2015年9月19日未明、国会の正門前と衆参議員会館前に結集した多数の市民が叫ぶ「戦争法案廃案!」のコールのなか、参議院本会議で安倍政権と与党自民党・公明党などによる戦争法制の強行採決が行われた。この暴挙は、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」をはじめとする人びとの、1960年の安保闘争以来といわれる8月30日の国会周辺12万人の結集と全国1300カ所以上での行動を頂点に、9月10日から18日にかけて連日数万の市民が国会を包囲するというかつてない民衆運動の高まりの中で行われた。
時はあたかも9月18日の日付変更ラインを超えたばかりの未明である。まる84年前の1931年のこの日、中国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破し、15年戦争の戦火を開いた。15年戦争の敗戦によって、日本国憲法第9条を含む平和憲法を獲得し、ふたたび海外で戦争を行わないと決意したこの国が、同じ日に憲法違反の戦争法を制定するというのは何と皮肉な歴史の符合であることか。私たちは15年戦争の犠牲となったアジアの2000万を超える人びとや日本の310万の人びとと共に、心からの怒りをもって、この歴史的暴挙を糾弾し、戦争法の廃止と安倍政権打倒をめざす新たな闘いの決意を表明する。
この過程で、大多数の憲法学者や日本弁護士連合会、最高裁判所の長官や判事の経験者、内閣法制局長官経験者らをはじめとする学会や法曹界の多くの人びとが、安倍内閣による集団的自衛権の行使に関する一方的な憲法解釈の変更を批判し、反対してきた。世論の多数も反対した。しかし安倍晋三首相は「最高責任者は私だ」とばかりに、これらの世論に耳を貸さず、今回の戦争法制の制定を強行した。
しかし、国会の多数派である安倍政権与党がこの憲法違反の法案の成立を強行したが、この戦争法が憲法違反であることは疑いない。
憲法第98条には「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と明記されている。この憲法条項からみて、まさに戦争法は憲法違反であり、立憲主義の原理に反するものであり、本来的に無効である。すでに違憲訴訟を準備している人びとが少なくない。本来、この違憲立法は裁判所の違憲審査の場に於いて検証されるべきである。しかし、従来からの違憲訴訟の事例を考えるならば、この道は容易ではない。全社会的な市民運動と、世論の監視なくして、この憲法裁判に安易に期待することはできない。国会における「戦争法制廃止法」の提出などと同様に、戦争法案の廃案をめざして闘ってきた市民運動の再構築が不可欠である。
報道各社は法案強行後の19、20日などに相次いで世論調査を行った。
朝日新聞では、「安保関連法」賛成が30%、反対が51%、内閣支持率35%(1週間前覇36%)、不支持率45%(同42%)、国会審議不十分75%、尽くされた12%。共同通信では、法制賛成34・1%、反対53・0%、内閣支持率38・9%、不支持率50・2%、審議不十分79・0%、尽くされた14・1%。毎日新聞では、法制賛成が33%、反対が57%、内閣支持率35%、不支持率50%、採決強行批判65%。日経新聞では、法案賛成31%、反対54%、内閣支持率40%、不支持率47%。読売新聞では法成立賛成31%、評価しない58%、内閣支持率41%、不支持率51%、説明不十分82%であった。
与党寄りの論調を報道する新聞を含めて、多くの人びとが戦争法案に反対し、安倍内閣を支持せず、審議不十分と考えていることがあきらかになった。
安倍政権はこうした民意にさからって、憲法違反の戦争法案を採決した。この責任は重大である。
歴代内閣による40年以上にわたって維持されてきた集団的自衛権の行使に関する憲法解釈を恣意的に変更して、極めて短期間のうちに、この違憲立法を強行した安倍晋三政権の責任は重大である。この間のたたかいの中で、総がかり行動実行委員会は「戦争法案廃案、安倍内閣の退陣」を要求し続けてきた。いま私たちの前にある課題は違憲の戦争法制の廃止と、安倍政権の退陣である。
かつて60年安保の闘いで、日米安保条約を強行批准した岸信介内閣は、民衆のたたかいの前に間もなく退陣せざるを得なくなった。世論の多数の意志を無視して戦争法制を強行した安倍内閣の責任を問い、安倍政権を打倒する闘いが急務である。安倍政権は、この戦争法制と同時に沖縄での辺野古新基地設や、原発の再稼働、労働法制の改悪などをはじめ、社会のあらゆる分野での民衆の生活と人権の圧迫という暴走をつづけている。この安倍政権を打倒することなくして、私たちの前途はない。
安倍政権は日米同盟を基盤にして、軍事力で世界の各所で覇権を実現するために、今般、立憲主義に反して、各界から違憲が明確に指摘されていた戦争法制を強行した。戦争法制の違憲状態を解決しようとすれば、憲法の明文改憲に着手せざるをえない。早晩、日本国憲法第9条の改憲にすすもうとするだろう。
一連の経過であきらかなことは、民意に反して憲法第9条をいますぐ変えることができないからこその、苦し紛れの解釈改憲であり、姑息な手段による立憲主義の破壊であった。憲法第9条の改憲という安倍晋三の企ての前には、民衆の巨大な壁が立ちふさがっている。
安倍晋三はこの巨大な壁におびえながらも、先の自民党総裁選によって3年の任期を手に入れた。彼は自らの政権の次のターゲットが明文改憲であることを隠さない。そして、その手法はまず第9条改憲を迂回して、大震災などを口実にした「緊急事態条項」の導入や、環境権など「新しい人権」の導入、あるいは第96条改憲などによる明文改憲である。私たちはこのペテン的な明文改憲をかならず阻止しなくてはならない。このような手法は完全に立憲主義に反しており、独裁者の政治手法である。この改憲を成し遂げるための条件は国会での3分の2の支持と、改憲国民投票における過半数の獲得である。
私たちは自民党安倍総裁の3年の任期を待たずに、次期国政選挙での3分の2の阻止と、圧倒的多数の改憲反対の世論を作り上げることで、明文改憲の条件を阻止し、安倍政権を打倒しなくてはならない。
今回の立法で安倍政権は海外で戦争を行える法的手段を手に入れた。しかし、この間の国会内外の闘いによって、今回成立した戦争法制はボロボロである。
私たちは戦争法制を具体化し、実施することを許さないたたかいをすすめる必要がある。ホルムズ海峡での機雷除去の口実が破綻したように、中東地域をはじめ、世界のどこにおいてでもアメリカの戦争に加担する軍事作戦を阻止する反戦平和の運動の強化が求められる。また安倍政権の下で無責任に煽り立てられている中国や北朝鮮を仮想敵にし、朝鮮半島、尖閣諸島や南シナ海での緊張を激化させるためのあらゆる挑発と戦争政策に反対するたたかいを強めなくてはならない。
海外で戦争ができることを保障するための軍事予算の巨大化や、軍需産業や米国の要求に沿った戦艦の建造やオスプレイの配備、イージス艦など軍事的装備の強化に反対し、水陸戦闘団の創設など海外で戦争するための自衛隊の各種の改編に反対して闘う必要がある。
沖縄の辺野古新基地建設に反対するたたかいはその要となるだろう。
今回の集団的自衛権の憲法解釈の変更と、戦争法案廃案のたたかいの特徴はなにか。この教訓をくみ取り、その成果と到達点を足場にして、今後の闘いを構築する必要がある。
今回のたたかいには実に多様な分野や階層の人びとが、全国各地で立ち上がった。老いも若きも、女も男も、学生や高校生も、中学生も、教師も大学の教授も、子どもや親たちも、法曹界、映画界・演劇会・テレビタレントなど文化人も、労働組合も、市民団体も、組織のある人はもとより、市民個人も、社会の隅々から戦争法案反対の声があがった。そして国会内の主要な野党が結束してたたかった。
このかつてないたたかいを生み出す契機になり、また牽引してきたのは「戦争させない、9条壊すな!総がかり行動実行委員会」だったことは明らかである。
総がかり実行委員会は、従来はさまざまに立場や意見の違いもあった、戦争をさせない1000人委員会、解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会、戦争する国づくりストップ!憲法を守り・いかす共同センターが、2014年春以来のそれぞれの闘いを基礎に、2014年12月15日に発足させたもの。以降、総がかり実行委員会は積極的に戦争法案反対の共同行動を提起し、全国的にも集会や街頭宣伝などにとり組みながら、国会内の野党各党に対する共同行動の働きかけに熱心に取り組んだ。
この呼びかけ3団体に加えて、これに2015年5・3憲法集会以降は、さらに安倍の教育政策NO ネット、一坪反戦地主会・関東ブロック、改憲問題対策法律家6団体連絡会、国連人権勧告の実現を実行委員会 、さようなら原発1000万人アクション、原発なくす全国連絡会、首都圏反原発連合、戦時性暴力問題対策会議、全国労働組合連絡協議会、全国労働金庫労働組合連合会、脱原発をめざす女たちの会、日韓つながり直しキャンペーン2015、「慰安婦」問題解決全国行動、反貧困ネットワーク、「 秘密保護法」廃止へ!実行委員会、mネット・民法改正情報ネットワークなどが、それぞれの固有の課題の枠組みを超えて実行委員会に加わった。
そして8・30大集会の呼びかけには、賛同協力団体として安保法制に反対する学者研究者の会、立憲デモクラシーの会、SEALDs(シールズ)、「女の平和」実行委員会、戦争法案に反対するママの会、戦争法案NO!東京地域ネットワーク、戦争法案に反対する宗教者・門徒・信者国会前大集会、NGO非戦ネット、止めよう!辺野古埋立て9・12国会包囲実行委員会などが名を連ねた。
これらの共同の努力によって、総がかり実行委員会は、現状では戦争法案に反対する人びとのほとんどすべてが結集するような運動体となった。総がかり行動実行委員会の運動は全国各地に影響をあたえ、続々と新しい共同行動組織がうまれていった。これは実に画期的な共同行動であった。
1960年の安保改定阻止国民会議は15年戦争から15年という歴史的な時代を背景に、総評社会党ブロックを軸に中央では共産党などもオブザーバー参加し、非共産党系の全学連なども活発に動くという構造であり、組織的な行動が軸になった。
1970年の反安保闘争は、米国のベトナム戦争に反対する世界的な反戦運動の高揚を背景に、国家や学校など既製の強権に対する反逆と実力による抵抗闘争を軸にした運動であり、運動は先鋭化し、対立と分裂を繰り返さざるをえなかったという面が否めない。市民運動も「ベトナムに平和を!市民連合」などが誕生したが、大量の市民層の登場にはなっていなかった。
以降、さまざまな経緯を経て、今回の戦争法制に反対する運動の形成に至るのであるが、今回の運動の特徴は労働組合などによるねばり強く闘ってきた平和運動と、この間新たに形成されてきた自立した市民諸団体の広範な連携に特徴がある。その市民潮流は上記の実行委員会や賛同団体の構成に表現されている。この実行委員会がインターネットやマスメディアへの連続的広告掲載などによって運動を伝播させ、一層広範な市民個人の参加を可能にし、動かしたと言えよう。
上智大学の中野晃一教授はこの総がかり実と、学者の会、立憲デモクラシーの会、シールズなどとの関係を「掛け布団と敷き布団の関係」にたとえた。「(新しい運動が掛け布団、長年つづく運動が敷き布団)多くが政治への不満を募らせる『寒い時代』には掛け布団が重ねられる。でも誰も気にとめなくても、敷き布団がなければ体が痛くて眠れない」と(朝日新聞8月31日)。
広範な市民参加を可能にした一例を挙げておきたい。
解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会は、従来2001年から開催されてきた5・3憲法集会実行委員会を基礎として、2014年3月頃、首都圏の137の市民団体が参加して結成された。この実行委員会に参加した「許すな!憲法改悪・市民連絡会」の有志を中心に14年春、9条壊すな!実行委員会の街頭宣伝チームが発足し、都内のJRの駅などで、月2回ほどのペースで街頭宣伝が始まった。ツイッターやフェイスブックで街宣参加を呼びかける中で、当初は若者を中心に5人ほどの運動であったのが、次第に行動参加者が拡大した。運動は降雨(台風も含め)や酷暑をものともせずに取り組まれた。街宣隊はアベにも負けず、雨にも負けずを合い言葉に、“街中から民主主義を”と語り続けた。回を重ねるに従って、行動の内容も多様になり、マイクによるスピーチやチラシの配布だけではなく、横断幕、紙芝居、手話、プラカード掲示、署名、歌など、初めての参加者も気軽に行動できる形態が取り入れられていった。参加者がそれぞれに創造力を発揮した。
参加舎が数十人になった頃、「100人街宣」という思い切った企画がたてられ、呼びかけられた。集まるかどうか、心配だったが、これも大勢の市民の参加で実現した。
現在では、首都圏のみならず、関西や北陸、東北、東海など遠方からの参加者も含め、200人近くが街宣に集まってくる。それぞれの多くが初体験であったり、全くどこにも属さない個人であったりする。こうした街宣チームのメンバーが総がかり実行委員会のホームページを作ったり、宣伝物の作製や集会のスタッフを引き受けたりするという、総がかりの運動に不可欠なメンバーとして成長している。
8月30日夜、国会正門前の10車線の車道は行動の参加者によって、実力開放され、多数の人びとで埋まった。同様のことは9月14日にも、17日、18日にも起こった。
これは実に60年安保闘争以来のできごとであった。
問題は戦争法案に反対する行動の意思表示の場がないことだ。
国会周辺の道路は1960年安保闘争以来、東京都公安条例で請願デモ以外は認められないことになっている。イラク反戦の時も、反原発の行動でもそうだが、戦争法に反対するには国会周辺の歩道の上で、デモではなく、「抗議行動」をする以外にない。近くには、わずか3000人しか収容できない日比谷野外音楽堂があるだけだ。民主主義を標榜する社会で、このような言論・表現の場が保障されないなどということは不当極まりない。
総がかり行動実行委員会は、今回、民主主義における表現の自由と、行動参加者の安全のために2度にわたる文書での要請を含め、幾度も警視庁に国会前並木通りの車道開放を要求した。しかし、警視庁はこの正当な要求を拒否し、車道に護送車の車両による阻止線と鉄パイプによる柵を敷設するという危険な対応をしてきた。8000名と言われる機動隊と警察官を配置し、参加者を歩道にギュウギュウに押しとどめ、アイドリングによって警察車両の排気ガスを参加者に浴びせかけ、居並ぶ警察官のメガホンの音声で集会を妨害した。
弁護士の有志が「見回り弁護団」を組織し、民主党など立憲フォーラムの国会議員団を中心に国会議員による「不当弾圧監視団」等が組織された。
参加者はこの警備体制に怒り、鉄柵をめぐって機動隊と押し合いになった。上記のように鉄柵は幾度も排除されたのであるが、その過程で20数名にわたる逮捕者が発生した。事件の原因を作ったのは警備体制であり、これらは不当なことであった。警官による暴行はあったが、しかし、重大なけが人がでなかったことは、参加者の非暴力の抵抗闘争原則を貫くという意識の高さによるものであり、讃えられてよい。
首相は、9月19日、新聞のインタビューに答え、(祖父の岸信介元首相が日米安保条約を改定したときの反対デモと今回を比べ)「あのときは『総理大臣の身辺の安全を完全に守ることは難しい』とまで(岸元首相)本人は言われていた。今回そういうような状況にはまったくなっていないから、私は平常心で成立を待っていた」と語った。当時、岸首相は赤城防衛相に自衛隊の出動まで検討させ、拒否されたというエピソードが残っている。安倍首相のこの発言は無責任な挑発的言辞であり、とんでもないことで絶対に許されない。
総がかり行動実行委員会は9月23日の「さようなら原発 さようなら戦争全国集会」への協力と、24日の国会正門前集会にとりくみ、10月8日(木)19:00~文京シビックホールでの集会を予定している。総がかり行動実行委員会の今後のありようなども検討されることになるだろう。
すでに法曹界からは違憲訴訟の準備などが語られ、民主党は法案強行裁決前から廃止法案の国会提出などを提起している。共産党の志位和夫委員長は19日「『戦争法案(安保法制)廃止の国民連合政府』の実現を呼びかけます」という提案を発表した。
今後、2015年9月の闘いを基礎にした「憲法違反の戦争法を廃止する」ためのたたかいがさまざまに議論され、すすんで行くに違いない。
カギは今回の法案阻止をめざした闘いが獲得した広範な連携を基礎にした市民行動の発展である。違憲訴訟も、廃止法も、選挙も、すべてこの民衆運動の発展を基礎に語られなければ勝利できないのは明白である。
再度、隊伍を整え、新たな段階に対応する一大市民運動を形成しよう。私たちはそのためにひきつづき全力を尽くすことを惜しまない。
「希望は本来有(る)というものでもなく、無(い)というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る」(魯迅「故郷」より)。
(事務局 高田健)
警視庁警備課様
警視庁麹町警察署長様
私たち「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」は8月10日に国会周辺での市民の行動に関する警察官の警備のあり方について、文書で改善方、申し入れたところである。しかしながら、8月30日に私どもが実施した「戦争法案廃案!安倍内閣退陣!8・30国会包囲行動」における警視庁・麹町警察署の警備警察官の対応について、参加者の安全確保と憲法21条などに保障された言論表現の自由など、市民の基本的人権の保障に関して、ひきつづき容認しがたい事例が多々生じている。これは極めて残念なことであり、ふたたび文書をもって、改善方申し入れる。
(1) 私たちは当日の10万人の結集という予測を考慮に入れ、あらかじめ正門前道路=並木通りの一時開放と鉄柵による仕切りの中止を要請していたが、警視庁はこれを拒否した。しかし、事態は予想された以上に深刻で、行動の開会時刻以前にぎゅうぎゅう詰めになった参加者が危険な鉄柵を越えて、車道に多数の市民があふれる状態になった。この際、群衆の中に危険な鉄柵が放置された状態は危険極まりなかった。主催者は安全確保のため、スタッフを現場に急行させ、アナウンスで制御するなど最大限の努力をした。もしも、あらかじめ車道が開放されていれば混乱は防げたのであり、警備当局の判断は決定的な誤りであった。
(2) にもかかわらず、麹町警察警備課長は現場の混乱を理由にして、威圧的に主催者に「行動の中止」勧告をするなど、言語道断の行動にでた。憲法の精神に照らしても警察官の法を超えた暴挙に他ならない。これはあらかじめ車道を開放する措置をとらなかった警備当局の判断の誤りの責任を主催者に転嫁し、あまつさえ主権者の言論表現の自由の抑圧にでたことであり、断じて許されない。
(3)また、地下鉄のいくつかの出口の規制は硬直した不当な規制が行われ、人命軽視ともいうべき極めて危険な状況がつくり出された。国会議事堂前駅のA1出口にはエスカレーターがあるが、地上出口が警官によって封鎖されたため、参加者は上ることも下ることもできず、人が後ろから詰めかけて将棋倒しになる寸前だった。「通せ!」など構内には怒号が飛び交う状況となった。参加者は駅ホームまで一杯となり、列車が到着してドアが開いてもホームが満杯で降りることも難しいような状況になった。この事態の最中でも地上は通行にゆとりがあったのであり、強引に地上出口への通行を阻止した警察官の警備は異常きわまると言わねばならない。あらかじめ警備が考えた机上のプランを、現場に合わせて人命優先で判断することのできない硬直した警備体制は危険で有害である。警備当局の猛省を促したい。
(4) 一連の行動の中で、当局による参加者2名の逮捕が出たことは、そのご釈放された経過をみても、不当逮捕であることは明らかであり、容認できない。にもかかわらず、全体として参加者は良識をもって整然と行動し、行動は基本的には無事終了することができた。
(5)この日の行動は12万人の参加者であった。終了後、警察当局は報道の取材に対して、参加者数を3万3千人とリークし、一部報道はそれを「警察発表」として伝えた。この間、この種の諸行動に対して、こうした「警察発表」が行われることはほとんどなくなっていたにもかかわらず、今回に限ってこうしたリークを行った理由は何か、厳重に問いただしたい。そして、3万3千人とはどのような根拠をもって計算したのか、明らかにすべきである。私たちは主催者としての責任をもって、全体の参加者数を掌握し、この数字を発表したのであり、それは後の空撮映像をはじめとする諸映像や、地下鉄の乗降者数の点検・統計などによっても裏付けられている。警察当局が現政権の意志を忖度して、このような作為ある虚偽の発表を行ったとすれば、容認しがたいことである。
(6)今後、通常国会の最終盤にあたり、安倍政権への市民の怒りと行動は一層強まるのは明らかである。審議に合わせた抗議行動は夕方以降となり、議事堂周辺は暗くなると思われ、市民の安全確保には最善を尽くさなければならない。主催者はスタッフを増員するなど、できるだけの体制をとるつもりであるが、参加者の安全のためになににもまして、危険な鉄柵の配置の中止と国会前車道の開放が求められる。夜は現場の車の交通は著しく減少し、迂回道路も十分に可能である。市民の安全を配慮する意志があるならば、警備当局はこれをかならず決断すべきである。
(7)私たちは安倍内閣の「戦争法」に反対する市民の表現の権利が、正当に保障されることを望んでいるだけである。しかし、今回のような警備体制を継続するなら、市民の警察当局に対する不信は増すばかりである。主催者は多数の整理誘導チームに加えて、法曹関係者らによる警備チームと国会議員有志による監視団を組織して、対応してきた。私たちは行動に対しては参加者との信頼関係を前提に、責任ある自主的な警備をもって対応する所存であり、現場の整理誘導は第一義的に主催者にゆだねるべきであることも強く要請する。これこそが行動が所期の目的を果たして、参加者の無事安全が実行される保障だと考える。
以上、実行委員会は警察当局に強く要請する。
2015年9月7日
戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会
お話:内田雅敏さん(弁護士・市民連絡会事務局長)
今年戦後70年、1945年の敗戦に生まれた者として戦後何年というとそれが自分の年になるわけです。戦後70年の光景として昨年7月1日の閣議決定による集団的自衛権行使容認、そしていま出ている安保法制―戦争法制、あるいは一昨年の特定秘密保護法の制定、昨年の施行、それから昨年の武器禁輸原則の緩和、武器禁輸3原則から防衛装備移転3原則、こういうこうことになってきているわけです。集団的自衛権行使容認の閣議決定はまさに立憲主義の否定でありますし、そして戦争法制、これをアメリカに行って夏までにあげると言ったのは立法権の侵害でもあります。振り返ってみますと、2000年11月にリチャード・アーミテージのリポートが出されます。アーミテージリポートは、ヨーロッパにおいてはもう戦争はおこらないであろう、アジアはまだまだ不安定な要素がある、日本とアメリカの関係はアメリカとイギリスの関係になるべきだ、日本は東洋の英国たれと言ったわけです。その中でイージス艦、P3C―対潜水艦哨戒機かF14戦闘機、こういったものはダテに持っているわけではないだろう、もっともっと積極的に活用しろ。日本は集団的自衛権行使を容認しないという人為的な制約があってせっかく持っている防衛装備を活用していない。だから集団的自衛権行使を容認しろ、憲法を改正しろといっているわけです。
アーミテージリポートが出た翌年の9月11日に、アメリカの同時多発テロがありました。ですから同時多発テロがあろうがなかろうが、アメリカはもう15年以上前から日本に対して集団的自衛権行使容認を迫っていたわけです。このアーミテージリポートを受けて、2001年3月に自民党の国防部会文書が出ます。国防部会文書はアーミテージリポートをそのまま引用して、集団的自衛権行使容認、武器禁輸原則の緩和、米軍と自衛隊が一体化するための秘密保護法の制定を言っていたわけです。15年経って日本社会の中で起きている状況を見ますと、まさにアーミテージリポート通りの事態が進行しているわけです。これは安倍政権がいまの事態を引きおこしただけではなくて、一貫してアメリカは日本にそういう要求しているわけです。そして外務省は、自衛隊を海外に出してとにかく国連安保理の常任理事国入りをすることを悲願としている。こういう流れがあるわけです。
集団的自衛権行使容認がなされて、新ガイドラインが決まり、いまこの安保法制―戦争法制が議論されているときに、8月13日の毎日新聞にジョセフ・ナイ、ハーバード大学教授でアーミテージリポートの共同執筆者の一人である彼が、こう言っています。三沢基地、これは自衛隊と米軍が一緒になって活動している。米軍を沖縄だけに置くのは危険であり、分散させるべきだ。日本のすべての自衛隊基地を三沢基地と同じように米軍と一緒になって活動できるようにすべきだということです。要するに集団的自衛権行使を容認することによって、安保条約に書かれている憲法上の制約が突破されてしまったわけです。だから何も沖縄に集中させておく必要はない、辺野古に新基地は必要ない、こういうことまで言っています。
今日の資料の「隣国すべてが友人となるために」(『解放新聞』東京版9月15日号)に書いておきましたけれども、今年の4月15日、米国のデビット・シアー国防次官補は朝日新聞のインタビューで「自衛隊の後方支援の活動範囲を朝鮮半島など日本周辺に事実上限定していた『周辺事態』が削除されました」という質問に対して、「これは非常に意味のある変更です。これまで両国の協力を阻んでいた人工的な障害が取り除かれたので、日本はグローバルな福祉と安寧のために、これまでできなかったような貢献ができるようになります。」と言っています。
6月23日の朝日新聞のインタビューで、マイケル・アマコスト元米駐日大使も「(安倍晋三首相の上下両院合同会議での演説について)すばらしい演説でした。戦争で犠牲になった米国人に弔意を表し、第2次世界大戦で日本がアジアの苦しみを引き起こしたことを認めた。過去の首相たちの正式な謝罪を引き継いだものと私は思います」。こう言ったうえで、「もっとも大切なことは日米同盟のさらなる強化を望んでいるというメッセージを伝えたことで、今回の訪米の重要な要素でした。」「集団的自衛権の行使を閣議決定したことはとても評価しています。が、これは決して新しいことではありません。9.11同時多発テロを機に小泉政権によって特別措置法が作られ、米国のみならず他の同盟国へも洋上給油などの後方支援ができるようになった」。このように手放しで喜んでいるわけで、まさにこれが戦後70年の光景なわけです。
この戦後70年の光景の集団的自衛権行使容認について、これは憲法論争では法律家の常識として違憲だということは明らかです。それに対して安倍首相たちは学者が決めるんじゃない最高裁が決めるんだということで、1959年の砂川事件の最高裁大法廷の判決に逃げ込もうとしたけれど、これも無理だということも法律家の常識です。わたしは砂川判決の最高裁大法廷判決は、伊達判決を覆したけしからん判決だという認識で、あまり読む必要はないと思っていたんです。ところが読んでみて驚いた。
それは判決理由の冒頭において―私はこれを暗唱するんですが―、「そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。」こういう書き出しで始まっています。これはすばらしいものだと思いませんか。田中耕太郎がアメリカのマッカーサー大使と会ってどうこうしていたとか、あるいは日米安保条約のような高度の政治性を有するものは、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、」といういわゆる統治行為論によって逃げたわけです。けれどもこういう判決でも、冒頭においては、奥平さんが言っても樋口さんが言っても清水さんが言ってもおかしくないことを書いています。
そしてこの判決の中では、自衛権を持つことはできる、しかし自衛戦力を持つことができるかどうかは別として、在日米軍が憲法違反かどうかの問題であって、在日米軍は日本政府の指揮監督下にない、日本が憲法9条によって戦力の不保持を規定したのは日本が戦力を持つと再び侵略を侵す危険性があるからだ―こう言っているんです―、だから戦力の不保持を規定した。日本の指揮監督下にない外国の軍隊だから日本がそれを使って侵略戦争を起こすおそれがない。だから憲法9条の禁ずる戦力に当たらないという奇妙な論理で言っています。砂川判決というものはこういう内容です。
なお日米安保条約は、占領軍としての米軍が在日米軍と名を変えて日本の占領状態を継続するためにつくられた条約、そういう意味では占領状態継続法ということになります。ポツダム宣言第3条において、沖縄以南、奄美大島以南は合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする。だから安保条約はあろうとなかろうと米軍が駐留しているわけです。ところがヤマト、日本本土においてはサ条約6条で「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。」という規定があります。ただし2国間条約を結ぶ場合にはこの限りにはあらず、ということで日米安保条約が結ばれ、ヤマトにおいても占領軍としての米軍が在日米軍と名を変えて、そのまま継続している。それが戦後70年ずっと続いているわけです。
ところで、集団的自衛権行使が容認されて安保法制が通っても、ただちに戦争になるわけではありません。もちろん間違いなく自衛隊は海外に出て行って自衛隊員が殺し殺されるという事態が出てくるわけですが、日本国内がただちに戦争に巻き込まれるということではありません。しかし日本の「国柄」が変わってしまいます。私は思い出すんですが、2000年11月30日、衆議院の憲法調査会を傍聴しておりました。ここに石原慎太郎、当時の都知事が参考人として出てきた。そのときに石原慎太郎が、“憲法を変える必要なんかない、国会で憲法廃止決議をすればいい、国会の多数でやればいい、こんな簡単なことはない”と言いました。私は本当にびっくりした。国会にそんな権限はない。これは国会に対して憲法破壊のクーデターの教唆だと思って「そんなことは許されないぞ」とのど元まで出てきたんですが、委員たちは誰も何も言いませんでした。しかし今回の安倍政権のやり方は、国会の閉会中に国会決議どころか一内閣の閣議決定によってこの憲法を変えてしまった。石原慎太郎以上です。なぜこの日付けがすぐ出るかというと、その前日11月29日に高裁で花岡事件の和解が成立した日だからなんですね。
そういう立憲主義の否定。さまざまな人権侵害、沖縄タイムス、琉球新報を潰してしまえとか新聞の広告なんかやめてしまえとか、それからむちゃくちゃな言葉を使います。日本社会が本当に変わってきてしまっていて、法治主義の形骸化が予想以上に深刻です。礒崎首相補佐官の法的安定性は関係ないという発言がかなり叩かれましたが、実は安全保障を巡る論議においてはいわゆる国際政治学者と呼ばれている連中―すべてではありませんよ―そういう連中は憲法論議なんてそもそも端からする気じゃない。2003年5月に有事関連法案が成立したとき、当時の田中明彦東大教授は毎日新聞のコラム「時代の風」でこういうことを言っています。「有事関連三法案が衆議院で圧倒的多数で可決され、有事法制について今後の道筋がついたことはまことに感慨深い。」と述べて、さらに日本における安全保障論議には「法律中心主義ともいうべき特徴が常に存在した」として「法律中心主義」からの脱却を呼びかけ、有事法制三法案が通ることは、「新しい安保論議の幕開けだ」と手放しで喜んでいたわけです。
北岡伸一も今回の閣議決定のときに「本来憲法改正の手続きでやるべきではないですか」というテレビ局のレポーターの質問に対して、笑いながら「そうなんですけどね、憲法改正には時間がかかるでしょう」と言って、はぐらかしている。最近、佐伯啓思という京大の保守系だと言われている政治学者が、なぜか朝日が毎週第一金曜日に彼に長い紙面を提供してコラムを書かせています。彼もいまの安保法制について、違憲か合憲かと言っているけれども、そうじゃないだろう、日本の安全保障をどうするかということなんだという、こういう議論のすり替えをしているんですね。
日本の安全保障を考えるには、まず憲法から考えなくてはいけない。もしいまの憲法が日本の安全保障にそぐわないということならば、まず憲法を変える、それから次の段階に行く、これが立憲主義、当たり前のことです。法律でも政治学でもごくごく初歩的なこと。こういうことを平気で無視する論調になっている。
私は2003年当時に書いたんですけれども「いつの時代にも、時の政権に迎合し、その違法行為を合理化しようとする『御用学者』が現れるものだ。『法律中心主義』から脱却し、『法の支配』を無視し、単独行動主義、先制(予防)攻撃の先にどのような社会が現れるかということについて想像力を働かせることはさほど困難ではないはずだ。国際法、国内法を問わず、今ほど法律家の責任が問われている時はない」。「一〇余年経た今、ますますその感を強くしている。『イスラム国』(ISIL)の出現など、ブッシュのイラク戦争が今日の中東の混乱をもたらしたことについては、今日、異論はほとんどない。」、こう思うわけです。
こういう情勢の急変。これについては愛媛玉串料裁判最高裁判決の尾崎幸信判事の補足意見を思います。「人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われたのである。『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には10年を要しなかった。」こういうことを1997年4月2日の最高裁判決の補足意見で書いている。まさにいまの状況、本当にこう思うんですね。この尾崎幸信判事は第二東京弁護士会出身の裁判官で、尾崎行雄の孫です。
とにかく合憲・違憲の論争は避ける。最高裁の砂川判決によることもだんだんダメになってきた。そういう中で安倍政権が言っているのは中国脅威論です。かつてはソ連の脅威論あるいは北朝鮮の脅威、いまは中国の脅威が言われています。これは一定の理解が得られる可能性があるわけです。現に中国は南シナ海でベトナムあるいはフィリピンと非常な緊張関係をつくりだしている。国内においては人権派弁護士を多数連行している。しかしそういう中国に対して集団的自衛権行使を容認して自衛隊を拡充し米軍と一体になった活動を提起することが、いまの日中関係の改善に役立つとは到底思えない。それをすれば中国の軍拡派の連中はますます反日をあおり軍拡に走る、こういう関係になるわけです。
そこで中国との関係をどうするのか。確かに悩ましい問題があるわけです。いま中国との関係では4つの基本文書があり、習近平主席も盛んに4つの基本文書と言います。ひとつは1972年、田中角栄首相と周恩来首相との間でなされた日中共同声明です。ふたつめが1978年、福田赳夫内閣と鄧小平副主席との間で結ばれた日中平和友好条約、3つ目が1998年、小渕内閣の時に江沢民との間でなされた日中共同宣言、4つ目が福田康夫内閣と胡錦濤との間でなされた「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」です。基本になるのは日中共同声明です。
あらためて前文と重要な要項を言ってみます。
「日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、千九百七十二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。」
ここからが良いんです。
「日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。」
本当にいまの日中民衆の望んでいることをここで語っているのではないでしょうか。いままさにこの精神に立ち戻ることこそ日中の関係を改善することだと思っています。これらの文書すべてに、この「1972年の日中共同声明の精神を遵守して」ということが必ず言われております。
日中共同声明は1項から9項までありますが、3つ言います。「第五項 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」。いろいろと中国人の戦争賠償裁判の中で言われる「日中共同声明での放棄」ということです。確かにここでは放棄していますが、この「放棄」は前文中の「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」ということを受けたものです。問題はこの「深く反省する。」ということを私たちがどれだけ感じることができるか、実感することができるか、ここだと思います。
1894年の日清戦争では、戦死よりも脚気によって死んだ兵隊の方が多かった。この戦争で日本は当時の国際慣習に従って当然のごとく、台湾の澎湖島をとり遼東半島をとった。帝国主義の時代ですよ。遼東半島は三国干渉によってその後返したけれども、賠償金をいくらとったと思いますか。2億テール、2億両、当時の日本円で3億6千万円だと言われています。当時の日本の国家予算は年間8千万円、国家予算の4倍の賠償金を取っているわけです。こういう日清戦争。それから1915年、第1次世界大戦が始まったヨーロッパの混乱に紛れて「対華21ヶ条の要求」を出す。大隈内閣の時ですよ。日本の間違いがどこで起こったのかいろいろな説がありますが、松本健一という、どちらかというと保守派と言われた評論家はこの対華21ヶ条の要求がそもそもの間違いであった、と言っている。もっと前からだろうと私は思いますが。そして1931年からのいわゆる満州事変、1937年からのいわゆる日華事変、こういう戦争の中で中国の民衆がどれだけの損害を受けたか。
1945年8月15日の日本の敗戦で、中国の民衆が今度は俺たちが貸しを取り立てる番だと思ったとしても、これは無理もない話です。ところが蒋介石が「暴を以て暴に報いるな」と言って諭したんです。もちろんこれには当時の国際情勢があるわけですが。そして1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約が結ばれた。サンフランシスコ講和条約の14条において戦争賠償の免除、サンフランシスコ講和条約が発効した翌1952年4月28日に結ばれた日華平和条約、ここで蒋介石はやはり同じように日本に対する戦争賠償を放棄しています。
そういう延長上で1972年9月29日の日中共同声明においても「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と言わざるを得なかった。こういう戦争賠償の請求の放棄に対して中国の民衆が不満たらたらだ。それに対して毛沢東と周恩来が3つのことを言って抑えつけた。ひとつは、有名な言葉ですけれども、「われわれは日本の民衆と戦争をしていたんじゃなく、日本の軍国主義者と戦争をしていた。日本の民衆は敵ではない」、こう言ったわけです。ふたつめは「中国はアヘン戦争以来、列強の侵害によって賠償に苦しんできた。日本の民衆に賠償の苦しみを与えたくない」。そして3つめは「新生中国は日本から賠償をとらなくてもやっていける」。相当無理をした、背伸びをしたといったら失礼ですが、そういうことを言ったわけです。
そういう日本が、アジア太平洋戦争はアジア解放の戦いであったという聖戦史観をとる靖国神社、そして日本の戦争指導者を「護国の英霊」とまつっている靖国神社、ここに日本の首相が参拝すれば、中国の民衆は周恩来はだましたのか、こう言うのは当然ではないでしょうか。つまり首相の靖国参拝は、日中共同声明違反なんです。信教の自由とかそういう問題ではなく、日中共同声明違反だということを私たちはしっかりとおさえていかなくてはいけない。
日中共同声明の六項は「日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。」、こう言っているわけです。これは日本だけじゃなくていまの中国の軍拡派の連中に対して言いたいわけです。平和的手段によって解決すると言ったじゃないか、こういう約束をしたじゃないか、と。
そして第七項です。「日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する」。反覇権主義、お互いに覇権国家にはならないということを訴えている。これは当時中ソ対立という背景があり、中国はソ連と核戦争も辞さない決意でした。現実にシェルターなどもつくっていた。そういう中で日本とかアメリカと関係を改善する必要があった。この反覇権主義はソ連を念頭に置いています。日本は当時、いまもそうですが、北方諸島の問題を巡ってソ連と交渉しなければいけない。ソ連を刺激したくないので反覇権条項を入れたくない、そういう綱引きがあったけれど反覇権条項は入った。
それから6年後の1978年の日中平和友好条約。これは鄧小平と園田外務大臣がやり合い、ここでも反覇権条項が問題になった。日本側は入れたくないと言った。鄧小平は「日中共同声明は政府間の声明だ、日中平和友好条約は国家間の条約だ、日中共同声明に入った反覇権条項が日中平和友好条約に入らない理由はない」と迫って、最後には「これは中国が覇権国家にならないためにも必要です」という説得をしたわけです。これは直接園田に言ったわけではないく、創価学会の池田大作に言ったらしいんです。そういういきさつがあるわけですから、日中共同声明の反覇権条項を日本側はもっともっと日中共同声明の精神に戻ろう、そして平和的解決をしようと言わなければいけない。これが外交なんですね。それをせずに集団的自衛権行使を容認し、そしてアメリカさん、頼みますよ、その代わりどこでも出ていきますよ、では外交でも何でもない。
そして1998年の日中共同宣言。この共同宣言では「日本側は一九七二年の日中共同声明及び一九九五年八月一五日の日本国内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対して深い反省を表明した」。村山談話なんて言ってはいけませんよ、言うならば村山首相談話と言わなくてはいけない。日本側は「日本国内閣総理大臣談話を遵守し」と言っています。ですから日本側はこの村山首相談話の精神を遵守しなければいけないんです。そういうことをしながら日中の関係を改善していく。
4つめは2008年の「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」です。ここではこう言っている。「双方は、互いに協力のパートナーであり、互いに脅威とならないことを確認した。双方は互いの平和的な発展を支持することを改めて表明し、平和的な発展を堅持する日本と中国が、アジアや世界に大きなチャンスと利益をもたらすとの確信を共有した。(1)日本側は、中国の改革開放以来の発展が日本を含む国際社会に大きな好機をもたらしていることを積極的に評価し、恒久の平和と共同の繁栄をもたらす世界の構築に貢献していくとの中国の決意に対する支持を表明した。(2)中国側は、日本が、戦後六〇年余り、平和国家としての歩みを堅持し、平和的手段によって世界の平和、安定に貢献してきていることを積極的に評価した。双方は国際連合改革問題について対話と意思疎通を強化し、共通認識を増やすべく努力することで一致した。中国側は日本の国際連合における地位と役割を重視し、日本が国際社会で一層大きな建設的役割を果たすことを望んでいる。」これを活用しない手はありません。
もちろんここに書いてあるからそれがすぐ実現するわけではない。でも外交というのは「こういう文書を交わしてきたじゃないですか」、「こういうやりとりがあったじゃないですか」ということをお互い活用しながらするのが外交であって、アメリカさん頼みますよ、その代わり地球の裏側まで出ていきますよ、そんなのは外交でも何でもないと思うわけです。キーワードは「平和・反省・寛容」です。これは私が言っていることではなくて、馬立誠―人民日報の論説委員だった人が、新しい日中関係ということで盛んに言っています。彼は日中共同声明の精神に立ち戻り、まず武力紛争を起こしてはいけないと。
この新しい日中共同声明の「戦略的互恵関係」からわずか7年、この間に何があったのか。あの石原慎太郎の尖閣諸島を都が買うという挑発、そして「国有化」、2013年12月の安倍首相の靖国参拝。こういう挑発があったわけです。もちろんその挑発に待ってましたとばかりにのってきた中国の軍拡派の動き、これは当然言わなければいけません。脅威をつくりだすことによってお互い国内の治安体制を強め、軍拡体制を強めようとしている。これがいまの日中関係であると思います。石原慎太郎が当時から盛んに言っていたのは、尖閣で武力衝突を起こせ、そうすれば米軍が出てくる。そして日本国内の平和ボケが一挙にとんでしまう。そこで一挙に憲法を変えてしまう。こういう情勢は残念ながら日本国内にもないわけではないと思うんです。
中国も一部衝突を起こしたいわけですね。アメリカは軍事的な衝突までは望んでいないけれども、緊張関係があることが沖縄の米軍基地を維持するためには役立つ、こういう関係があります。いま私たちに必要なことはあそこで武力紛争を起こさせてはならない、衝突を起こさせてはならない。そういうことでのホットラインをつくらなければいけない。民主党政権の時にも尖閣の問題を巡って、領土は1㎝も譲らないとか、領土問題というのは非常にわかりやすいんですね。すぐにナショナリズムに火が付いてしまい本当に危険なんですね。ですから絶対にあそこで武力衝突を起こしてはいけないわけです。
2番目は「反省」、まさに歴史に向き合うことです。日中共同宣言の「日本は戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」このことの意味を本当に私たちが考え続ける。そしてあの1995年の村山首相談話を遵守する。村山首相談話は、安倍70年談話があまりにもひどすぎるから本当に格調高いんです。みなさんちょっと目をつぶって聞いてみて下さい。
「先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。『杖るは信に如くは莫し』と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。」
安倍のあのわけのわからん、誰が主語なのかという発言に比べて実に格調高いじゃないですか。これも私は20年前に村山首相談話を聞いたときに感激しなかったんです。当時はそちらの方向に進むと思っていたんですよね。1989年の冷戦の崩壊、そして90年代の95年です。いま振り返ってみるとあのときはピークなんですよ。いま20年前を振り返ってみて、ほとんど真剣にあの村山首相談話を読んだことはなかったと思う。いまの状況で読んでみてなんとすばらしいことを言っているかと思います。
村山首相談話は突然出てきたわけではありません。その10年前の1985年10月23日、第40回国連総会において中曽根康弘がこういう演説をしています。
「議長 1945年6月26日、国連憲章がサンフランシスコで署名されたとき、日本は、ただ1国で40以上の国を相手として、絶望的な戦争をたたかっていました。そして、戦争終結後、我々日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にもまた自国民にも多大の惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました。日本国民は、祖国再建に取り組むに当たって、我が国固有の伝統と文化を尊重しつつ、人類にとって普遍的な基本的価値、すなわち、平和と自由、民主主義と人道主義を至高の価値とする国是を定め、そのための憲法を制定しました。我が国は、平和国家をめざして専守防衛に徹し、2度と再び軍事大国にはならないことを内外に宣明したのであります。戦争と原爆の悲惨さを身をもって体験した国民として、軍国主義の復活は永遠にあり得ないことであります。この我が国の国是は、国連憲章がかかげる目的や原則と、完全に一致しております。そして、戦後11年を経た1956年12月、我が国は、80番目の加盟国として皆さんの仲間入りをし、ようやくこの国連ビル前に日章旗が翻ったのであります。議長 国連加盟以来、我が国外交は、その基本方針の1つに国連中心主義をかかげ、世界の平和と繁栄の実現の中に自らの平和と繁栄を求めるべく努力してまいりました。その具体的実践は、次の3つに要約することができましょう。その第1は、世界の平和維持と軍縮の推進、特に核兵器の地球上からの追放への努力であります。日本人は、地球上で初めて広島・長崎の原爆の被害を受けた国民として、核兵器の廃絶を訴えつづけてまいりました」。このあとずっと続くんですけれども、中曽根は国連に行ってこういうことを言わざるを得なかった。
この1985年はヴァイツゼッカー大統領のあの有名な演説があった年です。そして1985年8月15日に中曽根は靖国神社の公式参拝を初めて行って、アジアから非難を受けた。そういったもろもろの中で彼は名誉挽回、要するに国連に行けばそういわざるを得なかった。一方ではこの年のテレビ局のインタビューで自分達の若いときは戦争の時代に命を賭けた、いまの若い人たちはそういう賭けるものがなくてかわいそうだと言っている。彼は1983年に衆議院予算委員会で社会党議員の質問に対して、積極的に答弁の中で言っているわけではないんですがあの戦争は侵略戦争だったと言っています。
さらに10年前、1972年の日中共同声明がある。これはすべて1947年5月3日に施行された憲法の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、ここから流れてきています。1959年の砂川判決の冒頭部分もそうです。日本の戦後は、まさにあのアジアで2000万人以上、日本で310万人の死者をもたらした「敗北を抱きしめて」、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」というこの憲法の精神でずっと対外的に流れている。安倍はそれが憎くて仕方がないから自民党の新憲法草案はこれを削っているわけです。
最近は「内田、そうじゃないんだ。もっと前からだ」という人がいて、そうだと思ったんですが、ポツダム宣言なんですよ。これは樋口さんの文章に刺激を受けたんです。樋口さんはこういうすごいことを言っているんです。
「日本の民衆は憲法9条、戦争放棄を歓迎した。しかし日本の民衆はこの憲法9条を時の為政者に押しつけるだけの力がなかった。連合国、占領軍の力を借りざるを得なかった。しかし絶望することはない。連合国、占領軍のつくった憲法草案は日本の明治の自由民権運動、大正デモクラシー、この精神に基づくものによってつくられた。なぜならばポツダム宣言の第10項の後段でこう言っているじゃないか。『日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ』、『民主主義的傾向ノ復活』と言っているじゃないか。」
ポツダム宣言の起草者は日本に民主主義的伝統があることを知っていたといっているわけです。私はそれを読んだとき、からだがぞくぞく震えてきた。それは明治の自由民権運動であり大正デモクラシーである。でも本当は違うんですよね。樋口さんも無理してこう言っている。本当は明治の自由民権運動、大正デモクラシーは対外的には帝国主義に行ってしまうんです。樋口さんはこれを知らないわけじゃないけれども、「いまの状況で自民党の支持者に対しても訴えるためには」と彼は書いている。そう手紙で教えてくれた。いまの自民党の憲法草案は明治憲法どころじゃない。もっとひどいものだ、だからわたしはいままでそういった活動に、学者としては関与すべきじゃない、書斎派だと自分は思っていたけれどももうそれは許されない。そして無理をしてこう言っているということです。そして樋口さんは本の中でこう言っている。理想と現実の乖離に疲れて理想を捨てるのか、それとも理想と現実の乖離を格好悪くても現実を見つめながら現実を理想に近づける努力をするのか、それが問われていると。これは学者が言う言葉ではないような気がするんです。そうまで言うくらい危機感を感じている。
さてポツダム宣言は1項から13項まであります。その第6項です。
「吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」、こう言っています。そして第8項「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」。ここで重要なのは「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」といっていることです。
カイロ宣言も、とてもいいんです。
「「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ
各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ 三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス 右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ 日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス 右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」。
要するにこの戦争は「領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス」と言っています。これはカイロ宣言ですが、ポツダム宣言の第8項において「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」と言っている。
ということは、沖縄それから北方諸島、これはポツダム宣言違反なんです。カイロ宣言違反なんです。日本は無条件降伏をしたわけではないんです。ポツダム宣言を無条件に受け入れるという、そういう降伏をしたんですね。ですから連合国はポツダム宣言を守らなくてはいけない。ところが守っていない。これを言うべきなんですね。安倍首相はアメリカに行って上下両院の合同会議に置いて演説して拍手を受けたようですけれども、こういうことこそ彼はいうべきです。もっともポツダム宣言を読んだことがないというんですから言えないわけですけれども。私が樋口さんの本に刺激されてポツダム宣言、カイロ宣言をやっているのはそういう歴史的な経過があるからです。
さきほど中国の軍拡を批判しましたけれども、中国ではこの9月3日に対ファシスト勝利の大集会で軍事パレードをやる。そのときに「カイロ宣言」という映画を放映するらしいんですね。中国の人民解放軍が作った映画らしく、なんとその映画にはカイロ宣言に毛沢東とルーズベルトが並んで写真に写っている。カイロ宣言は国民党の蒋介石がやったれども、実は国民党の中に中国共産党員たちが入り込んでいてそういう人たちによって、蒋介石は会議に来ることができたという映画らしいんですね。歴史修正主義というのは日本だけではないんですよね。
国家というのは都合のいいことを言うわけです。しかし民衆同士はお互いにそれは間違いだということ、中国のネットでいまカイロ宣言という映画はおかしいという声が上がっているらしいです。そこで私たちが歴史に向き合うということは、そういうもろもろの文書に対してもう一回全文に当たってみる。そうするとこんなことをいっていたのかということがある。本来ならばそういったことを学校教育の中でやってくるべきだったけれど、全然なかった。70才近くになってやっとこういうことを知ることになっているわけです。
私はこの安倍首相の70年談話について文章を書きました。
「百年以上前の世界には西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました」。これが2015年8月14日、安倍首相の戦後70年首相談話のほぼ冒頭部分です。これは驚きました。「戦後」70年談話ですから、日中共同声明とか中曽根の国連演説あるいは村山首相談話、つまり先の戦争の反省、つまるところ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」という憲法前文の精神から説き起こされると思っていたんですね。
ところがこの西欧列強の植民地政策を批判する安倍首相談話の冒頭部分は、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て独立を守り抜」いた日本が戦った「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と収斂している。靖国神社の展示室に行きますと、こういう展示があります。靖国神社遊就館の展示室15、(大東亜戦争)の壁に、「第二次世界大戦後の各国独立」と題したアジア、アフリカの大きな地図が掲げられて、以下のような解説が付されています。「日露戦争の勝利は、世界、特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。アジアの独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で、一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。」と書いてあるんです。その大きな地図にインドとかビルマとかインドネシアとかベトナムとか、いろいろな国が独立を勝ち取った年代別に色分けされています。そしてその国の国旗と指導者、インドならガンジー、ネルー、インドネシアならスカルノ、フィリピンならアキノ、ベトナムならホー・チ・ミン、そういうふうに展示されている。
ところが日本の植民地であった台湾、韓国、朝鮮民主主義人民共和国については色が塗られていません。その国の指導者の写真も展示されていないんです。朝鮮半島については南北朝鮮につき小さな字で、「1948年成立」と書かれているだけです。もちろん大韓民国の李承晩の名前もなければ、朝鮮民主主義人民共和国の金日成の写真もなければ国旗もない。「大東亜戦争」によって植民地支配から解放されたといっているわけです。そうすると朝鮮半島と台湾のところは説明できない。それが堂々となされている。
加藤周一さんの「羊の歌」という岩波新書の本があります。その中で加藤さんたちが戦時中に第一高等学校で横光利一を呼んで講演会をやるんです。当時加藤さんは一高のOBで東大の医学部にいるんですが、横光利一が「この戦いは西洋の物質文明に対する東洋の精神文明の戦いだ」と言うわけです。講演の終わったあと寮で座談があって、加藤さんたちが「西洋の物質文明に対する東洋の精神文明の戦いと言いますけれども西洋にも精神文明はあるんじゃないですか。それからアジアの解放というけれども朝鮮の独立はどうなるんですか」、こう問い詰めるんです。横光利一は問い詰められて最後に「馬鹿者」と言う。加藤さんは自分は黙っていたけれども、その「馬鹿者」という言葉に刺激されて「馬鹿者はないでしょう」といって批判をしたと書かれています。「羊の歌」で加藤周一さんが書いているように、朝鮮半島の植民地の解放なんて言えないんです。説明できない。平気でこういうことになっている。
さらに靖国神社の展示では、驚くべきことにビルマとフィリピンの独立が「1943年」となっています。これはよく見ないとわからない。ビルマの公式の独立は1948年、フィリピンの独立は1946年です。1943年ということは、何と日本軍によって独立が達成された。日本の歴史をねつ造するだけじゃなくて外国の歴史までねつ造してしまっている。これが靖国神社です。この問題について私は「遊就館の展示は《黙して語らず》である」と書きました。この点は安倍首相談話もまったく同様です。
談話は、「アジアやアフリカの人々を勇気づけ」た、に続けて「世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました」と、日本はこの植民地支配に全く関係がなかったかのようにあっさりと「客観的」に述べています。しかしこの時期こそ、日本が韓国の植民地支配を強化し、また欧州の戦乱に乗じて中国に対し、悪名高き「対華二十一ヶ条の要求」を突き付け大陸への侵略に乗り出した、日本の「曲がり角」であったわけです。全然これについて触れていない。安倍首相談話は、このような歴史的経緯に全く触れることなしに、日本の植民地支配の強化、大陸侵略を容認したベルサイユ条約体制に抗議した、1919年、ソウルでの「三・一独立運動」、北京での「五・四」運動、これにも触れていない。触れないで一般的に「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。如何なる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に決別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」と述べるのみです。
これでは日本の植民地支配と侵略によって蹂躙されたアジアの被害者たちの心にはとうてい届きませんよ。2004年、韓国の3・1独立運動の記念式典で廬武鉉大統領は、「日本はもう謝罪した。これ以上日本に謝罪を求めない。ただ、謝罪に見合う行動をとってほしいと」演説しました。まさにその通りです。日本は謝罪をする、そうするとそれに対して妄言が起こる。たとえば、「植民地支配は正しかった」、「南京大虐殺はなかった」「アジアの解放だ」とかですね。そういう歴史であるわけです。ただしこれまではそういう妄言を吐いた政治家たちは自己批判した、あるいは罷免された。ところが安倍内閣そのものが妄言を吐いているわけです。妄言内閣ですよ、安倍のお友達内閣は。安倍首相はいろいろなことをああでもない、こうでもないといって結局のところそれを薄めてしまっているわけです。
2014年5月30日、シンガポールでのアジア安全保障会議において安倍首相は、基調講演で「国際社会の平和、安定に、多くを負う国ならばこそ、日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい、“積極的平和主義”のバナーを掲げたい…自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるに、ただひたぶるに平和を追求する一本の道を日本は一度としてぶれることなく、何世代にもわたって歩んできました。これからの幾世代、変わらず歩んでいきます。」こう言ったんです。しかも「この点、本日はお集まりのすべての皆さまに一点、曇りもなくご理解願いたい」とここまで言った。そしてさらに「新しい日本人は、どんな日本人か。昔ながらの良さを、ひとつとして失わない、日本人です。貧困を憎み、勤労の喜びに普遍的価値があると信じる日本人は、アジアがまだ貧しさの代名詞であるかに言われていたころから、自分たちにできたことが、アジアの、ほかの国々で、同じようにできないはずはないと信じ、経済の建設に、孜々として協力を続けました。新しい日本人は、こうした、無私・無欲の貢献を、おのがじし、喜びとする点で、父、祖父たちと、なんら変わるところはないでしょう。」
何でこんなことを言うのか。日清戦争、日露戦争あるいは1931年からのいわゆる満州事変、支那事変についてどう考えているのか。靖国神社の歴史観を補助線とするとそれがわかります。靖国神社はこう言っている。「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには悲しいことですが、外国との戦いも何度か起こったのです。明治時代には『日清戦争』『日露戦争』、大正時代には『第一次世界大戦』、昭和になっては『満州事変』、『支那事変』そして『「大東亜戦争(第二次世界大戦)」が起こりました。戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかり守り、平和な国として、まわりのアジアの国々とともに栄えて行くには、戦わなければならなかったのです。」
つまり安倍も日本の近現代における戦争は日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくために、まわりのアジアの国々とともに栄えていくために戦わねばならなかった戦争だったという、これが彼の本音なんです。だから彼は戦争法制を平和安全保障法制だとかいっているわけですね。これが安倍首相の本音なんですね。本当にどうすればこういう精神構造になるのか不思議に思いますよね。
安倍のお友達は「植民地支配と侵略」、「心からのお詫び」、「痛切な反省」という「キーワード」が入ったことに不満たらたらです。でも談話の中の「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません」、これを取り上げて「よかった、よかった、これで謝罪に終止符を打った」と言っている。そして彼らは奇妙なことにヴァイツゼッカー演説も同じようなことを言っているというわけです。
ヴァイツゼッカー演説はまともに読めばそんなことは言っていないのはわかります。確かに、「荒れ野の40年」で「当時生まれていなかった世代」の責任について「今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下していない行為に対して、自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるということだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情を持った人間にできることではありません」と言ってはいます。しかし、それに続けて、「しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老若いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。心に刻み続けることが何故かくも重要であるかを理解するため、老若互いに助け合わねばなりません。また助け合えるのです。問題は過去を克服することではありません。さようなことができるはずはありません。後になって、過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし、過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。―私はここをいつも『現在を見ることはできない』と言っています―非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と述べています。
歴史に真摯に向き合うことによって、被害者からの寛容を求めることはあったとしても、過去をなかったことにしたり、過去に終始符を打つことなどできはしないんです。安倍談話も前記の「終止符」発言に続けて「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わねばなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」と述べざるを得なかった。この「お友達」に対する弁明としての「終止符」発言というのは本当に見苦しい。随所に見苦しいことが書いてある、そういう発言です。
実はニューヨークタイムズは今年の4月20日付けの社説でこう言っています。非常にわかりやすい。「今回の訪米が成功するかどうかは、また同時に、安倍首相が日本の戦争中の歴史にいかに正直に向き合うかにもかかっている。・・・安倍首相は戦争への反省を公に表明し、性奴隷問題を含めた過去の侵略について日本が過去行った謝罪を継承すると述べている。だが、彼はその言葉を修飾する曖昧な文言を追加し、真面目に謝罪する気持ちがなく謝罪を薄めようとするつもりではないかとの疑いをもたらしている。」、まさに今回の戦後70年の安倍談話はこの通りですよね。「こういう言葉は入れた。だからいいでしょう、アメリカさん」ということですね。しかしその言葉を薄める言葉をまた入れる。そして自分の言葉じゃなくて、「確かに日本はこう言ってきた、だからここで終止符を打ちます」と言う、でもそれだけではダメだからいろいろな文書の合体によっている。この安倍談話の起草者は、ヴァイツゼッカー演説を剽窃しているというのか、ある部分だけ取り上げて、ある部分を消して使っているのがよくわかりますよね。非常に恥ずかしい、見苦しい文章です。
最後ですが私は今日、関西テレビがつくった「軍神」というDVDをもらったので見てきました。これは真珠湾の特殊潜航艇の九軍神あるいは爆弾三勇士などの「軍神」とたたえられた人たちを取り上げたものです。靖国神社に行くと「欧米との戦争」というコーナーがあります。そこに12月8日の真珠湾攻撃の写真、新聞記事が展示されています。アリゾナなんかが沈んでいる写真、1941年12月9日付けの新聞です。となりに特殊潜航艇の「九軍神」といったことが書いてある新聞が展示されていて、同じ1941年12月8日のことを書いています。ところがよく見ると、最初に言った新聞は1941年12月9日付け、あとの方は翌1942年3月7日の新聞です。ふたつの新聞、書かれていることは同じ社会的な事実、社会的な現象です。
どういうことかというと、特殊潜航艇の九軍神は、3月6日になって初めて海軍省が発表した。12月8日の真珠湾攻撃の時に言われていたのは、華々しい戦果と未帰還機29機、第一次攻撃が9機で二次攻撃機が20機、それから特殊潜航艇5隻未帰還と書かれていただけだった。翌年の3月6日になってなぜ海軍省がこれを発表したかというと、真珠湾攻撃のあとプリンス・オブ・ウェールズとかレパルスを沈めたけれども陸軍の方が華々しかった。次々に占領してシンガポールまで落とした。そういう中で海軍が何かないかということで、3月6日に初めて特殊潜航艇の9人を「軍神」として発表して2階級特進をさせるわけです。もしこれを12月8日に発表していたら、1隻2人で5隻だから10人になっていた。酒巻少尉が意識を失って捕虜第1号になるわけですが、12月9日の時点ならば捕虜になったことはわからない。捕虜になったことがわかるのはスイス政府を通じて通報されたわけで、3月6日の時点では、九軍神になるわけです。こういう形で「軍神」が作られていきます。この九軍神を取り上げるということなので、テレビのディレクターに手紙を書いて、「新聞の日付けに注意して下さい」といったんですね。そうしたらテレビでは「昭和17年3月7日」と字幕に書いていました。
ついでに言いますと、大学野球の花形は早慶戦だと言われています。大学ラグビーは早明戦なんですね。早明戦は毎年12月の第1日曜日に行われます。昭和16年、1941年の12月の第1日曜日は12月7日でした。12月8日は日本では月曜日、ところがその時間、アメリカでは12月7日の日曜日です。12月7日の日曜日に攻撃された。その真珠湾攻撃の前日、なんと早明戦が行われているんですよ。もうこのときには真珠湾目指して択捉から連合艦隊は出て行っています。あるいはマレー半島上陸を目指して日本の陸軍は行っている。同じときに日本の国内では早明戦が行われていて、早稲田が勝った。ある早稲田OBの毎日新聞の記者が勝ったと喜んで深酒をして家に帰って、そうしたら戦争が始まった。「しまった、今日だったか」と書いているんです。戦争というのはそういう日常生活から始まるんですね。
そのDVDを見ていて驚いたことはもうひとつありました。この特殊潜行艇の九軍神、戦後21年経って、特殊潜行艇の慰霊碑が建てられている。揮毫しているのは佐藤栄作です。どこに建っているのか、今日見ただけではわからなかったんですが、開幕式に海上自衛隊員が整列しているのでもしかしたら江田島かもしれない。いいですか、「軍神」という慰霊碑を佐藤栄作が戦後21年経って揮毫しているんです。そして海上自衛隊が開幕式に参列している。
どうしてそのときに、その事を問題にしていなかったのか。その頃の新聞を見てみる必要がありますね。戦後70年というのはそういうもろもろの問題を孕んでいる。単に昔の歴史を知るのではなくて。そういうことだと思います。