私と憲法233号(2020年9月25日号)


破綻した安倍政権を継承する菅政権~市民と野党の共同で政治の転換を

安倍晋三、ふたたび政権投げ出し

8月28日、安倍晋三前首相は第1次安倍政権(2007年辞職)に続いて、ふたたび政権をなげだし、9月16日、一連の政治劇を経て安倍政権の総辞職と菅義偉政権が誕生した。

辞任の理由は安倍前首相の「持病の悪化」だが、その背景にあるものは安倍政治の深刻な行き詰まりに他ならない。それは新型コロナ感染症対策の失政、モリ・カケ・サクラ・クロカワ・カワイ・スガワラ・アキモトなど相次ぐ疑惑と腐敗による政治不信の急速な拡大、政権の私物化、そしてなによりも、肝心の安倍前首相が就任以来、最大の政治目標としてきた「任期中の憲法9条明文改憲」が行き詰まり、実現の見通しが全く立たなくなったことにある。

戦後の歴代首相のなかで初めて公然と明文改憲を具体的な政治目標に掲げ、それを野心的に追求した安倍首相の改憲は今回の内閣総辞職で破綻した。第2次安倍政権の下での7年8ヶ月、改憲反対勢力は国会の議席数では圧倒的少数だったし、一時的には改憲勢力が国会の両院の3分の2を占め、憲法96条が規定する改憲発議の必要条件を確保する事態すら発生した。しかし、安倍改憲に反対する運動はそれに屈せず、全国の草の根で粘り強い市民運動を展開・継続し、「安倍改憲NO!」の広範な世論をつくり出し、国会内の立憲野党と共同して、安倍前首相らの企てを阻止し、この歴史的な勝利を得た。

安倍前首相は辞任の記者会見で「(改憲の)国民的世論が十分に盛り上がらなかったのは事実。それなしに(改憲を)進めることはできないと痛感している」「志半ばで職を去ることは断腸の思い」だと述べた。ここにこそ、ことの本質がある。

彼の祖父にあたる60年安保の岸信介元首相の「改憲」の念願を受け継ぎ、それを実現することを自らに課してきた安倍前首相は、改憲を断念するにいたって、まさに「断腸の思い」だったことは想像に難くない。

安倍前首相は何が何でも改憲を進めたいとの思いから、2017年、従来の改憲論を棚上げにして9条に自衛隊の根拠規定を付加するという新しい「加憲論」に転換した。しかし、この安倍改憲の危険な企てを見破った市民による2017年からの「安倍改憲NO!3000万署名運動」、2019年からの「安倍改憲発議反対!全国署名運動」などの、まさに静かで持続的な一大デモンストレーションが展開された。市民運動はこれらの署名運動を軸に全国各地で粘り強く取り組まれ、安倍晋三が切歯扼腕するとおり世論形成に大きな影響を与えた。この市民のたたかいは安倍退陣を引き寄せた。

運動の勝利を確認すること

この安倍政権の退陣についての評価の問題は重要だ。
運動圏や評論家の一部に「自らの手で安倍政権を倒せなかったのは残念」とか「デモや選挙で倒したかった」などと語る傾向がある。

これは正しくない。このたび安倍政権を退陣に追い込んだ力は何だというのか。政治生命を賭けて政権を担当した安倍晋三が、体調不良という理由だけで退陣するわけはない。実際、退陣表明後も、半月にわたって首相を続け、あろうことか「安保政策に関する談話」まで出し、このあとも国会議員に立候補し、後継政権を支えるなどと執念を表明している。

この政治的闘争で、安倍晋三政権は勝手に転んだわけではない。安倍政権を政治的に追い込んだのは前項で書いたように「民意」であり、それをつくり出したのは市民と野党が共同して長期にわたって闘い続けたことだ。このたたかいなくして今回の安倍政権の退陣はあり得なかった。

「戦後レジームからの脱却」=改憲による「戦争する国」への転換を掲げ、極右改憲勢力の期待を担って登場した安倍晋三政権の政治は、ここに来て全く行き詰まっていた。アベノミクスと銘打った経済政策による大企業優先と格差社会、貧困の増大、「地球儀を俯瞰する外交」の名の下に行われたトランプ米国大統領追従と日韓・日朝関係の悪化、習近平来日破綻などによる東アジアの緊張激化、権力の私物化と腐敗、就業率と女性活躍の欺瞞、数え上げればキリがない安倍政権の危機。こうした数々の事柄が引き起こした安倍政権の機能不全は、おりからの新型コロナ感染症の対策でも、極度の後手後手に回り、有効に対応できなくなっていた。

このところの世論調査でも内閣支持率は急落し、3割台に落ち込んでいた。
なかでも安倍政権の最大の問題は一貫した立憲主義の破壊とそのもとでの安倍改憲策動の失敗だ。

第1次安倍政権以来、自らの最大の政治目標として執拗にめざしてきた「改憲」は、残りの任期1年というところで完全に破綻した。憲法審査会での自民党改憲案の審議は野党の抵抗で阻止され、改憲発議のための国会審議の時間においても、また発議に必要な両院の総議員の3分の2の支持という点においても、条件を満たすことは極めて困難になった。
市民と野党が国会内外で共同してたたかった上げ改憲阻止のたたかいは勝利した。

安倍「談話」の危険性

退陣する安倍前首相の代わりに、安倍政権の政治路線を継承することを前提に、短期間のうちに自民党の主要派閥の談合で菅義偉新政権が実現した。

この国の政治闘争は、早くも安倍改憲を継承する菅新政権と対決する第2ラウンドが始まっている。

第2次安倍政権以降の7年8カ月、史上最長の首相在位期間の記録以外に肯定的な政治的実績のレガシーは何もない安倍前首相が、9月11日、退任の最後の最後で異例の「安保政策に関する談話」を発表した。この談話は異例のもので、閣議決定も経ておらず、辞任する安倍前首相の単なる「談話」にすぎないが、その内容は黙過できない、憲法違反の重大なものだ。

これは、病気で政治的判断を誤る恐れがあるため辞任表明したはずの安倍前首相の「談話」が、正常な判断でありうるのかと皮肉のひとつも言いたくなるような、極めて異様な「談話」だった。

安倍前首相はその「談話」で、安倍政権の大きな成果として、安保関連法(戦争法)の成立と日米同盟の強化をあげた。そのうえで後継政権に「北朝鮮」の弾道ミサイルに対抗する「敵基地攻撃能力」の保有を今年末までに検討するよう促した。

安倍前首相は談話発表の後、「国民の生命と財産を守ることは、最大の責任だ。次の内閣でも議論を深め、その責任を果たしていくのは当然だと思う」と述べ、後継内閣に縛りをかけるような発言をした。安倍路線を継承する菅・新内閣はこの具体策を、年末までに防衛大綱と中期防衛力整備計画に反映させる予定だ。

この「敵基地攻撃能力」保有論は、地上配備型ミサイル迎撃システム「イージスアショア」の破綻の代替案として、安倍政権末期に自民党内で急浮上してきた。それは歴代政府がかろうじて合憲性を担保してきた「専守防衛」の放棄であり、国連憲章違反の「先制攻撃」であり、日米安保体制の役割分担の転換であり、戦後の日本政府の安保防衛政策の大転換につながるものだ。明文改憲を果たせなかった安倍首相が、そのかわり、このような実質的な改憲状態を作ることによって戦争ができる国、戦争する国へと踏み出しておきたいという願望を表すものだ。

安倍の「談話」は「日本会議内閣」とよばれるほど、長年にわたって安倍政権を支えてきたこの極右勢力に対する最後のメッセージだ。

また安倍前首相が退任後の19日に、2013年12月以来7年半ぶりに靖国神社を参拝し、「内閣総理大臣を退任したことを報告した」などという三文芝居を演出した。

この間、安倍晋三に期待を寄せ、アジアで覇を唱える日本の実現を目指してきた極右勢力のイデオローグである櫻井よしこは、産経新聞に一文を寄せ「(安倍政権の下で)憲法改正が進まなかったのはまさに痛恨の極み」と述べ、改憲を実現できなかった安倍前首相に不満を表明した(この産経の原稿には書いていないが、櫻井ら極右勢力は「北方領土」や「拉致問題」などでの安倍の公約破りにもはらわたが煮えくり返るほどの怒りを抱いているに違いない)。

しかし、櫻井は去り行く安倍にエールを送る。櫻井は安倍が「戦後70年談話」で「歴史観の見直し」をしたことを最大の「功績」として評価し、「日米同盟」の強化を進めたことを讃えた(産経新聞9月7日号「美しき勁き国へ」)。安倍の代における明文改憲に失敗した改憲勢力は、この安倍の「功績」の延長上に、安倍後継政権を支え、ふたたび「戦争する国」、明文改憲へと踏み出そうとしている。この点で菅義偉が日本会議議員懇談会の副会長であり、新政権の閣僚の21名中14名が「日本会議議員懇談会」のメンバーであることは見逃せない。

いまこそ「安倍談話」にみられるような「戦争する国」をめざす安倍改憲の継承を許さないたたかいが求められている。

安倍路線の継承政権

自民党総裁選は形ばかりのまさに茶番だった。この間、党内反主流派の位置にいた石破茂が総裁選で安倍政権の7年8カ月を事実上全否定して「グレート・リセット」を叫び、総裁選に出馬すると、これを自公連立政権の危機とみた自民党のほとんどの派閥が安倍政権の継承で談合して、菅官房長官を後継に選んだ。自民党主流派は石破茂を総裁選で3位に落とすことで石破への報復を果たそうとした。地方票の支持が根強く、石破が2位に浮上する情勢になるや、石破に有利と言われる党員投票を回避し、国会議員中心の投票を実施したうえで、主流派は菅陣営の票を岸田に20票以上も回すことまでやって、石破の2位獲得を封じた。今回の自民党総裁選は、まさに自民党らしく「カネ」と「ポスト」で票を釣った泥まみれの汚れた選挙に他ならなかった。

多くの人びとが不思議に思うことだが、この安倍辞任劇を経て、去り行く安倍内閣支持率(こんな調査をする意味がいったいどこにあるのか、メディアの腐敗は嘆かわしい)と新内閣支持率と自民党支持率が急騰した。

2度目の政権投げ出しに対し、「病気だからやむなし、無念だろう」という安倍に対する同情論がマスメディアによってまき散らされた。それは「死者に鞭打たない」などと言う「日本的情緒」の美談のたぐいだ。あるいは新内閣誕生の「ご祝儀相場」だ。

もうひとつある。安倍内閣はその末期には世襲政治の弊害があきらかになり、人びとから疎まれた。そこで新しい菅内閣への支持を集めるために一つの「物語」がつくられた。「たたき上げ」「苦労人」「無派閥」などだ。

菅義偉は総裁選の出馬会見で、雪深い秋田の農村から高校を卒業し、単身上京して政治家になった自らの泥臭い生い立ちをアピールした。世襲の政治家ではない政治家、地方に心を寄せるたたきあげの苦労人を自負し、派閥に属さない政治家を売り出した。

すでに暴露しつくされているが、菅の東北の貧しい農村に生まれ、「集団就職」で上京し、工場で働き、苦学して大学に通い、政治家の秘書から地方自治体の議員へ、そして国会へ、というサクセス・ストーリーの虚構は明らかだ。しかし、菅はその嘘を否定しない。

 事実、農村出身の苦労人、菅の政策からはそんな泥臭さを感じない。菅が継承するという安倍晋三の政策の根っこは、新自由主義であり市場原理主義にある。菅がテレビの前で掲げたフリップ、「自助、共助、公助」にその本質が表れている。菅にはこの間の格差社会を生んだアベノミクスへの反省は全くない。なによりもこの7年8カ月、安倍晋三首相の右腕、官房長官として一体になって、この路線を支えてきた責任者だ。

たしかに新内閣は「居抜き内閣」と呼んでもいいような前内閣継承の布陣だし、派閥にとらわれないなどと言う言葉と裏腹に派閥均衡内閣だ。出発に当たっては波風を立てないのが賢明とみている節がある。

ただし、菅新内閣が安倍の悪政を継承するだけかどうか、直面する新型コロナ危機と、ポストコロナ、日本資本主義の危機に際して、この内閣は右派日本会議や財界、米国の要求に沿って、この危機を新たな方向で突破しようという欲望にとらわれる可能性がある。

すでに菅は内閣人事局による霞が関の官邸支配の方向を一層強化する姿勢を明らかにした。菅首相は既得権益打破、縦割り行政打破を掲げて、「私どもは選挙でえらばれている。何をやるか方向を決定したのに反対するならば異動してもらう」と恫喝している。これは安倍官邸がその後半に権力を私物化したこと以上の構えだ。

また上川陽子法相は就任記者会見で、さきの通常国会で全国の市民から大きな批判を浴びていったん廃案となった、検察官の定年延長を可能とする検察庁法改正案について「関係省庁と協議し、再再提出に向けて検討したい」と語るなど、その民意無視の強権的姿勢を明らかにした。

総選挙で前進し、勝利しよう

遅かれ早かれ、あと1年以内には総選挙があり、自民党菅執行部の任期もあと1年だ。
新内閣の前途は難問山積だ。新型コロナ対策は引き続き急を要している。年末から年初にかけての国家予算の策定は容易ではない。アベノミクスの破綻のもとで、この空前の経済不況にどのように対処するのか。小手先の「Go To Travel キャンペーン」やデジタル化などでは始末に負えない。11月3日には米国大統領選挙がある。菅政権は政権浮揚を賭けて「東京五輪」実施を強行しようとしている。

菅新政権はいま懸命に「仕事師」ぶりを演出しながら、とりあえずご祝儀相場で支持率が高いうちに解散を狙い、野党に打撃を加えようとしているかのようだ。
総選挙は11月とも年内ともいわれている。

来る総選挙でこの国の政治を変える展望を見つけ出せるような闘いが望まれる。立憲野党と市民が共同して、安倍政権の負の遺産を一掃する闘いを起こし、自公政権から国政を奪還し、新自由主義のもとで破壊された「いのちと人間の尊厳」の危機に立ち向かい、憲法を私物化して米国とともに戦争する国への道に反対する新しい政治の展望を切り開くことができるかどうかが問われている。

安倍政権の崩壊と同時期に誕生した新党・立憲民主党をはじめ、共産党、社民党などすべての立憲野党が結束して、この新しい時代の政治を切り拓く課題に挑戦するときだ。このための政治的選択肢を市民と野党の新たな政策合意として獲得し、このもとに共同して候補者の1本化を実現しなければならない。これが危機にあえぐ多数の有権者の支持を引き付け、次期新政権を切り拓かなくてはならない。菅政権の戦術は野党の分断だ。この場合、維新は事実上の自公改憲派であり、これとの闘いは不可欠だ。

新党・国民民主党と「れいわ新選組」などは、安倍亜流の菅新政権と闘うことを最優先し、立憲野党の共同を積極的にささえなくてはならない。この点で第202臨時国会の首班指名選挙で、これらの諸党がすべて枝野幸男立憲民主党代表に票を入れたことは第1歩であり、今後の野党共同に希望がもてる動きだ。

全国で立憲野党と市民は共同し、あたらしい政権の展望を切り開こう。(事務局・高田健)

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立憲野党の政策に対する市民連合の要望書: いのちと人間の尊厳を守る「選択肢」の提示を

はじめに

私たち、安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合は、2015年の安保法制反対運動以来、憲法に基づく政治を求めてきた。しかし、法と道理をわきまえない安倍晋三政権およびその継続を公称する菅義偉政権の下で新型コロナウイルスの蔓延を迎える状況となった。人間の尊厳を顧みず、為政者の自己正当化のために情報を隠蔽してきた安倍・菅政権の対策が的外れであることは、必然の帰結である。我々は今までの運動の延長線上で、法と道理に基づいて人間の生命と尊厳を守る政治を確立するために運動を深化させなければならない。そして自民党政権に代わり、新しい社会構想を携えた野党による政権交代を求めていきたい。

政治の最大の使命は、いのちと暮らしの選別を許さないことにある。新型コロナウイルスの危機のさなか、医療、介護、福祉など「この人たちがいないと社会は回らない」エッセンシャルワーカーたちが注目を浴びた。と同時に、このエッセンシャルワーカーたちが、この30年間の「小さな政府」や「柔軟化」を旗印とする雇用破壊によって、過酷な労働を強いられてきたことも明らかになった。彼ら・彼女らの過酷な状況は、一部の企業に富を集中する一方で働く人々に貧困と格差を押し付けてきたこれまでの経済システムの象徴である。個々の人間の尊厳、およびジェンダー平等はじめ互いの平等という基本的価値観の上に立ち、このシステムを転換し、社会を支える人々の尊厳を守ること、さらにすべての働く人々が人間らしい生活を保障されることを、新しい社会像の根幹に据えなければならない。

次期総選挙は、自民党政権の失政を追及する機会であると同時に、いのちと暮らしを軸に据えた新しい社会像についての国民的な合意、いわば新たな社会契約を結ぶ機会となる。野党各党には、この歴史的な転換を進めるべく、以下の政策について我々と合意し、国民に対して選択肢を提示し、その実現のために尽力するよう要望する。

Ⅰ 憲法に基づく政治と主権者に奉仕する政府の確立

1.立憲主義の再構築

 公正で多様性にもとづく新しい社会の建設にむけ、立憲主義を再構築する。安倍政権が進めた安保法制、特定秘密保護法、共謀罪などの、違憲の疑いの濃い法律を廃止する。自民党が進めようとしてきた憲法「改定」とりわけ第9条「改定」に反対し、改憲発議そのものをさせないために全力を尽くす。日本国憲法の理念を社会のすみずみにいきわたらせ、公正で多様な社会を求める市民、企業、団体との連携をすすめ、安倍政権で失われた民主主義の回復に取り組んでいく。

2.民主主義の再生

主権者が、自分たちの生きる公共の場をどのように作り出すか自由闊達に議論し、決めていくという民主主義を取り戻す。そのために、国会の行政監視機能の強化、選挙制度の見直し、市民参加の制度の拡充、学校教育における自由な主権者教育を実現する。また、地方自治体の自由、自立を確保するために、中央省庁による無用な制度いじり、自治体の創意工夫を妨げる統制、操作、誘導を排し、一般財源を拡充する。

3.透明性のある公正な政府の確立

安倍政権下ですすんだ官邸主導体制の下で、権力の濫用、行政の歪みが深刻化している。政府与党による税金の濫用や虚偽、隠蔽により生じた市民の政府への不信の高まりが、効果的な新型コロナウイルス対策を妨げている。透明性のある公平な行政の理念のもと、科学的知見と事実に基づく合理的な政策決定を確立し、政策への信頼を取り戻すことが求められている。内閣人事局の改廃を含め、官僚人事のあり方を徹底的に再検討する。一般公務員の労働環境を改善し、意欲と誇りをもって市民に奉仕できる体制を確立する。国民の知る権利と報道の自由を保障するために、メディア法制のあり方も見直し、政府に対する監視機能を強化する。

Ⅱ 生命、生活を尊重する社会経済システムの構築

4.利益追求・効率至上主義(新自由主義)の経済からの転換

新型コロナウイルスの危機は、医療、教育などの公共サービスを金もうけの道具にしてきた従来の改革の失敗を明らかにした。医療・公衆衛生体制、労働法制、教育政策等への市場原理の導入により、社会的な危機が市民の生活の危機に直結する事態が生じている。信頼できる有能・有効な政府を求める世論の要求は高まっている。利益・効率至上主義を脱却し、国民の暮らしと安全を守る新しい政治を目指していく。

5.自己責任社会から責任ある政府のもとで支えあう社会への転換

小さな政府路線と裏腹の自己責任の呪縛を解き、責任ある政府のもとで支えあう社会をめざす。新しい社会をつくりあげるために、財政と社会保障制度の再分配機能を強化する。消費税負担の軽減を含めた、所得、資産、法人、消費の各分野における総合的な税制の公平化を実現し、社会保険料負担と合わせた低所得層への負担軽減、富裕層と大企業に対する負担の強化を図る。貧困対策においては、現金・現物の給付の強化と負担の軽減を組み合わせた実効的対策を展開し、格差のない社会をめざす。

6.いのちを最優先する政策の実現

新型コロナウイルスとそれに伴う経済危機による格差の拡大を阻止するための政策が求められている。医療・公衆衛生体制に国がしっかりと責任をもち、だれでも平等に検査・診療が受けられる体制づくりをめざす。感染対策に伴う社会経済活動の規制が必要な場合には、労働者、企業への補償に最優先の予算措置を講じ、公平性、透明性、迅速性を徹底する。

7.週40時間働けば人間らしい生活ができる社会の実現

先進国の中で唯一日本だけが実質賃金が低下している現状を是正するために、中小企業対策を充実させながら、最低賃金「1500円」をめざす。世帯単位ではなく個人を前提に税制、社会保障制度、雇用法制の全面的な見直しを図り、働きたい人が自由に働ける社会を実現する。そのために、配偶者控除、第3号被保険者などを見直す。また、これからの家族を形成しようとする若い人々が安心して生活できるように公営住宅を拡充する。

8.子ども・教育予算の大胆な充実

出産・子育て費用の公費負担を抜本的に拡充する。保育の充実を図り、待機児童をなくし、安心して働ける社会を実現する。教育予算を拡充し、ゆとりある小中高等学校の学級定員を実現する。教員や保育士が安心して働けるよう、待遇改善をすすめる。教育を受ける機会の平等を保障するために、大学、高専、専門学校に対する給付型奨学金を創設するとともに、大学、研究機関における常勤の雇用を増やす。学問の自由の理念の下、研究の自立性を尊重するとともに、政策形成に学問的成果を的確に反映させる。

Ⅲ 地球的課題を解決する新たな社会経済システムの創造

9.ジェンダー平等に基づく誰もが尊重される社会の実現

雇用、賃金、就学における性差別を撤廃し、選択的夫婦別姓を実現し、すべての人が社会、経済活動に生き生きと参加する当然の権利を保障する。政治の世界では、民主主義を徹底するために議員間男女同数化(パリテ)を実現する。人種的、民族的差別撤廃措置を推進する。LGBTsに対する差別解消施策を推進する。これらの政策を通して、日本社会、経済の閉塞をもたらしていた政治、経済における男性優位の画一主義を打破する。

10.分散ネットワーク型の産業構造と多様な地域社会の創造

エネルギー政策の転換を高等教育への投資と結びつけ、多様な産業の創造を支援する。地域における保育、教育、医療サービスの拡充により地域社会の持続可能性を発展させる。災害対策、感染対策、避難施設の整備に国が責任をもつ体制を確立する。中小企業やソーシャルビジネスの振興、公共交通の確保、人口減少でも安心して暮らせる地域づくりを後押しする政策を展開する。

11.原発のない社会と自然エネルギーによるグリーンリカバリー

地球環境の危機を直視し、温暖化対策の先頭に立ち、脱炭素化を推進する。2050年までに再生可能エネルギー100%を実現する。福島第一原発事故の検証、実効性のある避難計画の策定をすすめる。地元合意なき原発再稼働は一切認めない。再生可能エネルギーを中心とした新しいエネルギー政策の確立と地域社会再生により、原発のない分散型経済システムをつくりあげる。

12. 持続可能な農林水産業の支援

 農林水産業については、単純な市場原理に任せるのではなく、社会共通資本を守るという観点から、農家戸別補償の復活、林業に対する環境税による支援、水産資源の公的管理と保護を進め、地域における雇用を守り、食を中核とした新たな産業の育成を図る。また、カロリーベースの食料自給率について50%をめどに引き上げる。

Ⅳ 世界の中で生きる平和国家日本の道を再確認する

13. 平和国家として国際協調体制を積極的に推進し、実効性ある国際秩序の構築をめざす。

平和憲法の理念に照らし、「国民のいのちと暮らしを守る」、「人間の安全保障」の観点にもとづく平和国家を創造し、WHOをはじめとする国際機関との連携を重視し、医療・公衆衛生、地球環境、平和構築にかかる国際的なルールづくりに貢献していく。核兵器のない世界を実現するため、「核兵器禁止条約」を直ちに批准する。国際社会の現実に基づき、「敵基地攻撃能力」等の単なる軍備の増強に依存することのない、包括的で多角的な外交・安全保障政策を構築する。自衛隊の災害対策活動への国民的な期待の高まりをうけ、防衛予算、防衛装備のあり方に大胆な転換を図る。

14. 沖縄県民の尊厳の尊重

沖縄県名護市辺野古における新基地建設を直ちに中止し、環境の回復を行う。普天間基地の早期返還を実現し、撤去を進める。日米地位協定を改定し、沖縄県民の尊厳と人権を守る。さらに従来の振興体制を見直して沖縄県の自治の強化をめざす。

15. 東アジアの共生、平和、非核化

 東アジアにおける予防外交や信頼醸成措置を含む協調的安全保障政策を進め、非核化に向け尽力する。東アジア共生の鍵となる日韓関係を修復し、医療、環境、エネルギーなどの課題に共同で対処する。中国とは、日中平和友好条約の精神に基づき、東アジアの平和の維持のために地道な対話を続ける。日朝平壌宣言に基づき北朝鮮との国交正常化、拉致問題解決、核・ミサイル開発阻止向けた多国間対話を再開する。

以上

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菅内閣誕生で完成「2012年体制」の悪夢~二階氏が後継指名した最大の狙いは

2020/9/17(市民連合公式サイトから転載)    

上智大学教授・中野晃一        

安倍晋三首相が突然の辞任表明記者会見をするや否や、瞬く間に菅義偉官房長官を後継とする流れが二階俊博自民党幹事長によって作られ、2週間余りのメディア旋風を経て首相指名がなされた。いったい何が終わり、何が変わるのか、あるいは変わらないのか。分かるようで分からない有権者も少なくないのではないか。

■安倍政権か、安倍内閣か

まず「内閣」「政権」「体制」という、政治に関わる基礎的な概念の整理から入ることとしよう。

言うまでもなく内閣は、最もシンプルには首相と閣僚、つまり政治家からなる政府のトップのことである。広義では、これに各省庁の官僚制を含めた政府全体を指すこともある。

これに対して政権は、首相や閣僚たちで構成する内閣に加えて、一方ではその指揮下にある官僚制、そしてもう一方では立法府で政府を支える与党を含む。つまり、内閣と政権は重なる概念である。

ところが内閣が行政府のみを指し、三権分立の下、国会にある与党とも緊張関係に立ちうる別個の組織であるのに対して、政権は、英国型の議院内閣制に倣って政府と与党の一体化を強調する点が決定的に異なる。

体制となるとさらに概念は広がる。それは、与党だけでなく野党を含めた政党システムのあり方や、政府と市民社会の関係、憲法はじめ法体系などまでも包摂し、通常、より安定的なものである。

かつて冷戦期に、政権交代が起きないまま自民党政権が38年続いた政治システムは1955年体制と呼ばれ、その下では内閣の交代や改造が頻繁になされていた。

さて、本稿で論じたいのは、2012年12月26日から7年8カ月の長きにわたり続いた安倍首相の下で形成されたのが「安倍内閣」あるいは「安倍政権」だったのか、はたまた「2012年体制」とも呼ぶべきものなのか、そして菅への交代によって変わる、あるいは継承され定着が図られるのは何なのか、である。

■民主党政権に近似する皮肉

朝日新聞記事データベース「聞蔵IIビジュアル」を活用して、安倍首相の在職期間中に絞って「安倍内閣」もしくは「安倍政権」のいずれかへの言及を含む記事を検索し、そのヒット件数(記事数)を在職日数で割ったものを、同様に何人かの他の自民党の首相と比較したグラフをここに示す(ただし、中曽根康弘についてはデータベースが1984年からの記事に限ることから期間を狭め、また安倍第2次政権についても執筆の都合から歴代最長在職期間記録を更新した2020年8月24日までとした)。

一見して明らかなのは、2006年から2007年までの第1次にせよ、つい終わりを迎えたばかりの第2次にせよ、「安倍政権」に言及する記事数が突出して多く、かつて一般的だった「内閣」をはるかに凌駕(りょうが)していることである。中曽根や竹下では、「内閣」と呼ぶ記事数が「政権」と言及するものの2倍であったものが、第2次安倍政権では「政権」という呼称が定着し、逆に「内閣」とする記事の3倍を超えている。

実はこうした報道における用語法や政治認識の変化は、第2次安倍政権に先んじた民主党への政権交代を経て加速した。「政府与党一体化」や「政治主導」を強調した民主党では、鳩山由紀夫、 菅直人、野田佳彦のいずれの首相でも、「政権」としての言及が「内閣」をゆうに上回っており、「鳩山政権」に至っては1日あたり9.9件も(「鳩山内閣」は4.7件)記事があったことが確認できた。皮肉なことに、「内閣」でなく「政権」であったという意味では、安倍は小泉よりも民主党政権に近似しているのである。

■2012年体制の本質と懸念

もちろん根本的な違いは、民主党が政府与党一体化や政治主導によって二大政党制の一方を担うことを目指して挫折し3年3カ月で下野したのに対して、第2次安倍政権が7年8カ月も続き、かつ第1次政権の時から、「政権」たることに満足せず「戦後レジームからの脱却」をうたったように、「体制」変革までも射程に入れていたことである。

つまり安倍は、2012年12月に民主党政権とともに二大政党制が崩壊した際に政権復帰を果たし、官邸支配と呼ばれる強権的な仕方で、不都合な公文書の隠蔽(いんぺい)、改ざん、廃棄までも自ら犯すほどに官僚制を掌握、操縦した。

その後も「1強体制」と言われるまでに与党内そして野党を圧倒したのみならず、マスコミを懐柔、圧迫してきた。さらには違憲の安保法制を強行しただけでなく、憲法53条に基づく臨時国会の開会請求を再三無視し、カジュアルに憲法違反を続けてきた。

森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、検察幹部定年延長問題、カジノ汚職事件、河井夫妻による買収事件など枚挙にいとまがない数々のスキャンダルについて、法の支配をゆがめ、説明責任(アカウンタビリティー)の放棄を繰り返しても、菅官房長官が「全く問題ない」「適切に対応している」「その指摘は当たらない」と言えば済んでしまう、新しい政治体制(レジーム)――言うなれば2012年体制――を築いてきたのである。

菅が、安倍や二階によって後継首相に選ばれたのは、

安倍内閣が倒れても、安倍政権を存続させ、その取り組んできた体制変革を定着させるのに最適な人物だからにほかならない。

安倍政権とそのミッションを引き継ぐ以外に当面存在基盤がない以上、まずは菅内閣が安倍内閣にとって代わっただけで(用語法の変化を反映して菅政権との呼称が多用されるにしても)、実態としては安倍政権がそっくりそのまま続くと言って差し支えない。

しかし、もし継承したはずの政権枠組みが早晩崩れるようなことがあったら、菅内閣は短命に終わるだろう。他方、菅内閣が安定し長期化した暁には、安倍政権に始まった2012年体制が内閣の交代を経てもなお存続することになり、アカウンタビリティーのない政治がニュー・ノーマルとして常態化することになる。

菅内閣誕生のご祝儀相場に便乗した早期の解散総選挙がうわさされるが、現在のタガが外れた政治体制の起点に民主党の崩壊があることを想起すると、新生・立憲民主党を中心とした野党共闘が有権者に対して選択肢を示すことができるか、日本政治は重大な岐路に立っていると言わざるを得ない。

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9・17 日朝ピョンヤン宣言18周年集会:朝鮮戦争の終結と日朝国交正常化の実現を

9月17日(木)夕刻から、東京の文京区民センターで「9・17 日朝ピョンヤン宣言18周年集会 朝鮮戦争の終結と日朝国交正常化の実現を」が開催され、約150名の市民が参加した。
集会は昨年、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会と「3・1朝鮮独立運動」日本ネットワーク(旧100周年キャンペーン)によって結成された「朝鮮半島と日本に非核・平和の確立を」市民連帯行動が主催し、 布施祐仁さん(平和委員会機関紙「平和新聞」編集長)の講演「対米従属の源流-朝鮮戦争と日米安保」や朴金優綺さん(在日本朝鮮人人権協会)の特別報告「生み出され続ける朝鮮学校差別」などが行われた。本誌は布施さんの講演要旨(文責・編集部)を掲載する。

講演:対米従属の源流 朝鮮戦争と日米安保

布施 祐仁さん

はじめに

コロナの状況下で3月ごろから講演はあってもオンラインで、こういうかたちは久々です。今日どれだけ集まるかなと心配だったのですが、こんなにいっぱい会場に来られるとはうれしいです。

菅政権が誕生しました。私は横浜市民で、「神奈川新聞」というのがあるのですが、すごいことになっています。本日、4頁ブチ抜きで、横浜から総理がでたということで、「菅総理、おめでとう」と県内の名だたる企業が下半分、名刺広告を出しています。戦時中の紀元節の新聞がそうだったように、国中が一色になるのです。菅さんは秋田から出てきて突然総理になったわけではない。安倍政権の7年8カ月の間に官房長官をやってきたのですが、その検証もやっていない。「とにかくおめでとう」という事です。すごいなあと思いました。

「すごいなあ」ということで言いますと、今年の6月25日、朝鮮戦争が始まってから70年にあたる日、大きな節目の日です。各紙がこれについてどう報道するか、注目しました。朝日新聞はめくっても一言も出ていないです。他の新聞も出ていない。唯一出ていたのが「産経新聞」です。「今年は朝鮮戦争か開戦70年」という特集を組みました。当日ではありませんが、毎日新聞が朝鮮戦争の時に日本人が米軍によって戦争に連れていかれて働かされ、銃をもって戦争に参加させられたという記事が載ったことはあります。しかし、当時何があったかという記事はあっても、あの朝鮮戦争が今日の日本にとってどうつながっているか、今日、私がお話しするようなことが深く検討された記事はありません。

朝鮮戦争、今年70年になりますが、これは今日の日米関係の原点になっている。それはいろんなことがいえますが、対米従属の問題、トランプと安倍さんが会談して「もっと米国の兵器買えよ」と言われたら、「はい買います」といって、買わされる。例えばイージスアショアですよね。それからいま私たちが東京の空を見上げる。そこはいまだに日本の空ではない。米軍に占領されている。戦争が終わって75年、いまだに管制権を握られている。首都圏というか、1都9県ですね。この状態がどこからきているのか、それが今日お話をする朝鮮戦争からなのです。

戦後の日米関係のスタート

6月25日、北朝鮮が戦争を開始した。その後、朝鮮の釜山にまで一気に押し寄せた。そこで米軍が国連軍という形で介入し、仁川に上陸して朝鮮軍を北まで押し返す。すると中国が義勇軍という形で南へ押し戻す。結局、戦争が始まる前のところあたりに戻って、1953年に休戦協定が結ばれます。

この朝鮮戦争が今日の日本をつくる原点になったというのはなぜなのか。1950年6月に朝鮮戦争が始まると、1950年8月には、日本は「警察予備隊」を創設し、再軍備が始まります。憲法9条で軍隊を持たないと決めたはずなのに、軍隊を持つわけです。1950年9月、米国で対日講和方針が決定されます。独立させた後、日本をどのようにしていくのかという方針が決められます。NSC、米国の安全保障に関する最高決定機関では「米国は実質的に占領状態と変わりない特権を保有して、講和後も日本に対する独占的影響力を行使する」と決めます。そして翌年、1951年1月、講和条約と安保条約のための交渉が始まります。交渉が始まると米国の交渉責任者のダレスが、交渉に臨む方針をこういいます。「我々が望む数の兵力を(日本国内の)望む場所に、望む時間だけ駐留させる権利を確保する」と。1951年1月、講和条約と、日米安保条約はそのとおりになります。そして52年2月には行政協定(地位協定の前身)が署名されます。そして1952年4月、講和条約、安保条約、行政協定が発効します。いまの日米関係の基礎がここから始まります。

その後の日米関係のスタート地点が、朝鮮戦争をやっている最中だったという事が非常に大きいわけです。

当時の対日交渉の方針について、米国政府の中で食い違いがありました。早く日本を独立させようという勢力と、いやまだ早いという勢力が対立していました。

ひとつ、米国務省は「占領を早く終えよう。占領の長期化は日本国民の反発を招くため、日本を西側陣営に止めておくためには早期の講和条約締結が必要だ」と主張しました。

もう一方の国防省関係者・米軍はそれに反対した。「占領による日本国内の基地を無限定に使用する権利の継続が必要だ」と主張し、日本の主権回復は時期尚早と強く抵抗した。米軍は朝鮮戦争を戦っていた。米軍は国連軍という形で、日本を拠点に戦っていた。実際には米軍が指揮をとる朝鮮国連軍の司令部は日本・東京に置かれた。日本全土が国連軍の「後方基地」になり、兵員、物資の供給・中継基地になった。日本も旧海軍を中心に「特別掃海隊」、実際には海上保安庁ですが、これを派遣し、機雷除去でも参戦した。さらには輸送船の運航のため、船会社の民間人船員も数千人規模で動員した。数十人が亡くなりました。戦争につかう軍需物資(毛布、砲弾、有刺鉄線など)を生産し、サービス(トラック、戦車、戦艦の修理)を供給した。朝鮮特需と言われました。

今年、私のところの「平和新聞」が朝鮮戦争の特集を組みました。実際にLST(輸送船)に乗っていた方です。これまで誰にも話をしていなかったそうです。しかし、やはり語っておきたいということで、話をしてくれました。この方は何も知らされていなく、最初は米軍の演習かと思っていましたら、行ってみたら戦場だったということです。戦争に協力させられた。外をみると、遺体がながれてきた。憲法9条ができて、2度と戦争をしなくて済むと思っていたのに、当時は生活が大変で、文句言ったら、「じゃあ、やめろ」と言われるので、協力したということです。
米軍の幹部は「日本は驚くべき速さで米軍の巨大な補給基地になった。日本の協力なくして朝鮮戦争は戦えなかった。国連軍司令部で働いた、朝鮮をよく知っている日本人の協力がなかったら戦えなかった。米軍は日本を拠点に戦っていたからこそ、国防省は日本の主権回復に反対した。

日米安保体制が形成される

占領中の日本を拠点に朝鮮戦争を戦っていた米軍は、日本との講和の条件として次の3つのことを要求した。

(1)日本の国土の自由使用、これまで通り自由に基地につかえる、(2)日本からの自由出撃、(3)日本の全面協力。これが保障されないかぎり、日本に主権は返しません。

占領中ですから、日本はこれを呑むわけです。①、②は安保条約と行政協定、③は「吉田・アチソン交換公文」です。そういう形で、その後の日米関係が始まります。

ところで「吉田・アチソン交換公文」というもの、ご存知でしょうか。これは今の日本にとって、極めて重要な日米の約束事です。これは日本ではほとんど紹介されません、知られていません。サンフランシスコ講和条約が結ばれた当時、同時に日本の全権の吉田首相とアチソン国務長官のあいだで結ばれた約束です。

「講和条約の成立後も(占領が終わったあとでも)、国連軍(米軍)が日本で行ってきた、国連軍の通過や物資の買い付けを日本が認めて、朝鮮戦争で行動中(戦争中)の国連軍を支持する趣旨の、文書を交換したい」。これは、吉田首相は約束します。

さらには自衛隊の前身である警察予備隊も、米軍が出て行った後の、国内の治安維持のためにつくられるのであり、再軍備などではありませんと首相は説明した。これはマッカーサーの命令で作らせたのです。しかし、米国はどう考えていたか。朝鮮戦争が拡大し、世界戦争が起きたときに、米国と日本の戦力を活用できることが、我が国の世界戦略にとって、極めて重要であり、おそらく世界戦争で最終的に勝利する結果をもたらすであろうと。つまり安倍さんがやろうとしてきたように、日本の戦力を動員して、米国とともに戦えるようにするということです。

日米安保体制の本質は、朝鮮戦争の最中に、アメリカが日本の国土や国民、自衛隊、日本の経済などを、アメリカの世界戦略とそれを支える軍事行動、戦争のために「丸ごと利用する」ものとしてつくられたものです。

よく「日米安保体制って何か」と街中で聞くと、日本を守ってくれているものと答えが返って来ます。8割が安保を支持している。しかし、決してそういうものではない。原点を見ますと、アメリカが日本の外で戦うためのものだという事です。

朝鮮半島はいまだ「休戦」状態

1953年7月、国連軍、北朝鮮軍、中国軍の3者で朝鮮戦争は休戦協定が結ばれますが、これはあくまで戦闘の停止であり、和平に向けた政治的合意ではありませんでした。この協定には約束事がありました。調印後3カ月以内に「政治会議」を開き、「朝鮮からのすべての外国軍の撤収および朝鮮問題の平和解決などの問題を協議する」「南北の平和的環境を整える」「選挙をやる」とのことでしたが、「政治会議」は決裂しました。つまり、政治的合意がないままに、「停戦」という形が今日まで続いているという事です。

「1953年体制」と呼ばれますが、休戦協定を結ぶと同時に、1953年に米韓相互防衛条約が結ばれます。当初、休戦したうえで、外国軍が撤退し、朝鮮半島の人たちだけで選挙をやって政府をつくるという構想がありましたが、できなくなりました。

1958年には中国軍が一方的に撤収を完了します。米国に対しても撤退を要求しますが、米国は拒否します。1961年には北朝鮮もソ連と中国と相互援助条約を結びます。
1972年には、7・4南北共同声明で、平和的な統一を目指すことで合意しました。

1975年には北朝鮮を支持する国々が、北朝鮮が国連軍を解体したうえで、休戦協定の平和協定への切り替えを提起しました。第30回国連総会で、採択されました。米国は休戦協定の維持を譲りませんでした。韓国も国連軍を米韓連合軍に変えるという決議をだし、これも採択されました。相矛盾する二つの提案が可決された結果、結局、事態は何も変わりませんでした。日本は必死になって、ODAななどを駆使して韓国案が通るように懸命に動きました。朝鮮戦争を終わらせることに賛成しなかったのです。

結果、常時、臨戦態勢が続きました。1975年には米国は韓国への核配備を公式に認めました。1976年には大規模な米韓合同軍事演習・チームスピリットがはじまりました。威嚇するわけです。

その後、情勢の大きな転機があり、冷戦体制の終焉が始まるのですが、残念ながら北東アジアでは変わりませんでした。
1990年、韓国とソ連が国交樹立しました。91年には南北が国連に同時加盟し、「南北間の和解と不可侵及び交流、協力に関する合意書」を締結しました。1992年には韓国が中国と国交を樹立しました。

そういうなかで、米国と対決していた北朝鮮は、自分の後押しをしてくれていたはずの中国やソ連が韓国と国交を結んだ。北朝鮮は孤立感を深めました。そういうなかで、もう中国やソ連には頼れないと、北朝鮮は核兵器の開発に取り組み始めました。

1993年、第1次核危機が起こります。当時の米国のクリントン政権は、北朝鮮の核基地を先制攻撃することを検討しました。しかし、これは38度線からソウルまで火の海になることを恐れた韓国政府の反対で断念しました。この時、米国は本気で北朝鮮と戦争をするため、当時の国防長官を訪日させ、当時の内定していた羽田首相に「戦争になった場合、在日米軍基地を使用すること、米国は自衛隊による機雷撤去や輸送、補給、日本の民間空港、港湾の軍事利用など1900項目以上の支援」を要求しました。しかし、根拠法がなかったために日本は「できない」と回答した。これがのち、数年後に周辺事態法や有事法制の制定につながった。だから現時点ではできるという事です。

これは1951年の「吉田・アチソン交換公文」で国連の軍事活動に参加する軍隊(米軍)への施設と役務の提供を「約束しており、1953年10月(休戦協定の3カ月後)に、朝鮮国連軍地位協定を締結している。1960年の安保改定でもこの交換公文は効力を有することが確認されています。

日朝平壌宣言の意義

さらに重要な問題は朝鮮国連軍です。現在も、7つの在日米軍基地(キャンプ座間、横須賀海軍施設、佐世保海軍施設、横田飛行場、嘉手納飛行場、普天間飛行場、ホワイトビーチ地区)が朝鮮国連軍の基地に指定されている。横田基地には朝鮮国連軍の後方司令部がある。どこで見分けるかというと、普通の米軍基地は日の丸と星条旗ですが、これらの基地は国連旗と日の丸です。もし朝鮮半島で戦争が始まった場合には、日本が自動的に戦争に巻き込まれる、自動参戦システムだということです。

最後に、今問題になっている「敵基地攻撃能力保持」問題です。
北朝鮮が実際に日本にミサイルを撃ってくるときというのは、どういうケースが考えられるでしょうか。何もない時に撃ってくるという事は考えられません。唯一あるとすれば、米国と北朝鮮の戦争が始まってしまった場合に、米軍が出撃拠点とする在日米軍基地を狙ってくるという事が考えられます。

いま日本政府が言っているのは、まさに日本に向かってミサイルが撃たれようとしている時に、その発射される前に基地をたたくのは自衛権の範囲だということです。私はそうは思いませんが。今はミサイルは移動式発射台になっています。着弾する前に迎撃するという事は多分、不可能です。

ではどうやったらミサイルを北朝鮮が撃たないようにできるか。撃ってしまったらおしまいです。北朝鮮が日本に対してミサイルを撃とうという気持ちを起こさせないようにすることです。米国と北朝鮮の間の戦争を起こさせないようにすることです。日本はそれができるはずです。しかし、今は自動参戦構造になっています。いまは米国が戦争をすると言ったら、それをやめろと言えない仕組みになっているのです。戦争をおこさせない外交こそ、求められます。

米軍の最高機関NSCの人物が語っています。日本にいる米軍は日本を守るためにあるのではない。これらは主に他の場所での戦闘の際に日本を拠点にして出撃するためにある、と。

朝鮮戦争の終結には韓国、北朝鮮、米国、中国、(日本、ロシア)の協調が必要です。これが実現すれば、北東アジアの集団的安全保障の枠組みも開かれます。対立や軍拡から、紛争の平和解決、緊張緩和、軍縮の方向へ転換することができます。これはすでにASEANがやっています。

敵基地攻撃能力の議論は妄想の世界です。いかにミサイルを撃たせないかという事です。自動参戦装置のようなことをやめさせることです。

そのためにも、日朝国交正常化交渉をすすめることです。安倍政権が言ってきたように「拉致問題の解決なくして日朝正常化交渉なし」ではありません。2002年の日朝平壌宣言に立ち返って、拉致、核、ミサイル、戦後補償などの問題を包括的に解決していく交渉を始める必要があります。話し合わなければ解決しません。

日本は率先して核兵器禁止条約に参加し、朝鮮半島の非核化だけでなく、北東アジア非核地帯へとすすむべきです。敵視する軍事同盟から、協調的安全保障へ切り替えていく。

最後に、イラク戦争などへの彼の対応に納得するものではありませんが、小泉純一郎元総理大臣が2002年に述べたことを引用して終わります。

日朝平壌宣言の原則と精神が誠実に守られれば、日朝関係は敵対から協調関係にむけて、大きな歩みを始めることになると思う。私は北朝鮮のような近い国との間で、懸念を払拭し、互いに脅威を与えない、協調的な関係を構築することが、日本の国益に資するものであり、政府としての責務であると考えている。

布施 祐仁(ふせ ゆうじん)さん
1976年生まれ。ジャーナリスト。著書に『日米密約 裁かれない米兵犯罪』(岩波書店)、『経済的徴兵制』(集英社)、『日報隠蔽南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(共著、集英社)などがある。平和協同ジャーナリスト基金賞、JCJ(日本ジャーナリスト会議)賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞などを受賞。日本平和委員会発行の『平和新聞』編集長を務める。

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自治体の平和行政は今(東京都23区編)

中野協同プロジェクト 竹腰 英樹

1.はじめに

私たちの生活が国政の動向(もしくは私たちの選択)により大きくその状況が変化する―というのは言うまでもない。もちろん、身近な自治体がどの様な政策を取るのかもそうである。平和行政の状況を見ることで、その現状や課題を把握するきっかけとなれば幸いである。記述において、各区のHPを参照した。

2.東京都23区(以下、23区。各自治体は地域名のみとする。)の平和行政の平均的な姿は…

23区の平和行政の平均的な姿を記すなら、平和(非核)宣言を発し、8月には原爆や空襲に関する展示を行ない、区内数箇所に平和のモニュメントを設置する。図書館では平和の展示を行なう。-というのが平均的な姿であろう。

3.区によって異なる平和行政(ハード面)

 とはいえ、区によ平和行政の状況は異なる。ハード面で先駆的なのは世田谷。1995年8月、せたがや平和資料室を区立小学校内に開設、その20年後(戦後70年)の2015年8月15日に、世田谷公園内に平和資料館を新規開設。展示室・ライブラリ・多目的室とその機能は多様で、地域巡回・学校への出前授業等、地域との連携も重視している。また、江戸川では、2018年3月10日に小松川さくらホールに平和祈念展示室を設置した。品川では品川図書館に平和資料コーナーを設置し、各媒体を閲覧・貸し出ししている。中野では2020年10月に開館の新体育館内に平和資料展示室を設置する。

4.ソフト面では…

1982年8月に「憲法擁護・非核都市」の宣言、1990年4月に「平和行政の基本に関する条例」を施行した中野がソフト面の総体としては秀でている。区民として現場職員の奮闘を感じてはいるが、日本非核宣言自治体協議会からの脱退など、不十分さがある。広島・長崎に若者や親子を派遣する事例は少なくないが、港の平和青年団は長崎への2泊3日の派遣を軸に事前研修5回・事後活動4回と充実している。足立の「平和と安全の都市宣言」で人間の安全保障に言及し、その視点は独特である。(残念ながら日々の平和行政には反映されていないようだ。)
葛飾では葛飾原爆被害者の会(葛友会)への助成を行なっている。行政のこのような働きかけは重要だ。コロナ禍下で、多方面でバーチャル情報を活用しているが、中央・中野等で平和と戦争に関わる情報をHPで公開している。

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