私と憲法194号(2017年6月25日号)


安倍改憲~極右勢力の改憲論の起死回生の奇手・9条加憲論を打ち破ろう

「中間報告」による委員会審議省略の奇襲

共謀罪法は参議院段階の最終盤で、与党が「中間報告」という一般には聞き慣れない議会運営手段で奇襲、法務委員会で大詰めに来ていた審議を吹っ飛ばして、6月15日早朝に参院本会議にかけるという暴挙に出た。普通にはありえないほどの議会戦術を駆使して審議打ち切りに出た与党は、なんとしても「加計隠し」(安倍辞任回避)のために一刻も早く国会を閉じたかったのだ。そして16日にはわずか3時間の参院予算委員会を開いて、加計問題の審議を打ち切り、今国会を閉じた。安倍政権はその後の野党4党による閉会中審査開催要求ばかりか、憲法53条に基づく臨時国会開催要求にも応じていない。

「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の呼びかけで、13日から連日の「高原闘争」を展開した市民は、14日夕刻には3000人の市民が国会議員会館前に集まった。深夜から早朝にかけて数百人が徹夜で抗議し、強行採決のあった15日早朝には1000名を超える市民が国会前に集まって抗議の声を挙げた。15日夕刻には国会正門前に5500名が結集して怒りを込めて抗議した。国会内で闘った立憲野党の議員たちもこれらの集会に参加し、ともに怒りの声をあげた。全国各地でもさまざまに闘いが展開された。

この場で主催者挨拶をおこなった筆者は、安倍晋三首相らによって共謀罪の強行採決がおこなわれた2017年6月15日が、57年前、日米安保条約の改定に反対して闘った民衆行動の最中、東大生の樺美智子さんが警官隊によって殺された6月15日であり、当時の首相が安倍晋三の祖父である岸信介であることを想起するよう呼びかけた。そして樺さんたちが闘った日米安保と日本国憲法の矛盾は今日なお解決されず、沖縄をはじめ北東アジアに軍事的緊張をもたらしている。日米安保体制、戦争法、共謀罪はまさに一体で、この国を海外で「戦争する国」に変質させようとするものだ、これとの闘いこそが今後の課題だ、という主旨のスピーチをした。

笑止千万なことに16日の読売新聞社説が「『中間報告』で済ませたのは、乱暴な対応だった」「委員会できちんと結論をえたうえで本会議にかけるという手続きを踏むのが、本来の姿だ」「18日の会期末が迫っていたが、会期を多少延長することは十分可能だったはずだ」などと言った。それほどまでに酷い議会運営だったということだ。別様に言えば、安倍内閣はそれほどまでに窮地に立っていたということに他ならない。この通常国会で浮上した森友、加計学園疑惑、詩織さん問題などは、安倍首相自身が言ったように「関わりがあったら首相も国会議員も辞める」に値する問題だった。「関わりがあった」ことが明らかなのだから、安倍内閣は退陣しなくてはならない。だからこそ、与党はなりふり構わない強行採決と、国会閉会に持ち込んだのだ。

メディアで一般的な用語になった「安倍一強政治」とは、安倍独裁政治ということの別様の表現だ。国有財産の私物化、国家の私物化が、3権の私物化、憲法の私物化がおこなわれている。従来、筆者も「独裁」という言葉の使用にためらいがあったが、いま、この社会で現実に進んでいる事態は「安倍独裁」そのものではないかと考える。しかし、この日本会議的安倍内閣がファシズムと同義だとは考えない。その最大の理由は、ワイマール憲法と違って、まだ安倍一派は憲法をその道具にできないでいるからだ。私たちはこの憲法を道具にして安倍一派と闘うことが可能だからだ。

残念ながら私たちは戦争法と一体の稀代の悪法・共謀罪を廃案にすることができなかった。たたかいはあらたなステージに入った。6月19日、国会正門前には総がかり実行委員会の呼びかけで、3500名の市民が結集した。この集会の最後の「行動提起」を担当した筆者は、上記のファシズムと憲法について触れ、私たちの闘いの前途にある「希望」を語った。沖縄の民衆にならって、合い言葉は「勝つことはあきらめないこと」だ。

安倍改憲とのたたかい

安倍晋三は3月5日の自民党大会で「憲法施行70年の節目に当たり、私たちの子や孫、未来を生きる世代のため、次なる70年に向かって、日本をどのような国にしていくのか。その案を国民に提示するため、憲法審査会で具体的な議論を深めようではありませんか。未来を拓く。これは、国民の負託を受け、この議場にいる、全ての国会議員の責任であります。世界の真ん中で輝く日本を、1億総活躍の日本を、そして子どもたちの誰もが夢に向かって頑張ることができる、そういう日本の未来を、共に、ここから、切り拓いていこうではありませんか」と演説した。「世界の真ん中で輝く日本」をつくる、安倍にとっては、そのためには「憲法改定」が必要なのだ。
安倍晋三はいま改憲をめざす彼の「最後のたたかい」に足を踏み出した。

安倍晋三首相は5月3日、改憲派の集会にビデオメッセージを寄せ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と表明。改正項目として9条をあげて「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」とのべた。同様の主旨は同日の読売新聞朝刊に「首相インタビュー」として掲載された。
今回の安倍の改憲発言は従来の彼の改憲発言とは大きく異なっている。

「戦後レジームからの脱却」を主張した安倍晋三は、2006年10月31日、英紙フィナンシャル・タイムズなどのインタビューで改憲問題について「時代に合わない条文として一つの典型的な例は9条だろう」とのべ、9条改憲への意欲を示した。

2006年から07年にかけては9条改憲を主張し、その後、自民党が下野したのちの2012年には9条を国防軍の保持に変える、天皇の元首化などの復古主義色濃厚な「日本国憲法改正草案」が発表された。安倍晋三の改憲の目標は9条を軸とする平和憲法体系の破壊にあることは間違いない。しかし、世論の多数が9条改憲に反対していることから、安倍晋三首相は迂回戦術を選び、2014年初めから「(憲法改正の発議要件を定めた憲法96条について)たった3分の1の国会議員が反対することで、国民投票で議論する機会を奪っている。世論調査で十分な賛成を得ていないが、国民的支持を得る努力をして、(改正の)必要性を訴えていきたい」と述べ、96条改憲に意欲を示した。

その後、世論の反撃でこれが挫折すると、2014年7月には従来の内閣による9条の憲法解釈の変更を閣議決定した。さらに2016年の通常国会では衆議院議員の任期延長の問題に特化した「国家緊急権抜きの緊急事態条項」を主張するようになった。このように安倍晋三首相の改憲論は大幅なブレをくり返し、二転三転してきた。安倍の改憲路線が動揺するのは、安倍首相にとっては、9条を「本丸」とした日本国憲法への敵視、まずどこからでもこれを突き崩そうという「改憲ありき」だからにほかならない。

今回の9条3項加憲論(あるいは9条にあらたに第2項を設けるという加憲論)は、改憲賛成派が両院で改憲発議可能な議席の3分の2を獲得したにもかかわらず、改憲の具体的展望が容易に見えないことからきたあせりであり、自民党改憲草案の棚上げと合わせた安倍首相の大幅な改憲路線の転換だ。

3月5日の自民党大会で安倍総裁は自らの総裁任期を、党規約を変更して3年延長できる道を開いた上で、2020年五輪開催にかこつけて、今回の9条加憲論を持ち出した。
この一見唐突と見える9条加憲論には伏線がある。安倍政権を支える極右団体「日本会議」の伊藤哲夫政策委員・常任理事は、3項に「但し前項の規定は確立された国際法に基づく自衛ための実力の保持を否定するものではない」と書き込むことを昨年の機関誌「明日への選択」9月号で提案していた。そして「(護憲派に)昨年(2015年)のような大々的な統一戦線を容易には形成させないための積極戦略でもある」とのべている。また日本会議国会議員懇談会(安倍政権の閣僚のうち15人、衆参290人の国会議員が参加)の2017年度運動方針(3月15日決定)では、「憲法上に明文の規定を持たない『自衛隊』の存在を、国際法に基づく自衛権を行使する組織について憲法に位置づける」としていた。

「国際法に基づく自衛権を行使する組織」とは国連憲章51条による個別的・集団的自衛権を無制限に行使する組織ということだ。憲法第9条の1項、2項に続いてこうした3項が「ただし」として書き込まれれば、2項の戦力不保持、交戦権の否認は意味をなさなくなる。この意味で、安倍の加憲論は壊憲に他ならない。

6月21日、自民党改憲推進本部の会合が開かれ、自衛隊保持を明記するという改憲条項の案が明らかになった。それは現行9条を「9条の1」として、新たに「9条の2」を新設し、自衛隊を「我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織」と定義したうえで、「前条(9条)の規定は自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない」としている。

このことによって現行憲法9条の意味は大きく転換せざるをえない。従来、9条の下で自衛隊を合憲と主張してきた政府の理屈は、自衛隊は9条2項が保持を禁止する「戦力」にはあたらないという論理であり、それが「専守防衛」など自衛隊活動の歯止めになってきた。自衛隊保持の明記はこの自衛隊という名の「必要最小限度の実力組織」である軍事組織を憲法で認めることであり、従来の歯止めは外されることになる。そして、その自衛隊は2015年の戦争法で、海外で集団的自衛権を行使することが可能になった自衛隊だ。これによって1項、2項は全く空文化される。

念のため付記するが、安倍政権の支持基盤の日本会議など自民党憲法改正草案のような壊憲案を掲げてきた極右勢力が、9条1、2項を残す加憲という「軟弱な」路線に不満を持つに違いないことを安倍晋三は折り込みすみだ。「右翼の安倍が提案すれば右翼は反対しない」というのだ。

事態は急、自民党の改憲原案作成への動き

安倍晋三首相は5月21日、ラジオ番組で、自民党の憲法改正原案について「年内にまとめて、お示しできればなと思う」と期限を明言した。
自民党は改憲原案づくりに向け、この間、憲法審査会などでの議論を主導してきた従来の自民党の憲法改正推進本部(保岡興治本部長)を拡充し、幹部会メンバーを9人から21人に拡充。首相に近い下村博文幹事長代行を本部長補佐につけたほか、二階俊博幹事長など党4役全員や、高村正彦副総裁など名うての改憲派が多数加わって、挙党態勢をつくった。従来の保岡本部長らが野党との協調を重視して、一気に改憲原案づくりに踏み込まないできたことへの安倍首相の不満を表現する人事だ。この党内クーデターのような措置によって、改憲推進本部は占領軍のように配置された安倍派に占拠された。保岡氏はその会議のあいさつで、「遅くとも年内をめどに(衆参の)憲法審査会に提案できる具体的な党の案をまとめたい」と明言した。

推進本部は今後、安倍首相の意向に従い、9条への自衛隊明記、教育無償化、緊急事態条項、参院選の「合区」解消を含めた選挙制度、の4項目について、原案をまとめていく方向だ。
念のため言っておくが、教育無償化改憲論は、維新を抱き込むための戦術であり、改憲の焦点が9条に絞られることを避けるための案山子にすぎない。民主党政権時代に自民党が反対した教育無償化などは、予算措置さえできれば現行憲法下で即刻実施できる。大災害時の衆議院議員の任期延長なども、どうしても必要であれば公選法の改定で可能であり、改憲の口実にする必要のないものだ。参院の「合区」は国会議員の数を削減しすぎた結果でもあり、歳費の問題などの再検討が必要だ。さらに国会議員は全体の代表者であり、地域代表でないことを再確認しなくてはならない。

いずれにしても、いまおこなわれている自民党の議論は、9条問題を除けば改憲論の名に値しない。

現行改憲手続き法(いわゆる国民投票法)では憲法改正原案は、衆議院100名以上、参議院50名以上の議員の賛成で国会に提出され、憲法審査会で改憲原案の議論をしたうえで(最近、自民党の古屋圭司選対本部長は憲法審査会での多数決もありうると主張)、本会議にかけ、両院の総議員の3分の2の賛成で発議し、国民投票にかける。発議されたら、国民投票運動期間は60日~180日とされ、最短で2ヶ月で国民投票にかけることができる。

現行改憲手続き法がどんなに民意を正しく反映しにくい法律であるかについては、本誌はくりかえし指摘してきたので、本稿では述べない。
安倍晋三首相は5月15日夜のTV番組で、改憲国民投票を国政選挙と同時実施することに関して「別途やるのが合理的かどうかということもある」と述べ、「同時にやるのは混乱する」という問題には触れたものの、同時実施の可能性に言及した。しかし、自民党の二階俊博幹事長は6月16日TV番組で、同時実施案について、「(私は)適当ではないという慎重論だ」と述べた。同時実施は憲法96条でも認めていることでもあり、選挙での与党支持と国民投票での改憲支持の相乗効果があり、安倍としては望むところだろう。しかし、国政選挙は公選法の支配により、国民投票は「改憲手続き法」の支配によって実施されるものであり、運動形態にも差異が大きすぎ、事実上、不可能だ。どうしても同時投票をねらうなら、混乱を避けるために現行改憲手続き法を公選法に合わせて変えなくてはならない。

二階幹事長が慎重なのは当然だ。

さらに時期の問題だが、総選挙は遅くとも2018年12月までに実施しなくてはならない。この総選挙で改憲派が3分の2を確保できるのかどうか。次期総選挙は、小選挙区は295から289、比例代表は180から176に減る。もしも立憲野党4党と市民連合の共闘が全国289の小選挙区で候補者の一本化に成功すれば、自民党は単独過半数を失い、改憲派が3分の2をとれない可能性がある。安倍はこの危険を冒して、改憲発議を総選挙後に設定するだろうか。

解散の予測をいまから述べるリスクの大きさは自覚しながら論じておきたい。野党共闘が進むことが前提ではあるが、その場合、安倍は改憲発議を総選挙前に持ってくるのではないか。2018年の通常国会の会期末、6月に改憲発議を強行し、3ヶ月程度の国民投票運動期間をおき、9月国民投票実施、直後に安倍総裁の任期延長で安倍3選、そして総選挙というスケジュールになる可能性がある。これに、多少の前後があれ、先に成立した天皇退位法による18年12月退位、19年1月に改元説のお祭り騒ぎと2020年東京五輪がからむ。安倍晋三はこれらをフルに利用して、憲法9条改憲をねらってくる可能性がある。

私たちは何をなすべきか

冷静に考えるなら、安倍の改憲攻撃のテンポは早い。今回の中間報告に見られるように、安倍はまさに政治生命を賭して、このテンポで改憲を実施してくる可能性が強い。現在、保有している衆参3分の2議席は安倍にとって千載一遇のチャンスなのだ。前項で述べたように、2018年12月の衆院任期切れ前までの改憲国民投票の可能性が濃厚だ。民主主義的手続きを重視すれば考えられないことだが、安倍晋三政権ならやりかねないことを肝に銘じておくべきだろう。
私たちはこれを打ち破れるだろうか。時間的な余裕はあまりない。勝負は今から1年だ。

この1年、私たちは以下の3つの方面で運動の力を集中しなくてはならないのではないか。

第1は憲法を学び、生かす運動の全国的展開だ。安倍が破壊しようとしている憲法第9条についてはもとより、戦争法、沖縄辺野古の基地建設反対、共謀罪・秘密法などとあわせ、アベノミクス政策の下で憲法が破壊されて引き起こされている深刻な社会の貧困・格差の問題など、憲法を生かし、実現する課題に取り組むことだ。このために創意を凝らして大小無数の行動を組織しよう。
第2に署名運動をテコにした大規模な安倍改憲に反対する行動をつくることだ。

2015年の戦争法のあと、わたしたちは戦争法廃止の2000万署名に取り組んだ。1年弱の短期間で1580万筆以上が集まった。この力は折からの参院選の野党共闘の実現に大きな影響をあたえた。

安倍改憲が迫ってきた中で、私たちは安倍改憲に反対し、憲法9条を守り、戦争する国に反対するかつてない規模の署名運動に取り組んではどうか。全国津々浦々で安倍改憲に反対し、戦争する国はゴメンだの大きなうねりを起こすのだ。これが高揚すれば、安倍は改憲発議自体を恐れるだろう。改憲発議阻止が可能かも知れない。もし、万が一、改憲が発議されても、国民投票で改憲を打ち破る基礎となることができる。

第3に、すでに全国各地で総選挙に備えて、市民連合を結成する運動が展開されている。次期総選挙は小選挙区は289、比例代表は176議席になる。すでに指摘したように、もしも立憲野党4党と「市民連合」の共闘が全国289の小選挙区で候補者の1本化に成功すれば、その運動は広範な無党派層の期待を引きつけ、比例区の選挙にも大きな影響をあたえるだろう。その結果、安倍自民党は単独過半数を失い、改憲派が3分の2をとれず、総辞職に追い込まれる可能性は十分ある。

全国の小選挙区での候補者の1本化は容易ならざる仕事だが、広範な無党派の市民を包含した「市民連合」が各地で成立し、立憲野党各党との間に共同の政策と候補者で合意をつくり出す仕事に本気でとり組み、総選挙で改憲派を打ち破らなくてはならない。すでに今年4月8日に確認した立憲野党4党と「市民連合」の政策合意と、6月8日の野党4党党首会談で確認した「合意」がある。これは本格的な野党4党+市民の共同への重要な布石だ。

私たちは2016年の参院選でたたかった全国32の1人区のたたかいに確信をもって、これをさらに発展させ、必ず政治を変えなくてはならない。

総がかり実行委員会はこのところ「総がかりを超える総がかり」をスローガンにしてきた。文字通り総がかり行動実行委員会の幅と量を大きく超える共同行動を実現して、前述の「日本会議」の伊藤が述べたような「(護憲派に)昨年(2015年)のような大々的な統一戦線を容易には形成させないための積極戦略でもある」という9条3項加憲戦略を打ち破ることだ。

この3つの課題で、可能な全ての団体と市民の共同の行動をつくり出そう。この列島に騒然とした運動をつくり出し、安倍改憲を阻み、戦争への道を阻止しよう。この運動をもって、戦後最悪の内閣・安倍晋三内閣を打ち倒そう。政治を変えよう。
(事務局・高田 健)

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基本的人権と憲法、刑法原則も無視した共謀罪法案の強行採決に怒りを込めて抗議する

安倍内閣と自民党、公明党、維新の会は6月15日早朝、共謀罪法案を審議打ち切りと強行採決の連発で参議院を通過させ、成立させるという暴挙に打って出た。277もの「犯罪」に共謀罪を拡大するこの法律は、市民の言動に治安対策の網をかけ、監視社会化、密告社会化を一挙に拡大しようとする企てであり、基本的人権と憲法、刑法の原則も無視した共謀罪法案の強行採決に、私たちは満身の怒りをこめて抗議する。

安倍内閣は、国際組織犯罪防止条約の批准の機会を利用して、条約には関係ない「テロ対策」を口実にし、さらに東京オリンピック・パラリンピックまで引き合いに出して、この現代版の治安維持法を正当化しようとした。しかし、それらの口実が根拠のないウソであることが明らかになり、また、法案の根幹である「組織的犯罪集団」、「計画」、「合意」、「準備行為」、そして「一般人」などの概念と範囲などすべてがあいまいで、答弁が二転三転し、国内の各界からだけでなく国際的な批判も浴び、法案の危険性が広く理解されるようになったため、政府・与党は追い詰められていた。加えて、安倍首相自身がからむ森友疑惑、加計疑惑の真相が明らかになり、政権危機の様相を示す事態になった。参議院での審議打ち切りと強行採決の暴挙は、こうした事態に焦った安倍内閣と与党が「数の力」で突破し終止符を打とうとした、もう一層の暴走である。

このように重大・深刻な内容を持つ法案は、廃案にするしかなかったが、少なくとも十分に審議し、あいまいな点や矛盾を解明し、誰もが理解することが不可欠である。しかし政府・与党は、審議が進めば進むほど法案の問題点が明らかになるため、国会での審議そのものを打ち切り、とくに参議院では、法務委員会での審議や裁決を封印する本会議での「中間報告」という異常な手法を行使した。議会制民主主義の精髄は「多数決」ではなく、「熟議・互譲」にあるはずだが、安倍内閣と与党らは、なりふり構わず「多数の力」で熟議と理解を圧殺した。このような民主主義破壊の強権政治は、一日も早く終わらせなければなない。

この法律が適用されることになれば、あらゆる分野での市民運動や市民活動、労働運動などは警察の監視、盗聴、密告奨励・強要などの対象になり、あいまいな要件は取り締まり当局の恣意的な解釈にゆだねられ、冤罪を多発させ、市民の言論や行動を大きく萎縮させ、自由な社会を窒息させることになろう。共謀罪法案の廃案を求める署名が短期間に153万人を超えたのも、その危険性の理解が急速に広がったためである。私たちは、あくまで共謀罪法の廃止をめざすとともに、その適用による言論、表現、市民活動、労働運動などの自由と権利の侵害を許さない取り組みを進める。
2017年6月15日 戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会

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6.13 共謀罪廃案!安倍改憲NO!大集会 開会挨拶

海渡 雄一弁護士(共謀罪NO実行委員会) 2017/06/14 於・日比谷野外音楽堂

共謀罪NO実行委員会の海渡です。主催者を代表して開会挨拶を申し上げます。共謀罪法案の審議が危機的な状況です。法案は審議を進めれば進めるほど、その危険性が明らかになってきています。組織犯罪集団の関与が要件とされていると言われますが、環境団体や人権団体も対象になりうると説明しています。今日は法務大臣に対する問責決議案により審議は止まっていますが、政府は、法案を今週中に成立させると宣言しました。私たちは、このような暴挙を絶対に認めることはできません。

国際社会も日本の人権状況に深い関心を寄せています。日弁連は9日カナタチ氏とスカイプで結んで1時間半のロングインタビューシンポジウムを行いました。法案は、刑罰法規の明確性の原則を満たしていない、法案は、国民に対する監視を強めることにつながる、にもかかわらず、プライバシー保護のための法的な措置がないと指摘しています。

デビッドケイ氏は12日人権理事会で演説し、政府がメディアに圧力を加え、表現の自由が脅かされていると指摘しました。日本の人権状況に注意信号が点滅しているのです。

共謀罪法案は、もともと2003年に外務省と法務省が国連越境組織犯罪防止条約批准のために立案したものでした。当時、この法律は、国内に立法事実はなく、制定しても、使う予定はないと説明されていました。当時の官僚は本当にそのように考えていたのでしょう。

しかし、状況は一変しました。いま、この法案を推進しているのは、明らかに官邸です。森友学園、加計学園問題への対応に明らかなように、安部政権はますます独裁政権の様相を呈し、また、この法案は、安部首相はオリンピックのテロ対策のために必要だとしています。前川前次官のスキャンダル報道を見れば明らかなように、与党政治家も、高級官僚も、公安警察の監視の下に置かれ、黙らされているのです。

市民活動への弾圧の武器となることが危惧される組織的威力業務妨害罪や組織的強要罪の共謀罪は、2007年の自民党小委員会案では、削除されていました。いま、安部政権は、これを絶対に削除しようとしません。いまや、共謀罪法案は、政権中枢を支配する公安警察による、市民に対する弾圧の道具にする明確な意図があると断ぜざるを得ません。

カナタチさんは、この共謀罪法案は、手綱も鐙(あぶみ)もなしに馬に乗ろうとするものだ、このままでは必ず落馬するから、緊急の公開書簡を送ったのだと説明されています。そして、日本には警察と秘密情報機関に対する独立した監視機関が必要であると勧告しています。とても大切な指摘です。

日本政府は人権理事国に選出される際に、特別報告者と誠意を持って対話することを誓約しています。菅官房長官の発言は、自らの誓約にも反する、恥ずべき発言です。

9日のインタビューの最後に、カナタチさんは、「この闘いは始まったばかりなのだ、日本国民には人権保障を受ける権利がある。息の長い取り組みが必要だ」と述べました。そのとおりではないでしょうか。

私たちは、今週中の強行採決を食い止めるために、最後まであきらめることなく、持てる力のすべてをかけて闘わなければなりません。そして、共謀罪の目的が、異議申し立てをする市民を萎縮させ、黙らせることだとすれば、私たちが絶対に黙らないことこそが抵抗の核となります。どんなことが起きても、私たちは必要な発言をやめない、必要な活動をやめないことをこの場で誓い合おうではありませんか。

危機に瀕する、この国の、基本的人権をまもり、民主主義を回復するために、私たちは、この国の主権者として確信を持って共謀罪に反対する、あらゆる活動を、最後の最後まで続けていこうではありませんか。それでは、元気よく集会を始めていきましょう!
連日行われた共謀罪法案廃案へ国会前行動
止めよう辺野古埋立て共謀罪法案は廃案へ6.10国会大包囲

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日弁連、「共謀罪」法成立で会長声明 「極めて遺憾」「十分な審議とは言い難い」

日弁連は6月15日、いわゆる共謀罪法(改正組織的犯罪処罰法)の成立に遺憾の意を示す会長声明を発表した。今後は法律が恣意的に運用されないよう監視するともに、廃止に向けても取り組むとしている。

犯罪を計画段階で処罰する共謀罪(テロ等準備罪)の創設をめぐっては、監視社会の到来や一般市民にも捜査が及ぶことなどが懸念されていた。

日弁連は、これらの疑念が今も払拭されていないことや、277にも上る対象犯罪の選定の妥当性などについても審議が不十分であることを指摘。にもかかわらず、委員会採決を省略する異例の手続きで、参院本会議で採決、成立させた政府の対応について「極めて遺憾」と述べている。

声明の全文は次の通り。
いわゆる共謀罪の創設を含む改正組織的犯罪処罰法の成立に関する会長声明
本日、いわゆる共謀罪の創設を含む組織的犯罪処罰法改正案(以下「本法案」という。)について、参議院本会議において、参議院法務委員会の中間報告がなされた上で、同委員会の採決が省略されるという異例な手続により、本会議の採決が行われ、成立した。

当連合会は、本法案が、市民の人権や自由を広く侵害するおそれが強いものとして、これまで本法案の制定には一貫して反対してきた。また、本法案に対しては、国連人権理事会特別報告者であるジョセフ・カナタチ氏が懸念を表明する書簡を発出するという経緯も存した。

本国会における政府の説明にもかかわらず、例えば、(1)一般市民が捜査の対象になり得るのではないか、(2)「組織的犯罪集団」に「一変」したといえる基準が不明確ではないか、(3)計画段階の犯罪の成否を見極めるために、メールやLINE等を対象とする捜査が必要になり、通信傍受の拡大など監視社会を招来しかねないのではないか、などの様々な懸念は払拭されていないと言わざるを得ない。また、277にも上る対象犯罪の妥当性や更なる見直しの要否についても、十分な審議が行われたとは言い難い。

本法案は、我が国の刑事法の体系や基本原則を根本的に変更するという重大な内容であり、また、報道機関の世論調査において、政府の説明が不十分であり、今国会での成立に反対であるとの意見が多数存していた。にもかかわらず、衆議院法務委員会において採決が強行され、また、参議院においては上記のとおり異例な手続を経て、成立に至ったことは極めて遺憾である。

当連合会は、本法律が恣意的に運用されることがないように注視し、全国の弁護士会及び弁護士会連合会とともに、今後、成立した法律の廃止に向けた取組を行う所存である。
(平成29年)6月15日  日本弁護士連合会会長 中本 和洋

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第114回市民憲法講座 安倍「教育改革」が目指すもの~ 新しい学習指導要領を読み解く

俵 義文さん(子どもと教科書全国ネット21 事務局長)

(編集部註)4月15日の講座で高田健さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。

グローバル企業と戦争する国の人材をつくる安倍教育再生政策

「はじめに」というところで、「グローバル企業と戦争する国の人材をつくる安倍教育再生政策」と書いておきました。安倍政権というのはまさに史上最悪の極右政権だと思っています。これを見れば安倍内閣が、いかに極右内閣であるかということは明らかだと思います。私が「極右」というのは欧米の基準に基づいています。欧米では歴史修正主義はイコール極右であるといわれます。先日フランスの大統領選挙がありましたがルペンが大統領候補として最初の投票で2位の得票を獲得して決選投票に出ました。あのルペンについて日本のメディアは極右だと報道してきたわけです。なぜ極右かというといわゆる歴史修正主義、歴史を歪曲する、欧米の場合には一番典型的なのはナチスに対する態度です。ナチスを評価する、あるいはナチスのホロコーストはなかったとか、そういうことを主張することを歴史修正主義といって、これは極右であると欧米ではいっています。その基準でいえば安倍首相あるいは安倍政権の多くの大臣たちは、まさに南京虐殺事件を否定したり日本軍慰安婦を否定したり日本の侵略戦争を否定するような歴史修正主義者揃いですから、そういう意味では極右政治家であり、極右内閣であるといって間違いないと思います。

欧米のジャーナリストの多くは安倍晋三あるいは安倍内閣を極右政治家あるいは極右内閣と報道しています。日本のメディアだけが、欧米の歴史修正主義者についてはルペンの例のように極右政治家と報道するわけですが、日本の政治家については安倍首相をはじめ極右という紹介は一切しない。ここが日本のメディアのいまの状況だろうと思います。安倍内閣は、去年から大きな問題になってきた日本会議と連携している日本会議国会議員懇談会に所属する大臣が15人ですね。この前まで16人でしたが1人交代して、新しくなった大臣は日本会議には入っていません。神道政治連盟には入っていますが。そういうことを前提にしながらこの安倍政権が進める教育政策についてこれから見ていきたいと思います。

安倍政権の政策は強い国日本を目指すということでありますが、その内容はふたつあります。ひとつは日本の企業が世界でもっとも活躍しやすい国に日本をする、と安倍さんは国会やいろいろな演説で繰り返しています。つまり日本のグローバル企業がグローバル戦争に勝ち抜く、政府はそのための最大限の保護を企業に対して進めていくということです。アベノミクスはまさにそういう政策です。これが庶民の生活、庶民の経済状況をよくしようという政策ではないことは、この4年半の安倍政権によって十分証明されていると思います。ところがいまだにアベノミクスに対する幻想が国民の中には残っていて、そのことがやっぱり安倍政権の支持率がなかなか落ちないことになっていると思います。もうひとつは憲法9条を改悪してアメリカと一緒に戦争する、そういう国にするということです。これについては、みなさん方もこの間の動き、そして私たちのたたかいの中で十分確認されていることだと思います。

このふたつの政策を進める上で、それを推進し担っていく「人材」というふうに彼らは言うわけですが、そういう人間をどうつくるかということが安倍政権の教育政策です。この教育政策はいま言いましたふたつの政策と並んで安倍首相、安倍政権が大変重視してやってきている政策です。私は、安倍さんが目指す憲法改悪、そして改悪後の日本の国のかたちを先取りして教育の分野で実現していくことがいまの教育政策だと思います。安倍教育再生政策というのは、グローバル競争に勝ち抜くために大企業が求める人材を育成する、もうひとつは戦争する国の人材、自民党の憲法草案は自衛隊を国防軍にするといっていますが、まさに国防軍の人材をつくる、こういう政策だということができると思います。

どちらの人材育成にも愛国心、道徳心が不可欠だということで、今度の道徳の教科化の問題、そして新学習指導要領はそういうことを実現する教育政策として具体化されているとあらかじめ申し上げておきたいと思います。これは何も安倍さんが特異な、まさに極右政権だからやっているというよりも、いま日本の支配層といいますか、財界―経団連も2014年4月に「教育改革についての提言」を発表しています。その中でもグローバル競争に勝ち抜くために、グローバル化教育と日本人のアイデンティティの育成、道徳教育の充実が必要であるということを強調しています。和光大学の山本由美さんという教育学の教授は、この経団連がいっているグローバル競争に勝ち抜くために愛国心、道徳教育の充実が必要だという意味を解説しています。彼女は、グローバル企業で働くいわば企業の尖兵として海外に出て行く、とりわけ発展途上国などで現地の労働者を搾取し、現地の住民から収奪をすることに対して、なんの心の痛みも覚えないで、まさに「愛国心」、「愛社心」に燃えて仕事をしていく、そういう人間をつくっていく上でも道徳教育、愛国心教育が必要だと経団連がいっていると解説しています。

安倍首相直属の教育再生実行会議

安倍政権が進める教育再生ということについてわたしの考えを最初に述べます。安倍さんは教育再生という言葉が大好きで、第1次政権のときから教育再生政策という言葉を使い、教育再生会議というものを首相直属の機関として設置しました。第2次政権になってからも、2012年12月の総選挙で自民党が勝って首相になった直後の1月に、安倍さんは早くも教育再生実行会議を設立しています。その前の2012年9月26日に安倍さんは自民党の総裁選挙で総裁になるわけですが、総裁になった直後に党内に教育改革のための教育再生政策をつくるプロジェクトを設置しろという指示を出します。これが自民党内につくられた教育再生実行本部という組織で、当時は下村博文さんが座長になった。そして5つの分科会をつくり、10月24日に最初の会議をやって1ヶ月たたないうちに中間とりまとめを提言としてまとめました。下村さんをはじめとして5つの分科会座長のうち4人までが、そのあと次々に大臣になっています。まだ大臣になっていないのは義家さんだけです。どうも義家さんを大臣にすると稲田さん以上に危ないということで、非常に口の軽い人、あるいは態度の軽い人なのでなかなか大臣にしてもらえないのではないかと思います。この実行本部が出した報告が、その年の衆議院選挙で自民党の選挙公約の中に全部盛り込まれる。そして安倍政権が誕生したあと、自民党の実行本部の報告を教育再生実行会議の提言というかたちでいわば権威づけをして、それが次々に法律になったり政策として実現されてきているのが現在の状況です。

そういう中で教育再生というのは何を指すのか。「再生」というのはどういうことかと広辞苑を引くと、「死にかけた人間が生き返ること」というのが一番はじめの意味として書かれています。つまり再生というのは死にかけているものを生き返らせる、あるいはもともとあったものがいま壊れているので、それを作り直す、そういう意味で再生という言葉は使われると思います。では「教育の再生」とは何か。教育を再生するというのは、もともとあった教育がダメになっている、壊れているから作り直すという意味しかないと思います。では安倍さんが言う、もともとあっていま壊れている教育って何なのかということをわたしは考えます。

戦後教育ということを考えた場合には、戦後は1947年に憲法が施行され、今年で70周年です。先日5.3憲法集会を私たちはやりました。そして同時に教育基本法が制定されました。この憲法と教育基本法に基づいて戦後の教育改革が行われるわけです。戦前・戦中の教育を一掃する教育改革が教育基本法と憲法に基づいて実施されました。約10年間、このまさに平和と民主主義の教育が、そして子どものための教育が行われました。小森陽一さんはよく講演の中で、戦後日本の民主主義というのは学校から地域に広がったといいます。そういう役割を当時学校あるいは教育が担ったといってもいいだろうと思いますね。

しかしこの戦後民主教育は10年しか続きませんでした。1950年はじめに東西冷戦が始まり朝鮮戦争を経る中でアメリカは日本に対する政策を転換して、日本をアジアにおける反共の砦にするということで、そのために日本に再軍備を要求します。1953年MSA協定について、当時の吉田茂首相の特使として池田勇人、のちの総理大臣がアメリカに行って、MSA協定――これは日本を再軍備させるために兵器を無償で提供する協定です。吉田茂はまず復興が大事だ、再軍備をするようなお金は日本にはないというわけです。それに対して、アメリカ軍が使っていた中古の兵器を日本に無償でやるからそれで再軍備をしろというのがMSA協定の協議です。1ヶ月かけて協議をします。結局日本は再軍備に賛成した。しかし再軍備をするためには、憲法9条を変えなければ再軍備はできないというわけです。それに対してアメリカは9条を変えろと言って、池田さんはそれについて約束をして、9条を変えるためには教育によって憲法9条改定を支持する国民をつくるという約束をするわけです。これが池田=ロバートソン会談です。そのあと日本は全体としてもいわゆる反動化が進むわけですね。不可解な事件があちこちで起こる。そういう中でいわゆる逆コースと言われるような状況が生まれてきます。とりわけその逆コースは教育分野でまず先行して行きます。

池田=ロバートソン会談は1953年で、翌年54年に早くも国会に教育二法が出されます。ひとつは教職員の政治活動を禁止する法律、もうひとつは教職員組合のストライキを禁止する法律です。こういう教職員が戦えない状況をまずつくるということをやります。そのあと同じ年に平和教育に対する弾圧を始めます。京都の中学校でやっていた平和教育は、これは偏向教育であるということを当時の文部省がいって攻撃を始めます。1955年になると、当時の民主党で中心になったのは「青年将校」と言われた中曽根康弘さんです。彼が中心になって、小学校の社会科教科書に対してこれが偏向教科書であるというキャンペーンをやります。そして「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを第1集から第3集まで出して教科書が偏向しているというキャンペーンをはります。このキャンペーンを背景としながら教科書の検定が強化されていく。

そしてそれを制度的に保障するために1956年には、教育についてのふたつの法律が出されます。ひとつは教科書を統制するための教科書法案が通常国会に出されます。同時に教育委員会制度の廃止です。戦前の教育は文部省による強力な中央集権でしたから、戦後はそれはやめて教育は地方分権でやるということで教育委員会制度が導入されます。この教育委員は、地方議員と同じように住民の選挙つまり公選によって選ぶという教育委員会制度がつくられます。この公選による教育委員会制度を廃止して、教育委員を全部首長の任命に変えるという、教育委員会法を廃止して「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」という長ったらしい名前の法律が出されました。このふたつの法案に対して教育統制・教科書統制の法案であると大きな反対運動が起こります。教科書法は会期末ぎりぎりで、結局廃案になります。ところが教育委員会を公選から任命に変える法律については残念ながら、当時警察官を500人という説もあるけれども参議院に導入して強行採決した。その頃から強行採決というのは日本の伝統みたいになっているわけですけれども、こういうかたちで戦後民主教育はその頃からだんだん終焉を迎えていくことになるわけです。

再生したいのは戦前戦中の教育

安倍さんが「再生したい」という教育はその戦後の10年間の民主教育なのか、それはないと思うんですね。安倍さんはもう一方では戦後レジームからの脱却といっています。安倍さんが言う戦後レジームとは何かというと憲法―教育基本法体制です。もっと言えばポツダム体制です。そのポツダム宣言を受諾して日本は戦争を終わるわけで、それによって具体的には憲法がつくられ、教育基本法がつくられていく。この憲法―教育基本法体制を戦後レジームだといっています。もうひとつは東京裁判です。安倍さんは、ここから脱却しなければダメだと言っているわけですから、戦後民主教育を再生しようということではないと思いますね。そう考えていくと、その後の教育というのは全部自民党がつくってきたもの、壊してきたものです。それを今更再生するというのもおかしいですね。では安倍さんが言う教育再生というのは何かというと、戦前戦中の教育しかないだろうと思います。戦前戦中は明治憲法のもとで天皇が発した教育勅語、これがいま復活の動きがすごくあるわけですが、この教育勅語のもとで教育が行われました。文部省による強力な中央集権的な体制が一方であり、教育内容は教育勅語に基づいて教科書がつくられたわけです。この教育勅語体制のもとで教科書はどうなっていたかというと、1904年から小学校は国定教科書になります。

この国定教科書の中で主要教科は4つありました。いま社会といわれている中の地理、日本歴史-当時国史といっていました。国語は当時読本といっていました。読本と地理と国史と修身、この4つが主要教科と言われていました。他の算数とか理科とか、そういう教科の上にあったんですね。この4つの主要教科の中で一番上に来る筆頭教科というものがあり、この筆頭教科が修身でした。教科の構成は、修身の下に国語と地理と日本歴史=国史があってその下にその他の教科があるという、修身を頂点としたピラミッド型に戦前戦中の教科書はなっていたわけです。その修身によって全ての教科をいわば統制をしていくという教育の体制がつくられていたわけです。

教育勅語に基づく修身教科書の中身は

教育勅語が発せられたときに、その修身は教育勅語に基づいて編集するということになった。つまり教育勅語の理念を具体化していくのは修身の教科書の役割でした。そこで今日はその修身の教科書の一部を持ってきて、ここに貼っています。当時の教科書は日本のだいたい80年代の教科書と同じようにA5判ですが、今日は拡大しています。1936年頃の修身の1年生用、天皇の行列ですね。これは1932年の国語の読本です。「コイコイシロコイ」「ススメススメヘイタイススメ」。それから「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」というのは「サイタ読本」と言われていたものです。このころはまだ一応平和的だと言われていましたが、1936年版の尋常小学校1年生用は、木口小平「死んでもラッパを離しませんでした」という逸話が載っています。

国定教科書は5期まで改定されていきます。最後の5期が1941年、日本がアジア太平洋戦争を始めた年の4月から使われたものです。実は私はこの年の1月に生まれています。この5期の教科書から、修身は1年生、2年生は「ヨイコドモ」という書名になります。その1年生の最初のページです。日の丸を支えているのと天皇が閲兵している写真があります。そして同じく1年生ですが「ヒノマルノハタバンザイバンザイ」、国語読本は「アカイアカイアサヒ」というようなところから始まります。こういう中で、これも1941年の「ヨイコドモ」の上、1年生用です。これはたぶん南京攻略のことを指していると思います。「敵の弾が雨のように飛んでくる中を日本軍は勢いよく進みました。敵の城に日の丸の旗が高くひるがえりました。万歳万歳、勇ましい声が響き渡りました。」これを1年生で教えていました。

こういう中で「ヨイコドモ」の2年生にこういう内容がありました。最初のページにこの絵があります。誰かわかりますか? 2015年に教科書採択があってあちこちで講演したときに、小さい子どもを連れた若いお母さんに聞いたら「モーゼ」と言ったんです。似ていますけれども、これはいわゆる神武天皇です。この神武天皇の話が2年生で書かれています。そして「天皇陛下」のところにこう書いてあります。「天皇陛下のお治めになる我が日本は世界中で一番立派な国です。天皇陛下をいただいている日本国民は本当に幸せです。私たちの祖先は代々の天皇に忠義を尽くしました。私たちもみんな天皇陛下に忠義を尽くさなければなりません」と子どもたちに説教するわけです。「19.日本の国」というのがあって、これは有名であちこちで引用されるんですが、「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ 神ノ国。日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤク エライ国」と教えるわけですね。この日本は強い国、清い国、神の国だというのはこのあと繰り返し各学年の修身で出てきます。

5年生の修身にはかなり長い文章で日本は神の国だということが書いてあります。何を言っているかというと、よその国は隣の中国も歴代王朝は替わってきた。国ができては亡びて替わってきた。ヨーロッパも同じだ。世界で、万世一系で天皇が替わっていないのは日本だけである、だから日本は清い国であり強い国である、そして神の国である。これを繰り返し教えていった。このようにいわば洗脳――マインドコントロールしていくわけです。そして最後の「ヨイコドモ」というところで「私たちは先生からいろいろなお話を聞きました。天皇陛下のありがたいことがわかりました。天皇陛下をいただく日本の国は世界中で一番尊い国であることを知りました。私たちは天皇陛下に忠義を尽くし、このよい国をみんなでいっそうよい国にしなければならないと思います」というふうに子どもたちに「決意表明」をさせるわけですね。こういうことを毎学年教えていたわけです。そして4年生になると最初に教育勅語が全文載っています。4年生、5年生はふりがながついています。これを暗唱させます。そして6年生になったら、ふりがななしで暗唱できないと体罰を受けるという教育がされていました。

この教育勅語をいま復活させようとしているわけです。教育勅語の真髄は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」、つまり戦争になったときには天皇に命を投げ出せ、これが日本人としてもっとも尊い道徳であるということを教えてきたわけですね。そのことを2年生の「ヨイコドモ」というところでたたき込むということをやっています。

「日本が世界で一番輝く国」のための教育再生

実はこれをお見せしたのはもうひとつ意味がありまして、安倍さんは今年の正月に同じ言葉を何回も使って話をしました。ひとつは年頭所感というものを出しました。年頭所感というのはいままでは天皇が出していましたが、今年は天皇に年頭所感を出させないで自分が出しました。その年頭所感の中でいった言葉があります。その言葉は1月3日に伊勢神宮を参拝したとき共同記者会見をしたときにもその言葉を使いました。それから1月4日に自民党の仕事始めの挨拶をしたときに同じ言葉を使いました。そして1月20日、国会開会日の所信表明演説の最後のところにこの言葉を使いました。何かというと「私は日本が世界で一番輝く国にするんだ」と言った。私はそれを読んだときに、これをすぐに思い出しました。この、日本が世界の真ん中で輝いているイラストです。当時は北方領土それから朝鮮半島、台湾が日本の領土ですから同じ色になっていますけれども、安倍さんが世界で日本がもっとも輝く国にするというのはこのイメージではないかと思うんですね。安倍さんがこれを知っているかどうか知りませんけれど。

というのは、安倍さんは2013年に例の百田尚樹さんと一緒に本を出しました。その書名がこれです。「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」。同じイメージでしょ。安倍さんというのは日本をそういう国にしようとしているわけですね。それは、私はこのイラストのようなイメージだろうと思います。そのための教育再生政策が考えられている。ということで考えていくと、私はやっぱり安倍さんが考えている再生しようとしている教育は戦前のような教育ではないかと思います。もちろん単純な復古主義だとは思っていません。安倍政権、安倍首相がやろうとしている教育政策は新自由主義改革といわばセットのかたちでやられています。新自由主義改革の目玉は競争教育です。これとこの戦前的な教育政策とがセットですから、単純な復古主義ではないわけですね。このことをお断りして、しかしシステムとしては戦前の教育を再生しようとしているといっていいのではないかと思います。

大問題!子ども不在の新学習指導要領

そういう中で学習指導要領の改定が行われ、3月31日に告示されました。私たちはこの新学習指導要領は本当に子ども不在だ、そして学校が人間を育てる場ではなくなるということで、ブックレットをつくりました。今度の学習指導要領の問題点は大きく言って教育内容面と教育体制ということがあると思います。この学習指導要領のもとになった中教審答申では「社会に開かれた教育課程」が強調されています。その社会に開かれたという名目で教育目的を大転換します。つまり子どものための教育から国家、国益のため、あるいは企業益、グローバル企業の利益のための教育に大転換するということがこの学習指導要領の一番の狙いになっています。

もともと教育というのはひとりひとり子どもたちは個性を持った存在であり、その子どもたちの個人としての尊厳を大事にしながらその個性をひとりずつ、その個性にそって育てていくというのが教育だと教育基本法や憲法では謳っています。中国のことわざで――植物の苗を植えた、お百姓さんが早く大きくしたいから毎日畑に行って芽が出てきたらつまんでいた、こうやればもっと早く育つだろうと。ところがやっていくうちに枯れてしまうわけです。つまり植物が育つのは植物の中にあるエネルギー、その本性が外からの太陽光線とか水とかあるいは肥料などによってそれを吸収しながら育っていくわけです。人間もそうだと思います。子どもたちが育っていくというのは無理矢理引っ張り上げようとしても育つわけじゃありません。子どもたちに備わった内発的な個性、それを育てていくというのは、それを援助することが教育です。

ところが2006年、第1次安倍政権によってつくられた教育基本法は、1947年の教育基本法と同じように名前は教育基本法ですけれども、中味がまったく違います。あれは法律の改定ではなかった。47年教育基本法を廃止する、私は「死刑」になったといっていますが、そして同じ名前で別の法律をつくったというのが2006年教育基本法です。ここでは第2条の教育の目的というところに、徳目を書き込んだ教育基本法ができました。この教育基本法を具体化するのが今回の学習要領であり道徳の教科化です。実は安倍さんたちはこういうふうに言っています。2011年に中学校の教科書採択があったときに、安倍さんは当時野党でした。育鵬社の教科書がつくられたときに、その教科書をつくっている八木秀次さんたちのグループである日本教育再生機構が、育鵬社教科書ができた出版記念の集いをやりました。安倍さんはそこに出席して元総理大臣という肩書きで挨拶をしています。安倍さんは、2006年に新しい教育基本法を作ったことは私の誇りとするところだ。そこに伝統と文化や道徳心を書き込んだ、と言いました。しかし育鵬社以外の教科書は、2006年の教育基本法をまったく反映していないと批判をします。その会のシンポジウムに安倍さんと一緒に出た下村博文さんは、当時教科書議連の幹事長でした。彼は2006年に教育基本法を改定し、2008年に新しい学習指導要領が行われたので、今度、つまり2011年にできた教科書は、立派な教科書ができただろうと思ってみたら前よりもっと悪くなった、でも育鵬社の教科書だけは自分達の考えを全て盛り込んだ良い教科書だ、ということを言った。

ところが、2008年に学習指導要領を改定したけれど、この改定は2006年の教育基本法ができるより前から議論されていたものです。ですから2006年の教育基本法の趣旨をそんなに十分には学習指導要領に反映していなかった。だから次に自分達が学習指導要領をつくるときには、なんとしても2006年教育基本法を全面的に取り入れた指導要領をつくるんだというのが、安倍さんや下村博文さんたちの思いなんですね。それが今度実現したというのが、この子ども不在の学習指導要領だと言うことができると思います。

国家と大企業に奉仕する資質・能力を身につける

さて、内容をかいつまんでお話しします。社会に開かれた教育課程ということですが、いままでの指導要領では学力をいかにするかということが教育内容の柱になっていました。その学力をどう育てるかということで、例えばそれをゆとり教育でやるのか、あるいはゆとり教育はダメだ、ゆとり教育を転換するんだということがこれまでの学習指導要領では議論されてきました。しかし今回は学力という言葉は一切使われていません。使われているのは資質、能力という言葉です。学力に替わって使われているのが資質・能力という言葉です。これは何かというと、学力というのは学問的な一定の根拠というか科学的な学問を背景としてつくられた概念、用語です。だからそれなりに学力が今どこにあるのかという科学的根拠があります。もちろん学力というとテストの点数だけのような見方がされていて、全国一斉学力テストによって点数が1点多いか少ないかということで子どもたちはいろいろ苦しめられているわけで、それは本当の学力という意味ではないと私は思います。けれども、その学力さえも今回はなくしてしまって、資質・能力という言葉に替えました。

資質・能力というのは科学的な用語ではありません。資質とか能力を誰がどう決めるのか。科学的根拠がないんですね。そこで誰が決めるかといったら、国家が決めるんです。どんな資質・能力を子どもたちに教育するのかということが問われてくるわけです。そこの資質・能力は、この社会に開かれた資質・能力を身につけるということですけれど、その社会とは何かというと企業です。企業に役立つ資質・能力を身につけるというのが、この指導要領です。そして人格の完成ではなくて「人材」の育成に転換するということです。「人材」という言葉を使うときは、私はいつも「」を使います。「材」というのは「もの」でしょ。人のかたちをした「もの」のことなんですね。これは子どもを人間として見ずに、企業に役立つ材料、あるいは国家に役立つ材料として、人のかたちをしている材料として見なしていると思いますので「」を付けて使います。そういう人材を育成するというのが資質・能力という言葉とともに使われています。

そして育成を目指す資質・能力とはどういうものか。その中で一番の重要な資質・能力は道徳であるということが中教審答申の中で明記され、今回の指導要領で謳われているというわけです。こういう考えのもとに学習指導要領はできています。大企業のために英語を使える「人材」をつくる必要があるということで小学校の5、6年生に英語教育を正規の教科として導入し、現行の指導要領にあった5、6年生の正規の教科ではない英語活動を3、4年生に降ろすということがいわれています。それから小学校からプログラミングをやることも今回の指導要領に持ち込まれましたけれども、これら全てが大企業の要求している内容です。こういうものを今度の指導要領では取り入れいています。教育体制の面では、やはり学習指導要領の役割と構成が大きく転換していきます。従来の学習指導要領は教育内容だけを取り扱っていましたけれども、今度の学習指導要領は教育内容がもっと改悪された内容として提起されているだけではなくて、子どもの学び方、教職員の教え方それから学校の運営の仕方、学校と地域の関係、学校と家庭の関係、こういうものを全て学習指導要領で決めてしまって、それを全部に押しつけていくということが企画をされています。こういうことによって教育目的の転換を完成させるということなんですね。

指導方法、評価、学校管理を一体として統制

もうひとつ評価の体制、評価のあり方、こういうものも全部決めてしまおうというのが今回の指導要領になっています。そういうことを徹底するためにカリキュラムマネジメントという言葉が導入されています。今回の学習指導要領の中には、アクティブラーニングですとかPDCAサイクルだとか、カタカナ語がたくさん使われています。カリキュラムマネジメントというのは、学校を企業と同じようにマネジメントする、学校経営を企業経営と同じようにやっていくことです。校長が社長のような役割をして、教員を企業の社員と同じように支配・統制をして仕事をさせていく、こういうことを学校がやるということがいわれています。そういう中でPDCAサイクルの導入がいわれて、これがとんでもないものなんですね。PDCAサイクルとは、PLAN、DO、CHECK、ACTIVE―計画して、実行して、確認して、それをまた再度実行する。これは、大企業が製品生産の合理化のために編み出したものです。企業が商品を作るのにはできるだけオシャカを少なくする必要があるということですね。例えばネジをつくるときにいろいろなかたちのネジができたら困るわけで、同じ、均質のネジをつくる、簡単にいうとそういうことです。そういうものを大量に生産していく、そのミスをなくすために現場でPDCAサイクルによって職場を徹底するということを合理化の手法としてやってきた。これを学校現場に導入するということです。それは学校現場を商品生産と同じように考えるということです。ひとりひとりの人間を育てるのではなくて、同じ品質、同じ規格の人間、「人材」をつくりあげる。これをこれからの教育の柱にしていくという、ちょっと考えればとても恐ろしいことをやるわけですね。

ですから後ろに、菱山南帆子さんの本がありますが、あれを読むととても面白くて、まさに個性豊かな子どもとして育っていくわけです。今度の指導要領は、あんな子を絶対つくらない。ああいう子を枠にはめてしまって、どうしてもそこから出ようとしたら退学させる。そういうことまで含めて考えています。学校から放り出す。「悪貨は良貨を駆逐する」ではありませんけれども、そういう子が1人でもいると、均質の人間をつくるのに非常に弊害になるということで、そういうものが生まれないような教育をしていく、それが今度の学習指導要領になると思います。

この学習指導要領が実施されると、先ほど司会の方が、学校がブラック企業になっているといいましたけれどもまさにその通りですね。日本の小中学校教員たちの超過勤務時間は80時間です。もう過労死寸前の状況にあります。しかもいわゆる風呂敷残業というのが教員は非常に多くて、家に持ち帰って遅くまで仕事をしています。今度の指導要領が実施されると、もっとひどくなる。死人が出ると思います。だって小学校で正規の道徳が1時間あり、英語教育があり英語活動が増え、プログラミングの時間が増えるわけです。これだけでも大変な状況になります。いまでも土曜授業をやったり小学校で7時間授業を平日にやって、しかも全国一斉学力テストで競争させられているわけです。そこで少しでも上に行こうとするために、正規の授業をほっぽらかして一定期間、過去問題をやっている。なおかつ全部やらなければいけないということになれば、それはもう大変なことになります。教員は師走だけじゃなくて1年中走り回ることになる。これが今度の指導要領だと思います。

「特別の教科 道徳」の教科化への経過

指導要領ともうひとつの目玉は道徳の教科化なんですね。「特別の教科 道徳」というのが決まりました。これは第1次安倍政権でも安倍さんは道徳を教科にしたいということで、教育再生会議が道徳を正規の教科にしろという提言を出しました。そのときは当時の文科大臣がそれをすぐに中教審に諮問しました。中教審は、道徳は教科になじまない、何よりも正規の教科にしたら評価しなければならない。道徳を評価するとなれば子どもの心を評価することになるわけだから、そんなことはやっぱり教育としてやってはいけない。だから道徳の教科化反対という答申を出しました。それで実現しなかった。そこで今回は第2次安倍政権になって、2013年1月に教育再生実行会議を安倍さんは首相直属の機関としてつくりました。そこがわずか数回の審議でいじめをなくすということを理由にして、いじめをなくすための法律をつくれ、それから道徳を正規の教科にしろという第1次提言を出しました。いじめ防止法はすぐに法律案ができて国会に出されて、6月にいじめ防止法が成立します。ひどい法律です。ほとんどの人は法律なんか見ないから、こんなのが法律になっていいのかと思うんですけれども「子どもはいじめをしてはならない」という条文があります。馬鹿げているでしょ。国会で定めた法律で「いじめをしてはならない」と決めれば子どもはいじめをやめるか、そんな馬鹿なことはないでしょ。いじめをなくすためには学校現場でもっと違うことをやらなければいけない。ところがそういう法律をつくりました。ではこの法律が施行されていじめが減ったか。むしろ増えていますね。原因は別のところにあるからです。

もうひとつ、いじめをなくすために道徳を正規の教科にしろということです。そのときに問題になったのは、滋賀県大津市の皇子山中学校の2年生がいじめられて自殺をしたことです。いじめ自殺をなくすためには道徳教育を充実する必要がある、だから正規の教科にしろといった。ところがこれも何の科学的根拠もありません。むしろ矛盾したことなんです。当時の皇子山中学校は文科省の道徳教育推進校、指定校だった。以前の「心のノート」とかその後改定された「私たちの道徳」、文科省がつくった道徳の副読本を使って熱心に道徳教育をやっていた学校です。そこでこういう事件が起こったわけです。だから道徳教育をやったらいじめがなくなる、自殺がなくなるということは何の根拠もない話です。でもそれを最大限の理由にして道徳の教科化を提言しました。

そこで下村さんは考えたわけです。彼は「リベンジ」という言葉を使って、リベンジするためにどうするか。これをすぐに中教審に諮問するとまた跳ね返される。そこで彼が考えたのは、文科大臣の諮問機関として道徳教育の充実に関する懇談会という有識者会議を設置して、そこに例えば日本教育再生機構がつくった「はじめての道徳教科書」とか道徳教育をすすめる有識者の会の「13歳からの道徳教科書」とか、こういうものを中心になってつくったのは貝塚茂樹さんという武蔵野大学の教授で、元文科省にいた人ですけれども、彼を中心にしてその有識者会議を設置しました。当然道徳の教科化を主張していた人たちを中心につくられていますから、その有識者会議では道徳を正規の教科にする必要があるという報告を出します。その報告と教育再生実行会議の提言のふたつを根拠にして、下村さんは中教審に諮問しました。それでも心配なので中教審メンバーを入れ替えて、あの櫻井よしこさんを委員にして、万全の態勢で諮問したわけです。

道徳の検定教科書導入や評価の問題

それでも中教審では結構反対意見がありました。でも文科省はそれを抑えつけて、乗り切って答申を出しました。何が問題になったかというとふたつありました。ひとつは検定教科書をつくらなくてはいけない。私たちも道徳の教科化に反対したひとつの理由として、検定教科書問題を挙げていました。どういうことかといいますと、道徳以外の教科は人文科学とか社会科学とか自然科学というような科学的な学問が背景にあります。国語の教科書でも社会でも算数、理科の教科書でもみんなそのの背景には学問があるわけです。教育というのはもともといままでの人類の学問研究の成果、到達点をもとにして、その財産を子どもたちに受け継いでいくものです。そういう意味では教科書も学問的な成果をもとにして書くわけです。もちろん学習指導要領が検定基準として使われますから、それをもとにしなければいけないわけですけれども、しかし内容としてはそういう科学をもとにして教科書を書きます。ですから例えば社会科教科書の検定では有名なのは家永三郎さんの家永教科書裁判があるわけです。32年間たたかいました。ここで争われたのは、日本史の教科書ですから歴史研究の状況から考えて家永さんの記述が学説状況に合っているのかどうなのか、つまり学問に照らしてどうなのか、検定意見もそこで争ったわけです。

ところが道徳というのは、そういう科学的な学問が背景にないんです。これはいわゆる徳目、最近は価値といいますが、国が定めた価値をいかにして教科書に盛り込むのかというのが、道徳教科書のお話になります。ですから学問を背景にした検定における論争というのはできないわけです。検定意見が付けば従うしかありません。このことも中教審で問題になって、検定がこれまで以上に恣意的になるのではないかという発言をした委員が何人もいました。それに対して文科省も認めたんですね。だから道徳教科書の検定においては現場教員を複数、教科書補佐官の補助として付ける。ですから調査官、つまり検定官によって恣意的に検定が行われることはない、といって乗り切りました。

もうひとつは評価です。子どもの心を評価するわけですから、ここが問題になった。そこで「12345」とか「ABCDE」とか数字などによる5段階評価とかそういう評価はしない、文章による評価をするということで乗り切りました。ところが、私は考え方によっては数字という客観的というか物理的というか、例えば3と付けられたら「あっ、3か」で済むわけですけれども、文章による評価というのは、子どもたちの行動、子どもたちが話したこと、子どもたちが書いたこと、そういうものが道徳教育の成果としての子どもの文章とか発言とか行動、態度となり、これを文章で評価するということです。そうすると簡単にいえば「君は愛国心が足りないよ」とか言われるわけでしょ。私はこの方が「3」といわれるよりはきついと思うんです。子どもにとって精神的にきついと思います。でもそういう評価をするということになりました。こうして道徳の教科化が進められて道徳教科書ができました。

2017年小学校道徳教科書の採択

教科書の話をしたいと思います。資料として私どもがつくった「小学校道徳教科書を読む」というのをつけましたが、いま道徳教科書は8社が検定に出して全部合格しました。1年から6年までありますが、検定の単位は1、2年生用、3、4年生用、5、6年生用となっていて各社とも1年生用、2年生用というふうに分冊にしています。ここにその8社の教科書の書名なども書いておきました。なお「廣済堂あかつき」と「学校図書」の2社が、子どもが書き込みをしたりするものとして分冊をつくっています。8社で6年間ですから48、なおかつ2つの会社が分冊をつくっているのでそれに12を足す。そういう数の教科書ができています。「子どもと教科書全国ネット21」ではその8社について分析作業をして、25日までに資料集をつくろうとしています。その資料集に載せることにしているのが「小学校教科書を読む」というタイトルになっている内容です。

道徳教科書の検定は、今年は検定意見の数は非常に少なかったです。道徳教科書は初めての教科書ですから私たちはもっと検定意見が多いのではないかと予想していました。なぜ少ないかというと、各教科書会社が非常に安全運転をしたということです。不合格になると大変ですから、ならないようにする。あるいは検定意見がついたとしても、学問を根拠にして反論はできません。いわれたとおりに直すしかないわけです。したがってできるだけ検定意見がつかないように安全運転というか自主規制をしたと思われます。そういう意味で検定意見が少なかった。しかも私たちも驚いたんですが、今回の検定はひとつの項目について検定意見がついたものもありますけれど、本一冊を学習指導要領や検定基準に照らして不適切である、という意見がついています。具体的には伝統文化の取り上げ方が弱いということが一冊全体についています。新聞でも話題になりましたけれど、パン屋が和菓子屋になったという検定がありました。これは実はパン屋はダメだという検定意見はついていません。本全体を通して伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度から見て、この本全体の扱いが不適切であるという意見がつきました。教科書会社は、ではどこを変えようか。教科書会社の編集者あるいは著者と教科書検定官、調査官との間でやりとりがあって、「じゃあ、ここを変えたらどうですか」「いいんじゃないの」ということでこうなったと思います。それで和菓子屋になった、という事情なんですね。

「感謝」「国旗国歌」などにみる検定例

それから、これは子どもたちが公園でアスレチックで遊んでいて「大好き、私たちの町」というタイトルのお話しです。ところがここでも検定意見として同じような、学習指導要領に示された内容に照らして扱いが不適切である、伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度に照らしてこの本全体で不十分だといわれた。教科書会社はどこを変えるかといろいろと考えて、「じゃあこれを和楽器屋さんにしよう」ということで「どうですか」といったら「いいんじゃないの」といわれてそこで変えた。馬鹿馬鹿しいですがこういうことがあるわけです。これもそうです。消防団の「おじさん」が消防団の「おじいさん」。おじさんをおじいさんにするんだから一字入れればいいだけだけれど、イラストをおじいさんの顔にするように直したわけです。これは検定意見としては「感謝」という内容ですけれども、感謝について検定基準では年寄りに対する感謝を盛り込めということがあります。だからこの教科書ではお年寄りに対する感謝がないということでこの部分をお年寄りに替えることによって検定に合格した。いくつもこういう例があります。

もうひとつひどいのは国旗国歌の扱いです。これは2年生の教科書ですが、国旗国歌をこんなに扱っているのはこの教科書会社しかありません。しかも間違いだらけです。オリンピック憲章でオリンピックで使う旗、あれは国旗ではありません。選手団の旗です。歌も国歌ではありません、選手団の歌です。ですからJOCが、もう日の丸はやめて桜をかたどった旗を日本選手団の旗にしようとすればそれでいいわけです。シドニーオリンピックのときに朝鮮半島は統一選手団をつくりました。あのときには朝鮮半島をかたどった旗を選手団の旗にしましたね。ああいうものなんです。ところがこの教科書では国旗・国歌としてオリンピックを扱っています。本当はこれに検定意見を付けるべきです。でも付けていません。何を付けたかというと、「国旗や国歌を大切にする気持ちの表し方というところで起立して国旗に対して姿勢を正し帽子を取って礼をします。他の国の国旗掲揚や国歌演奏のときにも同じようにします」というので、ここに壇上に日の丸がある写真が載っています。これに対して検定意見がついて、そしてどう替えたのか。「国歌が流れたらみんな一緒に歌いましょう」ということで起立して歌っている写真に替えました。この会社がもうひとつひどいのがあります。「下町ボブスレー」ということで下町でボブスレーをつくってジャマイカの選手が使いましたね。安倍さんがこの工場を訪問して乗った。わざわざこんな写真、「下町ボブスレー」という題材で安倍さんの写真を使う必要があるのか。これは政権に対するサービスでしょ。こういうことをやっているわけです。やれといわれたわけじゃないですよ。教科書会社が自主的にやったわけです。

評価し、使える教材へは対応が必要

そしてもうひとつ、道徳の教科書は実は読み物教材がたくさんあります。表をつくっておきました。表2は文部科学省がつくった「私たちの道徳」に掲載されている作品で、5社以上が使った作品を全部書き出してあります。それから、いままで民間の会社が副教材で道徳教材を発刊していましたが、そこに使われた作品で5社以上が使ったものを全部ここに掲載しました。実は今度の道徳教科書は金太郎飴なんですよ。どの会社も同じ教材を使っています。たぶん表紙をなくすとどの会社かわからなくなると私は思います。そのひとつがこの「かぼちゃのつる」という教材で、8社全部にあります。どういう話かというと、カボチャがどんどん蔓をのばして、最初はミツバチが出てきてそんなにあちこちのびちゃいけないよ、そっちへのびるのはダメですよというと、そんなことは構うもんかとカボチャがいうわけです。今度はチョウチョが出てきてあなたの畑はまだすいていますよ、そちらにのびたほうがいいですよというと、いやよだ、ぼくはこっちにのびたいんだということでのびるわけですね。次に隣のスイカ畑のスイカがここは自分の畑だからこっちにのびるなというけれども、ちょっとくらいいいじゃないかといってのびていくわけですね。その次に犬が出てきて、ここはみんなが通る道だよというと、またいで通ればいいじゃないかといってのびていくと自動車が来て蔓を踏んでしまう。これに対して踏まれたって平気だいとカボチャがいうと、そこへトラックが来てカボチャの蔓を踏んで切れてしまう。「いたいよ、いたいよ、あーん、あーん」とカボチャが泣いたという、こういう話です。

これは実は文学作品ですけれども、これはわがままなんだと使うわけです。ですからここに「わがままをしないで生活することはどうして大切ですか。考えよう。」というのがあって、「カボチャがみんなのいうことを聞かなかったのはどうしてでしょう。」、「ぼろぼろ涙を流して泣いたときカボチャはどんなことを考えたでしょう。」、「カボチャが蔓をのばすときどうすれば良かったでしょう。」ということが書いてある。これは光村図書の本ですけれどもほかの教科書にも全部「かぼちゃとつる」があって、そういうことが書いてある。結局カボチャが蔓をのばしたのはわがままだと位置づけて、そのことを問いかける内容が書かれているわけです。そういう意味でこの教材はなかなか大変なものがあります。

ただ私たちは悪い給材の方が多いけれども、その悪い教材を本当にそのまま教えていいのかという問題を来年4月から使うときに先生と話していかないといけないし、提起していかなければいけないと思っています。同時にいわゆるいい教材といいますか、子どもたちにぜひ教えたいという教材を一生懸命頑張って入れている教科書会社もあります。そのひとつがこれです。「世界人権宣言を学ぼう」ということで谷川俊太郎さんの訳の世界人宣言を全文載せている。子どもの権利条約、これは部分ですけれども載せている。こういう人権という教材を扱う教科書もあります。それから、例えば沖縄戦でいうと白旗の少女を取り上げている教科書もあります。ただ平和というのがないんですね。道徳の検定基準の項目が、各学年に19から22に規制されています。その中に平和とか人権とか憲法などは何も書いていません。ですから白旗の少女も平和教材ですけれど、「国際理解」というところで使っています。というのは、いまから何年か前にあの白旗の少女の写真を撮った人と撮られた人が出会うわけです。その話があるから「国際理解」だということで取り扱う。それから教科書によっては例えばキング牧師の話も出てきます。そういうものは大いに評価して使っていくのも必要だろうと思います。

子どもの討論を国家が求める方向に導く

ここに紹介したように「かぼちゃのつる」のわがままについて、子どもたちに書かせるあるいは討論させる。今度の道徳の教科書について文科省は考える、あるいは議論する道徳という、いままでの道徳教育を転換するということをいいました。だから設問がたくさんあり、子どもたちに書かせ、討論させます。ところがその書くこと、討論することは自由討論じゃないんですよ。教科書の中にこういう方向が定められていて、子どもたちが書いていく、討論していく、そうするとその結論は一定の方向に導かれるようになっていますね。無理矢理討論させられて無理矢理書かされる内容が、実は国家が求める方向に導かれていくことになる。こういうものとして教科書がつくられている。だからこの通りの授業をやっていくとどんなことになるか。一言でいうと森友です。道徳の教科書も新しい指導要領も、森友の教育を全国でやるという以外の何ものでもないと私は思います。

森友のやっていることは、例えば教育勅語はひどい、あんなのを幼稚園の子どもに暗唱させるのはひどいというけれど、あれは日本会議がやってきたことです。何年か前の日本会議の鹿児島県本部での2.11集会で、幼稚園児が教育勅語を暗唱している写真が日本会議の機関誌「日本の息吹」に出ています。やはり何年か前に沖縄で本土復帰の祝賀集会の実行委員会をつくって5月10日に集会をしたときに、そこで保育園児が教育勅語の暗唱をしているという資料があります。そういうことを、いってみれば森友は組織的に幼稚園教育の中で取り入れてきたし、つくろうとした小学校では教育勅語をもとにした教育をやるということを、籠池さんはいっていたわけです。いままさに教育勅語の復活を目指すような動きが安倍政権のもとで行われています。今日配った「教育勅語の復活は戦争する国の道徳教育を目指す」、これはあとで読んで下さい。

今度の学習指導要領では、中学校の体育の授業で銃剣道が明記をされました。案の段階では銃剣道は載っていなかった。実際にやっている学校は1校です。ほとんど自衛隊の訓練でやっていることですが、一応いまの指導要領の中でも銃剣道も武道の中にあります。あまりやっている学校はないからというので、案の段階では入っていなかった。それをあの「ヒゲの隊長」の佐藤参議院議員が文科省に問い合わせて、なぜ銃剣道が入っていないのかといったら、「やっている例があまりないからですよ」といわれた。それならどうしたらいいかといったら、パブリックコメントで意見が出れば変えることもあるといわれて佐藤は自分も出して、国会議員とか彼の支持者に銃剣道を入れろというパブリックコメントを出させたんですね。その結果これが入りました。実は中学校の剣道では突きは禁止されています。銃剣道というのは突きをメインにした武道で、突く対象はのどと心臓です。のどと心臓のところに防具を着けてやります。そういう危険な、まさに戦争の道具、やり方である、こういうものを復活させるということです。

必ずしも真理・真実を教えなくていい道徳教育

いまの教育が目指しているような戦争をする国の人材づくり、そして大企業のための人材づくりを目指すという教育再生、その中心的な柱として今回の新学習指導要領と道徳教科化があると思います。道徳を教科にするときに「特別な教科 道徳」という言葉が使われました。その「特別の」という意味は筆頭教科という意味です。そのように私たちは考えた方がよいと思っています。もうひとつ文科省が道徳教育をどう考えているかということをひとつだけ紹介しておきますと、いいといっています。

何かと言いますと、実は江戸しぐさというものがあって、文科省がつくっている「私たちの道徳」の5、6年生用に出てきます。ここには「江戸しぐさに学ぼう」と書いてあって、「300年もの長い間平和が続いた江戸時代に江戸しぐさは生まれました。江戸しぐさには人々が互いに気持ちよく暮らしていくための知恵が込められています」と書いてあります。これは嘘っぱちなんですね。この江戸しぐさというのを考案したのは戦後、芝三光さんという人が日本人のマナー向上のためにこういう態度というかしぐさを身につけた方がいいということで、それに「江戸しぐさ」という名前を付けました。それをあたかも江戸時代からあったかのように、これを一番広めたのは元の公共広告機構、ACジャパンです。じつは育鵬社の公民の教科書にも江戸しぐさが載っていました。ところが一昨年、江戸しぐさというのは江戸時代に生まれたものじゃなくて戦後考案されたものだということで、歴史研究者の原田実という人が「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統」という本を講談社の子会社の星海社から新書版で出しました。それによってこれが全くのうそだとわかったんですね。

そこで育鵬社は2015年の採択のときに、教科書の検定に出すときには載っていてそのまま検定に合格していました。ところが見本本を作る段階で我々はこれを批判の材料に使えると思っていたら、これをなくしてしまった。育鵬社はなくしたのですが、文科省は「私たちの道徳」の改訂版をつくったけれども、これを残しました。あるジャーナリストが文科省に電話をして、なぜ残したのかをいろいろ聞きました。そのやりとりの中で、文科省の担当者が「道徳教育というのは必ずしもそれが事実じゃなくてもいい。道徳の教材として使えればいいんですよ」と言ったというんですね。つまり「うそ」でも、いいということを教えようといういうことで道徳の教科化が行われているということです。このことを私たちはもっと知らせていきたいと思っています。これからどうするのかとかそういう話は質問のところで話したいと思います。

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