衆議院議員の任期切れを控えて、政権政党の自民党総裁選が始まった。
いま、国政で問われている問題は安倍・菅政治の9年をどのように評価し、どのように転換するかだ。例によってマスメディアをジャックして連日展開される自民党総裁選は、この問題を試金石として検討されなくてはならない。
総裁選4候補はいずれもこの安倍・菅政権で閣僚、あるいは自民党の要職を務めてきた。この点で同政権の悪政の共犯者であり、同罪だ。河野太郎氏は安倍政権で国家公安委員長、外相、防衛省を歴任し、菅政権ではワクチン担当相だ。岸田文雄氏は第2次安倍政権で長期に外相を務め、防衛相も務めた。高市早苗氏は総務相や党政調会長を長期にわたって務めた。野田聖子氏は総務相や、安倍・菅総裁下で自民党の幹事長代行を務めた。安倍・菅政治が行き詰まって、政権投げ出しが起きたために、4候補とも、総裁選では前政権との違いを強調するが、この経歴から見て、いずれも安倍・菅政権に責任があり、この人々がいう「政治の転換」は欺瞞であり、その言説は信用を置けない。
なかでも4候補がいずれも「改憲」を掲げている点は見逃せない。河野氏は日米同盟や自衛隊能力強化、高市氏は事実上中国敵視・軍事力強化の立場をとり、敵基地攻撃能力強化を強調、岸田氏も対中国で軍事力強化を主張する。年末には第6波到来は不可避と言われる焦眉の新型コロナ感染症対策でも、いずれも従来の安倍・菅政権の政策の抜本的転換は語られない。各候補間にあるいくらかの政策・主張の違いは安倍・菅政権の破綻の弥縫策での差異であり、転換には程遠いものだ。
後述するが、現下の政治の分岐点は総裁候補4人の疑似的な対立にあるのではなく、9月8日に市民連合と野党4党が合意した「政策合意」と安倍・菅9年の政治にあり、選択すべきはこの2つのいずれかにある。
安倍晋三前首相・菅首相の2代にわたる「政権投げ出し」は極めて異常な事態だ。
菅義偉首相は8月25日の記者会見で「明かりははっきりと見え始めている」と見栄を切った。しかし、そのわずか1週間後の9月3日に政権を投げ出すことを言明した。「(新型コロナ対策と総裁選の選挙活動について)莫大なエネルギーが必要で、両立はできない」と述べ、「感染拡大を防止するために専念したい」と語った。菅首相は記者に対するわずか3分の発言で1年前の就任以降の活動を振り返り、「全力で取り組んできた。当時は全体像がまったく分からない中で海外での先行例をみながら取り組んできたが、医療体制をなかなか整えられなかった」「私ができなかったことは病床を整えられなかったということ。次の政権にはワクチン、治療薬、現状を引き継いでもらいたい」と述べ、同政権下での医療崩壊の現状について、追認した。
話しの筋道が通らない。新型コロナ感染爆発状況の中で、自民党総裁(首相)をやめるという無責任さにはあきれるばかりだ。菅は「コロナ専念」に専念するどころか、辞任表明で「死に体」情況であり、コロナ対応を放棄したという事だ。実際、コロナ担当相の河野太郎は総裁候補に立候補し、総裁選にかまけて任務を放棄している。
安倍前首相はその辞任に際して体力を理由に「(持病の悪化で)国民の皆さまの付託に自信を持って応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではないと判断した」と表明した。菅首相の「両立はできない」と論理構造は同一だ。安倍はコロナ対策と改憲で行き詰まり、菅首相はコロナ対策で行き詰まって政権を投げ出したということだ。無責任の極みだ。
安倍前首相の政治目的は「憲法9条を変えて(明文改憲、自衛隊の国防軍化)、米国とともに海外で『戦争できる国』をめざす」ことにあった。
彼の思想は極めて復古主義的で、「国のために死ぬことを宿命づけられた特攻隊の若者たちは、敵艦にむかって何を思い、なんといって、散っていったのだろうか。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである」(『美しい国へ』)などという言葉に象徴されている。
しかし安倍前首相のこうした政治的な野望は、内外で行き詰まった。対外政策では米国トランプ政権への異常なまでの追従に見られるように、日米軍事同盟を一層強化し、米国の高価な武器を爆買いさせられた。周辺諸国との関係ではことごとく、失敗した。中国政策では尖閣諸島問題などで日中間の政治的緊張はかつてないほどに高まり、韓国の文政権敵視政策で、日韓関係は史上最悪とまで言われ、朝鮮政策では日朝平城宣言を事実上反故にし、対ロ関係でも「北方領土」問題は解決の糸口すら失った。内政では2014年に歴代政権の憲法解釈を安倍内閣の閣議決定をもって強引に変更し、憲法9条を変えないままでの集団的自衛権の行使に道を開いた。安倍政権は関連して秘密保護法などいくつもの違憲立法を強行した。モリカケ事件に代表される政権の私物化、腐敗は極度に達した。その結果、世論の大きな反撃を浴び、本来目指していた憲法9条の明文改憲が不可能なところに追い込まれた。
2020年8月28日の安倍首相の辞任記者会見では「憲法改正、志半ばで職を去ることは、断腸の思い」「国民的な世論が十分に盛り上がらなかったのは事実であり、それなしに進めることはできないと改めて痛感している」と述懐せざるをえなくなった。
経済政策では「異次元金融緩和」などと称するアベノミクスによる新自由主義政策の下で、格差拡大社会が進行し、大企業・富裕層をより富まし、中間層と下層を貧困化させた。安倍政権のコロナ禍対策の失敗もこの延長上にある。
安倍前首相は政権維持のために事あるごとに「悪夢の民主党政権」と口にしてきたが、私たち市民にとって安倍・菅政権の9年こそが「悪夢」だった。
安倍首相は辞任に際して「世論が改憲を望まなかった」と歯ぎしりした。たしかに戦争法強行に怒りを示した市民と野党の運動は以後数年で約2500万筆におよぶ全国署名運動を展開し、戦争法に反対し、立憲主義を擁護する世論の大きな高まりを作った。
2015年安保で形作られた市民と野党の共同は、国政選挙においても2016年参院選、2017年衆議院選挙、2019年参議院選挙をへて、安倍首相の改憲をめざした改憲のための必要条件である両院の3分の2議席の確保を許さなかった。
2020年8月の安倍退陣は新自由主義による新型コロナ対策の破綻と市民と野党の共同による明文改憲の展望の破綻の結果だった。
安倍政権を引き継いだ菅は「安倍政治の継承」と裏腹の庶民派宰相を装うカラーの転換という両面政策で、「人事による政権掌握」を武器に日本学術会議人事委への介入に見られるような強引な政権運営を謀った。しかし肝心のコロナ対策は失敗し破綻した。局面転換のためのパンデミック下での東京五輪の強行による「神風」を期待したが、コロナ禍の蔓延で破綻した。野党が憲法53条にもとづいて要求している臨時国会は頑として召集しない。菅政権は総選挙を目前にして、支持率が下落し、総選挙を前にして有権者の評価の下落におびえる自民党の国会議員たちは「沈む泥船」から逃げ出し始め、政権維持が困難になった。
この間、総がかり行動実行委員会をはじめ、全国の市民運動はコロナ禍の下で、あるいは政府の緊急事態宣言発令の下で、運動の展開は新たな困難に見舞われた。しかし、コロナ禍の中でも多くの人々がひるまず、工夫して街頭でも行動し、運動を継続させた。
1年前の発足当時、菅内閣は支持率65%という超高支持率を得ていた。しかし、この1年の全国の市民と野党のたたかいは、この内閣支持率でも政権の危険水域と言われる20%台にまで追い込んだ。全国の草の根で世論をかえるたたかいが取り組まれた。
これを反映して、今年になってからの地方自治体選挙や国会議員の選挙では、山形県知事選(1月)、千葉県知事選(3月)、広島、長野、北海道の国政補選・再選挙(4・25)、静岡県知事選(6月)、都議選(7月)、横浜市長選(8月)といずれも野党系の候補者が勝利している。とりわけ横浜市長選挙の勝利は、菅首相の地元であるだけに政権側には大きな打撃になった。
わずか1年前、自民党の圧倒的多数で選出した菅義偉総裁(首相)はもはや風前の灯火だった。
衆議院議員の任期切れと総選挙がまじかに迫った9月8日、立憲野党4党(立憲民主党、共産党、社民党、れいわ新選組)と市民連合(安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合)は「野党共闘で『命を守るために政治の転換を』」を確認し、各党党首が署名調印した。このことは政権選択選挙と言われる衆議院議員総選挙に向けた政権交代を求める本格的な総選挙のための政策合意であり、市民連合6年の歴史の中でも画期的なことである。
市民連合は2015年安保闘争の結果生まれた市民が国政選挙にかかわるためのプラットホームとしての新しい運動であり、この誕生は少なくとも60年安保闘争以来の運動の歴史的転換を示したものだ。市民連合は2014~15年に至る戦争法(安保関連法案)反対運動の高揚と、その敗北の結果生まれたものであり、この間の市民と野党の共闘の前進を反映したものだ。
戦争法に反対するたたかいは、安倍政権の集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更に危機感をいだいた各運動体(連合左派の平和フォーラム、全労連系の憲法共同センター、独立左派の市民運動と共産党系の憲法会議などによる5・3実行委員会を基礎にした9条壊すな実行委員会)が従来の垣根を越えて総がかり実行委員会をつくった。このことによって、運動は一気に幅広く全国的に展開されるようになり、2015年安保がたたかわれた。国会内外で市民と野党の共同行動が展開された。
2015年8月30日の国会正門前での12万人行動をはじめ、数カ月にわたって、万単位の行動が繰り返された。にもかかわらず、9月19日に国会では与党多数派によって安保法制が成立させられた。「市民連合」はこの痛苦の経験の結果、生み出された。主権者として、自らの課題として国政選挙にかかわるという決意だ。市民連合は国政選挙の場においても市民と立憲野党の共同を促進することを固く決意した。
市民連合は以降、今日まで3回の国政選挙での市民と野党の共同に取り組んだ。2016年参院選では32か所の1人区で野党の候補を1本化し、11勝21敗の結果をえた。国政選挙の候補者を野党が本格的に1本化して闘った最初の選挙だった。市民連合は立憲野党と19項目の政策合意を結んでたたかった。結果は改憲派に3分の2の議席を許したが、これは「希望のある敗北」と言えるものだった。野党と市民が共同して1本化してたたかえば、勝利できる可能性が開けるという経験だった。
2017年の衆院選は当時の民進党を含めた野党の政策合意が進んでいたが、小池百合子氏らの「希望の党」策動によって、野党第1党の民進党が分解し、市民と野党の政策合意はいったん、破談になった。しかし、全国の市民の後押しで立憲民主党が誕生し、共産、社民を加えた「7項目の政策合意」が結ばれ、市民と野党の共闘路線が継続された。しかし、選挙は自公与党の勝利になった。
2019年参院選は立憲野党と市民連合の「13項目の政策合意」が結ばれ、1人区では10勝22敗の成果を収め、改憲派は3分の2割れした。
今回の9月8日の政策合意は、6本の政策を柱にして、20項目にわたる課題を列挙した本格的な政策だ。市民連合は昨年9月に「立憲野党の政策に対する市民連合の要望書 いのちと人間の尊厳を守る『選択肢』の提示を」と題する15項目の政策提言を発表したが、今回の政策合意は、それをふまえ簡略化したものだ。今回の4党との政策合意を機に、全国各地での野党と市民の共同にドライブがかけられることになる。
今回の総選挙は市民連合結成以来、初めて本格的な野党と市民の協力体制を構築して臨む政権選択選挙だ。国民民主党が市民と野党の政策合意に参加しなかったことは残念なことだが、全国すべての都道府県に組織された市民連合は、各地で粘り強く共闘への努力を続けている。野党が共同することなくして自民・公明の悪政を倒すことはできない。ひきつづき各政党間の共闘への努力が進められる。
「連合」の動きもあり、立憲民主と共産の間で「政権合意」をめぐる食い違いがある。従来の連合政権、例えば細川政権や村山政権の野党連合は、各党が独自に総選挙をたたかい、結果の議席数が与党を上回ったことで政策協議が行われ、連合政権が成立した。今回の取り組みは、政党間で候補者を一本化したうえで選挙に臨み、政権交代を実現しようというものであり、そのためには政党間であらかじめ政策協定が不可欠だ。この点が政権協力にかんする取り組み方の大きな違いだ。もちろん、かつては「市民連合」は存在しなかったということもある。
新しいチャレンジには困難はつきものだ。
安倍・菅政権の崩壊は、「自公政権」を交代させる千載一遇のチャンスだ。
自民党は総裁選で、メディアジャック状態をつくり出し、トップの顔を変えて、内閣支持率、政党支持率を回復し、総選挙での議席の確保を企てている。そして野党と市民の共同に楔を打ち込み、分裂させて、政権維持を企てている。
私たちは臨時国会の首班指名で誰が首相になろうとも、それは安倍・菅9年の悪政を引き継ぐものであり、さきの市民連合と野党の政策合意の成立という大きな成果を足場にして、全国の市民連合を先頭に、改憲派3分の2議席阻止を最低限目標とし、最大限目標を政権交代の実現におき、そのためにたたかわねばならない。
その時がきた。
野党の共同を困難にする下心をもって一部で語られているように、自公政権を交代させ実現する新しい政権は、各政党の理念や究極目標などの綱領で共同するのではない。
「9.8政策合意」にあるような当面する切実な課題を実現する新しい「救民」政権こそが望まれている。
(事務局・高田 健)
新型コロナウイルスの感染の急拡大の中で、自公政権の統治能力の喪失は明らかとなっている。政策の破綻は、安倍、菅政権の9年間で情報を隠蔽し、理性的な対話を拒絶してきたことの帰結である。この秋に行われる衆議院総選挙で野党協力を広げ、自公政権を倒し、新しい政治を実現することは、日本の世の中に道理と正義を回復するとともに、市民の命を守るために不可欠である。
市民連合は、野党各党に次の諸政策を共有して戦い、下記の政策を実行する政権の実現をめざすことを求める。
2021年9月8日
安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合
上記政策を共有し、その実現に全力を尽くします。
立憲民主党代表 枝野幸男
日本共産党委員長 志位和夫
社会民主党党首 福島瑞穂
れいわ新選組代表 山本太郎
「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の前身だった「憲法50周年運動」が、施行50周年を記念して1997年5月3日に「江戸東京博物館」で開いた第1回「私と憲法のひろば」で、色川大吉先生はメイン・スピーカーを務められました。以降、市民連絡会は少なからず色川先生にご指導、ご支援をいただいてきました。9月7日、色川先生が亡くなられました。本誌は色川先生を偲んで、池上仁さんに書評を書いていただきました。(編集部)
色川大吉さん逝く―五日市憲法のことなど
池上 仁(会員)
歴史家の色川大吉さんが亡くなった。色川さんといえば私にとっては何よりも「五日市憲法」を発掘した人という印象が強い。発掘については1968年に新聞に発表された。2013年、美智子皇后(当時)が誕生日の所感で「五日市憲法」」に言及して改めて注目を浴びた。それよりも随分前、といってもいつのことか記憶が薄れてしまったが、高田健さんたちと一緒に五日市を訪ね、五日市憲法関連の旧跡を巡ったことがあった。五日市の景観が私の育った群馬の郷里(例の八ッ場ダムの少し手前)とそっくりで既視感を覚えたものだ。「見わたすかぎり、山また山で、地平線というものがなかった」井出孫六が描いた信州佐久盆地に似る。川が流れその河岸段丘上の街道沿いに山を背負って細長い街がある。
私の田舎はごく小さな町なのに道路のはす向かいに2軒の書店があった。1軒の傍らがキリスト教会で、2軒の書店は一家を挙げて熱心な信者だった。私も子供の頃は日曜学校に通い、クリスマスには東方の3博士の劇をやったりもした。街中に下宿していた牧師さんの家に遊びに行ったこともある。自転車にエンジンを付けた文字通りの原付自転車でバタバタと走り回る牧師さんだった。実に温和な方だったが、ある時献金をする際籠に投げ入れる真似をして、あとで両手を掴まれて厳しく叱責(というか、悲しみを訴えられたという方が正確だろう)されたことがあった。以来人生には決してふざけてはならない場面があるのだと肝に銘じた。
「秩父谷(やつ)は貧しいがゆえに、他の比較的豊かな農村よりも、早く商品経済の枠組みに組み込まれている部分があった。そして、それは幕末開港とともに、ドラスティックな形で、商品経済の荒波に洗われることになるのだ」「『横浜をする人』と名づけられた生糸仲買商」(井出孫六「峠の廃道-秩父困民党紀行」(平凡社ライブラリー))。つまり、私の田舎は関東南部養蚕地帯の末端だったのだろう、それが教会や信徒である2軒の書店一家に現れていたのではないか。小学校時代夏休み前に居住区ごとの「部落会」が開かれ、「ドドメ(桑の実)を取って食べないこと」など注意事項を申し合わせていた。何のことはない口の周りは赤紫色に染まってバレバレになるのだが。
改めて色川さんの業績を思い起こそうと取り出した「明治の文化」(岩波日本歴史叢書)の奥付に「1975年9月19日読了」と記してあるから、46年ぶりの再読ということになる。「Ⅲ〝放浪の求道者〟」は五日市憲法を起草した千葉卓三郎(昂然と「自由県下不羈郡浩然ノ気村」の住民「ジャパン国法学大博士」タクロン・チーバーを自称したことがある)の評伝と五日市憲法の読み解きにあてられている。
千葉は宮城県白幡村に一介の農民として生まれた。幕藩時代は仙台藩直臣の領地で苛斂誅求甚だしく、詩人安井息軒は「粟尽き銭(ぜに)徴(ちょう)され 銭尽きて遁(のが)る 飢鴉(きあ)壑(たに)に噪(さわ)いで 骨(ほね)縦横(じゅうおう)たり」と哭した。12歳の時屈指の蘭学者大槻玄沢の子、開国論者大槻磐渓の門下となる。17歳で戊辰戦争に従軍、白河口で2度の戦闘に参加し敗走「賊軍」の汚名を着、密かに故郷に潜入する。明治元年松島で石川桜所に就いて医学を学ぶが桜所が将軍補佐の罪で投獄されたため気仙沼の鍋島一郎の下で国学を学んだ後、浄土真宗の僧に就いたがすぐに去り、ロシアの主教ニコライの声望を聞き上京、開設したばかりのニコライの神学校で約4年間を過ごす。明治8年何故か当時最も尖鋭な反キリスト教の書「弁妄」を著したかの安井息軒に入門する。しかし息軒先生は間もなく病死、1876年今度はフランス・カトリックの宣教師ウィグルスに就く、この頃師は八王子付近を布教して歩いたというから千葉も多摩地方と関わりを持ったようだ。その後プロテスタンティズムの中でも最も社会活動に熱心であり、自由民権運動や平和運動、社会運動に参加する人物を輩出したメソジスト派の牧師マクレーに就いたりもして、五日市勧能学校(新学制下の小学校)に赴任し定住する。ここに自由民権家千葉卓三郎が誕生する。こうした目まぐるしい思想遍歴は多くの明治の青年に共通している。放浪の果て士族の乱、西南戦争に散っていった者もいる。「明治的波瀾の軌跡」と色川さんは表現している。
当時の校長は千葉の郷里に近い名振浜で永沼塾の塾長をやっていた永沼織之丞、戊辰の役で勇戦し新政府に処罰されて謹慎していたところ、同じ反薩長の草莽の志士武州の名家砂川源吾右衛門に招かれたのだった。この頃武州一帯、五日市地方には自由民権運動が急速に拡がっていた。「五日市学芸講談会」が結成され毎月3回学術演説会を開催、切磋琢磨の中で自由民権家として成長していく。千葉は書簡の中で「広く国家今日ノ身心耳目トナリ」「憲法斯民(しみん)ニ於ケルノ便否ヲ弁ジ」人民の「権理…公正…自由…栄福ヲ全備ナラシメザルベカラズ」と決意を語っている。運動は決して若者中心ではなかった。三多摩では「30~40代の壮年層が指揮をとり20代の青年層は活動家として奔走しているが、どちらも家長(戸主)かその嫡男が多く、地域に責任を持った者が高い比率をしめしている」彼らとの熱心な議論(講談会のテーマは「死刑廃止スベキカ」「人民武器ノ携帯ヲ許スノ利害」「条約締約権ヲ君主ニ専任スルノ利害」果ては「甲男アリ有夫ノ婦乙女ト道路ニ於テ接吻セリ其処分如何」(!?)というものまで実に多岐にわたっているが、憲法関係の論題が一番多い)と資料蒐集などの援助のもとに千葉は憲法草案を書き上げたのだ。それは決して外国の憲法の引き写しではなかった。
「現存している30余種の民間憲法草案の中でも、土佐立志社の植木枝盛の草案につぐ詳細な規定(旧大日本帝国憲法の約3倍、現日本国憲法の約2倍弱の条文204条)と、民主的な内容をもつものだった」、「国民ノ権理」「民撰議院ノ権理」「国会ノ職権」の規定に力を注ぎ、「司法権」に多くの条文を割いているのは基本的人権の保障を念入りに規定するため。植木枝盛草案にある明確な人民主権、一院制、抵抗権の承認などに比べれば微温的、妥協的かもしれないが、当時実現可能なリアルな憲法構想という点で「大多数の民権家の願望を集約した最大公約数的なもの」と色川さんは評価している。従ってこれは千葉の思想をそのまま盛ったものではない。当時の民権派に一般的であった「立憲君主制」を取り入れているが、別の覚書では「国王ハ死ス国民ハ決シテ死セス」と天皇主権原理を否定している。
1881年、小学校教員の政治活動を禁止した神奈川県令布達「小学校教員心得」に抗議してか、千葉は職を辞し狭山村で運動を続けていたが、14年の政変を機に自由民権運動が最高潮に達した時、発足したばかりの自由党の「規約」と「自由党会員名簿」を取り寄せている。折から永沼織之丞が校長を辞任したことから第2代校長にと懇請され、就任してリベラルな学校運営を行った。町長や学務委員を自由党員が占めるという環境の中で存分に力を振るえただろう。しかし肺結核を患い1883年、わずか31歳5カ月の生涯を終えた。
ツイッターで森まゆみさんが書いている「明治維新というのは自民党の源流のような人々が起こした暴力革命ではないのかしら。99代の首相のうち、8人が山口県出身-略-わたしは女性首相より、沖縄出身の首相が見たい」と。千葉も永沼も奥羽越列藩同盟で闘った。敗れた会津藩の嘗めさせられた辛酸については、祖母、母、姉妹が自刃した柴五郎の遺書「ある明治人の記録」(中公新書)に詳しい。西郷隆盛の庄内藩に対する扱いは寛大で、ために庄内藩士で西郷を敬慕する者が多く、「西郷南洲遺訓」は彼らの手で編まれた。靖国神社の前身招魂社は戊辰戦争の官軍のみの戦死者を祭るために作られた。西南戦争の西郷軍側の死者も祭られていない。
大山早苗(「子どもと教科書全国ネット21」)
俵さんから「横浜市の教科書採択どうでしたか?」と、2020年8月3日の夕方、ケータイにメールがありました。「横浜市の採択は明日です。夕方に結果が出ますから、またメールしますね」と返信。4日午後5時、「横浜市採択結果、歴史教科書は帝国書院4、育鵬社2、公民教科書は、東京書籍5、育鵬社1、いずれも、育鵬社不採択です」とメールしました。俵さんから届いた「育鵬社不採択。よかった!」これが最後になるとは。
重篤な病と闘い続けていた昨年夏、気がかりだった横浜市の採択結果を病院のベットから尋ねてきたのです。2021年6月7日、ついに80歳の生涯を閉じられました。
ちょび鬚がトレードマークで、ちょっと怖そうな顔だけど、笑った顔は愛嬌がありました。阪神タイガーズと焼酎をこよなく愛し、お酒を飲んだ時、ときどき出てくるのが子どもの頃(福岡県筑穂町出身)のお話でした。空襲など戦争の記憶がわずかながらにある「戦中派」の俵さんは、家は農家だったけれど、米のほとんどは供出でとられ、食べるものはサツマイモや野菜はまだよい方で、とても食べられないような代用食など、子どもの頃は毎日空腹を抱えていたそうです。筑豊が舞台の『青春の門』(五木寛之)の主人公とほぼ同世代で隣町、自分の少年時代と重なる情景を思い描きながら『青春の門』を読んだと聞かされた方も多いと思います。
中学生の時、農薬の害でお父さんが他界され、働きながら定時制高校に通いました。ここで得た友人や学んだことは、貴重な財産になり、大学に進学したいという思いがだんだん強くなったと言います。家からは一切金銭的援助をしてもらえないことを承知で、自分が飼っていた牛1頭を売って入学金にあて上京。東京なら夜の仕事もあるだろうと考え、大学は昼間部を選んだと言っていました。
大学に入学したのが60年安保の年ですから、その激動のなかで多くの人と出会い、自分の生き方や将来の展望を考えたのではないでしょうか。
私が俵さんと初めてお会いしたのは、沖縄でした。1988年2月、家永教科書裁判第3次訴訟・沖縄出張法廷の時でした。全国各地から沖縄地裁で行われる出張法廷を傍聴するため集まりました。
俵さんは人生の転機は、家永教科書裁判との出会いだったと語っています。「教科書検定は表現や学問の自由に反する」という家永三郎さんの訴えに突き動かされたと言います。教科書会社に就職した翌年(1965年)に第1次訴訟を提起され、その年の10月「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会」(「全国連」)が結成され、その直前に出版労働者による支援組織が結成されています。「全国連」の運動を支える団体の1つに、出版労働者組合(「出版労連」)がありました。俵さんは、88年から「出版労連」の教科書対策部として、「全国連」の常任委員に就任し、本格的に教科書問題と関わるようになりました。
92年に出版した山住正巳さんとの共著『小学校教科書を読む』(岩波ブックレット)を従え、全国各地からの依頼によって、講演してまわりました。私は97年の解散まで「全国連」で働いていましたので、俵さんが教科書の営業マンとして学校を回りながら、家永教科書裁判支援や教科書問題の「営業」もしていたのを知っています。忙しい合間を縫って、『子どもたちはねらわれている――教科書はどう変えられたか』(学習の友社)など、著書をたくさん世に送り出されています。
自民党「明るい日本・国会議員連盟」と新進党「正しい歴史を伝える国会議員連盟」を母体とする「憲法調査委員会設置推進議員連盟」の会員数は375人に達したと報じられた97年6月には、『ドキュメント・「慰安婦」問題と教科書攻撃』を出版されました。この著書は、日本ジャーナリスト会議(JCJ)が選定する97年度JCJ賞・奨励賞を受賞されました。
家永教科書裁判32年の成果と運動を引き継ぐ「子どもと教科書全国ネット21」が98年結成され、教科書会社の仕事をしながら、事務局長に就きました。そして、定年を2年前にして会社を辞め、事務局長に専念することにしたのです。「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、中学校教科書から「従軍慰安婦」の記述を削除せよ!という猛攻撃が行われていました。それへの危機感からでした。
「教科書裁判をはじめとした活動、国内外の力によって、日本の歴史教科書は、80年代半ばから相当に改善されてきました。『つくる会』などの運動は、歴史を逆転させて、そうした教科書内容の改善を一挙に取り戻そうとするものです。そのような教科書が学校現場で使われるようになったら、家永教科書裁判の32年の運動が否定されることになるのではないかという想いを強くしました」と、2000年俵さんが自身の新しい門出を祝う会で述べています。
事務局長であった約20年間のなかで、教科書問題の根元にある「日本会議」など右翼団体の実態の解明にこだわり、衆議院・参議院の議員はもとより、県議会議員、区議会議員、市議会議員の誰が「日本会議」と関係しているのかを調べ上げました。俵さんのおかげで、私の住んでいる府中市の市長や市議会議員数人が「日本会議」と関係がある(応援又は推薦)ことが分かり、集会や要請を行い、動きを封じ込めることができました。
また、「つくる会」教科書が登場して、日本・中国・韓国三国の歴史認識と平和構築の活動交流を具体化しました。「歴史認識と東アジアの平和」フォーラムでは、日中韓共同歴史研究日本委員会の発起人の1人になり、第1回が2002年に開催されて以来18回続いています。民間における日中韓三国の活動に大きな影響を及ぼし、近現代史の共通教材「未来をひらく歴史」を三国で同時出版し、東アジア三国の歴史認識の「共有」を実現するため奔走しました。
「東アジアの次世代が語り合わないと、教科書問題は越えられない」と、青少年歴史体験キャンプも並行して進められ、これらの活動を通じて、三国の研究者・教育者・市民とのゆるぎない信頼関係を築いてきました。
家永教科書裁判支援運動には、教師や市民がたくさんいました。その運動や経験を引き継ぎ、いろいろな団体と意見の違いを超えて「大きな共同」をつくることにこだわってきたと思います。「ネット21」の名称を決める時も、「教科書」だけではダメです。誰のための教科書ですか?「子ども」を入れましょうと、みんなで喧々諤々議論をしました。結局、「子どもと教科書全国ネット21」に決まりました。教科書問題だけではこのように広がらなかったと思います。
「日の丸・君が代」が「国旗・国歌」にされ、作者不明の読本「心のノート」が小・中学生に配られる、教育基本法が改悪される、道徳教科書の登場と「特別の教科」として道徳が教科化される、少年法の改悪などが起こり、子どもや教育に対する総攻撃と安倍晋三首相の登場によって、それに対抗する「大きな共同」がつくられていきました。数回行われた「日比谷野外音楽堂」での大集会、2006年国会前「ヒューマンチェーン」など、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の皆さんとの出会いによって、団体の共同と同時に、それをつなぐ市民一人ひとりが連帯することの大切さをより強く意識し、私が言うのも僭越ですが、俵さん自身も変わっていったと思います。
それで、いろいろな人とのつながりをつくることを大事にし、お酒もたしなみながら誰とでも会話され、何かを押し付けるのではなく、相手の話も聞きながら人間関係をつくってきたと思います。それを具体化する意味で「総がかり行動実行委員会」の活動にも深く関わって来られたのだと思います。も大学の講師として教科書問題の講座を和光大学と立正大学で担当し、そこで学生たちに講義をされた内容がベースになって、著作『戦後教科書運動史』(平凡社新書)が昨年末に発行されました。後書きには、教科書運動に「人生を捧げた」とありました。できあがった本を病院のベッドで手にできたことは幸いなことだったと思います。
俵さんの「思い出」はつきませんが、俵さんが築き遺したものを引き継いでいくことが、私たちの務めの一つであると改めて感じているところです。
事務局 菱山南帆子
8月6日、広島に原爆が投下された76年目の夜、事件は起きました。
私はその日、用事が終わって携帯を見た時にLINEで小田急線で男が刃物で乗客を刺して逃走していると情報がきました。帰宅するのに新宿も通るし、犯人がまだ捕まってないので気を付けながら帰るねと一緒にいた仲間に伝えて帰宅したのですが、次の日捕まった男の供述を知って恐怖に慄きました。
「幸せそうな女性なら誰でもよかった」「女性に恨みがあった」もし、小田急線ではなかったら、時間がずれていたら、刺されたのは私だったかもしれない。そう思いました。
だいたい幸せそうな女って何でしょうか。私たち女は子どもの頃から「女の子はニコニコしていなさい」「女は愛嬌」などと言われて育ちました。逆に男性が常にニコニしてたらちょっと変だなって感じませんか?いつもニコニコして、かわいい服を着て・・・常に選ばれる側に立たされている私たち。それなのに、かわいい服を着て笑顔だったら刺されるって一体どんな国なんだと怒り心頭でした。
ちょうどその日、#KuTooの発信者の石川優実さんとお昼に会う約束をしていたので、朝から私たちはメールをしあいながらこの事件のことについて話しました。先月号で紹介した「ぜんぶ運命だったんかい」の著者、笛美さんが「幸せそうという理由で私たちを殺すな」という発信を始めたので私たちも同じく発信しました。
そうするとなんと私のツイッターを通じて犯行に使われた同種類の包丁が私の顔写真の横に二丁並べられた写真が送られてきました。「よく切れますよ」というコメント付きで。そばにいた石川さんともう一人の仲間とでその写真を見て大激怒。そして私たちは「これは何かしなければならない」という話し合いを始めました。なぜなら「女というだけで」起きる事件は今回に始まったことではなかったからです。
まず私たちは誰が呼びかけたかわからないという匿名スタイルで街頭行動を行うことを決めました。そして、場所は新宿の小田急百貨店の前にすること。スピーチは誰でもできるようなスタイルにすること。怖がって来れない方のためにもツイッターでも賛同行動ができるようツイッターデモも同時に行う事。安心して参加できるための撮影禁止エリアを設けること。とにかく何かしなければ!という思いでした。匿名で呼びかけた理由は先述したようにバッシングがひどかったからでした。
すぐにその趣旨をLINEで仲間たちに連絡すると、ツイッターの告知用アカウントを作成するよ!プラカードのデザイン作るよ!セブンイレブンで印刷できるような設定するよ!とあっという間に当日まで誰が動いているか全く見せることなく様々な方が協力してくれ、女の連帯は液状化のように広まりました。
ネットでは「主催者は誰だ」「道路使用許可は取っているのか」「コロナ禍なのに人を集めるな」「男性もケガしたじゃないか」「死者が出ていないのだからフェミサイドではない」などといった批判が噴出しました。その発信をしている方の多くは自民党や維新、N国、日本第一党を支持している方たちでした。
しかし、悲しいことに普段反戦平和を訴えている仲間の中からも私たちの行動に批判的な発信も見受けられました。例えば、「なぜ女性の運動は横文字を使いたがる(フェミサイド・ミソジニー・MeTooなど)」「反権力たるものが警察発表を鵜呑みにするのか」「小田急電鉄も被害者だから運動の仕方を考えろ」といった主張でした。「男も納得するような運動をしろ」というスタンスの発言が多く、高田健さんのSNSにも同様の書き込みを見て日本の女性差別の根深さに肩を落としました。また、わざわざ私に「女はバカも無知もモテにつながるけれど男は違う。男はつらい差別社会の中で生きているのだ。菱山さんの主張にはがっかりです」というようなメールをわざわざ送ってくる活動家の方もいました。
性差別撤廃・女性解放運動に横文字が多用されるのは、ぴたりとあてはまる言葉が日本の運動の中で少ないからです。運動の広がりの中から運動の言葉が生まれるのです。その広まりを今もなお妨害しておいて、「こんな言葉を使うな」「こんな運動をしろ」と言ってくるのです。何故、女性を狙った事件に声を挙げたらこんなに包丁の写真を送られたり、仲間だと思っていた人たちにこのようなことを言われるのでしょうか。
BLMや、やまゆり園事件の時、そのような声が上がったでしょうか。小田急フェミサイドが起きた時女性は皆、当事者になりました。しかし男性はどうでしょうか。そういう私も当事者意識が欠けていることがありました。やまゆり園事件が起きた時、障がい者施設で働く私は戦慄し、いつ模倣犯が来てもみんなを守れるように防衛シュミレーションをしていました。しかし、施設から一歩外に出れば私は当事者から無意識のうちに外れていました。施設に通う方たちは施設から出ても怖い思いをして暮らしていたのだと、小田急フェミサイドを通じて初めて気づきました。
当事者意識の欠落が特に女性差別のこととなると大きいのは、きっと日本の社会が市民運動や労働組合も含めてジェンダー感覚が更新されないままになってきたからなのだと思います。その証拠にNHKではすぐに「幸せそうな女」が「幸せそうな人」に報道が変わったり、差別が透明化されていくのを感じました。
さて、思い返してみれば、フェミサイドはこれまでもたくさんありました。今年の6月には立川市の風俗店に勤務していた女性が客の男にめった刺しにされて殺されました。犯行動機は「風俗嬢は少子高齢化に拍車をかけている」という理由でした。
ネットでは「風俗で働いている人は自己責任だから何されても仕方ない」といった言葉があふれ、実際に働いている女性たちは翌日からお客さんから刃物を取り出すふりをされたり、過剰なサービスを求められ、断ると「俺を怒らすと立川みたいになるぞ」と脅されたといった被害のSOSの悲痛な叫びがツイッターで発信されていました。
やまゆり園事件も女性棟から刺しに行き、池田小事件も亡くなった8人のお子さんのうち7人が女の子でした。あれはフェミサイドだった。そんな事件が考えれば考えるほど今も溢れています。
新宿で一時期問題となった駅構内で女性だけを狙ってぶつかってくる通称「ぶつかり男」。私も何度かぶつかられました。被害に遭ってもとっさに声を出せない人がほとんどだと思います。抗議して逆上されたら力ではかなわない、そんな一瞬の迷いが私たちを長年黙らせてきました。
以前、23時過ぎに超満員の電車に妊婦さんが乗車してきたことがありました。あからさまに迷惑そうな顔をする男性たち。しかし女性たちは声を掛けあうわけでもなく自然とその妊婦さんのほうに寄って背中で守りあう円陣がゆるく組まれました。私もその中に加わりました。座席で爆睡していた若い女の子が目を覚ました時に目の前にマタニティーマークを見て「すみません!気づかなくて」と席を立ちました。ホッとしたのも束の間、空いた席に近くにいたおじさんがシレっとした顔でその席に座ったのです(ちなみにそのおじさんは産経新聞を持っていた!)。
一瞬「えっ??」となった雰囲気をぶち壊したのはその隣に座っている年配の女性でした。
そのおじさんの肩を掴んで「ちょっと!あんたのために譲ったんじゃないわよ!」と言い放ったのです。
今考えると周りの女性たちの助け合いの雰囲気があったから痛烈な一言が言いやすい空気があったのかなと思いますが、それでもとっさに女たちが団結してこのような行動がとれたことは、その時はまだ言葉を知らなかったけれども本能的なシスターフッドを感じた瞬間でした。
今、小田急フェミサイドに抗議する行動を行ってから未だ、ネットでは「死ね」「殺されろ」といったひどい言葉を投げかけられ、市民連絡会の事務所の電話番号や住所を攻撃対象として広げられ、嫌がらせの電話や無言電話が来ます。ネットでの誹謗中傷なんて気にするなと言われますが、そうやって放置してきた結果、ネットの意見がリアルに結びついてしまって様々な事件が後を絶たず、一方で無関心は広まり続けているのではないかと思います。
電車内で体験した直接的なシスターフッドのように何かあった時にさっと助け合える、繋がれるそんな空気を作っていきたいです。
リアルパワーもオンラインパワーも両方私たちは身に着けていかなければなりません。ああ、忙しい!
先日、伊藤詩織さんに対して性暴力を行い、逮捕状まで出ていた山口敬之氏に対し、土壇場になって逮捕を取り消し、もみ消した中村格氏が警察庁長官に就任するというニュースが出ました。そのことに対して私が抗議の声を上げたところ、山口氏に名指しで前川喜平さんと石川優実さん、そして私を名誉棄損で訴えると言い始めました。
逮捕を取り消してくれた中村氏が警察庁長官に就任という事で強気になっているのでしょう。
そのような黙らせようとする圧力には屈しない。大きな運動で跳ね返すまでです。
かかってこい!
お話:根本敬さん(上智大学総合グローバル学部教授)
(編集部註)8月21日の講座で根本敬さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
私の専門はビルマの近現代史です。私は「ミャンマー」という国名よりも日本語で定着した「ビルマ」を使う方が好きなのでよく使うんですけれども、いまや大学生は誰もわかってくれないのでミャンマーを使っています。またメディアも「週刊金曜日」を除けば全部ミャンマーを使っていますね。私としては大妥協の末、今回のクーデター以降は「ミャンマー」を使っています。「ミャンマー」「ビルマ」は同じ国ですけれども、軍がずっと政権を握り続けてきてシビリアン・コントロールを拒否しています。そのミャンマーで3度目の軍のクーデターが起きて、いまや非常に危機は深まっている。コロナ禍で悪化しています。発表では12000人の死亡者ですけれども、実際はその10倍もコロナで亡くなっていると考えられています。
先ず、現在のミャンマー憲法の特徴からお話しします。これは旧軍政期、1988年から2011年まで23年間続いたものですが、その間15年をかけて軍がつくった憲法です。2008年に公布されていますので「2008年憲法」とミャンマーでは言っています。普通、軍事クーデターが起きますと憲法は捨てますね。しかし軍がつくった憲法ですから、クーデター後もミャンマー国軍は現在の憲法を破棄していません。逆に「尊重する」と何度も強調しています。ここが不思議なんですけれども、このミャンマーの憲法の特徴をお話すれば、なぜ軍がこの憲法を守ろうとしているかがおわかりになると思います。文民支配すなわちシビリアン・コントロールと軍人支配、ミリタリー・コントロールの役割分担的な特徴を持つ憲法です。その中で国軍がどういう権限を憲法によって認められているのか、そこから見ていきましょう。
「行政」そして「立法」、そのほかの「特権」と分けてみました。まず行政、これは政府です。国防省、内務省、国境省という3つの役所は全部軍の支配の下にあります。国軍の総司令官、現在はミンアウンフラインという総司令官ですが、その人の権限下にある。この3つの省の大臣は国軍が指名できます。逆に言えばシビリアン・コントロール側の大統領やアウンサンスーチー政権期には国家顧問という役職もあったけれども、それらはこの3つの役所には口出しできない。大臣も自分で指名することができないんですね。
国防省は読んで字の如く軍そのものです。内務省というのは、日本も第2次世界大戦までは内務省がありましたけれども、いろいろな権限を持っている巨大な役所で、とくに注意したいのは警察がこの内務省の下にあることです。ですから軍が警察も握っている。いわゆる情報、インテリジェンスも握っていますし警察権力も握っています。それから国境省、これは日本ではなじみのない名前ですけれども、ミャンマーは、お隣がタイですね。それからラオス、中国、インド、バングラディシュの順で5つの国と国境を陸上で接しています。陸上の国境というのは、世界中どの国もそうですけれども、とても治安維持に神経に使うことが多いですね。とりわけミャンマーの場合はこの5つの国との国境管理が微妙です。そこを軍が握る。この国境の治安に関しては、シビリアンの政府ではなく軍が握るんですね。次に大統領の他に副大統領が2人いますが、その副大統領を選出するときに必ず1人は軍人と決まっています。ですから軍は仮に大統領を出すことに失敗しても副大統領の1人は軍人を出すことができます。
一番肝心の大統領ですが、シビリアン・コントロール側の総元締めの大統領は、大統領になれるかどうかの資格条項というものが憲法に入っていまして、アウンサンスーチー氏を絶対に大統領にさせないための条項をつくっています。憲法の中に大統領資格条項があって、「家族に外国籍の人間がいる者は正副いずれの大統領にもなれない」ということです。アウンサンスーチー氏は生粋のビルマ人ですけれども、亡くなられた配偶者の男性がイギリス人でした。マイケル・アリスさんという世界的に有名なイギリス人のチベット研究者、人類学者でした。そして息子さんが2人います。もう2人とも40歳を超えています。もともとはビルマ・ミャンマー国籍を持っていたけれども、アウンサンスーチー氏が民主化運動の指導者になって以降、国軍が嫌がらせをして息子さん2人のミャンマー国籍を奪ってしまった。だから息子さん2人はイギリス国籍です。そうなると「死んだ旦那と息子2人はイギリス人だ」ということで、アウンサンスーチー氏には大統領になる資格がない。そういうことになるわけです。この大統領資格条項によって、大統領からアウンサンスーチー氏を除外しています。
さらに国家国防治安評議会というものがありまして、これは内閣よりも権限を持っていると憲法では規定されています。名前から想像がつくと思いますが、国家の安全保障に関する重要な事柄を決める評議会です。11人の定数です。しかし11人のうちの6人、過半数は軍人です。ですからこれを開催して、もし国家の安全保障に関する議論がまとまらない場合、多数決になるとシビリアンが6対5で負ける。そういう安全保障関係も、軍の意向が通るような仕組みになっています。
次に立法府、国会にあたるものを見てみましょう。上下両院の2院制です。それぞれ議員の定数の25%は軍人です。これはミャンマー国軍の総司令官が、軍人議員を一方的に好きなように指名できます。そして当日の入れ替えも自由です。日本の国会審議でよくありますね。国会の委員会審議で与党の何人かが造反を起こすかもしれないという場合に、当日委員を入れ替えてしまうという、そういうことができるわけです。さらに25%が軍人議員ということは、選挙で選ぶ議員があまり軍の意向を聞くような議員が当選しなくても、軍人議員と組めば過半数が取りやすい。残り75%のうちの25%を選挙で軍系の政党が取ってしまえば、軍の言うことを聞く国会議員が過半数になる。そうすると、軍人の大統領を選出することが可能になるわけです。したがって軍人議員たちが国軍系の政党と組めば、過半数を確保しやすいという計算、読みになります。
このほかの特権は、実は大事な点ですけれども「大統領が非常事態を宣言すれば全権を国軍の総司令官に委譲できる」という規定があります。今回のクーデターは、このロジックを悪用したんですね。2016年にアウンサンスーチー政権といわれるものがスタートしました。アウンサンスーチー氏は大統領にはなれませんので新たに国家顧問という役職をつくって、大統領の上に立つポストに就きました。これはこれで普通の民主主義国家ではありえない話ですけれども、軍とやり合っていくためにはやむを得ない措置だった。そのアウンサンスーチー国家顧問は自分の信頼できる、自分の政党NLDの議員であったウィンミンという人を大統領に据えました。与党の大統領、すなわちアウンサンスーチーの意向を聞く大統領ですから、その大統領が非常事態を宣言するはずがないんですね。
では、どうして今回このロジックが悪用されたかと言いますと、まず深夜、2月1日未明に大統領を逮捕してしまって動けなくする。大統領が動けないとなると、自動的に副大統領に権限が移ります。2人副大統領がいますけれども、第1副大統領は軍人です。それで軍人の副大統領に大統領の権限がまず移ったとして、その人が非常事態を宣言し、国軍の総司令官が全権を譲ってもらう。そういうかたちでこのクーデターは起きました。ですから軍に言わせると、「これは憲法を守っている、非常事態宣言が出されたので軍の総司令官が全権を握ったのである、軍事クーデターでは断じてない」と言います。しかし、大統領を2月1日未明に逮捕しているわけですから、これは非常に不当な逮捕です。「昨年11月に行われた総選挙は不正であった、その不正であることを調べようとしないあなたは大統領として失格だ」という、その理由だけで軍人がシビリアンの大統領を捕まえたわけですから、その段階で軍事クーデターです。ただ軍はこの非常事態宣言に関する憲法の規定を盾にして「今回はクーデターではない、憲法を守るために、憲法の条項に従って政権が国軍の総司令官に移ったのである」と今日まで言い張っています。
「本年2月1日のクーデターの目的」は非常に明らかです。とにかくアウンサンスーチー氏を政界から追放したい。それから彼女が率いる国民民衆連盟(NLD)という政党を解党し、解散させたい。そして両者抜きの総選挙をやり直す。2年後に総選挙をやると言っていますけれども、この両者抜きの総選挙になるわけです。そうなりますと人気一番の国民民主連盟、人気一番のアウンサンスーチーのいない選挙ですから国民は匙を投げて投票に行かないか、もしくはどうでもいい投票をする。その結果、国軍系の議員が過半数を占める議会が「回復」される。アウンサンスーチー氏が国家顧問になる前の体制、すなわちNLDが軍の妨害によって十分に議席を取ることができなかった時期があった、その状況に戻すわけです。そして国軍出身の大統領を選ぶ。現在の総司令官ミンアウンフラインが大統領になるだろうと多くの人が予想しています。
では、一体なぜ軍は自分達に有利な憲法がありながらこのようなクーデターを行ったのか。基本的な背景としてはシビリアン・コントロールを拒絶しているということです。軍はこれが嫌なんです。自分たちは自分たちで動きたい。選挙で選ばれた政府にあれこれ言われるのは嫌だ。憲法では十分に軍は独自の権限を持っているわけです。しかしアウンサンスーチー氏と国民民主連盟NLDの国民的人気が非常に高いので、段々軍が劣勢になっていく。もしかしたら軍の一部の権限がシビリアン・コントロールの中に取り込まれてしまうかもしれないという恐れがあった。
1948年にミャンマーはイギリスから独立しています。議会制民主主義に基づく憲法で14年間民政が続いて、そのときは軍もシビリアン・コントロールの下にありました。独立時の憲法は議会制民主義体制に基づいています。そして段階的に社会主義経済化を進めるという、当時のウー・ヌ首相の方針です。憲法そのものは決して社会主義的憲法ではないけれども、議会で多数派を構成する中で国民が納得するかたちで段階的に経済を社会主義化していくという方針をとりました。当時ミャンマー国軍は議会制民主義の憲法と、ウー・ヌ政権の社会主義経済化推進を擁護していました。その背景は日本占領期にあります。
1942年から1945年、日本では太平洋戦争と言いますけれども正確にはアジア・太平洋戦争ですね。太平洋戦争といってしまうとアメリカとの戦いになってしまいますが、当然中国とも戦っていましたし東南アジアに侵略したわけですから、「アジア・太平洋戦争」というのが正しいんです。そのアジア・太平洋戦争のときに一番西の外れのビルマにまで30万人以上の日本軍が侵入して占領し、軍政を敷きます。途中で中途半端な独立を与えますが、基本的に日本軍が3年半ビルマを占領しました。そのときに初めは日本軍に協力したビルマ人のナショナリストたちが、最後の頃は日本のファシズム的な体制や性格に嫌気がさして抗日闘争を展開します。武器を取って日本軍と戦いました。アウンサンスーチー氏のお父さんのアウンサン将軍は、この抗日闘争のリーダーだったわけです。だからいまでもカリスマ性を持っています。
この抗日闘争には、軍人だけではなくナショナリストいわゆる政治家たちもいっぱい入っていました。独立後、抗日闘争を展開した「反ファシスト人民自由連盟」という組織が政権を取ります。このときは、この政権と軍人たちは、日本軍と戦ったという共通の経験があったので仲間だった。しかしだんだん両者の間に亀裂が入ります。まず独立と同時に内戦が始まります。内戦となると、独立してすぐのミャンマー国軍が前線に行って、中央政府に反旗を翻す勢力と戦わざるを得ない。したがって血を流すわけです。一方で国防予算を増やしてくれ、これはどの国の軍も同じことを言うんでしょうけれども、とりわけミャンマー国軍は内戦を克服するためには国防予算を増やしてくれと言うわけです。これがなかなかシビリアン・コントロールの議会では通らない。もちろん増えるけれども、軍が要求するほどの額はもらえない。
一方で、反ファシスト人民自由連盟という与党がばらばらになってしまいます。「共通の敵・日本」は、もういません。新しいビルマをどうつくるか。「社会主義だ」、そこまではいいんですが、「どういう社会主義か」というところでばらばらになってしまいます。党利党略に走る。次の選挙で当選したいがために政治家はそういう行動を取るわけです。それを見たミャンマー国軍の人たちが、議会制民主義はビルマには適合しないのではないか。ビルマは議会をつくってしまうと混乱するのではないか。そういうことで、だんだん自分たちで政権を運営しようと考えるようになります。
その第1回目が1958年に棚ぼたでやってきました。議会が大混乱して収拾がつかない。そこでウー・ヌ首相が国軍のトップのネ・ウィンという人に、2年ほど選挙管理内閣を軍でやってくれないかといった。これにはウー・ヌが頼んだという説と、軍が圧力を加えて「われわれに選挙管理内閣をつくらせなかったらクーデターを起こすぞ」と脅したという2つの説があって、どちらも信憑性が高いので何とも言えません。とにかく1958年、独立後まだ10年目に、軍が選挙管理内閣というかたちで政治に入ってしまった。そして半年に1回議会に報告をして、議会の承認を経るという条件付きで、軍が政権を暫定的に掌握した。これが一種の「練習」になって、政治介入への自信が深まっていきます。そして一度民政に戻したけれども、わずか2年後の1962年3月、軍は第1回目のクーデターを起こし、いよいよ議会制民主義を倒してシビリアン・コントロールに別れを告げます。
これ以降、純粋な意味でのシビリアン・コントロールはミャンマーでは復活していません。軍は当時の時代を反映して社会主義を導入します。これはウー・ヌ首相の社会主義とは違います。もともと独立後のビルマは西側陣営にもつかない、東側陣営にもつかないということで、段階的に社会主義を進めていく方向でした。けれども議会もなく、トップダウン式にビルマ独特の社会主義を導入するということで、軍がビルマ社会主義計画党という政党をつくり、軍がつくった政党による一党支配が始まるわけです。「ビルマ式社会主義」、どこが「ビルマ式」なんでしょうか。これは冷戦の時代を思い出してほしいんですけれども、ビルマ式社会主義というのはソ連型でもない、毛沢東の中国型でもない。そもそも共産主義は目指さない。ソ連も中国も実態はともかく、建て前上は共産主義を目指すための社会主義でした。しかしビルマ式社会主義は社会主義が完成段階、歴史の最終発展段階でいい。マルクス主義には基づかない。マルクス主義は間違いとは言わないけれども、ビルマには合わない。ソ連型でもない、毛沢東の中国型でもない、そもそもマルクス主義でもない、そういう社会主義です。共産主義を目指さない社会主義というのが特徴です。
イデオロギーの話ですから実態と建て前の乖離が甚だしかったんですが、実際は国有経済をやってしまった。ソ連型に近いですね。ただ集団農場はつくらないけれども、すべて民営を否定して国営企業、国営工場にして国有経済、流通も国有化します。土地の国有化だけは踏みとどまって農民は自分で土地を持つことはできたけれども、小作制度を廃止したから地主たちは小作を失います。そこだけ聞くと美しい話ですけれども、実際はいろいろと問題があった。したがって経済はうまくいかずに硬直化し、人口増加率と経済成長率が同じくらいの、結局発展しない社会主義国家で、結果的にどんどん貧しくなりました。お隣のタイなどは資本主義、開発主義でばんばん経済成長していく中で、ミャンマーはどんどん貧しくなっていく状況にあります。
ミャンマー国軍のもうひとつの特徴は、「独立以来73年間休むことなく戦い続けてきた」ことです。ある歴史家によると、戦後73年連続で戦っている政府軍は世界広しといえどもミャンマーの軍だけだといいます。外敵が入ってくれば当然「国防」が仕事ですから戦いますが、ミャンマー国軍が戦ってきた相手は外敵が例外的です。例外は1つだけ。1949年の終わりから1950年代半ばにかけて、ミャンマー東北部(シャン州)に入り込んで居座ってしまった蒋介石の軍です。中華民国軍、国府軍、毛沢東に追われた軍です。これが外敵です。これには相当悩まされます。
国連に訴えて、最後は1960年前後にやっと台湾に「お引っ越し」してもらいますけれども散々悩まされました。しかし他の敵、73年間戦ってきている相手はすべてビルマ連邦、ミャンマー連邦内の居住者です。すなわち国民です。
武器を持って戦っている武装勢力を2種類だけ挙げました。ビルマ共産党(2派)、人民義勇軍(PVO)白色派です。いずれもこれは多民族国家ミャンマーの中の多数派を占めるビルマ民族、「バマー」と言われる民族が中心です。もうひとつは少数民族の武装勢力です。カレン民族同盟(KNU)、カチン独立軍(KIA)ほか20以上の少数民族軍事組織、現在も元気に戦っています。このほか少数民族軍事組織が展開する地域において、ミャンマー国軍は住民の殺害、暴行、酷使をしています。一方、武器を持たない非武装の人々も敵にしました。どういう非武装の人々が敵にされたかというと、3回の軍事クーデター、それぞれのときにおける抵抗勢力です。
1回目は1962年3月、ビルマ式社会主義を開始したときのクーデターです。このときに最後まで執拗にクーデターに抵抗したのが、ラングーン大学の学生同盟の左翼系の学生でした。手に負えないと思ったのでしょうか、軍はこの学生同盟の建物を爆破します。数十人の学生が爆殺されます。私は1962年はまだ5歳になる直前ですが、親の仕事の関係でこのときにラングーンにいました。子どもですから全部あとからきいた話ですけれども、母が言うには、このラングーン大学学生同盟の人たちを爆殺した、1962年6月です。そのときは大学の方から爆弾の音や機関銃の音がした。大学から直線距離で2キロくらいのところに家がありましたが、そういう話をずっと後から母を通じて聞きました。その次はビルマ式社会主義が崩壊し軍政が始まった1988年、第2回目のクーデターを行います。民主化運動を封じ込める。ちょうどアウンサンスーチー氏がデビューした民主化運動ですけれども、それを封じ込めて軍政がスタートします。このときも1000人前後の学生と市民を殺害しています。
そして3回目のクーデターが今回です。すでに8月19日現在で1007人の市民が殺害されています。武器を持たない人も国軍の言うことを聞かないとなれば、殺します。こういう国民の抑圧の連続がありましたから感覚がマヒしている。極端な話、殺してもいいということになっている。そういう軍は国民の中に支持基盤をつくってきませんでした。これも不思議な話です。世界的に軍政はいくらでもあり、いまでもあるけれども、軍服から背広に着替えた軍人は、何とか支持基盤をつくろうと努力します。「やっぱり混乱が続いているから軍に政権を担ってもらわないと困るよね」と考える人を何とか産み育てようとします。そこにはバーゲニングも始まり、支持基盤をつくるためにいろいろ「美味しい扱い」もしてあげるわけです。利権構造をつくり「軍を支持すればこういういいことがあるよ」というかたちで、人々が軍政ないしは軍政に似たかたちの政府の支持基盤を構成するような流れに持ってくるんですが、ミャンマー国軍はそういうことをしなかった。
ビルマ式社会主義期は26年間も続いたけれども、その間にいろいろな動員は全部上からの動員ですから人々は積極的に応じているわけではありません。その後の23年間続いた軍政では、いまの軍政権の政党の前身のUSDAという自称民間組織がありました。これは軍の圧力で公務員とその家族全員加入です。当時まだ人口が4000数百万人の時代に、このUSDAの会員数2000万人突破、なんて国営新聞で自慢していましたが、その後その人たちは雲散霧消です。軍政のときだけやむを得ずUSDAに入った。ですから国民による自発的な支持基盤とはとても言えない。
さらに支持基盤をつくらなくても平気なように、軍だけで食べていける経済基盤、経済利権構造をつくりました。すなわち国家予算に頼る必要性を捨てる。国防予算は結構取っているけれども、それを大幅に上回る経済利権を確保しています。国軍系複合企業体という経済利権があります。国防省の国防調達局という国防省の一部局、武器などを買うところです。ここが2つの持ち株会社を持っています。Myanmar Economic Holdings Limited (MEHL) 、Myanmar Economic Corporation (MEC)です。この2つの持ち株会社の下に133社の企業が組み込まれていて莫大な利益があるといわれている。株主配当金があり、その株主配当が国防省国防調達局に入ります。国家予算としての国防費の他に、この2つの持ち株会社から上がる株主配当金が、国防省の武器を買う部局に入る。
さらに数万人、一説には十数万人の国軍の現役と退役の両方の将校個人が株主になっていて、彼らのポケットマネーにもなる。これらの株主配当金は、国家予算の国防費――だいたい1年で日本円に換算して2500億円くらいですが、これを上回っていると言われています。「上回っていると言われている」というのは、公開されていないからです。公開しなくていいんです。そして非課税ですね。やりたい放題なんです。
この2つの持ち株会社の歴史は意外と古く、独立2年後にはその大もとの卵みたいなものができています。1950年の国防協会(DSI)というものです。まだシビリアン・コントロールの頃です。ウー・ヌ首相の政権のもとでシビリアンの言うことを聞いていた軍が、早くも自分たちの利権構造をつくった。なぜかというと当時内戦に苦しんでいて、軍の将兵と家族の生活必需品が十分手に入らない。また国軍の武器調達の収入源も不十分だ。そして議会はなかなか国防費を増やしてくれない。そこで勝手にどんどん「メイド・イン・国軍」の企業がつくられる。これは10年ほどで銀行、保険、海運、貿易、メディアまで擁する一大企業グループに成長します。
ところが自分達でクーデターを起こして、社会主義にしてしまいました。そこで全部国営化します。国営化した社会主義期の経済がガタガタになる。そこで1988年に2回目のクーデターを起こしたあとは、社会主義を捨てて資本主義、市場経済に切り替えます。そうなると国営化した企業を民営に戻します。民営に戻す中、利益がいっぱい上がる「美味しい会社」を選んで、最終的に130以上の会社をこの2つの持ち株会社のどちらかに組み入れました。莫大な利益を出す宝石公社がなぜ民営化されないのか不思議ですけれども、これはこれで軍人が天下っていくポストなので何らかの強力な利権が絡んでいると思います。
この2つの持ち株会社や宝石公社に加えて、さらに天然ガス、森林等の資源開発、これは外資が進めていますが、そこから得られる手数料と称する莫大な収入があります。これも十分には公開されていません。ですからもう国家予算に頼る必要はないし、国民の支持がなくても食べていける。十分な収入がある状況に軍は変わっていったんですね。こうした特徴に加えて、「国際関係の幸運」というものが重なります。以上の要因が複合して、軍にとって国民とは守る対象ではなくなる。力で従わせる対象と化す。従わない国民は武装していようがいまいが「敵」と見なすようになっていったわけです。
ミャンマーの場合、非常に深刻なのは拷問が制度化されていることです。デモをして捕まったり、また家に勝手に入り込んできて連行されたりします。日本であれば、仮に不当逮捕だったとしても警察署につれていかれ、留置所におかれて起訴するかしないか、検察に送るか送らないかがそこで決まる。起訴するのは検察ですから、順番としては留置所から検察、書類送検か本人の送検か、そのあと検察が起訴するかしないかを決める。ミャンマーの場合、政治絡みで捕まった人は多くの場合は尋問センターという軍の施設に送られます。尋問センターという軍の施設が全国に十数カ所あります。「尋問センター」という名前ですけれども、実質は「拷問センター」です。制度化された拷問をしますから、みんな非常に苦しんで「自白」させられます。そして拷問死する人も出てくる。
一方、国軍の将校たちは士官学校出が多いわけで、士官学校の段階で早くも洗脳教育をしています。これは今回のクーデターのあと、国民を弾圧する立場を嫌がって脱走した士官や兵士が3000人くらいいるんですが、その人たちへのインタビューからわかりました。士官学校時代、国民が暴徒と化してデモをしているビデオを見せられて、「こういうのはみんな敵だから撃ち殺していいんだ」という教育を受けています。
次にこのクーデターに不屈の抵抗を続けている国民の話です。「不服従」という言葉はこのクーデターのあと、ひとつのキーワードになりました。CDMと略します。ガンディーなどがイギリスからのインド独立運動のときに採用した「Civil Disobedience Movement」。歴史的にはガンディーにさかのぼるし、もっと言えば19世紀前半のアメリカにまでさかのぼります。アメリカの有名な作家ソローが、自分が住んでいる州の奴隷制に反対するために納税拒否闘争をした。これが近代以降の不服従運動の始まりと言われています。ソローに始まり20世紀のマハトマ・ガンディーに飛び火し、その後ミャンマーのアウンサンスーチー氏に引き継がれた。アウンサンスーチー氏は民主化運動を率いた最初期から「不当な命令と不当な権力には義務として従うな」ということを言っていました。「義務として従わない」、従わなければどんな独裁権力も崩壊する。だから義務として従わない。協力してしまうから独裁権力はもってしまう。なかなかこれはミャンマーの一般市民、国民には拡がらなかったけれども、今回は「そうだね」と考えて不服従運動を長期にわたって展開しているわけです。
では誰が中心でしょうか。それは都市部、中間層のZ世代と呼ばれる人たちです。「ジェネレーションZ」というのはアメリカで生まれた言葉ですけれども、簡単に言えば20代の青年男女の世代です。われわれが「若者」と呼んでいる世代です。そのZ世代はミャンマーの総人口の25%いますから、人口という面ではミャンマーの未来は明るいですね。都市部に住んでいて中間層のZ世代が、この不服従運動の中心を担っています。リーダーはいません。ここが特徴ですね。なぜならばアウンサンスーチー氏は捕まってしまっている。みんなアウンサンスーチー氏を尊敬しているし、感謝の気持ちを持っているけれども、連絡が取れないし今どこにいるかも発表されていない。そうなるとアウンサンスーチーさんの指示を待っていても時間の無駄ですから、自分たちで動こうと、アウンサンスーチー氏が前々から言っていた「義務として不当な権力に従うな」ということをスタートさせたわけです。
都市部・中間層のZ世代は、2011年から始まったミャンマーの民政移管期(初めの5年間は軍人出身の大統領、そのあとがアウンサンスーチー氏だった)において高い水準の教育を受けています。中間層ですから、両親がお金持ちで経済成長の恩恵を受けています。20代、公務員、外資系企業の従業員そして女性が目立ちます。Z世代のミャンマー人の活動家の多くは女性です。SNSを使いこなし情報の受け取りと発信に長け、自分自身で物事を考え、自分の人生設計を立てている。女性が目立つという言い方をあえてしたのは、なぜミャンマーの不服従運動では女性が多いのかということをメディアが聞くんですね。その質問は私にも来ます。日本に住んでいるミャンマーのZ世代の女性で、日本で祖国の不服従運動を支援している方、看護師をされている方ですけれども、その方にこのことを聞いてみたら「日本で初めてこういう言われ方をした」、「自分たち女性が特にがんばっているという意識はまったくない。日本人だけがこういうことを聞いてくる」といいます。「なるほどな」と思いましたね。
ミャンマーの国内にいるあるZ世代の発言をネットで拾ったんですけれども、「国軍は手を出してはいけない世代に手を出し、怒らせた」。Z世代はクーデターによって自分の人生設計を狂わされたわけです。もともと政治的な世代ではありませんでした。日本の若者と同じで特段政治に関心がない。政治の問題はアウンサンスーチーさんにお任せしておけばよい、NLDを選挙のときに支持すればいいんだ、そのくらいにしか思っていない。政治は他人事。それがクーデターで自分事になった。そこでさまざまなアイデアに基づいて、情報収集は上手ですから、不服従のやり方に関する情報を得て自分たちで工夫して、非暴力の多角的な不服従運動を展開していくわけです。
その不服従運動に驚いたのが軍です。武装警察や国軍の部隊を投入し2月後半あたりから徹底的な封じ込めを行うけれども、ますます不服従運動の火に油を注ぐ結果になります。それを追い風にして、捕まらなかったNLDの議員や親NLD系の少数民族政党が組んで、連邦議会に代表者委員会がつくられ、その動きが活発化し、ついには国民統一政府(NUG)と呼ばれる対抗政府をつくります。これが今年の4月16日でした。結成して4ヶ月がたちます。さらに運動は都市部から農村にまで拡がっていきます。このNUGの支持率は高くて、4月後半に日系企業が行ったミャンマー人従業員の意識調査では9割を超える支持率です。逆にクーデターを起こした軍の政党を支持するという人はゼロだった。ここでも話をジェンダーに戻しますが、この日系企業のミャンマー人従業員の意識調査、Z世代の女性の女性が7割を占めます。Z世代が7割を占めるのはわかりますが、なぜ女性が7割を占めるか。このことを日系企業の方に質問したら、「当然ですよ」と言います。「われわれが優秀なミャンマー人を現地で採用しようとすると、まずZ世代、そして女性」という答です。男性はあまり採用できない、能力がないからと言うんですね。したがって意識調査もこのようにZ世代の女性が7割と偏っている。
国軍による封じ込めはどんどん強化されています。死亡、逮捕者など最新の情報があります。死亡(大半が射殺)1007人、逮捕者7355人(未解放5747人)、逮捕状発行1984人(未逮捕)2021年8月19日現在(Assistance Association for Political Prisoners による統計に基づく)。そして拷問が目立つ(拷問死20人以上)、公務員が逮捕されている(15万人以上)。家宅捜索は略奪を伴い、解雇された教員が家で塾を始めるとそれを閉鎖しに来る。住民監視を強化する。住民に扮した秘密諜報員とか官製の自警団-自警団というのは普通は地元の人たちがつくるけれども、上からつくった自警団が展開されています。
そしてコロナが悪化していく中、食料、医療支援が必要なのにそれを妨害する。配布物品を没収しますし、配布する人を捕まえます。例えば、私は今年の4月から5月の1ヶ月、仲間6人と組んでクラウドファンディングをして5千人もの方々から5千万円以上集めました。いまそれをどんどん送って支援していますが、これは本当に気をつけないと、ばれたときに没収されるどころか、配っている人が捕まってしまう。それからコロナの場合は酸素ボンベがとても大事です。これをやっと手に入れた人が取り上げられる。それからCDM・不服従運動をやっている中心は国立病院の医師と看護師です。彼ら彼女らは国立病院では働かない。出勤拒否です。しかし自分の家でプライベートの診療所を開いて、コロナで苦しんでいる人たちを受け入れて診療しています。彼らは民間企業と組んで酸素ボンベを手に入れるけれども、それを軍が奪い取りにやってくる。さらに酸素ボンベをつくっている会社に圧力をかけて、民間人に売るな、軍に売れと言ってくる。ですから現在ミャンマーはクーデター後の混乱に加えてコロナ禍による混乱、二重の混乱に直面し、公式のコロナによる死亡者は12000人ほどですけれども、実際は10万人以上がコロナで亡くなっています。
人々は病院に行かないんですね。軍の政府だから世話になりたくないと、特に国立病院には行かない。行ったところで医師の不服従運動があって、国立病院には医師がいない。したがってプライベートの病院に行くのが精一杯です。そういう中で重症化した場合はさすがに妥協して病院に行きますが、重症化した患者を病院が追い返します。地元の有力者や軍に忠誠を誓った有力者の推薦状がないと、病院が重症患者を受け入れない。そういう状況ですからもう人々は家で治そうとする。私の知り合いは、たくさんミャンマーでコロナになっていますけれども誰一人病院に行っていない。家で治そうとする。治った人はいいけれども、治らなかった人は結局末期に病院に行くけれども、病院から追い返されています。それで亡くなっている。ひどいものです。
国民統一政府というものがつくられ、彼らが目指しているのは「フェデラル民主制」という考えです。「フェデラル」というのは「連邦制」という意味です。アメリカ合衆国にFBIは「Federal Bureau of Investigation」、連邦捜査局、その「連邦」に当たる言葉が「フェデラル」です。ユナイテッドステイツですから、ユニオンとかユナイテッドという言葉を使うのかというと、そうではなくフェデラルです。ミャンマーではビルマ語の連邦制を意味する言葉があるけれども、概念が2つぶつかってきました。英語で言う「the Union」の方は政府や軍が使っている論理です。強い中央政府を土台にして、権限を制限した少数民族の自治権を許してあげますというものです。ですから中央政府と軍に監視される少数民族の州政府です。
一方、ずっと70年近く戦ってきた少数民族の政治組織や軍事組織は、「the Union」はだめで「the Federal」でなければいけない。これはアメリカ合衆国をまさにモデルとし、各州に強い権限を認める。そして各州が集まって民主的な連邦国家をつくる。まさにアメリカ合衆国の概念ですね。NUGは、少数民族政治組織が主張してきた「フェデラル」の方を採用し、それに基づく民主主義ということで「フェデラル民主制」を思想的出発点としています。その結果、少数民族と女性を多く含む閣僚をNUGは任命し、さらに新憲法の基本案を提示しました。副大臣を含め閣僚は30人いますが、少数民族から11人が入っています。このNUGのトップはいまでもアウンサンスーチー国家顧問であり、彼女がかつて任命したウィンミンという大統領の2人がNUGのトップです。2人とも逮捕されていて連絡がつきませんから、それ以外の28人でNUGは運営しています。
NUGがつくった憲法基本案はNLDや親NLD系少数民族との合作ですけれども、歴史的には1990年代までさかのぼります。1988年の民主化運動に参加した人たちがタイの国境に避難し、そこで長く抵抗し続けてきた少数民族の政治組織と組むんですね。彼らと話し合いながら少数民族の意思を尊重した新しいミャンマーの憲法草案というものを何種類もつくります。そういうものがいまでも参考資料としてあり、それを使ってNUGはフェデラル民主制に基づく憲法基本案をつくりました。さらにこのフェデラル民主制は、国軍の解体と新たに連邦軍をつくるというところまで謳っています。国軍を解体し、つくりなおす。もとに戻せばいいのではないんですね。なぜならば国軍がいる限りミャンマーは本当の意味での民主主義国家にはならないし、本当の意味での連邦制国家にならない。国軍を除去しないといけない。もとに戻すだけだったら、また軍は困ったときにクーデターを起こすだろう。それではミャンマーは発展しないと考えて、国軍の解体、つくりなおしを主張し、自分たちで少数民族も構成に参加する新たな連邦軍をつくるといいます。
これは建て前は大変立派ですけれども、現実的にいまの20くらいある少数民族軍事治組織、そこと連帯するとはいっているけれども、なかなかあいまいなんですね。というのは、少数民族軍事組織も一枚岩ではない。NUGと組むといっているのは半分以上いるけれども、距離を置いているグループもあるし、絶対に組まないといっている少数民族軍事組織もあります。それから、数日前のNUGの方針によると、国軍の攻撃から身を守るための国民防衛隊を一層強化する。これはNUG発足後に、人々が非武装でデモや集会をしても殺されるわけですから、身を守るためには武装してもよいということをNUGはいいました。しかしさらにそれを強めて、今度は国軍に対して攻撃を行うというところまで明言しています。これが実行されるかどうかはわかりません。
国連の安保理では中国とロシアの反対で強い声明が出せていません。ただ注意したいのは、あの中国やロシアもいまだにミャンマーのクーデター政権を承認しているわけではありません。非常に応援しているように見えますけれども承認はしていません。次にG7-主要先進国ですね。日本も入っています。G7を初めとする民主主義国家も強い批判声明を出しているけれども、取り組み方を巡っては一致できていません。アメリカやイギリス、カナダ、EUの国々は「標的制裁」を国軍に対して行っています。「グローバル・マグニツキー人権説明責任法」という長ったらしい法律がありますが、これは国家全体を制裁するのではなくて人権侵害をしている特定個人、特定の部局だけを制裁する。ミャンマーの場合は、明らかに軍、国防省と軍人の一部、上の方の軍人が人権侵害をしているわけですから、そこに収入が行かないような制裁ができる、それがマグニツキー法という法律です。
次にASEAN。これはミャンマーもメンバーの一員です。東南アジア諸国連合です。東南アジアには11の国があり、そのうちの東チモール以外の10ヶ国が入っています。ここは全会一致主義なのでミャンマーが反対したら何もできないので、何かミャンマー批判の声明を出すときはどうしても玉虫色になります。軍はそれをわかっていますので、ASEAN首脳会議にのこのこと出席し、「公認」を得たと認識するわけです。一方、全会一致で動けないのであればメンバーが単独で動けないものか。それはやっています。インドネシア、マレーシア、シンガポールあたりがミャンマーの問題を深刻に受け止めて、何とか状況を改善しなければという姿勢を示しています。ここは中国を巻き込んで軍との仲裁役になれるかどうかがカギですけれども、なかなかうまくいかない。
中国は今回のクーデターの後ろにいるのではないかと言われた時期もあるけれども、それは間違った情報で、中国にとってみればこのクーデターは迷惑千万だった。それ以前のアウンサンスーチー政権の方が、軍だけの政権よりもずっと与しやすかった。ミャンマー国軍はナショナリスト集団ですから、中国に対する警戒心を非常に強く持っていた。中国のお世話にはなるけれども、中国がミャンマーに対するオーバープレゼンスを目指そうとすると軍は非常に警戒心を持ちました。ところがアウンサンスーチー政権の方は、もう少し柔軟に中国とのつきあいをしましたが、クーデターが起きてしまった。さらに困ったことにミャンマー国民のほとんどが反国軍であり、かつ国軍の背後に中国がいると信じ切っていますから、反中国なんですね。日本でCDMを支援しているミャンマーの方々に聞くと10人が10人、中国がバックにいるというんですね。ですから「中国製品、ボイコットだ」というんです。そういうことで、これは中国にとっては非常に困ることです。ミャンマーでの経済活動がうまくいかなくなってしまう。そこで両方とお付き合いをする。まず中国側の経済利権を絶対に維持する。そのためには軍を刺激しない。一方でミャンマー国民を懐柔しないといけない。「反中」になってもらっては困る。そこで対抗政府のNUGとも水面下で接触する。そしてまたASEANを巻き込んで何とか落としどころを探る。いまだに中国もこのクーデター政権を承認はしていません。
ロシアが国軍に前のめりで武器を売ろうとしているけれども、これも承認まではいっていない。ただロシアは武器商人国家です。ミャンマー国軍に武器を売ると同時に少数民族の軍事組織にも武器を売っています。現状は仲裁外交は機能しない。そういう現実があります。
第三者を挟んだクーデター政権とNUGとの交渉実現の可能性はほぼゼロです。それぞれの条件がまったく違う。仮に政治的ないし経済的なインセンティブを与えて国軍の司令官を交渉のテーブルにつかせたとしても、彼ら軍が暴力停止、逮捕者釈放の要請に応じることはない。インセンティブの部分だけを横取りするリスクが高い。言い換えれば、交渉の席に来てくれたら援助してあげよう、ODAの額を増やしてあげよう、ストップしたODAを再開してあげようと言うと、来るかもしれない。しかし交渉は何ら実りなく、結局暴力は続くし、逮捕されている人の釈放もないということです。そもそもNUGは逮捕者の釈放なくして和解の席にはつかないといっています。もちろん暴力行為が完全に終わらない限り交渉の席にはつかないといっている。ですから仲裁外交は機能しないというのが現状です。
日本はG7の中では唯一国軍との太いパイプがあるといってきましたけれども、実際は何もできていません。日本はアウンサンスーチー氏との太いパイプもつくっていたはずですけれども、それを生かすことはしていません。それを生かしてNUGとも接触すべきですけれど、まだ政府は実質何もしていません。立法府の方で国会議員の一部は与野党問わずNUGとの接触はしています。日本は2019年度1年だけを見ても、1900億円強という莫大な額のODA(政府開発援助)を供与しています。2011年に民政移管したことを評価して、ODAを増やしてきました。ところがその環境はいま全部吹っ飛んだわけです。この民政移管のときにいろいろ「ご褒美」をあげて、それまで5000億円に上っていたODAの「借金」を実質棒引きしてあげました。そういう中で、前提が崩れたわけですからODAの停止は当然ですが、今のところ日本政府は新規のODAはしないといっていますが、現在進行中の案件は「精査中です」ということで止めるのか縮小するのかはっきりしていない。
一方で日本ミャンマー協会という、非常に力を持っている巨大利権調整団体があります。ここには政府与党、野党の要人が入っていますし、元ミャンマー大使を務めた方々も入っていますし、ミャンマーに投資している大企業の幹部たちも役員に加わっています。ODAの利権調整の他、ODA以外のプロジェクトに進出するときには、この日本ミャンマー協会に入っておかないと事が上手く運ばない。日本ミャンマー協会は国軍と非常に仲がいいんですね。会長の渡邉秀央さん、息子が事務局長をやっていますが、2人とも堂々とクーデター政権、国軍を擁護していて「今回はクーデターではなかった」と言っている。6月に行われた日本ミャンマー協会の総会では、国軍といまのクーデター政権を支持するという決議までしていて、会員の企業は一社たりとも反対していません。そういうことがあるのでODAを全面停止できないというのが政府の本音だと思います。
日本の場合は日本版の「グローバル・マグニツキー人権説明責任法」、すなわち標的制裁ができる人権制裁、そういう法整備をする必要があります。立法府、国会では自民党を含む国会議員の間で日本版マグニツキー法をつくろうという検討が進んでいます。これができれば単にODAをやめたくらいではなくて国軍や国防省に対する標的制裁、国軍に収入が行かないようにする制裁、2つの持ち株会社からの「上がり」に打撃が起きるような制裁が可能になるんですけれども、外務省はそもそもこのマグニツキー法に後ろ向きです。中国の場合、ウィグル問題があってウィグル問題に取り組んでいる議員たちもマグニツキー法をつくらなければダメだといっているけれども、日中関係は多様な関係があるわけですね。外務省はマグニツキー法をつくられてしまうと困るということであまり前向きではないんですね。
不服従運動は、まず出勤しないんです。公務員が中心となって始めた運動で、最初は20代、30代の国立病院の医師と看護師が始めました。ストライキです。病院に出勤しない。これがあっという間に他の公務員、学校の先生に拡がって、とにかく職場に行かない。これがまずスタートです。次はデモや集会、これはメディアにも流れました。しかしこれは軍が封じ込めにかかってくる。そこでどんなことをやったかというと、例えば道路に勝手に自分の車を止めてしまうんですね、道のど真ん中に。そうすると大渋滞が起きて、車をどけないと軍の関係の車も通れない。そういうことを始めます。さらに伝統的な方法として、ビルマ独特のだるまがあるんですね。とてもかわいいだるまを大量に、何千個、もしかしたら1万個くらい道路に並べてしまう。そうするとこれも車が通れなくなる。
他には、ミャンマーの人は「ロンジー」という巻きスカートを普段身につけています。いまはズボンやスカートを身につける人も増えていますけれども、8割くらいの人たちはいまでも「ロンジー」という巻きスカート、男性版と女性版もあります。ジェンダー的には男女平等が日本よりはずっと進んでいるミャンマーですけれども、女性のロンジーは洗濯して干すときには男物の上に干してはいけないという「迷信」があります。これはロンジーに限らず、女物の服は洗濯して干すときには家族のお父さんとか息子の衣服の上に干してはいけない。上に干してしまうと、男性にだけ与えられている特別の「運」というものが消えてしまう。そういう「迷信」があります。それを逆用して、兵隊とか武装警察は全員男ですから、彼らがやってくるときに、これ見よがしに道路であれ家であれ女性ものの巻きスカートを干す。それによって兵隊や警官の「運」が消えてしまう。そういうことなんですね。ミャンマーの中でしか通用しない論理ですけれども、外国のメディアは非常に驚いた、逆にいうと感心するという報道もありました。
それから、医者が病院に行かないのはけしからんではないかと思われるでしょうけれども、これは、国立病院には行かないのであって、もともと民間病院に勤めていれば、そこの医者は出勤拒否はしません。さらに国立病院の医師や看護師は、自分の家にプライベートなクリニックを持っている場合も多く、持っていない場合は自分でつくります。そこで国民の患者、特にコロナが悪化しますと、コロナの患者さんを受け入れて治療するということでがんばっています。国民からすると、医者に国立病院に行ってほしくない。軍事政権には協力してほしくない。医師や看護師が国立病院への出勤を拒否しているというのはいまでも拍手喝采なんです。病院に行かない医師なんてけしからんなんていう人は皆無に近いです。政府を信用しないから国立病院には行かない。国立病院に出勤拒否している医師の姿勢を支持するということです。
それからお店ですが、例の二つの持ち株会社の系列会社がつくった品物を置かない。置いたとしても消費者はそれを買わない。一番有名なのは日本のキリンビールですね。キリンビールはミャンマービールという、ミャンマーでとても有名な、ヨーロッパでビールの賞を取っているようなビール会社と組みまして。そのミャンマービールは、例の軍の2つの持ち株会社のひとつに入っているんですね。キリンがミャンマーで「一番搾り」とかをいっぱい売ると、その利益の一部は株主配当金となって国防省と軍人のところにいってしまいます。それでキリンはもう提携をやめますといっているけれども、軍側が許さないんですね。合弁の解消は認めないといって、キリンはなかなかやめられないので今困っています。ミャンマーの人たちは、キリンはけしからんということになって、そもそもミャンマービールがけしからんといってミャンマービールを飲まないことから始まって、さらに日本の「一番搾り」も飲まない。それでキリンは最近の決算で280億円の大損を出してしまった。合弁解消自体をミャンマー国軍が応じない。そうすると実質的にすべて損切りをして撤退するしかない、そういう状況です。
そういう不買運動も不服従のひとつです。それから夜に一斉に騒音を出すとか、今はやっていないけれども、初期の頃は一斉に家にある金属の鍋とかをバンバン叩くことをしました。アメリカの政治学者にジーン・シャープという人がいて、この人は2年ほど前に亡くなりましたが、ジーン・シャープさんは独特の非暴力による独裁体制の倒し方という論文を書いています。その中で198の不服従の運動の仕方、暴力を使わない、非暴力の方法で独裁体制を倒すリストまでつくっています。その中には、だるまを並べるとか、夜一斉に時間を決めて鍋などを叩くことは入っています。出勤拒否も入っています。どうもジーン・シャープの方法が、ミャンマーの不服従運動にも多少影響を与えているのではないか。「中東の春」といわれたことが10年ほど前にありました。あのときにエジプトでムバラク政権を倒すデモ隊たちが、アラビア語訳の198の非暴力方法のリストを持っていたんです。それで日本のエジプト研究者が、「これはジーン・シャープの198の方法だよね」と聞いたら「何それ」と言った。「これはエジプト人が考えたに決まっているじゃないか、だからアラビア語なんだ」と答えたそうです。もうジーン・シャープなんて誰も知らなくても、198の方法というものがその国々の言葉に訳されて出回っているようです。ミャンマーでもビルマ語版のジーン・シャープの198の非暴力行動の方法が出回っていると聞いています。実物を見たわけではないので100%の自信はないんですけれども、そういう話は聞くんです。いろいろと情報を得るのが上手なZ世代ですから、どんどん自分たちの運動に使いやすいものは仕入れていく。そして自分達の文化的な特徴を生かした方法を生み出して不服従を続けています。
いまはデモや集会はほとんどできません。ゲリラ的にやりますけれども、まともにやったら殺されます。そこで出勤拒否を続け、不買運動を続け、仮に出勤せざるを得なくても自分で仕事量を調節して政府が望むようには働かない、そういう抵抗をしています。現実はもう銀行が大打撃を受けていて、ATMから一定額しかおろせない。自由におろせるようにしてしまったら、あっという間に物価が上がってインフレが起きてしまうので、軍側がATMからおろせる額を厳しく制約していますけれども、これが経済を悪化させてしまう。現地通貨のチャットが、レートに対してどんどん下落していく。それを認めたくないので、無理な交換レートを中央銀行が軍事力を使って設定します。市場はそれを無視して、どんどん現地通貨が下落したレートで、ドルがどんどん高嶺の花になってくるんですね。それは現地でビジネスしている外国企業にとっても決していいことではない。現金が出回らないと企業が従業員に給料を払えなくなるという現実があります。
さらに税金を納めない。これも不服従の大事なところです。19世紀前半のアメリカの作家、ソローが「黒人」奴隷性に反対して自分の州政府に納税しなかったことが不服従の始まりと言われます。まさに納税拒否は、いまミャンマーの国民が実際にやっている。自分が住んでいるところの企業の経営者に対して法人税を収めないと申し入れています。日本企業は非常に困っているんですね。従業員はとても優秀でいい人たちが多い、反クーデターの気持ちもわかるから言っていることは理解できるけれども、もし法人税を納めなかったら、今度は軍から何を言われるかわからない。いまのところ、いろいろな理由を付けて納税を先延ばししているけれども、年内にはもう言い訳が通用しなくなるだろう。そのときに各企業は「踏み絵」を踏まざるを得ない。従業員の意向を無視して法人税を納めるのか、それとも軍に睨まれ、場合によっては「出て行け」と言われることを覚悟して法人税の納税をさらに先延ばしにするのか。そういった現状にあります。政府自体が、軍自体が信頼されていないどころか拒否されているので、人々はとにかく政府や軍との関係を断ち切った生活をしたい。だからコロナにかかっても病院には行かない、ということなんですね。とにかくいろいろなかたちで不服従が続いているのが現実です。