私と憲法144号(2013年4月25日号)


立憲主義の破壊と、9条など憲法の全面的改悪へ
突破口としての96条改憲論

(1)安倍首相の改憲「工程表」

昨年末の衆院選を経て、いま安倍首相や自民党など改憲派のなかから、96条改憲論が堰を切ったようにあふれ出している。マスメディアもそれぞれにこれを論じ、また様々な人びとがこれに対応して動き出すなど、参院選後をにらんで96条改憲問題が急浮上している。

安倍首相は4月15日、読売新聞のインタビューで、憲法改正に向けた事実上の「工程表」を明らかにした。それは以下のようなものである。

1)夏の参院選で勝利し、改正に前向きな3分の2の勢力を確保、2)幅広い支持を得やすい96条の改正に着手、3)集団的自衛権の行使に関しては憲法解釈の変更で対応――というものだ。……首相はインタビューで、憲法改正を志向する理由として、「制定から60年以上が経過し、中身が時代に合わなくなっている」などと強調。米国で6回、フランスで27回、ドイツで58回(いずれも昨年4月現在)それぞれ憲法改正が行われたことも指摘し、憲法を「不磨の大典」として扱っている日本がいかに異例であるかを訴えた。……首相が、憲法改正の発議要件を定めた96条の改正を先行させるのは、日本維新の会やみんなの党など幅広い支持を得る手応えを強めているからだ。維新の会の橋下共同代表は、96条改正に賛同する考えを表明しており、首相もインタビューで、9日に橋下氏と会談した際、「(96条改正に関する)基本的な認識は一致できた」と明らかにした。(4月16日  読売新聞)

(2)96条改憲のねらうもの

安倍首相は明文改憲を96条から始めることとあわせて、集団的自衛権の憲法解釈の変更をすすめるという両面作戦に取り組もうとしている。本誌はこの間、集団的自衛権の問題点は幾度も論じてきた。そして、96条改憲論についても、すでに「市民連絡会」はリーフレット「ガンバルクイナの96条改憲 知ってる?」を発行し、問題点を指摘してきたが、本稿では改めて安倍首相らが企てる96条改憲の問題点を以下の4点に整理して批判しておきたい。

第1に、96条は日本国憲法の立憲主義の欠かすことのできない一部を体現するものであり、この改憲は憲法原則の破壊であること。
第2に、改憲派のいう、憲法を「不磨の大典」とするのではなく「憲法を国民に身近なものにするため」、などという説明はためにするインチキな改憲論であること。
第3に、安倍首相らの96条改憲論は多数派獲得のために「何のための96条改憲か」という目的を隠した野合であること。
第4に、96条改憲は有権者に「改憲慣れをさせる」ことで自民党の改憲草案に基づいた憲法の全面的破壊に向かうための第1歩であり、予行演習であること。

(3)立憲主義とプレビシット

安倍首相が狙う96条改憲論は、「(発議には衆参各院の3分の2以上の賛成が必要なため)、国会議員の3分の1超があれば阻止できるのはおかしい。国民を信頼していないのか」(前出読売新聞)という論理で、改憲の発議を両院の過半数の賛成に変えるというものだ。過半数にすれば、政権党が自分に都合の悪い条項について、ひんぱんに改憲の発議ができることになる。これはそもそも憲法とは何かという原則の問題になる。近代の立憲主義は「憲法とは、ともすれば暴走しがちな権力をしばるもの」と考えている。この立場からすれば、発議に3分の2が必要だという規定は少しもおかしくない。権力に対するくびきを外すことにもなりかねない改憲の発議は、議会の多数派である政権与党だけでなく、野党の一部も含めた熟議による国会の大多数の支持がなくては不可能になっている。

安倍首相はこの問題を「国民を信頼していないのか」等として、議論をすり替えている。国会の熟議があってはじめて、国民が熟考する機会が保障される。また歴史が教えているように国民投票一般がすべて真に国民の意思を表現するとは限らない。国民投票が実質的に権力者の意志に対する信任投票的な役割を果たすプレビシットの危険性があることは重大な問題だ。安倍首相が「国民を信頼していないのか」などという言辞を弄するとき、プレビシットの危険なにおいが強くする。国民投票制度があるから、発議は国会の過半数でいいのだという議論はこの点で問題のすり替えというべきだ。

(4)諸外国も硬性憲法

安倍首相は「制定から60年が経過し、中身が時代に合わなくなっている」として、米国で6回、フランスで27回、ドイツで58回憲法改正が行われている、日本の憲法は96条のせいで改憲しにくい「不磨の大典扱い」で、異常だと強調する。これを変えれば憲法は国民に身近なものとなるという。

しかし、ドイツの憲法には、日本では税制など法律で定めるような条項も含まれているおり、単純に改憲の回数で比較できない。米国憲法の改正手続きは「両院の3分の2以上か、3分の2以上の州議会の要請による発議」で、「4分の3以上の州における承認」が必要とされており、改憲手続きは日本の96条よりもずっと厳しいものになっている。

また、お隣の韓国の憲法改正は、日本と違って一院制国会ではあるが、改憲の発議には議会の3分の2以上という日本同様の規定になっている。しかし国民投票には有権者の過半数の投票が必要とされ(日本の改憲手続き法にはこの最低投票率の規定がないので、たとえば40%しか投票しなくても国民投票は成立とされる)、かつ投票者の過半数の賛成(日本の法律では、白紙とか、別の書き込みとかを除いた有効投票の過半数)が必要とされ、日本の規定より厳格になっている。

国会の議決を3ヶ月の期間を経て2回(イタリア)、あるいは総選挙を経て2回(デンマーク)としている国もある。

総じて、世界のほとんどの国々の憲法が硬性憲法(通常の法律より厳重な手続きを必要とする憲法)であり、ことさら日本だけが「不磨の大典」扱いで変えにくいのではない。戦後日本では国民が改憲の必要を認めず、諸外国で改憲を必要とされたような世論がなかっただけのことだ。

(5)野合論の96条改憲

安倍首相は「連立を組む公明党の理解を得ながら、日本維新の会をはじめ(96条改憲に)賛成の方々の広い支持を得て成立できれば」という。しかし、安倍首相は96条を変えてどうするのかを必ずしも明らかにしない。民主党からは96条先行改憲論にたいして、「メニューはないがとりあえずレストランに入って、という話だ」との批判がされたが、安倍首相は自民党の憲法改正草案がメニューだと居直った。しかし、果たしてそうなのか。

96条を変えて何をやるのか。維新の会は石原共同代表らの9条否定論を容認しながらも「96条改正は道州制導入のため」(橋下代表)というし、みんなの党のめざす改憲は「統治機構の改憲」(渡辺代表)であり、公明党は96条改憲が9条改憲と一体なら賛成できないと言っている。自民党の改憲草案のように、「天皇を元首に戴き、国防軍をつくり、緊急事態条項で人権を制限しながら戦争する国」をめざすのであれば、これらの党はすぐには96条改憲に賛成できないから、出口を曖昧にしているのではないか。目的を明らかにしない改憲論は野合であり、インチキだ。自民党の石破幹事長は、こうした批判を想定して、4月13日、テレビで「96条改正は将来の9(次頁下段へ)条改正が視野に入っており、国民はそれを念頭において投票していただきたい。9条はこのままだという思考停止がずっと続いていいのか」などと正攻法の発言をしたが、自公連立や、部分連合をすすめようとする自民党全体の意向ではないだろう。

(6)国民に改憲慣れさせる

安倍首相は「占領軍によって締められたカギを開けて、国民の手に憲法を取り戻す」という。多くの国民は改憲論は9条改憲につながると見抜いて、戦争反対の願いから改憲に反対してきた。憲法成立以来、一度も改憲がされて来なかった最大の理由はここにある。これこそが自民党がその結党以来願ってきた改憲の大きな壁になっているのだ。安倍首相はその広範な人びとの警戒心を、96条改憲から始めて、打ち壊し、改憲慣れさせようというのだ。

来る参院選挙を経て、安倍首相はなんとしても衆議院同様に改憲派を3分の2以上にして、改憲の道を具体的に切り開こうとしている。その後に続くのは96条改憲の発議と、国民投票であり、さらには9条改憲だ。この96条改憲を阻止できるかどうかは戦後の日本社会における日米安保体制と平和憲法体制の並立と相克にどのような決着を付けるのかの天王山となっている。

私たちは全力を挙げて、安倍内閣の96条改憲の野望を打ち砕き、第一次安倍内閣を自壊させたように、安倍改憲政権を打倒しよう。
(事務局 高田健)

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第76回市民憲法講座(要旨)
領土の魔力を解くために――尖閣問題と日中関係

岡田 充さん(共同通信客員論説委員、桜美林大学非常勤講師) 
(編集部註)1月19日の講座で岡田 充さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。

この本(「尖閣諸島問題~領土ナショナリズムの魔力」)の裏話からお話をしたいんですが、昨年の9月11日に日本政府は尖閣諸島の3つの島、魚釣島という一番大きな島、それから南小島、北小島を埼玉県の大宮に住む地主さんから買って国有化したわけです。これを契機に中国側では強い反発が起きまして、各地で激しいデモが連日のように繰りかえされた。みなさんもデモ隊が暴徒化して日本車に火を放ったり、日本のスーパーになだれ込んでその中の品物を略奪するという光景がいまでも頭に焼き付いていると思います。

そんなことがあったものですからこの本を出した蒼蒼社という、中国関係の専門出版社の社長からこれはぜひ緊急出版しないとまずい、11月には出したいという話がありました。それが9月の末で、1ヶ月くらいしかない。そんな期間で本当に本ができるんだろうかと半信半疑でしたけれども、ある人に相談したら、これは長くつづく話だし、無理しても書きなさいと背中を押されまして書く羽目になりました。

表紙に「魔」という字が書いてあります。魔力の魔ですが、一体魔力って何だろうとよく聞かれます。ちょうどこのデザインが決まって意見を聞かれたときは、家に閉じこもって原稿を書いている最中で、この「魔」という字が苦吟しているわたしの顔によくに似ているな、ちょっと汗をたらっと出している感じが大変気に入りました。そんなことがあって1ヶ月で出したので、ちょっと雑だなと思うところが随所にあります。9月の半ば頃に初めて知り合った高田さんを含めてみなさんに宣伝していただいて、いろいろなところでお話をする機会を設けていただきました。今日も1時間半ほどお話をしたいと思います。

順序からいって何で魔力なのかという話にならざるを得ないと思います。ちょうどいま北京では中国の国会に当たります全国人民代表大会、2000人ほどが集まる全国的な会議が開かれていまして、そこで新しい国家主席に習近平党総書記が選出され、昨日は新しい首相に李克強が選出されました。中国ではほぼこの国家主席と首相のコンビ、この前までは胡錦濤さんと温家宝さんの2人でしたが、このコンビは5年ごとの共産党大会で改選されます。2期までしかできない、3期はできないという規定がありますから10年間にわたって国政を担当するわけですね。これから習近平、李克強のふたりは今後10年間、2023年までリーダーとして中国を率いることになります。最後の方でこの新しい指導体制のもとで尖閣諸島を含む日中関係はどうなるんだろうかということも折り込んで話をしたいと思います。

チャイナスクールの官僚発言

去年の7月のことでした。霞ヶ関のあるレストランでわたしと大手メディアの論説委員が定期的に懇談会を開いています。その懇談会に外務省のチャイナスクール、外務省で中国を専門にする役人で、中国語の研修を受けてその後中国を担当するキャリアの外交官をチャイナスクールと呼ぶのですが、そのチャイナスクールの、つい最近まで中国の公使をしていた人を呼んで話を聞く機会がありました。1937年7月7日は、北京郊外の盧溝橋を舞台に日本軍と当時の国民党軍が開戦した記念日です。この7月7日に野田総理は、尖閣諸島を国有化するという方針を正式に初めて明らかにしたわけです。チャイナスクールの官僚と会ったのはその直後でした。

そのときにわたしの方から一体中国はどうするつもりだろうか、本当に尖閣諸島を力ずくで取ろうとするんだろうかという質問をしました。彼はちょっと考えたあとで、「このまま行けば取ってこようとするかもしれませんね。わたしは同じような質問をされるんだけれども、こう答えるんです。尖閣諸島を差し上げれば次は与那国島や沖縄本島まで差し上げることになるが、それでもあなたは『うん』と言いますか、と」と言うんです。そうすると、彼が言うには多くの人は黙ってしまうというんです。

これを聞いて、もし僕がそういわれたらどうなるだろうかと考えました。尖閣諸島くらい誰も住んでいないし、無人島なんか差し上げてもいいんじゃないのと思ったとして、じゃあその後、となりにある与那国島――これは八重山諸島ですが、それから沖縄本島まで取られていいのか。こういうことをぽっと頭に思い浮かべると、それは困るなと瞬時にそういう反応が出てきています。僕の中にもそういう反応があるであろう。でもよく考えてみると、中国は与那国島それから沖縄本島も中国の領土だといったことはあるのかというと、一部の極端なナショナリスト、学者の中にはそういうことを主張する人もいますが、中国政府が沖縄は中国固有の島だから返せという主張はしたことはない。仮定の話に基づいて、領土を取られていいのかということを平然と宣っている霞ヶ関のキャリア官僚というのは一体何なんだろうかと思ったんですね。

彼は口調はとても柔らかい紳士で、外務省報道官をやっています。ですから外国の特派員や外務省の記者会見の時に、英語で答える役割をしています。非常に語り口は柔らかいけれど、彼の論理はあの石原慎太郎さんとまったく変わることのない論理構造だと感じました。じゃあ沖縄本島も取られていいのと聞かれたらこの中のみなさんの大半は、それはちょっと困るよねという反応になると思います。こういう反応、誰もが感じる反応というのは何か魔力があるのかなということで、「領土ナショナリズムの魔力」という名前をつけたわけです。

「思考停止」を誘う魔力

この魔力はひとことで言うと、まず領土を取られちゃうかもしれないという被害者意識をわれわれに誘発して、次にやっぱり取られちゃ嫌だという反射的な反応を引き出す。これは何か物事、この領土についてじっくり考えた結果ではないんですよね。そうではなくて非常に反射的に、取られちゃまずいなというものとして、領土がわれわれの頭の中にインプットされている。これにはいろいろな理由があると思います。大学時代でしたか江戸時代の日本地図を描いた本を読んだことがありました。その地図には北海道が抜けていて、日本の一番北は青森だという地図だった。その地図を見てわたしはとても不思議な気持ちになったことがあります。何となく自分の頭がない、首から下だけの印象を持ちました。何となく地図の中に人と同じようなものがイメージされた、そういうものとして領土というものがわたしの頭の中にもインプットされていた。

これは中国でも韓国でも恐らくそうだと思います。わたしは桜美林大学でも教えていますが、学生の中に中国人の留学生が何人かおります。去年、尖閣諸島問題が激しくなったおりに彼らと日本人の学生双方に尖閣諸島ってどっちのものだと思うかと聞いたら、中国の留学生はもちろん100%中国固有の領土だと答える。日本の学生はというと、中国の学生は主張を明快に言うのに対して日本の学生はもじもじしていますから、なかなかはっきり言わないけれども、日本のものだと思いますというんですね。これはある種の国民教育、それからマスメディアの報道で「我が国固有の領土である」ことが毎日のように伝えられていくと、われわれの意識の中に映像化された、自分の体の一部のように視覚化された領土というものが完全に入っているなという気がしました。

いずれにしても、思考ではなくて反射ゲーム的なものですが、ある意味では思考停止といってもいいのではないか。というのは、われわれは尖閣諸島については日本の外務省も政府も「国際法的にも歴史的にも我が国固有の領土」という言い方をしているから、それについて何か疑問を感じたり、あるいは自分で調べて本当に中国のいうことに理はないんだろうかということを考えた結果ではない。我が国固有の領土ということが前提になった思考停止状態を引き起こす。そういう魔力を持ったものだと考えています。

これと同じ言葉がいくつかあります。「主権国家」それから「国益」、最近の新聞はわりと国益が好きで、国益と書くと読者はちょっと反論しづらいという感じがありますよね。何が国益なのか人によって、立場によってまったく違う言葉であるにもかかわらず、国益という言葉を出すことによってある種の絶対的な力を持たせるという書き方をする新聞が結構あります。これは安倍晋三さんが言うなら、笑って済ませてしまうけれども、大新聞が国益という言い方をし始めるとちょっと危ないなという感じがします。それこそ日中戦争のさなか、北京からだんだん南の方に戦線が拡大していったときに、仮にこの戦線拡大はするなという論調を張ったとすれば、恐らく当時の政府・主流世論からは、そういう主張は国益に反すると指弾を受けただろうと思います。国家や主権それから領土、いずれも排他的な絶対性を持つ概念だということをおさえていただきたいと思います。

排他的絶対性を持つものって、そうたくさんないんですよね。われわれが持つあらゆる価値というのはかなり相対的なもので、排他的かつ絶対的な価値を持つものというのは、みなさん考えていただきたいのですが、平和とか憲法、これだって絶対ではないわけですよね。ましてや領土というもの、あるいは主権、国益という、よく考えてみれば絶対ではないものが、なぜかいつの間にかわれわれの頭の中で排他的な絶対性を持つものとして出てきたのかという感じがします。

魔力の話が長くなってしましましたが、簡単にいいますと、あるところで同じ話をしたところ最後に質疑応答になりまして「結局のところ尖閣諸島ってどっちのものなんですか」という質問があるんですね。これこそがまったく魔力なんですが、やはりどちらのものかという思考構造の中にわれわれを追い込んでいく、そういう魔力があるんだということを改めて強調したいと思います。

石原の尖閣諸島買取りの目的

石原さんの手のひらで踊ってしまったということですが、石原さんはいま体調はあまりよくないようです。彼が去年4月、ワシントンのヘリテージ財団という非常に保守的な財団で演説をしたときはとても元気でした。この問題が起きてから、東京都のホームページでその当時の石原さんの演説が全部見られるんですが、それを見直してみたらほとんど漫談をやっているという感じです。新聞は東京都が尖閣諸島を買うというところしか報じていませんが、その前段にはとてもおもしろい話がいくつかあって、核兵器開発の話、それから憲法改正の話などもしています。その最後の段階で突然「東京都は尖閣諸島を買います。何か文句あるか」と出てくるんです。

その当時わたしはこう書きました。これはあと付けではなくて当時書いたものです。たぶん石原さんの目的はふたつあるであろう。当時を思い出してください。野田政権が消費増税を始めつつあって日本の世論が真っ二つに割れ、消費増税は本当に日本の経済状態を好転させ、雇用状態をよくさせるのかということがさまざまな議論を呼んでいました。それから大飯原発の再稼働を巡る原発問題。このふたつの問題が去年の4月~6月くらいの、日本の世論を大きく分けるテーマだったと思います。そういう中で石原さんが突然尖閣諸島は東京都が買いますという提案をした。

石原さんの目的の一つ目は、もともと中国に好感を持つ日本人はほとんどいなくて、総理府が毎年やっている調査ではだいたい85%くらいが好感を持たないという回答があるくらいですから、尖閣諸島問題を提起することによって中国との関係を緊張させ、中国を怒らせてさらに過激な反応を引き出す。日本の領海に毎日のように公船を出したり、デモをやる。そうすることによって、日中関係は緊張する。中国の強硬姿勢を引き出して、石原さんの好きな言葉で言うと、平和ぼけした日本人に国防意識を強めさせる。それを主要なテーマにしている。あまり好きな言葉ではありませんが、みんなの党の代表が大好きな言葉を使わせていただくと、それをアジェンダにする。それが第1の目的。

第2の目的は、それがアジェンダになって、日本の国論を2分するような問題になれば永田町に国家主義の色彩が強い新しい極をつくっていく。結果的には去年の暮れの総選挙で石原さんも参加した維新の会がかなり躍進してしまった。日中関係は国交正常化以来この40年来最悪の状況に陥った。このことで2つの目的は十分達したという感じがしました。最初石原さんが挑発したときに、日本人の中にも石原挑発に気づいていた人も多くいたのではないか。

中国も台湾も、台湾もというよりも、41年前までわれわれ日本は台湾と国交を結んでいまして、尖閣諸島の領有権を主張し始めたのはまず台湾なんですね。1971年6月に沖縄返還協定が結ばれたちょうどそのときに、台湾の外交部が声明を出して中華民国固有の領土であるという主張をしました。当時国交はありませんでしたが、北京の中華人民共和国が尖閣諸島の領有権を主張するのは71年12月30日のことでありました。まず台湾、それから中国という順番です。いま中国側は尖閣諸島について中国固有の領土という言い方をしますが、中国側の認識は正確には「台湾に所属する島しょである尖閣諸島」なんです。つまり台湾の一部である、台湾は中国の一部である、したがって中国の固有の領土であるという三段論法を使っています。

いずれにしても、当初は石原さんの挑発にほとんど乗らなかった中国も、その後9月に正式に国有化をすると、われわれの予想以上の強硬な反応に出てきた。いろいろな方と話すと、やはり去年の総選挙で民主党が大敗した理由はそれなりの理由はあるけれど、自民党の大勝も相対的なものです。得票率は前回の選挙とほとんど変わらないわけだから、相対的な勝利なわけです。中国の強烈な反応が自民党の相対的な勝利に貢献したのではないかと見る方もいるもしれませんが、その要素は否定できないと思います。

尖閣の歴史を思考する

「思考停止の領土の魔力」から「思考するとどうなるか」ということを、歴史をさかのぼって説明したいと思います。結論的にいいますと、尖閣諸島は明治政府にとって台湾・沖縄問題と並んで領土拡張、拡大の一環だったと言えると思います。無主地先占権という言葉があります。アジアで初めて近代国際法を取り入れたのは、明治政府の日本でした。近代国際法では新しい領域を自分の領土とするためにはいくつかの要件があるんですが、そのひとつが無主地という要件です。「無主地」とは何かというと、領土にしようとしている領域を有効に支配している人がいないということです。主がいない地というということです。人が住んでいないという意味ではありません。

この無主地の前提のもとで最初に占有する権利を先占権といいます。誰も占有していないことを確認した上で、だったらわれわれがこれを占有するということを、無主地先占権といいます。近代国際法は帝国主義的でよくないのではないかといっても、近代国際法では有効な領有権の論理になっています。悪法としても一応有効であると言えます。

たとえばアメリカ大陸を発見したのは誰かという、もはや否定されている質問があります。コロンブス、と反射的にわれわれはかつて答えてきたわけです。アフリカの地図それからアジアの地図をよく思い出していただきたいんですが、アフリカの場合はあらゆる地理的条件をまったく無視して国境線がまっすぐ引かれている国があります。これはオランダとかベルギーなどもありますが、主としてイギリス、フランスなどヨーロッパの帝国列強が無主地先占権の論理を引いてつくった線です。ここを支配するものはいないといったって、そこに住んでいる人はいるわけです。勝手に自由気ままに、無主地先占権の法理に沿って欧州の列強は土地に線引きをして自分の領土にしてきたということです。

日本はこの近代国際法をいち早く取り入れた。当時清国はまだ、近代国際法をきちんと自分の国家の法理として取り入れていませんでした。日本は領土に関して何をしたかというと、まず北、当時の帝政ロシア、それから西の朝鮮半島、南の清国とのあらたな国境線の画定をする必要に迫られました。明治7年、1874年10月に日本政府初の海外出兵、台湾出兵を行った。西郷隆盛の弟、西郷従道が率いる3600名の軍が屏東県に上陸します。1875年にはロシアと、樺太・千島交換条約を結びます。これは北方領土についていろいろと問題となる条約です。当時の明治政府は、北ではロシアとの国境線画定を急ぎ、南では台湾にまで進出してできるだけ領土を拡張・確定させるという、帝国主義的な意図を持った動きがこの段階であることを強調しておきたいと思います。

琉球処分から台湾領有に至る南方への領土拡張・確定

尖閣諸島の問題をもうちょっと具体的に悦明していきましょう。ここは重要なポイントです。日本政府・外務省の公式の、尖閣諸島が歴史的にも国際法上も日本領であるという根拠の第一番目です。1895年・明治28年1月14日に閣議決定がありました。魚釣島と久場島――このときは南小島と北小島という名前は出てきません――に国標を建てることを認める閣議決定です。これが無主地先占権の法理を利用して、日本政府が尖閣諸島を初めて日本領に編入したその法的根拠であります。

ところが問題がいくつかあります。この1月14日の閣議決定は秘密裡に行われました。日本国民にも知らされていなかった。確か昭和30年代になって外務省が公開する歴史文書の中で、初めてこの閣議決定の中味が出てきます。日本国民が知らないわけですから、当然お隣の清国にも通告はしていません。法理的にはそれでも問題なしというのが日本政府の立場です。しかし常識的に考えても、法理的に問題がないとはいえ、これはちょっとアンフェアなんじゃないのと考えるのが普通のような気がします。この秘密裡に行ったことが第一の問題。

もうひとつの問題は、年表をさかのぼること10年、1885年・明治18年のことです。このとき初めて地元沖縄のあるお金持ちから内務省を通じて、無人島であった尖閣諸島を早く日本の領土に編入して欲しいという、いまでいう請願が出ます。ちょうどこのときに無人の大東島、南大東島、沖大東島とつづく大東島を日本領に編入しています。同じ時期に沖縄の人から、尖閣も日本の領土にして欲しいということがありました。

ところが当時の閣議では、山県有朋内相、井上馨外相の頃でありましたが、このときの内務大臣はこういう意見書を出します。この尖閣諸島には中国名が付いている。それから最近清国の新聞で、日本政府が台湾を含めてこのへんの領土を密かに取ろうとしているということを注意喚起する報道がある。このふたつを理由に、いま尖閣諸島を日本領にすれば清国との外交問題になるであろうという意見書を出して、結局尖閣への国標は不許可にしています。これが10年前です。

歴史はそれから9年後、1894年・明治27年8月に日清戦争が始まります。朝鮮半島で起きた東学党の乱の処理を巡って開戦するわけですが、1894年の暮れの時点、1895年の1月の時点で日清戦争の帰趨はほぼ決まっていました。日本の勝利は確定したも同然の状況でした。その中であらためて出た請願書に対して、最終的にはOKのサインを出した。中味は国標を建てることを認めるだけのもでした。

ところが国標は建てられませんでした。国標が建てられたのはなんと1969年になります。1969年というのは何の年だったか、思い出して欲しいんですが、沖縄返還闘争が始まった頃です。それから尖閣諸島周辺で国連のアジア極東経済委員会(エカフェ)という機関が海底資源を調べた結果、豊富な地下資源があるという発表をしたのが1968年でした。そのころから台湾あたりで尖閣諸島は日本の領土じゃない、中華民国の固有の領土だ、かつて明治政府が清国から力ずくで盗んだものであるという主張を始めます。そういう主張をし始めたものですから、あわてて、これは国標ではありません、石垣市が建てたものですから市標というべきでしょう。市標を建てたのが1969年のことです。

こういうふうに見てみますと、かなりいい加減だなという気がすると思うんですが、さらにこの閣議決定から3ヶ月後の年表を見てみます。日本は日清戦争に勝利しました。下関条約――中国側は馬関条約といいます――によって台湾と遼東半島を日本の植民地にしたわけです。台湾を日本の植民地にしたあと、尖閣諸島は一体どうなったんだろうかということが自然な疑問として湧くんですが、もはや清国から見ると、尖閣諸島は台湾のすぐ北、宮古島のすぐ左上になります、これはもう台湾と一体化した島として清国の視界からは消えた島になっていっただろうと思います。

わたしは台北支局に4年ほどいて、植民地当時の台湾の日本との関係、石垣島、宮古、八重山を先島諸島といいますが、台湾と先島諸島との関係を調べてみました。石垣島の左に与那国島があってそこから台湾の花蓮まで110キロ、与那国島から沖縄本島までは500キロです。そうするとものを運ぶにしても日常生活物資にしても台湾と八重山は一体の関係、経済合理性はこちらにあるわけですから、台湾経済圏の中に組み込まれる。日本の植民地時代ですから日本の中の台湾だけれど。例えば与那国には高校がありません。戦前は台湾の高校に進んだわけです。

尖閣諸島に話を戻しますと、最大で魚釣島と久場島に248人の移住者が定着していた。これは1909年・明治42年のことですが、ちょうど日韓併合の時ですよね。尖閣諸島の歴史、台湾の歴史、韓国の歴史というのは、日本の帝国主義的な建国の中で一体化していることがよくわかると思います。この248人は減ったりしたんですが、1940年代の初めまで一部がここで生活をしていたようです。いまお話ししたのが思考するとどうなるか、清国の視界から消えた島という実態論からみた尖閣諸島の話です。

国有化を巡る対立

外務省のチャイナスクールの官僚の言葉に戻ります。石原さんが尖閣諸島を買って都有化したら、船を出して構築物をつくって船だまりをつくる。それは石原さんの手先になっていた右翼団体がかつてあそこに灯台をぶち建てたわけですが、それと同じことじゃないか。そうしたらもっと中国との緊張関係が激化する。それだったら国有化の方がまだ中国の方は反発しないのではないか、というのが彼の論理でした。多くの日本の新聞もそういう論理を展開しました。その日本側の理由は、平穏かつ安定的維持管理にある。それから国有化という言葉はマスコミ用語でありまして、日本国政府の正式な説明は、土地の取得・保有であって国有化ではないということです。

中国側はこれをどう受け止めたか。

まず中国語で国有化というのはかなり強い表現なんです。中国ではよく民主化という言葉が出ますが、民主化という言葉を使った途端、中国の役人たちは顔をこわばらせる。「化」というのは、今ないものを創作するという意味で使われます。中国語で民主化という言葉はないのかというとあるんです。民主という言葉はある。社会主義民主という言葉だけれども、その中味が正しいかどうかはともかく、国有化という「化」がつくと、国家の明快な意志が貫徹されたと中国語では取られます。中国側の主張のひとつは「国家意志の貫徹」ということです。実効支配しているのは日本に間違いないけれど、その実効支配をさらに強化する、そういうイメージで受け取った。現状変更ではないか、ということです。

それから、日本がいわゆる国有化を発表した直後に出した中国外交部の声明では、こういうことが書いてあります。「棚上げの破棄」と受け止めた。つまりこの島の問題は、日本政府と中国政府が1972年の国交正常化以来棚上げしてきたというのが中国側の認識であった。ところが、日本政府は棚上げという微妙なバランスを崩して国有化してしまった、という説明です。この棚上げの歴史についてはあとで説明いたします。

3番目には右翼勢力の挑発の容認です。この右翼勢力というのは石原さんのことをいっているわけですが、ひとことで言えば相互信頼関係がないからこういう言い方をするんだといわざるを得ないと思います。

4番目はタイミング、説明不足ということです。3週間ほど前、さんざん悪口を言われて、特に桜井よしこさんなどからは国辱大使は早く日本に引き揚げさせろなどといわれていた、丹羽さんという大使にインタビューをしたんです。そのときに彼ははっきり言っていましたね、タイミング、説明不足だと。国有化をする前の日、9月9日だったと思いますが、ウラジオストックでAPEC・アジア太平洋経済協力会議の閣僚会議が開かれました。この会議には中国から胡錦濤国家主席、それから野田さんも行ったわけですが、ここで正式な2国間の会談は開かれませんでしたけれども15分間くらい立ち話をするんですね。ところがこの立ち話について丹羽さんに聞いたら、われわれは事前にまったく聞いていなかった、だから通訳も中国語の通訳はいなくて英語の通訳しかいなかった。その立ち話の場で胡錦濤は非常に強い調子で、こういう誤った決定をしたらこのあとの責任はすべて日本が負わなければいけないと、国有化に強く反対したということです。

あの時期はどういう時期だったか思い出していただきたいんですが、中国は11月に共産党の18回党大会が開かれて、中国共産党の総書記に習近平さんが選ばれるという非常に微妙な時期であった。ですから丹羽さんは18回党大会もあるし胡錦濤の警告も無視するということは、どう見たってタイミングが悪いということで、大使自らが国有化に反対するという奇妙な事態だったわけです。

棚上げ論を検証する

領土問題の魔力にかかると、結局のところ尖閣諸島ってどっちのものなのという最初の疑問に戻ってしまう。国と国、政府と政府という土俵で領土問題は解決しようがあるのかというと、お互いが排他的な概念でやりますから領土というのは解決のしようがない。しかし処理することはできる。処理という言葉はあいまいだけれども。処理の仕方には3つしかないと思います。第1、外務省のチャイナスクールの方がいうように、差し上げてしまう、尖閣諸島は中国に差し上げる、あるいは中国側からすると日本に差し上げる、譲渡ということです。買ってもいいわけですが。

2番目は戦争です。1980年代の初め、アルゼンチンのフォークランド諸島にイギリス海軍が軍艦を出して戦争をしましたが、力ずくでどっちかが取るという処理の仕方です。しかし誰も住んでいない島を巡って、お互いに死傷者が出るかもしれないという高いコストを払う戦争というかたちで処理するのは冷静に考えれば馬鹿らしい。

3番目の考え方は、いわゆる棚上げです。棚上げについては何段階かあるんですが、非常に重要なポイントだけ押さえておきます。1972年9月、田中角栄さんが訪中して、当時は台湾と国交を結んでいたんですが、台湾と断交して中華人民共和国を正式な政府として承認するという日中国交正常化をするわけです。

田中さんと周恩来は5回にわたって会談をするんですが、一番最後の会談の時に田中角栄が周恩来に尖閣の問題を持ち出します。「この問題についてわたしは黙って帰るわけにはいかない」と。黙って帰れば殺されるかもしれないというようなことは、その前の予備会談では言っています。田中・周会談の最後の段階で、周恩来は「この問題はちょっと触れるのはよしましょう」という言い方をします。これに対して田中が正確にどういう表現をしたか、外務省はすべての資料を公表していませんのでわかりませんが、一部公開されている資料によれば「うん」ということで、この問題にもう触れずにおいた。というのが第1段階です。

第2段階は1978年、日中平和友好条約を結んだときであります。1978年8月、当時の外務大臣園田直さんが北京に行って鄧小平副主席と会談します。このときにやはり園田さんは最後にこの問題を出します。これに対して鄧小平はなんと言ったか。その後、この条約が国会承認によって発効した10月に日本に来て日本記者クラブで講演をした。記者の質問に答えるかたちで鄧小平が、この問題は10年、20年、30年後の次の知恵のある世代に任せようじゃないか、という有名な棚上げ論を出すわけです。

ふたつだけをあげましたけれども、いまから2年前の9月を思い出していただきたい。尖閣諸島の久場島――魚釣島より北にありますが――、の沖で、中国の漁船が海上保安庁の巡視船に2回にわたって衝突する事件がありました。これ以降、尖閣諸島問題が火を噴くわけですが、このときに日本政府が行った処理について中国が非常に強い不安を述べます。なぜかというと前例がありました。2004年のことです。2004年秋に香港の尖閣諸島は中国のものだと主張するグループが、魚釣島に上陸して沖縄県警に捕まった。このときは小泉首相の時代でした。小泉首相はどういう処理をしたかというと、まず現行犯逮捕しました。7人を現行犯逮捕したあと2日後に釈放します。わざわざ記者会見をして、日中間の大局に鑑み彼らを帰すという発言をしています。つまり日中の外交問題にならないように、日本の刑法に従った司法処理をせずに入管難民法違反で国外退去させた。

2年前の事件の時に中国側が考えていたのは、明らかに2004年のときの処理でした。要するに、問題を棚上げにして外交問題に発展させないようにという配慮から、あの小泉さんですらやったのにもかかわらず、菅政権はそれをどちらかというと国内処理をした。逮捕しただけでなく送検しました。送検して10日間拘留して、さらに勾留延長したわけですね。勾留延長された段階で、中国側は本気でいろいろな攻撃を仕掛けてきた。

新聞や週刊誌などの中には、あの船長は人民解放軍のスパイだったんじゃないかといまでも真剣に信じている人がいるようだけれども、わたしが外務省の中国課の役人から直接聞いた話ですが、あの船長はべろんべろんに酔っぱらっていた。簡単に言えば海の暴走族だなという言い方をしていました。あれが人民解放軍だったら大変なことになるわけです。意図的に、あたかも日本との外交問題にして尖閣諸島も奪ってしまう契機にしようとしたと憶測するメディアも多かったけれども、まったくのただの酔っぱらい船長でした。

棚上げ論に戻りますと、当時勾留延長になった船長をどうするかで、仙谷官房長官といろいろと相談した結果、仙谷さんが外務省の中国課長を那覇地検に派遣して、説得して釈放させちゃうわけです。これは明らかに行政の司法介入だと反発が強くあったわけですが、釈放したあと10月に衆議院で集中審議が行われました。当時の外務大臣は前原さんでしたが、前原さんがその場で同じ民主党議員の質問に答えた。その質問は1972年も1978年もこの問題は日中で棚上げしたはずじゃないかというものでしたが、前原さんは尖閣諸島問題について棚上げしたことは一切ないという発言をします。

この発言を中国側は大変問題にしているようです。棚上げというのは文書があるわけではありません。合意した文書というのは一切ありません。ですから暗黙の了解と考えていいと思うんだけれども、この暗黙の了解を日本が一切無視したことによって、微妙なバランスが崩れてしまった。このことが棚上げ論の最大の問題ではないかと思います。

グラント調停と米国の立場

レジュメに「グラント調停と米国の立場 領有権と施政権の分離が火種を残す」と書きましたが、これは歴史に戻ることになります。1872年・明治5年9月ですが明治政府が琉球王朝を琉球藩として日本領に併合します。これを第1次琉球処分といいます。

前年の1871年・明治4年、明治政府ができてまだ4年です。廃藩置県も行われていない、明治憲法もできていない。このときに何が起きたかというと、宮古島の琉球島民54人が(宮古八重山は琉球王朝時代には沖縄本島から差別された存在でした)、沖縄本島に向かう途中時化にあって台湾の一番下の鵝鑾鼻 (ガランピ)の左側あたりに漂着します。漂着したあたりには先住民が住んでいました。その先住民が琉球人54人を殺害するという事件がありました。その3年後の1874年・明治7年になって、台湾のこのあたりは無主地であることを理由に、西郷従道が率いる3600人が台湾に出兵しました。

その後、明治政府が琉球藩を沖縄県という名前にします。当時琉球は薩摩藩と清朝に両属する存在でした。清国とは朝貢関係があり、毎年一回清国から琉球王朝に使い(冊封使)が来て、琉球からも清国に返礼するという関係がずっと続いていました。一応、琉球王朝は清朝に半分属するという関係であった。これに対して明治政府が一方的に琉球藩を沖縄県にした、第2次琉球処分といいますが、これに清国は強く反発します。

1879年・明治12年にアメリカのグラント、わたしたちが子どもの時にテレビなどで見た南北戦争のシーンに北軍のグラント司令官・グラント将軍というのが出てきて、米ドルの50セントに描かれていますが、彼はその後大統領になります。大統領を終えて2年後、世界漫遊の旅のおりに清国に立ち寄ります。そのときに当時の李鴻章が、明治政府が一方的にわが清国に属する琉球藩を沖縄県にしたということで、グラントに調停をお願いするわけです。

グラントは漫遊の帰途日本に立ち寄ります。明治天皇にも謁見しています。泊まったのは浜離宮にある迎賓館だったそうです。その後日光東照宮にも行って漫遊を続けた話もありますが、そのグラントが調停案を出します。宮古島のちょっと上に線が引いてあります。それから奄美大島と沖縄本島の間に線が引いてあります。つまり奄美、沖縄本島、宮古・八重山・先島の3つに分けましょう。沖縄本島は琉球王国として独立させる、奄美大島から北は日本国の領土にする、しかし宮古、八重山、先島は清国の領土にする、こういう3分割案をグラントが出しました。これに対して日本政府は、これは飲めないということで2分割案を修正案として出した。この2分割案というのは1番下の線だけ、つまり沖縄独立は認めないということです。最終的には日本側の提案を受け入れて、清朝と仮調印までいたしました。これが1880年・明治13年10月のことです。明治政府が宮古、八重山を清朝に割譲する分島案を提示し、仮調印した。

ところが1ヶ月後、この仮調印した提案を持ち帰ったところ、琉球王朝から清朝に亡命していた元王朝の役人が、こんな案は飲めないということで結局拒否することになりました。これがなぜ問題かというと、まず沖縄は日本固有の領土という言い方をすると思うんですが、宮古、八重山を実は清国に売り渡そうとしたじゃないかという議論が成り立ちますよね。もうひとつ、尖閣諸島はちょうどこの中に入ります。尖閣諸島も宮古、八重山と同じく清国にやろうとしたんじゃないか、それなのに固有の領土というのはおかしいということのひとつの根拠になり得るわけです。

問題は1879年のグラント将軍からさらに100年以上経って、一体アメリカがこの問題についてどういうスタンスを取っているのかということです。アメリカ政府の基本的な立場について「領有権と政権の分離が火種を残す」と書きました。1971年に沖縄返還協定を結んだ際、沖縄とともに尖閣諸島の施政権(主権というより施政権ですが)を日本に返還するとしました。アメリカ政府の立場それ以降まったく変わっていません。具体的には、1番目は主権については特定の立場を取らない。2番目は、尖閣諸島は日本の施政下にある。この2点です。つまり主権と施政権を分離することによって、単に日本側の主張をバックアップするだけではなく、ある意味では中国側の顔も立てる。

100年以上前のグラント調停を思い出してください。グラント調停は100年前も100年後のいまも、日本と中国の間で非常にいいポジションにつけている。あたかも中立であるかのような立場を取ることを可能にしたという意味では、グラント時代とオバマ時代はあまり変わっていないといってもいいかもしれません。依然として調停者としての絶好のポジションにいると言えると思います。

対中姿勢の相違浮き出た安倍-オバマ会談

安倍さんがTPP参加の発表をしましたが、あの発表を見て、経済問題というよりも安全保障としてTPPをとらえているという、安倍さん一流の感じがしました。「聖域なきうんぬん」の部分については、日米首脳会談で聖域は設けることでオバマから言質をとったと鼻の穴を広げて喜んだわけです。しかし経済問題からいうと、聖域を設けないかわりにアメリカの車を向こうは聖域にしてくるだろうから、コメの問題もあるし車の問題もあるけれども、日本にとってあまり経済的利益はないであろうということは政府部内の中にもある意見ですよね。

アメリカやオーストラリアは成長著しいアジアの中に入ることによって自分たちの経済成長につなげていきたいという思惑がある。けれども、日本はそのアジアの一部なわけだから、なにもアジア参入なんていうことについて改めて強調する必要はないという気がします。いずれにしてもTPPは単なる経済的な枠組みではなくて、はっきり言ってしまえばアメリカを主体とする、安全保障を含む枠組みの中に入ることによって中国を包囲していこうという、中国包囲網的な感じが非常に強くします。

2月の訪米の時に、この尖閣問題について何をオバマ大統領と話したかをお話ししたいと思います。結論的に言いますと、日本とアメリカの対中姿勢の相違を浮き彫りにした会談であったということです。同行した記者に聞くと、事前にアメリカ側から日本政府に尖閣問題をあまりあおらないで欲しいという言い方で話があったようです。安倍さんは訪米前に、ワシントンポストのインタビューでこういうことを言っていました。中国に対して力で領海や領土を奪うことはできないことを認識させなければならない、と強い調子で日米連携をいっていたわけです。

それに比べると、訪米をしたときの外務省の発表文などを見ると、かなりトーンダウンしています。アメリカ側から尖閣問題をあおるなという意向が事前に日本政府高官に伝えられたことと、前日にホワイトハウスであったブリーフィングで、説明に立った国家安全保障会議の上級部長はこういう言い方をしています。これは中国人記者の質問に答えたものです。尖閣問題についてオバマ政権のスタンスを聞きたいという質問に対してこのダニエル・ラッセルという上級部長は次のように答えています。中日関係は(中国人記者からの質問でしたので中日関係といっています)われわれと地域のあらゆる国にとって重要な影響を持っている。だからこそわれわれも関心を払っている。東シナ海とアジア太平洋地域における安定こそわれわれすべての利益である。大統領は領土上の問題――領土問題と認識しているということです――に関する提案事項について、外交的解決を求める平和的努力を支持してきたし支持し続けると話しています。中国包囲網を強化したいという安倍さんの意向と、オバマ政権の平和的に解決して欲しいということとトーンの違いが出ていると思います。

全人代にみる社会治安の先鋭化と領土問題

中国の全人代の話をしたいと思います。全人代では新しい指導部が予定通り選ばれただけで取り分け大きいニュース性のあるものはなかった。自己否定になるようで恐縮ですが共同通信を含めて日本のメディアは、習近平さんについていつものようにこういう言い方をします。偉大な中華民族の復興を彼は去年11月の党大会で何度も言った。これは彼の民族主義、ナショナリズムのあらわれではないかと、日本のメディアはコメントします。

実はそんなことはなくて、これはもともと胡錦濤さんが建国60周年の国慶節の時に初めて使っている言葉なんですね。このときに胡錦濤さんはマルクス・レーニン主義、毛沢東という言葉は1回しか使わなかった。第18回党大会では毛沢東なんて言葉は出てきません。建国60周年の時には社会主義という言葉もほとんど使わない。むしろ1911年の辛亥革命以来の中華という位置づけをしています。つまり社会主義革命ではなくてもっと長いスパンで物事を考え始めている。そのひとつの表現が、偉大な中華民族の復興という言葉につながっていると思います。

今度首相を辞めた温家宝さんが、全人代のスタートの時に政府活動報告(日本でいう施政方針演説)で過去5年の総括と将来5年の展望を説明する中で、次のように中国が抱える矛盾について言っています。まず1番目、経済発展と資源環境との矛盾です。環境というと最近はPM2.5ということになるけれど、大気汚染を含めたことだと思います。それから都市と農村などとの地域格差、所得の格差。3番目に社会的矛盾の増大。教育、雇用、社会保障、医療・衛生、住宅問題、生態環境等々をあげて、こういう社会治安の問題が先鋭化していると温家宝は最後の演説で強調しています。

去年の反日デモで若い人たちが日本のスーパーマーケットに入って略奪するシーンを見ると、いまの中国社会の地殻の中にものすごい民衆の暴力的なエネルギーがマグマのようにたまっているというイメージを抱いたんです。こうした暴徒化した民衆のエネルギーが中国共産党の統治に向かえば、共産党としては大変怖いわけです。いま中国共産党は一番何が怖いかというと、統治の危機、一党支配、一党独裁と、いまの統治――事実上資本主義をやっている支配の仕方の間のアンバランスが最大の問題であって、領土問題というのは主要な問題ではないなという気がいたします。

日中関係だけ説明しますと、日中貿易は40年前から今日まで、だいたい300倍までふくれあがっています。日本と中国の貿易ですが、日本にとって中国は2007年からアメリカを抜いて最大の貿易相手になっています。日本の貿易の全体に占める日中貿易の割合は20%、対米貿易は14%くらいです。いかに日本の成長にとって中国が必要なのか、あるいは中国にとって日本が必要なのかということがわかると思います。

しかし中国はどんどん豊かになっています。一人あたりのGDP、国内総生産はいま5000ドルですが、北京、上海の中産階級といわれる人たちは15000ドルから20000ドル、上海あたりのお金持ちはすごいお金を持っていると思います。それほど豊かになったことは間違いないし、それは中国共産党の独裁的な統治の光の部分かもしれない。独裁的統治だったから日本の公害企業が中国に行って、言ってみれば日本では垂れ流しすることはできない有害物質を出していたというケースもないわけではありません。中国の独裁的な統治に乗っかって、日本の資本が中国に向かったケースもかなりあるでしょう。PM2.5を、あたかも中国が一方的に日本に大気汚染をばらまいていると書いている新聞もあるけれども、日本の企業の責任もあるんじゃないかという気がします。

いずれにしても大国化したことに伴うさまざまな矛盾が中国の共産党統治を土台から揺るがし始めているときに、領土問題というのは主要な問題ではないでしょう。恐らく国内問題、中国共産党の統治の揺らぎそのものが最大の矛盾であるように思います。ですから逆に国内矛盾のはけ口として、領土ナショナリズムを中国側があおったとするなら、それは大きな誤りであります。

グローバル化のなか主権・領土の相対化を

グローバリズムとグローバル化は、言葉似ていますがちょっと違うように思います。グローバル化というのはモノ、カネ、ヒトが国境を越えて自由に移動することだと定義づけるとすれば、アメリカを中心とする世界資本主義体制の方向にすべて向かわせることをグローバリズムだというように分けて考えたいんです。いずれにしてもグローバル化、ヒトとカネ、モノの移動が国境を越えて自由化する時代になると、国家そのもの、国家や政府の役割がかつてと違って軽くなってきている。弱体していく国家、空洞化していく国家になっていくということだろうと思うんですが、空洞化する中でも領土というのは国家の中の数少ないシンボルなんですね。領土、国家、主権という誰もがあらがうことができない魔力を持ったシンボル。見えにくい国家を可視化できる数少ないもののひとつが領土であるというのがわたしの考えです。日本側もそういう意味では空洞化する国家を覚醒させて、国家主義的な考え方の下であらたな極をつくりたい人たちが、領土ナショナリズムを利用していく動きがあったと思います。

では出口をどうするのか。魔力の中で縛られていたって何も解決しないということです。レジメに「主権・領土の相対化を」と書きました。台湾の馬英九総統は国内ではまったく人気がなく、当時の野田政権と同じで支持率が13%くらいの低迷がずっと続いています。しかし去年8月、彼は「東シナ海和平イニシアチブ」という提案をしました。ひとことで言うと「主権は分割できないが資源は共有可能である」ということです。

中国と台湾は、ご承知のようにかつては国共内戦をする関係にありました。国共内戦で数千万人の人が死んでいます。この内戦をした間柄の中国と台湾は、いまは大変いい関係にあります。事実上平和的な環境になったといっていいと思います。その最大の原因は何かというと、独立か統一かという二元論にはまると身動きができなくなってしまう。われわれのイメージでいうと中国は統一を求めていて台湾を求めている。独立か統一か、どっちなのかという二元論にはまりがちなんですが、馬英九は2008年の総統選挙に出るとき3つのノーという政策を出します。不統(統一しない)、不独(独立しない)、不戦(戦争をしない)という現状維持論を出します。

そのもとでどういうトリックを使ったかというと、北京と台北の間で、台湾側も中国はひとつであるという原則を認めます。ところが台湾側の主張は、ひとつである中国の中味については北京とわれわれとの間で解釈が異なる。北京がいうひとつの中国は中華人民共和国である。われわれが言うひとつの中国は中華民国である。これを「一中各表」、「ひとつの中国について各自が表明した」という4文字で表します。

「一中各表」、言い得て妙だと思うんです。1997年に香港返還があったとき、鄧小平は一国二制度という言葉を持ち出して香港に50年の高度な自治を与えるという。実際には中央政府の関与が大きくて高度の自治と言えるかどうかいろいろな説はありますが、伝統的な政治学でいうと一国二制度なんてあり得ないんですね。これを鄧小平が一国二制度という非常に融通無碍な発想を持ちだした。この一中各表も、ひとつの中国って一体何なのか。民族、国家というのは人間がつくり出した最も偉大な想像の産物ですけれども、その「一中」というのは存在しない国家ですよね。ひとつの中国というけれどもそういうものは存在していない。幻想の共同体であることを認めたような合意をしたわけです。いわゆる玉虫色の解釈なわけです。

馬英九さんは東シナ海平和イニシアチブのもと、中国、台湾、日本と話し合いをした上で資源を共有してはどうかという提案をしています。このまま行きますと尖閣諸島は、昨日海上保安庁が中国船といろいろやりとりしている映像を出していますが、普通の人が近づけない島であり続けるわけです。価値からいうと20億5000万円出して大宮の地主さんから買ったけれども、実際はこのまま行くと誰も近づけない0以下の価値しかない島になる。そんな無人の孤島を巡る争いは、棚上げする以外にないだろう。日中台で資源を共有するための対話と話し合いをしましょう、というのが馬英九さんの提案でありました。わたしの友人の前の台湾の国会議員は、ちょっと悪のりして「一島各表」にしたらどうかという提案を言い出しています。
ちょうど時間になりました。これでわたしの話を終ります。ありがとうございました。

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「原発のない福島を!県民大集会」参加記

大滝 敏市(事務局)

3月23日、「原発のない福島を!県民大集会」に市民連絡会の仲間と共に参加した。
福島駅改札口で集会スタッフの出迎えを受け、シャトルバスであづま総合運動公園へ。駐車場から体育館へ向かう途中、除染作業を目の当たりにする。陸上競技場や運動広場の地面が一面掘り起こされ、周りには、はぎ取った土砂を入れた青い袋が大量の並んでいる。

体育館入口でプログラムを受け取り、県外参加者席になっているメインアリーナ2階のギャラリー席に着席。1階のフロアーは、福島県内参加者席。1、2階ともに満席。(参加者数7000名以上)

集会に先立つアトラクション。避難先のいわき市で復活させた双葉郡楢葉町の『大谷じゃんがら念仏踊り』などの伝統芸能を鑑賞。

体育館外の広場にならんだ「なみえ焼きそば」をはじめとする出店で昼食。サブアリーナでは、物品販売や展示も。

集会開始。黙祷の後、吉岡棟憲さん(円通寺住職)が、「原発事故は、人間らしく生きていくための人権・平和・環境を奪った。国・東電は心底から謝罪することなくウソと隠ぺいを重ね、事故の風化を狙っている。絶対許すことはできない」と開会あいさつ。

続いて、五十嵐史郎・実行委員長が「私たち福島県民の願いは福島県内にある原発10基全ての廃炉と安心して暮らせる福島を取り戻すことだ。私たちには放射能の不安のない未来を作る責任がある」と主催者あいさつ。

呼びかけ人代表の清水修二さん(福島大学教授)は、「2年経った今、16万人の人々がふるさとに戻れず避難生活をしている。家族と引き裂かれた人々は避難先での心理的な摩擦に疲れ切り、苦しんでいる」「避難しない人も大変な思いをしている。除染した土を自分の庭に埋めている。なぜこんなことまで我慢するのか」「普通の市民がなぜ、長い損賠裁判を闘わなければならないのか」「放射能災害がもたらした人心の分断。避難する人としない人、戻る人と戻らない人。同じ住民同士がなぜこんな関係になるのか」、それらは、「すべては原発のせい」と繰り返し訴え、「終わりのない大事故と災害を、この国は忘れようとしているが、福島では県議会自民党から共産党まで一致して福島原発の廃炉を決議し、知事も原発のない福島県を目指すと表明した。県内の原発を再び動かすという選択肢はない」と指摘する。

体調を崩し参加できなかった大江健三郎さんに代わって鎌田慧さんが「再稼働は絶対に認めない」と連帯の挨拶。

「県民からの訴え」。農業、漁業、林業、旅館業を営んでいる方や、高校生平和大使、県外避難者、子ども保養プロジェクトの方々が発言。それぞれの困難さと苦悩に胸が締め付けられる。異口同音に発せられる「国・東電は、誠実に対応せよ」との怒り、「人の力で制御できないものを作るべきではない」「もう原発はいらない」の叫び。そして、「『どうせ』『やっぱり』と国は私たちをあきらめさせようとする。そんな国の中で信念を貫いて生きることは困難なことだが、この事故を経験した私たち福島県民だからこそ、それができる。私たちが作ったこの国を、私たちは変えることができる。」(鈴木邦彦さん・県森林組合連合会)との勇気づけられる発言。

集会宣言採択。長文の宣言文、それだけ福島県民の思いが、ぎっしり詰まっている。

集会終盤、各地方ブロックごとに北海道・東北~九州・沖縄、海外と順に参加者が起立。その度に大きな拍手。起立を促していた司会者が、声を詰まらせながら 「福島の皆さん、2階席の数千の皆さんは、私たちの仲間です。これだけの方たちが 、私たちを応援してくれています。これからも、つらい日々が続きますが、心をひとつにして生きていきましょう。生き抜きましょう!」。

閉会あいさつは、武藤類子さん(ハイロアクション福島)。「今日忘れずに心にとめておきたいことがあります。私たちは、これ以上バラバラにされない。私たちは、これ以上生きる権利を奪われない。私たちは、つないだ手をはなさい。」と静かな口調の中に強い決意を込めて集会を締めくくる。

他の仲間は、夕刻の関連集会や翌日のスタディツアー参加のため福島に宿泊。残念ながら、私は所用で東京に戻る。

集会の翌日24日、安倍首相が福島を視察したとの報道。郡山市の農家でカブを掲げて「カブ(株)が上がりますように」と駄洒落を言ってはしゃぎ、福島第2原発の廃炉には全く触れずに原発再稼働の必要性に言及する首相。それを無批判に報道するメディア。怒りがわいてくるが、だからこそ、「つないだ手をはなさず」「福島とつながり」、脱原発の運動を更に進めていかなければと改めて思う。

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第16回 許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会報告(3)
アジアの民衆の平和と共生を求めて―あかんで改憲・戦争をする国-

本号では、2013年2月16~17日、大阪で開催された「第16回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会」では「橋本大阪市政改革とは?その実際にふれるスタディーツアー」が行われた。以下に大阪市西成区の釜ヶ崎を訪れた報告する。

◇「こどもの里」

荘保共子さん(こどもの里館長)

◇みなさんは9条を守ろうと活動していらっしゃるということですが、わたしたちのボスは松浦司教で、ここは大阪大司教区のもとでやっています。松浦悟郎さんとは長いおつきあいですし、わたしたちも9条は絶対に守りたいと思っています。もし9条が変われば戦争に行くのはこの子どもたちですから、絶対に止めなければいけないと思っています。わたしたちは子どもたちにもその事を知ってもらいたいので、いろいろと勉強会もしています。2年前は沖縄について勉強して基地を回りましたし、いまはドイツと第2次世界大戦の勉強をして、この夏にアウシュヴィッツとドイツに行きます。勉強した子どもたちだけが行けるんですが、月1回勉強して1年かけて勉強して行きます。

◇ここは子どもの居場所です。遊び場です。それが基盤です。いろいろな子どもが来ます。幼稚園の子も来ていますし中学生も来ていますし高校生も来ています。地域の子が来て、ここを居場所としています。だから学童保育ではなくて、赤ちゃんもいればお兄ちゃんもいるというかたちで、みんながそれぞれおむつを替えたりミルクの世話をしたりとか、だっこしたりとか、それこそ子育てを地域の中でやるというかたちです。それが居場所のひとつのいい点だと思います。

もうひとつのいい点は障がい者が一緒にいることです。耳の聴こえない子も一緒に住んでいるんですが、ほとんどの子は手話ができます。全然しゃべれない子でもちゃんと意思疎通ができるんです。いろいろな問題は、子どもと障がい児とか、釜ヶ崎に住む子どもたちにあるのではなくて、周りの人たちがどう見るかという差別の問題です。いろいろな人と一緒に育つことが、わたしは子どもにとって一番いいことだと思っています。その意味では釜ヶ崎はすごく多様な町です。本当にいろいろな人が来るし、どんな人でもここで過ごせる、生きられる町だということを考えれば、本当に子どもにとって成長する環境としてはすごくいいと思います。ただ、行政はこういう環境はよくないと、子どもを全部外に出してしまっていますので、いまはここが町の中の僻地のようになっていて、小学校も50何人しかいない。小中一貫校をつくろうと新しい市長が考えているということです。

「こどもの里」はもともと学童保育でしか補助金が出なかったので、それで始めたんです。けれども大阪市が平成元年に、どんな子も、児童福祉法でいう児童、0歳から18歳までのこどもたち、あるいは20歳くらいまでの子どもたちが誰でも利用できる場ということで、「子どもの家事業」を始めたんですね。その裏には、学童保育は全国学童保育連絡協議会というのがあって、これは共産党系なんです。これをつぶすために考え出したということがあるんです。

この「子どもの家事業」は、貧乏人でも金持ちでも誰でも利用できるんだよ、子どもたちは来ていいんだよということで、大阪市がそういう場所を用意したんですね。ですから人件費も2人分出ていたんです。それを今回橋下さんは、学童保育と同じことをやっているから学童と同じでいいと、人件費を削るといっている。その削ったお金が「子どもの家事業」全部で5000万円です。その事を報道したニュースがあるのでそれを見ていただきたいと思います。

(ビデオ上映)

橋下さんの意志は変わらないようで、2013年度は出るんですが、2014年度から補助金はカットになります。学童保育になると、補助金は3分の1くらいになってしまいます。でもわたしたちは、そうなったとしても止めるわけにはいきません。他のかたちで、まずここをNPOに替えたいと思っています。2年経てば認定NPOがとれますので、費用から多少の税金控除ができるような対策を取らないといけないと思っています。いまそうした準備を進めています。

◇ここは非常に多様性のある地域で、実際におじさんたちがたくさん道で寝ています。亡くなる人にも出くわす時もあります。そういうときにわたしたちが知らん顔して、子どもたちに命が大事だよといってもだめですよね。ですから、野宿している人たちのところへ一緒に出かけていって、「おじさん、からだ大丈夫ですか」という子ども夜回りをやっています。きっかけは1983年に横浜の寿町で、須藤泰造さんという方が中学生10人以上に暴行されて殺された事件です。あの事件は、わたしはすごくショックでした。

何がショックかというと、横浜の地下街の人たちがラブコールを行ったことなんです。もう一度あの子たちがあんなことをしてくれないかという。ぼくたちはそれを待っているといった。それがショックだったんです。大人がそういった襲う人たちを後押ししている、そういうことなのかとすごくショックだったんです。だからこそわたしたちは、そういう大人じゃないかたちでいたいなと、そのとき思いました。その事がきっかけで子ども夜回りを始めたんですね。

昨日もみんなで回りました。わたしたちが回るところだけで200人くらい野宿している人がいるんですが、その人たちに声をかけて、必要な人には子どもたちがお味噌汁やおにぎりを渡したり毛布を渡したりしてきました。今日も72歳のおばあちゃんがここに来てくれました。大人が声をかけてもだめなんです。でも子どもが声をかけると心を開いてくれるんですね。これは子どものすごい力ですね。この子どもの力を発信していきたいと思います。これは小学生の時にしないと、中学生になると声をかけられないですね。小学生だから分け隔てなく話せます。命に関わることは本当に早いうちから、生まれたときから、いろいろなことを感じてくれるようになってくれればいいなと思って、幼児の時から夜回りをしています。いろいろ批判はありますが、そういうこともしています。

◇この子どもの居場所はすごく必要なんですが、大阪市ではこれから無理になっていきます。ある場所は学童保育か、学校の「いきいき放課後事業」だけになります。まったく自由に行く場所がなくなる、民間がやらない限り、公的にはなくなります。学童保育や「いきいき放課後事業」を見ると、例えば学童保育はお母さんが働いていないとだめです。親がお金を払わないといけない。学校の「いきいき放課後事業」は小学生だけなんです。小学生でも学校でいじめられている子どもは行きません。長い間休んでいる子も行きづらいですよね。そういう子たちの行き場というのは、どこか地域に確保しないとだめです。

いまは要保護児童対策地域協議会による事業ということで、虐待防止をどうやって地域で取り組むかということが叫ばれています。社会的養護を地域とどうやって連携するかということを、厚労省が去年の8月に出しました。このあいりん地域では、「あいりん子ども連絡会」を1995年からやっています。そこではいろいろな子どもたち、学校で問題が起きた子ども、ここに遊びに来る中でちょっとしんどいという子どものことを、ケース会議で出し合うんですね。

その子どもに何かあるとすぐに児童相談所に行かせてしまうんです。これは親子分離で、児童相談所に行くと、子どもは学校に行けません。その中しかだめなんですね。これが子どもに、見捨てられたという思いをすごくつけてしまい、大きなトラウマになって残ってしまう。もちろんお母さんたちもしんどい生活なんです。DVの加害者であるとか、そういう人たちはそのまま地域にいるわけです。子どもの最善の利益を考えるんだったら、できる限り子どもが安全で安心であることです。できる限りこの地域の中で見守ることが大切だと思います。

わたしたちも最初はただの学童保育だったんです。子どもたちの要望から、だんだんここでご飯を食べたり、待っていたり、お母さんがこれ以上いたら大変だからと逃げてきたり、あるいはお母さんが今日はしんどくてこれ以上家にいたら子どもに手をあげてしまうから預かって、ということになってきた。そうすれば児童相談所に行かなくていいんです。ここでちょっとお母さんの、あるいはお父さんの回復を待って、子どもは同じ保育園に通って同じ学校に通えます。これがこれからの新しい重要な施策じゃないかなとわたしは思うんです。

それを一生懸命橋下さんに言ってるんですけれども、聞く耳を持ってくれません。新しい場所をつくらなくても、それぞれがいまやっている「子どもの居場所」にそういう機能をつけて、そこに相談員を置くとか、信頼できるワーカーを置くとか、それだけで何も新しいハードはいらない。それでいろいろなことができるしそれが要保護対策になっていく、虐待防止につながっていく力が、ここにはあると思います。

◇「こどもの里」は、はじめは遊び場でしたが、遊び場と同時に緊急一時保護を受けます。緊急一時保護を受けた子どもの中でも、これ以上いると将来的に心理的負担があるであろうという場合には分離をします。分離をするときに、この上の階にファミリーホームがあります。子どもはいわゆる措置をされるということで、この3階に措置してもらいます。生まれた地域の中で同じ学校に通い、同じ友達とともに、そういう中で保護ができるかたちになっています。保健衛生で考えると、第一次予防、第二次予防、第三次予防というのがあります。

第一次予防は、特に日本では風邪とか伝染病の予防は長けていて、うがいをしましょうとか手洗いをしましょうというプリントが来ます。虐待防止なども同じようにとらえて、学校の中で子どもたちにこういうことは虐待なんですよ、これはノーといっていいんですよとか、あるいはお母さんにこれはやってはだめですよということをいったりする、これが第一次予防です。第二次予防は、風邪を引いてしまって医者に行きました、薬をもらいましたということですね。先ほど言った緊急一時保護がこの第二次予防になるわけです。第三次予防は、それでも病気になって、例えばノロウィルスにかかりましたというときは隔離をしないとだめですよね、それが第三次予防です。その第三次予防がこのファミリーホームです。

ですから虐待防止の保健衛生が、この小さい建物の中で第一次、第二次、第三次予防までできるんです。何も新しいものを考えなくてもそのままのかたちでできるので、こういうものが中学校区に1ヶ所あれば児童相談所はパンクしない。子どもが寂しい思いをしなくていい、地域で子どもを育てる。すごくいいと思うんですよね。だからこれを一生懸命提案しているんですけれども、橋下さんは聞いてくれないんです。でも地域の中でどうやって虐待を防止していくかという中で、そういうことを考えていってもらえたらと思うし、あいりんこども連絡会の中で民生委員さんとか児童委員さんとか学校の先生とかいろいろな人たちと話し合っています。そうすると地域の活性化にもなるんです。ありがとうございました。

◇釜が崎を歩く

生田 武志さん(野宿者ネットワーク代表)

ふえている女性と若者の野宿者

こんにちは。生田といいます。これから釜ヶ崎の中を歩きます。自己紹介すると、僕は1986年から釜ヶ崎に来ていろいろな活動をしています。いまは主に野宿者ネットワークという団体で、野宿している人を訪ねていっています。高齢の人とか障がいを持っている人がいまだに多いんですよ。いまは92歳という人が野宿しています、日本橋ですけれども。戦争に行って兵隊になって帰ってきたら死亡宣告が出ていて、仕事ができなくなって生活保護の申請に行ったら、「あなたはもう死んでいます」と言われて追い返されたということです。その人は段ボールを集めていて、まだがんばれますからと言っていました。それから車椅子の人も野宿していますし、最近だと女性の方とか若者が増えています。

昨日のこども夜回りでも20代の人と会ったらしい。僕も電話で21歳の人の相談を受けましたし、若者も多いです。だいたいが派遣をやっていて仕事がなくなって、野宿になってしまったという人です。若くして野宿になってしまう人の家庭環境はだいたいふたつあって、ひとつが一人親家庭、だいたい母子家庭です。家に帰りたいけれども、実家自身が生活保護を受けていて帰れない。20代の若者が帰ったら、下手したら生活保護を切られちゃいますから。もうひとつは虐待です。実家自身が貧乏とか暴力があった若者で、生活に困った人たちが野宿になってしまっている。貧困の再生産あるいは暴力の連鎖という状態です。

それから女性も結構多くて、釜ヶ崎は圧倒的に男が多いのであまり目立たないんですが、日本全体で言うと野宿者のうちの8%が女性です。100人野宿していたら8人が女性です。女性の場合はDVと失業が多くて、あとは精神疾患を持っている女性が明らかに多いですね。これはDVの結果なのか、よくわからないですが。そういった感じで相談を受けたりする活動をしています。

日本最大のドヤ街――釜が崎

釜ヶ崎の歴史ですが、町自体は0.62平方キロメートルです。そんなに大きな町じゃなくて1時間もあればぐるっと回れます。釜ヶ崎はもともと日傭い労働者が仕事を求めて集まった寄せ場、寄り場とか寄せ場と言います。みなさんご覧になったように簡易宿泊所が多いですね。宿の逆でドヤと言うんですが、ドヤ街ともいいます。日本には四つの大きな寄せ場があって東京の山谷、横浜の寿、名古屋の笹島それから大阪の釜ヶ崎です。大阪が一番大きいんですね。最大時はバブル期に3万人の日傭い労働者がいたんですよ。いまはだいたい1万人と言われています。ただ東京の山谷も横浜の寿もいまは事実上は寄せ場としては機能していないので、旧来の寄せ場としては日本で唯一残っている場所になっています。

釜ヶ崎という地名は地図にはなくて、西成区今宮村の地名だったんです。1922年まであったんだけど、地名改称で消滅しました。それからは通称として使われています。「あいりん地区」という名前を釜ヶ崎の労働者で使う人はいません。これは暴動対策のために行政が1960年代につくった名前で、隣を愛するという「愛隣」なんですが、これは釜ヶ崎より広い範囲なんですね。

ドヤ街としての釜ヶ崎は、大阪市の文書などによるとだいたい1904年くらいからできています。その頃からドヤができて労働者が集まってきた。当時大阪の日本橋が日本最大のスラムでした。大規模なスラムクリアランスがあって、貧乏人が追い出され、そのかなりの部分が釜ヶ崎にきて、ますます貧困地帯になったようです。1911年にはいまでも続いている自彊館という救護施設ができています。

釜ヶ崎は戦争で焼け野原になったんですが、バラックから再生しています。その頃はまだ家族が多く、すぐそこにある萩之茶屋小学校は1000人くらい子どもがいたんです。マンモス校だったんですね。今は60人を切っています。当時は家族で住む普通のスラム街だったんです。その後単身労働者が多い町になって、今から回りますが、狭いドヤとコインランドリーとコインロッカーと弁当屋と銭湯がある町になった。つまり一人で暮らせる状態ですね。東京の蒲田に行くとネットカフェに住んでいる日傭い派遣の人がいて、町はコインランドリーとコインロッカーがあるというまったく同じ現象ですね。

暴動が最初に起こったのが1961年、交通事故にあった日傭い労働者が倒れていたんですが、警察が死んだと判断してほったらかしにしていたんですね、むしろか何かをかぶせて。そうしたら労働者が何とかしろと怒り始めてたちまち暴動になった。このときは5日間続いて、これが第1次釜ヶ崎暴動です。

暴動は23回起こっています。一番多いのは1960年代ですが、このころ日本は高度経済成長期ですけれども、同時に暴動が頻発していたんですね。繰り返された暴動によって釜ヶ崎が注目されて、労働は大阪府労働部、福祉は当時の大阪市民政局、治安対策は大阪府西成署というあいりん体制が1962年以降につくられています。この体制のもとに1971年までに大阪社会医療センター、事実上無料の病院と市立更正相談所という釜ヶ崎専門の福祉事務所、それから監視カメラがつくられます。これがいまの釜ヶ崎に引き継がれています。

これから行くんですがいくつか注意があります。まずカメラはあまり撮らないでくださいね。特に人様の顔を撮るとすごく怒られます。というのは逃げてきている人もいるので敏感なんですね。それから、これだけの人数で歩いていると見学ということは丸わかりです。町の人たちにとっては、俺たちは見学の対象じゃないと思う人もいるかもしれません。確かにそうなので、でも見ないとわからないこともあると思うので、見せていただくという気持ちで行きたいと思います。話しかけてくる人がいますが、みなさんの普段通りの対応をしてもらえればいいと思います。

要塞のような西成署

あれが西成署です。要塞のような。暴動はたくさん起こって、原因はいろいろあるんですが警察の不祥事が多いんですよ。1961年の時は、警官が倒れた人をほったらかしにしていたのが原因でした。最近では1990年のものが大きかったんだけれども、そのときはここの私服刑事が暴力団に情報を流すのとひきかえにお金を数千万円もらっていたんですね。それがばれちゃって新聞に載って、みんなが怒ってここに集まって抗議を始めたんです。謝ればいいんだけど、機動隊を配置して蹴散らしてしまったのでみんな怒って暴動が始まっちゃったんです。そのときは僕もいましたけれども、5日間続いて自転車でバリケードがつくられ、車が燃やされ駅が放火され市街戦状態でしたね。警察とか行政の不祥事が原因で暴動が起こるというパターンが多いです。

西成署は1990年の暴動のあとに立て替えられました。治安対策で言うと、あそこに監視カメラがありますけれども、釜ヶ崎は1970年代初頭から地区内に11の監視カメラがあって、路上を無差別に監視する監視カメラとしては日本最初です。犯罪防止という意味だけど、僕たちが夜回りをやっているとあの監視カメラは動くんです。僕らを追いかけている。一つのカメラは24時間労働組合を監視していたんです。さすがにおかしいということで裁判になって、明らかに人権侵害だと撤去の命令が出て撤去されています。

三角公園、四角公園

この公園の中が越冬とか夏の集まりの時の基地になります。ここは週2回炊き出しをやっています。内容もいいものを出して、だいたい1000食くらい出ます。日本最大の炊き出しだと思います。火曜日と土曜日です。公園がいっぱいになります。四角公園では毎日炊き出しをやっています。

こちらはシェルターです。ここは日本で初めてできた野宿者のためのシェルターです。フェンスの向こうのプレハブの中は、2段ベッドがずらーっと並んでいます。冷暖房は無しです。これができるときに地元の住民から反対運動が起こって、そのときの条件で冷暖房がつけられなかったんです。だから夏は暑く冬は寒い。そして毛布だけなんです。泊まらない人は結構多いんだけれど、どうしても虫が来るんです。シラミとか南京虫とかダニとか。無理もないんです。ここは600人泊まれるんですが、3千枚の毛布は干せないですよね。フェンスの向こうはトイレとシャワーがあります。

夕方にあいりん総合センターに並んで券をもらって、その券にベッドの番号が書いてあって、それでここに泊まるんです。夜に入って、朝の5時くらいに出ていく。純粋に寝るためだけの施設です。いちおう乾パンをもらいます。歯が悪い人は食べられないけど。シャワーを浴びて、トイレをして、寝て、出ていくという感じです。ほかに440人収容のところがあって、合わせて1000人以上が泊まれます。利用率はいまはかなり減りました。

四角公園は毎日炊き出しをやっています。30年以上前から、雨の日も風の日も炊き出しをやっています。毎日なのであまりいいものを出せなくて、おじやにほかのものが混じっているという感じです。そうしないと飢えて死んでしまう人がたくさんいるということです。釜ヶ崎地域合同労働組合が1日2回やっています。

ドヤ街

ドヤ街ということでホテルなんかがたくさんあるんですが、1泊1500円とかです。1ヶ月泊まったら45000円くらいになる。アパート借りた方が安いんですが、何でドヤに泊まるかというと、日傭いの人は収入が不安定です。梅雨時とか、けがや病気したら仕事がなくなっちゃうとか。敷金、礼金を貯めてアパートに入るんだけれども、しばらくしたらお金がなくなってアパートを出ないといけないかもしれない。なので仕事があるときはドヤに泊まって、仕事がなくなると野宿するパターンが多いですね。出張仕事も多いですし。仕事が不安定だと住居も不安定になってしまうんですね。

一番多いときは200軒のドヤがあったんですが、仕事がなくなってみんなが野宿すると客が来なくなったんですね。多くのドヤがアパートに転換しています。野宿の人に声をかけて入ってもらって生活保護にするんですね。生活保護にするとその人が死ぬまで絶対にお金が入ってくるので、どんどん転換しています。アパートといっても1畳とか2畳の部屋をきれいにしただけで、それで3万円、4万円取っているんですよ。これは2つの方向があって、ひとつは狭いなりに相談員とか置いてアフターケアをやっているいわゆる社会的企業と、悪徳ビジネスがあって、真ん中のグレーゾーンがいっぱいあるという感じです。

西成労働福祉センター、大阪社会医療センター

ここは労働福祉センターです。病院に行きたい人はここで医療券もらったり、労災の相談をしたり仕事の紹介をしてもらったりしています。玉掛けとか溶接とかクレーンとかの技能講習もやっています。技能講習を受けてもらって仕事に役立ててもらうためにそういうこともやっています。それから行方不明になった人がここにいることがよくあるので、尋ね人が貼ってあったりします。賃金不払いとか労災もみ消しとかがよくあるので相談に来たりします。このセンターは午後6時に閉まります。それまでここを使用している人がいる。いまも向こうで将棋をやっていたりしています。

釜が先は結核が世界一多い場所です。南アフリカよりもカンボジアよりも2倍近く高いといわれています。月に4回くらい検診をやっていますが、結構多くの人が引っかかっています。ここで発見して入院したり薬を飲んだりして対応しています。貧困と不安定な生活で結核が蔓延しているわけです。

大阪社会医療センターの1階が受付で5階に病院があって、7階の病棟に入院ができます。内科外科それから眼科とか歯科とか脳外科とか精神科とか一通りそろっています。ここは基本的に無料で治療が受けられます。日傭いの人も野宿の人もお金がないので健康保険なんか入れない。実費になるとレントゲン1枚で5000円とか取られちゃうのでみんな我慢しちゃう。最後は倒れて救急車で運ばれて手遅れになってしまう。それに対応するためにこういう病院ができています。

ここは半官半民ですが、いまはお金がなくて払えませんけれど将来お金が入ったら払います、という借用書を書くと事実上無料で診てもらえる。このへんの医療はここで何とか持っているという感じです。全国にある無料定額診療所のひとつとも言えますね。枠付けは違いますが。ここは生活保護を受けている人が日本で一番多いところなので、生活保護受給者に対する病院もできていて患者が全員生活保護受給者という病院もあります。そういうところは結構過剰診療とか過剰投薬で儲けているということはあります。

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「安倍教育政策NO・平和と人権の教育を!ネットワーク」へご参加を呼びかけます

2006年、第一次安倍内閣は教育基本法を変えました。2013年、第二次安倍内閣は憲法を変えることを大きな目標にしています。既に安倍内閣は、日本が世界に向けて宣言してきた武器輸出三原則も非核三原則も反故にし、原発事故は今も多くの人を苦しめているのに原発の再稼働や輸出を進めようとしています。ここに人の生命や人権を守るという視点はありません。

安倍首相は、史実を認めず、河野談話・村山談話さえも否定し、日本の歴史を書き換えたいということを堂々と主張しています。このままでは、日本国内では日本軍「慰安婦」も米軍機墜落事故も放射能汚染もなかったことにされてしまいます。

安倍首相は、「強い日本を取り戻すためには、教育の再生が不可欠」と主張し、教育によって「国の型」をかえようとしています。安倍首相直属の教育再生実行会議は、教育委員会や教科書、学校の教育内容に直接国が介入・統制できるようにすることをめざしています。2月26日にいじめ問題の第一次提言を出しましたが、ここには、厳罰主義と上意下達を徹底すること、「道徳」を教科にして、国が決めた規範を子どもや教職員に押し付けることが盛り込まれています。学校現場を締め付けたり競争をあおることでいじめや体罰や暴力をなくせるのでしょうか。

提言には、上から言われたことには疑問を持たぬ人間、黙って滅私奉公する人間、すべては「自己責任」で済ませてしまう人間を育てる、という考え方が貫かれています。平和や人権はないがしろにして憲法改悪へ進むための教育を目指しているとも言えるでしょう。

また、安倍内閣は軍事費や大企業減税のための予算は増額し、35人学級実現のための予算を削りました。一人ひとりに目が行き届く学校はまた遠のきました。子どもが大事にされる環境作りは先送りして、家庭に子どもの問題の責任をおわせることで何か解決するのでしょうか。

主権は国民にあることをしっかりと自覚して、広い視野で物事を見、相手のいうことにも耳を傾け、歴史に学び、自分で考え判断できる人が育たなければ、日本は進むべき道を誤ることになるでしょう。山積する問題を武力で解決しようとする愚かな人を私たちは望みません。憲法を変え戦争のできる国をめざすのではなく、戦争をなくすにはどうしたらいいか真剣に考えられる人、世界の人々と対等に話合い、建設的な議論ができる人に次代を託したいのです。そのためには、安倍政権のめざす「教育再生」すなわち、教育を「国のため」のものにし、戦前型の教育に維新=復古することを許してはいけません。私たちは、子どもを権利をもった人間として大切にする教育を求めています。

安倍首相のやりたい放題を許していいのですか?
教育を「国策」のための道具として使わせないためにも、不幸な歴史を繰り返さないためにも、「安倍教育政策NO・平和と人権の教育を!ネットワーク」を立ち上げることにいたしました。大きな連帯をつくりましょう。どうか皆さんも私たちともに声をあげ、行動してくださることを、心から呼びかけます。
2013年3月

◇呼びかけ人◇
青木 悦(教育ジャーナリスト)、有馬理恵(俳優)、安藤聡彦(埼玉大学教授)、池田香代子(翻訳家)、石井小夜子(弁護士)、井出孫六(作家)、上原公子(元国立市長)、内田 樹(神戸女学院大学名誉教授)、宇都宮健児(前日弁連会長)、大田 堯(教育研究者)、岡本 厚(前『世界』編集長)、小笠原彩子(弁護士)、勝野正章(東京大学准教授)、加藤彰彦(沖縄大学教員)、小森陽一(東京大学教授)、斎藤貴男(ジャーナリスト)、佐藤 学(学習院大学教授)、里見 実(教育研究者)、髙嶋伸欣(琉球大学名誉教授)、田代美江子(埼玉大学教授)、中嶋哲彦(名古屋大学教授)、堀尾輝久(東京大学名誉教授)、山本由美(和光大学教授)、(2013年3月29日現在)

安倍教育政策NO・平和と人権の教育を!ネットワーク(略称:「安倍教育政策NO!ネット」)
◇連絡先:
子どもと教科書全国ネット21 TEL:03-3265-7606 Fax:03-3239-8590
許すな!憲法改悪・市民連絡会 TEL:03-3221-4668 Fax:03-3221-2558

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