私と憲法159号(2014年7月25日号)


まさに現代は「新たな戦前」。しかし、私たちはあきらめない

(1)時代はまさに新たな「戦前」。

2014年7月1日、安倍内閣は集団的自衛権の行使容認を合憲解釈とする閣議決定を行った。前日、30日の夕刻から夜にかけて首相官邸前には1万人余の民衆が押しかけ、この日も朝から閣議決定反対の監視を始めた人びとは、午後5時過ぎには前日と同様に1万人を超えていた。「集団的自衛権反対」「閣議決定絶対反対」「戦争反対」「9条守れ」「安倍はやめろ」「いますぐやめろ」のコールがドラムの音と共に鳴り渡った。この両日、首相官邸前には自らが戦場に派兵される世代になることに怒りを燃やした若者たちが、とりわけたくさん駆けつけた。それらは多くのメディアが証言するように、まさに「組織動員」ではなく、自立した個人としての参加であり、その叫びであった。官邸内の安倍晋三の耳には確実にこの声が届いた。6月30日の官邸前行動を「反省」してか、1日の機動隊の警備は歩道に新たな鉄柵を設けるなど異常なものだったが、人びとは毅然として抗議しながら、ジリジリと押し返していった。

安倍政権は茶番としか言いようのない「安保法制懇」の討議につづく「与党協議」という密室協議をもって、国会にもはからず、世論にも説明責任をはたさないまま、あたふたとこの憲法違反の「閣議決定」を行った。これによって集団的自衛権の行使は日本国憲法の第9条の下では不可能とされてきた歴代政権の憲法解釈が変えられ、その行使が可能とされた。戦後の安保防衛政策の歴史的転換の瞬間だった。

これだけ急ぎに急いだ「閣議決定」のあと、安倍首相は通常国会を閉じて外遊にでかけ、約半月後に衆参の予算委員会の閉会中審査をわずか1日ずつ開催して、お茶を濁した。1日の記者会見で安倍首相はその罪悪感と後ろめたさを隠すかのように「今回の(武力行使の)新3要件も、今までの3要件と基本的な考え方はほとんど同じと言っていいと思います。……繰り返しになりますが、基本的な考え方はほとんど変わっていない、表現もほとんど変わっていないと言ってもいいと思います」と弁明していたのに、1週間後の7月8日、オーストラリア連邦議会演説では「なるべくたくさんのことを諸外国と共同してできるように、日本は安全保障の法的基盤を一新しようとしている。法の支配を守る秩序や、地域と世界の平和を進んでつくる一助となる国にしたい」と意気込んで語ったのだ。この2つの首相発言の落差に、安倍晋三という人物の政治の本性が表れている。

この安倍内閣の閣議決定強行の結果、先の15年戦争の後、69年にわたってつづけてきた海外で戦争をしない国、海外で戦争が出来ない国としての日本の「戦後」の歴史は終わった。いまや、私たちの前には新しい「戦争の時代」があり、この国は間もなく戦争をすることになろうとしている。時代はまさに「新たな戦前」となった。(次頁へ)

(2)「一括法」という暴挙

しかし、私たちは確認しておかなければならない。過日の7月1日をもってこの国は「海外で戦争のできる国」「戦争する国」になったのではない。そのためには従来、憲法9条などの縛りをうけて、海外での戦争が困難にされてきたいくつもの戦争関連法制の「改定・整備」が必要であり、それはまだ終わっていないのだ。

官邸前に象徴される反対運動の高揚を恐れた安倍政権は、この戦争法の法改定を、当初、考えられた今年秋の臨時国会からではなく、2015年の第188(?)通常国会に「一括法」として上程し、国会に特別委員会を設置して、集中的に審議しようと企てている。

私たちがもしもこの「一括法」の成立を許せば、文字通り「戦時」が目前にせまる「戦前」となる。

15本以上必要といわれる関連法制の「一括法」の集中審議は、もともと、それぞれ立法主旨も異なるものであり、安全保障関連法制などとして一本化すること自体が議会制民主主義の立場からも問題が大きい。この結果、民衆にとって恐ろしくわかりにくいものとなると思われる。その悪例が1999年の「分権一括法」(475本の法律の一括改正)で、国会議員さえも法案を読み解くのが困難だったと言われるしろものだった。議会での政権与党の圧倒的多数議席を背景に、集中審議に名を借りた短時間の国会審議で、審議を尽くさないままに強行採決するというのが安倍首相の常套手段だ。こうした「一括法」は国会軽視、主権者無視であり、議会制民主主義と立憲主義を破壊する独裁政治であり、許されない。

前号の「私と憲法」でも指摘したが、その中には、(1)自衛隊法、(2)防衛省設置法、国家安全保障会議(NSC)設置関連法、(3)武力攻撃事態法、国民保護法、特定公共施設利用法、米軍行動円滑化法、外国軍用品海上輸送規制法、捕虜取り扱い法、非人道的行為処罰法、(4)周辺事態法、船舶検査活動法、(5)国連平和維持活動(PKO)協力法、国際緊急援助隊法、海賊対処法などなどがある。

なかでも、「国際平和協力」を目的とした自衛隊の海外派兵に関する新法(派兵一般法・恒久法「国際平和協力法・仮称」)の策定も含まれると噂されている。これらの戦争法制は、従来は派兵対象も限定した特別措置法で、時限立法でやってきたのであるが、今回の閣議決定をうけて、場所や時間の限定なしの派兵一般法にしようというのだ。すでに安倍首相は自公協議の舌の根も乾かないうちに、ホルムズ海峡での機雷除去など集団安全保障への参加を口にし始めた。これこそ、そのための保障となる法制である。

年末には日米安保のガイドラインの再々改定が予定されている。今時ガイドラインには今回の閣議決定が反映されることになるのだが、本来、それは日米安保条約の改定を必要とする性質のものだ。日米安保条約第5条には「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」とあり、集団的自衛権の行使はこの5条の規定の突破になるからだ。それほどの重大問題を両国政府の行政協定にすぎないガイドラインの改定で済ませることなど、許されるものではない。

(3)私たちは主権者として、この憲法破壊に総がかりで立ち向かう必要がある

6月30日、7月1日に頂点に達し、その後も閉会中審査に抗議する7月13日から15日の連続した国会行動としてとりくまれた一連の行動は、この春以来取り組まれてきた「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」と「戦争をさせない1000人委員会」のよびかけによる共同行動であった。それは4・8の日比谷集会、6・17の日比谷集会などを経て生成・発展してきたあたらしい運動だった。そして同時にこれらの共同の中で、昨年来の秘密保護法の廃止を求める運動や、学者たちを中心に組織された「立憲デモクラシー」、日本弁護士連合会、若者たちを中心に組織されたTOKYOデモクラシー・クルー、ドラム隊などとの連携が努力された結果であった。こうした共同を軸にツイッターやフェイスブックなど、SNSを駆使した広報・拡散の活動により、情報が多くの個人のもとに届けられ、行動への参加を促した。この過程でさらに「明日の自由を守る若手弁護士の会」、「国民安保法制懇」「21世紀の憲法と防衛を考える会(自衛隊を活かす会)」など、新しい運動体も組織され、世論の形成に尽力した。

運動の高揚は7月1日の朝日新聞社説「7・1官邸前―主権者が動き始める」が描写したとおりだ。
「『戦争反対 生きたい』。黒いペンで手書きした段ボールを持った男子高校生。『憲法壊すな』。体をくの字に折って、おなかから声を出す女子中学生のグループ。プラカードを掲げる若い女性の爪は、ネオンピンクに白の水玉。赤い鉢巻き、組織旗を持った集団の脇で、父親に抱っこされた幼児はぐったりとして。年配の参加者は、もはや立錐(りっすい)の余地もない前方を避け、下流の壁沿いに静かに腰を下ろす。作業着、ネクタイ、金髪、白髪、リュックサック、高級ブランドバッグ。地下鉄の出入り口からどんどん人が吐き出されてくる。……若い世代が目立つ。『国民なめんな』『戦争させんな』を速いリズムにのせてコールし、年長者を引っ張っているのは大学生のグループ。デモに参加するのは初めて、ツイッターで知った、一人で来た、都外から来たという人も少なくない。主催者側によると「官邸前にはどうやって行けばいいのか」と多くの問い合わせがあったという。……『NO』といわなければ『YES』に加担したことになる。戦場に行かされるのがこわい。『頭数』になるぐらいしか、今できることはないから――。多様な思いを胸に集まった人たちが、官邸に向けて声をあげた。……2日間で最も多く叫ばれたコールのひとつは、『安倍は辞めろ』だ。官邸前で、これだけの規模で、公然と首相退陣を求める声があがるのは極めて異例のことだろう。なるほど。安倍首相はこの国の民主主義を踏みつけにした。しかし、踏まれたら痛いということを主権者は知った。足をどけろと声をあげ始めている」。

改めて確認しておきたい。この闘いの軸になったのは、この間、集団的自衛権の行使に反対する課題を不屈に、持続的に闘ってきた人びとの共同であり、それによる提唱だ。統一行動が、広範な人びとの決起を促した。事実、筆者はこの期間、集会のマイクを握った後、多くの人びとから握手を求められ、「こういう場をつくってくれてありがとう」と熱い言葉をかけられた。この人びとは切実に共同行動を望んでいる、それを実感した瞬間だった。

私たちには責任がある。この自覚が必要だ。もとめられているこの闘い、安倍内閣の戦争する国への道を阻止する闘いと比べれば、あれこれの理由をもって共同行動を妨げることになんらの正当性もない。求められているのは、「同円多心」の運動である。「場をつくること」とはまさに誰もが参加できる広範な共同を組織することだ。安倍政権の暴走を止める、「安倍はやめろ」を実現する、わたしたちはそのために、誠心誠意、奮闘する必要がある。

国政で安倍政権が安定多数を握っているとはいえ、10月の福島県知事選、11月の沖縄県知事選、4月の統一地方選が控えている。先の滋賀県知事選挙の結果が示したように、その影響は極めて大きい。

そしていま、さまざまな運動が各方面から準備されている。
この間、集団的自衛権の行使に反対する運動の拡大に重要な貢献をしてきた日本弁護士連合会は、7月17日の銀座デモに続いて、来る10月8日夕方から、日比谷野音を確保して集団的自衛権を認める法律改正に反対する大集会と大規模なパレードを企画している。

また、2004年に結成され、全国に7500も組織されている九条の会は7月はじめ、全国に呼びかけを発し、10月をこのための統一行動月間に指定し、11月24日に日比谷公会堂を中心に大規模な集会とパレードを呼びかけた。

さらにこの間、一連の運動を担ってきた「戦争をさせない1000人委員会」と「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」は共同で、9月4日、日比谷野外音楽堂で集団的自衛権の閣議決定に反対する「総がかり行動」を呼びかけている。

韓国をはじめ東アジアの人びとの運動も高まってきている。

暴走する安倍政権の前に、情勢は決して容易ではないが、私たちはいまこそ、意を決して闘わなければならない。なによりも安倍政権を打ち倒し、閣議決定を撤回させ、この国の戦争する国への道を阻止するために立ち上がらなければならない。(事務局 高田健)

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《アピール》集団的自衛権行使容認の閣議決定に抗議し、いまこそ主権者の声を全国の草の根から

2014年7月5日 九条の会

安倍晋三内閣は7月1日、多くの国民の反対の声を押し切って、集団的自衛権行使を容認する新たな憲法解釈の閣議決定を強行しました。憲法9条の下では集団的自衛権の行使は許されないとする政府の憲法解釈は、60年以上にわたって積み重ねられ、国会答弁などをつうじて国民に示されてきたものです。これを一内閣の考えでくつがえすことは、まさに立憲主義破壊の暴挙です。

集団的自衛権による武力行使は限定的なものとの政府の説明とは反対に、閣議決定の内容は際限なく武力行使が拡大できるものとなっています。国連安全保障理事会の決定にもとづいておこなわれる軍事行動への参加も明示的には否定されてはいません。自衛隊は海外で武力行使しないという原則がくつがえされ、自衛隊員が海外で殺し殺されることになります。

「戦争をしない、軍隊をもたない」と定め、国の安全と生命・自由・幸福追求の国民の権利は徹底した平和外交によって守るとした憲法9条を根底から破壊するものです。

安倍内閣は今回の閣議決定を基礎に、自衛隊法、周辺事態法やPKO法など関連する法律の「改正」をおこない、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の再改定によって日本を「戦争する国」にしようとしています。

今こそ、私たちは主権者として、集団的自衛権行使容認の閣議決定に対して、きっぱりと「NO」の意思を示し、「戦争する国づくりは許さない」との声を全国の草の根からあげるときです。全国のすべての「九条の会」が、その先頭にたって、創意と工夫をこらして多様な行動に立ちあがることを呼びかけます。

「呼びかけ」を受けて、九条の会事務局からの提案

(1)私たちの課題

7月1日、安倍内閣は多くの人々の反対の声を押し切って、集団的自衛権の行使を容認する新たな憲法解釈にもとづいた閣議決定を行いました。これは立憲主義に反して憲法第9条を破壊し、日本を「戦争する国」に変える稀代の暴挙です。今こそ、私たちは主権者として、この度の集団的自衛権行使容認の閣議決定に対して、きっぱりと「NO」の意思を示し、「戦争する国づくりは許さない」との声をあげるときです。

しかしながら、この閣議決定だけでは海外で戦争をすることは出来ません。安倍内閣はこの閣議決定にもとづいて、自衛隊法や、PKO法・周辺事態法の改定などを行わなければなりません。年末に予定される日米安保のガイドラインの見直しをはさんで、秋の臨時国会や、来年の通常国会にはこれらの戦争関連法制がでてくることになります。九条の破壊を許さず、戦争する国にさせない課題にとって、まさにこれからが大事なときです。

九条の会は、全国の草の根から一斉に力を合わせ、運動と世論を盛り上げ、これらの集団的自衛権行使の具体化のための諸法制に反対するとり組みを強め、集団的自衛権の行使を阻む必要があります。全国のすべての「九条の会」が、その先頭にたって、創意と工夫をこらした多様な行動に立ちあがることを呼びかけます。

(2)具体的な行動の提起
  1. 秋の臨時国会の冒頭となる2014年10月を全国統一行動月間に指定し、この期間に全ての九条の会が最低限1回は何らかの行動を設定し、とりくむよう呼びかけます。
  2. とり組み方は都道府県レベルから、市区町村レベルの九条の会、あるいは各分野ごとの九条の会の単独、あるいは共同したとり組みとしましょう。
  3. 近隣の九条の会で、活動が休止状態になっているところに積極的に働きかけ、この月間を契機に立ち上がってもらうように協力しあいましょう。
  4. 活動形態は各種イベント、集会、公開学習会、署名、シール投票、チラシ・リーフレットの配布、ポスターの張り出しなど、九条の会らしい(「集団的自衛権の行使容認に反対し、憲法9条をまもる」という共通の課題で一致する全ての人々が加われるような配慮をした)とり組みとして、行われるのがのぞましいです。
  5. 全国の九条の会の活動を激励するためにも、首都圏ではこの期間に、首都圏各九条の会が協力して、臨時国会の重要な局面になると思われる11月24日(月・休)、日比谷公会堂で、大規模な集会とパレードを企画したい。パレードは九条の会らしいものとして、皆さんの知恵を結集して、創意工夫したものにしたい。この集会に向けて、各地・各分野の九条の会は、それぞれの足下で多様な形態の行動を組織し、その成果を持ち寄りましょう。
  6. これらの活動の企画と結果を、「九条の会ニュース」、「九条の会メルマガ」を活用して、報告しあい、共有しましょう。
  7. 以上のために、九条の会事務局は署名用紙、ポスター、チラシなどを作成し、サイトに掲載します。講師の紹介などもひきつづき積極的に行います。

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第87回市民憲法講座:本当に危ない安倍政権の集団的自衛権行使容認論

山内敏弘さん(一橋大学名誉教授)  

(編集部註)6月21日の講座で山内敏弘さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。

めちゃくちゃな自民の議論――集団的自衛権も集団安全保障も

今日ご参加のみなさん方は現在問題になっております集団的自衛権の行使容認へ向けての安倍政権の暴走問題に対して日頃から関心を持っておられ、かつまた最近のいろいろな集会とかデモに参加していらっしゃる方が少なくないと思います。私も今日ひとつ勉強する機会にして、明日以降の運動とか議論のための参考にいたしたいと考えております。

それにいたしましても、安倍政権のというのか自民党の最近の一連の動きというのは、ちょっとひどすぎると私は思うんですね。ここにきて集団的自衛権の行使容認だけではなくて、いわゆる集団安全保障への自衛隊の参加の問題が急浮上しているわけです。さすがにこれには公明党が猛反発して、与党協議は紛糾している。今朝の東京新聞によりますと、自民党のそういった提案に対して、公明党は議論を拒否している。さしもの公明党も、と言ったら言葉はよくないかもしれませんけれども、ちょっと頭に来ている、怒っているということが、新聞の見出しを見るとうかがい知ることができるかと思うんですね。

5月15日に安保法制懇が報告書を出して、その報告書を受け取った直後の夕方に安倍首相は、記者会見をした。あのときに安倍首相は、はっきりと自衛隊が武力行使を目的として他国との戦闘に参加することはこれからも決してない。憲法が掲げる平和主義はこれからも守り抜く――それはインチキだと思うんですけれども、でも少なくとも自衛隊が武力行使を目的として他国との戦闘に参加することは決してないということを、はっきりと国民に対して明言したわけです。この記者会見のとき安倍首相の挙げた事例等々については、うさんくさいといことがいろいろありますが、少なくともこの時点で安倍首相は多国籍軍への武力行使を目的とした参加というのは、これはないんだ、ということを国民に向かって明言したわけですよね。

それからまだ1ヶ月ちょっとしか経っていないじゃないですか。舌の根も乾かないうちに政府自民党が、こういうことを与党協議で提案してきている。こんなに国民をバカにした話はないと思うんですよ。これにそのまま乗っかるんだったら、公明党もこんなにコケにされて、それを唯々諾々と飲むなんていうことになったら、もう公明党の存在理由なんていうのはまったくなくなっちゃう。だからさすがにこれには簡単には乗っかれませんよ、ということを現在の時点では公明党は示しているようであります。

???武力行使に2種類???

何でこんなことになったのか。理由としてふたつほどのことが上げられているようなんですね。高村氏などが与党協議の場で言っていることは、中東地域を念頭に置いた機雷の除去、掃海作業は、集団的自衛権の行使としては8事例の中に含まれているから認めようとしていることだ。ところが、この集団的自衛権の行使として機雷の除去作業をしているときに、その地域に関して国連安保理のお墨付きのもとで多国籍軍の展開という事態になった場合において、その段階で集団安全保障に変わるから、自衛隊が機雷の掃海作業をやめてとっとと引き上げるということはできない。それは集団的自衛権の行使の延長線上に、集団安全保障というかたちでの活動の一環として、機雷の掃海作業、除去作業はせざるを得ないじゃないですか、というのがひとつの理由であるわけです。

もうひとつの理由は、機雷の除去作業というのは確かに国際法的には武力行使には入るけれども、高村氏の与党協議における発言によれば、相手をたたきつぶすような行為とは違うんだ。その他の与党の発言によれば、国際法的には武力行使には入るけれども、それは限定的かつ受動的な武力行使だから、それは集団安全保障の一環としての武力行使としてであれ、認められる。

現在のところ新聞報道でいわれております理由というのはこのふたつですよね。このふたつの理由として集団的な自衛権のみならず、いわゆる集団安全保障と申しますか、国連の安保理のお墨付きがある場合もない場合も、多国籍軍によってなされるところのいわゆる集団安全保障への自衛隊の武力行使を伴った参加というのも認められるというかたちで考えるべきだ、ということのようなんですね。

このふたつとも、そんなことはある意味において最初からそういう筋道を描きうることは政府筋ではわかっていたはずで、いまになって気がついたなんていう、そんなバカな話はないわけですよ。わかっていたはずなのにそれを伏せておいて、安倍首相は5月15日にああいう発言をして、今頃になって、集団的自衛権の行使としての機雷の掃海作業だけじゃなくて、集団安全保障の一環として機雷の掃海作業もできるようにせざるを得ないという言い方をしているわけです。

私は、これはまったくめちゃくちゃくちゃな議論だろうと思うんですね。そもそもこれは公明党自身が反対してきたはずです。つまり集団的自衛権の行使として8事例が与党協議で挙げられていたわけで、その8事例のひとつの中に、なかんずく中東地域における機雷の掃海活動というものが含まれていることに対しては、あんな遠いところでの集団的自衛権の行使というのはやっぱり問題があるんじゃないの、ということで公明党自身は慎重な対応の仕方をしていたはずです。そもそも自衛隊が機雷の掃海作業の活動して、あの地域に自衛隊が行くということ自体がそもそもおかしいはずなんです。

仮に限定的に公明党の立場に立って集団的自衛権の行使が容認されうるとしても、わたし自身はもちろん限定的な容認論自身はインチキだということをあとでお話ししたいと思いますけれども、仮に限定的に認められるとしても、あそこまで行って集団的自衛権を行使するのはおかしいというのが従来の公明党の立場だったんですよね。ならば、その集団的自衛権の行使をやっている最中に、それが多国籍軍によっての機雷掃海活動として安保理からお墨付きを得られたから、それにも自衛隊が参加し続けなければいかんという議論の前提そのものがそもそもおかしいわけです。そんな議論は全然話としては通りません、というかたちで突っぱねていいわけですよ、本来ならば。

もうひとつの理由付けですけれども、国際法的に見て機雷の敷設そのものが武力行使であると認められている。あわせてその敷設された機雷を除去する活動も、国際法的には武力行使の一環ととらえられているということは、これはもう疑いを差し挟む余地のないことです。ですからそれが武力行使であるということは、政府自身あるいは高村氏自身が認めざるを得ないことなのですけれども、どうも武力行使にも限定的、受動的武力行使と、相手をたたきつぶすような武力行使と2種類あるらしい。

限定的、受動的な武力行使は認められますよと、安倍さんは5月15日の記者会見で言ったんですか。そんなことは全然言っていないわけですよ。武力行使一般が認められないというかたちで、「そんなことは決してあり得ません」と言っていたわけでしょ。それをこの期に及んで武力行使の中に2種類ありますよという話になっちゃっているわけですよね。こんなに国民をバカにした話はないと思うんですよ。憲法のどこに武力行使には2種類ありますと書いてあるんですか。書いてないですよ。本当にあの5月15日の安倍首相の国民向けの、パネルを使った、おじいちゃんおばあちゃんとか赤ちゃんまで引っ張り出したあの話は一体何だったんでしょうね。

自衛権行使の3要件を武力行使の3要件に変えた

おまけに自衛権行使についての3要件。これは改めて指摘するまでもないことですけれども、歴代の政府は自衛権行使について3つの要件が必要であると言ってきたわけですよね。(1)我が国に対する急迫不正の侵害があること、(2)これを排除するために他に適当な方法がないこと、(3)必要最小限度の自衛権の行使にとどまるべきこと、この自衛権行使の3要件の、とりわけ第1の要件を、6月13日の与党協議で自民党の高村総裁は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」という要件に変えることによって、集団的自衛権の行使を限定的に容認するという案を公明党に提示したことになっているわけです。

この議論そのものの問題性はこのあと少しお話ししたいと思いますが、ここでお話ししたいことは自衛権行使の3要件というかたちで従来言われてきたわけです。それがいつの間にやら武力行使のための3要件というかたちに変えられてしまった。つまりこの要件をクリアするならば集団的な自衛権行使だけではなくて、集団安全保障への武力行使を伴う参加もこれによって可能なんだということに、いつの間にかなっちゃっているんですよ。そんなバカな話が一体あるのか。その点に関しても、5月15日の安倍首相の発言は、自民党自身が反故にしてしまったというのか、もちろん反古にされることは安倍首相自身は重々承知の上でそうしているわけです。

安倍首相自身は元来集団的自衛権の行使だけではなくて、いわゆる多国籍軍への参加そのものもやるべきだという考え方を取っていたわけです。それをさまざまな世論の力とか公明党への配慮から、5月15日の記者会見で多国籍軍への武力行使を目的とした参加は決して認めることはありません、なんていうことを国民に公言していたわけです。それがだんだんだんだんと「人の噂も七十五日」と言いますけれども、75日も経たないで30日ちょっとだけで国民はもう忘れちゃったと思っているんですかね、安倍さんは。やっぱりわれわれは怒りを持って立ち上がらなければいけない時期に来ているんだろうと思うんです。もっとも今朝の毎日新聞によれば、これは一応出してみて公明党とか世論の批判が強ければ引っ込めることはやぶさかではなさそうだ、という観測もなされているわけですね。

武力行使との一体化論の規準も緩和

いわゆる武力行使との一体化論という問題があるわけです。従来の政府の見解では、これはアメリカ軍の行動であれ多国籍軍の行動であれ武力行使そのものをやることができないだけではなくて、武力行使と一体となるような支援活動も、憲法9条で禁止されているからできないと言ってきたわけですね。これが武力行使との一体化論ということです。この一体化論の規準というものも緩和しようということで、政府が6月3日に、ここに書いたような議論を展開して、戦闘地域においても後方支援はできるんだということを言い始めたわけですよね。

戦闘地域における後方支援って何ですか。その言葉自体論理矛盾だと思うんですよね。戦闘地域で米軍とか多国籍軍に支援活動をするのなら、後方支援じゃないんですよ。まさに現場における武力行使と一体となった活動じゃないですか。さすがにそれは、出してきたけれどもやっぱりヤバイということで、公明党からも反対があったからというので引っ込めて、現に戦闘が行われている地域においては支援しない、あるいは支援地域が戦闘状態になった場合においては活動を中止することになった。

ただし人道的な捜索救助活動を行う場合は例外とするというかたちで、新しい条件を出してこれが閣議決定に盛り込まれることになりそうなんです。このときも、いったんともかく戦闘地域でも後方支援活動ができますよ、なんていうことを言って、それをすぐあとに引っ込めているわけです。言ってみて、ちょっと抵抗が強ければ引っ込めましょうという、何でそんなことをやっているのか。

何回も言いたくないけれども本当にバカにした話だと思うんですよね。言ったならば言ったことについて責任を持って欲しいですよね。やっぱり君子の発言というは綸言汗のごとし、いったん言っちゃったらもう戻すことはできない。安倍さんには責任を取って欲しいんですよ、5月15日の発言についての責任を。それを引っ込めて、集団安保への参加も武力行使が受動的なものだったらできますよ、なんていうことを言ってもらっちゃ困るんですよ。君子の資格はないんですよ、本当に。最初から君子じゃないんだけれども。本当に資格がないと思うんですよね。ですから是非ここのところ公明党は最後の最後がんばって欲しい。がんばらせるべくわれわれがやっぱりがんばらなきゃいかんということだろうと思うんですね。ですから、出してみたけれども抵抗が強いから集団安保への武力行使を伴った参加はやめます、やっぱり集団的自衛権だけにしますというかたちになるかもしれない。それで公明党が、あるいはわれわれがよかったなんて安心しては絶対にいけないと思うんですよ。

集団安保への武力行使を伴った参加も、集団的自衛権の限定的な参加も、全部これは日本が海外の戦争に参加する、そしてその事によって自衛隊員が血を流す。自衛隊員が血を流すだけではなくて、結局その事のいわば火の粉が日本に降りかかってくるということです。全国の、原発があるところにミサイルがぶち込まれたら、日本は破滅しますよね。しかもそれが、日本自身がアメリカへの戦争に参加することに伴うところの結果として、そういう事態になるやもしれない可能性があるわけです。そのことについて安倍首相は、5月15日の記者会見でひとことたりとも言っていない。与党協議でもその事についてはひとことたりともいっていない。だけれども集団安保への参加とか集団的自衛権への参加ということの意味するところはそういうことだということは、今日ご参加のみなさん方には釈迦に説法ですけれども是非ひとりでも多くの人たちにその事をこれからも伝え続けて頂きたい。

仮の話をしてはいけないんですけれども、仮に7月の上旬に閣議決定という事態になったとしても、それは是非これからの限られた日にちの間に阻止しなければいけないと思うんです。仮に万が一閣議決定がなされたとしても、そのあとでもさらに運動を続けなければいけないし、閣議決定それ自体には法的な拘束力はないですから、秋の立法化を阻止する。立法化がなければ自衛隊は実際に動くことはできません。閣議決定を阻止するためにも、またそのあとの運動をも私たちは展望して、集団的自衛権を容認することの意味をお互いに確認すると同時に、その事についての認識が必ずしも十分でない人たちへみなさん方が話を伝えていって頂きたいと思うわけでございます。以上が私が今日お話し申し上げたかったことで、30分でおしまいにしてもいいんですけれどもそれでは申し訳ありませんので、レジメも若干書きましたので引き続きお話を申し上げたいと思います。

解釈改憲による集団的自衛権行使容認の違憲性

ひとつの論点は、集団的自衛権の行使を憲法96条の改正手続きを経ることなく、いわゆる解釈改憲によってやろうとしている問題であるわけですね。もちろん憲法といえども不磨の大典ではございませんから、時代の流れに応じてそれを変える必要があるときには変えていくということは、憲法自身が96条で規定しているところであるわけです。これは憲法の教科書にも必ずしもきちんとしたかたちで書かれていないので、手前味噌ですけれども私の2年前に書いた本(「改憲問題と立憲平和主義」2012年 敬文堂)を参考文献としてあげておきました。

96条が、憲法の改正は衆参両議院総議員の3分の2以上の多数で発議して、国民投票にかけるということを書いているわけです。そこで「この憲法の改正は」と言っていることの意味は、従来ややもすれば憲法のテキスト、条文を改正する場合においては96条の改正手続きを必要とする、というかたちで考えられてきたというか説明されてきた部分が少なくないと思うんですね。それはもちろんそうなんです。例えば憲法9条の1項とか2項、あるいは憲法1条であるとか、そういった条文を改めるために、あるいは条文を削除したり新しく付け加える場合においては、96条の改正手続きを必要しているということは間違いないんです。けれども、それだけなのかと言えばそうじゃないわけです。

例えば憲法9条あるいは他の条文にも、「集団的自衛権の行使はこれを認めない」という条文はないんですよね。明文の規定としてはないんですよ。ないけれども、しかしそれは憲法9条から論理的に、また歴史的にも立法者意志に照らしても帰結される、当然のいわば9条の規範内容を構成しているわけです。テキストには書いていないけれども、集団的自衛権の行使ができないというのは、9条なり憲法全体の規範内容、憲法原理を構成しているわけです。ですからテキストを変えなくても、そういう9条のテキストから、あるいは憲法全体から帰結される規範内容、しかもそれは9条なり憲法の根本原理をなす規範内容を変える場合においても、96条の改正手続きを必要とするというのが、96条が規定していることの趣旨であるということなんですね。

とりわけこの集団的自衛権の行使を認められないというのは、少なくともとも海外における、他国のための武力行使という意味における集団的自衛権の行使が認められないということは、憲法が施行されて以来70年近くの今日に至るまで憲法の基本的な規範内容あるいは憲法原理、国のかたちを構成してきたといってよろしいかと思うんですね。そのような基本的な憲法原理を変更するとするならば、それはやっぱり96条の改正手続きを必要とするというのが憲法96条の主旨でもあるし、9条の主旨でもあるし、憲法全体の主旨であると解釈するのが、憲法の当然の解釈になるわけですね。

もちろん憲法の規定、文言、テキストにはいろいろな意味合いがあって、従って解釈の変更がすべて許されないかというと必ずしもそうではない。一定の解釈の変更はあり得るわけです。政府が挙げてきた解釈の変更には文民条項についてなどがありますが、それは憲法の規定のテキストないしは全体の意味からして認められる解釈の枠内であれば、解釈の変更は認められる。しかし枠を超えたかたちでの変更ということになれば、これはやっぱり96条の改正手続きを必要とする。

問題は解釈の枠内の変更なのか枠を超えた変更なのか、その線はどこに引かれるのかという問題があるわけです。少なくとも集団的自衛権の行使が認められないということは、9条並びに前文並びに憲法全体の解釈からして当然に出てきたことですので、9条を変更することのないままのかたちで集団的自衛権の行使を認めるということは、明らかに解釈の枠を超えた議論といわざるを得ないわけであります。従ってそうであるならば、それは96条の改正手続きを必要とする。

私自身は、96条の改正手続きをもってしても改正権の限界というものがあって、集団的自衛権の行使を日本憲法の根本原理に照らすならば、それはできないということを本にも書いているんです。その議論は仮にかっこに入れたとしても、少なくとも96条の改正手続きなしに、解釈によって集団的自衛権の行使を容認するということは、9条並びに96条さらには憲法の最高法規性、憲法そのものを無意味なものにする。その意味においては立憲主義に反することにもなるだろうと思うんですね。解釈改憲は立憲主義違反だということがいわれて私もまったくその通りだと思うんです。解釈改憲、閣議決定のみによる解釈改憲というのは立憲主義違反だということが、いま言ったようなことから説明が付けられるということだろうと思うわけです。

解釈改憲がもたらすもの――法の支配から権力の支配へ

そういった解釈改憲がいったん認められてしまったならばいったいどういうことになってしまうのかという話です。集団的自衛権の行使についての解釈改憲というものがいったん認められたならば、憲法の他の条項についても同様のことが可能になってくるだろう。徴兵制についての解釈改憲も可能だろうし、政教分離についての解釈改憲も可能になってくるだろう。

内閣官房参与って何をする仕事なのかよく知らないんですけれども、飯島なにがしという人が公明党、創価学会に対して、政教分離ではなくて政教一致になるかもしれないなどと脅しをかけた。それで公明党が方向転換したのかどうかは定かではないんですけれども、公明党が政党として活動し、政権与党の一翼にあって権力を行使している。これは政教分離には違反していません、というのが従来の政府の政教分離についての解釈であったわけですね。これが解釈改憲が可能だということになれば、これも閣議の決定によって可能になっちゃう。太田大臣はもちろん反対するでしょうけれど、太田大臣のクビを切ってそれでもって、政権の座に、権力の座に宗教団体の影響下にある、支配下にある政党が就くのは憲法違反だ、政教分離違反だというかたちの解釈改憲をすることも可能になって来るわけですね。

憲法よりも下位な、首相の意向が優先するということになってくるわけですね。憲法の論理ではなくて、力の論理になる。どこかの新聞が積極的平和主義について、積極的平和主義をそんなふうに使うのはアベコベじゃないかといったんですけれども、憲法と内閣総理大臣はどっちが偉いのか。内閣総理大臣が憲法を決めるというのではまさにアベコベですよ。こんなアベコベなことが許されてはたまったものじゃない。憲法のもとに総理大臣もあるし閣議もある、それが法の支配、憲法の支配であって、それが逆転して人の支配、権力の支配になってしまう。安倍首相は、対外的には力による現状変更は認められない、法の支配が大切ですということを、中国を念頭に一生懸命言っているわけです。国内では力による現状変更をしようとして、法の支配を無視している。こんなマンガチックな話はないと思うんですね。それはやっぱり許されないと思うんです。

生活の隅々まで奪いかねない解釈改憲

なんで憲法が大事なのかというと、憲法というのは言うまでもなくわれわれの権利とか自由を保障している。われわれの自由とか権利が侵されないように、権力によって侵害されないために権力に対して手枷足枷をはめているわけですよね。その手枷足枷をはめられたはずの総理大臣なり閣僚が、その手枷足枷を無視して、憲法を無視して解釈によって何でも自由にできる、自分が憲法を決めるんだなんていうことになったら、これはもう世も末だろう。本当にそういう事態になりつつあるんじゃなかろうかと思うわけです。立憲主義が大切だということはそういうことだと思うんです。

私は結論的には憲法96条の改正手続きを経ても、集団的自衛権の行使は認めるべきではないと思うんです。けれどもいまのようなことを考えたら、そもそも憲法の存在意味そのものが問われている時代だ。憲法そのものの存在意味が問われているということは、どうってことはないんじゃないのということには、実はならない。その結果として私たちの自由なり権利なりが、権力の恣意的な支配のもとに置かれることなんだろうと思うんですね。

今日は、たまたまこういう集会が文京区民センターで開けたわけですが、実際には公民館では憲法の集会が開けなくなっている状態が出てきている。天下の明治大学でも憲法の集会ができなくなっている。これはもう喜劇であると同時に、悲劇的な状況が出てきているんじゃないかと思うんです。つまり、権力担当者が憲法21条の表現の自由について自由に決めることができる。その意を体したかたちで自治体が萎縮的になり、そして大学までも、明治大学には私の尊敬する先輩もたくさんいて同僚もたくさんいるんですけれども、そういう事態になっている。教授会も骨抜きになって、学長のワンマン体制が敷かれようとしてきている。そういうところにいまの解釈改憲というのは影響を及ぼしてきている。われわれの生活、市民活動の隅々まで具体的に解釈改憲がもたらすものは何であるかということを示す兆候が出てきているんだということだろう。

ですから手続きとか憲法規範というものは、確かに私たちの日常生活にとってはあまり意味がないように見えます。そして多くの人たちは、憲法なしで生活している。民法と刑法があれば十分だと思っているかもしれません。けれども、実はやっぱりその大元に、私が憲法学者だから言うわけではありませんけれども、その大元に憲法があるんだということです。その憲法が、いま解釈改憲によって無視されているという論点を、先ずいまの事態を考える上での重要な論点として私たちは確認して、その事で、広範な運動というものを展開していく。ともかく安倍政権は倒さなければいかんという、私たちはそういう運動を続けていくことが必要なんだろう。そのためにはあの党は嫌いだから、あの党は好きだからということを言ってはおれない事態に来ていると思います。以上が解釈改憲のもたらす問題についてのお話です。

与党協議で話し合われた「限定」容認論の根拠

集団的自衛権の行使についてのお話になるわけですが、与党協議でいわゆる限定的容認論というものが出てきたわけであります。このような限定的な容認論ということ自体は、世論の力、それから公明党の一定の影響力があることによって、政府自民党も全面的な容認論から限定的な容認論に舵を切ったということかと思います。そういった流れの中で、与党協議で自民党の高村副総裁は、従来の自衛権行使の3要件の中の第1の要件を、先ほど引用したようなかたちへと修正した案を出してきたわけです。読売新聞の調査では、世論も限定的な容認論を支持する声が多いということが報道されています。これはいったいどうなのか。公明党もこれに乗っかりそうな様相を示しているようです。いったいこれは本当に限定的たり得るのかということをいえば、私の結論的には限定的たり得ることはあり得ないと思うわけでございます。

高村さんは弁護士だと思うんですけれども、この間は砂川事件の最高裁判決を理由として、集団的自衛権の行使を容認するとができるということを言っていたわけです。砂川事件の最高裁判決は、確かに集団的自衛権の行使は認められませんということは言っていないわけです。しかし集団的自衛権の行使はできないと言っていないからといって、集団的自衛権の行使ができるという答えを導き出すことができるかというと、そんな答えを導き出すことなど到底できない。そもそも集団的自衛権の行使を問題とした事案ではなかったから集団的自衛権の行使については何ら触れていなかったわけです。

問題になっていないから触れていなっかったことを称して、そこでは否定されていませんからというかたちで、あたかも肯定されたかのごとく引用するというのは論理としては明らかにおかしいわけです。わたしは法律家としてそんな議論を展開すること自体がナンセンスと思うんです。さすがにいろんな人たちから反発、批判を受けて、その議論はなくなっちゃったんですよね。

1972年の政府見解をつまみ食い

その議論はなくなったかと思うと、今度は高村さんは1972年の政府見解を根拠にして集団的自衛権の行使を根拠づけようということを与党協議で提案してきたんですね。1972年の政府見解というのはどういうものか。昭和47年10月14日に、参議院に出されました政府の見解でございます。これは集団的自衛権と憲法の関係について質問が出されて、それに対して政府が答弁した提出資料です。

これは第1パラグラフでは、国際法上国家はいわゆる集団的自衛権というものを持っているということが書いてあって、第2パラグラフで「ところで政府は」として、従来から一貫して集団的自衛権の行使は憲法の許容する自衛権の措置の限界を超えるものであって許されないという立場に政府は立ってきました。これは次のような考えに基づくものですと書いてあります。「憲法第9条において」以下は、集団的自衛権の行使は認められないということの根拠付けとして書いているわけです。そこで憲法9条とか前文とか13条を引き合いに出して、「憲法のこれらの条文は自国の平和と安全を維持し全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとはとうてい解されない」、ここをつまみ食いするわけです。

このあとでこの政府見解は、「しかしながら、だからといって憲法は自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それはあくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」、この「根底からくつがえされる」という言葉もつまみ食いしているわけです。さらにこの1972年の政府見解では「根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであるから、……必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」。これが1972年、昭和47年の政府見解です。

これをつまみ食いして、高村氏は与党協議の場でこれを換骨奪胎(この言葉を悪い意味で使いますけれども)して、集団的自衛権の行使を可能とする論拠に引用しているわけです。これは法律家の議論ではないことはもちろん、常識的な議論からしてもこんな議論というのは出てこないのではなかろうかと私は思うわけです。

つまり1972年の政府見解は、他国に加えられた武力攻撃を阻止するために集団的自衛権の行使はできないとはっきり言っているのに対して、与党協議で出された案では他国に対する武力攻撃が発生した場合でも、自衛権の発動ができるということを言っている。しかも「わが国の存立が脅かされ、それから国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある場合」、そんな「おそれがある場合」なんていうことは72年の政府見解ではまったく書いていない。「生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処して」となっているところをつまみ食いして「おそれがある場合」というかたちに要件を変えているわけですね。まさにこれは木に竹を接いだようなものだと新聞の社説では書いていましたけれども、私もまったくそうだろうと思います。

そしてここで言う他国というのはどこの国なのかはまったく無限定で、地球の裏側までもそれには含まれることになってくるわけです。公明党はこの「他国」を「密接な関係のある国」というふうに限定しようとしているようですけれども、しかし密接に関係している国とは一体どこですか。アメリカだけですかと言えば、そうではない。韓国も入ってくるしベトナムも入ってくるしオーストラリアも入ってくるという話ですよね。

資源確保がわが国の存立に不可欠という危険な論理

私がさらに重大だと思いますのは、72年の政府見解でも確かに「わが国の存立」ということが書かれているわけです。けれども、この1972年の政府見解では、わが国の存立が他国に対する武力攻撃によって脅かされるなんていう脈略の中で、わが国の存立を全うするということが書かれているわけではさらさらないわけです。わが国の存立が脅かされる事態というのは、我が国に対する急迫、不正の侵害がある場合に、わが国の存在が脅かされるという文脈で「わが国の存立」という言葉が使われているんですね。ところがこの与党協議で提案されたところの「わが国の存立」という言葉は、他国に対する武力行使が発生することによってわが国の存立が脅かされる事態というものがあり得るという、そういう使い方がなされているわけです。

私は、日本自身が武力攻撃を受けていないにもかかわらず、わが国の存立が脅かされるような事態というのは想定することができないんですよ。だけど政府自民党の人たちは、そういう事態を想定することができるようなんですね。どういう場合なのかというと、これは安倍首相自身が言っているわけですが、石油とか食糧とか、これはわが国の存立にとって不可欠だ。だから中東地域において紛争が発生した場合には、シーレーンを確保するために自衛隊の出動が必要だ、という論理になってくるわけですね。専門家に言わせれば、日本に半年間は石油が輸入されなくても備蓄量は大丈夫だというわけです。中東地域を回ってくることができなければ、遠いけれども喜望峰を回ってきてもいいわけです。石油のために人が死んでもいいのか、日本が戦場になってもいいのかという話になってくるわけです。

かつてのアジア太平洋戦争において、日本は朝鮮半島に出て行き、中国大陸に出ていき、果ては南太平洋に軍事占領に出かけていった。その理由は何であったのか。いずれも、まずは朝鮮半島は日本の生命線だ。満蒙は日本の生命線、権益だ。そして南太平洋地域はABCD包囲網によって資源が途絶えてしまったので、石油資源等々を確保するために軍事侵攻しなければいけない。みんな日本の生命線なり資源を確保するために、外に出て行かなければいけない。日本は資源が足りない国だということは最初からわかっているわけですから。安倍首相や高村氏のこの論理を使うならば、またぞろ日本は資源を確保するためには、それがなければ日本は生きていくことはできないんだから、海外に軍事侵攻せざるを得ないという論理になっていく。この日本の生命線とか資源というのは日本の存立にとって必要不可欠だ、という論理ほど危険な論理はない。

論理的な整合性がまったくない新3要件

私は、公明党が自衛権行使の新3要件というものを絶対飲まないで頂きたい。5月15日の安倍首相の記者会見を踏まえた山口さんの記者会見では、従来の政府見解と新しい考え方が果たして論理的な整合性があるかどうか、憲法の平和主義との関係でどうかということを公明党としては吟味していきたいと、はっきりと述べたわけですよね。論理的な整合性はまったくないですよ、この新しい3要件というのは。また平和主義とは真逆の3要件になっている。

これは自衛権行使の3要件だけじゃなくて、集団的な安保のための武力行使の3要件にもなっている。つまりわが国の存立が脅かされるような事態になったならば、日本は海外に打って出て自衛隊が武力行使することができますよ。わが国の存立が脅かされる事態ってどういう事態なのかと言ったら、資源が断たれるような事態ですよということになってくるわけです。安倍首相自身がはっきり言っているわけです。石油資源とかその他の資源というのは、日本の存立にとって必要不可欠ですと。機雷除去だけではないかたちで全面的な武力行使、つまりは戦争がそれを理由にして行われていく可能性が出てくる。

果たして限定的かどうかということを、われわれはどういうかたちでチェックできるのか。これは公明党さんにもぜひ考えて頂きたい。昨年、まさに特定秘密保護法が制定されたわけです。特定秘密保護法によれば、防衛情報は集団的自衛権に関わることも全部これは特定秘密にされるわけですよね。マスコミ関係者も、それをすっぱ抜いたりしたら特定秘密保護法によって刑事罰を処せられる。限定的かどうかのチェックをすることは、新しい特定秘密保護法の下ではほとんど不可能だ。このたび国会法が改正されましたけれども、国会法で新しくできた監視機関は強制力を何ら持っていない。国会がコントロールすることはできないわけです。

新聞記事によれば、国会が強制力を持ってコントロールするということになれば、それは行政権に対する介入になって3権分立に反するということを、公明党の議員が言ったらしいんですよね。憲法41条には、国会が国権の最高機関であると書いてあるんです。防衛情報というのは、行政権の行政情報ではないんですよ。国の情報だし、国民の情報なんです。国民に情報を開示するか、しないかというのは、行政権が決めるんじゃなくて国民が決める。その代表である国会が決める。

だから少なくとも防衛情報の中に本当に国民の生命や安全に関わることで、さしあたって不開示が必要だとするならば、その事を決定する権限を持っている国会がそれを決める。国会が強制力を持たないかたちで防衛情報の開示・非開示を決めるというのは、それこそ憲法の統治原理に反することなんです。特定秘密保護法と今回の国会法の改正、改悪ですけれども、そういう問題があって、そういう法律の下で、果たして限定的な集団的自衛権の行使が本当に限定的にとどまりうるかというチェックを一体誰がするのか。われわれがすっぱ抜いたら、それはそれでわれわれは逮捕されて牢屋にぶち込まれてしまう仕組みはできあがっている。ですから限定的だからというかたちで許すわけにはいかないですよね。

さらに機雷の除去の話で、限定的に機雷の除去をいたしますなんていうことを言ったって、機雷を敷設した国からすれば武力行使をされたわけですから、それに対して当然反撃してくる。相手国は限定的に反撃してくるんですか?そんなことはあり得ない。それは本格的な、全面的な武力衝突にならざるを得ないんです。これは限定的に始めた戦争ですから相手も限定的にして下さいなんて、戦争においてはそんなことはあり得ない。限定的という論理そのものはこちら側だけの論理であって、いったん武力行使をすれば限定的たり得ないわけです。そんなことは政府だって安倍首相だって、外務省だって自衛隊だってみんなわかっている。わかっているけれども、何となく一般の人たちは限定的と言われればまあいいんじゃないの、ということで納得させられようとしているわけですよね。私はこんな国民をバカにした話はないと思う。ですから、この限定的な集団的自衛権行使容認論というのは、まがい物というかインチキ、羊頭狗肉もいいところだということを、ひとりでも多くの人たちに訴えていって頂きたいと思うわけです。

集団的自衛権行使の6要件――国会承認は事後も可

5月15日に出された安保法制懇の報告書では、6つほどの要件が集団的自衛権の行使に関して書かれている。書いていることを上げると6つほどになるということですけれども、最近になって政府自民党などは、これは要件を定めたんじゃなく手続きを定めたに過ぎないというふうに言い方を変えているわけです。まさにその通りで、これによって集団的自衛権行使が限定される筋合いのものでも何らない。国会がチェックできるかというと、国会は場合によっては事後的なチェックにとどまるということです。

想定されております閣議決定――産経新聞は何日か前に詳細な閣議決定概要というものを発表しているわけですよ。他の新聞は小さな概要案なんだけれども、産経新聞だけなぜか詳しい概要案が出ているんですよ。それを見ると、ある種の民主的な統制はしなきゃいかんということは、閣議決定の中には書かれるらしい。しかしやっぱり集団的自衛権の行使に関する国会承認は事後もあり得る。自国が攻撃された場合にもドイツの憲法は、連邦議会の決定なしに戦争宣言をするわけにはいかないということが大前提です。日本が攻撃されていないのに、他国が攻撃されたときに日本が集団的自衛権を行使するということについても国会の事前承認はあくまでも原則で、事後承認もあり得るなんていうのは、民主的な統制がまったく欠如していると言わざるを得ないだろうと思うわけでございます。ですから限定的な集団的自衛権行使そのものが、手続き的な面においても限定性は担保されていないということだろうと思います。

集団的自衛権行使の想定事例のウソ

具体的に一体どういう事態を集団的自衛権の行使として、政府・安倍首相は想定しているのか。先程来、機雷除去の話をひとつの事例としてお話をしてきたわけでございますけれども、安倍首相は5月15日に集団的自衛権の行使が必要な例としてふたつの事例を挙げたわけです。紛争国から在留邦人を輸送する米艦船を、自衛隊が防護する必要性があるということと、海外で活動しているNGOの人たちや外国の部隊が危険にさらされたときに、いわゆる駆けつけ警護をする必要性があるということです。

第1の事例ですけれども、わたしは安倍首相というのは、国民の多くの人たちが必ずしも十分な軍事問題について知識を持っていないということを奇貨として、事実に反すること、簡単に言えば嘘ですよね、嘘を言っている。あの記者会見で私はやっぱり嘘を言っていたと思うんですね。このふたつの事例を挙げて集団的自衛権の行使を正当化しようとしているわけですが、とりわけこの第1事例というのは本当にお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、子どもたちを引っ張り出して、集団的自衛権の行使が必要だと言っている。これは明らかに、事実に反したことを安倍首相は述べているんだろうと思うんです。

これはすでにおおかたの人たちが指摘していることでございますけれども、1997年に策定されました日米ガイドラインでははっきりと「日本国民又は米国民である非戦闘員を第三国から安全な地域に退避させる必要が生じた場合には、日米政府は、自国の国民の避難及び現地当局との関係について各々責任を有する」と明記してあるわけです。97年の日米ガイドラインで明記されたことを安倍首相は知らないわけはない。でも多くの国民は知らない。私も忘れていた。他の人に指摘されてみてみたら確かにこういうことが書いてあった。その事を伏せているんです、安倍首相は。基本的にはあり得ないことを出しているわけです。

それからもうひとつは米艦船におじいちゃん、おばあちゃん、子どもが乗ったら、その米艦船は戦争中なんですから、危ないですよ、かえって。そんな危ないところへ自分のおじいちゃん、おばあちゃん、子どもを乗せられませんよ。それで攻撃されてもいいということなんでしょうかね。だから自衛隊が出ていくということなんでしょうけれども、そうしたら自衛隊も攻撃されますよ。戦争になるわけですよね。そういう事態です。日本はその事によって全面的に戦闘状態に入るということについて、安倍首相はあの記者会見ではひとことも言っていない。そういうことになってもいいですか、日本もそれによって参戦するんだということまで、そしてその被害は場合によっては日本本土に及ぶ。それこそ北朝鮮のミサイルが、日本海にたくさんある原発をめがけて発射される可能性が現実化するということについてまでも押さえた上での話なのかどうかということを考えたときに、安倍首相の情に訴えた話がいかにナンセンスかということは、わたしは理解できるだろうと思うわけです。

いわゆる駆けつけ警護の問題についても、NGOの人たちからすればかえって駆けつけ警護をされたら危なくなる。だからそんなことはしてもらいたくないというのがNGOの人たちの大半の声であるということは、報道ステーション等でも指摘されたとおりです。邦人輸送中の米艦の防護をはじめとして与党協議で8つの事例が挙げられたわけです。当初はこれらについていちいち精査するという話で、公明党もそういう意向だったようですけれども、なぜかある段階からひとつひとつについて精査する話がどこかに行っちゃったんですよね。それで自衛権行使の3要件の話になってそれから集団安保の話に行っちゃっている。

現行の安保条約5条にも抵触

一体なぜこんな話になったのか。話の筋道が全部おかしいですよね。全部がおかしい。ですから新聞報道によればこれは単なる小道具ということのようですけれども、この中でもいろいろご意見がおありだろうと思いますし、プラス-マイナス両面があると思うんです。もちろん根本的には憲法に集団的自衛権の行使、海外における自衛隊の武力行使を伴う対米軍事協力は、これ自体憲法違反だということはもちろんです。けれども私は現行の安保条約にも抵触するんだということは一応おさえておいた方がいいだろうと思うんですね。公明党はどうかまだわかりませんけれども、政府与党は、いまの一連の急いだ作業は、今年12月に日米ガイドラインの改定が必要だからということのようです。けれども、こうした集団的自衛権の行使をこの8事例にあげられるように全面的に容認するということになれば、そのためにはガイドラインを改定するだけではすまない。日米安保条約の5条を改定しないではそれはできない。

5条は「日本国の施政の下における、いずれか一方に対する武力攻撃」があった場合に初めて日米両国が共通の危機に対処するように行動する規定です。この5条ははっきりと、日本国の施政の下にある領域におけるいずれか一方に対する武力攻撃という地域的な限定を付して、この地域的な限定を付したことについては、はっきり条約の改定手続き過程において意味があったわけでございます。ですからこの改定の背景からして、5条を改定することなしに8事例に見られるような海外における対米軍事協力を容認することはできないはずです。

これは資料的な根拠がないので推測ですけれども、安保の改定となれば、ひとつにはやはりアメリカは中国との関係を考えて、そこまで行ってしまった場合においては、中国との関係はより対立が鮮明になるので避けたいということだと思うんですね。そして日本政府は60年安保闘争の再現になることを恐れて、やはり安保の改定はやめてガイドラインの改定だけですませようとしているんだと思うんですね。そして運動の側も、安保改定が必要ですよなんて言っちゃうと、そういう方向にもっていかれるとまずいので、その問題よりは憲法問題ということになっているんだろうと思うんです。私は二重の意味で、ともかく憲法違反であると同時に、違憲の安保にも違反することは確認しておいてよろしいことだろうと思います。

日米ガイドラインの改定が今年の末に登場したならば、97年のガイドライン策定のときにも私たちは主張したんですけれども、ガイドラインなんていう国権の最高機関である国会の承認がないままの行政協定でこんな重大なことを決めるなんていうことはできない、それも国会無視なんだということを主張し続けなければいけないんだろうと思います。

必要とされる集団的自衛権の運用実態の検証

総じて集団的自衛権の行使とは一体何であるのか。その検証、説明が与党協議でなされたのかと言えば、新聞報道で見る限りではいっさいなされていないわけです。ですから、まずは集団的自衛権の行使が現実に国際社会の中でどういう役割を果たしてきたのかという検証が、与党協議でも国会レベルでもきちんとしてかたちでなされるべきです。国連に集団的自衛権の行使というかたちで届け出られた事例は、14事例だと言われております。けれども届け出られていない事例も含めて、それがどういう意味を国際政治の中で国際法的に持ったかという検証を国会できちんとして、なるほど集団的自衛権の行使は、確かに集団安全保障という国連の安全保障システムが十分に機能しない場合の補完的な役割として、国際的な平和と安全に役立った。本当に小国の平和と安全を維持する上で役に立ったという検証がなされたならば、それについての一定の検討はあるいは必要になってくるかもしれない。けれども、そういう検証は国会レベルでもなされとはなかったし、政府もそれについて説明してきたこともなかったし、それから与党協議でもその検証はなされたことは私が知る限りではまったくない。

過去の集団的自衛権の行使の実例、それが果たした役割についての検証がまったくなされないままのかたちでもってこの8事例を唐突に出してきて、集団的自衛権行使が必要だとか、それが抑止力になるという議論をすることは、まったく客観性を欠いた議論だろう。安保法制懇の報告書も、あそこには国際政治の専門家とか元外交官とかそういった人たちがたくさんいるはずなのに、そのことについての検証は報告書の中ではまったくなされていない。そういう驚くべき状態で集団的自衛権の行使容認へ向けた暴走が進められているわけですね。

5月15日に安倍首相は、集団的自衛権を容認すること自体が抑止力になる、戦争を抑止する力を持っているという説明をした。そして60年の安保改定によって抑止力が高まって、日本は他国から攻撃を受けることはなかったじゃないかということを言っているわけです。安保改定でも日本が戦争に巻き込まれることがなかったのは、まさにあの安保国会で、多くの安保反対運動に参加した人たちの国民的な力をバックにして、あそこで明確にアメリカのための海外における武力行使を伴った軍事協力は、集団的自衛権の行使としてできないということがはっきりと確認されたからです。だからベトナム戦争に対して、韓国のようなかたちでもって参戦することはなかったわけです。戦争に参加することがなかったのは、まさに集団的自衛権の行使ができないことが明確に確立したからであるということを、安倍首相はどうして素直に認めないのかと思うわけであります。

現在日本を取り巻く国際環境については、確かに厳しいものがあると私も言えると思います。けれどもその少なからぬ部分は、いまの安倍政権の政策に起因している。靖国問題にしても、尖閣問題にしても、「従軍慰安婦」問題にしても。「従軍慰安婦」問題についての河野談話の見直し、検証ということと、竹島海域における韓国のいわば軍事演習とは切り離せない問題であるわけです。韓国がその領海がわからなくて、あのほんのちょっとの竹島の領海を含めたかたちの軍事演習をしているわけではないと、むしろ思うべきです。その事は、河野談話の見直しという安倍政権の作業と密接不可分の関わりがあることを、どうして安倍内閣は気がつかないのか。気がついた上で、緊張を高めた上で、さらに集団的自衛権の行使ということをやろうとしているわけですね。

車の両輪・立憲主義と憲法9条の平和主義

このあいだ渋谷公会堂で行われた九条の会の講演会で、私も聞きに行って多くの人たちが参加して大変よかったと思います。あそこで韓国からいらした金泳鎬(キムヨンホ)さんが、現在の日中の関係というのは敵対的な相互依存の関係であるという言い方をされたわけです。わたしは言葉として初めて聞いたんですけれども、言い得て妙だと思ったんですね。お互いに敵対し対立をエスカレートさせることによって、自らの体制のレーゾンデートルといいますか、存立を図っている。お互いの支配体制の存立を、そういうかたちで図りあっているという意味においては、実は依存しあっているんだ。安倍政権と習近平政権とはそういうかたちで持ちつ持たれつの関係にある。

しかし依存しながら敵対関係をエスカレートさせているという意味においては大変危険な状態である。集団的自衛権の行使を容認するという議論は、そういう役割を果たしているということを私たちは留意することが必要なんだろう。これも、九条の会での大江健三郎さんの話の受け売りでございますが、かつて九条の会で加藤周一さんは、“平和を望むならば戦争を準備せよという、かつてのローマ時代から言われてきたことわざはインチキだ、戦争を準備したら戦争になる、平和を望むならば平和の準備をしなければいかん”ということを言ったと大江健三郎さんは紹介していました。その言葉をまた私がみなさんにここで紹介することで、時間も超過しましたので私の話は終わりにしたいと思います。

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大阪駅前ビラ配布事件への支援のお願い

成澤孝人(信州大学)        

ビラ配りは、市民が自己の見解を他者に伝えるための最も簡易なツールの一つである。ビラ配りは人が多く集まる場所で行わなければ効果がない。人が多く集まる場所と言えば、やはり駅前広場だろう。市民運動に携わったことのある人であれば、駅前広場でビラ配りをした経験があるはずである。かくいうわたしにも経験がある。
しかし、この裁判の結果次第では、駅前でのビラ配りが許されなくなるかもしれない。わたしがこれから報告するのは、日本の民主社会のあり方にかかわるそういう裁判についてである。

1「事件」の発生

「事件」は、反原発運動がまだ盛り上がっていた2012年12月に起きた。大阪駅前広場で大阪市の瓦礫受け容れ政策に反対する演説をしていた下地真樹阪南大学准教授と当日の運動に参加していた二人の市民運動家が、大阪府警によって令状逮捕・家宅捜索をされたのである。被疑事実は、鉄道営業法違反、刑法の不退去罪、威力業務妨害罪であった。

わたしは下地さんと直接お会いしたことはなかったが、2012年8月におこなわれた大阪市のがれき受け入れに関する説明会で、橋下市長に鋭い質問をあびせ、やりこめた大学の先生の存在は、インターネット上の動画サイトを通じて知っていた。その彼が令状逮捕されたと聞いて、不当逮捕の可能性があると直感した。

いまどき、運動の側もインターネット上に写真も含めた情報をあげ、証拠を残している。そこからわたしが得た情報は、(1)下地さんがJRの敷地の外でハンドマイクをつかって演説をしていたこと、(2)その周りで震災ガレキ受け入れ反対のビラを配っていたメンバーがいたこと、(3)街宣終了後、運動参加者は駅構内を通りぬけて市役所に向かおうとしたこと(写真が残っているが、デモ行進にはみえない)、(4)JR職員がそれを制止しようとしたことであった。

どうしてこの行為が犯罪とされるのだろうか。警察発表をそのまま報じたと思われる産経のニュースをみれば、警察の描いたストーリーがみえてくる。「下地容疑者らはハンドマイクを手に演説をしながら約40人の参加者を先導。構内を約250メートルにわたり行進した」、「10月17日午後2時40分ごろから約1時間半にわたり、JR大阪駅(大阪市北区)で「がれき反対」とシュプレヒコールを上げながら練り歩いたり、ビラを配布したりして駅側の業務を妨害した」。つまり、下地さんの1時間30分の演説とその間の市民のビラ配り、そして街宣終了後のコンコースの通行を一体としてとらえ、鉄道営業法で禁じられている活動だとみなしたのである。鉄道営業法35条は、「鉄道係員の許諾」なしに、「鉄道地内」で、公衆に対し、「物品を配布し、その他演説勧誘等の所為」をおこなうことを犯罪(科料)にしている。また、同法42条によると、「鉄道係員」(駅員)は、35条に違反する行為をする者を「鉄道地外に退去」させる権限がある。つまり、下地さんの演説および市民のビラ配りが「物品を配布し、その他演説勧誘等」にあたり、さらに、街宣後のコンコースの通行が「演説勧誘等」にあたるので、駅員が「鉄道地外に退去」させることができるのであり、それにしたがわなかった下地さんたちは、刑法上の不退去罪および威力業務妨害罪にあたるというストーリーなのだと思われる。

しかし、それでもまだ疑問が残る。なぜなら、下地さん自身は、JRの敷地の外で演説をしていたからである。彼はJRの敷地内では鉄道営業法にひっかかる可能性があることを理解したうえで、隣接する公道で演説をおこなっていたのである。JRの敷地でなければ、鉄道営業法の「鉄道地」でないことは明らかなので、JRの権限は及ばない。

この点における警察の説明は驚愕すべきものである。下地さん自身は、公道で演説していたかもしれないが、敷地内ではビラを配っていた人がいた。下地さんは、それを止めずに黙って見ていたから共犯だというのである。そうであるとすれば、この論理は、当日運動に参加していた人たちすべてにあてはまることになる。街宣にいき、自分は公道で活動をしていたが、グループの一人が敷地内でビラを配っていたとすれば、共犯として逮捕・家宅捜索されるというのである。実に恐ろしい話ではないか。

しかし、いまのところ、さすがに駅前広場のビラ配りそのものを理由に逮捕状や捜索令状がでることは考えにくい。そんなことをすれば、ストリートミュージシャンをはじめ、駅前で無許可で活動している人を次々と逮捕しなければならなくなる。

わたしのみるところ、だからこそ本件では、コンコースの通行を「無許可のデモ行進」とみなすことが必要だったのだと思う。この点、運動体は、本件街宣をインターネット上で呼びかけた際、街宣後の大阪駅への移動を「お散歩」と称していた。警察は、おそらくネットでこの情報を得て、「お散歩」に目を付けて検挙しようと考えたのであろう。

そのように想定しうるのは、大阪駅側は最初から「無許可のデモ行進」を想定した警備体制を敷いており、それは、所轄警察署からの情報提供を受けてのことだったことが、起訴された一名の公判で明らかになっているからである。そして、逮捕された三名の中に「鉄道地」で活動していない下地さんが含まれていたところをみると、本件は、大阪瓦礫受け容れ反対運動の中心人物である下地さんをターゲットに、周到に準備されたものであったとみるべきであろう。

2 研究者声明と下地さんの不起訴

このニュースを聞いた時、わたしは、今から10年前、「立川テント村」という市民団体がおこなった自衛隊員のすむ公務員官舎への戸別のビラ配布が、何の前触れもなく突然「住居侵入罪」として令状逮捕されたことを思い出した。あれから10年たった今、ピザ屋のチラシは戸別配布されているにもかかわらず、市民はビラの戸別配布という表現伝達手段を奪われたままである。また、威力業務妨害罪ということで思い出すのは、同じ年におきた板橋高校事件である。卒業式に出席した元教諭が、日の丸・君が代強制を問題視する週刊誌を出席する親に配り、不起立をよびかけていたところを校長にとがめられ、結果として卒業式が数分遅れた。この行為が威力業務妨害罪とされたのである。この二つの「事件」によって、集合住宅や学校内部という「閉じられた空間」におけるコミュニケーションを犯罪化することに成功した権力は、その論理を駅前広場にまで拡大させようとしている。テント村事件発生から10年経って、市民の表現の自由がさらに縮減されると直感した。

なによりも、現職の大学准教授が、ビラ配りや演説を理由に逮捕され、自宅と研究室を家宅捜索されるという状況は、わたしにとってとても他人事とは思えなかった。

立川ビラ配布事件の時、わたしはまだ就職前であったが、亜細亜大学に石埼学という憲法研究者がいた。彼に事件のことを相談すると、一緒にやろうという返事がすぐに返ってきた。その後、わたしたちは、研究者声明を出して世論を喚起することに成功した。それが一審での無罪判決に一定の寄与をしたと思っている。今は龍谷大学教授である石埼さんに、今回もまた連絡をとったところ、10年前と同じ返事がすぐに返ってきた。こういう活動は一人ではできない。信頼できる仲間がいるからこそ、勇気をもって権力と対峙することができる。わたしたちは、10ぶりに「研究者声明」をだして、問題を社会に広く訴えることにした。テント村事件のときには二人だけ(わたしは就職前だったので、石埼さんが前面にたってくれた)だったが、今回は、わたしたちの他に4人の研究者が仲間になってくれた。

こうして、逮捕から8日後の12月17日に、賛同者67名で研究者声明を出した。それが効いたのかどうかはわからないが、下地さんともう一人は釈放され、不起訴になった。

3 一名の起訴と一審判決

こうして下地さんは起訴されず、大学も辞めずに済んだ。しかし、これで駅前でのビラ配りが認められたわけではない。令状逮捕された3名のうち、JR職員に抗議をした際に足を踏んでしまった韓基大さんが起訴されてしまった。罪状は、威力業務妨害罪である。

下地さんの起訴を断念したことで不退去罪は消えた。不退去罪を問題にすることができるのであれば、運動に参加した人すべてが犯罪を犯したことになる。それが断念されたことは、わたしたちの活動の大きな成果であった。しかし、韓さんが有罪になれば、やはり駅前でのビラ配布活動はできなくなる。というのは、韓さんは、(1)駅員の制止行為に対して口頭で強く抗議したこと、(2)コンコースの通行を制止する行為に対して抗議した際に副駅長の足を踏んでしまったことが、「威力業務妨害」に問われているからである。彼が有罪になれば、ビラ配布と街宣後のコンコース移動を制止するJRの権限が、司法によって正式に認められてしまうのである。

重要なことなので、もう一度繰り返したい。韓さんが有罪になれば、JR職員は、敷地内でのビラ配布を実力で排除することができる。市民が、それに従わなければ、令状逮捕・家宅捜索・長期の勾留、威力業務妨害罪での有罪判決がありうるのである。したがって、この裁判は、韓さんだけの問題ではない。全国で市民運動に携わる人すべてにとって切実な問題なのである。これから、集団的自衛権や憲法改正反対の問題を社会に広く訴えなければならないときに(そういう時だからこそ)、駅前でのビラ配りがJR職員によって一斉に禁じられ、全国で逮捕者が続出するといった事態もありえない話ではないのである。

果たして7月4日に下されたのは、無罪判決であった。裁判官は、下地さんの勾留を認めた人物である。そういう人でさえも、本件の有罪判決が日本社会に与える悪影響を考慮せざるをえなかったのだろうと思われる。

この裁判で、弁護側は、駅前広場は公道とつながった開かれた場所であり、見知らぬ人に自分の意見を伝えるための公共的な空間である、と主張した。公共的な空間であれば、たとえJRの所有地であったとしても、表現の自由が管理権に優先する。判決は、憲法論を避け、刑法上の威力業務妨害にあたるかどうかだけを判断した。ビラ配布については、JR側の規制権限を認めた上で、韓さんの抗議によって業務は妨害されていないとした。コンコース移動については、単なる通行と認め、JRには立ち入りを制止する権限がないとした。

判決の内容は憲法論的には十分ではないが、事実認定において、警察の主張したストーリーを完全に否定したことは非常に重要である。本件の核心部分であるコンコース通行については、デモ行進ではないとはっきりと認定した。また、JRのビラ配布規制権限は認めたが、それに対し通常の形態で抗議しても犯罪にはならないことを示した。JRはビラ配布を規制できるが、それに対して抗議することもできるということは、通常のビラ配りを抑制するJRの権限には事実上限界があるということである。支援してきた側からすれば当たり前のことを述べた物足りない判決ではあるが、恣意的な事実認定もありえたわけであるから、ここは、素直に名判決と評価したい。

以上のように、駅前でのビラ配りの権利はかろうじて維持された。わたしたちは、一審判決を受けて、ふたたび100名の研究者の賛同をえて、控訴をしないことを求める声明をだした。しかしながら、検察官にわたしたちの思いはとどかなかった。大阪地検は控訴を選択したのである。この国では、弾圧された市民がなんとか一審で無罪判決をかちとっても、検察は面子のために簡単に控訴してしまうのである。理不尽ではあるが、控訴審で、再び無罪を勝ち取らなければならない。

ただ、一審有罪という結果も想定されていたので、それに比べれば有利な状況で控訴審を迎えることとなった。立川テント村事件では一審で無罪判決を得た後、東京高裁で覆され、最高裁でも確定してしまった。その経験を肝に銘じて、最大限の支援をしていきたいと考えている。

おわりに

全国の市民運動家のみなさんに、日本の市民運動の存在そのものに関わる重要な裁判が行われていることをお伝えするために、本稿を書かせていただいた。ぜひ、全国からの温かいご支援をお願いしたい。

▼裁判支援 カンパ 振込先▼
<郵便振替>
口座記号番号「00960-6-329403」
加入者名「関西大弾圧救援会」

JR 大阪駅前広場ビラ配布事件無罪判決に控訴しないことを求める法学研究者声明 2014 年7 月13 日
<呼びかけ人>石川裕一郎(聖学院大学)、石埼学(龍谷大学)、岡田健一郎(高知大学)、笹沼弘志(静岡大学)、中川律(埼玉大学)、成澤孝人(信州大学)、福嶋敏明(神戸学院大学)
〈賛同者〉愛敬浩二(名古屋大学)、青井未帆(学習院大学)、青木宏治(関東学院大学)、足立英郎(大阪電気通信大学)、綾部六郎(名古屋短期大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、飯野賢一(愛知学院大学)、井口秀作(愛媛大学)、石塚伸一(龍谷大学)、稲正樹(国際基督教大学)、稲田朗子(高知大学)、井端正幸(沖縄国際大学)、植木淳(北九州市立大学)、植野妙実子(中央大学)、植松健一(立命館大学)、植村勝慶(国学院大学)、内野正幸(中央大学)、浦田賢治(早稲田大学名誉教授)、浦田一郎(明治大学)、浦野広明(立正大学)、榎透(専修大学)、榎澤幸広(名古屋学院大学)、大野友也(鹿児島大学)、大藤紀子(獨協大学)、岡田行雄(熊本大学)、奥田喜道(跡見学園女子大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、押久保倫夫(東海大学)、春日勉(神戸学院大学)、片山等(国士舘大学)、金澤孝(早稲田大学)、上脇博之(神戸学院大学)、河合正雄(弘前大学)、木下智史(関西大学)、金尚均(龍谷大学)、小林武(沖縄大学)、小松浩(立命館大学)、斉藤小百合(恵泉女学園大学)、斎藤司(龍谷大学)、斉藤豊治(甲南大学名誉教授)、斎藤周(群馬大学)、阪口正二郎(一橋大学)、佐々木光明(神戸学院大学)、佐藤潤一(大阪産業大学)、志田陽子(武蔵野美術大学)、清水雅彦(日本体育大学)、菅原真(名古屋市立大学)、鈴木博康(九州国際大学)、陶山二郎(茨城大学)、芹沢斉(青山学院大学)、高作正博(関西大学)、高橋利安(広島修道大学)、多田一路(立命館大学)、只野雅人(一橋大学)、館田晶子(北海学園大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、寺川史朗(龍谷大学)、徳永貴志(和光大学)、内藤光博(専修大学)、長岡徹(関西学院大学)、中川孝博(國學院大學)、中島宏(山形大学)、永田秀樹(関西学院大学)、長峯信彦(愛知大学)、中村悠人(東京経済大学)、永山茂樹(東海大学)、新倉修(青山学院大学)、丹羽徹(大阪経済法科大学)、根本猛(静岡大学)、振津隆行(金沢大学)、本庄武(一橋大学)、本田稔(立命館大学)、前原清隆(日本福祉大学)、松原幸恵(山口大学)、松宮孝明(立命館大学)、三島聡(大阪市立大学)、水島朝穂(早稲田大学)、三宅孝之(島根大学)、三宅裕一郎(三重短期大学)、宮本弘典(関東学院大学)、三輪隆(埼玉大学名誉教授)、村田尚紀(関西大学)、本秀紀(名古屋大学)、森英樹(名古屋大学名誉教授)、守谷賢輔(福岡大学)、山内敏弘(一橋大学名誉教授)、山口和秀(岡山大学名誉教授)、若尾典子(佛教大学)、若林三奈(龍谷大学)、脇田吉隆(神戸学院大学)、和田進(神戸大学名誉教授)、渡辺洋(神戸学院大学)

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東京都議会の女性蔑視のヤジに対して女性団体や弁護士会、各団体、個人からつぎつぎ抗議があがり、議会との対話集会の要望などさまざまな行動がつづいている。以下にその1つを紹介する。

《声明》東京都議会の自浄能力を問う-性差別発言問題の徹底解明・再発防止・議会改革を求める

2014年7月3日 希望のまち東京をつくる会

1.東京都議会の2014年第二回定例会において、6月18日、都の施策をめぐって質問中の女性議員(みんなの党)に対し、「早く結婚した方がいいんじゃないか」「自分が産んでから」「産めないのか」といった、きわめて悪質な、言葉の暴力としか言いようのない人権侵害発言がなされた。

2.質問者は都議会議員として都民を代表して質問していたのであり、それに対する人権侵害の差別発言は、都民全体、さらには女性全体に対する侮辱・差別であり、都議会の持つべき品位を自らに泥の中に投げ捨てたも同然の行為である。

3.発言は、日本国憲法の掲げる両性平等の精神にもとり、日本が批准している「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」の基本理念に抵触する。また、都自身が制定した「東京都男女平等参画基本条例」にも反するものである。

4.この発言が報道されると、東京・日本はもとより、国際的にも大きな注目と批判を受けることとなった。性差別を含むあらゆる差別に反対するオリンピズムの精神からもかけ離れた発言であり、五輪開催都市としての信用を大きく損じることとなった。

5.差別発言が大きく報じられる中、発言から5日後になって自民党の鈴木章浩都議(大田区選出)が、「早く結婚した方がいいんじゃないか」という発言は自らのものだったと認めて謝罪したが、議員辞職は拒み、今後も議員活動を続けていくとしている。

6.これはただ鈴木都議だけの問題ではない。このような人権侵害・性差別に対して、東京都議会がどのように向き合うのかが問われている。都議会は、25日、「信頼回復・再発防止に努める」とする決議を採択したが、野党の提出した、発言者を特定し、発言者は辞職すべきだという決議は、与党の多数の反対によって否決された。これは、実質的に今回の問題の幕引きをはかろうとするものであり、許されないことである。

7.被害を受けた女性議員は、他にも悪質な不規則発言を行なっていた議員が複数いたことを指摘しているが、現在にいたるまで、名乗りでた議員はいない。あらためて、私たちは、発言者の議員が自ら名乗りでること、そして、被害を与えた女性議員と都民に謝罪して、その職を辞すべきであることを求める。

8.差別発言を行なった議員の所属していた自民党都議団の、問題解明への消極的な姿勢は、同党都議団の人権感覚の水準を示しており、女性の人権を守るべき東京都政の第一党与党の状況として、きわめて残念であり、猛省を求めたい。

9.東京都は、「ババア発言」などで顕著に見られた特異なジェンダー観を持つ石原都政が長く続く中で、渋谷のウィメンズプラザの規模縮小など、先進国であれば当たり前のはずの、ジェンダー平等を実現していくための施策から全面的に後退してきた。現在の与党都議の多くもその施策を認めてきたことと、今回の性差別的な発言を是認しているかのような都議会与党の反応は、本質的に通底していることを指摘したい。

10.今回の不規則発言の際、舛添知事が「笑顔を浮かべていた」という指摘がある。知事は「質問者が笑ったのでつられて笑った、やじは聴いていない」と釈明しているが、舛添現知事については、そのジェンダー観に大きな歪みがあることを示す多くの発言が過去にある。今後、ジェンダー平等をめざす都の施策に対して舛添知事がどのような態度を示すか、私たちは注視していく。

11.都議会が問題の徹底解明を続けるよう、強く求めるとともに、再発防止に真摯に取り組むように求めたい。議会改革がさまざまな議会で取り組まれている中、都議会の取り組みは遅れている。今回のような陰湿な言葉の暴力が発生する背景として、都議会の閉鎖性があることを指摘したい。都民の声が届き、野党や少数者の多様な意見が尊重される、開かれた都議会へ改革していくために、委員会のネット中継や土・日・夜間の議会報告会開催など、実効的な対処を早急にとるよう、強く求める。

12.私たち「希望のまち東京をつくる会」は、この問題の幕引きを許さず、開かれた都議会の実現のために、今後も活動を続けていくものである。

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