私と憲法170号(2015年6月25日号)


戦争法案廃案、安倍政権倒せの100日闘争を
たたかいぬく決意をかため、行動しよう

<国会会期の大幅延長>

6月22日、衆議院本会議で安倍政権と与党は戦争法案の成立をめざして今国会の会期を9月27日までという異例の大幅延長することを決めた。

本来、この第189通常国会は6月24日が会期末だった。安倍政権はこの国会で昨年7月1日に閣議決定で強行した集団的自衛権の憲法解釈の変更にもとづく戦争法制2法案を成立させようとしている。この戦争法案は海外で「戦争をしない国」の原則を貫いてきたこの国の戦後史を大きく転換するものであり、憲法の平和主義に根本から反し、日本を「戦争する国」に変質させようとする、稀代の悪法だ。

安倍首相は先般の訪米の際の米国上下院の演説で、この法案を「夏までに成立させる」と誓約し、戦争法の成立を急いだ。当初、与党は会期中の法案成立の困難性を前提に、遅くとも8月上旬まで国会会期を延長し、法案の成立を企てた。8月15日にはその内容に関してすでに問題になっている首相の「戦後70年談話」が出される予定であり、これをまたいで国会が開催されていれば、「70年談話」そのものが国会での重要問題となることは不可避であり、世論は沸騰する。それ以前に国会を閉じたいという願望からだった。

しかし、国会審議の過程で安倍政権が集団的自衛権の解釈変更を強行したことの説明責任を全く果たしていないばかりか、国会論戦の中では議論に正面から答えず、問題のはぐらかしに終始し、あげくは安倍首相自身が民主党の辻元議員の質疑中に汚いヤジをとばしたことなどで、特別委員会の審議は再三中断する事態を招いた。加えて年金の個人情報の大量流出問題まで発生した。さらに、6月4日の衆院憲法審査会では与党が招いた長谷部参考人を含め、3名の憲法学者がそろって、昨年の閣議決定と与党提出の戦争法案(安保法案)が憲法違反であると指摘するという事件が起きた。政府・与党は「憲法学者は憲法の字句にこだわっており、政治がわからない。政治を進めるのはわれわれだ」などと、傲慢な弁明と防戦に努めたが、かえって逆効果となり、世論は急速に「政府の説明不十分。今国会で採決をするべきではない」との声を増大させた。200人を超える憲法学者からは同法案が違憲であるという声明が発表され、続いて5000名を超える学者・研究者からも法案反対の声明が出され、さらに日弁連が全国総会で「安全保障法制等の法案に反対し、平和と人権及び立憲主義を守るための宣言」を発表するなど、反対の声は急速に広がった。また山崎拓氏など元自民党の長老ら4名が日本記者クラブで会見し、安倍政権を公然と批判する動きも出た。地方議会での戦争法案「反対」「慎重審議」などを求める決議は71議会(6月19日現在)に及んでいる。国会内の野党も民主党、共産党、社民党、生活の党などが反対を強め、国会外の法案反対運動との連携を強めた。

6月中旬のNNN世論調査では、内閣支持率も41.1%、不支持率39.3%とその差1.8%にまで接近した。法案の「廃案」と「今国会成立にこだわらない」を加えると、80%を超える割合となった。

6月下旬の共同通信社世論調査では「法案」が「憲法に違反している」との回答は56・7%、「違反しているとは思わない」は29・2%。法案に「反対」は58・7%で、5月の前回調査から11・1ポイント上昇。「賛成」は27・8%。安倍内閣の支持率は47・4%で、5月の前回調査から2・5ポイント減。不支持率は43・0%。

世論は確実に変化している。

とうとう与党は9月末まで国会を延長するという異例の措置にでた。

この9月末までの異例の会期の大幅延長措置は、安倍政権の必死の策動を示すもので、「説明不十分」という世論に対応して審議期間を大幅延長したというポーズでごまかし、衆議院で強行採決という突破作戦に出てもその後の参院での審議が非常に困難になることを想定し、もしも参院で結論が出ない場合、憲法59条の規定を使って参議院「否決」とみなして、衆議院であらためて3分の2で再議決すれば法案は成立するという措置をも計算に入れてのことだ。

この間の経過から明らかなことは、国会内外が呼応したたたかいのたかまりが、安倍政権をここまで追いつめたということだ。

8月は日本では伝統的に反戦運動の夏だ。これは、ともすれば「8月だけの反戦運動」と揶揄されてきたが、8月はヒロシマ・ナガサキの反核のたたかいや8月15日の戦争終結との関係での不戦の意志を確認するためのメモリアル・デーが相次ぐ季節だ。安倍首相はこれを知ってか、知らずしてか、8月を大幅に超える会期延長を決めた。

「戦争法案」に反対する運動にとっては法案を廃案に追い込み、安倍政権を追いつめる絶好のチャンスが到来した。

<戦争法案廃案をめざす大衆運動の高揚>

昨年末に結成された「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」を軸にした戦争法案反対の運動は、この間、急速に高まってきた。横浜での5・3憲法集会の大成功を機に、豪雨の中での5・12日比谷野外音楽堂での集会とデモ、6・14国会包囲行動、毎週木曜の連続国会前集会、15日からの国会前連続座り込み行動と議員に対するロビーイング、傍聴闘争、街頭宣伝などなど運動は多様に、継続してたたかわれた。これ以外にも5月24日の辺野古新基地反対の国会包囲行動、6月20日の「女の平和」国会包囲行動、学生の皆さんの金曜行動など、多様な運動が展開された。そしてこれらの運動に全国各地の運動が呼応し、連帯してたたかった。

いま、安倍政権の国会会期延長、衆議院強行採決の動きを前に、総がかり行動実行委員会はいっそう闘争態勢を強め、6月24日の数万人規模の国会包囲行動、座り込みの継続、木曜行動の計画などをすすめながら、7月14日(火)の日比谷野外音楽堂での集会とデモ、26日(日)の国会包囲行動、28日(火)日比谷野外音楽堂集会とデモなどの主な行動を計画している。加えて鳥越俊太郎さんら著名人が呼びかけた7月18日(土)の「アベ政治を許さない」全国一斉行動の提唱もある。当面、総がかり行動実行委員会は毎週火曜日の全国一斉街頭宣伝や、国会議員への要請行動、再度の新聞広告など、多様な運動を展開する予定でいる。

総がかり行動実行委員会の呼びかける統一行動は、全国各地で共同の動きをすすめさせ、たたかう人びとに希望を与えている。

これら連帯の輪の拡大が、国会内での野党の結束したたたかいと結びつくときに、戦争法案廃案の希望が生まれるのではないか。

<国会論戦での安倍政権の破綻>

この国会での戦争法案をめぐる与野党の論戦は、6月4日の憲法審査会での論議を境目に「潮目」が変わったと行ってよい。

政府は5月中旬以降、膨大な10本もの戦争関連法制を「戦争法制整備法」として一括法案とし、海外派兵恒久法を新法の「国際戦争支援法」として、2本の戦争法案で提出し、国会審議にかけてきたが、議論は再度、昨年の集団的自衛権に関する憲法解釈の変更を強行した閣議決定そのものが憲法違反なのだという、振り出しに戻された。3人の憲法学者に「違憲」と指摘された政府が、その弁明のために持ちだしたのが、またぞろ1959年の最高裁の砂川判決と1972年の「政府見解」だった。この議論はすでに各方面から論駁されて、陳腐なものとなっている代物だが、ここに来て政府が改めてこの2つを持ち出したこと自体が、安倍政権の手詰まりを示している。

「砂川判決」は学会や当時の弁護団など各方面からも厳しく指摘されているように(本誌に内田雅敏弁護士の「砂川判決Q&A」を掲載した)、この判決は「集団的自衛権の合否を争ったものでは全くなく、これをもって政府が集団的自衛権行使の合憲論の根拠とするのは完全に誤りだ。

「1972年政府見解」は日本国憲法のもとで集団的自衛権行使は出来ないと説明したものであり、これを集団的自衛権行使の容認の根拠とする安倍政権の説明は「あまりにひどい議論が行われている。(過去の)政府見解をつぎはぎし、こじつけている」(第一次安倍内閣での宮崎礼壹元内閣法制局長官)と言われるほどのものだ。集団的自衛権の行使は許されないとするこの「政府見解」を、安倍政権は「見解の基本的論理を維持する」といいながら、文章を恣意的につぎはぎして、「わが国をとりまく安全保障環境の変化」を理由にして「集団的自衛権の限定的行使は許される」と、全く逆の結論を導き出した。これは全くの牽強付会だ。中国、韓国、朝鮮などに対する嫌悪のナショナリズムの感情を煽り立てながら、「安全保障環境の変化」という錦の御旗、徳川印の印籠で、「違憲」を「合憲」にすり替える手口はとうてい認められるものではない。

東京新聞の半田滋記者は21日付の同紙で以下のように指摘している。

「2007年の第一次政権当時も『安全保障環境の悪化』を主張していました。それほどの危機ならなぜ、その後の首相たちは無視したのか。安倍氏が首相のときだけ、毎回、日本は危機に陥るのです」と。これは痛烈な皮肉だ。「(安倍首相は領空侵犯に対する空自機のスクランブルが10年前の7倍に増えたと言うが、943回だ)、冷戦期の84年には944回あり、当時800回、900回を超えるのは珍しくありませんでした」「(防衛白書を比べてみても)冷戦期のほうが緊迫していたという見方」だ、と。

安倍政権の論理はすでに破綻している。肝心のところでの歴史の偽造は明白だ。街頭をはじめ、あらゆる可能な場所でさらに徹底して暴露し、たたかっていこう。

<全力で、たたかおう>

文字どおり正念場がきた。

6月18日、作家の瀬戸内寂聴さんが総がかり行動実行委員会の国会前木曜行動に参加してこういった。「また戦争がいまにもはじまりそうな気配になってきている。いまの日本の状況は昭和16、7年ごろの雰囲気だ。……(今の日本も)表向きは平和だが、すぐ後ろの方に軍靴の音が続々と聞こえている。そういう危険な感じがする」と。

この戦争法案を廃案に追い込み、安倍政権を打ち倒すことは、いまを生きる人間の歴史的使命ではないだろうか。

なりふり構わず3ヶ月という異例の長期延長を決めた安倍政権の思惑を打ち砕き、延長に踏み切ったことを後悔させるようなたたかいをつくりだそう。

いまから、戦争法案廃案、安倍政権倒せの約100日の長期連続闘争になる。千載に悔いを残さないよう、全力でたたかおう。(事務局 高田健)

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◎最高裁砂川大法廷判決Q&A◎

内田雅敏(弁護士) 

1Q 何故、今、集団的自衛権行使容認の根拠として半世紀以上も前の砂川大法廷判決(1959年12月)が持ち出されるのでしょうか
A 圧倒的多数の憲法学者が、集団的自衛権の行使は憲法第9条に反するとしているため、それに対抗する権威として最高裁砂川大法廷判決を持ち出してきたのです。
2Q 砂川大法廷判決は、集団的自衛権行使を容認しているのでしょうか。
A とんでもありません。砂川大法廷判決で問題とされたのは、「在日米軍」が憲法第9条2項によって保持を禁じられた「戦力」に該当するかどうかということで、集団的自衛権など全く問題にされていませんでした。
砂川事件とは立川の米軍基地拡張に反対する中で、反対者らが一時的に米軍基地内に「進入」したことが、日米安保条約に基づく刑事特別法に違反するということで起訴されたものです。そこで問題となったのは、日米安保条約は憲法違反かどうかでした。具体的には、在日米軍は憲法第9条が保持を禁じた「戦力」に該当するかどうかということでした。
なお、日米安保条約は、サンフランシスコ講和条約の発効によって占領軍としての米軍が撤退しなくてはならないところ「在日米軍」と名前を変えて、そのまま居座るための占領状態継続条約なのです。
3Q 個別的自衛権はあるが集団的自衛権の行使は容認されないとした1972年の政府見解も1959年の砂川大法廷判決の後に出されたものですね。
A そうです。もし砂川大法廷判決が集団的権行使容認をしていれば、その後に出された1972年政府見解で、集団的自衛権行使は容認されないなどとは言わないはずです。なお今回の政府見解が、最高裁判決の「わが国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然」の”抽象的自衛”の部分を引用し、「あくまで外国の攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し」のくだりを、「外国の攻撃」が日本に対するものであるのに、他国に対する外国の攻撃も含むとのこじつけに接ぎ木し、「例外的な武力行使が許さ れるという基本的な論理」と強弁しているのは全くの詭弁です。
4Q 砂川大法廷判決では、日本の防衛について何も触れてないのでしょうか。
A 勿論、触れています。判決文は以下のように述べています。
「われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
そこで、右のような憲法9条の趣旨に則して同条2項の法意を考えて見るに、同条項において戦力の不保持をも規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持を禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」
5Q 少し噛み砕いて説明していただけませんか。
A はい、そうします。
(1)まず、わが国の防衛は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」ことによって行うというものです。これは具体的には国際連合のことです。
砂川事件一審の東京地裁伊達判決は、国際連合の軍隊は憲法の禁じる「戦力」に該当しないが、米軍は該当するとして、日米安保条約は憲法違反としました。ところが最高裁大法廷判決は、国連軍だけと狭く考えるのでなく、米軍も認めていいのではないかとし、
(2)「憲法9条の趣旨に則して同条2項の法意を考えて見るに、同条項において戦力の不保持をも規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解する」として、米軍は日本政府の指揮下にないから、そのような虞はないとして在日米軍は憲法が保持を禁じる「戦力」には該当しないと結論付けたのです。
6Q 判決は日本の自衛隊が合憲か違憲かについての判断もしていないのですか。
A していません。判決は、日本が個別的自衛権を有するのは当然としていますが、そのために軍隊を持つことができるかどうかについては「同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持を禁じたものであるか否かは別として」と述べ、判断を回避しています。このように砂川大法廷判決は、自衛隊の合憲、違憲すら判断していないのですから、集団的自衛権行使容認か否かなど全く論じていないのです。当時の15人の裁判官たちには、合憲か違憲かすら判断されていない自衛隊が、日本の防衛でなく、海外に出て行って米軍と一体となって活動することが起こりうるなどとは全く想定できないことであったでしょう。
7Q 砂川大法廷判決は集団的自衛権について、全く触れていないのですか。
A 法廷意見としてはそうです。しかし最高裁の判決では、法廷意見の他に、各裁判官が自分の意見を述べることが許されています。分かりやすいのが反対意見ですが、補足意見というのもあります。田中耕太郎長官は補足意見で以下のように述べています。
「一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。従って一国の自衛も個別的に即ちその国のみの立場から考察すべきでない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである」
8Q 「自衛即他衛」、「他衛即自衛」、集団的自衛権に関することではありませんか。
A そうです。昨2014年7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定は「脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。(中略)もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさわしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している」と述べています。これは砂川大法廷判決の田中耕太郎補足意見という亡霊の蘇りと見ることもできます。
9Q 砂川大法廷判決は集団的自衛権行使容認を声高に語る高村自民党副総裁らは何故、この田中耕太郎補足意見について触れないのでしょうか。
A 本当は触れたいのですが、それが出来ないのです。それはこの補足意見が法廷意見と何ら脈絡なく出されたものであるからです。その意味では全く無用な補足意見なのです。さらにあります。後に、米国の公文書の開示によって、当時、田中耕太郎長官が、この件について最高裁で審理が始まる前に、当時の駐日米大使マッカーサ―(マッカーサ―元帥の甥)に面会し、早期に、且つ全員一致の判決をするという約束していたことが明らかになりました。最高裁長官が司法権の独立を侵す行動をしていたのです。そのことが蒸し返されるのが嫌なのでしょう。なお、砂川事件裁判では、被告国は、一審の東京地裁判決について、東京高裁を経ずに一挙に最高裁で審理するという跳躍上告という異例な手続きを取りました。この跳躍上告も米大使館から示唆を受けた日本の外務省が、法務省・検察庁の反対を押し切ってやったものであることが、前記米公文書の開示によって明らかになりました。
10Q 安倍首相は、4月末の訪米、上院、下院合同会議での演説で、夏までにこの「安保法制」を成立させると約束しましたが、これって、田中耕太郎長官のマッカーサー大使に対する約束と同じではありませんか。
A そうです。田中耕太郎は司法権の独立の侵害、安倍は、国会無視、すなわち立法権の侵害なのです。今年は戦後70年ですが、日本の戦後はまさに対米従属の70年なのです。対米従属とアジアからの孤立、アジアから孤立するから、ますます対米従属、この二つは相関関係にあります。
11Q 砂川大法廷判決にはほかにも問題がありますか。
A あります。悪名高き、統治行為論です。判決は日米安保条約のような高度の政治性を持つものについては、一見極めて違憲、明白でない限り司法審査の対象外にあるとして判断回避をし、憲法の番人としての役割を放棄してしまったのです。その結果が今日の事態をもたらしたのです。最高裁の15人の裁判官たちが生きていたらどう思うでしょうか。死人に口なしです。
12Q 砂川大法廷判決には色々問題があることが分かりました。よい面は全くないのですか。
A そんなことはありません。判決理由の冒頭で以下のように述べています。
「そもそも憲法第9条は、わが国が、敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が、過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、深く恒久の平和を願って制定したものであって・・・」、これはアジアで2000万人以上、日本で310万人の死者をもたらした先に戦争の「敗北を抱きしめて」、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(憲法前文)、戦後の再出発をしたことを述べたものであります。この原点を忘れてはいけません。
13Q 政府は砂川判決で集団的自衛権公司容認を根拠づけることが困難だということが分かり、再び72年政府見解を持ち出してきていますが。
A 安倍政権は、72年政府見解を基にした上で、アクロバット的論理展開をし、集団的自衛権行使は認められないとした結論部分だけを行使容認へと転換させたのですが、この点については、論理の無理さだけでなく、政府見解が示された72年当時のことも考えてみる必要があります。
政府見解が参議院決算委員会で示されたのが同年10月14日です。その約半月前の9月29日、歴史的な日中共同声明が発せられました。同声明前文は要旨以下のように述べています。
「日中両国は一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的な友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常は状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望は、両国関係の歴史に新たな一頁をひらくこととなろう。日本側は過去において、日本国が戦争を通じて、中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し深く反省する。(中略)両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、またアジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである」。
この精神、すなわち、米国一辺倒でなく、アジアの一員として、生きて行く姿勢を強く宣言した日中共同声明との関連で前記72年政府見解をとらえれば、それは字義通り、日本が攻撃されたた場合の個別的自衛権に言及したものであって、そこには集団的自衛権行使容認を導き出す要素は全くないということが理解できます。
14Q 現在の事態に関連して、最後に何か付け加えることがありますか。
A 砂川事件に関するものではありませんが、或る最高裁大法廷判決に際して、述べられた補足意見をご紹介します。
「人々は、大正末期、最も拡大された自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思想の自由、言論、出版の自由もことごとく制限、禁圧されて、有名無実となったのみか、生命身体の自由をも奪われたのである。『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験したのは、最近のことである。情勢の急変には10年を要しなかった」(1997年4月2日、愛媛県靖国神社玉串訴訟、尾崎行信裁判官補足意見)
尾崎行信判事は「憲政の神様」と言われた尾崎行雄のお孫さんです。

【追記】

Q1 集団的自衛権行使容認の根拠として砂川大法廷判決を持ち出している高村正彦自民党副総裁は、以前には改憲なくして集団的自衛権行使は認められないと言っていたのですか。
A 2002年衆議院憲法調査会で、「現実の問題としてそういう(集団的自衛権行使容認)解釈を政府はとってこなかった。必要だからパッと変えてしまうのは問題がある」、「集団的自衛権を認めるような形で、国民的議論のもとで憲法改正して行くのが本筋だ」と述べていました(2015年6月19日毎日新聞)。彼は、6月4日衆議院憲法審査会で、長谷部、小林氏らが集団的自衛権行使容認を前提とした安保法制は憲法違反と述べたことを契機として多くの憲法学者が安保法制反対の声を挙げたことに対し、「憲法学者の言うとおりにしていたら日本の平和と安全が保たれたか極めて疑わしい」と立憲主義を全く理解していないかのような乱暴な論を展開しています(2015年6月10日朝日新聞)。その際、「憲法学者の言うことを無批判にうのみにする政治家」とも言ったようです。
Q2 中谷元防衛大臣にも似たような話がありますか。
A 昨2014年7月1日の閣議決定について、「現在の憲法をいかにこの法案に適応させて行けばいいのかという議論を踏まえて閣議決定を行った」と憲法と法律の関係を逆転させた論を展開しています。後に修正しましたが、思わず本音が出たのでしょう。彼は以前には以下のようにも述べていました。
「憲法9条の下で、自衛権の行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきで、集団的自衛権の行使はその範囲を超え、許されない」(2002年7月、中谷防衛庁長官)
「現在各政党で憲法論議が行われている。憲法を改正するかどうか、改正しなくても解釈の変更を行うべきだとの議論があるが、私は現在の憲法の解釈変更はすべきでないと考えている。変更はもう限界にきており、これ以上、解釈の幅を広げてしまうとこれまでの国会の議論は何だったのか、ということになり、憲法の信頼性が問われることになる」(『右でも左でもない政治 リベラルの旗』中谷元 2007年 幻冬舎)。以上は2015年6月5日衆議院我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会における辻元清美議員とのやり取りの中で明らかにされたことです。高村氏もそうですが、政治家の言葉が軽すぎますね。
Q3 安倍首相にも乱暴な発言が目立ちますね。
A 2015年6月18日衆院予算委員会で集団的自衛権行使容認を含む安全保障関連法案について「国際情勢の目をつぶり、従来の解釈に固執するのは政治家としての責任放棄だ」と述べ憲法解釈の正当性を強調しました(同年6月18日毎日新聞夕刊)。これも立憲主義の無視です。 
安倍首相のブレーンと言われる政治学者の北岡伸一氏は「日本の安全保障を考えるとき、国際構造や周辺国とのバランス関係国の対外認識や意思決定システムから出発しなければなりません。ところが朝日新聞は『憲法の解釈を変えていいのか』、『政府の歯止めはどこにあるのか』と説き起こさない報道ばかりでした。すれ違いが多く残念でした」とも述べています(2015年5月30日朝日新聞)。立憲主義の無視です。
いつの時代にも、時の政権に迎合し、その違法行為を合理化しようとする「御用学者」が現れるものです。
2003年5月、有事関連法案が成立した時の田中明彦東大教授(当時)のコラム「時代の風」(同年5月18日付毎日新聞)がそれです。同教授は、「有事関連三法案が衆議院で圧倒的多数で可決され、有事法制について今後の道筋がついたことはまことに感慨深い」と述べ、さらに日本における安全保障論議には「法律中心主義ともいうべき特徴が常に存在した」とし、「法律中心主義」からの脱却を呼びかけ、有事法制三法案が通ることは、「新しい安保論議の幕開けだ」と手放しで喜んでいました。
当時私はこう書きました。
「いつの時代にも、時の政権に迎合し、その違法行為を合理化しようとする『御用学者』が現れるものだ。『法律中心主義』から脱却し、『法の支配』を無視し、単独行動主義、先制(予防)攻撃の先にどのような社会が現れるかということについて想像力を働かせること、さほど困難ではないはずだ。国際法、国内法を問わず、今ほど法律家の責任が問われている時はない」。10余年経た今、ますますその感を強くしています。「イスラム国」(ISIL)の出現など、ブッシュのイラク戦争が今日の中東の混乱をもたらしたことついては、今日、異論はほとんどありません。
Q4 安倍首相は、集団的自衛権行使容認の閣議決定の際もそうですが「生命、自由及び幸福追求に関する国民の権利」といった言葉が好きなようですね。
A 赤ちゃんを抱いて避難してくる母親の乗った米軍艦を護るというような図(全くリアリテイーを欠いたものですが)が大好きですね。しかし他方で彼はこんなことを言っているのです。
「たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ、ということを考えたことがあるだろうか」(安倍晋三 『美しい国へ』 2006年)。
親が子供を守るために自らの命を犠牲にするというようなことはありうるかもしれない。しかし、それはすぐれて個人的なことである。政治家が国民に向かって、「命をなげうってでも守るべき価値がある」などと言ってはいけない。それが70年前、アジアで2000万人以上、日本で310万人の死者をもたらしたあの戦争の反省ではなかったでしょうか。
《戦争で得たものは憲法だけだ》というのが生前の口癖だった作家の城山三郎氏は「自分たちの青春は惨めだった。個人の幸せを考えることは許されなく、天皇のため、国家のためにどう死ぬかを考えることしか許されていなかった。」と書いています。敗戦直前、米軍の本土上陸に「備え」、15,6歳の子供に潜水服を着せ、竹竿の先に爆雷を吊るしたものを持たせて海底に潜ませ、米軍の上陸用舟艇を突かせる「伏龍」などという戦法が真面目に実施されようとしました。戦争の時代には個人が幸福を追求すること許されていませんでした。「夢に出て来た父上に死んで帰れと励まされ 覚めてにらむは敵の空」(「露営の歌」作詞薮内喜一郎、作曲古関裕而)というような恐ろしい歌が謳われていた時代があったのです。柳宗悦『手仕事の日本』は、岐阜提灯について書いた「強さの美はないが、平和を愛する心の現れがある」中の「平和」の2文字が検閲に引っかかり発禁 となりました。そんなに昔の事ではなくたかだか70年前ことです。

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第95回市民憲法講座労働法破壊の動き ~労働者の未来は~

木下徹郎さん(日本労働弁護団事務局次長)  

(編集部註)5月23日の講座で木下徹郎さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです、要約の責任はすべて本誌編集部にあります。

異次元の規制緩和で労働法制も標的に

いま紹介がありましたように私は日本労働弁護団という、労働側で弁護活動あるいは法制に対する提言や検討をする運動をしている弁護士集団の一員です。今回はこの講座に講師を派遣してもらいたいということで私がお話をさせて頂くことになりました。今日は労働法制の改悪ということでお話をさせて頂くことになっております。

この労働法制の改悪は2012年12月に衆議院の総選挙があって、民主党政権があまりにもふがいなかったということで大負けして、自公政権が返り咲いたことに端を発しています。安倍晋三の第2次政権が成立し、安倍内閣はアベノミクスの3本の矢というものを立てて、大胆な規制緩和、機動的な財政政策、成長戦略を進めていくということで、これを2012年12月以降急ピッチで進めてきたことは周知の事実です。その考えは2014年1月23日のダボス会議における発言にあらわれていますけれども、「既得権益の岩盤を打ち破るドリルの刃となる」と形容されています。安倍政権は、労働者を保護する労働法制も「岩盤規制」だととらえて、これに手を付けようとしてきたわけです。内閣府に従前からあった経済財政諮問会議を再度設置して、ここが日本の成長戦略を策定して発表するということで、この成長戦略にそって「改革」を進めています。

産業競争力会議で労働法破壊を推進

2012年以降の動きを見ると、労働法制の改正がかなりの急ピッチで進められていることが見えてきます。およそどこまで細かい利害得失の検討、あるいは労働者の生活に及ぼしうる影響が検討されているかということが、非常に疑問になるくらいのペースです。これがどういう仕組みで、このペースで改革されていくことが可能になっているかということを見ると、まず産業競争力会議。よくお聞きになると思います。これを設置して、この中の雇用人材分科会あるいは規制改革会議の雇用ワーキンググループ、この2つのグループで、労働法制をどうしていきたいかを議論して打ち出す。これがそのまま閣議決定にかけられると、もう政府はこうやることに決めましたということになる。それで初めて、ではどういう法律にしていくかと厚生労働省の中で議論していくわけです。

でも政府の方針は、がちっと決まってしまっていますから、労働政策審議会で議論された末に法律案ができていくわけですが、そこでの議論は非常に空疎なものになっていることが実態です。それで、あれよあれよという間に国会で成立してしまうわけです。スピード感があることそのものが悪いわけではなくて、何が悪いかというと、産業競争力会議と規制改革会議、これが事実上労働法制の改革の方向性を決めているわけですが、このメンバーが長谷川閑史・武田薬品工業社長・経済同友会代表幹事、この人が雇用人材分科会の主査です。それから竹中平蔵―言わずと知れた人材会社大手パソナグループの会長、榊原定征・東レ代表取締役会長、この人たちを中心に構成している。

2年前の冬に中間的な整理を産業競争力会議は発表しておりまして、「多様な正社員の普及、時間で計れない創造的働き方の実現、予見可能性の高い紛争解決システムの構築」、これをすべきだということを言い出しました。また「企業外でも能力を高め適職に移動できる社会の構築」、これはもうひとつの言い方でいうと「行き過ぎた雇用維持型の社会が今日の社会」だ。いわゆる終身雇用――ひとつの会社に入ってそこから一からトレーニングされてそこで終身雇用されていく――こういう「雇用維持型の社会から労働移動支援型の社会へ」、というのがひとつの標語です。向こうからいわせれば雇用の流動化、こちらからいわせれば雇用の不安定化ということになりますが、こういう標語を掲げています。これが中間整理にあらわれているということです。

狙いは無限定社員、無期雇用、解雇権乱用法理の破壊

規制改革会議のメンツは座長が鶴光太郎・慶應義塾大学大学院商学研究科教授です。これだとあまりぴんとこないかもしれませんが、商学科の教授がやっているわけです。それでこの人の発言、「鉄の三角形のどれから改革の突破口を開くか」。鉄の三角形というのは何か、「無限定社員」、つまりどんなお仕事もできるように契約されている社員ですね、それから「無期雇用」、つまりこの2つは正社員のことです。それから「解雇権乱用法理」、これは日本の現行の労働法のもとでは、解雇というのは客観的に合理的な理由があってかつ社会通年上相当でなければ無効であると定められているものです。これによって多くの不当な解雇を争って勝っていった労働者がいるわけですが、これにも手を付けるというわけです。

要するに、この産業競争力会議も規制改革会議も、労働者の意見を代表すべき人がひとりも参加していないんです。ここが方針を決めてしまって、これに基づく閣議決定がされて、それが既定路線になっちゃうんです。一応そのあと厚生労働省の労働政策審議会内で議論はされるんですよね。こういう法律をつくりたい、それの功罪はどうかということになって、その場には労働者側の委員が出て、もろもろ意見を述べたりはするんです。実際出て頂くとわかりますが、労働者側はいいことを言うんです。使用者、会社側の委員もいて、的確な反論、例えば労働時間の法制はできていないんですよね、それでも議論がすーっと進んでいって、終わってみれば労働者側の意見はおよそ反映していないような法律案要綱が出てくる。それは正に規制改革会議、産業競争力会議、もっと上に行けば安倍政権が目論んでいる目的に向かってひたすら突っ走っていく構造になっているわけです。だからこそこんなに早く、こんなに激しい改悪ができてしまうということですね。労働者側の意見が反映されない点が非常に大きなポイントであり、ビジョンの問題です。

そういう仕組みで具体的な労働法改悪が着々と進められてきているわけです。すでに改悪されたもののひとつとして「有期雇用の無期転換ルールの特例」があります。去年の解散のバタバタの中で、いつの間にか成立させられてしまったものです。差し迫った危険というところがいまの一番ホットなトピックで、労働時間法制の改悪であり派遣法の改悪であります。派遣法についてはもう5月20日に国会の審議が始まっているところです。もうひとつこれはまだ法律案要綱自体は出ていないけれども、作り始めているという噂もある解雇の金銭解決制度があります。この3点が、全体としてみるとあらゆる労働者にとって非常に危ない制度の改悪です。今日は触れられませんけれども、女性活躍新法も先の国会で審議され、解散によって廃案になってしまいました。これ自体は改悪というわけではなくて、例えば2020年までに女性幹部を30%にするという目標自体はいいんですが、実効性はどうかとかいろいろ言われているわけです。

有期雇用の無期転換ルールの特例導入

それで有期雇用の無期転換ルールの特例に触れたいと思います。もともと有期契約、いわゆる契約社員については、基本的に言えば例えば1年契約の契約社員がいて、1年経てば期間満了によって契約はおしまいとうことになるわけですね。ただ、そういうものを長年反復継続している契約社員は一杯いるわけです。1年契約を8年くらいやっているという方も、みなさんのまわりにいると思います。こういう人たちについては、長年契約を更新されていて、来年も契約するんだろうなと思っている人も相当いると思います。

でも8年経って9年目に入ろうとするときに、契約は終わりですと言われてしまってはたまらないということで、こういうことが裁判で争いになることがあるんです。判例上は、そうやって何度も契約が更新されているという事実があって、その労働者が今後もそこで働き続けられると期待することが合理的な場合は、解雇権濫用法理と同じように雇い止めをすること、契約をそこで切ることに合理性があるのか、社会通念上相当かというところで判断されます。これが判例法理です。これはずっと判例ではそういっていたけれども、法律上の条文はなかったわけです。

2012年の政権交代の直前にこれが明文化されて、労働契約法19条になった。それとペアで法令になったのが、無期転換ルールです。何度も反復的に契約が延長されている人は解雇権濫用法理で守られる場合もあるけれども、大原則としては契約期間満了であればおしまいということになってしまうと、非常に雇用が不安定ですね。いつ辞めさせられるかわからない。そうすると会社にもの申すこともできない。そのような不安定な有期労働者を保護しなければいけないということで、2012年にこの無期転換ルールが労働契約法18条に入れられた。

これはどういうルールかというと、「有期労働契約の現状を踏まえ、有期労働契約が5年を超えて反復更新された場合の無期転換ルールを設けることにより、有期労働契約の濫用的な利用を抑制し労働者の雇用の安定を図る趣旨の規定」です。例えば3年契約の人が、更新していっていつのの間にか全部足し合わせると働いている期間が5年を超えたら、その労働者は会社に対して5年を超えたので、契約を無期にして下さいと請求できる。会社は基本的にそれを拒否できないというルールです。これが2014年4月1日にようやく施行されたわけです。そこから時間を計り始めるので、平成30年4月以降になって初めて、労働契約が反復継続されて更新されている人は無期転換権を行使できるという新しいルールが2012年に定められたわけです。

しかし政権交代するや、このルールの例外をつくってしまった。2014年11月21日に、有期労働契約特別措置法が成立しました。どういうことかというと一部の範囲の労働者、高度な専門知識を有してそれを仕事に使っている人、というような要件なんですが、その人については、この5年を超えて初めて無期になるというルールを10年にしましょうという法律をつくったわけです。5年ルールを実際に適用する労働者があらわれる前に、例外をいきなりつくってしまうわけです。先の政権が労働者を保護しようと思ってつくった法律を、すぐに切り下げるような改正をしている。

これがどういう問題を孕んでいるかというと、どういう範囲の労働者が対象になるかということを厚生労働大臣の告示などにゆだねる。法律ではなくて、その下位にある厚生労働大臣に委任して細かいことを決めなさいということになると、労働者としては自分が5年で転換できると思っていたのに、気がついたら10年になってしまっているという問題があります。憲法上は、労働の条件については法律で定めなければいけないと定めているわけですが、労働契約法あるいは労働基準法の下位の法令である大臣告示にゆだねてしまうことに問題があります。労働弁護団もこれに反対する意見書をつくっていますので興味のある方はホームページをご覧下さい。これがひとつ目です。

「残業代ゼロ制度」と残業代の意味

次が差し迫っている労働時間法制の改悪です。これは俗に労働側、労働組合や労働弁護士や市民団体が「残業代ゼロ制度」だとか、労働弁護団が考えた標語ですが「定額働かせ放題」ですね。携帯電話の宣伝のようにわかりやすくつくったもので警鐘を鳴らそうとしています。

この大原則を確認しておきますと、いまの労働法制では、労働者は1日8時間を超えては働いてはいけないということがあります。1週間で40時間を超えて働いてはいけないということがあります。それを超えて労働させた場合、使用者は、本当は刑事罰を受けうるということを労働基準法は定めています。ただ例外的にそれを超えることができて、労働者と使用者が労使協定-この時間まではOKにしましょうという約束をした場合には、会社側は刑罰を免れるということになっています。36協定がそれですね。ただそれでもその場合8時間超え、40時間超えの場合は、割増賃金を払わなければいけない。残業代というものです。それがいまの法律の仕組みです。

その趣旨はどこにあるかというと、長時間労働を抑制するということです。8時間、40時間を超えて労働してはいけないということをもって、労働者の労働時間外の時間を確保する。休む権利を実現するということです。割増賃金の支払いも、労働者が長く働いたからお疲れさまということで払うルールであるというよりは、むしろ会社側に対してあまり長く働かせないインセンティブを与えるということになります。いまの割増賃金は、平日は基本的には25%増しですね。

これ自体が低いといわれていますけれども、会社側がどう考えるか。25%だとインパクトが低いのでわかりやすくいうと、8時間を超えた場合には2倍、100%増しで払うというルールがあった場合は、使用者としてはAさんに残業させて8時間を超えると倍払わないといけない。それだったら2人雇って8時間内―法定労働時間内に仕事を終わらせてもらった方が「お得だ」ということになるわけです。ということで、Aさんに20時間働かせるよりは、Aさん、Bさんに仕事を振り分けて合計16時間で終わらせる方がよい。それが割増賃金制度の本来の趣旨です。なんとか長時間労働を防ぐということが労働基準法の趣旨です。長時間労働時間の抑止が第一の目的です。とても重要なのが家庭と仕事の両立です。いま生活時間といって運動している人たちもたくさんいますが、労働しない時間を家庭に当てられるということです。少子化といわれていますけれども、忙しすぎれば子どもを育てる時間もないわけです。民主主義の基盤ということでは、労働ばかりしていたら他のことを考える時間もない。政治のことなんかやってられるかということになってしまうので、民主主義の基盤も失われてしまう。これはお金の問題じゃないんですね。労働者の命、健康の問題です。

現行制度でも、日本の労働時間がどうなっていると、かなりひどいことになっているわけです。グラフを見ると、長時間労働者の割合で、週50時間以上の労働者がどれだけいるのかというものです。日本は一番高いですね。日本は全体で3割以上の人が週50時間の労働をしていて、国際的にも問題です。現行制度のもとですら、長時間労働の抑制が十分に効いていないということです。長時間労働をさせられるとどういうことになるか。過労で疲れて気分が落ち込んでしまって、過労うつになる。さらに甚だしい場合は、何も考えられなくなってそこから逃れたいということで、過労死、過労自殺や過労による心筋梗塞、脳梗塞、くも膜下出血で倒れて亡くなってしまう方が実に多いですね。減っていないです。それが現状です。

もうひとつはワークライフバランスが損なわれるということで、少子化に繋がっていく。家庭にあてる時間がなくなる。男性正社員が長時間労働をしてしまえば、それだけ相方の女性が家庭に縛り付けられてしまう可能性も出てくるという弊害も現状では挙げられると思います。逆に言うと、女性も働いていると長時間労働を要求されるということになって、女性が家庭生活も大事にしながら社会で活躍することが阻害されてしまうということがあります。そうすると本来は、現在必要なのはさらに厳しい制度を入れるということになるわけです。それにそって過労死等防止対策推進法が去年成立したわけです。これは国に対して過労死をなくすために、こういう道筋でこういう対策を取るようにしなさいということを義務付ける法律です。いまちょうど過労死等防止対策推進法にそって、どういうことをして過労死をなくしていくべきかという大綱をつくっている途中です。6月くらいに出る予定です。そういう動きはあるんです。これは過労死家族の会などの市民運動体や、過労死に取り組んでいる弁護士のかなり大規模な活動で勝ち取られた画期的なことです。

現在必要な制度は上限規制と休息時間

日本労働弁護団ではいまの労働時間法制改悪の話を受けて、本来どういう制度を入れるべきかという試案もつくりました。これもホームページをぜひごらんください。内容としては上限規制と休息時間というのがポイントです。労働時間の絶対的な、これ以上はさせられないというものを、法律で明確に規定をするということです。試案では1日上限10時間です。週48時間、各週の実労働時間のうち法定労働時間(週40時間)を超過する部分の時間の合計の上限年間は220時間。これは実はフランスの現行の法律にそって、あわせて数字を出しているわけです。これ以上は絶対ダメ、刑罰の対象だとしています。

休息時間は勤務間インターバルと言われますが、前の仕事のおしりから次の仕事の頭まで、最低何時間はあけなければいけないということです。これについて労働弁護団は、11時間は最低限空けなさいと言っています。これもイギリス、ドイツ、フランスなど、ヨーロッパの国の現行の法制に合わせて数字を出しています。絶対的な労働時間を抑え、十分な休息時間を確保するというルールは、最低限必要であろうと思われるわけです。

ところが政府の発想はまったく違って、残業の不払いをなくすということ。一見いいようにも見えるけれど、これは残業代を払いなさいよということではなくて、残業代を払わなくていいようにすることによって、残業代の不払いをなくすという発想になるわけです。本来は取り締まりを強化していくわけです。労基署の人員を増やして残業代が払われていないとか、長時間労働で倒れそうですというような相談を受けて厳しい指導をして、労基法違反があればどんどん告発・告訴をしていくべきです。けれども、現状はできていない。これをどうするか。

長時間労働をさせることは犯罪ですよね。これを犯罪でなくしようというのが政府の発想です。そういう頭で、政府は労政審に新しい労働時間法制を考えなさいといって、労政審から報告書が上がってきたのがこの4点ですね。一応お題目的に「働き過ぎ防止のための法制度の整備など」をした方がいいと書いてあるわけです。けれども結局、その報告書では長時間労働を抑制する策、それから労働時間を客観的に把握する――それができなければ長時間労働かどうかわからないわけです。記録がなければ違法なのか合法なのかわからないわけですが、そういうことは見送りになりました。有給休暇の取得促進はやりましょうということで、計画年休的な制度を入れなさいとか、会社の方から休みの時期を指定しなさいということは入りそうですが。

裁量労働制の見直しと高度プロフェッショナル制創設

次はフレックスタイム制の見直しです。裁量労働制の見直しと、高度プロフェッショナル制の創設です。裁量労働制というのは、一定の専門的なお仕事をしている労働者、あるいはまさに経営戦略を生み出す企画業務をやっている一定の範囲の労働者が対象です。自分の労働時間をコントロールできる労働者について労働時間を把握しきることは難しいから、例えばあなたは1日10時間働いていると見なすという、いわゆる見なし労働時間を設定するという労働者です。その範囲で裁量労働手当というものが現実的には出るんですが、見なし労働時間で働いている人、彼らには残業代は平たくいうとないわけです。10時間なら10時間働いた分の給料は出るけれども、それを超えた分のお金は出ないわけです。

高度プロフェッショナル制というのは、いま一番耳に入ってくる言葉かもしれません。1075万円の年収を超える一定の範囲の労働者に対して適用されうる制度ということです。これがいま申し上げた残業時間に対する割増賃金の支払いとか、1日8時間を超えて労働させてはダメとか、週40時間を超えてはダメとか、そういうことを全部適用除外にする。この人たちには適用しませんということです。

裁量労働というのはいまもあるんです。まさに、自分たちの労働時間をコントロールできる人たちに一部適用されています。今回の見直しは、この裁量労働の制度が適用できる労働者の範囲を、ぐっと広げるということです。通常の営業の人たちには及ぼさないと言ってはいるけれど、商品とか企画とかをいろいろと提案するかたちで営業する人たちには及ぼし得るという拡張の仕方をしているわけです。

もともと想定されているのは、管理職的な、会社の方針を決めているくらいのお偉いさんたちが対象になりえたところです。どういう人が対象になりうるかは、よく内輪で議論になります。例えば缶コーヒーを販売する人がスーパーに営業に行って、われわれの新商品をこういう並べ方にしたらどうですかという提案をしている時点で、「あなたはそういう企画提案をしているから裁量労働制の対象ね」ということになりかねない、という話をしています。そういう意味で裁量労働制は、高度プロフェッショナル制と同じくらいの危険をはらんでいると思われるんですね。

高度プロフェッショナル制の話ですが、これは労政審の報告書によれば「時間ではなく成果で評価される働き方を希望する労働者のニーズに応え、その意欲や能力を十分に発揮できるようにするため」にこの制度を入れるべきだろうということです。これ自体は新聞報道で、スローガン的にいわれているので耳にもよく入っていると思います。ところが、結論からいうとこれは非常にミスリーディングな言い方です。この法改正とこのスローガンは全然かみ合っていない。

現行制度は時間で評価される働き方ではない

そもそも「時間ではなく成果で評価される働き方」という前提として、いまの働き方は時間で評価されているということが当然あるわけです。これを成果で評価するようにしましょう、時間で評価しているからみんな残業が美徳のようになって、とくに何をするわけでもなくだらだらと職場にいるという前提があるように思われます。しかしそういう実態は、実際にはないということもさることながら、いまは時間で評価されているような制度になっていないわけです。申し上げた通り、いま定めているのは8時間を超えた分、あるいは40時間を超えた分については割増賃金を払えという、それだけです。時間に対応しているのはその部分だけです。残りの8時間については、これは全然時間に応じて払われているわけでは必ずしもない。アルバイトなどは1時間950円とか時間に応じて払われていますが、普通の正社員については月給22万円とか、それは時間に応じて払われているわけではない。あるいは、現行法のもとで成果主義で賃金を払っている会社はいくらでもあります。前提として時間に基づいて仕事が評価されているというのは間違いということになります。

もう1点、時間でなく成果で評価される働き方になりますよ、というようなことを政府は言っているようではあるんです。では、今度の法改正で成果で評価しなければいけませんよと法律上書かれるかというと、そんなことはまったくないわけです。労政審が出している報告書を読んで頂くとわかりますけれども、成果で評価しなさいと成果型労働制を促す制度の提案は一つもありません。ですから、いま法改正すれば成果が評価されるようになりますよということもうそ、間違いということになります。二重の意味で政府の説明は誤っているということです。これによってワークライフバランスが実現されるのかというと、いま申し上げた話の帰結として、ないわけです。労働時間が短くなる、成果を出せば早く帰れるということになるかというと、そんなことにはならないわけです。

労働時間削減を実現するとありますが、それはやっぱりこの制度を入れることによって実現するものではない。いまだってサービス残業ということで、残業代を払わないで長時間働かされている人はたくさんいるわけです。これが新しい制度で残業代を払わない、サービス残業が合法になったら、余計させられるに決まっているわけです。そういうことを政府の説明あるいは報告書の趣旨説明は、覆い隠そうとしていて、法律の内容にそわないような趣旨説明がされてしまっている。それが巷に流布してしまっているわけです。

もうひとつ、新しい制度でいわれているのは、そうは言っても長時間労働させられることになっては困るから、高度プロフェッショナル制を導入する会社は次の3つのうち1つを選んで、健康の確保措置をしなさいよということは書いてあります。その一つが勤務間インターバル制です。例えば11時間のインターバルを入れる制度を導入する。それから1ヶ月単位あるいは3ヶ月単位で、働く時間に上限を設ける。または月にお休みを4日+毎年のお休みを104日 、これを入れる。この3つのうちどれかひとつを入れなさいというわけです。ただ3つのうちのひとつで十分とすると、結果的には不十分なわけです。仕事と仕事の間を11時間あけなさいというその制度だけだと、1年間毎日この11時間を除けばいくらでも残業代を払わずに働かせられる。あるいは月の休み4日、年の休み104日だけ入れる、これだって今と同じような制度ですが、残りの256日については、労働時間の上限規制もなければ休憩時間の規制もないわけですから、24時間働かせることも理論的には可能ということになるわけです。これが実態として256日24時間働かせることができるかどうかは別にしても、長時間労働を助長、拡大させていくということは目に見えてわかるわけです。

漫画「ブラック法案によろしく」

次にこれは「ブラックジャックによろしく」という漫画があって、作家さんが太っ腹で好きに使ってくださいということになっているので、労働弁護団とも関係が深いブラック企業対策弁護団の人たちがこの「ブラック法案によろしく」をつくりました。漫画を使って、みなさんによりこの問題を身近に感じてもらえるようにということですが、少し見ていきたいと思います。

このコマでは「残業代があるから無駄な残業が減らないんだよ。残業代をなくせばみんな早く帰るようになるでしょ」という、先ほど私が申し上げた話です。だらだら残業しているという前提になっているんですけれど、「もともと残業代なんてもらってねえよ!」というお兄さんの叫びが入っています。これはブラック企業対策弁護団のホームページからも見られるようになっております。

高度プロフェッショナル制の対象とされているのは、年収1075万円以上の人ということになっています。これは日本の労働者の上位数%だという説明が、この法案の話が出た頃からされているわけです。この話が出たときの厚生労働大臣は田村憲久さんでした。

田村さんは「私が大臣であるうちは変えません」といって、じゃあ辞めたらどうなるんだということだったんですが、実際のところこの1075万円が今後どうなっていくかというと、これは下がっていくだろうなと容易に想像されるわけですね。

根拠は何かというと、かつてこの高度プロフェッショナル制は、第1次安倍政権の時にホワイトカラー・エグゼンプションということで打ち出されました。まさにこれは残業代ゼロだと批判されて、結局ものにならなかった。2005年くらいからこの話はあったけれど、その頃、経団連は年収400万円くらいをラインに、ホワイトカラー・エグゼンプションの対象にして欲しいといっていたわけです。ですから経営陣、経済界の本音はこの数字にあるわけです。いまの厚生労働大臣の塩崎さんは、数週間前に経団連のある会合で1075万円という数字については経済界からいろいろな批判を頂いている。それはよくよくわかるが、私からはとにかくいまはとりあえずこれで通させてくれと発言して、それが録音に残っちゃっているわけです。そこが結局政府の目論みなわけですね。小さく制度を生んで大きく育てていくということなんです。これから紹介する派遣法も、もともとはほんとに例外的な労働として入れさせてくれということで1985年に入ったんです。けれどもいまは非常に広がって、それがさらに広がろうとしているということで、これも非常に同様の危険をはらんでいるということですね。

成果主義かつ残業代ゼロの働き方は?

これは法的な問題ではないけれど、「ろくな成果も出せない奴が俺より先に帰るな!」 といっています。要するに残業代を払わなければいけない、あるいは労働時間の上限が決まっているという縛りから解放された使用者は、とにかく成果を出すまで帰るなということを合法的に言えるようになるわけです。そうすると、職場内でも上司や同僚からいわれるという悲惨な状況になることが想像されます。

もうひとつ裁量労働制の拡大です。想定されている法文ではこうなっています。裁量労働の対象をここまで拡大するということで、「法人顧客の事業の運営に関する事項についての企画立案調査分析と一体的に行う商品やサービス内容に係る営業の業務」と「事業の運営に関する事項の実施の管理と、その実施状況の検証結果に基づく事業の運営に関する事項の企画立案調査分析を一体的に行う業務」。これはなんの労働なのかわからないですね。わからないだけにこの仕事はこれに当てはまる・当てはまらないという予測可能性もないわけです。ある意味では「言ったもの勝ち」的なところがあるわけです。

ただわかるのは、先ほど申し上げたように法人営業をしていてスーパーならスーパーの陳列の仕方について提案する場合の缶コーヒーの営業は、前者に入り得るかなと思われるわけです。後者は余計わかりづらいですが、会社にいればいろいろなプロジェクトがあって、例えば何かのプロジェクトリーダーに任命されて、そこで実施される上からおりてきたプランを実施・管理した場合は、この人は上からおりてきた命令を実行する人なので、当然自分の労働時間に対する裁量はないわけです。どうやって仕事を行うかというところは裁量があるわけですが、自分の労働時間自体はコントロールできないわけです。この人について裁量労働制の対象にすることが適切なのかどうかというのは非常に疑問ということになります。わかりやすく書いてあるところがあります。前者は(1)店頭販売等の極めて単純な営業以外の個別営業業務が対象に入る可能性があるということです。後者は(2)現場で業務管理を行う労働者がすべて対象にされる危険がある、ということですね。

非常に困ったことに成果と連動した賃金とするというお題目が多少効いているというか、マスコミも勘違いして喧伝してしまっているところがあるんですね。成果主義と聞いたときに労働している本人たちもどうとらえるかというと、実際の制度が孕んでいる問題について見えなくなってしまうんです。非正規労働の若者はどうかというと、現状彼らは一生懸命働いても正社員に比べると待遇は3分の2くらいということですね。そういう人たちにとってみれば、成果を出せばあるいは給料が上がるかもと思い込まされてしまうわけです。いい制度じゃないかということになるわけです。現状では長時間労働をさせられまくっている。残業代がすでに払われていない。つまり新制度が予定している状況にすでにあるブラック企業の正社員。彼らにすれば成果を出したら給料が上がるんじゃないかと思うわけです。残業代ゼロ法案といったところで、すでにもう残業代ゼロですということになってしまう可能性があって、それがこの成果主義のやっかいなところです。

ただそこを超えて制度の本質はどこかということを知る必要があるし、それを広げていく必要があると思うんですね。メディアはその問題を、そっくりそのまま成果と連動する賃金になると言ってしまうわけです。例えば毎日新聞「働いた時間に関係なく仕事の成果で決まる新たな成果主義賃金制度」というと、短く働いていっぱい成果を出せば、早く帰れるし給料も上がると思ってしまうところがありますよね。日本テレビは「厚生労働省は、働いた時間ではなく成果で給料を決める、いわゆる『残業代ゼロ制度』について」 と言っているわけです。申し上げたように、成果で給料を決めなさいと新制度が義務づけている条文はいっさいないわけです。読売新聞、日経新聞には「『脱時間給』制度の導入へ」と書いているけれども、そもそも現行制度は時間給じゃないわけです。

日本労働弁護団ではこの労働時間法制が入ったら、長時間労働がさらに蔓延して拡大してしまう、過労うつ、過労死がさらに広がってしまって、ひいては日本経済の活力も失われていくと考えていますので、これに反対する運動をずっと展開しています。今年の2月に長時間労働の川柳を募集しまして、このほど最優秀作が決まったので紹介させて頂きます。「名ばかりの『長』で時間が長くなる」、「『帰ります』は今日も言えずにまた残業」、「残業はするな明日まで仕上げとけ」。本当にこうなるだろうなと思います。これはどういう制度かということを広げて、危機意識を持ってもらうというためにやっている企画のひとつです。これに反対する電子署名活動も、4月中旬くらいからやっています。いまのところ14,000弱の署名を得ていまして、時間はあまりありませんからこれをどんどん集めて反対の声を上げていきたいので、ぜひこの署名をのぞいてみて下さい。メールアドレスがあれば誰でも日本労働弁護団のホームページからできます。

派遣法を究極的に規制緩和

5月20日から派遣法が審議されています。派遣はどういう雇用形態なのか。それ自体はもうおわかりだと思いますけれども、派遣元の会社と派遣労働者が労働契約を結ぶ。派遣元は派遣先と労働者派遣の約束をして、この労働者を派遣するわけです。雇用と使用の分離と言いますが、雇っている人と命令している人が違うということです。間接雇用ともいいます。間接雇用は、それ自体は非常に微妙な問題が構造的にあるわけです。雇っている人と実際に働かせている人が違うと、労働者に対する本来会社が負うべき義務――安全管理義務とか職場の配慮義務、パワハラが行われていたらそれを防止する義務、あるいはそもそもパワハラが起こらない職場をつくるべき義務、セクハラも同様です、その義務の所在がどこにあるのかが今ひとつ不明確になってしまうという側面があります。あるいは事実上働いている先、派遣先でセクハラが行われました。それを派遣元に、この会社はひどすぎます、あなたは私の雇い主だから何とかして下さいと言っても、派遣元は派遣先からお金をもらっている立場ですよね。だからそうは言っても君もちょっと我慢してよ、ということになるわけです。

派遣労働者というのは、2008年の終わりに年越し派遣村というのがあって日比谷公園が派遣労働者でごった返した。リーマンショックを受けてどんどんクビにされた派遣労働者がたくさん集まったということがありました。そこからもわかるように、不景気になったら最初に切られるのは、このような不安定な雇用をされている人たちなんですね。「究極の雇用調整弁=年越し派遣村」と書いてありますが、そういうことです。

派遣労働者の給料は、派遣先が派遣元にお金を払う。派遣元は中抜きをして派遣労働者に給料を払うという中間搾取が行われるわけです。そういうこともあって派遣労働者の待遇は、正規の労働者と比べるとどうしても低いことになる。構造的にいろいろな不具合を孕んでいるものであります。ですから、これはもともとはあくまで臨時的、一時的なものだと位置づけられて、なんとか法律として成立したのが1985年です。そのときからすでにこういう働き方はおかしい、基本的には直接雇用することが大原則だということは言われていたけれど、こういう法律ができてしまった。

「常用代替防止」というのがキーワードです。常にコンスタントに雇っていなければいけない人たち、そういう仕事を派遣労働者にさせてはいけない。派遣労働者にさせるなら、その人たちを雇いなさいということが原則だったはずなんです。もともと非常に限定的な約束で派遣労働者を認める、という派遣法ではあったんですが、85年以降徐々に自由化されていったわけです。このタイプの労働でしか派遣労働は使ってはいけないという制度だったんですね。それがいつの間にか裏返って、派遣労働させていけないのはこれだけの仕事の人たちで、それ以外は別にいいよということになってきたわけですね。それがさらに究極的に規制緩和されようとしているのがいまです。

派遣法・常用代替防止(臨時的・一時的)を放棄

例によって、規制改革会議の雇用ワーキンググループが報告書を出して、派遣期間の制限を見直しましょうと言い出したわけです。現行の制度を確認しますけれども、いまは専門26業務――26種類の特定の業務については、派遣期間の制限は一応ないわけです。他の仕事については、原則として例外3年ということで縛りがあります。3年を超えて派遣労働を使ってはいけないという基本的なルールがあります。

ところが「無期雇用派遣は受入期間制限廃止」というのがあります。これは派遣元の正社員的な立場で派遣されるようになると、何年でも派遣先で働いていいですよということになるんですね。そうではない有期契約の派遣労働者については、同一事業所の同一の組織単位であれば、労働者の入れ替えによってずっと派遣を利用できることになるわけです。派遣労働者Aさんが、この企業の人事課で働いています。それで3年経ちました。本来であればこれ以上は派遣労働者を使ってはいけないわけですね。そうすると、このポストがこの会社にとって常に必要なポストであれば、派遣労働者を使っていると、3年で派遣労働者は使えなくなってしまうわけだから、これは普通に正社員で雇わざるを得ませんねということになるんです。この新しい制度になると、同じ派遣労働者は別の部署に連れて行けば、また3年使えることになります。この人事課のポストについても、労働組合のOKを得れば3年を超えて別の派遣労働者を入れるということができるわけです。

そうすると、これまでだったら正社員で雇わなければいけなかったところが、派遣労働者を3年、3年、3年で使っていけば、ずっと派遣労働者を使い続けることができる。例えば、さきほどのAさんに人事課で3年やらせてそのあと経理課で3年働かせる、その間派遣労働者Bさんに人事課のポストを3年やらせる。そのあとAさんとBさんをまた入れ替えて、Aさんを人事課に戻してBさんを経理課に入れるということもできるわけです。そうすると企業内の異動とおよそ変わらない状態で、派遣労働者を使えることになるわけですね。そうすると常用代替防止と申しましたが、この原則が失われてしまう。まさに常用労働者に代替してしまうわけです。そういう意味でこれまた非常に危ない。どういうことが起こるかというと、もう正社員に頼らなくてもいいんじゃないかというふうに会社はなる。正社員は給料も高いしうるさいことを言うし、派遣労働者でいいということになる。

解雇の金銭解決制度もOK

正社員が邪魔だという使用者のために非常に便利な制度と考えられているのが、解雇の金銭解決制度です。日本の解雇の制度というのは解雇権濫用法理に支配されていて、解雇にはそれなりの理由がないといけないわけです。例えば、ラジオの放送会社で働いている人が6時の番組を担当していたけれど、朝寝坊して放送ができなかった。これを2回もやってクビになったんだけれども、裁判所はそれはやりすぎだろうということで解雇は無効になった。微妙な事案だと個人的には思いますが、それなりの保護がしてあるわけです。

解雇の金銭解決制度というのは、どういうものとして想定されているかというと、解雇が無効である、法律に違反していたと裁判所が判断した場合に、会社は一定のお金(いくらになるかになるかはまだ決まっていない)、このお金をその労働者に支払うことによって、無効な解雇だけれども彼を会社に戻さなくてもいいようになるという制度です。そうすると、これまで解雇されてきた人ががんばって裁判をやって、やっと勝った末になんとか会社に戻してもらうという例はいまはないではないんですが、そういうことができなくなる。お金を払ってやっかい払いをすることになるわけです。それによって正社員をどんどん減らしていくこともあり得なくはないです。裁判を起こされても、その通り無効な解雇をしました、はいお金を渡しますのでさようなら、というようなことが起こるわけです。そうすると正社員も減っていく、減った分は派遣労働者で代替していくという、雇用の構造の変化が浮かび上がってきています。

そういうことが起きていくとどういう社会になっていくか。派遣法の改悪によって低賃金であり不安定雇用である派遣労働者が増えていく。他方で正社員は減っていく。いまだって正社員になりたいけれどもなれなくて、仕方なく有期で、派遣でやっていますという人はいっぱいいます。正社員への椅子取りゲームがさらに激化していく。若年労働者の非正規率がさらに増加していくわけです。その中で正社員というポストがすごくいいようなものに見えてきているので、そこに出てきたブラック企業が、あなたを幹部候補生として採用しますということで、「やった、正社員だ」と飛びついてみたら、残業代ゼロ法案によって、延々と長時間働かされる割りには給料は全然伸びないということになる。その正社員も疲弊していくというような、そんな社会が出てくると思われるわけです。

労働法改悪が実現し疲弊する日本経済

資料の最後に「経済成長」という文字に×が付いています。こうすることによって、いま会社は非常にうれしがるかもしれないです。派遣労働者を登用することによって人件費を削減することができるし、煙たい正社員も辞めさせられる。正社員を辞めさせたら、人材ビジネス経由でまた派遣労働者を入れればいいということになるんです。しかし、これによって労働人口が疲弊していきます。疲弊していくと、あるいは貧困層が拡大していくと、消費活動もできなくなる。そうすると、それが長期的に見て経済成長に発展していくのかというと、そうではないだろうとなるわけです。

いまの提案されている労働法制の「改悪」によって、日本経済は結果的に疲弊していく恐れすらあります。それは置いておいても、労働者が疲弊してしまうということで、非常に危機的な状況であるといわざるを得ないと感じます。労働弁護団もそうですが、各組合――連合もそうだし全労連、全労協などナショナルセンター、独立系の労働組合の人たちはみんな一様に危機感を持ってこれを法律にしてはいけないということで、この間一生懸命活動してきています。5月14日に日比谷野外音楽堂で、このような労働法破壊の動きに対して反対する集会と国会請願デモが行われました。急ピッチで組織・企画された集会だったんですが、2600人が参加して労働者の声も強くあげられました。それによって労働運動もひとつ勢いが付けられたのかなと思います。

派遣法はこのあいだ審議入りしたばかりですし、これに続いて労働時間法制も審議入りするということで、まさにいまが労働法を守るラストチャンスなんです。そこで必要なのは、労働者の団結、労働組合の団結あるいはもっというと市民の連帯、これが入ったらどういう社会になっていくかのかあるいは下の世代がどうなっていくのかということを考えつつ、反対の声を一緒に上げていければいいなと思う次第です。

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