれども、どれだけ多くの人たちがこの九条の会の運動に期待を持っていたのかということが分かりました。
それはまず九条の会の呼びかけ人の方から、「何月何日にそちらに行きたいんですけれどもどうですか、会場を確保できますか」っていう交渉をしていくんです。こっちの都合というか、こっちの9人を3人ずつ割り振って、どこどこへ行けるっていうこちらの都合で依頼しているにもかかわらず、会場ではすでにその都道府県の九条の会ができている。そしてそれが主催者の名前が付いていて、すでに職場や地域や学園での九条の会もいくつも結成されていて、それが都道府県単位の九条の会の名前の下にずらっと名前を連ねている。つまりこういうものが本当に求められていたんだということを強く全国を回りながら事務局長としての私も感じました。
大江健三郎さんは、自分は講演とかはとても苦手なんだとずっとおっしゃっていたけれども、これはやっぱり同じ文学関係者としての、なおかつ大江健三郎の文学についても批評した私としても、本当に頭の下がる思いだったんですけれども、決して同じ話はされないですね。つまり別の場所なのだから、同じ話をしても、それはテープ起こしされて活字になって流布されたらばれるかもしれない。そんなに気にする必要はないんだけれども、大江さんはちゃんと原稿を準備されて、同じ話は決してされなかったんですね。ですからここにも大江さんが九条の会運動にかけた思いがあると思います。
この九条の会の活動を始めた時期とほぼ連動して、大江さんの書かれた沖縄問題についての言説をめぐってとにかく「大江をつぶす」ということで、沖縄戦裁判というのが2005年に開始されたんですね。これも大江さんが様々な活動をする非常に大きな障害になり、大江さんの社会的活動を妨害する意図で沖縄戦の裁判が仕掛けられたことは明確な訳です。それに対抗するようにして大江さんはノーベル文学賞で手にした賞金をもとに2007年に大江健三郎賞というのを作られて、大江健三郎が選んだ素晴らしい文学作品に賞を与える。この2007年の大江健三郎賞を創設した年に『大江健三郎 作家自身を語る』ということで、ある意味で自らが小説家としての自分の全人生を振り返ってきちっと枠組みを作るということになるんですね。
2008年に沖縄戦裁判で勝利をすることになります。そして2009年12月に『水死』という、初めて大江さんが自分の父親をモデルにした形での小説を発表されます。2011年3月11日に発生した東北大震災、その一つの帰結としての原発の事故に対して先頭に立って脱原発を行ったことが皆さんの記憶にも新しいだろうと思うんですね。つまり大江健三郎という作家が小説家として歩んだ道筋と、そしてその社会的な評価を高く得ることによって、それを今この日本にとって必要不可欠な政治運動の力に転換させていく。そのことを晩年に非常に意識的に行われていったということを、ずっとそばにさせていただいた私としては、改めて大江健三郎さんがどういう文学者だったのかということを考える上では大事だと思っています。
その大江健三郎さんの一番新しい本が、去年の10月20日に岩波新書で発表された『親密な手紙』という新書です。岩波の宣伝雑誌である「図書」という雑誌に2010年から2013年かけて連載されたエッセイが載っていますので、ぜひお読みいただきたいと思うんですけれども、先ほどご紹介した大江さんが東大の駒場に入学したとき、語学のクラスで同級生だった、私が東大駒場で教えるきっかけを作ってくださった山内久明さんについてこう書いてありますね。
「同級生 駒場の最初の授業の日、友人となったY君のことは先にも書いたが、先だって目にした彼の短い文章に、地方出身の朴訥な若者として私の印象は回想してもらっていた。私の方は、端正な面立ちの彼の、英文科に進むがフランス語の基礎を固めておきたいので、仏文科に行く学生のためのフランス語未修のクラスを選んだという話を聞いて、本郷で別々になってからも自分のイギリス、アメリカ現代史の独学のためのチューターになってもらおうと考えた。やがて専門家になる秀才であることが目に見えていたから」。
これがその山内久明さんに対しての話なんですけれども。お聞きになってね、二重にも三重にも屈折している書き方をしていることはお気づきになられたと思います。友人となって親しくなったということから始まっているわけですけれども、両親となって親しくなったということから始まっているわけですけ。まず大江さんが愛媛から出てきた地方出身の朴訥な学生だった。そのことを見抜いていたであろうと大江さんは考えているわけです。山内久明さんはまず「端正な面立ち」だ、山内久明さんは英文学者として大成するわけですけれども、もともと英文学者になろうと思いながら、わざわざ教養学部の第2外国語はフランス語を選んでいるわけですね。「英文科に進むが、フランス語の基礎を固めておきたいので、仏文科に行く学生のためのフランス語未修のクラスを選んだ」。そういうことを入学したばかりの同じグラスの大江さんに話している。そうすると、田舎から出てきた大江さんにとって、どれだけ「なんだ、こいつは」という思いがあったということが伝わってくる書き方になっている。「本郷で別々になって」、本郷では学部に移行するわけですけれども、山内さんは英文科に行って、大江さんは仏文科に行くんだけれども、結果として小説を書いて大学にはあまり行かない生活になるんですね。「本郷で別々になってからも自分のイギリス、アメリカ現代史の独学のためのチューターになってもらおうと考えた」、チューターというのは近しい形で学問の指導をしてくれる指導者のことを言うわけです。つまり、たぶん最後の大江さんの本になると思いますけれども、この『親密な手紙』の中で、学生時代の友人の山内久明さんのことをどういうふうに紹介しているかというところにも、大江健三郎という小説家の在り方が見えてくるわけですね。
最後に私と井上ひさしさんが大江さんと一緒に九条の会をやることになるきっかけに、「座談会 昭和文学史」がなったということは先ほどお話しました。大江さんをお呼びしたのが2000年だったんですが、そのとき大江さんはこういうふうに戦後民主主義者としての自分について語られたんですね。これは大江さんの言葉の引用です。「私は講演や評論では繰り返し戦後民主主義、とりわけ第一次戦後派が担った戦後民主主義の路線を守り発展させていくという立場をずっと表明してきたけれども、小説で書いてきたことは、むしろ私が敗戦を迎えるまで私の意識の中に刷り込まれた皇国少年としての問題だった。その意味で講演、評論と小説とでは同じ大江健三郎という表現者の表現であってもジャンルによって支配的な考え方の枠組みは異なっている」。こうおっしゃっているんですね。ですから大江さんが評論で語ること、あるいは講演で語ること、それと小説で表現すること、このことをきちっと常に区別しながら自分の言葉を選ばれ続けてきた。そういう意味で昨年の3月3日に大江健三郎さんは命を終えられたわけですけれども、改めて大江健三郎の文学を皆さんがこの大江さん自身の言葉ですね。批評的な言葉と小説の言葉をきちっと分けて自分は使ってきたんだ。そのことを意識しながら読み直していただけるとありがたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。