私と憲法188号(2017年1月1日号)


平和憲法の真意

高良鉄美(琉球大学教授・許すな!憲法改悪市民連絡会共同代表)

周知のとおり、2017年は憲法施行70年になる。今この時世であらためて、帝国議会における平和憲法を制定する際の審議の意義と真意について考えてみたい。

1946年暮れはすでに憲法が公布され、その内容実現に必要な法整備をしていた時期である。つまり、平和憲法の実現をめざして、どのような内容の法律が必要なのか、帝国議会はまだ憲法理念の具体化に向けて努力をしていたのである。国民主権を実現する国会のための国会法、民主行政を念頭に法律を執行していく内閣のための内閣法、法の支配を確立して人権侵害等がないように「憲法の番人」としての最高裁判所をはじめとする司法制度のための裁判所法、住民自治と団体自治を確立させる地方自治のための地方自治法など、次々と憲法理念実現のための基本法を制定していったのである。

これらは、憲法の枠組みを構築するための法律として、いずれも憲法施行前に制定され、憲法と同時に施行された。もちろん(旧)教育基本法や学校教育法もそれらの軌を一にしていた(ちなみに学制のため、憲法施行前に施行された)。こうした平和憲法の理念を実現し、具体化していく諸基本法を今現在も維持してはいる。しかし、教育基本法は形式的には一部を継いでいるように見えるが、愛国心的思考が入るなど、大事な部分が改変させられ、別の性格が混ざるものになった。先に挙げた憲法の理念と軌を一にする1947年制定の基本法の中で、唯一教育基本法が2006年(平成18年)制定なのである。その他の基本法も改正を重ね、改善点もありはするが、憲法理念から離れていっているように思える。

1946年、4月10日、女性の選挙権行使が認められた戦後最初で最後の帝国議会衆議院選挙が実施され、枢密院、衆議院、貴族院という3つの政府機関で憲法の審議が行われていった。枢密院は4月22日から審議を開始し、可決するまで1か月半を要した。衆議院では6月25日から始まり、実に丸2か月かけて8月24日に枢密院の可決した憲法案を修正可決した。2日後衆議院から送付された案に対し、貴族院では40日かけて修正後可決されたのである。これを衆議院で再可決し、枢密院でも可決された後、手続き的に天皇の裁可を経て、日本国憲法が制定された。この半年以上にわたる、いわば憲法案との奮闘的審議は何だったのか!「押しつけ憲法」というまやかしの言葉など入る余地はない。ちなみに選挙で選ばれた衆議院では421対8で圧倒的に可決、貴族院はさらに圧倒的な298対2という賛成多数であった。

帝国憲法改正案委員会によって行われた附帯決議では、「憲法改正案は、基本的人権を尊重して、民主的国家機構を確立し、文化国家として国民の道義的水準を昂揚し、進んで地球表面より一切の戦争を駆逐せんとする高遠な理想を表明したものである。然し新しき世界の進運に適応する如く民衆の思想、感情を涵養し、前記の理想を達成するためには、国を挙げて絶対の努力をなさなければならぬ。吾等は政府が国民の総意を体し熱情と精力とを傾倒して、祖国再建と独立完成のために邁進せんことを希望するものである。」 という決意が述べられていた。つまり、基本的人権の尊重、国民主権、戦争放棄の基本原理を、崇高な理想とはいえ、国を挙げて、特に政府が情熱をもって実現していかねばならないという強い要望なのである。これが平和国家日本を再建するために必要な理念実現に向けるべき情熱と努力なのである。講和条約による主権回復後の日本の再建に当たっても、平和憲法理念実現が大きな柱となっていく、その重要性を含蓄しているといってよい。

この平和憲法の審議には、米軍直接統治の沖縄から代表が参加する由もなかった。それでも、多くの日本国民と同じく、悲惨な沖縄戦を経た沖縄住民にもこの平和憲法は心の中にすんなりと入ってきたのである。米軍統治下で戦後生まれの私にも、沖縄を救う憲法として、蝋燭の明かりを灯されたように感じた。今でいえばLED並みの明るさだったように思う。届いていなかった平和憲法の灯りでも、沖縄ではまさに金科玉条であり、そのパワーを活用して、自らの血となり肉となったように思われる。この憲法こそがまだまだ沖縄を救う大切なツールなのである。

翻って、日本の現状はどうだろう。政府が平和憲法の理想達成のために国を挙げて努力しなければならないはずが、政府が率先して平和憲法の理念を破り去ろうとしているではないか。多くの国会議員の父祖(実際に含まれているであろう)ともいうべき、戦後初の選出議員たちの声をどのように受け止めているのだろうか。平和憲法の真意について真摯な議論を積み上げてきた70年前の空気は、国会議事堂のどこに影を潜めてしまったのだろう。

あの決議のように、あらためて、高遠な理想達成に向けて熱情と努力を傾けるよう政府に強く求めていきたい。

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昭和16年12月7日の早明戦― 憲法破壊の安倍政権に対する闘いは三つの共闘 ―

2016年12月8日

内田雅敏(許すな!憲法改悪・市民連絡会事務局長)

1 早明戦

去る12月4日日曜日、秩父宮ラグビー場にて大学ラグビー早明戦が行われ、終盤、早稲田が明治の猛攻をしのぎ24対22で、辛くも競り勝った。これで通算成績は、早稲田53勝、明治37勝、2分となった。早明戦が最初に行われたのは1923(大正12)年12月24日、42対3で早稲田が勝った。

以降、戦争による中断はあったものの、現在に至る迄、縦の明治(フォワードで縦に突進)、横の早稲田(バックスで横に展開)と云う両校ラグビーの特徴もあり、大学ラグビーの伝統の一戦として、数々の名勝負が展開され、多くの伝説も生まれた【注1】。この早明戦、かなり早い時期から、毎年12月の第1日曜日に行われるようになった。

2 1941年12月8日の前日7日が12月の第1日曜日

今年は、1941(昭和16)年12月8日(米時間7日)未明の日本軍による真珠湾奇襲【注2】から75周年。12月7日、オバマ大統領は、声明を発し、「最大の敵国ですら、最も緊密な同盟国になれるという証として今月末、安倍晋三首相とアリゾナ記念館を訪れるのを楽しみにしている」と述べ、「日米和解」と「同盟の強化」が演出されている。安倍首相は、真珠湾に何をしに行くのか、その前に行くべきところがあるのではないか、また真珠湾で何を話すのか等々の問題があるが、本稿はそのことを問おうとするものではない。

75年前の1941(昭和16)年12月8日は月曜日であった(米時間では7日日曜日、つまり日曜日の明け方を狙った奇襲攻撃)。その前日、7日は日曜日、12月の第1日曜日であった。この日、ラグビー早明戦が行われ、早稲田が26対6で勝った。

密かに択捉島の単(ひと)冠(かっぷ)湾に集合した日本海軍の機動部隊はハワイの真珠湾に向けて進行しており、攻撃の準備万端、他方、西太平洋では台湾から陸軍の上陸部隊を満載した日本陸軍の輸送船団も目的地マレー半島に向け出港していた。このようなときに日本国内ではラグビーの早明戦が行われていた。母校の勝利に気をよくし、明け方まで痛飲し、自宅で寝ていた毎日新聞の某記者は、本社からの電話でたたき起こされ、「しまった!今日だったのか」と大慌てで本社に向かったという。
戦争は、日常生活の中で、突如として始まるのである【注3】。

3 戦争賛美に雪崩を打った日本の知識人たち

真珠湾奇襲攻撃による日米・英戦争が開始されるや、「天皇危うし」と高村光太郎、伊藤整ら日本の知識人は、永井荷風、中島敦、清沢洌らの一部例外【注4】を除いて、一斉に戦争賛美に変わってしまった、

魯迅研究者で「戦後知識人」の代表的な一人である竹内好は『中国文学』80号(1942年1月)に以下のような巻頭言「大東亜戦争と吾等の決意(宣言)」を書いている。

「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動に打顫へながら、虹のやうに流れる一すぢの光芒の行衛を見守つた。(中略)12月8日、宣戦の大詔が下つた日、日本国民の決意は一つに燃えた。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思へば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであつた。支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失つたわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だつたのである。(中略)大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界史上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。(中略)耳をすませば、夜空を掩つて遠雷のやうな轟きの谺するのを聴かないか。間もなく夜は明けるであらう。やがて、われらの世界はわれらの手をもつて眼前に築かれるのだ」。

吉本隆明的に検察官として竹内好を弾劾しようというのではない。何が、竹内ほどの人物をしても「支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失つたわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だつたのである。」とまで書かせてしまったかということを考えたい。

4 陸上自衛隊の南スーダンへの派遣

南スーダンでは政府軍(大統領派)と反政府軍(前副大統領派)が激しく対立し、停戦の合意は完全に崩れている。そこへ、PKOの名のもとに、陸上自衛隊を派遣し、しかも「駆けつけ警護」までやるという。自衛隊員が発砲し、殺し、あるいは殺されるという事態発生の蓋然性が極めて高い。

2003年12月、小泉内閣下での陸上自衛隊のイラク派遣に際しては、防衛官僚出身で、当時官房副長官補(安全保障・危機管理担当)として政権の中枢にいた柳澤協二氏によれば、とにかく自衛隊員が発砲し、殺し、あるいは殺される事態の発生は絶対に避ける、自衛隊員に一人でも死者が出たら、政権が吹っ飛ぶと云う緊張感があったという。ところが2016年秋、陸上自衛隊の南スーダンへ派遣を決定した安倍政権には、小泉政権に見られたような緊張感はない。自衛隊員が殺し、殺される事態の発生は「想定内」としているかのように思われる。「未必の故意」は間違いなくある。

安倍首相が野党時代の2006年に書いた『美しい国へ』(文春新書、後に『新しい国へ』と改題)に、以下のような記載がある。

「今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命の上に成り立っている。だが戦後生まれの私たちは、彼らにどうむきあってきただろうか。国家のために進んで身を投じた人たちに尊崇の念をあらわしてきただろうか。たしかに自分の命は大切である。だが、時にはそれを投げ出してまで、守らなければならない価値があるということを考えたことがあるだろうか」(同書107~108頁)。南スーダンでの自衛隊員の死を「想定内」とし、沖縄県民の声を無視して米国の言うがまま新米軍基地の建設を強行しようとしているのはこのような考え方が安倍首相の背景にあるからだ【注5】。

2016年12月6日政府自民党は、わずか5時間余の審議をしたのみで、カジノを解禁する法案を強行採決した。昨2015年秋には防衛省は、武器輸出の窓口として防衛装備庁を発足させた。安倍晋三のいう「美しき国」と云うのは武器輸出国家、賭博国家か。

2014年5月、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議で、安倍首相は以下のように演説した。「新しい日本人はどんな日本人か。貧困を憎み、勤労の喜びに普遍的価値があると信じる日本人は、アジアがまだ、貧しさの代名詞であるかのように言われていた頃から、自分たちにできたことがアジアの他の国々にできないはずはないと信じ、経済の建設に孜孜(しし)として協力を続けてきました」。勤労の喜びの普遍的価値とカジノはどう結び付くのか。

なお同演説中には、「自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、平和を希求する一本の道をひたぶるにただひたぶるに日本は一度としてぶれることなく、何世代にわたって歩んできました。」というくだりもある、一体どこの国の話か。

戦前回帰の兆しが現れ出した1957年、「マッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と詠んだのは寺山修二だが、彼の父親は、アジア・太平洋戦争末期、インドネシアのセレベス島で戦死している。

山の画文屋辻まことは風刺画文「虫類図譜」(ちくま文庫 1996年刊 初出64年)で「愛国心」という虫について以下のように書く。

「悪質極まる虫。文化水準の低い国ほどこの虫の罹患(りかん)者が多いという説があるが、潜伏期の長いものなので、発作が見られないと、罹患の事実は解らない。過去にこの島では九十九%がこの発作による譫妄症状を呈したことがあり。死ぬまで治らぬ後遺症状があるから、現在、この島の住民は、その健康を信ずることができない。現在なお一寸したチンドン屋のラッパにもすぐ反応する症状を散見することがある」。

2016年9月26日、国会開会日における安倍首相の所信表明演説に対し、自民党議員らが一斉に立ち上がり拍手をするという、戦前の翼賛国会の悪夢を思い起こさせるような事態が生じたことはまだ記憶に新しい。

辻まことが戦時中の1943年天津時代に書き、死後に発見されたプライベートな散文、「告天子」は、フランス租界の東、郊外との境界当たりの土手に沿って北へと向かう仕事の帰り道でみた光景について以下のように記す。

「蓑虫さながらに襤褸(らんる)をまとった難民の子が同じ方向に歩いていく」のに遭遇したのは人影もない午後9時前の路上であったという。ひとりは五、六歳の女の子、もうひとりは歩き出したばかりの男の子。近づいてみると、女の子が、空き缶の中のスープ状の残飯を男の子の口に流し込もうとしているが、「懸命に啼泣(ていきゅう)する」男の子にもはや生をつなぎとめる力がないのは明白だった。戦闘を避けるために、郷里を離れた人々、掃討作戦で村を焼き払われた農民らが難民化して、都市に流入していた。まことは、ただの通行人として場をやりすごし、家のドアをあけた。「私にも耳があり口があり心がある。彼の声に震撼している魂もある。応答への素直な美学が創れなかったことが、ベッドに横たわってからも、容易に私を眠らせなかった。いくら考えても、私には何もできなかった。彼の声に従って、一緒に黄塵と寒風に向かって哭(な)くことさえしない自分の生理。更にウロウロと弁解をさがす自分の思慮を憎んでみても絶望するばかりだ」(平凡社ライブラリー『辻まことセレクション2』)。

1941年12月の8日、日米開戦によって、この国の社会が一変し、知識人を含めて一斉に戦争賛美に走ったことを思い起こすべきである。

「戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じてゐた。戦争は惨めであるとしか考へなかった。實は、その考へ方のほうが惨めだったのである。卑屈,固陋、囚はれてゐたのである。戦争は突如開始され、その刹那、われらは一切を了得した。一切が明らかとなった。天高く光清らに輝き、われら積年の鬱屈は吹き飛ばされた。こゝ道があったかとはじめて大覚一番、顧みれば昨日の鬱情は跡形もない。」、前記竹内好による「大東亜戦争と吾等の決意」の中の一節である。

南スーダンで、自衛隊員が殺し、あるいは殺されるという事態が発生した時に、また75年前と同じような状態になることを怖れる。そして一気に明文改憲だ。「9条があるから,自衛隊員の生命を守れなかった」、「戦後レジュームの打破」、改憲により「平和ボケした日本人の精神を叩き直す」、これが彼らの悲願であり本音ではないか。

5 三つの共闘

情勢は大変厳しい。禅語に「水急不流月」と云う言葉がある。好きな言葉だ。
例えばこんな光景を思い浮かべることは出来ないか。

山間の谷川、急流に月が映る、月はゆらゆらすることはあっても決して急流に流されない。「水、急にして月を流さず」である。この精神を大切にしたい。

憲法破壊の安倍政権に対する闘いは、今から70余年前、非業無念の死者たちの声に、そして戦後の平和運動を担って来た今は亡き死者たちの声に耳を傾けながらの死者たちとの共闘であり、私たちの子供、孫たち、さらにはまだ生まれていない未来の子供たちに「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」た(憲法前文)、この国を引き継ぐための未来との共闘であり、そして「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(同)、とりわけアジアの民衆との共闘という三つの共闘であることを自覚しようではないか。安全保障の要諦は抑止力でなく「信頼」にこそある。

【注1】 最近では、早稲田もフォワードを重視し、明治もバックスを重視しており、両校の特色はそれほど鮮明ではなくなった。先日の早明戦でも早稲田のフォワードが明治のフォワードに押し勝ち、認定トライを得た。フォワードの下支えがあって初めてバックスの展開が可能になるのであり、このことは社会運動においても同様である。

【注2】 この一撃は、ルーズベルト大統領を激怒させ、米国民の憤激を呼び起こしたが、重慶の蒋介石総統、ロンドンのチャーチル首相、クレムリンのスターリン書記長を小躍りさせた。これで米国が参戦し、ナチスドイツと日本を負かすことができると。

【注3】 筆者の父の実家は、愛知県は東三河の山村にある。1941年12月8日の前日の7日、牛の種付けのために牛を連れて峠越えをした祖父が夜になっても戻らないため、深夜、父たち兄弟が峠を越えて隣村まで探しに行った。祖父は訪問先で酒の接待を受け気持ちよく寝ていた。安心した父は8日未明家に戻ったところ、ラジオから真珠湾攻撃の臨時ニュースが流れており、驚き、不安を覚えたという。

【注4】 中島敦遺稿『章魚木の下で』は以下のように書く。(1947年、このエッセイは中島の死後の48年『新創作』1月号に発表)
南洋群島の土人の間で仕事をしてゐた間は、内地の新聞も雑誌も一切目にしなかった。文学などといふものも殆ど忘れてゐたらしい。その中に戦争になった。文学に就いて考えることは益々なくなって行った。数か月してから東京へ出てきた。気候ばかりでなく、周囲の空気が一度に違ったので、大いに面食らった。本屋の店頭に堆高く積まれた書物共を見て私は実際仰天した。(中略)
思えば自分は今迄章魚木の下で、時局と文学とに就いて全く何とノンビリとした考え方しかしてゐなかったことかと我ながら驚いた。(中略)。戦争は戦争、文学は文学、全然別のものと思い込んでいた。(中略)成程、文学も戦争に役立ち得るのかとその時始めて気が付いたのだから、随分迂闊な話だ。しかし、文学者の学問や知識による文化啓蒙運動が役に立ったり、文学者の古典解説や報道文作製術が役に立ったりするのは、之は文学の効用といって良いものかどうか。文学が其の効用を発揮するとすれば、それは、斯ういふ時世に兎もすれば見のがされ勝ちな我々の精神の外剛内柔性――或ひは、気負ひ立った外面の下に隠された思考忌避性といったやうなものへの、一種の防腐剤としてであらうと思はれるが、之もまだハッキリ言ひ切る勇気はない。現在我々の味はひつつある感動が直ぐに其の儘作品の上に現れることを期待するのも些か性急に過ぎるやうに思はれる。自己の作物に時局性の薄いことを憂へて取って付けた様な国策的色彩を施すのも少々可笑しい。

【注5】 「今日の豊かな日本は、彼らがささげた尊い命の上に成り立っている」のだろうか。彼らの死がなければ平和は実現できなかったのだろうか。もっと早く戦争を止めていれば、そもそも戦争を始めていなければ、彼らの死はなかった。生きていれば、彼らは戦後日本を築く担い手となったはずだ。
死者に対してはひたすら追悼あるのみで、死者に感謝したり、称えたりしてはならない。感謝、称えた瞬間に死者の政治利用が始まり、死者を生み出した者の責任があいまいにされる。
1995年8月15日戦後50年の節目に際して発せられた村山首相談話が、「敗戦後、日本は、あの焼け野原から幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いていてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆さまの一人一人の英知とたゆみない努力に私は心からの敬意の念を表わすものであります」と述べ、「死者たちの犠牲の上に」などとは述べていないことに留意すべきである。

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第2回口頭弁論を迎えた安保法制違憲訴訟

小川良則(解釈で憲法9条を壊すな実行委員会)

四半世紀に及ぶ海外派兵の常態化

安倍内閣による秘密法の強行から4回目、戦争法の強行から2回目の正月を迎えた。また、昨年11月15日には海外に派兵される自衛隊の任務に「駆け付け警護」等を新たに追加することが閣議決定された。改めて振り返って見れば、PKO法が強行された1992年以降、防衛2法制定に際して1954年6月2日の参議院本会議で採択された海外派兵はしないという決議を無視して、カンボジア、ゴラン高原、イラク、ソマリア沖、南スーダンなど、場所は変われど常に地球上のどこかに派兵が続いており、四半世紀にわたって海外派兵が常態化している。

1989年にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終わった後も、その歴史的役割を終えたはずの対ソ包囲網としての米国との軍事同盟は、解消されるどころか、局地的紛争への対応等を理由に「再定義」され、ますます深化・強化されていった。政府憲法解釈の変更による集団的自衛権の解禁は、こうした日米安保のグローバル化及びこれを具体的に担保する「新ガイドライン」や「有事法制」等の一連の動きの集大成であり、憲法調査会やその後身である憲法審査会を場として明文改憲を具体的な政治日程に載せる動きも、これと表裏一体をなすものと言わなければならない。

とりわけ、今回の新任務を帯びての南スーダン派兵は、本誌昨年11月25日号の秋の憲法集会レポートでも触れたように、日本が交戦当事国として「殺し・殺される」関係に立つかもしれないという暴挙である。それは、曲がりなりにも「主要先進国」とか「経済大国」と呼ばれる日本が、貧困の最大の被害者である少年兵に銃口を向けることにもなりかねないことを意味する。そもそも、南北分離も含むスーダン内戦の根底にあるのが格差と貧困や、石油利権を巡る大国の思惑にある以上、いわゆる「途上国」を踏み台にしてウォール街や兜町が利潤を追求してきたという点で、日本の責任は重大であると言わざるを得ない。私たちは、植民地支配と侵略戦争への反省から戦後70年にわたって築き上げてきた「平和国家」のブランドを軽々と投げ捨て、日本を実際に戦争をする国へと変質させることなど、決して認める訳にはいかない。
こうした動きに対して、私たちの側も粘り強く、反撃のための広範な枠組みづくりに取り組んできた。そして「総がかり行動」も、こうした積み上げの上にある。

全国で相次ぐ安保法制違憲訴訟

「道徳教育」を説きながら賭場を開帳しようとしたり、しきりに「法の支配」を説きながら自国の最も南の県を無法状態に置いて暴走する安倍内閣の下で、戦後民主主義が次々と破壊される中、全国で「安保法制違憲訴訟」が取り組まれている。既に昨年11月末現在で、4月26日の東京を皮切りに、いわき、高知、大阪、長崎、岡山、浦和、長野、横浜、広島、岡山2次、浦和2次、福岡、東京2次と提訴が続いている。本号が届く頃には札幌等でも提訴の予定であり、前橋、甲府、大分、宮崎等でも準備が進んでいる。

このうち、東京での国賠訴訟の第2回口頭弁論が12月2日に開かれた。9月2日の第1回口頭弁論が開廷前から傍聴券の抽籤を求めて多くの市民が詰めかけ、すぐに満席となったことから、この日は入れなかった人のために別会場で「陳述書の書き方」講座も用意していたのだが、TPPをはじめ様々な行動が重なっていたこと等もあって、結果的にはほぼ全員が入ることができた。ただ、初回の報告集会で原告代理人の寺井一弘弁護士も強調しているように、私たちは決して「忘れていない」ことを示すためにも、傍聴席がいつも溢れるくらいの結集を示していくことが重要であろう。

被告側答弁書への反論と原告本人の陳述

この日の原告側代理人弁護士の弁論の中心は、初回に国側が示した答弁にもなっていない「答弁書」への批判・反論である。国側の主張は要するに、(1)原告の主張は抽象的で漠然とした不安感の域を出るものではなく、(2)安保法制に関して原告側が指摘した論点についても「争点ではない」から認否そのものをしないというものであった。

これに対して、古川健三弁護士は、クーデターとも言うべき手法を用いた立法過程を含む新安保法制による憲法秩序の破壊こそが問題の根本であり、これが争点ではないと言うのは詭弁に過ぎないと一刀両断。そして、人権の土台である憲法秩序の破壊と原告に対する権利侵害は不可分一体であると述べた上で、国側に議論に応じるよう求めた。

また、黒岩哲彦弁護士は、1973年9月7日の長沼ナイキ訴訟札幌地裁判決や2008年4月17日のイラク派遣差止訴訟名古屋高裁判決等を引用しながら、平和的生存権が裁判規範性を備えていることを主張した上で、内閣と議会の暴走を立憲主義の観点から牽制することは司法の責務であると指摘した。

さらに、杉浦ひとみ弁護士は、子を持つ親、運輸の現場で働く人々、基地周辺の住民など、さまざまな人々がどれだけ苦しみ人格を傷つけられたかを具体的に示し、原告の主張は決して国側の言うような「漠然とした不安」などではないことを訴えた。

その後、今後の進め方についてのやりとりの中で、国側は渋々ながらも反論の書面を出すことに応じ、ようやく国側を議論の場に引きずり出すことができた。これに対して更に具体的な反証を挙げて論駁していくことになるが、そのためにも、証人尋問や専門家の意見聴取などを認めさせるよう、世論を盛り上げていくことが不可欠である。

時系列的には前後するが、この日も原告本人による陳述が行なわれ、船員、被爆者、宗教者それぞれの立場からの切実な訴えがあった。

特に、元船員の本望隆司さんは、第2次世界大戦では船員は船舶ごと徴用され多大な犠牲者を出したこと、既に防衛省と民間海運事業者との間で傭船契約が結ばれ、当該事業者は船員の採用の際に予備自衛官になることを条件としていること等を証言した。更に、1980年のイラン・イラク戦争の際には、日本が戦争をしない国であることが国際的に認識されていたため、日本船舶であることを明示することでペルシャ湾を無事通航できたが、最近では、日本が平和国家であるという国際的認識が崩れた結果、ダッカでの事件のように、むしろ日本人なるがゆえに攻撃対象とされるようになったと指摘し、不戦の誓いは海員にとって切実な願いであると訴えた。

問われる裁判官の憲法感覚

この原告本人の陳述にあたって、前回と同様、国側は原告本人に陳述されることそのものに異議を申し立てた。この日の法廷は異議を認めず、そのまま続行されたが、閉廷後の報告集会の席上、弁護団から由々しき事態が報告された。8月15日に全国の女性たちから提訴された訴訟は2月10日からスタートすることになったが、その進め方について事前に協議した席上、原告本人の意見陳述自体は認めたものの、その持ち時間を決めるにあたって、裁判所側から「披露宴のスピーチを延々と聴かされるのは苦痛だ」という暴言が飛び出したというのである。

確かに、法の素人である原告本人の陳述は法廷弁論としての論理構成に不十分な点があることは否めないかもしれないし、本人尋問という形で直接意見を聴く場もあることは事実である。しかし、問題は、原告本人にとって、ジグソーパズルのピースのように主張の一部を切り取って並べる尋問形式では自らの主張が言い尽くせないばかりか、その切り取られなかった部分の中にこそ、本当に言いたいことが含まれている場合も多いということである。法律論としては生煮えでも、そうした部分の中から真理を見出していくことこそ裁判の役目ではないだろうか。

例えば、健康で文化的な生活の水準が問われた朝日訴訟の場合、職業的法律家である裁判官は決して「1月あたり何円でがまんせよ」とは言わずに、その価値判断に解釈技術の衣を被せて「具体的な水準の設定は行政の裁量に属する」と言って煙に巻く。しかし、民衆の側から見れば、小手先の解釈技術は問題の本質ではなく、政府や裁判所の実質的な言い分が生活実感に照らして承服できるものかどうかこそが重要なのである。それには、民衆の側が自らの生活実感に根差した憲法的価値判断を対置していく必要があり、原告本人の意見陳述の重要性の根拠も、まさにそこにある。

1875年(明治8年)の太政官布告第103号は、対象となる事案に適用すべき法令がない場合には「条理」(物事の道理)に従って裁判すべきことを定めている。戦力の保有も交戦権も認めないという極めて簡潔かつ明瞭な法文が最高法規で規定されているのに、「司法審査になじまない」とか言って憲法判断から逃げ回ることを許してはならない。この違憲訴訟では、戦争法の違憲性と同時に、司法の存在意義や裁判官の憲法感覚も鋭く問われている。そして、それを糺すのは私たち民衆の声を高めていくことによってのみ可能であり、それはとりもなおさず、憲法12条で言う憲法価値を守るための「不断の努力」の具体的な実践に他ならない。

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2017新春メッセージ

山口たか(市民自治を創る会代表)

2015年、集団的自衛権行使容認の閣議決定以降の「安保関連法」(戦争法)制定の動き。ここ北海道でも連日反対行動が取り組まれたが9月19日法案は成立してしまった。しかし、あきらめない市民は秋から動き出した。16年に行われる衆議院5区補欠選挙で、戦争法廃止を主張する野党統一候補を擁立して闘おうという運動だ。5区補欠選挙は、自民党の重鎮・町村信孝氏の逝去にともない行われ、町村氏の娘婿和田義明氏が弔い選挙として立候補した。政党の論理が先行し年末まで結論は出ず、年を越した。統一までの道のりは決して、平坦ではなく、胃がきりきりと痛む毎日だった。16年2月19日になって、やっと、池田まきさんを市民と野党の統一候補として民・共・社・生が一致して闘うことが決定、4月24日の投票日まで、野党と市民の共同行動として怒涛の選挙戦を闘った。時間は少ない、しかし、池田まき候補が、2人の子どもを育て、福祉の現場で、支えが必要とされる人に寄り添った活動をしてきた、その実績と人柄に、応援の輪がひろがった。民主党と共産党がいっしょに街頭宣伝をし、市民運動の人々が政党のちらしを配り、民主党と共産党が共通ポスターを使用するなど驚くような共同行動がとりくまれた。それは立憲主義の破壊、民主主義無視、戦争への道を歩もうとしているアベ政権の暴走を止めるためには、これまでの政治常識では不可能だという危機感の現れだった。そうがかり行動実行委員会やシールズ、学者の会など、中央レベルで野党共闘への粘り強い働きかけが続いていたことも追い風だった。統一候補の池田まきさんは和田氏に勝つことはできなかったが、長らく続いた5区の自民党の議席を大きく脅かした選挙だった。

その興奮と疲れも残っている5月、札幌において、「許すな!憲法改悪 市民連絡会」全国交流集会を開くことができたことは、連絡会に集うみなさんのおかげであり、心から感謝している。中野晃一上智大学教授、清末愛砂室蘭工大准教授の講演の他、清水雅彦日体大教授、飯島滋明名古屋学院大教授もご参加いただいた、濃厚な講演や報告も忘れられない。受け入れ側としては準備不足だったが、5区の闘いを糧に、立憲主義の回復や民主主義をとりもどすことを改めて多くの参加者が自らに誓った集会だったと思う。

その後、北海道では、参議院選挙において、定数3議席のなか、民進党が2議席を獲得した。また、衆議院北海道全12選挙区での市民と野党の共同行動をめざし「戦争させない北海道をつくる市民の会」と、「安保法制廃止と立憲主義の回復をめざす市民の風・北海道」が、ひとつに合流し、「戦争させない市民の風・北海道」を立ち上げた。それに呼応し、5区補選で共同した仲間たちが、自身の地元で、「野党と市民の共闘を求める1区の会」や「2区の会」「手稲区民の会」「10区の会」が結成された。TPP協定への自民党の裏切りに怒った農業者が、自民党の牙城で、池田まき後援会を立ち上げた。

南スーダンかけつけ警護が決定した後の自衛隊の街・千歳市では自衛官の家族が安保法制の違憲訴訟を提訴した。12月17日には市民と野党の共同で政治を変える緊急シンポジウムを開催し民進党と共産党の現衆議や、候補予定者が参加した。両党とも候補を擁立しているが、これからの市民のアクションがカギをにぎるだろう。地殻変動は確かにおきている。マスコミの試算によると、道内12選挙区すべてで市民と野党の共同候補が実現したならば、現在自民8議席、民進3議席、公明1議席が、自民6議席、民進5議席、あるいは、自民5、民進6となる可能性もあり自・民が拮抗か逆転という予測だ。改憲の発議に必要な国会議員の3分の2の議席を改憲政党が占めている現状を打ち破ることを北の大地からぜひ実現させたい。

個人的には、10月に8回目の沖縄訪問をした。高江や、久米島に行った。久米島には福島の子どもたちを放射能から遠ざけるためにジャーナリスト広河隆一さんが開設した保養所「球美の里」がある。原発は全然収束していないにも関わらず、福島への帰還を強制している政府と原子力村。広河さんは人間の尊厳が奪われている場を「人間の戦場」と呼ぶ。福島、辺野古、高江……、原発再稼動が進む日本はいたるところが戦場だ。民意無視、議論が成り立たない国会で、TPP・カジノ・年金カットが強行採決されていく。あまりに酷い政治を見せつけられてきたが最後に、オスプレイが沖縄で墜落して16年が終わる。17年は総選挙があるだろう、安倍政権の暴走を止め「人間の戦場」を「人間の大地」にしていく一年にしたいと強く思う。

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2017新春メッセージ

平 和子(南スーダン自衛隊派遣違憲訴訟原告)

~~~新しい年、取り分け今年は昨年見え始めた「変化の兆し」を本格的に華々しく咲かせる1年にしたい。
一時の激情に突き動かされ、後先考える余裕も無く周囲の励ましと呼びかけに応じて、ただがむしゃらにマイクを握った一年だった。

初めて人前で声を上げたのは、札幌の大通り公園の安保法制に反対する大規模な市民集会だった。4月と言っても北海道はまだまだ寒く、雨混じりの冷たい風が、緊張した身体の震えをさらに助長していた。心は怒りの炎に燃やされて、正面に見える札幌のテレビ塔と用意した「自衛官家族への呼びかけ文」を交互に睨んで必死に声を張り上げた。その時、不思議な感覚が私を包んでいた。何故か私の頭のてっぺんから後頭部、両肩にかけて「たくさんの方々の暖かな励ましのエネルギー」(言葉で表すと、こうとしか表現出来ない)を、まるで滝壺で修行しているように浴びているようだった。

見えないモノを信じない方々からすれば、「頭のおかしな人の戯言」と馬鹿にされるのだろう。私もこの年まで残念な事に不思議なモノは見たり聞いたりした事が無い。しかし、そんな社会的な常識など一瞬で吹き飛ぶように、先の大戦でそれは一生懸命育て上げた大切な我が子を、「お国のため」に失ったお母さんたち、周囲の流れに逆らえず表向きは胸を張って立派に敬礼して黄泉の国に旅立って行った若者たちの、そんな数えきれない魂の込み上げるような「無念の思い」が私の頭頂部から全身を貫いていた。

もう私たちは騙されてはいけない。どんな耳障りのいい理由を、難しい理屈で提示されても、隣国とのきな臭い場面を「演出」されても、おへその下に力を入れて考えよう。過去の戦争で庶民がどんな目に遭わされてきたか一生懸命想像しよう。大邸宅に住み、地位と権力を握っている人間たちがいかにして私たち庶民を扱ってきたかを話し合おう。

もう私たちは気付いてしまった。乗せられないで騙されないで、この変化の波を心の底から楽しもう。楽しんで進もう。今、この大変化の境目に生まれ出てきた奇跡に感謝して、人生を心ゆくまで味わい尽くす、それが悲しみの涙で旅立って行った方々への何よりのご供養になると信じている

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<運動>として<文化>としての街宣のさらなる広がりを!

菱山南帆子(市民連絡会)

2016年は年明け早々の国会前行動と街頭宣伝に始まった。
私はお正月には大好きな箱根駅伝を楽しみ、家族旅行をしてのーんびりとリラックスしようと計画していた。しかし、通常国会が1月4日に始まるという事になり、国会前の行動に駆けつけるために家族と別行動で一人新幹線に乗って直行することになった。

通常国会が始まるのが4日ならば街頭宣伝も近くのお茶の水の神田明神という商売繁盛のご利益があるという神社の近くで「初詣街頭宣伝」を行った。「年頭街宣をやるぞ!」とお茶ノ水駅に集まった多くの闘う市民は代わる代わるマイクを持ち、リレートークや紙芝居、歌などで、熊手を買い求めに来た人々に向けて訴えを行った。

このようにスタートした2016年はその後、北海道の補欠選挙、参議院選挙、都知事選挙、東京、福岡の補欠選挙など実に選挙の多い年になった。そこでは国会外での総がかり行動の成果を選挙と国会に反映するための格闘が求められ、1人区で安倍政権を震えあがらせる健闘をした。

また3・29戦争法施行反対国会前行動、5・3憲法集会、6.5国会前大行動、戦争法「成立」1年9・19国会前大行動、自衛隊派兵阻止青森現地集会など共同の大きな集会やデモが行われ、あきらめない市民運動の不屈の姿を見せた。

また、全国の駅頭や街頭では毎日の様に市民が立ち、自分の言葉で思いを口にする人々が無数に増え、広がった。街頭宣伝の中には必ず統一の署名があった。全国津々浦々、戦争法廃止を求める2000万人統一署名を一斉に市民は取り組み、街中、戸別訪問などで1580万筆を超える署名を集め抜き、さらに10月からは新たに沖縄県民の民意尊重と、基地の押し付け撤回を求める全国統一署名をスタートした。

しかし、安倍政権の暴走は止まらず、戦争法の施行、自衛隊の南スーダン派兵、さらにはTPP、年金カット法、カジノ法案など数々の悪法を強行採決し、「多数決によるクーデター」的手法を繰り返している。

国際的には11月にアメリカ大統領選で次期大統領に差別主義・排外主義・優生思想のトランプが当選を果たした。アメリカだけではなく、フランスなどヨーロッパでもそういった極右のリーダーが登場しようとしている。

しかし、極右思想、排外主義が強まれば強まるほど、民主主義、共生共同思想を持つ人々の動きも強まってくる。日本も安倍政権を構成する極右思想の政治家を下から支える右翼版市民運動の「日本会議」などの動きも活発化してきている。

私たち市民運動も国会外の運動だけに留まらず、国会内の国政にも積極的に関与するようになり、野党をつなぎ大きな共同の闘いを生み出し始めている。地道な活動と選挙と両立させるのはとても大変だ。運動に疲れてしまう市民も出てきてしまうこともあった。選挙で新潟のように勝つところもあったが、負けてしまうことのほうが多いため、こんなに頑張ったのにと無力感で絶望的な気持ちになることもある。

しかし、そこでこそ市民運動の本領を発揮する時だ。街頭宣伝や戸別訪問、小さな集会の積み重ねなどは希望を生み出す。目に見る数で勝敗を決める選挙と違って、大きな社会変革にすぐには繋がらなくても確実にゆっくりと前進していく事が実感できるのだ。

選挙協力や野党共闘はいわば構築物であり、立脚する基礎がしっかりしていないと常に揺れ動くことは避けられない。市民運動はしっかりした岩盤のような基礎を提供する役割を担っている。つまり、市民運動の量的・質的前進こそが状況を変えていけるのだ。

12月10日に日比谷野外音楽堂で3900人が集まり、高江ヘリパッド、辺野古新基地建設反対の東京集会が行われた。この集会に向けて、有楽町駅前で「沖縄風街頭宣伝」を行った。この街頭宣伝は仲間が企画した。沖縄風な衣装や辺野古ブルーにちなんで青いものを身に着け、歌を中心に行う街頭宣伝だ。当日、ツイッターやフェイスブックなどSNSを使って楽器の演奏や歌ってくれる人を募ったところ、2名の市民が三線を持って参加してくれた。また、飛び入りで太鼓を持った市民までもが参加し、他の仲間のギターと歌とで有楽町は沖縄ムード一色となった。400枚近いチラシは1時間も立たずにすべてはけて、1時間半の街頭宣伝で集まった署名は何と140筆になった。従来の演説とチラシまきではなく、多様な形の宣伝は街をゆく人々の心に響くのだと改めて思った。

最近では「街宣かぶり」という現象も増えてきている。それは街頭宣伝を行う時間と駅などの場所が偶然重なってしまうという事だ。毎週土日はあちらこちらで街頭宣伝を行っているため、特に新宿駅などは私たち仲間の街頭宣伝のメッカのようになっている。また、誰でも参加できるオープンな街宣や地域運動が急増し、毎週土日は様々なところで集会やデモ、街宣が繰り広げられているため、「菱山さん、今日は○○駅の街宣に行ったあと、○○のデモに行って、そのあとこっちに来たんだよ。このあともうひと頑張り○○駅の街宣に顔を出してくるよ」と「街宣巡り」をする仲間もいる。

「街宣文化」という言葉がどんどん広がっている。すぐには目に見えてこないが、私たちの市民運動はじわりじわりとテリトリーを広げ、ひとりひとりの心の中に根を下ろしているのだ。

今年もまた選挙がやってくる。正直、焦る気持ちはある。しかし、焦りは勝利をもたらすことはない。やはり、「急がばまわれ」だ。「アベ政治」を深々と埋葬できる墓穴をしっかり掘りぬこう。

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2017新春メッセージ

団塊ジュニア世代(F)

私は団塊ジュニア世代と呼ばれる年齢の人間です。2013年特定秘密保護法への危機感から、集会やデモに参加するようになりました。たまたまツイッターで見かけた、「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」の街頭宣伝に自作のプラカードを持って参加。菱山さんはじめ、「許すな!憲法改悪市民連絡会」の方たちとそこで出会いました。

様々な宣伝のアイデアを皆で考え、街頭宣伝チームとして紙芝居、街中お芝居、歌、スピーチ、それに「日本国憲法これからどうなるの?」「TPPどんなものなの?」などのリーフレット製作、SNSでの拡散用バナー製作等の活動をしています。先日は「沖縄風街宣」という、沖縄の歌と踊りをメインにした街宣で、1時間半で140筆もの署名を集めることができました。

それとは別に、ガザ空爆の抗議のサイレントデモのツイッターの呼びかけを見て参加しはじめた「GAZA plus,世界に平和を!火曜定例会」にも取り組み、こちらももう100回を超えました。

「沖縄と東京北部を結ぶ集い実行委員会」にも入り、「戦場ぬ止み」上映、「辺野古に土砂を送らせない」集会などで沖縄風街宣やチラシ製作、司会もしました。

色々な取り組みをやる中で、自分が一番大切にしようと思っているのは、街に出て、一人でも多くの人に安倍政権のやっていることを伝えることです。デモのコールも、街ゆく人々に効果的に届くようなコールをと考えて、コール作りをしています。

大学時代、美大のデザイン情報学部、コミュニケーションデザインコースで勉強をしました。デザインの力で世の中の問題を解決していくという学科です。このことが今、市民運動にとても役立っていると思います。

「安保関連法これからどうなるの?」「2000万人署名のポイントQ&A 」などの動画つくり、戸別訪問署名やイベント署名等様々な署名の提案、マニュアル作り、電車内や病院、喫茶店などの宣伝用に集会の案内をのせた「ブックカバー」製作、スーパーや駅など地域での宣伝のための、「自転車プラカードアクション」、「一人100枚ポスティング作戦」、SNSでの拡散など様々な企画を立案、実行してきました。

今現在力を入れて始めたのが、「安保法を語るシリーズ」です。もし南スーダンで自衛隊員に万が一の事が起きた場合、安倍政権はこれを利用し、一気に改憲や右傾化への流れを作ろうとするだろうと危惧しています。そうなる前に、命や戦争、本当の安全保障や国際貢献についての考えを広めたいと思い、企画を立てました。

シリーズ第一弾は、2016年10月30日の青森集会の平和子さんのスピーチです。(自衛隊員の息子を持つ母)第二弾は、2016年11月19日行動での、平和を求める元軍人の会、「ベテランズフォーピース」のお2人の国会前スピーチです。総がかり行動実行委員会のホームページでぜひご覧ください。

2017年はどんな年になるかわかりませんが、改憲だけはけっしてさせてはならない。選挙で野党の議席を伸ばさなければならない。この2つのことを成し遂げるために、これからもアイデアと仲間とのディスカッションから新しい試みを試行錯誤し、先輩方から頂く豊富な知識と経験を学ばせていただきながら、街に出て対話をする勇気を持って、頑張り続けます。

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怒涛の1年、そして今年こそ安倍政権を退陣に追い込もう

山本みはぎ(不戦へのネットワーク)

2012年12月、第2次安倍政権が発足して5年目を迎えようとしています。
昨年9月、安保法制(戦争法)が強行採決され、昨年11月にはいよいよ陸上自衛隊が戦地南スーダンに新任務を付与されての派兵が始まりました。沖縄では、違法な高江のヘリパッド建設が、醜い弾圧の下で進み、辺野古の新基地建設も高裁、最高裁と実質審議もしないまま、国の主張を全面的に認めた判決が出ています。また、県民挙げて導入に反対をした欠陥機オスプレイの墜落し、事故原因の究明もないまま飛行が再開されました。これほどまでに、沖縄の民意を踏みにじり、数の力で強引にことを進めてきた政権は過去あったかと思うほどの対応に心底怒りがわいてきます。そんな安倍政権の暴走が続く中でも、途切れることがなく集会やデモ、街頭行動などが続いています。

毎月、19日には「安倍内閣の暴走を止めよう共同行動実行委員会」主催の集会・デモが行われ、地域でも規模は小さいながら持続的なスタンディングなどが行われています。そういった運動をつなぐために、11月には約80名の参加で「地域交流会集会」を開き、県内各地で地道に活動をしているグループの活動経験や課題を話し合う場を持ちました。安倍政権の暴走をとめるために、今後はメーリングリストなどを作り、横につながりながら運動を盛り上げていこうと確認しました。共同行動では、この間、戦争法と沖縄の新基地建設反対を中心に運動を組み立ててきましたが、今後は、原発や反貧困など各課題別に取り組んでいる運動体の集まりも計画しています。原発再稼働にしても戦争法や改憲にしても世論調査でも反対が上回っています。その声を政治に反映させるために、個々のグループが日々地道な活動を持続し、節目節目で目に見える形でより大きな大衆運動の結集が必要です。そのために、地域を超え、課題を超えてつながる必要があると考えています。

そして、来る衆議院選挙に向けての動きも始まっています。11月には有志で参議員選挙で野党共闘を目指すためのシンポジウムを呼びかけ、県内15選挙区で、野党統一候補の実現を目指す「市民と野党をつなぐ会@愛知」を結成しました。「市民と野党をつなぐ会@愛知」では、「1.安全保障法制の廃止 2.立憲主義の回復 3.個人の尊厳を擁護する政治の実現を目指す」ことを政策にあげる統一候補の擁立を目指すことを確認しました。すでに愛知7区、1区、3区では「市民と野党をつなぐ会@愛知(7区)などが結成され、積極的に議員訪問や、統一街宣など実現しつつあります。11月27日付けの読売新聞では、全国の295の小選挙区で野党4党の候補一本化が実現した場合、最大で60選挙区で逆転が起こる可能性を報じています。県内全選挙区で統一候補を実現させることは簡単なことではありませんが、このままでは安倍の暴走を止めることはできない、という強い決意でこの運動を進めていきたいと思っています。

そして、昨年は十分に取り組めませんでしたが、地元小牧基地の問題も課題です。この2年、航空自衛隊基地で唯一実施してこなかったブルーインパルスの展示飛行が行われています。小牧基地に隣接する三菱重工では、国産初のステルス戦闘機の開発が行われ、自衛隊に配備されるF35ステルス戦闘機のリージョナルデポとしての機能を持つと言われています。戦争法の成立で、自衛隊の海外派兵が本格化する中、軍需産業と自衛隊に対する地元での闘いも重要です。曲がり角を曲がってしまった安倍政権を退陣に追い込み、憲法を生かしたまっとうな世の中にするため今年も頑張るのみです。

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変えるほどに知っていますか

藤井純子(第九条の会ヒロシマ)

「変えるほどに知っていますか?」

この静かな問いかけに「憲法について改めて考えた、気づかされた」という多くの意見・感想が寄せられた。第九条の会ヒロシマが皆さんに支えられて毎年取り組んでいる8・6新聞意見広告。今年ほど意見広告の力を感じたことはない。安倍首相が改憲を叫ぶ今、一人でも多くの人に憲法を見直し、立ち止まって考え、やはり憲法は大切なものだと気づいていただく、それが私たちの目的の一つなのだ。皆さんと共に言論・表現の自由を行使し続けてきた証だと感謝の気持ちでいっぱいだ。ご賛同、ご支援に心から感謝したい。

広島版総がかり運動

広島の2016年は、戦争法廃止のための広島版総がかり「ストップ!戦争法ヒロシマ実行委員会」主催の中野晃一講演会に明け、5月3日は初めて合同で憲法集会を行い、年間通して19日行動を行うことができた。2017年も引き続きこの枠組みで「安倍政治を許さない」行動を続けていくことも確認し、5月3日憲法記念日には、清水雅彦さん(日本体育大学教授、憲法学)をお呼びして野外での憲法統一集会を予定している。

改憲は慎重に見せつつ軍事化は進む

先日辺野古沖にオスプレイが墜落した。その危険な欠陥機オスプレイ200億円を国は17機も買う予定だ。安倍政権は改憲には慎重な態度を見せつつ、安保法に基づき米軍と共同行動できるよう準備は怠らない。自衛隊と米軍との一体化は進み隊員は危険にさらされる。命が軽んじられる彼らも戦争する国にしたがる政府による被害者ではないか。仕事といえども憲法違反の任務であればNOといっていい。彼らも憲法に守られるべきだ。

オスプレイ事後は沖縄だけの問題でなく、日本列島に住む市民全体に降りかかる。今後オスプレイCV-22海軍仕様が岩国基地に配備される。横田基地に10機配備、陸上自衛隊の導入、訓練が全国規模に広がることは必至だ。とりわけ岩国ではCV-22の危険な低空飛行訓練や夜間飛行訓練が想定されている。米軍機は航空法の適用除外となり、提供区域外での飛行訓練についても法的根拠が不明確なまま訓練が容認されている。自治体は米軍からも国からも情報が不十分であると一様に不満をもらす。沖縄から日本がよく見えると言われるがその通りだ。

広島でも「沖縄辺野古に新基地を作らせない広島実行委員会」として講演会や上映会、報告会を重ね、国への要請書を送り、辺野古埋め立て土砂搬出に反対する本土側の運動に連携してきた。今後も再度上映会や講演会を行い、希望者で沖縄ツァーを組む予定だ。

米軍岩国基地には、17年、1月にF-35B戦闘機が配備される。この戦闘機は続けて飛行中に火災事故を起こし、欠陥機と指摘されている。さらに厚木基地から艦載機部隊が移駐される予定だ。岩国には米海軍も来てまさしく東アジア最大の米軍基地となる。岩国は広島のすぐ隣。1月1日、元旦には愛宕山で岩国基地の拡張強化に反対する1の日座り込みが始まる。私たちも軍隊で守られたくはないしそれ以上に加害者への加担はゴメンだ。非暴力に生きる自由は奪われたくない。岩国市民とともに広島からも声をあげていきたい。

人生を全うする

個人的なことだが先日母が亡くなった。ペースメーカーをつけていても心臓本体が弱り静かに息を引き取った。母も被爆しながら学徒動員で出かけた妹たちを探し回り、一人は見つけて連れ帰り半年看病をして生き返ったが、一人は見つけることも出来なかったことが辛く被爆について話せなかった。

最近は認知症も出て押売りをお茶でもてなす事件?等々あったが最後まで自宅で穏やかに過ごし、95年の人生を閉じた。

しかし母と同世代の日本軍「慰安婦」の人たちは政府が公式に謝罪せず、償いもせず、無念の思いを残し亡くなっていく。日本でも人生を全うできない人が多すぎる。独居老人。過労死。福島で、また避難した人たちの自死。自ら命を絶つ人、年間3万人も多い。戦争をする国になろうとしている今、理不尽なことが様々に起きている。

人権、平和、環境、自治、様々な課題に取り組む人々とつながって

これらを跳ね返すのは私たち市民だ。「勝つ方法はあきらめないこと」沖縄の人々に学び、様々な課題に取り組む人たちとつながって、今年こそ安倍政治を終わりにさせたい。

16年意見広告は皆さんの応援と読者の反応に大変勇気付けられた。第九条の会ヒロシマは、今年も多くの人たちの力を借りて、8・6新聞意見広告で「戦争する国にさせない」「命・人権を守る憲法を活かそう」とより多くの人に訴えていこうと思っている。賛同者の皆さんはもちろん、広島版総がかりのつながりをよりいっそう深めていきたい。そして全国各地で頑張る人々と、時には集まり一緒に考える。この「許すな!憲法改悪市民連絡会」はとても心強い存在だ。広島ではまだ選挙に対して準備は整っていないが、東京や全国の皆さんからアイディアと元気をもらってじっくり進めて行きたいと思っている。

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たった一人でも自由に、自分の意思表示ができる
そんな街であってほしい どんな時代がこようとも

宮崎優子(赤とんぼの会)

2015年9月、安保関連法案が強行採決されても、大分の街は元気でした。この夏を忘れないこと、あきらめないこと、希望を持ち続けることを心に誓って。

いろんなグループが講演会を企画しました。東京から、沖縄から、大阪から、広島から、もちろん大分からもたくさんの講師が駆けつけて、かく闘えり、理論、方法、手段等々を伝えてくれました。

柳沢協二さん、内田雅敏さん、高田健さん、小林節さん、アーサー・ビナードさん、伊藤真さん、伊波洋一さん、永山茂樹さん、落合恵子さん、衛藤洋次さん、岡村正淳さん、二宮孝冨さん、青野篤さん、広川隆一さん、河合弘之さん、まだまだ講師はいらしたと思います。

講師の話を聞く度に、私たちは思いを新たにして、集会を開き、デモをしました。街角でチラシを配りました。
毎月3日は澤地久枝さんの呼びかけで始まった抗議行動です。大分県下各地で1時から30分間、思い思いに各自「アベ政治を許すな」のプラカードを持って立ちます。いえ日本各地で思いを共有している人たちが一斉に行動しているはずです。19日は安保法制強行採決を記念(?)して、毎月命日(?)に集まってビラをまいています。祥月命日(?)には多くのグループが一緒に駅前抗議集会を開きました。思わぬことに右翼団体までもが街宣車を連ねて、スピーカーの音を最大にして参加してくれました。あんなにたくさんの街宣車を見たのは日教組大会以来でしょうか。右翼にも注目されるなんて大分の活動もたいしたものですね。右翼が日出生台演習場の正門前でも米軍に対して「ここは日本の領土である」って言ったら、少しは聞く耳あるんだけど……。何で右翼がアメリカ追随なのかが理解できません。

グループだけではありません。個人で、たった一人でも毎週街角に立ち続けている人たちがいます。「秘密保護法反対」「集団的自衛権の行使は憲法違反」「戦争法案を廃案に」、それぞれの思いを書いたプラカードを胸に掲げて立っています。最初のうちは妨害があったりしたそうですが、いまは不思議に人の流れに溶け込んでいます。反原発の抗議では、島田雅美さんが一人で九電大分本社前に毎日立ち続けていました。今では人数が増えて、1月13日には2000日になります(瓜生道明社長に毎日抗議文を出し続けて2000通になります)その中の一人、日高さんが言いました。「変なおばちゃん、変なおじちゃんがもっと増えるといいと思う」。

ビラをまいただけで逮捕されたり、自分の思いをマイクでしゃべっただけで退去させられたりする社会はごめんです。国家に失望しても、少数派が生き生きと活動できる地域が存在すれば吾民主主義は死にません。

2016年の参院選では高田健さんの話してくださった総がかり行動がおこなわれました。市民団体が集まって、「平和をめざすオールおおいた」を結成、初めて選挙活動をしたのです。街頭だけでなく、大学にも出かけていって、選挙に行こうと大学生たちに呼びかけました。紆余曲折がありながら、大分では僅差で野党候補が勝つことができたのですが、国会議員の勢力図を見れば改憲勢力が3分の2を超えるという絶望的状況。でも大分はまだまだ元気です。

先日、市民連絡会の学習会に、日出生台で30年間、牛と共に米軍と対峙し続けている衛藤洋次さんがきてくださいました。「大分にSEALDsはできんのかい、残念やのう」、久しぶりに洋次節を聞いてお腹をかかえて笑ったり、ほろっとしたり……国民投票を視野に入れて、また活動再開のエネルギーができました。

大分でも安保法制違憲訴訟が始まります。1月10日、大分地裁に提訴します。当日5時から弁護士会館で報告、決起集会を、内田雅敏弁護士の記念講演も行われます。

「伊方原発を止める大分裁判の会」の伊方原発差し止め訴訟も大分地裁で闘われています。訴訟は私たちにとって有効な手段、ぜひみなさんも参加してください。

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第109回市民憲法講座 日本でムスリムとして生きること

お話:林 純子さん(弁護士法人パートナーズ法律事務所 弁護士)

(編集部註)11月26日の講座で林 純子さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。

はじめに

私は普段は弁護士をしております。とはいえ弁護士になったのはごく最近、1年くらいです。今年に入ってから弁護士としての活動を始めています。今日題名をいただいたのは「日本でムスリムとして生きること」ということで、ムスリムという日本においてすごくマイノリティである立場から日本で生きるということに関して思うところを述べさせていただければと思います。

まず自己紹介をさせていただきます。私は東京都内で生まれまして、普通に小中高と行っていまして、中学高校はバスケットボールを部活でしまして文化祭なども一生懸命していました。都内の大学に進学しまして経済学を専攻しました。それがちょうど1999年とか2000年ですが、大学1年生を終わったところで語学留学をすることにしましてアメリカに1年間行きました。アメリカに行って気付いたことは、自分が考えていた世界が実は欧米だけを指すことだった、ということです。色々世界を見なきゃとか世界ではこうだ、ということをよく考えていたし話もしていたのですけれど、それが実は本当に欧米諸国だけのことしか見ていなかったことに気付きました。私が行ったのはマサチューセッツ州のボストンで、ほかにも語学留学に来ているいろいろな人たちと出会うことができ、すごくそれを実感することができました。

神を信じる人びと・ムスリムとの出会い、入信

いろいろなカルチャーショックのようなことはあったけれども、ひとつ大きかったなと思うのは、いろいろな国のキリスト教徒の人たちに会って「神様を信じる人が本当にいるんだ、この時代に」ということです。もう21世紀が目の前に来ているのに、神様を信じている人がいるということが本当にびっくりで衝撃的でした。そのときわたしは20歳でしたが、学校で習ってきた科学というのをすごく信頼していて、科学でいろいろなことが発見されて、色々わかっているのに、これをつくった存在がいると思う人たちがいるということが衝撃的だったんですね。最初の何ヶ月はムスリムの人と会うことはなくて、いろいろな国のキリスト教徒の人に会っていました。

1年間の留学のかなり後半になってからムスリムのクラスメイトができて、色々話をしたり彼らの行動を見たりしました。それこそ宗教を実践しているわけで、1日5回お祈りしていて、ちょうどラマダンの時期だったので断食をする時期でした。そういうこともあって本当にこの人たちは何も食べていないと思って、そういう人たちがいることがまた本当にびっくりでした。そういうびっくりなことは知ってみなければ、と思いまして話を聞くようになりました。クルアーン、コーランですね、クルアーンにこういうことも書いてあるよといって見せてもらったのが、現代の科学で発見されたいろいろな事実がクルアーンの中に書かれているということがあるものでした。

私は科学をすごく信頼していたところがあったので、いま信頼していないわけじゃないんですけれども、その当時の私にとっては科学が神様の存在を証明してしまったという感じがしたんですね。それまではクルアーンは1400年前にムハンマドという人がひとりで書いたものだと学校でも教えられていましたし、そう思っていたんです。そういういろいろな科学的なことを見ますと、これを1400年前の砂漠に住んでいた人が書いたらたまたま当たったとは言えないんじゃないかなと思ってしまいました。それで彼が書いたものでなかったら誰が書いたのか。クルアーン自体では、これは神様の言葉そのものであるという説明がされていますので、だったらそれを信じるしかない、受け入れるしかないのかなと思いました。神様というかいわゆる創造主、この世の全てをつくった存在がいることを受け入れることになったわけです。

私はもともと宗教全体に対して嫌悪感が強くありました。それが原因で自分がムスリムになるというところにすごく抵抗があったんですね。その嫌悪感はなにかといいますと、心が弱い人がすがるものが宗教であるとか、宗教って信じると「盲目的」になってしまうのではないかと思って、自分のいま持っているクリアな心というか考え方が宗教によってなくなってしまうのではないかと思っていたので、宗教全体に対してすごく嫌悪感がありました。そこで自分が宗教を持つということ、イスラム教が、ということではなくて宗教を持つこと自体がすごく嫌でした。しばらく考えましたが、このまま何も見なかったことにしてなかったことにして、またもとのいつもの生活に戻ることは無理だと思って、あきらめて入信することを決意しました。

少しずつはじめたムスリムとしての生活

イスラムの教えというか、イスラムで信じられていることは6つあるといわれています。1)アッラーを信ずること、2)アッラーの諸天使を信ずること、3)アッラーの諸啓典を信ずること、4)アッラーの諸預言者を信ずること、5)来世を信ずること、6)天命を信ずること。わたしは入信した当時は、その6つのうちの神様がいるというところまでしか受け入れきれていなくて、それ以外はそういわれているからそうだろうけど、自分が個人的に信じているかといわれればそこまでは、みたいな感じでした。「天使」とかいわれても物語チックだなとか。でもしょうがないから入信しようみたいな感じで入信しました。ムスリムになったからにはやるべきことといわれているものがいくつかあって、大変だなと思っていたんですけれども、とりあえずできるところからやればいいよというふうにアドバイスをもらいましたし、実際できることしかできないので少しずつがんばろうと思って始めました。

1日5回の礼拝ですとか、いまもしているスカーフ、髪の毛を隠すスカーフ、ヒジャーブと呼んでいますが、これも最初はそんなにちゃんとしていなくて、わたしの場合はヒジャーブをフルタイムで始めたのは入信から6週間くらいたったところでした。それは一般的に入信する人の中では比較的早いほうだと思います。なぜわたしがそのときにしたかというと、ちょうど入信したのが1月で、3月の半ばには帰国することが決まっていて、帰国前にし始めないとわたしは日本では一生できないと思ったからです。アメリカっていろいろな人がいることが当たり前なんですね。変な人に対する寛容さというのがやっぱりあって、生まれ育った日本と違って知り合いも少ないですから、その中でできなかったら本当に日本に帰って昔からの知り合いがいる中では絶対できないなと思いました。やってみたら最初の1日2日くらいはみんなの視線が気になったけれどもあっという間に慣れました。ボストンはニューヨークより北にあってすごく寒いんですね。結構みんな帽子をかぶっているし、寒いのでとりあえずいろいろな変な格好をしています。その変な人たちに紛れてスカーフ巻いちゃったみたいな感じの程度で始まったのであっという間に慣れて、そのまま今まで来ています。

入信したのは2001年1月ですので、もう2ヶ月で丸16年になります。語学留学をさせてもらうときに大学が3年間残っていました。国内の大学を卒業することを条件に親に頼んで行かせてもらったので、日本に帰ってから絶対に卒業しなければいけないと思っていて、卒業するまでは仕方ないとしても日本でムスリムとして生きていくなんてとてもじゃないけれど考えられないので、卒業と同時に日本を脱出すると心に決めていました。脱出する計画は具体的にはなかったけれど、日本でずっと生きていくなんていうのは全然想定外で、結婚でも何でもして出て行ってやると思っていました。

そして3月に帰国します。帰国して家族や友人に久しぶりにあったけれども、彼らの反応がすごく気にはなっていて、ドキドキしたことをすごく覚えています。家族に関しては、「ちょっといまは浮かれているんだろうからしばらく待とうか」みたいな感じなんですね。留学から帰ってきて浮かれているから、3ヶ月とか半年とかして収まったらやめるだろうという感じで待たれていました。友人に関しては1回目にあったときには「えー!」みたいな感じでしたけれども、2回目にあったらもう見慣れたと言われて意外と大丈夫だなという感じでした。わたしの友達は神経が太いんですかね。4月から大学に復学して、新しい友達とか、学年がひとつ下がったので新しい友達ができて、大学内でムスリムを捜したら留学生が何人かいたので留学生の集まりに顔を出させてもらいました。留学生はみなさん頑張り屋で優秀で、刺激的な仲間たちでした。新しくできた友達も、もうわたしがムスリムだということを前提にして友達になってくれるのですごく居心地のいい友達が何人もできました。

9・11、就職活動、

それが2001年4月ですけれども、9月に9.11がありまして、そのときはさすがにうちの両親もこれはやばいと思ったようで、9.11があったその日にしばらく家から出ないでくれっていわれたんですね。バックラッシュみたいな、あのときもムスリムがやったとすぐいわれたと思います。それで身を守って欲しい、できればそういう格好はしないで欲しいという話を相当家でも話しました。でも実際出てみたら何ともなくて嫌がらせをされたことも一回もなかったんです。親としては半年たってこの子はまだやっている、そろそろ飽きてもいいんじゃないですかという感じで、その頃に色々話をしました。わたしは、こんなことは冗談ではできないし、中途半端な気持ちではできないのでもうあきらめてくれと、一生やめないからあきらめて下さいと言う話をしました。親としてはそれこそ就職ができないのではないかということと、結婚ができないのではないかということが一番大きな心配だったようで、そんな変な格好をしていると、しなくてもいい苦労をするのではないかという話をさんざんされました。

そんな話をしながらも、学生生活を送り続け、イラク戦争が始まろうかという2003年くらいにワールドピースナウの活動に参加させていただくようになって、またそこでいろいろな人たちと出会いました。ワールドピースナウはすごく楽しかったのでその話をしたらきりがないけれども、そのちょっと前、大学3年生の後半くらいから就職活動を始めました。わたしはもうヒジャーブをして、しかも礼拝も1日5回(5回といっても実際は昼と夕方くらいだけなんですけれど)就業中にさせてくれるところを探していました。ちょうど就職氷河期といわれる時代だったのでみんな苦労していて、その中でわたしはどうだったかというと実際大変は大変でした。

当時は基本的に就職のエントリーシートとか履歴書は写真を付けて出します。エントリーシートの場合はいろいろなことを書くので、わたしの中味が「いけてなかった」ということもあるとは思います。でも企業さんの中にはほぼ履歴書だけでとりあえず第1次選考というところも多かったのですが、返事が来なかったところが多かったんです。そこそこの大学も出て高校も出てという感じだったので履歴書だけで落とされることはないだろうという思いもあったので、やっぱりヒジャーブをしていると難しいのかなという部分も若干ありました。一方で、そういうことにかかわらず選考を進めて下さる企業さんもたくさんありまして面接も一杯やらせていただきました。中には1対1の面接もあったのですが、そのあとにここからはオフレコでという感じで、あなたはすごくいいと思うけれども、社内の規定で引っかかるかもしれないから、それは上の判断になるのでわかりませんという話をされたこともありました。

そんなこんなで就職活動もしていましたが、ワールドピースナウの活動をしていろいろな人にお会いして、やっぱり自分の進路を考えさせられたんですね。わたしが受けていたのは大手企業が多かったということもありまして、大手企業に就職してこのまま一生いっていていいのかというところに疑問が湧きました。手に職を付けて独立してやっていけたらいいのかなという思いも出たりしましたので、留学帰りで英語も若干できたこともあり、通訳翻訳をやろうとすごく安易に考えまして養成学校みたいなところに通いました。それで卒業を迎えてそのあともフリーで通訳翻訳の仕事を少しだけやらせていただいたんですが、始めてみたら本当にこの仕事は嫌いだわと気付いたんですね。英語と日本語と同じことを2回言わなければいけないということが耐えられなくて、もうわたしはわかったから次に行こうよ、という気になってしまうんですね。それから英語と日本語が脳の中でつながっていなくて英語のときは英語だけ、日本語のときは日本語だけという感じで、横に行くことがすごく苦手で、それが苦痛だということをやっと認識しました。どうしようと思っていたところ、ちょうど実家がしている小さい会社で人がやめてしまって人手が足りなくなりました。いわゆる中小企業なので一般の人に財政的なことをあまり見せたくないという親の思いがありまして、わたしだったら財務的なことも見てもらえるからぜひやってほしいといってもらいました。わたしも通訳はやばい、ダメだと思っていたので親孝行だと思いながら5年だけ働きますという約束で就職しました。

ムスリムの弁護士をめざしてロウスクールへ

そこもやってみたけれども、本当に仕事がつまらなくて、といったら親に怒られますが、企業の分野が車関連だったので興味が持てなくてどうしようかなと思っていたんですね。それでワールドピースナウの関連でいろいろな活動をさせていただいたときにいろいろなNGOの人たちにお会いして、さらに弁護士の先生方ともいっぱいお会いしました。それで「弁護士さん、いいな」と思ってしまって、すごく安易に「ちょっといいんじゃない?」と思ったんですね。いいなと思った理由はいっぱいあるけれども、やっぱり目の前の人の役に立てる、実際に本当に困っている人がいらっしゃって、その人のために法律の知識を使って何かして差し上げられるというのはすごくいいな、いい仕事だなと思ったんですね。NGOの方のつながりでアフガニスタンの難民の方にお会いする機会がありまして、その方が当然ながら日本の弁護士さんたちに助けてもらいながら、クリスチャンの支援団体にも助けてもらっていました。その方はもちろんムスリムですけれども、ムスリムはそういうサポートができていなくて、そのときにすごくムスリムは情けないなと思ってしまったんですね。別にムスリムはムスリムしか助けなくちゃいけないとか、ムスリムのことはムスリムしか助けるべきではないということでは全然ありませんが、自分達はもうちょっと貢献した方がいいんじゃないかなと思いました。

ムスリムの弁護士が全然いなかったので、誰かがやらなくてはいけない、誰かがやればいいのになと思いながらも誰もやる気配もありませんでした。わたしも仕事がつまらないし自分の人生をどうにかしたいし、と思って「じゃあ、わたしがやっちゃう?」みたいな、意外と簡単になれるかもしれないという思いもあり、ちょうどロウスクールができた頃でロウスクールができたらみんな受かるみたいな触れ込みだったので弁護士を目指すことにしてしまいました。わたしは経済学部だったので法律については何も知らなかったので、とりあえず法律ってどんなものか見てみようかなと思って独学で少し勉強を初めて、そのあとロウスクールに行くことにしました。ロウスクールに行き始めた頃に5年がたったので、親の会社は辞めさせてもらいました。その頃には日本は無理だから脱出、とか思っていたことはすっかり忘れてしまうほどに日本は居心地がよくて、「わたしは日本でやることがあるんじゃないですか」とか思ってしまって、日本で弁護士として生きていこうと思いました。

ムスリムとしての生活ですが、帰国してから実家で暮らしていました。親はやっぱり私がこういう格好をして家から出るのは恥ずかしいなというところもあったりするものの、あきらめなんですかね、親に感謝してもしきれないですが、無理には止めようとはしないで生活をさせてもらっていました。食事もいくつか食べられないものもあるので、そういうものをつくるときには別メニューを作ってもらったり本当に良くしてもらったと思っています。親の心配のひとつ大きなところはやっぱり結婚で、ムスリムの女性はムスリムの男性と結婚しなければいけないという決まりがあります。日本にはいま約10万人くらいのムスリムがいるといわれていて、そのほとんどが外国人です。そういう中、誰と結婚するのよ、みたいなことをすごく親は心配していました。うちの親は本当に典型的なステレオタイプに引っかかっていて、わたしがだいぶ年上のアラブ人のおじさんの第4夫人になってアラブに連れて行かれるみたいなことを想像していたみたいです。しょっちゅう「日本がいいわよ、日本がいいわよ、結婚しても日本がいいわよ」とずっと言っていました。実際のところムスリムの独身の男性とのお話というのはいっぱいありましたが、なかなかうまくいきませんでした。いま思えば話はたくさんいただいて15年くらい前の当時、独身でムスリムという女性は本当に少なかったんですね。いまは本当に増えています。当時20代前半で日本人で英語もしゃべれて、というムスリムということで、ものすごい数のご紹介をいただきました。でもなかなかピンと来る人はいなかったという感じで、うまくいかないなと思っていました。とりあえず焦ってもしょうがないし、と思ってひとりでも生きていけるようにと半分思いながら弁護士になることを決めました。

宗教と文化の切り分け

2009年にロウスクールに入ったんですけれども、その直前にいまの夫、たまに合うくらいの知り合いでしたが、久しぶりにあったらピピピッと来ちゃいまして、わたしはこの人と結婚すると思ってそういう話をしてみたらとんとん拍子にうまくいってしまい、ロウスクールに入ってすぐの夏休みに結婚しました。ロウスクールって本当に忙しくてすごく勉強しないと間に合わない感じで大変で、すごく大変な期末試験ですが、その前の1週間は大学生みたいに休みがあります。その休みの間にドレスの試着に行くみたいなことをして、いま考えればちゃんと勉強していれば良かったなと思いますは、そんな感じで夏休みに結婚式を挙げました。心配していたうちの親ですが、わたしの夫はアメリカ人で、もともと日本にいて日本で出会った人で、これからしばらくは日本にてもいいという感じでした。そしてわたしのふたつ年下です。親としては「とりあえずアメリカ人で良かった」みたいな、万が一日本じゃなくて国に帰るということになってもアメリカなら大丈夫だという感じですね。それにおじさんではない、独身だったので第2夫人とか第3夫人じゃないということで、勉強が心配だけれども良いよという感じで結婚を許してもらいました。

アメリカ人というところですが、ムスリムの中ではすごく珍しいですね。アメリカの中のムスリムは数百万人といわれていて少なくはないですが、日本に来ているムスリムのアメリカ人というのはすごく少なくて、私たちも片手で数えられるくらいしか人数を知らないくらいです。日本のムスリムのコミュニティの中でも日本人とアメリカ人の夫婦というのはすごくマイノリティだなと言う感じです。ムスリムが多い国の人と日本人というカップルが大多数なのでそういう意味でも珍しい感じです。

個人的にはイスラムというのは宗教であって文化じゃないなと思っています。もちろんいろいろな国のいろいろな文化がありますが、大事なところは宗教の教えであって、わたしはムスリムにはなったけれどもアラブ人になったわけでもないし、パキスタン人になったわけでもないし、別になりたくもないという思いが長い間ありました。そんな中、夫がアメリカ出身ということで、アメリカの中ですでにある意味宗教と文化の切り分けができていて、相当程度アメリカの文化に根付いてイスラムは実践するけれどもそれをアメリカの文化の中でやっています。それとのすりあわせということで、わたしは日本の文化を持ち、彼はアメリカの文化を持ちということで、すりあわせが楽だったなと思います。いまも中東とか南アジアの文化を、ちょっと受け入れがたいなと思うものについては何かあったときは調べて、これはイスラムに基づいているものなのかそれとも文化に基づいているものなのかを調べて、文化だったたらそこは切る、イスラムだったらそれはもちろん実践する。文化であれば私たちには私たちの文化があるからということで切り分けられるのですごく良かったなと思っています。夫につきましては、外国人は日本にたくさんいますが、アメリカってやっぱり日本の中ですごく強いなと思いますね。外国人と一口にいってもアメリカだよというとちょっと態度が変わったりとか、ほかのアジア出身の人とは若干違う扱いを受けているのではないかなということは感じました。アフリカンアメリカンですので、結婚生活を通して構造的差別がどういうものかということをすごく見ることになって、大切な経験をさせてもらっていると思っています。

生活の中でイスラムをどう実践するか

イスラムの実践というのは自分と神様との関係に尽きるので、これをどの程度実践するのかというのは本当に個人によります。人があまり口を出すことでもないですし、みんなある意味好きなようにやっていることなので、いまからお話しするのはわたしがやっていることで一般化はできないかなと思います。わたしの生活の中で一般の日本人の方と違うと思うところは、やはり1日5回の礼拝をすること、それからヒジャーブをする。この髪の毛を隠すスカーフもそうですけれども、長袖を着て足も隠れるように、身体のラインが出ないような格好をするんですね。夏でも長袖と、わたしはあまりズボンはかないのでロングスカートというかたちになります。

違うのは食事ですね。最近ハラールということをよくお聞きになると思いますが、ハラールというのはイスラム的に許されているもの、アラビア語で許されているものという意味です。動物をお肉にするときに神様の名前を唱えて屠るということが条件になっているので、そういうお肉のことをハラールといったりすることが多いです。そういうお肉を食べて、ほかのお肉は食べない。豚肉はもちろん全然ダメですが、それ以外のお肉もそういうお肉だけ食べる。それからアルコールを摂取しないということですね。ちょっと面倒くさいと思っているのはコンビニとかで普通にパッケージになっているものでおにぎりの中に豚肉が入っていたりとか、なぜかわからないけれども使われているみたいなものがあって、裏を見て確認して買います。なぜ梅干しのおにぎりに豚が入っているの?というところがありますね。最近は誤解が生じ始めていると思うのは、ハラールの認証があってその認証を取っていないところでは食べられないのではないかという誤解が生じているのかなと思います。全然そんなことはなくて日本でお魚メインの料理は問題なく食べられますし、わたしも忙しいので外食が多くなってしまいますが、外食で困っている感じはないです。焼き肉屋さんとかしゃぶしゃぶ屋さんとかはなかなか行きにくいですが、それ以外のところはだいたい大丈夫です。

それから年に1回ラマダン月に断食をします。日本人の方は絶対やらないと思いますが、朝、日の出前に1回起きて朝ご飯をがっつり食べて、それから寝ます。というのは日の出前というのが早い時間が多いので起きていてもちろん良いけれども、仕事に行く前とか学校に行く前に寝て、日が落ちてからまた食べ始めるという生活を1ヶ月間します。それは意外と大変じゃなくて、私たちも1年間やっていないと、「うわ、断食しなければいけない時期が来た」と思ってドキドキしますけれども、意外とやってみると大丈夫なんですよ。普段の生活をしていると、お昼を抜くという程度なので本当に忙しくしていれば時間はあっという間に過ぎますし、夜はみんなで集まって食べることも多いので楽しい時期でもあります。

イスラムと日本の文化とか習慣の中で、一致するというか同じだと思うところがいっぱいあります。ムスリムっていろいろな人がいるのであまり実践されていないのではないかと思うところがあります。特に日本ではイスラムとは関係なくそういう文化があって、日本人の方が行動が理想的なムスリムに近いとムスリムの人がよくいうのですが、本当にそういう感じだとわたしは思っています。その一致するものというのは、例えばうそをつかないとか、ごまかさないとか裏切りとか人を傷つけたりしない。それから礼儀正しくあるべき、清潔さとか親孝行とか年上の人を敬うとか、そういうことですね。わたしがすごく面白いと思ったのは、傲慢にならないということがあります。イスラムでは困っている人に対してチャリティというか施しをすることは推奨されています。そのときに、施しを受けた相手が恥ずかしい思いとか嫌な思いをしてしまったらそれはむしろ良くなくて、そういう思いをさせないようにしなければならないということが結構厳しくいわれています。そういうこともすごく日本に通じるのではないかと思います。

ムスリムっていろいろなイメージがおありかと思いますが、わたしがすごく気に入っているのは、預言者ムハンマドの言葉だったと思いますが、ムスリムとは他人がその者の行いとその言葉から安全であるもののことをいう、といういわれ方をしています。ムスリムと他の人が対峙したときに、ムスリムとの人間関係の中でみんな身体的にも傷つけられることもないし悪口を言われたり嫌なことを言われたりすることもないように、という、それがムスリムたるものそうあるべきだという言われ方をします。これもすごく日本の文化と通じるところがあるんじゃないかなと思っています。

「男尊女卑」などイスラムに対する誤解

イスラムに対する誤解と言いますか、イメージが先行してあると思いますが、やっぱり一番大きいのは「暴力的」というところかと思います。これも預言者ムハンマドの言葉で「信仰はいかなる暴力をも抑える働きをするものである」、信仰するものに暴力をふるわせてはならないということがあります。「ひとりの人を殺したものは人類みんなを殺したのと同じだ」とか「ひとりの命を救ったものは人類みんなを救ったのと同じだ」といういわれ方もしていて、人を傷つけることについてはすごく諫められ大きな罪だとされています。

「男尊女卑」というイメージも強いかと思います。いろいろな国の人たちのやっていることを見てそう思われるかもしれないのですが、語弊があるかもしれませんが、その国々の文化-もともとイスラムとは別にある文化で男尊女卑が強く、それをイスラムとミックスしてしまって、「イスラムではこうだ」といってしまう人が実際にイスラムでは多いので、それで誤解が生じるかと思います。イスラムでは女性は非常に大切にされていて「天国は母の足もとにある」という言い方をします。お母さんに尽くしなさい、お母さんに尽くすことが天国への入り口だよ、天国に行けるような行いだ、ということがすごく強調されます。預言者ムハンマドに他の人が誰を大切にすべきですかということを聞きました。そうしたら「お母さん」。「その次は誰ですか」「お母さん」「その次は誰ですか」「お母さん」、「その次は」といわれてやっと「お父さん」が出てくる。それくらいお母さんが大切にされています。それから妻も大事にしなさいとすごくいわれていまして、ムスリムの中で一番良いものは家族に対して一番良い行いをするものだといわれています。家族をしっかり大事にして下さいということはすごくいわれていて、家事を手伝うとか、例えば奥さんが専業主婦であっても家事の手伝いをするのは旦那さんの努めというところもあります。

経済的な面では衣食住は夫が面倒を見なければならないという決まりがあるんですね。夫が全部の面倒を見なければいけないのですが一方で妻には働く権利があって、妻が働いて得たものは妻のものなんです。妻がどれだけ稼いでいてもそれを使って衣食住の面倒を見る必要はない、義務はありません。自分のものは自分のもので、夫のものはわたしのものということで、すごく女の人は守られています。そういう前提があるので遺産相続のときなどは男性が1もらったら女性はその半分ということで少し差があります。そういうところを見て男尊女卑だと言われることが多いんですが、そこはそういう仕組みになっています。ちなみに女性が働いて稼いだものを家庭に費やした場合ですけれども、もちろん自分の生活のために使わなければならない場合もありますし、家族のより良い生活のために使う、それはイスラム的に見ると施しにあたります。自分の生活だけれども、自分はそれで施しているという記録が残るようになっています。

それから、イスラムはすごくルールが厳しいというイメージがあると思います。わたしが思っているのは、日本の方が思われているルールって結果が求められるルールだと思うんです。こうしなければならない、ということがあって、それも結果がなければ守ろうとしたことにあまり意味がない。でもイスラムではやろうと思う気持ちが大事で、実際できるかどうかはあまり求められていないというか、そこは神様と自分だけの問題であって、もちろん他人にも関係ないですし、神様との関係でもそのやろうと思った気持ちが一番評価されるので、結果ではないということですね。そういう意味で考えると、服装とか食べものとかいろいろありますけれども、それでなんだか大変、大変と思うのはちょっとずれているかなという感じがしています。そんな感じでムスリムとして生活をしています。

マイノリティに優しい社会は誰にも住みやすい

ようやく本題のようになるんですが、ムスリムって日本では10万人ちょっとですので人口の0.01%に満たない程度といわれていて、ものすごくマイノリティだと思うんですね。自分がマイノリティになってみて色々思うところがあります。みなさんご存じのとおり、最近マイノリティに関する不寛容ですとか排他的な状況が強まってきているのではないかと思っています。もちろんヘイトスピーチはその極みですし、生活保護受給者の人に対するバッシングですとか、障がい者、高齢者に対する厳しい言葉とか、色々あります。わたしは、それって自分はマイノリティとか弱者ではないという妄想の上に立っているのではないかなと思うんですね。当たり前ですけれど、自分がマイノリティじゃないと思うからマイノリティを批判したりいじめたりするわけですけれども、それは自分が安全と思っている。でも実際誰も安全じゃないと思います。病気と怪我とか失業だったり、いろいろな些細なことでみんなあっという間にマイノリティになってしまう。それを気づかないままそういう社会の風潮ができあがっているのではないかとすごく思います。

一方で、マイノリティの人たちはかわいそうだから守ってあげなくちゃいけないという論調も、逆の方向からあります。わたしは今年のお正月の新聞で、日本で生きるムスリムとして取り上げてもらいました。そのときに取材されて話したことと描かれたわたしが全然違いまして、それは本当にひどかったので文句をいったりしましたが、書いた記者としては悪気が全然ないんですよね。彼も一生懸命ムスリムの人たちのためになるようにがんばりますといっていてそこは疑っていませんけれども、やっぱりやり方がすごく傲慢なのかなと思いました。結局彼が書きたかったことは、ムスリムはこんなに虐げられていてかわいそうで、そういう人たちがいるからみんな助けてあげましょう、という感じかと思いますけれども、それって真実じゃないんですよね。とくにわたしのその記事の場合は、先ほどお話ししたようなわたしのいままでの人生を語って、わたしの人生を書かれました。でもそこで書かれたことは全然わたしじゃなくて、読んだ友達にも「こんなだったっけ?」といわれたりして、明らかに違いました。マイノリティの人はかわいそうというものすごく上から目線でした。

もちろんマイノリティであるが故の苦しみとか大変さを否定するものではありませんし、そういうところはみんなで解決していくべきだとはとても思うんですけれども、そういうときの立ち位置としてマジョリティからかわいそうだから救ってあげるということはすごく傲慢だと思うんですね。マイノリティであっても社会の対等な構成員だという認識、それをすごく強調したいと思います。当然ながらマイノリティの側にも色々とありつつも何かしら貢献できることはあって、社会の一員としてそういう貢献をみんなが認めていくということも重要なのかなと思っています。常々思っていますが、マイノリティにとってやさしい社会というのは誰にとってもやさしい社会なんですね。マジョリティにとっても住みやすい社会ですし、自分もいつマイノリティになってもおかしくないということを心配する必要がないという意味でも、すごくいい社会なんじゃないかなと思います。マイノリティのことを個々人が自分のこと、自分の社会の問題、自分の問題としてとらえることが重要なのかなと思います。

大統領選挙結果についての不安と希望

アメリカの話をしますね。アメリカ大統領選挙が先日ありました。トランプさんが勝ちまして、日本ではすごく驚かれた方が多いと思いますし、アメリカでも驚いた人たちがたくさんいましたが、わたし個人の感想としては残念だけれども驚きはしなかった。正直言ってトランプ氏が共和党候補になったときはちょっと驚きました。さすがに共和党は党としてもう少しちゃんとした人を選べよ、というかそのときは驚きました。でもクリントンさんの不人気もありましたし、クリントンさんとトランプさんの間ではトランプさんが勝つということは別におかしいことじゃないと思っていました。正直言って日本の方たちも含めて、特にアメリカに住んだことがあったり、アメリカ人とかヨーロッパ人とかいろいろな人と知り合いが多い人たちの間でもすごくびっくりした方が多いので、何でだろうと思ったんですね。何でわたしはびっくりしていないのにみんなはびっくりしているんだろうと思ってちょっと考えました。やっぱりわたしが見ているアメリカが、アフリカンアメリカンですとか、イスラムですとか、そういうマイノリティの目を通してみているからかなと思いました。

例えば些細なことですけれどもフェイスブックを見ても、日本ではニュースにならないような、こういうヘイトクライムがありました、こういう暴力事件がありました、アフリカンアメリカンが警察官に殺されましたとか、そういう、日本ではほとんどニュースにならないようなことが日々いっぱいあります。うれしくないですけれども、そういうことを毎日見ているので、アメリカの差別的な構造とかアメリカで実際行われている差別はひどいということを体感していたと思います。そういう前提で見るとアメリカの中の差別は根深くて幅も広くて、そういう人たちが多い。それこそトランプさんが言っていることを本気で思っている人たちって多いんだろうなということを、どうしても感じざるを得ない状況にありました。それはわたしが思っているだけではなく、選挙直後にあったアメリカのコメディ番組でも、白人と黒人何人かずつが選挙の様子、開票の様子を見ている場面でした。白人の人たちはみんな「この州ではトランプが勝ちました」ということを見てみんなすごく驚いているのですけれども、黒人の人は「まあ、やっぱりね」みたいな感じで見ていて、そういうコメディがつくられることにアメリカの中で黒人と白人の差といいますか、見えるものの違いがあるだろうなと思いました。

トランプさんが1月から大統領になるわけですけれども、わたしが心配しているかというと色々注目してみていきたいと思っているところはいっぱいあります。けれどもそこまで心配はしていなくて、やっぱり大統領は大統領であって独裁者ではないというところですね。選挙戦で言ったことがどれだけ現実的に政策として反映できるのかというと、わたしは全然別の問題だと思います。例えばオバマさんの8年間を見てもわかりますけれども、彼もこういうことをやろう、ああいうことをやろうといって努力をされましたけれども、できなかったことはいっぱいあった。それと同じ仕組みで、トランプさんがやりたいと思っていることも必ずしも容易ではないのかなと思います。

例えばアメリカの全ムスリムを登録してデータベースをつくるみたいなことを彼は言っていますが、つい先日ニューヨーク市長のデブラシオさんが言っていたんですが、トランプ政権が全ムスリムのデータベース化を進めようとしたらニューヨーク市は市として連邦政府を止めるために訴訟を起こすとというようなことを宣言していました。市民レベルでも、例えばマイケル・ムーアさんとかそういう人たちが、登録制が本当に始まったらみんなこぞって改宗してムスリムになって登録しようなんていう人が出てきたりしています。そういうこともあるので、社会全体がそういうことを許容するという感じではないのかなと思います。それよりも、選挙戦を通して言いたいことを言って良いような風潮がつくられてしまったのではないかと、それをちょっと心配しています。

ポリティカルコレクトネス

よくポリティカルコレクトネスという言い方をしますが、政治的に正しい言い方、表現をしようということで、言ってはいけない言葉とか使ってはいけない言葉がアメリカには山ほどあります。それはどこにでもあって、もちろん日本でもありますが、アメリカでは特にさまざまなバックグラウンドですとか属性、思想、宗教とかいろいろな人たちが集まっています。そういう人たちが調和の中で、ハーモニーの中で生きていくために必要な知恵というか、そういう中でポリティカルコレクトネスができてきたのかなと思います。でも内心はみんな変わらないわけです。内心は差別的なこともいろいろ思っているけれどもそれをあえて絶対外に出さないという、そういう行動がありました。今回、選挙を通してそういうことが外されてしまったのではないかと懸念しています。

もちろん差別というのはみんなの内心からなくなることが望ましいですし、そのためにいろいろなことをしていかなければということはあります。けれどもとりあえずみんなが調和していこう、みんなが平和に生きていくためにはそういう「建て前」的なところってすごく重要だと思うんですね。アメリカでは選挙の翌日から9日間で700以上のヘイトクライムがあったとレポートされています。もちろんムスリムだけではなくてアフリカンアメリカンに対してですとかラテン系の方とかLGBTの方、いろいろな方に対して嫌がらせとか暴力的なことが行われているようです。それから心配なのは、学校で子どもたちがトランプと同じようなことを言っていじめたり、そういうことが多くなっていることが心配です。

これは日本のヘイトスピーチにもすごくつながることだと思います。言ってはいけないことは言ってはいけない。そういうことを止めるために、言ってはいけないことは言ってはいけないんだよということを、上からも下からも作り上げていくことが必要なのかなと思っています。日本では「まだ」というのは嫌ですけれども、まだヘイトスピーチで言葉だけですけれども、これっていまここで止めないと暴力的なことに必ずつながっていくと思います。そういう意味で、ここを止めていくことは重要です。

今日は憲法講座ということもあり、わたしも弁護士ということで、憲法21条で保障されている表現の自由との関係をちょっとだけ考えてみたいんです。もちろんヘイトスピーチの規制のための法的な仕組みがもしつくられた場合に、そういうものが権力によって恣意的に使われて、権力のいいように人々のスピーチが表現の自由が侵害されるようなことがあってはダメだと思うんですね。だけどヘイトスピーチというもの自体は、わたしは表現の自由で保障されるべきものの枠外にあるのかなと考えています。

ヘイトスピーチか、それとも一般の言論なのかというのは、それほど判断は難しくないのではないというところと、ヘイトスピーチ自体が構造的差別の上に成り立っているものだということがあると思います。いまはヘイトスピーチの対象は在日の方が多いわけですけれども、在日の方が戦前からずっと何十年も差別の対象になってきて、その上で明らかに対等じゃない。ヘイトスピーチをしている方とされている方が対等じゃない。反論すればするほど結局やられるわけです。その萎縮効果はものすごいものがありますし、沈黙させてしまうという意味でも、1対1のケンカで悪口を言い合っていることと同等に考えてはいけないと思います。その構造をきっちり認識した上で、ヘイトスピーチは規制してもいい、規制しなければならないとならなければいけないのではないかなと思っています。わたしはいろいろなマイノリティとかいろいろな人が幸せに生きていくためには、ポリティカルコレクトネスというものがあるべきで、それがある社会をつくるべきなのではないかなと思います。

日本でもはじまっているムスリムへの監視

権力側からポリティカルコレクトネスを壊してしまったり差別を始めてしまった例としてあげたいんですけれども、ムスリムへの監視が行われています。これは9.11のあと全世界的にある意味行われたものです。「全世界的」といっても欧米と日本というところですけれども、日本でも2010年に警視庁外事第3課の公安情報がインターネットに流出して、そこからこういうことをやっていることが明らかになりました。何を警察が行っていたかというと、日本に住むムスリム全員を対象にして監視ですとか尾行ですとかスパイのようなことをやらせて、ムスリムのコミュニティの情報を引っ張ってこようとしたことがありました。それから学校の中の様子などを調べたり、子どもたちも監視対象にしたりして、いろいろな情報を集めて集めてデータベース化し、FBIとかいろいろな海外に情報提供されたりしていました。

それについて、もちろん情報が流出したことも違法だと思ったんですが、捜査としてほかの容疑が一切ないのにムスリムを全員監視するということは違法ではないかということで、国賠訴訟を起こしました。いろいろなことを話しましたが、結論だけ簡単にいいますと、裁判所は平穏なムスリムと過激なテロリストを区別するためにはムスリム全員を監視することが必要だといって、ムスリムに対する監視は適法であるという結論を出しました。一審、控訴審とやって上告もしたけれども上告審は憲法的な問題はないということで今年5月31日に上告は棄却されました。日本の話です。法律的な話も山ほど論点があり、どの辺が憲法的な話ではないのかがそもそも疑問ですが、それは置いて、この捜査についてお話ししたいと思います。

そもそもテロリストって何なのかということを考えるときに外務省のホームページによりますと、テロとは「特定の主義主張に基づいて、国家などにその受け入れを強要したり、社会に恐怖を与える目的で殺傷・破壊行為(ハイジャック、誘拐、爆発物の設置など)を行ったりすること」ということです。でも本当にいまテロというのはそういう意味で使われているのかな、とちょっと考えてみて欲しいんです。残念ながらいろいろな事件が世界中で起きていますけれども、犯人がムスリムのときだけ「テロリスト」とか「テロ」という言葉が使われていないでしょうか。

いろいろな事件があって、数年前にノルウェーで起きたすごい事件がありました。あの犯人はとてもキリスト教的なことを言って、何かを一掃するみたいなことをいっていたんですね。でも彼がテロリストと呼ばれたことはたぶん1回もないんですよ。あれがテロリストじゃなかったら何がテロリストだというくらいにテロ行為だと、さきほどの定義からすると思いますが、それは言われない。かたや、「これはテロなのか?」みたいなニュースが流れますよね。これって結局はニュースを待っていると犯人がムスリムかどうかという話しかしないわけですよ。ムスリムが起こすことがテロだという、定義が変わってきているのではないかなとちょっと思います。そうすると当然ながらテロリストは全員ムスリムだ、それはそうだろうという感じになるのではないか。定義からしてムスリムがやることがテロなんだから、テロリストは全員ムスリムなわけです。そういうところですごく操作されているんじゃないかと思います。

それから、イスラムの信仰がテロリストを生むということも良くいわれます。「過激化する」という言い方ですよね。熱心になればなるほど過激化してテロリストになっていくという論調で書かれることがすごく多いと思います。ニューヨーク大学付属のブレナンセンターという研究機関がありまして、そこが数年前に研究結果を発表しています。それによると信仰によって過激になるということはなく、むしろ信仰が深くなればなるほど過激化をおさえる働きがあると結論づけています。

アメリカのシンクタンクでギャロップセンターが、35ヶ国6万人のムスリムにインタビューしてデータを取りました。そのとき聞いたのは確か9.11の話だったと思うんですが、テロについて肯定か否定かというところから聞いて、肯定するといった人が数%に止まる、ほとんどの人はそんなことは許されない、否定だといった。ここが面白いと思ったんですが、テロ行為を肯定する人たちがいった理由は、政治的な理由でした。政治的な状況、例えば貧富の差だとかアメリカが海外でやっていることなどを挙げて、だからテロは許されると言った。これに対してテロを否定する人たちは、それはイスラムの教義に反する、ムスリムとしてそれは許されないと言っていて、否定する方の根拠はイスラムだったんですね。そういうことから見ても、熱心なムスリムになるとテロリストになるということは、そもそも前提を欠くと思います。

認められないムスリム全員を捜査対象にすること

それから国際的な捜査手法、ムスリムをターゲットにして、ムスリムみんなを捜査対象にするという方法は欧米諸国で取られました。それについて国連人権理事会もそういうことはダメだという決議を出していますし、自由権規約委員会、人種差別撤廃委員会、条約の委員会ですね、そこは日本に政府対して個別にそういうことはやめるようにという勧告を出しています。アメリカでも同じようなことをしていたわけです。ニューヨークでもいっぱいやられていましたが、ニューヨークの裁判所はそれを違法だとする判決を出しています。日本で私たちがやった国賠と同じような事件が訴訟になっていまして、その中でそういうことはやめて、そういうことを防止するような対策がニューヨークでは取られることになりました。ドイツでも同じようなことがあって、判決が出ていたかどうかわからりませんがドイツもやめています。世界各国で、これは違法だし意味がない、むしろ捜査の対象を広げすぎて無駄なことになるので逆効果だから良くない、ということが明らかになってきています。基本的に違法だということになっている国際状況にありながら、日本の裁判所はそれでも適法だ、やっぱりムスリム全員を監視しないと、と言うことをいっています。もちろん弁護団としてはそういうことも全部提出して、違法であると裁判では言ったんです。

もちろん日本だけじゃないと思いますが、裁判の日本の社会への影響として、やっぱり警察とか権力がやっていることだから何かしら意味があると思うんですね。警察が捜査しているということは、ムスリムはやっぱり危ないんじゃないの。いくらムスリムが私たちは平和的だといったって、そうだねと思うわけもなく、やっぱり警察が見ているんだからそれなりに理由があるんでしょと思ってしまうわけですね。そう思われるようになることで差別が生まれてしまって、ある意味警察の捜査によって上から差別がつくられていくのかなと思います。下から、私たちが草の根レベルで差別がないような社会をつくっていこうという動きをするとともに、上からの差別を生み出さないような、差別をなくしていくような動きをして欲しいと思います。

みんな自分のこととして考えて欲しいということですけれど、これってやっぱり自分のためだと思うんですよ。なぜかというと今はムスリムですけれども、この捜査の対象って必ず他の人にも広がると思います。日本にいるムスリムって本当に人数が少なくて、しかもそのほとんどが海外から来た外国人なので、日本語能力ももちろんですし、日本のシステムとか知らないことも多いです。そういう意味では弱い存在なんですよね。そういう人たちで、また社会から見てもある意味見逃しやすいというか、ムスリムはちょっと怖いし、外国人だし、人数もそんなに多くないから多少監視されても仕方ないんじゃない、みたいな感じになりやすい存在だと思うんですね。ある意味試金石にされているという感じをわたしは受けていて、いまここでみんなで止めないと、これが政治的に使われたりしてしまうのではないかと思います。

実際にどこかの地方都市では、市の政策に反対する市民活動とその市民活動を応援している弁護士事務所を、警察などを使って監視対象に置いていることが報告されています。政治家とか、いわゆる権力に反対するものとして監視対象にされるという日も遠くはないのではないかと思います。そういうこともあります。そういう意味でもマイノリティにやさしい社会につくるということは、かわいそうなマイノリティのためということではなくて、自分たちが、自分自身が安心して生きられる社会をつくる。そういうことのためにマイノリティにやさしい社会をつくることが不可欠だと思います。

まとめに入りますが、この1時間半近くの間でわたしがお伝えしたいことは、マイノリティにとってやさしい社会というのは、みんなにとってやさしい社会、生きやすい社会、誰にとっても生きやすい、別にマジョリティが損をするわけでもなくみんなが生きやすい社会ではないかということです。マイノリティにやさしい社会にするためには、心の中はそんなに簡単には変わらないので、とりあえずポリティカルコレクトネスがある社会にすることが必要ではないかということです。マイノリティに優しい社会というのは誰のためでもなく、自分のため、みなさん個々人のためだという意識を持つことが必要なんじゃないかなということです。 ありがとうございました。

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