私と憲法248号(2022年1月1日号)


年頭の決意「もっと」「もっと」を合言葉に

菱山 南帆子(市民連絡会事務局次長)

昨年、10月31日深夜、私は暗澹たる気持ちでテレビの前に座り込んでいた。混乱した頭を整理していくにつれ「これが現実なのだ」と冷静さを取り戻していった。2021年10月31日の総選挙は、2015年安保闘争が切り拓いてきたものすべてをぶつけた集大成のような闘いであった。だから、そこでぶち当たった壁は2015年安保闘争を上回る闘いでこそ乗り越えられるし、乗り越えなければならないと思う。この思いと決意こそが新たな闘いへと踏み出していく私たちの立脚点ではないだろうか。

コロナ禍の影響

命と暮らしと尊厳を軽んじ、国威と大資本を重んじるアベスガ政権はコロナ対策でそのデタラメな本性がさらけ出され、支持率は急落していった。一方で「3密回避」「緊急事態宣言」は私たちの運動をも直撃した。仕事を失い、収入が減る、また自分が感染したり、家族などが感染するなどもあっただろう。そして、大、小を問わず人が集まることやワイワイと存分に話しあい、語り合うことができなくなった。

最初の緊急事態宣言が出されたことに対し、緊急事態を口実に国会が不要なことまでも権利を奪うのではないかと危惧し、「異議あり」という形で集まった首相官邸前行動に対して「バイオテロだ!」「射殺しろ!」などという誹謗中傷、脅迫が集中した。集まり、語り合い、そして行動するという私たちの運動の必須の要素が「自粛」という「自主的戒厳令」によって機能不全になることで運動は大きなダメージを受けた。リモートによる「集会・学習会・会議」、SNSでのアピールなど新たな手段方法で対応しつつも、大きなダメージをカバーすることはできなかったし、このことは過小評価できない。オンラインの活用が、いつの間にか外に出ていく行動力を削がれてしまったことは否めない。

コロナ感染は8・9月をピークに急速に減少していった。菅首相の政権投げ出しと自民党総裁選、いわゆるニセ政権交代劇の大騒ぎが感染急減と並行して展開された。「感染して死ぬかもしれない」という恐怖感が薄れていくことでアベスガ政権に対する批判的否定的評価が「結果オーライ」「それなりにやってくれた」へと急変していった。ここに責任追及をとことん出来なかった政治風土が大きく作用してことを忘れてはならない。

繰り返される「かすめ取り」

自民党総裁選、そして史上最短の総選挙という展開に「批判をそらす」「準備期間を与えない」という思惑がみえみえであるにも関わらずマスメディアが進んで協力することで、その目的は果たされてしまった。

自民党は危機打開のための「振り子」理論を伝統的手法として駆使してきた。ロッキード疑惑による危機に対して党内の傍流最左派三木武夫を起用し、田中角栄の逮捕も厭わず乗り切った。政権政党として権力を握っているという一点でバラバラにならない強みでニセ政権交代劇で怒りを無力化し、かすめ取ってきたのだ。その茶番が残念ながら維新の会も加わり、今また繰り返されてしまった。私たちの批判と怒りはこんな「ニセ政権交代劇」「表紙の取り替え」の茶番、欺瞞で簡単に捻じ曲げられてしまうほど弱いのかと自問しながら批判と怒りを鍛えなおしていかなければならない。

「批判よりも提案を」は新たなかすめ取り方法

「枝野たて!」という市民からの湧きあがる声の中から生まれた立憲民主党の枝野氏が今度は総選挙の責任を取って辞職した。それを促した声が「批判ばかりの党から提案型の政党へ」というものだ。この政治状況は東京都知事選を勝ち抜き、「百合子ブーム」の絶頂にあった小池百合子氏が党首の「希望の党」へと当時の民進党が解体吸収されようとした時に重なる。現在の連合会長、芳野友子氏が小池百合子の役回りを演じているかのようだ。

この状況に対して、かつて「枝野たて!」という対応で打開したのと同じ手法で向かうべきかと思えば、そうではない。今必要なことは「徹底した批判なしには提案はない」という論陣を粘り強く形成し「提案型」をかすめ取りのため毒入り饅頭にさせないことが大事ではないか。

「壊れやすい共闘」から「しなやかで強靭な共闘へ」

総選挙後一斉に「野党共闘」不要論が巻き起こっている。

その震源は、当選10回以上を誇り、自民党幹事長や大臣も歴任してきた石原伸晃氏や甘利明氏が野党統一候補に完璧にうち負かされたことにある。与党の誰しもが自らの足元で起こりうると戦慄したことは容易に想像がつく。この「野党共闘否定」キャンペーンの特徴は、共闘を生み出した市民の闘いを完全に消去しているということだ。

「野党は共闘」という声を限りに私たちは国会を巡って闘った。この市民の声が願いが「野党共闘」を成立させ、持続させてきたのだ。

市民の闘いを消去し、共闘を損得での合従連衡へと形骸化させようとしている意図を見抜いておかなければならない。

「野党共闘」の見直しではなく「さらなる徹底」こそが向かうべき方向性だ。市民の「野党は共闘」の声をさらに大きくしてこそ「壊れやすい共闘」を「しなやかで強靭な共闘」へと変えていくことができるのだ。

鍵を握るフェミニズム運動

市民連合が提案し、4野党で合意した統一政策の中に「ジェンダー視点に基づいた自由で公平な社会の実現」が6本柱の1つとして入っている。非常に画期的なことだ。女性が「わきまえて」「声をあげずに」隷従する規範の上にこの日本社会が形作られている。この構造、構造的性差別を揺るがし、崩していくことがどれだけ重要なことか強調しても、しすぎることはない。

「わきまえない」「黙らない」女の立ち上がりが今始まっている。この闘いが必ず運動を変え社会を変えていく。「女性による女性のための相談会」運動や女性個人の有志で集まった「フェミニスト労働組合」が呼びかける「女のストライキ」など多様な闘いがさらに勢いを強めていくだろう。

「もっと」「もっと」が合言葉

ハト派と言われる自民党宏池会の岸田首相は魂を鷹に売り渡し、今やハトの外観をした鷹として改憲と大軍拡に向けて走り始めた。私たちは今一度、足元を踏みしめて新たな闘いに立ち上がっていかなければならない。

私たちは共闘を選挙の時のためのものに限定するのではなく、「もっと」日常的な地域における新しい政治を担う潮流として定着させ成長させよう。街宣、署名、戸別訪問、ポスティングなど、集会、会議を「もっと」徹底して、工夫しながら展開しよう。合意した政策を「もっと」堀下げ、わかりやすい言葉で伝えよう。政治を政治エリートに任せてはならない。

夏の参議院議員選挙の闘いはすでに始まっている。改憲反対の署名もリニューアルした。今から、総選挙の総括を生かした闘いを繰り広げよう。

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戦争を防ぐ平和の盾を

高良鉄美(参議院議員 市民連絡会共同代表)  

今年5月15日、沖縄は「復帰」50年を迎える。復帰といっても沖縄復帰と言ったり、本土復帰と呼ばれたりすることもある。どちらも「復帰」を使うが、少し考えてみるとその違いが意外に大きなことがわかる。「沖縄復帰」には意識的にせよ無意識にせよ、日本あるいは日本政府から見た復帰というニュアンスがある。一方、本土復帰というのは、沖縄側から見た能動的「復帰」を指すような面が多分に含まれている。この違いには、実は憲法が強く関わっているといってよいと思う。

前者である「沖縄復帰」には、明治国家に組み込まれた戦前の「沖縄県」が形式的に米国から返還されて、当然に沖縄県となったという捉え方が国または政府にあるように思われる。というのも、明治の廃藩置県(1871年)後の「沖縄県」(1879年)、あるいは中央集権の明治憲法下の「沖縄県」復帰ではないということを、はたして日本政府は意識したであろうかという強い疑義があるからである。ちなみに明治政府は廃藩置県から1年後に琉球藩設置(1872年)を通告し、廃藩置県の制度下で唯一の藩、「琉球藩」を設置した。沖縄にとっては「廃国置藩」といわれることもある。「琉球処分」が話題になってくるのは、昨今の普天間返還の放置(本来2003年までに返還)や辺野古新基地建設工事強行などをめぐり、沖縄(県民)に対する政府の強圧的姿勢を見るにつけ、明治国家的視点の「復帰」の内実が浮き彫りになってくるからである。

廃藩置県の評価は別にせよ、後者である「本土復帰」には明治憲法下の「沖縄県」とは年代的に異なるだけでなく、復帰のプロセスから見ても日本国憲法下の「沖縄県」としての復帰であることが明白である。つまり、平和憲法の下への復帰というスローガンを挙げた沖縄県祖国復帰協議会を中心とした沖縄の民衆の側からの「本土復帰」であり、地方自治を練り込んだ日本国憲法の「沖縄県」としての復帰であった。しかし、前述したように、辺野古問題をはじめとした日本政府の姿勢は、憲政、つまり平和憲法に基づく政治から大きく外れてしまっているのが現状である。裏を返せば、政府の行為によって、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を基本原理とする日本国憲法がその保障力を抑えられているということであり、憲法53条に基づく臨時国会召集要求問題や、モリカケ問題、検事長定年延長問題、学術会議会員任命拒否問題など憲法違反の内実を隠した国政が日本全体を黒雲のように覆い、安閑と行われているということである。

今年5月は、沖縄の「復帰」半世紀であるが、日本国憲法も四分の三世紀を迎える。この四半世紀の憲法ブランクはいうまでもなく、米軍(米国)統治である。そうすると憲法が沖縄にも適用されるようになって、復帰と同様、やはり半世紀なのである。日本国憲法にある日付は公布日の11月3日のみであり、第100条により6か月後の施行が規定されていることによって、憲法記念日が5月3日なのである。憲法記念日とは憲法が実際に力をもって実施された日のことであるから、沖縄の憲法記念日は5月15日ということになる。5月の2週間足らずの間に2度の憲法記念日を迎えることは何とも嬉しいことではないか!ところが、憲法との関係はそこで終わらないのが沖縄である。憲法から切り離された「屈辱の日」(第3条で沖縄分離を定めた対日平和条約発効:1952年4月28日)が、憲法記念日のわずか5日前なのである。否定的側面が含まれてはいても、20日足らずの間に3度も憲法との関係を深く考えることができる日が訪れるのは素晴らしいことである。オキナワは擬人化されることが多いが、憲法との付き合いには苦しいこともいろいろあって75年、それでもまさに「ライフ イズ ビユティフル」である!

憲法は75歳で、私はそれよちも8歳ほど若い。しかし、生まれた時から憲法があったにもかかわらず、憲法が初めて沖縄に適用された時、私は18歳であった。沖縄と憲法には大きな四半世紀のブランクがずっと付いて回るのである。

現在の憲政状況は何かときな臭い。沖縄が1952年に日本本土から分離されて70年、その20年後には「復帰」を迎えて、分離は解消された。一方、対日平和条約と同時発効した旧安保条約は改定後も実質的に今なお続き、日米安保は70年を迎えるのである。憲法より安保条約・地位協定が上という話がまかり通り、国会の中でさえ、憲法が国際情勢の現状や安保に即しておらず、時代遅れなどと理由をつけて改憲を叫ぶ声が飛び交っている。安保に合わせるために憲法を変えようとするのは、憲法の最高法規性や法の段階構造などの法理論を理解していない言動である。台湾をめぐり、米中対立が悪化している状況の下、日米安保によって、日本が戦争に巻き込まれ、沖縄が再び戦場となる構図が描かれようとしている。

半世紀と四分の三世紀とを迎える沖縄と憲法。今年こそ真の「復帰」を実現し、戦争を防ぐ「平和の盾」としての日本国憲法の神髄を発揮する年にしなければー。

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改憲を考える前に、近・現代史の復元ポイントに向き合う

内田 雅敏(弁護士・市民連絡会共同代表)

歴史の復元ポイントを探る

歴史家加藤陽子氏の毎日新聞第3土曜日コラム「近代史の扉」は、毎回興味深く読んでいる。

2020年8月15日「近代史の扉」は、新型コロナウイルスによるパンデミックに触れながら、「コロナ禍を契機に国家への国民の信頼は揺らぎ国家と国民の間の信託や社会契約が途切れたと、感じた人は多かったのではないか。国家と国民の関係が大きく変容する時、人は過去の歴史を振り返る。そしてどこで間違ったのかその地点を探そうとするのは自然なことだろう。」と述べBLM(「黒人の命は大事だ」)運動に触れ、「奴隷制に起因する人種差別が米国社会を分断する禍根の一つならば、例えば南北戦争を『復元ポイント』と思い定め、歴史の修復を試みようとしているのだと理解できる。対して日本はどうだろう」と問題提起をし、「たしかに、避けられた戦争という視角から、『復元ポイント』を探る研究は蓄積されて来た。(略)だが大陸の東、太平洋の西に位置した日本の近代における『復元ポイント』を探るには、台湾、南樺太、韓国、『満州国』等の植民地・傀儡国家と日本の関係を注視する必要がある。」と述べる(加藤陽子『この国の形を見つめなおす』毎日新聞出版)。

「歴史の復元ポイント」としての対華21ヶ条要求

 1998年11月、来日した中国の江沢民主席は小渕恵三首相と「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」を発した。
いわゆる日中間における四つの基本文書中の三つ目の文書である。

同宣言は「双方は過去を直視し、歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方はこの基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる。」と述べている。なお同宣言で中国側は「日本がこれまで中国に対して行ってきた経済協力に感謝の意を表明した」と日本の中国へのODAに感謝する旨述べている。

江沢民主席は早稲田大学でも講演をし、早稲田大学から名誉博士号授与の申し出がなされた。江沢民主席はこれを受領する意向であったが、早稲田大学の創立者が1915年第1次世界大戦のどさくさに乗じて、山東省に於けるドイツ権益の継承、南満州、内モンゴルにおける権益の延長などを求めた「対華21ヶ条の要求」を為したときの首相大隈重信であったことを知らされ、名誉博士号の受領を辞退したという。1915年日本が中国に対して為した対華21ヶ条の要求は、日本の本格的な中国大陸侵略の出発点であり、その意味で加藤陽子氏の云う「歴史の復元ポイント」であった。このことは安倍信三のような極右は別として、保守の側でも比較的受け入れられており、1972年の田中角栄首相と周恩来総理による日中共同声明前文でも「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」述べており、中曽根康弘首相も国会で社会党議員からの質問に対し、対華21ヶ条の要求は侵略的なものであったと求めている。1995年8月15日の村山首相談話を外政審議室長として起案した外務官僚谷野作太郎氏も当時、村山内閣の閣僚で、日本遺族会の会長でもあった自民党の橋本龍太郎から「日本は一体、中国との関連でどの辺から道を間違えたのだろうか」と聞かれ「線を引くのは難しいけれども、1915年の対華21ヶ条の要求ぐらいからじゃないでしょうか」と答えたところ、「僕もまったくそう思うよ」と云われたと回想している(谷野作太郎『アジア外交 回顧と考察』岩波書店)。

保守」の論客と云われた故松本健一も『日本の失敗 「第二の開国」と「大東亜戦争」』(岩波現代文庫)に於いて、「発端としての『対支21ヵ条』」と述べ、対華21ヶ条の要求が「日本の失敗」、即ち「歴史の復元ポイント」であったとしている。

植民地支配

加藤陽子氏の云う植民地支配についての「歴史の復元ポイント」はどこにあるのだろうか。そもそも保守の側には中国に対する場合と異なり、韓国との間で、植民地支配に関し「歴史の復元ポイント」を考えようという姿勢そのものが希薄である。

日韓が国交回復をした1965年の日韓基本条約・請求権協定においては、同じく国交回復を為した1972年の日中共同声明と異なり、日本側に植民地支配についての謝罪がなく、日韓両国の間に歴史認識の共有がなかった。

日韓基本条約は、英文を正文としており、1965年当時、日本側は、一貫して植民地支配は合法であったと主張し、正文の英文の「aleready null and void」を現時点では「もはや」無効であることを確認する、すなわち締結当時及びその後も有効であったが、1945年8月15日の日本の敗戦、もしくは1948年大韓民国成立によって無効となったとし、日韓基本条約第2条を「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」と訳した。他方、韓国側はこれを「とうに無効である」、つまり当初から無効だと訳した。

このように、日韓基本条約には、締結の当初から、その根本、本質の部分に於いて、日本と韓国は異なる見解を有しており、植民地支配について歴史認識の共有がなかった。日韓の間で、植民地支配について歴史認識の一応の共有は、1995年8月15日の村山首相談話を経て1998年10月8日小渕恵三首相と金大中大統領との間で交わされた「21世紀に向かってのパートナーシップ日韓共同宣言」まで待たねばならなかった。

1998年10月8日、小渕総理大臣と金大中大統領は、日韓共同宣言を発し、以下の様に述べた。

「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した」。この共同宣言の延長上に植民地支配の責任を認めた2002年の平壌宣言、2010年の菅首相談話がある。

日韓共同宣言に基づけば、日本と韓国との間に於ける「歴史の復元ポイント」は植民地支配にあり、具体的には1910年の韓国併合、それに至る1904年 日韓議定書、第1次日韓協約(日露戦争の開始に際し、韓国が中立宣言をしたにもかかわらず、日本は韓國を軍事占領し、顧問政治を始めた)、1905年 第2次日韓協約(日露戦争に「勝利」した日本が韓国を保護国化し、韓国の内政、外交権を奪う。統監を置き、初代統監に伊藤博文が就任)にあるということになる。しかし、中国に対する対華21ヶ条の要求に対する認識と同様に、保守の側も含めてこのような即ち韓国に対する「歴史の復元ポイント」を植民地支配にあるとすることに共通認識があるかと云えば、残念ながらそれはない。韓国の元徴用工に関する2018年10月30日の韓国大法院判決を巡っての日本政府の反発及びこの反発を支持したメディア、日本の「世論」を見るとき、日本社会は、1965年の日韓基本条約・請求権協定当時の植民地支配は当時の国際法では合法であったとする見解を克服し得ていないことを思わざるを得ない。1965年の日韓基本条約・請求権協定で日韓間の問題がすべて解決したという現在の日本政府の見解は法的・条約的にはともかく歴史的には到底通用しないことは須之部量三元外務事務次官、栗山尚一元駐米大使ら外務省OBらも語っている(『外交フォーラム』92年2月号)

植民地支配の実態を知らなくてはならない。日本風に名前を変えさせる創氏改名を強い、朝鮮半島に日本の神社をつくって、子供たちを参拝させ、「私たちは日本国の臣民である」と唱えさせる、韓国併合に至る過程で、1895年10月8日未明には国王妃(閔妃)の暗殺、死体の焼毀までやってしまった。韓国では誰もが知っている事実だ。どれだけの日本人がこのこと知っているか。

閔妃暗殺から更に遡れば1975年の江華島事件がある。当時、外国に対して門戸を閉じていた朝鮮に対し日本が開国を求め、朝鮮の江華島近辺の海で測量を始め、朝鮮側を挑発し、引き起こした武力「衝突」事件で、日本の朝鮮半島攻略の第一歩となったものだ。

これらの歴史的経過を見れば、韓国が植民地支配は合法であったなどと認めるはずがない。朴正煕大統領がフランスを訪問した際、フランスがから仏・独歴史和解の話をされ、これに倣い韓・日も歴史和解をするよう説得されたことがあった。その説得に対し朴大統領は、「フランスとドイツは殴ったり殴られたりした関係だが、韓国は殴られっぱなしだったから」と応えたとのことである。

1910年10月1日、陸大臣兼任のまま、初代朝鮮総督に就任した寺内正毅は酒宴で「小早川 小西加藤が世にあらば 今宵の月を いかにみるらむ」詠んだという。豊臣秀吉の朝鮮侵略の延長だ。長州閥の寺内は、幕末の長州のイデオローグ吉田松陰の唱えた「国力を養ひ、取り易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて墨・魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし」(安政二年四月二十四日付書簡)、すなわち、米国、ロシアとの交易(不平等条約)で失った分は、国力を増強させ、朝鮮・満洲・清国をも「切り随へ」土地の拡大によって取り戻すべきだとする教えを実践した。松陰の手紙に対し、「それでは間違いが起こる」と諭したのが松陰の師佐久間象山だった。朝鮮の植民地支配から中国大陸への侵略、佐久間象山が諭した「間違いが起こる」道を歩んだ結果が1945年8月15日の敗戦だった。韓国ソウル郊外にある独立記念館では、征韓論の西郷隆盛と共に吉田松陰が朝鮮侵略の元凶として展示されている。この様に日本と韓国では吉田松陰の評価が全く異なる。この違いを知らなければならない。日韓関係における「歴史の復元ポイント」は象山が諭した「それでは間違いが起こる」というところにある。中国に対する対華21ヶ条の要求に対する認識と同様、日本社会で、保守をも含めて、このことを共通の認識とせねばならない。

結語

今改憲が声高に語られ、敵基地攻撃能力の保有が当然のことのように語られている。米国の云うがままに武器の爆買いをし、強行採決によって解禁されたとする集団的自衛権を行使により米国仕様の自衛隊を米軍二軍として中国に対峙させるのは「唯武主義」の外交無策である。今必要なことは、改憲、敵基地攻撃能力の保有でなく、日・中間、日・韓間での「歴史の復元ポイント」にしっかりと向き合い、日中共同声明等「四つの基本文書」、21世紀に向けての日韓共同宣言、平壌宣言などの「平和資源」を活用して、日・中・韓での友好を構築することである。

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◇◇ 改憲動向の特徴~第207回臨時国会が終わって ◇◇

●岸田改憲推進の決意

12月21日、第207回国会(臨時)の終了日に、岸田文雄首相(総裁)も出席して自民党の憲法改正実現本部(本部長・古屋圭司政調会長代行)全体会合が開かれた。

会合で岸田首相は「国会での議論と国民の理解が車の両輪だ」「国民の雰囲気が変わることは、間違いなく国会での議論を後押しする」と述べた。これは安倍元首相が「世論の壁」の前に任期中の改憲を断念して退陣したことを想起しての発言かもしれない。

 首相は「(9条への自衛隊の根拠規定明記など)自民党の改憲4項目は極めて現代的な課題であり、国民にとって早急に実現しなければならない内容が盛り込まれている」「憲法改正の議論の主戦場は国会における憲法審査会だ。実現本部においても国会の議論を押し上げていただけるようサポートしてほしい」と発言した。

会合では党本部に全国各地で遊説や対話集会などを行う「憲法改正・国民運動委員会」を設置し、講師派遣などを進めるとした。来年3月開催予定の自民党大会では各都道府県連に「憲法改正実現本部」を設置し、世論形成に力を入れることとした。

実現本部の最高顧問には安倍元首相と、麻生副総裁が就任した。

新年の通常国会に向けて、自民党は体制を整えた。

●憲法審での議論の概要

この臨時国会は2週間余りの短期間だったが、衆議院の憲法審査会が9日と16日の2回にわたって開催された。9日は役員体制などを決める会議だったが、16日には「自由討議」という形式の実質討議が行われた。こうした拙速な運営は、憲法審査会のみならず2000年からの憲法調査会以来異例のことであり、先の総選挙で改憲派政党が議席を増やし、憲法調査会の「与党側幹事懇談会」に連立与党のほかにも「維新の会」に加えて「国民民主党」が出席するようになったことの反映で、与党主導の審査会運営がより強引になったためだ。

2022年の憲法審査会の動向を予測するために、16日の衆院憲法審査会の議論の特徴を何点かあげておきたい。

(1)予算委員会開催中の憲法審開催は例外

この日は参議院が予算審議の最中で、従来、こうしたした中では憲法審査会は開かれてこなかった。憲法調査会以来、「憲法論議は政局に左右されない、静かな環境の下で行われるべきもの」という不文律があったからだ。今回は与党側の開催要求に押し切られて、立憲民主党なども妥協して、異例の開催になった。

この経緯を会議で立憲民主党の中川正春委員は「参議院が予算委員会をやっているさなかに例外的にこうして(憲法審査会を)開くことができた。……前例とならないという条件の下で今回ひらかれたといいうこと、そこを確認しながら……」と釘を刺している。
今後の憲法審緒運営では、これを前例にすることはできない。

(2)与党や維新、国民が定例日、毎回開催を主張

会議では、自民、公明、維新、国民の各党の委員が口をそろえて「国会会期中の週一回の定例日には憲法審査会を毎回開催すべし」(公明・北側委員)と主張した。維新の馬場伸幸委員は「会長代理(立憲の)自らの政党の立場に拘泥し、その役割を果たすことができないならば(審議に応じないならば)、私が会長代理を引き受ける」とまで述べた。自民の新藤委員も、国民の玉木委員も同様に定例日毎回開催を主張した。

これに対して立憲民主の泉代表は16日の記者会見で「憲法審だけ『毎週開け』大合唱は、おかしな話だ」と批判したのは適切だった。

泉代表は「(補正予算案の審議が参院予算委員会で行われているなか、16日に立憲民主党も同意して衆院憲法審査会が開かれたことについて)自由討議が行われた。これも立憲民主党の(議論を重視する)姿勢ととっていただいて良いかと思います。ただ、『毎週開くことが当然』かのような論調作りはやめていただきたい。では、決算行政監視委員会は毎週開いてくれるんですか? 拉致問題特別委員会は毎週開いてくれるんですか? なぜ急に、憲法審査会だけに焦点を当てて、『毎週開け、開け』と大合唱をするのか。国会のルールを無視するやり方はいけないと思います」「『憲法審査会だけを動かせ』というのは、国民をだます行為だと思います」。「政府(提出)の法案審査が終わった後、日程が空くことがあります。(野党から)議員立法が提出されているにもかかわらず、審査をしないこともこれまで何度も繰り返されてきた。あらゆる委員会に定例日があり、毎週開こうと思えば開けるはず。どこかだけを切り取り、毎週開くというのはおかしな話ということは伝えていただきたい」と述べた。

まさに憲法審査会の与党などは明らかに改憲に前のめりの暴走だ。

(3)「附則4条」の議論を優先すべし

審査会で立憲の奥野総一郎委員は「附則4条は『公平公正確保のためのCM規制、国民投票運動の資金規制などについて』必要な法制上の措置その他の措置を講ずることを求めています。……附則4条の趣旨から、何らかの法制上の措置が講じられるまでは、発議はできない。附則4条の議論を優先すべきだ」と述べた。

これに対し自民党の新藤委員は「国民投票法に関する議論と憲法改正に関するいわゆる憲法本体論議。論議の順序はない」という立場で、附則4条の優先審議に反対した。国民民主の玉木委員は「国民投票法と本体改憲論議は同時並行で議論すべき」と「並行審議」を主張した。新藤委員も、玉木委員も、次期通常国会からいわゆる本体論議に入ろうという立場だ。

本誌前号でも論じたが、附則4条問題が解決しないうちに改憲発議はやってはいけないことだ。

(4)テーマごとに分科会方式で議論促進を狙う改憲派

改憲派は改憲論議のテンポを速めようと、分科会方式での議論や、論議の順番を幹事会で整理して、優先順位をつけて(公明・北川委員)議論を進めることなどにこだわっている。憲法の熟議などという事ではなく、「急げ、急げ」という立場だ。この点では維新の委員も、公明の委員も、国民の委員も同様だ。維新の足立委員はさらに「スケジュール、出口を決めた議論をすべきだ」と強調した。

公明の國重委員は「会長、幹事会の下に特別の検討委員会を設けて、論点整理、深堀を行い、時宜に応じて審査会にフィードバックして議論をまとめていく必要がある」と主張した。

(5)自民党の「改憲案4項目」や維新の「3項目」など

自民党の新藤委員は今回も9条への自衛隊の根拠規定の導入など、自民党4項目改憲案(たたき台)を呼び水に、各党に対案の提出を促した。

維新・馬場委員は「日本維新の会は特定のイデオロギーを表現するためではなく、日本が抱える具体的な課題を解決するために憲法改正を行うべきと考え、2016年3月、教育無償化、統治機構改革、憲法裁判所の改正原案を取りまとめた」と説明した。維新・足立委員はほかの改憲問題について、「その3つにとどまらず、各党から出ているテーマについて順次、議論に対応をする。緊急事態条項は感染症の問題もあり、具体的な課題の最たるもの。九条については維新はまだ案を出していない。奥行きの深いテーマだ。自衛隊を憲法に明記すると言うが、例えば自衛隊の殉難者のみなさまのみたまにしっかりと応えていく国の在り方を整えていく」などと自衛隊明記論を擁護した。

公明党は北側委員が発言の最後に9条改憲消極論を述べたうえで、「引き続き慎重に議論したい」と余地を残した。

そのうえで、「多くの国民は現在の自衛隊の活動を支持しており、違憲の存在とは見ていない。各国の憲法にも自衛隊のような実力組織を明記したものは見当たらない」と改憲消極論に終始した。
国民民主党も自民党の9条改憲論に賛成していない。

このように9条改憲論に関しては改憲派各派の主張はばらばらで、改憲原案をまとめることは容易ではない。

(6)緊急事態条項

緊急事態条項は議員任期の延長のほか、コロナ禍におけるオンライン国会の是非などが論じられた。新藤委員も、北側委員も、玉木委員も、この必要性を強調した。緊急事態条項改憲論は与党と、維新、国民でほぼ共通しているだけに、要警戒だ。

総選挙後、自民党の茂木幹事長は衆院選で憲法改正に前向きな日本維新の会や国民民主党が議席を伸ばしたことを踏まえ、緊急時に政府の権限を強化する「緊急事態条項」の創設を優先的に目指す方針を示し、「新型コロナウイルス禍を考えると、緊急事態に対する切迫感は高まっている。様々な政党と国会の場で議論を重ね、具体的な選択肢やスケジュール感につなげていきたい」と述べた。

立憲の奥野委員は「私見だが」と断ったうえで、「オンライン出席には改憲は必要がない。すぐにでもできる」と述べた。(事務局・高田 健)

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連続コラム 女というだけで

政党や政治の動きに心揺れても平和運動とシスターフッド(女性たちの連帯)があるから挫けずにいられる女性として声を上げること

事務局 ふやふや

選挙が終わり、マスコミの野党共闘バッシングが吹き荒れ、立憲民主党の代表選、そして沖縄県の玉城デニー知事の不承認と、状況は動いていきます。その中で女性として声をあげることについて思うところをつづってみました。

フェミニストを意識するようになった自分

日々SNSなどで繰り広げられるフェミニストへの攻撃は、攻撃そのものが女性差別意識の表れで、こんなにも女性の被害や現状が軽く扱われ、無いものにされているのかと愕然とします。普段は平和や憲法を守ろうと言っている男性からも、上から目線で女性に教えてやろう、男性にもわかるような発信やアクションをしろという女性差別意識が根底にあるからこその口出しも珍しくはありません。

男性が見る社会の景色と、女性から見える社会の景色はこんなにも違うんだ。女性は電車に乗るだけでも痴漢やぶつかり男(最近私も遭いました)、小田急線の刺傷事件のような、フェミサイド予備軍に警戒しなくてはならない。歩いていてナンパを無視したら「無視すんなブス」と言われる。しかしそのことを訴えると「男性も辛いんだ」と口封じされる。素直に被害の辛さを聞いてもらえない。被害者がなぜか落ち度がないか「夜遅くに歩いていたから」「スカートだったから」と責められる。元米兵に殺された沖縄の20歳の女性のことも思い出します。こんな社会だから、性暴力被害者の伊藤詩織さんも傷だらけになりながら闘わなきゃいけなくなっているんだ、と。

私は本を読むようになりました。「ハヨンガ」「根のないフェミニズム」など韓国のMeToo運動に関するもの。YouTube「今夜もフェミテレビ」でお馴染みの石川優実さんや笛美さんの「もう空気なんて読まない(石川優実さん)」「ぜんぶ運命だったんかい(笛美さん)」など。

それからYahoo!ニュース本屋大賞2021を受賞した、上間陽子さんの「海をあげる」。沖縄の水の汚染問題や辺野古の新基地建設の問題に加え、米兵による性暴力のことも日常的な問題として記述されています。

韓国のフェミニストたちの運動には大いに刺激を受けました。そして日本でも頑張っているフェミニストたちがいる。自分もフェミニストとして声を上げていこう。

衆議院選挙で訴えられたジェンダー問題

衆議院選挙が終わって、女性議員の落選にフェミニストの仲間たち、そして私もがっかりしました。選択的夫婦別姓はこれでまた実現が遠のいてしまったのかと希望が打ち砕かれる思いでした。ジェンダーという言葉はわかりにくいだの、有権者に響かなかったのだの、マスコミの野党&女性政策バッシングが始まりました。でも元気をくれたのもまたフェミニスト仲間でした。「選挙が楽しいってこと初めて知った」「参議院選挙ではこういうのやったらどうかな?」「維新の吉村知事の動画を観て感じた事なんだけど」と。

立憲民主党の代表選でもジェンダー問題が語られ、泉代表も執行部にジェンダーバランスを重視し女性を就任させました。

少しずつだけど動いていく。フラワーデモも、都立高校の入試差別問題もそうでした。女性たちが声を上げだことで、実子を強姦していた父親の無罪判決が7年の有罪判決になりました。男女別定員制の問題も、最初に取り上げたのは女性記者でした。これも廃止へと舵を切ることになりました。

フェミニスト労働組合

「3月8日の国際女性デーはしたくない事はしない!したいことをしよう! と、女のストライキを呼びかけます。その準備として毎月8日に集まりましょう」との呼びかけに、労働組合に入ったことのない私ですが、フェミニストの人たちがまた思いもよらないアクションをはじめたぞ!と参加してみることにしました。

誰が呼びかけとか主催とかは無く、皆でアイデアを持ち寄って形にしながらやっていこうと、初めて会う人同士ワイワイと自己紹介からはじまりました。

入試でも就職でも差別を受けチャンスを奪われ、賃金でも差を付けられ、出産で退職して復帰したら非正規雇用や低賃金の仕事にしか採用されない。コロナ禍で収入が減り、風俗の仕事に就かざるを得ない女性がいる。共稼ぎ家庭の中でも育児や家事の負担は女性に重くのしかかっている。

私も美大を受験するにあたり、当時美術予備校の先生に言われました。「同じ点数だったら芸大や美大は男子を取るからね。女子美術大学も受けた方が良い」と。

男性は一家の大黒柱で稼がなくちゃいけない、女性は最悪結婚すればどうにかなるから、という意識がこういう入試差別につながっているのでしょう。もう男性の稼ぎだけでは家族が食べていけない時代、女性も仕事を持ちたいと思って当たり前だという時代にすでになっていたのにも関わらず。こういう価値観は男性にとっても息苦しいものかと思います。

自分の勤務先で役職に就いている女性はおりませんし、私自身もずっと非正規雇用の1年契約でした。(法改正で期限付き雇用から無期限雇用になり、非正規から嘱託の身分にはなりましたが、低賃金には変わりなく退職金などもありません。)

パートナーの転勤と子育てで、正社員の自分が退職せざるを得なかった過去。仕事を辞めたくない、引っ越したくないと残念がる私がその時言われた、「なら自分が稼いで家族を養いなよ」という言葉。

今なら女性の低賃金は自己責任じゃない!と言い返せるのに、当時は「自分は稼いでないのだから・・・」と黙って男性の仕事の都合に自分の人生を従わせるしかなかった。

そんな風に女性の労働力が搾取されている社会なのだから、1年に1日くらいは仕事や家事を放り出して休んだり、国際女性デーのイベントに参加して自分のために時間を使おう!というアクションがフェミニスト労働組合です。

これにも感情的に絡んで来るミソジニスト(女性嫌悪者、女性蔑視者)たちがいますが、女性の連帯の力ではねのけて成功させたいと思っています。

選挙結果にも政治にもマスコミにも女性差別にも憤ることばかり。沖縄の辺野古新基地建設の問題、平和の問題、憲法の問題。どうなるか不安ばかり。でも絶望しちゃいけない。そう思っています。

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図書紹介:「リコール署名不正と表現の不自由―民主主義社会の危険を問う」

編著者:中谷雄二 岡本有佳
筆者:飯島滋明 高橋良平 山本みはぎ おかだ だい
定価1600円+税
発行:あけび書房

2019年に開かれた「あいちトリエンナーレ」のなかの企画展「表現の不自由展・その後」が開催3日目にして中止となり、中断を経て最終日近くの僅かな期間に再開された。このことは私たちが生きている今日の社会で、表現の自由という基本的な権利がこれほど危うい状態にまでなっていることを思い知らされた。つづいて大村愛知県知事へのリコール署名で暴かれた不正問題では、民主主義を愚弄する行為が現職の市長や右翼経営者でテレビコマーシャルにも顔を出す者によって引き起こされてしまったことに言いようの無い驚きと恐怖・無力感さえ感じた。

本書では「表現の不自由展・その後」の展示中止の背景、「お辞め下さい大村秀章愛知県知事 愛知100万人リコールの会」の不正署名とのたたかい、そして2021年に東京、名古屋、大阪で企画された「表現の不自由展」開催を実現する、まさに“たたかい”をになった人びとの経験がまとめられている。

編者の一人である中谷雄二さんは弁護士として、「第1章・不自由展中止からリコール署名捏造に至る政治的背景」をまとめている。中谷さんは「表現の不自由展・その後」の中止問題では仮処分事件の弁護団長、リコール不正署名問題では不正署名の厳正捜査を求める法律家要請に呼びかけ人としてかかわっている。今年実施された名古屋市長選挙では、河村たかし氏が名古屋市長にふさわしくないとして公開質問状を出して対抗馬の立候補要請にかかわった。また今年名古屋で開催にこぎつけた「私たちの表現の不自由展」には、主催の共同代表として法的な視点も交えて経緯と背景を書いている。

もう一人の編者の岡本有佳さんは編集者だが、「第3章・封じられた美術展、再び取り戻す」の一文を寄せている。2021年6月に開催を準備していた「表現の不自由展・東京」が右翼の妨害によって中止に追い込まれた実態は生々しい。また東京に出品される予定だった作品の一覧と、いくつかの作品を紹介していて観賞する側からはありがたい。東京での開催を準備しているので、作品に対面したいと思う。

飯島茂明さん(名古屋学院大学教授・憲法学)は「第2章・愛知県知事リコール不正署名問題で問われるべきことは何か」をテーマにしている。飯島さんは日本国憲法や国際社会での基本原理である民主主義の実現にとって「地方自治」は必要不可欠であり、「住民自治」を実現するために「リコール制度」も極めて重要な意味を持つ、と指摘している。そして署名を呼びかけた河村市長や高須克弥氏、運動を支持してきた右翼言論人や吉村大阪知事、松井大阪大阪市長などの責任を厳しく指摘している。安倍信三元首相もふくめたこれらの人々が憲法改正を進めていることの無責任さにだまされてはいけないとして、読者に改憲の是非を真摯に考える必要があるとしている。

高橋良平さんは「第4章・あいとりの不自由展『中止』と再開から河村たかし氏の落選運動まで」の報告を寄せている。山本みはぎさんは「第5章・失われた4日間の回復をめざす私たちの『表現の不自由展・その後』」で、名古屋での開催にむけてのとりくみを報告している。おかだだいさんは「かんさい展やり遂げてなお、いつかくるその日のために」と題して、「表現の不自由展かんさい」の開催にむけたたたかいを報告している。

これらの報告はそれぞれ生半可なものではない。会場の使用をめぐって、妨害する右翼に対抗しても各地の経験を生かして行動している。展覧会実現に向けて自治体や会場の管理者、対警察、裁判所への提訴、市民やメディアへの広報はじめ、考えられる智恵と人間関係を駆使して機敏に果断に行動している。エネルギーが報告からあふれ、熱く伝わってくる。報告の各所に挿入されている多くの写真はリアルで、現場やたたかい方を髣髴させるのに十分だ。自由と民主主義の危機を意識せざるを得ない今、事実を知り、力を与えられること間違いなしの1冊になった。(どいとみえ)

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