安倍政権は10月までで期限切れとなる南スーダンの国連平和維持活動(PKO)参加の陸上自衛隊北部方面隊第7師団第11普通科連隊など(第10次隊)の派遣期間の延長を月内に決定し、11月から第11次隊として青森の陸上自衛隊第9師団第5普通科連隊を派兵しようとしている。この部隊に政府は今年3月に施行された「戦争法」による「駆けつけ警護」と「宿営地共同防衛」の新任務を付与する予定だ。その場合、新しい派遣部隊が戦闘に巻き込まれる危険性を最小限に抑えるため、活動範囲は稲田防衛相がいうところの「比較的落ち着いている」首都ジュバ周辺に限定するなどという方針をとるという。
しかし、当初、政府は派遣期間延長と新任務付与の閣議決定を同時におこなうという考えであったが、このところ、ジュバ周辺の情勢が危うくなって来ているところから、新任務の付与は11月に入ってから改めて判断するという状況になってきた。極めて危うい話だ。
すでに青森を中心にした交代部隊は8月25日から派遣に向けた訓練を始め、9月中旬から、「至近距離での銃撃戦」の訓練をはじめ、戦争法に基づく新たな任務として付与される予定の「駆け付け警護」と「宿営地の共同防護」の訓練を本格的に実施し、11月中旬以降の南スーダン派遣に備えている。部隊の装備も対空機関砲など重武装化される。私たちはこの第5普通科連隊を南スーダンに送ることを容認できない。
2011年に新たに独立した南スーダンへの支援として国連の要請を受ける形でPKO(国連平和維持活動)への自衛隊参加が始まり、現在は10次隊で約350名の隊員が派遣されている。
さまざまな反対を押し切って1992年に成立したPKO協力法には、参加するにあたり満たすべき条件としてPKO5原則がつけられた。(1)紛争当事者間の停戦合意が成立(2)受け入れ国を含む紛争当事者の同意(3)中立的立場の厳守(4)以上の条件が満たされなくなった場合に撤収が可能(5)武器使用は要員防護のための必要最小限に限る――だった。従来は、このもとでの武器使用は「自己や自己の管理下に入った者の防護」に限って認められていたが、昨年9月の戦争法強行採決、3月の戦争法の施行によって離れた場所で襲われたPKO要員やNGOらを助けるための「駆け付け警護」での武器使用、および他国部隊との「宿営地共同防衛」などでの武器使用も認められることになり、「必要最小限」の範囲が拡大した。南スーダンでは独立後もキール大統領派とマシャール副大統領派による武力抗争がつづき、2016年4月に停戦・和平移行政権が発足した。しかし、キール大統領派とマシャール副大統領派との対立と衝突はやまず副大統領は間もなく解任され、戦闘は激化した。7月上旬には大規模な戦闘が起こり、270人以上の死者が出た。8月にはマシャール前第一副大統領が南スーダンから隣国に避難して、和平協定はまったく暗礁に乗り上げてしまった。
こうして南スーダンでは事実上、停戦合意などが前提になったPKO5原則が適用される条件がなくなっているにもかかわらず、安倍政権は昨年9月に決定した戦争法の最初の具体化の地域として、あきらめていない。そのために、安倍首相と稲田防衛相らの国会の議論は白を黒と言いくるめる詭弁に終始している。
南スーダン・ジュバで7月に起きた大規模な戦闘について、安倍晋三首相は10月11日の参院予算委員会で、「『戦闘行為』ではなかった」と答弁した。安倍首相によれば「武器を使って殺傷、あるいは物を破壊する行為はあったが、戦闘行為ではなかった」。「われわれは、いわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」と答弁する。なんと酷い答弁だろうか。
ジュバでは7月に大規模な戦闘が発生し、市民数百人や中国のPKO隊員が死亡した。稲田朋美防衛相は「法的な意味における戦闘行為ではなく、衝突だ」「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたはモノを破壊する行為だ。こういった意味における戦闘行為ではないと思う」などと答弁した。
この戦闘に際しては、7月13日、ジュバからJICA関係者ら47人と日本企業の下請け作業のエジプト人、フィリピン人ら46人、計93人がチャーター機でケニアのナイロビに退避。同日夜、空自のC130輸送機3機がジブチ着。1機をジュバに派遣し、大使館員4人は14日、C130でジブチに退避した。紀谷昌彦大使と大使館員一人が安全確保のため14日から夜間は陸自の宿営地に避難し宿泊している(7月20日共同)。陸自隊は戦闘が再燃してからは国連施設の外に出られず、19日時点で活動を再開できていないという事態になった。
PKO5原則に基づいて自衛隊はただちに撤退せよという世論が高まることを恐れた中谷防衛相は「武力紛争に該当する事態ではない」と強調(7月21日東京)したが、岡部俊哉陸幕長は21日、陸自の宿営地で流れ弾とみられる弾頭が複数見つかったことを明らかにし、「流れ弾の弾頭が落下した可能性が高い」と述べた。
安倍首相や稲田防衛相は7月の戦闘のように死者270人に及ぶ大規模な戦争が起きても、単なる「衝突だ」と居直って、PKO5原則による派遣の破綻を言いくるめようとしている。
稲田防衛相は10月8日、就任後初めて南スーダンのジュバを訪問し、自衛隊の活動内容や現地の治安状況などを確認した。稲田防衛相によれば現地の状況は「比較的安定している」と報告された。そして、稲田防衛相は自衛隊員に対しては宿営地で「部隊の高い能力と厳正な規律は、国連や南スーダン政府、現地住民から高い評価を受けている」と訓示した。
ところが、南スーダン政府の10月10日の発表では、稲田防衛相の安全宣言の舌の根も乾かない10月8日、南スーダンのジュバ近郊でトラック4台襲撃が武装勢力に襲撃され、市民21人死亡、負傷者も20人に上るという事件が起きていた。
襲撃は8日、ジュバと、約130キロ・メートル離れた南部の町イエイを結ぶ道路上で起きた。トラックには女性や子供らが乗っており、銃で狙われた。
同国政府は、マシャール前副大統領を支持する武装勢力の犯行だとして非難した。前副大統領側は関与を否定している。南スーダンではこうした武装襲撃は、反政府軍によるものだけでなく、政府軍兵士によるものも少なくないという。もしもこうした武装勢力と自衛隊が戦闘をするようになったら、国際紛争を解決する手段として、武力の行使を禁じている憲法第9条に反することになる。
このところの政府のことばのすりかえによる答弁、違法行為の正当化は目に余る。「戦闘行為」は単なる「衝突」にされ、「武力行使」は単なる「武器の使用」とされて、「戦争状態」はなく「比較的落ち着いている」とされてしまう。防衛大臣が視察にいった当日でさえも21人の死者が起きるような事態であるのもかかわらず、戦闘はなかったことにされてしまう。国会の論戦では新任務の付与で、派遣されている自衛隊員が交戦するリスクが高まるおそれがあるとの指摘に対して、安倍首相は「南スーダンは永田町にくらべれば遙かに危険だ」などとおちゃらけながら、「任務が増えれば、その分だけリスクが増えるわけではない」などとごまかした。自衛隊員の命が関わり、また自衛隊員が南スーダンの人びとを殺害するかも知れないという事態が迫っているときに、自衛隊の最高責任者が口にする冗談ではない。
多くの人びとが指摘しているように、かつて「戦争」を「事変」と言い換え、侵略戦争に突入し、敗れて「退却」しても「転戦」といいかえて、民衆をだまして戦争を継続してきた政府と軍部の手法ではないか。
冒頭に書いたように、いま、安倍政権は世論の動向を恐れ、不安定化する現地情勢を見極める必要があるとの判断で、派兵期間延長と新任務の付与を一挙に実行できないでいる。いま、この安倍政権の暴走を止めることができるのは世論の力だけだ。
10月14日の東京新聞のコラム「デスクメモ」はこう書いた。
「政府は『不測の事態』への備えもしているはずだ。派遣部隊で『戦死』者がでたとする。国葬級の葬儀で、首相は『世界平和のために尊い命をささげ……』と弔辞を読む。大半のメディアが死者を英雄視する……。死んでも、殺しても、その日で戦後は死語になる」と。
この臨時国会の冒頭、所信表明演説で「極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って任務を全うする海上保安官や、警察官、自衛隊員に今、この場所から、心からの敬意を表そう」(拍手)(水を飲む)と議場の議員に呼びかけた安倍晋三首相である。この首相が呼びかけ、演出するナショナリズムに基づく異常な光景を見るとき、「デスクメモ」氏の警告は極めて現実味を帯びているのがわかる。私たちは「不測の事態」にならないように闘うが、どのように覚悟し、これに立ち向かうのか。
憲法を無視し、立憲主義を無視した安倍政権のもとで、いま自衛隊には戦後初めて海外での戦闘で人を殺し、殺される事態が迫っている。
いま必要なことは平和を願い、自衛隊の戦闘参加に反対する人びとが、全国各地で立ち上がって、南スーダンPKO部隊はただちに撤退せよ、安倍政権は南スーダンの自衛隊に駆け付け警護などの新任務を付与するな、の声をあげる必要がある。
すでに全国各地で市民が街頭に出て行動を起こしている。この闘いをさらに強める必要がある。10月30日には陸自第9師団第5普通科連隊の駐屯地・青森で、「自衛隊を南スーダンに送るな!命を守れ!青森集会」が、「戦争法廃止を求める青森県民ネットワーク」と「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の共催で開催される。この現地集会は総がかり行動実行委員会の歴史の中でも、画期的な提起だ。
全国の仲間のみなさんが駆け付けてくれるよう呼びかけたい。
総がかり実行委員会は、これに先立ち、防衛省交渉も実施する。そして、もし安倍政権が第11次派遣部隊に新任務付与の閣議決定をするような場合は、その当日、早朝から官邸前抗議行動もおこなう。
こうした行動を積み上げ、安倍政権を追いつめようではないか。
(事務局・高田健)
この原稿を書き終えた後、10月21日と22日の朝日新聞が20日におこなった南スーダンの反政府勢力のトップ、マシャール前副大統領とのインタビュー記事を載せた。マシャール氏は現在、南アフリカに亡命している。以下、同記事、要旨。
マシャル前副大統領が、「7月に起きた戦闘で、和平合意と統一政権は崩壊したと考えている」と語った。和平合意の当事者だった反政府勢力のトップが和平合意や統一政権の継続を否定し、南スーダン情勢の先行きが見通せないことが浮き彫りとなった。
マシャル氏は、キール大統領と昨年8月に締結した和平合意や、キール派と今年4月に樹立した統一政権について「7月の戦闘の後、我々は首都から追い出された。和平合意も統一政権も崩壊したと考えている」と指摘。「もしそれらを復活させるのであれば、新しい政治的な過程が必要になるだろう」と述べた。
一方、自衛隊がジュバで活動していることや、国連安全保障理事会が8月、より積極的な武力行使の権限を持つ4千人の「地域防護部隊」の追加派遣を決めたことについては、「戦闘が起きたとき、私は国連やアフリカ連合などの第三者勢力の必要性を訴えた。ジュバなどの主要都市の治安を高め、非武装化させるためにも、『地域防護部隊』は必要だ。自衛隊を含めた国連部隊は歓迎する」との見解を示した。
稲田朋美防衛相は現地情勢について「武力紛争の当事者、紛争当事者となりうる、国家に準ずる組織は存在していない」とし、「PKO参加5原則は維持された状況」との認識。7月の大規模な戦闘についても、「戦闘行為ではなかった」(安倍晋三首相)として、「国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺し、または物を破壊する行為」という、政府が定義する「戦闘行為」には当てはまらないと認定している。
一方、政府は来月20日ごろに現地へ出発する陸上自衛隊の次期派遣部隊に、安全保障関連法で可能になった任務「駆けつけ警護」などを付与するかどうかも検討。稲田氏は、岩手県の岩手山演習場で「駆けつけ警護」の訓練を行っている部隊を23日に視察すると発表。現地情勢や訓練の習熟度などをギリギリまで見極めた上で判断する方針だ。
石川裕一郎さん(聖学院大学教授・憲法学)
(編集部註)9月17日の講座で石川裕一郎さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。
私は埼玉県の上尾市にある聖学院大学という大学で憲法の教員をやっております。一昨年の集団的自衛権容認の閣議決定と昨年の安保法制の問題で、何百人かの憲法研究者と共に、全国でやれることをやってきました。残念ながら安保法案は通ってしまいましたが、さらに政府側、自民公明連立政権の側は憲法改正に着手するであろうといわれています。今日はそのことについてお話をさせていただきます。
事前に資料を配付させていただきました。「はじめに」というところで、憲法改正に関する自民党の最新のニュースがありましたので早速載せました。今日お話しする自民党が2012年に発表した憲法改正草案ですが、もう4年もたっていますので自民党改憲案を批判する本も書店では結構出ていますし、もちろんインターネットでもたくさんの発言を目にすることもできます。すでに相当叩かれている自民党憲法改正草案につきまして自民党の方が最近このままではちょっとまずいのではないか、議論しにくいというような意見が党内でも出ているのだと思います。それを巡って自民党の憲法改正推進本部長の森英介さんと、現行の審査会の自民党の委員長で元法務大臣の保岡興治さんのポストを入れ替えるという話が昨日でました。
あわせて自民党改憲案を封印、「封印」というのが具体的にどういう意味なのかわかりにくいんですが、野党時代に出したということですね。自民党改憲案を出したのは民主党政権末期、これも昨日民進党の幹事長に決まった野田さんが総理大臣だったときです。自民党としては当時の民主党政権との違いというか対比を強調するために、いま療養中の谷垣さんが当時の自民党総裁で、とくに民主党との違いを際立てるために、彼の言葉を借りると「ちょっとエッジを効かせすぎた」、保守反動色を強めすぎたということについてそういう表現をしたわけです。そういったものになっているという意識がたぶん自民党内にも相当あると思います。ですのでこれはいったん横に置いておいて、とりあえず改憲の議論を始めたい、野党民進党を巻き込んでやりたいという話ですね。それが昨日のニュースで出ました。この新聞記事の最後のところで安倍首相のお話が出ていまして、「憲法審査会は与野党の枠を超えて議論したい。私が色々言うと進まなくなるので黙っている」とおっしゃったということです。
これが現時点での外に漏れてきているニュースということで、今月末から臨時国会が始まってその中で憲法審査会が再開されることになっています。その審査会で、もちろん憲法のポイントっていくらでもあります、現行憲法は全部で103ヶ条あって、そのうち補足が4ヶ条ありますので実質的な内容があるのは99条までで、その99条をひとつひとつ見ていくと、憲法の条文ですからどれが大切だ・大切じゃないということではなくてそれぞれ論点があります。どこから手を着けていくのかということがこれからの議論になると思います。しかしどこから手を着けていくにしても議論しやすいところからしていくことになると思いますので、いま私たちはそれを注意深く見ていく必要があると思います。
いろいろな論点の中でも日本国憲法のスピリットを形成している部分に絞ってお話ししたいと思います。まず自民党がそもそも憲法をどうとらえているかというところです。これはまず前文を比較するのが一番わかりやすい、話のとっかかりとしては適切だと思われますので、現行憲法の前文と自民党の改憲草案の前文を並べて載せてあります。これはぱっと見ておわかりになる通り、どこをいじったとか文章のここをこう変えたというレベルではなくて丸ごと変えられているんですね。細かい修正というよりもいまの憲法の前文を丸ごと捨てて、まったく新しい文章にしています。
この比較を見るポイントになるところが何カ所かあります。まず法解釈とか憲法の解釈がどうのこうのという以前に日本語的に、国語的にすぐわかるポイントですが、最初の段落、現行憲法は全部で4つの段落からなっています。その第1段落の最初、現行憲法は主語が「日本国民は」で始まっています。もとのGHQの案とか日本国憲法の公定の英語訳だと「We, the Japanese people」になっていますが、日本語の成文では「日本国民は」となっています。それが自民党改憲案を見ますと「日本国は」になっている。まず主語が違っていて、これは単に主語が「日本国民」と「日本国」に変えられているだけではなくて大きく違うわけですね。現行憲法はあくまでも国民が主体になっているわけですが、自民党改憲案は「日本国は」になっているわけです。それがまず大きなポイントのひとつです。
第1段落の資料では2行目から6行目まで、これが現行憲法の目的なっています。「われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、これが憲法を定める目的になっています。その2行下に「この憲法を確定する。」となっていて、制定する目的になっています。それに対して自民党改憲案は目的がまったく違っています。どこに目的が書いてあるかというと、第5段落に書いてあります。短い文章です。「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。」となっています。つまり憲法制定の目的が「良き伝統と我々の国家」、日本国という国家を「子孫に継承する」、それが目的になっているんですね。目的がまったく違っています。ですから、これはもう改正という、足りないところ、良くないところを直すというレベルではなくて、丸ごと変えている。というよりも、今あるものをゼロにして、ゼロから新しい目的を設けているかたちになっていて、とても改正というレベルではありません。
いまの憲法の第1段落の目的のところですが、今読み上げたところに「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」、みなさんご存じのように日本国憲法の3大原理のひとつである平和主義、戦争放棄が、このあともちろん第9条があるんですが前文のここにも出てきている。しかしこれに相当する文章がこの自民党改憲草案からは丸ごとなくなっています。
戦争についての記述はひとつあるんです。それが自民党改憲案の第2段落です。「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、」となっています。ここに戦争、「先の大戦」という言葉が出てきます。これがいわゆるアジア太平洋戦争を指していることは推測がつきますが、あとに続けて「幾多の大災害」と並べています。つまり戦争と大災害を並列しているわけですね。これはいうまでもないことですが「大災害」、具体的には阪神淡路大震災とか東日本大震災などです。日本は自然災害の多い国ですからそういったものを「幾多の大災害」という言葉で表現しているのはわかりますが、災害は自然が起こすものであって、少なくともいまのわれわれ人類の科学では防ぎようがないものです。起きたときにどうするか、あるいは起こることにどう備えるかはわれわれ人間がやれることはあるんですが、起こること自体は防げません。それに対して戦争は人間が起こすものですね。つまり人間が起こす戦争と人間以外、まさに自然が起こす災害を並列しているわけです。ここも見逃せないところだと思います。
これにつきましては原発事故も戦争と同じで人間が起こすものですが、これも昨日か一昨日のニュースで原発事故の賠償で8.3兆円くらいかかるのを、東京電力というひとつの民間企業では無理。無理なのは当然ですが、結局われわれの税金から払うという方針を政府が打ち出している、というニュースが流れました。それと似ているところがあると思います。つまり原発事故と、それと同時に起きた津波・地震による災害の損害を、たぶん並列するということです。人間が起こしたことと人以外が起こしたものを並列するという発想がここにあらわれていると思います。
現行憲法・第2段落の終わりの方にあるところを見ますと、「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあります。これは一般に平和的生存権といわれているものです。これも現行憲法の特徴です。第9条は戦争放棄の規定ですが、この第9条とは別にある価値が前文にあるとされるのはいま読み上げた平和的生存権です。これは非常に先進的な規定です。というのはこれと似たような条項は諸外国の憲法にはあまり見られないものです。「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」というものは、主体が日本国民ではなくて全世界の国民になっています。これは70年前この憲法ができた当時においても、というか現在においても、非常に先進的な規定だといわれています。この平和的生存権が自民党改憲案からは丸ごとなくなっているんですね。今から3年前、イラク自衛隊派遣違憲訴訟が全国各地で行われて判決もかなり出ていますが、そのうちでひとつ注目されたのは名古屋高裁が出した判決で、この平和的生存権を引用して自衛隊のイラク派遣は憲法違反でありかつイラク復興支援法、小泉政権のときにつくられた違憲の疑いが濃い法律ですが、あの法律に照らしても航空自衛隊がアメリカ軍を輸送したのは違憲であり違法であるという判決を出しました。これは、自衛隊違憲訴訟では必ず原告側が援用する箇所ですが、これを自民党改憲案では丸ごと削除しています。それに対して自民党改憲案では何を入れているのかということですが、丸ごと変えられています。
自民党改憲案の第3段落には、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」と書いてあります。この4行くらいの短い文章ですが、問題が大ありなんですね。ここでその話をしてしまうと1時間くらいかかってしまう可能性もあるので、何が問題かをポイントだけ挙げます。
まず、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」というのが先に来ていて、「基本的人権の尊重」がそのあとに来ています。現行憲法では人権尊重という言葉はわかりやすくは使っていませんが、第1段落で「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」とあります。これが現行憲法の3大原理のひとつである基本的人権の尊重がここにあらわれていると一般には解釈されています。これが自民党改憲案からはなくなっていて、「基本的人権を尊重」と言葉はわかりやすくなっていますが、これが自民党の改憲案だと「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」のあとに来るということで、かなり順位が落ちています。しかもその「基本的人権を尊重するとともに」のあとに「和を尊び」という言葉、これは現行憲法にはない言葉ですが、これが何を指しているかわからない。法律的な言葉ではないというか、憲法に限らず法律にはこういった言葉はないので何を指しているのかまったくわからないものが入っているわけです。
これについては自民党改憲案とあわせて自民党が一緒に出したQ&Aがあって、自民党のホームページにアクセスするとPDFファイルになっていて誰でも見られます。それを見ると詳しくは書いていないんですが、自民党内で改憲案を議論しているときにこの「和を尊び」という言葉が聖徳太子(いまは厩戸皇子として小学校の教科書では出ている)、厩戸皇子の17条の憲法以来の日本人の伝統だから入れるべきだという意見があったので入れましたと書いてあります。17条の憲法は同じ「憲法」という言葉を使っていますが、日本国憲法が寄って立つ近代憲法とはまったく別物なんですね。17条の憲法は法律の話ではなくて歴史の話です。私も専門じゃないのであまり17条の憲法とは何か、と突っ込めないんですが、大まかにいうと当時の大和朝廷の役人たちの心構えといったものです。それがいいか悪いかは別の議論であって、少なくとも日本国憲法とはまったく違うんですね。入れても毒にも薬にもならないものなら入れてもいいかなという気もしますが、ただこれは入れるとまずいというのは、そのあとにつながる「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」です。
これも非常に問題があるところでこのあとお話しする24条とも絡んできますが、一見すると良いように見えます。これだけとらえて反対するというのはたぶん難しいと思います。「家族や社会全体が互いに助け合う、良いことじゃないか」と。これを批判するというのは非常に難しい。みなさんがご家族や職場、学生さんならば学校でまったく憲法に関心がない人たちにお話しするときに、「家族や社会全体が互いに助け合うというのはまずい」とはなかなか言いにくいと思いますが、これはやはりまずいんですね。なぜまずいかは、このあとご説明しますのでここも見逃せないということだけ指摘したいと思います。
自民党改憲案の第4段落もよく意味がわからないところです。「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」と書いてあります。これも日本国民が目指すべき目的として書いてあるように思われるんですが、要は国家の目的が「活力ある経済活動」になっているんですね。これは現行憲法にありません。ここの部分はどういう意味があるかということですが、この自民党改憲草案全体を貫く特徴としてぱっと目につくのは復古主義的、伝統主義的な側面です。これは第1段落に出てくる歴史とか文化という言葉でわかりますが、そこだけだと自民党改憲草案の問題点の指摘の半分に過ぎないんですね。もうひとつはこの第4段落にある「活力ある経済活動」です。つまり伝統主義的であると同時に新自由主義的な側面があります。単なる伝統主義ではないんです。このふたつがたぶんこの自民党改憲案を貫く特徴、ライトモチーフだといえると思います。復古主義的な面と新自由主義、ネオリベラリズム―ネオリベといいますが―そのふたつを見ないと自民党改憲案の全体的な批判ができないのではないかと思います。それがあらわれているのが、この第4段落ですね。これが自民党改憲案のおおざっぱな特徴です。
この現行憲法の前文にあるもので抜けているものが結構あるというお話をしましたが、現法憲法の第1段落に「人類普遍の原理」とあります。それから同じ「普遍」という言葉が第3段落の「政治道徳の法則は、普遍的なものであり」というところにも出てきます。現行憲法の特徴はこの「普遍」という言葉がふたつ出てくることと、「人類」という言葉とか「全世界の国民」という言葉ですね。つまり日本国憲法は、いうまでもなく日本国民の権利を守ることを目的とした法規範、ルールですが、内容は単に日本国だけのものではなく全世界に通じる、まさに「普遍」、英語でいうとユニバーサル、普遍的原則であるということを謳っています。これが現行憲法の特徴です。これが自民党改憲案からは丸ごとなくなっている。現行憲法にある「普遍」とか「人類」ということがきれいさっぱりなくなっています。ここも現法憲法と比べた自民党改憲案の特徴だと思います。
まとめますと、現行憲法と違った自民党の改憲案の大きな特徴は、ひとつは歴史とか文化を強調している復古主義的な面です。現行憲法にはまったくありません。自民党の復古主義的な政治家のみなさんがおっしゃるのは現行憲法には日本らしさがまったくない。「味も素っ気もない」と言い方をします。日本的なものを入れるといって、自民党が改憲案を出したのは2回目ですね。小泉政権のときに出していて、そのときは新憲法案というタイトルでした。そちらはどういう方たちが加わっていたかというと、まだ元気でいらっしゃる中曽根康弘元首相ですとか、ちょっとつまずいてしまった舛添元東京都知事がまだ国会議員だったときに、そこら辺の人が書いたものがありました。今から10年前に出された最初の自民党が出した改憲案とこの2012年に出したものを見比べてみると、この10年間の自民党の変化も見えていて興味深いんです。
なぜ10年前の自民党の最初の改憲案の話をしたかというと、そちらは中曽根さんが下書きした日本の自然の話が長く入っています。「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に」とかですね。それが今回の2012年の案からは取れていますが、そういった「日本らしさ」というものに自民党はこだわっています。しかしいまの憲法にはまったくそれがないということです。むしろ日本らしさがないだけではなく「人類普遍」とか「全世界の国民」とか、そういう日本国という国境の枠を超えた言葉があるということです。その違いがひとつある。それに対して自民党改憲案はそういった世界的な言葉をなくして日本らしさを強調するものがひとつあって、もうひとつが新自由主義的、経済活動を優先するという意識が随所に見える。これは本文の中でも随所に出てきます。このふたつが大きな特徴として挙げられるということを最初に申し上げたいと思います。
中味ですが、最初に申し上げたように現行憲法は実質的な条文が99ヶ条あって、自民党改憲案も100ヶ条以上あります。それを全部ここで見ることはできないので、憲法の本当にポイントになる条文をいくつか絞ります。憲法の大事な条文といえば、多くの市民の方は9条を真っ先に思い起こすと思います。もちろん9条は大事ですが、ここであえてお話申し上げたいのは、9条だけではないところですね。憲法の目的として私たちの権利を守る、基本的人権を守るという目的を目指すと、9条と別に大事な条文があります。それが13条ですね。これは私だけではなくて、日本中に何百人かいる憲法の先生がそれぞれの大学で憲法の授業をやっていらっしゃいますが、現行憲法99ヶ条のうち日本国憲法のスピリット、肝を示す条文をどれかひとつ挙げるとすればどの先生も13条を挙げると思います。その13条のお話をしたいと思います。自民党改憲案はこの13条についても容赦なく手を加えています。これがやはり見逃せない点として最初に挙げるところだと思います。
最近ようやく一般の方たち、「九条の会」などで護憲運動をやられている方たちだけではなく、あまり憲法に関心のなかった方たちの中でも少しずつ知られるようになったのがこの13条の問題です。資料に載せた写真が2枚あります。今年3月の報道ステーション、古舘さんがまだメインキャスターだった頃ですが、そのときに放送された画面のスクリーンショットを貼り付けました。これは3月の通常国会のたぶん予算委員会だったと思うんですが、自民党改憲案の13条について当時の民主党の大塚耕平参議院議員が安倍首相に質問した質疑応答の場面です。当時の民主党の議員が13条を巡って安倍首相に質問したのは、私が知る限り2回目です。昨年小西洋之議員がやはり安倍首相に13条を巡って質問して以来2回目です。
画面のスーパーを読み上げますと、「現行の第13条の『個人』というところを『人』というふうに草案では読みかえたこと」、これはどういう趣旨なのかということを安倍さんに質問しました。現行憲法では第13条で「すべて国民は、個人として尊重される」となっているのが自民党改憲案では「全て国民は、人として尊重される」になっています。安倍さんの答えは「さしたる意味はないという風に承知している」というものでした。「さしたる意味がない」のなら変えなくてもいいと思いますが、これは「さしたる意味がない」というひとことで「ああそうですか」と済ませるわけにはいかないものです。私も大学の授業では単に「個人」の「個」が、漢字が一文字取れて「人」になっているだけで大した違いがないということはないんだよ、ということは必ず強調して説明します。
これは裏返すと現行憲法の個人がどう意味なのかということも説明しなければいけません。あらためて条文を載せましたが、現行憲法は前段が「すべて国民は、個人として尊重される。」となっていて、後段が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書いてあります。それが改憲案だと「全て国民は、人として尊重される。」となっていて、もう一箇所違うのは現行憲法の「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」になっています。これはもう非常に大きな問題で、ここだけでもきちんと解説すると30分とか先生によっては1時間くらい話すかもしれません。何が問題か、簡潔にいいますと、現行憲法の特徴というのは個人の尊重です。個人主義です。個人が大事、ひとりひとり違っていいということになっています。それは現法憲法13条の後段にあります幸福追求についての国民の権利です。つまり個人の尊重と幸福追求権のセットが日本国憲法全体を貫くスピリットです。大学の先生によってはSMAPの「世界にひとつだけの花」を取り上げて、この歌だよと言うんですね。残念ながら今の若い学生たちはSMAPのあのタイトルの歌が流行ったのは生まれた頃でよく知らなかったりするので、大学の先生が若者受けを狙おうとすると遅れていることが多いんですが、まさにそれなんです。現行憲法はひとりひとり違っていいと。それから幸福の中味も違うんですね。
大事なのは現行憲法は幸福追求を保障していますが、幸福の中味については触れていません。つまり何が幸福かは人によって違う。例えば「貧しくても愛する人と二人幸せに暮らせればいい」ということが幸福だという人もいます。中にはそうじゃない人もいて、「俺は愛なんかどうでもいい、金儲けしたいんだ」とか。それが人として正しいかどうかは別です。しかし道徳的な問題には現行憲法は踏み込んでいません。それが公共の福祉に反しなければ何をやってもいいですよというのが現行憲法です。それが大事です。だからやっぱり個人の尊重なんですね。
それを「人」としている自民党の改憲案は非常に問題であって、これが何を意味しているのか、はっきり言ってわれわれ憲法学者とか法律家もよくわからないんですね。いまの憲法に「人」という言葉は出てきませんし、あまり法律用語で「人」という言葉は使いません。ここから先は自民党の党として打ち出してきているいろいろな方針からの推測ですが、恐らく自民党としてこの「人」という言葉に意味を込めたのは、たぶん個人と違って人というのは、ある程度の特定の価値観を持った、ある程度の道徳的な存在としての人だと思います。そのときの道徳というのはたぶん自民党がいうところの道徳的な観念を備えた人ということで、わかりやすく言い換えますと、「人として」というときの「人」ですね。
つまり「人として」というときは単なる個人ではなくて人間らしさとか人として正しい・間違っているというときの「正しい人」が入ると思うんですね。「人」というときは特定の価値観がだいたい入るんですね。学生向けにはあまり使わないんですが年配の方が多いときに使う例として、時代劇で「てめえら人間じゃねえ、バサッ」って斬るシーンがありますね。あのときの「人間」です。あれは人としておかしいという、一定の道徳的価値観が前提とされているんですね。たぶん自民党がここで「人」としたというのは、たぶんそれだと思われます。特定の価値観に沿った人だと思うんですね。逆にいうと、自民党がいうところの人としての価値観に合わない人は外れてしまうのではないかということです。これはあとで話します24条の問題と密接に関係していると思います。そういう問題がひとつです。
もうひとつ見逃せないものとして「公共の福祉」ですね。これが「公益及び公の秩序」になっていて、「公の秩序」という言葉は現行憲法にはありませんが、民法に公序良俗という言葉があります。これは現行民法に「公の秩序又は善良の風俗」とあって、いわゆる公序良俗という言葉があって、これは民法の概念としてあります。では公序良俗とは何かという問題です。これはいろいろな場面で使うのでひとことで説明しにくいんですが、現行憲法にはありませんが民法にある言葉です。ただ「公益」という言葉はありません。憲法にもありませんし民法にもありません。この「公益」が気になるんですね。
現憲法の「公共の福祉」と自民党改憲案の「公益及び公の秩序」を比べてみて、普通の人がわからないのは仕方ないと思います。法的な素養がないとか法律を学んだことがない方がこれを見比べて「何か同じようなものじゃん」とか、そもそも現行憲法の「公共の福祉」とは何なのかってわかりにくいわけですね。実際自民党の政治家でもそういう説明をされる方はいます。自民党のQ&A集を見ますと「現行憲法の公共の福祉という言葉がわかりにくいです」と書いてある。それは普通の人がわかりにくいというのは仕方がないのですが、しかし政治家が言ってはまずいです。この公共の福祉という言葉はもちろん現行憲法に70年前から入っていて、70年間かけて、もちろん憲法学者の学説の積み重ねもありますし、何よりも最高裁判所の判例の積み重ねがあります。
現行憲法では、この公共の福祉というものの意味はかなりかちっと決まっております。良い悪いは別にして。それを普通の、法律をあまり勉強を勉強したことがない一般の方向けに「この公共の福祉という言葉はわかりにくいよね」というのは不誠実な態度だと思います。わかりにくい法律用語は他にもたくさんあって、別に公共の福祉だけではないわけです。
現行憲法の公共の福祉は、学者の細かい違いは置いて意味がもうはっきりしています。どういう意味かというと大きくふたつあります。ひとつは、すごく簡単な言い方をしますと他人の自由と権利です。つまりどんな権利・自由であっても他人の権利を侵してまで認められることはないということです。これは非常にわかりやすいと思います。よく話題になり裁判やニュースになるのは、メディアの報道の自由と報道される人のプライバシーの権利ですね。新聞とか雑誌が芸能人や政治家のプライバシーを暴く、それに対して芸能人や政治家、プロ野球選手などがそれはプライバシーの侵害だという。これは憲法で保障されている表現の自由から派生すると言われている報道の自由が一方にあって、もう一方にプライバシー権がある。実は現行憲法にはプライバシー権という言葉はなくて、まさに13条の幸福追求権に含まれるとされています。
いずれにしても報道の自由もプライバシー権も憲法に根拠を持つ権利なので、それ同士がぶつかるわけですね。それでぶつかってどうする、困った、ということで思考停止しても仕方がないので、それは過去にも多くの裁判が積み重ねられています。もちろん明かされるプライバシーが誰かによっても違うわけですね。私も含めた一般市民とあるいは政治家ではやっぱり違う。政治家ではないにしても日本中の人が知っているような超有名芸能人とはやっぱり違うわけです。そのあたりは数多くの判例によってどのあたりに線を引くのかはだいたい決まっています。それが公共の福祉の意味のひとつです。つまりある人の自由・権利とある人の自由・権利がぶつかったときの調整する公平の原理という言い方をします。それが「公共の福祉」のひとつ意味です。
もうひとつの意味は、現行憲法は経済活動の自由を保障しています。憲法22条に職業選択の自由というものがあるんですが、その職業選択の自由というのは文字通り好きな職業を選べるよということのほかに、日本は資本主義国ですね、つまり自由な経済活動が認められているわけです。日本は資本主義国だということを憲法的に保障しているのが憲法22条の職業選択の自由なんですね。ですがいまの日本は資本主義国であると同時に福祉国家でもあるんですね。つまり資本活動や経済活動が好き放題できるわけではない。もっとわかりやすく言うと大企業が好き放題できるわけではないんです。大企業の経済活動を制限して中小企業を守るあるいは地域の商店街を守るということもあるわけですね。その場合は企業の経済活動を制限します。その時に持ち出される言葉が公共の福祉です。同じ言葉を使っているのでわかりにくいんですが、ひとつはある人の権利とある人の権利がぶつかったときに調整する原理、もうひとつは経済的あるいは社会的強者の権利を制限して弱者を守る、福祉国家の原理に沿った意味での公共の福祉、ふたつあるんですね。いまの憲法の公共の福祉は、そういう意味でほぼ決まっています。ですからわかりにくくはないんですね。というか今の説明で大まかにはわかってもらえたと思います。
そういう説明をすればいいんですが自民党のQ&Aを見ると公共の福祉という言葉はわかりにくいから変えましたというんですね。ですが変えて「公益及び公の秩序」ですから、全然わかりやすくなっていないと思うんです。むしろわかりやすさ、わかりにくさはどうでもよくて問題は中味であって、特に気になるのは「公益」ですね。つまり公益、全体の利益のために個人の自由や権利を踏みにじっていいという意味にとられかねない言葉になっているんです。そういう言い方したら私が仮に国会議員で安倍さんに質問したら、安倍さんは「さしたる違いはない」と答えると思いますがやはりそれで見逃していいものではないということです。
次に個人に関係したところで「目下の最大のターゲットは24条」としました。これはどういう意味かというと憲法改正、今月末から国会が再開して憲法審査会も再開しますが、どこの条文を取り上げてどういう議論をするかはよくわかりません。内部事情は分かりませんが、いろいろ心配なところはありますし憲法9条も心配です。ですが、根拠はないわけではないんですが、いきなり9条は来ないと思います。さらに言うと、自民党の中で守旧派とされている人たち、あるいはそういう人たちを応援している支持者、その方面の文化人とか言論人がターゲットにしているのは、9条よりも24条じゃないかなと思います。こういうと誤解を招きやすいのですが、9条は日本の外交防衛という政策的な問題であって、もちろんその上でどういう政策がいいかという問題はありますが、24条は彼らの魂に触れる、イデオロギーの問題なんですね。ですから9条よりも24条をターゲットにする。言い換えるならば彼らは目の敵にしているようにしているところがあるんですね。
9条はいろいろなやり方があると思います。そもそも自民党だけでは無理ですね。公明党もいますし民進党の考え方もある。今の自民党改憲案も、わかりやすい国防軍を入れることがそのままできるとは現実的でもありません。多分自民党もできるとは思っていないわけです。ですからたぶん24条の方を、彼ら、復古主義的な人が言うところの戦後日本がダメになった、日本人がダメになったのは24条のせいだ。あるいは13条に絡めて、13条と24条が日本人をダメにしたという言い方をします。比較の問題ではないですが、9条については多くの方がすでに心配されているので、24条はそれと同じくらいこれから注目していただきたいということで、「目下の最大のターゲットは24条」としたわけです。
伝統主義的な保守派の論壇の一人で拓殖大学の学事顧問をされている渡辺利夫さんが、今年の憲法記念日に産経新聞に論説を載せています。非常にわかりやすいですね。タイトルが「もともと日本に存在しなかった『個人主義』の呪縛から脱出せよ」となっていて、省略しているところでは9条の話をしているんですが、「[憲法改正の争点として9条と]同時に議論の俎上に載せねばならないのは第13条と第24条である。」とおっしゃっています。そして「前者は『すべて国民は、個人として尊重される』であり、後者は『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立』するとある。第13条は個人至上主義そのものであり、第24条は独立した個人から構成されるものが夫婦であるというのみ、これが共同体の基層をなす家族の形成主体だという観念を少しも呼び覚ましてはくれない。」ということをおっしゃっています。それから最近急激にクローズアップされている日本会議の方などのご意見を見ると、あまり9条に触れていないんですね。やはりこの13条、24条、特に24条をすごく目の敵にしています。
その24条ですが、現行憲法を読み上げますと「1項 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と書いてあります。
第2項の後半に「個人の尊厳」という言葉が出てきます。これは13条の「個人の尊重」の言いかえだと一般的にはされていますので、個人という言葉が13条に続けてこの24条に出てきます。この言葉はよく知られていると思いますが、両性の本質的平等という言葉が出てくるわけです。個人の尊厳と両性の本質的平等という言葉は、自民党改憲案にもそのまま出てきています。逆に言うとなぜこちらは変えられていないのかなと思いますが、13条の方は「個人」が「人」に変えられているのに、24条の方は「個人」がそのままです。見逃したのかどうかわかりませんがここは変えられていません。
変えられたのは1項です。拓大の渡辺さんがおっしゃっているように現行憲法の24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とあって「のみ」があるんですが、自民党改憲案ではこの部分が2項になっていて「のみ」が消えています。これが何なのかということです。現行憲法は二人の意志が合致すればそれだけで婚姻が成立するといっていますが、自民党改憲案では「のみ」が消えているのでそれだけでは成立しないということですね。お父さんお母さんの合意が必要だとか、おじさんおばさんの合意が必要だとか、いとこの合意が必要なのかあるいは職場の上司の合意が必要なのか、わからないんですが、何かそういうことなのかなということですね。
それ以前に第1項が現行憲法の第1項の上に入っています。ですから現行憲法の第1項が自民党改憲案では第2項になっていて、自民党改憲案では「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」となっています。家族条項が入っているんですね。これも日本会議方面の方がすごくこだわっていることで、家族に関する条項を入れろということをずっとおっしゃっていて、それが入っています。この条文に「家族は、互いに助け合わなければならない。」とあります。これが最初にご説明した自民党改憲案の前文の3項に出てきています。「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。これも言葉だけ見ると反論しにくいんですね。「家族は助け合わなくてはいけない」ということは普通の人は当然だと思います。しかし家族が助け合うことは美しいことだし別に反論はしないですが、これはやはり道徳的なことであって、憲法に書くべきことではありません。憲法は、幸福追求権は尊重するけれど幸福の中味は触れていない。幸福の中味は人それぞれ違うわけです。ですから家族が助け合うかどうかは憲法に書くことではない。さらにわかりやすく言い換えると、国家が介入すべきことではないんですね。その問題点がひとつあります。
これが触れているのは、憲法だけ見ていると出てこないのですが、はやはり社会保障の問題です。もっとわかりやすく言うと家族の介護の問題です。社会保障に関して憲法では25条の生存権の規定があって、よく知られている条文では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とあります。これが1項ですが、2項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とあります。そことの関連でいうと今まで国がやってきたことあるいは国がやるべきこと、生存権の保障や社会保障から国は手を引く。手を引いた分をどうするかというと、家族なり地域なりで助け合ってくださいということになるんじゃないかということですね。
自民党のQ&Aをみてもそんなことは一言も触れていないし、仮に野党の議員の方が安倍首相に聞いても「そんなことはない」と言葉を濁すと思われますが、たぶんそういう趣旨だろうなということです。あとはやはり女性の権利ですね。そういった介護などは、家族が助け合うというのはいいですが、こういう場合は家族が助け合うのではなくて妻と母になってしまうんですよね。家族ということでは夫もいるのですが、大体やるのは妻とか母の想定になっている。もちろん自民党改憲案には女性がやれなんて書いていないですが、この自民党の24条の改憲案はたぶん結果的にはそういう風に考えていく方向を示している改憲案です。
24条を改憲の手掛かりにしやすいというのは、復古主義的な方たちだけではなくて一部革新派の人たち、フェミニストの人たちの間でもこの24条1項を問題視する意見があるんですね。24条は「両性の合意のみに基いて成立し」と書いてあるので、要は異性愛を前提にしているということで、同性カップルを省いているという意見があります。実際問題として、同性婚を認めるべきだという意見に対していまの自民党は後ろ向きです。後ろ向きな理由として、現行憲法は「両性」という言葉を使っているので同性婚を認めていないという言い方をします。そのあたりは議論がありますが、憲法学会の大勢は、日本国憲法は同性婚を否定していないという意見です。
否定していないということであれば、では同性婚について日本国憲法はどう考えているのかということですが、端的に言って現行憲法は同性婚に触れていないというのが大方の憲法学者の意見です。つまり触れていません。ここでは異性婚のことしか取り上げていない。取り上げていないということは否定もしていないんです。否定していないということは、同性婚を認めるならばそういう法律をつくればいい。法律をつくってもそれは憲法違反にならない、24条はそもそも触れていないのだから、ということです。それは立法政策の問題だということが大方の憲法研究者の意見です。24条1項が同性婚に触れていたら「同性」という言葉が絶対出てくるはずですが、出てきません。これは異性婚のことしか触れていないんですね。
この場合の「両性の合意のみ」というのはもちろん歴史的な経緯を考えればわかるのであって、戦前の日本の民法では両性の合意だけでは婚姻が成立しなかったわけです。戸主、家長、一般的には父親の許可が必要だったということで、それを必要ないというのが現行憲法の24条1項の趣旨です。この「両性の合意のみ」の「のみ」というのは、別に異性だけで両性は省くという意味ではないんです。これは歴史的な解釈でもわかりますし、歴史的なことを省いたとしても日本語的に見てもわかる言葉です。同性カップルとか同性婚とか、そういうセクシャルマイノリティ、性的少数者の人たちを排除する趣旨はまったくないことはここで申し上げたいと思います。そういう人たちの権利を守るために憲法改正は必要ないということです。
安倍首相を始め自民党の人たちは、同性婚を認めるには24条を改正しなければダメだよと言っているわけですが、たぶん同性婚とかをまったく考えていない、むしろセクシャルマイノリティに対して否定的な、敵対的な人たちです。そのあたりはだまされてはいけないと思います。
もうひとつこれも現行憲法の103ヶ条の中で13条と並んで大事な条文ですが、99条です。近代憲法の「かなめ」です。ここ1、2年、立憲主義という言葉が一般的に知られるようになってきて、その立憲主義のかなめになる条文です。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」という規定です。主語は「公務員」です。代表的なものが最初に列挙されていて、天皇と摂政、天皇が公務員と言えるかどうかは置いておいて、国務大臣、国会議員、裁判官、これは代表的なものを列挙しているだけであり、「その他の公務員は」が主語です。つまり公務員は日本国憲法を尊重し擁護しなければならないということが現行憲法の規定です。これが非常に大事だというのは、これがわからないと憲法というルール、ルールということは誰かが守らなければいけないんですが、誰が守らなければいけないルールなのかが伝わりません。これが結構多くの国民はわかっていません。私だけではなく多くの大学の憲法の先生は大学の授業で最初の方で取り上げるべきことです。
大学に入ってくる18歳とか19歳の若い人たち、若い人たちだけではなく多くが誤解しています。中学や高校の教科書を見ると「憲法は日本国の最高規範だ」と書いてあります。それは間違いではないですが、「日本国」の最高規範であって「日本国民」の最高規範ではありませんね。つまり国家権力が守るべき規範である。権力というのは抽象的なもので、具体的にはわれわれの目の前にあらわれるときには、それを行使する公務員としてあらわれるわけです。警察官だったり県庁の役人だったり外務省とか文部科学省の役人とか、具体的に公務員という人のかたちを取って権力はあらわれるわけです。その公務員を縛るもの、つまり権力を縛るものが憲法です。それが最初にわかっていないと、そのあと第何条とか勉強していっても知識が根っこのところで定着しないかたちになってしまいます。つまり憲法は国民が守るもの、守らなくてはいけないものと思っている人が多いわけで、そこがいまの日本の問題であってこの99条をちゃんと理解する必要があります。
自民党改憲案の102条1項、これも最近問題になっている緊急事態条項が入ったので順番がずれていますが、これが現行憲法の99条に相当します、1項と2項に分けられていて1項では「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」ということです。国民が憲法を守らなくてはいけないと書いてあります。これも見逃せないところで、憲法を守らなくてはいけない対象が180度変わっています。権力を持っている人たち、政治家を始めとする公務員だけではなくて、それも2項には入っているんですが、国民にも向けられている。これもちょっとした手直し、修正というレベルではなくて憲法の性質を根本から変えるものです。
では憲法を尊重する義務が国民に負わされるということはどういうことかということです。これは憲法の条文を具体的に見ればわかります。
いまの憲法は国民が守るものではなくて公務員が守るものだというのは条文を見ればわかります。わかりやすい例として、36条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」という条文があります。これは「公務員」という主語が入っているのでわかりやすいですが、「拷問及び残虐な刑罰」というのは公務員がやるわけです。国民がやるわけがないですよね。というか国民が国民に対して拷問すれば、それは当たり前ですが傷害罪です。犯罪ですね。ですがおまわりさんが取り調べでやると犯罪にならない場合があります。なのでそういう拷問をやってはいけない。あるいは戦前の治安維持法、みなさんご存じの小林多喜二が受けたようなことを国民がやれば犯罪です。国民が人を殺せば、それは殺人罪で犯罪ですから憲法の問題ではなく刑法の問題です。それを国家権力が法律に基づいてやると、犯罪にならないわけです。それをやってはいけないということを法律ではなく憲法で決めなければいけないということです。憲法が公務員を縛っている。そのために憲法があるわけです。ですからそれを国民に守れというのはわけがわからなくなっているわけです。
ただ自民党改憲案を見ると話がある程度わかるというのは、国民の義務がたくさん入っています。例えば国旗・国歌を尊重しなければならないという義務が入っています。最近話題の緊急事態条項の中には、緊急事態宣言が発せられた場合は国あるいは地方自治体の指示に国民は従わなくてはならないという条文が入っています。いずれも現行憲法にはない条文です。それがあるので自民党改憲案の102条第1項の意味が生きてくるわけです。国民に義務を負わせる一方で、公務員の義務は第2項でそのまま残しています。
これをいまの憲法の99条と比べると違いが最初にぱっとわかります。それは「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」ということで例示の中から「天皇又は摂政」が抜けている。つまり天皇と摂政は憲法を守らなくてもいいという存在にされています。これについてQ&A、自民党の解説集では何も触れていませんが、何ヶ月か前のテレビ朝日の「朝まで生テレビ」で憲法特集をやったときにパネリストがこの自民党改憲案の102条2項を取り上げて、なぜ天皇と摂政が抜けているのかと突っ込んだ。そしたら自民党の政治家、確か片山さつきさんだったと思いますが、彼女が言ったのは、天皇は自民党改憲案においても政治的な権力を奪われているから憲法で縛る必要はないという言い方をしています。
これはおかしいのであって、やはり現行憲法で天皇の政治権力を徹底的に奪っているのは、当然戦前の天皇主権に対する反省があるから天皇は政治的な権力を持たない、国事行為のみをする。その国事行為でさえ内閣の助言と承認が必要だということです。国事行為というのはセレモニーです。外国の大使が来たら承認するとか外国の元首が来たら接待するとか、単なる形式的なものですが、ただその形式的なものでさえ天皇は個人意志ではできない。内閣の助言と承認が必要だということで徹底的に天皇の権力を奪っているのが現行の憲法です。そういう意味で現行憲法の99条に真っ先に天皇が出てくるのは意味があります。それを消しているのは非常に問題です。
さらに言うと、自民党改憲案では天皇を国家元首にしています。国家元首が憲法に縛られないということは、近代国家においてありえません。イギリスで言えば国王、今は女王です。アメリカやフランスや韓国では大統領ですね。当たり前ですが憲法を守ります。アメリカ大統領に就任するときは「アメリカ憲法を守り」と宣誓します。当然なんですね。逆に言えば、憲法に縛られない国家元首は近代国家以前の独裁国家、あるいはお隣の首領様の国とかです。ああいう国がいいというならいいですよ、僕はいいとは思いませんが、たぶん自民党の人たちは北朝鮮は嫌いなはずです。でも自分達がやろうとしているのは北朝鮮の首領様のように天皇をしたいわけです。いまの天皇はあんな北朝鮮の首領様みたいになりたくないわけです。でも自民党はしたいと思っていて、自民党の改憲案では国家元首になってしまうわけです。
いまの天皇は自分の父親を見ているわけです。父親は東京裁判にかけられるかどうか、ソ連とかオーストラリアは最初は天皇処刑を主張しています。アメリカ、イギリスが抑えたわけですが、あんな立場になりたくないわけです。でも自民党の改憲案では天皇が国家元首になっている。さらにこの改憲案では憲法を守らなくてもいいというすごい存在になってしまっています。そういう意味ではいまの天皇にはご同情申し上げるというか捨て身で憲法改正を防ぎたいというのはわかります。われわれ国民としてもこの自民党改憲案の102条が非常に問題だということはわかると思います。
最近築地市場のことは俺は知らないといきなり出てきた石原慎太郎さんの4年前の発言です。これも産経新聞ですが、「歴史的に無効な憲法の破棄を」ということで「…憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。…」、ということです。これもよく言われますね。日本が連合国に占領されているときにいまの憲法ができているから無効だ、ということです。もし無効だとしたら、このとき石原さんは都知事でした。石原さんが都知事という権力を振るえる根底には日本国憲法があるんです。憲法によって政治家は権限を受託されているわけで、もし現行憲法が無効だとしたら石原さんの都知事も無効なんですね。安倍首相も無効です。単なる人になってしまう。それをわかっているのかどうかということです。
首相が首相だ、国会議員が国会議員だと言えるのは憲法によって権限が受任されているからであって、現行憲法が無効だとすると石原さんは都知事じゃなくて単なるおじいちゃんになってしまいます。安倍首相もひとりの中年のおじさんになってしまうということです。現行憲法が無効だとしたら、その時点で政治家は単なる人になってしまうわけです。こういう言い方をする人がいまだにいるんですね。
いま申し上げたように、権力が縛られない、あるいは国民を縛るものであるということは、いまの自民党が大嫌いな首領様の国とか尖閣諸島を争っている大陸の国に日本が近くなるわけです。日本は自由主義国です。国際情勢的に言うと西側のアメリカ陣営に入っているとされます。入っているというのは軍事的な問題ではなくて、自由とか民主主義を共有しているからわれわれはアメリカと価値観を一緒にしているわけです。軍事的な問題ではなくて価値観の問題です。そういうことは安倍さんとか自民党の方もおっしゃるんですが、本当にその自由とか民主主義という価値観をいまの自民党の方たちはアメリカやイギリスとかオーストラリアなどと共有しているのかということです。そうは思えにくいところで、片山さつきさんのツイッターの2012年12月の画面があります。片山さつきさんはこんなことをおっしゃっています。「国民が権利は天から賦与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」。
これは自民党改憲案のことを言っているんですが、すごいことをいっているんですね。「天賦人権論」は明治時代の自由民権運動の頃、福沢諭吉の頃に天賦人権論という言葉を使っていて、いまは自然権論という言い方をします。英語で言うとナチュラル・ライツです。明治時代に天賦人権論という言い方をしたのは、人間が権利を持っているのはお上からもらったとか権力者からもらったのではなくて天から与えられたものだという言い方をしたわけです。明治時代の日本人にはわかりやすかったからそういう言い方をしたんだと思います。欧米的に言うと生まれながらに、ナチュラルに、つまり人は人として生まれ来れば当然持っているのが人権であるということです。自民党はそれをやめるというと言っている。
これはすごいことをいっていて、自然権論をやめるということはまさにいまのアメリカの独立宣言は自然権になっているわけです。つまりアメリカの建国理念の価値観にケンカを売っているわけですね。ケンカを売ってもいいんですが、自民党のみなさんは本当にアメリカにケンカを売るんですかということです。その矛盾にどうやら自民党の人たちは気付いていないらしい。
自民党改憲案のQ&Aの一節で、「クエスチョン13」の「日本国憲法改正草案では国民の権利義務についてどのような方針で規定したのですか?」と言う問いがあります。その答えとして、「国民の権利義務については、現行憲法が制定されてからの時代の変化に的確に対応するため、国民の権利の保障を充実していくということを考えました。そのため、新しい人権に関する規定を幾つか設けました。また、権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。例えば、憲法11条の『基本的人権は、……現在及び将来の国民に与へられる』という規定は、『基本的人権は侵すことのできない永久の権利である』と改めました。」。つまり西洋、欧米の価値観にのっとっているような規定が憲法にあるので、それを日本風に変えましたといっています。
でもそうなると、欧米と違う価値観になるんですね。これはよく中国政府が言う言葉です。中国が政治犯などを拷問したりしているときに、国連とか国際人権団体のアムネスティインターナショナルとかががやめろというわけです。そうすると中国政府は「うるさい、われわれ中国には中国の人権がある、欧米の価値観を押しつけるな」と言います。それと同じことを言っていますね。それで日本と中国が仲良くするならいいのかもしれませんが、私は嫌ですね。この点については、私は中国よりもアメリカの価値観に賛同します。安倍さんはそこら辺がわかっていないらしくて「価値観外交」というのを展開している。安倍さんのホームページなどで「自由、民主主義、基本的人権、法の支配という価値観を共有する国の輪を世界、アジアに拡大してゆく」ということをたびたびおっしゃいます。要は日本、アメリカ、オーストラリア、西ヨーロッパあるいはインドも含めて対中国包囲網を形成したいということです。地政学的にはそれでいいかもしれませんが、その場合の価値観を本当にあなたは共有しているんですかと安倍さんに聞きたいということですね。
その価値観の実態ですが、その価値観が表明されている日本国憲法の条文がひとつあります。97条です。ここにも「人類」が出てきます。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」とあります。この97条が自民党改憲案では丸ごと削除されている。それから最初に紹介した前文の第1段落、「人類普遍の原理」という言葉が出てくる部分も丸ごと削除されています。安倍さんが盛んにおっしゃるアメリカとかオーストラリア、西ヨーロッパと同じ価値観をわれわれ日本は共有しているんだぞ、中国とは違うんだぞと言っているくせに、その価値観の根本をこの改憲案は否定しているんですね。こういったところをわれわれは突いていく必要がありますし、こういった価値観に基づいている自民党の改憲案をきちんと見る必要があるということです。
これでいったん私の話は終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
島田恵 第2作目
みなさま、大変お待たせいたしました!
「福島 六ケ所 みらいへの伝言」から約3年半、ついに島田恵のドキュメンタリー作品第2弾である「チャルカ」が完成しました。「チャルカ」では、島田が最も皆様に伝えたかった放射性廃棄物=「核のゴミ」をテーマとした映画となっています。
「チャルカ」には、10万年、100万年もの間その毒性が消えない高レベル放射性廃棄物地層処分の研究施設がある北海道幌延町の隣町で酪農を営む久世さん一家の生き方を中心に、もう一つの研究施設がある岐阜県東濃地域、そして世界で初めて高レベル放射性廃棄物の地層処分施設を建設中のフィンランドや原子力大国であるフランスの処分予定地などが盛り込まれています。
とはいうものの、島田はただ問題を告発したいだけではありません。島田は1986年のチェルノブイリ原発事故を契機に、核燃料サイクル基地の建設を巡り、地元住民と建設側とが激しく対立していた青森県六ケ所村へ向かい、1990年から2002年までは村で生活をしながらドキュメンタリー写真家として取材をしてきました。そこでは、漁師の方々などが海や子供を守るために必死で闘っている姿に衝撃を受けるとともに、反対運動から離れざるを得なかった方たちの葛藤を目の当たりにしたのです。この地元の闘いに携わった方々の思いは、1作目の「福島 六ケ所 みらいへの伝言」をご覧になった方にはお伝えすることができたと思います。
「チャルカ」というタイトルから「核のゴミ」というテーマを想起する方はほとんどいないのではないでしょうか。しかし、このタイトルにこそ、島田の強い思いが込められているのです。チャルカとは、インドの手紡ぎ糸車のことで、インド独立運動の父であるガンジーがイギリス支配からの独立を目指し、チャルカを使って自国で生産した綿花を自分たちで紡いで作った布を身につけようと提唱したことでも知られています。つまり、チャルカはイギリスから始まった産業革命に対する抵抗、独立のシンボルだったのです。
現代に目を戻してみても、私たちを取り巻く環境はガンジーが闘っていた時代と何ら変わっていないように思います。みなさまが様々な形で取り組まれている沖縄の基地問題や安保法、そして原発とそこから発生する「核のゴミ」問題も、すべてがいびつな支配構造から生まれたものです。
私たちが産み出してしまっている核のゴミは、未来の子孫たちの住処を奪っていることをしっかりと認識しつつ、何を選択してどのように動いていけばよいか、この映画がみなさまの生き方を紡ぐ“チャルカ”になれればと思っております。
完成披露上映会は、11月26日(土)に13時30分からと16時30分からの2回、日比谷コンベンションホール(図書館地下ホール)で開催することが決まりました。詳細については、チラシまたは島田恵公式サイト(http://shimadakei.geo.jp)、もしくは直接事務局(070-5568-3311宮城)までお問い合わせください。ぜひご来場ください。お待ちしています。
「六ケ所みらい映画プロジェクト」制作スタッフ
矢部慶喜
<問い合わせ・申し込み>
六ケ所みらい映画プロジェクト
事務局:070-5568-3311(宮城)
ホームページ:http://rokkasyomirai.com/
角田京子(日立市)
それは一つのチャンス、と言えるように思いました。
水戸の原電前でおこなわれている「金曜集会」に参加するようになってから、もう3年は過ぎた今年8月、「チェルノブイリへのツアー」があるということを知ったのは。この集会に一緒に行っている人が教えてくれたのでした。
かねてから一度は行ってみたい所の一つでした。これはチャンスかな?と思って身を乗り出してから、トントン拍子に事は進みました。
チェルノブイリ原発事故から30年、福島原発事故から5年、「今」改めて原発と放射能被害について考える「チェルノブイリ実態と現状をたどる旅」。9月28日から10月6日の9日間。原発問題住民運動全国連絡センターと、日本ユーラシア協会本部の企画共催によるものです。
共催企画の訪問・交流先は、次の通りです。
9月28日、34人のツアーは成田空港から出発しました。夜9時20分発、先ずはアブダビに向け、離陸しました。1万キロもある遠い国へ。機中泊ははじめてです。高齢になってからなので体には大変な負担です。
真っ暗なアブダビからベラルーシのミンスクへ。ミンスクへは29日の昼頃、到着しました。あとは専用バスです。約45キロ、走る、走る。美しい白樺林が右も左もつづく大平原です。
9月30日、専用バスで約100キロ。サナトリウム「希望21」の訪問です。この施設は1994年開設の「ナジェジダ」。高濃度汚染地に住む子どもたちのための学校とサナトリウムの機能を兼ね備えたリハビリ施設です。日本とは根本的に違います。イギリス、ドイツの基金で、日本も他の国々も支援しているそうです。
広い敷地で、文化、体育、医療の建物があります。趣味の部屋もあり、キャンプファイヤーもできる、子ども移動バス、食堂、バイオのエネルギー、太陽コレクターあり。子どもたちが自由に遊べる広場には、変わった遊具が。子どもたちは205人、先生は10人だそうです。
ここではチェルノブイリ事故により被害をうけた子どもたちの他にも、福島の子たちも医療を受けることができるそうです。
入所できるのは1平方キロメートルで5キューリーを超える所の子(30キロメートルの圏内)。健康診断をうけて、24日間保養して検査、というサイクルで12クール。1年に2回訪れるケースもあるそうで、1回で300人くらいずつ。20年間で約8万人保養できたと。
このような保養施設はベラルーシに9カ所あり、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの3カ国では94カ所があるが、実際に入所しているのは5割くらいだそうです。甲状腺ガン、頭痛、めまい、疲れやすい、風邪をひきやすい等の症状に対し、関心を持ち、よくわかっている人は保養できる、いやよくわかっている人しか保養できないということになる。
ここで20年間勤めてきたという女性は言いました。
「恐ろしい、悲しい! はじめの頃、わからない手術跡、それを隠そうとしている動作をみて、考えさせられました。子どもたちに対する恐怖感、幸せについて……。でも各サイクルの最後の発表会、歌、おどりとかをみて、やはり健康調査は国の責任として、30年経ってますます注目すべきだということです。やめる、とはならない。日本ではお金で転ぶ人びとがいますね。日本は、検査、やめる方向ですか?。 ロシア、ウクライナ、ベラルーシは国の責任で検査、続ける方向です」
30日午後には、非国立系の研究所「ベルラド放射能安全研究所」訪問。放射能汚染された地域の住民・食品・自然環境を科学的に研究、対策する機関です。1990年設立。
「ソ連時代、トップシークレット制度で、市民には全く情報が流されず、90年代まで、全くわからなかった、安全かどうかわからなかった。本物の情報が出ても、一般の人びとはニュースを信じられなくて、そこで独立した研究所ができました。あの事故で、風の流れに乗って、セシウムはフィンランド、ノルウェー、オーストリア、ドイツにも深刻な被害を与えました。ベラルーシは一番ひどい被害で、放出のセシウムの23%です」と所長さんは話しました。
そして、田舎の中で知識層の人800人が研究者になった。人間の身体の放射能を測るシステムができた。一番の対象は子どもたち。実験は50万回、測定した(放射能汚染をドイツとの協力で)。リンゴのペクチンを使って体の放射能を取り除く、100%無料の活動(2010年、効果84%)。
フクシマの事故はチェルノブイリの25年後に起きたわけですが、
「政治システム・経済システムが違っても、日常生活が違っても、被害は全く同じ、ひどい結果です」
「これは技術的失敗、失敗というより違反。人間に対する犯罪なのです」
「ソ連も日本も、情報を出す心があったら、多くの被害を避けることができたはずです。情報を秘密にする事はいちばんひどい犯罪です」
「日本はヒロシマ、ナガサキと長い歴史を持っている。ふるまいはまったく違うと思っていた」
「政府は自分の国の人間がそんなにいやなんですねと、私はなやんでいました」
「日本は、ゴミは全国にまでいく。食事まで。汚染されているゴミは閉じこめることが一番だとされている」
「これからは、日本が独自にではなく、まわりの経験、ベラルーシとかのを生かすと効果的になると思います」
等々、これらはイワン所長、バジンコ副所長の話です。
10月1日はミンスクから、事故当時、高度の放射能汚染地域とされた町(30キロに近いところ)、ボイニキ地区に入りました。99の村のうち、51の村が存在しなくなった、廃村が約半分です。街が朽ち果て、森林となってしまった、30年経っても今も被害は続いている、人の息づかいのない街を歩きました。幼稚園だったところ、まるで薄汚れたゴミだらけの廃墟でした。
10月2日から3日は、チェルノブイリ原発の労働者と家族のためにつくられた街、「スラブチッチ」、30キロ避難区域、ゴーストタウン「プリピヤチ市」の視察、100メートル離れた所から4号炉と炉を覆う巨大シェルター(未完成)を視察、と次から次へと動き回りました。
10月4日、放射能医学研究所付属病院を訪問しての特筆したほうがよいと思ったことです。それはバズイカ所長が「フクシマの甲状腺や癌や腫瘍は心配ない。チェルノブイリ型ではない。ヨウ素供給について。そんなに悪い状況ではないと思います。免疫の面から、放射線が高くても、日本では海藻を食べているから心配ない」と話したことです。これについては疑問も持ちました。今後の検証が必要だと思いました。
ハードスケジュールでのチェルノブイリの旅でした。しかし、中身の濃い内容でした。
30年経たいまでも放射線汚染が高く、廃村になっているところは多い。改めて原発は人に背くものだということを思いました。この原発事故によるベラルーシの経済的損失は2350億米ドル(1985年の国家予算32年分に相当)。日本は? きちんと計算して公表してほしい。また、1991年に成立した「チェルノブイリ法」、これは「事故の責任は国にある」としての再出発だった。日本にも、今こそ必要だと思いました。
雑ぱくな内容になってしまいましたが、今回の見聞は圧巻でした。また考えさせられる旅でした。大変疲れました。この旅は私にとって、一世一代の旅となりました。
今、この国の在り方すなわち憲法体制が、大きく変えられようとしている。
憲法9条に違反する平和安全法制整備法及び国際平和支援法(以下「安保法制」という。)が2015年9月19日に国会で採決され、2016年3月29日に施行された。これによって日本は、集団的自衛権を行使して他国の戦争に参加し、あるいは海外での他国の武力の行使と一体化する危険を免れないこととなった。
1945年、日本は、アジア・太平洋戦争の惨禍に対する痛切な反省に立ち、その惨禍をもたらした国家主義と軍国主義を排し、個人の尊厳に立脚して、主権が存する国民による全く新たな憲法体制を構築することとなった。そして制定された日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、世界に先駆ける徹底した恒久平和主義を高らかに謳った。
戦後70年の日本の歴史において、憲法9条は、現実政治との間で深刻な緊張関係を強いられながらも、集団的自衛権の行使の禁止、海外における武力行使の禁止などの基本的な原則を内容とする法規範として、平和主義の基本原理を確保するための現実的な機能を果たしてきた。これによって日本は、国際社会の中で、平和国家としての一定の評価を得てきた。
ところが、この間、日本を取り巻く安全保障の環境が一層厳しさを増していることを理由に、特定秘密保護法の制定、国家安全保障戦略の策定、武器輸出禁止原則の転換などが進められた上、解釈で憲法を改変し安保法制を整備するための閣議決定がなされ、これを受けて憲法に違反する安保法制が制定されるに至った。ここに、内閣及び国会によって立憲主義が踏みにじられ、同時に、憲法9条の上記法規範としての機能も損なわれることとなった。
しかも政府は、安保法制法案を国会に提出するよりも前に内容を先取りする新たな日米防衛協力のための指針を合意し、法案の国会審議においても、多くの専門家の違憲性の指摘や法案成立反対の多数世論にもかかわらず、また集団的自衛権の行使等を必要とする立法事実すらあいまいなまま、審議を十分に尽くすことなく、採決を強行した。その過程は、言論の府としての国会による代表民主制の機能を阻害するものであった。
そして安保法制が施行された今、この国は、政府の判断と行為によって、集団的自衛権が行使されることなどが、現実の問題として危惧される状況にある。しかも特定秘密保護法の下では、市民は、政府の判断の是非を検討するため必要な情報を十分に知らされず、事後的な検証すら保障されない。政府に対する監視にとって表現の自由の保障が不可欠であるが、政府・与党関係者がメディアの政治的公平性を問題視し、放送局の電波停止にまで言及する等、表現の自由への介入の動きも際立ってきている。
このような状況は、日本が戦後70年間にわたって憲法9条の下で培ってきたかけがえのない平和国家としての理念と実績を損ない、海外においても武力の行使ができる国となり、個人の尊厳と人権の尊重を基本とする憲法の価値体系が影響を受けて、国の基本的な在り方が変容させられてしまいかねないものである。
今ほど、立憲主義、民主主義、恒久平和主義という憲法的価値の真価が問われているときはない。そして、この憲法的価値の回復と実現は、基本的人権の擁護と社会正義の実現を使命とする弁護士からなる当連合会としての責務である。また、安保法制が制定・施行された現在、立憲主義の理念に基づいて権力の恣意的行使を制限し、法の支配を確保すべき司法の役割は大きく、その一翼を担う当連合会の果たすべき役割もまた重大である。
安保法制の立法化の過程においては、これに反対する広汎な世論が形成され、若者、母親、学者・文化人その他の各界各層が、自発的かつ主体的に言論、集会等の行動を通じて政治過程に参加する民主主義の大きな発露があった。このような新たな政治参加の動きは、安保法制が成立した後も途絶えることなく継続している。
今、この国の歴史の大きな岐路に立って、当連合会は、民主主義を担う市民とともに、立憲主義国家が破壊され、この国が再び戦争の破局へと向かうことの決してないよう、憲法の恒久平和主義を堅持し、損なわれた立憲主義と民主主義を回復するために、全力を挙げることをここに表明するものである。
以上のとおり宣言する。
2016年(平成28年)10月7日
日本弁護士連合会
決議の提案理由
第1 恒久平和主義の危機(略)
第2 戦争の惨禍と日本国憲法の平和主義・立憲主義(略)
第3 安保法制の制定経過と立憲主義・民主主義の否定(1~4略)
5 市民の広汎な反対とその運動
安保法制法案に反対する市民の運動は、違憲の立法による戦争反対の運動として、また審議不十分のまま採決を強行する国会審議への抗議として、集会、デモ、国会要請、署名その他等様々な形で展開され、各界各層に広がり、大きなうねりとなっていった。これらの運動は、大学生・高校生などの若者、子や孫を持つ母親やお年寄り、学者・文化人など幅広い層にまで広がり、これまでの市民団体・労働組合、地域を基盤にした憲法9条を守ろうとするグループ等の運動と一緒になって、自覚的、主体的な政治参加として、全国各地に広がった。特に、若者を中心とするグループは、新風を吹き込んで、運動の活性化に大きな役割を果たした。
当連合会は、集団的自衛権行使の容認について、かねてからその問題点を指摘して反対の立場を明らかにしてきたところであるが、2014年までには全国52の弁護士会及び8の弁護士会連合会全部が閣議決定・安保法制に反対する会長声明や決議を発表した。また、当連合会は、同年末から2015年前半にかけて「全国キャラバン」運動として全国各地の弁護士会と連携した運動を展開し、その前後に屋外集会やパレードに取り組んだり、オール学者・オール法曹による共同記者会見を行うなど、かつてない多面的な活動を展開した。これら各弁護士会、弁護士会連合会、そして当連合会の運動はかつてない広がりを示し、連携する市民の運動が一つに結集して発展する契機にもなった。
こうして、市民の運動においても、例えば2015年8月30日には、国会議事堂周辺に12万人を超える市民が参集する一大集会が開催され、参議院での強行採決が危ぶまれる9月14日には4万5000人が国会議事堂を包囲するなど、同月19日の採決に至るまで、連日数万の安保法制反対集会が続けられた。反対運動は、国会周辺に止まらず、全国各地にも大きく広がった。
国会の採決強行は、このような民意に背を向け、言論の府における説得と理解という民主主義の原則を損なうものである。
第4 国の在り方が変容し、憲法的価値が侵される危険(略)
第5 安保法制の廃止及び平和主義の堅持と立憲主義・民主主義の回復に向けて
1 民主主義の再生への胎動
第3の5で述べたように、安保法制を政府・与党が強引に成立させようとする過程で、これに反対する市民の新たな運動が生まれた。これらの反対運動は、安保法制が国会を通過した後も、連携組織を作るなどしながら、運動を継続、発展させてきている。例えば参議院の国会採決があった応当日の毎月19日に市民集会を継続してきているし、安保法制が施行された3月29日には国会議事堂周辺に3万7000人の人たちが結集した。全国各地での集会や学習会の動きも活発に継続されている。
そしてこれらの運動の基本的目標は、安保法制の廃止であり、戦争に反対し、安保法制制定過程で損なわれた立憲主義と民主主義の回復を共通の課題としているということができる。また、これらの運動による政治参加は、国会による代表制民主主義を前提とし、これに働きかけようとするものであると同時に、集会・デモ・アピール・署名その他の方法を通じて、直接的に自らの声や意見を政治に反映させようとするものとして、直接民主主義的性格を有するものということができる。ここに、安保法制の制定過程で損なわれた民主主義の再生に向けた、政治的な合意形成のための新たな民主主義の胎動があると思われる。
2 司法及び弁護士会等の役割と責務(略)
第6 本宣言の意義
平和国家の在り方について、今、日本は大きな岐路に立っている。
アジア・太平洋戦争の惨禍に対する痛切な反省に立ち、立憲主義・民主主義に基づいて平和国家を建設しようとした憲法体制が、根本から覆されようとしている。今ほど、立憲主義、民主主義、平和主義の憲法的価値の真価が問われているときはない。
この憲法体制の危機に当たって、当連合会は、憲法の恒久平和主義を堅持し、損なわれた立憲主義と民主主義を回復することを通じて、国民・市民の自由と人権を守るべき重大な責務を有する。当連合会は、新たな国民・市民の民主主義再生への動きと連携しつつ、また、憲法秩序と法の支配を確保すべき司法の役割を追求しつつ、その責務を全うするために全力を挙げることを、ここに宣言するものである。
(詳細は日弁連のサイトをご覧ください)