7月22日の岸田政権による法的根拠も何もない安倍元首相の「国葬」が雨降りしきる朝、閣議決定された。首相官邸に入っていく閣僚が乗った車に市民は怒号を浴びせた。それから2か月間。運動は大きく盛り上がり、残暑厳しい日も、台風の日も全国で「国葬反対」の声は広がり続けた。市民運動に突き動かされる形で、情勢は毎日のように変化していった。
「国葬」終了後にかかった費用を公開すると言っていたが、結局16.6億円だと実施前に発表せざるを得なくなった。(実際本当に16.6億円で済んだかどうか検証が必要だ)岸田首相は当初「国民全体で弔意を表す」と言っていたが、途中から「弔意は強制しない」と主張を変更。自治体にも半旗掲揚、黙祷の強制はしないと言い始めた。全国の市民が自分の住む自治体や教育委員会に赴き、弔意の強制、半旗掲揚をしないよう求める運動が広まった。
沖縄県知事選挙で再選を果たした玉城デニー県知事は当選翌日、「国葬は欠席する」と表明した。立憲民主党の泉代表は9月1日に出演したBSフジの番組内で「国葬出席の可能性はある」と言っていたが、立憲民主党内の議員が次々とSNSで「欠席」を表明したり、東京8区では総支部として「国葬」反対の立場で街頭宣伝やシール投票をするなどの党内の動きが全国的に相次ぎ、さらに支持者からSNSを通じて「参加はあり得ない」といった声が溢れ、泉代表は一転、同月15日に「立憲民主党の執行部は国葬を欠席する」ことを決定した。
「弔問外交」破綻の決定打になったのは、「国葬」直前にG7で唯一出席予定だったカナダのトルドー首相が国内のハリケーン対策を理由に欠席を表明したことだ。これでG7の首脳は全滅。誰も出席しないこととなった。招待状を送り、当初見込んでいた参加者は大幅に減り、4300人を切る事態となった。
SNS界隈では「デジタル献花」などといった動きがあったが、その仕掛人が統一協会2世によるものだったということも暴露され、強行後もなお、畳みかけるように「国葬大失敗」の実態が露呈された。
「国葬」当日、国会正門前には15000人が関東周辺に限らず全国から結集した。
また、全国各地での取り組みを仲間が調査し、調べられた限りで約3万人がその日同時に声を上げた。その動きは国内に留まらずニューヨークなど、海外でも取り組まれた。報道されていない所もあるので、その数はら)3万人以上であることは確実だ。運動の盛り上がりは「国葬」強行後、沈静化するどころか、希望を抱くものとなった。「国葬」反対派は高齢者が多く、賛成派は若者が多いという報道がされていたが、実際は反対派にも多くの若者が集まり、初めてデモに参加する学生・青年労働者も多くいた。一方賛成派も少人数のデモを実行していたが、そのデモ隊のほとんどがかなりの高齢者で占められており、それは映像を見ているこちらが転ばないかヒヤヒヤするほどであった。のちに記述するが、このようなデマによる印象操作が「国葬」が近づくほど過激になっていった。
確かに、若い人にとって「安倍政権」がどれだけ悪く、市民を苦しめてきたか実感はないかもしれない。それもそのはず、8年8カ月という長期政権により「安倍政権しか知らない」という環境下で若者たちは育ってきたのだ。だから「なぜ反対するの?別にいいじゃん」という感覚になることは頷ける。ここで今回大活躍したのが、これまで市民運動、労働運動を行ってきた人たちだ。上智大学教授の中野晃一さんが話した「敷布団掛布団論」でいう、まさに「敷布団」運動体だった。全国津々浦々で集会やデモ、街頭宣伝にシール投票、SNSでの発信、ネットプリントを用いた多彩なプラカードの拡散など、今まで行使してきたありとあらゆる運動手段にコロナ禍で得た多様な取り組みを用い、閣議決定から「国葬強行」まで闘い抜いたのだ。
風頼みの運動ではない、市民の草の根運動が今回の安倍元首相の「国葬」反対運動と世論を大きく動かした。NHKまでもが「国葬」を報じる際に「世論を二分した」「賛否分かれる」などといった枕詞を必ずつけており、私たちは安倍元首相の「国葬」反対の闘いにおいて、岸田政権と脈々と引き継がれてきた「アベ政治」に完全に勝利した。
9月27日以前と以後で日本の政治は一つの新たなステージに入ったと言っても過言ではない。9月28日、雲一つない晴れ晴れとした朝を迎え、新しい時代の始まりを感じた。この成功体験は必ずこれからの若者たちの未来に大きな出来事として刻まれ生かされていくであろうと確信し、風化させないための引き続く運動の重要性が草の根的市民運動にかかってきている。
【※敷布団掛布団論とは:2015年安保法制を巡る闘い(2015年安保闘争)の時に、中野晃一さんが長年運動のベースを作ってきた運動家たちを敷布団に例え、シールズやその他新しい運動体は注目されやすく派手に見えるため掛布団と例えられた。敷布団がしっかりしていないと掛布団がどんなに豪華で分厚くとも、防寒にならない。暑い夏、掛布団はいらなくても敷布団がないと背中が痛くて眠れない。敷布団は地味だが重要で欠かせない役割を果たしていると国会前の集会で話し、聞いていた「敷布団」の運動家たちは当時とても感動した。】
「国葬」から間髪入れずにようやく行われた臨時国会の開会日の翌日、北朝鮮からミサイルが発射された。自民党の常とう手段である延命のための「北朝鮮のミサイルの脅威」を煽りまくり、Jアラートを鳴り響かせるものの、岸田政権の支持率は下がる一方だ。世論はもうそのような小手先の扇動に動じなくなってきている。これもアベ政治の終わりの始まりと言えるのではないだろうか。これだけ岸田政権の支持率が下がっているのだから立憲野党の支持率は伸びているだろうと期待するが、岸田政権の支持率急落と比例しているわけではない。ここに対して私たちは、危機感を感じ、今こそ、もっと大胆にこの「国葬」を巡る運動の盛り上がりを持続させよう。
この間の岸田政権の支持率低下の原因の一つは世論の声に耳を貸さない「国葬」強行の姿勢、そしてもう一つはカルト集団統一協会との癒着だ。第3者を入れての調査を徹底的に避け、調査も、アンケートも取らずあくまでも「点検」の姿勢を取り、自己申告レベルで済まして逃げようとしている。事の発端ともなった、統一協会の広告塔でもあった安倍元首相は亡くなったということを理由に調査から外し、関係性が濃いと言われている細田議員も議長という理由で「点検」対象から外されている。そのような態度では当然世間の理解を得られるはずがない。連日新聞やテレビでは統一協会の話題が出され、国会内でも連日野党から追及を受けている。国会内外一緒になって自民党とカルト集団統一協会とのかかわりを暴き、憲法審査会どころではない雰囲気を作り出そう。
先述したように、岸田政権の支持率が下がっているというのにも関わらず、野党の支持率が上がっていないというところに私たちは危機感を持たなければならない。これから統一協会や「国葬」を巡って自民党は窮地に追いやられて、支持率の回復が見込めないような状態がだらだらと続くかもしれない。そのような漂流状態で危険なのは、「なんとなく自民党支持」層がさらに過激な方に流れてしまわないかということだ。新自由主義と自己責任論丸出しの維新の会や参政党といったカルト集団といった一見、はっきりとすっきり分かりやすい口調に騙され、流されてしまわぬよう私たちは街に出て、言葉と手段を磨いていかなければならない。
維新は地域という足場から徐々に勢力を伸ばしていった。自民もなぜあれだけの根強い支持者がいるのかと言ったら、自治会長にPTA、町内会のイベント、商店会など様々な地域の取り組みに積極的に参加し、実権を握ってきたからだ。日常に政治を、暮らしに政治を取り戻すチャンスが今目の前にやってきている。来年の統一自治体選挙では地域から立憲野党系候補者を一人でも多く当選させよう。
9月27日の「国葬」強行日に国会正門前に15000人の人々が結集したわけだが、その他にも武道館周辺などでも行動が取り組まれていた。そのような動きが気に食わない右派、統一協会の信者などが一斉に「15000人なんて嘘だ」「警察発表では500人だった」「日本野鳥の会が数えたら307人だった」などといったデマが一日で大量に流れ、国会正門前ではない場所の写真を引っ張ってきて「これで15000人と嘘ついている」という悪質な印象操作も行われた。国会正門前に行きなれている人ならその写真の場所が全く違うところだとわかるだろうが、行ったことのない人にとっては分からず信じてしまう可能性も高い。まさか!と思われるかもしれないが、実際に市民連絡会の事務所に毎日新聞の記者から電話がかかってきて「15000人というのは本当でしょうか。ネットでは500人という情報の方が多いのですが。」という問い合わせがあった。「新聞の写真を見て500人に見えますか?」と聞くと記者は「見えません」と答え、「ファクトチェックのためにご連絡差し上げました」と電話口で話された。
電話してきた毎日新聞の記者が自社紙の写真をどう見ても500人に見えないのにも関わらず、こちらに電話をかけてきたのはなぜだろうか。目に見えるのもが明らかに情報と違っていても、それでもそのデマ情報の数が多く、勢いが強ければ目に見えるものの印象が変わってしまうのだ。それがデマの恐ろしいところであり、歴史を振り返ると何度もこのようなデマにより正しい判断ができなくなり、戦争へと突き進んできた。
他にも「国葬」前夜には「菱山容疑者」というワードがSNSで急上昇した。つまり「葬式を妨害することは違法なので、国葬当日黙祷の時間にシュプレヒコールなどを上げると現行犯逮捕される。国会正門前に行く方は逮捕の危険性があるので行かない方がいい」という注意勧告が大量に短時間に集中して出回ったのだ。デマの共通しているところは「短時間に大量に」というところだ。考える時間を与えない、思考する隙を与えない。これは独裁がやりがちな、民衆をコントロールするための手段でもある。私たちは歴史を学びこのようなデマ扇動に対して毅然と冷静に分析し、闘っていかなければならない。
台湾海峡を巡って、朝鮮半島を巡って緊張関係が続いている。北朝鮮から発射された「ミサイル」が日本から3000キロメートル離れたところに落下したと言って、臨時国会開会日の翌日の朝からJアラートが鳴り、テレビではしきりに「地下や頑丈な建物の中に避難しろ」と異様な騒ぎ立てを行った。NHKに関しては、キャスターがヘルメットをかぶって注意喚起を行った。ちなみに「ミサイル」落下後に、だ。そもそも、3000キロメートルとはどれだけ離れているのだろうか。知床岬から種子島宇宙センターまでの距離が約2000キロメートル。つまり今回はそれよりも遠くに落ちているのだ。それを今から飛んでくるかのような戦時下演出を行うことは断じて許されない。
沖縄や米軍基地付近では目視できるどころかパイロットの顔さえも見えそうな程の低空飛行で爆音を昼夜問わずまき散らし、時には墜落事故や落下物を起こす在日米軍やオスプレイにはだんまりなのはあまりにもおかしいのではないだろうか。北朝鮮の「ミサイル」を都合良く利用し、軍拡と軍事費増額を正当化させてはならない。8月下旬から日本も日韓米合同軍事演習を始めている。そのことには触れず、一方的な軍事的行動だというような誘導に騙されず、「どの国も軍事演習、軍事的行動にも反対する」とした立場に立ち朝鮮半島、中国、台湾、ウクライナ、ロシアの市民と繋がっていこう。年内にももくろまれている、軍事費の増額に対し、反対の大きな世論を作り上げていこう。「国葬」反対運動の次は反戦運動だ。マイナンバーカードと保険証を紐づける市民監視体制を拒否し、戦争への道を突き進む岸田政権ごと打倒しよう。
(事務局 菱山 南帆子)
(編集部より)国葬反対の行動を首都圏中心に展開してきた実行委員会は解散に当たって行動を総括し以下のような声明を発出した。
9月27日、世論の圧倒的多数が反対する中、岸田文雄政権のごり押しで「安倍元首相国葬」が日本武道館を会場に強行された。
岸田政権は自らの政治的思惑で国葬開催を閣議決定のみで強行した。日本武道館で開催されたその国葬は4000余人が出席したが、「君が代」の演奏に始まって、黙とう時には戦前の軍歌「国の鎮め」が演奏され、その後「悠遠なる皇御国」という天皇制礼賛の曲目が自衛隊音楽隊によって演奏されるというおどろおどろしい演出がされた。
特記すべきことは、この国葬には自衛隊員千数百人が参加し、遺骨が自宅を出発する際には自衛隊員による儀仗が行われ、遺骨を乗せた車は国会議事堂ではなく、わざわざ防衛省に立ち寄った。遺骨が会場に到着すると自衛隊員による「弔砲」が発射された。会場付近の沿道に自衛隊員が整列する「と列」や音楽隊の演奏も行われ、自衛隊が特別に突出したイベントとなった。日本国憲法下での行事で戦前の天皇制軍国主義の復活を思わせるかのような異様な光景が展開されたことは黙過できない。
国葬をもって安倍氏の「政治的業績」を賛美し、それを人々に押し付けようとする企ては許されない。安倍氏はその在任期間において、極右カルト集団・統一協会と結託し、日本国憲法を敵視し、家父長制思想を復活させて女性政策を後退させ、教育基本法や安保関連法制の改悪など行政を歪め、権力を私物化し、歴史修正主義、民主主義破壊、軍拡、解釈改憲、その他数多くの憲法違反の悪法を強行成立させてきた戦後最悪ともいうべき首相だった。
安倍元首相が亡くなったことによって、彼のこれまでの数々の悪政の責任が消えるわけではない。
この日、安倍国葬に反対する市民は東京の国会正門前で15,000人のデモを開催したのをはじめ、現在までに集約できただけでも全国47都道府県の津々浦々、250箇所以上の地域で、3万人を超える人々が国葬反対の行動を展開した。
私たちは7月22日の閣議決定に反対する首相官邸前行動を皮切りに、首都圏を中心に85の市民団体が結集して「安倍元首相の『国葬』に反対する実行委員会」結成して、8月31日の国会正門前行動(4000人)、9月19日の代々木公園での集会とデモ(13,000人)をはじめ、連続的に街中でさまざまな行動を展開した。同時に全国各地の市民は各自治体で、半旗の掲揚や黙とうの強制など、公的機関での追悼を強制させないための要請行動をした。また岸田政権が「弔問外交」を企図したことに対抗して、憲法学者を中心に国内のほとんどの外国公館などへ声明を送付し、実行委員会も外国特派員協会での記者会見を開催した。また国葬反対のネット署名運動を展開し、40万筆以上の署名を集めた。27日の国会前の集会で、在日ミャンマー人の労働者の団体と、日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の代表も発言したことは、この行動が国民的な枠を超えて、広く国際的市民と連携して取り組まれたことを象徴するものだったと言える。
今回の行動は実に多様に、広く、深く展開された。
運動のこのような盛り上がりに恐怖した国葬推進派は、三重県の自民党県議が「国葬反対のSNS発信の8割が『隣の大陸』からだったという分析が出ている」などとツイッターにデマを投稿し、情報の出所を追及されると、自民党の高市早苗経済安保担当相の講演だと説明し、のちに高市氏が否定する騒ぎとなった。高市氏の責任は免れない。同様のことはSNSの世界では、国会正門前の集会は数百人に過ぎないと「日本野鳥の会」や警察が発表したとデマ情報を流し、同会や警察当局に否定される騒ぎもあった。
これに並行して岸田内閣の支持率も続落し、時事通信が10月7~10日に行った世論調査では内閣支持率が「政権維持の危険水域」とされる20%台の27・4%となり、不支持率が43%となった。とりわけ統一協会と自民党の癒着をめぐる岸田内閣の対応には67・6%が「評価しない」とした、
岸田政権の支持率が大きく低下したことは、参院選後、3年は大規模な国政選挙が予定されないことから、岸田政権にとって改憲や防衛力(軍事力)強化にとって絶好の「黄金の3年」といわれたこともどこへやら、政権維持そのものすら危うくなってきたことを意味する。岸田政権による安倍国葬の企ては失敗した。
私たちの実行委員会は出発時の確認通り、10月11日をもって、いったん解散する。
しかし、それは岸田政権とのたたかいの終焉をまったく意味しない。この実行委員会は様々な運動の経過や立場の違いを超えて、お互いの行動を尊重し、共同してきた。
今後、わたしたちは新たに体制を整えて、引き続き自民党と統一協会の癒着追及の闘いを継続する。そして自民党など歴代政権の悪政を追及し、反戦・平和、反改憲・反軍拡・いのちと暮らしを守る闘いを堅持し、岸田政権を打倒し、真に民主主義を実現する新しい政治をもとめてたたかい続ける。
2022年10月11日
安倍元首相の「国葬」に反対する実行委員会
大滝敏市(事務局)
ネットで検索できたのは、行動のほんの一部だと思われますが、それでも、「全国津々浦々」で行動が巻き起こったことを実感しました。
1)ネトウヨ(?)の「ジジババばっかり」「邪魔」「やる意味がない」などの書き込みも多くありますが、そういう人たちも、こう書き加えています。
「今日駅前で国葬反対デモしてて、東京から6億kmくらい離れたクソ田舎でまでマジでなにしてんのと思ってクソデカため息出た」 「愛知県西三河のド田舎で何やってんのかね」 「初めて実写で見たわ」
「こんな田舎でせんで武道館までいけよ」 「クソ田舎の道の駅の近くでパフォーマンスしてるクソジジイ集団が国葬反対と叫んでましたね…」 「さっきも反対グループの記事見たばかりだなと思ったら、今日一日で4回も国葬反対デモの記事出してんじゃん」などなど。
2)もちろん、賛同の投稿も。
「帰路駅前で、国葬反対のプラカードを持って集まっている人たちがいた。なんのためらいもなく、ビラを配っている初老の女性と握手を交わした。たったそれだけのことであるが、きょうという日を傍観者のまま終わらずに済んだという気持ちが込み上げてきた」 「『国葬反対』のプラカを持ち、駅前に立つ方賛同します!」
駅前に一人立つ方。賛同します!」 「離れ小島の田舎者なのでデモには参加出来ませんが、最後の最後まで国葬に反対します」 など。
3)そして、行動をリアルに目にした書き込みが目立ちました。
「都内の国葬反対デモが少なかったって言うけど、先週四国行ったらあちこちの駅前で反対の運動してて、あー、こういうとこまでやってるのかと思ったので東京だけ見てあれこれ言うのも間違ってるなと思うな」 「駅前で国葬反対のおばさん達を見て本当にいるんだなって思った」
山口たか(戦争させない市民の風・共同代表)
7月8日、安倍晋三元首相が奈良県で自民党候補の応援演説中、銃弾に倒れ亡くなった。旧統一教会に家庭が破壊された容疑者が、その統一教会に安倍元首相が大きく関わっていると考え殺害したと報道された。その安倍元首相が国葬!?昭和天皇逝去のさいは、大喪の礼が挙行された。天皇の重体の期間中、歌舞音曲の自粛、休校などがあった。私は仲間たちと、大喪当日、札幌駅前通りで、ラジオたいそう(=大喪)をして葬儀を皮肉った。それは天皇制の賛否とは関係なく皇室典範にそっておこなわれた。
一方、「アベ国葬」はどうか。閣議決定だけで決め法的根拠がない上、弔意の強制=内心の自由を奪うことにつながる。また、森友問題を忘れてはならないと思っていた。学園の所在地大阪府豊中市での集会に参加した。籠池夫妻の講演会、森友問題を記事にしてNHKを辞めた相澤冬樹記者の講演会を主催したが、ともに会場は満席となった。安倍発言によって公文書の改ざんや廃棄を強いられ自ら命を絶った元大阪国税局職員赤木俊夫さんの妻・雅子さんの講演会も行った。真相を明らかにしないまま安倍は逝った。妻・昭恵氏は、「常に私を守ってくれた」と夫を偲んだ。たしかにあなたの夫はあなたを守った――ウソと公文書改ざんと公務員による忖度で。それは国民への背任、犯罪、政治の私物化。一人の公務員の命を奪ったことへの後悔や贖罪の気持ちはないのか! 国葬は反対しなければと思った。
国葬反対の賛同を呼びかけたところ15団体が集まった。反対運動のはじめに国葬を理解するために、水島朝穂早大教授による「アベ国葬に異議あり」講演会を開催し180人が参加。大隈重信18代総理は国葬でなく国民葬だったが、日比谷公園に30万人が集った。軍人勅諭や教育勅語を制定した山県有朋の国葬は1か月後に行われたが1万人の会場に700人しか集まらなかったという。笑いも交えた国葬の歴史や考え方の講演はわかりやすく、国葬反対に理論的な確信が持てた。講演会後、賛同団体で国葬反対市民連絡会議ができ、9月12日には、市民の風と連絡会と共同で、北海道知事と札幌市長に、国葬不参加、教育委員会など公的機関に弔旗弔意の強制はするな、と申し入れた。
8月5日には「市民の風・ライヴ隊」が大通り公園で。8月31日は「市民の風」が、アクションを呼びかけたが悪天候により中止、としたにも関わらず130人が、すすきの交差点に集まってしまった!激しい雨のなかでの、スタンディングとスピーチ。9月17日は、小樽で「おどろおどろしき国家観の押し付け」集会。26日は、戦争させない北海道委員会が300人の街頭集会。国葬当日、市民の風と市民連絡会議主催の札幌駅前での抗議行動には200人。憲法共同センターの行動には100人、「へいわっていいね!手稲市民の会」が集会とデモに取り組んで50人。自民党道本部へのデモ隊は60人。護憲ネットの街頭宣伝も含め札幌市内計7か所で500人以上が声を挙げた。わかっているだけでも、釧路、十勝など道内22か所で「同時多発行動」が行われた。国葬は、自衛隊が各場面で多数参加、菅前首相による弔辞では、「あの!」山県有朋の句が引用されるなど、まさに軍国主義的、古色蒼然としたものだった。
反対運動は終了したがアベ手法を踏襲した岸田政権により、民主主義の破壊が進行中だ。葬儀強行で、国民の分断はさらに可視化された。統一教会と自民党の繋がりは真相解明にはほど遠い。
しかし、自民党に代わる政権の受け皿がないことは問題だ。この惨憺たる政治を変えるために、山積する政治課題へ共に取り組みながら、立憲野党には「共闘」への意識を高めてもらう働きかけも強めたい。反国葬運動がアベ政治の終わりの始まりを告げていると信じたい。
7月28日、おおさか総がかり行動実行委員会で「国葬」反対の取り組みを議論し、スケジュールをはじめ取り組みを確定した。7月31日の全国交流集会での意見交換を経て8月から市民の「怒涛」の国葬反対の運動が始まった。まず、「総がかり」としては、8月19日の京橋での「国葬」反対のスタンディング(参加60名)を皮切りに9月19日には、市民5団体が主催し、総がかりが協賛して「国葬」反対市民集会を行った。この集会には、台風が接近中にも関わらず300名を超える市民が参加し、市民の怒りを示す集会になった。集会には、立憲4党から辻元清美議員、宮本たけし議員、大石あきこ議員(メッセージ参加)、大椿裕子社民党副党首らが参加した。そして、「国葬」前日の9月26日には、「総がかり」主催の反対集会を開き900名を超える市民が参加し梅田までデモを行った。この集会にも立憲4党から代表が参加し発言を行った。「国葬」当日には、「総がかり」として駅頭ターミナルで反対行動を呼びかけ、府内33か所でスタンディング抗議宣伝を行った。
「総がかり」以外にも、市民団体が「国葬」反対運動を強力に展開した。8月2日、団体33・個人46人が賛同して「やめろ!安倍国葬実行委員会」が結成され、9月9日にはエル大阪で反対集会を開催し230名の市民が参加した。また、「国葬」当日には中の島公園で抗議集会を開催、350名の市民が参加し梅田までデモ行進を行った。このデモの様子は、NHKなどで報道された。
また、地域の中においても「国葬」反対の運動が強力に取り組まれた。大阪北部に位置する北摂地域の運動を紹介する。高槻市では、「安倍元首相の国葬に反対する高槻・島本の会」が結成され、8月31日のスタンディング行動は85人の参加で行われた。その後も9月3日に「アベ政治を許さない」スタンディング行動、9月13日「国葬」反対のスタンディング行動、9月19日「国葬反対大行動」(台風接近により中止)、「国葬」当日には、約60名の市民が集まり抗議のスタンディングがとりくまれた。茨木市では、「いばらき総がかり行動」が主催し、8月22日から毎週土曜日、9月24日まで6次にわたるアピール、チラシ配布行動が行われた。配布チラシは1600枚、参加者は500人を超えた。また、9月中旬には、「国葬」「安倍」「旧統一協会」問題を訴える3万枚のビラが各戸配布された。「国葬」当日は、180名の参加で抗議行動が行われた。吹田市では、8月16日に「安部元首相の国葬に反対する吹田実行委員会」が立ち上がり、4回の街頭行動が行われた。参加者は460名を超えた。豊中市では、「戦争法廃止!豊中市民アクション」が呼びかけ、「国葬」反対の毎日宣伝が行われた。宣伝は、21回を数え、参加者は450人、シール投票も実施し9割以上の市民が反対に票を投じた。一連の取り組みの中で9月18日には立憲3党(立民、共産、社民)代表が参加した宣伝を行い、9月24日には市民集会とデモを100人の参加で行った。
今回の「国葬」反対の2か月間のとりくみは、じつに色々なドラマがあった。何よりも岸田首相が自ら出ると決めた閉会中審査、その前とその後で比べると「丁寧な説明」後の方が圧倒的にシール投票において反対票が増えたことは印象的な出来事であった。マイクでアピールしたいと飛び入りで参加する女性の姿もあった。全く見知らない男性がスタンディングに立つという出来事もあった。ただ一つ残念だったことをあげると、シール投票で「国葬」賛成と投じた多くが男性であったこと、その中でも若い人たちに賛成が多かったことだ。賛成と投じる男子学生が多かったように思う。7年8か月の安倍政治の一番の被害者は彼らだろうと思う。なのに、その被害者が「国葬」に賛成とは残念でならない。私たちは、もっとこういった若者らに届くメッセージを考え、訴え方も工夫していかなければならないと思う。
藤元康之(子どもたちに未来を拓く広島2区市民連合事務局長・)
安倍晋三元首相の国葬には広島県内でも様々な反対、抗議行動が行われた。県内の市民連合は連携して広島県知事と県議会議長らが県費を使って国葬に出席しないように求める住民監査請求を起こした。監査委員はこれを棄却し知事、議長は国葬に県費を使って出席したため10月末には裁判を起こす準備を進めている。
監査請求したのは市民連合のメンバー12人。「国葬は違憲・違法なものであるから、知事と議長は出席しないでほしい。出席するなら私たちが納税した県費を使うな」という趣旨だった。なぜ違憲・違法なのかはもう述べないでもよいだろうが、各種世論調査ですべて反対が賛成より多くなっていることを指摘し、統一協会問題にかぎらず安倍元首相は国葬に値する人物ではないということも強調した。
監査委員からは国葬前日の9月日付で棄却の通知が来た。その理由として、国葬は広島県の財務会計上の行為ではないので、国葬の違憲性などは住民監査請求の対象とはならないと、肝心なことの判断を逃げた。それなのに、国葬は閣議決定に基づき実施され、総理大臣から案内があったので国の公式行事であり、これに出席することは、社会通念上認められる社交儀礼上の行為であり、違法ではない、としていた。
市民感覚から言えばおかしな論法である。私たちは、閣議決定のみで国葬を行うことは違憲・違法であると主張したのに、そのことへの判断を避けたまま、「お上」が決めた葬式の案内が来たので出席することは社交儀礼であると、言っているのだ。子どもだましのような決定には納得できるはずはなく、12人全員が損害賠償請求の裁判を起こすことを決めた。知事と議長に支払われた国葬出席経費の返還を求めていく。裁判のなかでは当然、国葬の違憲・違法性や安倍氏が国葬に値する人物だったかも問うていく。
岸田文雄首相は違法な国葬を強行しただけでなく、国葬のルールを作りたいと述べ、法制化の検討も始めるようである。吉田茂国葬のときも法律はなく、事後に法制化を検討したが、戦前の「国葬令」が新憲法のもとでは違反するとして廃止された経緯などから、法制化が難しいとされ、吉田以後は誰も国葬にはならなかった。本来やってはいけないことをやっておいて、それを先例にしてルール化するなどあまりにも有権者をバカにしているし、法治主義や民主主義の基本にもそむく。この政治手法は安倍氏が繰り返してきたことであり、広島選出の岸田首相が踏襲することを、私たち広島の有権者として見過ごすことはできない。
国葬批判に端を発して岸田内閣の支持率が急落している。ウクライナ戦争によるエネルギー価格の高騰、度外れた円安による異常な物価高、先進諸国と見劣りが目立つ賃金、カルト教団である統一協会を断罪できない自民党の「闇」など、早急に解決しなければならない課題に対応できていないからだ。また、防衛費倍増計画や「敵基地攻撃能力」の保有、原発新増設への転換は、世界で初めて原爆被害を経験した広島の有権者として絶対に許すことはできない。私たちの衆院広島2区選挙区は、広島市の西側に位置し、宮島という世界遺産もあるが、そのすぐ向こうには沖縄嘉手納基地より多い120の戦闘機が常駐する米軍岩国基地がある。私が住む団地でも近年、騒音被害が激しくなった。広島市の上空も平気で飛ぶようになっている。中国と戦争になれば本土で真っ先に狙われるのは、私たちの地域なのである。広島選出の総理大臣が大軍拡の旗を振る。安倍国葬はその地ならしでもある。世界に核兵器廃絶を訴える広島の有権者の責務として岸田首相の軍拡政治を止めなければならない。
以上の行動以外では、ヒロシマ総がかり行動に集う市民らが中心になって9月23日に原爆ドーム前から岸田首相の広島事務所前までデモを呼びかけ約400人が結集した。9月27日の国葬当日にも、広島や東部の福山市で街頭抗議行動があった。
池田 年宏(憲法・教育基本法改悪に反対する市民連絡会おおいた)
9月3日(土)の『「国葬」反対デモ in 大分』を皮切りに、毎週土曜日・「国葬」前日・当日に取り組まれた『「国葬」反対 県内一斉行動』について報告します。
「私に、この場所に来て声を上げることに何の意味があるのか、と問う人がいる。しかし『反対』という意思表示をしなければ、自ずと『賛成』の側に組み入れられてしまう。そんなことはまっぴらごめんだ。ここに来て、こうやって『反対』という意思表示をすること、これがその答えだ。」
中津の作家、故松下竜一さんが日出生台=ひじゅうだいでの在沖縄米軍による実弾砲撃演習の反対集会で訴えたことばだ。
「国葬」を執り行うと言う。しかも対象は安倍元首相だという。冗談ではない。怒りを抑えきれず、当会(憲法・教育基本法改悪に反対する市民連絡会おおいた)では、「反対」の意思表示をしていくことにした。
具体的には、9月3日(土)※に大分市内中心部でデモを行うこと、以降毎週土曜日に大分県内各地で「国葬」反対の意思表示(スタンディング)をすること、前日に行われる反対集会への協力・参加をすること、当日の同時間帯に、大分駅前でスタンディングを行うことを決め、実行に移していくことになる。
(※日出生台の米軍実弾砲撃演習を記録したドキュメンタリー映画『風の記憶』の上映と現地で監視活動を続けてきている浦田龍次さんの講演会を行った日である。)
9月3日(土)は、講演会参加者とデモのために集まった市民50人で、「閣議決定の撤回」や「『国葬』反対」を訴えながら市中を歩いた。「安倍元首相は森友学園や桜を見る会を巡る問題が指摘され、集団的自衛権を認める安全保障関連法の強行採決など国民を無視してきた。国葬は彼の行為を認めることになる」(梶原得三郎共同代表)との思いを共有した。
続く10日、17日、24日の各土曜日は、大分県内各地においてスタンディングが行われた。中津、宇佐、国東、別府、杵築、それぞれの地域の市民が思い思いのアピールをした。回を重ねるごとに参加者は増えていった。たった一人で始めた地域もあった。情報を聞きつけたという人が参加するようになり、最終的にはのべ360人の市民が今回の県内一斉行動で意思表示をしたことになる。各地の世話役の方々、おお疲れ様でした。
今回、フェイスブックやツイッターで情報共有を試みた。お互いの行動を知ることで、同じ思いで連帯している姿がネット上で確認できた。また、やっていくうちに、工夫する点などについての情報も行き交うことになった。また、若い人たちの中から、「国葬について問題だということはおぼろげながらわかるが、具体的なことがわからない、学習したい」という声も上がり、少人数ではあるが今回の「国葬」について語り合う場も設けた。
今回の「国葬」により、あらためて憲法に立ち返ることができた。これまでの「安倍政治」の問題についても「蒸し返す」機会となった。おかげで、ともすれば埋もれそうになっていた問題の数々を広く市民に訴えることができた。およそ顕彰されるようなことをした政治家ではないのだ。当日のスタンディングでは、めずらしくクレームをつけてきた人もいたが、「無視しなかったあなたはエライ。一緒にどうですか?」と語りかけると、どっかいってしまった。当日の行動についてはマスコミ各社にも取材要請を行った。「国葬」反対行動の報道に接した中学生たちが、その映像を瞬く間に同世代の仲間たちに拡散していた。おそるべし、中学生たち。
大分県内各地で行動することを呼びかけ実行した今回の行動。これからの運動にも生かしていきたい。
小川良則(憲法9条を壊すな!実行委員会)
参院選最終盤の7月8日、遊説中の安倍元総理が狙撃され死亡した。岸田総理は早くも7月14日に「国葬」実施の意向を表明した。これに対し、日本共産党、社会民主党、れいわ新選組の各党は反対を表明し、立憲民主党も「熟考」を求めたにもかかわらず、政府は7月22日に閣議決定を強行した。
もちろん、故人やその業績に対する評価はともかく、自由な言論が最も保障されなければならない選挙期間中に弁士を襲撃することなど決して許されることではない。しかし、だからと言って「アベ政治」に対する冷静な検証もなしに、政府が早々にこれを「民主主義への挑戦」と断じて「国葬」を閣議決定したことには疑問が残る。
そもそも、大正天皇が亡くなる直前の1926年10月に制定された「国葬令」という勅令によれば、皇族の葬儀は国葬という大原則(第1条及び第2条)の下に、特に功績のあった者には「特旨(ミカドの思し召し)」により皇族に準じた待遇を「賜う」(第3条)という建て付けになっている。どんな場合に誰を対象にするかのモノサシが天皇制国家への「貢献度」である以上、構造的に「政治利用」の性格は免れない。しかも、葬儀当日は国民こぞって喪に服することと明記される(第4条)など、平等原則や内心の自由に反することから、「国葬令」は現憲法の施行とともに失効した。
1967年の吉田元総理の時は閣議決定により「国葬儀」として実施された。官庁では半旗の掲揚と黙祷を行なったものの、学校や民間企業に対してはあくまでも「協力のお願い」とされ、戦前の「国葬」とは違うという建前ではあった。しかし、実際には事実上の弔意の強制だとして反対論も強く、これを前例としないことで野党側を「説得」し、その後も法制化できなかった経緯がある。それなのに約半世紀ぶりの「国葬」である。
政府は「国葬」の根拠として内閣府設置法を、理由として総理在任期間の長さ、凶刃に倒れたこと等を挙げている。しかし、どの事務をどの省庁が取り扱うかの交通整理をするものに過ぎない各省庁の設置法を根拠として持ち出すのは無理があるし、死亡時点で戦後最長の在任期間だった佐藤栄作や、暗殺された原敬や犬養木堂が国葬になっていないこととの整合性を欠いており、結論ありきの後付けの理由と言うしかない。
安倍内閣の政策に反対してきた人々や強引な政治手法に反発してきた人々は無論、コロナ対策や景気対策、災害復旧など他に優先すべき課題が山積する中での「国葬」強行に疑問を抱く人々からの批判は日に日に高まっていったのも当然のことである。平日の早朝にもかかわらず400人が詰めかけた閣議決定当日の官邸前抗議行動を皮切りに、全国津々浦々で多彩な行動が展開されたことの詳細は別稿に譲るが、台風が接近する中での代々木公園での集会とデモに13000人、平日昼間の国会正門前に15000人が集まって抗議の声をあげたことは今後につながる大きな成果であったと言えよう。
筆者もその国会正門前の15000人の中の1人であったため、武道館での「国葬」が実際にどのように行なわれたのかは事前に入手できた進行台本やニュース映像から判断するしかないが、吉田茂の「国葬」等とも比較しつつ問題点を指摘していきたい。
前回の吉田茂の際には、弔意について学校等へはあくまでも「協力のお願い」という建前であったことは前述したが、実際に当時のニュース映像を見ると、教師に引率された学童たちが沿道で整列して葬列を見送っている姿が見て取れる。
今回も、既に安倍家の私的行事である通夜・密葬の段階から、帯広や川崎等で教育委員会が学校に半旗掲揚を要請したことが報じられているし、各地で献花台や記帳台が設置され、市民の側からも弔意の強制をするなという抗議や申し入れが行なわれている。
さらに、野党議員の質問主意書に対して8月15日に閣議決定された答弁書では、国民一人一人に喪に服することを求めるものではないとしつつも、官公署や学校に半旗の掲揚を求めるかどうかは検討中のため答えることは困難であるとしている。その後、8月31日の内閣府の葬儀実行幹事会では各省庁における半旗の掲揚と黙祷の実施を決定しているが、黙祷することは「業務命令」だとすると、命令される側の「内心の自由」の侵害には当たらないのだろうか。また、この決定の直接の対象ではない各地の地方自治体や教育委員会が「忖度」して半旗の掲揚を打ち出している。もちろん、その中でも、市民からの抗議により撤回に追い込まれたところもある。
9月27日の当日、武道館での「国葬」は、遺骨到着と祭壇への安置、黙祷、葬儀委員長(現総理)追悼の辞、両院議長・最高裁判所長官追悼の辞、友人代表追悼の辞、勅使拝礼、献花という順に沿って進行された。
この式次第自体は吉田茂の時とほぼ同じではあるが、最も大きく異なっているのは、自宅から会場までの葬列が防衛省に立ち寄った点である。エリザベス2世の葬列が議会や首相官邸前を通って会場入りしたのと比べても奇異な感じは否めない。反対集会が開かれる国会前の通過は警備上の問題もあったのかもしれないが、数ある省庁の中で防衛省だけに立ち寄るとは、自らを「三軍の長」であると誇示するようなものではないか。
もう一つ注目したいのは、遺骨到着の際と黙祷や勅使拝礼の際の奏楽の曲目である。遺骨到着時に演奏された「悲しみの譜」の作曲者は陸軍戸山学校軍楽隊出身で後に陸上自衛隊初代中央音楽隊長を務めた須摩洋朔、黙祷の際に演奏されたのが明治期に陸軍戸山学校軍楽隊長等を歴任した古矢弘政による「国の鎮め」と、軍楽隊関係者の作品が続く。担当が陸自・海自・空自の音楽隊なので予想されていたところではあるが、タイトルが国家主義的であることに違和感を抱かざるを得ない。
そして、極め付きが献花の際の「悠遠なる皇御国」である。まるで「日本書紀」に登場する「天孫降臨」に際しての「神勅」を思わせるような時代錯誤的なタイトルではあるが、この曲の初演は2019年9月13日のすみだトリフォニーにおける定期演奏会で、作曲者の山口浩志は現職の陸自音楽隊の打楽器奏者なのである。戦後生まれで戦後教育を受けた人物がここまで「皇国史観」に浸っていることに驚きと怒りを禁じ得ない。
加えて、儀仗隊の参列など、まるで軍人の葬儀を思わせる構成と言わざるを得ない。
現職の総理が葬儀委員長を務め、三権の長と友人代表が弔辞を読むという構成も吉田茂の際と同じである。
吉田茂の「国葬」での佐藤総理の弔辞は「筆舌に尽し難い辛苦を重ね」サンフランシスコ講和会議で「国民待望の独立回復を実現」と最大限の賛辞を贈る一方、講和条約と同時に締結された日米安保への言及はない。レッド・パージにより議員を含む多くの共産党員が職を追われたことや、ドッジラインで倒産や失業が相次いだことなど、多くのマイナス面には蓋をして、ひたすら故人の礼賛に終始している。
これは今回の岸田総理の弔辞も同様で、改憲手続法の強行、教育基本法の全面改悪、安保法制や秘密法など戦後民主主義の破壊を「根幹的な課題に次々とチャレンジ」したと称えている。消費増税で暮らしと景気に深刻な打撃を与えたことについても、増収分で「子育ての負担を和らげ」ることにより「若い人々、とりわけ女性を励まし」たと述べているが、コロナ禍で女性の自殺がどれだけ増えたか判って言っているのだろうか。
友人代表の弔辞は、吉田茂の時は、三井財閥の幹部で第4次吉田内閣で蔵相を務めた向井忠晴氏が淡々と交遊録を語ったのに対し、今回は安倍総理の下永く官房長官を務めた菅前総理が情感の籠った弁舌をふるった。
しかし、その内容たるや、とても評価できるものではない。そもそも冒頭の「天は何故よりにもよって命を失ってはならない人から命を召し上げてしまったのか」からして人の命に「召し上げてはならないもの」と「そうでないもの」の序列を持ち込むものではないか。これは、身内にはルールを捻じ曲げ資料を改ざんしてまでも便宜を図る一方で、そうではない人たちは十把一絡げで「こんな人たち」と切り捨てる「アベ政治」の姿勢そのものではないか。また、岸田総理と同様、相次ぐ悪法の強行を「難しかった法案を全て成立させ」た「信念そして決意にとこしえの感謝を捧げる」と礼賛している。
そこには政治の私物化や問答無用の国会運営に対する一片の反省すらない。
ともあれ、9月27日に「国葬」は強行され、反対の声は全国各地から沸き上がった。内閣支持率も下落傾向が続いている。私たちは、この間の「国葬」反対の取り組みの成果に自信と確信を持って、弔辞の中で「アベ政治」の継承者であることを自白したに等しい岸田内閣による軍拡と改憲路線に対峙していかなければならない。
石村 修さん(専修大学名誉教授、憲法ネット103運営委員)
(編集部註)9月24日の講座で石村修さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
私は大学を定年になって数年経ちますが、その間いろいろなことをやってやろうという感じでやっています。最初は、頼まれて船橋市の男女共同参画の委員をやりまして、それから県の方もついでにやってくれと言われたので県の方もいまやっていますが、実は千葉県は男女共同参画で一番遅れているんですね。千葉県は47都道府県の中で唯一条例がないという、すごいところだと思って入ったんです。けれども一生懸命条例をつくれと動き出しましたが、とにかく保守王国と言いますか、自民党系の国会議員の方が非常に多くて知事も保守系の方も多かった。いまはちょっと変わった人がなりました。彼はもうちょっとやってくれるのかなと思ったんですが、残念ながら今回の国葬にもすぐに名乗りを上げたという感じで、われわれが行くなということは言えませんから、彼はいいところぶっているという感じですね。両方を見ている感じかなと思います。
7月8日ですよね。私の誕生日は7月6日なんですが、まだちょっと自分の誕生日の余韻のあった時期に妻がテレビですごいことをやっているよと言いまして、それがこの事件だったわけです。私はこの事件を聞いたときに「虎ノ門事件」というのを思い出したんですね。東京の虎ノ門で、当時の天皇に向かって銃弾を撃ったという事件です。これは未遂に終わりましたけれども、この「虎ノ門事件」は難波大助という若い人が犯人で、もちろん死刑になります。「大逆事件」ですから。天皇を相手に弾を撃ったわけですから。彼は、その前にあった幸徳秋水が関係してくる大逆事件がありますが、あれとの関係があった。みなさんご存じだと思いますが、大半の人が罪がないのに死刑になったという事件が大逆事件です。刑法で一番重たい罪が大逆罪ですが、天皇を撃つだけではなくて、他の人もろもろを撃つという行為を罰することになります。関係があるというのは、あの大逆事件で幸徳秋水以下をこういうかたちで罪にするのはけしからん、その大逆事件がけしからんということを彼は思っていた。ちょうど国会に向かう天皇の車が虎ノ門に来たときに、ステッキにピストルがつながっているもの―お父さんが持っていたものをもらったということですが―、それを使って、当時の新しい天皇に向かって撃つという行為をした。大正天皇から昭和の天皇に替わる。大正天皇はちょっと病気気味だったので、その関係で昭和天皇が彼の代わりに摂政になった。摂政がその次の代の天皇になるということですから、そのときはすでに天皇になっていました。その天皇に向かって撃つという行為をしたわけです。
話を戻しますが、安倍さんを撃ったのはテロ行為かなと最初は思いました。そのあと山上容疑者の動機がいろいろとわかってきた。ただテレビは言わなかったですよね。どういう宗教団体かということに関しては言いませんでした。これは慎重だなと思うんですが、私はすぐに友達が「ル・モンド」というフランスの新聞に出ているよということを言っていましたので、「ああ、そういうことか」と思いました。私はこの宗教団体について余りよく知らなかったので非常に反省しているところです。私の学生時代に原理研というのは確かに運動をやっていました。私は幸いなことに誘われたことはなかったんですが、その原理研のつながりがこういうかたちで山上さんに関係してくる。なぜ自民党がこの団体に接近したのかという、いろいろな問題があると思います。お互いに利益があったからだと思いますが、最大の悪いところは選挙制度だったと思います。選挙制度が小選挙区比例代表並立制、併用制ではなくて並立制という制度に政治改革で変わったことによって、とにかく票を集めれば勝ちという選挙にしてしまったわけです。
そのことで最大の利益を得たのは、手伝ってくれる、あるいは支持母体があるという団体に手伝ってもらうということが選挙に勝つということ。保守党からすれば選挙に勝てばいいわけですから、その辺でくっついた。つまりイデオロギーではくっつかないんです。全くおかしいことです。統一教会は本当におかしな宗教団体だと思います。それが保守系の自民党にくっつくということは本来イデオロギー的にはあり得ません。ありえないことが起こっている。それはなぜかというと選挙で票がほしいから。あの教会はとにかくお金が欲しい。票がほしいところと、お金が欲しいというところが変にくっついて、あんなかたちで動いてきた。恐らく10年を超えるスタンスで蜜月関係があったと思われます。
そういうことがだんだんわかってきて、国葬だとすぐに決めたことや国葬にするということに対して、いろいろと意見が出てきて、みなさんもご存じのとおり国葬反対が過半数を超えています。しかもそれに比例するようなかたちで内閣の支持率も落ちてしまった。内閣の支持率で一番悪かったのは誰だか覚えているでしょうか。歴史の中では竹下さんがそうですね。彼の支持率が落ちたのは消費税導入で、お金の問題というのが一番敏感だと思いますが、歴代の中では低く点数をつけられた。その次が森さんだそうです。岸田さんは総理になったばかりなのにどんどん落ちていって、いま30%位ですね。30%にいくと危険信号だそうです。ということで彼の内閣はそろそろアウトだとも言われています。これがいまの状況だと思います。
だから国葬なんて言わなければ良かったんですよ。誰かが恐らくアイデアを出したんだと思います。いろいろ言われているところでは「あ」がつく人だろうと言われていますけれども。国葬だと言ってしまったことによって、本当は考えもしなかったことを考えなければいけないような、つまり国葬とはいったい何なのかということを根本から考えていただいて、国葬というのはこれからどうしたらいいのか。9月27日ですから恐らくやると思いますよね。もうやらざるを得ないということになるわけです。国葬をやったら必ずその結果を公に本にして、どこの官庁が今回つくるのかわかりませんけれども、吉田さんのときにもそういうレポートが出ました。そのレポートでどういう総括をしてくれるんだろうかということに私は非常に関心を持っています。国会図書館に行ってわざわざそれを見てきましたけれども、一応いろいろなところの意見が書いてありました。では今回の、これだけの反対があった国葬について、よく言われていますけれども次の国葬はどうやるんですかということについて質問を受けたときに、岸田さんは彼の得意な言葉ですが「総合的に考えて判断します」といいましたが、そういうかたちでやってくるんだろうという気がします。
訴訟の提起が数件でていまして、もう判断がでたところもあります。これは説明しても難しい行政訴訟なんですね。私は定年前の6年間は法科大学院というところで司法試験を教えるポストにいたものですから、一生懸命この行政訴訟を学生さんに教えました。この行政訴訟というのは本当理解しにくいところですよということをずっとやってきたんですが、今回は2件あります。2つの行政訴訟があって、ひとつは監査請求訴訟、経理監査ですね。それはどういうことかというと、公費を使うわけです。地方の議員、知事が東京に出てくるときに、私費ではなくて公費で出張する。その出張のお金が出ますので、そのお金をいくら使ったということになるわけです。その公費の中に違法なものが含まれている。これは国葬自体が違法であるということを前提にするわけですが。それを会計監査してくれというかたちで訴訟を起こしたわけです。その結果が出ますから、結果が出たことによって、ではそのあとはどうするのかという訴訟が次の段階にいくという非常に長いステップを踏んでいかなければいけない訴訟が監査請求訴訟です。
もうひとつは差し止めをやっているわけです。これは行政事件訴訟法の中では新顔です。これは仮の差し止めと本当の差し止めとふたつありますが、差し止めはうまくいっていません。予算請求の執行を止めてくれという訴訟です。これはうまくいっていないんですが、訴訟をやっている人たちからすれば負けてもしょうがないという覚悟でやっていると思います。私がそういうことを言うのは大変失礼なことになりますが、とにかくみなさんに考えてもらうという意味でこの訴訟を展開しているということになるのかなと思います。
「国葬」の定義ですね。これが大事になりますのでここにこだわります。レジメに英語を入れました。funeral、英語があるということはこの前のイギリスも「国葬」というかたちになっているということです。イギリスに関しては今回の日本と違うところを2点言います。まずひとつは国会の承認を得ている。これは大きなところです。もうひとつは「女王」なんです。「女王」の国葬です。日本ではいまの制度からはありえない。つまりイギリスは「女王」がいるということですね。日本は別の法律というかたちで皇室典範がありますが、そこで女性天皇はいまのところ認めていません。一度検討したことはありますが、いまのところそれは触れないようにしています。委員だった人はものすごくここに触れたくないのではないのかなという気がしますますが、皇室典範に関して言うと男系男子、男の系列をずっと追いかけるというのが天皇である。これが日本の特色になります。
イギリスの国葬をみんな見ているけれども、そこについてはテレビでも何も言わないんですよ。つまり女王の国葬だけれども、日本では女性の国葬はあり得ますかという問題ですよ。いままでで一回だけ女性の国葬はありました。これは誰かというと昭憲皇后という、明治天皇の奥さんです。彼女は戦前の皇室典範で「大喪」というかたちになった。つまり天皇と同じ「大喪儀」になったので国葬になったわけです。ところがいまの皇室典範になると「天皇だけが大喪の礼」と書いてあります。ということはいまの天皇の前の、現在の上皇の奥さん、正田美智子さん、彼女が亡くなったときはいまの法令でいえば国葬にはなりません。ということは日本では今の段階では国葬というのは男だけということです。ですからああいうふうに見ていて、そこまで誰も解説しないなと私は思っていました。そういう嫌なところというか、あまり触れたくないところはテレビは説明しないということなんでしょうか。
国葬の定義ですが、現在の定義は「国家」がたくさん出てきます。「国家が主催して、国家がすべての費用を支払う葬儀」であるというものです。「国家」が2回出てきます。主催者が国家であってお金の支払いは国家がすべてやるということです。国家は、国民から入る税金ではなくて別にちゃんと収入があるか。
税金がない国はありますがそれは置いておいて、日本は税金で国家が成り立っていますから、そうすると「国家が主催して」ということは、「国民が主催して」と読めるのか、そこを少し考えていただきたい。
明治憲法下で使っていた国葬の定義は、「国葬は国の大典として行わるる葬儀」とされています。憲法辞典、岩波から出ている全4巻という一番大きい辞典がありますが、そこから引っ張りました。そこで「大典」というのは「最大の行事」、そういうかたちで行われる葬儀、葬式ですよ、ということが書いてあります。ということで明治憲法下といまの日本国憲法下で、どう葬儀が変わってくるのかということが私の話になってきます。結論的に言いますと、明治憲法下では国葬という葬儀は一応何も問題ないというかたちで出てくる。むしろ推奨されるような段階の葬儀だったと考えられますが、日本国憲法下では果たしてどうなのか。これが今日の私の一番の主題になります。最後に結論が出てきますからそこを忘れないように考えていただきたいとお願い申し上げます。
次に「国家とは」という、大学の講義のようになりますがご勘弁願います。明治憲法下の同一の法理論を受け継いだわけですが、「国家=法人」という考え方、国家法人説というのはどこかで聞いたことがあると思います。美濃部達吉という非常に有名な東京大学の憲法学者がおりますが、彼が国家法人説を唱えました。国家法人説を採ると天皇は国家機関というかたちになってしまうわけです。天皇は国家のひとつの機関に過ぎない。これは保守的な人たちから見ると、天皇を国家機関と見るのはとんでもないことであるということになります。学者は論理的にいまある現象をきちんと説明できること、これが必要だということで国家法人説を唱えたわけです。それに対していろいろな方が文句をいうということで、美濃部さんの国家法人説自体は、教えてはいけない学説であるということに大正の時期になってくるんですよね。これは国家法人説事件という日本では当時一番大きな事件ではなかったかと思いますが、私から言わせればこれは当たり前のこと。法人格を持っている地域団体、法人格を持つということについては、法律学者は「ああそうだね」と思いますが、そうではないかたちで捉えられました。
それを乗り越えるようなかたちで、国家自体が主体になるのではなくて、むしろ客体にしなければいけない。国家そのものは人民による契約共同体、ちょっと硬い言い方ですけれども、国民が契約したかたちで国家を作り上げたという言い方をします。社会契約論の延長上に位置づけられますが、この方が非常にスマートであると考えますと、この国家論――つまり法人格云々という国家論ではなくて人民による契約共同体という国家論をベースにします。そうすると、この国家が特定の個人に対して全額のお金を払うというやり方はどうなんだということを考えてみてください。一部分ならともかく、われわれが契約主体ですから、われわれ全員が安倍さんの葬儀をやるということに納得しているかどうかということです。
私もこのごろ行くことが多くなりましたが、「偲ぶ会」というのがはやりです。コロナで家族葬というかたちになってしまったものですから、会社なども困ってしまうわけですよね。そのまま放っておくわけにもいかないということで、みんなでお金を出し合って「偲ぶ会」をやるということがパターン化してきました。私もつい先週にあったんですけれども、これはみんなでお金を払っているわけだから別に問題はない。みんなで「あの人はいい人だったね」と偲べばいいわけです。安倍さんのことも「あの人は立派な首相であった」という人がたくさんいれば、その人たちが集まってお金を出し合って、会場を借りてやればいいわけですね。それは全く問題ないということだけれども、国が全額払いましょうという。それは国民は納得していない。そして国民の代表である国会も全く関わっていない、そういうところでやろうとしているから問題なんです。ということで国家の考え方、まずそこからおかしいだろうと考えてみてください。国家の成り立ち、国家とわれわれということに関してはどうかなんだろうね、ということを一番最初に考えていただきたいと思います。
二番目に「葬儀」とは何かということです。これは私も関係します、みなさんも関係します。だれも命は終わります。これは「不可避性」です。それに対して死んだあとというのは誰もわからないんですよ。宗教者はわかったような振りをしますが、それは誰にもわかりません。これを「不可知性」といいます。「不可避性」と「不可知性」ですね。わからないんだけれども、それをわからない世界に行くからということで、われわれは送り出して葬式をやるのではないかなと思います。自分の友達だとか、ご家族などの葬儀のことを考えていただきたいと思います。私も昨年母親を亡くしたわけですが、その母親がどういうかたちでこれから私たちに対して向き合ってくれるだろうか。同じようなかたちで対応してくれるかということを、いろいろなことを考えながら葬式をやるということなので、葬式というのは非常に個人的な問題ではないかという気がするんです。それを国家というかたちでやって、外国の元首だとかいろいろな人たちがやってくるけれども、全然知らない人ですよ。私も、全然知らない人の葬儀に行かざるを得ないという場合がありましたけれども、それは自分にとってはあまり重く来ません。知り合いで亡くなったということがあるから行くのであって、そのことも考えていただきたいと思います。
それから費用、お金の問題です。これはいろいろなパターンがあるでしょう。今回は、国家が全部持ちです。いままでは、大平さんからはちょっとかたちが変わって政府+自民党というかたちで葬儀をやってきたわけです。そうした場合、自民党はわれわれとは直接関係ないというか、ひとつの政党ですが、政府はわれわれと関係するということでどのくらいなのか。半分なのか3分の1なのか。それはケースバイケースだったようですけれども、とにかく全額ではないということなので、「まあそれは許すか」と、一応いろいろやってくれたので、ということにもなろうかなと思います。
ここまではいろいろおわかりになっていただけると思いますが、法律のところで国葬をやろうとする場合に、法律というかたちで書くことが必要なのかどうかということになってきます。いろいろなパターンがありますが、アメリカは主に大統領に関して国葬をやりますが法律はありません。ほぼ慣行みたいなかたちです。それはなぜかと考えました。大統領は就任式を大々的にやるんですね。日本はやりません。多くはバイブルに手を置いて「I swear」、誓約するという言い方をしますが「私は神に誓ったかたちでアメリカの国家のために力を尽くします」という宣誓式を行う。そういうかたちで国民から選ばれて出てきたものだから、大統領に対して亡くなったら国葬にしましょうということで始まったのではないかなと私は思います。
大方の国葬をやっているところは法律の根拠があります。非常に細かく書いている国とそうではない国といろいろだと、私が見た限りでは思います。日本ではご存じのとおり、一応国葬というものを直接書いた法律はありません。明治憲法のときには実は「国葬令」というものがありました。資料をつけました。「勅令」と書いてあるわけですね。「勅令」は天皇の命令ということです。普通の行政機関が出す命令ではなくて勅令形式で出ている。これを読んでみます。「朕樞密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」。そして大きな判子があります。これを「御名御璽」という言い方をします。いかにも権威主義的な判子で「大正十五年十月二十一日」にこれが出たわけです。
資料を見ると名前がふたつ出ていることに注目してください。これは非常に珍しい例です。つまりわれわれには「姓名」がありますけれども、天皇に関しては生まれたときの名前と成長したときの名前と2通り持っていて、「大正天皇」とか「明治天皇」というのは死んでからつくんですね。もともとは天皇の苗字は「姫(キ)」と言われていますが、われわれが言う「名前」しかありません。「嘉仁」と「裕仁」と書いてあります。裕仁が昭和天皇、嘉仁が大正天皇です。大正天皇はちょっと身体が弱いということで、非常に短命でお亡くなりになりました。裕仁さんが摂政をやって、そのあと継いだわけですね。先ほど言った難波大助の事件はこのときに起きた事件です。
実はこの勅令についてはいろいろなことが言われていまして、この「嘉仁」というのは誰かが書いたのではないか。本人は書けないということで、本人ではないのではないかということを言う人もいます。私はそこまではわかりませんけれども、字をよく見ていただくと同じ人が書いたようにも読めます。裕仁さんは要するにのちの天皇になったわけです。ということは、どうして大正というときに国葬令ができたのかということです。大正天皇がお亡くなりになる、天皇が亡くなることを「崩御」といいますが、崩御されるようだということが見えてきたのでこれを用意したといわれています。
大正というのは男子の普通選挙制度が成立したあとです。ということは国会が開設されていますので、その国会で男子普通選挙が成立したあとの時代なんですよ。ということは、これを法律でつくってもいいわけです。なのにわざわざ天皇の勅令というかたちで大正15年に出した。つまりものすごく民主的になるようなかたちの議会の動きを横目で見ながら、天皇は別のかたちで死ぬ。それをちゃんと自分達で根拠付けをしてあげて送る、ということを用意したということになると思います。
この勅令の中味ですが、1条から5条、たった5条しかない。これは若槻内閣のときにできたものですけれども、第1条をみてください。「大喪儀ハ国葬トス」と書いてあります。天皇と皇后が亡くなったときは「大喪儀」といいますが、その大喪儀は国葬なんだ。だから先ほどいったように昭憲皇后が亡くなったときは国葬だったということです。そのあとの第3条「国家ニ偉勳アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ国葬ヲ賜フコトアルヘシ」。「薨去(こうきょ)」というのは身分制度に入ってきます。「位階」といいますが、栄典の中のひとつに「位(くらい)」があります。いまは死後に「位」がつきます。要するに身分が高いという人たちは位がつくわけです。岩倉具視は「贈正一位大勲位」、「一位」と書いてあります。これが位で、一番高い位です。明治のときには宮内省が考えて死後に出すというかたちになりまああう。さきほどの国葬令3条では「偉勳アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ」とありますが、「薨去」というのは「位が高い人」が死んだときに使います。「位が高い人」が「偉勲アル者」ということです。
そうすると私のような普通の人間は亡くなっても位は持てるはずがないんですね。よく偉い人が亡くなったときに免状が飾ってあるのをみたことがあるでしょうか。勲章と免状が並べてあるのは一番位の高い人ということになりますが、位が高い人が亡くなったときの葬儀には招かれなくても行けるんですから行ってみてみてください。そういうのが置いてありますから、いまだにこういうことをやっているんだなということがわかります。したがって国葬をやるということに関しては、この「位」とも関係しているということをわかっていただきたいと思います。男と地位の高い人しか国葬にはならないということを言いましたのは、この国葬令に関わってきます。国葬令が大正の時代につくられたということが、ひとつ国葬令が持っている問題点ということにご理解を願いたい。
国葬ということの意味が少しずつわかってきたのかなと思います。国葬はどういう人が対象になるかということですが、元首だとか高官、軍人、国家に寄与した者というのが出てきます。いまはいろいろなかたちの勲章のようなもの、いろいろな賞をもらうところをテレビなどでわれわれは見るわけです。春と秋の勲章を与えるという儀式ですが、新聞にも出ます。そうしますとあれはいったいどういうかたちで決められているのかなと思いますが、あれは年齢がそれぞれ達すると各省庁、地方公共団体が推薦をして、この人は貢献したからぜひ賞を与えてくれということになります。特に内閣総理大臣が出すという賞、国民栄誉賞なるものもありますので、王貞治さんがあれだけホームランを打ったから国民栄誉賞を出しましょうとなるわけですよね。ヤクルトの村上さんは今日あたり打つかもしれませんが、そうすると若いけれども彼に国民栄誉賞を与えようかというような話も出るわけですよ。そういうことなんだけれども、国葬は死んでしまった人ですよね。死んでしまった人にどうしてそういうことまでやるのかということを考えなければいけないかなと思います。
国葬の決め方の問題、それから国葬はどういう人に与えられるかということを具体的に見ていきます。まず時系列的に申し上げますと1868年(慶応4年・明治1年)のところで「政体書」を公布して、ここで太政官、この時代でいうと全体の政府だと理解していただければいいと思います。太政官の中で議政官という法を作るポジションを作ったんですが、実際には機能しませんでした。実際に機能したのは行政官と刑法官という、つまり国家ですから刑罰を定めなければいけないわけです。ということでまだ刑法はできません。刑法の前に治罪法という法律が存在していましたが、それもなかったので国家として成り立つためには行政、つまりお巡りさんとそれからそれを裁く裁判所のようなものが最低限必要だという、これが国家の成り立ちの最低限の問題だと思います。行政官というのは、お巡りさんから政策を考えるそれぞれの参議の人たちも含めたものを作ったということになります。
1869年・明治2年に早くも華族制度をつくります。これはどういうものかというと、いままで藩がありました。藩で一番問題だったのは徳川の処理です。徳川をどう扱うかということがでてきます。そして元の大名を、華族というかたちで置き換えようということをやります。これはお金はくっついてきません。お金はくっついてこないけれども、要するに「おれは華族だ」という格好付けですね。それはある意味ではエリート心をくすぐるということになります。同時に士族というのは残るわけです。笑い話のようになりますけれども、自分の家の表札にわざわざ「士族」と書いたというんですよね。官制と位階制ということが1871年に出てきます。これは、明治維新というのは近代的な、身分制度をなくした意味で革命だということではなくて、ある意味では中途半端であったということになります。つまりいろいろな制度、律令制ですね。中国と、中国から朝鮮半島に出てきた律令制を真似して、それを日本のかたちにアレンジしたということが、ここら辺に出てきます。1884年に華族令、「令」ですから行政命令です。それで「公爵・候爵・伯爵・子爵・男爵」という5階級をつくります。これの上のところに関しては自動的に貴族院の議員の資格を得るということにのちになっていきます。1887年、明治20年にはこの位階を16階にしたわけです。
「栄典」ということが出てきます。これは国家を維持する上でものすごく大事なんです。要するにくすぐるわけですね。国民に対していろいろなかたちで勲章を与えるということが一番わかりやすいわけです。みなさんもよくテレビの映像でみたことがあると思いますが、北朝鮮だとか胸に大きなバッチをつけて、兵隊さんだとたくさん勲章をぶら下げて式典にあらわれます。今度のイギリスの国葬でも、その家族に関しては、大方は軍服で出ました。つまりあの人たちは軍人なんです。それで勲章をたくさんぶら下げるということをやるわけです。栄典というのは5つあって、ひとつ目は「爵」です。「爵位」を与える。さきほどの5つです。これはイギリスの真似ですよ。
2番目は「位」です。「位」は、いまは死後だけしかつきませんが、明治憲法体制では生前がありました。生前に位を与えるというかたちになりますから、戦争である程度「手柄」を立てたことに関しては軍人さんも「位」が上がっていきます。「位が上がる」というのはそういう意味です。3番目は「勲章」です。いろいろなかたちの勲章をつくります。それから「褒章」というのは、一番わかりやすい例でいうと公務員の方は定年したあとにお皿をもらうはずです。そのお皿は褒章のひとつなんですね。これは民間のところでも定年になった人に対して金一封を出しますけれども、金一封以外にもいろいろなかたちのものを出しているはずです。それが褒章なんですね。最後が「記章」というものです。記章はいまはなくなりましたが、特に軍人さんに対していろいろ手柄を立てると記章を授けるということをしてきました。この5つですね。
「爵」「位」「勲章」「褒章」「記章」。今回の安倍さんの葬儀でも、たくさん警察が派遣されて東京に集まってきています。終わったあとに「ご苦労様」ということで、もちろんお金はもらうんですが、この国葬に参加したということで記念のプレートのようなものを出すはずです。これまでは出していました。吉田さんのときのプレートを見せていただいたことがありますけれども、そういうかたちでいろいろやったことに対して「ご苦労さん」ということを示す、それがものだったわけです。普通はあまり手に入らないものということでやっていた。
勲章を与えた人はどういうふうになっているかということを実際にみていただきたいと思います。最初の大久保利通はどうして国葬ではなかったのかというと、海外の人が出ていません。つまり国葬というのは国がやる葬儀だから、外国の人が入っていないとまずいというのが国葬なんです。ですから国葬というのは、必ず外国の方が参加しているということを前提にしています。大久保さんのときはまだそういう考えに至らなかった、あるいはそこまで配慮しなかったということになります。
岩倉具視と三条実美はまったく同じパターンです。岩倉さんは「贈正一位大勲位 右大臣」、三条さんは「正一位大勲位 公爵 太政大臣」です。岩倉さんの「贈」というのは時代が違うからということになるんですが、位は「一位」で、勲章は「大勲位」ですね、その次の爵は三条さんは「公爵」。岩倉さんはなぜ「公爵」がついていないかというと、まだ制度がなかったんです。明治17年に制度ができています。岩倉さんが亡くなったのが明治16年ですから1年前ですね。残念でしたという感じです。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館にある絵の中で、2人がどれだけ特別だったのかということをみていただきたいんですが、明治天皇は幕の中にいます。これはどこも同じで王様は幕の中にいます。よくテレビドラマの中でも、簾(すだれ)みたいなものを冠のところに付けていますね。あれは「私は見えないんですよ」という意味で付けています。三条と岩倉は天皇の隣にいる。ということは、三条と岩倉が若い明治天皇を支えたということで、この2人は明治天皇からすれば国葬にしたいということははっきりしています。この絵は岩倉が亡くなった日の前と言われています。
これは絵だから本当はどうかわかりませんが、天皇が直接行ったというのは本当の話です。民間人に対してわざわざ天皇本人が見舞いに行くということ、使いを出すことはありますが天皇本人が行くということは普通はあり得ません。天皇が来るというので畳を上げています。天皇は靴を脱ぎませんから、畳を上げて、自分は正装ができないからというので袴を自分のふとんの上の方に掛けている。ということは「これで失礼します」ということなんですね。岩倉をどれだけ天皇が頼りにしていたか、あるいは岩倉がどれだけ天皇に仕えたかということがこれでわかると思います。そうするとこれは最高の位ですよね。一位で大勲位を与える。三条に関しても同じようですね。こういうかたちにして国葬にしたということになります。
それで比べていただきたいんです。安倍さんは2022年9月27日に「従一位大勲位」になります。「一位」で「大勲位」です。同じです。これだけ評価していいかという問題だけれども、とにかく吉田茂さんと合わせたんですね。1967年の吉田さんが、「従一位大勲位 内閣総理大臣」で「国葬の儀」をやった。だから、吉田さんのことを意識して同じものを渡しましょうということです。これは亡くなる日の前に出すということになりますので7月12日に安倍家の葬儀をやっています。その葬儀の前日、7月11日にわざわざ政府が安倍さんの家にまで行って「大勲位菊花賞頸飾」を授与した。これは勲章としては最高だそうです。青い何かの石が入っているものを政府がわざわざ11日に家に届けて12日葬儀です。葬儀の日に間に合うように出しているということになります。とにかく格好付けというんでしょうか、葬儀というのが中身を見るとどうも北朝鮮がたくさんバッチをぶら下げているのとどこが違うのかということが考えられないかなと思います。
もうひとつここで指摘しておかなくてはいけないのは1919年と1926年の朝鮮の王朝です。李熈と李?、この2人が日本の「国王」という扱いを受けますので同じようなかたちで国葬となりました。歴史の中ではあまり知られていないので、われわれは知らなければいけない問題だと思います。日本が「朝鮮併合」ということで朝鮮をいわば植民地化して、「植民地」という言い方は韓国の歴史の中ではいまは言わないということになっているんですが、とにかくいろいろな紆余曲折があった中でこの2人が王様になりました。1919年、大正8年は李熈、もともとは「高宗」と言いますが、彼は日本で早稲田大学に来てそのあとに学習院に行ったと思いますが、日本で教育を受けて王様になるということがありました。これは日本で国葬をやったのではなくて京城でやったんです。日本の歴史の中でこの2人が日本の皇室の人たちと一緒になって国葬になったということは事実ですから、忘れてはいけないのではないかと思います。私は国葬の悪用であるという見方をします。
明治憲法のときの皇室典範を見ていただくと第15条に、「天皇は爵位勲章及その他の栄典を授与す」という言葉が出てきます。ということはこれが先ほど言った「爵」「位」「勲章」そして「その他」とありますから、「その他」に「褒章」「記章」を入れると5つとなります。「天皇は栄典の授与をできる」ということです。ということは、われわれは関係ないということで、あまり意識していなかったんですけれども、その栄典ということがものすごく明治体制を支えるひとつのイデオロギーであったということになります。私はある雑誌に書いたんですけれども、明治時代は天皇は栄典を授与することができるけれども、一般人に対して出す一番大きな栄典は国葬だった。国葬をこの「その他」に入れて解釈していいのではないかという見方をしています。みなさんご存じのとおり、靖国神社は軍で亡くなった人を把握してその魂を「柱」にするとしています。その人たちとは別個で、特別な人たちに対して国葬をしてきた。これが明治憲法の話であるということでみていただきたいと思います。
日本国憲法になって、さてどうしましょうということが出てきます。栄典に関しては現在も一応あります。「第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」「7 栄典を授与すること」。天皇は象徴天皇ですから実権はないので、あくまで内閣の助言と承認を前提にした上で栄典を行うことができるということでみていただきたい。内閣府栄典局というのがありまして、だいたい70歳過ぎになるとそれぞれの機関、例えば法務省などがこの人に対して賞を差し上げてくださいという推薦をしてきますので、それに引っかかった人が受ける。これはあくまでも本人が受けるということを前提にします。本人がいらないと言えばそれまでです。これは一応お金はつかないということです。憲法上の問題で、お金をつけないということを前提にして行います。それから問題の20条と89条の関係は後で考えるということで条文を書いておきました。「政教分離」に関しては吉田さんの葬儀のときに問題になります。吉田さんのときに「政教分離」違反にならないようにという配慮をしました。
次は、「日本国憲法の施行の際、現に効力を有する命令の規定に関する法律」という長ったらしい名前の法律ができました。どうしてこんなものができたのか。実は明治憲法のときは「法律」という形式と「命令」という形式がありまして、いまは法律の委任を受けたかたちでしか命令はできないわけです。委任命令というかたちをとっています。それが明治憲法のときには、命令だけで独立して存在しうるということになっています。法律の根拠がなくても命令を出すことができた。ここに天皇がいます。天皇は主権者ですから偉いわけです。そうすると天皇は、議会がつくらない法律でも独自につくってもいいという考え方が成り立ちます。これを独立命令という言い方をします。日本国憲法においては法律があって命令があるという制度に変わった。憲法、法律、命令という段階構造があり、こういうかたちで法は形成されています。これは当たり前の話ですね。このかたちにするわけだから、法律がなくて命令だけでできているものは効力を失うことになりますよという説明をしているのがこの法律です。わざわざこんな法律をつくりました。
昭和22年に新しい憲法ができたわけです。その憲法に合わせるように、命令だけでできているものは早く法律にしなさい。法律にしないんだったら効力を持たないということにしますよ、ということをいっているわけです。いまは最高裁判所でいろいろなかたちで違憲法律ということが出てきますけれども、違憲な命令だということももちろん出てくるわけです。そうしますとその体系を合わせるためにやっていたわけですから、したがって法律の根拠のない国葬令は効力がなくなるわけです。法律に上げなさいよといっているわけです。「国葬法」なるものをつくるならつくりなさいといっているわけですけれども、それをつくらないのなら効力は終わりますよ、時間を1年あげますからその間にやりなさいということで来ました。
そうしますと国会はそれでつくらなければいけないんですけれども、いろいろな理由でつくりません。当時の資料を見て分析している人が、いろいろなかたちで論文を出しています。佐藤達夫さんという非常に有名な、この時代に活躍した方がいて、あの方がつくるということを促しています。けれども、どうもつくらないということを記録に残しているということがあります。したがってここは日本国憲法とともにわれわれがいま一番問題にしている「国葬令」というのは、この時代に国会はつくらなくていいという判断だったということです。そうすると、ここでもうやらないよという宣言をしたので、もう日本国憲法のもとでは国葬はできないんじゃないかという議論になってくるわけです。
そして1951年の貞明皇后、大正天皇の奥さんです。明治天皇のときまでは、ご存じのように奥さんは一人じゃなかった。複数おりました。大正天皇のお母さんは、明治天皇の正妻ではなくて柳原愛子さんという側室だったということはみなさんも知っているわけです。大正天皇は自分から一夫一婦制にしたんですね。ということで、この時代から天皇家に関しては一夫一婦制になる。大正天皇は先に亡くなっていますから、そうなると貞明皇后をどういう扱いで葬儀を行うかということで大問題になります。新しい憲法の下で最初のケースです。これは吉田さんが関わってきています。吉田さんは要するに、それなりの扱いをしなければいけない。しかし皇室典範も変わりました。皇室典範は「大喪儀は天皇だけ」なんですね。第1条にそう書いてあります。そうすると奥さんは大喪儀の扱いはできないので、したがって「準国葬」というかたちにしようとした。吉田さんのアイデアだと一般的にはいわれています。
吉田さんは、自分が亡くなったときにどうするのかという問題が出てくるわけです。吉田さんは最初の首相ですからね。吉田さんに対してそれを配慮するのは佐藤栄作さんです。因果はまわってくるという感じです。吉田さんのときに佐藤栄作さんはいろいろ考えて、やっぱり戦前と同じようなかたちで国葬にしようじゃないかというアイデアを出してくるわけです。そうすると実はここでいろいろな部分から意見が出てきます。そう簡単にすぐ国葬だということは出てこないことになります。結論的にいうと国葬をやりました。ここで実はインチキをやったわけですが、「国葬」という名前ではなくて「国葬の儀」という「の」という一字を入れたわけです。「国葬ではないんだ」ということで「国葬らしきもの」というかたちにしました。
いまも同じことをやってくるわけです。昭和天皇は「大喪の礼」ですから、ここでは問題ではありません。2000年に昭和天皇の奥さん、香淳皇后が亡くなります。これはあまりニュースに出ませんでした。静かに葬儀をやったということになります。それで問題の安倍さんの葬儀になります。実はその前に、吉田さんのあと佐藤栄作さんの葬儀をどうやったのか。佐藤栄作、田中角栄、大平正芳の名前を挙げましたが、佐藤栄作さんに関してはノーベル賞ですので国葬ということが当然出てくるはずですが、このときに一番大きな反対の力を発揮したのは社会党だったと思います。社会党が反対しそれから内閣法制局が三権の了承を得ていないのは問題があるという見解を示した。
われわれは内閣法制局というのは非常に大事な機関だと認識しなければいけない。内閣法制局はどういう役割をしているかというと、法案が作られます――法案のドラフトができたときに、その法案がきちんとできているかどうかということをチェックする。ですからフランスのConseil d’Etat、行政裁判所があるんですが、それと同じような機能を果たしています。内閣法制局の人たちはものすごい法律のエリートで、各省庁の選りすぐりが選ばれて入ってきます。内閣法制局に関してわれわれは「憲法の番人」という名前を与えているんですが、その内閣法制局がものすごくちゃんと機能したと言えると思います。三権の了承を得なければ問題があるということで、佐藤栄作さんのときは中曽根さんががんばったとよくいわれています。中曽根さんはこのとき幹事長だったんですが、彼が「では国民葬ではどうでしょうか」という言い方をした。
「国民葬」とは何かというと、国民有志――「徳川家康」を書いた作家の山岡荘八を長にしたかたちで結構な人数がいましたが、名前のある人を「国民有志」ということにして佐藤栄作さんを送り出すというかたちに変えたわけですね。吉田さんのあと、佐藤さんはどうしてだということが出てくるんですけれども、国会と内閣のバランスを取ったということで良識を示したということが言えるのかなと思います。田中角栄さんはあの事件があったあとですから、国葬なんていうものは出てきませんね。裁判の途中で亡くなってしまったわけです。その後、大平さんのときからパターン化した。この同じかたちの中に中曽根さんの葬儀も入っています。だからだいたいこれで収まりました。このかたちで行けば今回のような問題は起きなかったと思うんですね。それがとにかく吉田さんが頭にあったものだから、よく考えないで「あ」のつく人が言ってしまったということだと思います。
一番問題になっているところがこれからです。では何を根拠にすればできるのかという問題ですね。これはわれわれ法学者、あるいは憲法学者でも議論が分かれるところです。NHKの番組で、これは彼はかわいそうだと思うんですが、京都の大学の憲法の先生ですがこの国葬儀の問題についてはRechtssatz理論という19世紀法規、「国民の権利義務に関すること」を憲法41条の「立法の解釈」と示して問題ないという言い方をした。でも彼自身はあとで見解を変えるんですね。毎日新聞では違う書き方をしていました。どうしてこういうことになるのかという問題です。「立法」という行為と、本来的には下になると思うんですけれども「行政」という行為があります。「立法」は憲法41条、「行政」は憲法65条です。先ほど言いました通り明治憲法のときには行政は行政だけで成り立ちます。独立命令を認めているわけですから。しかしいまの日本国憲法でいうと本来的には立法があって、それを具体化する行政活動になるわけです。
ところがいまは行政の役割というのがものすごく広がっている。その行政に携わっている公務員の方はわかっていると思いますが、特に福祉国家と言われて福祉活動の細目を行政が担っています。ということは、行政はわれわれにいろいろなサービスをしてくれるわけです。しかし、その行政の行為を一回一回法律に書くということはとても無理であると見まして、もともと自由主義的な考え方でいうと法律、つまり立法で書くのは「国民の権利義務に関することに限る」という行き方をするんです。明治憲法でいうと第1章は天皇です。そこから国家機関の権限が書いてあって、第2章がいまの日本国憲法でいう「国民の権利義務」が書いてあるわけですが、第2章に関しては法律で行かなければいけないという解釈をします。それ以外の部分、いま具体的に問題になっている「国葬をやる」という行為は、法律の行為ではなくて行政の行為だといっている。行政の行為なんだから、行政に関してはいろいろな儀式を実際に行うことが認められているのである。
特に行政改革というのがあって、行政改革は森さんから始まって小泉さんで完成したわけです。小泉さんは郵政民営化で大騒ぎしました。あの人はいろいろなことをやったわけですが、要するに行政を小さくスリム化して、しかし強くするという非常に矛盾したことをやった。どういうことかというと、行政の一番上に政府があります。政府の下に内閣府というのをつくったわけです。内閣府をつくって内閣官房をその横にくっつけました。憲法があってその下に内閣府という行政があって、行政の頭のところに、小さいけれどもものすごい実力部隊として内閣府をつくったわけです。内閣府設置法という、内閣府がどういうかたちで設置されたのかという組織法です。組織法で実際に一定の行為を行うことができるという説明をいま内閣はしています。組織法で実際に行うことができるというのは、ちょっと難しい話ですが、実は警察法も同じです。私は警察法専門でやっています。警察法の第3条で警察のいろいろな権限の行使が決まってくるんですが、その部分に関しては組織法なんだけれども実際に行使することができる。
そうするといまの岸田さんが言っていることは、いま確かに国葬令はない、国葬令はないけれども国が行ういろいろな行事の中に国葬を行うということも認められるのである。これは立法でやることではなくて行政命令でやれることだ。その根拠に内閣設置法第4条3項33号「国の儀式及び行事に関する事務に関すること」がある。「国の儀式」の中に「国葬の儀」ですね、さっきいったように「の」が入る「国葬の儀」が含まれるという解釈をしたわけです。これを京都の大学の先生はNHKの番組の中では、これは認められますよと憲法学者として説明をした。もう片方の「認められないよ」という言い方をしたのは安倍さんが出た成蹊大学の行政法の先生で、これは認められないと行政法の立場で言った。その言い分は「法規で説明することはここまでであって、それ以外は命令でやることができるんだ」という言い方をした。
東大の憲法学者で芦辺信喜という方がいましたが、芦辺説というのは憲法学ではいま一番オーソドックスな考え方だと思いますが、法規説ではなくて「一般的・抽象的な法規範」、これが法律なんだ、権利義務という考え方は古いという見方をします。「一般的・抽象的な法規範」という言い方をすると、かなり広い内容のものも法律で決めなければいけないという問題が出てきます。ということなので、民主主義憲法体制というのは国民が主権者だから、国民が主体となって法律は決めていかなければいけないんだよという考え方のもとに考え方を変えています。
私は「一般的・抽象的な法規範説」を取りますので、今回の政府の言い分は誤りである。つまりひとつは国葬令というのはなくなった。もうひとつは法規の解釈の問題で「国民の権利義務に関すること」という理解をするのはあまりにも狭すぎるという見方をします。いまコロナで日本でもいろいろな対応が立法されています。稲さんと一緒になって、コロナ対応の問題について比較憲法的なことを研究して一冊の本を出そうということで、もうそろそろまとまりつつあります。コロナ対応は行政命令だけでいいのか、立法も必要なのではないかという問題も含まれてくるんですよね。私はドイツを担当しますのでドイツに関しては法律をまずつくって、法規命令というんですが、法律の範疇の中で行政がどれだけできるか。例えばマスクの付け方をどうするかという問題に関しても、立法で決めるのか行政命令で決めるのかということです。概括立法に関しては法律で書いて、具体的にどういうところでは行政でどうしましょうかということです。規制はどこまでやっていくかということに関して考えていくかという問題です。ことはいろいろなことで応用問題につきます。一般論として説明できる問題ですが、とにかくここでいま国は根拠がないものだから一生懸命考えてこんなことを考え出しました。これはあまりにもむちゃくちゃじゃないかなと思います。
私は国葬に関しては制度としても、国がやるという行為は、葬儀というのは先ほど言いましたように個人の問題だ、私がどういう人に対してどういう葬儀をするのかということを決めるという権利はありません。自分は自分でやるということですよね。だから私は遺言の中で「私の葬儀はこうしてくれ」ということを書いています。それは人間に残された最後の希望であると思います。暗殺された原敬という大正時代の首相がおりますが、彼は国葬を嫌って「盛岡市民葬」を選択したんですね。盛岡出身なので盛岡市でやってもらいたいと。それは本人の意向だったと思います。だからそういうかたちでやるのが普通かなと思うので、この国葬というのは今回を機に終わりにしてもらいたいというのが私の感想です。