安倍晋三首相が政治生命を賭して取り組んできた「米国とともに戦争できる国づくり」=日本国憲法第9条をはじめとする憲法改悪の作業はいま重大な困難に直面している。長年にわたる国会内外呼応したたたかいによって情勢は安倍改憲発議阻止まであと一押しのところまできた。
政治の腐敗・権力私物化が次々と露呈している。公務員の自死まで招いたモリ・カケ・桜にみる文書改ざんや虚偽答弁、汚職の疑惑。訴追逃れのために黒川検事長の検事総長就任を狙った検察庁法改悪策動。河合夫妻と菅原ら自民党幹部の相次ぐ公選法違反事件など政治の腐敗は極まっている。看板の「外交の安倍」「地球儀を俯瞰する外交」はトランプ米国大統領に追従するだけの外交に終始し、日韓、日中、日朝、日ロなど東アジア外交は暗礁に乗り上げている。
この間の新自由主義政策が悪化させた新型コロナ感染症対策の無能と破綻は習近平訪日、東京五輪、ダイヤモンド・プリンセス号の問題、思い付きの小中高一斉休校、アベノマスク、スティ・ホーム呼びかけ、その場しのぎの緊急事態宣言の発令と解除、「日本モデル」礼賛、特別給付金問題の変転、Go-Toキャンペーンなどなど相次いで、人々の不信は増大している。国土強靭化のうたい文句で進められてきた災害対策も破綻し、イージス・アショア配備の撤回などなど、トランプ追従と新自由主義の破綻が限界に来ている。新型コロナ感染の拡大に対してはなんら有効な手立てを見つけられないまま、その場しのぎの対策に終始しただけだし、アベノミクスなどの経済政策も行き詰まり、リーマン・ショックを超える経済危機が到来しようとしている。看板の東京五輪の開催すら危うくなっている。
第1次安倍内閣は2006年9月、「美しい国へ」「戦後レジームからの脱出」などというスローガンのもとに、極右改憲派の切り札として登場し、戦後の歴代政権のなかで初めて具体的な政治日程として「改憲」を掲げた。当時、安倍晋三は「(改憲は)5年近くのスパンで(実現する)」(2006年9月 総裁選公開討論会)などと前のめりの発言をしていた。
しかし、「5年」どころか、翌年、安倍政権は参院選の敗北をはじめ、日米関係の行き詰まりなど、内外政策の困難の中で政権を放り出すことになり、彼の改憲の目標は挫折・中断した。
その後、福田、麻生と続いた自公政権は2009年総選挙の敗北で下野し、民主党が政権についた。野党になった自民党は2012年4月に「自民党憲法改正草案」という本音を丸出しにした「天皇元首」や「国防軍創設」「緊急事態条項導入」などの超復古主義的な改憲案を採択した。しかし、それは世論の動向からかけ離れた改憲案で、支持は広がらなかった。
2012年12月の第2次安倍政権の発足で安倍晋三の憲法破壊の政治目標が復活した。安倍首相は明文改憲が容易でない情勢を考慮し、改憲の迂回作戦にでた。2014年、明文改憲の前に、「法の番人」と呼ばれてきた内閣法制局人事に介入し、それを使って従来の集団的自衛権に関する政府の憲法解釈をかえ、集団的自衛権行使合憲論に踏み込む「閣議決定」を行った。
2015年9月19日、全国の多くの市民の反対行動が高揚する中で、これを正当化する安保関連法の改定(戦争法)を強行成立させた。
「戦争法」は作ったが、にもかかわらず、憲法違反の集団的自衛権全面的行使の合憲化、「戦争のできる国」の実現は憲法解釈の変更だけですすめるには無理があり、安倍首相らは引き続きこの障害となっている第9条の明文改憲をめざした。
「戦争法で憲法9条は死んだ」などという論者もいるが、「どっこい、生きている」からこそ、改憲派は懸命に第9条をターゲットにしている。
だが世論の多数は9条改憲に賛成しなかった。憲法は「9条」に限ってみると、改憲賛成と反対がダブルスコアの差がついていた。そこで安倍首相は2017年5月3日、従来の「自民党憲法改正草案」を棚上げにし、憲法9条の文言をそのまま残し、これに自衛隊の根拠規定を加えるだけと称する新しい改憲案を提起した。これはその後、2018年3月、自民党の4項目改憲案にまとめられた。
しかし、この「4項目改憲案」も国会の憲法審査会では議論にはいれないまま、2年半が過ぎた。憲法審査会は安倍首相が度々繰り返す違憲発言をめぐって紛糾し、また改憲の前提条件としての国民投票を実施する際の手続法の修正をめぐって与野党の意見が対立し、決着がつかなかったからだ。
この改憲手続法における与野党の対立は、法の修正を改定された「公職選挙法」並びの改正にとどめ、一刻も早く改憲案の審議に入りたい与党と、テレビCMのありかたなど、国民投票の公平・公正が担保されないという欠陥法の抜本的再検討を行えという野党側との立場の違いにある。2020年の第201通常国会もこの対立が解けず、憲法審査会の実質審議は1回行われただけであり、改憲手続法は継続審議となった。
新型コロナ感染症対策の失敗など内外の諸問題で難問続きの安倍首相を隠すかのように政府と与党は野党各党が国会会期延長を叫ぶ中で、6月17日、逃げるようにして第201国会を閉じた。
安倍晋三首相は通常国会閉会後、改憲問題について相次いで発言した。
「総裁任期の間に憲法改正を成し遂げていきたい。その決意と思いに、いまだ変わりはありません」(6月18日)。「(総裁任期は)まだ1年3カ月ある。なんとか(改憲の賛否を問う)国民投票まで行きたい」(6月20日)と。
安倍首相がいうように、総裁任期中(2021年9月)に国民投票で改憲の是非を問うためには、議論すべき国会はこの秋の臨時国会と来年の通常国会の2回しかない(安倍首相は秋の臨時国会もやりたくないという意向を漏らしているとか)。
そのためにはまず、この間、与野党の間でもめて来た改憲手続法(国民投票法)問題に決着をつけなくてはならない。これは野党の反対は必至で、臨時国会中に決着をつけることは容易ではない。強行したとしても、その上で来年の通常国会の憲法審査会で4項目改憲案の議論を行い、改憲原案を取りまとめる必要がある。それを衆参両院で3分の2以上の支持で議決し、改憲を「発議」する。そうしてようやく「国民投票」に持ち込むことができる。
この議論のためには最速で半年余りしかない。国民投票は法律で改憲発議後2~6カ月の間に実施することになっているから、最短で2ヶ月(9条改憲という最大の改憲問題から見てあり得ないことだが)と考えても7月には発議しなくてはならない。これではまともな国会審議は不可能だ。
安倍首相は6月20日、「民主主義は全員のコンセンサスがとれればいいが、それは無理だ。その時は多数決で決めていく」とのべて、強行採決を示唆した。
憲法という国の最高法規の改定問題をわずか半年の国会で採決することは議会制民主主義の否定であり、破壊だ。国会内外がかつてない騒然とした革命的な情勢になることは必至だ。
まして参議院では2017年の選挙の結果、改憲賛成派は3分の2を得ていない。改憲を強行するには来る衆院選で3分の2を大幅に超える議席を獲得し、その圧力で参議院の野党を揺さぶり、構成を変えて両院で3分の2にしなくてはならない。
しかし、安倍首相の政治的基盤が揺らいでいる。
安倍首相による改憲が難航し、またこの間、公約した内外の諸政策に目覚ましい成功実績もないなかで、安倍首相のコアな支持層の不満は増大している。「期待を裏切られている」からだ。何よりも先の第201国会の終盤のように安倍首相自身が政策推進能力を失っている。
各報道機関による世論調査の結果は、いずれも「安倍首相の下での改憲は望まない」「改憲が緊急の課題ではない」「憲法9条の改正は不要」などなどが多数を占めている。
安倍首相の岩盤支持層の足場となってきた右派系の雑誌などは、一向に進まない改憲にしびれをきらし、いらだちを示している。
国会閉会時の強気な首相発言はこの岩盤支持層の離反を恐れるリップサービスにすぎない。
明文改憲が困難でも、安倍政権の政治生命を維持するために極右派の支持をつないでおくには、実質的な改憲状況、「戦争のできる国」づくりを進めることが必要だ。
今回の安倍発言では防衛大綱や国家安全保障戦略の見直し着手などに見られるように、中国・朝鮮の脅威を煽り立て、イージス・アショアの失敗から、敵基地攻撃能力の保持に向かうなど、専守防衛を基本にした従来の安保・防衛政策の重大な転換をはかろうとしている。日米安保の役割分担を変えて、空母建設や弾道ミサイルの保有など米国の武器を爆買いして自衛隊の外征軍化が進み、宇宙軍の創設・強化と合わせて敵基地攻撃能力の保有を進めている。「海外で戦える自衛隊」化の推進だ。
これで戦争が避けられるというのはおとぎ話のたぐいだ。この道はいたずらに東北アジアの緊張を高め、この国の前途を破綻させる危険な道だ。
遅かれ早かれ、安倍首相の任期中には解散・総選挙がある。立憲野党と市民が協力して安倍改憲勢力の3分の2議席確保を阻止することができれば、安倍改憲発議は不可能になる。
2017年の参院選で野党はかろうじて3分の1議席を超えた。この時の野党共闘の軸となった「13項目の共通政策」のいっそうのブラッシュ・アップが必要だ。政党間の議論と独自の政策の主張は必要だが、共同のためには「有利有理有節」とリスペクトが不可欠だ。
意見の異なる政党同士が安倍政権打倒で共同するためには、お互いの意見の合意できる点と相違点を見極め、意見の違う政策を共同の条件に持ち込まないことが必要だ。
自己の政党の勢力伸長のみをはかり、野党の結束を乱すような動きはセクト主義の利敵行為で許されない。
この際、市民から野党を分断させない声を上げなくてはならない。共同を実現するうえで市民の力は決定的だ。そのうえで、立憲野党は結束して維新や希望などの第2自民的な動きを許さない。
私たちのたたかいは改憲発議を阻止して安倍政権を倒すか、安倍政権を倒して改憲発議を阻止するか、いよいよ最終局面に近づいた。
(事務局 高田健)
お話:飯島滋明さん(名古屋学院大学教授・憲法学)
(編集部註)6月20日の講座で飯島滋明さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
私は授業で緊急事態宣言について、ドイツのメルケル首相とフランスのマクロン大統領のテレビ演説を学生に読ませてレポートを書かせました。フランスのマクロン大統領の演説を読んだ感想として、「なぜ外に出てはいけないかということがよくわかった。すごい説得力があった」という言い方をしています。ドイツのメルケル首相の演説では、「国民のことを考えているということがよくわかる。これだったら強制力があるなしに関わらず従うだろう」と話しています。
安倍首相の演説を見て感動したという人はどれくらいいるのでしょうね。私は聞いたことがないんですね。星野源さんの「うちで踊ろう」とコラボしたときに、ゆったり座ったりしていましたが、「ほっこりした」という学生もいましたので、ちょっと感覚がちがうのかなと思いますが、私はあの動画を見る前の日に、保育士さんが子どもたちを抱きかかえている場面を見ました。子どもたちはよくわからないので寄ってきたりしますね。保育さんは「来るな」とは言えないですね。それで抱きかかえていました。ああいう保育士さんたちが、あの場面を見たらどう思うのだろう。やっぱりそういったことに関する感性がまったくない人だ、国民感覚に沿っていないと思われるのではないということは非常に感じました。
いま緊急事態宣言は解除されましたけれども、緊急事態宣言とは何なのかということです。2012年に新型インフルエンザ等特別措置法が成立します。これは民主党政権のもとでの特措法です。そして今年1月に、日本でも新型インフルエンザに対応しなければいけないのではないかということが問題になりました。立憲民主党などは1月末くらいから新型インフルエンザ等特別措置法を適用してコロナに対応するべきだと一生懸命主張していました。それがいいかどうかはともかく、適用できるというのはそうだと思います。けれども安倍首相はこれを適用しない、改正しなければいけない。新型インフルエンザ等特別措置法の「等」のところに新型コロナウィルスという文言を入れなければだめだということを主張して、3月に改正新型インフルエンザ等特別措置法を成立させます。この新型インフルエンザ等特別措置法に基づいて4月7日に緊急事態宣言を7都府県に出します。さらに7つの都府県だけではだめだということで4月16日、全国に拡大します。
4月7日の時点で、この緊急事態宣言は1ヶ月程度で5月6日には解除するということでしたが、さすがに1ヶ月では無理でさらに延長を決めます。延長を決めたけれども、5月14日に緊急事態宣言を一部解除します。さらに5月26日には緊急事態宣言を全面解除します。
ドイツの場合は政府だけで緊急事態宣言を出す、あるいは解除するというのはヴァイマールの過去から危険だということで、政府ではなく連邦議会です。日本の場合は総理大臣の一存で国会の審議もなしに緊急事態が宣言できてしまう。フランスの場合は、緊急事態に関するものとしては国会だけではなくて裁判所も関与しています。そうやって緊急事態宣言を出す法律あるいは憲法が、濫用されないようにということがドイツやフランスではなされています。日本の場合は総理大臣が専門家会議に聞いたという体にして、緊急事態を宣言できてしまう。そういうことにも問題があるということをあとで紹介します。
さらに、この新型コロナウィルスを名目にして憲法改正論議が出てきています。これもドイツとかフランスとの大きな違いです。ドイツやフランスはいかに憲法違反させないようにするか、いかに民主主義あるいは人権を制限しないように、濫用しないようにするかという議論を進めるのに対して日本の場合はそうではない。例えば日本維新の会の馬場幹事長はこういうことを言っています。「感染症の拡大は良い教本となるはずだ。緊急事態条項について国民の理解を深めていく努力が必要だ」。それからこれも良く紹介されましたが「〔感染症拡大は〕緊急事態のひとつの例。憲法改正の大きな実験台と考えたほうがいいかもしれない」。自民党の伊吹元衆議院議長はこういうことを言っています。
憲法改正に関わっては2つの議論が出ています。コロナに関して、今の憲法体制では対応できない。だから憲法に緊急事態条項を導入してコロナに対応すべきだというのがひとつの改憲論です。もうひとつが国会機能の確保、このために憲法改正が必要だということを自民党は言い出しています。例えば新藤義孝さん、憲法審査会の与党筆頭幹事です。彼は主に2つのことを言っています。憲法56条は本会議の定足数について総議員の3分の1以上と定めています。万が一感染が国会議員に広がった事態を想定して、定足数を欠いても国会の機能を確保しうる、その方策を議論していくことをまず主張しています。もうひとつ憲法45条では衆議院議員、憲法46条では参議院議員の任期が明記されています。しかしコロナの感染が広がることによってこの任期中、衆議院の場合は4年間、具体的には来年10月21日に任期が切れます。そこまでコロナの感染が広がったことによって衆議院選挙ができない場合を想定して、憲法改正論議をすべきではないかということを新藤義孝さんは言っています。話を戻しますと、一つはコロナに対する対応のため、もうひとつは国会の機能を維持するという観点から憲法改正の議論を自民党や日本維新の会が始めている。これについては公明党も同じことを言っています。このことについて話をしてみたいと思います。
コロナを名目とする憲法改正がいいのかどうか、それから特措法について紹介したいと思います。コロナ感染を名目とする緊急事態条項導入の問題点についてですが、そもそも緊急事態条項とは何なのか。国家緊急権というのは戦争であったり内乱や自然災害が起こったりしたときに、特定の国家権力が、わざとドイツ、フランスに倣って行政権ではなくて「執行権」という言葉を使いますが、総理大臣とか大統領などの人たちについて、今は非常事態だから何をやってもいいと、憲法に従わずに行動していいとすることです。
本来立憲主義というのは個人の権利・自由を守っている、「みなさんにはこういう権利があります」「こういう自由があります」ということを守っています。それを国家権力、政治家や大統領、内閣総理大臣あるいは国会議員、裁判官は守りなさい、ということが立憲主義の考え方です。でも戦争や内乱あるいは自然災害のときにはそんなことは言っていられない、憲法は守らなくていい、権利・自由は守らなくていい、ということが緊急事態条項、国家緊急権になります。これを憲法に書き込むということが緊急事態条項です。
今年の5月3日に、安倍首相は自衛隊を憲法に書き込むことが必要だといっています。懲りない人ですよね。それ以上に憲法を改正して緊急事態条項を憲法に書き込むべきだということもいっています。この問題点としては、まず本当に憲法を変えなければできないことなのか。
例えばフランスの場合、憲法36条に戒厳令があります。その戒厳令を使わないで、そういう危険な方向に持っていかないようにと法律で対応しています。3月23日に公衆衛生緊急事態法がつくられています。この法律を5月10日に改正して、7月10日まで延長されることになっています。あくまでも緊急事態の法律なので長くても2ヶ月です。日本の場合、改正特措法は2年間適用されますけれども、これでは長すぎる。フランスの場合は2ヶ月で区切られています。新聞などを見たら10月まで延ばそうかという議論も出ていて、もしかしたら延びるかもしれませんけれども、少なくとも、今の段階では7月10日までとなっています。もともとは7月24日までにしようという話でしたが、長すぎるということで7月10日にしたんですね。1ヶ月後になればフランスの状況も変わっているかもしれませんけれども、2ヶ月でも長いという考え方で議論されています。
ドイツにも、もちろん緊急事態条項に関するものもあります。でもそういったものを適用するのは危険だということで、あえて法律で対応しています。法律で対応して、生活補償などは申請して2日くらいでお金が振り込まれたとテレビでも報道されています。
みなさんのうち10万円の給付金をすでにもらった人って、どのくらいいますか。私は一昨日くらいに書類が届きました。アベノマスクは届いていますか。まだ届いていない人もいるんですよね。欲しいかどうかはともかくとして。余談ですが私は大量に持っているんです。なぜかというと医療関係者が使えないということで。医療現場にはかなり早い段階で届いています。私は医療の法律もやっているのでお医者さんとの関係もあって、これは使えないと。これも5月中にほとんど届いていないという話ですよね。緊急事態宣言が解除されてから届いたという人がたくさんいる。ドイツやフランスでは補償がすぐにされる。
いま日本で求められている対策として「PCR検査の拡大、医療体制の充実、マスク・防護服の調達、隔離施設の確保、休業補償、DV対策、精神的支援、学生への学費等の支援、高齢者の健康確保」などがあると思います。「DV対策」は特にジェンダーの視点から無視できないことです。これは国際的な問題になっています。ただでさえDVが問題になっていて対応が取れていないのに、結局家にいろということとになると、ますます加速するということで大きな問題なっています。あるいは精神的支援、「1ヶ月ずっと家にいろ」と言われておかしくなってしまう人もいます。外に出ることはどれだけ幸せかということが実感でわかった人も多いと思います。
あるいは学生への学費等の支援です。学生と接していて感じますけれども、アルバイトが切られてしまう。特に地方の人などは戻れない。帰ってくるな、などと言われてしまう。お金もないしバイトもできない、家でポツンといる。学費も大変なことになる。今バイトができはじめたので、やっと何とかなるという学生もいますが、やっぱり学費が大変だと言っている学生がいます。学生の13人にひとりが退学を考えているし、入学しても費用がないということになってしまいます。高齢者も「外に出るな」といわれたことで歩けなくなってしまう。歩くということの大切さは認識していただいたと思いますけれども、それがひとつの健康維持になる。歩けないと足腰が弱ってしまう。こういったように日本で求められていること、政府がやるべきとされていることはたくさんあります。
この中で憲法を変えなければできないことって何ですかね。全部法律で対応できると思います。法律すら必要ないかもしれない。憲法改正によって緊急事態条項を導入しなければ解決できない問題があるのであれば、それを挙げてもらうことが必要です。古い話になりますけれども、亡くなられた佐々淳行さん、テレビなどで危機管理のプロだと言っていた方です。彼は憲法を変えろということをさんざん言っていましたが、何が具体的な対策として求められているかというと「ヘリコプターを買え」ということしか言っていない。ヘリコプターを買うのに憲法を変えなければいけないのか。
東日本大震災のときに瓦礫がたくさん出てくる。その瓦礫を処分するのは憲法29条の財産権の侵害になる。このために緊急事態条項が必要だということをもっともらしく言うけれども、これだって法律で対応できます。29条3項には「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」という規定があるわけですから法律をつくれば対応できるんです。ですから憲法を変えなければ対応できないなんていう話はありません。憲法を変えるべきだというのであれば、一体何が憲法を変えなければだめなのかということをまず挙げてもらうことが必要だと思います。
いまコロナの政策で世論調査の統計を取っても、日本政府が十分対応できていると答える人はあまりいないと思います。これは憲法のせいなのか。マスクについて菅官房長官は2月12日に何と言ったか。「来週以降には増産体制が整う。マスク不足はすぐにでも解消できる」と発言をしました。やっぱりほら吹きですよね。私は彼が信用できないと思ったのは第1次安倍内閣のときからです。彼は総務大臣で、NHKに対しても干渉すべきだと言ったんですよ。安保法制のときに何と言ったのか。長谷部恭男早稲田大学教授などが自民党から推薦されながら、集団的自衛権行使は憲法違反だと言ったときに、菅官房長官は「安保法制や集団的自衛権行使が憲法違反じゃないと言っている憲法学者はいっぱいいる」と言ったんですよ。憲法学会の誰の発言だろうと思って、「たくさん?」と思ったら3人なんですね。そしたら「数じゃない」と言い出す。ですからあの人はほら吹きだ。メディアなどが取り上げてさも慎重な人だみたいなことを言っていますけれども、安倍首相と一緒で根拠のないことを平気で言う人なんですね。マスクが安くなったのはアベノマスクが出回ったからだ、というような言い方をしています。
安倍首相も同じようなことを言っています。でも結局5月25日、緊急事態宣言が解除された段階でも8割近くにアベノマスクは届いていない。結局は260億円くらいと言われていますが、当初は466億円と言われていました。しかも1世帯2枚で、3人家族では対応できない。これが本当に合理的な政策だと思っていたのかどうか。マスクを配るのが当たり前だとしても私たちの税金という意味で本当に260億円を使う価値があるのかどうか、そこをちゃんと考えないといけないと思います。
これに使うのであれば人工呼吸器あるいはお金に困っている学生などの支援に使った方がいいのではないか。こういったことは経済学者じゃなくても考えつくことです。タレントのデヴィ夫人なども、マスクの発注額は90億円なのに、「その差額、376億円はいずこへ?」と述べた上で、「このようなコロナウィルスの脅威にまで、利権をむさぼる政治家、行政、商社関係者達、天罰下るべき!!」といっています。安倍首相のことをかばうわけではないですが、ちゃんと説明すれば納得すると思うんですよね。ドイツやフランスの首相とか大統領のことを紹介したのは、彼ら彼女らは一生懸命国民のために訴えているから従うのでしょう。このアベノマスクにしてもどこの企業に発注したのかも説明しない。やっぱり説明責任を果たしていないという意味でも、マスクが配れないのは憲法のせいでも何でもない、政治の問題だと思います。
定額給付金も、用紙が私のところに届いたのは一昨日です。安倍自公政権のコロナ対策が遅くて不適切なのは憲法どころか法律のせいですらない。ロイターの2020年2月25日付けでは、「Where's Abe?(安倍さんはどこにいるの?)」という皮肉が掲載されました。要するに何もやっていないだろうと外国から批判されています。このときはオリンピックをやりたいということで積極的な対応を取らなかった。コロナ感染者がたくさんいることになると東京ではできないという議論になってしまいます。それは怖いということで後手後手の対応になってしまった。その結果がこのニュースです。これに関しては小池さんも同罪だと思います。実際に自分達の対応が適切でない、早くもないことを棚に上げて、その責任を憲法のせいにするのは責任転嫁だと思います。ここはしっかり訴えていく必要があると思います。
よく憲法学者は憲法が大切だと憲法をお経のように唱えている、だから変えたくないんだろうという言い方をされます。私の先輩の愛敬浩二さんなどとも話しますけれど、憲法を変えてはいけないなんて思っていません。必要なら変えればいいんです。ただ安倍さんたちのような変え方をしたらとんでもないことになる、だから変えないということが、多くの憲法学者の意見です。天皇制をなくせというなら私は喜んで賛成します。あるいは刑事手続きに関して、もっと被疑者の権利保障は喜んでやるべきだと思います。今のとんでもないえん罪のことを考えれば、国選弁護を憲法上認めるとかそういう憲法改正はあっていいと思います。ですから憲法をいじってはいけないなんていうことはまったく考えていませんけれども、こういう緊急事態条項を入れましょうとか、憲法9条を変えて世界中で戦える国づくりをしましょうとか、こういうことを言うから反対しましょうということになる。そもそもコロナに関して対応できないのは憲法のせいではなく、政府の対応のまずさだということを訴えていく必要があると思います。
緊急事態条項に関する改憲論については、やはり注意する必要があると思います。いまの法律に基づいて緊急事態宣言が出されましたけれども、これに対しては世論でも賛成の人は多いと思いますね。この緊急事態宣言と緊急事態条項は同じなんだと、世論を誘導しようとしている節が見られます。けれども、それはまったく別物だということも私たちは主張していくことが必要だと思います。
どう違うのか。5月26日までなされた特措法に基づく緊急事態宣言では、あくまで警察あるいは総理大臣ができることは憲法の枠内です。一方、緊急事態条項は国家緊急権と呼ばれるものを憲法に書き込むことです。緊急事態宣言が出されたときに、私は警察がどういう動きをするのか非常に警戒していました。もしかしたら根拠のない身体拘束とか事実上の強制力を及ぼすのではないかと。あれができなかったのは、やっぱり憲法上の緊急事態条項ではないからです。
災害対策基本法というものがあって、それに基づいて指示や要請が出た場合、行政法的には警察はつかまえてもいいということになっています。レッカー車の移動とか、駐車違反の自転車の撤去のように、人に関しても「そこにいるな」という指示を出して、従わない場合に警察は身体拘束をして動かしてもいいということにはなっています。それに近いことをやるのではないかと思っていました。特に特措法45条に基づく指示や要請を出したときに。でも大阪府警のようなところでもどうしていいかわからないと言っていたということは、やはり憲法の規範が生きていたからだと思います。
憲法で言いますと、「奴隷的拘束及び苦役からの自由」ということが18条にあります。むやみやたらに警察官が身体拘束をしてはいけないということが憲法の規定にあります。あるいは31条の「適正手続主義」。もちろん警察官が逮捕するようなことはあるでしょう。あるいは身体拘束ということもあるでしょうが、そうであっても人権を守りながらやりなさいということが、31条の要請です。あるいは「残虐な刑罰の禁止」、36条です。殴ったりしてはいけないということも含まれます。むやみやたらに捕まえたり、どこかに強制的に移動したりしてはいけない。憲法33条、35条の「令状主義」では、警察官がやってはいけないことがたくさん書かれています。ですから特措法に基づいて何かされたとしても、この規定は生きてきます。改定特措法には土地や建物を取り上げてもいいと書いていますけれども、この場合でも憲法より下ですから29条3項に基づいてお金は払わなければいけないことになります。あるいは政府の批判や出版を禁止するということなども、憲法21条を根拠に許されないということになります。特措法上はそうなります。
しかし憲法上の緊急事態条項だとどうなるかというと、コロナが感染している、だからコロナを感染させないということを口実に、警察官がつかまえてどこかに連れて行ってしまうということが憲法上許されることになってしまいます。土地とか家屋を強制的に取り上げたとしても、非常事態だからということでお金を払わなくてもいいということになる可能性が出てきます。法律の下で行われる非常事態というのは、あくまでも憲法に従ってやらなければいけない。憲法29条3項では、もし個人の財産または土地を取り上げたりしたときには補償しなさいと書かれていますので、法律でやる場合はこれを補償しなかればいけないんです。しかし緊急事態条項は憲法を守らなくていいという規定ですから、土地などを取り上げても憲法違反にならない可能性が出てきます。内閣あるいは警察官などが憲法を守らなくていいというのが緊急事態条項ですから、政府を批判したら捕まえてしまう、あるいはそういった集会を許さないということも憲法上許される可能性があります。
フランスの例を挙げますが、1961年にアルジェリア危機を名目にしてフランスで国家緊急権が発動されました。1961年ですから、1945年の第2次世界大戦のあとで、フランスでアルジェリア独立を巡ってパリが占領されるという事態も起こりそうになったということで、ときの大統領であったド・ゴールが憲法16条に基づいて緊急事態を発動していろいろなことをしました。そのときに何が行われたかというと、警察官に少なくとも48人が殴り殺されています。第2次世界大戦以降です。そのフランスの公文書を見ますと、水攻めとか拷問ということが出てきます。少なくとも48人ですからもっといるかもしれません。確かに反乱が起こりそうになったけれども、反乱自体は4日間で収束されている。
でも結局緊急事態はその後2年間続けられています。テロが起こるかもしれないという口実です。政府批判の出版も許されないということも2年間続いています。私が一番目を疑ったのは、本人が出席していない状況で死刑判決が出されている。その死刑判決が無効になったのは1980年代です。1961年に起きた緊急事態の発動によって、本人が出席しない状況で死刑判決が出されている。20年近くその死刑判決は有効だった。憲法上緊急事態宣言が発動されるとこういったことが起こります。「人権」というものが生まれた国フランスでさえもこういったことが起こる。第2次世界大戦が終わって人権を大切にしなければいけないということが国際的に広がっているはずにもかかわらず、こういうことが起こり得るんですよね。
今度はドイツの例を紹介します。ヴァイマール憲法の緊急事態条項は1919年から1933年まで250回以上発動されます。ヒトラーが250回発動したわけではなく、ヴァイマール共和国の時代に250回発動されています。初代大統領エーベルト、1925年まで大統領でしたが、彼のときに反乱とか暗殺が横行します。ヴァイマール共和国が生き延びられなかった理由のひとつに、優れた指導者がいなかったということがいわれます。なぜ優れた指導者がいないのかというと、暗殺が多かったんですね。暗殺が起こるたびに緊急事態条項が発動されて、犯人の取り締まりなどをやった。ヒトラーも1923年に反乱を起こしています。その反乱の対応のためにも緊急事態条項が発動されています。初代大統領のエーベルトの時代の緊急事態条項の発動は、やむを得なかったのではないかという議論の方が恐らく多いと思います。
日本でも緊急事態条項は必要だという人もいるかもしれませんけれども、これが悪用されたらどうなるのかということです。初代大統領エーベルトが亡くなってヒンデンブルクが2代目大統領になります。ヒンデンブルクは元軍人です。あまり政治に関心がなく、総理大臣に勝手に政治をやれといいます。1932年に総理大臣になったパーペンとか、1933年に総理大臣になったヒトラーみたいにとんでもない人が出てくると悪用されます。緊急事態宣言は大統領が出すもで、総理大臣が「どうしますか」と持ってくる。それに対してだめならだめだとはねつければよかったけれども、ヒンデンブルクは元軍人で政治に関心がなかったので、「好きにしろ」ということでどんどん発動してしまった。それでパーペンという人が悪用する。プロイセンというところが当時のドイツの5分の3を占めるところでしたが、そこの総理大臣を緊急事態条項でつぶしてしまったんですね。例えば、東京都知事を緊急事態条項でクビにして東京都の役所を全部軍隊で占領するようなことをやりました。これで地方自治が破壊されてしまった。ですからナチス独裁の前段階とドイツではいわれています。
そのあとヒトラーが何をやったかというと共産党、社民党、労働組合を徹底的に弾圧します。ヒトラーが総理大臣になったのが1933年1月で、その年の秋までに10万人をつかまえてしまいます。つかまえた理由が「精神的におかしい」ということです。ですから収容所に送って「教育」しなければいけないと、保護検束をします。あるいはヒトラーに背く人たちをつかまえてしまう。さらに1933年3月23日、授権法と呼ばれるヒトラーが法律をつくって適用できるようにする。何でもできますよね。「私の目を見たものを死刑にする」、法律をつくって適用してしまう。これが全権委任法、授権法といわれるもので、そういうものをヒトラーはつくってしまいます。それ以降、法律もサインは大臣がしなくなります。ヒトラーだけです。ヒトラーだけが法律を作れてしまうものですから、法律の数が増えます。そういうことによって緊急事態条項が悪用されて、もっとも民主的、もっとも進歩的といわれたヴァイマール共和国はたった14年間で終わってしまいます。
女性の選挙権はスイスは1971年です。フランスだって1946年です。ヴァイマール共和国では1919年に、男女平等だと憲法に書いたわけです。実際にそれが適用されたかどうかはともかく、そういった進歩的な内容を持っていました。大統領というのもヴァイマール共和国のもとでは直接選んでいました。もっとも民主的、もっとも進歩的といわれたヴァイマール共和国がたった14年間で幕を閉じたのは、この緊急事態条項が原因です。緊急事態条項が自然災害に必要だという議論もよく聞くけれども、万が一悪用されたときは逆にとんでもないことになる。こういう危険性があるということはしっかり認識していただくことが必要だと思います。
先ほど新藤義孝さんの話を紹介しましたが、コロナの拡大によって国会議員がたくさん感染してしまう。3分の1以上が出席できないような状況になってしまうかもしれない。そのために憲法上何らかの対策が必要ではないか。もしかしたらコロナの感染が大変な状況になって来年10月21日の衆議院選挙ができないかもしれないから、延長するなりの規定を作った方がいいのではないか、ということを主張していました。今もホームページで紹介していたと思います。
コロナ感染で定足数が満たせない、3分の1を満たせない場合を想定しての憲法改正の論議についてです。さきほど私のパソコンに映っていたのは授業で使っているTeamsというものです。あるいは弁護士さんたちとの打ち合わせではZOOMを使うことが多いですが、別に憲法には「その場にいろ」ということは書いていません。もちろんこれを原則にしてはまずいと思います。やっぱりTeamsやZOOMではちゃんと話しきれないところがあるので、基本的には現場にいることが原則ですけれども、例外的な状況に限ってZOOMやTeamsを使ってはいけないということは憲法的には書かれていません。ですから公職選挙法とかそういうもので、臨時的な措置をとればいい。ヨーロッパ議会では、暫定的な措置として7月31日までRemote Voting(遠距離投票)、ZOOMでのやりとりをしましょうということになっています。
EU議会の資料を見ると各国の取り組みも紹介されていて、スペインではもっと前からやっています。下院では議院規則の82条、上院では92条を根拠にして、妊娠している女性や重大な病気を持っている人については、リモート投票を認めるということが行われています。確かに原則はやっぱり現場にいることが大切だと思いますけれども、緊急的な場合にこれをしてはいけないということは憲法に書かれていないと思います。むしろ憲法58条では何を「出席」と見なすかは、多くの議員が議論に十分に参加し、採決できる状況にあるという範囲内で一定程度、各議院の裁量が認められていますので、例外的な場合にやむを得ないかたちでこういったことを設けることは憲法上違反とはされないと思います。ですからこの問題も別に憲法をいじる必要はない。この3分の1という要件に関しても、いろいろな対応の仕方があります。これも憲法を変えなくても対応できるということは紹介したいと思います。
次に、憲法45条で衆議院の任期は4年間になっていて、46条で参議院の任期は6年になっています。万が一、4年目や6年目にコロナの感染で投票ができないことを考えて、憲法を変えることを議論した方がいいのではないかと新藤さんは言っています。しかし自民党や公明党の議員に聞いてみたいのですが、オリンピック、パラリンピックはあきらめたんでしょうか。そんな状況だったら当然できないですよね。もしこの議論が必要だったらという話ですけれども、そうであればオリンピック、パラリンピックは無しなると思います。それでいいのであれば、その議論をしてもいいとは思います。
でもこれも今日の講座だって距離を取って対応できていますし、今はスーパーなどでも距離の確保などは普通に行われているわけですから、やり方を変えればいくらでもできます。投票所などでの投票者間の距離の確保、期日前投票の期間を長くするなどの対策を公職選挙法などで決めれば良いだけです。公職選挙法すら変える必要はないかもしれない。その場の運用で済んでしまう話かもしれません。例え法律を変える必要はあったとしても憲法を変える必要はまったくない。新藤さんにすれば、こういう議論を打ち出せば乗ってこざるを得ないと思ったのでしょうが、こうやって簡単に返せる議論なんですね。実は、新藤さんのおじいさんは硫黄島の戦いでアメリカ軍に恐れられた栗林中将です。栗林中将は合理的な作戦を考えてアメリカ軍を苦しめたということで、アメリカでも評価が高いですね。彼の中にあったのは、日本の官僚化した固定観念に縛られた考え、それに対するアンチテーゼとしてある程度合理的な作戦をとったのだと思います。そのお孫さんがこのレベルですかね。おじいさんは泣いているんじゃないかと思います。
こういったように憲法を変えろという議論を大きく分けますと、コロナ対策の関係で緊急事態条項を導入しろということ、あるいは国会もコロナ感染のために国会議員が3分の2以上病気になってしまうかもしれない、選挙ができないかもしれない、こういう議論に対しては憲法改正は必要ないということを紹介させていただきます。
改正特措法に関しては何が問題なのか。根本的な問題点として、メディアでいわれているのは罰則や強制力がないということがあります。よく取り上げられていたのは休業要請に従わないパチンコ店がありました。これらを例に挙げた上で、やはり強制措置がないからだ、休業要請に従わない企業に対しては罰則を設けるべきではないか。これは安倍首相も国会で言っています。 感染症の拡大を防ぐという目的から、外出の自粛や休業要請、これに違反した人や企業に対して罰則を設けることは、憲法的にはもちろんできます。やろうと思えばできます。
憲法学者によっていろいろな議論があると思いますが。ここでは2つ挙げたいと思います。例えば憲法25条2項「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」――「公衆衛生」という言葉があります。やはり感染症の拡大を防ぐ、公衆衛生を守るために外出を禁止するということ自体が憲法違反になるということは、憲法上は言えないと思います。あるいは憲法13条には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」。感染症を防ぐという「公共の福祉」の観点から外出は自粛してください、守らないと罰則を設けますということは憲法上可能です。ただもしそれをやるのであれば生活保障、休業補償も公権力の法的義務として入れるべきだと思います。
パチンコ屋さんとか居酒屋さん―さきほどの安倍首相のパートナーは違いますよ―、生きるために仕方なくやっている人はいますね。ですからただ法律違反だ、悪質だと言える性格のものかというと、生きるためにやむを得なくやったという人もたくさんいると思います。その人たちに対して、「悪人だ、だから罰則を設ける」というのは憲法上やりすぎだと思います。ですから罰則を伴う、そうやって感染症を防ぐということは憲法上やむを得ないこともあると思います。それをやるのであれば、憲法25条1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を根拠にして、ちゃんとした補償をすべきです。これが無くて罰則だけ設けるということであれば、それこそ憲法違反だということも場合によっては言わざるを得なくなるかもしれません。「お金は払いません、ただし働くな、働いたから罰則だ」、そういうことになりますよね。
これも聞き慣れない言葉かもしれませんが、「生存権の自由主義的側面」ということです。憲法25条の生存権についてですが、どうしても自力で生活できない方は出てきます。失業などで働けなくなってしまった、本人のせいではないにもかかわらず働けない状況が出てくる。そういう人に対しては、国あるいは自治体がちゃんと健康で文化的な最低限な生活を補償しなさい。それができければそれに見合うような法律をつくって、場合によっては裁判で争うことができる。これがいわゆる「生存権」だと一般的に言われていたと思います。生存権裁判と言われた朝日訴訟や堀木訴訟はじめ、いろいろありましたけれども、それは生存権の社会的側面です。
憲法25条にはその前提の自由権的な側面があります。それは何かというと、「生命や最低限度の生活を国や自治体に侵害されない権利」、「生きることを奪ってはいけない」ということがあります。例えば生活できないほどの高い税金を課してみたり、生命そのものを奪うということは、憲法25条1項の自由権的側面を侵害するもので憲法違反だとされています。「お前ら働くな、ただし補償もしない」ということであれば、そもそも生きること自体を否定することにつながりかねない。公衆衛生の観点から外出するな、営業するな、それに違反したら罰則だということは可能ですけれども、それをやる以上はそれに見合うだけの休業補償であったり生活保障を法的にやらなければ、憲法違反になる可能性があるということです。どうもこの頃のメディアは、産経とか読売のような保守的なメディアだけではなくて、リベラルなメディアでも罰則を付けろということを主張する人たちもいるようですが、この議論は抜けていると思います。
フランスの例を挙げます。先ほど3月23日に公衆衛生緊急事態法ができたと紹介しました。その2日後に「オルドナンス」、行政立法でこういう特別な補償を迅速にやっています。これだけではなくてたくさんあります。障がい者の方、生活困窮者のための社会保障の権利の行使、給付期間の延長、申請手続きの簡素化などです。ドイツもそうですが、本来ならば書類はちゃんと書かなければいけないけれども、とりあえず書類はあとでいいから簡単に出せということをやっています。オルドナンス317号で、「国、自治体、企業による『連帯基金』の創設、財政的危機にある企業・個人事業主への資金援助」、322号「病欠者に対する追加手当の支給、大賞従業員の拡大等」、324号「失業手当の支援機関の延長等」などがあります。
あるいは3月27日の346号のデクレも行政立法のひとつですが、それとあわせて「企業は従業員に額面給与の70%の支払い、企業が従業員に支払った額は6927ユーロまで全額国が補助。」ということを公衆衛生緊急事態法ができてから4日後にフランスはやっています。フランスではこうして迅速に手続きが取られています。フランスでは罰則がある、ドイツでも罰則があると言われています。フランスでは罰則がきついということは確かです。しかしこういった補償があるということも紹介しないとバランスを欠くのではないかと思います。
では、今年3月に変えられた改正特措法の問題ですが、緊急事態宣言の要件があいまいだということが挙げられると思います。読み上げますけれども、「①新型インフルエンザ等(国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与える恐れがあるものとして政令で定める要件に該当するものに限る)が国内で発生(改正特措法32条1項前段)、②当該疾病の全国的かつ急速なまん延により国民生活および国民経済に甚大な影響を及ぼす恐れがあるものとして、政令で定める要件に該当する事態(改正特措法32条1項後段)」、この2つの要件が満たされた際、首相は「新型インフルエンザ等緊急事態」を認定できる(法32条1項)。要するに新型インフルエンザが広がっている、国民経済が悪くなるかもしれない、こういうことが首相の判断ひとつでどうにでも変えられてしまう、そのあいまいさが残ると思います。
もうひとつ言うと、特にドイツの例を挙げたいと思います。法的には大統領、実際には総理大臣――行政権が緊急事態を認定したことが、とんでもないことになった。ということで今ドイツでは連邦議会が認定することになっています。日本ではこれが総理大臣の一存でできてしまう。立憲民主党なども国会を関与させろということをいっていますけれども、結局国会の事前の報告だけで済んでしまっている。ドイツ基本法の115条では緊急事態、ドイツが攻撃されそうになったときには連邦議会が認定します。総理大臣ではなくて大統領に権限を移すことになっています。総理大臣に好き勝手にやらせないということがドイツの規定になっていますね。この規定はいまも生きています。新型コロナウィルスであってもメルケル首相が何でもできるというのは危険だということで、あくまでも連邦議会と州政府がやることになっています。こうやって国会の関与が強くなっています。
フランスについては、今回驚いたことがあります。立憲民主党の国会議員の人たちと話すということで、5月29日に話しました。その前に資料をつくろうと法律家の弁護士の人たちと準備して、私が50月10日くらいに送りました。翌日フランスの新聞を見たら、憲法院が公衆衛生緊急事態法は憲法違反だという判決を出したことが大きく載っていたんですよ。ですから資料は作り直しです。裁判所が国会のつくった法律は憲法違反だと判断した。緊急事態だからいいなんて判断はしていない。
憲法裁判所だけではなくて、フランスでは行政裁判所というものがあります。行政裁判所の最高裁判所「コンセイユ・デタ」が次のような判決を出しました。ひとつ目は4月29日に「国が亡命者の登録受付を実施しないのは、『亡命権』に対する重大かつ明白な法行為」として、内務大臣などに5日以内などの条件で亡命者リストへの登録受付の再開等を命令。」で、行政裁判所が内務大臣に命令していますね。
ふたつ目は翌日ですが、「自転車を利用するということは往来の自由、権利のひとつだ」「確かに移動は制限されるけれどもどういった場合に移動してはいけないかということを明確にしていない。だから自転車での移動は認められるということを国は大々的に宣伝しろ」、こういうことも国に対して行政裁判所が命令しています。内閣総理大臣がやっているからいいのだと裁判所は言っていませんね。国がやっていることに対しても、裁判所は人権侵害だということで救済しようとしている。ですから外国の例で言うと、何でも人権を制限しているという議論ではとらえ方として正確ではないと思います。不当な人権侵害に対しては裁判所が介入して、認めないという立場がフランスではとられています。日本でも緊急事態宣言だから一律に外出禁止だなどということは認められていないんです。これがフランスの行政裁判所の判決です。
今度は憲法院ですが、全部が憲法違反だとしたわけではありません。やはり外出禁止はやむを得ない側面もあるだろう、個人の生命を守るということは国の役割ですから、外出を自粛させるということは憲法上、政府の提言としては許される。ただ12日間監禁した人に対して裁判所による救済がないのは問題だ。裁判所による救済があるということを前提に、その規定は合憲だとする規定があります。これがフランスで言う合憲限定解釈といわれるものです。法律をそのまま適用したら憲法違反だ。ただ12日間一切外出できないということを認めることはできない。裁判所による権利救済が認められるのであればその規定は良しとする。これが1点目です。
2点目は、この人は感染したかもしれないという個人情報をソーシャルワーカーに渡すのは憲法違反だという判断をしています。もちろん病気にかかった人の情報を医療関係者が持つのはやむを得ない側面はあるでしょう。しかし病気にかかったという個人情報、プライバシーの権利に関わることを誰に対しても渡すことはやり過ぎだ。そこで一定の枠を引いてソーシャルワーカーに渡すのは憲法違反だという判決を憲法院は出しています。これにしたがって法律は書き換えられています。このように行政裁判所、「コンセイユ・デタ」とか憲法院という憲法裁判所が関与しています。
もともと公衆衛生緊急事態法は3月23日につくられました。それを2ヶ月延ばすと5月23日です。それをさらに2ヶ月延ばすと7月23日 になります。日本の新聞ですと5月3日くらいに、公衆衛生緊急事態法は7月23日まで延ばされると書いてありました。しかし5月3日から4日の間に国会で議論があって、それは長すぎると7月10日に変えられています。政府が出したから何でもいいとはなっていません。むしろ国会は、これはまずいといろいろ変えています。憲法裁判所で憲法違反だと判決を出したことによって、政府が出した法律からさらに内容が変わっています。フランスやドイツでは国会あるいは裁判所の関与があることによって、政府がコロナ対策だから何をやってもいいというようにはなっていません。むしろ権利・自由を守るために行政裁判所などが関与すべきだということがフランスやドイツの議論です。こういうところも日本は少し学ぶべきだと思います。
今言った憲法院の判決ですが、フランスでは1789年の「人及び市民の諸権利に関する宣言」いわゆる「人権宣言」と言われるものですが、これが裁判規範になっています。この2条、4条、14条を持ち出して、フランスというのは人権を守る国なのだということを憲法院は言っています。1789年の規定が裁判規範の規定になっているんです。つまり、古くてもいいものはいいんです。安倍首相などの自民党の政治家は「新しい時代に新しい憲法」という言い方をしていますけれども、古くてもいいものはいいんです。
もっというと彼らは「新しい時代の新しい憲法」といっていますが、内容は古いすよね。どうも大日本帝国憲法に戻そうとしているのではないかと。「男女平等はいけません」とか、本当に女性に受け入れられると思っているのでしょうか。私は2004年の論点整理などを見て本当にびっくりしました。「男女平等の規定は日本の価値からいって見直すべきだ」 とか堂々と言っているわけです。いま憲法14条で男女平等となっていますけれども、あれがおかしいから見直せといった場合「女性が上で男性が下」となるのか。恐らくならないですよね。ヴァイマール憲法だって1919年に男女平等を定めたのに、それ以前に戻そうとするわけです。
ですから「新しい時代の新しい憲法」と言っていながら古い時代に戻そうとしている。古くてもいいものはいいと思います。アメリカに押しつけられた憲法だと言いながら、彼らがやっているのはアメリカのためにたたかうという、アメリカの要請を憲法上で具体化することです。 彼らの憲法論議は本当にめちゃくちゃだということも紹介させていただきました。
先ほどフランスのマクロン大統領の演説を学生に読ませたという話をしました。3月16日のテレビ演説でマクロン大統領は、「いま私たちが取り組んでいるのはコロナ対策だ。年金対策などもやっているけれども、こういったものはとりあえず置いておいて、まずはコロナに全力を尽くすべきだ」と言っています。それはそうだと思いますよね。ところが安倍首相や自民党、公明党がやろうとしていることは何なのか。検察庁法を変えようとしている。種苗法を変えようとしている。国民が気がつかないだろうと思ってどさくさに紛れてこういうことをやろうとしているのは、誰が見てもわかると思います。それだけではなくて憲法審査会を開いて何としてでも改憲手続き法、メディアの言い方だと国民投票法、これを変えようとしている。本来やるべきことは憲法改正だの改正検察庁法ではないはずです。必要だというのならばそれこそコロナが終わってからやればいいということです。
また、国会を軽視しています。10兆円の予備費、マスクの260億円だってどれだけちゃんと使われているのかという話です。GO TOキャンペーンだって首相自ら「ゴートー・キャンペーン」と言い間違えるくらいです。予備費を使わなければいけないということであっても、それならずっと国会を開いていれば良かった。民主党政権に対して安倍総理は「悪夢だ」と言っていますけれども、評価は別にして東日本大震災のときは8月まで国会をやっていました。枝野さんは目の下に隈をつくるくらい一生懸命やっていたと思います。一方の安倍首相はコーヒーを飲んでまったりしていた。そして6月17日で国会を閉めてしまう。やる気があるのかということになると思います。
今回の改憲論では自然災害に対応するとずっと言い続けていますけれども、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨、去年の千葉県の豪雨の被害もまだ復興していないことがテレビなどでも紹介されています。自然災害にも全然対応できていない。今年2月5日の段階で福島の避難者はまだ4万人以上います。政府が対応できていません。憲法改正のための国民投票について、総務省のホームページを見ればわかりますが、850億円かかります。この850億円を被災者のために使った方がよっぽどいいだろう。私も学生と接していて、お金がなくて大変だという学生がたくさんいます。大学を辞めなければならないといっている学生に対して、850億円をどう使うか、マスクに260億円使うのだったらもっと別の使い方があると思います。にもかかわらず、そういったことに使おうとしない。やっぱりこの政治のあり方に対して、大きく声を出していくべきだと思います。
失業者もリーマン超えになる可能性もある。失業者が増えると残念ながら自殺者も増えてしまう。特に今回は4万人以上になるという危険性を指摘した試算もあります。そうだとしたら検察庁法改正とか憲法改正なんていう議論よりやるべきことはたくさんあります。こういったことを主張していくべきです。
改憲勢力、自民党、公明党、維新の会が憲法審査会を開こうという動きがあるならば、今やるべきじゃないとしっかり言って、憲法審査会を開かせないように働きかけていくべきだと思います。
改正検察庁法のときに弁護士の方たちと一緒に立憲民主党などに対して、やめさせろということを言いましたけれども、最初は腰が重かったですね。でもツイッターの数が増えて世論が大きく変わったとき、立憲民主党は「私たちは初めから反対でした」というようになった。でもそこを責めてはいけないんですよね。やっぱり国民世論が変われば政治家も動きます。初めは腰が重いな、どうしようと頭を抱えたけれども、ツイッターデモが始まって、900万、1000万という数字になった途端、自分達は初めから反対だったと堂々と言うようになった。私たちの世論が政治の流れを変えることができてきたんだと思います。10万円の給付金だってそうです。安倍首相は、初めは渋っていたけれども、公明党などに押されて結局渋々やらざるを得なくなった。やっぱり芸能人などが目立つことが嫌みたいで、芸能人に対する攻撃があったと思います。
きゃりーぱみゅぱみゅさん、彼女などが叩かれたことにコメントをくれた学生がいます。「やっぱり政治に口出すとこういう目に遭うんだ。あまり関わらないようにしようということになってしまう」。そうやって政治に関心を持たせないようにすることが、ある種のネット右翼たちの戦略だと思います。ですから芸能人などの発言を擁護する、あるいは高田さんとか私にも「人間じゃない」とか書き込みをされます。そういった書き込みに対して反論は十分にすべきだと思います。今回、芸能人のツイッターなどを調べてみましたが、頭に来ているのはこの改正検察庁法だけではないなということは非常に感じました。「もうこれ以上は」とか、今まで我慢してきたけれども、という感じの表現が多いですよね。「もうこれ以上ひどい国にしないでくれ」と、いままでの政治もひどいと思っている人が多いと思います。むしろ憲法改(次頁下段へ)(前頁から)正国民投票に近くなりそうな場合に、言うと叩かれるからやめようと思わせないために、そういう芸能人に私たちが「がんばれ」ということも非常に大切だと思います。
ある評論家がきゃりーぱみゅぱみゅさんに対して、「歌手だから知らないだろうけど」という書き方をしていました。その人は、私たち憲法学者が「憲法のことを知らないんだから黙っていろ」と言ったら黙るんでしょうか。彼が面白いなと思ったのは検察官も定年になって退職したら収入がなくなるじゃないかと言っていました。でも検察を辞めたって、だいたい公証人か弁護士になるんです。公証人になら年収3000万円ですよ。彼も現場を知らないわけです。でも知らない人がいうことは大切だと思うんです。いろいろな世代の人がいろいろなものの感じ方で言っていいでしょう。20代の女性が政治に対してこう思っている、それを封じたら民主主義は成り立ちません。そして国民主権の国家であれば、主権者である国民が言うということは当然の権利です。発言をするなということは主権者であることを辞めろということと等しい、そこを批判するべきだと思います。
フランス人権宣言の11条、1789年につくられましたが、公務員は国民に対してちゃんとした説明をしなければいけないという規定があるんですよね。もし国民が疑っているということになれば、きちんとした説明をするのは政治家の責任となるわけです。国民が納得できないような説明しかできない政治家こそ問題だということは、主権者であれば言うべきだと思います。そういった反論をしていくことが必要です。こういった集会も、SNSやいろいろなところで発信して主権者であれば当然言っていいんだ、あるいは緊急事態条項はこのままでいったら大変なことになると言っていきましょう。新藤さんは国会の機能がどうのこうのと言っているけれども、こういったものは法改正やあるいは運用でも大丈夫だということを広く訴えていく必要があると思います。
新型コロナウィルス感染が世界中に広がり、格差と貧困を固定化、拡大してきた社会の矛盾が一気に表面化しています。と同時に、コロナ禍を機に自由と人権、民主主義を抑圧する権威主義、全体主義を強める動きも激しくなっています。 私たちが毎年とり組む「5.3憲法集会」でも掲げ続ける「平和といのちと人権」をめぐるせめぎあいが、世界でも国内でもはげしさを増しています。
コロナ禍をのりこえるためにも、「平和といのちと人権」を大切にする社会をめざすことが大切、私たちはその思いを強くしています。
今だからこそ、世界各国の市民の運動との連携を強め、声をあげつづけましょう。
昨年11月に中国で確認された新型コロナウィルスの人への感染は、7月12日時点で220の国・地域に広がり、1291万人の感染者、57万人の死者が確認されるまでに急拡大しました。
コロナパンデミックは、世界の人々が同じ船に乗り、感染克服への支え合いと連帯が必要なことを多くの人々に気づかせました。また、経済利益の獲得競争を強めてきたグローバル化による経済的格差が、命の格差ともなっていることも明らかにしました。
その状況のもと、2020年5月にアメリカ・ミネソタ州で発生した白人警察官による黒人男性殺害事件(ジョージ・フロイド殺害事件)は、コロナ禍での命の格差と根深い人種差別とが同じ根の問題と受けとめられ、「ブラック・ライヴズ・マター」の声と行動は瞬く間に世界に広がりました。そして、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等を譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎」(世界人権宣言・前文)、そのことがコロナ禍とジョージ・フロイド事件をきっかけに再確認され、共有され、差別の構造を改める運動に発展しているのです。
その一方で、コロナ禍の混乱に乗じた権威主義的な政治の動きなどが、民主主義と平和の危機を深めていることも見逃せません。
ハンガリーやフィリピンでは、感染対策を口実に指導者に権限を集中させる法案が成立し、ロシアでは現職大統領の任期を2036年までの延長を可能とする改憲が急遽おこなわれました。また、イスラエルによるパレスチナ領の一部(ヨルダン川西岸)併合の動きも急です。いずれも国際社会が強く反発する中での動きであり、コロナパンデミックに対する国際連帯に困難を持ち込みかねないものです。
中国の「香港国家安全維持法」は、より深刻な問題をはらんでいます。7月1日に施行された「国家安全維持法」は、中国政府による香港の直轄統治を可能にしました。法は即時適用され、香港返還の日のデモに参加した市民の中から10人が同法違反で逮捕され、民主主義の基礎である集会や表現の自由を著しく侵害する悪法であることを示しました。
この重大な人権侵害は、一国二制度の国際公約にも、国際人権規約にも反しています。市民社会の国際連帯として私たちが声をあげるのは当然の課題です。
日本国内でも、人権制約をともなう逆流がおきています。
PCR検査を拡充して医療崩壊を防ぎ、市民の経済的困窮を補償することなどの対策は不十分なまま、安倍首相が憲法への緊急事態条項の創設を含む改憲論議の加速をくり返し促し、コロナ感染対策の自粛要請に応じない場合の罰則新設に担当大臣や自治体首長が再三言及していることは、災害便乗主義の最たるもものです。
また、マイナンバーと預貯金口座とをひも付けする「登録義務化」や、SNSプロバイダーからの発信者情報の取得の規制緩和の論議を政府が開始したことは、監視社会に進む危険性をもっています。見過ごせないのは、「自粛警察」と称されるような権力に忖度し、同調圧力を高める行動が市民の中からおきていることです。
憲法第12条(「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」)を改めて確認しあいたい今の状況です。
一般官僚機構に続き、検察官までも時の権力が私物化しようとした検察庁法改定法案に対し、「#抗議します」のツイッターなどによるネットデモが短時間で広がり、大きな世論となり、法案を廃案に追い込みました。
コロナ禍で強まった権力強化の動きに、市民が機敏に反撃する民主主義をまもり、取り戻す動きの強まりは、未来への大きな希望です。
私たちはよびかけます。わたしもあなたの命も自由も大切、と声をあげつづけましょう。行動をつづけましょう。平和といのち、人権を大切にする社会に、と立ちあがっている世界の市民運動との連帯を強めましょう。
2020年7月17日
戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会
月2日、コロナ禍いう困難な情勢の下ではあったが、約1年にわたって日本と韓国の市民・宗教者が準備してきた日韓プラットフォームが、ソウルと東京のオンラインを合わせた集会によって発足した。
集会は2日(木)午後2時~3時、韓国・ソウルの韓国基督教会館と東京の日本基督教会館にそれぞれ数十名の市民の参加で開催された。
司会:カン・ジュソク(韓国運営委員)氏と金性済(日本運営委員・書記)市が行い、「発足の趣旨」をクォン・テソン (環境運動連合)氏が説明した。経過報告は運営委員のソン?ミヒ 氏と飯塚拓也氏が行い、「目的と事業紹介」は佐藤信行(事務局)市が行い、「人事紹介」は運営委員のイ?テホ氏と比企敦子氏が行った。
発足挨拶は共同代表のイ・ホンジョン氏と高田健が行った。
集会には金泳鎬・元・産業資源部長官からの祝辞が寄せられた。
集会は日韓の両運営委員の皆さんが「発足宣言文」を朗読し、採択して閉会した。
東北アジアの平和と共生に向けて、このたび発足したプラットフォームが大きな役割を果たすことを期待してやまない。(高田健記)
2018年10月、韓国の大法院が出した徴用工に対する賠償判決とこれに対する安倍政権の経済報復措置と貿易摩擦、続く日韓軍事情報保護協定(ジーソミア)議論などで、両国の関係は破局の状態が続いているが、両政府は曲面を転換する画期的な突破口を見出せずにいる。
正義、平和、命、そして共生に向けた日韓関係のために、長い間連帯し協力してきた日韓市民社会と宗教団体はこの厳重な現実の前で私たちの責任を果たせないことについて深く反省しつつ、この危機を新たな機会の局面に転換し東アジアの平和と共生の時代を開くためのプラットフォームを作ろうと思います。
このプラットフォームは、日韓市民が共に主体的に参加しお互い話し合って、新しい価値と希望を作り出す連帯の枠を提供する。閉鎖主義と画一主義を止め、開放と共有というプラットフォームの原則に充実して変化と進歩に向かっていく。
一、日韓の悲しい歴史を記憶し正しい認識と探求を共有して、その痛ましい歴史の犠牲者の傷を癒す。このような治癒と和解を通じて、日韓両国と市民社会は共生の時代を開く。
一、朝鮮戦争の終戦と平和協定の実現などに向かった朝鮮半島の平和プロセスと日本の平和憲法の維持のために最善を尽くす。
一、東アジアの非核地帯化と軍縮、そしてアジア太平洋地域の平和に関する共同の目的を模索し実践するために最善を尽くす。
一、日韓の未来を担う次世代の平和、人権についての感受性を拡大するために、平和と人権教育を推進し、次世代の指導力開発に努める。
佐藤信行(日本事務局/外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会)
「日韓和解と平和プラットフォーム」の発足にあたり、その目的について、日本準備委員会の一人として私の意見を述べる。次に、この間、韓国と日本の準備委員会が話し合い、合意した「運営規約」に沿って、日韓プラットフォームの組織と共同事業について説明する。
1.目的――なぜ、日韓市民社会の「対話の広場」をもつのか
今年8月、私たちは「韓国併合110年」を迎える。1875年の江華島事件に始まる日本の朝鮮侵略は1910年8月「韓国併合」に至った。そして、それから36年間に及ぶ日本の植民地支配は、朝鮮の人びとの生命と尊厳を奪う過酷なものであった。そのことを、私たち日本人は、日本の国家は、直視しなければならない。
いま韓国の人びとは、解放後75年にも及ぶ民族分断という桎梏と苦闘している。今から75年前、朝鮮半島が米ソによって分割占領され、朝鮮戦争を経て今なお南北分断が人びとを引き裂いている現実は、地政学的なもろもろの要因があるとはいえ、そもそも日本の植民地統治がなかったならば、1945年からの民族分断はありえなかったのである。そのことを、私たち日本人は、日本の国家は、銘記しなければならない。
1965年、日韓条約が結ばれた。しかし、この条約において日本は、過去の植民地支配および戦後の政策によって、韓国の人びとおよび在日韓国・朝鮮人に多大な損害と苦痛を与えた事実に対して、謝罪することを拒否した。とりわけ日本が、アジア太平洋戦争下に強制連行・強制労働をおこなった日本軍「慰安婦」や、徴用工、軍人・軍属、被爆者に対する戦後補償はまったくなされなかった。そして1990年代、韓国人被害者とその遺族からの訴訟によって、初めて日本の国家および市民社会は「問題の所在」を認識するようになった。しかし日本は、いまだ「解決の入口」に立とうとしていない。そのことを、私たち日本人は、日本の国家は、認めなければならない。
いっぽう、日韓国交条約から55年間、日韓政府間と日韓経済間では紆余曲折があったが、日本と韓国の宗教界と市民社会では、さまざまな出会いが生まれ、さまざまな交流と共同行動がなされてきた。たとえば日韓のキリスト教会では、1970年代の韓国教会・韓国市民社会の民主化運動に対する日本教会・在日韓国人教会の支援、1980年代の在日韓国・朝鮮人の人権獲得闘争に対する韓国教会の支援が、韓国の政治、日本の政治を動かしてきた。
しかし2019年7月、韓国大法院の徴用工に対して日本政府は経済報復措置をとり、両国関係はかつてない破局状態となった。これまで日韓の宗教団体や市民団体、学校で続けられてきた交流事業は中止・延期された。とりわけ日本社会では、政界をはじめマスコミやインターネット上で「韓国バッシング」が吹き荒れた。そこでは、歴史事実が無視され、“1965年日韓条約で解決済み”とする謬論が跋扈している。これに対して、私たち日韓の宗教界と市民社会は、歴史責任に真摯に向き合うことを、日本政府に繰り返し求めてきた。1965年日韓条約が日韓の和解と平和の出発点とならなかったことを、私たち日本人は、日本の国家は、まず確認しなければならない。
これまで日韓の宗教界と市民社会は、各領域で、各分野で、さまざまな交流事業と共同行動を積み重ねてきた。その努力が「無に帰す」かのような事態に、私たちはいま直面している。しかし私たちは、各領域、各分野での活動をつなぎ、発信していく「日韓市民社会の対話の広場(マダン)」を作ることを決意した。国家間の葛藤と対立を克服していくためには、日韓市民社会間の建設的対話の積み重ねが必要であり、隣国同士である日本と韓国において「未来志向の関係」とは、過去の歴史に向き合い記憶しつつ、互いを尊重することから始まる、と確信するからである。
2.私たちの共同課題と共同事業「日韓プラットフォーム」運営規約の2では、私たちの共同課題と共同事業を、次のように日韓で確認した。
《日韓の和解と平和の実現のために市民社会と宗教者の論議と協力の枠を提供し、究極的には東アジアの平和のための共同体(Community)建設をめざす。そのために、次の共同課題に協力する。
1)日韓の歴史問題に対する正しい認識の探求と共有
2)朝鮮半島(韓半島)の平和プロセスの推進と、日本の平和憲法の維持
3)東アジアの非核地帯化と軍縮、アジア太平洋地域の平和に関する共同のビジョンの模索
4)日韓次世代の平和教育と人権教育の推進
これら日韓の共同課題を追求する中で、 5)日韓市民社会と宗教間の情報共有と連帯を通して、ネットワークを強化する。
6)重大で緊急の日韓共同事案について立場を公式表明する。
7)日韓プラットフォームの活性化のために定期的に会議を開催し、共同課題について互いに学び対話しながら、その結果を日韓と世界に向けて共有する。》
ここでは、日韓市民社会それぞれの「当事者性」と「課題の連結性」を念頭において、まず「日韓の共同課題」を掲げ、その上で「私たちの共同事業」を明示した。
最初に韓国準備委員会から提案された運営規約案には「共同事業⇒共同課題」となっていたが、それを最終的には「共同課題⇒共同事業」とした。それは、1970年代から現在に至るまで民主化運動を担ってきた韓国の宗教団体と宗教者、市民団体と市民は、各領域の戦線が決定的機会においては共同戦線を組み、民主化と政権交代を実現してきた。そのような経験から、まず「組織図」を描いて、その組織が取り組むべき事業を挙げていくのは当然である。しかし、そういう経験に乏しい日本では、それをそのまま日本に当てはめるのは困難である。したがって運営規約では、「共同課題⇒共同事業」と並べ替え、韓国準備委員会に納得してもらった。
このように、日韓の市民社会において運動の組み立て方においてそれぞれ差異がある。その差異を、まず認め合って対話し、共に行動していく――というのが、この日韓プラットフォームである。
また「共同事業」の7)として、「定期的に会議を開催し、共同課題について互いに学び対話」することを掲げた。これは日韓プラットフォームの軸となる事業の一つである。当面は年に1回開催する日韓合同運営委員会の前後に開かれる、その「日韓プラットフォーム会議」は、たとえば、一日かけて日韓の共同課題1)~4)の現状と課題について、日韓それぞれ発題者を立て、議論する。そこでは当然、両者の立ち位置からくる差異が現れるであろう。しかし、その差異を踏まえて、今後の共同課題と共同事業が、私たちに与えられるはずである。また各課題の発題とその後の議論を通して、個別領域から全体の共同課題を構想することができ、個別領域の闘いをさらに全体に押し広げる契機となるだろう。
3.組織名称について(略)
4.組織運営について(略)日韓和解と平和プラットフォーム 発足宣言文
韓国と日本の市民社会と宗教界は、韓日両国が不幸な歴史を乗り越えて和解と平和を成し遂げ、東北アジアの平和と共生のために協力する真のパートナーになることを切に望み、 民間の協力を図ってきた。
しかし2018年10月、韓国大法院(最高裁判所)の元強制徴用労働者(徴用工)に対する賠償判決と、これに対する安倍政権の経済報復措置などで、両国関係は最悪ともいわれる対立状態が続いている。
まず私たちは、この厳しい現実の前で、私たちはこれまでの相互のかかわり方を深く省みて、 両国の新たな出発のために献身することを誓いながら、本日、「韓日和解と平和プラットフォーム(以下、韓日プラットフォーム)」を発足させる。
今後、韓日プラットフォームは、両国間の和解と平和、さらには東アジアの非核平和のための「共同の家」(Common House)を建設するという目標の下、民間の協力と連帯を強化することに最善の努力を尽くす。 このような努力を通じて、民衆の声が聞こえ、韓日社会全般で和解と平和への民意参加が拡大することを信じる。
韓日プラットフォームは、
第一に、「記憶」の大切さを共有する。
加害と被害の苦しい過去を忘却せずに記憶(remember)することは、逆説的だが、健全な韓日関係を始める出発点であり、ひいては信頼に基づいた韓日共同体を再構成(re-member)する上で根本的な土台になる。
第二に、「多様性」を尊重し「違い」を認め合う。
私たちは、日本が帝国憲法の下で覇権主義的な“大東亜共栄圏”建設という名によって侵略戦争を進め、創氏改名や神社参拝などを通じて「皇民化」(徹底した同化による民族性抹殺)を強要し、また韓国の独裁政権が思想と言論の自由と多様性を抹殺し画一主義を強制した辛い経験を持っている。私たちは、まだこうした歴史の負の遺産を清算できずにいる。「多様性」を尊重し「違い」を認め合うことは、差別と嫌悪のない社会、多様な価値と文化を享受する共生の世界を作る第一歩だ。
第三に、平和づくりの先頭に立つ。
この時代を生きている私たちすべてにとって、「平和」は選択肢ではなく当然の使命だ。
特に日本の平和憲法は、東北アジアの平和と共生のための安全装置として、日本だけの資産ではなく、平和を望む世界の人々の貴重な共有財産であり、韓半島(朝鮮半島)の平和体制構築は韓半島(朝鮮半島)をこえて、東北アジアに平和と協力の新しい時代を開き、世界をより平和的なところへと導く鍵である。
第四に、核/核兵器のない東北アジアと世界をつくることに最善を尽くす。
韓日両国をこえて東北アジアの住民は、日常的な核の脅威の中で暮らしている。東北アジア地域の原子力発電所と核武装による核戦争の脅威は、東北アジアをこえて全地球村住民たちと生態系全般の生存権を侵害している。核のない世界を作ることを、これ以上遅れさせることはできない。東北アジア非核地帯と核兵器のない世界(核兵器使用禁止条約発効)のために働きかけていくべきである。
第五に、次の世代が夢と希望を持てる社会を作る。
いま韓日両国は、新型コロナウイルス感染拡大に苦しんでいる。とくに日本においては、政府による生活支援制度の多くから、移民や在日韓国・朝鮮人など社会的少数者は排除されている。偏狭な民族主義を克服し、韓日両国の若者が自由と平等、正義と平和、包容と和合、和解と共生という人類の普遍的価値が実現する社会で暮らせるよう、平和教育・人権教育・多文化教育に私たちの力量を結集する。
韓日両国の市民社会と宗教界は、重大な歴史的転換点に置かれている。現在の危機を「新たな機会」に変えるために、私たちは民意の参加を集め、広げることに最善を尽くすだろう。
2020年7月2日
池上 仁(会員)
コロナウイルス禍による蟄居生活の間にネットの韓流ドラマにすっかりはまってしまった。奇抜なストーリー展開、伏線の巧みさ、豊富な俳優陣と高い演技力、CG含めた卓抜な撮影技術、ヴェルレーヌ、プルースト、老子「道徳経」などのさりげない引用・・・ハラハラドキドキしながらつい何話分も観続けてしまう。日本の水準をはるかに凌駕しているだろう。その背景には予算面でみるとフランスを抜いて「世界一の文化大国」(平田オリザ)となった今日の韓国がある。
その韓国と日本の関係はこれまでになく悪化している。戦時中日本製鉄(現新日鉄住金)で強制労働をさせられた韓国人元徴用工が損害賠償を求めた裁判で、2018年10月同社に賠償を命じる韓国大法院の判決が下されたことがきっかけである。1965年調印された日韓基本条約・請求権協定での国家間の合意を反故にする「ちゃぶ台返し」だと日本政府やマスコミが騒ぎ立て、貿易や防衛問題での険悪な状況が続く。
多くの方がご存知のように内田さんは中国人強制連行・強制労働の問題に長年深く関わり解決に尽力されてきた。1942年、東条内閣は「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定、約4万人が全国各地の事業場に配分され、過酷な労働と虐待により約7千人が異国の地で亡くなった。中でも鹿島建設(旧鹿島組)花岡鉱山では、耐えかねた中国人労働者が蜂起し鎮圧と拷問で100人以上が殺された。これを含め986名中実に418人が命を落としている。当初は4名の残留被害者の未払い賃金請求から始まったが、帰還していた被害者・遺族を含む集団賠償請求に広がった。会社との交渉は行き詰まり提訴へ、一審敗訴、控訴した東京高裁が和解を勧告、頑なな会社との粘り強い交渉の末和解が成立した。
「戦後補償請求の解決をなすに際しては、①加害の事実及びその責任を認め謝罪する。②謝罪の証しとして経済的な手当(賠償・補償)をなす。③将来の戒めのため歴史教育を行う。この三点が不可欠」と内田さんは言う。花岡和解はこの先例となったが、同様の経過をたどった後の西松建設(旧西松組)広島安野事案、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)事案での和解内容はより一層充実したものとなった。厚い壁を破り和解にたどり着いた故新美隆弁護士や内田さんに賞賛の声が寄せられるが、内田さんは言う、「花岡裁判では私たちは被害者の代理人として行動した。しかし被害者の訴えは鹿島に対してだけではなく日本社会に対するものとして自分にもはね返ってくる。原告代理人も被告代理人もそして裁判官も、自分自身に対する問いかけだということを忘れてはならない。それが被害者に対する眼差しになる。和解解決について“勝利”だとか“おめでとう”と言わないで下さい。ただ一言“よかったね”と言って下さい」と。胸に沁みる述懐だ。
和解への長い道のりの中で真摯に関わった人々の姿にも感銘を受ける。一部を除き裁判では強制連行・強制労働の実態についてきちんと事実認定がされた。東京高裁で西岡和解の実現に尽力した新村正人裁判長は、退官後“中国殉難烈士慰霊之碑”に詣で、追悼式にも参列している。劉連仁(茨木のり子に「りゅうりえんれんの物語」という長詩がある)裁判で「正義公平の理念」「条理」から原告勝訴の判決を下した東京地裁西岡清一郎裁判長。西松控訴審で正義と条理に基づき原告勝訴の判決を下した広島高裁鈴木敏行裁判長。最高裁では請求棄却となったが「関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待される」との「付言」が和解を後押しした。会社側代理人弁護士の努力もあった。鈴木裁判長も退官後追悼式に参列している。三菱マテリアル和解に際しての同社の謝罪文には「過ちて改めざる、是を過ちという」の文言が入った。ここには確かな「被害者に対する眼差し」がある。
戦争賠償問題が解決しないのは、サンフランシスコ講和条約、日韓請求権協定、日中共同声明で解決済み、との判断に日本政府が固執しているからだ。これに対する内田さんの時代背景を含めた丹念な反証は説得力に満ちている。ドイツの「記憶・責任・未来」基金による賠償が参照されている。前向きで具体的な解決策を提言している「日韓法律家共同宣言」は広く検討される必要がある。
“(希望)正如地上的路。其実地上本没有路、走的人多了、也便成了路”内田さんの愛誦する魯迅「故郷」の一節。「地にもと道なし、踏む人多くして道なる」(竹内好訳)。本書はまさに希望の書だ。