私と憲法167号(2015年3月25日号)


平和運動の真価が問われる戦後史的な局面に際して 通常国会への戦争法制上程に反対して全力でたたかおう

70年で戦後を終わらせてはならない

2月12日、安倍首相は第189通常国会の施政方針演説で、次のように述べた。

「明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。『日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない』。明治の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、『戦後以来の大改革』に、力強く踏み出そうではありませんか」。

「戦後以来の(?)大改革」をブチ挙げた安倍首相は、前回の総選挙における自民党のスローガン「日本を取り戻す」「この道しかない」をあらためて掲げた。ここには明治近代の歴史の評価と関連して、極めて危うい安倍晋三の思想、歴史認識が垣間見える。安倍がその第1次政権以来語ってきた「戦後レジームからの脱却」を、ここでは「戦後以来の大改革」と言い換えて、日本国憲法体制の下での「戦後」を否定し、清算して、岡倉天心や吉田松陰の片言隻語までちりばめて、日本の明治国家がたどった、欧米列強に伍して「普通の国」になる道を単純に美化し、これからの日本を欧米列強と同様に、それと伍してグローバルな範囲で「積極的平和主義」を掲げて「戦争をする国」にするという思想に裏打ちされている。

現行憲法体制の下で、日本の軍隊が海外で戦争によって人を殺し、また殺されることがなかった「戦後70年」の歴史は、清算されるべきなのか、肯定されるべきなのか。戦後歴代内閣のなかでも極めて特異な右翼ナショナリズム思想の持ち主である安倍首相がすすめようとしている「戦争のない戦後の清算」を許すのか。安倍首相は有識者懇談会まで動員して8月に出す予定の「70年談話」を「未来志向」の「ポジティブ」な談話にする意向でいる。それは明治近代の一面的礼賛の史観に裏打ちされたものだ。しかし、戦後70年を、1945年を支点にしてコンパスを180度回転させた明治以降の70数年間の日本近代は、実に戦争の歴史だった。日本の近現代史は、大まかに言えば「戦争する国の70年」と「戦争をしない70数年」に分けることができる。「戦争する国」の70年はこの国を1945年の敗戦に導いた。1945年、それはアジア太平洋戦争で日本の軍国主義が2000万に及ぶ人々を殺戮し、国内においては3月10日の東京大空襲に始まった全土空襲、6月の沖縄戦、8月の広島、長崎への原爆投下とつづいた歴史だ。この巨大な犠牲の上に日本は「戦争をしない国」への道を歩みはじめた。施政方針演説に見られる安倍晋三首相の近現代に対する視点は、靖国神社の参拝強行にみられるような、極めてかたくなな、戦争の70年への反省を欠いた一面的な明治以降の歴史の美化であり、それが平和憲法体制に象徴される「戦後」の清算と結合したとき、「戦争をする日本」になるのは間違いないことだ。だからこそ、3月16日の参院予算委員会での自民党・三原じゅん子委員の「八紘一宇」礼賛発言まで飛び出したのだ。

果たして私たちには安倍晋三がいう「この道しかない」のか。「戦後70年」を「戦後80年、90年、100年」につなぐ「もう一つの道はある」のか。

この危険な思想の持ち主である安倍首相の下で、私たちは、あるいは日本社会は歴史的な岐路に立たされていることを確認しなければならない。

戦争法制化のための与党協議の犯罪性

2月13日から「安全保障法制整備に関する与党協議」が毎週金曜日の午前に開くというハイペースで行われ、3月20日、骨格で合意した。この与党協議が大変な勢いで過去数十年にわたり平和憲法の下で積み上げてきた「国民的合意」の諸原則を押しつぶしているに止まらず、昨年7月1日の閣議決定当時の政府側の説明すら突破して、平和憲法を破壊し、海外で武力行使=戦争する国にしようとしているのをみると、戦慄せざるをえない。

この場に政府から提出された諸法制は3月13日現在で以下の通りだ。

周辺事態法改正で新設する事態を「重要影響事態」と仮称(3/13)
集団的自衛権の行使をめぐる新事態(存立事態)の新設(3/6)
他国軍の後方支援の恒久法新設(3/6)
周辺事態の「周辺」を抜く抜本改正(2/20、27)
日本周辺以外での船舶検査(2/20、27)
PKOの武器使用基準の緩和(2/20、27)
海外での自衛隊による邦人救出(2/20、27)
グレーゾーン事態で米軍以外の艦船防護(2/13)

これらのいずれもが従来の「専守防衛」を前提とした自衛隊の活用のあり方を大きく突破するものであり、憲法第9条に照らしてあり得ないものだ。

昨年7月1日、安倍首相は安保法制に関する与党協議会の報告をうけて、集団的自衛権行使の政府解釈の変更についての閣議決定を強行した。今回、約7ヶ月ぶりに開かれた与党協議会はこの「閣議決定の内容を踏まえてその具体化を図る」べく法制化することが目的であり、計6回ほどの会議をひらいて、高村自民党副総裁が3月26日に訪米する前までに全体骨格の合意をとりつけた。このあと、法案の作成作業を経て5月中旬に閣議決定し、戦争関連法制を一括上程し、両院に特別委員会を設置する。政府は法案審議入りすれば衆院80時間以上、参院はその半分程度の審議で強行採決ができると考えている。そのためには6月24日までの通常国会を47日間延長(8月10日まで)を軸に調整を始めており、なんとしてでも今国会で成立をはかりたい意向だ。

先の閣議決定に際しての与党合意づくりにみられたように、安倍政権と与党がやっていることは、こうした憲法の死命を制するほどの重要問題であるにもかかわらず、民意を無視し、国会審議を軽視して与党の密室協議で合意形成をすすめ、その断片をメディアにリークして既成事実化をはかるという政治手法だ。各種の世論調査では、集団的自衛権行使や戦争法制策定への疑問と批判は相当に強い。4月の統一地方選挙を控え、有権者の批判を受け選挙で不利になることを避け、またも姑息な密室協議でことを進めようとしている。

この与党協議で特徴的なことは、先の総選挙の結果を後ろ盾にした安倍政権と自民党の強硬な姿勢であり、安倍政権のブレーキ役を任じてきた公明党の姿勢がグズグズの腰砕けになりつつあることだ。これがほとんど協議の名に値しないと言ってよいほど、政府・自民党ペースですすんだ。ホルムズ海峡での機雷の掃海」や「派兵恒久法」について、公明党は条件付きではあるが容認の方向に転じた。「首相の方針が揺るがないことを踏まえて」のことだという。公明党の幹部からは「安倍首相が断固やる気で来ているので、致し方ない」という愚痴がきかれる。あきれるばかりだ。公明党は昨年の「閣議決定」に際して、安倍政権の暴走に「限定容認」の歯止めをかけたと自画自賛していたし、佐藤優氏や木村草太氏など一部知識人からもそうした声が上がっていたが、最近ではこれが幻想に過ぎなかったことが明らかになりつつある。与党協議の中でまたまた公明党の「下駄の雪」が始まった。

日米安保ガイドラインの再改定の筋書きに沿って

連休中の安倍首相の訪米に先だって、4月下旬、日米の2+2による日米安保ガイドラインの再改定がある。ガイドラインは行政協定であり、国会承認すら必要のない日米間の政策合意にすぎず、本来は現行法の範囲で行われなくてはならないものだ。ところが、実際にはこの対米合意が国会での審議にもとづく国内法整備に優先してすすめられるという転倒が行われている。

1997年の日米ガイドライン改定に際しても国会の審議は、はじめに日米合意ありきだった。これは度し難い国会軽視であり民主主義の破壊行為だ。

いまこの再改定において同様のことが行われようとしている。

昨年10月8日に発表された日米ガイドライン再改定の中間報告は以下のようなものだった。

集団的自衛権行使を容認した昨年7月の閣議決定を反映させることを前提に、日米同盟強化にとどまらず、多国間の軍事協力を打ち出した。そして、「日米同盟のグローバルな(地球規模の)性質」を強調して、自衛隊の海外派兵について地理的制約を全廃する(アジア太平洋地域を想定した「周辺事態」を削除)とともに、「平時から緊急事態まで切れ目のない」協力の確保として「戦闘地域」での米軍支援(戦時の後方支援)や、宇宙及びサイバー空間における協力も可能とする方針を打ち出した。

この間の自公与党協議はまさにこの中間報告の確認事項の線ですすめられている。5月中下旬の法案閣議決定と国会上程に先だって4月末(27日か?)に日米ガイドラインの再改定が行われる。国会審議すら軽視して米国との合意を先行させるこの安倍政権のやり方は許されてよいものではない。

自民党大会の運動方針の異常ぶり

とりわけ3月8日に開かれた自民党大会の運動方針は、従来の自民党のそれと比較しても極端な改憲前のめりの方針となったことは重大だ。

方針は自民党の結党60年の節目にあたり、党是である憲法改正について「改正原案の検討、作成を目指す」と明記し、「改めて胸に刻まねばならないのは、憲法改正を党是として出発した保守政党としての矜持だ」と結党時の精神に戻るよう確認した。その上で改憲国民投票での過半数の賛成に向けて、「日本会議」と桜井よしこらの「美しい日本の憲法をつくる国民会議」の1000万人賛同者運動に同調して「憲法改正賛同者の拡大運動を推進する」とした。靖国神社参拝の継承も盛り込んだ。

首相は党大会で、「戦争に巻き込まれるとか徴兵制が始まるとかいう無責任な批判がある。無責任な批判にたじろぐことなく、やるべきことは毅然とやり遂げる」と述べ、「国際協調主義の下、積極的平和主義の旗を高く掲げ、日本の領土、領空、領海は断固として守り抜く」と演説した。どちらが「無責任」なのか。

安倍政権の4つの致命的弱点

国会の両院で圧倒的多数を占めて、「戦争する国」を目指して暴走している安倍政権であるが、この政権には致命傷となりかねない弱点が4つほどあることを見ておく必要がある。

第1、「世論・民意と乖離した改憲・戦争政策」の問題。これらに関して、ほとんどの世論調査が示す民意のありかは、一貫して安倍政権の進める方向とは真逆だ。先頃発表された内閣世論調査でも3年前の調査と比べ自衛隊の海外活動の拡大を望む声は減っており、4分の1に過ぎなかった。これは政権にとって致命的な問題だ。

第2は「歴史認識」。安倍晋三首相がめざす戦後レジームからの脱却が、第2次大戦の結果としての「戦後レジーム」の破壊ではないかと、欧米諸国が警戒している。とりわけ戦争責任・戦後責任の清算などにたいする安倍政権の敵意ともいえるような対応や、靖国神社参拝などに見られるような歴史認識は中国・韓国など近隣諸国からの反発と警戒を招いている。この歴史認識問題はいま安倍政権が進めている「戦争する国」の道と結合したとき、どのような危険なものになるか、各国の人々は熟知している。第一次安倍政権が崩壊した理由の一つと同様な問題だ。

第3、アベノミクスはすでに行き詰まっており、社会の格差は拡大し、矛盾が累積している。トリクルダウンの理論は幻影にすぎないことが明らかになっている。この破綻の到来の危機は安倍政権に仕掛けられた時限爆弾のように政権を脅かしている。

第4に自公連立政権の抱える矛盾がある。公明党は安倍政権に追従せざるを得ないとはいえ、全く言いなりであれば、党の存立理由が持たない。時には安倍政権の暴走に抵抗するブレーキ役としての存在意義を示すことが必要だ。これまでもさまざまな場面でそうした局面が生じた。安倍自民党は、小選挙区制の下での多数の当選を考えると、この煩わしい公明党を切り捨てることができない。組織力のない維新や、まして次世代などがこの代役を果たすことは不可能なことだ。そうであればこそ、自民党は一定程度公明党に妥協する演技をせざるを得ないのだ。

これらの安倍政権を致命傷に陥れるかも知れない諸条件につけ込み、闘いを大きく組織することができるかどうかが、私たちに問われている。

「オール沖縄」の闘いに学び、総がかりで闘おう

沖縄の辺野古新基地建設に反対する運動は「オール沖縄」の闘いを生み出し、昨年の名護市長選、名護市議選、県知事選、衆議院議員総選挙ではことごとく、新基地建設反対勢力が勝利した。これは長期にわたる沖縄県民の不屈の闘いを基礎にして、保守・革新を問わず「オール沖縄」に結集した闘いの勝利だ。この安倍政権の暴走に反対する大連合の教訓を沖縄だけの「例外」にさせてはならず、全国での闘いのあり方をしめす「先駆」的経験として、本土の私たちは受け止め、学び、運動に生かさなくてはならない。いま、5月、戦争法案一括提出という安倍政権の「戦争する国」への暴走に直面して、まさにこのことが問われている。

この間の闘いにおいて、私たちは昨年12月15日、従来になく広範な「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」という新しい共同闘争組織をつくり出した。

これは連合左派系労組などによる平和フォーラムを軸とした「戦争をさせない1000人委員会」と、旧来の5・3憲法集会実行委員会中心に首都圏の137の諸団体が結集して作った「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」、および全労連などが中心になった「戦争する国づくりストップ!憲法を守り・いかす共同センター」の3団体の共同の組織だ。

そして今年の5・3憲法集会は、首都圏では反戦・平和の課題に止まらず原発、貧困、差別などに反対する課題を闘う運動体をより広範に結集して準備されている。

安倍政権の「戦争する国の道」に反対するアジアの人々と連帯しながら、日本の民衆運動が大連合して全力で闘いながら、国会内の安倍政権の暴走に反対するリベラルな勢力の共同を実現し、連携して闘えば、反戦平和の大きなうねりと世論をつくり出し、安倍政権の企ての前に大きく立ちはだかり、阻止することは可能だ。
(事務局 高田健)

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【アピール】憲法9条を根底からくつがえす「戦争立法」と改憲の暴走を止めよう ――主権者の声を全国の草の根から

安倍晋三内閣は、先の総選挙で与党が3分の2を確保したことで白紙委任を得たかのごとく、昨年7月の閣議決定を具体化する「安全保障法制の整備」に向け、暴走を加速させようとしています。

その内容は、政府自らが60年以上にわたって違憲としてきた集団的自衛権の行使に踏み出すことをはじめとして、国連の集団安全保障措置や多国籍軍の軍事行動などへの後方支援を、どこでもかつ迅速に行えるようにする自衛隊派兵恒久法の制定、「駆け付け警護」や「任務遂行のための武器使用」の解禁など、広範多岐にわたっており、自衛隊が海外で他国の軍隊と肩を並べて軍事行動ができるようにするための「戦争立法」に他なりません。これは、憲法9条を根底から破壊するものであり、テロなどとの暴力の応酬の連鎖にはまり込むことをも意味します。その先には、憲法に「国防軍」を明記するなどの明文改憲が控えています。

安倍政権は、この野望実現のため、4月の統一地方選挙後に法案を上程して一括審議に持ち込もうとしています。しかし、総選挙後に行われたマスコミによる世論調査でも、「集団的自衛権行使容認に反対」の声が過半数を占めています(2014年12月15・16日共同通信で55%、2015年1月15・16日毎日新聞で50%)。政府・与党が「戦争立法」の全容の公表や日米ガイドラインの再改定の日程を先送りし続けているのも、この国民の世論を恐れてのことにほかなりません。

いま、こうした国民世論を受け、安倍内閣の暴走にストップをかけようとするさまざまな団体による取り組みが発展し、それらの団体間の共同が広がっています。これを、私たちは心から歓迎し、その成功を願ってやみません。同時に、結成から10年を経過した私たち九条の会にとっても、その真価が問われる正念場です。

戦後70年の今こそ、日本国憲法9条の意義を再確認し、日本と世界に輝かすべき時です。それこそが、世界に広がる暴力の連鎖を断ち切る保障です。全国のすべての「九条の会」が、憲法9条を破壊する安倍内閣の戦争立法と明文改憲に「NO」の声をつきつけ、その暴走をストップさせるために、草の根での訴えと話し合いを創意をこらして展開しましょう。

2015年2月23日 九条の会

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第18回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会inなごや

2月14・15日に名古屋市で開催された「第18回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流会inなごや」集会の概要については前号で紹介した。今号では、名古屋学院大学平和学研究会と同交流会実行委員会の共催で行われた公開講演会での飯島滋明(名古屋学院大学准教授)さんからの歓迎の言葉と、清水雅彦さん(日本体育大学教授)による講演および内田雅敏さん(弁護士)の特別講演の概要を紹介します。歓迎の言葉
飯島滋明さん(名古屋学院大学 平和学研究会)

ただいま紹介にあずかりました名古屋学院大学の飯島と申します。今日はどういう資格で私がしゃべるのか、「不戦ネット」代表という立場なのかなとかいろいろ考えていました。私は「戦争をさせない1000人委員会」の事務局次長です。この次に話される清水先生は事務局長代行、最後に話される内田弁護士は事務局長です。だから「戦争をさせない1000人委員会」メンバーの前座とも言えそうですが、今回は主催団体の一つである名古屋学院大学平和学研究会を代表して挨拶させて頂きます。藤井純子さんから立派な挨拶を頂いたあとですが、まず名古屋学院大学の平和学研究会のことを簡単に説明させて頂きます。大学という場所は象牙の塔ではいけないだろう、市民と交流が必要ということで本学の阿部太郎先生の発案でつくられたのがこの平和学研究会です。市民との交流が大切だという中でこれだけのみなさま、しかも全国からいらっしゃって下さったということにまずはお礼を申し上げます。

簡単に今日のことなども紹介させていただきます。藤井さんもいわれたとおり、いわゆる「イスラム国」の問題で安倍首相は調子に乗りだしている。邦人救出のための自衛隊派遣を容認しよう、あるいは武器を使う権限を拡大しようとしている。しまいには憲法改正まで口に出している。ところが考えてほしいのですが、2001年にアメリカがアフガンを攻撃したとき、実はNATOも集団的自衛権行使という名目で参戦しています。NATOはその時8項目の支援をすると言ったんですが、そのうちの一つが「テロの脅威に脅されている関係国への支援」でした。安倍首相は1月17日にエジプトで、「イスラム国と戦う関係諸国を支援します」と言っているんですね。つまり、NATOが挙げた集団的自衛権行使と同じ内容の支援をすると言っているのです。英語の訳が悪いなんて言っていますけれども、外務省のホームページを見ても「戦う諸国」となっています。英語ではcontendコンテンドとなっており、日本語の方がきついんですよ。自分の発言が国際社会でどう受け取られる可能性があるかが分かっていない首相が武器使用、武力行使、憲法改正と言っている。この危険性を認識する必要があると思います。

いま、パンフレットをお配りしました。「1000人委員会」でつくったんですが、5万部を2月11日につくったのですが全部はけてしまい、また8万部増刷しました。これは総務省の改憲手続法のリーフレットを真似たんですね。たくさんはけるという判断はあったんですけれども、値段が高いので今度はもっと小さいものにします。総務省の人たちはお金をかけるんですね。改憲勢力はこのようにお金も豊富に使って改憲も進めている。それがどう問題かもこのあと清水先生がお話しされるかもしれません。

集団的自衛権を考えるときにひとつ考えるべきことは、「近隣諸国との関係」です。例えば、今年1月ですが、アメリカの教科書に記載されている「日本軍慰安婦」と日本政府の対応に関わる記事がアメリカの新聞で問題にされています。マグロウヒルという会社がつくった高校の教科書で、分厚いんです。この教科書に「日本軍慰安婦」20万人が連行されている。そのうちの80%以上は韓国人だという記述があって、それに対して外務省が修正要求を出しましたが、教科書を執筆した歴史学者などが却下しています。この件に関するネットの書き込みも見たんですけれども、朝日新聞は16回謝っている、だからこれは間違いなんだということが英語で書いてあります。アメリカ人っぽい名前で。絶対ウソだろうと思うんですけれども、反対の書き込みをしている人はわかっているんですよね、お前は日本人だろうと。あなたのような人間が日本に恥をかかせるんだとの書き込みがあります。何が言いたいかというと、日本の保守派の歴史認識は国際社会で恥ずべき行為とみなされているということです。

フランスのル・モンドですが、石原慎太郎さん、橋下徹さんは大人気です。こいつ等はこんな野蛮なことを言っている。こういった人たちが海外に行って外国で戦いましょうなんていったら、国際社会からどんな目で見られるか。いま紹介するのはドイツのメルケル首相がダッハウの強制収容所で謝罪している様子が紹介されているドイツの新聞ですが、こうした謝罪を近隣諸国に繰り返すと、例えば2011年にはポーランドでさえもヨーロッパの指導者はドイツだと言うまでドイツは近隣諸国から信頼される状況になるわけです。去年4月にEU議会に行ったんですが、ブラント首相がワルシャワで土下座した、有名な写真がノーベル平和賞の近くに飾ってあります。ドイツのこうした謝罪行為の積み重ねがヨーロッパの平和をつくったということが、ヨーロッパのアイデンティティとなっています。こういった謝罪と信頼醸成をドイツは繰り返してきたために、近隣諸国はドイツを脅威とみなさなくなってきたわけです。日本はどうか。20万人もやっていない、そもそも日本軍慰安婦などいなかったという人までいる。こうした日本が軍拡などを主張すれば、近隣諸国との関係はどうなるか。この件については内田弁護士がお話をされるかもしれません。

名古屋で今日この集会をやる意味ですが、さきほどNATOの話をさせていただきましたが、先ほどあげた、NATOの集団的自衛権行使の8項目には、AWACSの提供があります。早期警戒管制機、空飛ぶ司令塔と呼ばれるものですが、それがあるのは浜松基地です。ですから東海地方は、いざというときには司令塔の役割を果たす可能性があるわけです。去年10月に出たガイドラインの中間報告、15個の項目があります。あの中で「能力構築」とありますけれども、2013年10月の2+2では、海兵隊のオスプレイ2個飛行隊を日本に配備する、あるいはF35戦闘機を日本に配置することになっています。AWACSとF35をつなげれば、北朝鮮とか中国は簡単に攻撃できるようになります。そのF35はどこで整備するかというと、これも去年の12月に発表されましたが、東京と名古屋です。そういった意味で名古屋もひとつの軍事拠点になります。

去年12月、斉藤光政さんという、日本を代表する軍事ジャーナリストの一人ですが、彼を呼んで講演会をやったんです。斉藤さんは青森の記者ですので青森から飛行機で来ますが、そのときに小牧の三菱にはF15がいただけでなく、海上自衛隊のヘリコプターがいたと言っていました。小牧は海上自衛隊のヘリコプターすら修理している工場があります。まさに軍事拠点です。軍事拠点ということでいいますと、イラクに真っ先に飛んでいったのは小牧基地のC130です。派兵された人の妻は、自分の夫が死ぬかもしれないと動揺するんですね。そのお子さんは父親が殺されるかもしれないと、学校にこなかったりするんですよね。戦争はそういった事態をもたらします。それが本当にいいのかどうかを考えていただく機会に今回はなるのではないかと思います。

最後になりますが、平和の貴重さを私に教えてくれた一人が憲法の奥平先生です。大学院の時にロールズというアメリカの政治学者についての指導を受けましたし、樋口陽一先生の授業で奥平憲法学を扱ったときのコーディネーターが私でした。気さくな方ですからいろいろなことを話していただけるんですけれども、運動に関してはかなり関わってこられました。「俺が小さい頃は日本社会は本当に暗かった。2度とああいう世の中にしてはいけない。だから一生懸命運動に関わるんだ」ということを奥平先生はおっしゃっていたように記憶しています。奥平先生の運動論でなるほどと思ったのは、向こうが9条を変えるというならこっちは天皇を変えろ、天皇制をなくせという運動をぶつけてきたんだという言い方をされていました。今後どういう運動をするのかということは今回いろいろな議論になると思いますが、奥平先生にしろ、名古屋では長谷川正安先生も軍人として戦争に行かされています。そういう先生方の思いも、一憲法学徒として引き継がせていただければと思います。ありがとうございました。

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講演 日本を「戦争する国」にしてよいのか?-戦争する国への道:ガイドライン改定と戦争法案-

清水雅彦さん(日本体育大学教授)

はじめに

今日参加されている方は、全国で運動されている方、あるいは名古屋周辺の一般市民の方ということですが、そうしますとどうしても普段から運動されている方であれば運動論を求められるでしょうし、一般の方であればこの問題についてわかりやすく話すことを求めてこられると思いますので、両者に完全に満足する話をすることはなかなか難しいと思いますけれども、なんとかまとめたいと思います。時間が60分ですので、レジュメの方は詳しくしておきましたが途中飛ばしながら話したいと思います。

またレジュメの他に、集団的自衛権について憲法研究者の「声明」も配りました。講演ではこの声明について詳しく触れませんが、ご覧になっていただきたいのはこの間、憲法の学界ではだいぶ保守化が進みまして、憲法の学会としてこういう政治問題についての声明が出せなくなりました。そこで個人連名方式で声明を出さざるを得ないのですが、この集団的自衛権問題について昨年8月に記者会見をして発表しました。声明文から、研究者がどういう観点から集団的自衛権行使容認の閣議決定を批判しているのかということを参考しにしていただきたいのと同時に、声明の呼びかけ人と賛同人の一覧が載っています。それをぜひご覧になっていただいて、今後地方で学習会等をやられる場合にどういう研究者がいるのかを参考にしていただきたい。

また、私たち憲法研究者自身が全国で憲法研究者が何人いるのか、誰なのかということを正確に把握できていません。統一名簿がないからです。ですから私たちが知っている範囲で連絡をせざるを得ないので、全国のすべての憲法研究者に連絡を取ったわけではないのです。しかしこういう声明を出すときに、以前であれば賛同してくれた方が最近賛同してくれなくなっているのです。それはそれぞれ事情があるわけですが、学界全体が保守化し研究者自身もだいぶ保守化してしまっているからです。

声明の一覧を見たときに、みなさん方が例えば大学の授業で教わったり、学生であればいま教わっている人あるいは知っている研究者がいて、こういう声明には当然名前を出すはずなのに出していない人がおられたら、可能であればそういう人に直接聞いて欲しいのですよね。あなたは授業とか書き物で平和が大事だとか人権が大事だとか言っているのに、なぜこういうところに名前を出さないのですかと。授業や書き物でかっこいいことは言ってもいざというときに名前を出さない研究者のことを、私は陰で「口だけ憲法研究者」とか「名ばかり憲法研究者」と言うようにしています。実はそういう人が結構増えてきているので、ご存じの方がおられて名前がない場合に私からすればぜひ糾弾して欲しいと思いますし、そういう点からも声明文を見ていただければと思います。

明文改憲、立法改憲、そして一番簡単な解釈改憲の道

さて、全体的には戦争法案とかガイドラインの問題点を指摘した上で、これに対抗する対抗論について考えていきたいと思います。

集団的自衛権行使を容認するために自民党も当初は、憲法を改正しないとできないと考えていたわけです。2012年4月に自民党が発表した「日本国憲法改正草案」のなかで、国防軍が集団的自衛権を行使できるというかたちで改憲案を発表していました。しかし憲法を改正するというのは、日本国憲法であれば第96条に従って衆参両院で3分の2以上の賛成で国会が発議し、国民投票で過半数の賛成がないとできません。そういう意味で非常に時間がかかるし、ハードルが高い。そこで一昨年に安倍首相が、まずは96条のハードルを下げようという提案をしました。しかしこれは国会内外の強い反対の声を受けて断念し、そこで明文改憲は大変そうだということで立法改憲と解釈改憲、この両方を探るわけです。

立法改憲については、2012年に自民党が「国家安全保障基本法案」を発表しています。自民党でも特に石破茂さんが、これに熱心だと言われています。この中で自衛隊が集団的自衛権を行使できるような規定を盛り込んでいる。これは昨年の通常国会で出てくると言われていましたが、やはり基本法も議論に時間がかかって大変であるということで、結局一番簡単な解釈改憲の道を選んだわけです。

この解釈改憲については、ご存じのように第一次安倍政権の時に安保法制懇をつくって4類型ですべてできるという提案をしています。これについては、例えば2番目に、米国に向かう弾道ミサイルの迎撃というのがありますが、アメリカ本国に向かうミサイルは日本の上空は飛びません。もっと北の方を飛びますから非常に想定しづらいという批判があったわけです。4類型のうち、1(1)公海上での米艦船への攻撃への応戦、(2)米国に向かう弾道ミサイルの迎撃、が集団的自衛権、(3)国際平和活動をともにする他国部隊への駆けつけ警護、(4)国際平和活動に参加する他国への後方支援、が政府とかマスコミ等を含めて集団安全保障という言い方をしています。(3)がPKO活動に際しての駆けつけ警護、(4)が多国籍軍に対する支援になりますが、これはPKO活動なども入ってきます。レジュメではカギカッコで「集団安全保障」と表現したのは、私は本来の集団安全保障と同列に扱うべきではないと考えているからです。

国連憲章で規定されている集団安全保障の規定は、――どこかの国がどこかの国に攻め込んだ場合に国連安保理が加盟国に対して経済制裁などの非軍事的措置を採ることを求める――これが41条です。これでダメな場合に42条を発動する。42条は、いわゆる国連軍を形成して国連軍が軍事的な制裁を加えてそれをやめさせる――これが国連憲章に規定されている集団安全保障になります。しかしPKO活動も多国籍軍の活動も国連憲章に規定されていない。その意味で私はこれを同列に扱うべきでないと考えていますが、残念ながら政府や安保法制懇に限らずマスコミもいま同じように扱っています。

というのも、例えばPKOの問題についても90年代を思い出して欲しいのですが、PKO協力法を作るときに当時の社会党、共産党は牛歩戦術まで使って抵抗をしたわけです。なぜそういう抵抗をしたかと言えば、米ソ冷戦下のPKOは結局安保理が機能しないので、北欧やカナダのような国が相手国の受け入れ同意がある、停戦合意が成立しているときに基本的には非武装で介入して紛争を抑えるということをやり始めるわけです。これについては一定の評価がありました。しかし米ソ冷戦が終わったあとにPKOが変質して、アメリカのような大国も関わる。しかも非武装ではなくて受け入れ同意がなくても軍隊が入っていくということをやり始めた。私はやはり米ソ冷戦下のPKOと、冷戦後のPKOを分けて考えるべきである。冷戦後のPKOに日本の自衛隊が関わることについては少なくとも問題があるという立場ですが、いまのマスコミを含めてそういう議論をしないということは非常に残念です。

また国連安保理決議に基づく多国籍軍の活動ですが、これも同じく90年代の湾岸戦争に際して日本は多国籍軍に戦費を支出し、戦争のあとのペルシャ湾に掃海艇を出したわけです。これに対して全国各地で市民平和訴訟という言い方をして、そういう戦争荷担行為は憲法違反だという裁判が行われました。全国でだいたい3000人くらいの市民が原告になりました。私も当時大学院生で東京訴訟に関わりましたし、名古屋で初めて全国交流集会をやったときに私も参加しました。そしてPKOについてもカンボジア、ゴラン高原などへの派兵に対して違憲訴訟が行われました。こういうかたちで90年代には、PKO活動や多国籍軍の活動に対しての違憲訴訟まで提起されていた。問題だという議論があったにもかかわらず、いまはマスコミでさえ無批判に報道してしまっている。とりわけ毎日新聞や東京新聞に比べて朝日新聞がこの問題については悪質で、いまバッシングされている朝日新聞を叩きたくはないのですが、朝日新聞は集団安全保障という用語の説明を国連安保理決議に基づく多国籍軍の活動だとしているわけです。やはり私はそれは間違っていると思いますし、先ほど言ったように国連憲章に規定されているものとは区別して議論すべきなのに、いまそういう議論がされていない。やはり憲法の観点から考えても、私は変質したPKOや安保理決議に基づく多国籍軍の活動に日本が参加することは許されないと考えています。

第2次安倍政権―解釈改憲で集団的自衛権行使容認

第2次安倍政権になってほぼ同じメンバーでまた安保法制懇を再開し、昨年5月15日に報告書を出し、さらに類型を加えています。これに対してはいろいろな批判が出てきています。例えば安倍さんは機雷の除去というのは受動的な行為だからいいというわけですが、武力衝突が行われたときに機雷を撒いた国からすれば、第3国がそれを除去すれば敵対行為になるわけであって、とても受動的な行為だからいいというようなレベルではありません。あるいは「領海での潜没航行外国潜水艦への対応」ということでは、潜水艦というのは見つかったらアウトですから、見つかってもずっと領海内に潜っていることは非常に想定しにくいわけです。あるいは尖閣などを想定していると思いますが、「離島等での武装集団による不法行為への対応」についてです。例えば海上保安庁にはSST、日本の8都道府県警にはSAT、47都道府県警には銃器対策部隊があって、これらの部隊は自衛隊と装備を一部共通化しているのですが、こういう部隊があり、これには警察の軍隊化という問題があって、これはこれとして検討しなければいけません。その議論はさておき、すでに海上保安庁、警察にそういう部隊があるのですから、それを使わずにいきなり自衛隊を出せば、一気に戦争に発展する可能性があるわけです。このグレーゾーンというのはやはり非常に危険な行為であって、私はいきなり自衛隊が出ていくべきではないと考えています。

この安保法制懇の報告書を出した同じ日に、政府が基本的方向性を出します。安倍首相が2枚のパネルを使って説明をするわけですが、安保法制懇とは違って限定的な集団的自衛権行使容認論である、軍事的措置を伴う集団安全保障には参加しないというかたちで差別化を図ります。普通であれば、安保法制懇の人たちが時間をかけて議論してきたものを同じ日に否定するわけですから怒ってもよさそうなのに、北岡さんたちがにこにこしながら会見したのは事前に調整がついていた、役割分担があったのだろうと思います。

ただ安倍さんは集団的自衛権行使を一番やりたいのに、ひとつは集団的自衛権の問題ではないPKOの駆けつけ警護のパネルを使う。もうひとつは朝鮮有事を想定していると思われる、有事の際にアメリカの艦船が日本人を輸送しているときに自衛艦が守るというパネルを使います。しかし97年のガイドラインで、朝鮮有事の際に日本人の輸送はアメリカはやらないと決めたわけであって、ああいうパネルはあり得ない。これは安倍さんがよっぽどバカなのか、知っていてウソをついているのかどちらかです。そういうインチキな説明をしているのに、また7月1日の会見で同じパネルを使った。まわりが何も言わないのか、あるいは安倍さんがわかっていてあえてウソをついているのかわかりません。しかしあの2枚のパネルの問題を本当にやりたいわけではなくて、安倍さんとしては正々堂々と集団的自衛権を行使できる国になりたいと考えているのに、非常に姑息な説明だと思います。

基本的方向性のあとに昨年5月から与党の協議が始まります。当初、自民党は公明党にグレーゾーンの問題から了解を取ろうとします。けれども、グレーゾーンの問題から公明党が抵抗したので、個別の事例からの検討はやめて一般的な条件、自衛権行使ができる要件の問題を確定することに方向転換をして、6月から議論をします。そして7月1日に閣議決定をやっていくわけです。従来は、自衛隊は日本に対する武力攻撃が発生した場合に、どうしてもやむを得ない場合に個別的自衛権を行使するとしていたのに、他国に対する攻撃があっても自衛権が行使できるというかたちで変えていくわけです。ただこの閣議決定に対しては、その後の国会の議論や記者会見で安倍首相や自民党は、自民党が検討した集団的自衛権行使のすべての事例がこの閣議決定でできるという言い方をしているのに対し、公明党はできないというかたちでずいぶん差があります。それは今回の戦争法案の与党協議、昨日から始まりましたが、ここでも早速グレーゾーンから両党の見解の違いが出ているわけです。どうなるかわかりませんが、この違いはきちんと野党なり市民団体などが追及していく必要があると思います。

再改定が必要な97年ガイドラインを越える派兵実態

次にガイドラインの問題です。1951年に日米安保条約を結んで60年に改定します。60年の、当時は新安保条約と言っていましたけれど、これは従来の安保条約に植民地主義的な内容があるので一歩対等になろうというかたちで、岸政権の時に変えていくわけです。そのあと78年に日米防衛協力のための指針、ガイドラインを結び、これを大きく変えたのが97年の新ガイドラインです。

78年のガイドラインはまだ基本的には安保条約の枠内にあったわけですが、97年のガイドラインはもう安保条約の枠を超えてしまっています。すなわち、朝鮮有事を想定した周辺有事に日本も協力するかたちに変えていくわけです。これは本来安保条約を変えないといけないはずですが、日米両政府は60年安保、70年安保のときに日本国民が国会を取り囲むような闘争も経験している。さらに条約の改正となりますと国会でも議論しなくてはいけないので、国会の議論をさせない、国民の反対闘争が起きないようなかたちにするために、ガイドラインというかたちで実質的に安保条約の意味内容を変えるということをやったわけです。97年のガイドラインは、アメリカはここで言う周辺事態ついては地理的概念ではないと考えたわけですけれども、日本側は当時の小渕首相が国会の答弁でこれを地理的概念として答弁したので、そこで使い勝手が悪いという問題が出てきたわけです。

今回のガイドラインは本格的な議論が始まるのは民主党政権の時、2012年でした。このあと政権交代が起き、安倍政権はすぐにこのガイドラインの再改定問題について指示をし、2013年から本格的な議論が始まっていく。そして2014年10月に中間報告が出ます。

今回のガイドライン再改定の背景としてアメリカ側としては、オバマ政権はブッシュ政権がやっていたようなアフガン、イラクに対する派兵をやめて、アジア太平洋地域を重視していくというかたちで戦略が変わってくるわけです。ただ中国について言えば、従来の封じ込めではなくて包囲網作戦に変わり、アメリカと中国は正面から戦争する気はない。中国は世界で一番アメリカの国債を持っているし、両国の輸出入の関係を見ても両国は戦争はしたくないわけです。一方で中国は脅威ではあり、何らかの対応はしなければいけないという事情がある。アメリカ自身は国防予算を減らさなければいけないので、周辺諸国に負担を求めていかなければならない事情もあるわけです。

一方で安倍政権になってからの日本側の事情は、安倍首相が唱える積極的平和主義、これに基づいて集団的自衛権行使容認の閣議決定を行ったわけです。特に尖閣の問題でアメリカは介入したくないわけですが、日本としてはなんとかアメリカを日本側に付けたい。そういう意図もあってこのガイドラインの再改定を望んでいる背景があるわけです。あるいは97年のガイドラインを越える事態が実際には生じてしまっている。自衛隊をイラクにまで派兵しましたし、これも民主党政権の時の2011年6月にジブチに海賊対処のための基地をつくってしまった。そういう意味でこういう状況に対応したかたちで変えていく必要もあるというのも日本側の事情です。これまでアーミテージは集団的自衛権行使については早く認めろと要求していたのに、昨年来日したときには急ぐ必要はないと言ったわけで、アメリカの中でも安倍政権に対して一枚岩ではない。こういう集団的自衛権行使容認、ガイドライン再改定について軍部とかジャパンハンドラーは喜ぶかもしれませんが、オバマ政権など全部が全部喜ぶわけではなくて、アメリカの中でも安倍政権に対して警戒する勢力がいると思います。

この中間報告の内容から予想される再改定としては、平時からグローバル有事まで切れ目のないシームレスな対応していくというのがひとつの特徴です。97年のガイドラインにあった、周辺事態というものを削除する。周辺事態法1条に周辺事態の定義がありますが、この概念をなくしてグローバルに適応できるようにしていくということです。あるいは後方地域支援という言葉もあったのですが、後方支援という文言に変えて、これによって日本があらゆるレベルで兵站支援ができるようなかたちを考えています。新しい課題としては宇宙空間、サイバー空間における安全保障を協力していくことや、必要に応じて設置される調整メカニズムの常設化も考えているようです。

調整メカニズムについては、東日本大震災で実施したわけです。あのトモダチ作戦の時に、日米共同指揮所を市ヶ谷、横田、仙台に設置し、ハワイからはアメリカの太平洋軍司令官がやってきて指揮をしました。このトモダチ作戦というのは、アメリカの太平洋軍の、太平洋有事作戦の災害版だと言われています。災害支援という形を取りながら、実際には有事に活用できるような訓練をしていたのではないかと言われていますが、ここで設置された体制を常設化したいと考えています。このトモダチ作戦を実行したときも民主党・菅政権だったわけで、菅政権の時に従来の基盤的防衛力構想を動的抑止力構想に変えています。やはり鳩山政権に比べて菅政権、野田政権は防衛政策についてはかなり問題があると思いますが、これはまた改めて別のところで検討しなければいけないと思います。

9条を越え、国会無視、安保条約も越える再改定

ではこのガイドラインの問題は何かと言えば、当然9条を超えるわけですけれども、やはり国会無視というところも大きいと思います。ガイドラインというのは政府間協定でもない、単なる行政協定であって2+2と言われる、日本側は外務大臣、防衛大臣、アメリカ側は国務長官、国防長官、この4人が署名すればいいというものです。内容的には本来安保条約を改正しなければいけないものであるのに、国会において議論しない。条約については憲法73条3号に従って国会の承認が必要であるから、これを避けるためにガイドラインというかたちで行政協定に進んでいくのでしょう。けれどもやはりこういうものを行政協定で安保条約の意味内容を変えるということはやってはいけないと思います。

加えて、例えば安保条約5条では日米共同作戦行動を取るのは「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が[発生した場合]」ですが、当然想定しているのはこれを超えるものです。あるいはアメリカが日本に基地をおけるのは「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際平和及び安全の維持に寄与するため」という6条の極東条項の規定があるわけです。これもやはり超えるわけであって、ガイドライン再改定というのは単に憲法上問題があるだけではなくて安保条約も超えてしまうという点で問題があると思います。

戦争法案――15本前後の法改正か一括法か

次に戦争法案です。改正対象法律、レジュメに書いたのは昨年11月に内閣官房がつくった文章に挙げ
られているものです。ここでは16本の法律と、すでに失効した3つの法律名が載っていました。やはり2003年、2004年の有事法制関係が入ってきますので数が多いわけです。昨日の与党協議会では、具体的には14本の法律が挙げられ、その14本を中心にこれから議論が始まっていくと思います。

7月1日の閣議決定に対応したかたちでこういう法律が問題になるのではないかなということでまとめたものですが、まずいわゆるグレーゾーン関係でいえば、ひとつは離島の周辺地域等での侵害への対処については、昨年の内閣官房では領域警備法を制定する方向で案も作っていたわけですが、最近の報道によればこれは見送る可能性がある。ただ領域警備法については、民主党が昨年11月に法律案を国会に提出しています。民主党自身は、閣議決定で早くからこの自衛隊が動けるようにするということですが、わたし自身は民主党の領域警備法も問題があるという立場です。もし与党が出せば、民主党自身はこういう法案をつくっているわけですから、領域警備法については簡単に通る可能性があるという点で問題があります。

ただこの領域警備法は見送って、自衛隊の治安出動や海上警備行動の手続の迅速化で対応する可能性がある。これは昨日の与党協議会でも異論が出なかったようですけれども、これは従来実際に集まって閣議決定で、あるいは文書を回した持ち回り閣議で決めるわけですけれども、それをやらずに電話だけで了解を取って決めてしまう。どうもこれで行きそうなかたちで、これは法律改正を要しないので決めたら実際に行われる可能性がある、非常に問題があると思います。

次の平時における米軍部隊防護は弾道ミサイル発射警戒時に自衛隊が従来は自衛隊法95条によって自衛隊の武器等の防護のための武器使用ができるという規定になっているのですが、これを米軍にも使えるように改正する可能性があります。

そして従来は後方支援については武力行使との一体化論があったわけですが、これについてはガイドライン再改定と同じく、従来の後方地域支援という表現をやめて後方支援に変わっていくわけです。これに対応して自衛隊法などを変えていく可能性があるのですが、これも最近の報道で、当初は周辺事態法は廃止し新法の制定が言われていましたけれども、公明党は日本周辺での行為に止めたいということで周辺事態法が存続する可能性があります。

一方で従来テロ特措法やイラク特措法のような時限立法をつくってアメリカの支援をやっていたわけですが、これについては米軍支援のための恒久法を制定する方向で議論が行われると思います。これに関しては自民党自身2006年に国際平和協力法案を作っています。これがもとになるかどうかわかりませんが、恒久法制定で議論が行われると思います。

次にPKOでの駆けつけ警護を可能とするために、PKO協力法24条を改正する可能性があります。在外邦人等の輸送については、アメリカが邦人輸送しているときに日本が武器使用できるようなかたちで改正する可能性があると思います。安倍首相は今回の人質事件を受けて実際に自衛隊が直接出ていくかたちでの改正もしたがっているのですが、それはかなり無理だと思いますが、可能性としてはあると思います。

つぎに閣議決定に対応したかたちで、新たに「存立事態」という概念を盛り込む――自衛隊というのはあくまでも日本が攻撃された場合に自衛権を行使する部隊であるわけですが、そうではない、外国が攻撃されてこれが日本の存立を脅かすような場合にも、自衛権行使ができるようなかたちで自衛隊法を変えていく可能性があります。それは自衛隊の任務、防衛出動の要件、防衛出動時の武力行使、このあたりの規定に新たに文言が追加される可能性があります。武力攻撃事態法についても同様に、武力攻撃事態、予測事態以外に、存立事態に対応可能なかたちで改正されると思います。これも報道では国民保護法については改正しない方向で検討が行われているようです。

掃海については自衛隊法84条の2に掃海規定がありますが、実際にはペルシャ湾に出て行っています。基本的には掃海作業というのは平時での発動を想定していると思いますが、新たに改正として予想されるのは有事の際にも掃海作業ができるように文言を変えていく可能性があります。臨検については、周辺事態に際しては船舶検査活動法、有事に際しては海上輸送規制法で臨検を行うわけですが、これも存立事態に対応可能なかたちで改正が予想されます。こういうかたちで15本前後のかなりたくさんの法律をあちこち変えていく必要がある、あるいは新法をつくる必要がある。これを一括法でやる可能性があるわけですけれども、やはり憲法9条をどう読んでもこういうものはできないはずであって、これをゴールデンウィーク明けの短期間で一気に議論して可決するというのは到底許されないわけですから、私たちも声を上げていく必要があります。

「国民よりは国家が大事」の自民党改憲案

こういう集団的自衛権行使容認論のゴールにあるのは自民党の改憲案であるわけですが、これについては省略したいと思います。ただ自民党というのは、この間国民よりは国家が大事であって、国家安全保障会議にしろ国家安全保障戦略にしろ国家安全保障基本法にしろ、国民の安全よりも国家の安全を前面に打ち出しています。従来憲法の人権規定は公共の福祉によって制限される、これは誤解を受けかねない表現ですけれども、詳しく言えば人権と人権がぶつかった場合に調整をする。確かに表現の自由はあるけれども、名誉毀損やプライバシー侵害の表現は認められない。表現の自由と名誉権、プライバシー権を秤にかけて、名誉権とかプライバシー権が大事なときには表現の自由を規制する、というのが公共の福祉による人権制約の考え方です。

しかし自民党の考え方では「公益及び公の秩序」という文言に変えてしまうわけです。これについて2005年の新憲法草案を出す前の段階では、「国家の安全と社会秩序」という文言にしています。一昨年の秘密保護法の議論をしているときに自民党の秘密保護法担当プロジェクトチームの責任者の町村さんが、国民の知る権利より国家の安全の方が優先すると言っているわけです。正にそういう発想が自民党にはあり、そういう発想のもとでいろいろな法律をつくっているわけで、これらの自民党改憲案にこういう考え方がはっきりある。でもいまはまだ憲法は変えられていないわけですから、憲法の観点から自民党がやろうとしていること、やっていることを批判していかなければいけないと思います。

憲法の平和主義の観点から安倍政権を批判する

では安倍政権に対してどういう対抗の理論があるのかですが、私はあらためて憲法の平和主義の観点から批判していくべきだと思います。20世紀は戦争の世紀と言われていますが、一方で人類はバカではありませんから戦争を規制する試みもしています。これを戦争違法化と言いますが、例えば第1次世界大戦後に国際連盟規約をつくって、悲惨な戦争を食い止めようということで侵略戦争を制限しようとしました。でも制限だけでは不十分なので28年に不戦条約を作って、厳密に言うと戦争一般が違法化されました。この不戦条約は侵略戦争を放棄した国際法と位置づけられています。

不戦条約自体は、第1次世界大戦後アメリカで活発になった戦争非合法化運動の影響を受けてつくられたわけですが、GHQのメンバーはこの戦争非合法化運動を知っていますから、それで9条に対してもさほど抵抗はなかったのだろうと推測できます。ただ残念ながら28年の不戦条約は事実上自衛戦争に手を付けていなかったので、日本のように自衛の名のもとに戦争をする国が出てきてしまい、45年の国連憲章で自衛戦争を制限していくわけです。こういう流れをさらに進めれば自衛戦争の放棄であって、9条1項についてさまざまなか解釈がありますが、もし9条1項で自衛戦争も放棄したと考えれば日本国憲法9条1項は、こういう戦争違法化をさらに進めたところに位置づけることができるわけです。

戦争の方法をめぐっても20世紀にいろいろ規制しています。49年のジュネーブ諸条約によって文民・捕虜を保護するようになりましたし、72年の生物兵器禁止条約、93年の化学兵器禁止条約、97年の地雷撤廃条約、2008年のクラスター爆弾禁止条約によって兵器の制限をしてきています。こういう流れを進めれば、次に出てくるのは軍隊そのものの保持をやめちゃおうという発想があるわけです。憲法9条2項解釈について、9条2項によって軍隊をまったく持てないと解釈すれば、憲法9条2項はこういう戦争違法化の流れをさらに進めたところに位置づけられるわけです。

ただ国連憲章と日本国憲法は違います。国連憲章51条で自衛権行使を認めています。ただしこれは、要件を満たさないと行使できませんから野放しではありません。あるいは先ほど言った集団安全保障の考え方もあります。国連憲章51条にこのような規定があるからと言って、当然に加盟国は集団的自衛権を行使していいんだという議論にはならないわけです。安倍首相は法学部出身なのに学生時代によっぽど勉強をしなかったのか、国連憲章に書いてあるから日本も集団的自衛権を行使すべきだというわけです。けれども、スイスやオーストリアのような永世中立国は集団的自衛権行使はしないし、それに対しておかしいという議論はないわけです。国連加盟国が国連憲章のすべてを履行する必要はなく、各国の憲法に従って対応すればいいわけです。従ってわたしは、憲法9条はやはり国連憲章51条とは違うと考えています。

いま問われているのは日本が28ヶ国目の軍隊のない国家になるのか、「普通の国」になるのかということだと思います。世界にはすでに27ヶ国の軍隊のない国家があります。コスタリカだけではありません。東京造形大学の前田朗さんが27ヶ国全部を回って本を書かれていますが、そういう意味で日本が28ヶ国目の文字通りの軍隊のない国家になるのか、あるいは欧米のように憲法で軍隊を持って戦争をすることが可能な国、それを私は「普通の国」と表現したいと思いますが、そういう「普通の国」になってしまうのかが問われているのです。日本の憲法の平和主義は戦争違法化をさらに推し進めた「優等国」であるわけですから、「普通の国」にレベルダウンする必要はないと思います。

国連憲章と憲法・日米安保での集団的自衛権の問題点

集団的自衛権の問題ですが、国連憲章51条に書いてあるから無批判で議論していいわけではないと考えていまして、そもそも国連憲章のもとになっていたダンバートン・オークス提案には集団的自衛権の規定はありませんでした。しかし中南米諸国が小国ですから、どこかの国から攻められたときにまわりの国に助けて欲しい、集団的自衛権を保障して欲しいと要求を始めてこれが保障されなければ国連に加盟しない可能性が出てきた。中南米諸国が国連に加盟しないのは困るので、アメリカは消極的だったのですけれども、アメリカの主導で国連憲章に集団的自衛権の規定が入ったわけです。

しかし米ソ冷戦が始まったら、この集団的自衛権が変質した。従来の、小国がまわりの国に助けて欲しいという意味ではなくて、大国が集団的自衛権を口実にどこかの国に攻め込むかたちで悪用した。これまでの行使の事例を見れば、確かに小国が集団的自衛権を行使した事例もありますけれども、主には大国――アメリカのベトナム戦争もソ連のハンガリー動乱への介入やプラハの春への介入、アフガン侵攻なども集団的自衛権行使によるものです。そういう意味ではわたし自身はやはり原点に立ち返って、個別的自衛権を加盟国に認めるのはやむを得ないとしても、集団的自衛権の規定に関してはすぐには無理としても国連憲章から削除して、個別的自衛権と42条の二本柱で対応すべきではないかと考えております。

日本での問題は当然9条から出てくるわけではありませんし、解釈改憲というのは国民の意思も問うていない、国会の意志も問うていないという意味で、憲法41条や96条に反するわけです。いまの国政は、憲法に従ってやらなければいけない。それを立憲主義というわけですけれども、そういう意味で閣議決定で憲法の解釈を変えてしまうというのは立憲主義の否定になると思います。昨年サッカーのワールドカップがありましたが、スポーツは共通のルールに従ってやらないと成り立たないわけです。けれども昨年の閣議決定は、いわば「チーム・ニッポン」の安倍選手が、ゴールキーパーでもないのに自分は手を使ってもいいんだと自分で宣言して手を使ったのと同じであるわけです。もしそんなことをやれば、サッカーでは一発でレッドカードが突きつけられるわけですから、やはり安倍政権に対してはレッドカードを突きつけないといけない事態だと思います。

安保条約の問題で言えば、5条でのアメリカが攻撃をされたときに日本は集団的自衛権を行使しない、というそのアンバランスを補うために6条の基地提供義務があるわけです。日本も、アメリカが攻撃されたときに集団的自衛権を行使できるとするのであれば、5条を変えると同時に6条を削除して基地提供義務をなくさなければいけないはずですけれども、それをしないというのも問題だと思います。

憲法9条、憲法前文――2つの平和主義

最後ですけれども、英語でも似たような表現をしますから集団的自衛権という表現はせざるを得ないのですが、やはりこれは実態から見れば「他衛」権であり「侵略」権といえるものだと思います。これは安倍首相が一昨年から言い始めた積極的平和主義に基づいたものですけれども、英語の表記はproactive contribution to peaceです。一部の人は、これは安倍さんの造語だという言い方をしますが、これは造語ではなくて安倍首相が参与を務めている日本国際フォーラムが2009年に出した提言にそったものです。この提言では9条の平和主義は消極的平和主義である。それに対して能動的あるいは積極的平和主義として集団的自衛権行使だとか武器輸出をすべきであるという提言を出して、この提言にそってこの間の動きがあるわけです。そして日本が集団的自衛権を行使できるというのは、もちろん対米追随にもなり得るのですが、さらには安倍首相としてはおじいちゃんがやりたかった日米対等になりたいという気もあるでしょう。中国との関係で言えば独自の動きをする可能性もありますから、これは対米自立にも向かう可能性があると思います。

もし日本が集団的自衛権を行使するとなれば何が起きるか。アメリカが戦争したときに日本が協力するということは、自衛隊員が他国民を殺し、自衛隊員が殺され、日本国内ではテロが発生して一般国民も死ぬことになる。こういう事態になってしまうわけであってこれは許してはならないと思います。

これに対する対抗の理論は、私は憲法の平和主義だと思います。憲法の平和主義はどうしても9条が注目されるわけですが、前文も同時に見ていく必要があります。平和学、憲法学では消極的平和と積極的平和という文言を使った議論があり、あらゆる暴力のない状態を目指すのが消極的平和であって、そういう観点から見れば9条は部分的に消極的平和を追求する規範だと思います。

一方で積極的平和との関係で言えば憲法前文の二段がそれに当たると思います。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。前文では「専制」-「隷従」-「圧迫」、「偏狭」-「恐怖」-「欠乏」、これをなくそうと言っているわけです。この部分はいわゆる構造的暴力、物理的暴力ではない構造的暴力であって貧困とか差別も含む概念ですが、こういうものもなくそうと考えているのが日本国憲法の平和主義です。

しかも前文の二段に出てくる平和的生存権が画期的・ラディカルなのは、平和的生存権の主体を日本国民にしていないということです。すなわち日本国民さえ戦争がない、貧困がない状態で暮らせばいいという一国平和主義ではなくて、全世界から戦争も貧困もない状態をつくり出そうと考えているのが憲法の平和主義です。そういう意味では、国連が言っているようにテロの背景には世界の貧困問題があるわけで、日本がすべきことは9条に従って対テロ戦争に協力しないだけではなくて、憲法前文に従ってテロをなくすために世界の貧困問題を解決していくこと、これが日本に求められているものだと思います。しかし自民党の改憲案では、いまここに挙げた憲法前文、これを全部削除しています。そういう意味で、自民党のようなかたちでの改憲は絶対させてはいけない。いまの憲法のもとで、9条だけじゃなくて憲法前文の観点から私たちは平和構築をしなければいけないと考えています。

どのように考え、行動するか

最後に今後の運動論になりますけれども、さきほど1000人委員会のリーフレットに触れました。確かに昨年12月の総選挙でがっかりするかもしれませんが、政治というのは国会の中だけで決まるものではありませんからあれでがっかりする必要はないです。例えば中曽根政権の86年の衆参同日選挙によって、自民党は衆議院で300議席を取りましたが、中曽根政権が何でもできたわけではなく、靖国の公式参拝は86年以降できていませんし国家秘密法も制定できませんでした。ですから国会に議席があっても国会外で運動、世論をつくっていけば政権が何でもできるわけではない。それは野田政権の時の脱原発路線もそうです。そういう意味でこの戦争法、ガイドライン再改定の問題についても、国会外でいかに運動をつくっていくのかが問われています。

さらに政治運動体について言えば、あまりに安倍政権がひどかったのでこの間広範な運動ができています。とりわけ、旧総評系の平和フォーラムが中心になって誕生した組織である「戦争させない1000人委員会」と、全労連が事務局になっている「戦争する国づくりストップ!憲法を守り・いかす共同センター」が昨年11月11日の総がかり行動、この総がかり行動自体は「1000人委員会」と「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」の共催によるものですが、この総掛かり行動に「憲法共同センター」も連帯して参加しました。なんと言っても今年1月26日の国会開会に当たっての総がかり行動では、「1000人委員会」と「9条壊すな!実行委員会」とさらに「憲法共同センター」が共催して開催しました。残念ながらこの間の労働運動再編の中で連合と全労連が分裂して、それが長らく続いてきたわけですが、この平和運動では連合系の平和フォーラムも全労連も、そしてその間に市民が入って一緒に運動ができている。こういう取り組みを中央でも地方でも大きくしていく必要があると思います。

自分の知っている人を誘う、参加者をフォローする

さらに個人とか団体の課題で言えば、私は講演会などではしょっちゅう言っています。例えば今日名古屋周辺から参加された市民の方々あるいは全国から参加された方もそうですが、こういう講演会、学習会に参加して自己満足で終わって欲しくないと思います。こういうところに参加すれば勉強にもなるので、自分は勉強した、自分は何かに関わっているというかたちで終わってしまえば運動は広がらないわけであって、やはり運動を広げるには自分ひとりで来ないこと、人を誘うことです。今日参加されている方がお友達とかご家族の方をもうひとり誘えば、参加者も倍になるわけです。

若者についても、よく若者が参加してくれない、私も九条の会も含めて呼ばれていくと、講師の私が一番若いということもあるわけです。やはり運動という観点からすれば高齢者ばかりおりますと自然とメンバーが消滅していくわけで、若い人を入れないと運動は継続しないわけです。駅前でビラを撒いてもそれで集会に参加することはあまりないわけであって、やはり確実に来てもらうには直接自分が知っているご家族やお友達の方を誘うということが大事ではないかと思います。

その中で、誘ったあとにきちんとフォローをして欲しいと思うのです。参加者を誰か誘った場合に、ぜひ終わったあとにお酒でもお茶でも飲みに行って、そこでさらに振り返って議論して欲しいと思います。ヨーロッパであればイギリスのパブやフランスのカフェのような飲みながら議論する場があるわけですが、日本の場合は飲むとまじめな話をしちゃいけないという空気があって非常に残念ですが、やっぱり飲みながらまじめな話をして欲しいし、そういうところに若い人が来たときには積極的に声をかけて欲しいのです。

私は前任校では法学部におりましたし、大学でも九条の会をつくりましたから、憲法のゼミの学生を地域の集会に誘って参加して、懇親会にも誘いました。そうしますと参加されている年配の方々がいろいろと喜ばれるのですが、ちょっと問題なのは特に年配の男性なんです。若い人が来て喜ぶのはいいのですけれども、若い人に「これ知ってる?」と質問して、知らないとなると一生懸命滔々と語るのです。でも、若い人たちはそういうのをいま「上から目線」と言って嫌がるから、やめて欲しいのですよね。それから「こんなことも知らないの」って言われると、いまの若い人は打たれ弱いですからそういうことを言っちゃいけないのだけれども、言う人がいるわけです。年齢を重ねると豊かな経験と知識を若い人に話したがるのですが、取り分け女性より男性の方がよくしゃべるのです。けれども、本当に若い人はそういうことを嫌がって、私もせっかく学生を連れて行っても、もうこんなところには来たくないという学生が出てきてしまうので、ぜひそういうことは避けて欲しいと思います。

わたし自身もいろいろな学習会・集会に行ってよかったのは、80年代の学生でしたから当時でも若い人は少なかったので参加すると、「ちょっと学生さん懇親会に来ないかい」と言われて行くと、「学生さんはただでいいよ」と言われたのです。集会とか学習会に行くと勉強できるだけじゃなくて、ただで飲み食いできるんだと喜んでいったわけで、さらに人間関係も広がっていったわけです。だからこそ私は学生を連れて行ったわけですけれど、先ほど言ったように一方的にしゃべるといまの若い人は嫌がりますから、そこはぐっとこらえて相手が質問するまで待って欲しいし、相手のことをなるべく聞いて欲しいのですよね。特に人生の先輩方にお願いしたいのは「金は出しても口出すな」です。そういう精神で、若い人が来て何か勉強になったし、交友関係も広がったし、さらにただで飲み食いできるよねというかたちで、若い人たちを運動に呼んでいただければと思います。

最後はちょっとくだけた話になりましたが、もう昨日から与党の協議が始まっています。本格的にはゴールデンウィークあけの法案提出になりますけれども、その前の段階から運動を展開しないと手遅れになります。今日地方から参加された方は持ち帰って、名古屋周辺の方であれば名古屋周辺で、ぜひ大きな運動を展開して欲しいと思います。

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特別報告:「戦争する国と靖国問題」

内田雅敏(弁護士)

こんにちは、戦後70年ですが、1945年の敗戦の年に生まれましたので、戦後何年というと、それが自分の年です。この近くの蒲郡に生まれました。高校時代まで愛知県で過ごしました。今日は25分ということですので、街頭で話すこととあまり変わらない話になってしまうとは思いますが、おつきあい願いたいと思います。

一昨日の安倍首相の施政方針演説、「日本を取り戻す」「この道しかない」「明治の日本人に出来て、今の日本人に出来ないはずがない」「昭和の日本人に出来て、今の日本人に出来ないはずがない」。本当に安倍首相はこういうフレーズが好きですよね。昨年の5月30日にシンガポールのシャングリラ・ダイアローグで安倍首相は基調講演をしたんですが、『世界』3月号に書きましたが、その一節です。「国際社会の平和、安定に、多くを負う国ならばこそ、日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい、“積極的平和主義”のバナーを掲げたい…自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるに、ただひたぶるに平和を追求する一本の道を日本は一度としてぶれることなく、何世代にもわたって歩んできました。これからの幾世代、変わらず歩んでいきます。この点、本日はお集まりのすべての皆さまに一点、曇りもなくご理解願いたい」。いったいどこの国の話かと思います。

70年前のアジアで2000万人以上、そして日本で310万人の死者をもたらした。「敗北を抱きしめて」「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」(憲法の前文)に基づいて日本は戦後出発した。

戦後の日本の政府の公式見解を見てみますと、一貫しています(もっとも、対外的な公式見解に対しては妄言が必ずありますが)。例えば1972年の日中共同声明で「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」。あるいは1985年の中曽根の国連総会演説、あるいは1993年の河野官房長談話、1995年の村山首相談話、そして1998年の日韓共同宣言、あるいは小渕内閣の日中共同宣言。一貫して日本政府は、歴史に対して向き合うという姿勢を述べてきている。それがどこから来ているかというと、結局はすべて「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」と、ここに収斂しているわけです。

悪名高い1959年の砂川大法廷判決でも、冒頭においてはこう言っている。「そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものである」。この砂川大法廷判決の冒頭部は、いま私たちが言っていることと、ほとんど変わりがない。

このように日本政府は対外的に述べて来た。日本の戦後の歴史は、謝罪と妄言の歴史だといわれるように、こういう政府声明があると必ずそれに対して有力な政治家、あるいは閣僚が、「日本の植民地支配は良かった。悪かったのは白人だ。アジア解放の戦いだった」こういう妄言を吐いてきたわけです。

ただ、これまでそういう閣僚の妄言には、批判が起きて辞任をする。あるいは辞任をしない閣僚については罷免をする。例えば、中曽根内閣の時の藤尾文部大臣。彼は、植民地支配について肯定していて、批判されても撤回しなかった。だから解任された。あるいは奥野誠亮法務大臣、これも解任された。

ところが、今日の事態は、総理大臣そのものが、妄言を吐いている。つまり、今の内閣は、歴史修正主義者によって占領されてしまっている。日本だけでなく、世界には歴史修正主義者はいっぱいいます。日本にも、石原慎太郎に代表されるような連中がいます。しかし、そういう連中は、都政は牛耳られましたけど、国政を牛耳ったことはなかった。ところが、今は、歴史修正主義者が政権を担っている。そういう事態です。私は、「世界」の論文の中で十いくつ紹介していますが、歴代の小泉内閣も、細川内閣も、橋本内閣も、みんな同じ事を言っています。そういう一連の流れを追っていきますと、この安倍政権がいかに異様な政権であるか、ということを痛感します。

安倍のシャングリラ・ダイアローグ演説は、さらに続きがあります。聞いていたら冷や汗が出てくるようなことを述べている。

「新しい日本人は、どんな日本人か。昔ながらの良さを、ひとつとして失わない、日本人です。貧困を憎み、勤労の喜びに普遍的価値があると信じる日本人は、アジアがまだ貧しさの代名詞であるかのように言われていたころから、自分たちにできたことが、アジアの、ほかの国々で、同じようにできないはずはないと信じ、経済の建設に、孜々として協力を続けました。新しい日本人は、こうした、無私・無欲の貢献をおのがじし、喜びとする点で、父、祖父たちと、なんら変わるところはないのです」。

どういう歴史認識、どういう歴史を学んできたのかと思います。これは、世界で通用しません。もちろん歴代日本政府の公式見解にも反するものです。これが通用する所が1カ所だけ日本にある。千代田区のど真ん中にある。靖国神社でしか通用しない。安倍首相が靖国神社に行きたがるかがわかる。

靖国神社の歴史認識は、アジア解放の戦いだったという聖戦史観です。靖国神社発行のパンフレットを見ますと、いまだに「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守ってゆくためには悲しいことですが、外国との戦いも何度かおこったのです。明治時代には“日清戦争”“日露戦争”、大正時代には“第1次世界大戦”、昭和になっては、“満州事変”“支那事変”、そして“大東亜戦争”“第2次世界大戦”が起りました。…戦争は、本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国家として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです」。こういうふうに言っています。こんな歴史観が世界で通用するはずがない。

東京のど真ん中にある靖国神社に、日本の首相が参拝する。日本が戦後営々と積み重ねてきた、外に対して述べてきた歴史認識が、いっぺんに砕かれてしまう。2004年に3・1独立運動の記念式典で、盧武鉉大統領が「日本は、もう謝罪をした。これ以上謝罪をする必要はない。だけど、謝罪に伴う、見合う行動をしてほしい」と述べた。私たちはいつまでこのようなことを続けるのか。靖国神社の存在は、アジアの和解を妨げています。

戦後70年に私たちが振り返るのは、「何をしてきたのか」、「何をしてこなかったのか」です。「してきた」というのは、まさに対米従属であり、それが沖縄に象徴的に表れている米軍基地、安保の問題でしょう。「してこなかった」のは、アジアとの和解です。アジアから孤立している。これらは連動しています。対米従属だからアジアから孤立し、アジアから孤立するから対米従属をさらに強める。こういう関係性をずっともってきた。そういった意味では、私たちは、やはり靖国神社の問題を本当にここで決着をつけていかないと、ずうっと尾を引いて真の和解にならない。

靖国神社の問題で一番よく言われるのは、「どこの国でも戦死者・戦没者を追悼しているではないか。なぜ、それが悪いんだ」ですね。その通りなんです。どこの国でもやっているんです。日本だってやっていますよ。毎年、8月15日に武道館で、戦没者追悼式をやっています。これに対して、国家はそんなことやるべきでないという意見もありますが、それはさておき、日本も戦没者追悼式をやっている。それについてアジアの国々から批判されたことはない。それは、どこの国でもやっていることだからです。批判されているのは靖国神社に対する参拝、靖国神社という場所の問題です。ところが一般的論調では、「A級戦犯がいるから、いけないんだ」と、A級戦犯分祀論の話になる。

笑ってしまったんですが、最近、萩生田光一という安倍の側近が、文芸春秋社の『2015年の論点100』に、以下のように書いている。

A級戦犯という概念は、日本には存在しないのだと言っておきながら、他方では「私は、今や、A級戦犯の魂は靖国神社におられないと思う。なぜならば、日本人の美学として、自分の存在が人に迷惑をかけるときは身を引くという美学がある」。たぶん、萩生田らは、靖国神社からどこかへ行った。これは、どういうことかというと、彼らは、A級戦犯の存在に非常に困っているわけです。なぜならば、A級戦犯があそこに合祀されていると、天皇は参拝しない。靖国神社は、臣下に対して決して頭を下げることのない天皇が、天皇のために死んだ戦死者に対しては、頭を下げる。これが、靖国神社の生命線なんです。天皇参拝がなければ、首相の参拝なんかどうでもいいんですよ。天皇の参拝があれば、靖国神社は目的を達する。それには、A級戦犯がじゃまだが、A級戦犯分祀と言うことをおおっぴらに言えないから、「もう、おられないんではないだろうか」と言っている。

新聞論調も世間一般は、A級戦犯分祀論です。私は、一昨年の夏以前からA級戦犯分祀論を言っている人には、全部手紙を出した。新聞の論説委員にも、ぜんぶ手紙を出しました。「おかしいではないですか。A級戦犯が合祀されているのが問題なのではなく、先の戦争をアジア解放の戦いとする靖国神社の聖戦論こそ問題だ。A級戦犯の合祀は、そのひとつの象徴にすぎない。なぜ靖国神社はアジア解放の戦いだという、世界で絶対に通用しないような見解をもっているのか。それは、靖国神社の出自による」。つまり、ここは、本当に強調したいところなんですけれども、靖国神社は、新しい疑似宗教施設。明治以降、長州の神社から始まった。日本には、たとえば出雲大社、伊勢神宮、あるいは熊野神宮、いろんな古い宗教施設がある。そういう古い宗教施設に比べて本当に僅かな期間にできた靖国神社が、なぜ、他の宗教施設を凌駕するような存在になり得たのか。それは、靖国神社が内務省の管轄であると同時に、陸軍省、海軍省の管轄で、すべての戦死者の魂を独占している。ですから、戦死者の魂はすべて靖国神社に行くという虚構がある。この虚構こそが、靖国神社の生命線です。すべての戦死者の魂を独占するために、虚構を維持するためには、一人の戦死者の魂も逃さない。戦死者本人、遺族の気持ちは一切関係ない。勝手に祀ってしまう。無断合祀による戦死者の魂独占の虚構、これが靖国神社の生命線なんです。そして、「靖国神社は、追悼の場ではない。そこは、褒め称える場、そして新たに天皇の兵士を生み出す場。褒め称えるためには、あの戦争は間違った戦争であってはいけない。正しい戦争でなくてはならない。だから、南京大虐殺もなければ、従軍慰安婦のような忌まわしいものはない。これが、靖国神社のカラクリなわけです。つまり、靖国神社は、無断合祀による戦死者の魂独占の虚構、これを維持するための聖戦論、これを絶対に放棄しない。これを放棄した瞬間に、靖国神社は、靖国神社でなくなって、単なる一宗教法人、新しい宗教法人になってしまう。だからA級戦犯を絶対に分祀しない。分祀した瞬間に靖国神社は靖国神社でなくなってしまう」。

こういうことを、私は、各紙の論説委員、あるいは寺島実郎なんかにも述べて来た。ついこの間は、明石康さんが講演をして、私はそれを聴きに行った。明石さんは、「戦後70年という言い方は間違いだ、敗戦後70年と言わなければならない」と。なるほどなあと思った。ところが、明石さんも、やはり靖国神社についてA級戦犯合祀は問題だという言い方をするわけです。ですから、私は、「間違いではないですか」と言った。つまり、A級戦犯合祀は、単なる象徴に過ぎないのです。

ところで、靖国神社を批判する場合、私たちが同神社を単に理論的に批判しただけでは、解決しない。なぜかというと、例えば、ある遺児は、靖国神社に行ったときに、また宮司が出てきて「みなさん、よくおいでなさった。お父さんお待ちかねですよ」と声をかける。その時に、その遺児は、畳に爪を突き立てて涙をこらえた。「お父さん、お待ちかねですよ」と言われて。そして、帰る時に宮司が出てきて、「みなさん、家庭を持ったら、また子供さんと一緒にお父さんにお孫さんを見せに来て下さい」と、こういうふうに言う。そして、家に帰って感想文に「また靖国神社に行くぞ」と書いて、後になって恥ずかしくなったと書いている人がいます。あるいは、保阪正康さんが書いているのですが、保坂さんのおじさんが海軍兵学校出身で、「天皇が参拝しようが、首相が参拝しようが、俺は関係ない。俺は生き残った。俺の仲間たちは死んだ。毎年、仲間たちに会いに来て、俺は生きているぞということを語りたいんだ。他に行くところがないじゃないか」、と述べているそうです。ある遺児は、「靖国神社がおかしいのはわかる。だけど、他に行くところがないじゃないか」とも述べる。

そういう遺族・遺児たちに対して、私たちが、いくら「靖国神社は、おかしい所です」「靖国神社の歴史観は、おかしい」、こういうことを語り続けても、決して解決にはなりません。そのためには、私たちが、もう一度、遺児たちの気持ちに寄り添わなくてはならない。私たちが、亡くなった人たちをどう追悼するか。本来追悼というのは、故人を知っている人がするものです。家族とか、友人とか。知らない人が追悼できるはずがない。そういった意味では、国家が死者を追悼してはいけないというのは、正論なんです。しかしながら、遺族にしてみれば、「あの戦争は間違っていた戦争だったかもしれない、侵略戦争だったかもしれない。しかし、国家の命令に基づいて出て行って死んでしまったではないか、私の夫は、私の息子は、私の父親は。それについて国家は、なんとか面倒をみてほしい」と。こういう遺族の気持ちについて、「国家が戦死者を面倒みるとろくなことがない」ということを語っても、なかなか言葉は届かない。届く人も、もちろんいますけれどもね。

そういう人たちに対して、やはり、沖縄の「平和の礎」、あるいはベルリンにあるような施設、なんらかの施設が必要ではないか。国立追悼施設ということなんですけれども。これを言うと、「そんなのは、第2の靖国になるだけだ。内田がそう言うのは、けしからん」という批判が運動圏の人たちからくるわけです。しかし私は、正しいことを言い続けることだけでは運動はできない。正しいことを言うのが運動ではなくて、どう届く言葉を我々がもつか、そして、多少そこで妥協することがあったとしても、より悪さの少ない方法を考えないと、この靖国問題は解決できないんじゃないかと思います。

同時に、靖国問題を語る場合に、靖国神社に行って、あそこで、どういう展示がなされているかということを具体的に語ることです。例えば、この萩生田光一も、その文章の中で、大西神話を語っている。大西は、特攻作戦をやって、それは戦争をやめたかったんだ。しかし、今、日本で戦争を止めることのできるのは天皇しかいない。だから、特攻作戦をやれば、天皇が「そこまでしなくちゃならないのか。じゃあ、この戦争をやめたらいい」と言うことを願っていたんだと。

こういう大西神話は、けっこうあるんです。そして、靖国神社には、「大西は多くの若者を死なせた。そして、彼は、自分も自決をした」という展示になっている。ところが、東郷茂徳外務大臣の書き残したものによれば、1945年8月13日の夜に大西は、参謀総長、海軍軍令部総長、外務大臣に対して「あと2000万人を殺す覚悟であれば、負けはしない」と、戦争終結に反対をしている。こいうことが、靖国神社には、全く展示されていない。そういう展示されていないことに、私たちは、一つ一つ検証しながら、やっていかなくてはならない。

あそこに行きますと、若い宮司が、見学者を連れてきて、特攻隊のところでどう説明しているか。私は驚きました。「特攻隊の成功率は、突入、それから至近突入、当時2割5分といわれておりました。しかし、戦後のアメリカの調査によると5割5分の成功率でした。二人に一人成功したのです。アメリカの兵隊たちは、特攻作戦で、みんなノイローゼになっちゃって、ある船では、7割の人はノイローゼになって船が動かなくなってしまった。だからアメリカは、本土決戦をやめたんです。本土決戦をやれば、もっと多くの特攻機が飛んでくる」。これを70年前の靖国神社でなくて、2014年の秋の靖国神社でやっているんです。また、別の宮司は、「みなさん、特攻隊隊員に対して可哀想と思わないで下さい。彼らは、自分の親や兄弟たちを守るために喜んで死んでいったのです」。こういうなことを相変わらずやっているんです。こうしたことについて、私たちは、一つ一つ、具体的に、この事実はどこがおかしいか、ということを指摘してゆかなくてはならない。例えば、先ほど言った、大西瀧治郎が「あと2000万人を殺す覚悟であれば負けはしない」と言った資料は、他にもいっぱいあるわけです。そういう資料を展示すれば、一発でわかるわけです。そいうことなんです。

先日、ヴァイツゼッカー大統領が亡くなられました。実は、1989年の2月10日に、私たちは、ヴァイツゼッカー大統領に手紙を出しました。その手紙は、当時西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が天皇裕仁の葬儀に参加するというので、それについて、小田実さんとかキリスト者、弁護士、学者たちを中心に22名でヴァイツゼッカー大統領宛に手紙を出しました。「日本は天皇賛美一色のようになっている。しかし、決してそうではなく、日本の戦後の歴史を批判的に把えているグループもいることをご理解下さい」という趣旨の手紙です。驚いたことに、2月10日付けの手紙に対して2月20日付けでヴァイツゼッカー大統領からの返事が、ドイツ大使館を通じて当時事務局になっていた私の事務所宛に、わずか10日あまりで返事が来たわけです。

何を言いたいのかというと、日本の首相に対してもアジアの各地から様々な文書が来ています。それに対して日本の首相は、全く答えていない。ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、キリスト者の関係で出したこともあるんでしょうけれども、駐日本ドイツ大使館が訳文付きで手渡しで持ってきているわけです。その中で大統領はなんと言っているかというと、「いかなる民族も各々の歴史に高揚の時と低迷の時代を含めて自覚を持たねばなりません」と。そして、「どこの国の歴史にも、いいところと悪いところといろいろある。そのことに自覚を持たねばならない。しかし、そのことは、すべて、その国民がすべきことである。自分の1985年5月8日の演説は、ドイツ国民に対して訴えたことであり、そして、多くのドイツ国民の共感を得た内容である。皆さん方も頑張ってほしい」というような内容の手紙をいただきました。26年前ですよ。先日、ヴァイツゼッカー大統領が亡くなったものですから、改めて思い出しました。

もうひとつ、その関連で、この写真を見て下さい。日比谷公会堂3階ロビーです。1960年10月12日、浅沼稲次郎社会党委員長(当時)が、山口二矢少年によって刺殺されました。1971年にこういうレリーフが作られました。いつの頃からかはわかりませんが、掲示板がレリーフの前に作られ、この掲示板はカギを開けないと開きません。つまり、過去に目を閉ざしているわけです。こしたことを我々は全く知らなかった。つい最近、あることを契機として知りました。1月30日に行ったんですけれど、前日の1月29日には「戦争させない1000人委員会」の主催で、本島等さん、菅原文太さんの追悼集会をやった。そこで、長崎の平野さんが、1990年、本島さんが狙撃されたときの血染めのシャツを持ってきて、本島さんの活動について語った。私たちは、こういう浅沼さん、本島さん、さまざまな人たちをきちんと記憶して、そして伝えていかなくてはならない。それが、過去に目を閉ざさないことではありませんか。

「過去に目を閉ざすものは、現在をみることができない。非人間的な行為を心に刻むことを拒むものは、またそうのような危険を犯すことになります」ということを何回唱えたところで、それだけではダメなんです。具体的な中で、私たちはこういう過去に目を閉ざしている。今年は、浅沼遭難から55周年。私は、今年の10月12日には、多くの人たちが浅沼の遭難を記憶し継承するという運動を起こすべきだと思います。同時に、当時、山口二矢は17歳の少年であった。私は、15歳だった。今、山口二矢が生きていれば72歳。72歳の山口二矢は何を考えるだろうか。練馬の鑑別所で、歯磨き粉を溶いて「七生報国」と書いて死んだ。その後も、彼が生きていたとすれば、どういう人生を送っただろうか。春秋に富んだ人生を送った可能性がある。私は、亡くなった浅沼さんを悼むと同時に72歳の山口二矢のことも考えたい。そして、このことは、あの特攻隊の若者を殺した連中と同じですよ。17歳の少年にこうしたことをさせた。戦時中と全く同じことをやっていた。そういうことを私たちは、もう少し考えてみる必要があるんではないか。
今日は時間がないということで、これだけで終わります。ありがとうございました。

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【投稿】戦後70年問題が問いかけること 朝鮮人強制労働者の未払い賃金通帳~日本郵政の現場から考える~

松岡幹雄@とめよう改憲!おおさかネットワーク事務局

私は郵政ユニオンという郵政関連労働者で組織する労働組合の役員を務めています。安倍晋三首相が出そうとしている「戦後70年談話」にお墨付きを与えるために「戦後70年談話に関する有識者会議」が設置され、その座長に日本郵政社長の西室泰三氏がついています。西室氏は、「新日中友好21世紀委員会」の日本側座長も努めており、この有識者会議がバランスを重視した会議の象徴的な人物のように紹介されています。

しかし、日本郵政とゆうちょ銀行は、在日朝鮮人名義の郵便貯金の問題を解決しようとはしていません。私たちは、このような会社の社長が戦後70年談話の座長であることに大いに疑問を感じています。

一昨年の9月7日、共同通信は、「朝鮮人名義の数万冊の郵便貯金通帳が本人に無断でゆうちょ銀行福岡貯金事務センターに集約、保管されていることが確認された」と報じました。

貯金のほとんどは日本国内での朝鮮人強制労働者に対する未払い賃金とみられ、連行企業の多くが、連行した労働者の逃亡を防ぐために賃金の一部を郵便局に強制貯金させ、その郵便貯金の多くは終戦時の混乱で本人に渡されず、戦後も通知されなかったものです。

記事では、ゆうちょ銀行広報部として、「一般論として(個人請求権を消滅させた1965年の)日韓請求権協定で完全且つ最終的に解決された」ことにより、払い戻しは困難との見解を示しています。このゆうちょ銀行の対応は、政府が「日韓協定締結以後、韓国人に対する戦後補償問題は完全に解決済みになった」と繰り返し表明してきた「方針」をそのまま踏襲したものですが、それは今日、日韓双方における共通認識とはなっていません。

韓国においては、昨年、強制労働に関する三菱重工及び新日鉄事案に関して、韓国大法院(最高裁)において強制労働被害者の損害賠償の個人請求権を認定し、同時に時効及び別会社論を否定するという判決が出されています。日本の強制労働に関与した企業の責任があらためて問われているのです。

ゆうちょ銀行及び独立行政法人郵便貯金・簡易生命保険管理機構が保管している口座は、サハリン問題(日本の植民地支配のなかで、サハリンへ強制移住させられた朝鮮人は多くいたが、戦後、日本政府は日本人だけを帰還させ、朝鮮人を放置したが、この未帰還の朝鮮人の郵便貯金は未払いのまま)を含め、日本が今でも未処理のまま保有している外地郵便貯金1866万口座、22億6600万円、軍事郵便貯金70万口座、21億5300万円があり、これらは旧植民地の人びとの貯金も多いとみられています。軍事郵便貯金については、福岡貯金事務センター(旧熊本JC)において、日本軍「慰安婦」とされた文玉珠さんの原簿確認が行われたように、原簿があることが確認されています。

昨年1月、赤嶺衆議院議員、塩川衆議院議員事務所でこの問題についてゆうちょ銀行へのヒアリングが行われました。その中で会社は、通帳の所有権がゆうちょ銀行かお客さまか「結論が出ていない」、さらに現在通帳に対応する「原簿が廃棄されている」などと説明しています。

私たちは、現在会社に対して(1)韓国政府に対して確認されている情報の提供を行うこと、(2)個人の請求権を認めること、(3)調査の全容を公開すること等を要求し交渉を求めています。

日韓の市民団体とも今後この問題で協力を進め、日韓民衆が連帯し日本郵政とゆうちょ銀行に社会的責任を取らせたいと思っています。

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