新崎盛暉(沖縄大学教授)
私は朝鮮・韓国問題の専門家ではないので、ここで日朝問題それ自体を論じるというよりは、日本人、「企業ジャーナリスト」、「良識ある知識人」の歴史認識や人権感覚、そして自由と民主主義を標榜する社会における排外主義的好戦的世論形成のメカニズムといったものについて考えてみる必要があると思っている。それは有事法制や憲法改悪を受け入れる社会的雰囲気の形成について考えることになると思う。あるいはアメリカにおける湾岸戦争やアフガン戦争、あるいはイラク攻撃を容認する世論形成について考えることにもなるのではないかと思う。
私は小泉訪朝の発表には意表を衝かれた思いがした。靖国参拝や対米追従的な小泉首相の政治的な姿勢、そして何よりもそれまでの朝鮮への態度などからして首相の訪朝などは予測し得なかったからだ。そして北朝鮮が拉致を認め、謝罪した9月17日の首脳会談、ほとんど日本側の主張にそった平壌宣言の内容にもおどろかされた。しかし、ある意味では小泉訪朝に納得がいった。水面下である程度北朝鮮の出方がわかっていたとすれば、八方ふさがりの小泉政権の支持率浮揚策として格好のパフォーマンスたりえたからだ。それは日朝国交正常化を実現しようとする熱意とは別のところにあった。そのとおり支持率はあがった。日朝首脳会談はアメリカの軍事的威嚇と経済の困窮から抜け出そうとする金正日政権とその場しのぎの小泉政権の思惑の一致から生まれたといえるだろう。しかし、そうではあっても日朝平壌宣言はアジアにおける平和創造の重要なきっかけとなりうるし、そうしなければならないと思う。
私は先ごろ、『琉球新報』に一文を書いたが、その筋はこういうものだ。
この平壌宣言、日朝会談は植民地支配から拉致問題にいたる日朝間の不幸な過去を清算する第一歩として、一昨年6月の南北首脳会談にも匹敵する歴史的な意味を持つと思う。またそうしなければならないと思った。会談の前から日朝交渉の中心には拉致問題が置かれていた。いうまでもないことだが、いわれもなく国際的な犯罪に巻き込まれた当事者たちの怒りや悲しみは言語に絶するものがあるだろうし、いまなおすべてがあきらかになったとは言えないということについても同感だ。しかし私はいち早く強調しておかなくてはならないと思ったのは、たとえば従軍慰安婦、強制連行のような国家的犯罪の犠牲者にも思いを馳せなくてはならない。これは拉致の問題の残酷さを思えば思うほど反射的にそうならなければならないと考えた。そしてこうした犯罪を生んだ国家間の異常な敵対関係を克服し、不幸な過去を清算しなければならないと思った。
かつて直接戦火をまじえ、日朝双方とは比較にならない傷をおっている南北双方は、確実に和解と平和的統一に向けて歩みだしている。こうした動きと歩調を合わせることは私たちの利益であると同時に義務であると思う。
10数年前、RBC(琉球放送)が「遅すぎた聖断」というすぐれたドキュメンタリー番組を制作したことがある。1945年2月の段階で天皇が側近の進言を受け入れて戦争終結を決断していれば、あの悲惨な沖縄戦はなかったという。これは近衛上奏文として知られている。たしかにそうすれば沖縄戦もなかったし、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下もなかった。そしてもうひとつ朝鮮側から見たときに言えることは38度線による朝鮮半島の南北分断もなかった。そのことこそが日本人として忘れてならないことだ。つづいて1965年に成立した日韓条約だ。日本と韓国の間に早く和解を成立させるというのはアメリカの政策だったから、1951年にはアメリカの後押しで日韓予備交渉が始まっていた。以来、15年、国交正常化はならなかった。互いに親米国家でありながら、だ。その理由は過去の植民地支配の不当性を明らかにし、その賠償を求める韓国と、それをあいまいにし、経済協力で問題を解決しようとする日本の主張が真っ向から衝突したからだ。しかし、その後、軍事クーデターが起こり、パク・チョンヒが権力を握るという段階で、当時は経済発展で北に差をつけられ、アメリカの援助が削減されつつあるという中、パク政権は屈辱的条約反対を叫ぶ民衆運動を大弾圧して、無償3億ドル、有償2億ドルの資金を経済協力の名で獲得する。それがいまでは「ハンガンの奇跡」と言われる韓国経済の奇跡を呼び起こすことになったといわれるが、韓国の民衆の間にしこりを残すことになったことは指摘するまでもない。だからこそ北朝鮮と対立しているように見えつつも、とくに2000年以降、日朝交渉が始まると、韓国の幅広い民衆は北の原則的立場、植民地支配の不当性と賠償保障要求を支持するわけだ。小泉訪朝当日の韓国の新聞の社説にさえ「北側は賠償要求を貫徹すべきだ」というのが載ったという。しかし、平壌宣言は韓国の先例にならう経済協力方式を明記している。これはふたたび相手の弱みに付け込んだやり方だと思う。
今回の北朝鮮の態度の変化の背景はアメリカの軍事的威嚇と経済的窮乏だという解説はおおよそまちがっていないだろう。この同じ時期にイラクは国連査察の受け入れを表明した。しかしアメリカはカサにかかって、さらに要求をカサ上げしようとしている。
いま世界は超大国アメリカの傲慢な力の政策によって地獄への道連れにされかねない危険性と、かすかに見えはじめた平和的共存のはざまにあると思う。この日朝平壌宣言は双方の政治的思惑から生まれたにせよ、平和的共生の可能性を示すものだと思う。宣言は弱みにつけ込む非常に不十分なものだ。これには日朝間の民衆の将来に日韓条約と同様の課題を残しているとはいえ、北朝鮮と戦争状態を継続しているアメリカの同盟国である日本が国交正常化の道に踏みだしたことは韓国の民衆に歓迎されるに違いない。
北が要求を貫けなかったことについてがっかりすると同時に、しかし、韓国の多くの民衆はこれを評価するに違いないとも思った。その後、耳に入ってくるのはそういうものだ。韓国の世論が南北の偶発的軍事衝突よりも米軍戦車による少女れき殺事件を重視していることからも明らかだ。
W杯のさなかにふたつの大きな事件が起こった。ひとつは西海岸の国境地帯における軍事衝突だった。日本の新聞も大きくこれを取り上げた。しかし、米軍車両による二人の少女轢殺事件については日本の新聞はベタ記事程度にも載せなかったのではないか。わずかに『琉球新報』は大きくのせた。現在はわれわれには姿は見えていないが、やがては具体的な姿を表すであろう北朝鮮の民衆とともに東アジアの平和創造に主体的に取り組んでいくこと、これが問題なのだ。北がなんだ、かんだという問題ではなくて、この機会をわれわれがどうできるのか。
日本と朝鮮南北の和解へ向けての共同の道に踏みだすことができたら、やや飛躍的に言えば「東アジア共同体」の展望を持ち得るのではないか。日朝共同宣言はそういうものとしてわれわれが主体的にとらえ返さなくてはならないのではないか。
そのためには私たちの沖縄における基地反対運動が朝鮮半島にどういう好ましい影響を与えるかをとらえ返さなくてはならないのだと思った。
しかしこのような主張は拉致報道の洪水の前に埋もれてしまった。
10月30日の朝日の「論壇時評」で、東大の藤原帰一さんは「平壌宣言は日本外交の勝利である」という評価があるとことも紹介している。つまりひとつは「ほとんど日本の言いなりになったのだから、めずらしくも日本の大勝利である」という評価がある。藤原さんはしかし、問題はその先にあるといって「国際政治の専門家の判断が国内世論に共有化されていないのがいまの日本の現実だ」と指摘する。拉致を公式に認めたことで北朝鮮政府への不信がこれまで以上に国内に高まった、世論の支持がなければ外交も成り立たない。日朝交渉をめぐる議論の中には民主主義のもとでの外交の難しさがのぞいている、と結んでいる。たしかに、国際政治学者をなげかせざるをえないような、日朝会談が歴史的に重要な意味があるというような評価を押し流してしまうような拉致報道の洪水がある。
拉致報道の洪水がなぜ起こったのか。たとえば朝日新聞の新聞論調や会談直後の世論調査はどちらかといえばある意味では冷静に問題をとらえていた。しかし、日がたつにつれて、拉致被害者への同情を政治的に利用しつつ、「反北朝鮮」というのがあおられていく。それは従来から反北朝鮮と言ってきた人たちだけがかなきり声をあげているだけではなく、「良識的な知識人」などの中から出てきている。
朝日新聞には「紙面審議会」というのをもっていて、有識者の意見を紙面づくりに反映させる試みがある。10月7日付けの新聞である委員は「他紙の中にはたいへん厳しい社説もあったが、朝日の22日社説は大局を見失うまいと題して、(1)日本の植民地支配の清算、(2)北朝鮮の核ミサイル開発の歯止め、(3)北朝鮮による日本人拉致問題、(4)大きな変化にかける北朝鮮の意志と4点にわけてよく整理されている。海外の反応もおおむね一定の成果を見ているところをみると、「朝日の社説は割合バランスがとれている」と評価する。
これに反論がでてくる。他紙と比べて拉致は過去のことのような姿勢が見られるというもの。またある審議員は「9月18日一面の政治部長の署名記事には、いかなる意味でも拉致は正当化できないが、そもそも日朝の不正常な関係は北朝鮮ができる前、戦前・戦中の35年間にわたる日本の植民地支配に始まるとある、「かし歴史的問題と平時にもかかわらず現在進行中のテロを並列させるのは見当違いだ」と批判する。「全被害者の生死が確認され、生存者の現状が回復されるまでテロはつづいている。首相訪朝をひかえた9月15日の社説も同じだ」。そしてさらにつづける。「北朝鮮は朝日新聞の論調を気にしている。朝日が北にたいして宥和的にかくと先方はそれを日本の世論の輪の弱い部分とみて突破口に使う傾向がある。70年代から80年代、金正日が拉致を指揮、実行していたと言われる時期、朝日の報道は北に対して過度に好意的であった。その歴史をこそ自己検証してもらいたい」、こういう具合にたたみかけていくわけだ。
われわれがこの家族たちの思いや当事者の思いを考えれば考えるほど、普通の人の常識であれば、あるいは多少、日本の近現代史についての知識をもっていれば、朝鮮半島から強制連行されてきた一人一人の人間に人間としての思いを抱くのは当然だと私は思う。しかし「時代が違う」として斬って捨てたのはこの人たちだけではない。そういう人たちは、植民地支配と拉致を相殺させるようなものの言い方と指摘する。「相殺など決してできるものではない」と逆の立場から思う。「19世紀から20世紀にかけては植民地所有が先進国の追求すべき価値として広く認められた時代だった。しかし、第2次世界大戦後、時代精神が大きく変わった。時代精神が大きく変わっているのに同じ出来事としていうな」というわけだ。これは読売、産経や、週刊誌系統とはちがったところからででくる。それが朝日の論調をどんどん変えていく。時系列的に見るとそれが明らかになると思う。
10月21日の朝日新聞にその日の発売のアエラの広告がでている。ここに大きく特集がある。そこに「涙の帰国の裏側、北に返さない」というのがあって、「救う会が描く逆転残留シナリオに動転する日本政府」という柱がある。「蓮池さん、特殊機関に務めていますのすごい意味」「金正男と暴力団、当局認める深い仲」「日朝振り出しにもどる核開発の衝撃」の4つ記事が並んでいる。読んでみてみたらこの「救う会が描く…」というのはないので、編集部に電話したら、「脇見出しだ、中身にある」というが、調べても読みとれるものがなかった。そういう「北朝鮮は何をするかわからない」という雰囲気の中で、「家族永住帰国」という逆転劇が起こっている。
拉致疑惑というのは「かぎりなく黒に近い灰色」ととらえる人はかなり多かったと思う。しかし、そういう人たちがこれを人権問題として純粋にとらえられなかったために、結局、孤立した被害者家族は反北朝鮮団体に取り込まれてしまった。こういうメカニズムがあった。さらに時代的背景として中国などに見られるような、難民大量脱出によって北朝鮮国家を瓦解に追い込もうとする「企画亡命」のような動きがあった。さきほど水島さんが触れたソ・スンさんなどや和田春樹さんらが指摘するもので、アメリカの資金を得て、そういう団体が中国で活動しているといわれる。政府はむしろはじめからこの問題と過去の清算の相殺を意図していた。そのことは韓国の新聞が「日本の拉致逆風を警戒する」という社説を掲げて、拉致事件への憤怒は理解できるが、それが植民地支配清算と経済協力を切り下げる材料にしてはならない、東アジアの安定を実現するよう小泉首相の政治力を求めると主張していた。何のために拉致、拉致と言っているのか、それはたいへんな国家犯罪であり、被害者にとってはたいへんな人権問題ではあるが、それを一面的に政治利用している政治風潮があって、それが有事法制などとストレートに結びついている。言葉としては何も結びついていないけれども、だからこそ私はこの集会でこの問題をとりあげなくてはならないと思ったのだ。
日朝国交正常化は日本にとっては必要ではなく、北朝鮮にとって必要なんだという論調が強まっている。もともと何のために国交正常化が必要になったのか、植民地支配の清算がまだ済んでいないからだ。しかも戦後も一貫して敵対関係を作り、拉致問題にしても70年代から80年代にいたる時期、韓国における軍事独裁政権と北側がものすごい謀略合戦や相互浸透をしていた時期だ。これにまきこまれたのだ。その結果、一般国民が犠牲になった。
日朝国交正常化というのは北朝鮮を変える、それも弱みにつけ込んで北を変えるかのように言われているが、大切なことは同時に日本が変わることだ。それが日本の主体的課題であるにもかかわらず、北朝鮮は地獄であるという宣伝だけをやっている。北は独裁者に支配されている飢餓の国、地獄のような北朝鮮と書きまくっている時に、新聞記者たちはちょっとでも日本のことを考えたことがあるのか。たぶん、自由な天国のような日本というのが無意識下になければああいうものは書けないのではないか。その頂点にあるのがあのキム・ヘギョンさんへのこころない質問をあびせたインタビューだと思う。ところがそれへの批判がでてくると、それを北朝鮮の謀略に変える。たしかに誰をインタビューさせるか、どういうメディアの組合せのなかでインタビューさせるか、それは彼らが決めるだろう。しかし、インタビューをしているのは日本の記者だ。なんらの妨害もなくできたと言っている。しかも朝鮮語もわかる者がやっている。そして繰り返されているのはまだ知らなかった彼女に拉致だ、拉致だといって認めさせようとする。そしてもうひとつは日本、日本という、日本中心主義だ。「おじいさん、おばあさんに会いたい」と言うと「日本に来れば会えます」「くりかえしになりますが、日本に行く意志はありませんか」「おじいさん、おばあさんに会いたければ日本に行けばすぐ会えるのではないでしょうか」「お母さんが拉致されてここに来たので、あなたの方が日本に来るのが道理ではないでしょうか」と繰り返す。批判されても、北の謀略に乗ったつもりはないとか言っている。問題は人権感覚のなさ、日本中心主義、新聞記者たちがそうなっていることの恐ろしさだ。
当面は時間的にも空間的にも視野を広げて、人権感覚を研く努力をする以外にないと思う。その時に重要なのは、植民地支配から原爆投下まで、トルーマンからクリントンにいたるまで、原爆投下も国家犯罪なのにアメリカはそれを認めず、正当化している。そういう国家犯罪を追及しつづけるところからしか未来は開けない。拉致と植民地支配は違うというように、いろんなものをばらばらに分解するのではなく、国家あるいは国家の異常な関係が何を生み出して、一般の民衆にどういう被害を与えるか、それを反省する材料だ。被害者家族の問題についていえることは自由往来の保証、その最大の便宜を供与すること、その中でゆっくりとそれぞれが自分たちの将来を決定していく、それ以外にはありえない。新聞記者たちが当然のごとく「空白の24年間」という言葉を使うことに、非常な傲慢さを感じる。たしかに被害者は自分たちが望みもしなかったことを暴力的にされた。しかし、彼らの人生は空白だったか。そうではない。かれらはその条件の中でなにかを掴み取ってきた。それをどう生かせるような環境をわれわれが作っていくのかをわれわれはみんなで考えなくてはならない。(文責・編集部)
新崎盛暉
1936年東京生まれ。東京都庁勤務中から沖縄戦後史研究にたずさわる。沖縄の日本復帰に際して、沖縄大学存続闘争に加わり、74年に同大学赴任、83年から89年まで学長として大学再建にとりくみ、現在再び学長に就任している。
沖縄の市民運動でも奮闘し、CTS阻止闘争を広げる会代表世話人などをつとめ、現在は沖縄一坪反戦地主会共同代表、沖縄平和市民連絡会共同代表。雑誌「けーし風」編集代表。許すな!憲法改悪・市民連絡会共同代表。
著書多数。『沖縄問題二十年』岩波新書、『戦後沖縄史』岩波新書、『沖縄・反戦地主』高文研、『観光コースでない沖縄』高文研、『沖縄現代史』岩波新書、『沖縄のこれから』ポプラ社、『本当に戦争がしたいの』凱風社