私と憲法139号(2012年11月25日号)


総選挙で改憲勢力の台頭を許さない闘いを
宇都宮けんじさんを擁する東京都知事選挙の歴史的な意義

11月16日、内外の困難を前に、追いつめられた野田佳彦首相はやぶれかぶれで衆議院解散に打って出た。戦後史上でもかつてない14~15もの政党による衆議院議員総選挙が始まろうとしている。この総選挙は石原慎太郎前知事が突如としてその任を放棄したことによる東京都知事選挙とダブル選挙になった。これらの行方は今後の日本のあり方を大きく左右する重大な選挙になった。

3年前に政権交代はしたものの、民主党政権は米国や財界、霞ヶ関(官僚)の圧力で、結局、旧来の自民党型の悪政の繰り返しに陥り、原発震災対応の停滞、解釈改憲の推進、経済の行き詰まり、オスプレイなど沖縄をはじめ米軍基地の問題、領土問題などでの東アジアでの孤立、消費税増税と社会保障改悪への批判、TPP推進への批判、人々の生活と基本的人権の破壊、民主主義の破壊の政治などなど、社会全体に耐え難い不満と怒りが渦巻いている。

野党自民党はこれに対して、一層反動的な立ち位置から政策を対置することで、「自民党らしさ」を打ち出し、野田政権への批判の声を吸収しようと、安倍晋三、石破茂らが主導する改憲・極右反動執行部体制を作り出した。戦後の自民党政治のもっとも悪質なところを継承するかのような安倍自民党は、この間の民主党の失政を利用して、来る総選挙で比較第一党の座を得て、自公民大連立など、なんらかの連立政権を樹立し、政権に返り咲こうとしている。

この間の民主党と自民党の保守2大政党による政治に多くの人々が強く閉塞感を抱いている。無責任なマスメディアの支援も得て、その間隙をぬって登場を策しているのが橋下・石原連合日本維新の会や、みんなの党などのいわゆる新党・第3極だ。これらの連中に共通する特徴はいずれもが政治的には右翼改憲派であり、経済政策においては新自由主義であることだ。この第3極志向の諸新党は、原発や、税、TPP、外交などの個々の政策の違いを「小異」として切って捨て、この改憲と新自由主義の「大同」において大連合ならぬ大野合をすすめ、人々の政治への不満をかすめ取り、次期政権の一翼を占めようとしている。

永田町の政治状況は戦後かつてない重大な危機である。

しかしながら残念なことに、現在、これらに対抗すべき左派・リベラルの野党勢力が弱く、かつ分立した状態にある。「オリーブの木」的な連合を唱える小沢一郎の「国民の生活が第一」はルーツの危うさとこの間の結党の経過から人々の期待を集め得ないし、共産党・社民党の護憲・平和勢力も事態の打開の道を切り開くための決定力に欠ける状況である。とりわけ3・11の東日本大震災とそれにともなう原発事故を経て、人々の闘いは脱原発で、沖縄の米軍基地やオスプレイ撤去で、TPP反対で、かつてなく高揚している。人々は政治への不満を全国の街頭で表明しつつある。そして改憲派の跳梁にもかかわらず、憲法第9条と平和への世論の支持は強い。にもかかわらず、現状では、この世論と左派・リベラル政治勢力が結びついていない。私たちはかつて2006~7年にかけて、安倍晋三内閣が企てた明文改憲の野望を、九条の会をはじめとする全国的な草の根からの運動で「九条を変えるな」の巨大な世論を作り出し、阻止した経験を持っている。この経験に学びながら、護憲・リベラル勢力の共同を構築すること、およびこれら脱原発などの市民運動との連携をどのように作り上げることができるかにこそ、これからの新しい政治を作り上げるカギがある。

この点で、今回の東京都知事選挙で市民派統一候補の擁立実現という一つの突破口が開かれたことは希望が持てることであった。

12月16日投開票の東京都知事選挙に前日弁連会長の宇都宮けんじさんが立候補表明を行い、多くの人々の期待と支持を得て全力で闘っている。対立候補は石原前知事後継の猪瀬副知事(自民、公明、石原日本維新新党など推薦)や、松沢前神奈川県知事らだ。

この選挙は市民運動(宇都宮けんじさんとともに人にやさしい東京をつくる会)が擁立した候補者を社民党、共産党、国民の生活が第一、生活者ネット、新社会党、緑の党、ほかの政党やさまざまな団体が支持して共同でたたかう新しい形の選挙を生み出しつつある。共産党と社民党(旧社会党)が一緒に同じ候補者を推すという意味では、東京都知事選挙では1983年の松岡英夫候補以来、30年ぶりに実現した画期的な選挙となる。東京では1967年に当選した美濃部亮吉知事が3選を果たして任期を終えた1979年まで、いわゆる革新都知事体制がつづいたが、その後は2回の選挙を経て、社民党と共産党はそれぞれ別の候補を推し、敗れてきた。とりわけ、先頃1年余で4期目の任期を無責任にも投げ出して、国政の新党の結成をめざすことになった石原慎太郎都知事の13年半の歴史は、都民にとって「惨憺たる歴史」であった。今回、その歴史を変えようと、市民運動といくつかの政党が共同して、石原後継候補と1000万人有権者の支持を激しく争っている。

11月6日、「人にやさしい都政をつくる会」の記者会見で発表された40氏による声明は、冒頭に「惨憺たる石原都政の13年半であった」と述べて、石原都政を批判し、「いま、東京都知事を変えることは、日本の右傾化を阻止する力になる」と指摘した。そして、基本的な政治的方向性を「第1は、日本国憲法を尊重し、平和と人権、自治、民主主義、男女の平等、福祉・環境を大切にする都知事である。第2は、脱原発政策を確実に進める都知事である。第3は、石原都政によってメチャメチャにされた教育に民主主義を取り戻し、教師に自信と自律性を、教室に学ぶ喜びと意欲を回復させる都知事である。第4は、人々を追い詰め、生きにくくさせ、つながりを奪い、引きこもらせ、あらゆる文化から排除させる、貧困・格差と闘う都知事である」と「4つの柱」を明確にした。

その後「人にやさしい東京をつくる会」(名称変更)は都知事候補に宇都宮けんじさんの擁立を決め、宇都宮さんは9日、記者会見で立候補の意志を明らかにし、以下の「東京を変える4つの柱」の実現をめざすことを表明した。
(1)誰もが人らしく、自分らしく生きられるまち、東京をつくります。
(2)原発のない社会へ――東京から脱原発を進めます。
(3)子どもたちのための教育を再建します。
(4)憲法のいきる東京をめざします。

そして、「4期つづいた石原都政のもとで、都政には課題が山積しています。
オリンピック招致、築地移転問題、新銀行東京、尖閣諸島買収で集めた寄付金の処理など、前知事が突然、放り出してしまった課題は、『強いリーダーシップ』という名のもと、都民の声に耳を傾けない強引な施策によって引き起こされてきました。東京は変えられます。誰かが変えるのではなく、私たち自身の手で、変えることができます。それが今度の都知事選挙なのではないでしょうか」と述べた。

ひたすら憲法を敵視し、人権と民主主義を破壊し続けてきた13年余の石原都政のもとで、人々の間に累積した不満と批判が、このような都知事候補と共通の政策を生み出したのだ。これは東京の、日本の民主主義の歴史に残る快挙になった。

いま、志ある市民は12月16日の投開票をめざして、宇都宮けんじさんを先頭にして全力で新しい都政を実現するために奮闘している。この闘いは自覚した市民自身による、さまざまな違いを乗り越えつつ統一した運動であり、民主主義実現の闘いだ。この帰趨は今後の日本での運動に重大な影響を与えることになるにちがいない。まさに「東京が変われば日本が変わる」(宇都宮けんじさんの演説)と考える。容易ならぬ闘いではあるが、私たちはなんとしてもこの千載一遇の闘いを勝利するべく全力を挙げてたたかう。都民をはじめ、全国の皆さんに、可能な限りの支援をこころから訴えます。(事務局 高田健)

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自民党などの改憲草案を批判する

山内敏弘(憲法学)       

本稿は、「秋の憲法集会」(11月2日、日比谷図書館コンベンションホール)における山内敏弘さんの講演を編集部の責任でまとめたものです。見出しを含めて文責は編集者にあります。

1.改憲論を勢いづかせる政治動向

ナショナリスティックな動き

明日11月3日は憲法公布記念日です。日本国憲法が1946年に公布されてから66年、日本国憲法が兎にも角にも生きてきた、私たちの力で生かしてきたということを確認すると同時に、いま大変な憲法状況であると言わざるを得ません。

この背景には、予測もしていなかった「尖閣列島・竹島」問題があります。石原慎太郎が尖閣列島を東京都で購入すると言い出し、都政とは本来関係ない事柄に嘴を突っ込んで、それが契機になって野田政権は国有化に踏み切ったわけですが、その結果中国政府にいわば腹立たしい思いをさせ、今日のような対立状況になってきています。

1972年の日中国交回復、78年日中共同声明の段階でも、尖閣列島問題は、「棚上げ」するという双方のあうんの合意がなされ、以来40年の間日本と中国の友好関係が築かれてきました。日本政府は今日の時点で、そんな棚上げ論は了解した覚えはないと言っていますが、いろんな資料を見る限り、棚上げすることでともかくこの間の友好的な関係が維持されてきたことは間違いないわけです。これに対して火を点けたのが石原慎太郎です。彼の責任は非常に大きいと思うわけです。

そして残念なことに、このような事態を契機として日本国内に非常にナショナリスティックな雰囲気が出てきています。私はマスコミにも大きな責任があると思いますが、とりわけ一部の週刊誌などは、明日にでも日本と中国が戦争するかのごとき、また戦争になれば自衛隊の方が強いんだとか書いている。〝日中もし戦わば…〟という類の本も出ています。大変に憂慮すべき事態です。こうした中で、米軍と一体となった集団的自衛権の行使を認め、さらには憲法9を改定すべき、あるいは憲法全体を変えるべきだといった議論が起こっているのです。

改憲の現実的な動き

自民党は、1955年の保守合同で結党してから自主憲法の制定をずっと党是に掲げてきましたから、もともと改憲政党であることは間違いないわけです。しかし自民党は、改憲を志向しながらも、世論の力によって自民党政権の下で解釈改憲を余儀なくされてきました。自民党が「新憲法草案」を作ったのは2005年の段階でした。そして2007年に安倍内閣で憲法改正手続法(いわゆる国民投票法)を作ったわけですが、安倍内閣が崩れ、次の麻生、福田内閣が短命に終わり、「政権交代」が起こり民主党政権になりました。

自民党が改憲を実現できなかった背景には、2004年に作られた9条の会をはじめとする多くの草の根の市民運動、改憲の危機的な状況に抗して憲法を守ろう、生かそうという運動が全国的に展開されたことが大きな力になったと思うわけです。

ところがこの夏以降、いま述べたような事態の中で、自民党は「日本国憲法改正草案」を発表(4月)していますし、たちあがれ日本なども自主憲法大綱案のようなものを発表しています。橋下大阪市長は、大阪維新の会の全国的政党化に向けてあらためて大綱などというものを発表しています。そして石原慎太郎がたちあがれ日本と一緒になり、いわゆる第3極をつくる、その音頭をとろうということで動き出したわけです。言ってみれば自民党に勝るとも劣らない、自民党よりもさらに右翼的な保守的な改憲構想を、石原慎太郎をキャップとする第3極は提示することになりかねないのではなかろうかと思うわけです。

来年の早い時期に選挙があって、自民党が第1党になり、第3極が最終的にどういう形になるのかわかりませんが、自民党と第3極が手を結び、国会の3分の2を占めるようなことになったら、国会における改憲の発議がほんとうに現実的なものになるのではなかろうかと思います。憲法にとって危機的な状況が、現在そして来年にかけて現れつつあると思うわけです。

こうした憂慮すべき危機的な状況の中で、何ゆえに自民党や第3極と言われている石原慎太郎やたちあがれ日本、維新の会の改憲案というものが危険なものであり、間違っているか、これから皆さんと一緒に確認していきたいと思います。

2.自民党「改憲草案」の批判的検討

自民党の本質あらわす改憲草案

自民党は2005年に「新憲法草案」を発表しました。「新憲法」と銘打ったのは、日本国憲法とまったく切り離した形で、日本国憲法の改正ということではなくて新しい憲法を作るという意気込みで新憲法草案という名前をつけた。新しい憲法を作るというのであれば、その制定の手続きはどうするのか。さすがに枡添要一氏など新憲法草案を作った人たちは、日本国憲法96条の改正手続きを踏まえて新しい憲法を作るんだと考えていたのですから、結局手続き的には、日本国憲法の改正ではないですかとも皮肉った。

こうした批判なりが的を射たのかどうか知りませんが、今年4月に自民党が発表した改憲草案は、「日本国憲法改正草案」となっています。現行の日本国憲法を一応ベースにした上で96条の改正手続きに従って変えるということを今回は明らかにしたと言っていいと思います。

しかしその中身は、自民党本来のDNAが露骨に出た改憲草案になっています。

2005年の新憲法草案は、民主党との間で折り合い、妥協をはかり合意をしようという気持ちがたぶんあったからだと思いますが、言ってみれば自民党にしては比較的マイルドな中身であった。当時内外から自民党らしさがないという批判や感想が出されたほどでした。私は、民主党とある程度妥協するためにオブラートに包んだような柔らかい部分もあるが、自民党のDNAそのものは変わっていないという形で2005年の新憲法草案を批判しましたが、今回は自民党が野党の立場にあって作った、政権与党の民主党との差別化を明確にするという意図もあったと思いますが、自民党本来のDNAがもろに出た改憲草案になっています。これが自民党の本質だと考えていいだろうと思います。

「憲法の基本的価値」の換骨奪胎

では、自民党の本質とは一体どこにあるのか。
国民主権、人権尊重、平和主義は、日本国憲法の3つの基本原則です。そのいずれもが必ずしも100%生かされて今日まできたわけではありませんし、それらが様々に現実の政治の中で歪められてきたとしても、戦後日本の歴史の中で、社会生活ないしは国家生活において、多かれ少なかれ基本的な価値となってきたことについては国民の間では大方のコンセンサスがあったと思います。その国民主権、人権尊重、平和主義という憲法の基本的価値が、自民党の改憲草案では歪められ、換骨奪胎されている、換骨奪胎されようとしていると言わざるを得ません。

国民主権にかかわる問題

日本国憲法は言うまでもなく明治憲法における天皇主権あるいは神権天皇制というものを否定して国民主権をベースにした象徴天皇制を作って今日まできたわけですが、国民主権をベースにした形での象徴天皇制について、自民党の「日本国憲法改正草案」(以下、「改憲草案」という)は変えようとしている。まったく同じということではないが明治憲法に非常に近いような天皇制に再構築しようとしていると言わざるを得ません。

自民党「改憲草案」の「前文」では、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と書いている。日本は天皇を戴く国家である、つまり国家の上に天皇がいるとなっています。

「改憲草案」の第1章(天皇)第1条は「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって」と、「天皇は、日本国の元首であり」が本文冒頭の言葉です。元首であるといううしろに象徴とも書いています。現行日本国憲法は、「天皇は、日本国の象徴」としていますが、「象徴」が「元首」に変わることによって一体何がどう変わるか。

もともと元首には、対外的に国を代表すると同時に国内的には行政権の長を意味しているという2つの意味があったわけですが、後者の意味はだんだん薄れてきて少なくとも今日国際的に元首という用語が使われる場合は、対外的に国を代表する地位にある人間ないしは機関を指します。ですから、自民党の「改憲草案」が、天皇が元首であると書くことは、天皇が日本国を対外的に代表する存在であることを明記するものです。問題は、これが国民主権原理と一致するのか、しないのかということです。

国民主権とは、言うまでもなく主権者が国政の最終の決定権をもっている、あるいは国民が直接決定できないとするならば日本国憲法前文にあるように「国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するということである。ですから、国家意思を代表する、国を代表するものは、国民によって正当に選挙された代表者でなければならない。それ以外の者が対外的に国を代表することは、国民主権の原則からすればあり得ないわけです。

天皇は私たちが選挙で選んでいるわけではありません。私たちが選挙で選んだのではない人間が国の代表として対外的に様々な外交的行為を行うことは、国民主権原理と真っ向から対立するわけです。「改憲草案」を書いた自民党の人たちは、それをわかっているのか、わかっていないのか。あえて疑問を呈せざるを得ない問題です。

天皇を一般国民とは違った形で規定しようという発想は、その他のところにもあります。「改憲草案」6条4項には「天皇の国事に関するすべての行為には内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う」とあります。現行日本国憲法では「内閣の助言と承認を必要とし」という言葉になっていますが、「助言と承認」が「進言」に変わっています。

進言という言葉の一般的な使い方は、目下の者が目上の者に対してご意見申し上げるというような意味合いが込められています。助言と承認、少なくとも承認とは、天皇がやった国事行為が間違っていないかどうか、間違っていません、という形で内閣が責任をもって言うわけです。天皇の方が上であるなら内閣が承認を与えるというような言葉の使い方はしないわけです。

「改憲草案」が発表された直後のTV番組で、「改憲草案」の起草委員長の中谷元氏が、天皇に対して助言をし、天皇がやった行為について承認するということは、畏れ多いというようなことを言っていましたが、自民党の「改憲草案」では、現在の日本国憲法はそういう意味で天皇に対して畏れ多いということでたぶん進言という言葉に変えられているのです。

もう一つ重要なことは、条文では最後の方になる「改憲草案」102条、日本国憲法99条に変る新しい規定のところです。現行憲法は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と、天皇も義務を負うと書いてありますが、国民は入っていません。ところが「改憲草案」102条第1項は、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」としています。

現行憲法には国民は憲法尊重義務を負わないわけです。これはもちろん憲法を守らなくていいということではなくて、憲法というのは公権力、国家権力の担い手に対して憲法を守れということを約束させるところに第一義的な意味があるということです。ですから99条には国民は書いていなくて、天皇をはじめ国家権力の担い手に対して憲法尊重義務を規定しているわけです。ところが、こともあろうに「改憲草案」102条の第1項は国民に対して守りなさいと言うと同時に、第2項で「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を守る義務を負う」と天皇は抜け落ちています。国民には憲法を守りなさいと言って天皇は憲法を守らなくてもいいという規定になっています。102条は前文の「日本国は天皇を戴き」と呼応しているわけです。つまり憲法を軸とする国家の上に天皇を置くということと実質的に同じであると言わざるを得ません。これでは国民主権がどっかに行ってしまうということになるのではなかろうかと思います。

そして「改憲草案」第1章の3条に「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする」とある。「第1章 天皇」のところに「国歌は君が代」と書いた。ということは、国旗国歌法(1999年)が制定をされてから君が代の君とは天皇とされましたが、「第1章 天皇」に君が代を国歌とすると書かれることによってまさに君が代とは天皇の世が千代に八千代に続くということを歌う国歌になるわけです。そしてこの国歌について、日本国民は「尊重しなければならない」となる。

国旗国歌法の下において、今日学校教員は歌うことを事実上余儀なくされています。東京都知事、大阪府知事・市長の悪政の下で東京や大阪の教員は大変な目にあっているわけですが、しかしまだ生徒や一般国民は君が代を歌うことを強制されることはないわけです。ところが、「改憲草案」3条2項で日本国民は国歌を尊重しなければならないと書かれることによって、国旗国歌法はおそらくは改定され、強制力を伴う、罰則を伴う、あるいは行政的な、民事的な制裁を伴うということも可能になってくる。と言うより、それを可能にするために「改憲草案」に書いたということです。

私は、象徴天皇制は言ってみれば国民主権という枠組みの中ではじめて認められたものであって、神格化とは言いませんが天皇を特別の存在として、国民の意思とは離れた、あるいは国家よりも上にある存在として天皇を考えることは、主権在民の考え方からしても、人権保障の考え方からしてもとうてい相容れない考え方だと思います。

どうしてこのようないわば天皇の権威、それから権力の強化というものを図ろうとしているのか。これは自民党の「改憲草案」だけではなく、たちあがれ日本やその他の改憲案にも押しなべて共通に見られることです。

私たちは、かつての戦争の責任はA級戦犯として処刑された人たちだけではなくて、やはり天皇にもあったと思います。ですから、昭和天皇について最高の戦犯として私たち自身の力でもって裁くことが出来なかったということは、現在もなおやはり大きな禍根であると思うところです。その天皇についてまたぞろ一般国民とは違った存在として位置づけるというこの背景にあるのはいったい何であるか。正直なところ私はよくわからない。

天皇制を信奉する人たちは、日本を一つの国家として一体的なものとしていくためには、結局天皇以外にいないんだという考え方がやはりどこかにあって、その気持ちを天皇の元首化や、確かに自民党の「改憲草案」でも天皇の神格化とは言いませんが、その点で明治憲法とまったく同じとは言わないにしても、ある種の天皇を特別視する考え方があります。天皇を特別視するということは、やはり国民の間に差別構造を認めることに繋がるわけです。かつて住井すゑさんが天皇制は差別構造の根源だと言っておられましたが、そういうことだろうと思います。

この間、元沖縄県知事の太田昌秀さんの話を聞きました。太田さんは、沖縄は日本国憲法が定める民主主義の名の下にずっーと差別されてきた。本土復帰が果たしてほんとうに良かったのかどうかという問いかけが、今あらためて沖縄の地においてなされている。『琉球独立への道』(松島泰勝)がけっこう沖縄の人たちに読まれている。太田さんは、復帰して良かったのかどうかという問いかけに対して「自分の口からは何とも言えない」、沖縄は琉球として日本から独立すべきかどうかという鋭い問いかけに対しても太田さんは「答えることは留保する」と言われた。私は大変重い大田さんの言葉だと思った。私は、太田さんは当然日本国憲法の下で差別を解消していくということをおっしゃると思っていたんですが、そうは言われなかった。それほどに戦後、そして復帰40年という長い年月の間沖縄は、米軍基地のもとで差別されてきた構造が今日まで変っていない状況であるわけです。ところが私たちは、そうした沖縄を差別し続けていることについて十分な自覚なり認識がないわけです。それで一方、天皇を上に戴くという国家にするという。こういう国家のあり様を、自民党の「改憲草案」はさらにより強固にし、憲法典にそれを明記しようとしているのです。

9条改憲問題

日本国憲法が一番大切にするのが命ということです。日本憲法前文には、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と謳われています。人として生きる権利が謳われている。日本国憲法13条では、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が書いてある。25条は「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」と「生活」という言葉なっていますが、英文では「Life」で、Lifeは、生命、生きる、生活するという意味です。Lifeが日本国憲法のいわば基調になっているわけです。明治憲法には命のこと、生存のことは一切書いてなかった。日本国憲法は3カ所で生きることへの権利、生命の権利ということを謳っています。

とりわけ前文の平和的生存権は、アジア太平洋戦争でまさに天皇のために命を投げ出せと言われ日本だけでも300万人以上、アジアの2000万人の人々の命が奪われたということを踏まえて謳われている。そして命を奪う戦争をやめよう、一人ひとりが命を大切にするような生活、そうした日本を造ろうということで日本国憲法は作られました。だから一切の戦争はしないという戦争放棄、そして戦争するための手段としての戦力は一切持たないという戦力不保持の規定を作った。ですから私は、憲法9条は命の権利であり、平和的生存権を守るために9条がある、憲法9条の根底には命の尊重があると考えてきました。そう訴えてきました。ところが自民党の「改憲草案」では、それが根底から覆されようとしているわけです。

現行憲法の前文は全文削除され、書き換えられていますが、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という平和的生存権は条文からスッポと消えて無くなっています。その代わりに「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」という形で国を自ら守るんだという規定に変えられてしまっています。これは「改憲草案」第2章の安全保障のところ、言ってみれば軍事条項とあわせてみるなら、法律をもって徴兵制を導入することも可能であることを根拠付ける規定になっていると思うわけです。

「改憲草案」第2章は、現行憲法では「戦争の放棄」ですが、「安全保障」と変えられ、9条第1項は現行憲法9条の第1項と基本的な違いはありませんが、第2項で「自衛権の発動を妨げるものではない」と書いています。これは自衛権という言葉を書くことによって個別的自衛権のみならず集団的自衛権も可能とするものです。

9条の二では、国防軍に関する規定を設けることによって軍隊を憲法上認知するものです。2005年新憲法草案では自衛軍となっていましたが、国防軍と名前を変えています。少なくとも国防軍という表現で国家を守るための軍隊ということが前面に出されてくることになってきます。

緊急事態条項の新設

もう一つ安全保障との絡みで言うなら、「改憲草案」の第9章に「緊急事態」という規定がおかれました。第9章98条に「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律で定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる」となっています。緊急事態宣言をすることによって、その効果としては99条で「何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他の公の機関の指示に従わなくてはならない」とされます。憲法の人権規定は最大限尊重されなくてはならないが、しかしながら制限されることがあり得るということになる。そしてそのような緊急事態においては、国防軍が出動するという仕組みになっているわけです。

東日本大震災をきっかけとして、日本国憲法には緊急事態に対する条項がないので憲法を改正すべきだという議論が昨年来声高に主張されるようになりました。じつは2005年の自民党の新憲法草案には緊急事態条項はなかった。今回あらためて1つの章(第9章)を設けて緊急事態の条項が設けられたのです。

東日本大震災に対する対応の遅れや適切な対応の欠如などは、現行の憲法に欠陥があったからというわけではありません。今の憲法で本来ならもっと適切、迅速に対応しようとすればできたものです。それをしなかったのは政府や官僚であり、憲法に欠陥があったわけではない。震災後の復旧復興についても、復旧復興とは関係ないところにおカネを使うなどということをやっているから遅れている。憲法に緊急事態条項がないから復旧復興が遅れたとか被害が大きくなったということではない。もちろん福島原発事故の問題は憲法とは関係ありません。

憲法と関係ないと言うより、むしろ憲法9条に関して言うならば、憲法9条は一切の戦力を保持しないと書いていますが、この戦力とは英語では「War Potential」という言葉になります。潜在的な戦力をも保持しないというのが、じつは9条2項の戦力不保持の規定です。そういう意味においては、プルトニウムはまさにWar Potentialであると考えれば、原発は憲法違反になるのではないかという議論も十分に成り立ちうるわけです。私自身そのことを早い段階から言うべきであったにもかかわらず、残念ながら今回の福島原発事故が起きるまで明示的には言ってこなかったことは反省しなければならない点ですが、本来なら憲法を生かす形でのエネルギー政策ということであれば原発はあってはいけないという政策をとるべきであったと思います。

福島原発事故はもちろん憲法とは関係のない大震災を口実にした緊急事態の条項の新設は、災害便乗型の改憲論だと言わざるを得ないものです。

人権保障の問題

憲法の一番の、究極の核心は人権の保障です。そして人権保障の核心にあるのは先述したように命です。ですから生命の尊厳ということを大切にする社会、国家をつくるべきだというのが憲法の基本であると思います。しかし残念ながら人権保障についても、自民党の「改憲草案」は日本国憲法の人権保障をなし崩し的に形骸化するものになっています。

 第3章「国民の権利及び義務」の12条と13条が人権に関する総論的な規定になっていますが、「改憲草案」は、憲法が保障するところの自由と権利について「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と書いています。日本国憲法では、「公共の福祉に反しない限り」とか、「公共の福祉のためにこの人権を利用する責任を負う」と「公共の福祉」という言葉になっています。「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変ることによって、いったい何が変るのか。

公共の福祉という言葉は確かに曖昧ではあった。従って、この曖昧さ除去するために戦後多くの人たちは人権闘争を闘い、裁判闘争を行った。それに呼応して憲法研究者も議論した。そして公共の福祉とは、基本的には人権を保障するための公共の福祉であって、人権と人権がぶつかったときの相互の調整原理として基本的に使われるものである。ただし、22条(居住、移転及び職業選択の自由)と29条(財産権)の場合の公共の福祉は、もう少し積極的な意味が含まれるものであると理解してきた。

ところが自民党の「改憲草案」の「公益及び公の秩序」という言葉は、人権相互の調整原理とは違った意味合いで使われる。いわば個人的な人権という価値とは違ったところに公の利益や公の秩序を置くことによって、結局のところは人権を制限することができると規定しているのです。こういう考え方で「改憲草案」の人権規定は貫かれています。

一時新しい人権を保障するために憲法改正が必要だという意見が国民の間で強まった時期がありました。若手の憲法研究者の中でも知る権利やプライバシー権や環境権など新しい権利を憲法に書くという改憲論ならばいいのではないかという意見も強くありました。私は、新しい人権を隠れ蓑にして大本の根底が揺るがされてしまっては元も子もないということで、新しい人権のための改憲論には注意しないと言ってきたところですが、今回の自民党「改憲草案」が一つの目玉としているのは、「新しい人権」の導入だろうと思います。例えば「改憲草案」19条2では個人情報の保護、21条の2では国の説明責任ということが書かれ、25条の2では環境保全の責務、25条の4では犯罪被害者への配慮ということが書かれています。

しかし注意すべきは、これらは知る権利という言葉ではないし、プライバシー権という言葉でもないし、環境権でもないし、犯罪被害者の人権でもない。いずれも人権としては書かれていません。だから自民党の「改憲草案」はまともに新しい人権を導入しようという気持ちはさらさらないのです。のみならず日本国憲法の下で保障されてきた諸々の人権については、新たな制約を規定しています。

「信教の自由」について20条の3項に新しい条文が付け加わって、政教分離原則について但し書きが加えられた。「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」と。ですからこれによって靖国神社への公式参拝などが合憲とされるわけです。

さらに言えば「表現の自由」を規定した21条では、表現の自由は一方で保障するが、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」とはっきり表現活動の禁止を謳っているわけです。日本国憲法の21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と断定的に表現の自由の絶対的な保障を謳っています。

あらためて指摘するまでもなく表現の自由は、民主的な社会の基礎をなすものです。民主政治の根幹を成すのが選挙権の行使であると同時に表現の自由です。自由な表現活動がなければ民主的な社会はないし、そこに自由は存在しないと言っても過言ではない。戦前の治安維持法に代表されるような悪法の下の、暗い、自由のない社会というものからいわば決別するものとして21条の表現の自由が絶対的な形でもって保障されているわけです。もちろん表現の自由もいわゆる内在的な制約がありますし、あるいはプライバシーや名誉との関係で一定の調整というものが必要になることは間違いありませんが、公権力との関係においては絶対的に保障されなくてはなりません。それが「公益及び公の秩序」を理由として制限することが可能とされてくるわけです。ここに自民党の人権保障についての発想の典型が示されていると言えます。

憲法改正条項の改正

憲法改正は、日本国憲法では「各議院の総議員の3分2以上の賛成」で国会が発議して、国民投票に附するとなっていますが、自民党「改憲草案」(第10章の100条)では「衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員数の過半数の賛成で国会が議決し」国民投票は「有効投票の過半数の賛成」で決めるとなっています。

従来日本国憲法96条による改正のハードルは非常に厳しいと言われてきました。厳しいことは確かにそうです。しかしそのくらい厳しくしなかったならば、自民党政権の下で日本国憲法はとっくの昔に改悪されていたかも知れないということを考えると、この厳しさがあってよかったと思います。また日本国憲法が諸外国の憲法に比して飛びぬけて、格段に厳しいというわけではありません。アメリカの憲法は、連邦議会上下両院の3分の2の多数で改正案が可決された上で、アメリカは連邦制をとっていることに基くわけですが全州の4分の3の賛成がなければ憲法改正はできません。アメリカの憲法改正手続きは日本国憲法よりはるかに厳しいものです。

日本国憲法の改正手続き規定の厳しさは、公権力の担い手がややもすればくるくると憲法を変えて、明治憲法への回帰的な改憲を提案するということを考えれば、このくらいの厳しさがあって当然だろうと思います。しかもこれは憲法の大本である人権を確保していく上で、人権は侵害してはならないという考え方からすれば、このくらいの厳しさは当然です。これが国会の過半数で、国民投票も有効投票の過半数で、となったならば一瀉千里で改憲がずっと行われていくことになろうと思うわけです。

3.石原慎太郎の「憲法破棄」論など

維新の会

維新の会については、自民党との対比で言うと首相公選論を言っている点と一院制を視野に入れているということが「維新八策」の特徴になっています。
首相公選論は、国民が直接に最高の権力者を選ぶのだからいいじゃないかという意見が国民の間にもなくはないわけですが、憲法調査会が2000年に出来たときに、憲法調査会でも首相公選論が出されました。そこで憲法調査会がイスラエルに調査に行ったところ、ろくなことはない、やめときなさいと言われました。イスラエルは1990年代に首相公選を実施したのですが、それこそ議会との対立で決められない政治というのが続いて、結局10年足らずで首相公選はやめてしまいました。それを憲法調査会がイスラエルに行って聞いてきたので首相公選論は自民党も言わなくなっていた。2005年の新憲法草案でも今回の「改憲草案」でも首相公選制は書いていません。ところが維新八策では首相公選論が書かれているわけです。私は、首相公選制は決められない政治になるか、そうでなかったならば一種のポピュリズム政治になるのではないかと思います。橋下氏は、後者の道を考えて首相公選制を言っているのかも知れません。

しかし、さすがの橋下氏も大統領制とは言わない、天皇の存在があるから。首相公選制の下で、これもほんとうに大衆迎合的だと思いますが、議会を一院制にして衆院の議員数を240人にすると言っています。また「日本再生のためのグレートリセット」(「維新八策」最終案)を見ると、首相は1年のうち100日くらい外国に行けるようにするなどというどうでもいいようなことが書いてある。議員240人の一院制にして、首相は公選制にする。首相が全てを決めるということにならざるを得ない。完全に議会をないがしろにするわけです。完全にポピュリズム政治になってしまう。日本は小泉政権で、劇場型政治なるものを経験しましたが、その復活と言うか、再生を維新八策は狙っているのではなかろうかと思います。

石原慎太郎の「憲法破棄論」

石原慎太郎は言うまでもなく核武装論者です。徴兵制論者です。中国に対してはシナ発言だけではなく様々な差別的発言をしてきています。女性、外国人差別の発言もしてきた人物です。東日本大震災に際しては、あれは天罰だと言った。そういう発言を繰り返す石原慎太郎の感覚をほんとうに信ずることができません。彼を支持するという人たちの信条にも納得がいきません。彼が、なぜかくも長きにわたって都知事をやってきたのか、都民にも大きな責任があるのだろと思います。そして石原慎太郎は今いわゆる第3極のキャップとして国政で動き出しているのです。
その石原慎太郎は、日本国憲法を破棄すると公言しています。憲法破棄とはどういうことを意味しているのか、彼はいったいどこまでわかった上で憲法破棄と言っているのか…。

憲法学で憲法の破棄という言葉を使うときは、カール・シュミット(ドイツの学者)が使った言葉が一般的ですが、これとは違った意味で、とにかく今の憲法は効力がないものにしようというのが石原慎太郎の考え方です。この前提には、日本国憲法は押し付け憲法だという考え方がありますが、押し付け憲法論は有効な根拠がなく、成り立たないことはすでに明らかです。1956年に内閣の下で発足した憲法調査会が1961年に出した「憲法の制定過程に関する報告書」で押し付け憲法と言うことは出来ないとはっきり言っています。

1948年の時点でGHQマッカーサー司令部は、憲法が出来た後で、もし日本国民あるいは国会が望むならば自分たちで新しい憲法を作ってもいい、この憲法についてあらためて調査して結構ですということを吉田茂首相に言っています。そして吉田首相は、その必要はない、この憲法でいくということをマッカーサー司令部に答えているわけです。

もちろん1955年から56年にかけては、鳩山内閣が改憲を争点に総選挙を実施しました。しかし国民によって否定され現行の憲法がそのまま存続をしてきているのです。その憲法の下で石原慎太郎は国会議員になり、都知事になり、大臣にもなったわけです。そして先日退職金もなんと1億5千万円もらっているのです。今度は今の憲法の下で作られた選挙制度の下で比例代表に立候補しようとしています。石原慎太郎は今の憲法の恩恵を受けてきているのです。しかし彼は、憲法破棄を主張します。

結局どういうことをするのか。石原慎太郎がこれまで言ってきたことからすると、国会で憲法破棄の宣言をするということなんだと思います。しかし96条が改正手続きに関する規程を設けているわけですから、96条の改正手続きを踏まないで国会が決議をしたからといってその決議が有効になることはない。国会決議は法的拘束力でいうと法律よりも下位です。国会決議は法律ではありませんと、政府はこれまで繰り返し言ってきました。だから、憲法はもちろん法律よりも下位の国会決議によって憲法が覆される、その効力が否認されるという発想は、クーデーター以外の何ものでもない。そんなクーデーターを日本国憲法下で主張すること自体が、法律論的にはまったくナンセンスな議論であるわけです。それを石原慎太郎は恥ずかしげもなく堂々と言って憚らないのです。そういう人物を「第3極のボスです」(橋下)と奉るというのですから、とうてい支持することはできないのではなかろうかと思うところです。憲法廃棄などというメチャクチャな議論をする人たちが第3極という名の下に出てきている状況について、私たちはなんとしても阻止しなければいけない。今度の総選挙はその意味では非常に大きな意味をもっている。その後にあるかも知れない憲法改正の国民投票は非常に重大な意味を持つだろうと思います。

国会周辺では今日も若い人たちが中心に脱原発の声を上げていますが、核も沖縄も9条も根っこは同じで、命を大切にする政治を持つかどうかということだろうと思います。幅広い草の根の運動を広げていって、命をムダにする、命を軽視する改憲の動きを阻止していかなければいけないと思うわけです。

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第73回市民憲法講座(要約)危ない!秘密保全法~私たちの人権はどうなるのか

田島泰彦さん(上智大学文学部新聞学科教授)    

(編集部註)10月22日の講座で田島泰彦さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。

国家秘密法は1980年代の半ば、中曽根政権のときです。それから数十年たって、かつての国家秘密法の問題は今回の問題にも非常に深く関わっているんですね。もちろん同じものの再来ではないですが、そのあたりのことも含めて今日わたしが知り得ている範囲でお話をさせていただければと思います。

民主党が用意しようとしている秘密保全法制の枠組みは、民主党政権が有識者会議をつくってそこが準備した「秘密保全のための法制の在り方について」という報告書にまとめられています。ネットでも検索できます。40数ページのものですが、これを6ページくらいにした「概要」があります。これを資料として用意しました。これを読めばだいたいの概要がわかると思います。

秘密保全法制の問題は、われわれの社会の在り方も含めて非常に大きい問題があります。しかしこの問題だけが単独でどうこうということではないことを、よく認識した方がいいというのが私の意見です。すなわち秘密保全法制は大きな関わりでいうと、この国のわれわれの社会の情報を、一体どうしていくのかに非常に深く関わるものです。権力の側からすると、そういう情報をいかにして統制しコントロールするかという非常に大きな枠組みの中での提案であり、企てだということが私の認識です。

そういう観点からいうとこの間の情報の統制、コントロール、それは権力の側からいうと、お上の観点からこの国の情報を、どうやって掌握し統制しコントロールするかという線です。それに対してわれわれの側からすると、お上が勝手に大事な情報、出すべき情報を出さなかったり、逆にお上がわれわれが手放してはいけないような情報を広く収集して結びつけて、統治のために都合がいいということで、その情報を過剰に利用されたら困ってしまうわけです。そういう情報の統制とかコントロールという大きな流れの中に秘密保全法制も位置づけられると私は考えています。それは例えば、一番端的には共通番号制という提案がもうすでに国会にも出ていて、恐らく優先順位が非常に高いので、臨時国会がどんなかたちになるのかわかりませんけれども、臨時国会で通る可能性はかなり高いんじゃないかと思います。秘密保全法制もいずれ出てくるのは必至になると思います。

共通番号制と秘密保全法制を結びつけるもの

共通番号制と秘密保全法制とはどこでつながっているか。もちろん局面は違います。けれども根源のところで、お上の立場からこの国の情報を統制し、コントロールするという点でつながっているんですね。秘密保全法制は、本来国民が知ってしかるべき大事な国の安全であるとか公共の安全・秩序に関する情報を隠して、国民に出さない。はっきりいうとそういう提案です。

それに対して共通番号制という提案は国民に番号をつける。すでに住基ネットでついているんですが、住基ネットの情報は、名前とか住所とか生年月日とか男女の別とか、かなり基本的な情報なんですね。この基本的な情報も極めて大事な情報ですが、さしあたりはそういう情報であって、そういう情報を番号つきで一元的にコンピュータで管理するという枠組みです。それ自体はかなり巨大な、全国民のデータベースです。そこをもとにして、いろいろな情報を結びつけられる可能性を秘めた、そういう提案です。もうすでにそれはできちゃっているわけです。

今回の共通番号制というのは、さらにそれを踏まえてより具体的に税と社会保障に関連する重要な情報、将来的には医療の情報も含めてですが、そういう膨大な情報について国民に番号を付ける。さらに住基ネットの情報をプラスして、それぞれの膨大な情報を結びつけてさまざまな施策――特に税とか社会保障、場合によっては警察も共通番号を利用できるんですが、そういうあらたな巨大な枠組みをさらに進めるという提案です。

われわれが持っているさまざまな情報が結びつけられて照合されてデータマッチングされたら、われわれは何であるかということが顔を見なくてもわかってしまう。誰がわかるか。国がわかるわけです。われわれがそれに対して嫌だという、自己情報コントロール権といわれる大事な権利の本質的な部分は無視して、勝手に国がやってしまうという話ですね。

その意味では一方で大事な情報を国民に出さない。本来国民がコントロールしなければいけない情報を、勝手に収集して結びつけて利用して丸裸にして好き放題をやる。そういう意味で、ある種の情報のコントロール、統制のふたつの面なんですね。だから現れ方は別なかたちですが、根源のところはつながっているということです。その意味では共通番号制と秘密保全法制というのは関係ない話ではなくて、根っこでつながっている提案であるということになると思います。

民主党政権による新たな表現規制つぎつぎ

そういう情報の統制・コントロールというのは、さらに表現を巡る規制のもう少し広い文脈の中でも展開をされていきます。民主党政権のもとでの表現を巡る規制については資料で示しました。表現やメディアを巡る規制というのは、実は自公政権の時点でかなり深いかたちで展開をされていたんですね。1990年代の終わり、われわれの認識でいうと1999年国会、すなわち戦後の国民の意見対立がかなりシビアな大きな問題としていくつかあったんです。国旗国歌法や盗聴法といわれた通信傍受法の提案、それから実は住基ネット改正もそのときでしたが、そういう論争的な問題を一気に力でねじ伏せた。そのときの国会は、通常国会を夏休みのちょっと前くらいまでのばして一気に通しちゃったわけです。

 そのあたりからいろいろな問題が起こる中で、いわゆるメディア規制三点セットとかメディア規制三法といわれる提案が目白押しで出されてくる。
そしてさらに2001年の9.11ですね。それは軍事的な面を中心にしてさらに進む。自民党を中心にした政権の中で、表現やメディアに対するかなり深刻な大がかりな規制が進行していく。その中には憲法改正という問題も含まれていて、基本的には9条の平和主義の問題ということは当然です。しかし私は以前から憲法改正は9条改正だけじゃないよ、表現の自由に関わる21条改正でもあるよ、と言ってきたんですね。そういう憲法改正の次元も含めた表現規制が広く展開されていきます。

 その中心は、個人情報保護法とか人権擁護法案などの一連の提案だったんです。そのときに民主党は、そういう規制に対して煮え切れていたかどうかは別として、賛成ではなかった。かなり明確に賛成ではなかった。自民党や公明党が進める規制に対して、批判的なスタンスを持っていたことは事実です。自らの提案も示していますが、自公とはかなり違う提案を提示していました。そういう中で2009年の政権交代がありました。

ところが政権交代をした途端、民主党政権はそういうスタンスをかなり早い段階から転換していくことに、最終的にはなるわけです。ある部分ジャーナリズムとか表現の自由をそれなりに踏まえた提起という、その観点から見たら自公のやり方は乱暴だということが民主党のスタンスでした。規制を全部やめるという提案ではなかったんですが、でもある程度マイルドなスタンスをいろいろな場面で取っていた。個人情報保護法も反対だった。最後は腰砕けになりましたけれども。

コンピュータ監視法

でも政権を取ったら民主党は、慎重でマイルドな、それなりに表現の自由を踏まえた対応から、新しい規制に転換していきます。その象徴がコンピュータ監視法というものですね。去年の震災があった日の午前中に閣議を開いて決めた。その日の午後が震災です。あれだけのことがあったら、コンピュータのことも大事かもしれませんけれども、まずはそこでどうするかですよね。そして原発事故があった。このことに全力で立ち向かうのが当たり前だと思うんだけれども、閣議決定通りにさっさと4月に法案が出され、ほとんど国会で議論しないままに通ってしまった。

ひとことで言うと、コンピュータのメールなどの機能に対して、通信事業者に一定期間の通信履歴の保全を要請する。保全要請という制度を法的な枠組みの中に組み込むことをやったわけです。そこまで来ると、先ほどの盗聴法につながるんじゃないかと思われる方もいると思いますが、正にその通りです。盗聴法は電話の領域ですが、それを国家が正当にチェックできるメカニズムがいろいろな論争の果てにではあっても、1999年にできてしまったわけです。ある種の突破口ができた。通信の秘密は侵してはならないということが憲法21条に書いてあるけれども、捜査手法のひとつとして盗聴やむなしということで通っちゃう。

コンピュータというのはそういうメカニズムがオフィシャルにあるわけではないので、そこの世界にも権力が関与できるという仕組みです。履歴だからいいじゃないかという議論もあったんですが、でも履歴というものはとても大事です。誰が誰に対していつ手紙を出したのか、メールを出したのか、ということ自体が大事なプライバシーの一部であるわけです。

実はこのコンピュータ監視法のもとになっているのはヨーロッパを中心にしたサイバー犯罪条約というものなんですけれども、もとのものは履歴だけにとどまっていないんですね。今回は法制化はされていないんだけれども、条約の中には中身そのものも傍受できるという規定が入っています。それがひとつ。もうひとつは履歴というのは過去の話ですよね。誰がどういうかたちで送信したのか受信したのかという話ですが、条約の中にはリアルタイムでチェックできるという枠組みも入っているんですね。この法制化は、いまはされていないです。でも将来はネットの世界も、中身およびリアルタイムでも盗聴をやりたいんだろうなと思います。ネットは比較的自由だといわれているけれども自由ではないし、発信者もたどっていけばわかるんです。今回の遠隔操作の問題は海外のサーバをいくつか経由しているみたいなのですぐにわかるということはないけれども、あれもたどっていけば基本的にはわかるんですね。それでさまざまな形で公権力がそれ以外にも盗聴ができる、傍受ができるということになったら、われわれの通信の自由というものは危ういものになってしまうと思います。

人権擁護委員会設置法

そこから始まって、このあいだ閣議決定された人権擁護委員会設置法案があります。これは以前の人権擁護法案の焼き直しです。民主党版の人権擁護委員会設置法案という提案ですが、かつて民主党が持っていた提案だったらまだ昔の人権擁護法案と違うけれども、変わっているんですね。昔の民主党が対置した提案とは違う。見方によっては自公の人権擁護法案よりもさらにたちが悪い。

新しいかたちの人権救済の仕組みをつくりましょうということです、裁判とは別にね。人権救済のレベルで人権擁護の機関をあらたにつくって、人権救済のための役割を強めましょうという提案です。一見するといいのかなと思う。全部おかしいという議論にはならない。ただ問題なのは行政機関に新しい人権機関をつくるという提案ですが、救済の対象にしているのはあらゆる人権侵害です。みんな入るわけです。前の人権擁護法案の時はもっと限定をした。

一番問題なのは言論とか表現に対する規制です。言論や表現を使った人権侵害についても、人権侵害であれば規制の対象になる。行政機関が、言論やメディアの活動に対してここまではいいけれどもここから先はやっちゃいけない、という規制をやっていいかどうかというのは大問題です。裁判所がチェックするのは最終的にはしょうがない、民主的な社会であれば。行政機関が言論の中身についてここまではいいけれどもここから先はダメですよ、規制しますよということをやったら、やっぱり言論の自由とかジャーナリズムの自由の、本質的な部分が極めて危うくなると思います。

こういう話ですけれども、今回みんな入っちゃっているわけです。メディアだけではない。われわれのさまざまな言論活動で、何か人権侵害に関わると勝手に人権委員会が判断したらチェックをする、こういうことをやっていいんですかということです。確かに人権に対する救済は、裁判だけではなくていろいろな場面でやらなくてはいけないというのはわかるけれども、それを精神的な活動に関わる表現活動とか報道の活動なども全部いいというのは乱暴で、やっぱり表現の規制なんですよね。そういう提案も決定されて法案も提出されていますので、そういうかたちに展開していくだろうと思います。

憲法21条・表現の自由の改正をねらう

秘密保全法制の提案も含めてこういう大きな表現規制の一連の流れが、民主党政権のもとで推進されてきた。そういう中で憲法改正問題も射程に入っている。その射程が決して9条などの安全保障問題だけではないということです。いまわれわれの表現の自由の保障の規定は21条ですよね。これは、実質的には無制限ではないにしても、憲法上は何らかの制限付きの自由ではないわけです。明治憲法は制限付きの自由だった。「法律の範囲内で」という限定が付されていたわけです。21条はそうではない。それはよろしくないということが変えようとしている人たちの意見で、何らかのかたちで制限を付けるものにすべきだということです。

一番やりたいのは21条に条件付きの、「法律の範囲内」というアナクロニズム的なものを復活させたい。でもこれはなかなか難しいので、いままで出たいくつかの改憲案では、基本的には主流ではなかったわけです。これは幾度か自民党も草案の段階では出たり、民主党でも中間報告みたいなものの中では出たりしたんです。制限付きの権利にするなんていったら明治憲法と同じかという議論になるので、最終的には主流ではなくて、むしろ別な仕組みをつくって事実上表現を規制するというやり方なんですね。プライバシーとか個人情報の保護ということを憲法の規定の中に入れるというのは、実はそういう提案です。

これがもっとも有力な提案で、それが何で悪いのって思う人もいるかもしれませんが、プライバシーなんていうのは憲法に書いてないけれども憲法で保護されている、というのが普通の理解です。条文には書いていないけれどもプライバシーが憲法上保護されているというのは、裁判官も含めてそう思っています。あえて取り上げる必要がどこにあるのかということです。憲法調査会の議論を聞いていると、住基ネットとか、国家が乱暴にいろいろなことをやってプライバシーの侵害をしているとか、そういう文脈では全然議論されていない。表現がやりすぎだからけしからん、マスコミの一部はとんでもない、だからプライバシーとか個人情報保護を規定しなければいけないという、規制のための議論です。

憲法とか人権は国家を縛るものであって、市民を縛るものじゃないはずだけれど、実は憲法調査会の議論は圧倒的にそっちの議論しかしていない。そういう議論が主流ですが、今回の自民党――自民党は野党ですから民主党とは違うんですが――の草案はすさまじいですよ。ダイレクトに21条に新しい制限をつける規定を設ける。「公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」というものすごい提案です。僕はこれを見てびっくりして、よくここまでやるなと思ったんです。それにさらに個人情報の保護規定が入り、さらに軍事の規定、国防軍の明記、緊急事態の規定も入れるわけです。

国防軍を明記してさらに緊急事態の規定が入ったら、そのことを理由に表現なんていうのはいくらでも制限できる。現に制限できるという規定も入れています。表現の自由やメディアの自由の本質的な部分は、単に実定法のレベルだけの問題ではなくて憲法改正の射程にも入っている。そういう情報の大がかりな統制、コントロールという一連の中に、秘密保全法の提案も位置づけられていることが大事だと私は思います。

秘密保全法法制化は尖閣映像が契機なのか

秘密保全法に立ち戻って、そもそも何でこんな提案をしているのかということを少し考えておく必要があると思います。今回の経緯からいうと2010年、民主党政権が生まれた次の年です。直接的な契機としては、尖閣沖の中国漁船と海上保安庁の保安船との衝突事件、これがきっかけになったのは間違いないですね。2度にわたって中国漁船と海上保安庁の保安船が衝突した。それについて、海上保安庁の側はずっと撮影をしていた。その映像が、国が認めないままに勝手に流出してしまった。これがきっかけですね。一般的にいわれているのは、それが起こったことで当時の仙谷官房長官が激怒して、秘密保全のための検討を進めなければいけないことになったといわれている。

実際に秘密保全のための検討の会をつくり、その中に有識者会議を設けて、どういう法的な対応をするかを検討することになったのは事実です。だけれども、実ははっきり言うとそうじゃないんです。直接的にはそういう理由であるのは事実です。そして仙谷さんが怒ったというのも、恐らく事実だと思います。というより、仙谷さんに知恵を授けた役人がいたというのが正しいとわたしは思います。しかし、これを機に国の重要な情報の保全をどうするかということになったのかというと、それは全くの間違いです。

これもかなり伝えられていますけれども、自公政権のかなり最後の方に、国の秘密の保全のための検討が進行していました。自公政権下で秘密保全法制の検討が、すでにかなりのレベルで進行していた。2008年4月、政権交代の1年前ですが、「秘密保全法制の在り方に対する検討チーム」というものが、官房副長官を議長にして設置をされる。その中に有識者会議があって、作業グループもつくった。一連の尖閣沖の映像流出を機に、民主党政府がつくった委員会および有識者会議等の枠組みというのは、ほぼこれと重なります。中心になって進めている省庁は、防衛省、そして外務省、警察が全部そろっているんですね。まったく同じです。作業チームも、省庁の上のクラスのメンバーです。公安調査庁も入っています。有識者会議をつくることもまったく同じです。

この検討チームが2009年4月に、すでに作業グループのもとで「秘密保全法制の在り方に関する基本的な考え方について」という文書をまとめています。ただしこのあと途中で途切れます。それは政権交代があったからです。民主党政権下では皆さんに資料として配った「秘密保全のための法制の在り方について」という報告書があります。民主党のもとでつくられた検討の会と有識者会議等がつくった報告書が自公のそれと全く別のものなのか。自公の提案の「秘密保全法制の在り方に関する基本的な考え方について」という文書は、作業チームをつくって全体の検討会も承認したかたちを取っていますが、情報公開で請求したらこのように黒塗りです。中身は見出しと冒頭の1ページは出ていますが、そこからずっと黒塗り状態です。見出しは一部出ていますが中身はわからない。最後は39ページで、ここは丸ごと出ています。「最後に」というところだけ。あとは黒塗りです。

項目と会議に出ているいろいろな資料をたどると、今回の民主党が進めようとした検討会とかなり近いと思います。見出しもかなり重なっているところがあります。でもこれは情報公開しないんです。おそらく、これがちゃんと情報公開されると、今回の有識者会議がまとめた報告書はこれとだいたい同じだろうと思います。だいたい同じだから格好悪いので出さないんだと僕は思うんですね。だってメンバーが同じですから、省庁の。有識者会議のメンバーは違いますが、有識者会議が自ら何かを資料をもとにやるということはない。事務局が用意した枠組みと資料でやるわけで、作業チームのメンバーも同じ。だから同じはずです。

尖閣沖の映像流出があったのは、名目的にはちょうどいい機会だということであって、政権がどうあろうとやりたいことはやるということです。政権交代があったから民主党に継承されるというだけの話であって、権力の中枢はこれはどういう政権であろうとやるということで、今回の提案があります。さらにもうちょっと長い射程で見ると、自公の秘密保全のための枠組みは、これ自体が新しいものだけではないんですね。この間の長い一連の国の秘密をどうするかということを、一貫して再編して強化して拡大していく連綿と続く大きな流れが形成されていって、ある段階でとりまとめられた文書だと思います。

国家秘密法案以来の法制再編に位置づける

具体的にはどういうことかというと、一番今回の流れに続くのは、やっぱり国家秘密法の時の提案だろうという気がします。1985年、86年の提案です。どういう意味で新しい転換の提案だったかというと、従来の大きな枠組みは、公務員法制の枠の中で国家の秘密をどうするかということです。すなわち公務員が知り得た職務上の秘密をどうするのかという、公務員の服務規程の中に位置づけて議論することだったんですね。国民の誰もが、国家の秘密に対してやっちゃいけないこと触れちゃいけないことを、ダイレクトに規制をする構造になっていなかった。

ただ例外はあって、アメリカとの関係ですね。在日米軍の秘密、アメリカから供与された装備品とか、それに関する秘密についてのメカニズムはありました。でもこれはかなり限定をされていました。国内的には公務員の服務規程という、わりと狭い枠の中で規制をすることにとどまった。それじゃよくない、やっぱり国家の秘密というのは国民みんなに義務を課して、大事な秘密をみだりに収集したり漏洩したりどこかに通報したりしてはいけないということを、厳罰をもって処するという、国として当然のことをやらなくてはいけないというのが国家秘密法だったわけです。その意味では新しい、かなり強力な提案であったことは事実です。

ところが国家秘密法は、進めようとした側からいえば残念ながら挫折をしたわけです。ふつう挫折したら人間は当分やらないのが当たり前だと思うけれど、権力を甘く見てはいけないんですね。じゃあどうしようかと考えるわけです。そして絶好のチャンスが訪れた。それが9.11です。これは有事法制全体にとっても絶好の時期だった。小泉さんはあのあとすぐに有事法制をやると言っていた。そして実際にやっちゃったわけです。あの人はとんでもない人ですよね。橋下さんもとんでもないと思うけれども、もっととんでもない。

そういう中で防衛秘密法制ができてしまった。実は国家秘密法の中のある部分、防衛秘密という枠の中で国家秘密法が部分的に移行するという初めての法制の成立です。市民運動をやっている人の中でも、恐らく国家秘密法が挫折したことは頭に残っているから、そのままだと思っている人も多いと思いますが、実はそうじゃないんです。

9.11で、一部新しいレールを引いたんですね。そのときに、民間の防衛産業に従事している人たちも秘密の漏示に規制がかかった。それから、自衛官だけではなくて一般の国家公務員で防衛秘密に関わっている人は、秘密を漏洩してはいけないという規制がかかる。かなり広げた提案で、しかも厳罰です。普通の公務員法制の5倍もの処罰をする。ただ防衛秘密法制というものは、ある意味では部分的であるのは確かです。国家秘密法の提案そのものが入っているわけじゃない。探知収集なんていうのは、防衛秘密法制の中には入っていません。国家秘密法の中には提案があったんですけれども。そこをかなり広げていくことが、次の課題として残っていったわけです。今回の秘密保全法制の系譜というのはそういう問題がある。

日米軍事情報共有の進展で拡大する国家秘密

その後の展開で更に大事なのは、やはり日米関係の文脈です。日本とアメリカの共有される軍事情報について、包括的な保護のメカニズムが2007年の段階でできました。日米軍事情報包括保護協定、一般的にジーソミア(GSOMIA, General Security of Military Information Agreement)といわれる提案です。端的には軍事協力が進展していくと、お互いに情報を提案し合う関係が強くなる。圧倒的にアメリカから日本に行っていることが多いんですが、でも逆もあるんですよね。

日本の科学技術で軍事転用可能なもの、これは将来的には軍事秘密の保護に深く関わるわけですから、そういう提案ももちろんあり得る。いずれにしても軍事同盟の関係が進展して一体化を強めれば強めるほど、提供し合う情報、共有しなければいけない情報は増えていくし、重要性を増していくことになります。そのときに、お互いの国が違うシステムを作っていたら困るという話になります。提供する側が非常に強く保護しているのに、提供される側が不十分な状況じゃ困るでしょう。

例えばアメリカで防諜法、Espionage Act というかなり強力な法律があって、民間人も厳しく処罰されます。そういう枠組みが日本にあるかといえば、いまのままではありません。アメリカから提供されるに際して、アメリカだけで保護されていて日本でダメだったら漏れてしまう。不十分でしょう。だから将来的には違うかたちでやってくださいということも含めた、さまざまな共有された軍事情報の包括的な保護の仕組みを作る必要があるということで、2007年の夏にこの協定が結ばれました。協定だから条約と違って国会承認はいりません。当時メディアはほとんど報じていません。ベタ記事でしか報道していない。全然書いていないところもありましたけれども、極めて大事なことです。

包括的な軍事情報の協定というのは、それができることによって将来法律をちゃんと整備しなさいという、日米間のお互いの約束がされたということです。そのときすでに、国会議員も「秘密保護が必要でしょう、そういう法律をつくるべきだ」という提案が、民間の右翼的な観点からの人たちはしているんですね、まだできていませんが。今回の秘密保全法制でも国会議員がどう関わるのかというのは大きな問題で、いろいろな議論の対象になっていますが、そういうことが新しいファクターとしてその後に展開されています。

国家秘密の再編、強化という大きな文脈の中で、さらに足りないところをどうするのか、さらに必要なものをどうするかということが秘密保全法制の射程として理解されるということです。

ですから孤立的で、分散してどうこうということでは全くないし、尖閣の情報流出がどうこうなどというレベルの話では全くないということです。国家のかなり基本的な部分で今回の提案は用意され、準備されています。そしてこれは政権に関係ないということ。むしろ民主党政権の方がやりやすいかもしれない。とくに新しい文脈としては、ひとつは日米の軍事情報共有というのがかなり大きなファクターの位置にある。そして今回の枠組みは、従来は国家秘密というのは防衛庁、防衛省の話だった。それにプラスアルファで外交です。防衛と外交がせいぜい普通の国家秘密の射程だった。みんなそういうふうに共有していたわけです、役人たちも政治家たちも。

ところがいまちょっと変わってきたのは、国家秘密について警察が対等に主張し、それが通るという、警察の権力の肥大化、拡大の現象が、今回の提案ではかなり大事だと思います。警察の射程範囲というのは、今回の原発だってある部分は公共の秩序と安全の維持のマターに関わります。原子力というのは、もちろんほかの省庁にも関わるけれど、治安維持という観点からいうと警察マターなんですね。それもあって、単に防衛とか外交で国家秘密をほぼ掌握するという話ではなくて、警察がそこに大きな担い手として入ってくる。このことはかなり大事ではないかと私は考えています。逆に言うと、外務省とか防衛省の役人からしたら、何で警察がそんなに対等にやるんだというということです。でも自公政権のときにつくった委員会で、警察は対等にメンバーに入っています。

新しい法律――何が提案されているか

提案されていることは、国の秘密のうち、大事な秘密を特別秘密というカテゴリーのもとに、その秘密を漏洩したり取得したりするという行為、さらには漏洩することを働きかけるような行為を、厳罰の対象にしましょうということです。国の特別秘密と称する秘密のうち、防衛秘密法制が自衛隊法の改正というかたちを取ってすでにできています。それも今回一緒に取り組んで、国の重要な秘密のうちの、特別秘密の漏洩等を包括的に規制し、厳罰で処罰するあらたな単一の枠組みを法律でつくりましょう、という提案であるといっていいと思います。

具体的には、特別秘密というのは、まず国の安全に関する情報ですね。それから外交に関する情報、そして公共の安全および秩序の維持に関する情報、これを特別秘密というカテゴリーに定めて、最終的には行政機関がそれを決める。行政機関の責任者、ふつうは省庁の大臣になると思うんですが、そこが決める。でもこれは防衛秘密法制のときとやや違うところがあって、国の安全というくくり方は防衛に関する秘密と同じじゃないんです。防衛に関する秘密というのは、ある意味ではまだ限定的です。国の安全といったら防衛だけに限定される保証は全然ない。防衛秘密よりもうちょっと枠を超えている。しかも抽象度が高いし、射程も広い。

さらに外交に関する情報ですけれども、いま大事な情報で外交に関係しないものがあるかといえば、はっきり言ってないですよね。外交自体が広いわけです。さらに加えて、公共の安全および秩序の維持に関する情報といったら何か、こんなものはある意味でみんな入るという可能性は大いにある。もちろん原発に関する情報なんていうのは真っ先に入る。ですから、国の秘密のうち重要なものを特別秘密と限定するなんていう言い方をしているけれども、それ自体が非常に広範な秘密であって、ひとつのカテゴリーでも防衛秘密よりもっと広いわけですから、みんな入ります。しかも行政機関が決めればそれで秘密になってしまいます。

対象になる人たちはどういう人か。国家公務員は当然ですね。それから独立行政法人の職員、これもそういう秘密に関われば対象になる。公共の安全および秩序の維持ということでは、警察官が真っ先に入る。警察官をはじめとする地方公務員も射程に入ります。これは報告書で言っています。さらに国とか独立行政法人がほかの民間企業に委託した場合、そこから生ずる秘密は当然対象になるわけですから、民間企業の従業員も規制の対象になります。大学が業務委託することもあり得る。実際に理工系を中心にいっぱいやっていて、そういう研究者も対象になる。核になるのは国家公務員ですけれども膨大な層の人たちがダイレクトな規制対象になります。

処罰については懲役5年から一番厳しい人で10年です。恐らく10年になるだろうといわれています。これは在日米軍の機密とかMSA秘密保護法で、アメリカから供与された装備品に関する秘密の射程と同じです。極めて重い処罰となります。さらに適正評価制度が導入されます。さらには国会や裁判所にも秘密保全を求めることが報告書の提案です。

法制化には理由があるのか

そもそも法制化に理由があるのかということについて、一言いっておきたいと思います。そもそも政府は、尖閣映像の流出はとんでもない、こんなことをやっているから秘密が保護されない、だからちゃんと調べて新しい仕組みを作りましょうという言い分です。でも出発点からして、尖閣映像の流出は秘密として保護しなければいけないものかどうか、ですよね。むしろ逆ですよ。民主党政府は一貫して秘密だとして公開しなかった。一部の国会議員は、短いバージョンの映像を見る機会はあった。われわれは、テレビ等の報道あるいはネットで検索して見られましたが、あれが何で秘密なのか。むしろ衝突の場面がどういうものかをわれわれが正当に判断する素材のひとつですよね。

もちろん、あれがすべてなのかということは気をつけなければいけません。あれは全部ではなく、もっと長いものがあり、操作をされる危険性はあるわけです。あれがすべてかということはよく考えなくてはいけないとは思います。だからといって秘密として保護すべきものだなんていうのは、到底あり得ない。やはり知る権利の対象として公開してしかるべきものであって、今回の法制化の出発点自体が正当化できないということです。

つぎに報告書では、現在の秘密保護法制は不十分だからあらたな枠組みをつくらなくちゃいけないという立場ですが、はっきり言うと国家秘密を保護する枠組みというのは、先ほどからいってきたように着々とやってきています。

米軍関係の秘密の仕組みや、固有の自衛隊の秘密の保護はある。固有の秘密というのは、自衛官が職務上知り得た秘密だけではなくて、防衛秘密法制という一回り大きめの秘密の枠もさらに備わっている。むしろやり過ぎじゃないかというのが私の意見です。とくに防衛秘密法制なんて、秘密の闇に防衛秘密を隠すもの以外のなにものでもない。むしろ知る権利とか情報公開の観点からいったら改正しなくてはいけないたまもの、あるいはやめさせるべきものであって、仕組みが不十分だからということは到底理由にならないし、ジーソミアというアメリカとの軍事情報の共有もすでにあるわけです。

3つ目は、そもそも民主党政権は情報公開を徹底させることをひとつの旗印にして生まれた政権なんですから、まったく矛盾しています。現に情報公開法の改正法案が、国会の内閣委員会にかかっているんですが、1回も審議されない。あれはそんなに悪い法律ではないんです。知る権利を入れるべきだとか、限定の枠をもうちょっと少なくすべきだということで、改善であるのは確かです。徹底し切れていない部分はありますが。でも秘密保全法制は、情報公開法の本質をゆがめるような提案です。到底、情報公開の理念と両立しがたい法律です。そういう意味では、説得的な法制化の理由がありません。逆に、とんでもない弊害がさまざまな形で生じうるということです。

市民への影響は――知る権利を強く狭める

市民にとっての影響というのは、最終的には国の情報に対する自分達の権利がどういうかたちで充足されるのか、あるいは充足されていないのか、というところが一番問題だと思います。メディアのさまざまな取材とか報道は、基本的には彼らのものではなくてわれわれのものなんですね。われわれが判断するものを提供するということです。ですからそこのところで規制がされれば、彼らのものというよりわれわれの知る権利が、狭められたり抑圧されたり侵害されたりするということです。そういう観点から見たときにどうなのかということですね。それを少し見てみたいと思います。

第一は、提案されているものは、われわれ市民の知る権利の侵害、さらには情報公開を形骸化しかねない代物です。この点は先ほど具体的な問題点で触れたところです。あいまい広範な国の秘密の概念、さらに外交がすべて射程に収まる。基本的には農作物の問題だってみんな外交問題ですからね。そして公共の安全・秩序の維持まで広げられたら、大事な国の情報というのは、全部この射程に収められると言っても過言ではない。

具体的にはどういうかたちを取るかというと、やり方は防衛秘密法制の時の枠組みですね。国の法律の中で、防衛に関する秘密とは何かということを別表で列記するわけです。防衛秘密の場合は1から10まで並んでいます。たとえばそのうちの1では、「自衛隊の運用又はこれに関する見積もり若しくは計画若しくは研究」となっています。1号だけで、もう防衛に関するかなりの部分が出ちゃっています。1号だけでも足りているくらいです。それが10並んでいるんですよ。そうすると、事項としては自衛隊についての秘密はほぼカバーされている。すべてカバーされている中で、防衛大臣がこれこれの事項の中でこういう秘密を特別秘密とします、と指定をする構造になるわけです。

ほかの領域もみんなそうです。今回の場合は、防衛よりもっと広く「国の安全」となっています。国の安全とはどういう事項が入るのかということは、恐らく10号じゃ足らない可能性もあります。外交についてもいろいろとあると思います。それから公共の安全と秩序の維持なんていったら、収拾がつかないくらいたくさんの事項としてある。膨大に、すべて細大漏らさず対象になるようなことを掲げておいて、その中で行政機関が任意でこれは特別秘密として指定しますというかたちがとられることになります。

なにが問題かというと、行政機関が決めたことに対して適正かどうかとか、これはやり過ぎだとか、こんなのは国の秘密でも何でもなく、省庁の利害以外のなにものでもないとか、そこをチェックするメカニズムはなにもないということです。要するに行政機関の責任者が、これは秘密だと思えばみんな秘密になる。限定するメカニズムは一切なし。こんなにやりやすいことはないという話ですよね。それがほかの領域でも全部広げられるということです。

情報公開法がちゃんとあるから、なんていうことも報告書の中でいっていますが、とんでもない話です。国の情報について、秘密保全法の対象として厳罰を科すことを飛び越えて情報を出しますよ、なんていうことをいうはずがないし、論理的にもあり得ない。こういう広範な国家秘密が、行政機関の一方的な裁量で指定されて決められたら、情報公開法はその枠の中でしか機能しないわけです。それを押しのけて、飛び越えてやるなんていうことはあり得ない。国の大事な情報を洩らしたら処罰するということが先行するのが当たり前であって、情報公開法が飛び越すなんていうのは論理的にもあり得ない、両立しがたいということです。これは正に市民の知る権利を、極めて強く狭めることになる以外のなにものでもありません。

取材、調査の自由へも深刻な影響

取材の自由とか、さまざまな市民団体等の調査の自由に対しても、深刻な影響を及ぼすということが2番目の問題です。
メディアがいいかどうかという問題はありますよね。しかし、全部が全部ダメということでもなくて、中にはいいのもある。全然ダメだというものもある。報道の自由ということですけれども、報道の自由が意味をなすのは、ある大事な情報を入手し得ていて、すなわち伝えるに値する情報が確保できていて、初めて意味のある報道の自由が成立するわけです。では報道の自由が担保できるメカニズムとは何かといえば、取材の自由なんですね。取材の自由がきちんと確保されて、初めて報道に値する自由の意味があるということです。大事なのは取材の自由があって初めて報道の自由があるということです。

今回の提案では、この取材の自由に対して本質的な規制的な枠組みがいくつか用意されています。ひとつは、取材の自由が意味をなすためには、情報源と回路がつながっているということがありますが、国家の秘密は誰が持っているかというと、やっぱり役人です。役人が内部告発ということもあり得ますし、いろいろなかたちでメディアが取材をして役人から得た情報も含めて伝える。

では役人は情報を出すでしょうか。厳罰に処される可能性がある役人が。要するに情報源が枯渇してしまって、取材の自由が意味がなくなったときには、報道の自由というのはまったく意味がない。広範な秘密が設定されていて、厳罰が科されるわけです。その担い手である人たちが情報を出すかといったら、いまでさえあまり出さないのにこれ以上出ることはあり得ないですよね。この法律自体で情報源、取材源の萎縮が進む、取材が困難になるということです。

漏洩に対する教唆・扇動も規制対象

もうひとつダイレクトな規制は、漏洩に対して、教唆とか扇動なども処罰の対象になります。メディアの取材活動がある意味で教唆、扇動とレッテルを貼られて処罰の対象にじゅうぶんになり得るわけです。同じく厳罰を科されることによってダイレクトな取材行為に対する規制が法定化されることになる。さらにそれだけじゃなくて、特定取得行為という、探知収集の一類型、つまり国家秘密法がやろうとしたことの一部ですが、探ること自体について、秘密を保全するには漏洩だけではダメだ、取得する段階でも規制をかけなくてはいけないという類型が設けられている。

端的に言えば、だますようなことで情報を入手したり窃盗的な、盗み出すようなかたちで情報を入手したりすることです。まともなジャーナリストというのは、盗みはしちゃいけないけれども、本当に大事なこと、国家の犯罪に関わることとか国民に隠すようなことなどを国民に伝えることは、正面からいったら隠すわけですから、そういうことをやってもいいんですよね、ある意味では。個人的に、もうけのためにとかでやっちゃダメですけれども。でもそういうことをやると特定取得行為であって、厳罰に処するということになるわけです。沖縄の密約事件の西山さんの例もそうですが、男女関係の中で情報を入手する。もちろんよくないですよ、男女関係を利用してというのは。でもそれがいいか悪いかというのは倫理的な話であって、刑罰の対象にすべきではないんです。でも最高裁は、取材方法が正当な取材の範囲を超えるからけしからんとして正当化したわけです。

単に違法だからダメだということだけではなくて、不当な活動も規制の対象にすると報告書もいっています。最高裁もそういう判断をしているわけですから、明らかに正当な取材やメディアの取材だけではなく、市民運動の中での監視とか調査に対しても、じゅうぶん規制が入り込むような余地も残す規定になっているということです。これは大変恐ろしいことだと思います。刑罰に触れるような行為だけではなく、社会観念上是認できない行為も規制の対象だといっています。

そういうかたちで正当な取材も抑圧するようなメカニズムが、漏洩に対する働きかけや特定取得行為の処罰に際しては加えられます。二重三重に取材の自由あるいは調査の自由等がダイレクトな規制の対象になるし、もっと広い枠の中では情報源そのものが萎縮して、正当な報道活動そのものが狭められることになる。それは結局メディアの問題ではなくて、大事な情報が市民に届かないわけですから、われわれの知る権利が二重三重に制約を受けることのなにものでもないということです。取材の自由・報道の自由の関係も含めて、メディアだけではなくてわれわれの問題だ、市民社会の問題だということを頭の中にきちんと入れておくことが大事だと思います。

秘密を取り扱う人の選別化を進める

適正評価制度というのはなにか。秘密保護の仕組みをやればやるほど、秘密を決定して守るためには前へ前へ規制をするということが法則です。洩らしてはいけませんというのは、極めて直接的な規制です。洩らすためにはその秘密を持っているわけで、持っていること自体を規制しなければダメだ。特定取得行為という類型は正にそれで、収集の段階でも規制をする。さらには秘密を管理する観点からいうと、いろいろなことが起こりうるのは秘密を持っている人がいるからだ、という話になるわけです。

正当に持っているならいいけれども、不当に持つ可能性があるから、秘密を持てる人と持てない人をきちんと選別しなければいけない。すなわち秘密を保持するのは、洩らすようなことをしないような人に限るべきだということになるわけです。要するに秘密を取り扱う人自体の選別化、という仕組みを作る必要があるということです。これがいわゆる適正評価制度といわれている仕組みの本質です。

かなりの部分は国家公務員の人たちです。この特別秘密を扱うかもしれない国家公務員、国家公務員に限らないんですけれども、その人が秘密を持っていい人か悪い人かをあらかじめ調査をして、セレクトするようにする。危なそうな人には秘密を扱わせないようにしましょうということです。そのためには徹底的にその人がどういう人かを調査する。信用情報がどうなっているかとか、過去に洩らしたようなことがあるかどうかとか、事細かに調査する必要がありますよ、法律で明確にしましょうということを報告書で言っています。報告書で提案をしているのは、あらたにつくるということではないんです。現にそういう仕組みをやっているけれども、法律で明確に位置づける必要があるということです。逆に言えば、いままでは法律もつくらないで勝手にそういうことをやってきたということです。

これは東京新聞とか毎日新聞など、いくつかのメディアで報道がありました。現に数万人の国家公務員に対して適正評価制度をやってきた。領域としては全部の秘密ではなくて、特別管理秘密というカテゴリーに関わる公務員についてはすでにやっています。詳細は教えられませんということでした。いくつかは国会の質疑の中で出てきたんですが、項目も明確にしていないし、パージされた人がどれくらいいるかということも一切言っていません。秘密のままです。いずれにしてもそういう適正評価制度をあらたにではなくて、法制上明確に位置づけてやりましょうという提案になります。

何が問題かというと、報告書では本人の承認が前提だという建前で書いてあるんですが、いま現にやっている仕組みは、本人は全然承知していません。勝手にやっている。問題のひとつは、重大なプライバシーの侵害であることは明らかです。報告書の中では、家族等についてもやる可能性があるとすら言っています。さらには公務員にたいしてかなり露骨な思想統制の手段になるということです。私の関心からいうと、こういうメカニズムをつくることによって内部告発をするようなメカニズムをさらに狭める。内部告発をしそうな人が、危なそうな人の類型で結果的にパージされることが狙いなのかなと考えています。

国家公務員とか秘密を扱う人が、全部悪い人ではないですからね。全部いい人ではないのも確かですけれども、まともな人もいるわけです。それは別に政治的な信条どうこうではなくて、これが本当に国家の秘密なのか、単なる政府の秘密であって都合の悪いことを隠すものじゃないのか、ということくらいを考える人は皆無ではないですよ。だけれどもそういうことをやろうとすると、内部告発されたり等々のことが起こる。

内部告発ができるということは、情報を入手し得ていることが前提です。情報を選別してそこから外されてしまったら、内部告発はできにくくなる。結果的にはそういうことにつながるのではないかということが私の考えていることです。この適正評価制度というのは、2007年に導入されたジーソミアの条文の中に入っています。クリアランスという制度ですが、情報を扱える人はそれなりの手続を経てOKが出た人じゃないと扱えません。アメリカではそういう仕組みは運用されているようですが、日本でもちゃんとやるべきだということです。日本でも秘密保全法制の前に進行している。知らないのはわれわれだけだという本当に恐ろしい話です。

国会と裁判所への秘密保全要請

最後に国会や裁判所への保全要請ということですが、これもわれわれが国家秘密法の時に考えていた議論からさらに進んだポイントのひとつです。ひとつは適正評価制度のような仕組みは、国家秘密法の時には出されていません。ですからこれは新しい局面だと思います。もうひとつは、報告書は国会や裁判所も当然特別秘密を取り扱う場面が出てくるから、国会や裁判所としても保全のための仕組みをつくる必要が求められるといっています。これは三権分立の問題などもあるので、それぞれの機関の中で議論しなくてはいけないという留保は付けてはいますが、国会も裁判所も秘密保全と無縁ではありませんよ、あなたのところもちゃんとやりなさいよということですね。

行政機関の中でこういうかたちで、さらに秘密が隠され規制され処罰が厳格にされていくことに加えて、そういう秘密をいろいろなかたちでチェックするメカニズムになり得る国会や裁判所もさらに秘密保全を求められることになってしまったら、一体どうなってしまうのか。誰が本当に大事な秘密を国民に明らかにすることになるのかということになります。これは新しい仕組みを作らなくても、秘密保全法ができること自体で国会とか裁判所はびびるわけです。国政調査権を行使するときに特別秘密を対象にしても、政府の側が出すとは思われない。

さらに裁判の手続きの中でも、特別秘密に関わることに関して証拠開示をするだろうか、ということも問題になります。もっと言うと会議の中で秘密裁判もテーマになったけれど削除されたことも報じられましたが、結局特別秘密というかたちで厳格に秘密保全をしていくことを追求していくと、裁判そのものが公開の裁判のままでいいのかということに突き当たるんですね。いまの段階でそんなことを言ったら批判されるのでやめておこうということですが、問題意識としてはあるわけです。

要するに国会、裁判所だって新しい特別な仕組みを作る前に秘密保全法ができるだけでいろいろなかたちで制約を受ける。さらにあらたな仕組みができたら、がんじがらめになるといわざるを得ない。メディアも、いまでさえ機能していないのにさらに機能しなくなる。国民が情報公開をしようと思っても、そんなことできるわけないでしょうという話になる。本当にその秘密が秘密なのかどうなのか、沖縄密約のように日本政府が肩代わりしているなんていうことを許していいのかどうかという情報も、入手ができないことになっていくのではないか。

情報は誰のものか

最初に立ち戻ってみます。一体、情報をわれわれの社会はどういうふうにしなくちゃいけないのか。いまの趨勢からすると、秘密保全法制をはじめとした表現規制や共通番号制、憲法改正も含めて情報の統制、コントロールが、一方的にお上の観点から推進されていく。それに対してわれわれはどう考えて対置していったらいいのかということが問われているんだと思うんですね。情報とは一体誰のものなのか。国を管理、コントロールするお上のものなのか。そうじゃなくて、それに抗して市民の立場からわれわれの市民的なさまざまな自由や権利、プライバシーの権利、さらには表現の自由や知る権利といったものを、われわれのものとして取り戻して、さらに開いていく。情報の公開を広げていくというかたちで、情報を市民に取り戻すのかという選択が最終的に問われているんだと思います。

お上と心中してやりたいという人には強制できないのでそっちに行ってもらってもいいんだけれども、それはわれわれの社会にとっても非常に不幸なことにならざるを得ないですよね。かつての太平洋戦争は情報の統制、コントロールの極みですからね。あれがわれわれの国を救ったかといえば、まったくそうではなかった。それを避けるためには大事な情報を自分たち市民のものに取り戻すということが大事だと思います。

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