私と憲法162号(2014年10月25日号)


日米の戦争共同体制の飛躍を目指すガイドライン改定に反対する。「総がかり行動」が切り開いた道を発展させよう

10月8日、日米両政府は外務・防衛局長級会議を開き、本年末までにまとめる予定(新年年初か?)の日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しの方向性を示す「中間報告」を発表した。このガイドライン再改定については本誌前号でも論じたが、この報告は極めて重大な問題を含んでいるので、今後の闘いの方向性の提起と併せて、改めて論じておきたい。

(1)ガイドラインの再改定の経過と概要

1978年、米ソ冷戦時代に日米安保の運用指針として日米当局の間で取り決められた「ガイドライン」(旧ガイドライン)は、90年代になって北朝鮮の核開発疑惑やミサイル発射実験などを契機とした朝鮮半島危機への対応として改定された(新ガイドライン)。

1993~94年、朝鮮半島の第1次核危機とよばれる北朝鮮の核保有疑惑問題で、アメリカが事実上の北朝鮮攻撃の臨戦態勢に入ったとき、日本政府はこれに呼応する対米軍事支援を即座に準備することができなかった。

アメリカ政府は、95年12月、日本政府が朝鮮半島有事の際に行うべき米軍への膨大で、詳細な支援要綱(在日米軍司令部が作成した1059項目)を日本側に提出した。しかし、平和憲法の縛りの下で日本政府はこの米国の対日要求に応えることを「不可能」とした。あわせて韓国政府がこの第2次朝鮮戦争で200万人の死者が出ることを予測した事情もあり、米国は北朝鮮攻撃を断念し、米朝合意を結ばせることで危機を収拾せざるを得なかった。この屈辱的な事態が米国による日本政府に対する有事法制・戦争法制の整備への強い要求となった。1997年、ガイドラインは改定され、その中で周辺事態(日本の平和と安全に重要な影響を与える事態)での米軍支援が盛り込まれた。これに沿って1999年には「周辺事態法」(非戦闘地域での自衛隊の米軍支援を可能にして、「専守防衛」を踏み越えた)が制定された。以降、武力攻撃事態対処法、国民保護法、ACSA=日米物品役務相互提供協定改定など、日本政府は着々と「戦争のできる国づくり」のための法制化を進めてきた。

しかし、これらは従来からの集団的自衛権に関する歴代政権の憲法解釈を踏襲して、海外での米軍の武力攻撃には参加しないという「歯止め」を残したものであった。

(2)問題の所在

今回のガイドライン「見直し」の「中間報告」では、米国オバマ政権のアジア太平洋地域へ軍事・外交の軸足を移すリバランス(再均衡)戦略および、7月1日の日本政府の集団的自衛権行使容認の閣議決定にそって、「アジア太平洋およびこれを超えた地域の利益」のための日米同盟の強化のためだといわれている。報告は「日米同盟のグローバルな性質を反映するため、協力の範囲を拡大する」としている。

また、「新たに発生する国際的な脅威は、日本の平和と安全に対し深刻かつ即時の影響をもたらし得る。また、日本に対する武力攻撃を伴わないときでも、……迅速で力強い対応が必要となる場合もある」ので、「平時から緊急事態までのいかなる段階においても、切れ目のない形で……措置をとる」として現行ガイドラインの「周辺事態」条項を削除し、さらに「後方地域」概念も放棄して、「グレーゾーン事態」を含めてシームレスな対応をとり、自衛隊参加の地理的「歯止め」を削除し、地球規模の軍事同盟に転換した。

この「中間報告」の方向で、ガイドラインの再改定が行われれば、日本の自衛隊は世界中で米国と共に戦争する軍隊となるのであり、これはまさに帝国主義そのものである。

このような日本国憲法の平和主義の根幹に関わる問題を、先の閣議決定同様に、国会での審議すら回避して、日米両国政府の担当者間で取り決め、既成事実化しようとするのは、立憲主義に反して憲法を無視するものであり、議会制民主主義を破壊するものであり、主権在民原則の破壊であり、安倍内閣の独裁であると言わなければならない。

(3)「専守防衛」と、日米安保条約の「歯止め」の撤廃

日本国憲法の平和主義の下で、歴代政府が苦しい解釈につぐ解釈を重ねて定めてきた「専守防衛」と呼ばれる防衛方針は、もとより日本国憲法に大きく制約されたものであった。

今次「中間報告」が削除した「周辺事態」とは、従来、「地理的な概念ではない」などと説明されつつも「日本の平和と安全に重要な影響をあたえる事態」であるとされ、実際には1990年代初めの朝鮮半島危機を念頭に、朝鮮半島有事を想定した、まさに「周辺」における事態を想定したものだった。

また、「非戦闘地域」概念は、自衛隊が米軍と一体になって戦争することを否定するための概念であり、中間報告で従来の「非戦闘地域」概念が撤廃されたことにより、自衛隊の米軍に対する後方支援の活動範囲が「戦闘地域」にまで拡大することになった。

今回はこれらの制約は外され、「日米同盟のグローバルな性質」が強調され、世界的規模で戦争をする日米同盟になった。これらは「専守防衛」に代表される歴代政権による従来の憲法解釈の範囲を大きく踏み越えるものであり、これと日本国憲法の平和主義の間には、それを正当化するどのような「解釈」もありえない。

もともと日米安保条約は、第4条で「日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたとき」とし、第5条で「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動する」とその適用範囲を限定しているのであって、「日米ガイドライン」などという両国政府の行政協定によって、この適用範囲を世界大に拡大するなどということは許されることではない。この中間報告が企てているような改編が必要であれば、それは日米安保条約自体の改定なしにはありえないことなのである。

(4)ガイドラインの再改定が企てる地球規模での攻守同盟

米国のオバマ政権は軍事・外交・経済の各分野の軸足をアジアに移す「リバランス戦略」を打ち出しつつも、ウクライナ情勢でのロシアとの緊張関係や、中東における「イスラム国」への対応など困難な問題を抱えている。中国や北朝鮮問題にも対処しながら、リバランス戦略を維持するためには、日本に役割を一部肩代わりさせる以外にない。米国は7月1日の閣議決定で集団的自衛権行使の「限定容認」に踏み切った日本に対しては、朝鮮半島有事における積極的支援や、ホルムズ海峡における機雷除去などシーレーンにおける機雷掃海などを肩代わりさせようとしている。読売新聞が10月16日が報じたところでは、対「イスラム国」空爆を開始した後、オバマ政権の高官が「自衛隊による後方支援はできないか」と打診してきた。しかし、日本政府は「集団的自衛権行使を限定的に容認する安全保障法制の議論に悪影響を与えかねない」として断ったという。しかし、閣議決定をしている以上、今後ともこのようなケースで断り続けることができるのかどうかは時間の問題ではないか。

安倍政権は集団的自衛権行使容認の閣議決定に際して、集団的自衛権行使の全面解禁に抵抗する公明党を説得し、これを連立政権にとどめるために、5月に公表された安保法制懇の答申を一部拒否したうえで、「限定容認」論に踏み切るという政治的妥協を行った。なぜなら世論が安倍政権の集団的自衛権行使の企てを支持しておらず、公明党の躊躇はその反映であるからだ。

安倍政権は当面、公明党との調整に時間をかけながら、遅くとも年明けにはガイドラインの再改定を強行し、通常国会後半での戦争関連法制の改定・策定を企てている。この戦争関連法は膨大なものとなるため、一時期は「一括法」でやると言われていたが、この動き派いまのところなりを潜めている。いずれにしても春の統一地方選が終われば一挙に噴き出してくるにちがいない。

いま、日本の自衛隊が地球の裏側までを含んだ全地球的規模で米国の戦争に加担するという、日米のグローバルな攻守同盟体制が形成されようとしている。戦後の日本社会における平和憲法のながれが清算されようとしている。その先にあるのは戦争と、それを支える「茶色の朝」の社会に他ならない。

(5)「総がかり」行動が切り開きつつある道を進もう

しかし、国内の世論の多数は安倍政権が企てる「戦争する国」への道を支持していない。韓国社会をはじめ、かつての日本の侵略戦争を体験したアジアの民衆はこれを許さないだろう。アジアの民衆と連携して、わたしたちは腹を据えて、全力で安倍政権の「戦争する国」の道に立ち向かうときだ。

議会で圧倒的多数を持っているとはいえ、安倍政権は盤石ではない。安倍政権の暴走は日米間にも、与党内にもさまざまな矛盾を生み出している。

いま提起されている「戦争させない・9条壊すな!11・11総がかり国会包囲行動」を成功させることは極めて重要な課題になった。集団的自衛権問題が第1級の政治課題になった今年初めからの反戦平和運動における従来からの対立・不協和音を克服する努力は、運動の今後の帰趨に関わる歴史的な試みだ。平和フォーラムを軸に全国組織化をすすめてきた「戦争させない1000人委員会」と、広範な市民運動が結集して4・8日比谷集会、6・17日比谷集会を成功させてきた「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」が協力して新たな運動をつくり出そうとしている。6・30、7・1官邸前行動につづく9・4日比谷から11・11国会包囲へ、この流れを促進し、まさに全ての反戦・平和勢力が「総がかり」で闘いに取り組むべき時がきた。この課題のまえに、主義主張の小異や狭いセクト的な運動上の利害を大胆に留保することができるかどうか、全ての政治勢力に問われている。

私たちは当面する秋から年末にかけての日米ガイドライン再改定反対の闘いの中で、その危険性を徹底的に暴露し、それを2015年の通常国会における集団的自衛権行使のための戦争関連法阻止の運動につなげて行かなくてはならない。安倍政権の悪政に怒りをもやしてさまざまな課題で闘う民衆運動に呼応しながら、来春、平和を望む民衆の巨大なエネルギーを組織して、波状的に国会を包囲し、安倍政権を打ち倒すための連続的な行動を展開しぬこう。まさあに「総がかり」の闘いをもって、この数十年来、運動圏で待望されてきた「(60年)安保のように闘おう」のスローガンを文字通り実現させようではないか。

11月16日に投開票される沖縄の県知事選の勝利はそのための強固な足がかりをつくり出すだろう。私たちが「総がかり」で闘えば、安倍政権が世論の反対を恐れて、統一地方選が行われる来春以降に先送りしようとしている戦争関連法制の整備を阻止する力をつくることは可能だと確信する。(事務局 高田健)

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軍事予算による「ローン地獄」

小川 良則(市民連絡会)         

【安保の完全グローバル化】

7月1日の集団的自衛権容認の閣議決定の強行に続いて、10月8日には日米ガイドラインの再改定の中間報告が取りまとめられた。その具体的な内容についての論評の詳細は高田さんによる別稿に譲るが、一言で言えば、地理的・時期的限定を外して日米軍事同盟を完全にグローバル化し、日本が「いつでも・どこでも」海外の紛争に武力介入できるようにしようというものである。

報道によれば、その関連法制は次期通常国会に出される見通しとのことではあるが、法整備に先行した実質的な内容の先取りが既に防衛大綱や予算等に盛り込まれ、着々と既成事実化が進められている。また、この臨時国会では「特定防衛調達に係る国庫債務負担行為により支出すべき年限に関する特別措置法」なるものが10月7日に閣議決定され、閣法187-14号として提出されていることも無視する訳にはいかない。

【膨らむ軍事予算】

まず、この冒頭第1条の趣旨規定では「現下の厳しい財政状況の下で防衛力の計画的な整備を行う」ことを目的に「長期契約により」「経費の縮減」を図るとしている。しかし、財政が厳しいという自覚症状があるなら、なぜ義務的経費等を除き原則△10%というシーリングを無視し、対前年度3.5%増で過去最高の5兆円を超す要求ができるのだろうか。少なくとも、イージス艦建造費2,274億円や哨戒機P-1購入費3,781億円など、無駄遣いとしか思えない。

もっとも、上記の金額は政府が最終的に業者に払う契約ベースのもので、現実には何年かの分割払いとし、初年度には頭金のみが予算化される。2015年度の概算要求で装備品の調達等の物件費として予算化されたのは2兆7,940億円だが、この他に2016年度以降に予算化される「ツケ払い」の部分が2兆5,766億円も控えている。しかも、その2兆7,940億円のうち実に1兆7,598億円が2014年度以前に契約したものの「ツケ払い」で占められているのである。そして、この「ツケ払い」の部分が年々膨らみ、2015年度概算要求では前年度より2割以上も増えている。これは、いつかは予算化しなければならないものである以上、後年度の財政を大きく圧迫する要因となる。

【長期延べ払いで兵器調達】

そこで浮上してきたのが「ツケ」で先送りする部分をもっと増やそうという今回の法案である。現在、財政法では、こうした「ツケ」である「債務負担行為」について原則5年以内と定めているが、これを10年まで延長しようというのが今回の法案の第2条であり、実は、2015年度の概算要求は既にこれを織り込んだものとなっている。

しかし、当面の見かけの金額を小さく見せることはできるかもしれないが、ローンの返済で火の車という構造が改善される訳ではないし、附則で現中期防衛計画期間中の時限立法としているものの、一度膨らんだ負債は簡単には解消されない。

一応は、契約期間が長期に亘れば全体の規模も大きくなりスケールメリットが生かせるからトータルとしては節約になるという説明がなされており(防衛省ホームページに掲載の概算要求の説明)、法案第3条ではこれによる節減効果の公表も定められている。とはいえ、実際に業者から5年契約と10年契約の2種類の見積りを取って比べる訳ではなく、あくまでも仮想の計算に過ぎないから、そこに人為的な誘導が働かないという保障はない。実際に、小泉総理(当時)の「人生いろいろ」発言まで飛び出した2004年の年金国会の際の政府の推計がいかに杜撰なものであったかは記憶に新しいところである。

【財政民主主義からも疑問】

いかなる施策であれ、その実現には経費を必要とする以上、何にどれだけ財源を配分し、その財源をどこからどう調達するか、主権者の代表である議会の審議に付すことにより、財政面を通じても政権を民主的統制下に置くという財政民主主義は主権在民の要請に基づくものである。しかし、この法案は、二重の意味でこの要請に反している。

まず、初年度に計上する金額を小さく見せる一方で、後年度に先送りされた負担の全体像が見えにくい。もちろん、予算書には項目毎に向こう何年間でいくらという記載はあるが、年割も全項目の合計も表示されていない。合計を出すには膨大な書類にソロバンを入れていくしかないし、そもそも年度毎の金額がないから、いつ支払いがピークを迎え、それが全体の財政規模に占める割合がどの程度なのかが判断できない。

もう一つは、同じ予算規模でも、過去の「ツケ」の占める割合の大小で政策の選択の自由度が格段に異なってくるということである。審議し議決すべき対象の大半が「指定席」で占められるようなことになれば、財政民主主義は画餅に帰してしまう。

それに、こうした予算の仕組みの根幹に関わるような案件を、財政法本体ではなく防衛装備品に特化した特別法で処理しようとしていることについても、軍事費の聖域化という隠れた狙いがあるのではないかと心配するのは勘繰り過ぎだろうか? 

【戦前の反省は何処へ】

1937年と言えば、2・26事件の翌年であり、満州事変の6年後であり、盧溝橋事件の起きた年であるが、この年、近衛内閣は「臨時軍事費特別会計法」なるものを成立させた。この特別会計は「時局終局までを1会計年度とする」という極めて異常なものであり、その財源としては前記法律と同時に成立した「臨時軍事費支弁のための公債発行に関する法律」に基づき戦時公債で賄われた。これでは財政規律など無いに等しい。

現在の財政法が単年度主義を原則としているのは、この反省に基づくものであり、実は、これまで述べてきた「債務負担行為」は例外的な措置なのである。複数年度にわたる予算措置には「債務負担行為」の他に「継続費」もあるが、いずれも原則5年以内とされている。それでは、ダムや新幹線や高速道路のような長期プロジェクトはどうするのかと言うと、予算とは別に「第○次全国○○整備○か年計画」のようなものが閣議決定され、当該長期計画上の位置づけを対照しながら各年度の予算が議論されている。

ところが、こうした経過を知ってか知らずか、2013年4月18日の憲法審査会で財政条章を取り上げた際には、自民党からも民主党からも複数年度予算の解禁を求める声が出された。そうした際によく持ち出されるのが予算消化のための年度末の駆け込み工事である。しかし、これは単年度主義のせいではなく、獲得した予算は何があっても使い切るという姿勢が問題なのである。ちなみに、財政法第6条は使い残した予算は公債の返済に回すという趣旨の規定になっている。

かつて「政治とカネ」の問題が小選挙区制度へとすり替わっていったし、最近では心がけの悪い議員の問題を議員定数の削減(少数者からの事実上の参政権の剥奪)へと誘導する動きがある。その意味からも、複数年度予算の議論には注意と監視が必要だ。

【参考】

特定防衛調達に係る国庫債務負担行為により支出すべき年限に関する特別措置法
(趣旨)
第1条 この法律は、現下の厳しい財政状況の下で防衛力の計画的な整備を行うため、
特定防衛調達(専ら自衛隊の用に供するために製造又は輸入される装備品、船舶及び航空機(以下この条において「装備品等」という。)並びに当該装備品等の整備に係る役務の調達であって、防衛力の計画的な整備を行うために必要なものであり、かつ、長期契約(支出すべき年限が五箇年度を超える国の債務負担の原因となる契約をいう。第3条において同じ。)により行うことが当該調達に要する経費の縮減及び当該調達の安定的な実施に特に資するものとして防衛大臣が財務大臣と協議して定めるものをいう。以下同じ。)に係る国庫債務負担行為により支出すべき年限に関する特別の措置を定めるものとする。

(特定防衛調達についての国の債務負担)
第2条 国が特定防衛調達について債務を負担する場合には、当該債務を負担する行為により支出すべき年限は、当該会計年度以降十箇年度以内とする。

(公表)
第3条 防衛大臣は、前条に規定する会計年度の予算について財政法(昭和22年法律第34号)第18条の閣議決定があったときは、遅滞なく、前条に規定する債務を負担する行為に係る特定防衛調達の概要及び当該特定防衛調達を長期契約により行うことによって縮減される経費の額として推計した額を公表するものとする。
2 防衛大臣は、特定防衛調達に係る長期契約を締結したときは、遅滞なく、当該長期契約の相手方の商号又は名称、契約金額その他の当該長期契約の概要及び当該特定防衛調達を当該長期契約により行うことによって縮減される経費の額として推計した額を公表するものとする。

附則
(施行期日)
1 この法律は、公布の日から施行する。
(この法律の失効)
2 この法律は、平成31年3月31日限り、その効力を失う。
(経過措置)
3 前項の規定にかかわらず、特定防衛調達に係る平成30年度以前の年度の国庫債務負担行為に基づき平成31年度以降の年度に支出すべきものとされた経費に係る当該国庫債務負担行為により支出すべき年限については、第2条の規定は、同項に規定する日後も、なおその効力を有する。

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第89回市民憲法講座
集団的自衛権~安倍政権は日本をどこへ導くつもりなのか
改めて立憲主義の立場から考える

中野晃一さん(立憲デモクラシーの会呼びかけ人・上智大学教授)

(編集部註)9月20日の講座で中野晃一さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。

次元が違うレベルでおかしくなった

いまご紹介頂きました中野晃一です。今日は集団的自衛権と「安倍政権は日本をどこへ導くつもりなのか」ということについて、私なりの考えを共有させていただけたらと思います。

数年前から、とりわけ安倍さんが政権に戻ってきてから何か様子が違うことを感じるようになりました。自分自身も政治学者の端くれとして話すようになったきっかけは、憲法96条の改正を安倍さんが言い出したときでした。改憲派、あるいはタカ派であれば9条改正を言っていたものが、今度は96条になっている。自民党の改憲案をあらためて見ると、内容もそうとう飛んでいるものが出ている。これは一体何なんだろう。

その後96条の改憲自体はとりあえずあきらめましたけれども、特定秘密保護法の強行採決も、集団的自衛権の解釈改憲もそうですが、政権運営の仕方とか国家、あるいは憲法について、相当これまでの考え方と違います。96条の改憲を言い出したときに、「改憲」ではなくてむしろ「壊憲」、憲法を壊す方に行っている。これは保守という枠組みで捉えたり、タカ派で済ませることとは違っているのではないかということです。「たがが外れている」というか、どこか次元が違うレベルでおかしくなっていることは、多くの方が感じていらっしゃると思うんですね。この中味は一体何なのか、一体どこからきてどこにわれわれを連れて行こうとしているのか、そういったことについてあらためて考えるきっかけになって今に至るわけです。今日お話しさせて頂くことは、若干振り返りながら一体どこで変わったのか。これは保守なのかタカ派なのか。いわゆる右傾化をどうとらえるべきなのかということですね。

あわせて奇妙というか興味深いのは、恐らくここに集まっているみなさまは私が日本は右傾化していると言えば「そうだよね」と思って下さる方がほとんどだと思うんですが、意外とこれがそうでもないんですね。とりわけ安全保障の専門家であるとか、外国の投資家、ジャーナリストでもそうです。職業柄そういう人たちと会うと、安倍ファンとまで言わないけれども、安倍さんの靖国参拝とか復古主義的なところはちょっと嫌だけれども、あれを我慢してくれさえすれば安倍さんを見守りたいとか支持したいとか、あるいは改革をしているというとらえ方をしている人が意外といるわけです。そういう人でもいなければ、恐らく内閣支持率がいまだに40%強くらいあることにはなりません。ですから危機感を持って批判する側としても、いったいなぜそういうことになっているのかも含めて考えないといけないんではないかということでもお話しさせて頂きます。

それから集団的自衛権が突出してきたのも、よく考えてみると奇妙なことなんですね。というのは日本の右派とかタカ派とか、戦後の自民党でも、ねじが飛んだ人はずっといたわけです。岸信介さんもそうですし一昔前で言えば青嵐会もあって、タカ派集団とか非常に右翼っぽく見えたし実際そういう言動をしてきた人、あるいは南京虐殺はなかったというようなことを言う人は昔からいたと言えばいたわけです。けれども集団的自衛権というのは、いかにも奇妙なわけです。自国が攻撃されていないのに他国の戦争に入っていくのが集団的自衛権ですから、なぜこれにそんなに思いを傾けるのかが、なかなかストレートな論理ではわからない。昔で言えば再軍備、あるいは憲法9条を変えることだったらまだ理解できるというか、その延長線上にあるんですが、ことさら集団的自衛権が突出してくるのは何なのか。これは「自国が攻撃されていないのに」、もっと言えば、アメリカに言われたら戦争に出かけるという話にここまで前のめりになる、自称愛国者の首相はいったい何だろうということについて考えたいと思います。

立ちゆかなくなった保守本流

まず大きな図を共有させて頂きますと、保守政治の新右派転換が行われたということがわたしの分析です。図表の1と2に大づかみにまとめてあります。図表1は古い自民党、保守本流と言われていた時代の自民党です。いびつなかたちの雪だるまのようですが、恩顧主義が下で開発主義が上にあって、このふたつの楕円を重ねた連合体が古い自民党、55年体制を担っていた自民党の指向する政策、単純化していますが、主として自民党はこういうものを追求してきたというまとめ方ができます。

恩顧主義というのは、いわゆる田中角栄的なもので、親分-子分の関係で利益誘導をする。公共事業をジャバジャバやって補助金も使う、あるいは国内産業は保護政策を行っていわゆる護送船団方式をやる。親分-子分の関係ですから、有権者あるいは支持層は、政治学の用語でいえばある種の「顧客」です。恩顧主義というのは親分-子分の関係で、国会議員のなかでも派閥の領袖が子分を飼っていて盆暮れには付け届けをして、「なんだお前、モノがいるのか」と言えば「紙袋を持って行け」という話になるわけです。そういう国会議員を地方に戻れば県議会議員が支えていて、さらに後援会組織がその下にあって集票マシーンにも集金マシーンにもなっているし、権力基盤になっている。見返りには国の財政から鉄道を持ってくる、新幹線を持ってくる、補助金を持ってくる、林道から何からということでいろいろな族議員がいるというのがこの図式になっています。そういうかたちがあったわけです。

これは田中角栄が体現していると思うんですが、その後の田中派、そして竹下派、経世会、平成研、小渕さんに繋がっていくものに限ったものではないけれども、保守政治のあり方として非常に重要な部分をなしていた。なぜ日本の労働者とか貧しい農家がもっと先鋭化しないのか、左傾化しないのかは、こういったかたちで保守が目配りをして弱者を取り込んでいた部分があるわけです。その中のエピソードしては、田中も、田中と組んだ大平正芳も、それぞれの貧困から這い上がってきたわけです。新潟の寒村であったり四国の貧しい村であったり、また戦後復興の歩みがあったわけです。

上にある開発主義というのは、いわゆる経団連企業であるとかが輸出を重視して、昔の通産省、大蔵省が護送船団方式の舵を取った。企業戦士が外貨稼ぎに走っていくことで、官尊民卑の、官主導の経済開発があった。そこは吉田ドクトリン・吉田茂の路線ですね。政治的に国民を分断するような安全保障、外交、憲法に関わる問題を棚上げして、経済成長に熱を入れることが吉田ドクトリンだったわけです。

岸信介の60年安保での失敗、非常に大きな盛り上がりに怖じ気づいて、その後池田から始まって高度経済成長路線でやっていく。本来なら戦前回帰をしたかったような政治家もうようよいた自民党であったけれど、憲法改正と言うと政府が吹っ飛んでしまうかもしれないことを恐れて、とりあえずそういった問題はやめておく。自民党は、自主憲法はもちろんずっと言っているし書いてあるけれど、とりあえずそれはやらないことを歴代の内閣が明らかにして、代わりに経済成長に力を入れる。この旧右派連合は、そういった意味では護送船団方式というとらえ方が一番簡単ですが、決して根本的な平等を実現することは目指していなかったわけです。親分-子分ですから、社会を平等にしようなどとはまったく考えていないわけです。

地方にしても地方を助けると言いながら、地方が依存し続けることも非常に大事です。その一番グロテスクなかたちで紛糾しているのが、原発事故以来であれば福島というあり方です。なぜ東京電力の原発がああいうところにあるのかということでもありますし、沖縄の米軍基地の集中とそれを可能にするための補助金行政、「要は金目だろう」という石原伸晃さんの発言が原発事故との関連でありました。それが本音としてはあり、依存していてお金をあげるから票をよこしなさいとやって、その見返りとして票と金を持ってくる地方の親分には、それなりの手当をするという権力構造がずっと下支えしてきた。

上の開発主義は、どちらかというと大平の流れを汲む宏池会がこういった部分を主導してきました。元官僚とか現役官僚、中でも経済官庁出身の人たちですが、東大法学部を出てこういったことをやっていた。コインの裏表とか補完関係として一時はうまく機能していたのがこの旧右派連合でした。いま私が大学で話していても、学生は保守本流なんて言ったって当然わかりません。昔で言う保守本流はこれだったわけですよね。いま学生は保守イコール安倍さんみたいなものって思っちゃうわけです。戦後日本の保守本流というのは、むしろこういうものを指していた。恩顧主義的なものと官尊民卑というか官主導の経済開発モデル、そして経団連企業が儲かって、その関連会社あるいは下請け、孫請けといったかたちで、いまのトリクルダウンというか、ある程度長期的な契約あるいは取引をやっていたと思うんですね。

これはその後いろいろなかたちで批判を浴びることになった。私もこれをもって「古き良き日本」に戻りたいとは思わないですが、一部ではよかったと言う人も当然いるわけです。ただこれで立ちゆかなくなったのもいろいろな理由があるわけで、いつまでもこれが続くはずもなかったわけです。

保守政治の「新右派転換」とは何か

翻っていまどういう状況にあるのかというのが図表2の新右派連合と図式化したもので、構成要素がだいぶ変わりました。下に復古ナショナリズム、上は新自由主義、ネオリベラリズムです。いわゆる靖国史観というか旧来のものも含めて非常に復古主義的で、「正しい歴史認識」であるとか、ジェンダーであるとか、安倍さんの顔を思い浮かべればこれが何を指しているのかおわかり頂けると思います。かなり反動的、そして「戦前の日本がよかった」というようないわゆる靖国史観が強力になってきます。

上は新自由主義で、これは小泉さんや竹中平蔵さんを思い浮かべていただければ簡単にご理解頂けると思いますが、いわゆる小さな政府論、規制緩和、構造改革で行くということです。弱肉強食ということで。そういった意味では左と右の図を見比べると、これは同じ政党だろうかと思うくらい大きく変わっています。一時期を除けば1955年からいまに至るまで自民党がずっと政権を担っているわけで、だからこそ安倍さんが「戦後レジームからの脱却」というのにはそれなりの理由がある。戦後レジームということで彼が指しているものはこの旧右派というようなものです。彼から見るとこういったところから脱却しなければいけないと思っていて、新しい新右派のアジェンダを追求しているのではないかと思うんです。同じ政党であるにもかかわらず、彼が憎々しげに語る昔の日本からは、およそ同じ政党とは思えないくらい違うと思うんです。

これは、ここまで大きな変化が起きているというのはぴんとこない人が多いと思うんです。自民党をいまだになぜ支持するのか、投票する人がいるのかといえば、大まかに言って確かにこれくらい変わったよなと、おそらくは多くの方がそんなことには気付いていないと思うんです。やっぱり腐っても鯛というか古いブランドというか、ここまで変わっているとはなかなか思い浮かばないのではないか。

新右派連合がなぜ連合するか、いくつか申し上げます。新自由主義で小さな政府をやって規制緩和をして弱肉強食の世界をつくっていく。こうなれば、大多数の国民の側からするとそれまで一応日本人として、日本国民として、あるいは日本に生活するものとして受け取ることができたものが、どんどんカットされていきます。物質的、金銭的なものは取り上げられて、けれども「いや日本人としての誇りを持て」と言われるわけです。

TPPは絶対反対だと、安倍自民党は2012年12月の衆議院選挙でポスターをべたべた貼っていた。それにもかかわらず、ころっと変わってもなぜか大丈夫なのは、中国を叩け、韓国を叩けとやっていれば国民の目線がそれることがあるわけです。だからこのふたつが結構うまくいくんですね。どんどん日本人としての実質をなくしているにもかかわらず、だからこそやたらと日の丸を振ることでごまかす、あるいは仮想敵国をつくって目線をそらすことが有効だということです。

小泉さんと安倍さんは、もちろん同じ森派の清和会の系統ですがまったく同じではない。どちらかというと軸足が違うというのは先ほど申し上げた通りですが、小泉さんはかなり露骨にこれを使っていたところがあるわけです。靖国にあれだけこだわって毎年参拝したけれども、首相になる前とやめたあとにはそれほど行っている気配がない。あまり関心がなさそうです。あれだけ頑固に行き続けたんだけれどもなぜその後行かないんだろう。その前に大騒ぎしていた気配もないうことも考えると、政権を維持するための打算でやっていたんだろうというのはわかるわけですね。安倍さんは逆にとても思いを込めて行きたくて行きたくて仕方ないし、去年も行ったわけですが、いずれにしても軸足の違いはあるにして、このふたつは意外とうまくいく。

サッチャー以来の魔法の薬=新右派連合

新右派連合というのは日本に限ったことではなくて、世界的なある種のフォーミュラというか魔法の薬としてここ何十年かずいぶんと出てきていると言えます。さかのぼれば政治勢力として最初に目を引いたのは、「鉄の女」マーガレット・サッチャーのイギリスですね。昨日スコットランドの国民投票が日本でも話題になっていましたけれども、そのひとつの背景はサッチャー以降始まった新自由主義政策によって、スコットランドの人たちが非常に保守党政権嫌いになったことですね。福祉国家であるとか、イギリス人、ブリテン・英国全体の国民であることによって享受できた権利、あるいは社会権といったものがどんどんカットされていくこと。特にロンドンを中心とした南東部のイングランドのサービス産業、金融業、ロンドンのシティという金融街、あそこを優遇するような政策をどんどんとって、製造業とかスコットランドを支えていた産業に壊滅的な打撃を与えた。

このことから非常に反イングランド・反保守党気運が高まって、サッチャー政権が終わる頃にはスコットランドからひとりも保守党の議員が選ばれない。すごいことですよ。それまでは一番議席を取ったこともあったのが第4政党にまで落ちた。労働党、自由民主党、スコットランド国民党、その下に保守党が来るくらいに嫌われたわけです。その結果国民統合といったものが揺らいで、いまに至ったわけです。今回独立はできないという結果になりましたけれども、これはもう構造的な問題なのでずっとくすぶっていくことは間違いないだろうと思っています。いずれにしても有名な外国の例としては、サッチャーさんが1979年に当選して以来こういうことを進めてきたわけです。

サッチャーさんといえば、フォークランド紛争をわざわざ戦ったことも非常に大事だったわけです。彼女はフォークランド紛争の前は本当に支持率が下がって、このままではダメだというときに、英国の国旗に身をくるむことによって支持率が上がったので、非常に大事な点だと思います。復古ナショナリズムと言うよりは、何らかの国家主義のかたちです。これが復古ナショナリズムというかたちを取るのは、日本のひとつの特徴だとは思います。いずれにしてもサッチャーさん、レーガンさん、最近ではブッシュ・ジュニアです。日本で言えば、中曽根さんはわりと早い段階で新右派連合をやったと言えるのではないかと思います。もちろんサッチャー、レーガンと同時代ですから。

このときの新右派転換について最近大事だと思っていることは、新右派転換に移っていく過程は一挙になったわけではなくて、いくつかの波が寄せては引くようなことを繰り返すところもありますし、段階的に進んできたといってもいいのかなと思っております。しかも当初は、例えばサッチャーの時とか中曽根の時であれば、まだ新自由主義とか復古ナショナリズムというのはある種の抑制が効いていたものが、時代が流れていって繰り返されていくうちに、どんどん進んでいったということがあります。

これはどう例えるのが一番適切なのかということは、わたし自身まだつかみきれていないけれども、ひとつのイメージとして浮かべていいのかなというのは、振り子なんです。こういう話をすると、これは振り子の原理だから、いまは安倍で右にぐっと振れているけれどもまた左に振れるよ、という方がいるんですね。それは一理あると思うんですが全体をとらえていないと思います。左に振れるといっても、左に振れるところは前の右に戻るだけで、前の左に戻るわけではありません。例えば民主党政権をもって左と言われても困るんですね。戦後の記憶がどこまであるのかということだと思うんですが、民主党は安倍さんたちから見るとゴリゴリの許せない左翼なわけですが、おそらくはそう見ていなかった方はかなり多いと思います。振り子ということであれば、支点が右側にずれていく振り子だと思うんです。左側から右に振れて左に戻るといっても、支点が一緒に振れているので、戻っても前の右にまでしか戻らない。また右へ、ということでどんどん右に行くので、あまり大した振り子ではない。振り子全体がどんどん右に触れていく振り子というイメージでいいのかなと思います。

「新/自由主義化」・新右派転換の第1段階

以下、ステージに分けてみていきます。これがどうやってごまかされてきたか、あるいはどうやって未だにこれが改革路線であるとか安倍さんはいいこともやっているじゃないか、というように見えるのかということと関係があります。1980年代の半ばから1990年代半ばを「新/自由主義化」としましたが、これが新右派転換の第1の波、第1段階です。これはまさしくサッチャーの同時代の中曽根康弘さん、1980年代の総理大臣のもとで始まりました。

これは政治で実際に行われるかどうかは別として、知的なレベルではもっと前から始まっています。それこそ大平さんのブレ-ン、あるいは大平さんが考えだしていたこととして始まっていて、実際に実行されたのは中曽根になってからなんですね。中曽根さんと大平さんはブレーンがかなり重なっていて、対極的な総理大臣に見えるかもしれませんが、中曽根さんは多くのブレーンを大平さんからもらっています。ですから政策的には大平さんの影響を受けているところがあります。これは大平さんを過剰評価しない方がいいということと、中曽根さんのことをあまりタカ派、極右ということだけで見てしまうと見誤ることを同時に申し上げていることになります。だからこそ「新/自由主義化」と書いたんです。

というのは、80年代の半ばから90年代の半ばにかけては「新/自由主義化」と「自由主義化」が同時に行われたと私は見ています。それまでの日本の政治は、これは冷戦期ですから左右の対立、保革の対立が、ある種冷凍庫に入れたままのようにかちんかちんに凍っていたわけです。55年体制というのはまさに万年与党の自民党と万年野党の社会党、この対立によってなっていた。選挙結果は毎回ほとんど見えていて、革新側から見れば保守が暴走をすることは食い止めることはできる。けれども政権を取ることはあり得なかった。だからずっと相手側、敵側、保守側に政権を担われてしまうけれども、一定のブレーキは常にかけている状況があった。そういった意味では自由主義的な政治体制とは言えないわけです。われわれは毎回選挙に行くけれども選挙結果はわかっていながら投票に行ったわけです。もちろんたまにお灸を据えられるということはあっても、基本的には変わらない。

ここで自由ということを申し上げているのは、民主主義の議論でダールという70年代に活躍したアメリカの政治学者がポリアーキーという話をしまして、自由民主主義、われわれが一般に民主国家というものを思い浮かべるときには実はふたつの座標軸があって、自由の座標軸と民主の座標軸があるという話をしていたんですね。民主というのはみんなが投票できることです。みんながひとりとしてカウントされて普通選挙が行われることです。でもそれだけでは民主国家と言うときの条件を満たしてはいなくて、自由の座標軸も満たさないといけない。自由の座標軸とは政党間競争があることです。政権交代が起きることが一番はっきりしたかたちです。例えばひとつしか政党がなくてみんなが投票できるというのは、それは民主的って思わないですよね。候補者が一人しかいないのにみんなが投票できますと言っても、われわれは民主的とは思わない。だからやっぱり自由の座標軸もなければいけない。政党間競争がちゃんとあって、場合によっては政権交代の可能性がないと、本当に民主的とは言えないんじゃないかという議論なんです。

ダールはもちろんアメリカの政治学者ですから、アメリカのようなシステムがいいと言っているけれども、自由、民主ということをわれわれが言うときには、例えば北朝鮮を思い浮かべるような「民主」とは違うわけです。旧共産圏も含めて、例えば北朝鮮の正式な国家名称はご存じのとおり「朝鮮民主主義人民共和国」ですね。北朝鮮も、自分達も「民主主義」だと名乗っているわけです。そこではマルクス主義というかレーニン主義の民主集中制ということを念頭に置いているわけで、自由な政党間競争がない中での民主主義に過ぎない。あるいは共産主義の逆ですけれども、シンガポールでも選挙は行われます。でも政権与党が必ず勝つようになっている。それはやっぱり民主国家とは見なされていないわけです。日本の場合でも55年体制を考えたときには、もちろん民主国家ではあるけれども自由度はかなり低い政治体制だった。政権交代が起きないということがやっぱりあったわけで、選択肢がなかった。有権者に政権の選択肢が与えられていなかったということです。

中曽根の「戦後政治の総決算」、小沢の「普通の国」、対外的には国際協調主義の時代

そういったものが1980年代の半ばから変わっていきます。当時中曽根康弘さんはタカ派だということで相当警戒された方もいらしたと思うんです。わたし自身もまだ学生でしたけれども、中曽根はタカ派だというイメージがありました。実際そういう発言もあったし、歴史観や教育でやろうとしていたことや、いろいろな部分で危うさがあったのは事実です。ただ、いまの目で見ると中曽根さんってこんなことを言っていたんだという、ちょっと懐かしいというか意外に思うことがあります。「戦後政治の総決算」と「戦後レジームからの脱却」の安倍さんとは近くに見えます。しかし彼が言っていたのは、「対外的には世界の平和と繁栄に積極的に貢献する国際国家日本の実現を、また、国内的には21世紀に向けた『たくましい文化と福祉の国』づくり」、福祉とか言っています。「『福祉の国』づくり」なんて、安倍さんだったら絶対言わないだろうと思いますよね。

あるいは小沢さんも「普通の国」、これは80年代後半から90年代初めにかけての小沢さんが言っていたことです。実際にそうなった部分もあると思うんですが、いずれにしてもここで見えてくるものは、ネオリベ的ものと自由主義的な部分が両方入っているということです。もちろん実際には政治改革とか行政改革格とか、中曽根さんの時から増税なき財政再建と行財政改革で、国鉄、電電公社の民営化、あるいは官邸機能の強化が少しずつ始まっていきます。こういった流れの旗手としては、総理大臣にはならなかったけれども40代にして幹事長になった小沢一郎さんが、80年代後半からこの流れを続けていきました。「対外的には国際協調の時代」と書いたんですが、通貨のプラザ合意とか、貿易を巡るウルグアイラウンド――これはそのあと世界貿易機構に、小沢さんがまさにあとで言っていたようなかたちになっていくわけです。国際協調というのは、多国間の枠組みの中で相談しながらやっていくことに日本も積極的に参加していくという話だったんですね。

天安門事件のときの対応などは結構面白いです。89年に天安門事件が起き、日本は西側諸国が中国に対して経済制裁をしたとき、協調してやります。けれども、経済制裁を最初に解除したのは日本だったんです。これは今と隔世の感がありますね。中国を国際経済秩序の中に組み込ませようと腐心していたのが、当時の日本だった。それは、やっぱり過去のこともあるし今後のこともあるから、中国を孤立させてはいけないということです。西側諸国が民主化の問題、人権の問題で経済制裁をすれば日本もつきあうけれど、その後中国を国際社会に戻すことに日本は先頭の役割を果たすことをあえてやっていた。本当にいまとは違っていると思います。

そしてPKO法は、湾岸危機・湾岸戦争の流れから来るわけですが、PKOに参加するようになる。これも国際協調の枠組みの中でやっているわけですね。いまから思えばあの方がまだましだったという中の一つですけれども、国連の枠組みの中でやるのであれば日本も応分の負担をしなければいけないという論調でした。大いに国際貢献が言われたりしました。

これは似て非なるものだと思うんですが、集団安全保障と集団的自衛権の違いです。国連の枠組みの中での集団安全保障に参加しなければいけないのではないかという議論が、当時は主流だったわけですね。一番元気のいい小沢さんなんかだとかなり乱暴なことも言って、国連軍だの何だのという話だったわけです。集団的自衛権というのは国連の許可を得ないで発動するものですから、具体的な日本の文脈で言えばアメリカの子分になるという話で、同じ安全保障の考え方としてもだいぶ違う方向を向いているわけです。多国間の枠組みでやるのか、それとも一方的にやるのかだと思います。

昔の、アメリカにとにかく付いていけばいいというのとはだいぶ違ったということがいま申し上げていることで、93年の河野談話にしても95年の村山談話にしても、実はそういった流れの中でできてきている話だと思うんです。

80年代半ばから90年代の半ばまでというと、バブルがはじけたのが91~92年くらいです。実感を持ったのはもっとあとで、93~94年くらいでは日本人も含めてまたもとに戻るだろうくらいに考えていました。この時期は日本経済が明らかにピークに達していて、もちろん実体を伴っていない経済でしたけれども非常に豊かで、アメリカを追い越すんじゃないかということがまじめに言われたくらい繁栄を誇っていた時代だった。それを背景にして大平さんとか中曽根さんは政策を考えていたところもあるし、日本が応分の国際貢献をしなければいけないという議論も、その中で出てきた話でした。

さらに進むと宮澤さんだとか細川さん。政権交代はありましたけれども宮澤さんにしても細川さんにしてもほとんど同じようなことを言っている。「質実国家」なんかも、経済的に豊かなだけではなくて、生活の実感として豊かな日本にならなければいけないと言っていた。ここで中曽根さんが福祉を言うのは意外なことではなくて、全体として日本はかなり上がってきたから、生活の実感として豊かになったことをもっと感じたいじゃないかという話を日本の中では議論をしていたわけです。豊かな日本、それに伴う自信があったわけです。それを背景にして国際貢献をしなければいけない、アメリカにも言われるし、そういうところが出てきた時代だったと思うんです。

中・韓を視野に入れつつも振り子の支点は右へ右へ

ただこれは中曽根さんも含めてそうですが、当時の日本では「新/自由主義化」を進めていた政治勢力あるいはそれに共感した国民の社会層も含めて、一つの自明な前提があったんですね。それは日本が経済的な部分――プラザ合意とかウルグアイラウンドとか貿易の自由化という面だけではなくて、軍事面においても国際貢献をして、例えばPKO法などのようなことをやっていくのであれば、中国とか韓国との関係をきちんとやらなければいけないということです。

中曽根さんが靖国参拝をする。そして懇談会をつくって公式な靖国参拝の道を探るわけです。彼はそれだけタカ派、戦前の内務官僚出身ですから、そういう考え方を非常に持っていた。けれどもその彼でさえ、政治家としての能力なのか嗅覚なのかわかりませんが、彼のやりたいことを実現するには中国や韓国の支持、少なくとも理解を得なければできないくらいの政治的計算はできていたわけです。だからこそ先輩でハト派の後藤田さんを2度も官房長官にするわけです。あるいは中国などから抗議があれば靖国参拝をやめるわけです。

鈴木善幸内閣の時に教科書検定で、歴史を語るときの近隣諸国条項が定められ、中曽根さんもそれを継承します。彼からすれば、もちろんタカ派だし野心があるし、日本が海外に自衛隊を派遣したいと願っているわけですが、その前提として中国や韓国の理解を得なければできないということは踏まえていたわけです。だからこその国際協調だし、だからこそアメリカにただ付いていけばいいわけではない。小泉さんなんかと比べると非常に対照的です。小泉さんは日米関係さえよければ日中、日韓なんてあとからついてくるって言っていましたよね。ついてこなかったですけれども。それくらいもうアメリカべったり、そして当時はブッシュ・ジュニアのアメリカですから、国連なんて言葉は悪いですけれども「くそ食らえ」ですよね。単独主義のアメリカについていけば外交はOKというのが小泉さんでした。だから中曽根さんと小泉さんは、同じように自衛隊を外に出そうとか9条をないがしろにしようとか、思っていたかもしれないけれども結構違う。その違いは決して小さなものではないということがいま申し上げている点です。

中曽根さんはかなりドキドキするところがありましたが、中曽根さん以降、竹下さんを経てその後短命政権が続いて、宮澤さん、細川さん、自民党の総裁と言えば河野さん、そして村山さんに繋がっていくわけです。いまから思えばずいぶんリベラルな顔ぶれだということになると思います。逆に言うと20年間でなぜここまで変わるのかということです。

ただこの「新/自由主義化」が行われているときは、社会党が脱皮しようとして失敗した過程でもありました。土井たか子さんで、多少市民社会との連携が行われ新しい人材がリクルートされました。いわゆるマドンナ旋風。「山が動いた」1989年の参議院選挙があったけれども、そのままはいかなかったわけです。その後の失墜ぶりは、これまた急速に落ちていくわけです。ここで革新勢力は刷新することに失敗した。保守側から「新/自由主義化」の流れがぐっと来たときに、それにうまく社会党が反応できなかった。ずっと鼻面を引きずり回される感じになって、小沢さんは明らかに社会党を潰すことに最大の貢献をした一人だと思います。消費税の時とか細川政権の時も、社会党はずっと引きずられたままで自社さ政権になり、どんどん弱体化していった。最後は使い捨てられてしまったと思うんですね。

「新/自由主義化」が何をしたかというと、革新側からすれば振り子のブレが二度と左の同じところに戻らないで、支点がぐっと動いたことがこの段階で起きたことです。ただ、学生にこの時代の話をすると、みんなきらきらした目で聞いているんですよ。うらやましいというか噂でしか聞いていない、タイムマシーンで見てみたいくらいの隔世の感があるんですね。その時代の空気であるとか、なんて調子に乗っていたんだと思いますが、今から考えると想像できないくらい違う。その中の政治というのはそういうものであったと思うんです。

復古ナショナリズムの高まりと自由主義の後退

1990年代の後半が新右派転換の第2段階に行く前の、非常に興味深い時代になっています。ちょうど自社さから自自公連立に移っていく時代で、村山さんから橋本さんにバトンタッチがおこなわれます。自社さでやっていたのが、保保連合が画策されて最初に自自連立が成立しますが、その後公明党も入れる流れが1999年に成立するわけです。

このときは、「新/自由主義化」の中の自由主義だった部分が急速に退潮して、最後のきらめきのような感じでなくなってしまうイメージです。当時の自民党総裁は河野さんから橋本さんに移って、小渕さん、森さんです。いまから見ると、橋本さんにしても小渕さんにしても、森さんでさえそうですが、まだニュアンスのある政策を追求するんですね。とりわけ橋本さんとか小渕さんは、例えば沖縄の問題にある程度の思い入れを持って、かなり熱心に彼らなりにやっていた。そして外交でも中韓だとかアジアとの和解に関しても、それなりのことを考えてやっていたんですね。

そういった自民党のトップに対して、世代交代がぐわっと起きる時期でもあります。それが実は状況を非常に複雑にしています。こういうシフトが起こる理由ははっきりしています。自社さ政権で社会党が使い物にならなくなってしまう。自社さ政権は、さきがけがかなり自由主義的なリベラルな政党で、社会党はもちろん革新政党だった。それが自民党と組んで、万年与党と万年野党だった、55年体制の圧縮図のように自社が連立するわけです。反対しているのは小沢さんの「新/自由主義」、新右派路線です。当時は小沢さんを軸に政局が動いていたというくらいだったとご記憶だと思うんですが、その中で小沢さんに政権を渡したら大変なことになるということで、いわば守旧派の連合というかたちで、ちょっとブレーキをかけようとしたのが自社さでした。

いまから振り返れば幸いでした。来年戦後70年に安倍談話が出ちゃうのか、一体どんな内容になるのか考えるだけでも恐ろしいわけですが、戦後50年の時に村山さんで本当によかった、なんてラッキーだったんだろうと思うわけです。あれがなければどんなことになっていたか。実際に国会決議でも大変な苦労をされたわけですし、思うような結果が出なかったという、そういう状況だったわけです。

世代交代に成功し新しいタカ派出現

自社さが55年体制の最後のあがきというか、時代の波に押し流される最後の一段階だったわけです。社会党があまりにも弱くなってしまったので、自民党からすると数が足りないという状況が生まれ、それが橋本政権に移った時の課題ですね。彼らが何を見ているかというと、公明党を見ている。公明党をなんとか入れると数が足りる。ただ公明党からはワンクッション入れてくれないとできないと言われる。じゃあ小沢を使おうという話になるわけですね。小沢さんは小沢さんで、新進党をつくったけれども思うようにいかない。政権を取れないで嫌になって壊してしまう。小沢さんは、外から自民党を壊そうと思ったけれどもうまくいかないので中に入ってやろう、自民党と連立をして揺さぶってやろうと思うわけです。作戦を変えるわけです。そういった計算の中で自自公連立が成立します。

同時に自民党の中でも大きな変化が起きています。90年代の政界再編、新しい政党ができたり他の政党から自民党に戻ってきたりと非常にわかりにくい政治状況でしたが、戦後50年を迎える中で戦後政治キャリアを築いた人たちが次々と辞めていく。90年代に世代交代が永田町の中で起きます。その一人の典型的な例は、当然安倍晋三さんです。お父さんの安倍晋太郎が亡くなって、安倍晋三が初当選を遂げるのは1993年です。これは結構大事なことで、安倍さんは初当選したときから野党議員です。

彼があれだけ日本を取り戻すというある種の被害者意識というか、取り戻さなければいけないという切迫感を持って政治に行ったのは、そういうことも関係しています。55年体制の時のような安泰な自民党ではなく、失っていて取り戻さなければいけない自社さなんていうところで、自民党は政権に戻っている。村山政権で彼が自民党のキャリアを始めたということがどれだけ屈辱的なことだったのか。河野談話が当選する直前にやられた。そして村山談話なんていうものが出されることで、彼は本当にイデオロギー的には相容れないなかで始めている。そういう意味ではレコンキスタというか回復するということ、自民党を取り戻す、そして日本を取り戻すということが彼の原体験としてあるわけです。非常に大事な点だと思います。

同時に社会党の縛りを経験していません。社会党は、自社さで屈辱的だけれども利用しているという段階で、もはや革新勢力がブレーキになる時代を知らないわけです。岸信介を追い出した。その後の自民党の憲法改正などのブレーキ役をやっていて、常に3分の1を持っていた革新勢力は、彼にとっては基本的に関係ないんですね。少なくとも政治家として歩み出してからは。ですから彼の政治観はだいぶ違う。小選挙区制があって、勝者総取りがあって、社会党などはもはやものともしないという、「たが」が外れた保守政治は、その辺から出てくるわけです。

これは非常に大事な点で、いま思えばですけれども、先ほど革新勢力が「新/自由主義化」が行われた時代について行けなくて、うまく転換できなかったと申し上げたんですが、第2の失敗がこの後半の時期にあるわけです。なにかといういと、世代交代に右派は成功しちゃうんです。タカ派側は世代交代に成功する。昔からいた右翼的な自民党の議員が辞めていく中で、バトンタッチが行われて新しいタカ派が出てくる。

「タカ派の右からバカ派が出た」なんて言うんですが、要は戦争体験もなく何の制約もなく自由に歴史を塗り替えることができる。これは結構大事な点で中曽根さんにしてもあるいは読売新聞のナベツネにしてもそうなんですが、実際に戦争を子どもであっても体験している人は、どこまで歴史を書き換えるかというときに多少の限度はあるわけです。いくら何でもひどいことをやったことは認めざるを得ない。それが世代が変わると、全くの空想、妄想の暴走が行われてしまうわけです。タカ派だけではとらえきれないくらいに、自由闊達に自分の好きな歴史を書ける新しい世代が出てきてしまうわけです。亡くなった中川昭一、中川一郎の息子、そして安倍晋三がその時代の旗手として出てきます。

そして「新しい歴史教科書をつくる会」が96年の12月にできる。ほぼ時を同じくして97年に日本会議が立ち上がる。中川昭一と安倍晋三を中心として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」、いまは「若手」を取っていますが、この会が97年にできます。要は彼らからすると屈辱的な自社さをやっていた中で、その当時は反主流派の自民党のタカ派が、保保連合を画策する。そして社会党を使い捨てていく中で小沢さんとの連立・保保連合の中で、タカ派的なアジェンダを要求して突き上げていき、橋本さんも軸足を変えていかざるを得ない。

そして小渕さん、野中さん、あるいは古賀さん、いまでは安倍さんをさんざん批判して赤旗にも出るような人たちが、国旗国歌法、周辺事態法あるいは通信傍受法-盗聴法ですね、国民総背番号制、そういったものをやっていくわけです。真空総理と言われた小渕さんは、自民党内の新しい右派の突き上げが始まっていく中で政権を維持しなければいけない。そして小沢さんと組んだ。小沢さんも自民党をかき混ぜようとしているから、自民党に飲ませる行政改革もあれば、一緒にやろうとするタカ派的な安保の部分の改定も行う。小沢さんが新進党を潰した97年から98年に転換する段階で、自民党の小選挙区制でのメインの仮想敵は民主党になるわけです。

民主党という旧自民党から旧社会党まで集まって、全体としては自民党よりはリベラルな政党を仮想敵としていますから、国旗国歌法なんて典型的ですが、野中さんはこれを民主党を分断するためにやるわけです。ものの見事に民主党は真っ二つ、賛成反対が半々になるんです。党議拘束をかけられるようなものじゃなくて、鳩山さんは賛成、菅さんは反対、そういう状況です。ここで自民党の、いまから見るとどちらかというとハト派、昔の旧右派連合のにおいをまだ持っている人たちが、新しく出てきた新右派転換の手助けをする。それは政党政治の新しい枠組みの中で、もはや社会党がなくて民主党という新しいライバルがある中で、その民主党を分断する党利党略もあってそういうことをやるわけです。このへんは非常に大事な点だと思うんです。

自民党の中道リベラルの衰退

そういうことをやっていく中で田中派的な部分、平成研、旧経世会がどんどん分裂していきます。すでに小沢さんたちが出ていった段階で93年に分裂し、その後も分裂が続きます。小渕さんが橋本さんの後を受けて総裁選に出たときは、梶山さんも自分の派閥のボスが出るのに出ちゃうわけです。梶山さんは橋本さんの官房長官もやっていましたから、ほぼあり得ないわけです。鉄の結束と言われた田中軍団で、そのときのボスが出るのに、梶山さんのような重鎮まで出てしまう。梶山さんは負けますけれども、中には梶山さんにシンパシーを持っている人もいるわけです。小泉さんが「派閥をぶっ壊す」という前から壊れだしていたわけです。小渕さんが亡くなり竹下さんも亡くなっていくと、いよいよ野中さんなどだけではまかないきれなくなってきて、青木さん――参議院議員の田中派が、ぐっと小泉さんに寄っていくかたちで維持しようとした。いまの額賀派ですか、あの田中派が見る影もなくなってしまいました。

これは興味深いところですが、旧右派連合の図でざっくり言うと下が田中派系で上が大平派系、宏池会系だと言いました。これは下半身と上半身のようなところがあって、上半身は理性的な、教養もある政策通の部分で、下半身の部分は欲得もあってかなり汚い部分も含めてということですが、まさに下半身が壊れると上半身は立っていられないわけです。日本の保守の中からリベラルがなくなってしまって、いまは村上誠一郎しかいない。あとはみんなリタイアしちゃった人ばかりですよね。そういう状況が生まれるひとつの理由として、やっぱり田中派がないと大平派はダメだということです。

角福戦争自体がそうでした。大平と田中の連合体で福田さん――福田さんと言えばもちろん安倍さんの源流ですが――の派閥と戦っていて、大平さんは内閣不信任案で負けて選挙の最中に亡くなってしまいます。しかもあの系統は政局に弱い。不信任案を可決されて選挙に追い込まれたのは大平さんと宮澤さんで、どちらも宏池会。総理大臣になれなかった自民党総裁は河野さんと谷垣さん。本当に頭でっかちではダメなんですね。やっぱり票を買ったり腕をねじったり田中派という実働部隊がなくてはいけなくて、それは宏池会系は基本的にできないんですね。まれに異色のタイプとして古賀さんみたいな人はいるんですが、彼は非常に経世会に近い。野中さんの弟子のようなかたちでやっていたわけです。だから結局加藤の乱はダメになったわけです。これが宏池会のご臨終の瞬間のような感じです。森さんはとんでもないということで、加藤さんを泣いて谷垣さんが止めたあれですよ。その結果、加藤さんの政治生命は事実上終わってしまいます。

田中派系、経世会の流れと宏池会の流れが終わるのはほぼ軌を一にしている。ここで自民党の中道リベラルの流れは終わって、派閥もすでに相当弱体化していったと思うんです。

民主党に結集する「新/自由主義路線」

派閥が弱体化したかわりに台頭してくるのがイデオロギー集団です。イデオロギー集団は一つしかないわけです。日本会議系のゴリゴリの、歴史を知らない、戦争を知らない、戦争大好きというような人たちがどんどん台頭していきます。他方で「新/自由主義」路線的、まだ自由主義的な部分があったネオリベのような人たちは、民主党に結集していくわけです。民主党が96年に最初にでき、羽田さんたちが入ってくるのが98年、最終的に2003年に民由合併で小沢さんたちが入ります。昔の保守にいた、自民党にいた中道リベラル的な人たちが、経世会、宏池会系の部分が弱体化すると同時に、ほぼごそっと民主党に流れていきます。その中で、民主党はこれまでよりもっと大同団結のよくわからない存在になるわけです。

最初は、基本的にはさきがけと社会党でできて、中道左派の政党でした。その後、太陽党とかから来た人たちを拾って、さらに岡田さんたちを拾って、最後は小沢さんとか藤井さんとか山岡さんとかを拾っていく中で、中道左派から中道右派までいる。さすがに靖国参拝という人はいないので、そこが自民党との違いになっていくわけですが、振り子がいくら戻っても社会党まで戻りませんから、せいぜい戻っても民主党までしか戻らないところまで来ているわけですね。民主党は昔の自民党で言う中道リベラルくらいがせいぜいのところ、というところまで来てしまうわけです。

新右派連合の成立―小泉の「自民党をぶっ壊す」

さらに進んでいくと、新右派連合の成立でいよいよ小泉さんの段階になります。小泉さんが来る前に、自民党はすでにボディーブローのようにそれまでの変化が効いていて、相当違った存在になっています。それをある種貫徹させるのが小泉さんだった。「自民党をぶっ壊す」というのはある意味で本当にぶっ壊すわけです。残っていた旧右派連合的なものを徹底的にぶっ壊して、新右派連合にしていく。彼はある意味政治の天才です。そのマキャヴェリ的な、容赦ない、極めて冷たい心の持ち主。「純ちゃん、亀ちゃん」といっていた亀井さんもばっさり切る。何十年来の友達であろうと。政敵といったらばさっといく。加藤の乱でも、それまではYKKで盟友だといわれていた加藤さんを、森さんを支えることで潰すわけです。それによって小泉さんは総理大臣への道が開ける。そういう冷徹さを持っている。

小泉さんが、いわゆる派閥に最後のとどめを刺すためには「中二階」と言われる人たちを登用します。本当にうまい。派閥のボスをすっ飛ばしてナンバー2、ナンバー3を内閣に引き上げる。ほんとうに性格が悪いですよ。それまでは派閥のボスが推薦する人を入れることで、派閥のボスの体面が保てていた。派閥というのはやくざの組織みたいなものですから、みんな「いつかは俺が」と思っているわけで、その親分をすっ飛ばして、親分になりたい人を引っ張るわけです。そうすると今度そっちは小泉さんに忠誠を尽くすわけです。

そうやって登用されたのが、安倍晋三もそうですが彼は自分の派閥ですから、中川昭一とか麻生太郎とか平沼などです。初めてあるいは2回目の閣僚経験をさせるか重用する。谷垣さんもそうです。それで加藤さんはいよいよおしまいとなる。森さんがしゃあしゃあと「次は麻垣康三だな」なんて言うようになって、きれいに小泉さん世代の派閥の領袖はぶっ飛ぶわけです。一気に世代交代をやることで小泉さんだけが突出して、次の世代の人たちは小泉さんのおかげでいまがあって次のチャンスがあるという人たちです。派閥の息の根が止められる。偉大なるイエスマンと自称していた武部さん、彼も山崎拓さんのナンバー2で、彼を自分の子分にして山崎さんも事実上終わりとなる。武部さんは幹事長を務めて、小選挙区制の公認や誰に金を回すかという差配をやるわけです。やくざになったら相当立派なやくざになっていただろうという政治の能力を発揮する小泉さんによって、自民党がぶっ壊れていくわけです。

それだけじゃなくて、地方の集票組織もぶっ壊れます。利益誘導、見返りに補助金をやる、公共事業をやるということに対して、小泉さんは蛇口を止めちゃうわけです。構造改革あるいは郵政民営化によって、旧右派の従来の政権基盤は壊れていく。

そういうことをやっていく中で、それでも小泉についていく人をつくることができたのは靖国参拝です。中韓を敵に回してでもやる。小泉は腹が立つけれどもいいところはあるよなというのは、田中派をひーひー言わせているのが面白いという人たちと同時に、あいつはぶれないで靖国に行っているから支持しようというナショナリストがたくさんいたわけです。アメリカに対して郵政を売り渡す、構造改革でもいろいろ売り渡すのは許せないけれども、あいつは靖国に行くからしょうがないという、うまい妥協がここで行われるわけです。もちろんそれについて行けなかった人たちが造反組となって出ていったわけですが、かなりの程度それが機能したということだと思うんです。

「新/自由主義への揺り戻し」の民主党

それをうまい具合に渡してもらったのが安倍さんで、第1次政権では「美しい国へ」、そして短期間に教育基本法の改定、防衛省への格上げ、国民投票法制定が行われました。こうした中で自民党はどんどん固定票がなくなっていき、民主党が逆にオルタナティブとして成長していくんですね。結局何が軸なのか何がコアなのかよくわからない政党ではあるけれど、自民党とはちょっと違うということです。小泉さんが新自由主義に舵を切った段階で、民主党は一種のアイデンティティ・クライシスに陥ります。小沢さんが出てくることによって、生活保守主義という言い方もできますが、国民の生活が第一ということを前面に出すことによって再起を図ることに成功します。それが政権交代にいたるわけです。

この段階では自民党か民主党かという2大政党化傾向が見られるんですね。いま小泉さんをイメージすると、いつも選挙に強くて人気があったような感じがしますが、細かく思い出すと、最初は田中真紀子さんとのコンビで売って、下手をすると田中真紀子さんの方が目立ったくらいでした。「変人宰相」の生みの親ということで外務大臣にしますけれども、いろいろな事情があってやめさせて支持率が落ちて、北朝鮮に行ってまた上がりましたね。小泉さんも選挙に負けているんです。実際、安倍さんが幹事長でやって負け、幹事長を辞めたりしたこともありました。参議院選挙なんかだと民主党に負けているんですね。最後の郵政民営化選挙で大勝ちしたイメージが非常に強いから、小泉さんというと人気があって常に選挙に強かったような記憶がつくられがちなんですけれども、実際はあの段階ではずっと民主党が上がっていっています。郵政民営化の選挙がなければ、もっと早く政権交代が起きたかもしれないくらいに民主党は上り調子で来ているんです。

では民主党はどうかというと、自民党から票を食っている部分ももちろんありますが、それ以上に他党から食っています。社会党などがどんどん弱くなっている。55年体制では、93年に宮澤さんが解散総選挙に追い込まれる直前の段階では、社共あわせて3割議席を持っています。あれからちょうど20年で社共が3%ないわけです。これだけでも右傾化したといえます。30%から3%に落ちれば右に当然ずれますよね。民主党は自民党からも取る以上に左側から取って、政権交代に繋がったわけです。

そういった意味では、民主党政権の3年3ヶ月はいろいろなとらえ方があります。本筋ではないので今日は簡単にしかお話ししませんが、民主党政権というのは結局、「新/自由主義的な揺り戻し」だった。いってみればせいぜい中曽根さん、小沢さん、細川さんくらいまで戻ったという話で、当然社会党政権が誕生したわけではないので振り子が左に戻ったといってもたかが知れているわけです。

社会的基盤を欠いた政権党交代の限界と失敗

小沢さんは、それなりに政治の才能がある人です。あの「国民の生活が第一」あるいは「コンクリートから人へ」という持っていき方ですね。民主党はそれまで、前原さんとか菅さんという前任者の段階で何を言っていたかというと、基本的に改革政党であって新自由主義をやるといっていました。ただ民主党には社会党系の人たちもいますから、セーフティーネットがいることは言っていました。改革を進める――例えば派遣労働を緩和する、労働市場を緩和する、規制緩和をするとなると弱者が落ちるから、セーフティーネットをつくらないとダメだという話はしていて、それで完結していたわけです。

小沢さんは、その上下を変えちゃうわけです。「国民の生活が第一」、「コンクリートから人へ」で、その使う方を、福祉、教育、子ども手当、農家の個別保障といったものを前面に出して、そのための財源に行政改革を続けますという、逆の論理にしたわけです。セットとしてはそんなに矛盾していないしそんなに変わっていない。ただ主と従が交代するわけですね。そういう意味では民主党なりには論理的にはつじつまを合わせていて、民主党のよりネオリベ的な人たちから見てもとりあえず小沢さんについていったら政権が近づいてきたなと許容できるものがあったわけですね。

ただ社会的な基盤を変えられなかったという点が非常に大きいと思うんです。政権交代が起きたといっても、いわゆる都市中間層の浮動票を中心にしただけなので、新しい組織票を獲得することができなかった。典型的なのは子ども手当です。子ども手当は、抽象的なレベルではそれなりに評価する人たちや喜んだ人たちはいたけれども、関連団体からはどこからも嫌われる話でした。保育士さんたちの団体や保護者の団体とか、その辺は小沢さんの方がある意味賢くて、松下政経塾系の人たちがかなりナイーブであると思うんです。実際に政策転換をして、新しい政策をしながら政権を維持するためには、どこかから取ってきて、どこかに新しく支持をつくることを冷徹にやらなければいけない。それに失敗したことはかなり大きいと思うんです。また官僚であるとかマスコミの壁というのの非常に大きくあったと思うので、私はこれを「政権党交代」に過ぎなかったという言い方をします。

日本の戦後保守政権は決して自民党だけでできていたわけではなく、政官業の癒着といったくらいで、それだけではないいろいろなものがあったわけです。とりわけ官僚に関してみれば、自民党あるいは国会のいろいろな慣行も、自民党政権が永続することを前提につくられていますし、記者クラブも動きますから、それを壊すのは並大抵なことではないわけです。社会的な基盤があって、民主党を一緒につくってきたような人たちがいれば、多少のネガティブキャンペーンを張られたり失敗があっても、まだついてくると思うんですが、そういうものがなかったわけですね。だからガンっとやられたら、いまのような状態になってしまう。一気に50議席台にまで下がってしまうのはやっぱりそこだと思いますね。自民党は2009年に負けても復活するけれど、民主党が2012年に負けて復活できるかといったらかなり難しいというのは、ひとつにはそれがある。社会的な基盤を一度もつくらずに来てしまったということが大きいと思います。

しかも民主党政権が最終的に失敗に終わったと総括されることの、日本政治にとっての大きな意味というか大きな問題は、有権者がここで幻滅してしまうわけですよね。政治改革の流れで96年の旧民主党ができてから、とても長い時間が経って起きたわけです。もっと前で言えば、リクルート事件が起きて政治改革だといっていろいろな人が新しい政党を作って、細川内閣ができて、というあの体験をした有権者層からしてみれば、これだけやってきてこれかということなんだと思うんですよね。たぶんその層の一番下が私くらいの40代半ばくらいだと思うんです。その辺の人間からすると、もう自民党以外にないという状況になるわけです。

2012年の選挙で安倍さんが返り咲いたときは、戦後最低の投票率でした。自民党の得票数は2009年に負けたときよりも下がったのに大勝するというのは、それだけ多くの有権者が幻滅しちゃった。民主党はもう嫌だ、だまされた、もううんざりだ。だけど自民党を見たってちっともよくない、なにも変わっていない、ひどくなっているんじゃないかと思う人もいたと思うんです。それで多くの人が投票にさえ行かない。あるいは多党分立しましたから、どこに投票していいかわからないし、討論会っていったって、13人くらい並んでいたら討論会になんてならないわけです。挙げ句の果てにメディアが第3の極とかいって維新の会とかみんなの党をもてはやしたわけです。その結果票も割れる、多くの人は投票に行かないで、「政権復帰」とわたしは言いますけれども、また自民党が政権に戻ったわけです。

新右派連合の暴走

もともと自分たちのものを、それこそ日本を取り戻すといっているわけですから、安倍さんは権力が自分のものだと思っているわけです。取り戻すべきものを取り戻したということで、それまでの長い時間をかけてきた政治改革、日本の政治を自由化してより競争的なものにしようという実験が、どうも失敗に終わったというようなとんでもない事態になってしまうわけです。

そこでやっぱり安倍さんの暴走ですね。このへんは非常に重要な点です。新右派転換によって野党時代にのびのびと右にぶれていった自民党が、政権に戻って来ちゃって、最悪です。自民党の改憲草案ってまさにそうで、野党をたっぷりエンジョイした、やりたい放題の改憲草案をつくっちゃうわけです。与党だったらさすがにここまでできないというくらい「たが」が外れたものを書いて戻ってくる。

さらには第3の極とメディアがもてはやしたものの、実態としては極右政党です。それから私は「衛星政党」と呼んでいますけれども、旧ソ連のまわりの衛星国と同じように自民党のまわりを回っている衛星政党ですね。橋下さんなんて、安倍さんが総裁になる前にうちの代表になりませんかって声をかけていたじゃないですか。石原さんにしたって誰にしたって、ほとんどの人は自民党から来た自民党の右派の人で、自民党と政権を組みたい、自民党の政策をより右に振りたいという政党ばかりですから、あれは野党とは言えない。そういう極右の衛星政党がぼこぼこある中での一強他弱ですから、政党システムとしては戦後最悪もいいところですよ。何のブレーキもないどころか、もし他の政党が何かをやるとしたら右に振ろうとする政党の方が強いわけです。とんでもない状況になっているわけです。

小泉さんがどんどん戦後の旧右派連合の政治、あるいは戦後民主主義で守られてきたものを次々と壊している状況で、安倍さんは来たわけです。そしてNHKに手をかける、日銀に手をかける、内閣法制局に手をかけて、ある意味政治の自由化の暴走ですよね。官僚組織も我がものとして、NHKとか中立のものを認めず、勝者総取りという小選挙区制の論理を極限化していく流れがいま来ているわけです。

そのブレーキになるのは対抗する政党だったはずです。官僚の力をそいで行政改革をやって規制緩和して、新自由主義化をやるひとつの担保としては、冷凍庫に入ったような万年与党と万年野党の膠着図ではなく、政党間競争の活発化がブレーキをかけバランスを取るという話でした。そのバランスを取るはずの民主党の崩壊で、「私は選挙で選ばれたからやっている」と、安倍さんも橋下も言いますよね、嫌だったら次の選挙で負けさせればいいと。負けないことをわかった上で言っている。私が最高責任者だ、内閣法制局長官ではないと言っている。

この論理は安倍さんで始まったわけではないんですね。自由主義、「新/自由主義」の時代から始まった論理が極限化している状況になっていて、いっさいブレーキがきかない状況がいま急にできてしまった。できたのは急だけれども、その準備はずっと行われてきたんです。最後のブレーキになるはずだったのが、対抗する政党でチェック&バランスする。自民党も次の選挙で民主党に負けるかもしれないからほどほどにするはずだったのが、そういうシステムが効かなくなっているわけです。それがいまの恐ろしい状況です。このことを背景にして、特定秘密保護法のときもそうでした。暴走している、強行採決じゃないかと言われても、いやいや責任野党とは話し合いをしましたと言えるわけです。みんなの党とか維新の会と話し合って、法案をもっと悪くしているから世話ないですよ。それがいまの政党システムの壊れ具合なんです。

日本の国内には正直言ってブレーキになるようなものは、もはや永田町や霞ヶ関にはありません。いまは内閣人事局を最後につくりましたけれども、官僚にしても、この間の行政改革に至る過程で力をそがれました。典型的なのは外務省でその変貌ぶりはものすごいものです。これも森さんから小泉さんになるときに外務省不祥事がありました。鈴木宗男さんと田中真紀子さんのケンカとかあって、あそこで外務省ががらがらと変わってしまいました。

それまでは外交に政治家はあまり口出しできませんでした。大平さんとか橋本さんのように経験豊かな政治家でなければ、外交はプロフェッショナルな外交官にある程度任せるところがあった。特に中韓になるとセンシティブな問題が多いから、チャイナスクールと悪口は言われたけれども、中国のことをよく知っている官僚たちが担っている部分が大きかったわけです。そのへんが90年代から2000年代にぐんぐん変わりました。外務省不祥事をきっかけにパージが行われてチャイナスクールが放逐され、中国大使も中国畑から出さないようになる。かわり保守政治家が外交にどんどん口を出すようになった。そういう構造的な変化があっていまに至っています。いま同じようなテクニックでやろうとしているのがNHKであり、最終的には朝日だと思いますが、失敗につけ込んで揺さぶって、さらに政敵を除外しようとしているかたちになっています。

寡頭支配、巨大企業の所場代としての集団的自衛権

なぜ集団的自衛権なのかということですが、結局集団的自衛権がここまで出てくるひとつ背景には、政治全体の新自由主義化、新右派転換ということが無視できないと思うんですね。国民国家の中味がなくなって、日本国民だからといって最低レベルの生活が保障されなくなっています。生活保護バッシングもあれば、貧困がここまで深刻化しているのにそういうことには見向きはしないでアベノミクスだと騒いだり、女性登用だとか女性活躍とかいって極右の女性大臣を何人か出して、女性の貧困の問題などはまったく何もやる気はないわけです。

そういう状況で、これは保守とも言えないしナショナリストとも言えないと思うんです。わたしが使っている言葉でいうと「グローバルな寡頭支配」ですが、要は少数の特権階級による支配が新自由主義的な流れの中で、それまでであれば一応自由競争、自由貿易といっていたものが、いまはTPPですよ。昔は集団安全保障で、国連の枠組みでといっていたものが、いまは集団的自衛権なんです。

実はこの変化はかなり大きな変化です。というのはTPPは自由貿易ではありません。だって大企業は中味に何が入っているかわかっています。でも国民は日本にしてもアメリカにしてもどこにしても除外されている。これは強者がさらに強くなるような仕組みとしてやっているものであって、自由貿易とか自由市場と言えるようなものとはまったく違うわけです。管理貿易の一番いびつなかたちです。消費者の利益になるというよりは巨大企業がさらに儲けることができるかたちで、そのための所場代を日本は払えと言われていることが集団的自衛権です。だから日本の国そのものを防衛することとあまり関係がない。中東で何かがあったときに、お前も所場代を払えとアメリカに言われて一緒に血を流す。あるいはアメリカがあまり血を流したくないから、お前が行けといわれて代わりに行くのが集団的自衛権です。それはやはり新右派転換というのを理解しないとわからない大きな転換なんだと思うんですね。

集団的自衛権行使容認の2つの矛盾

「憲法違反の閣議決定」と「専守防衛の集団的自衛権」は、いまも抱えている矛盾です。憲法そのものは変わっていない。それなのに解釈だけ変えて、いままでできなかったことをしようとしているので大きな矛盾がやっぱりあるわけですね。

「憲法違反の閣議決定」というこの矛盾は、私は必ず憲法改定に行くと思います。もし実際に日本が集団的自衛権を行使するようになれば、違憲訴訟がどんどん出ます。困ったことになります。これじゃできないということになって、現実にあわない憲法を変えなくてはいけないという議論が出てくるわけです。派遣労働などが実態をあらわしていないから、もっと労働法を緩和しようという本末転倒の議論を、またここでやるつもりですね。既成事実化をして憲法を変えるということになるので、次は恐らくまた憲法96条の話がどこかででてくると思います。これで終わったとはなりません。その間は空くかもしれないけれど、いずれそういうステップがきます。

それから「専守防衛の集団的自衛権」というかたちになったんです。結局、専守防衛だと強弁しながらしかできなかったので、従来の憲法解釈から変わっていない、1972年の政府見解を守ったままやっていますと無茶なことを言っています。これからも集団的自衛権を行使するときは、専守防衛だと言うつもりみたいなんですよ。これが恐ろしいのは、中東で戦争をするときも専守防衛だという理屈をいわないといけなくなっちゃったわけです。ある意味、最悪です。

私が怖いと思うのは、これは公明党との与党協議という茶番をやったあと出てきましたけれども、実はこの着地点はずっと前に決まっていたんですね。5月の段階で北岡さんたちの審議会答申が出て、与党協議に入るときの記者会見で、安倍さんが初めてパネルで「おじいちゃん、おばあちゃん、お孫さんが」といった。私はこの直後のNHKスペシャルで、柳沢教二さんと一緒に反対側で出て、賛成側は北岡さんと首相補佐官の磯崎さんがですが、あのとき磯崎さんが専守防衛は変わらないと言ったんです。わたしは何を言っている、自国が攻撃されていないのに他国の防衛のために行くのが集団的自衛権なんだから、それが専守防衛なわけないでしょうと言ったんですよ。北岡さんは冷笑していました。北岡さんはちょっと変わっている人で、自分が誰よりも頭がいいと思っているから、本当は安倍さんのこともバカにしているんです。いわゆる御用学者とはちょっと違って、自分の方が偉いと思っている。ですから磯崎さんのことを突き放して見ていたんです。磯崎さんがしどろもどろになりながら、やたらと集団的自衛権に関して専守防衛だといっていたんですよ。

いま思うとあの時にすでにシナリオができていた、その後さんざんいろいろやっていたけれども、それは単に芝居にしか過ぎなかった。恐らく兼原さんとか外務省の内閣官房副長官補などブレーンで動いている人たちが、これを可能にするためにはこれしかないということで、すでに書いていたと思うんですよ。それくらい前から決めていた。だけどやっぱり非常に大きな矛盾をはらんでいるんです。集団的自衛権なのに、専守防衛でやるということを相変わらず言っているわけだから。これはやっぱり今後も問題になってくると思います。これで終わりにします。

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武力で平和はつくれない 「日米防衛協力のための指針」改定に反対する

2014年10月15日
戦争をさせない1000人委員会

日米両政府は10月8日、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)見直しの中間報告を発表しました。このガイドライン改定は、日米両政府の戦争態勢をさらに強化、拡大するものであり、強く反対します。

中間報告は、なによりも安倍内閣による憲法違反の閣議決定を前提にしており、日本が集団的自衛権を行使する場合の日米軍事協力を進めるとしています。また、現行ガイドラインの柱である「周辺事態」対処さえ廃棄して、アジア太平洋地域から地球規模までの「切れ目のない実効的な(日米)同盟内の調整」と軍事協力の範囲を無制限に拡大し、日米韓、日米豪などの軍事協力を推進するとしています。

これは日米安保条約の枠組みを大きく逸脱しており、国会の承認を要しない単なる政府間合意で、国会の承認を要する条約の内容を実体上変更することを約束することは、憲法73条3号をも無視するもので認められません。

さらに中間報告は、情報収集・警戒監視・偵察、施設・区域の使用、後方支援、武器防護、ミサイル防衛、非戦闘員の退避、海洋安保(機雷除去など)、平和維持活動、サイバーセキュリティ、宇宙空間安保(軍事衛星防護)など、あらゆる分野で「協力を拡大する」と明言しています。これらは、安倍内閣が示した「15事例」にも沿ったもので、日米の軍事当局間では早くから検討作業とすり合わせが進められてきたことを物語っています。

このような内容のガイドライン改定が行われると、日本は文字通り、地球のあらゆる場所で米国とともに、あるいは単独ででも武力行使しうることになり、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めた憲法9条が、完全に空文化されてしまいます。

それは、日本が「戦争する国」になり、国際紛争を平和的に解決するのではなく、日本が武力紛争の当事者になり、自衛隊員が海外で殺し殺されることになり、日本に住む私たち自身も戦禍に巻き込まれることを意味しています。

過去から現在までのすべての歴史は、武力では平和はつくれないことを証明しています。日米両政府は、軍事的覇権をめざすのではなく、紛争や対立を対話と交渉を通じて平和的に解決するための努力と協力にこそ力を注ぐべきです。

私たちは再度、ガイドライン改定に強く反対し、そのための作業をただちにやめるよう求めます。

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