内田雅敏(弁護士・共同代表)
戦時中、日本製鉄(現新日鉄住金)で強制労働させられた元徴用工が同社に損害賠償を求めた裁判で、韓国大法院は同社に賠償を命じる確定判決を出した。判決に対する日本社会の反応はおおむね批判的だ。1965年の日韓請求権協定で決着済みであり、判決は国家間の合意に反するとの声がしきりである。
だが国家の請求権と個人の請求権は別、放棄されたのは外交保護権であり、日韓請求権協定は個人の請求権には及ばないとする法論理もあるし、それが原爆訴訟【注】以降の日本政府の見解であったはずだ。1991年8月27日、衆院予算委員会で柳井俊二外務省条約局長(当時)は、日韓請求権協定の「両国間の請求権の問題は完全かつ最終的に解決した」の解釈について「その意味する処でございますが、日韓両国間に於いて存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて、解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したと云うことでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権行使として取り上げることが出来ない。こういう意味でございます。」と述べた。
「国家間の合意」には無条件で従わなくてはならないのか。沖縄・辺野古の米軍新基地建設反対も、日米間でなされた普天間基地移設に関する国家間の合意に反するから許されないか。辺野古新基地建設反対運動に多くの人々が共感するのは、普天間基地移設と辺野古新基地建設という「国家間の合意」が沖縄県民の意思を無視してなされたからだ。
韓国大法院の判決についても同様だ。アジア・太平洋戦争の最中、連合国に、「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立なものにする決意を有する」(カイロ宣言)と言わしめた日本の植民地下での強制労働の実態およびそれに対する謝罪と補償の欠如-日韓請求権協定当時の椎名悦三郎外務大臣は、協定による有償・無償5億㌦について、無償の3億㌦は賠償ではなく「独立祝い金」だと国会で答弁した-を直視すれば、「国家間の合意」による解決済み論とはまた別な論も導き出される。韓国大法院判決を街頭演説で「暴挙」と激しく批判し、韓国大統領府から「最近、一連の日本の政治的な行動は非常に不満足で、遺憾だと申し上げなければならない」(2018年11月7日朝日新聞夕刊)と批判された河野太郎外務大臣は、前記外務省条約局長の答弁を理解していない。歴史問題の解決のためには被害者の寛容が必要だが、そのために「は加害者の慎みと節度が不可欠だ。
1998年10月8日、小渕総理大臣と金大中大統領は日韓共同宣言を発し、「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。
金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。」と述べた。
本件徴用工問題もこの精神に沿って、解決されるべきだ。
強制労働問題は韓国人だけでなく中国人についてもあった。アジア・太平洋戦争の長期化の中で、1942年、東条英機内閣は中国大陸から中国人を日本国内に連行し、鉱山、ダム建設現場などで労働させることを企て、「華人労務者移入に関する件」を閣議決定した。これに基づき44年8月から翌45年5月までに3万8935人の中国人を日本に強制連行し、135の事業場で強制労働させた。過酷な労働により、日本の敗戦に至るまでの間に6830人が亡くなった。
戦後もこれらの受難者・遺族に対する日本国家・使役企業からの謝罪、賠償はなされなかった。72年の日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されており、日韓請求権協定と同様、「国家間の合意」により解決済みと強弁されてきたのだ。
中国人強制連行・強制労働問題に関しては中国側受難者・遺族およびそれを支える日本側支援者の裁判闘争を含む長年にわたる闘いの結果、2000年の花岡事件(鹿島建設)和解、2009年の西松建設和解(新潟県内の事業所分は翌年和解)、2016年の三菱マテリアル和解などが成立した。花岡和解があったから西松和解が成立した。三菱マテリアル和解は、前二つの和解があったからこそ成立した。前の和解を教訓とし、不十分さを克服し、より良いものとしてきた。
花岡和解に際しては故土井たか子氏、故後藤田正晴氏らの剛腕という陰の助力があった。西松裁判では04年7月、広島高裁(鈴木敏之裁判長)が高裁レベルで初めて中国人受難者・遺族を勝訴させた。最高裁第二小法廷は07年4月に高裁判決を破棄したが、被害の重大性を考えるとき当事者間の自発的解決が望ましい-と判決で付言した。西松の近藤晴貞新社長はこの付言を受けて和解を決断した。
戦争被害の「和解」のためには(1)加害者が加害の事実と責任を認め謝罪する(2)謝罪の証しとして和解金を支給する(3)同じ過ちを犯さないよう歴史教育、受難碑の建立、追悼事業などを行う-の三つが不可欠だ。
三菱マテリアル社の代表は北京に出向き、受難生存労工に対し「弊社は3765名の中国人労働者をその事業所に受け入れ、劣悪な条件下で労働を強いた」「弊社は当時の使用者としての歴史的責任を認め、中国人労働者およびその遺族の皆様に対し深甚なる謝罪の意を表する」と述べた。
そして受難者・遺族に一人当たり10万元(約160万円)の和解金を支給し、さらに「二度と過ちを繰り返さないため記念碑の建立に協力し、この事実を次の世代に伝えていくことを約束する」として、事業場等での「受難の碑」建立、中国からの受難者・遺族を招いての追悼事業(各費用は和解金とは別途支給)を約束した。中国人受難者らは、同社の和解の決断に敬意を表し、同じ問題を抱える他の企業および日本国家が同社に倣い早急に問題解決に当たるよう呼び掛けた。
和解成立後、生存受難者11人に前記謝罪と和解金が届けられた。現在、中国政府機関の協力も得て、日中平和友好条約40周年の本年中に、三菱マテリアル社、受難者・遺族らで構成する基金を設立し、遺族らに対する和解金の支給等和解事業を始動させるべく関係者間で最後の詰めがなされている。
歴史問題の和解は、和解金の支払いによって終了ではない。和解事業を進め、和解の中身をさらに深め豊かにすることが大切だ。
花岡事件の現地、秋田県大館市では毎年6月30日、中国大使館からの参加も得て、市主催の中国人殉難者慰霊式を行い、また地元支援者らによって花岡平和記念館が建設された。
西松建設和解では、西松建設、中国人受難者・遺族および地元支援者らによって、強制労働の現地に「中国人受難之碑」が建立され、碑の裏面には、中文、日文で、
第二次世界大戦末期、日本は労働力不足を補うため、1942年の閣議決定により約4万人の中国人を日本の各地に強制連行し苦役を強いた。広島県北部では、西松組(現・西松建設)が行った安野発電所建設工事で360人の中国人が苛酷な労役に従事させられ、原爆による被爆死も含め、29人が異郷で生命を失った。
1993年以降、中国人受難者は被害の回復と人間の尊厳の復権を求め、日本の市民運動の協力を得て、西松建設に対して、事実認定と謝罪、後世の教育に資する記念碑の建立、しかるべき補償の三項目を要求した。以後、長期にわたる交渉と裁判を経て、2009年10月23日に、360人について和解が成立し、双方は新しい地歩を踏み出した。西松建設は、最高裁判決(2007年)の付言をふまえて、中国人受難者の要求と向き合い、企業としての歴史的責任を認識し、新生西松として生まれ変わる姿勢を明確にしたのである。
太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。こうした歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する。
2010年10月23日
安野・中国人受難者及び遺族
西松建設株式会社
と刻まれた。加害と受難の歴史を記憶するためのものだ。碑の両脇には受難者360名の名を刻んだ小碑が配されている。
碑の建立には地元安芸太田町、中国電力など各方面の協力があった。西松安野友好基金は、中国人受難者・遺族の方々を順次追悼式にお招きし、地元の町長らの参加も得て交流している。ささやかな日中民間交流だ。来日した受難者・遺族らは、毎回、追悼式終了後、強制労働の現場を巡り、改めて、過酷な労働を強いられた当時に思いを馳せるとともに、翌日には原爆資料館を見学し、原爆被害の凄まじさに想像力を働かせ、慰霊碑に献花している。追悼式の中では様々なエピソードもあった。建設当時の発電所が現在も稼働していることを知った遺族の一人が、「父たちが作った、この発電所を、末永く使ってほしい」と案内の中国電力の担当者に話しかけ、担当者は即座に「はい、大事に使わせていただきます」と答えたという。和解事業として行われる追悼式、原爆資料館見学などの活動は、草の根の日中友好運動の一端を担うものである。「このような活動を続けることによって、やがて『受難の碑』は『友好の碑』となるであろう」と、ある受難者遺族が語ってくれたことが忘れられない。
三菱マテリアル和解でも同様な和解事業が遂行されるはずだ。それは日中間の緊張緩和に貢献する。
【注】外交保護権の放棄であって、個人の請求権は放棄されていないという日本政府の見解はどこから導き出されたか。
戦争被害を巡る日本国民からの賠償請求は、戦時中、カナダに有していた資産を凍結、没収された日本人が、戦後、サンフランシスコ平和条約第14条によって、カナダ政府への賠償請求がなしえなくなったことから、日本国憲法29条3項に基づき、個人の財産を公の為、すなわち日本国に対する連合国からの賠償請求免除の為に使用したとして、日本国政府に賠償を求めたケースが最初だ。政府は、戦争被害は国民が等しく負わなくてはなくてはならないと答弁し、判決もこれを認容した。いわゆる「共同受忍論」だ。その後原爆の被害者から、同趣旨の賠償請求がなされたところ、政府は、さすがに、「共同受忍論」を主張することは出来ず、サ条約で放棄したのは、外交保護権であり、原爆被害者の米国への損害賠償請求権そのものを放棄したのではないから憲法29条3項による賠償義務を負わないと抗弁した、裁判所は、原爆投下は国際法違反と認定したうえで、政府の抗弁を入れ、原爆被害者らからする賠償請求を棄却した。
A さん
内田です。お元気ですか。花岡事件の地、「秋田さきがけ」です。
いつか、流し読みくだされば幸いです。
内田 さん
論稿を拝読しました。お説の通りだと思います。私も請求権協定は外交保護権の行使をしないことを約したもので、個々人の請求権は失われていないと思いますから、判決後のメディアの論調には違和感があります。ただ現実の問題として、国家の後ろ盾を得ないで他国や他国の企業から賠償金を得ることは容易ではありませんし、内田先生にはお叱りを受けそうですが、徴用、強制労働自体はやはり日本という国家の力を抜きに語れず、その責任をたまたま存続している企業のみに負わせるのもアンフェア-ではないかと思います。
労働条件が劣悪だったであろうことは想像に難くありませんが、少し巨視的にみれば、日本国民を含めて無数の人が蒙った戦争被害の一部なのでしょう。これらのすべてを法的に救済することは不可能というほかはなく、特に外国人に対しては、結局は内田先生が指摘されるような心の問題、日本国に在る者の一人(企業)として、真摯に詫びる気持ちがあるかどうか、その気持ちをどの程度形にして伝えることができるかということに帰着するように思います。
村山談話問題を待つまでもなく、先の大戦が遠ざかるにつれ、国民全体に中国やアジアの国民にいわれのない被害をもたらしたことへの謝罪の気持ちが薄らいでいるのは残念なことです。
A さん
内田です。返信ありがとうございます。
「その責任をたまたま存続している企業のみに負わせるのもアンフェア-ではないかと思います」。
全く仰る通りです。解決のためには、ドイツ型の国家と企業による基金の設立が不可欠だと思います
「少し巨視的にみれば、日本国民を含めて無数の人が蒙った戦争被害の一部なのでしょう。これらのすべてを法的に救済することは不可能というほかはなく,特に外国人に対しては、結局は内田先生が指摘されるような心の問題、日本国に在る者の一人(企業)として、真摯に詫びる気持ちがあるかどうか、その気持ちをどの程度形にして伝えることができるかということに帰着するように思います。」
も、かっての判決理由、〈戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない〉とする「共同受忍論」の弊に陥ることなく、且つ加害者と、被害者の「被害」を同列に於いてはならないことを確認したうえで、同意します。
戦争被害の完全な補償など不可能です。しかし、仰るように、真摯に詫びる気持ちがあるかどうか、ささやかであっても、戦争被害和解の三つの原則、すなわち、(1)加害の事実と責任を認める、(2)謝罪とささやかな和解金の支給、(3)同じ過ちを起こさないための歴史教育、がなされるならば、被害者の慰藉が得られる可能性もあり、引いては其れが未来に向けての友好へと発展するのではないでしょうか。花岡、西松和解などの和解事業を遂行する中でそのことを実感します。その意味で、「日本国に在る者の一人(企業)として、真摯に詫びる気持ちがあるかどうか、その気持ちをどの程度形にして伝えることができるかということに帰着するように思います」は、仰るとおりです。
トランプ大統領の言いなりに莫大な税金を使用して、イージスアショア等の兵器を買うより、はるかに少ない金額で、近隣諸国との間での安全保障を実現することが出来るのではないでしょうか。 理想論の批判を受けるかもしれませんが。2004年ドイツの国防軍改革委員会報告書の冒頭には「ドイツは歴史上はじめて隣国すべてが友人となった」と書かれているとのことです。去る13日の朝日新聞朝刊を見て「驚き」ました。第一次世界大戦終結から100年に合わせ駐日独仏両大使が連名で寄稿文をよせ、「フランスとドイツは戦争の苦しみを知っているからこそ、過ちを繰り返さないよう、両国間の一層緊密な友好関係を促進させることに決然と取り組んでいるのだ」と語っているのです。
地政学的な違いのあることを認めつつも、いつか、北東アジアでもこのような関係性を創り出したいですね。
内田 さん
ご返信ありがとうございます。まったく同感です。独仏間以上に長い歴史のある日・中・韓なのですから、政治には、ぜひ未来を切り拓く良好な関係を築く努力を望みたいものです。
高田健(事務局)
自民党はこの臨時国会で「憲法改正案(改憲4項目条文イメージ案)」を「提出」したという実績を作りたいと、早期の憲法審査会再開を狙って動いてきたが、国会内外のたたかいによって、その目算が大きく狂い、11月15日につづいて、22日の審査会定例日も見送られ、自民党の企ては大きく揺らいでいる。臨時国会での憲法審査会をめぐる攻防は、文字通り山場に来た。
自民党憲法改正推進本部は11月19日、今国会初めての全体会合を開き、改憲の機運を高める活動を本格化させた。会合では、下村博文本部長が冒頭に「機運を高めるための仕事をする」と強調。各議員に全国289の衆院選選挙区ごとに推進本部を設け、各地で憲法の学習会を開くことや、各地で日本会議など市民団体との連絡会議を作り改憲の機運を高めるよう求め、党のインターネット番組「カフェスタ」でも改憲をテーマにした番組を今後、毎週放送するなど、改憲への本格的取り組みを強めることを表明した。
第4次安倍内閣とそれを支える新自民党執行部体制の中で、安倍「改憲シフト」の目玉人事といわれ、安倍首相の期待を担って就任した下村博文本部長は、憲法審査会の再開が思うようにすすまない状況にいらだち11月9日のテレビの番組で「高い歳費をもらっているにもかかわらず、国会議員として職場放棄してもいいのか」などととんでもない暴言を吐き、野党を攻撃した。
臨時国会で憲法審査会が開催されないでいる原因は、安倍首相が「所信表明演説」などで憲法審査会での改憲論議の促進を要求するなど、憲法99条違反にとどまらず、3権分立の原則すら踏みにじる改憲発言を繰り返していることにある。
安倍首相は臨時国会冒頭の所信表明演説で、改憲に関連して以下のように述べた。
「国の理想を語るものは憲法です。憲法審査会において、政党が具体的な改正案を示すことで、国民の皆様の理解を深める努力を重ねていく。そうした中から、与党、野党といった政治的立場を超え、できるだけ幅広い合意が得られると確信しています。そのあるべき姿を最終的に決めるのは、国民の皆様です。制定から70年以上を経た今、国民の皆様と共に議論を深め、私たち国会議員の責任を、共に、果たしていこうではありませんか」と。
「国の理想を語るものは憲法です」などと語る安倍首相の憲法観のデタラメぶりは論外としても、「政党が具体的な改正案を示せ」と、「憲法審査会」という立法府の機関の運営について行政府の長たる首相が口だしをすることの異常さ、そして「(改憲論議を国民とともに深め)私たち国会議員の責任を果たそう」と呼びかけたことの異常さは、まさに安倍首相が憲法の3権分立の原則や、99条の憲法尊重擁護義務についてまったく意に介していないことを示したものだ。安倍首相は先ごろも自衛隊の観閲式で、現役の自衛隊員を前に改憲への決意を表明するなど、99条違反を繰り返している。
安倍首相はこの臨時国会の11月2日の衆院予算委員会でも、自らを「立法府の長」と言い間違えた。この言い間違いは、第1次安倍政権以来、都合4度目だ。これだけくりかえすということは、単なる「言い間違い」ではなく、安倍首相が3権分立原則を全く分かっていないことを示している。
こうした安倍首相の発言には自民党内部も含めて、各界からさまざまな批判が噴出している。
野党が「職場放棄」をしているなどという下村発言は、問題のありかをすり替えて野党側に責任を転嫁したものだ。
結局、下村氏は「反省」を表明し、就任が予定されていた憲法審査会の自民党側の幹事と委員を辞退することになった。しかし、下村氏は党の憲法改正推進本部長を続ける構えだ。20日、野党5党1会派(立憲民主、国民民主、共産、自由、社民と無所属の会)は憲法審査会委員の懇談会を開き、結束して自民党に抗議している。
5野党1会派の主張は「法案審議をめぐる与党側の姿勢が強引で、憲法を議論する環境にはない。審査会の開催には応じられない」「入管法案の審議をめぐる与党側の姿勢は強引で、憲法を議論する環境にない」というものだ。
この結果、11月下旬にいたるも、いまだ憲法審査会の再開のめどは立っていない。
9月の自民党総裁選以降、自民党執行部は憲法9条への自衛隊の明記など4項目の「条文イメージ案」(いわゆる「たたき台」)を作った。これは自民党の総務会でも合意が得られなかった代物だが、安倍首相らはこれを今臨時国会での憲法審査会の「自由討議」の場で一方的に「提示」だけでも行い、来年の通常国会と合わせて「都合2国会で改憲論議をした」との実績を作り、その先に改憲案の発議や改憲国民投票の実施を狙っている。
しかしいま、その「提示」の実行すら、危うくなっている。憲法審査会の再開に野党が反対しているのに、数の力に頼ってそれを押し切って与党など改憲派が強引に憲法審査会を再開するのは、与党にとっても危険な賭けになる。自民党が望む改憲案の論議の最初から、与野党の深刻な対立を作り出す可能性があり、改憲論議の障害になる恐れがある。
憲法審査会での自民党改憲案の提示のめどが立っていないなか、21日夜のTV番組で公明党の北側憲法調査会長からこんな発言が飛び出した。
「(臨時国会で)1回やって、(通常国会で)1回やって、2国会で憲法改正が発議できるなんてとんでもない話で、そんなことはありえない。憲法改正は、そんな簡単ではない」。そして北側氏は、憲法に自衛隊を明記するなど、4項目の自民党改憲案について、「自民党と公明党の考え方は違う」と指摘したうえで、「憲法審査会という国会の場での議論が大事だ」と述べた、という。
たとえ臨時国会の残りの期間で憲法審査会を強行再開しても、憲法審査会の初回は幹事の選任など事務手続きの会合になる。次回からも、改憲案の提示にはすぐには進めない。前通常国会の憲法審査会で継続審議になっている「改憲手続法(国民投票法)」の改定案(改正公選法に合わせて投票の利便性を図ることに限った自公案)の審議が必要だ。与党はこの改憲手続法の修正を「微修正」で済ませようとしているが、野党の多くはそれにとどまらない「テレビの有料広告規制」等の検討も要求している。独自の国民投票案を決めた国民民主の玉木代表も「投票の利便性」の問題だけでなく、TVCMの問題も併せて審議すべきだと主張し、立憲民主の枝野代表はこの法律の改定には来年の通常国会が終わるころまでかかると主張している。改憲手続法の改定を呼び水として自民党の改憲案提示に踏み込む企ては容易ではない。
2007年、第1次安倍政権下での改憲手続法の強行採決以来、私たちがこの間主張してきたように、現行改憲手続法は「国民投票」における民意を正当に反映できない悪法だ。この法律のもとでは国民投票の公平・公正が保障されず、財界など資金力をバックにした改憲派に不当に有利な法律だ。その理由は、事実上の制限なしのTVCMの問題だけでなく、最低投票率規定がないこと、公務員や教育労働者の国民投票運動に不当な制限が極めて強いこと、買収が一定容認されていることなどなど、この法律の問題点は大きすぎる。
多くの人々の努力によって、先の第196通常国会以来、現行改憲手続法の抜本的見直しを要求する声が、とくに有料テレビ広告の問題を中心に大きくなってきた。前述したように、同法の問題はTVCMに限ったことではないが、しかし、これは重要な前進だ。
改憲手続法の問題では、国民民主党が同法改正案を出したことにつけ込み、自民党が「議論に応じる」などと言い出し、野党分断を図ろうとしている。しかし、自公の「微修正案」と野党の案を別々に議論し、その審議の間に「自由討議」の時間を設け、自民党改憲案を「提示」させようとしているのは極めて姑息な陰謀だ。民意を正しく反映しない法律の改正は一括して議論するのが当然だ。
筆者は6日に玉木国民民主代表らと懇談した機会にこのことを指摘し、その場で玉木氏も了解の意思を示した。10日に玉木代表は記者会見で「(国民民主が主張する)テレビ広告規制の導入とほかの必要な改正項目をセットで議論し導入することが大前提だ」と述べ、憲法審査会で、自民・公明両党などが提出し、継続審議となっている改正案と国民民主党の改正項目も併せて議論すべきだという考えを示した。これは事実上、自民党の分断策動への拒否となった。
18日、下村推進本部長は「何らかの形で憲法に自衛隊を明記すべきだと考えている他党の人もいる。まずは自民党の案を説明する機会を作ってもらいたい」と述べ、今の国会で憲法審査会を開き、自民党の改正案を提示したいという考えを重ねて示した。この下村発言の狙いは、あわよくば国民民主党と他の野党の間にくさびをいれて野党を分断し、改憲論議を進めたいというところにあるのはあきらかだ。
こうした自民党の野党分断策に対して、11月16日、初参加の国民民主党も加えて、立憲野党5党1会派の幹事長・書記局長と国対委員長が出席して、「市民連合」との「意見交換会」が行われた(これに先立ち、11月6日、国民民主党の玉木代表、平野幹事長と市民連合の意見交換会が行われ、安倍9条改憲や意見の安保法制に反対すること、野党が協力して参議院選挙をたたかう準備をすること、などの確認が行われた)。
16日の会合の冒頭に「安全保障関連法に反対する学者の会」の広渡清吾氏が以下のように発言した。
「前回の参院選では、野党と市民の努力により32全ての1人区で候補者の1本化が実現し、大きな成果をあげました。来年の参院選に向けて、この水準を後戻りしてはならないと強く思っています。先日『あたりまえの政治』を掲げ、街頭宣伝を行いました。『あたりまえの政治』を求めなくてはならないというのが、今の安倍政権が陥っている状況です。憲法を守る、民意を尊重する、嘘をつかない。このあたりまえのことができない政治を変えなければなりません。そのためにも立憲野党の皆さんと市民との協力を深めていきたいです」と。
「立憲デモクラシーの会」の山口二郎氏も「安保法制の廃止、改憲阻止、さらに今の日本政治が直面するいくつかの重要な課題について、前回と同様に政策合意を何らかの形で結び、共通の旗印としていきたい」と提起した。
その後、立憲民主、国民民主、共産、自由、社民、無所属の会の各党・会派と、市民連合の各構成団体から、幅広く意見交換が行われ、参院選に向けて市民と野党の協力をさらに強く深めていくことが確認された。(以上、「市民連合」のホームページから)
この会合で筆者(高田)は要旨以下のように発言した。
本日の「意見交換会」の開催は大変うれしい。全国各地で奮闘している市民が歓迎するだろう。これを契機に、2019年の参議院選挙での立憲野党と市民連合の共同したたたかいの実現に向けて頑張りたい。来年の参院選では、最低限、改憲派の3分の2割れを実現し、安倍政権を退陣に追い込みたい。
いま総がかり行動実行委員会は全国で「安倍9条改憲NO!」の3000万人署名運動を展開している。文字通り、津々浦々で市民による署名運動が展開されている、運動の形態は街頭署名にとどまらず、戸別訪問、ローラー作戦による署名集めが広範に展開されている。自民党は各選挙区に改憲推進本部を作り、日本会議などとの連絡組織を作り始めているが、草の根で改憲派と改憲反対派の激突が始まっている。先日の11月3日の憲法記念日の集会は、東京で1万8千人、大阪で1万2千人など、全国で市民運動の大きな盛り上がりをしめした。
憲法審査会などで、自民党の改憲の動きに対する野党各党の連携したたたかいに敬意を表したい。この国会での所信表明演説など、安倍首相の99条、96条に反する言動は容認できない。自民党改憲案の提示のための憲法審査会再開の動きも容認できない。下村氏の「職場放棄発言」に見られるような、野党の共同した闘いへの攻撃も、今後激しくなってくるかもしれないが、国会外の市民運動と連携して、野党は結束して安倍9条改憲に反対して闘っていただきたい。
いま改憲論議を急いでいるのは安倍首相とその取り巻きだけで、世論はそうではない。11月9日から11日に行ったNHKの世論調査で、「国会で憲法改正に向けた議論を早く進めるべきかどうか」をたずねたところ、「早く進めるべき」がわずか17%で、「急いで進める必要はない」が50%だった。
臨時国会も終盤に入り、与党は入管法の強行もにらんで会期の延長を策動してくることは間違いない。たとえ与党が国会で圧倒的な多数議席を持っているとはいえ、野党が結束してたたかえば、今臨時国会での自民党改憲案の「提示」を阻止できる可能性は十分ある。それが実現すれば、安倍首相が9月の総裁選挙で公言した「臨時国会での自民党案の提示」に失敗したことになり、安倍首相や自民党執行部の想定した改憲スケジュールは崩壊し、自民党内での安倍執行部の求心力は低下する。その結果、安倍首相らが狙う次期通常国会での「改憲発議」は極めて困難になる。まさに安倍改憲発議阻止の闘いには勝機がある。そのことを通じて、安倍政権の退陣を実現できる可能性がある。
こうしたことから、一部報道では自民党が野党との「話し合い」路線を放棄して、憲法審査会の幹事懇談会などの場で強引に「条文イメージ案」を「説明する」のではないかとの観測も出ている。そうなれば今後の憲法審会の運営はいっそう混乱するのは不可避だ。
今後の臨時国会の憲法審査会をめぐる政治的動向は予断を許さないが、市民は全力を挙げて国会内の立憲野党と連携し、呼応して闘い、自民党改憲案の「提示」阻止の闘いを展開しよう。
全国各地で3000万署名に全力をあげ、街頭で、地域で世論形成をすすめよう。各地で改憲反対の集会やデモを組織し、たたかおう。憲法審査会の委員をはじめ、与野党への抗議・激励のFAXなど、一層、国会内外の連携を強めよう。
お話:宮子あずさ さん(看護師・著述業)
(編集部註)10月20日の講座で宮子あずささんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
なお、この講座はhttps://www.youtube.com/watch?v=5ft2JIKllWoで検索できます。
今日は今の日本の現状を少し嘆くようなところからのスタートになります。でも最終的にはわたし自身が今の看護師という仕事を通じて感じてきた、人間についてのあれこれも踏まえてお話ししながら、今後、世の中を良くしていくために動くひとつの手がかりを、みなさんと一緒に探していければと思いながらお話をしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
簡単に自己紹介をさせていただきます。私は何者かというと、一番大きい自分の仕事は看護師をしていることです。私は1987年に看護師になりました。約30年、看護師として勤務をしております。みなさんは看護師という資格にどの程度詳しいかわからないけれど、医師もそうですが、医師になる、看護師になるという最初の段階では特に診療科は決まっていません。だから医師は医師として看護師は看護師として資格を取り、その中で自分が専門にしたいことを探していきます。あるいはあえて専門を絞らずに一般的な、広くいろいろ看ていくとか、それで決めていくわけです。わたしの場合は飯田橋にある東京厚生年金看護専門学校という3年制の専門学校を出て、そのまま実習病院に就職しました。
結局22年そこにいましたが、そこは500床程度の総合病院で、まだ私が入った頃は専門分化していませんでした。ですからわりと広く浅くいろいろなことが学べる環境で働き始めました。最初に配属されたのが内科病棟で、いろいろな病気の人が入ってくる一般内科でした。そこに9年いて、異動を命令されて移った先が精神科です。結局そこに13年いました。最後の7年間は管理職になって、ホスピスの病棟を立ち上げるということになり、そこも兼務していました。そのあと親の介護などいろいろなことがあって退職し、転職した先が財団法人井之頭病院という精神科単科の病院でした。そこに今もパートで勤めています。ですからわたしの場合、看護師としてのキャリアでいうと内科と精神科と緩和ケア病棟、その3つの経験です。
なぜこんなことをわざわざ言うかというと、自分の体験は偏っていると最近すごく感じるからです。例えば、私が看た患者さんで進行ガンで亡くなる患者さんがほとんどでした。今でこそガンは3年生存率がもう7割を超える、治癒する人がすごく多い病気になっています。けれども私が体験した患者さんとの関わりって、みなさん亡くなる方が多くて、それは私が外科系の病棟にいなかったからですね。やっぱり切ってすっきり治る人を見てこなかったので、亡くなる人をいっぱい見てきました。数で誇るものではないですけれども、700人くらいの亡くなる患者さんと関わってきたことになります。そういうことって若いうちはあまり感じなかったんです。自分にとって死ってやっぱり遠かったんですね。
死というものをすごくたくさん見てきたということ、そのことをあらためて深く考えるようになったのはやはり両親を見送ってからです。父は2000年に72歳で、母は2012年に80歳で亡くなりました。やっぱり何か、両親、母を見送ったときにはっきり次は自分だなと思ったんですね。親が存命のうちは、まだ親が冥土との間にいるような感じだけど、亡くなると次は自分だという感覚、別に切迫感があるわけではないけれども「見えてしまう」感じですよね。いずれ自分が終わるということが、こんなにもはっきり感じられたのはちょっと驚きでした。ですから、あらためて自分が看護師としてどういう体験をしたかということが、今の自分の考え方を決めているのではないかと考えるようになっています。
私はどちらかといえば内科の時は身体についてはなかなか治りづらい方と関わってきて、今は精神科で、今のところに勤めて9年になります。精神科は逆にその病気で亡くなるということはないんですね。残念ながら自死をなさる方や、長く長く病んでいく中で病気の発見が遅れるという特有の亡くなり方もあります。
私が忘れられないのは60代の女性で、妊娠しているという妄想を持っている人がいました。いつもマタニティを着ていて「妊娠している、もうお腹を触らないで」とかいうような人でした。その方がどんどんどんどん痩せてきてすごく具合が悪くなったときに、なんとか1回うちの病院に入れたんですね。休養目的ということで引き取ったのですけれども、結局末期の卵巣がんでした。わたしたちはお腹を触らせてはもらえなかったし、また2リットル、3リットルというすごい腹水でした。だけどマタニティドレスだったからわからなかったんですね。あまりにも現実から離れた世界にいるような生き方をしていて、わたしたちも、長年そうやって暮らしている方に無理にそこを変えようとは正直思わないんです。そのまま暮らしてもらって構わない。だけどその結果、病気の発見がすごく遅れてしまいました。何人かちゃんと症状が聞けなくて見過ごしてしまったという人がいらっしゃいました。ですから、病院の自然経過では亡くならないけれども、精神症状があまりに強くて身体の方のケアができなかった結果亡くなったという残念な事例がいくつもありました。
精神科が長くなって、その中でも自分の人間観というものがまた磨かれたようなところがあります。私は相手を変えようというよりは、その人に合わせてやっていこうという感じがすごく強いと思います。逆に、あまり人間って変えられないのではないかという気持ちがあります。でもこれはひょっとすると社会運動をしていく上では、少し弱くなってしまうかもしれない。人間に働きかけて変えていくことが可能だと思えないと、世の中をどこまで良くできるかわからないところがありますね。
話を戻しますと、最初内科で関わった患者さんは、まだ明治生まれの方がたくさんいました。そうすると、自分はばりばりのフェミニストの家庭で育っても、もうその了見ではやれないことは最初からわかっていました。就職して最初の頃衝撃だったのは、脳梗塞で片マヒになってしまった80代の男の患者さんに、私は自分で靴下をはくトレーニングをさせたかったんですね。ところがその人は「靴下なんか女房がはかせるものだ」といって、元気なときからはいていないわけですね。その人との関わりでは、もともと自分でやらない人に自分でやらせるのは無理だということを学んだし、この人に自分で靴下をはかせるためには、女房にはかせてもらうことが間違っているというところから始めなきゃいけない。そうすると、その88歳の人に女性観を変える時間が残っているだろうかと思いました。結局そのときは家族もそのまま帰していいと言うし、そのまま帰してしまったんですね。
でもこの話は私には結構衝撃で、母が吉武輝子というフェミニズムの立場でものをずっと書いてきた人でしたし、環境的にはみんな「左バッター」しかいない、左打席しかないようなところに生まれたわけです。わたしはそういう価値観を疑ったことがないんです。だから何で自民党が勝つのかが本当にわからなかった。自分のまわりで自民党に入れてそうな人なんか誰もいないのに、何でだろうと思ったくらいです。そういう意味では偏ったところで育って、それでおもしろおかしくやってきた。それが看護師になってみたら「ザ・男尊女卑」みたいな人と関わって、そこで「あなたが変われ」とはなかなか言えないというところですね。これは本当に衝撃だったんです。
私はそういう母のもとに育って10歳くらいから著述の機会に恵まれました。私が小さいときはいわゆるウィメンズリブが盛んになってくる時期で、ミニコミ誌などがいっぱいあって、そこの本当に小さい欄に「子どもの声を書いて」といわれると書くところから、私の書くことがスタートしました。ですから私は看護師として働きながら、書く仕事もしております。
いま、自分の人生観は看護師であるということから変わったという話をしましたけれども、つぎに母との関わりなども含めたところでまとめてみました。私は生まれること・死ぬことというのは自分の意志ではどうにもならないことだと思っています。母とは楽しい生活をしてきたと思いますが、やっぱり私は生まれることを選んでいないわけですよね。母の娘に生まれたいと思って生まれたわけではない。向こうもそうですね。私が良くて私を選んだわけではなく、たまたまご縁があって親子をやってきた。
だけどその「たまたまのこと」で、人生ってすごく出だしから変わるでしょう。これはたぶん自分のウィークポイントかもしれないけれども、確信が持てないということがあるんですよね。私はたまたま母の家に生まれて、それで今の考え方になった。もし自分が右打席しかないようなところに生まれていたら、結構立派な右翼になっていたのではないかということも自分の中であります。こんなにも母とがっちりと結びついてやってきたということは、もし母親が、例えば稲田朋美みたいな母ちゃんだったら、自分ってやっぱり日本会議なんかに関わっていたかもしれないと思うわけです。そこからやっぱり確信が持てないんですよね。だけど今の自分でやっていこうとは決めています。だからそれはそれで腹はくくっているけれども、でも何かやっぱりたまたまのことで人間が決まってしまうという怖さはいつも感じています。誰かの子どもに生まれるということは本当にすごく大変なことだと思います。
私はたまたま親にならなかった。子どものない人生ですけれども、今自分が誰の親でも、誰の子でもないということはすごく気楽です。母とがっちり頑張ってきた期間というのは楽しかったけれども、非常にお互い大変だったところもある。それはどんなに素晴らしい親でも、やっぱり離れたくなるときは私にもあったんですよね。私と母はいろいろな議論をしてきました。私がよく母にいったのは、親子の葛藤というのは同士的な連帯では乗り越えられないということをいって、最終的に母との距離がいい感じにあったのは、看護師になってからですね。看護師という仕事は母の圏外に出たことだった。それが自分はたぶん親子の関係をいい感じで振り返っていく上でとても力になったんだと思いました。私の母に近いくらいの年齢の方たちでも、子どもが自分と同じような活動をしてくれないとか、考え方が全然違うとか、自分は働く女できたのに専業主婦になってしまったとか、いろいろなことをおっしゃる方がいます。それは親子というのは難しくて、私も母と違う人生をすごく求めたこともあったし、それが最後にどこに着地するかというのも、本当にたまたまの条件で変わると思います。私は親離れを考えたときに、まわりに助産師さんや看護師さんをしている人がいて、こういう仕事だったいいんじゃないかと思ったんですよね。もしそういう人たちが周りにいなかったら、どうなっていたかというのは本当にわかりません。
繰り返しになりますが、本当に「たまたま」でいろいろなことが決まってしまう。誰かの子どもに生まれるということで人生が決まるけれども、大事なことは自分で決められないということがあると私は思います。生きることってすごく不条理で、努力が無効で、偶然で決まる部分もすごくあるのではないかと思いました。看護師になってから、死因は選べないとすごく思ったんですよね。今話をしていてもその人たちの顔が浮かびます。本当に家族のためにずっと頑張ってきた50代初めの男性が肺ガンになってしまって、それも肺自体の症状が最初は全然出なくて腰椎の転移でわかって、いきなり動けなくなってしまうという経過でした。その方は足がいつもしびれていて、足を揉んで欲しいとずっと言い続けて、だんだんいらいらして苦しくなってくると看護師にも当たり散らしました。家族の方たちにもものすごく当たり散らして、最後は誰も来なくなってしまったんですよね。私たちも関わっていて正直ものすごくつらかったですね。
そうかと思うと、こんなことをいうといけないのだけれども、見た目がちゃらんぽらんに生きてきた男の人で、病気になってからもガールフレンドが何人も何人も何人もいて、時間差でやってきてよくかち合わないものだというような男の人がいました。ところがその人って散々奥さんを泣かせたけれども、ころっと亡くなってしまった。白血病でずっと長く療養されていたけれども、どうしても家族旅行をするといってかなり強引に退院してしまった。私などはあれだけ好き勝手にやって、よく最後に家族旅行なんてと思うくらいの感じの人なんですね。ところが旅行から帰った翌々日だったか、突然脳出血で亡くなったんです。そうしたら家族から本当に惜しまれたんですよ。
私は何か不公平だなって思いました。もちろん惜しんでもらうのはすごくいいけれども、何かちょっと魅力的なところもあってその人が亡くなった時って泣けるんですよね。でもやっぱり、どれだけ家族のために自分の人生を我慢してやってきたかといえば、足がしびれてしまった人の方だと思うんですよ。本当に不公平だなって、ちょうど同じような時期にお2人が亡くなったけれども、片やあんなに家族のために頑張ったのに、腰椎に転移してしまったがためにあんな思いをした。本当に不公平だって怒りたいような気持ちがありました。私はこの体験以来、人の死に方から生き方を類推するということは絶対やめようと思いましたね。死に方というのは本当にわからない。どういう死因になるかというのはわかりませんから。
でも、いろいろありました。ホスピスに入ってきた患者さんで、ガンで死ぬことは覚悟なさっていたのですが、心筋梗塞を起こしてしまった。その人は心筋梗塞で死ぬことが嫌だったんですね。そうすると心筋梗塞の治療だけはものすごくしましたが、結局その方は心筋梗塞で亡くなられました。でも、その人はガンで死ぬというイメージで一生懸命準備してきたのに突然心筋梗塞になって、すごく無念な気持ちを出して亡くなった。本当に人生ってわからないものだなと思いました。ですから生きることはは不条理だと、もともと生まれることに関して思っていたのですけれども、亡くなり方についても同様だな思っていました。
生まれることも選べない私が生まれ落ちた世の中というのは、まさにジェンダーギャップ指数114位の今の日本で生きているという、これが今の私の人生なわけです。この表でジェンダーギャップ指数がどんな国がどのくらいの値なのかをみると面白いです。アメリカが結構低く49位。日本はまあ114位、一番下はイエメン。この間に今話題になっているサウジなどがあります。アイスランドの上がフィンランド、ウガンダ、ルワンダ、スウェーデン、ニカラグア、このあたりが上位です。ニュージーランドは女性首相ですね。ヨーロッパが結構高いですね。ジェンダー格差指数というのは、経済活動への参加と機会、政治への参加と権限、教育の到達度、健康と生存率の4分野の14項目で、男女平等の度合いを指数化して順位を決めます。指数が「1」に近づくほど平等で、遠ざかるほど格差が開いていると評価されます。
医療者としての話ですけれども、ジェンダーギャップ指数が114位というのも十分恥ずかしい値だと思いますが、それでもなんとか押し上げているのは、まず健康なんですね。健康と教育が引き上げているのはまあまあいいですよね。とはいっても東京医大から発覚した入試差別はあるわけで、それを乗り越えて教育の指数がすごくいいというのは、日本の女性は相当優秀だということが言えるのではないかと思います。
この健康は、出産後の死亡が少ないとか、そういうことがかなり大きいです。いずれにしてもこのふたつで押し上げて114位というのは、政治と経済の低さが本当にひどい。これがよくわかります。医療、教育だけが遜色ない。でもここもいろいろ問題があるということがわかってきた。こうした世の中で、今更書くのも野暮ですが決して日本は男女平等な社会ではないということが言えます。
最近の事件としては東京医科大学などの入試の性差別の問題。女性受験生の得点を一律減点。理由は子育て負担を追わない男性医師を多く採用したい大学の事情です。これでやっぱりショックだったのは、女性医師などにアンケートを取ると「やむを得ない」という答えが結構返ってくるんですね。これはひどいことで、女性医師というのはもうなっている人たちですよね。医師になっている人が入り口から差別されている人に対して、「しょうがない」ってどういうことだろう。言いたくないけれども、女性の側も自分が子育てとかしたいけれども、自分の替わりにやってくれる使い勝手のいい男にいっぱい入ってくれた方が、自分がやりやすいと考えているのではないかと、本当に腹立たしいというか情けない。この「やむを得ない」は本当にひどいと思ったんですよね。医者になった同士で「やむを得ない」じゃないんだもん。片やもうなっていて、これからなりたくてなれない人が不必要に増えていることに対して、これはないだろうと本当に思いましたね。
その後、あっという間に実質廃刊になりましたけれども、『新潮45』のLGBT性差別の問題もひどかったですよね。杉田水脈、「LGBTは子をつくらないから生産性はない」、小川栄太郎、「LGBTと痴漢を同列に語った」ということがありました。この議論を通じても私が怖さを感じたのは、LGBTは生産性がないという、子をつくらないから生産性がないということがいわれたときに、生産性があることを立証していこうとするひとつの方向性もあるわけです。子をつくらない、子どもというものにかかわらずに生産性ということでいえば、女だって生産性があるんだとか、障がい者だっていろいろな仕事に就けるんだという言い方もあります。それも現実としてあると思うけれども、でも生産性の有無で、生きていい人・悪い人というのが決まっていくような、そういう価値観自体を私たちは問題視していかないといけないと思うんですよね。そうすると、今度は生産性のある人とない人との分断が行われていくということがあります。
政治家の暴言、「子どもを産まない方が幸せじゃないかと勝手なことを考えている人がいる」(二階幹事長)。これに対して好きで産まないではなくて、産めないのに、という反論がかなり出てきます。そうすると産まないと決めて産まないのは、やっぱり勝手なのかということになってくる。こういうのって反論の仕方がなかなか難しいと思うんです。私も子どもはいませんけれど、子どものない夫婦が、できないのかつくらないのか、なんて関係ないと思いますね。そんなのいちいち「うちつくりませんでしたけど」とか、「うちは頑張ったけどできませんでした」「中くらい頑張った」「いっぱい頑張った」とか、そんなことを言わされる世の中っていうのがおかしいと思います。だから、いてもいなくてもいいじゃないかということしか私は言えない。ただ、一番肩身が狭いのが、選んで持たなかった人なのかなという感じもします。うちはいなくていいやと思っていなかったので、選んで子どもを持たなかったけど、とあえていう場合もあります。でもそれをわざわざみんながいわなければならないということでは決してない。#Me Too運動でもいわれていますよね。いわゆるカミングアウトしていくということは、確かに誰かがすることが力になるけれども、みんながしなければいけないことではない、ということです。子どもの有無などについても本当にそうだと思うけれども、こんなことを平気で言えちゃうのは、ひどい世の中になってしまったと思いました。
ベースにあるのは性差別容認社会だということですね。「最近ではさらに」と書きました。どういうことかというと、人間って差別を全部意識の中からなくしていくことって、すごく難しいと思います。でも、差別していい世の中になってしまうと、どんどん言う人が出てくる。一番の理想は、みんなが本当に平等な感覚を身につけることだけれども、そうは言ってもそこまで待っていられないということもあります。ここのバランスが大事で、ある程度、こういうことは言ってはいけないことだという、差別的な発言が許されない社会にしていくことで、意識というのも、ダメだと思えば変わってくるということはあると思います。少なくとも、どんどん言いたい放題に差別的な発言をしてもいいという世の中で、差別をなくしていくというのはすごく難しいと思います。差別に対してすごく寛容になっているということは、難しいことだと思います。現状にすごく問題があっても批判をすることが嫌われて、適応することだけがよしとされていることが現状だと思うんです。
最近ネットの記事でびっくりしたのは、若い人たちに「野党嫌い」という人がいます。野党嫌いの若い人に、何で野党が嫌いなのかと聞いたら、「自民党に反対するからだ」という答えが返ってきたといいます。それは、もちろん同意はできませんけれども、イメージ的にはそういう状況なんだろうなということは理解ができます。とにかく何かに対して反対意見が出て険悪になることを、極端に嫌がる人が多い。「まあまあ」っていったときに、やっぱり強いものが勝つわけです。意見の中味よりも、対立をつくったことを非とされるということが今あると思うんですね。批判することよりも適応することをよしとする世の中。それから「それぞれでいいじゃん」というのは、「多様性の肯定」ではなく「差別してもいいじゃん」という方向に流れ勝ちです。そういうように正当化に使われてしまっている歯がゆさがあります。小川栄太郎も「言論の自由」とかいうんですね。本当にひどいです。でもそういう屁理屈みたいなものが、ひとつの普通の理屈として取り上げられること自体が怖いと思いました。差別に対して寛容になってしまっているというこの世の中が、私は怖くてならないですね。
そういう差別が許されてしまう世の中で、どのようにして人間は差別することに魅入られてしまうのでしょうか。ちょっと嫌な話になりますが、私が精神科でずっと看護師をしてきた、精神科に限らず看護という仕事をしてきて人間のいろいろな裏の部分を見てきた体験から話をしたいと思います。
みなさんは「はすみとしこ」さんを知っていますね。はすみとしこさんは、難民を揶揄したひどい漫画を書いたり、差別的な漫画でネトウヨに好まれる人ですけれども、その彼女が看護師の資格を持っているんですよ。そのことは結構衝撃でした。どうしてかというと、もちろんああいうふうにはならないけれども、わたし自身もちょっと危ない時期もあったなということを振り返って思うところがありました。それは、いわゆる弱者叩きに走りかねないくらい、いろいろなものが見えてしまうという、そういう現場なんですね。それが、真面目な人ほどそうなりやすいところが、私はあると思っています。なぜかというと、弱者を救済する「正しい看護師」であろうと思えば思うほど、「正しい弱者」であって欲しいという相手への要求水準も、わたし自身がすごく高くなっていました。こうなってしまう背景にある看護職のメンタリティというものを考えてみると、看護職って奉仕的、受動的なんです。奉仕的というのは、ある程度採算度外視で人に尽くしていくということは看護教育の中でたたき込まれてきます。
これは介護職でも保育の人もそうだと思うけれども、私たちの価値感ってお金をいっぱい払っている人がうんといい思いをするという、通常のサービス業の価値観とはやっぱり違うんですよね。例えばナースコールがたくさん鳴っていたときに、高い部屋に入っている人から順に受けていこうとはしません。これはホテルだったら当たり前ですよね。高いところに入っている人から呼ばれたときに一番早く行くという、恐らく順番ってそうなっているのではないか。飛行機の優先搭乗でいえば、ハンディキャップのある人から入れるけれども、次には金のある人だという今の優先搭乗の考え方って、世の中で一般的に受け入れられていると思います。
でも看護や保育、介護などについては、それとはちょっと違う価値基準で優先度を決めています。医療などの場合、日本はとてもいいことだと思うけれども皆保険で、お金がなくてもいい医療が受けられる体制になっています。もちろん細かいことをいえば、自費での治療の方がいいというものもあるでしょう。そういう点では確かに完全ではないかもしれないけれども、世界規模でみていけばかなり平等な方だと思います。奉仕というとただ働きみたいなイメージですけれども、いわゆる金ずくじゃない、ボランタリーなところもあるという意味で、奉仕的な姿勢が求められる仕事であるとも思います。
受動的というのは、先ほど実例でお話ししましたが、いくらフェミニストの宮子でも男尊女卑的なお年寄りと関わることもしなければいけない。そのときに、あなたに変われとなかなか言えない関わりの中である程度受け身になってしまうことがあります。そして自責的になりやすいですよね。命をあずかるという部分もあって、それこそ私も何度も何度も今までありましたけれども、自分が最後になにかした人が亡くなるということは何度もあるわけです。それは例えば身体の向きをちょっと変えたとか、痰をとったとか、明らかに自分の手技でなにかあったかな、引き金だったかなということもあれば、たまたまよだれを拭いたら亡くなってしまったとか、そういう細かいことも含めて、何をやっても自分が何かしたあと亡くなられると、すごく責任を感じてしまいますね。
不思議なもので今いったことを同僚が私に話したら、「そんなの誰がやっても同じよ」って言えるんですよ。だけど自分のことになると気にするんですよね。だから看護師が長く働き続けられる職場というのは、仲間内の嘆きを出し合えるる職場なんですね。みんなが互いに人のことだと慰められる。自分のことだと重く受け取ってしまうけれども、そういう相互カウンセリングみたいなものができることがすごく大事なことなんです。でも、あまり無責任じゃ困る仕事ですからついつい引き受け過ぎちゃうという人間が、だんだんこの仕事ってできあがっていってしまいます。教師とか介護、保育の人もそうだと思います。ところが自責的というのは怖いところもあって、全部自分のせいだと思っているとだんだんつらくなってきて、お気楽そうな人を見ると「お前のせいだ」っていいたくなったりする。これが怖いところで、やっぱり一番健全なのは、誰が悪くなくてもしんどいことは起こるのだということをちゃんとわかっておくことだと思います、骨身に染みて。
誰が悪いというのは、私が悪いかお前が悪いかみたいなピンポンにしてしまうという意味で、自分を責めるということは他人を責めるということと穴ひとつみたいなところがあって、これはとても怖い。私も管理職をやっていたときに、いつも自分が悪いって責めている真面目な人が、「そんなに自分のことを責めなくていいわよ」と言っていると、いきなり「婦長が全部悪い」とか言ってくるんですね。やっぱり来たなと思って、でも自分もやってきたことだからそれは受け入れますが、そうやって自分を責める人というのはものすごく他の人を責める、そうせずにはいられないんですよね。どんどん悪い情報をとっていく。あらを探してそのせいにできることを探してしまうということがあります。こういう人たちはだいたい自己評価が低くて、今の自分でOKとなかなか思えない。もっと頑張らねば、と思ってしまう。看護職の場合は集団を挙げてこういうところがあって、私もこういうところに立てば、「まったく困ったものですよね」というスタンスで話せますが、いざ職場に行って1ナースになるとこうなってしまう。お互いにあまり引き受けすぎをやめようよということを言い合っていかないと大変なことになってしまいますよね。
看護職のメンタリティがどうしてこうなってしまうかというと、もともとこの仕事を選ぶ人の性格特性は確かにあると思います、多少は。ところがそれを強化する何かがある。これは「看護につきもののつらさ」というものじゃないかと思います。先ほども患者さんに変わってくれとはなかなか言えないことを話しました。実際不寛容で、弱者である患者さんに譲歩して、常に受け身でなければならないということがあります。それから「日常生活援助の際限なさ」で、これは人間って甲斐のない仕事ってしんどいですよね。おむつを替えても替えてもまた汚れる、替えているそばからまた汚れるとか、そういうのって何度も経験があります。夜に一人でおむつを黙々と替えていて横向けた瞬間にまたそこでおしっこされたりすると本当に、なんて言うか、叫びたくなるような、死ぬまで終わらないような気持ちになるんですよ。切りがないという気持ちですね。
排泄ってつきものだから、排泄に関する終わらなさって本当にしんどいですよね。よく排泄物を触る、弄便といいます。そういう患者さんに対してケアをする人間が怒ってしまうのは、汚いからというよりは、本当に終わらなそうな感じ、どんどんあちこちにまたついて、替えても替えてもまた出てついて、というその際限のなさがたまらない気持ちになっていくんですね。こういう際限のない感じ、切りのない感じ、これにも耐えていかなければいけない。そして状況が変わらない無力感、どんなに努力をして頑張っても患者さんの具合悪さがどうにもならないことっていっぱいあるわけです。そういうときにすごく無力感を感じる。一生懸命お世話をしても患者さんが死んでしまうということが何度も何度も繰り返されると、病気の経過で私が悪いことをしているのではないけれども、本当に何も自分はできないなという気持ちになってしまいました。
私は26歳で高校の同級と結婚しました。看護師になった私がそんなふうにいつも自分を責めていたり、患者さんのためにとかっていって頭を抱えている姿は、高校時代の私を知る夫からすると驚愕だったみたいです。あるとき私がめそめそ、患者さんを楽にさせてあげたいのに全然楽にならないとか、採血を3回射したから残り少ない人生なのに何で3回も射したんだろうとかいって、来る日も来る日も泣いていたら、彼に「あなたの話を聞いていると本当に郵便ポストが赤いのも自分のせいって思うんですね」って言われて、外からいわれて私もはっとしたんですけれども、そうなってしまう。吉武輝子の娘でさえこうなるんだという世界なんですね。看護師の仕事を一生懸命やっているとこうなっていくんです。患者さんのために耐える、これはどうしても本当にしんどいってお釣りが出てきちゃうんです。患者さんにものすごく当たり散らされたり、患者さんからセクハラを受けるということも昔からありました。自分は患者さんのためって頑張っているのにそれを裏切られるような気持ちになると、本当に「正しい弱者を求める」自分の気持ちに収まりがつかなくなっていくということがありました。
別の要素として患者さんのために耐えるということが、知らず知らずのうちにきつい労働環境に耐えていくことにもつながります。前の職場で、今は母体も変わって労働条件は良くなりましやが、私が働いていた頃は有休休暇がまったく取れないし、いわゆるサービス残業もすごく多くて、一時期かなり悲惨な状況がありました。そういうときに有休をあげない理由として、患者さんのためでしょということが平気でまかり通ってしまう。残業も患者さんのためにするのは当然で、時間内に終わらないのは自分の効率悪いからとか、そういうことがまかり通ってしまう世界でした。普通に考えればそんなことはおかしいのに、歯車の中でぐるぐるまわっていく、看護師のメンタリティがつらさによって強化され、きつい労働環境にも慣れて、とぐるぐる回るうちに全てがきつくなっていく状況がありましたね。この限界を超えると弱者叩きに加担する心の闇というものが、少しずつ湧いてくることがあると思います。
私自身の心の闇の育ちはじめの話はここからです。看護師生活の30年の「つらさの変遷」が3段階ありました。まず3年間の看護基礎教育によって、弱者のために力を尽くすと素朴に思えた新人時代、このときはそんなに深い悩みもないんですよ。自分の力不足ということだけが感じられて、自分さえできるようになれば何でもできるようになると思っていました。例えばいろいろな人のケアに追われて苦痛のある患者さんを待たせてしまうと、それは自分ができないせいだ、ということがこのときの判断です。だから氷枕をつくるのが遅いと思ったら何個も氷枕をつくる練習をしたり、点滴の準備が遅いというとどんどん点滴をつくる準備をしたり、こんなに真面目だったかしらと思うくらい相当真面目に頑張った。本当に不器用だったので、人が1年でできるようなことをなんとか3年くらいかけて、この段階はクリアしていきました。最初の3年間は自分の未熟さしか見えなかったんですね。
それがある程度できるようになると、2番目として今度は患者さんとの関わりに目がいくようになります。そこで見えてきた患者さんは結構ひどかったんです。ちょうどバブル時代の1990年頃の飯田橋周辺の話なので、お金を巡る争いが本当にすごかった。例えば神楽坂あたりに土地を持っている人で、本当に小さい土地に億の値段がついてしまうものですから、普通のおじさん、おばさんがおかしくなっていったことが目の前でわかりましたね。まだ患者さんがご存命なのに家族、親族が来てはひそひそお金の話ばかりしていて、「見舞いの証明書を出せ」といわれたときはびっくりしました。
全裸で入浴介助を待っていた特別室の患者さんにもあいました。この人は糖尿病で40代の男性で、糖尿病で入ってきて食事も絶食でした。そうしたら個室なのに何で食事を出さないのか、という了見で、とにかくお金があるのにこんな思いをするのはなぜなのかということが彼の基本的な怒りでした。治療も、糖尿病をコントロールしていく指導をすると怒ってしまって、「お前がへぼだから治せない」とか、そういう感じです。申し訳ないけれどもこの患者さんの顔がホリエモンにそっくりでしたね。似ているのはたまたまですけれども、彼の顔を見ると思い出してしまってすごく嫌な気持ちになってしまいました。その人があるときナースコールがあっていってみたら、特別室の真ん中で素っ裸になっていて入浴介助をしろといってわめいていた。自分で入れるんですよ。「金を出しているんだから」という調子で本当に腹が立ちますよね。本当に嫌だったですね。
言い出すと止まらないんですけれども、遺産争いは本当にすごくて、患者さんを盗まれたこともありました。80代の女性で乳ガンが全身転移の人で、すごく大きい太った人でした。とにかく今まで見た女性の中でも相当大きい方かな。ガンで亡くなる寸前という状態でもすごく太っていらした。この太っていたことも伏線で、50代の息子さんが2人いました。財産を巡って争っていて、その女の人はいわゆる資産家で、池袋周辺で土地をたくさん持っていました。不動産屋さんとお医者さんの2人の息子が争っていて、いつ亡くなるかわからない状態になっているのに顔を合わせたくないから誰も居着いてくれないんですよ。携帯電話のない時代で、亡くなるときに一緒にいてもらいたいという気持ちもあったし、家族もいるのにかわいそうだし、私たちもいつ呼ぶかということですごく気を遣っていました。
夜勤のときにどんどん患者さんが悪くなって、すごく悪いから来て下さいという連絡をして、2人とも連絡はついていました。いよいよ心電図のモニターが鳴ったので、あっと思って部屋に行ったら患者さんがいなかったんです。主任さんと私とその場にいて、ありえないのにベッドの下を見たり、主任さんはゴミ箱の中まで見て、そんなところにはいませんよとか、笑い事じゃないけれども本当におかしかった。そのあと1階の警務さんから病棟に電話があって、その電話もすごくおかしかったんですけれども、「ご遺体が正面玄関から出るけれどもいいですか」というおたずねの電話でした。そのときに「ああっ」って思って2人で下に行ったら、お医者さんの方の弟さんがストレッチャーで連れ出そうとしていたんですよ。お知り合いの人を連れてきて。結局、絶対に出ていくということで、自己退院のかたちになってしまいました。そのあとすぐに、お知り合いの病院に連れて行ってすぐに亡くなってしまった。そこから息子2人で、やれ早めたとか、早めていないとかで裁判になってしまいましたね。
今だとおもしろおかしくついしゃべってしまいますけれども、これは結構衝撃でした。そのときの私の気持ちでいうと、やっと患者さんのために少し力になれる技術や知識をつけて、さあこれからと思っていたわけです。ところが私が一生懸命尽くそうと思っていた患者さんや、一緒に手を携えていいケアをしようと思っていた家族は「これか」という感じがありました。一時期は患者さんも嫌だし、家族も嫌だという気持ちになりました。患者さんが嫌というのは深刻で、何人も何人もそういう強い思いを抱かされた患者さんはいました。そのしんどさをこの時期感じた別の一人は白血病の男性でした。50代前半でエリートコースをずっと歩んでいた方が長く病気になって、非常に難しい状況になった中で、ナースへの八つ当たりがすごかったんですね。常に不機嫌で「おはようございます、お加減いかがですか」と聞いただけで、「お加減とはどういうことだ」とか言って30分缶詰になったり、採血を6時にうかがいますといって6時1分にいったら、1時間監禁されてしまったり。そういうことがあって、患者さんが嫌になってしまいやめた仲間も何人もいました。みんな病院が疲れるとか、休めないとか、いろいろな理由をつけてやめるけれども、本当は患者さんが嫌になってやめているという人は何人もいました。
確かに労働条件がもう少し良ければ、それこそ5時に上がればリフレッシュする時間も長いし、患者さんとのつきあいも短いので、もう少し何とかなったとは思います。きつい労働環境が患者さんへの悪感情が修正できなくなる一因としてあると思います。けれども嫌になるということ自体は本当に否定できないし、そこからどうやって自分が巻き返していけるのかというところがすごく大事なことなのかなと思いましたね。
3番目になると、頑張っても結果が出ない不条理、不寛容な患者と関わるつらさを知るという、世情や労働環境改善では解決しな問題がありました。今お話しした部分ですね。2と3の何が違うかというと、2のときはまだバブルの時代というおかしさがあったし労働環境も相当ひどかった。でも3の時期になると、バブルも超えて人のあり方とが、あの頃に比べればまともになりました。看護の日の制定とか人材確保法などができて給料もだいぶ上がったし、労働環境に関してはかなり良くなったという実感がありました。にもかかわらず解決不能な問題があったことが、しんどかったんですね。先ほど、脳出血であっけなく亡くなった人との対比で出しましたけれども、腰椎に転移した肺がんの人で、常に足を揉んでくれといっていた人は常に常に当たり散らしていました。家族のために尽くした優しい男性の人間性が病気で変わる。これは肺がんの人もそうでしたけれども、ほかにもそういった人がいました。
それから特定の看護師をいじめ抜いた「筋萎縮性側索硬化症」の女性というのは強烈な人で、50代でしたが、筋萎縮症側索硬化症はALS、運動神経が侵されて最後は呼吸筋が動かなくなって亡くなる病気です。最近ですと呼吸筋が動かなくなったことには人工呼吸器をつけるので、最後の寿命を決めるのは消化管だといわれています。人間は呼吸をずっとさせておくと生きているかというとそれは永遠ではなく、最後は消化管が吸収しなくなります。私の患者さんで、ALSではなかったけれども最後は吸収しなくなって、何を入れてもそのまま出てしまう状態になった人がいて、こうやって人間というのは終わっていくんだなということを考えさせられたことがありました。
「筋萎縮症側索硬化症」とカギカッコをつけたのは、この病名でうちの内科で受けて私が3年目の終わりくらいに関わった人です。この女性は私の同期のあるナースのことが大嫌いで、彼女に対する嫌がらせが壮絶でした。私の同僚が勤務の時に、必ずベッドから転げ落ちるんです。それも手足があまり動かなくなって体幹が動くような状態で、身体を身じろぎしてベッド柵に這い上がってきて、背面跳びをするみたいに頭から墜ちるんですよ。本当に人間って怖いと思ったけれど、背筋で廊下を這いずってナースステーションまで来て、私の同期に向かって「あんた、あたし転んだわよ、始末書書きなさい」って言うんですよ。もう怖くて怖くて、背筋で這ってくる姿というのは、なんというか、人間ってここまでなってしまうのか、憎悪とか恨みというのはこんなふうになってしまうのか。私の同僚は別にたいしたことをする人ではないんです。おっとりしていて、決して彼女に意地悪なんかしていないはずですけれども、そのおっとりした感じが嫌われてしまって、弱い抵抗しない人にやるんですよね。さらにどんどんエスカレートしていって、私の同僚がその患者さんを車椅子に移すために抱きかかえると、背中にゲロを吐くまでになった。そのゲロを吐くのも百発百中で、すごいと思いました。「くっくっく」って、えもいわれぬ動きをして吐くんですね。
そういう患者さんを見ていて、正直言って私はちょっと憎しみが湧きました。ただその患者さんが、それでも同僚にそこまでの意地悪をしなくなったのは、そのときの上司がはっきり守ったんですね。婦長さんが、その患者さんのお世話を1日まるまるしたんです。ナースコールも私たちに拾わせずに。そうしたらそのあとから、嫌みはありましたけれども、ゲロを吐いたり転んだりはしなくなりましたね。それで私はふたつ仮説があって、ひとつはマンツーマンでがっちり関わってもらったという時間がすごくよかったのではないかということです。もうひとつは、上司が身体を張って部下を守ったというところで、下手なことはできないと彼女が思ってくれたのではないかということです。両方当たっているのかなって今でも思いますが、暴力に対して管理者がきちんと身体を張って守っていくというのはすごく大事だろうということは今でも思っています。
ですから「弱者である患者さんがすごく牙をむく」ということですね。ちなみにこの「筋萎縮症側索硬化症」の女性は、ALSではなく結局ヒステリーでした。なぜわかったかというと、最初にいた病院に一回戻したんですね。もともとが故郷の病院への転院待ちだったので、半年以上は置けないということでもとの病院に戻したら、もとでも合わないナースが彼女にはいて、戻ってすぐに大げんかになったようです。そうしたら歩いた。つまり乖離、すごいストレスにさらされてそれに対して対応できないときに、身体が反応してしまうことがあります。それはいろいろな反応の仕方がありますが、その彼女の場合は、本当に身体が動かなくなるという症状だった。決して仮病じゃないんです。本当に動かないのですよね。結局彼女は精神科の病院に転院したと聞きましたけれども、その後回復したかどうかはわかりません。回復はすごく難しかったと思います。私が内科で働いていた頃、彼女はALSではなくて歩けるといわれたら、クララが歩くように歩くのではないかって想像していました。その後、自分が精神科でいろいろな強い葛藤が病状を巻き起こしていくことを見る中で、彼女の回復はそんなに簡単にいかなかったのではないかと思うようになりました。なにぶん30年近く前の話で、今ご存命かどうかもわかりませんけれども、彼女が乖離だとわかってからどのように回復できたのか、できないのか、それは考えさせられることでした。
このような人間の心の闇というようなものが見えてしまうんですね。こういうことを自分はどうやって折り合ってきたかということをまとめてみました。
ひとつは理不尽を感じながらも、それでも病気は大変だと思うことにしました。これは思うことにしました。人間として受け入れ入れがたい患者さんでも、病気になったというのは絶対気の毒なわけです。ここが肝で、病気のつらさが人格を変えるという事実も、私はやっぱりあると思います。つらいと嫌な人間、嫌な部分を出してしまうということですね。そういうことはどうしてもある。だから、あっけなく、苦しくなく逝ったからすごくいい人のままで終わることもあれば、いろいろなものをさらけ出して終わっていく人もいます。でもやっぱりその死に方でもって、亡くなるときの人格でもって、あまり本当に良い人だったとか悪い人だったとかと言うことはいいたくないなと。病気のつらさが人格を変えるということもあるんですね。
あとは、仲間とぼやく時間を持つ。大事なのは相手で、差別意識の強い人にはあまりぼやいちゃいけないな、ということはすごく思いました。今のSNSとかだとこういうものが、ちょっとぼやくと「そうだろう、ナマポはひどい」とか、そういう嫌な言葉で返ってくることがあり得ますね。だからぼやき方が大事で、ぼやくことのできる質のいい、差別心を煽らないような仲間を持っていくことは、すごく大事なことだろうと思いました。
片山さつきなんかを見ていると、女の政治家が増えてもどうなんだと思ったりするわけです。だけど、だけど、それでも増えた方がいいだろうと思うことにしました。上昇志向を持った女性が上昇するのが、男よりも大変だったら、ますますいやらしい人、より男的な人になるだろうと思いますよね。男も女も性別で天井が一緒だったら、少なくとも偉くなった女の方が男より感じ悪いということは少し良くなるんじゃないか。どっちも感じ悪いでしょうけれども女の方が、いやったらしいということは少し良くなる、そこも期待して、そして幻想を持たないことも大事ですよね。
女が政治の場に増えたらいっぺんでリベラルになるかといったら、絶対そうはならないわけです。だとしても女を増やしていくと腹をくくった方がいいのかなと思って、私は腹をくくることにしました。それこそ大臣の半分が片山さつきみたいな奴で占められても、それはすごく嫌だけれども、片山さつきでもいいから半分占めてくれと思うことにしました。女だからよりいい人を選んでくれといっていたら増えないので、質はあとから良くしていく、人が増えていけばもう少し選びようがあるだろうと思うようにしています。今みたいな話はみなさんとの間ではできるけれども、性差別意識の強い人に「女が増えても良くならないよね」ということはなかなかいわないですよね。そうしたら「そうだ、そうだ」って言われちゃうし、ぼやき方って難しいころですね。
2番目に、いわゆる弱者の多様性を認め、患者さんにもいろいろな人がいると思うことにしました。「前向きで素直」とか「みんなリベラル」というイメージを押しつけるというのは健常者のエゴだと思います。邪悪な患者さんも、いてもいいんじゃないかと思うことにしました。今、訪問看護で精神障がいを持つ人のところに行っていますが、安倍さんの支持率は高いんですよ。安倍さんはわかりやすいところがあるみたいで、生活保護の利用者さんが多い職場ですけれども、生活保護で生活できるのは安倍さんのおかげだといって、信じて疑わない。安倍さんへの感謝として国会中継を見続けているという患者さんがいて、1人や2人じゃないんですよね。わかりやすさというか、強く見えるとか、頑張っているという評価の人って意外にいます。もちろん批判的な人もいますよ。でもみんなが安倍政権に反対しているかというと、決してそうじゃないということがあります。
私の夫の弟はダウン症です。夫の母はいろいろなダウン症の親の会などをやっていて、いろいろな人たちと関わっています。すごくリベラルな立場でいろいろな意見を言っている男性のお子さんがダウン症ですが、そのお子さんは安倍さんが大好きで、お父さんはそのことが恥ずかしくて仕方がないっていっているという話もありました。でも投票の自由もあるし、親子でも思想を押しつけてはいけないという気持ちがあるから、安倍が好きでもしょうがないって納得している。そんな人もいるって聞きました。私たちは、弱者だからリベラルな考えを持つということも幻想なんだと思いますし、安倍さんが大好きな障がい者とか、安倍さんが大好きな患者さんも、残念ながらたくさんいるということだと思います。前向きで素直という人たちばかりではもちろんありません。
私たちにセクハラする患者さんとかいろいろな人がいる。だからそういうことを私たちが知ったときに、それはそういうものだという受け止め方がいいと思うんですね。ことさらに「障がいを持ったからこそ」みたいなことで多くを望むのはすごく大変ではないのか。私は30年間看護師をしていて、患者さんに対しては患者さんであること以上のことを求めないって決めました。必要以上に立派であって欲しいとか、いろいろなことを語って欲しいとは思わない。もちろんたまたまそういう方と出会えればすごくうれしいけれども、病気である人に病気であること以上を、健常である私たちから求めることは私たちのエゴなんじゃないかなと思います。
このように考えるようになるまでにはいろいろな経験があり、いろいろ考えてきた経過がありました。ひとつ実感するのは「思索は悪意を軽減する」ということですね。一生懸命考えていくことで、人への悪意というものは相当マイルドになる。誰のせいだというような犯人探しのような気持ちもだいぶ落ち着いてくる。それは一言でいうと物事の複雑さを理解していくということだと思います。私は思考することなしに、このような考えには行き着けませんでした。仲間のナースを見ていると、こんなに苦労しないで人を許せる人っているんですよ。それは先天的に堪忍袋のサイズが違うのかなって感じです。私は本当にバーチャルメモリを使うように、頭の中をいっぱい使って堪忍袋の足りないところを補っていきます。考えて考えて人を許すという作業が入るんですよ。でも中には本当に優しい人っているんですね。だからそこも人それぞれで、そういう人は私がここまで葛藤することは、たぶん理解できないと思うんです。でもそれは人さまざまな折り合い方がある。このように、もともと寛容さというものには差があると思うけれども、看護は続けることで寛容な大人になれる仕事じゃないかなと思いますね。この仕事を長く続けてこそわかることがたくさんあるということに、私はすごく感謝しています。
私が最近感じたことを今の流れでお話しすると、先ほどSNSでぼやきを発信すると危険だという話をしました。私もSNSを見るようになると、ものすごいヘイトデマを送り出したり、人に対して嫌なことをいうことが生き甲斐みたいになっている人をときどき見かけます。ヘイトデマを、ツイッターを流し続けて名誉毀損で多くの訴訟を抱えて、裁判で負けてもやめられないという人が出てきている。こういう人に対してはみなさんも被害を受けることがないとも限らないです。この間のコラムに書いた内容ですが、依存症に近いような、激しい言葉を書いて賞賛を受けたりすることが中毒のようになってやめられないという人が出てきているのではないか。本当は強制的に依存しているものから離す時期が必要ですが、これはなかなか今のところできていなません。
差別という視点から、最後にこういう世の中に対してどうしていけばいいのか考えてみます。ふたつ挙げたいことがあります。差別は人間のもともとの弱さと関連が深いですよね。だからこそ工夫しなければいけない。ひとつは、差別をしてはいけないとする明確な枠が必要ということです。私たちが目指すのは本音を何とかすることじゃなくて、建て前を再建していくことが大事だと思います。上野千鶴子さんが「社会変革は本音ではなく建て前を変えることだ」 と言っていて、私はこれは支持します。人間の性根を変えていくことはすごく難しい。だからもう一回、ポリティカル・コレクトネスとか言われても、それは大事なことで、世の中そこまでは言ってはいけないということをもう一回取り返していかないと、どんどんおかしな人が増えていくんじゃないかと思いますね。ヘイト依存症のことを書いたのは、差別というのも可能性として依存症の対象になります。
例えばヘイトデマを流し続けるような人とか、差別的な言動をして人を傷つける、激しい言葉を発するとがやめられなくなってしまう人もいる。こういう人に対しては単なる枠だけでは足りなくて、もう一歩依存症の枠も必要になってくるのではないか。ここの間はちょっと違いがあると思いますが、こういう人の存在も影では大きいのではないかと思って強調したいところです。
差別を巡るたたかいというのは先が長いですね。そこは覚悟をして、あの手この手と知恵を持ち寄ってたたかっていくことが必要です。私はサルトルという哲学者が好きですが、「理解することは変わることであり、自己の彼方へ行くことである」という言葉があります。本音はなかなか変わらないといいましたけれども、自分個人としてはいろいろなことを理解してそれによって自分が変わっていくということを繰り返していきたいなと思っています。
市民連合/総がかり行動 編
A5版:70頁 定価900円+税
本書は、今年4月20日に東京の北とぴあホールで行われた同名のシンポジウムの要約を収録している。シンポジウムの趣旨は、司会の諏訪原健さん(市民連合呼びかけ人)が話している。すなわち、急速なクローバル化のなかで非正規労働者の拡大により賃金格差が大きくなり、男女間の格差も大きいままである。子どもの貧困率も高く、大学を卒業してもそう簡単には明るい人生の展望が望めない。そうした中でこれからの社会、何が問題で、何を変えていけばいいのかを探ろうというシンポジウムだ。
東京大学教授の本田由紀さんがコーディネーターを勤め、シンポジストは前川喜平さん(元文部科学省事務次官)、赤石千衣子さん(しんぐるまざーず・ふぉーらむ理事長)、雨宮処凛さん(活動家・作家)、山崎一洋さん(下野新聞真岡総局長)の4人。それぞれの範囲からまさに現場をふまえて発言しているが、とくに雨宮処凛さんが、――ロス・ジェネと言われ出した2007年当時に25歳から35歳くらいの年令が、11年たって今は35歳から46歳になった。「若者の問題」が中年化して政策の順位がガクッと」下がったのを身をもって感じた――という指摘している。今とこれからの日本社会をみていく上で背筋が寒くなる思いがする。
グローバル化と貧困・格差にどのように民衆が対抗するのかは世界的な課題となっているし、さまざまな形での行動も行われている。狡猾で、ウソで固めながら、我が国を新自由主義が謳歌する社会に変えている安倍政権。これに対抗して、来年の参議院選挙と統一地方選挙に、市民連合がどのような政策を打ち出せるのか。このシンポを企画した問題意識が生かされるよう、ともに努力したいものだ。(事務局 土井とみえ)