5月14日、首相官邸前に早朝から結集した人々が反対の声をあげる中で、午後、安倍政権は新法の恒久法「国際平和協力法案」と、自衛隊法改悪など10本の戦争関連法制を一括した「平和安全法制整備法案」という戦争法案を閣議決定し、翌日、国会に上程した。
そして5月19日、衆議院本会議は、民主、維新、共産、社民、生活の各党が反対するなか、与党と次世代の党の賛成だけで、戦争法案を審議するための特別委員会(「平和安全法制」特別委員会)の設置を議決した。これによると、委員数は45人で、与党は委員長に浜田靖一・元防衛相を当てるとしている。会派別の委員の配分は、自民28、民主7、維新4、公明4、共産2とされている。与党によると常時出席の閣僚は防衛相と外相のみで、政府の直接の責任者の官房長官すら含まれていない。
これは強行採決シフトの委員会設置だ。衆院憲法審査会でも50人の委員会だし、これまででも重要法案の委員会は50人でやってきた。この憲法に直接関わる、戦後の安保防衛政策の大転換となる特別委員会が、他の有力野党、社民党や生活の党が参加できないのは民意を正当に反映する上で、重大な欠陥だ。これには批判が噴出したので、小手先の修正はするようだ。また常時出席を2閣僚に絞っていることは、強引に審議時間を重ねるための計算であり、慎重審議する体制づくりがもともと無視されていることだ。
審議入りを急ぐ与党は、与党だけで作成した法案が15日に提出されたばかりであるにもかかわらず、21日の本会議で主旨説明を強行しようとしたが、いまのところ、これは野党の抵抗ではたせず、26日に強行するとしている。
すでに政府は6月24日までの第189通常国会の会期の8月上旬までの延長を視野に入れている。安倍晋三首相は4月29日の米連邦議会上下両院合同会議で、国会に法案も出ていないうちから、この戦争法案を「夏までに成立させる」と言明した。与党がこうした強行採決シフトに執着するのは、この対米公約があるからだ。
すでにメディアからは官邸がリークする「6月末に衆院通過、8月上旬法案成立」などという情報が流されている。まさに官邸と与党は強行採決ありきのシフトを敷いている。戦後史を画するような最悪の戦争法案が、「一括法」などという姑息なやり方で、あらかじめ審議の期限を設定して行われるというようなことを断じて許してはならない。「一括法」にまとめられようとしている戦争関連法制は、その一つひとつが1年以上かけて国会で議論されるべきものであり、その上で民意が問われるべき重要法案だ。このような重大な法案を今国会で強行採決することなど、絶対に認められない。
安倍首相は5月15日の衆院本会議で、「集団的自衛権の行使はあくまで日本国民を守るためだ」「戦争法案というのは無責任なレッテルはりだ」と居直った。
この安倍首相の「レッテル貼り」という暴言には布石がある。社民党の福島瑞穂副党首が4月1日の参院予算委員会で安倍政権のいう「安保関連法案」を「戦争法案」と述べたことにたいして、首相がレッテル貼りで容認できないなどとのべ、岸宏一委員長(自民)が発言を「不適切」として問題視、議事録からの削除、取り消しを要求するという事件があった。福島氏は「これまで同じ言葉を使って一度も問題にされたことはなかった。言葉狩りだ」と自民党の要求に反発、野党各党からも委員長の対応に厳しい批判が出る中、1ヶ月たらずで、議事録は事実通りに発行されることになった。この問題では野党などから「本質が突かれたからではないか」とか、「首相の『わが軍』発言の方が問題だ」などという批判がつづいた。
しかし、安倍首相の用語に関する問題はこれで終わりにはできない。「国際平和支援法」はどう考えても米軍などの国際的な戦争への支援・加担法であり、「平和安全法制整備法」は戦争関連法制の改悪であり、戦争法制そのものだ。特別委員会の名称も「平和安全法制特別委員会」だ。「戦争」を「平和」と「安全」と言い換えている。これこそが姑息なレッテル貼りそのものではないか。安倍首相の政治的な用語法には世論に対する許し難い詐術がある。このような世論操作のための詐術を「霞ヶ関文学」などと揶揄して、溜飲をさげているわけにはいかない。これこそファシズムに似た手口と言わねばならない。
安倍首相はこの法案によって「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にありません」と「絶対」を乱発する。これもウソだ。巻き込まれるどころか、率先して戦場に行くのが今回の集団的自衛権の行使だ。民主党の岡田代表が、「絶対ない」と言い切る首相に対して、「議論にならない」とあきれたが、安倍のこうした論法を許してはならない。
こうした安倍首相らの世論操作のための用語法にもかかわらず、本誌別掲論攷で大滝さんが紹介しているように、世論の多数は安倍首相の戦争法制に疑問を抱いている。
私たちはいまこそ、戦争法案反対、戦争法案を廃案にという声を街中に、国会周辺に響かせなくてはならない。
前々号で安倍首相の2月の施政方針演説に出てきた岩倉具視を引き合いに出した明治近代に対する歴史観の問題点を指摘した。安倍首相の歴史観は極めて危うい。
いま、8月に発表するであろう安倍首相の「戦後70年談話」が注目を集めている。ここに安倍晋三の政治姿勢と歴史観が現れるからだ。安倍首相は今回の米国議会での演説で「真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海…、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました」などと、わざわざ米国との戦場を列挙したが、アジアについては「戦後の日本は痛切な反省を胸に歩みを刻んだ。アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない」と言及しただけにとどまり、韓国などアジアの人びとが安倍首相談話に求める「侵略」「植民地支配」「お詫び」の文言は使用しなかった。
問題は安倍首相らが「15年戦争」=アジア・太平洋戦争をどのように見ているかだ。安倍首相の思考の中にはあの戦争の大半が、日本の軍国主義とアジアとの戦いであったという事実認識がない。1931年の「満州事変」に始まった15年戦争において、日本の軍国主義は2000万のアジア民衆を殺戮した。アジアの民衆は全力で日本軍国主義を打ち破るためにたたかった。15年戦争で日本軍を打ち破った主力はアジアの民衆だった。安倍首相らの史観では日本軍国主義は米国に敗れたということになっている。ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下と、天皇の「聖断」が戦争を終わらせたかのように見るのは誤りだ。これは、かつて軍事評論家の山川暁夫氏が、その講演のなかで私たちにくり返し強調してきたことだが、すでに1945年2月、ビルマのラングーンは民衆によって解放され、同じ頃、中国戦線では19省で最後の抗日戦争が行われ、日本軍は旅団別、師団別に降伏文書を出し始めていた。3月にはマニラが解放された。これらの戦局をみて、2月24日、天皇側近の近衛文麿が昭和天皇に降伏をすすめる「上奏文」を出したが、天皇はこれを拒否した。太平洋戦争における悲惨な悲劇、3・10東京大空襲にはじまる全国主要都市の空襲や、20万人の犠牲者をだした6月の沖縄戦、広島、長崎への原爆投下はそのあとのことであり、ようやく8月において日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏することになった。沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下のときは、すでに日本軍の敗北は決定的だった。この意味で、実に15年戦争はアジア戦争であった。
今国会の5月20日の党首討論で、志位和夫共産党委員長にポツダム宣言について問われて、安倍首相が「(宣言を)つまびらかに読んでいない。論評を差し控えたい」と答えたことは、彼が極めて軽薄な歴史認識しか持っていないことを自ら暴露したものだ。日本がこれを受諾して、敗戦後の日本の出発点となったポツダム宣言について、安倍晋三首相は何も知らないで「戦後レジームからの脱却」などという空疎な議論をしていたことになる。
この15年戦争に関する正確な歴史認識こそが求められている。アジアに対する「侵略」「植民地支配」の反省と「お詫び」なくして、首相の「戦後70年談話」はありえない。必要なことは、そのことによって、日本がふたたびアジアに覇を唱えようとする動きの芽を摘むことだ。安倍首相とそれを支持する基盤である極右ナショナリストの「日本会議」などの動きをつぶすことだ。
本誌に記事が掲載されているが、5月3日、横浜市の臨港パークで開催された「平和といのちと人権を!5・3憲法集会」は3万人を超す人々の結集で勝ちとられた。集会に先立っては1000人の市民による「集会結集パレード」が行われた。
この成功は憲法の課題を掲げて行われた過去の集会では前例のない規模のものであり、昨年来の「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動」の共同行動の到達点に加え、他のさまざまな憲法的課題でたたかう諸運動を結集して行われたものだ。この集会の特徴は、東京で従来から開かれていた「5・3憲法集会実行委員会」と「平和フォーラム」の主催する二つの憲法集会が合流しただけでなく、安倍政権の憲法破壊に反対してより広範な団体が結集して実現したことだ。
その後、この「5・3」1日共闘の実行委員会は、全体として「総がかり行動実行委員会」に合流して、共に行動することになった。ここに、安倍政権がこの5月からの国会審議で突破しようとしている戦争法案に反対する画期的な共同行動の枠組みが成立した。歴史的なたたかいにたいする、歴史的な共同行動の枠組みが成立した。私たちはこの総がかり行動実行委員会を足場にして、本気で、全国各地の街中から戦争法案廃案の声を巻き起こし、国会へと押し出さなくてはならない。
政治を動かす根源的な力は、民衆の中にこそある。この力が世論となり、自公が多数派の国会を、世論の多数派で包囲する。沖縄の人々が辺野古新基地反対の運動の中で、身をもってしめしているように、非暴力であるが、徹底した抵抗闘争を組織する。そのことによって、戦争法案を追いつめ、安倍政権を追いつめなくてはならない。
5月17日、沖縄県那覇市では3万5千人が結集した辺野古新基地建設反対の県民集会が開かれ、安倍政権に対して沖縄県民の民意を示した。同日、大阪市では安倍政権との改憲の合作を企てる橋下徹市長の「大阪都構想」が住民投票の結果、否決された。
これらは安倍政権の前途に立ちふさがった重大な勝利だ。私たちはこの成果を引き継いで、この5月から8月にかけて、戦争法案の成立を阻止するための運動を総力で作り上げなくてはならない。安倍政権が唱える「武力による平和」ではなく、民衆が望む「武力で平和はつくれない」、「武力のない平和」を実現するためにたたかう正念場がきた。
すでに5月21日(木)には総がかり行動実行委員会が主催した木曜連続行動の第1回目、「とめよう!戦争法案、国会前木曜連続行動」が行われ、850名の人びとが結集した。
目下、たたかいは連日のようにつづいている。
(事務局 高田健)
池上 仁(神奈川県・会員)
2001年から毎年開催されてきた5.3憲法集会。日比谷公会堂から溢れたたくさんの参加者が屋外でオーロラビジョンに見入る光景が恒例となった。しかし、今年は関係者の粘り強い努力が実を結び、これまで別個に運動してきた諸団体が実行委員会に結集し、共同の力で開催する大集会が実現することになった。
昨年6月16日、閣議決定を目前にした集団的自衛権反対集会で高田健さんが訴えた、「私たちには大きな夢がある、大きな共同行動を作り上げ何万人もで国会を包囲し戦争への途を食い止めること・・・」、聴きながら私は1963年ワシントン大行進でキング牧師が行った演説を思い浮かべた、“I have a dream today”。あれから1年足らず、遂にその夢の実現に向けた第一歩がしるされる。
諸般の事情により今回は集会後のデモができないため、急遽集会への結集デモが企画された。神奈川公園から高島中央公園までおよそ1時間、地元横浜だが初めて歩くみなとみらい地区の街並み。「九条YES! 戦争NO!」のコールに高層マンションのベランダから手を振る人の姿も、たくさんの行楽客の注目も集める。解散地点から会場の臨港パークへの移動も広い歩道を埋めてさながらデモ行進の延長のようだった。後で参加者1千人と聞いた。
広々とした臨港パークは横浜港に面し、ベイブリッジを望む絶好の景観、ステージの背後を色んな形の遊覧船が行き交う。組合の仲間と丘の上の木立の下に陣取る。汗ばむほどの好天で、早くから到着した参加者は木陰を求めて席を確保している。開会まで間があるので出展ブースを見て回る。JAL不当解雇撤回争議団のテントに顔見知りの方が詰めている。彼女らとは1日メーデー、2日かながわ憲法フォーラムの集会でも一緒だったから3日連続のおつきあいだ。
席に戻ると、入り口からまるで川の流れのように途切れない参加者の列。若者コンビの菱山南帆子さん(解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会)と望月聡彦さん(若者憲法集会実行委員会)の司会でプレコンサートが始まった。「ハルノトモ」の和太鼓、「岡大介」さんのカンカラ三線、「大島花子」さん(坂本九さん遺児)の歌が会場を大いに盛り上げるうちにさしもの広大な公園が殆ど人で埋まった。大島さんの歌った美空ひばりの「一本の鉛筆」が胸に沁みる。
メインステージは木内みどりさんの司会で開会。最初に集会呼びかけ人の皆さんが紹介された。錚々たるメンバーだが発言は予定されていた方のみ、勿体ないなぁ。それでも駆け付けてくださった熱意がうれしい。
「このくそ暑い中ようこそ!貧困と戦争との親和性を強く感じる。リーマンショックの際には非正規労働者に自衛隊がリクルートの手をかけた。昨年は奨学金返済滞納者に自衛隊でインターンをやらせればという議論が経済同友会であった。究極の貧困ビジネスとして戦争がある。貧困・格差と戦争への途が同時に急速に進行している。一人前の国になるために自衛官の命の犠牲が必要という人命軽視の考えはひどい!ナニカのために命が犠牲にならない社会を!」。
「今まで私が参加した中で一番たくさんの人々の集いという印象です。友人のギュンター・グラスが4月に亡くなった。20年前突然ドイツから手紙が届いた。往復書簡をやらないかという提案で私はそれに応えた。私の著作でヒロシマ・ナガサキについて触れているのに強い印象を受けた、と。穏やかな人物であったグラスが生前最後のインタビューで語っている、“各地で戦争が起きている。我々は以前と同じ間違いを犯す恐れがある、このことを自覚しないと夢遊病者のように世界大戦に突き進む可能性がある。” 次の世界大戦は核による世界が滅びてしまうような戦争、それを懸念しつつ亡くなった。私もその思いを共有する。安倍が米国議会で冗舌にしゃべった内容は露骨な嘘に満ちている。“集団的自衛権を使うようにした、そのための法改正をやる、憲法の考え方を日本は乗り越えた”と。安倍は日本で国民にそう説明したことはない。
安倍の言動は対世界だけでなく対国内でも宣伝の実をあげている、という暗い思いがある。私たちはそうではないというはっきりとした意志を持っている。それが今日の集会ビラに記されている私が今一番大切だと思う言葉だ。“私たちは、「平和」と「いのちの尊厳」を基本に、日本国憲法を守り、生かします。集団的自衛権の行使に反対し、戦争のためのすべての法制度に反対します。脱原発社会を求めます。平等な社会を希求し、貧困・格差の是正を求めます。人権をまもり差別を許さず、多文化共生の社会を求めます。”これが私たちの思想、生き方の根本にある。これを私のこういう場での最後の言葉としたい。」
これが最後、という言葉に一瞬会場がざわめく。刊行されたばかりの古井由吉との対談「文学の淵を渡る」(新潮社)で、大江さんが最近道端でストンと転倒することが3回続いた、「僕の老年についての端的な認識は、よく倒れる人間となった、しかも完璧な転び方に近いらしい、というものです(笑)」と語っている。「九条の会」発足以来、そして3.11以降は一層頻繁に、大江さんは東奔西走し私たちに感銘を与え、励まし、文字通り共に歩いてくれた。ご健康を祈らずにはいられない。
「安倍晋三とその取り巻きの政治家、それと金の亡者の財界人たちの動きに絶対に反対する! 安倍は『平和』『いのち』という大切な言葉をあんなに汚してしまった。引き摺り下ろしてやりたい。地方自治は行政権より上にある、と木村草太さんに教わった。私たちにやれることはまだまだある。安倍政権に反対、憲法を守るその思いを共有し大きな力を作っていこう。戦死者ゼロの戦後の歴史を終わらせてはならない!」。
「友人の菅原文太さんがここに同席していないのが残念だ。数か月前、沖縄県知事選の大集会で菅原さんが私たちに憲法のエッセンスというべき遺言を残してくれた。“政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと”“沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も、空気も風も、すべて国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ”と。しかし、今の政府はこれと正反対のことをやっている。彼らの改憲の内容を単に戦前復帰とするのは甘すぎる見方だ、明治憲法を作った権力者にすらあった立憲主義の考えをないがしろにしている。彼らは現憲法前文を差し替えるのだ、天賦人権思想は駄目だから、と言う。68年間私たちは憲法を守ってきた。これまでも何度も改憲の企てはあったが力を合わせてつぶしてきたし、私たちの憲法への理解も深められてきた。今日のこの熱気を是非周囲の人に伝えてほしい。」
1日のかながわ交流メーデーの後、神奈川県共闘学習会で見た辺野古の闘いDVDに菅原文太さんのスピーチが記録されていた。かつて沖縄で開催した憲法全国交流集会で韓国語の通訳をやってくれた友人の姿もあった。
「平和が大事、戦争してはいけない、これは時代を超えた真理だ。閉塞感に覆われ自信を失っている若者に改憲派は幻のヒロイズムで訴えようとしている。9条の問題以外にも原発再稼働、在日・生保受給者・アイヌ民族へのヘイトスピーチ・バッシング。教科書に手を付けメディアに政権が口を出す。現憲法を私たちは使い切っていない、生かせていない。ボロボロになるまで使おう、改憲などそのずっと先の話だ。」
「絶望と希望について考えたい。人権とは誰の足も踏ませない、誰にもそれぞれの私の足を踏ませない、ということ。安倍は次々に市民の足を踏みにじっている。日本の民主主義は瀕死状態だ。福島、辺野古・・・『粛々と』他者の痛みに一切思いをいたさない、上から目線で問答無用やっちまえ、だ。私たちは他者に寄り添い続けよう。彼らの言う“集団的自衛権”は“他衛権”であり、“積極的平和主義”は“積極的戦争主義”のことだ。故井上ひさしさん最後の戯曲は『組曲 虐殺』、小林多喜二が主人公、井上さんは彼に次のセリフを贈った、“絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには悪いやつが多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか。……いや、いないことはない。”私たちは橋渡しになろう。私たちには若者の未来に責任があります。」
「今日は戦後70年目の特別の憲法記念日。戦争を知らない世代が殆どとなる、戦争が経験から歴史に変わる大切な節目の年だ。その時期にキナ臭い動きが出てきていることに危機感を覚える。海外で武力行使をしないこと、これが9条の本旨。自民党改憲草案は“公共の福祉”を“公益及び公の秩序”と言い換えた。憲法が国民を縛るものにされる、立憲主義の否定だ。昭和8年から教科書がどんどん右寄りにされ、マスコミも政府を批判しなくなり、非国民という言葉が出てきた。空気を読むのでなく一人一人が空気を作る力を蓄えなくてはならない。国が誤らないように国会で頑張る。」
「上程されようとしている戦争立法は憲法を根本から破壊するものだ。(1)アメリカの戦争の戦闘地域まで行って軍事支援する。攻撃されれば反撃する、と安倍は言っている。武力行使そのものではないか。(2)PKO法改正が曲者だ。自衛隊を紛争現地での治安維持活動に参加させるというもの。アフガン、イラクで多くの死者が治安維持活動ででている。(3)アメリカが先制攻撃した場合でも集団的自衛権を発動するのか?という問いに安倍は否定していない。思想信条の違いを越えてこの戦争立法反対の一点で共同して闘おう!」
「今日の会場の目の前は米軍基地だ。今大事なのは憲法を変えることでなく生かすこと、憲活運動をやろう。今は憲法9条存立危機事態だ。米国議会での演説で安倍の国会軽視、国民軽視は明らか。野党が結集して全力で反対する。労働法制改悪、福島、沖縄、これらの課題解決に憲法の理念を生かす。安倍政権は憲法改正をやりやすいところから手をつけて国民投票に慣れさせ、いずれは9条、96条改正を目論んでいる。来年の参院選が正念場、改憲反対の一点で共闘して闘おう。」
「私たちは立憲主義の考え方を基本としている。日本国憲法の4大原則(国民主権、基本的人権、平和主義、国際協調)を断固守り、96条を堅持していく。集団的自衛権を9条は認めていない。自衛権はあると考えるが、集団的自衛権は専守防衛の域を超えている。7月1日の閣議決定は明らかに違憲であり無効である。従ってこれに基づく安保法制はすべて違憲であり無効だ。」
…今朝も朝6時前からキャンプ・シュワブゲート前で大勢が座り込み、海ではカヌーによる抗議を行っている。リーダーが病に倒れたが抵抗を薄めてはならないと、一昨日の行動は女性が中心になって全日やりきった。沖縄戦を生き延びた85歳の方も参加した。本土では憲法施行68年だが沖縄にとって憲法はまだ43年だ。復帰してからもあたかも憲法がないかの状況に置かれている、まさに差別だ。5月24日の辺野古新基地建設反対!国会包囲行動に参加を!」
ここで司会から本集会の参加者が3万人を超えたと報告され、会場はどよめきと大きな拍手に包まれた。司会は菱山さん、望月さんに代わり、リラクゼーションの時間として参加者全員がたちあがった。元ニュースペーパーの杉浦正士さん指導の下で憲法体操をして身体をほぐした後、リレートークに移った。
4月にイラク・クルド地区に行ってきた。この1年で200万人の難民がうまれた。イスラム国の台頭はイラク戦争の失敗が原因だ。イラク戦争の検証もなしに集団的自衛権など許さない。9条に基づく人道支援や中立的立場での仲介こそ真の国際貢献だ。
弁護士2年目、この間50回を超える憲法の講師活動を行っている。若者にとって憲法は希望、私も憲法との出会いで人生が変わった。安倍の改憲策動は子供の希望を奪うもの、子供たちに希望のバトンを渡していきたい。
インド・パキスタンの核実験が行われた1998年から毎年国連を訪問し、提出した高校生1万人署名は累計117万筆にのぼる。昨年は国連軍縮会議で民間人として初めて発言できた。“微力だけど無力じゃない”をスローガンとして運動を継続していく。
特定秘密保護法反対の活動を4年前から行っている。この法律は戦争をするためのもの。今、メディアは政権の攻撃にさらされている、“戦争のためにペンを、カメラをとらない、輪転機を回さない”を組合の合言葉として闘っていく。
歴史修正主義の育鵬社や自由社の教科書が学校に持ち込まれようとしている、教育委員会制度の改悪がこれを後押しする。政治家は歴史教育に介入してはならない、という国際常識が日本では通用しない。
慰安婦の方々は今も困難な状況に置かれ、歴史を捻じ曲げる声が上がるたびに記憶を呼び起こされつらい思いをしている。戦争について深く反省することを通じてアジアの人々との間の信頼醸成を図ることこそがこの上ない安全保障政策だ。
日本の司法はまだ捨てたものではない。福井地裁の名判決を得、先日は高浜原発を止める仮処分の決定がされた。闘いで司法判断を守らせる。自公政権をぶっ潰す勢いを作ろう。
戦争・原発・貧困・差別は同じ根っ子の問題、これを繋げた意義深い集会だ。除染・帰還・復興の名の下に放射能安全キャンペーンと相俟って原発事故の風化が促されている。原発事故でいまだ誰一人刑事責任を問われていない。福島は一種の戦時と化している。戦争も差別も貧困もない世界をめざし、私たちはつながろう、互いの声に耳を傾けあって。
日経世論調査で景気回復を実感していないが78%、実感しているが16%だ。4人世帯の生活保護費が10%削減され、なお引き下げられようとしている。人々の命と安全を守る義務を安倍は放棄している。
つい最近17歳妊娠8か月の女性からSOSのメールがあり、福祉事務所に掛け合って無事出産することができた。所得再分配強化のため公平な税制を求める運動を開始する。
介護報酬の見直しで介護の質が落とされている。現場は大変だが何とか介護の質を維持していきたいと頑張っている。
高田健さんから実行委員会からの行動提起が行われる…いったい戦後とはいつまでなのか?このままでは戦前になってしまう。戦後80年、90年、100年にするのが私たちの責任。安倍のたくらみを皆さんと力を合わせて全力で阻止したい。“戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会”は行動日程を組んでいる。とりわけ6月14日、6月24日の“戦争法案反対全国大集会”には全国から総結集し国会を包囲しよう!
最後に参加者みんなでコールし、「9条YES!」「戦争NO!」の声を響かせた。
シャンソン歌手の「クミコ」さんの歌、「こぐれみわぞう」(ロックチンドン)の演奏が帰路につく参加者を送る。終わるまで数千人がステージ前で踊り、聴き入っていた。
毛利孝雄さん(沖縄大学地域研究所特別研究員)
(編集部註)4月18日の講座で毛利孝雄さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本紙編集部にあります。
こんばんは。毛利と言います。名前を聞いてわかるとおり沖縄出身ではありません。2011年3月から、ちょうど3.11の少し後になりますけれども、退職して2年半沖縄で生活させてもらいました。ちょうどそのときオスプレイの配備に関わる、いまに繋がる民衆運動の高まりを自分自身経験することができました。学生で一緒にやった人たちが今日はきていて、本当は沖縄の方が報告されることが一番いいのかもしれません。けれども、ヤマトから沖縄に行った人間がどういうことを感じて帰ってきたのかということをこういう場で伝えられることができれば、そういうことも大事なことかなと思います。沖縄大学とつながりをつくりたいために一応研究員として残してもらっていますけれども、とくに研究員ということではなくて本当にみなさんと同じ立場、市民として憲法を含めて活動を一緒にやっていこうという立場からの報告と考えて頂ければと思います。そういうことがあって沖縄の民衆運動、この数年間の経験の中から私たちが学ぶとすればどういうことがあるのか、とくに本土の運動にとって必要なことは何なのかということを問題意識の中心にしてお話しできればと思っています。
私が撮ってきた映像を交えながら報告をさせて頂いて、最後に琉球朝日放送で放映された「裂かれる海」という作品を見て頂きたいと思います。30分番組でしたが、「標的の村」を撮った三上智恵さんの後輩たちがつくった作品ですけれども、本土ではテレビ朝日系で去年12月23日に放送はされているんです。夜中の3時から4時くらい、まず普通の人は見ていない時間帯でした。
まず沖縄問題とは何かという入り口のような部分になりますけれども、日米関係から見た沖縄問題という場合には年代区分としてはいくつかの区分があります。ある程度沖縄をご存じの方は知っておられると思いますが、1609年は薩摩による琉球への侵略ですね。1879年が琉球処分、廃琉置県とも言いますけれども、沖縄県に明治政府が組み込んだ年になります。1945年は沖縄戦です。1952年、サンフランシスコ条約によって本土は主権を回復したということになりますが、沖縄は米軍支配のもとに置かれることになりました。1972年が沖縄の施政権返還。この5つの指標が世がわりと言われますけれど、日米関係の中での沖縄問題を考える上ではどうしても避けられないポイントになります。
次の部分はレジメを読んでみます。「沖縄問題-アジア太平洋戦争の末期、天皇と本土を防衛するために沖縄を捨て石にしたこと、敗戦処理にあたって、本土の主権確保と天皇制存続のために、沖縄の施政権を放棄し米軍への基地提供を行ったこと、それが今日まで及んで、沖縄の政治的経済的構造を形づくっていること」。
戦後の沖縄ということを前提にするとほぼこう言うことが沖縄問題のアウトラインとして確認できるのではないかと思います。その前提で話を進めていきたいと思います。
「住んでみた沖縄」と言うことですが、少し脱線します。この写真は一昨年の4.28、本土では安倍首相が「天皇陛下万歳」をやったときです。宜野湾での県民集会ですが、開門と同時に会場が一杯になって中に入れない人がいた。ウチナータイムというとみんな遅れてくるんですが、この日はすごかったですね。沖縄は主催者がめちゃくちゃ多い集会が多くて、この壇上にあがっている人はみんな主催者なんですね。
脱線ついでですが、領土問題ということで、尖閣問題等々いわれていますが、1879年の琉球処分を行って沖縄を日本の国境線として組み入れることについて、当時の明治政府も中国との間で大変な軋轢がおきることは知っていたわけです。当時の清のほうは、日本の国境線を与那国と台湾の間に引くことについては了解できないということになって、分島改約案というのは清の側が提案したわけです。宮古八重山を清、沖縄を独立させて沖縄本島以北を日本のものにする。その揉めたときに、アメリカのグラント大統領だったと思いますが、一応仲介します。日本と清で依頼して、最終的には宮古八重山については清の領土とするということで基本的にはほぼ合意して、あと調印するということになったんです。しかし日清戦争で清が負けるということになって、いまの国境線が画定した。ということで、固有の領土とかいろいろなことを言いますけれども、そういうことをいうんだったらこういうことも書けよ、というのが沖縄からの話だと思います。捨て石にする云々というのは沖縄戦から始まったことではなくて、このときは中国本土における利権を確保するために、貿易上の特権を確保するために宮古八重山を売り渡した、そういう扱いをしたということです。
この写真は与那国です。いま自衛隊の基地造成が始まっているところです。与那国は戦後すぐの数年間密貿易時代というのがあって、毎晩酒盛りでどんちゃん騒ぎがあったという話もあるんですが、地図を見てわかるとおり台湾はすぐ目の前に見えます。沖縄本島に米軍が駐留していますけれども、すぐに与那国まで支配権がきちんと確立されなかったので、ほんの数年間、台湾との密貿易が盛んに行われたりしました。密貿易というと法的にどうのこうのという話になるかもしれませんが、地理的な問題で行けばごく普通なことであって、国境が低くさえあれば近くの地域と交流をして経済活動も盛んになるというのは密貿易時代を通じても証明されるのではないかと思っていて、国境を高くするよりも低くするということの方が大事だということを言いたいわけです。
ここで2つだけ報告したいと思います。沖縄の新聞を目にして、向こうに行ってびっくりしたのはまずはこれです。死亡告知です。葬式をいつやるかということなんですが、枠が異常に大きいんですよね。親族だとか自治会、友人関係だとか、基本的にはみんな名前を出すんですね。多い人は50名くらい名前を出しているんです。ひとつの沖縄社会の死生観を象徴しているものですが、これを見ると沖縄社会の成り立ちがよくわかるんです。どういうことかというと、必ずこの中に在ブラジルとか在ハワイ、在ボリビアというものが出てきます。広島に次いで沖縄は移民県です。1929年の世界恐慌の時に砂糖の価格が暴落して、沖縄ではソテツ地獄と言われるほどの大変な状態の時があって、そのときにも戦前は移民が活発に行われました。戦後はボリビアとかがそうですが、基地に取られて生活する場所がなくなった人たちが多数出ました。その人たちを南米に組織的に移民させるということで、戦後の移民問題は基地問題とリンクして進められたということがあります。
5年に一度、世界に散らばっているウチナンチューの人たちが那覇に集まって集会をやります。ちょうど2011年が5年目に当たっていて、南米の最貧国と言われているボリビアの人たちも来ていて、民族衣装を着ている人たちもいますね。国際通りをパレードしているんですが、前の方で踊っている若い女の子が「ヘイ、おじぃ」とか言いながら向こうから近づいてくるんですね。周りを見渡してもどうもおじぃらしい年代は僕しかいなくて、ハイタッチできたのでうれしかったんですが、ブラジルはものすごい数の人を派遣しています。翁長さんの県知事選の時も集会をしたセルラースタジアムで、ここが満員になるくらい集まって、1万人を超える人がカチャーシーをやるととんでもないことになります。
もうひとつ、沖縄の新聞で特徴的なのは軍用地の広告です。これも本土ではほとんどないと思います。もちろん軍用地を生活のために使う、あるいは生産のために使うというわけではありません。資産運用というか、株と同じような扱いになるわけです。細かくはわからないところはありますが、戦後復帰したときに軍用地の地代は7倍になったんです。つまり安保条約で、日本政府はアメリカに安定的に基地を提供する義務を負うわけですけれども、沖縄の場合には民間の土地を接収して基地をつくった関係で、個人地主が多いわけです。そうすると、その人たちに契約を拒否されると基地の存続が難しくなるということで、復帰の時は7倍になったと言われています。いままで軍用地料は下がったことが一度もありません。いま一番高いのは、どこだと思われますか。嘉手納です。つまり当面帰ってこないだろうということがあって、一番高いのは嘉手納の中の軍用地となっているようです。
レジメに65歳以上高齢者の生活保護受給割合と年収1千万円以上の納税者割合があります。前半はだいたい予想がつくかと思いますが、1972年まで米軍統治下で年金制度がきちんと適用されなかったという関係があって、生活保護の受給者の割合は全国でトップになっています。問題は後ろです。年収1千万円以上の納税者割合。これが高いか低いかなのですが、通常だと沖縄県というのは貧乏だと思われていますけれども、この納税者割合は6位か7位で全国では高い方になっています。これはなぜかというとさきほどの軍用地の関係です。ほとんど軍用地主たちがこの1千万円以上の納税者に入っているということで、実体の経済と関係ないところでこうなっているわけです。
これは辺野古です。沖縄タイムスの1月1日の紙面を資料に入れてあります。これから進んで行くであろうことの説明がきちんとしてあるのでこれ以上のことを言うつもりはないんです。けれども、僕も軍事の専門家ではないので正確ではないかもしれませんが、辺野古の新基地とは何かということでいうと、辺野古のテントに行くと「普天間+嘉手納+ホワイトビーチ」と説明してくれます。これはわかりやすいと思います。
嘉手納という意味は、弾薬庫が辺野古にもありますので、そういう機能を持つ。ホワイトビーチは軍港になります。この前の国会論戦ではボノム・リシャールが寄港するんじゃないか、そういう機能をつくるんじゃないかと言われました。ちょうど来ているときに写真を撮ったんですが、これがボノム・リシャールです。これが接岸できる。接岸できるだけじゃなくて、実際にいつも来て辺野古沖で訓練しているわけです。ですからできたら使わないわけがない。普通はそう考えるのが当然です。自衛隊の桟橋とは名目上は分かれていますけれども、事実上はホワイトビーチでは日米の一体的な運用が図られています。北部の基地を集約をすることで辺野古、高江、伊江島をつないで極めて高度化した最新鋭の基地になるということが辺野古の位置づけになると思います。もうひとつ日米同盟全体から考えると、岩国、佐世保、そして辺野古、これをつないだ日米軍事同盟を支える最新鋭基地が辺野古になるということだと思います。その点で考えるとこれから問題になる戦争法制を支えていく現在の核心的な現場が辺野古になると考えていいのではないかと思っています。
こういう言い方がいいかどうかわかりませんけれども、0.6%の面積に74%の基地ということは常に言われるわけですけれども、それは土地の広さだけを指して言っているわけです。でも辺野古の基地は、全体から言うと基地機能が集約されてもちろん使い勝手もよくなるし高度化した最新鋭の基地になるわけで、土地の広さだけを言うと少し違って見えてしまう部分、誤解を受ける部分があるのかなという気がしています。安倍首相は、昨日もそうですけれども、嘉手納以南を全部返すので負担軽減になるとか言うわけですよね。辺野古も普天間に比べれば何分の一の埋め立てにしかならないとか。それは土地の広さだけを言っているんですけれども、実際に機能はまったく違うものになるので、その辺のところは象徴的な数字としては74%というのはあると思いますがそこだけを見ていくのはどうかなという気はしています。
これはいま沖縄に24機いるオスプレイの写真です。この撮影ポイントはなかなか行けないところで、今度案機会があれば案内します。和歌山の防災訓練に参加したオスプレイです。飛び立ったあとの状態の写真です。ヘリと飛行機の両方の役割を果たすためにローターと言われるものが短いわけです。その分、下方に噴射する気流をばーっと出して飛ぶものですから、それが大変な高熱の排気を伴うということで、飛び立ったあとはもう焼け焦げてしまいます。これで高江を想像してみて欲しいわけです。高江のN4、ヘリパッドができて運用が始まっています。注目して欲しいのは電柱の上にオレンジのものが突いていますけれども、これはヘリの衝突防止用です。これだけの低空を飛行していくわけです。電信柱の上にこういうものが付いているというのは、高江以外で見たことはありません。高江の北部訓練場の中ですけれども50万年かけてつくられた極相林と教わりました。これ以上変化のしようがない、安定した状態がつくられているということですが、安定していればいるほどちょっとした変化で変わってしまうということです。先ほどのような高熱を出しながら低空を飛行することが、ここにどういう状態をもたらすかということは想像がつくのではないかと思います。
特にこの1年余、去年1月の名護市長選挙以降沖縄が獲得してきたもの、あるいは示してきたものがどういうものであるかということについて考えてみたいと思います。新崎盛暉さんが少し前の新聞ですが、出されたものから引用しています。これが極めて整理をされた内容になっていると思いますので、これをもとにしながら話を進めたいと思います。これも読んでみたいと思います。
「『オール沖縄』というのは、単に、政治的な保守・革新を超えて、という意味ではない。様々な多様性を持ち、内部矛盾を抱えながらも、抑止力とか、負担軽減とか、軍事的な地政学上の優位性とか、沖縄振興策という言葉の持つ欺瞞性を実感し始めた人たちが、社会の大多数を占めてきたということである。それは、沖縄戦を起点とする沖縄現代史の、民衆抵抗闘争史の集積の結果である。」と新崎盛暉さんは「オール沖縄とは何か」ということで発言されています。
後段の、「沖縄戦を起点とする沖縄現代史の、民衆抵抗闘争史の集積の結果である。」という部分について、自分が経験をしてきたことを交えながら報告をさせて頂きます。沖縄保守の矜持、沖縄戦と米軍統治体験と書きましたが、これ以降の部分はもちろん沖縄に特殊な部分もあります。だけれども本土の中でその事を特殊だと考えることも誤りだろうと思います。それが沖縄の中で育ってきたということは本土の中でも共通の問題として考えられるのではないかということで話をしてみたいと思います。
翁長選挙の時の翁長さんのキーワードがいくつもあるんですが、そのなかのひとつに「保守は保守でも沖縄の保守」だと言っているわけですね。その部分についてだけ報告して一緒に考えていければと思います。さきほどの世界のウチナンチュー大会が開かれた会場に同じだけの数、1万2千人くらいが集まっています。選挙運動でこれだけの人が集まったのは初めてだと言われています。菅原文太さんの印象的な、亡くなる1ヶ月前の演説がありました。翁長さんは第一声を辺野古のテント前でやっています。仲井眞さんとの決定的な違いは、仲井眞さんは現場にはいっさい行かなかった人なんですよね。翁長さんは足繁く足を運んでいます。僕は知らなかったんですが、彼は経験した選挙すべてを魂魄の塔で、まず御願(うがん)というんですが「お願いします」と挨拶をしてそれから選挙運動を始めています。それで第一声は辺野古だったんです。
魂魄の塔とは何か。沖縄戦が終わったあとに沖縄の人たちは、残った人たち全員が収容所の中に入れられました。半年から遅い人は1年以上経ってから故郷に帰るわけですが、特に南部に帰ってきた人は生産のために畑を耕すとか家を建てようとしたとしても、人骨の海の中で生活を始めることになったんですよね。その骨を集めて供養するところから、沖縄の人たちの戦後が始まったといっていいと思います。それを最初に集めて供養したのが魂魄の塔だということです。それが翁長さんにとっても自分自身の生活のスタートだった。
県知事選のあとすぐの衆院選で、1区赤峰政賢さん、2区の照屋寛徳さん、3区は辺野古が選挙区になりますが玉城デニーさん、4区は純粋の翁長枠はこの仲里利信さんだけだったかもしれません。無所属でした。全員が当選したわけです。仲里さんも自民党県連の顧問、県議会の議長をやられた方ですので、いわば生粋の保守と言っていいと思います。4人のなかではやっぱり仲里さんを一番心配したんですが、彼が通ったときはパソコンの前でやったと喜びました。彼のことで僕はすごく印象に残っていることがあって、一番新しい「世界」の増刊号に彼のインタビューが載っているんですが、名護市長選の時から応援しているんです。それまで名護市長と面識がなかったと言っていて、それもすごいなと思ったんですが、名護市長選が始まる前、10月くらいでしたか僕がちょうど沖縄に行っているときでした。ゲート前の抗議行動に参加していたとき、たまたま名護を通った人から仲里さんみたいな人が街頭演説していた。でも県議会議長までやった人がひとりで演説しているなんてことはないだろうから、人違いだろうと思うというのが1日目の話でした。でも次の日に行ったらあちこちから「仲里目撃情報」が出て、やっぱりあれは仲里さんだったんだということになりました。ほとんど毎日車をしたてて名護まで通って応援演説をしていた方です。77歳ですから一回引退した方ですけれども、この年代の沖縄の政界の中でいろいろと活動している人の中でこれほどの熱意を持って名護市長選挙に関わった人をわたしは知りません。
沖縄保守ということでいくと沖縄戦との関わりがひとつありますけれども、もうひとつは沖縄振興体制、いわゆる基地を認める替わりにお金をもらって、というのがいままでの保守の立場だったわけです。けれどもそこからの離脱というのがかなり鮮明になったことがこの1年余りのことだと思います。平良朝敬さんというかりゆしグループCEOや、長濱徳松オキハム会長もそうです。長濱さんが沖縄タイムスに出した「辺野古新基地建設絶対反対」意見広告、85歳と書いてありましたけれども、僕がこれを読んでどこに感動したかというと「である」調と「ですます」調が混在しているんですよね。つまり自分が書いた原稿を絶対変えさせなかったということだと思うんです。もちろん書いてある中味も大事ですけれど、すごく気持ちが伝わってくる文章です。これもやっぱり沖縄の企業人の中で、基地から抜け出ることが沖縄の自立に必要なんだということが共通の認識になってきた部分としてあると思います。
公明党の沖縄県連はまだ県内移設に反対しています。県知事選も自主投票、実質的には翁長さんを支持する方向に流れたわけです。県連幹事長の金城勉さんのインタビューも資料につけましたが、僕と同じ世代ですが、やっぱり沖縄戦と占領期体験というのは本土の中ではなかなか理解しづらい部分がある。そういうものが政治の分野でも沖縄の中では切り離せなくあるんだということをぜひ考えてみる必要があると思っています。
沖縄戦では住民の4人に1人が亡くなったと言われています。その事については多くの方がご存じだと思いますけれども、4人に1人が死ぬということはどういうことなのかということですね。その事をある意味で思い知らされたというのが、僕の2年半の経験だったと言っていいかもしれません。この点はぜひ本土の戦後70年という中でもぜひ考えて欲しいことだと思います。
これは「平和の礎」です。沖縄戦で犠牲になったすべての人を祈念していますが、碑に刻まれた名前の中に必ずこういう表記があります。ここには「宮城カメの長男」とあります。もちろん生まれてすぐ亡くなられたということかもしれません。正確にはわかりませんけれども4人に1人という度合いは県全体ですから、特に南部では一家全員が亡くなられていたり集落全体が亡くなったということがあると思うんですね。そういう中で名前を記憶されないままに亡くなっていく人たちがいるということです。その事が4人に1人が亡くなることのひとつのあらわれだと思います。もちろん原爆も一気に10万人、20万人という人が蒸発してしまうわけですから、記憶もされないまま亡くなることもありますけれども、沖縄戦の場合にも半年間の戦闘の中でそういうことが起きたわけです。
渡嘉敷島の写真です。沖縄の学生はみんな貧乏ですから、となりの島に卒業旅行に行こうという話になって数人の学友と渡嘉敷に遊びに行きました。そうしたら役場の前でバザーをやっていて、村の少年から山羊と散歩しませんかと言われました。僕がどうしても保護者というか引率の先生に見られるわけで、財布を出すのは私になる可能性があるので「300円か」と思って躊躇していたら、「だっこもできます」というわけです。そういわれて散歩して1時間くらい島の中を散歩したんです。そのときに小嶺正雄さんという方に会いました。たまたまトマトを作っている畑で作業していて、私たちを見ればどうしたって島の人間ではないとわかるわけです。どこから来たという話になって、その立ち話の中で「集団自決」の話になるわけです。
昔この村ではこういうことがあったよという話になって、10分、15分くらいで引き上げてきたんです。私たちは青年の家というところに泊まっていまして、宿に帰ってから明日帰らなければいけないけれどもさてどうするか、このまま帰ることができるのかということになった。次の日もう一回きちんと話を聞きに行って、それから帰ることにしようとなりました。ただアポも全然取っていないわけですから、朝駆けでまだ寝ているところを襲った感じで会いに行きました。
僕は卒論を書くために沖縄戦の体験者の話を聞くことを自分に課していました。沖縄戦を象徴する人というのは有名な方も一杯いるわけですよね、ひめゆりなども含めて。最初はそういう人をターゲットにして話を聞こうとしたんですが、この年代の人は全員そういう体験を自らの中に持ちながら生きてきた人たちです。ですからたまたまあった人から5回、6回会いに行きました。そういう意味で小峰さんとの出会いは象徴的だったと思っています。まだ彼が掘った壕は残っています。これは特攻艇を隠していた穴で朝鮮から連れてこられた労務者の人と島の人たちがみんなでつくったわけです。つまり軍事秘密を知ってしまったために絶対に投降させなかったということです。
金城重明さんという方は渡嘉敷の方ですけれども、「軍民共生共死」が沖縄の戦いであったと通常はいわれるけれども渡嘉敷では「軍生民死」だった、軍は組織的に生き延びて民は死んでいった。それが渡嘉敷の沖縄戦だったと言っています。これは何回目かの聞き取りで、このときには沖縄タイムスの記者もきていましたが、ここにいる小柄な女性は宮里洋子さんという方です。宮里洋子さんとはゲート前の抗議活動で知り合って、ちょうど住んでいるところがほぼ一緒だったので私が車に乗せていく役割をしていたんです。たまたま帰りがけに、「毛利さん、小嶺さんと話しているみたいだけど連れて行ってくれない?」ということになったわけです。どういうつながりがあるのかわからないので聞いてみたら、宮里さんは座間味の「集団自決」の生き残りだということなんですね。座間味島は渡嘉敷島のとなりにあります。もう年だし、死ぬ前に小嶺さんに会っておきたいので連れて行ってくれということで実現したのがこのときです。
小嶺さんから聞き取ったときに一番印象的だったのは、もちろん話の中身もありますけれども、「集団自決」という言葉はひとことも使わなかったんです。「大変なことがあったよ」とかです。沖縄の「集団自決」については、用語を含めて「集団自決」というのかそれとも「強制集団死」と言うのか、後発の研究からすると「強制集団死」の方が正解ではないかということで、沖縄の研究者の中で喧々諤々の議論があります。でも小峰さんは使わなかったんです、どっちの言葉も。研究者の云々ということはそれはそれでよくわかるんです。けれども実際の戦争体験がどういうものだったのかは、小嶺さんの言葉の方がよっぽど真実性があると思って、彼がその言葉を使わなかったということの意味の重さをあらためて感じさせられています。
宮里洋子さんは、これも聞いてびっくりして一番印象に残っているのは、いままで親しい友人との間でも一泊の旅行にいったことがないというんですね。夜にいろいろ思い出すと、ときどき奇声を発したり飛び起きたりすることがあるので誤解をされるということがあって、泊まりがけの旅行には行かないようにしているということなんです。いかに自分が浅く理解していたかということを突きつけられました。いまは旦那さんが入院している関係で、宮里さんは最近余り参加していませんけれども、いまでも活動しています。
「『証言』を風化させるもの」ということについてひとことだけ触れておきたいと思います。蟻塚亮二さんという沖縄戦のPTSDを研究されたお医者さんがいます。彼はこういうことを言っています。沖縄戦の体験者が自らを語り始めたのは沖縄の中では過去2回あって、1982年の高校教科書で日本軍による虐殺の記述を削除したとき、2回目は2008年の集団自決の裁判を理由にして記述を削除するというときです。このときに沖縄の人たちの怒りがあって、2回とも県民大会をやっています。もちろん体験者は聞き手無しに語ることはできません。やっぱり聞いてくれる人がいるから自分をさらけ出してでも話すわけです。その聞き手と言われる人たちは、戦争を知らない戦後世代がほとんどです。世論が体験者の人たちの味方をしてくれると思ったときには安心して語れるけれども、世論が保守化して戦争体験を余り考えなくなる状態になったときは、口を閉ざさざるを得なくなるのではいかということを実証的に研究をされた方です。
小嶺さんは、2008年の教科書問題からどこにでも出ていってしゃべるようにしていると言っています。「集団自決」を削られるということは自分の人生を否定されることだと言って、いろいろなところでしゃべるしかないと言われています。そう考えると、オスプレイ闘争から辺野古に繋がる今の時代は、ほとんど最後の機会になるかもしれません。もちろん辺野古の基地をつくらせないというたたかいではあるんですが、歴史継承運動という広い意味合いを持ったものとしてあることを痛切に感じます。
宮里洋子さんは、自分は言われて話していたかもしれないけれども積極的に話してきたことはなかったと言っていて、本当に安心して自分をさらけ出しているようになったのはオスプレイ闘争の盛り上がりの中でということだと思います。3月28日に渡嘉敷島の慰霊祭があり、宮里さんが慰霊祭に初めて参加したという沖縄タイムスの記事が出ました。戦後70年間、自らが経験した島の慰霊祭に参加できないというその重さをぜひ考えたいと思っています。
僕は沖縄の運動を鮮やかに思っている点として3つのことを思うんです。ひとつは「一人でもやれることをやる」という自立した精神みたいなものがやっぱり本土の運動とは違うと言うことを考えます。だいたい僕らの世代だと、所属するところで議論をして方針を決めて呼びかけて結集するというパターンです。もちろんこうしたパターンを否定はしないけれども、沖縄のオスプレイ闘争の時は、とにかくいろいろなところでいろいろなことをやる人がどんどん出てきてしまうわけです。それが最終的には繋がって、現場のゲートを封鎖するたたかいに結びついていくわけです。
小橋川共行さんという人が、最終的には上原成信さんと2人で155歳と言うことで「ハンガーストライキ155」というのをやったわけです。彼は始めるときにはテントもないわ、この格好で始めちゃうわけです。3日目くらいに行ってみようということで行ったんですが、このときに知花昌一さんがきていて、「毛利君、ウチナンチューというのはどんどんやり始めちゃうから困ったもんだ」と言いながら、テントとか仮設のトイレ、医者の手配、畳を自分の家から持ってきたりしています。組織的じゃないから、もっと全体でやった方がいいんじゃないかと何となく言いがちですけれども、沖縄ではこうやって出てきたものについては徹底的に支える。そういうふうにして何とかなっちゃう。それが沖縄らしいところで、鮮やかな印象として残っています。
これが象徴ですけれど、いまもゲート前の抗議行動は続いています。これもどこかで決めたことではなくて、いろいろやり始めた人たちがいて、だからこそずっと続いているということだと思います。バスの運転手さんなんかは前を通るとき、クラクションを鳴らしてくれたり手を振ってくれたりします。服務規程違反じゃないかと思ったりするんです。
普天間野嵩ゲートの抗議行動の人たちと1年後に懇親会をやりました。このとき初めて知ったことですが、沖縄の人たちはみんな知りあっていてここで活動していて、たまたま沖大の学生の僕はその中に入れてもらったという感じかなと思ったら、みんなゲート前で知り合った人たちがここにいるわけです。そういうことを考えると、現場をつくり出すことがいかに広がりを持ったものなのかということを考えさせられました。
1年後です。初めてやったときの呼びかけ文が、「私たちはゲート前で知り合いお互いをほめ合いましたが自慢し合ったことはありません」と書いてあって、これもいい言葉だなと思ったんです。沖縄の人たちにしても、ゲートの現場があって、そこに集まって自分達のそれぞれの思いを紡ぎだしていったということだと思います。
そう考えるといま沖縄の中には3つの現場があります。辺野古、高江、普天間です。もちろんこれだけの大きな問題ですから、いろいろな労働運動などが健全であった頃であれば全国オルグを派遣して全国から座り込みをするとか、国会を万単位の人で包囲するとかの運動があるかもしれません。そういうかたちではないけれども、辺野古、高江、普天間も、それぞれ1人2人と全国から来た人を受け入れる。その人たちがまた帰って行ってそこでいろいろな活動を続けていく。そういうことの持っている重さみたいなことはすごく感じています。わたし自身も何か所かでこういう話をさせていただいていますけれども、必ずそういう場では高江にいってきた、辺野古で交流してきたという人たちがいて、そういう集会をやっているわけです。今日も全国でいえば恐らく10ヶ所以上のところで沖縄関連の集会が行われていると思います。それは間違いなく「辺野古18年、高江8年、普天間2年余」、それがふたつめの特徴である「現場をつくりだす」ということだろうと思っています。
これは若い人たちの「ゆんたくバス」というピクニックツアーのようなものですが、大学生など若い人たちが中心になって企画しています。それから沖縄というのは面白いところで、この映像は辺野古の海側のテントですけれども、幼稚園の年長組だと思うんですが、話しているのはなんと安次富浩さんです。この子どもたちにわかる言葉で話しているのかどうかということが一番の心配ですけれども、こういう子どもたちが普天間基地のゲート前でも、平気で前に来てオスプレイ反対とか言うんですね。大丈夫なんですかって聞くと、ちゃんと園長とか保護者の会とも話あっているので大丈夫ですよということです。衝突がすごく取り上げられますが、有銘政夫さんという方は流歌を読んで、それを持っていつも座り込みにきています。もう100枚くらいまわりに貼られていると思います。このときに持っていたのは「安倍というやつ 口を開けば積極的平和と言ってる 笑わせるじゃないか」という意味になります。本土の側で抵抗闘争とか現場といわれる中で、いろいろな色合いを持ち寄りながらやっていることは、なかなかすごいとことだと思います。高江はフェンスがないので自由に米兵が歩いています。
3番目は「絶対にあきらめない」ということです。昔は「絶対に」とか「断固として」というのは一番嫌いな言葉だったんです。思ってもないのにアジテーションの言葉として強く言えば、それで闘っているような意思表示ができるように勘違いする部分があるので、そう思ってきました。しかし沖縄に2年半いると、「絶対にあきらめない」ということは確かにあることが実感でした。いまの辺野古にしても、現場でたたかう人たちの気持ちはたぶん絶対あきらめないということだろうと思います。
山城博治さんが引っ張られていったときのことですが、山城さんを引っ張ったガードの人たちは基本的には沖縄の人たちがほとんどだと思います。その点では本当に胸の痛い話ですが、彼らはマスクをして顔を見えないようにして警備に当たっています。米兵は全部素顔で出てきています。海上保安庁の中城の所員の人たちの-これも沖縄の人たちですけれども-バイクのナンバープレートです。見て欲しいのは、止まっているバイクのナンバーが特定されないように隠しています。沖縄の人たちに分断を引き起こす日本政府の罪深さをあらためて考えさせられます。
沖縄の民衆運動を学ぶということで少し歴史的に考えると、いまの沖縄の環境問題の意識を形作っていくのに反CTS運動があります。石油備蓄基地の埋め立てが施政権返還後に行われた時期があって、これに対するたたかいの中でいろいろな環境団体が繋がっていきました。実はここの写真の何倍もの面積を埋め立てる計画があったんですけれども反対運動があって、つくられはしましたけれども極めて小さいものになりました。当初は原発の立地も予定されていたので、それが計画通りに行けば原発が沖縄にもできた可能性があります。当時はこういう石油備蓄基地は平和産業だからということで、屋良朝苗(当時公選主席)は反対しませんでした。
この経過を考えると、沖縄のいまに繋がる環境を巡る意識を作り上げていったのは反CTS運動、それぞれの地域で闘っている人たちなんですけれども、少数派の人たちが連携をする、少数者運動が連携をする中で時代の精神を作り上げていったということをきわめて鮮明に思っています。いまの現場を支えている人たちの中にCTS運動から育った人たちが大変多くいるということは、私は現地で初めて知りました。現状にあらがう運動というのは、必ず少数者からしか始まらないですよね。でもその少数者の人たちが繋がることで時代の精神を作り上げていくことができるということは、沖縄の運動から学べることだと思います。
「“本土”対 沖縄」なのか、「中央政府 対 地方」なのか、と書きました。こういう提起は本土でしか言えません。沖縄でこれをいったら「ふざけるな。まず自分達がおろしている足をどけてから言え」と言われそうです。前琉球新報社長の高嶺朝一さんが、『けーし風(かじ)』(2014.12)のなかで興味深い指摘をしています。
要約すると「…沖縄は歩んだ歴史が違うため『本土と沖縄の温度差』という手垢のついた表現をしがちだが、報道でいえば読売と産経ぐらいで、地方紙はだいたい沖縄タイムスや琉球新報と同じ論調。福島・宮城・岩手の新聞は原発や地震・津波被害のことでは『温度差』を感じている。実際には中央政府対地方の問題でもある…。沖縄問題の視点を『本土対沖縄』から『中央対地方』へ移すことで見えてくるものがある。地方は、大都市圏を除けば少数者といっていい。沖縄辺野古問題、辺境地域への原発立地と再稼働問題、震災からの東北復興のあり方などは、いずれも地域の『自己決定権』を求める課題として共有され得るものだろう。これらの課題や地域の少数者運動がつながることで、アベノミクスとは異なる社会のありようも見えてくるはずだ。」ということで、中央のマスコミの一部が政府と一体となって強力なだけであって地方の新聞はおしなべて沖縄タイムスや琉球新報と同じ論陣を張っているじゃないか、そう考えると実際の対立軸は「中央政府対地方」なのではないかと言っていて、そういうふうに見方を変えればずいぶん違ったものが見えてくるという感じがしています。
翁長選挙のキーワードの中のひとつに自己決定権ということがありました。これは何も沖縄だけに限ることではなくて、原発の立地もそうですし3.11からの復興もそうだと思うんです。地方ごとの地域主権というか自己決定権が連携することで、アベノミクスとは異なった地域の再生とか社会の再生、あるいは民主主義の再生や憲法の再生ということもその中にあるかもしれません。そういうことが展望できるのではないかと考えたりしています。
最後に書いた「無数にある支援・連帯の形」ということについては、自分たちがいろいろに考えてやればいいと思うんです。最近、辺野古基金が設立されて1週間で4620万円集まったと言われています。昔、瀬長亀次郎さんと言う那覇市長が実現したとき、占領軍は沖縄人民党員だということを理由にして琉球銀行の口座をストップした。そのとき沖縄の人たちは、那覇市に対する自主的な納税運動をやったわけです。77%だった納税率が、最終的には97%の納税になったと言われています。沖縄がいじめ抜かれて資金が必要な分は本土の民衆の力で補填するということを
私たちはやれることの一つとして考えていいのではないかと思います。