年頭にあたり、本年最大の政治課題の憲法課題をとりまく情勢と展望を確認し、たたかいの勝利をめざしたい。
2018年の第196通常国会で改憲案の発議ができなかった安倍首相は、業を煮やして8月、山口県での講演で「憲法改正案を次の国会に提出すべき」だと意気込んで発言した。そして9月の第4次安倍内閣の発足に伴う自民党役員人事では、改憲に携わる自民党の現場の執行部を一新した。自民党の決定機関である総務会から石破派を追い出し、会長に腹心の加藤勝宣を据え、自民党改憲推進本部長に側近の下村博文、衆院憲法審査会の筆頭幹事に同じく側近の新藤義孝を予定するなど、国会での憲法論議の強行突破ができるよう万全の「改憲シフト」を敷いた。
10月24日、臨時国会冒頭の所信表明演説では憲法99条も、「3権分立」も意に介さない体で「憲法審査会で、政党が具体的な改憲案を示すことで、……国会議員の責任を果たそう」などと呼びかけた。
にもかかわらず、臨時国会では自民党改憲案の「提示」すらできなかった。安倍首相の側近らによる前のめりで強引な憲法審査会の運営によって11月29日、野党が欠席したままで会長職権による憲法審査会が開かれたが、その後遺症で最後の定例日にあたる12月6日の憲法審査会は与野党決裂状態でお流れになった。これは2000年1月の憲法調査会始まって以来の異常事態だ。
商業新聞各紙は一様に「首相『改憲シフト』裏目」(朝日)、「首相側近起用が裏目」(読売)、「首相『改憲シフト』裏目」(東京)などと報じた。安倍改憲路線の重大なつまずきだった。
新聞報道によると、自民党の憲法改正推進本部の役員を外された船田元が、12月6日、自民党竹下派の会合で、憲法審査会の与党筆頭幹事に就いた新藤義孝に「ぼくたちの苦労を理解されたでしょう」と声をかけたという。新藤は「そうですね」と短く応じたという。この度の安倍側近人事で排除された船田は胸のすくおもいだったのではないか。
しかし、この憲法審査会の事態にあせった安倍側近の萩生田幹事長代行らによって、一幕の芝居のシナリオが描かれて、臨時国会最終盤の衆院憲法審査会で、想定外の一波乱が起きた。これは強権安倍官邸の改憲への執念の一端を見せつけたものだった。
通常国会から継続審議になっている改憲手続法(国民投票法)の一部修正案に関連して、従来から立憲民主党や国民民主党などは与党がいう改正公選法と合わせて投票の利便性を図るという微修正にとどまらず、同法のより大きな問題点である有料TV・CMなども再検討すべきだと主張してきた。そのためにまず日本民間放送連盟がTV・CM放送で自主規制する気があるかどうかなどのヒアリングが必要だとの意見だった。
6日の事態の後、自民党はこれを逆手にとって10日に憲法審査会の幹事懇談会に民放連を呼ぶことと合わせて、会長の「お詫び」と「閉会中審査」などの実務手続きの処理をする憲法審査会を開くと提案し、野党筆頭幹事の立憲民主党・山花郁夫幹事も同意した。
この定例日でもない、国会最終日に開かれた異例の憲法審査会は、森英介会長の「お詫び」の表明を含めて10分ほどの会議が行われた。会長は「結果として円滑なる運営ができなかったことは、真に残念であり、遺憾に存じます」と他人事のような「所感」をボソボソと読み上げた。この日、自民党改憲案の「提示」がなかったのは、土壇場に来て安倍首相が側近議員に「無理はしなくていい」と伝えた結果だといわれる。改憲案の「提示」はなかったが、29日の強行開催問題の「和解」「幕引き」が図られた。
自民党が改憲案の発議をめざす第198通常国会での憲法審査会は、これによって運営が「正常化」されたとところから始まる。自民党は憲法審査会で首の皮1枚残して、臨時国会を終えたことになる。安倍首相が狙う改憲の舞台は新年の通常国会に移った。
安倍首相は国会閉会後の記者会見でこう述べた。
「私は憲法改正について国民的な議論を深めていくために、一石を投じなければならないという思いで、2020年は新しい憲法が施行される年にしたいと申し上げましたが、今もその気持ちには変わりはありません。憲法審査会の運営については、野党の皆さんの対応を含め、政府としてはコメントを差し控えなければならないと思いますが、国民の皆さまの判断に委ねたいと思います」と。
さんざん立法府の権限に属する改憲問題に口をはさんでおいて、「コメントを控える」とはなんとご都合主義か。それでいて同じ口で「2020年、改正憲法施行」と期限を切って発言しているのは噴飯ものだ。
自民党は通常国会の冒頭から憲法審査会で自民党改憲案の「提示」をめざしてくる。
12月11日の記者会見で自民党の吉田博美参議院幹事長は「4項目の改憲案を通常国会で各党に提示し、討議を進めていきたい」と発言。同日、萩生田光一自民党幹事長代行も「通常国会150日間の定例日を有効に使い、4項目を提示したい。各党が考え方を示し、充実した議論になるようお願いしたい」などと語った。
1月28日召集説が有力になっている198通常国会の憲法審査会はいつから開かれるのか。先に萩生田幹事長代行は憲法審査会の定例日をフルに使って改憲論議を進める決意をのべた。
しかし、憲法審査会では改憲手続法の修正論議が前々国会から継続審議になっている。この議論は与党がいう改正公選法にならった投票の利便性を図る類の微修正では終わらない。同法は問題が多々あり、抜本的再検討が必要だ。
まず臨時国会最終日に憲法審の幹事懇が民放連からヒアリングした国民投票に関するTV・CMの規制の問題がある。現行の法制では資金の大小などでTV・CMの利用が決定的に格差が生じ、投票結果に重大な影響を及ぼす。民放連が自主規制で解決に取り組まないなら、法律自体で規制しなくてはならない。同法の問題はこれにとどまらない。本誌で繰り返し指摘してきたように、最低投票率規定がないこと、教育者・公務員などに不当な規制が強いこと、買収などカネで投票が買えること、などなど、重大な問題がある。
立憲民主党の枝野代表は9月26日のラジオ日本の番組で、改憲の是非を問う国民投票のテレビCM規制について「この話に決着をつけるだけでも、少なくとも来年の夏までかかる」と述べた。
これらを飛ばして自民党改憲案の「提示」に進もうとすれば野党側の激しい抵抗を招かざるをえない。
通常国会は、冒頭からの予算審議、2月の自民党大会、2月24日の天皇在位30周年祝賀行事、4月7日、21日の統一地方選挙、4月末日からの天皇代替わり行事と大型連休、6月28日からのG20会議と日ロ首脳会談などなどの日程を見れば、憲法審査会が「政局に左右されることなく静かな環境の下で、円満な運営に努めて」行くことは容易ではない。
自民党は改憲発議の日程について、「当初想定していた参院選前から『参院選後』に修正するなど、戦略を練り直す方針だ。参院選後でも安倍首相が目指す2020年の改正憲法施行は実現可能で、引き続き野党に憲法論議を呼びかける」(12月11日、読売新聞)との意向だという。しかし改憲反対運動側が声を緩めれば、逆襲もありうるから油断はできない。
参議院選挙までに改憲発議ができなければ、どうなるか。もしこんどの参院選で改憲派が現有の3分の2議席を失ったら、改憲発議そのものが不可能になる。2020年改正憲法施行のためには、19年の参院選までに発議するか、参院選挙で3分の2以上の議席を獲得するしかない。改憲派にとって、この参議院選挙はラストチャンスだ。
参院の定数は245名で、改憲派が3分の2の議席を確保するためには野党の獲得議席を82議席以下に抑えなくてはならない。野党は2016年改選時に41議席を獲得しているので、2019年に41議席以上獲得すれば、3分の1を超えることになる。
野党は1人区の候補1本化も含めて、市民連合と連携しながら参院選で安倍改憲反対を掲げて闘うことになるので、改憲派の3分の2議席は与党にとっては極めて高いハードルだ。私たちは市民連合とともに野党が共同して参院選を闘うことで、自公改憲勢力を追い詰める闘いを展開しなければならない。
安倍政権はなりふり構わない攻撃をしかけてくるにちがいない。
とりわけ警戒を要するのは、野党の分断策だ。自公与党にとって、野党共同+市民連合の共同が最大の敵になるのだから、この野党共同をなんとか分断する策動に出てくることは容易に予想される。その場合、ターゲットになるのは前回の総選挙で小池百合子都知事と希望の党を作った人々が大半を占める国民民主党だ。国民民主党は11月6日、玉木代表と平野幹事長が市民連合と会談し、安倍首相らによる改憲に反対し、立憲主義を擁護し、参院選での野党の共同を進めることなどで合意し、以降、野党6党会派の幹事長、国対委員長と市民連合の懇談会に参加し、共同の確認をするなど、積極的に野党と市民の共同の場に参加してきた。これは重要な前進で、成果だ。
しかし、自民党の指導部は憲法審査会での国民民主党の憲法改正手続法案の丸のみによる野党の分断を謀ることや、さらには国民民主党の持論である「平和的改憲論」との妥協を考えている節がある。「平和的改憲論」の主張は「自衛権の範囲を明確にすべき」で、自民党の改憲案は「何も変わらない」どころか、フルスペックの集団的自衛権の行使を認めている。この違いを新年の憲法審査会で堂々と議論したいという立場だ。これも自民党が丸呑みする可能性がある、自民党の改憲案から削除された「必要最小限の自衛力」を復活させることは可能だ。安倍首相自身が11月2日の衆院予算委員会で「自衛隊の存在を明記する憲法改正について、自民党の条文イメージ(たたき台)と自身の考え方は一致しないとの認識を示した」ことがある。これは「安保法制」における集団的自衛権の行使の範囲(必要最小限の自衛力)と、フルスペックの集団的自衛権行使との違いに着目した議論だ。
この平和的改憲論と瓜二つの見解が立憲民主党の中の山尾志桜里議員の「立憲的改憲」論だ。玉木代表や山尾議員らは、安倍首相ら改憲派の野党分断に乗せられず、広範な市民とともに安倍改憲に反対する運動の側に立つべきだ。
これらを逆手に取った野党分断に警戒心を払い、安倍改憲派の野党分断を許さず、野党と市民の結束を強化する必要がある。
さらに安倍首相らは、天皇代替わりの国家的祝賀行事化と、G20の機会に取りまとめを企てている日ロ領土交渉もフルに利用し、政権の浮揚をはかるだろう。仮に領土問題で安倍政権がロシア・プーチン政権と一定の妥協を成立させれば、その内容はどうあれ、これを安倍政権の大きな成果として宣伝するだろう。「北方領土」とよばれるこの地域の領土交渉で、アイヌ民族などこの地域の先住民族を埒外に置いた交渉がどれほどの正当性を有するのか。ロシア政府は「第2次大戦の結果の正当な帰属」などと主張し、日本政府は「固有の領土」論などを振りかざすが、いつから、誰によって「固有の領土」になったというのだろうか。領土ナショナリズムをくすぐられる有権者の投票動向は予断を許さない。
衆参ダブル選挙という窮余の策もうわさされる。次回の参議院選挙で3分の2を失いそうになったら、破れかぶれの衆参ダブル選挙を仕掛けてくることもありうる。これを仕掛ければ、与党が有利に選挙戦を闘うことができる可能性がある。
この場合、野党と市民連合は受けて立つしかないが、とりわけ小選挙区での野党候補の1本化を実現し、安倍政権与党を追い詰めなくてはならない。
見逃してはならないことがある。安倍政権は9条を中心とする明文改憲を進める一方で、並行してこの国を海外で戦争のできる国に仕立て上げる策動を強めている。年末に政府が閣議決定し、発表した「新たな防衛力整備の指針『新防衛大綱』」と今後5年間の装備品の見積もりを定めた中期防衛力整備計画(中期防)は先年の戦争法に沿って「専守防衛」のしばりを突破し、日米同盟下での自衛隊の「外征軍」化の具体化のための大綱となった。予算総額は過去最大の5年間で27兆円規模に跳ね上がり、トランプ米大統領の対日貿易赤字削減の要求を受け入れた形だ。安倍首相は日米首脳会談の冒頭にトランプ大統領から「武器をたくさん買ってくれてありがとう」などと言われたが、いったい、誰のカネで買ったと思っているのか。
大綱では「日米同盟の抑止力・対処力の強化、幅広い分野における協力の強化・拡大の必要性」が強調され、宇宙やサイバー分野への対応などと合わせて、攻撃型空母の保有や、敵基地攻撃能力を持つ長距離巡航ミサイルの保有、米国に向かう弾道ミサイル撃墜可能な地上配備型迎撃システム「イージスアショア」配備などが確認され、従来、憲法9条の下ではあり得ないとされた戦略兵器の保有が明記された。これを象徴するものが海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」の改修による攻撃型空母化だ。「いずも」は短距離離陸と垂直着陸が可能なステルス型戦闘機(STOVL)F35Bを搭載可能な改修を実施する。これによって海上自衛隊は初めて海外で戦える本格的な攻撃型航空母艦を保有することになる。この空母は米軍機が給油したうえで、戦地に向かうことも可能だ。中期防にはイージスアショアなどと合わせて、敵基地攻撃能力を持つ長距離巡航ミサイル「JSM」や「JSSM」の導入も盛り込まれた。
朝鮮半島が南北首脳会談や、米朝首脳会談によって、北東アジアが軍事的緊張を除去し、非核兵器地帯実現に向かいつつあるなかで、この防衛大綱と中期防は時代錯誤の逆流だ。
総がかり行動実行委員会をはじめ、国会外の市民運動はいま進めている「安倍9条改憲NO!」の3000万人署名運動や、5月3日の憲法施行72年記念日の全国的な統一行動を大規模に繰り広げ、合わせて国会内の立憲野党の結束と連携を発展させて、安倍首相らの改憲の動きを破産させるために全力を挙げる構えをとりつつある。
新年、沖縄の辺野古新基地建設に反対し、安倍改憲を許さず、安倍政権を退陣させ、北東アジアの平和を切り拓くような闘いを繰り広げよう。全国の草の根の市民運動の連携の強化をめざして、2月9~10日の「第21回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会in広島」を成功させよう。
5月3日、改憲反対の全国的行動を広げよう。
全ての立憲野党と市民は連携を強化して闘おう。
安倍改憲発議を阻止しよう。参議院選挙に勝利しよう。
(事務局 高田健)
お話:新井勝紘さん(高麗博物館館長、岩波新書「五日市憲法」(2018年4月刊)著者)
(編集部註)11月18日の講座で新井勝紘さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
なお、この講座はhttps://www.youtube.com/watch?v=5ft2JIKllWoで検索できます。
五日市憲法が発見されて、ちょうど50年になります。たまたま私が大学の4年生で、日本の近代史を学ぶゼミの夏の合宿で調査した土蔵の中で、20代そこそこの私が、「発見」というのはちょっと大げさですけれども、最初に手にした人物ということになるわけです。私の指導教授は色川大吉という日本の歴史学者で、今年94歳でご健在で山梨県の北杜市にお一人住まいです。ついこの間、この本ができたことを報告に訪ねてお会いして対談のようなものをしてきました。今回の本についてもいろいろとご意見をうかがってきたところです。
たまたま今年の4月に岩波書店から岩波新書として「五日市憲法」を出すことになりました。これは昨年の夏くらいに話がきました。私はそういうつもりは持っていなかったけれど、今の政権が改憲を公言しているし、憲法を考える一番いい時期だ。たまたま50年という年になるので、「先生、今出さないでいつ出すんですか。今ですよ」という話で、「今年の憲法記念日までに間に合わないと意味がないですよ」なんて言われました。5月3日に出ているためには4月に各書店に出ていないといけない、それを逆算すると12月には原稿がないと、というとても厳しいお話の中で書いたものです。五日市憲法発見50年というタイミングでこの本が出せたことを私自身としても大変喜んでいるところです。
今年は「明治150年」ということでキャンペーンを張っていますけれども、「明治100年」とほぼ同じような考え方で、現政権がこの一世紀半、日本の近代化の歩んだ道こそわが国の現在の基礎があり、この素晴らしい近代化を遂げた先人に今私たちは学ばなければいけない、というような趣旨のお話だったと思います。ついこの間式典があったようですが、「明治100年」の時ほどの盛り上がりはありませんでした。明治100年の時は一大キャンペーンを張っておりまして、明治100年論争というのが研究者の間で起こりました。私はまだ学生でしたが、明治100年をどうとらえるかということは、それぞれの研究者によって違っていました。まともな研究者の話、とりわけ私は色川大吉という教授についておりましたから「今年は政府が秋に一大祭りをやる。明治百年祭というものをやる。そのキャンペーンを張っているけれども、本当にそんなおめでたい100年か、お祭りするような100年か」、というようなことを強く言われました。日本の近代史を学ぶ学生ならば、それくらいのことは今年は考えなければいけないのではないかという話でした。
毎年正月に首相の年頭挨拶のようなものがあって、佐藤栄作という人が首相でした。長州出身の典型的な政治家でしたが、「昔晋作、今栄作」――高杉晋作は長州、山口県出身ですね――そういって本人は大変喜んで、それを公言していました。今年は「昔晋作、今晋三」と言うのかなと思いましたけれども、あまり言わなかったですね。その佐藤栄作首相が言うには、「とても素晴らしい100年だ」ということです。私たちはこの100年から学ばなければいけない、と。そういう100年を素晴らしい100年と見る歴史観を「バラ色論」と当時われわれは言っていました。しかし色川先生が言うには「考えて見ろ、明治維新から1945年までの間にどれだけ戦争をしてきたか。平均すると6、7年に一度は戦争してきた。それもほとんどアジアを戦場にどれだけの犠牲を出して、どれだけの破壊を繰り返してやってきたか。その戦争をまったく無視して「こんな素晴らしい100年である」と。「日本よりまだまだ近代化が遅れているアジア諸国にとっては、われわれは素晴らしいモデルになっているんだというとらえ方で本当にいいだろうか」、ということがそもそもの調査の一番原点にありました。
ではどうしたら政府が考えている百年祭を相対化できるかということを、このゼミとしては今年1年考えてみなければいけないということが、そもそものスタートでした。色川先生のゼミは、もともと東京多摩地域の歴史を研究してきました。色川先生そのものが東京大学文学部を卒業されて、1925年生まれですから、学徒出陣の世代で、あの時代に自分が生き残ったことが不思議なくらいだと、しょっちゅう言っていました。「俺の1945年8月以降はおまけみたいな人生だ。だからもう思い切り生きる」と言っていました。ですから怖いもの知らずの先生だなと思いました。そういう色川先生の原点は、北村透谷という明治の文学者の研究でした。北村透谷はある時期、今日の話の自由民権運動に少し関わっています。北村透谷は小田原出身ですけれども転々とあちこちに行って、東京の多摩地区をずいぶん歩きます。嫁さんになる美那子という人も東京町田市の自由民権運動の最高指導者、石坂昌孝の長女です。そのくらい多摩地区に深く入り込んでいた方なので、色川先生の研究のフィールドは多摩地区に次第に入ってこられた。それが原点ですね。
そういうこともあって地域から、足下の歴史から100年を見たらどう見えるのか、ということをやってみようという話になりました。では、「足下の歴史」とは何をするのかという話になりました。この50年で多摩地区も多摩ニュータウンとか、大きく開発が進んで人口も急増しました。そういう嵐が吹き荒れる少し前で、まだまだ農村風景が残っていましたし、調査もしていない旧家あるいは土蔵などもいくつもあったように聞いております。
古い家の文書を調べることから始めてみようということで色川先生に相談したところ、「実はね、前々から調べてみたい家が3軒くらいある。交渉しているけれどもみんな断られている」という話でした。ひとつが今日話をする東京の五日市というところの深沢さん、もうひとつは東京八王子市にある小池さんという武相困民党に関わるお宅、もうひとつは神奈川県厚木の大矢正夫という人の家がまだ未調査だというわけです。どの家から始めるかということになって、まず深沢さんのところから始めようということになった。深沢さんのお宅は、色川先生が過去に何度かお願いしたところ断られていたという蔵でした。「開かずの蔵」といわれていた。深沢さんがそういっていたわけではなく、よその人から見るとまだ誰も、どこの大学も、どの研究者も、どこの郷土史家も入ったことがない、見たことがない、手つかずの蔵がある。その深沢さんの蔵は、たまたま断っていたご当主が去年亡くなった。ラッキーといっては怒られてしまいますけれども、新しいご当主は、聞くところによると大学の先生らしい、東京都立立川短期大学、今は首都大学東京に吸収合併されてしまいましたが、そこの先生だということです。
大学の先生ならば少しは理解をしてくれるだろうかということで、ご当主が替わった深沢さんのお宅にお願いすることになりました。色川先生を通して調査をお願いしました。5月頃でしょうか、最初は「この間、深沢さんのところに電話してお願いしたけれども断られちゃったよ」という話でした。「なぜですか」と聞いたら、「深沢さんのお宅も昭和10年代くらいに町に移ってしまって、そこには蔵と門とお墓が残っているだけで自分もほとんど入ったことはない。どうせがらくたしか入っていない。色川先生が学生さんを連れて調査するようなものは入っていないのでお断りします」というのが最初のお返事だったと聞いています。それであきらめていたとしたら今日の話はないのですけれども、何もなくてもいい、何もないということがわかれば僕たちが納得するという話を強く先生にお願いして、再交渉してもらえませんか、ということになりました。
どうしてそんなに深沢さんの蔵にこだわったのかということを、今日のレジメに入れました。利光鶴松という人、この人は小田急線の創設者です。もともと大分県出身の方で、明治になって流れ流れて上京してきます。その利光さんが若い頃に五日市にいたことがあり、そのあとに政治家になったり経済活動も活発にします。そのうちのひとつが小田急電鉄の創設で、昭和2年に開通しています。小田急電鉄創業30周年の1957年に、創業者の伝記をつくろうということになったのでしょうか。小田急電鉄がつくって、本当に社内だけ、関係者だけに配った非売品の「利光鶴松翁手記」がありました。この中に利光さんが若い頃に自分が五日市でどんな体験をしたのかということが事細かに書いてありました。何ページも使って書いてありました。ちょっと読んでみます。
「予ガ学生時代 即チ明治十七年ヨリ明治十九年ニ至ル迄 前後三年間流寓シタル、神奈川県五日市地方ハ 実ニ自由党ノ巣窟ナリ」。東京多摩地区は当時まだ神奈川県でした。中央線で行けば吉祥寺ですか、武蔵野市から以西、北多摩、南多摩、西多摩という地域。南は八王子とか町田、北は武蔵野市、小金井市、三鷹市、立川市。西は奥多摩とか五日市、青梅、そういう通称三多摩という地域がありますが、それは明治26年まで神奈川県だった。実は神奈川県から東京府に移管されるということは大問題で、神奈川県のかなりの部分は大反対でした。その反対を強引に押しつぶして神奈川県から東京府へ移管させたということも、今日の話の自由民権運動とかなり深くつながりますが、それはさておいて、「自由党」、これは日本で最初にできた政党で、与党ではなく野党、完全野党です。当時の明治藩閥政府に鋭く対決する政党で、板垣退助を総裁とする政党です。その自由党の巣窟である。
「地方ノ有力家ノ皆悉ク自由党員ナリ 就中 町長 馬場勘左衞門 豪族 内山安兵衛、深澤権八ハ 深ク天下ノ浪士ヲ愛シ 之ヲ厚遇セシニ依リ 四方ノ有志 伝聞シテ来遊スルモノ甚ダ多シ」。五日市に行くと食わせてもらえるとか、五日市に行くと働き口を紹介してくれるとか、そんなこともあった。よそから五日市に来た人を厚遇してくれた。そういうちまたの噂になっていたということでしょうね。
それから「深澤権八氏ハ五日市地方ノ豪農ニテ 頗ル篤学ノ人ナリ」、学問に篤い人。「東京ニテ出版スル新刊ノ書籍ハ 悉ク之ヲ購求シテ書庫ニ蔵シ居タリ 氏ハ予ニ対シテ 氏ノ蔵書ハ好ムニ任セテ 之ヲ読ムノ絶対自由ヲ与エラレ 予ガ読ムベキ書籍ニハ 曾テ不自由ヲ感ジタルコトナシ」。東京の多摩地区で、東京で出た新刊の書籍をことごとく買ってくれて、この利光さんは五日市で小学校の教員をちょっとやるんですけれども、彼は自分が読むべき本に困ったことはない、リクエストに応じて買ってくれたということでしょうね。その意味で、政治家になったり経済活動もするけれども、自分の原点は五日市にあるとしつこくこの本で書いています。
それから、利光さんが勤めていた勧能学校です。その頃日本で学制が布かれて各村に小学校ができます。各村に一校ずつではなくて数カ村にひとつくらいだと思いますが、そのことも書いてあります。「勧農(能)学校ハ公立小学ナレドモ実際ハ 全国浪人引受所ト云フノ形ニテ町村ノ公費ヲ以テ多クノ浪人ヲ養ヒ 県ノ学務課ヨリ差向ケタル正当ノ教員ハ 片端ヨリイジメテ追ヒ出シ 県ニ於テモ止ムヲ得ズ放任セルヨリ 勧能学校ハ全ク浪人壮士ノ巣窟トナレリ」明治の初期、各村で小学校ができて、先生も大変だった。師範学校なんてまだできていませんから、かつての江戸時代の寺子屋の先生が横滑りで教員になったりしています。この五日市の勧能学校――現在の五日市小学校の前身ですが、そこは「全国浪人引き受け所」、利光さんみたいな、あちこちからやってきた浪人がたくさんいて、そういう人が教育を担っていました。こういうことが利光さんの「利光鶴松翁手記」に細かく書いてありました。
また、後の方には自分がいかに五日市から影響を受けたのかということが書いてあります。環境、あるいは境遇がいかに人間を感化するかということは実に偉大だ。もし自分が当時大隈伯の書生となって早稲田で学んでいたとすれば、自由党ではなくて改進党の方になっていたかもしれない。また福沢先生の食客となっていたら――「三田にて人となりしとせば果たして如何」、実業界に即入って、政治家なんかにならなかっただろう。あるいは井上とか山県とか黒田とか西郷とか、そういう藩閥に雇われたとしたらどうだったか。加藤弘之とか外山正一という東大の総長までやるような教育者たちに救われたとしたらどうか。有名な坊さんとか神主さんのところで学んでいたらどうだっただろうか。場合によっては公務員になっていたかもしれないし、文学をやっていたかもしれないし、坊さんをやっていたかもしれない。「然るに叔父、品吉に従いて五日市に流寓せし為め、其感化を受けて自由党員となりたるは、奇縁と言うべし」、それが今の自分だということを強くいっていました。
利光さんは五日市で学校の教員をしているけれども、自分がいかに勉強が足らないかということを自覚して3年間でその小学校の教員を辞め、東京駿河台の明治法律学校、現在の明治大学で法律を学びます。それで当時の言葉でいえば「代言人」、弁護士の資格を取って、利光法律事務所をつくります。どこにつくったのか。これもまた五日市と深く関わりがある深川の方に、下町の方につくります。五日市は山の中ですね。まだ林業が非常に盛んで、産業といえば材木とか炭、そういうものです。江戸は初期から大火があって材木がすごく必要なんですね。できるだけ近場で入手できればいいということで、筏を組んで最終的には多摩川に入って東京まで流れ込んで深川の木場というところまでいって、そこに集積される。だから五日市と深川の木場はずいぶん交流があったと聞いていますし、親戚関係も今でもあるという話を聞いたこともあります。だから利光さんは大分県から出てきて地盤はないけれども下町ならば五日市を通して、ということでそこで法律事務所を開いた。法律事務所を開いた頃に国会も開設され、衆議院議員に立候補されてめでたく一発で当選しています。国会議員になっている間に、当時の政治家は経済活動も非常に活発に行う人も多く、その頃のはやりかもしれませんけれども鉄道事業に取り組みました。利光さんが乗り出したのが小田急電鉄、小田原から私鉄をつくったわけです。
そういうこともあって利光さんの伝記を私たちは読まされていました。だからひょっとしたら深沢さんの蔵を開ければ、彼らが当時自由民権運動の時代に夢中になって読んだ本が残っているかもしれないという期待感もありました。ですからなんとかもう一度再交渉してもらえませんかといってお願いしたところ、自分が大学の夏休みなら立ち会いましょうといってくれて1968年8月27日、忘れもしない8月27日に「開かずの蔵」といった蔵を開けることになりました。何十年、誰も入ったことのない蔵に入るわけです。その辺の詳しい事情は岩波新書に少し書きましたので読んでいただきたいと思います。
この蔵です(パワーポイントで紹介)。朽ちかけた土蔵といってもいいんじゃないですか。入り口の扉もものすごく重たい扉で、開けるたびに土壁がボロボロと落ちてしまって、屋根も覆屋ですからこの屋根が壊れても中に水は入らないけれども、右の方はむき出しになっていますし、屋根には夏草が生えておりました。下の方の屋根は少し傾いています。こんな蔵でした。今で言うとJR五日市線の終点の五日市というところで降りて、そこから私たち学生の足でも1時間くらいかかります。バスは入っていません。小さな車は入れますが、私たちが行ったときは道も舗装されていません。家がぽつんぽつんとある、本当に寂しくて、こんな蔵で何を調べるんですかという感じで地元の人たちは見ていました。この蔵を数10年ぶりに開けることになりました。この蔵の1階にはほとんどそういうものはありませんでした。2階に上がって、調査する場所は前々から決まっていたわけではなくて、私以外に4年生が4人いましたのでそれぞれが「僕はこの辺」とかで、たまたま私は2階の左の奥の方を、「この辺をやります」といってやったわけです。その私が見ていたエリアの中から出てきたわけです。
これが蔵を上の方から撮った写真です。四方を山に囲まれた山村といっていいと思います。この道は一本道ですぐに行き止まりで、少し高台です。屋敷は昭和10年代くらいに街場の方に出てきてしまっています。入り口にかつては名主をやっていた家ですから立派な門があるんですが、その門とこの土蔵と山の中腹に深沢家の累代の墓があって、お墓と土蔵と門が残っているだけです。かつては深沢村一番地と言った、名主格の家です。この蔵は、現在はこんなにきれいになってしまいました。どうして直してしまったのですか、昔の方が雰囲気があって良かったじゃないですか、とつい言ってしまったことがありますが、東京都の文化財、史跡にされて、深沢さんのところも人が来るようになって恥ずかしいので東京都とも相談して、こんなきれいな蔵になってしまった。「朽ちかけた土蔵」なんてもう言えなくなってしまったけれども、現在はこういう蔵です。
たまたま私が手にした、2階の片隅から小さな竹製の箱が出てきました。大きいのであれば柳行李というけれども、小さいとなんという名前でしょうか。当時の言葉で言うと文箱と言った、大事な書類とか手紙を入れる、弁当箱みたいな大きさの竹製の箱がありました。ふたを開けたところ中から風呂敷包みが出てまいりまして、その風呂敷包みを解いてみると文書が出てきました。最初に出てきた文書、まずこの資料が目につきました。私がたまたま手にした文書が「学芸講談会盟約」、これは印刷されたものでした。「深沢権八 号曰自由楼主人」と書いてあって、彼は「自由楼主人」と名乗っていたのでしょうかね。「第一条 本会ハ名ヲ学芸懇談会ト云フ」「第二条 本会ハ万般ノ学芸上ニ就テ講談演説或ハ討論シ、以テ各自ノ智識ヲ交換シ気力ヲ興奮センコトヲ要ス」、今時のグループの中で「気力を興奮せん」なんていうことを会の規約に載せるところはないと思いますが、いかにも自由民権運動の時代ですね。ただ単に一緒に勉強して知識を交換しましょうねというだけに止まらない、何か燃えるような力をみんなで築きあげようねということなんでしょうね。
「第三条 本会ハ日本現今ノ政治法律ニ関スル事項ヲ講談論議セス」、これは「論議ス」ではないかとそのとき私も思いました。これは誤植でしょうかと思ったけれども、色川先生はすぐに「それはね、そのままでいいんだよ」、「どうしてそのままでいいんですか」とついつい聞いてしまいました。自由民権運動の時代、これは恐らく明治14年くらいだと思います。年号は書いていないけれども、次第に自由民権運動の勢力が全国に広がっていったことに対して当時の明治藩閥政府は少し脅威を感じ始めていましたから、あのまま野放しにしてはいけないとうことで次々と弾圧を強めることになりました。最初に出したのが集会条例です。集会条例の中に、政治とか法律に関わる集会を開くときには前もって警察に届出をしなければいけない。届出をするということは警察の許可をもらわないと集会が開けないということです。日時や場所や講師やそのときのテーマなど全て事前に警察に届け出て了解を得なければいけない。そのことをかなり強く意識していたために「講談論議」はしません。単なるうわさ話ですよというようなこと、ある種のカモフラージュなのではないか。だからあえて「セス」という言葉を規則の中に入れたのではないかというのが色川先生の判断でした。恐らくそうだろうと思います。
この学芸講談会の規則の最後の方に附則というものがあります。「第一条 凡ソ人ハ公平無私ニシテ人ヲ愛ス己ノ如クナルベキハ固ヨリ論ナク、殊ニ我会員ハ倶ニ共ニ自由ヲ開拓シ社会ヲ改良スルノ重キニ任シ、百折不撓千挫不屈ノ精神ヲ同クスルノ兄弟骨肉ナレハ、特ニ互ニ相敬愛親和スルコト一家親族ノ如クナルベシ」。なにものにも負けない、くじけない、そういう精神を同じくする兄弟骨肉のような関係、特に互いに相敬愛し、親和する、こういう人間的なつながりのグループですよ、と。ただ趣味のグループに止まらない、もっと深い人間的な信頼関係を築くような強い人と人とのつながりというものがこの附則からうかがえますね。
それは第二条も同じですね。「会員ハ互ニ艱難相救ヒ緩急相援ケ、疾病災変ノ事アレバ相互ニ慰安スベシ」、お互いに何か病いになったり災害にあったりした場合には助け合いましょうねということです。それから第三条、「会員ニシテ会外ヨリ被告セラルヽコトアレハ、其民刑大小ヲ論セス、必ス先ツ之ヲ本会ノ組頭ニ告ケ、組頭之ヲ年寄ニ謀リ、年寄之ヲ会員中法律ニ明カナル者ト特議シ、以テ其答弁方ヲ指諭スヘシ」。訴えられるようなことがあれば私たちがみんなでサポートしますよということです。この学芸講談会のメンバー、残念ながら会員名簿は発見されませんでしたけれども、だいたいこういうメンバーがいただろうということは推測できました。その人たちの人間的なつながりは単に政治的に跳ね上がった若い者たちが集まっただけに止まらない、もっと深いところでつながる、信頼関係でつながる、そういうものだということがこの規則からわかります。それが文箱の一番上から出てきました。
何枚か繰ったら、その下に「私擬 五日市討論会概則」というものがありました。この規則もまた私が手に取った文箱から出てきました。これもまたすごい会で、「第壱条 討論会ハ政治、法律、経済其他百般ノ学術上意義深遠ニシテ容易ニ解シ能ハサルモノ、及ヒ古来其折ノ種々ニシテ世人ノ往々誤解シ易キ事項ヲ討議論定ス」。学術上すごく意義が深くて簡単には理解しがたいもの、あるいは昔からいろいろな説があって世間の人がついつい間違って誤解してしまうようなもの、そういうものをあえて選んでそれを討議して、最後は「論定する」、どちらかを決める。毎月3回、5日、15日、25日、「五日市」という名前のごとくこの日には市が立っておりましたから、よそからいろいろな人が入ってくる活発な日です。この討論会は、第ニ条の最後「討論中ハ傍聴ヲ禁ス」ですから、「ちょっと聞かせてくれ」というような人は一切排除して、より徹底して議論しましょうね、ということです。
最初に発議者という人が出て、あるテーマについて「私はこう考えます」ということを発言します。それについて何人かが次々と会場から立って「私は発議者Aさんの意見にこれこれこういう意味で賛成です」「いや、わたしはそういう意見はとりません。反対です」という反対意見者も出ます。そして最終的に、第八条、発議者にもう一回壇上に立ってもらって、「今までのご意見を聞いた上で、あなたのご意見は」となります。「発議者ハ新規ノ論旨ヲ挙ケテ之ヲ説明スルノ権利ヲ有セス、前キニ述ヘシ所ノ論旨ニ依リテ答弁スルヲ得ベキノミ」、会場からいろいろな意見を聞いて自分の意見がぐらついて「そういえばBさんの意見の方が良かったなあ」と思ってそちらの説をとろうなんていう、そういうことはいけません。最初に自分が言った論旨で最後まで貫き通して相手も論破せよと、ある意味で論理的に物事を考え論理的に意見を述べあって、そして相手との論争を決着させる。現在の言葉で言えばディベートに近いものでしょうかね。ディベートの専門家に聞くとディベートとはちょっと違うよという意見もあるけれども、とにかくこの青年たちがこれだけ徹底して議論をしていました。
私が手にしたものではないですが、深沢権八さんが持っていた「討論題集」という小さなメモ帳も貴重な資料でした。1番から63番まで書いてありました。「討論題集」ですから、これは恐らく討論するときのテーマを書き留めたものだろうと思います。実際にこれで討論をしたこともあったでしょうし、場合によっては候補になっただけで討論しなかったものもあるかもしれません。ともかくこの「討論題集」が出てきたことによって、さきほどの討論会概則でどんなテーマで議論したのかなということがかなり推測できます。
「自由ヲ得ルノ捷径ハ智力ニアルカ将タ腕力ニアルカ」、これが1番です。「自由を得る近道はこれからは言論じゃないの」、「いやまだまだ武力でやっていく方がいいよ」という、そのどちらかだ。これが明治13年の史料だとすると、つい3年前に西南戦争があって西郷隆盛が九州で旗を揚げた。今ちょうど「西郷どん」をやっていておそらく西南戦争で終わるだろうと思いますが、西郷隆盛は最後自決するわけです。日本の近代史の中で明治政府に武力で対抗しようとしたあの強力な薩摩藩をもってしても敗れてしまったということで、これからは軍事力ではなくて言論闘争だねという意味だろうと思います。それを五日市の人たちは「どうだ」と議論していた。2番「貴族可廃乎否」、貴族なんていらないんじゃないの、3番「贅澤品ニ重税ヲ賦課スルノ利害」、4番「増租ノ利害」、増税、私たちもまもなく消費税が8%から10%になる。実際に買い物をして10% とられるとなると「この野郎」というか「何に使うんだ」というようなことも思いますね。
5番「女戸主ニ政権ヲ与フルノ利害」、つまり選挙権ということだと思います。女性の戸主に参政権を与えていいかどうか。「当然ですよ」という人と「いや、女に参政権なんて無理だ」という議論をしていたのではないでしょうか。わが国において女性に選挙権が正式に与えられたのは戦後じゃないですか。それまで女性には選挙権が与えられていないことを考えると、ずいぶん先駆的な議論をしていますね。7番「国会ハ二院ヲ要スルヤ」、8番「憲法改正ニハ特別委員会ヲ要スルノ可否」、それから10番「女帝ヲ立ツルノ可否」、いまの皇室典範では日本は女帝を立てることはないわけです。日本の歴史を振り返れば女帝なんて何人もいたじゃないですか。どうして男にこだわっているんでしょうかと思いますけれども、そういう女帝論もやっていました。あるいは11番「出版ヲ全ク自由ニスルノ可否」、出版というものはどうなのか。
それからこれはまさに今のNHKの大河ドラマに重なりますけれども16番「西郷隆盛ト大久保利通ト優劣ハ如何」-西郷さんと大久保さん、どちらがいいでしょうか。私はあまりNHKの大河ドラマは見ないんですけれども、今回は私の研究とも重なりますので意識して見ています。大久保利通がずいぶんいい人間に描かれていると思って、大久保の評価が高いようになっているかと思いますが。彼らが議論していたときは、西郷隆盛は西南戦争で亡くなりますし大久保利通はその翌年に紀尾井坂の変で暗殺されてしまいますから2人とも死んでいますね。でもその死んでいる人間に対して「どちらだろうね」と五日市の人は議論していました。23番「人民武器ノ携帯ヲ許スノ利害」-われわれから武器を取り上げてしまって、今はもちろん銃刀法違反になってしまいますが、民衆から武器を取り上げる。豊臣秀吉の刀狩りまでさかのぼっていいかどうかわかりませんけれども、それ以来私たちは自由に武器を持たなくなってきているだろうと思います。その武器を持つということはある種革命権を認めるか認めないかということともつながりますから、これはすごく大事なものです。
あるいは25番「不治ノ患者カ苦痛ニ堪エカネ死ヲ求ムル時ハ醫員立會ノ上之ヲ薬殺ス可シトノ明文ヲ法律ニ掲クルノ可否」-もう治らないという患者が苦痛に耐えかねて死にたいと言ったとき医者立ち会いの上、薬で殺してもいいということを法律の文章に書くかどうかの可否。安楽死というか尊厳死、そういうものはいいでしょうかという、今日でもなかなか議論が分かれる問題について彼らは議論していた。これ以外にももちろんあったかもしれませんけれども、この63項目に象徴されるような議論を、彼らは賛成・反対に別れて徹底的にやっていたことになると、ものすごくレベルが高いと言わざるを得ません。実際に私たちも、五日市討論会と同じようなルールで学生時代にやってみたことがあるのですけれども難しいです。うまくいきませんでした。そういう背景があります。全国の自由民権運動はさまざまなところで行われました。いくつか拠点地はありますが、五日市の自由民権運動は全国的なレベルの中で比較してみても、かなり高度な議論や高度な内容を持った政治意識が醸成されていたのではないかと思います。
こういうことを毎月3回ですよ、3回。それも午前、午後くらいから始まって、だいたい夜までやります。そんなに短い時間じゃなく、徹底してやっています。
そのとき私が手にした竹で編んだ風呂敷包みの中の、ふたつの資料を見ました。そのあと何かあるかなと思ってみたら、最後に墨で書いた憲法の写しのようなものが出てきました。今日持ってきたのは複製ですけれども、和紙24枚で綴ってありました。正式なタイトルは「日本帝国憲法」と書いてありました。薄暗い土蔵の中で目を凝らして私は見ましたが、「日本」の「日」という文字が半分くらいは虫に食われていますから「あ、大日本帝国憲法か」と最初は思ったんです。「国帝」「帝位相続」から始まっていますからね。大日本帝国憲法、明治憲法が発布されたときに彼らがそれなりに関心を示して、それを一条一条、五日市の人が書き留めたものだろうと。憲法が発布されたことに非常に強い関心を持っていたから、それを写し取ったんだろうということくらいはわかりましたけれども、その最初に私が手にして、薄暗い蔵の中で目を凝らして見た史料との出会いはそんなことでありました。
のちにこの憲法がそれなりに大事な憲法だったし、オリジナルなものの新発見だということがわかったんです。マスコミの方からしょっちゅう私もインタビューを受けまして、「あなたが最初に手にしたと聞きましたけれども、そのときの喜びはどうだったでしょうか」なんて聞かれることがよくあるんです。けれども「喜びはほとんどありません」とか言うと「どうしてですか」と言われるんですがが、その程度の理解でした。でも今から考えると、本当はあの蔵の中で見たときに最初に、1枚目に目次がありますよね、これが一番頭に入っていたわけですから目次を見たときに、「あ、これは大日本国憲法ではない」ということがわからなければいけなかった。あとから考えると非常に恥ずかしい話なんです。みなさん、おわかりになりますか。この目次を見て「これは大日本帝国憲法では絶対ない」というはっきりした証拠があります。そういう知識がその頃の私にはありませんでした。
この目次を見ますと、「日本帝国憲法」から始まって「第一篇 国帝」があり「第二篇 公法 第一章 国民の権利」と書いてある。大日本帝国憲法は「国民」とは書いてありませんでした。すべて「臣民」です。「臣民」とはどういう意味ですか、ということです。これは辞書を引いてみればおわかりになるように、支配者、この場合は天皇だと思いますが、天皇の子どもみたいなことです。天皇の流れを汲む、天皇からすれば「君らが臣民だ」、「国民」という意識ではない。ずっと「臣民」として大日本帝国憲法下で1945年まできてしまったわけです。軍国主義、天皇制絶対主義国家が生まれてしまいました。「国民」という言葉を使っているだけでも、これは大日本帝国憲法ではないということがその場でわからなければいけないわけです。
これは全部で204条あります。そして第1条、第2条、第3条と書いていません。蔵の中では条数が何条あるかはわかりませんでした。墨で文字が書かれているだけで全部で何条あるかはわからなかったので、私が卒論の中に一条一条書き写し、ひとつひとつ数えて全部で204あるということが初めて確認されました。大日本帝国憲法は76条ですから、3倍ありますし、今日の日本国憲法は103条ですから2倍ある。3番は「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」。この条文はひとりひとりの日本国民は権利・自由が達せられなければいけません。各自の人間の権利・自由というものはほかから妨害してはいけません。国の法律というものはその権利・自由を保護しなければいけない。逆にいえば国がつくる法律は、各自の権利・自由を守らないものは国の法律として認めないということをいっている。今日の日本国憲法第11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」、第12条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」、これらに匹敵する内容ではないか。まず基本的人権が保障されるということです。
それから4番「凡ソ日本国民ハ族籍位階ノ別ヲ問ハス法律上ノ前ニ対シテハ平等ノ権利タル可シ」、法律上の前では貴族とかそういうものは一切関係ない、全て平等である。日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と比較しても遜色ないのではないでしょうか。5番「凡ソ日本国ニ在居スル人民ハ内外国人ヲ論セス其身体生命財産名誉ヲ保固ス」、なぜか204条ある条文の中でこの条文だけが「国民」ではなくて「人民」という言葉を使っています。「保固」という言葉はあまり最近は使いませんが、「固く守られる」ということです。日本に住んでいる「人民」は「内外国人ヲ論セス」ですから、日本人だろうが外国人だろうが、そのときに日本に住んでいる人民はその身体や命や財産、名誉は固く守られるんだ。どうでしょうか、今の日本国憲法下でも「内外国人を論じている」ことはたくさんあるじゃないですか。在日の人で、日本で長く住んで2世、3世になっている方もたくさんいらっしゃる。そういう日本に移住しているような人たちにとっても「内外国人を論ぜずに」選挙権を与えていますか。かつては国立大学でも拒否していました。今はそういうことはありませんが大学に入ることも許されなかった、そういう時代がついこの間までありました。日本国憲法下でも「内外国人を論じて」います、ということを考えるとこの第5条の条文は非常に先駆的な条文だろうし、高く評価しなければいけないのではないでしょうか。
14番「子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス 然レドモ子弟小学ノ教育ハ父兄タル者ノ免ル可ラサル責任トス」、子どもの教育においてどのような学科をどのように教授してもそれは自由です。また子どもの小学校の教育については保護者たるものは免れることはできません。子どもの側からいわせると、少なくとも小学校の教育は受ける権利がある。「教育を受ける権利」があると読めます。「教育の自由」と「教育を受ける権利」というものがここで明確に表現されております。日本国憲法下で「教育は自由である」という表現はないんですよ。「学問の自由」というのは今の日本国憲法下ではありますが、「教育の自由」というものはなぜなかったんだろう、といってみても仕方ないけれども、戦後教科書裁判が家永三郎さんを中心として長く行われました。教育の自由を巡って、教育の内容を巡ってずいぶん国が干渉し、それが現在もなくなっているとは思いませんが、今の日本の教育の中では国家の干渉が非常に強いですよね。そういうことを考えてみるとこの条文は非常に先取りしているのではないか。今日のわれわれよりももっと激しく突き進んでいるのではないでしょうか。
それから地方自治の規定であります。9番「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス其権域ハ国会ト雖ドモ之ヲ侵ス可ラサル者トス」。地方自治は各地の風俗とか習例によるものです。絶対にこれに干渉・妨害してはいけない。その地域地域の習わしとか習例とか文化とか歴史とか、さまざまなもののもとに成り立っているわけですから、これに干渉してはいけません。地方自治権、その権域は国会といえども侵すことはできない。われわれが選んだ議員で成り立つ国会といえども地方自治権に干渉したり妨害してはいけません。明確に地方自治というものを決めております。今の日本国憲法下では92条から95条までが地方公共団体、ある種の地方自治の規定でありますけれどもこれほど明確ではないですよね。そういう意味ではこの15番の条文は、地方自治というものを考えた場合にものすごく重要な条文ではないかと思います。どうしてこんな条文が生まれたのかというと、やはり先ほど利光さんの本の中にありましたように町長以下、自由党員で固めたと書いてありましたね。こういう「民権村」というか村ぐるみの政治組織というか、学校の先生、村長さん、それから筏組合の組合長さん、お寺のお坊さん、そういう人もみんな含めて自由民権運動家あるいは自由党員になっていたと考えてみると、おのずと地方自治権というものが生まれる素地や背景が理解できるのではないでしょうか。
23番「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告サルヽコトナカル可シ」、これは国民の権利のところに書いてありました。それから司法権のところは24番「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ」、国民の代表である人、「陪審官」も入って裁かれるべきである。「国事犯ノ為ニ」という条件がついていますけれども、死刑を廃止する。死刑というものが国民の権利の側からはそうされることはない、司法権の側からはしてはいけませんという、能動と受動を両方つけている。二重規定とか裏表規定といってもいいかなと思います。ひとつあればいいだろうと思いますけれども、あえてふたつのところで言っていることは、それだけ重要視している証拠かなと思います。こういう対になった条文は、ほかにもいくつか五日市憲法草案の中にはあります。そういうこともあって条数が多くなっていますね。たかだか数条を読んだだけですが五日市憲法草案の特異性というか先駆性というか、今われわれが読んでもぎょっとするような内容のものが含まれています。もちろん天皇の規定から始まっていますから天皇制というものを認めた上で、それ以外にも通常の規定はあります。あるけれども、今読んだ条文が突出してはいますけれども、五日市憲法草案を考えたときにこういう憲法のから私たちが何を学ばなければいけないかということが、おのずと訴えてくるものがあるのかなと思います。
条文が多いと言うと、国民の権利というものがいかに大事かということと司法権の章についてはもモデルとした嚶鳴社の憲法草案にもない独自性がみられます。この憲法草案はまったく白紙からつくられたものではなく、五日市憲法の下敷きになった憲法があります。嚶鳴社の憲法草案です。嚶鳴社は東京都心にある自由民権の結社で、かつて元老院-つまり政府の中枢にいたような人たち、あるいは渡米経験-ヨーロッパを回ってきた渡欧経験があるようなエリート、知識人たちの集まりです。その嚶鳴社の憲法草案が五日市憲法草案がつくられる少し前にできあがっていました。嚶鳴社の人たちを呼んで演説会を開いたときに、「あなたのところで憲法草案をつくったと思いますけれども、自分に見せていただけませんか」とお願いして、嚶鳴社の人たちから憲法草案を送ってもらいます。そのことがきっかけで、これを土台にして五日市憲法草案をつくります。その嚶鳴社の憲法草案と比較してみました。これも私が卒論を書くときにつくった表です。嚶鳴社憲法草案とまったく同文、一部修正、大幅修正、モデルとした嚶鳴社憲法草案の中に条文がない、オリジナルに近いもの、ということで分析したものです。
例えば国民の権利はどうでしょうか。嚶鳴社憲法草案と同じものはゼロです。一部修正もゼロです。大幅修正が11で該当条文なしが25、全部で36条ありました。つまり国民の権利の項目は五日市のオリジナルな条文であるということがわかります。同様に司法権もゼロ、ゼロ、7、28ですから司法権のところも下敷きにした嚶鳴社憲法草案を乗り越えているといっていいと思います。
この憲法草案は誰がつくったかというと、目次にもあったように千葉卓三郎という人がつくりましたと明確に書いてありました。「千葉卓三郎 草」と書いてありました。私は五日市に千葉卓三郎さんという人がいて五日市の民権の人がつくったんだろうと最初は思いましたが、五日市の人間ではない。五日市に千葉さんがゼロというわけではないけれども、そういう話は聞いていません。50年前に千葉卓三郎さんを知っていますか、と五日市の人に聞いてみました。誰も知った人はいませんでした。当然私の指導教授の色川大吉先生も三多摩の自由民権運動のパイオニア的な研究者でしたから、「先生、千葉卓三郎とはどういう人でしょうか」と聞いたら「これまでの調査で一回も出てきたことのない人間である。どこの人だかよくわからない」ということでした。五日市憲法草案を調べるあるいは卒論をまとめるということと、恐らくこの憲法をまとめたであろう千葉卓三郎について調べるということ、ふたつの課題が私にのしかかりました。
8月27日に調査して、その日は五日市の近くで合宿で泊まって、夜4年生ひとりひとりが今日の調査の報告をしろということになりました。晩飯を食べたあとに、ひとりひとり自分が見た史料料はこんなものがありますと報告したんですね。私も「学芸講談会とか学術討論会という新しい結社が出てきました。五日市の自由民権運動はこういう結社がやったのだと思います。新しい史料、良い史料が出てきました」と報告しました。「と同時に、何か後ろの方に憲法の写しみたいなものがひとつありました。恐らく大日本帝国憲法の写しだろうと思います」と報告しました。4年生5人全員の報告を聞いたあとで、色川先生が「なかなかみんないい史料に出会ったじゃないか。ところでちょっと僕から提案があります。実は君たちの卒論のことだがね」-12月に卒業論文を出さなければいけないんですけれども-「今日君たちが報告したこの史料を使って卒論を書いたらどうだろう」といいます。8月27日ですよ。12月中旬には出さなければいけない。僕らは3年生の時からそれぞれ卒論のテーマを決めているんですよ。順番に報告者を決めて報告してきました。
私も報告をしてきました。「じゃあ、あのテーマはどうするんでしょうか」と聞いたら、「あれはね、君たちの報告を聞いてきたけれども、オリジナルなものはあまりないね」といわれまして「ここで捨てても惜しいと思うものはひとつもない」みたいなことをいわれてしまった。「えーっ」とみんなショックを受けたけれども、「それよりも今日みんなここで発表したことは今まで誰も見たことがない、家主の深沢さんは見たかもしれないけれども他人が初めて見た史料で、面白い史料が多いじゃないか。これを解読し読んで、その歴史の意味を、どういう史料であるかということを考える。歴史の中に位置づけるということまでは、卒論レベルですから、そこまではいかなくても何かしらオリジナルな成果が非常に強くなる。これまでの君たちのテーマよりもよっぽどいい」というような話で、指導、命令ではなかったけれども半ば強制的なような話で、結局ここで卒論が切り替わったんです。ここから数ヶ月みんな夢中になって史料と格闘しました。
ですから私は五日市憲法の分析に当たることに精一杯で、起草者の話までとても到達できませんでしたけれども気になってはおりました。卒論が少しずつかたちになり始めた頃、この千葉卓三郎という人物を追求してみようかなと思って探索したことを今度の岩波新書でもずいぶん書きました。ようやくご子孫の方が宮城県の方だということがわかって、彼の故郷まで訪ねていきました。岩手県の一関に近い、いわゆる米どころでした。かつては「ササニシキ」、いまは「ひとめぼれ」という米に替わっていますが、東北新幹線も高速道路もありません、そういう時代でした。一面の米が実ったところ、そこの宮城県栗原郡志波姫町の出身だということがわかって、役場まで訪ねていきました。そして千葉卓三郎という人を追求しているといったら戸籍などまで見せていただいて、ようやくその町の出身であるということがわかりました。ではその千葉さんのところにご紹介願えますかと聞いたら、「ちょっと待って下さい」といって、「この千葉さんはもうこの町にはいません。明治何年かに宮城県石巻に引っ越されていますね」ということで一旦は東京に戻ってきました。
また石巻の市役所に、千葉という人を訪ねていると長い手紙を書いたら、石巻の人が非常に親切に調べて下さった。そして、あなたがお調べになっているのはこの方だと思いますが、今現在石巻には住んでいません。仙台に引っ越されています。仕方がないので、仙台の市役所にお願いしたところ、兵庫県神戸市に引っ越されておりますということで、最終的には神戸市まで行きました。
ようやく神戸市にお住まいになっていることがわかったものですから一度ご訪問したい、お話を聞きたいといったら、そのご当主の方は病気で入院し面会謝絶になっておりますので、面会はお断りしますといわれてしまいました。研究室の助手の方と「断られてしまった、どうする」ということになりました。いろいろ推測するとかなり高齢の方で面会謝絶で人にも会えない、ひょっとしたら会えないうちに死んでしまうのではないかと思って、助手の方と二人で強引に神戸大学付属病院に押しかけていきました。病室のドアをトントンと叩いたら「面会謝絶でお断りします」といった娘さんが出てきて、「お断りしたのに」というような顔をされましたけれども、強引にお願いしました。歴史を調べるということの無神経さというか強引さというか、こういうことをやらないといけないのかなということをすごく感じました。けれども、とにかくそこは耐えて、実はなんとかお会いしたいといっていると、病室の中から「おーい、誰か来ているのか」という声が聞こえました。面会謝絶で危篤状態なのかと思っていたけれども元気そうな声が聞こえたんです。
中に入っていいということになって、助手の方と二人でこれまでの長い経過を説明し、関係する史料がありますかと聞いたら、「あるかもしれない」といって、娘さんにベッドの下の箱を開けて出してくれといいます。病室まで持ってきていたんです。箱に「わが家の宝物」って書いてあります。そこで病室で開けたら、この履歴書と写真が出てきました。この履歴書がまたすごい。すさまじい経験の持ち主です。「文久三年一月ヨリ明治元年二月ニ至ルマテ、仙台ニ於テ大槻磐渓ニ従ヒ業ヲ受ケ」、仙台藩の養賢堂という藩校があったんですがそこの塾頭、校長先生まで務めた。のちに三男の大槻文彦が「言海」を編纂したり、いろいろやって有名になりますが、大槻磐渓につくということは仙台藩の士族としては一番のエリートコースを歩んでいた人です。
そこから「其三月ヨリ九月ニ至ルマテ、軍伍ニ入リ」、これは戊辰戦争そのものでした。仙台藩の下級士族ですから、当然戊辰戦争にも参加していました。もっとも激戦となった白河口の戦いにも参加したことがわかります。戊辰戦争が終わって、仙台藩は負けて賊軍になります。「負け組」です。「其十一月ヨリ同二年八月マテ、松島ニ於テ石川櫻所ニ従ヒテ医学ヲ為ビ」-石川櫻所というのは徳川最後の将軍・慶喜の御殿医でした。有名な医者です。その人について医学を学んでいます。つぎは鍋島一郎という人について皇学を学びます。それから桜井恭伯という人について浄土真宗、仏教。さらに「明治四年六月ヨリ同八年四月マテ、東京駿河台ニ於テ、魯人ニコライニ就キテギリシャ教ヲ學ビ」、ニコライがつくったロシア正教のニコライ堂でニコライに露学を学びます。そのあと「其五月ヨリ同九年二月マテ、市ヶ谷ニ於テ安井息軒ニ従ヒ業ヲ受ケ」、安井息軒は有名な儒学者で三計塾をつくった人ですが、キリスト教が大嫌いでキリスト教排撃論者です。そういう人につきます。それから次にフランス人のウィグローという人についてカトリック教を学びます。さらに福田理軒という人に洋算、数学を学びます。この当時洋算で一番有名な人です。その後に横浜山手でアメリカ人マグレーについてプロテスタントを学ぶ。カトリックからプロテスタント、ギリシャ教まで何でもやるんですね。最後に「東京麹町ニ於テ、商業ニ従事シ」-どうせ武士がやった商売だからうまくいかなかったでしょうけれども、そのあと「武州西多摩郡五日市ニ滞在シ、今日ニ至ル」。ちょうど五日市にいた頃の履歴書です。
彼はペリー来航の前後に生まれて、17歳で仙台藩の下級士族として戊辰戦争に参加し、明治以降は明治16年まで生きます。31歳という若さで独身のまま肺結核で亡くなってしまう。非常にドラマティックな生き方をした人です。その最後に出会ったものが自由民権運動であり、彼が死ぬ直前の最後の仕事が五日市憲法をまとめたことになると思います。この写真、たった一枚しか残っていません。これ以外に千葉の写真はありません。小首をかしげて神経質そうな男に見えます。この男のことを調べたらいろいろな史料がまた出てきました。彼は自分のことを「ジャパネスク国法学大博士」なんていってうぬぼれて、「タクロン・チーバー」なんて気取った名前をつけて「法律格言」を書いた。
これは明治11年5月に元老院が出した「法律格言」という結構厚い立派な本がありますが、これはヨーロッパのさまざまな法律格言を集めたものです。その元老院が出した法律格言をひとつひとつ読み替えた。例えば元老院が出した法律格言には「国王ハ決シテ死セズ」という法律格言が載っています。これをタクロン・チーバー氏は「国王ハ死ス、国民ハ決シテ死セズ」と読み替えています。国王なんて亡びるものだ、国民は絶対に亡びない。それでも誰かに指摘されたのか、言い過ぎたと思ったのでしょうか、カッコをして「国王ハ(決シテ死セズ)国民(モ)決シテ死セズ」なんてちょっと日和った言い方に書き換えています。「若シ人民ノ権利ト人君ノ権利ト集合スル時ハ、人民ノ権利ヲ勝レリトス」、国民の権利と国王・天皇の権力、どちらをとるかといえば当然国民の権利を優先します。「法律格言」の方では「人君ノ権利ヲ勝レリトス可シ」と結ばれていますね。それから「国王ニ特権ヲ与フルコト勿レ」、国王に特権を与えるとろくなことがないということですね。「全国民ノ允許ハ確実ノ允許トス可シ」、「允許」というのは「認める」ということですが、全国民が判子をつけばこれがもっとも確実なことだということです。このように彼は徹底した国民主権の考え方を持った男であります。この男が恐らく五日市の討論会とか学芸講談会とかでいろいろやってきた議論を踏まえた上で、彼が最後に憲法条文としてまとめたものだと思います。
では彼が1人でつくったものか、そう考えると彼1人では恐らくできなかったのではないでしょうか。また彼が1人でつくったとすれば、もっとラディカルな憲法草案になったのではないか。つまりこのような「法律格言」が出てきましたから。そのことも含めて「日本帝国憲法」という正式な名前はあったけれども、あるとき色川先生が「君が大日本帝国憲法を写したものだなんていう間違いをしたように日本帝国憲法というと君みたいに間違える人がいるから、われわれで名前を付けようじゃないか。発見者が名前を付けてもそれくらいの権利はあるでしょう」と色川先生が言い出しました。「いいじゃないですか」と私たちもすぐのって、私と助手の江井さんと3人でどういう憲法の名前にしようかということで、最終的に俗称「五日市憲法」と言おうということにしました。それ以来私たちが講演などをする場合には「五日市憲法」という名前にしたけれども、これがいろいろとまた問題がありまして、「千葉憲法」とした方が良かったという意見もありました。
五日市憲法以外にも自由民権運動の時代につくられた憲法があります。植木枝盛の憲法草案が最左翼となっておりました。この研究は家永三郎さんが先駆的にやられたものです。この植木枝盛の憲法案はまたすごいんです。抵抗権とか革命権を謳っているし、「法律の範囲内において」という条件はないし、「国事犯の為に」という条件もなく死刑は即廃止です。すごい内容を持った憲法草案が自由民権運動の中では生まれていますが、植木枝盛の憲法案を最左翼とすれば、五日市憲法は次の次くらいかなというものを持っていると思います。でも植木枝盛の憲法草案も天皇制は認めています。自由民権運動の時代に天皇制ではない憲法案がどうしてできなかったのでしょうか、ということをかなり晩年に家永さんと会話をしたことがあります。「新井さん、どう思いますか。長年自由民権運動の憲法草案を研究していますが、その頃は天皇制というものはまだそんなに重たいものではなかったはずなのに、どうしてそこからフリーに考えて共和制のようなものを構想した人が現れなかったのでしょうね」ということを家永先生が語っていたことを記憶しています。
家永先生が亡くなった後でしょうか、岩手県久慈の小田為綱さんという家から出てきた憲法草案があります。そこでは、「議会ハ他ノ他皇胤中男統ノ者(女帝ハ今上ノ決闘ニ限ル)ヲ撰立スルノ権アリテ、而他皇胤中ニ於テモ帝位ヲ承ク可キ男統ノ者ナケレハ、代議士院ノ預撰ヲ以テ人民一般ノ投票ニヨリ、日本帝国内ニ生レ、諸権ヲ具有セル臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立シ、若クハ政体ヲ変シ(代議士院ノ起草ニテ一般人民ノ可決ニ因ル)、統領ヲ撰定スルコトヲ得」とあります。そうなった場合には天皇ではなく大統領ということでしょう。ぎりぎりに、男統が亡くなってこれ以上継ぐべき人がいない場合という条件付きですけれども、国会議員の預撰、さらに最終的には国民投票をもって日本国内から1人選びます。これは皇帝とか天皇とか君主とは言わないで統領と呼びましょう。まさに国民が選ぶ大統領制、共和制に近いことを言っているのではないでしょうか。こういう憲法草案が岩手県から出てきました。東北から出てきたこともすごく意味があると思います。自由民権運動の時代の憲法草案は、まだまだ埋もれているものもあると思います。
今私が話したのは自由民権運動の時代ですが、日本の近現代史を振り返ってみると「憲法の時代」の第1期だったのではないでしょうか。第2期は戦後すぐです。日本国憲法が誕生するまでの間に30近くの憲法草案が実は生まれておりました。これはあまり研究が進んでいないところもありますが、もちろん政党とか個人、グループがつくりましたけれども、もっとも注目すべきは鈴木安蔵さんが中心になっていた憲法研究会の案が一番有名です。これはGHQに提出されて、GHQが憲法研究会の案をかなり参考にしたということはすでに研究者が明らかにしております。これが第2期だったと思います。
2020年に近いこの時期、まさに私たちは憲法の時代の第3期のど真ん中にいる、というよりむしろ最後に近いところにいるのではないでしょうか。そういう自覚を私たちが持っているかどうかということが問われなければいけないのです。まもなく政府原案みたいなものができて「これでどうですか」というものが出されそうじゃないですか。もちろん国会で議論になるでしょうし、いろいろな機関で審議するでしょう。でも最終的に多数決で決めるとすると、公明党がどう動くかはわかりませんけれども、今の政権下で政府原案は通る可能性が大ですね。その政府原案が通ったものが最終的には国民投票にかけられます。最後は私たちが決めるんですよ。でも諸外国の例を見てわかるように、ムードとかそのときの時代の雰囲気が非常に危険な方向に流れているとすると、国民投票も敗れてしまう可能性もあるわけです。今の安倍政権が原案をつくって、それを「どうですか」というそのこと自体がまず問題です。私たちはそういう第3期の時代のど真ん中というか一番ぎりぎりのところで生きている。例えば50年たった、100年たったときに、あのとき国民はどう反対していたのかと問われると思いますが、ぜひそういう自覚を持っていただきたいと思います。
最後に、「地域から明治100年を考える」ということで五日市憲法をこれまでやってきました。「五日市憲法」と名前を付けて一人歩きをし始めたら、五日市の地元から反発が出てしまいました。色川先生や新井さんたちが「五日市憲法、五日市憲法」と宣伝するけれども、五日市を買いかぶっていませんか。五日市なんてそんなところではないんですよ。私は五日市で生まれ育って何10年もここで生きていますけれども、五日市なんて保守的なところですよ。自由民権運動の時代、そんなに盛り上がった時代があった、地域の人が関わってあんな優れた憲法をつくったとしたら、もっと次の世代にあるいは五日市の地域の中にそういう精神が定着するなり伝統として流れていてもいいと思いますけれども、一度もそんなことは感じたことはないんです、という地元の方々からの鋭い反発でした。私も色川先生も助手の方も五日市出身ではございませんので、本当にこの地域にそういうものが伝統としてなかったのかどうかということを、悔しいから調べてみようと思いました。それを証明した史料があります。
戦後民主主義の時代に各地でいろいろな運動が起こりますが、「民権」という雑誌が出ます。五日市ではなくて中野区の三田村さんという方がつくって何号か続いたようです。私はまだ創刊号しか見ていませんが、つまり「今こそ自由民権が復活しなければいけない」と考えた人がいて、「民権」という雑誌が戦後に出るわけですね。そういう大きな流れの中で、五日市にも新しい運動が続々と誕生しました。ひとつは五日市新政会というものがつくられました。その設立趣意書、最後にスローガンが3つあがっています。「民主的な明るい町政の確立!」「獨占的権力政治の排撃!「文化政策の確立とその急速な實施!」です。新しい民主主義的な、軍国主義を断ってわれわれがそういう町政を獲得しましょう、担っていきましょうということを宣言したものです。これを見たら、会長は「深澤一彦さん」と書いてあります。私たちに土蔵を開けてくれた人です。その人が若い頃にこういう運動の最先端に立って、戦後民主主義の先頭に立ってたたかっていたということですね。
私の恩師の色川先生が早くから言っていたことは、こういう歴史を掘り起こして「地下水」としてそういうものは流れている。その「地下水」というものは、誰かが汲み上げないと底流で流れているだけで何の意味もない。そのときそのときに生きている人が過去の歴史の中から素晴らしい「地下水」というものを汲み上げて表に出して、それをエネルギーにして次の運動につなげていく。そういうことが歴史研究者あるいは歴史家の役割でもあるのではないかということを色川先生はおっしゃっていました。こうした掘り起こしは、それにつながるかなという思いがしています。そういうことを私たちは今問われているのではないかなと思います。
宮城県仙台市に資福寺というお寺に千葉さんのお墓があり、千葉卓三郎墓地と書いた碑があります。また、彼が生まれた故郷にタクロン・チーバー公園という立派な公園ができています。先日行きましたが、大きな看板が出ていました。かつて五日市の町役場があった、その目の前に立派な五日市憲法の碑が建ちました。これは真ん中が銅板で、3つくらいつくったんですね。これが宮城県の千葉さんのお墓がある資福寺の境内の中に、宮城県の人たちがつくってくれました、ここに同じ銅板をはめ込みました。また、千葉卓三郎が生まれた、当時の志波姫町の町役場の一番のところに、やはり同じ銅板をはめ込みました。今は憲法の碑が建ちましたし、最近は五日市憲法の歌なんかつくる人がいてCDなども出しています。それからテレビのドキュメンタリーとかいろいろなところに取り上げられて、再び五日市憲法草案に光が当てられています。表面的な光ではなくて、今日お話ししたような内実を理解した上で、いま私たちが五日市憲法から学ぶものはずいぶんあるのではないでしょうかと思います。
「騙されてたまるか―調査報道の裏側」
清水 潔著(新潮新書)
岩波書店の「図書」が岩波新書創刊80年を記念して10月に臨時増刊号「はじめての新書」を出した。画期的なのは広く岩波以外の各社の新書を取り上げていること。12社の「新書編集長がすすめる『はじめての新書』」のコーナーまである。当時「新潮45」問題で編集部間のエールの交換が話題になっていたこともあり、斬新な企画に思わず拍手を送った。岩波新書編集部のおすすめ本の中に本書があり、手に取った。「一匹狼の事件記者として『おかしいものはおかしい』と『小さな声』に耳を澄まし続ける著者。原点に立ち戻り、叱咤される一冊です」という惹句にひかれて。
著者が報道に携わった大小の事件について取材の経緯が簡潔に語られている。交通事故で人を死なせたり強盗殺人を犯したまま出国してしまった日系人を追ってブラジルに飛ぶ。奇跡のような出会いで強殺犯と直接対峙する場面も。取材経過をニュースやドキュメントで放映し、それが犯人たちの現地での逮捕、実刑判決へとつながる。
桶川ストーカー殺人事件は「犯人と警察によって」被害者が殺害されたと言って過言でないケースだ。警察の捜査に不審を抱き、独自調査で犯人を突き止める。恐怖におびえ何度も訴える被害者に耳を貸さず、告訴状を「被害届」と改竄したことが判明し、警察官3名が懲戒免職のうえ刑事責任を問われ、埼玉県警本部長以下12名が処分を受ける事態に。それだけではない。警察は被害者のプライベートな情報を歪曲してリークし、これに飛びついた記者により被害者を貶める報道が垂れ流される。警察の非が明らかになるや一転して警察叩きに躍起になるメディア。この事件については「桶川ストーカー殺人事件」(新潮文庫)に詳細に記録されている。被害者とその家族、友人の無念さと警察への怒りがひしひしと伝わってくる。
政治家、官庁、企業等の提供する情報をもとに報じる「発表報道」に対して「調査報道」は記者自ら調べて判断していくもの、と著者は言う。「いつ・どこで・誰から聞いた情報か―。取材しているのは私であるから、結果、主語は『私』とならざるを得ない。言い換えればそれは『報じる内容の責任はすべて私にある』ということになる」その重さをずっしりと負ったのが「冤罪・足利事件」であった。最高裁で無期懲役が確定し服役していた菅家利和さんが再審で無罪となった事件だ。
79年から96年に栃木県と群馬県との県境半径10km圏内で5件の幼女が犠牲となる事件が起きた(4件は殺害、1件は行方不明)。著者は事件の共通性から「北関東連続幼女誘拐殺人事件」ではないかと疑う。しかし4件目の事件だけは菅家さんが犯人とされ、既に“解決”している。判決の決め手となった自供とDNA型鑑定を検証しなければならない・・・著者の徹底した調査が始まる。現場検証と再現実験、警察がでっちあげたストーリーによる自供と異なるため無視された目撃証言の発掘、苦労の末取材に応じた被害者の母親から得た新たな事実、当時のDNA型鑑定がまだ試運転段階で信頼性に乏しかったことを究明。そこからテレビでのキャンペーン報道を始めるが、直後に再審請求が却下された。著者はなおアメリカでのDNA型鑑定の扱われ方を紹介するなどしてキャンペーンを続行、遂に功を奏してDNA再鑑定が決定、結果は菅家さんの無実を証明するものとなった。初めは菅家さん犯人説を疑わなかった遺族の母親が検察官に対し、菅家さんに謝りなさい、「ごめんなさいが言えなくてどうするの」と迫る姿を繰り返し報道した4日後、再審開始の前に菅家さんは釈放される。再審判決の際3人の裁判官は深く頭を垂れて菅家さんに「申し訳ありませんでした」と謝罪する。
なんと著者は真犯人を突き止め最新のDNA鑑定結果まで得ている。情報を提供したものの警察は動かない。公訴時効が完成しているから?実は犯人逮捕により科警研の誤鑑定が確定してしまうことが、同じ科警研のDNA型鑑定を決定的根拠に死刑が確定し、執行されてしまった「飯塚事件」に波及することを恐れたのではないか・・・。この点は足利事件を扱った「殺人犯はそこにいる」(新潮文庫)で詳しく語られている。「飯塚事件」についても著者は入念に調査し冤罪を強く疑っている。
「『南京事件』を調査せよ」(文春文庫)も衝撃的な作品だ。戦後70周年のテレビドキュメントの企画に敢えて日本が加害者となった「南京事件」をテーマと決める。関わった兵士たちの陣中日記を収集し、インタビューを重ねていた小野賢二氏を通じて一次資料にあたる。「南京大虐殺博物館」では丈余の死体の山を描いた絵画に疑念を抱く。現地に飛んで虐殺現場を踏査する。安倍内閣の戦争法推進を横目に睨みながらの作業だ。こうした検証を重ねて揚子江沿岸での数万人の捕虜虐殺の全体像を再現していく。あの丈余の死体の山の無惨極まる真実も・・・。2015年放映されたNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」は大きな反響を呼び数々の賞を受けた。今年続編「南京事件Ⅱ~歴史修正主義を検証せよ~」が放映され日本ジャーナリズム大賞を受賞している。これはYou Tubeで視聴することができる。 池上 仁(会員)
憲法の改悪に反対し、憲法の3原則を生かす立場で活動しているすべての市民グループ・個人のみなさん。
いま安倍晋三政権は日本国憲法の9条をはじめとする平和主義を変え、戦争する国にするための改憲の動きを急速に強めています。日本国憲法は施行以来、最大の危機を迎えているといっても過言ではありません。
来る197臨時国会(2018年10月召集)と、198通常国会(2019年1月召集予定)で、いよいよ安倍晋三首相と与党は永年の念願だった明文改憲に着手しようとしています。2017年5月に公表した憲法で自衛隊の存在を規定するなどの安倍9条改憲案を土台に、国会の憲法審査会で審議し、改憲原案をつくり、あわよくば7月までにも改憲発議と改憲国民投票を実行したいという狙いです。
改憲派は2016年と2017年の国政選挙で、衆参両院で総議席の3分の2を確保し、憲法が定めている改憲の条件を確保しました。改憲派にとって、いまこそが絶好のチャンスです。残りの任期3年となった安倍首相にとっても最後の機会と考えているに違いありません。
この情勢を前にして、私たちは来る2月9日、10日、下記の次第で「憲法を考えるつどい in 広島 ~東北アジアの非核地帯に向けて~」(第21回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会in広島)を開催します。
この全国交流集会は、この間の日本での憲法改悪に反対し、憲法を生かす各地の草の根で行動する市民運動の連携と強化に果たしてきた役割は少なくないと自負しております。今日、この運動は各地で「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」や「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」などの共同した運動の一翼を担っています。これに対する人々の期待は私たちの「身の丈」以上のもので、身震いする思いがあります。しかし、安倍改憲を前に私たちはひるむことなく、自らに課してきた歴史的な仕事を果たしぬかなくてはならないと思います。
ご多忙、かつ遠路の方々も多く、参加は容易ではないとは存じますが、ぜひともこの全国交流集会を成功させ、安倍改憲を阻止する共同の闘いを進めたいと思います。
第21回全国交流集会を以下の次第で実施したいと思いますので、参参加ご希望の方は下記までご連絡ください。あらためて「参加申し込み用紙」をお送りします。
なお、この集会の成功のために、多大な経費がかかります。勝手ながら郵便振替用紙を同封いたしました。賛同カンパのご協力をよろしくお願いします。
2018年11月 同実行委員会事務局【編集部より】すでに、先月号の「私と憲法」にこの呼びかけを同封しましたところ、多くの会員・読者・友人の皆さんから賛同カンパが寄せられております。改めて感謝申し上げます。それらの方々にはこの呼びかけ文は2重になりますが、どうかご放念くださいますようお願いします。
今回は韓国のゲストの来日もあり、集会資金にあと少しのご協力がいただければ幸いに存じます。
チラシには書いてありますが、2月9日の公開集会は、講演が高橋博子さん(名古屋大学大学院法学研究科研究員)、報告が朱帝俊さん(韓国・朴槿恵退陣非常国民運動・記録委員会)、高良鉄美さん(市民連絡会共同代表、オール沖縄共同代表)、川原茂雄さん(戦争させない市民の風邪・北海道共同代表)のプログラムです。みなさまの参加・賛同をよろしくお願いいたします。(全国交流集会実行委員会事務局)
次第
1)公開集会 2019年2月9日(土)13時半~16時 広島弁護士会館3F大ホール
タイトル:憲法を考えるつどい in 広島 ~東北アジアの非核地帯に向けて~
主催:許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会
広島県9条の会ネットワーク
連絡先:市民連絡会(高田)<kenpou@annie.ne.jp>
東京都千代田区三崎町2-21-6-301
TEL03-3221-4668 FAX03-3221-2558
広島県9条ネット(藤井)
広島市南区宇品御幸1-9-26-413
2)交流集会(セミクローズド・非公開・事前申し込み制)
第1部 2019年2月 9日(土) 17時~19時半 *懇親会:20時~
第2部 2019年2月10日(日) 9時~12時
3)フィールドワーク(1) 10日終了後 呉海上自衛隊コース 16:00呉駅解散
定員15名 参加費:4500円 要事前申し込み
4)フィールドワーク(2) フィールドワーク(1)終了後、伊方原発コース
2月10日 松山泊
2月11日(月)17:00広島駅解散
(東京のみ松山空港からの帰路が可能)
定員10名 参加費15000円 要事前申し込み
(往復フェリー、松山宿泊・朝食代金込み)
5)参加費
公開集会:500円
交流集会:1,000円
6)申し込み なるべく早めにご連絡ください
申し込み用紙は事務局にご請求下さい。