5月29日、参議院議員会館の講堂で、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」と5野党・会派の党首が参加して、市民連合が要望していた政策「だれもが自分らしく暮らせる明日へ」の調印式が行われた(別掲)。
出席した立憲民主党・枝野幸男代表、国民民主党・玉木雄一郎代表、日本共産党・志位和夫委員長、社会民主党・又市征治党首(代理福島瑞穂副党首)、社会保障を立て直す国民会議・野田佳彦代表は、各党の幹部や市民が見守る中、署名し、共に参院選をたたかう決意を表明した。
市民連合からは、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会、安全保障関連法に反対する学者の会、立憲デモクラシーの会、安保関連法に反対するママの会の代表らが同席した。
この政策合意は2016年参議院議員選挙、2017年衆議院議員選挙での市民と野党の共同に続くもので、参議院議員選挙の1人区(全国32か所)の野党統一候補の擁立・勝利を目指すものだ。この日、野党党首会談が行われ、29の1人区の候補の1本化が決まった(のち、32の1人区すべてで1本化した候補が決まった)。安倍政権の積年の悪政を許さず、とりわけ憲法改悪と戦争する国づくりに反対する立憲野党と市民の共同の足並がそろった。
この市民連合と野党の政策合意に運動圏の一部から疑問が出ている。とりわけ「消費税廃止」「原発廃止」などの点で、不十分だという声だ。私たちは「消費税反対」「原発ゼロ即時実現」に異論はない。しかし、安倍政権の悪政と闘ううえで不可欠の立憲野党との共同を実現するうえで、どのような政策上の合意が作り出せるのかが重要だ。「10月予定の消費税引き上げ中止」「地元合意のないままの原発再稼働を認めず、……原発ゼロを目指す」という合意はぎりぎりの一致点だ。この一致点で各野党が連携して闘うことは、当面する安倍政権との闘いで決定的に重要なことだ。
もし市民連合がこうした合意作りを拒否して、自らの要求にこだわったら、野党共闘は実現できず、安倍政権の独走を許してしまうことになる。
今回の合意には従来、なかなか難しかった「辺野古新基地建設反対」や「原発ゼロ」などが含まれた。これは重要な前進だ。くわえて社会の各層、とりわけ若者や女性の政策が加わっている。これらは現在の安倍政権の政治に対する明確な対案となっている。確かに野党各党のこの政策合意の受け止め方には軽重があるのは事実だ。これを共通政策として野党の間に根付かせていくためには、市民連合と野党各党のリスペクトを前提にした、各選挙区をはじめ全国の市民の今後の闘いが不可欠だ。
今回の「政策合意」をたたかいのなかでより定着させ、その実現を図るために協力して奮闘しよう。
今回の参院選はいま閉じられようとしている198通常国会での安倍首相らによる改憲発議を阻止した大きな成果の上に迎える国政選挙であり、2020年安倍改憲施行をめざす自公ら改憲派に改憲発議可能な3分の2議席を取らせないたたかいが最大の焦点となる。
立憲野党は最低限、前回2016年の41議席(1人区は11議席)と同程度の結果を得ることができれば、非改選・改選合わせて3分の1以上となる。そうなれば改憲を至上命題とする安倍政権の進退も問われる事態になる。だからこそ、自民党は1人区のうち16選挙区を「激戦区」と指定して攻勢に出ており、し烈な戦いになるのは疑いない。
一方、すでに自民党のなかでは3分の2を割った場合の対応が一部幹部によって論じられていることも見逃せない。その場合、野党内の「改憲同調者」との連携を謀って、改憲発議に必要な3分の2議席を確保し、改憲を実現するというのだ。この野党分断策を許すわけにはいかない。それだからこそ、今回の参院選で3分の1を大きく上回る立憲野党の議席を獲得しなくてはならない。
今回の野党と市民の共同による1人区の候補者の1本化の実現はあくまでたたかいの出発点に過ぎず、安倍自公政権の悪政とたたかうために政策合意したすべての政治勢力が共同して、自らの候補として、統一候補の勝利を目指して誠心誠意、全力で闘うことが求められている。
おりから、年金2000万円不足報告書の隠ぺい問題が発生し、麻生財務相と安倍首相への怒りが急速に高まっている。自公など与党が「100年安心」などと言ってきた年金制度の破綻が露呈した。安倍首相らは、憲法審査会の開会に同調しない野党を「憲法論議を回避している」などと攻撃するが、これはまったく筋違いだ。野党が憲法審の強行開催を認めないのには正当な理由がある。2000年の憲法調査会発足以来、以下の運営原則が会長により繰り返し確認されてきた。「憲法調査会以来、国家の最高法規である憲法に関する論議においては、政局にとらわれることなく、憲法論議は国民代表である国会議員が主体性を持って行うべきとの共通認識に基づき、熟議による合意形成がなされてきました。ここに、議論に真摯に取り組まれてきた各党に改めて敬意を表します」。この立場から考えるなら、安倍首相が憲法99条を無視して、繰り返し改憲誘導の発言をしている状況の下では、憲法審査会は開かれるべきではない。
安倍首相らが再三の野党側の要求にもかかわらず国会で予算委員会を開催せず、国会の論議を回避し、ようやく開いた党首討論は極度の短時間で、首相自身時間稼ぎの答弁に終始するありさまだった。もし与党が憲法問題を議論したいというのなら、予算委員会をひらけばよいことだ。野党が「憲法論議に応じない」などという党利党略の口実をもって、参院選の争点にするなどと語る安倍首相の言辞は噴飯ものだ。
会期末近くに至って開催された参議院の決算委員会がそれなりに議論が伯仲して注目を集めたことと比べて考えると、安倍首相らの国会での議論回避の姿勢は明らかだ。どうみても、国会での議論が活発に行われている時は安倍政権の支持率が下落している。首相がトランプ米大統領とのゴルフ会談をやったり、なんの成果もないイラン訪問をやったりなどの外交パフォーマンスをしている時は内閣支持率があがる。これが最近の世論調査の実態ではないか。
目前に迫った参議院選挙は当面する改憲反対と安倍内閣退陣のたたかいの正念場だ。
私たち「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の高良鉄美共同代表も沖縄選挙区から野党統一候補の無所属で出馬する。この選挙区は従来、糸数慶子さんが議席を死守してきた。高良さんはその後継候補として、オール沖縄勢力の期待を担って闘っている。高良さんは安倍政権による辺野古新基地建設など、安倍政権による沖縄を差別し、抑圧する政策に反対して、沖縄の民意を担って、平和と人権と民主主義の闘いの先頭に立つ憲法学者だ。高良さんが国会にきてくれたら、安倍改憲と正面から対決し、それをうちやぶる闘いの大きな前進に役立ってくれるに違いない。私たちは高良さんの必勝のために微力を尽くしたい。
そして、高良さんをはじめ全国32の統一候補の勝利と、他の複数選挙区と比例区において、立憲野党の勝利のために全国各地の市民の皆さんとともに奮闘する決意でいる。
(事務局 高田健)
来る参議院選挙において、以下の政策を掲げ、その実現に努めるよう要望します。
だれもが自分らしく暮らせる明日へ
2019年5月29日
私たちは、以上の政策実現のために、参議院選挙での野党勝利に向けて、各党とともに全力で闘います。
安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合
上記要望を受け止め、参議院選挙勝利に向けて、ともに全力で闘います。
立憲民主党
国民民主党
日本共産党
社会民主党
社会保障を立て直す国民会議
6月7日・8日の2日間、東京で「朝鮮半島と日本に非核・平和の確立を!」市民連帯行動の集会とシンポジウムが開催された。主催は、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」「3.1朝鮮独立運動100周年キャンペーン」とその関係団体による「朝鮮半島と日本に非核・平和の確立を!」市民連帯実行委員会。スローガンとして、○東北アジアに非核・平和の確立を!○安倍政権は平和の流れを邪魔するな!○日本政府は核兵器禁止条約を支持し、批准を!○加害の歴史を直視し、過去の清算を!○日本軍「慰安婦」課題、徴用工課題の解決!○日朝国交正常化を!○在日韓国人・朝鮮人の人権の確立!○朝鮮高校の授業料無償化の実現を!○日本国憲法9条の破壊反対!○日韓・日朝市民の連帯と共生!を掲げた。
7日は豪雨予報も出るなかで、18時30分から東京・日比谷野外音楽堂で行われ、約1000人の市民が参加した。主催者を代表して高田健さん(総がかり行動)が挨拶した。高田さんは、この集会が日韓両国の市民と在日韓国・朝鮮人の協力と参加で開かれたことを報告し、さらに、昨年の南北首脳会談が切り開いた東北アジアの非核・平和への道は、この地域の市民の願いに沿った歴史的な出来事であり、この流れの契機となった韓国民衆のキャンドル革命はじめ市民の不屈の戦いに敬意を払う。しかし日本の安倍政権は米国の戦争勢力とともに地域の緊張を激化させている。立憲野党5党派と市民連合の政策協定の5項目目に「東アジアにおける平和の創出と非核化の推進の推進のために努力し、日朝平城宣言に基づき、北朝鮮との国交正常化、拉致問題解決、核・ミサイル開発阻止に向けた対話を再開すること」が入った。参議院選挙に勝利し、「朝鮮半島と日本の市民が多様な形で連携する新たなプラットホームを形成しよう」と挨拶した。
韓国からのゲスト発言では、キム・ヨンホさん(東北がアジア平和センター理事長)とオム・ミギョンさん(全国民主労働組合総連盟副委員長)が挨拶。キムさんは、日本の市民が安倍改憲を阻止するなら市民革命に値する。韓日の市民が共同して手を携えるならばアジア市民のプラットホームを展望できると語った。
オム・ミギョンさんは、韓日のあいだで元「慰安婦」や強制動員被害者への課題は、望まない誤解と対決の火種となっている。韓日の民衆が心を合わせて歴史問題を解決していくことが東北アジアの平和を打ち立てる方法だ、と訴えた。
つづいて東京朝鮮中高級学校生徒の皆さんの楽器演奏とスピーチが行われた。演奏は「春の訪れ」とアリランと赤とんぼを巧に編曲した「アリラン・赤とんぼ」で、会場から大きな拍手が沸きあがった。生徒代表は朝鮮学校への高校無償化についてアピールした。
日本からの発言は、湯浅一郎さん(ピースデポ代表)と北原みのりさん(作家・ラブピースクラブ代表)と中村元気さん(日朝国交正常化連絡会)が発言した。湯浅さんは、昨年6月の米朝共同声明はまだ生きているし対話の枠組みは壊れていない。朝鮮半島の非核化は東北アジア全体の非核化に行かざるを得ない。また唯一残っている冷戦をなくすプロセスが今始まったことだ、と話した。
北原みのりさんは、「慰安婦」問題への自らのかかわりを語り、韓国の民主主義の根幹に、聞こえない声を聞く、私たちはあなたを信じるというフェミニズムがある、と語った。中村元気さんは、安倍首相が5月はじめに安倍3原則から無条件の日朝首脳会談開催にかわったことについて、先ず日朝平壌宣言の精神に立ち戻ること、と指摘した。
集会終了後、雨模様の中、日本語と韓国語のコールや歌声を響かせて、サウンドカーを先頭に日韓の市民が銀座方面をデモ行進した。
6月8日は国会近くの星陵会館で国際シンポジウムが開催された。小田川義和さん(憲法共同センター)が開会挨拶し、キム・ギョンミンさん(韓国YMCA全国連盟事務総長)など韓国側ゲスト3人が挨拶した。シンポジウムは福山真劫さん(戦争させない1000人委員会代表)のコーディネーターの下で進められ、はじめに韓国側から発言し、日本側がつづいた。日本側は湯浅一郎さん(ピースデポ)、和田春樹さん(日朝国交正常化連絡会)、庵逧(あんざこ)由香さん(立命館大学)が発言した。
日本と朝鮮の関係正常化は東アジア平和の核心的課題
最近、日韓関係が悪化し続けるというマスコミ報道をみながら、私自身が東京でお話を出来るのだろうかとも思いました。安倍政権は米朝間の核問題交渉にも当事国である米国より強硬な姿勢で交渉を困難にしてきました。しかし、安倍首相も正常化交渉に臨むと表明するに至りました。確かに韓国で文在寅政権が誕生し、南北関係に大きな前進があり、米国のトランプ大統領も米朝交渉を始めたことが安倍政権の態度変化を促した要因となったでしょう。
現在、東アジア諸国が挑戦すべき歴史的課題は、2つの「戦後体制」を克服することです。それは韓国で停戦協定体制というものであり、スタートは1953年です。もうひとつは「サンフランシスコ体制」であり、1952年から始まりました。この2つの戦後体制が重なり合い危機が高まっている中心的な現場がまさに朝鮮半島であり、その意味からも日本の責任は大変大きいと言わざるを得ません。サンフランシスコ体制が日韓関係に適用されたのが、1965年体制の日韓国交正常化です。この克服こそが本当に意味での戦後の克服だということを日本の皆さんに申し上げたいと思います。朝鮮戦争の停戦協定体制の解体でも、日本は重要な役割があります。朝鮮戦争で日本は重要な後方基地の役割を果たしたからです。
朝鮮戦争は近代化と植民地遺産の克服をめぐるイデオロギーの対立が戦争に帰結したものです。旧朝鮮において、自主的近代化は日清戦争に歪曲され、日露戦争の結果、植民地の道を歩まざるを得ませんでした。朝鮮戦争の終結は、単に停戦協定を平和協定に代えるだけではなく、朝鮮戦争を含む3つの戦争を相対的に克服するものでなければなりません。日本は東北アジアの3つの主要な戦争で2つは直接当事者であり、もう1つは後方基地として関与しました。したがって、朝鮮半島の2つの戦後の克服は日本が担当すべき課題となるものです。
休戦協定体制の解体を目標に、朝鮮半島平和プロセスが始まった2018年に、日韓の1965年体制の決定的限界が現れたのは、決して偶然ではありません。2つの戦後体制の克服は韓国、朝鮮、日本の共同責任であるため、日韓関係や日朝関係、南北関係の3つ[の関係性]が、東北アジア平和の中心課題となっています。このような韓国、朝鮮、日本の三角関係が東北アジア平和の核心的トライアングルだということが明確になってきています。
ここで重要なのは皆さんが本日提起している日朝関係の正常化です。
韓国のノ・テウ(盧泰愚)政権が発表した1988年の「7.7宣言」で示した朝鮮半島平和プロセスの再開を思い起こしてください。7.7宣言は南北和解と同時に、南北のクロス承認を目標としました。中国とソ連は韓国と国交を結びましたが、米国と日本は北朝鮮(朝鮮)と国交を回復せず、それが限界となりました。このような米朝関係、日朝関係改善の失敗が今日の朝鮮における核?ミサイル危機の起源だともいえるでしょう。だからこそ、朝鮮の非核化は、米国と日本との関係正常化が前提とされねばなりません。米朝、日朝国交正常化による東北アジアの国際関係の正常化なしには、このような過程は完成されません。
日韓関係を正常化させ、日朝関係を仲裁することが韓国政府の課題だと思います。現在、日朝の間があまりにもかけ離れたので、逆に日朝の間で仲裁者が動ける空間は広くなりました。韓国の役割が重要になってきています。日韓協力を通じて、日朝国交正常化を行うべきです。これが、日本、韓国、朝鮮の3か国が新たな協力に向かう道です。
未来の目標として、日韓の市民運動が示すのには、「東北アジア非核兵器地帯化」があります。それは朝鮮の非核化を進め、朝鮮半島の非核化を保障する道であり、「非核3原則」に立つ日本を留まらせ、東北アジアで非核地帯を創設する道につながります。
これは決して夢ではありません。また日本と朝鮮も2002年の日朝共同宣言において、核問題を国際法の遵守により解決し、ミサイルを凍結すると明示しました。これを日朝国交正常化交渉の過程で再確認するならば、日韓、南北、日朝の間では非核平和の価値が共有されることでしょう。そうすれば、少なくとも南北と日本の間では非核兵器地帯の政治的基礎が整うということです。
朝鮮半島と東北アジアの平和実現のために
1. ハノイの2度目の米朝首脳会談とその後の米国
米国は、ハノイでの2度目の米朝首脳会談とその後にも、北朝鮮が最終的で完全に検証された非核化(FFVD)を行わねばならないとして、自分たちの「ビッグディール」 の主張を繰り返しています。北朝鮮の一方的な非核化を要求しながら、それを受け入れない北に対し、交渉の準備が出来ていないと無理強いをしています。
トランプ大統領は、昨年のシンガポール米朝首脳会談直後に韓米合同軍事演習は行わないとした約束を破り、名称だけ変えて軍事演習を強行しました。
2.ハノイ会談以後、北の対応
北のキム・ジョンウン[金正恩]委員長は米国に政策の転換を要求しました。
北は、今年の年末までという期限を区切り、北の要求に応じる時のみに3回目の米朝首脳会談が可能だと明らかにしています。また中国、ベトナムなど、社会主義圏の国々との関係を強化し、朝ロ首脳会談を進め友好国との協力関係も拡大しています。交渉の道は開かれていますが、「新たな道」も模索しています。
3.4.27板門店宣言とシンガポール宣言の実現は、中断のない平和的課題だ
米国がどのように応じるにせよ、北は自分の行く道を明らかにして、ボールは再び米国側に投げ返されました。米国の責任ある決断により3度目の米朝首脳会談が行えるか、その成功がかかっています。米朝交渉の危機は、ムン・ジェイン[文在寅]政府の危機でもあります。4.27共同宣言の実現はわが民族内部の問題であり、米国が干渉する問題ではありません。しかし、文在寅政府の約束と合意には「魂」が込められていません。現実には、米国と対北制裁の基調と食い違いをみせることすら怖がっています。文政府は南北関係を民族の運命と統一の問題として認識するよりも、平和共存と経済的活路のレベルで扱っています。
慌ただしい文大統領の南北首脳会談の開催提案に、北からは返事がありません。南北共同連絡事務所など公式的な南北関係も事実上、中断されたままとなっています。遅ればせながら文在寅政府は、人道的な北への食糧支援を進め、ケソン[開城]工業団地の企業家訪問を許可しました。クムガンサン[金剛山]観光を始める意思も表明しています。これは南北関係を改善し、朝鮮半島の平和を実現する上で役立つものだと思われます。
4. 朝鮮半島問題は東アジア平和運動のテーマ
今年の8月15日「光復節[解放記念日]」を契機に、民族の自主と平和統一の実現のために全国民大会を進めています。国内外の平和統一運動が集まって、米国に抗議するため[ソウルの]「米国大使館を人間の鎖で取り囲む行動」を準備しています。また、世界の平和を愛する人々と共に、「国際平和宣言」と「朝鮮半島を描いた統一旗への寄せ書き運動」も呼びかけたいと思っています。これは今年の9月末、ニューヨークで開催される国連総会期間に「朝鮮半島平和のための国際キャンペーン」を行う計画で、ここに持参する予定です。
朝鮮半島の平和実現は、日本と東アジアの平和を実現する上で根本的な問題です。日本の民主主義を進める上でも必須の関係性にあります。韓国と日本の極右勢力は、北を口実に韓米日軍事同盟を強化しながら歴史を後ろに押し戻しています。私たちは日韓の平和連帯を強め、一緒に東アジアの未来を作って行きましょう。
2月に行われたハノイでの第2次朝米首脳会談で、米国は一括妥結を求め、同時行動による段階的アプローチを主張する朝鮮の立場との違いが際立つ結果となった。米側の要求は朝鮮側に一方的な核放棄を迫る「リビア方式」そのものだ。米国は朝鮮戦争で核兵器使用をもくろみ、その後も朝鮮に対する核威嚇を行ってきた。だが、朝鮮が核兵器を持つことによって一方的な核威嚇の状況が終わった。
朝鮮による核の兵器化が現実段階にいたり朝米会談が実現したが、米国は「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」を求めてきた。トランプ大統領は昨年以来、朝鮮戦争の終結に幾度も言及してきた。しかしハノイにおいてそこから逸脱した。2017年危機へと時計の針を戻すことは避けなければならない。
中・ロは朝鮮の核保有について明確に反対しているが、米国の核脅威を取り除く過程で、段階的な非核化を進めようとする朝鮮の立場に支持を表明している。しかし周辺国で日本だけが非核化する朝鮮の立場に理解を示していない。安倍総理は金正恩委員長と向き合うと言及するようになったが、「最大限の圧力」を唱える米国の保守強硬派と共同歩調をとってきた。しかも安部政権は対朝鮮圧力の一環として、在日朝鮮人の祖国往来や民族教育の保証などの権利に不当な制限を加えてきた。こうした状況を正すことになれば、日本政府の思いは北に届くようになるかもしれない。
東北アジアの軍縮と平和のための韓国と日本の課題
文在寅政府は「過去には戻らない」と宣言したキャンドルの市民が切り拓いた可能性の中で、南北関係の新しい解決にとりかかりました。そして、南北首脳は歴史的な板門店宣言で「新たな平和の時代」を宣言しました。軍事合意により、朝鮮半島全域において軍事、敵対行動を禁止し、[警戒監視所]撤去など軍事的緊張緩和のための実質的な措置がとられ始めました。北朝鮮は核・ミサイルの発射実験を中断し、韓米は合同軍事演習を中断、または縮小しました。でも、朝鮮半島にはまだ春が訪れていません。非核化をめぐり米朝関係は再びこう着状態に陥り、最近になって北朝鮮は軍事行動を起こしました。でも、これは北朝鮮だけの責任でしょうか。依然として軍事的緊張と対決による解決を諦められない私たちみんなの責任です。
韓国では数十年間、毎年北朝鮮GDPの総額にも達する軍事費を支出してきました。このような軍事的アンバランスが北朝鮮による核・ミサイル開発に少しでも口実を与えてきました。北朝鮮もまた、経済水準から見て過度のお金を軍事費に支出し、新型戦術兵器の開発と実験などを続けています。韓国の平和団体では「46兆[ウォン]の国防費よりも今私たちに必要な物は?」という市民へのオンライン・キャンペーンを行い、多くの市民がWEB上で意見を書き込んでくれました。市民は軍事費を減らして安定した仕事、社会福祉の拡大、教育の権利と居住権の確保など、私たちの生活と直結したところにお金を使うよう求めていました。さらに、消防公務員の待遇改善や平和教育の拡大、未来の世代のために気候変動への基金造成、低開発国への投資、難民支援など、より良い未来のために私たちの税金を投資すべきだと願っていました。
オンライン・キャンペーンの掲示板には、軍縮に反対する書込みもありました。「軍備縮小は非現実的な空想に過ぎません... 戦争を阻止する力は、もっと強い戦争抑止力と力のバランスです。」「国防費の削減はまだ時期尚早です。わが国の周辺国(北朝鮮だけでなくても中国やロシア、日本など)が国防力を強化しているのに、自分たちを守る手段が必要です。」
注目すべきは、いつからか軍縮に反対する人たちの理由が北の核の脅威から「周辺国の脅威」に拡大していることです。これは韓国政府の国防費増額理由の変化と同じです。恐らく日本の軍縮反対論者も同じような論理なのではないかと思います。しかし、周辺国と共に軍備を縮小し戦争の脅威を減らそうという主張と、軍備競争で戦争の脅威をなくそうという主張、果たしてどちらが非現実的でしょうか。私たちは繰り返し、そして何度も問い返していかなければなりません。
軍縮は決して一国のみの問題ではありません。朝鮮半島と東北アジアの軍縮は、周辺国と共に進めてこそ可能です。非核化も同じです。朝鮮半島の完全な非核化も朝鮮半島周辺で核の抑止力に依存する全ての軍事戦略が消えてこそ達成が可能となります。言い換えれば、韓国や米国、日本が依存している核の傘(拡張抑制)戦略の廃棄もまた、議題に含まれねばなりません。韓国の市民社会団体では、既にかなり以前から朝鮮半島の非核化論議は、東北アジア非核地帯創設の展望から行われるべきだと主張してきました。このためには、朝鮮半島の南北と日本が核兵器禁止条約に同時加入し、周辺の核兵器保有国の加入を要求することを提案したいと思います。
この3月、韓国の55の市民社会団体は、国連と韓国、北朝鮮、日本の国連代表部、海外メディアと国際市民社会団体などに、「朝鮮半島の平和プロセスは揺るがずに続けられるべきだ」という公開書簡を発送しました。それは2回目のハノイ米朝首脳会談以降、米朝間のこう着状態が長引くことを憂慮し、朝鮮半島平和プロセスが継続するように、国連安保理をはじめ国際社会が立ち上がることを訴えたのです。
日本と日本の市民社会の役割は重大です。私たちは、安倍政権の右傾化と憲法9条を改悪しようとする動きを憂慮しています。「慰安婦」や強制徴用問題など、歴史的責任を放棄したまま、日韓で哨戒機のレーダー[照射]の論議、日本の水産物輸入問題など、日韓の対立を日本の国内政治に利用することを心配しています。日本が平和憲法を壊さずに、対話と交渉による朝鮮半島平和プロセスを支持し、東北アジア軍備競争の最前線ではなく、軍縮と非核化の先頭に立つよう、日本の市民社会が大きな役割を果たしてくれると信じています。
日本側からは湯浅一郎さん(ピースデポ)、和田春樹さん(日朝国交正常化連絡会)、庵逧(あんざこ)由香さん(立命館大学)が発言した。
湯浅さんは「東北アジアの平和と非核化へ歴史的変化を作りだそう――求められる市民社会の監視と行動」をテーマに発言した。湯浅さんは、日米が敵視政策を止め、段階的な制裁緩和を検討すべきだとして、ピースデポが発信している情報「非核化合意履行監視プロジェクト」への注目を訴えた。また、「唯一残る冷戦構造の終わり」を意味する朝鮮半島の平和体制の確立について、「このプロセスをもたらしたのは韓国のキャンドル革命」だと強調した。
和田春樹さんは発言テーマを、「日朝国交正常化こそ日本が韓国を見習って米朝平和プロセスに参加する道だ」とした。5月の安倍首相の日朝無条件対話への転換を受け「平壌宣言に基づいて無条件で大使館を平壌と東京に開設せよと求めることができる」とし、また日本海の呼称を変えることを検討するにも言及した。
庵逧さんは「植民地支配と過去清算」をテーマに発言し、歴史問題に関する日韓の対立について、日韓の歴史研究者の間では強制連行や「慰安婦」問題などについての事実認識や評価の通説に対立は見られないと報告。さらに韓国問題に関連する日本の大学の受講生がかつてに比べると急激に増えていること、日韓両国の往来人数が昨年は1000万人を超えたこと、10代の若者に韓国製品への関心が高まっていることなどの実例を挙げ、「対立しているのは政府だけ」と述べた。
最後に、菱山南帆子さんが閉会挨拶し、東アジア民衆の連帯した力で、朝鮮半島と日本に非核・平和を実現しようと述べた。2019統一自治体選挙についての私的メモ
竹腰 英樹(中野協同プロジェクト)
知事選において、北海道が市民と立憲野党の共闘の「トップランナー」であると思い(2月の広島での全国交流集会Kさんの報告もその引き金である。)、安い航空便とホテルを調達し、札幌へ飛んだ。「戦争させない市民の風・北海道」(以下、「風」と略)のKさん・Yさんにメールで事前連絡していたので、選対事務所でもスムーズに応対いただいた。早速、電話入れを行なう。「カジノNO、原発NO、JRの路線を守る」というのが政策の打ち出しであり、電話のキモであった。(不在・留守電が圧倒的に多かったが。)夕方は「風」Kさんからメールがあった札幌駅前。寒い寒い。「駅前を歩くのは観光客であり、地元の人は地下街にもぐる」とのこと。歌あり、チラシ配布・リレートークありの宣伝。
翌日・翌々日午前もKさんの要望で電話入れが中心。3日の夕方の宣伝では、「風」Yさんのトーク。「国会を見ると忖度やデータ改竄ばかりで、政治に関心がなくなるのもわかるが、『無党派』と言われる人々が動くことで政治は変わる。」という趣旨で力強くアピール。駅近くの書店前の宣伝で若い人もチラシを受け取る。終了後、のぼり棒やチラシ等の撤収に同行。1ヶ所はマンションの一室、もう1ヶ所は札幌駅すぐの市民活動サポートセンターのロッカー。「前市長の上田さん時代にできたもの。」と「風」のK氏。多くの人々が打合せコーナーで話し合い、掲示コーナーには様々なチラシが置かれていた。選挙結果は残念なものであったが、市民と立憲野党の共闘がしっかりと政策を作り上げて進められたことは今後の土台となると思う。
4月21日投票の後半戦、地元の中野区では区議選があった。定数42に対して60人が立候補した多数激戦。特定候補・政党を支持するのも一つのやり方だが、今回は「広く、浅く、しっかり」と考えた。
公示前までは区民の声・中野(区民の声を聴く中野区政を実現させる会)のチラシ配布。1,500枚を2日間でポスティング。公示後は日本共産党の候補の証紙貼り、立憲民主党の街頭演説会を聞き、候補のチラシ配布、生活者ネット・無所属候補の演説を聞く等。投票日には中野や杉並の仲間とともに「選挙に行こう」キャンペーンを行なった。選挙結果は区長支持勢力がやや伸張し、投票率は0.02%上昇した。(横ばいと言えばそれまでだが、他の多くの自治体では投票率が低下している。)
いくつかの区長選では「市民連合型」もしくは「オール沖縄」に近い状況を作り得て、結果は残念だが、これも北海道と同じ可能性を持つものだと思う。(新聞報道等だけで全く足を運べなかった。)
以上
お話:内田 雅敏さん(弁護士・市民連絡会共同代表)
(編集部註)5月25日の講座で内田雅敏さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
亡くなった奥平康弘先生が、「日本の憲法は未完の憲法だ」ということを言っておられます。「未完の憲法」だということは、たぶん戦争責任問題、植民地支配の清算の問題そして沖縄の軍事基地の問題、こういった問題が日本国憲法で解決されていないということであったと思います。そういった意味で、いま韓国の徴用工の問題そして辺野古の米軍新基地建設が出ているわけですが、私たちがこの問題に取り組むことによって未完の日本国憲法を補完する、そういう作業をしているのではないかと思っています。
昨年の10月30日に韓国の大法院の法廷が、新日鉄住金の元徴用工に対して損害賠償を命じる判決を出しました。日本社会は、ご承知のようにこれに対して一斉にブーイングをしました。特にメディアがひどかったですね。「国家間の合意に反する」「一体韓国はどういう国なんだ」、こういうことが言われました。しかし国家間の合意ならばどんなことでも守らなければいけないのか。いま辺野古の問題は日米が合意しているわけですが、日米が合意していても沖縄は合意していない。そういった意味で国家間の合意があったとしても、その中味が問題であるわけです。
1965年の日韓請求権協定で解決済みだ、こういうことが言われました。私は当時大学2年生で、日韓条約の反対運動に参加した思い出があります。よく言われることですが、当時の運動では、ベトナム戦争を背景として米日韓の軍事同盟、そして「北」に対峙する、こういう内容のものであったわけです。そこで日本側の反対運動ももっぱらその観点からの反対運動で、植民地支配の清算といったものはほとんど語られなかった。そんなことはない、俺たちは語っていたという人が中にはいましたけれども一部のそういった人たちは別として、運動全体としては植民地支配の清算という問題はなかった。だいたい1965年当時に朝鮮半島の問題について、北と南の関係について北は「楽園」、そこまで言わない人もいましたけれども南は朴正煕の軍事政権、北と南の比較なんて問題にならない、こういう時代であったと思います。私は当時朝鮮大学に連れて行かれて講演を聞いたときに、かなり年配の、学生かどうかという人が出てきて「いわゆる韓国は」というのを聞いたときに驚いたことがあります。「いわゆる韓国は」、こういう言い方があるのかと。当時はそういう状況でした。
そしてご承知のように、有償2億ドル、無償3億ドルの請求権協定がなされたわけです。当時椎名外務大臣が「これは独立祝金であって、植民地支配の清算の問題ではまったくない」、こういった国会での答弁をしております。そして外務省の条約局は、この請求権協定で放棄されたのは国家の外交保護権であって、個人の請求権は放棄されたものではないということを当時語り、その後も語っています。これはもう多くの人たちがいろいろな論考で主張しておりますから、みなさんご承知だと思います。韓国の大法院の判決、9人の裁判官のうち7人が多数意見で損害賠償を認めた。その7人のうち何人かは、この徴用工の慰謝料請求権は請求権協定に含まれていなかった、こういう見解であるところです。そして請求権協定に含まれていた、しかしこれが放棄されたのは外交保護権であって個人の請求権は放棄されたものではない。このふたつの見解が多数意見を構成したわけです。
そうなると韓国の大法院の判決の内容は、日本政府の見解とまったく同じであるわけです。まったく変わりはない。そもそも「外交保護権の放棄」という聞き慣れない言葉、これはどういうところから出てくるのか。日本の戦後処理をした1951年9月に締結され、翌1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約14条において、日本は戦争賠償をすべきである。しかし日本の経済はその力がない。従って、連合国そして連合国民の、日本国に対する損害賠償請求は放棄する。逆に日本の連合国に対する、あるいは日本国民の連合国民に対する賠償請求権も放棄する、こういうかたちを取ったわけです。これがレジメにある図です。お互いに放棄する。
ところがこのときにカナダに在外資産を持っていた日本人が、このサンフランシスコ条約によって自分の権利が放棄されてしまった。そのことによって日本政府は損害賠償請求を――戦争賠償を免れた。個人の財産を犠牲にして国家が請求権を免れた。これは憲法29条3項「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」――個人の財産を公のために使った場合には補償しなくてはいけない、こういう規定があります。この規定に基づいて日本政府に対して損害賠償請求を起こしました。そのときに日本政府はどう答えたか。「戦争の被害は重大である。国民が等しく負わなくてはいけないのだ」、こういう論理でした。そして裁判所もこの論理を経た判決を出し、個人の損害賠償権を棄却したわけです。
ところがそのあとに、原爆の被害者が同じように日本政府を訴えました。原爆の投下は国際法違反だ、被害者はアメリカに対して損害賠償請求権を有する。しかしながらサンフランシスコ講和条約において日本政府はこれを放棄している。放棄することによって、日本政府も損害賠償請求を免れている。これは個人の権利を国家の利益のために使ったものである。これは、先ほど述べたカナダの在外資産の損害賠償請求と同じですね。そのときに日本政府はどう答えたか。「戦争の被害は国民が等しく負わなければいけない」ということは、原爆の被害者に対してはさすがに言えなかった。そこで日本政府が言い出したことは、サンフランシスコ講和条約によって放棄したものは国家の外交保護権であって、個人の請求権ではない。「従って日本の原爆の被害者は、アメリカに行って損害賠償請求の裁判をすることは論理的には可能であります」、こういう答弁をしたわけです。何のことはない、国家の外交保護権の放棄であって個人の請求権の放棄ではないという、この言い方は日本政府が自らの責任を免れるために言い出したものであるわけです。
面白いことに、韓国の大法院の判決では2名の反対意見がありました。この2名の反対意見は、外交保護権の放棄というのは日本政府が自分の責任を免れるために言い出したものであって、そもそも個人の請求権と外交保護権とを分けて考えたりすることはできないと言っています。韓国の大法院の判決が日本政府の責任を免れるための言い方についての批判をしているわけです。
それから無償3億ドルについては、当時1ドル360円で計算しますと1080億円です。この1080億円を、1965年10月の日韓請求権協定によって一気に支払ったわけではありません。10年の分割で、毎年108億円です。しかもこれはお金で支払ったわけではありません。日本政府が日本の企業のものを買う。例えばプラントを買い、それを韓国政府に提供する。つまりこの日韓請求権協定は、日本の企業が韓国に再進出するためのきっかけになったわけです。ご承知のように、ベトナムの賠償にしてもフィリピンの賠償にしてもインドネシアの賠償にしても、すべて賠償というのは日本の企業が再び戦後にアジアに出ていくきっかけになった。これは当時の吉田茂などもいっている。これは賠償というより実際は日本の企業が出ていくためのものだと。そういうもろもろの問題を考えると、あの韓国大法院の判決について、日本の社会が国家間の約束に反するとんでもないものだという批判が当たっていないと思います。
そもそも今日の国際法の世界においては個人の請求権を国家が放棄できるのか、こういうことがいま問われているわけです。「世界」2月号に新村正人という花岡事件の東京高裁での和解を担当した裁判長が寄稿しています。その中で、「今回の大法院判決をあたかも暴挙のように言い立てて非難するのは慎むべきではないか。請求権協定で放棄したのは外交保護権であり個人の損害賠償請求権は消滅していないとしてこの判決の論理運びを支持するかのような論調も、我が国の一部の識者から示されており、そもそも日本政府は個人の請求権は消滅していないという立場を維持し続けていたはずである。国家間の条約、協定で個人の請求権を一方的に消滅させ、裁判上請求できないとするのが自明の理なのか、この辺りの基本に立ち返って考えるべきではないかと思われる。」こういうことを元東京高裁の裁判長が言っています。さらにここから、「被害事実が認められ被害者個人に対する権利侵害があって救済の必要があると認められるが、大きな壁があるという場合、裁判官としては、壁より先に進めないとして請求を認めないという安易な決着に走ることはあり得るが、壁を突き破るための理論構成を組み立てる、あるいは壁があるのはやむを得ないととしつつこれを迂回して他の解決方法を探る等の選択肢も考えられるところであって、花岡の和解は後者、韓国大法院判決は前者の道を取ったと言えよう。」、こう言っているんです。
私はこのゲラを見たときに「世界」の担当者に電話をして、本当に新村さんがこう書いたのか。編集部が手を入れたんじゃないかと聞きました。「そんなことはありません。この通りに書いてきました」ということでした。彼がすべての裁判についてこういう態度で判決を書いていたのかどうかは、これはまた別問題です。別問題ですけれども、こういうことを考える裁判官もいるわけです。私はこの文章、「国家間の条約、協定で個人の請求権を一方的に消滅させ、裁判上請求できないとするのが自明の理なのか」、こう言っていることに本当に感動しました。つまり今日においてはこういう考え方になってきているわけです。だとするならばこの徴用工の判決については解決済みということではなくて、この問題にしっかりと向き合わなくてはいけないと思うわけです。
樋口陽一さんが1960年にフランスに留学したときのことを岩波新書などで書いています。――1960年のあの60年安保のあと、浅沼稲次郎が刺殺された直後にパリに行ったのですけれども非常にパリは静かだった。日本は騒がしい時代だった。しかし、実はその静かなパリにもアルジェリアの独立を巡って非常に激しい争いがあった。特に1961年にはアルジェリアの現地軍が反乱を起こして、そしてパリに空挺部隊が来るかもしれない。ド・ゴール内閣は、市民に対してサイレンが鳴ったら空港にみんな集まるように、市民にも武器を配るという噂も飛んだというくらいに植民地支配の克服の問題というのは大変な問題である。内戦をも起こしかねない、と書いています。ところが日本は1945年8月15日の敗戦ということによって、一挙に植民地支配の問題から「解放」されてしまった。つまり植民地支配の問題と向き合うことなしに戦後を歩んできた。そのツケがいま来ている、そういうことを思うわけです。
私は数年前まで、隣国・韓国の憲法についてまったく知りませんでした。アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言、そういったものについてはおぼろげながら知ってはいましたが、韓国についてはまったく知らなかった。立命館大学の徐勝教授と裁判をたたかう中で、証人の打ち合わせをするとき、初めて韓国の憲法を教えられて愕然としました。韓国の憲法と日本の憲法はコインの裏表の関係にあります。韓国の憲法前文は、「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台に自由民主的基本秩序をより確固にし、政治・経済・社会・文化のすべての領域において各人の機会を均等にし、能力を最高度に発揮してもらい、自由と権利に拠る責任と義務を完遂するようにし、(国)内では国民生活の均等な向上を期し、外(交)では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを誓いつつ、1948年7月12日に制定され8次にわたり改正された憲法を再度国会の議決を経って国民投票によって改正する。」。これが1987年10月29日、第9回目の改憲であり、これが現代の憲法です。
「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府」というのは、あの1919年の3.1独立運動と、上海臨時政府です。そして「4.19民衆理念」、これは1960年の李承晩の独裁政権、その後の張勉内閣に抵抗した学生革命です。つまり韓国の憲法は、日本の植民地支配に対する抵抗、そして独裁政権に対する抵抗、このことによって成り立っています。それがこの韓国の憲法の中に書き込まれている。植民地支配から解放されたのは1945年8月15日、日本が敗戦した日です。日本はその結果、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」こういう憲法です。つまり日本の敗戦、韓国の解放、そのことによって韓国の憲法そして日本の憲法は、コインの裏表の関係にあります。
韓国の憲法に「3.1独立運動」が書き込まれるには27年の歳月を要した。1960年の学生革命が憲法典に書き込まれるには、やはり27年の歳月を要した。そのように韓国でのたたかいがあった。1980年にはあの光州事件そして1987年の民主革命、これによって韓国で大統領を直接選挙で選べるようになりました。ただあのときには、金大中と金泳三が分裂して盧泰愚の政権になりました。そのあと金泳三、金大中そして盧武鉉が大統領になっていったわけです。さらにそれが李明博、朴槿恵、それを倒したあのローソクデモという流れです。まさに抵抗の歴史、そういう歴史の中で韓国の憲法がつくられてきています。最近では1987年6月を憲法典の中に書き込もうという動きすらあるそうです。フィギュアスケートのメダリスト、キム・ヨナが歌う「3456」という歌があるそうです。3月は3.1独立運動、4月は上海臨時政府、5月は光州事件、6月が1987年の民主革命です。こういう動きもあります。
先ほど「未完の憲法」ということを言いましたが、私は憲法の11条と97条の関係について最近よく考えています。憲法11条は、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」という内容になっています。97条は、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」。このように11条と97条は同じことを繰り返しています。なぜ同じことを書いているのだろうか。私は基本的人権の重要性を考えてあらためて憲法の末尾近くにおいてそのことを確認したのかな、このように思っていました。
ところが憲法制定当時GHQと交渉した佐藤達夫という内閣法制局参事官、のちに内閣法制局長官になりますが、彼の「日本国憲法誕生記」を読んでそのことがわかりました。GHQがつくった憲法草案は11条と97条は一本のものとして書かれていた。つまり「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」という内容でした。日本側は歴史的な経過を入れる必要がないと言います。確かに入れる必要がないのであって、その経過、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」「これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ」ということ、これは日本の社会のことを語ったわけではないんですね。敗戦によって得たわけですから。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」ではないわけです。「過去幾多の試錬に堪へ」たわけでもない。だから日本側はこれを入れたくなかった。「歴史的経過は入れる必要がない」ということで削って11条のように整理しました。
ところがGHQの幹部は、「これは俺がつくった文言だ、ぜひ入れろ」ということになって入れた。つまりわれわれは韓国の民衆運動と違って、憲法典に書き込まれるまでのたたかいを経て憲法を得たわけではなかった。敗戦ということによって憲法を得た。しかし戦後のさまざまな権利闘争、そして平和運動、現在行われている辺野古の新基地建設反対の運動あるいは安保法制の違憲訴訟の裁判、こういうもろもろの裁判が未完の日本国憲法を補完する、つまり憲法11条だけではなくて憲法97条の実践になる。このように私は思っているわけです。そういう歴史的な流れを韓国の憲法と比較しながら私たちは考えてみる必要があるのではないかと思っております。
今年3.1独立運動100年ということで、私は直前に日韓民衆の共同声明という話があってソウルへ行きました。本当に国を挙げてのお祭りです。午前中は政府主催、そこで文在寅大統領が演説する。「過去は変えられませんが、未来は変えることができます。歴史を鑑として韓国と日本が固く手を握る時、平和の時代がわれわれに近付くでしょう。力を合わせて被害者の苦痛を実質的に癒やす時、韓国と日本は心が通じ合う真の友人になるでしょう」。こういう演説をしたわけです。午後からはアリランの歌、韓国国歌、最後は統一歌、そういう歌を歌う間にさまざまな太鼓を叩いたり踊りを踊ったり、さまざまな団体が自分たちの声明文を読み上げました。私が驚いたのは警察官がかなり出ていたことです。どうして警察官が出ていたかというと、みんなが3.1独立運動を祝っているけれども、やはりそこには保革の対立がある。そういうことで、衝突が起こらないように警察が待機しています。だから文在寅の集会に対して、それを批判する集会も同じく3.1独立運動ということで行われていました。そういうことがあったわけです。
では、いまの状況をどうするのか。実は昨年の10月30日の判決が出て、日本社会が一斉にブーイングしたときに多くの人たちから質問を受けました。中国の場合には、まだ十分ではないけれども花岡和解とか、西松和解あるいは三菱マテリアル和解などがある。中国と韓国では何か違いがあるのか、こういうことを言われました。違いはありません。違いがあるのは、中国の場合には1944年、昭和19年9月から翌1945年5月くらいまで、約1年未満で人数は4万人。そして亡くなった人が約7000人です。韓国の徴用工の場合には期間が長い。人数は、これはもう正確な数字はわかっていない。盧武鉉政権のときに真相究明委員会で名乗り出た人が20数万人。しかし実際には80何万人とか100万人とか言われている。この、期間が長かったこと、人数が多いこと、これが問題の解決を困難にしています。
かつて内閣法制局長官をした私の知り合いは、私たちと話しをしたときに、あの10月30日の判決直後の日本社会の反応はおかしい、メディアの状況はおかしい。外交保護権の放棄であって個人の請求権は失われていない。こういうことを元内閣法制局長官が言うわけです。彼は続けてこう言った。「しかし被害があまりにも甚大すぎる。これを一企業が賠償を担うのは大変なんだ」。そうなんです。一企業ではできません。だから解決方法としては、ドイツのフォルクスワーゲンとかベンツとか、そういった企業が50億マルク、国家が50億マルク、100億マルクの基金をつくって、2001年から始まったわけです。当時のお金で約5000億円から7000億円と言われています。これが150万人くらいの人に対して賠償をした。2007年に任務を果たして解散していますが、ひとり当たりは70万円くらい、そういう内容です。
歴史問題の解決については3つのことが必要です。ひとつは事実を認め、責任を認めて謝罪する。ふたつ目は謝罪に見合うわけではありませんが、謝罪の証として何らかのお金を支給する。そして3つ目は将来に再びそういったことを行わせないために、歴史教育を行う。この3点が不可欠です。この3点をしっかりと、とりわけ事実を認め責任を認め謝罪し、将来の戒めとすること、この1番目と3番目をしっかりやれば補償金の問題についてはある程度納得してもらえる可能性があります。そうなるとドイツの基金のようなものをつくることによって、この問題を解決することは可能なのではないだろうか。いまトランプの言うがままに、「シンゾーはいい奴だ、途方もなく武器を買ってくれる」とか、イージス・アショアなどは実際には5000億円くらいかかってしまう。こういうお金を使えばこの問題は解決できないわけではない。そうすれば、いまぎくしゃくしている日韓の関係も改善される。これこそが最高の安全保障、究極の安全保障ではないでしょうか。2001年にドイツの国防軍改革委員会の報告書は、「ドイツは歴史上初めて隣国全てが友人となった」と書いています。ドイツは9つの国と国境を接しているといわれています。つまりこれこそ究極の安全保障であり、徴用工問題を解決することが安全保障である。沖縄の辺野古に何兆円もかかる基地をつくることは何の安全保障にならないと思います。
私はこの「和解」ということについて考えてみたいと思います。弁護士としていろいろと事件処理という中で和解ということを行います。「和解」というのはお金を支払って“お終い”ということになって、最後はお互いにこれで債権債務はないという清算条項を入れてお終いにするということが多いわけです。しかし歴史問題の和解は、和解の成立によって終わるのではなくて、和解事業を遂行する中でその中味を深めていくことができるということを実感しております。西松建設の、広島のケースの和解では、太田川の上流の中国電力の一角に「中国人受難の碑」をつくり、そこに毎年、途中から年2回にしましたけれども中国から当事者(当時はまだ受難者がいた)、遺族をお招きする。これは2009年に成立して2010年から始めたわけです。そして午前中は受難の碑の前で追悼式を行い、午後は強制連行の現場を廻る。翌日は広島の原爆資料館を見学してもらう。原爆資料館ではボランティアの人たちが平和ガイドをしてくれる。
ある遺族は広島の原爆資料館を見学したときに、その夜の交流会で感想が3つあると言いました。「むごい、むごい、むごい、これが感想です」、こう言いました。しかし1945年8月6日に広島に、9日の長崎に原爆が投下されたときに、北京、南京あるいは重慶あるいはソウルあるいはシンガポールで、アジアの人々は「万歳」を叫んだわけです。これで日本は敗れ、アジアは解放されたと。その万歳を叫んだ人たちの子どもや孫が、広島の原爆資料館に来てそういう感想を持ってくれる。その原爆資料館の平和ガイドには、中国から広島大学に留学している留学生がガイドをする。こういうことをしてくれるわけです。地元の追悼式では、町長等地元の人たちが参加する。最初は渋っていました。確かに中国人は被害を受けたかもしれないけれども、1945年8月15日の日本の敗戦以降、部落の方も被害を受けた。中国人に鶏を盗まれたとか、反動でそういうこともあったと思うんです。そして受難の碑を建てるときに敷地とかいろいろなことで問題があったときに、町には説得して欲しいと言われて、部落の人たちと何度も話をしました。ようやく受難の碑が建って、追悼式には部落の人たちも来てくれて町長も、毎年来てくれる。いまでは町長は、これは大切なことだから今後も続けて欲しいといっています。
小さい水力発電所は太田川にはたくさんあるんですが、中国人たちが働いた水力発電所は、まだ今日でも稼働しています。ある遺族は案内した中国電力の社員に「自分達の父親がつくった、この発電所を長く使ってほしい」、こう言ったそうです。そうしたらその中国電力の社員は「はい、大事に使わせていただきます」と言った。それは、例えば報告集会で出たのではなくて現場を廻っているときに、中国人の遺族がぽつんと中国電力の社員に言う。それを聞いた中国電力の社員が、ぽつんと所在なげに立っていた私に言う。こういう関係であるわけですね。私はこういうことを続けていくこと、これが和解だと思います。広辞苑で「和解」という言葉を引きますと、「仲直り」という言葉が出てきます。2つ目に「争いを止めること。裁判所の和解」という言葉が出てきます。つまりこれまでの和解は争いを止めること、お互いに不満を持ちつつも、まあ手を打つという内容だったわけです。それが和解事業を進めることによって、本当の意味での「仲直り」に次第に近づいていく可能性がある、と思います。これがまさに民間同士の交流であり、国同士がどうであれ民間は決して戦争を望まないということです。
思い起こせば2012年、石原慎太郎のあの尖閣を巡る挑発で日中関係は最悪でした。中国から日本に来ないのではないだろうか、中国側では日本に行くなと言われたそうです。それでも人数は少なかったけれども来てくれました。広島の原爆資料館を見学したときに、年配のボランティアのガイドがこう言った。「みなさん、本当にこんなときによく来てくださいました。一生懸命案内させていただきます」。その言葉を聞いたときに私は本当に涙が出ました。そして中国人たちは、「日本に来て良かった」と言って帰っていったわけです。くどいようですが、国同士がどうであれ、民間は決して戦争なんか望まない。いま日韓がこういう関係であっても、昨年の韓国から日本への旅行者は750万人、7人に1人、日本からは300万人強らしいですが、そういうかたちできているわけです。みなさんの周辺にいる、近くにいる韓国の人たち、中国の人たちはみんなそうでしょ。国同士はどうであれ民間の交流によって友好はできると私は思っております。
日韓は和解の模索として1998年10月8日に、小渕総理大臣と金大中大統領で日韓共同宣言を発して、以下のように述べました。「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。」。2010年、植民地支配100年のときには、菅直人総理大臣の談話がありました。「本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど百年前の八月、日韓併合条約が締結され、以後三十六年に及ぶ植民地支配が始まりました。三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします」。
こういった談話などの根底にあるのは1995年の村山首相談話です。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」。これは一部ですがこれが根底にあります。しかし村山首相談話は1995年に突然出てきたわけではありません。
その10年前に日本の総理大臣が国連総会でこういう演説を行っている。「議長、1945年6月26日、国連憲章がサン・フランシスコで署名されたとき、日本は,ただ1国で40以上の国を相手として、絶望的な戦争をたたかっていました。そして、戦争終結後、我々日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にもまた自国民にも多大の惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました。日本国民は、祖国再建に取り組むに当たって、我が国固有の伝統と文化を尊重しつつ、人類にとって普遍的な基本的価値、すなわち、平和と自由、民主主義と人道主義を至高の価値とする国是を定め、そのための憲法を制定しました。我が国は、平和国家をめざして専守防衛に徹し、2度と再び軍事大国にはならないことを内外に宣明したのであります。戦争と原爆の悲惨さを身をもって体験した国民として、軍国主義の復活は永遠にあり得ないことであります。この我が国の国是は、国連憲章がかかげる目的や原則と完全に一致しております。」。中曽根が国連でこういう演説をしています。そして1972年の日中共同声明。これはすべて1947年5月3日から施行された憲法、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」、ここからすべてが発しています。これが日本の戦後の出発点です。安倍内閣はこれをいま殺そうとしているわけです。村山首相談話以降、小泉首相、その後の首相も含めて、すべてこの路線を踏襲しています。これは国際公約です。違うのは安倍だけです。
韓国との関係については、こういうこともよく聞きます。「もう謝罪したでしょう」。中国についても同じですね。「それでもまだ謝罪しなくてはいけないのか」。盧武鉉大統領は2004年の3.1独立運動の集会においてこういう演説をしたそうです。「日本はもう謝罪した。これ以上謝罪する必要はない。謝罪に見合う行動をとってほしい」。こういうことを言ったわけです。つまり日本では公式に謝罪をする。これが日本の国際社会における公約ですからね。そうすると必ず「植民地支配はいいこともあった」、「南京大虐殺はなかった」、「慰安婦は自由業だ」、こういうことを必ず言う。しかも政権に近いところが言う。だから本当に日本は反省したのか。こういうことを思うわけです。その点ドイツの場合でも同じようにネオナチの問題があります。しかしその場合でも必ず政府はしっかりこれを否定する。否定しなければヨーロッパにおいてドイツという国は存在し得なかった。ある人はこのように言っています。「2階で子どもが大騒ぎをしている。両親が大声で叱責している。そうすると1階の人は抗議をするのを控えようとする」。わかりやすい例えですよね。2階で子どもが騒いでいる、シンゾーとかタローとかわけのわからない連中が。それを叱責する人がいない。だから1階の住人、アジアの民衆に日本は本当に反省したのか、こういうことを言われるわけです。こういうことの繰り返し。これを繰り返してはいけないと思うわけです。
朝鮮半島の問題については北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国との関係があります。平壌宣言では日韓請求権協定とは違って、「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の苦痛と損害与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した」。これも1995年の村山首相談話の内容を引き継いでいます。そういった意味では、もう国際社会においては日本の姿勢は後戻りできない。後戻りさせようとしているのは晋三とトランプということになるわけです。
韓国のことをやると私はどうしても日中の関係をやりたいわけですが、習近平は、日中間は4つの基本文書によって律されるべきだと言っています。これが本音かどうかわかりませんがそういっています。1972年の日中共同声明、1978年の日中平和友好条約、1998年の21世紀に向けてのパートナーシップ、日中共同宣言、そして2008年の戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明、この4つの文書です。この4つの文書の基礎になっているのが1972年の日中共同声明です。田中角栄首相は周恩来総理に1970年9月25日、北京で初めて会ったときに「私は長い民間交流のレールの上に乗ってようやく今日ここに来ることができました」、こう言ったそうです。いい言葉ですよね。これはLT貿易とか戦後の遺骨送還運動とか戦前の活動とか、いろいろあるわけです。そして日中共同声明、これは本当に涙が出るくらいいいことを言っています。言葉に出して言うと自分の身体にみなぎってくるようです。
「日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。」
すごいことを言っているのではないでしょうか。本当にこれを日中両国の民衆が――政権同士はどうだっていいですよ――、これをまさに両国民の平和資源として活用することです。
5項においては、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とあります。これは前文の中にあった「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」、これを受けてのものであるわけです。これは当時の中国民衆にとっては不満があった。それを毛沢東、周恩来が「二分論」ということで押さえ込みました。中国は日本の民衆と戦争をしていたのではない、日本の軍国主義者と戦争をしていたのだ。日本の民衆も日本の軍国主義者によって被害を受けた。これは「うそ」なんですね。しかしこういって民衆を押さえ込みました。そして、中国はアヘン戦争で賠償に苦しんできた。日本の民衆に賠償の苦しみを与えたくない。新生中国は日本から賠償を取らなくてもやっていける、といったわけです。この2分論という内容、日本の民衆が戦争をしていたことを私たちはしっかり自覚しなくてはいけない、そう思うわけです。
第6項においては「日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。」と言っています。
さらに7項です。これを重要視しなくてはいけません。反覇権条項、「日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。」。これは覇権国家にならないという、当時の中ソ対立の中でソ連を意識しています。そして中国はこれをどうしても入れろと言っていました。日本は北方諸島の問題があってソ連と交渉しなければいけなかったので入れたくなかった。しかしどうしても入れろということで入れたわけです。
それから6年後の1978年の日中平和友好条約、ここでも反覇権条項が問題になりました。鄧小平と園田外務大臣がやり合った。中国側はどうしても入れろ、日中共同声明は政府間の声明だ、日中平和友好条約は国家間の条約だ。日中共同声明に入った反覇権条項が日中平和友好条約に入らない理由はない、ということです。最後は創価学会の池田大作氏を通じて、「この覇権条項は将来中国が覇権国家にならないためにも必要です」と鄧小平は園田外務大臣を説得したというんですね。これを活用すべきなんです。「鄧小平は覇権国家にならないと、こう言っているじゃないか」。なお言っておけば、日中平和友好条約の4年前、1974年の国連総会において鄧小平はこう言っています。「世界は米ソ二大大国と中間の国、そして第三世界。中国は第三世界である。中国は覇権国家にならない。もし将来中国が覇権国家になったならば世界の人民は中国民衆とともにその覇権国家を打倒すべきである」。こういう演説を国連総会において言っています。ところが、いま中国で発行されている鄧小平全集からは削除されているそうです。私の言いたいことは、こういうものを外交として使うことです。「覇権国家にならないといったじゃないか、いまの中国は覇権国家じゃないか」とこういうことを言っていく。
2008年の戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明、これがまたすごいことを言っています。福田康夫内閣と胡錦濤です。「日中共同声明以降の3つの基本的文書が日中関係を安定的に発展させ、未来を切り開く政治的基礎であること」、であることを確認した上で言っています。
「日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した」。ここからです。「中国側は、日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した。双方は、国際連合改革問題について対話と意思疎通を強化し、共通認識を増やすべく努力することで一致した。中国側は、日本の国際連合における地位と役割を重視し、日本が国際社会で一層大きな建設的役割を果たすことを望んでいる」。こういうことを2008年に言ったわけです。信じられないでしょう。中国政府が「日本が、戦後60年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段により世界の平和と安定に貢献してきていることを積極的に評価した。」、こう言ったわけです。
それをぶちこわしたのは、あの2012年の名古屋の河村市長による「南京大虐殺はなかった」という発言、そして先ほど述べた石原慎太郎の尖閣諸島の国有化問題、そして2013年の安倍首相の靖国参拝です。要するに河村と石原と安倍がぶちこわした。ここで声を大にして言っておかなくてはいけないのは、この挑発に待ってましたとばかりに乗ってきた中国の軍拡派がいるわけです。つまりお互いに憎悪のボールをキャッチボールしながら、それを利用して国内固めをしている。そういうことを私たちは見据えて、そして日中間の交流をしていかなければいけない。
私は思うんです。戦後の歩みの中で、さまざまな活動をする中で、いろいろな平和主義をつくってきた。そういった平和主義をあらためて私たちはとらえ返して、それを活用する。わたしは安倍政権に対するたたかいは死者たちとの共闘、未来との共闘、アジアの民衆との共闘、この3つだと思います。死者たちとの共闘は、あのアジア太平洋戦争においてアジアで2000万人以上、日本で310万人の非業無念の死を遂げた死者たち。その死者たちの声に耳を傾け、戦後の平和運動を担ってくる中で亡くなっていったわれわれの先輩、そういった人たちの声に耳を傾ける。そしてわたしたちの子どもや孫に戦争のない国を引き継ぐ、まだ生まれてきていない未来の子どもたちに引き継ぐ。そういった意味では未来との共闘です。3つ目の、アジアの中の日本ということを考えれば、アジアの民衆との共闘、韓国の民衆との共闘、中国のあの抑圧状況、今年は天安門事件から30年、いま本当に人権が厳しい状況にあると思います。そういう中で私たちは安倍政権に対抗してたたかうことが中国の民衆に対して勇気を与える。そういう意味ではアジア民衆との共闘、3つの共闘ということを思います。
樋口陽一さんが、「理念と現実の緊張に疲れて理念を捨てるのか。それとも理念と現実の乖離を目の当たりにしながらなお理念を説き続ける、そういう格好悪さに耐えながら現実を理念に近づける努力をするのか」、こういうことを言っています。学者がいうことではない、活動家がいうようなことを彼がいま言っている。そのくらい、いまの安倍改憲がひどいということを思っているわけです。さらに樋口さんはこういうことも言っています。日本の民衆はあの平和憲法、基本的人権、国民主権の憲法を歓迎した。しかしその憲法を当時の為政者に押しつけるだけの力がなかった。GHQの力を借りざるを得なかった。しかし何も絶望することはない。ポツダム宣言10項後段を見よ。ポツダム宣言10項後段は、「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。」「日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化」と言っている。「復活」ということは、かつてこの国に民主主義の伝統があったことをこのポツダム宣言の起草者は知っている。それは明治の自由民権運動であり大正デモクラシーである。そして日本国憲法の草案をGHQがつくったときには民間の憲法研究会、鈴木安蔵などそういった人たちの研究成果を取り入れて、それは明治の自由民権運動、大正デモクラシーの流れを汲んでいる。こう書いています。
私はそれを読んだときに身体が震えてきた。すごいことが書かれていると。しかし冷静になって考えてみると、樋口さんは「うそ」を言った。つまり明治の自由民権運動も大正デモクラシーも外に向かっては帝国主義であった。その証拠に1915年、あの第1次世界大戦のヨーロッパのどさくさに紛れて中国におけるドイツの権益を取ろうとして対華21カ条の要求、こういったものがなされているわけですね。こういうことを踏まえながらも私たちはいまの状況に対峙していかなければならないと思います。
今日は私も含めて年配の人たちが多いと思います。私は歴史における「健康」の役割ということを本当に思うわけです。清澤洌という評論家がいました。彼は「暗黒日記」という記録を残しております。これは岩波から抜粋、筑摩文庫で上中下の全巻が出ています。これを読みますと戦時中のいろいろな資料を集めていて、こんなことが言われていたのか、こんなことが書かれていたのかということがよくわかります。そして清澤洌は、こんな状態がいつまでも続くはずはない、やがて戦争は終わるということを考えて、こうした資料を集めていたわけです。ところが彼は1945年5月に、畑仕事で汗をかいて風邪を引いて、肺炎で亡くなってしまった。彼が生きていたら戦後の論壇はどうだったろうかということを思います。そして清沢洌の盟友が、あの石橋湛山です。石橋湛山が総理大臣になった。早稲田で応援のパレードをやって風邪を引いてしまった。そして退陣してしまって、岸信介が出てきてしまった。もし石橋湛山があのまま首相をしていたならば、あの60年安保の問題はどうなっていただろうか。そういった意味で、歴史における「健康」の役割ということを思うわけです。
そこでいまから、わずかな時間ですが「上海における魯迅」という朗読劇をやります。なぜこれをやるかというと、これは井上ひさしの「シャンハイムーン」という戯曲ですが、魯迅はやはり医者になった方が良かったのではないか、医者になった上で文学をやれば良かったのではないかと私はずっと思っていました。そうしたら井上ひさしさんが私の長年の悩みを解決してくれました。「2人の魯迅」をつくったんですが、その朗読劇をいまからやります。