私と憲法19号(2002年10月発行)


155臨時国会では有事3法などが審議されます、
石破長官の新任は危険です、いまこそ運動の強化を!

高田健(事務局)

「市民連絡会」や、「市民緊急行動」などが10月に入って有事法制に反対する行動を立て続けに設定しているので、このところ会員の方々や友人から朝日新聞などで「有事法制と個人情報保護法案は臨時国会見送り」といわれているがどうか?という問い合わせが結構あります。最近もある仲間に以下のようなメールを発信しました。

メールありがとうございました。9月26日の与党3党党首会談では、「臨時国会で有事3法案を通す」と確認しました。保守党の二階幹事長は27日、福岡市で「与党だけでも修正して成立を目指すべきだ」と講演しました。一部のマスコミの論調は要警戒です。

私個人の体験では、憲法調査会設置のための国会法改定に反対している最中に、今回「見送り」報道をしている某紙が「憲法調査会なんてできっこない」という主旨の論調を展開したので、おお迷惑したことがあります。

ガセネタも含めて、伏魔殿のような永田町のかけひきに惑わされず、民衆運動の高揚で有事法制阻止をという正道を全力で追求すべき時かと思います。今後ともよろしく。以上。

実はこれらの新聞記事も厳密に見ると「成立は見送りか?」というものに過ぎないのですが、見出しを含めて明らかに誤解をまねくものです。もちろん有事法制の審議はします。まして、今回の小泉改造内閣での石破防衛庁長官の新任、非核3原則見直しコンビの福田官房長官、安倍副長官の留任で、小泉首相の下に有事法制推進トリオが結成されたようなものです。これは大変危険で、手ごわいシフトです(次頁参照)。すでに水面下での修正協議らしき動きも出ています。「おのおの方、ゆめ油断召されるな」といいたいところです。先日、有事法制反対でがんばっているある有力労組の幹部の方とお話していたら、「どうもあの報道があって、いまいち、組合員の空気が盛り上がりに欠ける」と聞きました。これは大変なことです。

さあ、皆さん、ここ一番、がんばりぬきましょう。有事法案をハイアンへ。

資料・石破茂・新防衛庁長官のHPから http://www.ishiba.com/

大変な人物が防衛庁長官になったものです。ぜひ読んでください。徴兵制発言についての弁明もあります。こういう人物を防衛庁長官にした小泉首相の責任は重大です。長文ですが、重要なので原文をそのまま転載します。(編集部)

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有事法制をめぐる議論について 地方公聴会に参加して

さる6月5日、鳥取市において有事法制関連法案の地方公聴会が開催された。新聞報道では、与党推薦の公述人からも批判が相次ぎ、今国会における法案の成立は一層困難になったかのようである。

「どこの国が日本を攻撃するというのか」「有事法制より外交努力を」「憲法9条堅持で平和は守れる」等々、ただ日本においてのみ通用するこのような議論を大真面目にしているとすれば、相当におめでたいと言わねばならないし、その非現実性を承知の上でこのような議論を展開しているとすれば、その真の目的は奈辺にありやと疑わざるを得ない。

日本に対する「脅威」は、日本を攻撃する能力と意図によって構成されるものであり、能力を持っている国がわが国周辺に存在しているのは厳然たる事実である。問題は「意図」であるが、よほどの血盟的同盟国ででもない限り、その把握は期待・推量の域を出るものではない。ましてその国の意思決定が、正当な民主主義のプロセスを経ず、世論を形成するマスコミの存在も無いとするなら、なぜわが国侵略の意図が現在もそして将来も「絶対にない」と断ずることができるのか、私には到底理解できない。

「軍事力の裏付けのない外交」が功を奏した例は史上稀である。仮に「世の中万事カネで解決できる」と考えているとするなら、それはまさしく日本独特の発想で、国際社会では通用しない。憲法第9条(特に第二項)さえあれば平和が得られるのなら、各国こぞって採用しそうなものだが、そのような例も寡聞にして聞いたことがない。このような明らかなためにする反対論については、そもそも基本的な世界観・人間観・価値観が異なるのであり、議論の交わる余地はないように思われるが、何やら55年体制下の古典的議論が再来した観もあり、今一度徹底した議論が必要である。空想的・夢想的な平和主義の再来と不毛な議論の復活は断じて阻止しなくてはならない。

当面最大の課題は、「有事法制それ自体は必要であるが、この法案には問題あり」とする立場の人々に政府・与党としてどう誠実に応えるか、である。「提出した法案が最善のもの」などという姿勢を堅持し、無理やりに強行するようなことがあれば、有事法制そのものの議論を決定的に遅らせる最悪の結果を招来することにもなりかねない。

そもそもこの法案、特に「武力攻撃事態法」は、議論を詰めないままに急拵えで提出されたものであり、自民党の内部討議でも相当に議論のあった代物である。今後の法整備の課題の手順・体制のみを示す単なるプログラム法的構成にしておけば、このような混乱は生じなかったと思われるが、そこに「地方と国の関係」や「地方の責務」などという理念的なものを挿入してしまったことにより議論が錯綜してしまったことは否めない。

さらに、国民が大きな不安を感じている大規模テロ対策や最も重要な「国民保護法制」について、法的整理や概念提示を行っていないことも、以前から指摘されていたことである。

大規模テロや不審船事案などに対しては、今でも法的な整備は相当にできているのだから、現段階でも可能なことは何か、逆に何が今後解決すべき課題なのかを明確に整理し、提示すべきである。

「国または国に準ずるもの」による「組織的・計画的な武力の行使」が行なわれない限り自衛権行使の対象とはならず、治安出動や海上警備行動などの警察権によって対処するとするのが現在の法制度であるのだから、海上自衛隊や航空自衛隊による治安出動や、自衛隊法第90条の特別の武器使用権の行使形態などを「警察権と自衛権の相違」について認識した上で、運用の観点からも明確に整理しておく必要がある。

地方自治体との関係については、今後「国民保護法制」において明らかにされることとなるが、整備にあたっての基本法の制定と概略の提示は不可欠である。「国民保護組織(従来「民間防衛組織」とされているもの)は、地方自治体・警察・消防などがその中核を担うと考えられるが、それら相互の指揮命令関係が明確でない。自治体警察は都道府県議会の同意を得て知事が任命する公安委員会により管理されることとなっているが、武力攻撃を受けた際は恐らく警察法第72条の緊急事態の布告がなされ、「内閣総理大臣が一時的に警察を統制し、緊急事態を収拾するため必要な限度において警察庁長官を直接に指揮監督する」状況になっているものと考えられえる。また、自治体消防は市町村長が管理することとなっており、知事の権限は及ばない。

このような場合、大規模地震対策特別措置法第17条のような仕組み(知事を長とする対策本部が設置され、都道府県警察の長や陸上自衛隊の方面総監、国の機関である指定地方行政機関の長も本部員として参画する)が検討されるべきである。また、日本も早急に加盟しなければならない「国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書」第65条に「民間防衛任務が軍当局の指令または監督の下に実施されていること」は敵に有害な行為とみなしてはならず、保護の対象となることを明記していることも強く認識されるべきである。

いずれにせよ、「国民保護法制」については、当然のこととして国際法規との関連性を明確にするとともに、その必要性と法整備の手順・体制を明らかにしなくてはならない。

先の大戦において、陸軍と内務省の権限争いの結果として国民の避難誘導が遅れた結果、民間人に多大の犠牲が生じたことについての反省なくして、これを語るべきではない。

この法整備を官僚のみに任せる限り、縦割り行政の弊害としての権限争いが延々と続き、二年以内の整備などとてもできないのではないかと危惧するのである。国務大臣を長とし、都道府県知事や市町村長、研究者などで構成される「国民保護法制整備本部」を設置するか、推進本部のもとにそのような人々による「行政改革審議会」的な審議会を設けて、一年の期限を区切って法案を作成すべきと考える。

時間がかかると考えるのは、省庁間の権限権限調整が難航するからであり、それを排除する仕組みを作り、国民のために断行することこそが政治のリーダーシップなのである。

今国会において、このようなビジョンを示し、関連法案が成立することを強くしたいし、その実現のために最大の努力をしたいと願っている。

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有事法制をめぐる議論にいついて(その2)非核三原則をめぐる官房長官発言等

本日(6月10日)、衆議院武力攻撃対処特別委員会において、非核三原則についての集中審議が行なわれた。残念ながら、と言うべきか、当然、と言うべきか、議論は全く噛み合わず、ただ虚しさのみが残った三時間であった。聞いていた国民も、あまりのレベルの低さに驚き呆れた人が多かったのではあるまいか。週刊誌の一方的な報道のみを論拠として政府を追及する野党議員を見ていて、怒りよりも情けなさ、悲しさを感じたのは私だけではあるまい。

ここぞとばかりに声高に自説を主張する共産党はまだしも、民主党(特に旧民社党出身議員)や、自由党議員などは、質問している本人が一番内心忸怩たるものがあったのかもしれない。

唯一の救いは、小泉総理、福田官房長官、安倍官房副長官が「現内閣では非核三原則を維持するが、将来の内閣のことまでは拘束できるものではない。非核三原則は政策論であって、憲法論ではない」とのラインを一貫して崩さなかったことである。マスコミに阿ねてこれを崩してしまえば、日本の防衛政策は総崩れとなってしまう。将来のことなど誰も保障できないのだ。

日本が戦後平和を享受できたのは、間違いなく自衛隊の存在と日米安全保障条約のおかげなのであり、それを支えたのは相互確証破壊理論による核抑止力であったはずだ。

野党は「日米安保は永遠不滅」と信じているのかもしれないが、万が一にもこれが一方的に破棄され、「核の傘」から放り出されたとき、わが国の安全はどのように構築されるつもりなのか、是非とも見解を賜りたいものである。

「核廃絶が世界の流れ」というが、米露が進めている核兵器削減はあくまで「廃絶」ではないはずである。そして、インド・パキスタン両国間でなんとか戦端が開かれずに推移しているのは、両国が核保有国であるからなのであって、仮に両国とも非核保有国であれば、とっくに第4次印パ戦争が勃発していたはずなのではないか。これをどう考えるのか。

唯一の被爆国であることのみをもってインドやパキスタンに核廃絶を訴えても、決して説得力はない。「アメリカの核の傘の下で平和でいられる国に言われる筋合いはない。日米安保条約を破棄してから言ってもらいたい」と言われたとき、どう反論できると言うのか。

「だからこそアメリカにも核廃絶を訴えるべきなのだ」との結論になりそうだが、それでは日本から一方的に条約破棄すべきとまで責任を持って言い切れるのか。それが言えない限り、何を言ってみてもパフォーマンスの域を出るものではない。

「非核は人類の願い」であり、その究極の理想実現のためわが政府が尽力すべきことを私は否定しない。しかし、インドの唱える「非核の実現のための核配備」理論に対して有効な反論が構築できていないし、通常兵器のみの世界になったとき、それが果たして今よりも平和な世の中なのかについても自信がない。加えて、国家ではないテロ組織や団体・個人までどうやって規制ができるのか、対人地雷廃絶と同様に展望がもてないままでいる。単なる綺麗事を並べるだけでは、説得力もなく、理想実現の推進力たり得ないことを我々は自覚しなくてはならない。

週刊誌(サンデー毎日)の今週(6月23日)号は、「福田・安倍よりさらに過激な議員がいた!徴兵制は違憲ではないと発言」として私を紹介しているが、あまりの悪辣さと馬鹿馬鹿しさに、これまた怒りを通り越して驚き呆れるばかりである。この手法は安倍氏のものと全く同一である。取材を受けた際に「安倍、福田に続いて今度は自民党国防議員が標的ですか」と問うたのだが、正しくその通りの記事で、ここまで来るとただただ感心するほかはない。「私はあなたの言ったとおりに伝えますが、編集長がどういう記事にするかはわかりません」と言い残した取材記者は、今から思えば予防線を張ったのであろう。

テレビも新聞もそうなのだが、こちらが語った中で、実際に取り上げられるのはよくて一割か二割であり、その選択権は一方的にマスコミの側にある。「部分」を語ったことは事実でも、それが全体の脈絡の中でどのような位置付けになっており、何が真意なのかは、視聴者や読者には全くわからない。「部分」を切り貼りすれば、まったく別の内容にすることも可能であるのだが、第四の権力たるマスコミには、三権分立のチェック機能も一切働かず、これほど恐ろしいものはない。

今日の集中審議でも、野党側から「マスコミに誤解されるような発言をしたことそれ自体がいけないのだ」などというめちゃくちゃな指摘があったが、政治家の側からすれば「それならマスコミ相手に発言すること自体をやめましょう」ということになるのは当然のことである。

「誤解」などというシロモノではなく、あれははっきりとした意図をもった、ほとんど「作為的文書」に近いものなのだ。このような姿勢はマスコミの自殺行為に直結することになるのだが、どうしてそのことに気が付かないのか、不思議でならない。

徴兵制についての政府の見解は、「徴兵制度は、わが憲法の秩序のもとでは、社会の構成員が社会生活を営むについて、公共の福祉に照らし当然に負担すべきものとして社会的に認められるようなものではないのに、兵役といわれる役務の提供を義務として課されるという点に本質があり、平時であると有事であるとを問わず、憲法第13条(個人的存立条件の尊重)、第18条(奴隷的拘束、苦役の禁止)などの規定の趣旨からみて、許容されるものではない」(昭和55年8月、政府答弁書)というものであるが、その後昭和56年2月、宮沢官房長官が、「憲法第18条の引用を再検討したい」、続いて鈴木総理も「その線に沿って検討する」旨発言、今日に至っている。

「徴兵制度は憲法違反」などという見解を打ち出しているのは、私の知る限りわが国のみである。そしてわが国も1979年に承認している国際人権規約・市民的および政治的権利に関する国際規約第8条は、「社会の存立又は福祉を脅かす緊急事態又は災害の場合に要求される役務」は「強制労働」には含まれない旨、明確に定めている。このことについても明確に申し上げたはずだが、記事ではもちろん一切取り上げられていない。核の議論とも共通するわが国の独善性が、ここには如実に現れている。

「徴兵制度は奴隷的拘束であり苦役なので、わが国は憲法違反としています。どうです、立派でしょ?ぜひ貴国でもそうなさることをお薦めします」などと得々として外国政府に言った場合、どのような反応が返ってくるか、一度でも考えたことがあるのだろうか?国家としての正当性自体が疑われることは必定であり、私はそんな場面を想像しただけで、あまりに恥ずかしくて日本人であることすらやめたくなる。

「徴兵制を採用しない」との政策はありうるが、憲法論と結びつけることには個人として賛成しかねるし、まして憲法改正でそれを明文で定めるなどというのは、とても正気の沙汰とは思われない。

「なぜ今か」との指摘は完全な事実誤認であり、安倍氏も私も持論としてずっと以前から言っていることである。それがなぜか今、公に取り上げられるようになっただけのことであり、これはまずいと一部の人々が急に判断した、というのが実際のところである。

カンボジアPKOに参加した自衛隊部隊が、選挙監視のため派遣されてきたNGOを守る法的根拠がないために、「NGOの人たちが撃たれるような状況になったら、間に割って入り、自らの正当防衛が成り立つような状況を作れ」という命令を受けていた、というのは、公然の秘密である。このようなことが許されてよいはずはなく、実際に危険に身をさらす自衛官の立場に立ってものごとを考えた法整備の必要性も指摘したのだが、それも全く取り上げずに綺麗事を並べる人を、私は絶対に信用しない。

軍(日本ではこれを実力組織という)に対する国民の理解と共感がない国に、本来の文民統制は決して成り立たず、そのツケは必ず悲惨な形でわが身に返ってくるのだ。それこそが歴史から学ぶ教訓の最たるものであることを知るべきである。

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