私と憲法135号(2012年7月25日号)


17万人が参加「さようなら原発集会」
国内で最大級の脱原発集会

7月16日、東京・代々木公園を会場に、「さようなら原発10万人集会」が開催され、日本で開催された集会では最大級となる17万人が参加しました。
脱原発運動では、日本でこれまで最大の17万人が参加して「さようなら原発集会」が7月16日、東京・代々木公園で開かれました。猛暑にも関わらず、会場には北海道から九州まで全国からの参加者、家族連れや団体、グループ、個人の参加者が、朝早くから続々と集まりました。

11時過ぎには早くも会場が参加者で埋め尽くされ、12時過ぎからメインの第1ステージは小室等さんなどによるオープニングライブからスタート。続いて集会が開かれ、まず7人の呼びかけ人からあいさつがありました。作家の鎌田慧さんは、政府が今行っている2030年のエネルギー政策のあり方の検討について「絶対に原発ゼロにさせなければならない。そのためにどんどん意見を言っていこう」と呼びかけました。

音楽家の坂本龍一さんは「たかが電気のために、なぜ命を危険にさらさなければならないのか。お金よりも命が大事だ」と訴えました。経済評論家の内橋克人さんは、一部で起きている脱原発運動への中傷などを批判し「合意なき国策の上に、日本中に原発が作られてきたことに、はっきりと“さようなら”の声をあげよう」と語りました。

作家の大江健三郎さんは、昨年来の1千万人署名などの原発反対運動の高まりのなか「この運動は勝つと確信した。しかし、大飯の原発再稼働を許してしまった。これは私たちが侮辱されているということだ。しっかりやり抜こう」と強調しました。また、作家の落合恵子さんも「原発はいりません。再稼働もいりません」と、再稼動を容認した野田首相を厳しく批判しました。

澤地久枝さんは、集会に子どもたちも多く参加していることをあげ、「この未来に続いていく命のために、私たちが今できることをやろう」と訴えました。東京での「さようなら原発集会」に初めて参加した作家の瀬戸内寂聴さんは「これまでも日本で政府に文句を言う自由が奪われた時代があった。人間が生きるということは、自分以外の人の幸せのために生きていくことだ。悪いことはやめさせるよう政府に言い続けよう」と、90歳とは思えない元気な声で呼びかけました。

賛同人から、原発問題の講演・著作も多い評論家の広瀬隆さんが「政府の言う電力不足は全くのウソだ。大飯原発は巨大地震に見舞われる危険な地帯にある。国民に一時的な負担があっても、まず原発を止めよう」と具体的に提起しました。再稼動された大飯原発のある福井から中嶌哲演さん(福井県小浜市の明通寺の住職)が参加し「大飯原発再稼働は死刑判決を受けたようなものだ。住民を無視した巨大な利権構造がある。第2のフクシマにしてはならない」と訴えました。

集会の最後に、昨年の9月19日の明治公園での6万人集会のスピーチでも感動を呼んだ武藤類子さん(ハイロ(廃炉)アクション福島原発40年実行委員会)が立ち、「1年余にわたって、1人ひとりが考え、様々なことをやり遂げてきた」ことを讃えようと呼びかけながら、「絶望こそ希望だ、という言葉もある。声なき声をともにあげ、分断されることなく、ともに歩んでいこう」と力強く訴えました。
この他にも、3つのステージが設けられ、それぞれ関係者や全国、そして韓国からの参加者も含めてのトークや、ライブが行われました。

集会と併行しながら、パレード行進が3つのコースに分かれて行われました(写真上)。参加者は思い思いにプラカードや横断幕、うちわなどを掲げて、「原発反対!」「再稼動を許すな!」などとアピールしながら、元気よく行進しました。(さようなら原発1000万人 アクション・サイトから転載http://sayonara-nukes.org/

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絶望こそが希望である~共に歩んでいきましょう

武藤類子さんの発言

熱い日差しの中を「さよなら原発10万人集会」につながる皆さん。
本当によく来て下さいました。主催者でもない私がこんなことを言うのはちょっと変ですが、でも、本当によく来て下さった・・・と思うのです。

3・11からの日々、福島の人々も、もちろんそうですが、福島原発事故に心を痛め、原発がある社会を憂えた日本中の人々が、やさしく支え合い、自分にできる何かを・・・と立ち上がり、数々の行動を起こしてきました。

今日、皆さんにお話ししたいのは、悲しみと困難の中で、それぞれが本当に「よくやってきたね」と言うことです。
明らかにされていく事実の中で、更にがっかりすることや驚きあきれることもたくさんありました。
数々の分断は私たちをバラバラにしようとしました。
暗闇の中で、翻弄され、傷つき、混乱しながら、それでもつながり続け、ひとりひとりが最善を尽くして来たと思うのです。
それが、この夏の公園にひろがる色とりどりの花もようです。

官邸前の熱い金曜日です。
日本中で展開される福島の子どもたちの保養プロジェクトや健康相談です。
日本のあちこちに市民の力で建てられた放射能測定所です。
さまざまな人々が立ち寄っていく経産省前テントです。
いちはやくマンパワーを送り込んでくださった障がいを持つ人々を支えるネットワークです。
被曝の中で行われた数々の除染実験です。
見知らぬ土地での勇気をふりしぼった新しい生活です。
福島の女たちの大飯原発弾丸ツアーです。
1300人以上の市民による集団告訴です。
電力会社を訴える数々の裁判です。
政治に訴えるあらゆる取り組みです。
情報開示や自治体へのたゆまぬ働きかけです。
インターネットでまたたくまに拡がっていく小さな報道です。映画であり、音楽であり、書物です。
各地で広がるユーモラスな福島の古い盆踊りです。
今、私たちの上を飛ぶヘリコプターです。

そして、今日、福島県の二本松市というところからてくてくと歩いてやって来た人がいます。
「灰の行進」の関さんです。

彼は、6月のある日、たった一人で東京に向かって歩き始めました。

かつて、3・11の原発事故が起きる前に二人の若者が、東京から福島までを歩き通す「ハイロウォーク」を試みようとしたことがありました。それは、消費地東京から原発現地の福島へ・・・電気を送る道を逆にたどり、原発なき世界の新しいビジョンを考える行進のはずでした。

しかし、今、電気の道をたどりながら、放射能に汚染された庭の土を背中に背負って関さんは一歩一歩、歩いて来ました。明日、東電と経産省に「あなたがたが出したものを返しに来たよ」と渡しに行くのだそうです。暑い日も雨の日もてくてく歩くうちに、ひとりふたりと同行者が増え、今日は、どれくらいの人々とともにこの公園へ歩いて来られたのでしょうか。

わたしたちは、今日ここで、「ほんとうに、よくやってきたね」と自分をほめ、今、となりにいる人をほめましょう。

そして、深く息を吐き、体をいたわりましょう。私たちの行動を支えてきた大切な体です。
これ以上、自分自身をすりへらしてはいけません。
明日をかしこく生きるために、ひそかにほほえみをたくわえましょう。

しかし、それでも福島の現状はあまりにも厳しいのです。

4号機、甲状腺検査、再稼働、瓦礫問題、安全保障

廃墟と復興の間(はざま)で、ひっそりと絶たれていく命たち・・・

アメリカのジョアンナ・メイシーという人がかつて言いました。

「絶望こそが希望である」と。
福島原発事故という最悪の事態の中から、私たちはかすかな光をたぐり寄せ、今、このように青空のもとに集まっています。
声なき声と共にあり、
分断のワナにゆめゆめ落ち込むことなく、かしこくつながりあっていきましょう。
共に歩んでいきましょう。

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NO NUKES2012

星野正樹

坂本龍一がオーガナイズする脱原発をテーマにしたロックフェスティバル「NO NUKES2012」が7月7日、8日の2日間幕張メッセ イベントホールで開催された。3月末の第1次先行予約でチケットを手に入れ近くのホテルも早々に確保して、準備万端整えて当日海浜幕張の駅に向かった。11時半近くに会場に到着。入り口でチケットとリストバンドを交換する。このリストバンドが「通行証」となって出入りが自由になるという仕組み。会場に入ると大きな「「NO NUKES 2012」の旗がつり下がっている。広いホールの真ん中にたくさんの机といすが置かれた休憩スペースが用意されていて壁際にNGOブース、反対側の壁際に飲食店のブースが配置されていてゆったりとした雰囲気。ライブ会場は隣のホールになっている。

休憩スペースで昼食をとりライブ会場に入って開演を待つ。しばらくして場内が暗くなり、午後0時、大歓声の中アジアン・カンフー・ジェネレーションが登場。ついに「NO NUKES 2012」が始まった。ボーカル、後藤正文はこのイベントの記者会見に坂本龍一とともに出席し、開催の趣旨などについて発言している。彼は前日の雨中の首相官邸前行動に参加したことに触れ、「僕たちが反対したものが例えなくなったとしても、それをつくりだしたシステムや構造が温存されてしまったら同じ過ちを繰り返してしまう。そうならないために僕たちが意見を交わし合う場所をつくりたい。この場がそうなってくれればうれしいです。今日は楽しんでいってください」と語った。演奏は力の入ったすばらしいもので、僕の好きな「リライト」、「ループ&ループ」をやってくれたので満足。この日は演奏しなかったが彼らには「No.9」というタイトルの、憲法9条をモチーフにした作品がある。またこのフェスではアーティストが演奏する前にスクリーンに小出裕章、飯田哲也、村田光平などの専門家による「原発はなぜ危ないのか」、「自然エネルギーへの転換は可能か」などのインタビュー映像が流れるという趣向があった。参加者みんな真剣に聞いていて、終わると会場から大きな拍手が起きていた。

このあと印象に残ったアーティストを挙げると、まず3番手に登場したソウル・フラワー・ユニオン。関西在住の彼らは阪神・淡路大震災に遭遇した経験を持つ。そしてその直後から基金の設立や仮設住宅での演奏活動など独自に被災者支援を続けてきた。東日本大震災のときもいち早く現地でボランティアや演奏活動などの被災者支援を行い、それは現在も継続している。彼らの音楽はロックから民謡まで、世界中の音楽を飲み込んだエネルギーあふれるもので、この日の演奏も会場全体が思わず踊ってしまう祝祭感に満ちたものだった。ビクトル・ハラ(ピノチェト独裁政権に虐殺されたチリの詩人)のベトナム戦争をテーマにした「平和に生きる権利」の日本語カバーもまるで彼らのオリジナルのように、そしていま現在のことを歌っているように聞こえる。そんな彼らの代表作が「満月の夕(ゆうべ)」。阪神・淡路大震災を契機につくられ、いまも東北の被災地で歌い継がれている名曲だ。ライブやCDで何度となく聴いてきた曲だがこの場で聞くと特別な思いにとらわれる。「風が吹く 港の方から 焼け跡を包むようにおどす風 悲しくてすべてを笑う 乾く冬の夕 時を超え国境線から幾千里のがれきの町に立つ この胸の振り子は鳴らす “今”を刻むため ヤサホーヤ 唄が聞こえる 眠らずに朝まで踊る ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る 解き放て いのちで笑え 満月の夕 」(タイトルの「満月」とは阪神・淡路大震災の夜が満月だったことに由来している)。最後にボーカルの中川敬が言った「今度は街頭で会おう」という言葉は、いまも関西電力本社前の抗議行動に参加している彼らしくて、良かった。その次の元ちとせは、彼女の力強く繊細な声の表現力に圧倒された。特に坂本龍一がピアノで参加した、広島の原爆で死んだ7歳の少女を歌った「死んだ女の子」には鳥肌が立った。「戸をたたくのはあたしあたし 平和な世界にどうかしてちょうだい 炎が子どもを焼かないように あまいあめ玉がしゃぶれるように」。1日目はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)、クラフトワークで終了。音楽ファンにとってはドイツの伝説的電子音楽グループで、YMOにも影響を与えたといわれるクラフトワークの参加が大きな話題だった。クラフトワークはすでに1975年に「Radio-Activity」(邦題:放射能)という原発をテーマにした作品を発表している。そしてその曲をYMOが1曲目に演奏したことが非常に印象的だった。1日目の終演は午後9時半近く。ほとんど立ちっぱなしで疲れたけど、最後までおもしろかった。

2日目も11時半頃に会場に着くと、明らかに昨日より人が多い。ライブ会場と休憩スペースを行ったり来たりしながら、いろいろと飲食店を巡って夏野菜とチキンのカレーとか博多ラーメンとかシシケバブを食べたり有機ソーセージをつまみにビールを飲んだり、とリラックスして、この日のハイライトのひとつ「NO NUKES 2012 忌野清志郎 スペシャルルセッション」に備える。これを目当てにきた人も多いらしく早い段階で会場はいっぱいになっている。それでも前の方に位置を確保して開演を待っているとスクリーンに清志郎の映像が流れ、そのあと1988年日比谷野外音楽堂でのライブが上映された。曲は「ラブ・ミー・テンダー」。「放射能はいらねぇ 牛乳を飲みてぇ 何 やってんだー 税金(かね)返せ 目を覚ましな たくみな言葉で一般庶民を だまそうとしても ほんの少しバレてる その黒い腹」。そしてバンドが登場。この「スペシャルセッション」はRCサクセションのギタリストで清志郎の盟友だった仲井戸麗市のバンドにトータス松本(ボーカル)、坂本龍一(ピアノ)が加わった正にこの日限りのスーパーバンド。最初から怒濤のRCクラシックスが演奏される。「トランジスタラジオ」、「君が僕を知ってる」、「スロー・バラード」、さらにはかつて清志郎と坂本龍一がデュエットしたCMソング「い・け・な・いルージュマジック」まで!。そしてひときわ高い歓声の中「サマータイム・ブルース」が始まる。「暑い夏がそこまで来てる みんなが海にくり出していく 人気のないところで泳いだら 原子力発電所が建っていた さっぱりわかんねぇ 何のため? 狭い日本のサマータイム・ブルース」。20年以上前の歌詞だとはとても思えない。清志郎はいつでも思ったことを自分の言葉で、普段しゃべっているように歌っていた。だからこそ僕たちの胸に自然に入って来たんだと思う。それはラブソングでも原発のことでも同じことだった。「さっぱりわかんねぇ」というフレーズがかっこいい。理不尽に押しつけられるもの、知らないうちに何かが決められてしまうことに対して「さっぱりわかんねぇ」と大きな声を上げることはいまこそとっても大事だと思える。それぞれの場所で、それぞれのやり方で、「さっぱりわかんねぇ」と声を上げること、それが清志郎のメッセージだ。などと考えていたら「上を向いて歩こう」そして「雨上がりの夜空に」であっという間に終わってしまった。

次に聴いたのは斉藤和義。原発事故後ネットにアップした自作の替え歌「ずっとウソだった」が賛否を巻き起こしたが、この日も明確なメッセージを持った曲を次々と演奏した。ひょうひょうとしたたたずまいからは想像できないくらい反骨精神を持った人だと改めて認識。CMソングやテレビドラマの主題歌を歌うメジャーなフィールドにいながら、ここまでストレートにものを言うことにはっきり言って僕は感動した。このフェスのオフィシャルガイドブックに寄せた文章で彼はこう言っている、「人びとが忘れてしまうことが一番の奴らの栄養。奴らはそれを待っている」。また3.11後につくったという「ウサギとカメ」の歌詞はこうだ。「進化するテクノロジーうまく乗りこなせない人間 戻れないんじゃなくて戻りたくないだけ 絡み合う利権 後回しの人権 毒でつくるエネルギー 今日も編集されたニュース 見えない恐怖の雨」。最後は「愛なき時代に生まれたわけじゃない キミといきたい キミを笑わせたい 強くなりたい やさしくなりたい」と歌われる「やさしくなりたい」。小さく手を振りながら退場。最後までひょうひょうとした態度は変わらなかった。

このフェスを締めくくるのは2日連続の出演となるYMO。坂本龍一はこれでなんと5つめのセッション。「NO NUKES MORE TREES」という旗を持って登場し、昨日と同じ「放射能」からスタート。本編最後は「ライディーン」、アンコールは「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」という名曲で締めた。坂本龍一がステージを去る際に言った「ノー ニュークス!」というひとことに、このフェスに込めた彼の思いの強さを感じた。終演は午後10時半近く。2日間、全18組の演奏がすべて終了した。

ロックフェスとしての質の高さとメッセージ性の両立という非常に難しいことが成立したイベントだったと思う。今回は20代、30代の若手アーティストも多く参加し、それぞれがこのフェスの趣旨を真摯に受け止めて、自分たちなりに「ノー ニュークス」の主張をはっきり示したことは、とても良かった。アーティストも観客の側も、今後はこの「脱原発」というメッセージをそれぞれの場で語り合い広めていくことが大事になってくる。
そして、次は7月16日、代々木公園だ。

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第70回市民憲法講座アメリカの世界戦略の転換と自衛隊

前田哲男さん(沖縄大学客員教授・軍事評論家)

(編集部註)6月19日の講座で前田哲男さんが講演した内容を編集部の責任で要約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。今回は質疑応答の部分も要約・掲載しました。

日米安保60年の概観――
米世界戦略の従属変数としての側面

ことしは日米安保条約、サンフランシスコ講和条約から60年、沖縄返還から40年という区切りに当たる年です。それをとっかかりとして縦の時間軸、歴史軸をざっと見て、そのあと、ではいまはどうなっているんだろうという横軸、行政軸、いま起こっていることという座標を立てた上で少し現況と自衛隊との絡みみたいなものについてもお話ししたいと思います。

繰り返しますが、今年は安保条約が締結されて60年、沖縄が復帰して40年、加えると現行安保条約が締結されて、つまり安保改定から52年になります。2年前に安保50年のセレモニーがあって日米の大統領、首相が声明を出しました。60年、52年、40年ということになります。

1952年4月28日に安保条約が締結された。それは日本が占領状態を離脱して主権を回復し、国際社会に復帰した独立回復の日付けであったわけですが、同時に同日講和条約調印の地であったサンフランシスコで日米安全保障条約が結ばれ、それによって日本独立は不完全なものになった。今日に続く日米関係が固定され、対米従属が始まった。のみならずサンフランシスコ平和条約によって沖縄は本土から切り離され、立法・行政・司法はアメリカの施政権下に置かれることが明確になった。従ってサンフランシスコ平和条約は日本の独立、国際社会への復帰というより、対米従属そして沖縄切り離しという意味をより強く持つものであったということができるだろうと思います。その証が安保条約であるわけですね。

旧安保条約は条文の第1条に内乱、騒擾に対して米軍が介入できることを明記していました。また日本は米国の意志に反して第三国と軍事協定を結ばないということも、条約に書き込まれていました。属国扱いというか占領の継続という言い方がされますが、実質的にはそういう内容を含んだものでした。ですからこの安保条約に反対する世論は右翼というか再軍備を主張する側からも、むしろそちらの方が強く主張していた不平等な条項を含むものでした。それによって1960年に安保改定がなされて、それがいまわれわれが持っている安保で、52年間続いてまだ続きそうな気配ですね。21世紀まで持つとは思わなかったんですが、世紀を軽々と超えたばかりか、政権交代まで乗り越えてしまいましたね。不死身の体制のごとく続いていて何ともしゃくでしょうがないんですが。

60年安保は、そのように不平等なところをただす意味もありました。それは内乱条項がなくなったとか第三国条項も削除されたところに明確に見ることができます。しかし同時にそれ以上に日本の再軍備を進めて共同防衛をすることを付け加えた点で、52年安保より60年安保・今日の安保はよりアメリカの世界戦略と結びつく、アメリカの世界戦略に協力する側面も強く持ったものとなりました。

いまわれわれが過ごしている6月は、60年安保が批准された月でもあります。1960年6月15日、つまり昨日ですね。国会を取り巻いた10数万、警視庁の調べで13万人、われわれ側の発表では30万人という数字だったと思いますが、あの国会の周辺を最低でも10数万人の群衆が取り囲んで安保条約の批准に反対したんですね。反対の意思表示をした。その年の1月19日に日米安保の改定、新安保条約の調印が行われました。5月19日に衆議院で警官隊を動員して、自民党の強行採決によって批准案件を一括承認しました。以後、全国で反安保のものすごい国民運動、労働組合の運動もありましたし学生運動もありました、さまざまな運動が高まってそのピークが6月15日でした。東大生であった樺美智子さんが亡くなったという衝撃的な出来事が起こったのが52年前の昨日です。

5月19日に衆議院で強行採決されました。予算案とか条約案は衆議院が優越するので、衆議院が議決して1ヶ月経ちますと参議院が可決しようがしまいが自然成立します。6月19日に、現行安保が参議院の議決を経ることなく自然成立になりました。6月23日に藤山外務大臣とマッカーサー大使との間で批准書が交換されて、ここに正規の国際条約として効力を発揮して今日に続く力を得たわけです。そのように6月という月を見ても、ひとつつながりがある日付けが出てまいります。

2012年6月に起こっていること

以上1952年から出てきた安保条約そして沖縄という流れ、1960年から出てきた現行安保、エポックで縦軸をつくり、その延長線上にわれわれはいまいるという、安保の流れを見た上で、今度は横軸を立てます。2012年6月に起こっていること、今月に入って何が起こったか。オスプレイがフロリダでまた落ちたということがあります。あと1週間もしますと、日本・アメリカ・韓国の海軍・海上自衛隊が東シナ海で合同演習を行うという初めての出来事があります。憲法9条に違反していると内閣法制局がいまもわりとはっきり言っている領域――集団的自衛権の行使、日本が攻撃されていないのに他の国と協力共同して自衛隊を使うことは憲法に違反する行為であるという――集団的自衛権の行使に限りなく近い演習が21日からおこなわれると公式発表されました。

森本さんが防衛大臣に任命されたのも今月のことです。森本さんは、防衛大学校を卒業して航空自衛隊に入り三等空佐、アメリカ流にいいますと空軍少佐まで進んだあと、退役して外務省に勤務し、その後評論活動、執筆活動に入った人です。森本さんを任命した人事に関しても議論がありました。それは憲法66条と68条に違反するのではないか。憲法66条は「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」としている。森本さんは武官だったじゃないか。これは憲法違反ではないか。憲法68条は「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない」、衆議院から選ばれるんですね。民間人からの防衛大臣の起用は憲法の趣旨に反するのではないか、という議論があったことはご承知の通りです。

オスプレイはアメリカの遙か向こう側のキューバ、カリブ海に近いアメリカで事故を起こしたことがどうして大きなニュースになるのか。いうまでもなく、それが来月にも沖縄に配備されることが予定されているからなんですね。オスプレイという新型の航空機は、ヘリコプターのように離発着して普通の航空機のように速いスピードで飛んでいく。いまアメリカ海兵隊が沖縄の普天間基地に配備しているCH-53という輸送ヘリコプターに比べますと、速度で2倍、搭載量で3倍、航続距離で4倍という大きな戦力になる。それもさることながら、ヘリコプターと普通の飛行機の、両方の特性を兼ね備えたまったく新しい概念の飛行機です。

沖縄県の人は、県知事もそうですし41ある地方自治体すべてが、オスプレイの配備にノーという意思表示をしています。普天間基地がある宜野湾市の市民、市長、市議会もむろん反対です。しかしアメリカ政府は、新型の航空機であるオスプレイを海兵隊の次期主力航空戦略に不可欠なものと見て、普天間に配備する準備をしてきました。それを日本政府は受け入れる。自民党時代はずっとその事を隠してきたんですね。オスプレイの配備については、申し入れもないし従って検討もしていない。向こうが言ってくれば検討するけれども、そういうことはないと言っていました。これはまったく事実に反します。

沖縄では自民党、公明党、連立政府に申し入れをしていたんですが、その間はオスプレイは公式にはあまり出ていなかった。でも水面下では着々と進んでいて、民主党政権になって正式に申し入れてきて、民主党政権が認めるということになった。そのオスプレイが事故を起こす。それもたびたび起こすんですね。フロリダの前はモロッコで起きた。モロッコの事故では何人か死にました。開発初期段階、試作段階、実用段階に至る間にたびたび事故を起こして、「未亡人製造機」なんていうニックネームがつけられるほどのものなんですね。

それを普天間基地に配備して、宜野湾の上空、ドーナッツの穴みたいな普天間飛行場、まわりを宜野湾市の市街が取り囲んでいる。普天間飛行場のふちには普天間高校、普天間中学、いくつもの小学校があり、沖縄国際大学もあります。沖縄国際大学には2004年にCH-53が実際に落ちてしまった。幸運にも夏休みで授業がなくて学生がいなかったから怪我はありませんでしたが、今の時期だったら大惨事になっていたのは間違いないわけですね。そこに事故を多発させているオスプレイがやってくるわけですから、大変な問題になります。それもいま現実に進行している。事故があったにもかかわらず、アメリカは日本政府に予定通りの配備をしたいと申し入れてくるらしい。森本防衛大臣は、受け入れるらしい。そういう予測の中で、ことが動きつつある。沖縄県民にとっては、辺野古への基地新設に加えてまた新たな難問、難題、無理を強いられることになるんですね。

米戦略の反映――建前と密約の落差

なぜそんなに唯々諾々とアメリカの言うことに従わなければならいか、ということに戻ってくるわけです。1960年に安保条約が調印され、それが国会で批准承認案件として審議された。60年の2月から5月19日の強行採決まで、衆議院にあった日米安全保障条約等特別委員会という大委員会――委員が35人という大きな特別委員会がつくられて、ほとんど連日審議しました。逐条審議です。ひとつの条文を根掘り葉掘り、徹底的に審議しました。ですから第5条、共同防衛というのはどういう内容なのか。第6条、極東の範囲とはどこなのか。この安保国会の特別委員会の議事録はインターネットで簡単に検索できます。この会議録をご覧になると、縦、横、十文字、斜め、綿密な、緻密な議論が展開されています。

当時は社会党が野党第1党で、安保5人衆とか7人衆という論客たちが、連日立って質問した。政府は憲法があるわけですから、憲法9条との関連について少なくとも整合性を持たせなければならないので、論戦の中でどんどん押しまくられて行くわけです。さきほどの集団的自衛権の行使なんていうのも憲法に違反します、と言わざるを得なかった。憲法解釈上そうなるわけですね。極東の範囲、共同防衛というとき、日本の国土・国民を守るためであるとすればまだしも、国家正当防衛という概念で憲法9条のもとでも説明できないことはない。しかし共同防衛の相手方はアメリカであり、アメリカは世界で戦争しているし世界に軍隊を派遣している。そういう共同防衛はあり得るのか。あり得るとすれば共同の限界はどこまでなのか。それから安保6条が定める極東はどこか。その極東に自衛隊は行くのか、行かねばならないのか。

60年安保では、ほとんどクエスチョンマークはこれ以上出せないと思うくらいたくさんの、仮定の問題も含めて議論がなされました。それらに対し政府は憲法を守らなければならないわけです。憲法には憲法擁護義務というのがあって、その義務を課される最たるものは総理大臣です。天皇もそうですが、総理大臣、閣僚は憲法を守らなければならず、憲法違反のことは言えません。この安保国では、極東の範囲とはフィリピン以北、日本周辺、しかし朝鮮半島は含まない。極東の範囲であっても自衛隊が共同防衛をそこでやるということにはならない。当時、岸信介総理大臣、藤山愛一郎外務大臣、赤城宗徳防衛庁長官、林修三内閣法制局長官、この4人がだいたい答弁者で答弁していますが、憲法に照らせば言わざるを得ないんですね。護憲的とは言えないが憲法を否定することはできない。

その中に、安保の付属文書として交換公文があって、アメリカが日本の基地を使用して極東の範囲で軍事行動ができる、しかし日本の基地を使用して行う米軍の行動であっても、配置及び装備に関する重大な変更それから日本国から行う直接作戦行動、これらに関しては日本政府との事前協議を要するという縛りをつけた。岸総理大臣以下答弁側はこういう、拒否権とはいいませんでしたが、事前協議があるので決して憲法が定めることを外れてこの安保条約が運用されることはない。配置における、装備における重要な変更、たとえばアメリカかが核を持ち込もうとする場合、日本はいかなる場合にも事前協議において「ノー」と言う。だから核の持ち込みはあり得ない。安保条約の下ではあり得ることではないということを強調して、安保が対等である、日本が毅然とした態度を取りうるということを言うわけです。ですから安保国会の議論を議事録で読むと大変役にも立ちますし、安保解釈で当時の政府が国民に約束したことがきれいに書かれています。一種の顕教といいますか、表に現れた教えですね。

しかし同時期に密教、われわれは密約として知っていますね。国民に対しては国会ではこう答えますが、机の下で「あなた方はそういう解釈していいですよ」、「こっちはこう言うけれどもあなた方の解釈はこれまで通り、あなた方のやりたいように」、これが安保密約というものですね。政権交代で何が良かったか。あまりありませんが、良かったことのささやかことのひとつに密約にメスが入った。これもひっかき傷程度だと思いますが、ひっかき傷でもいいんです。全身は全身として考えればいい。密約があったことが少なくとも公になったわけです。はっきりしました。装備における重要な変更、配置における重要な変更は事前協議であり、装備において核の持ち込みがある場合にはいかなる場合にもノーという、日本の本土の基地を使って作戦行動をする場合にもノーという権利があると言っていた。

そういう表向きの事前協議、しかしこの事前協議は52年間使われたことは一度もない。抜かずの宝刀とでもいいますか。沖縄のオスプレイは「装備における重要な変更」ではないのか。政権交代というのはこういうときにいいんですね。自民党政権のときには言わなかったし、言えなかった。横須賀に空母ミッドウェーが入ったとき、配置における重要な変更であるとわれわれは主張しました。でも自民党政府は言いませんでした。空母が一隻入ってきただけだ。機動艦隊が入ってくれば配置における重要な変更だけれど、空母一隻ではないかというわけです。でもご覧なさい。あとからさみだれ式に駆逐艦、巡洋艦が入って、いまは横須賀に空母機動艦隊が集結しています。配置における重要な変更とは、自民党は言えませんでした。自民党は密約の方を優先したんですね。

政権交代と森本大臣任命への見方

政権交代すればわれわれは解釈を変える。装備における重要な変更にオスプレイを入れることはできるし、野田内閣の次の内閣が言ってもいいわけだけれども、民主党内閣になってすぐにできたことがそれだった。そういうチャンスだった。アメリカもそれに対して文句は言えないはずです。条約上の反論権はないはずです。ともあれそうしなかったし、民主党もそういっておりませんのでオスプレイは沖縄にやってこようとしている。その矢先に事故がモロッコで4月、フロリダで6月と多発している。これも横軸、いま安保を取り巻いている、現実に動いている出来事なんですね。

森本防衛大臣の問題も、やはり憲法との関わりで論じられなければならないかもしれません。わたしは論じるとすれば、彼の考え方、言動、取りわけこれから彼が発するであろう言動に照らして、そういう見地から議論しなければならないと思います。元自衛官であったからということで憲法66条の文民規定を考えると、すでに小泉内閣で中谷元さんが、当時の防衛庁長官に任命された前例がある。小泉政権の内閣法制局は、元自衛官であっても現に席に離れているものに対しては文民として扱うという見解を出していますので、ちょっと弱いですね。

民間出身者が防衛大臣になるのはいかがなものか、武装集団を率いるのに、という言い方で森本大臣の就任に異議を唱える。これはあまり憲法との関わりではないと思いますが、憲法68条は過半数は国会議員でなければならないと定めています。裏返せば、過半数マイナス1は民間出身でいいということになるわけです。現実に民間出身の大臣はたくさんいますよね。日米安保条約の改定条約に調印した外務大臣の藤山愛一郎さんは、国会議員ではありませんでした。日本商工会議所会頭から引き抜かれて岸内閣の外務大臣になった。歴史的な文書に民間人が署名したわけです。そのほか外務大臣には大来佐武郎さんとか何人もなっています。防衛大臣が安全保障政策に重要な責任を有するから民間人には荷が重いということ言うなら、外務大臣も同じことです。法務大臣にも何度か民間人がなっていますが、法務大臣はご承知の通り死刑執行命令をする人です。人殺しの文書に署名します。防衛大臣はそういう権限は持っていますが行使したことはない。しかし法務大臣は現にやっている。問題は、やはり森本さんが集団的自衛権の行使を行うべしというようなことを公言している人物だという、その一点にかかると思います。形式論では突破できないと思います。

森本敏さんのような人が防衛大臣になったわけですが、これをそのまま認めるとすれば、次は田母神俊雄防衛大臣ができて不思議はない。そうなってくる。文民統制をどういういうレベルで考えるかということ、その実質を論じなければならないと思います。憲法66条、68条の形式ではなくて、中身の問題として憲法が定めている文民規定は、どういう人を文民であるとしているのか。旧軍人が生きていた時代――1950年代、1960年代の文民規定は、元軍人である、つまり旧陸海軍の軍人であることと、もうひとつは深く軍国思想に染まっているものというふたつの条件を挙げていました。軍国主義思想という思想性が問われていた。思想性を問うていたんです。単に経歴だけではないんです。

中谷元防衛庁長官のときは、内閣法制局は元職業軍人が現に自衛官の職にあるものということで、中谷さんはどちらでもないからOKだという言い方で認めました。そのときの徹底した議論のなさが今回の森本大臣任命になったのだと思います。これから彼は、先ほどの日米韓3国艦隊による――恐らく航空自衛隊も参加するでしょうが――海軍演習の責任者になります。かねてから彼は集団的自衛権の行使は容認すべきだと公言していた人でもあります。そういうところに関して議論していかなければならないと考えます。以上のように大きな縦軸と横軸を立ててみました。

「冷戦後安保」――日米の緊密な軍事協力

いま日本を規定している安保条約、安保政策がどういう段階なのか、これも若干の縦軸の補足のようなものも見ないと理解しづらいのですが、大きく冷戦後、1990年代以降ほぼ20年の枠の中でとらえますと、安保は3つの段階に分かれるだろうと思います。

ひとつは冷戦直後の安保環境です。アメリカはクリントン大統領で日本は橋本龍太郎首相、小渕恵三首相の時代です。90年代をほぼカバーするんですが、実際に展開するのは90年代後期です。構想として出るのは92年くらいですが、実際には96年「日米安保共同宣言」、翌年の97年「日米新ガイドライン」、防衛協力の指針の新しいバージョン。99年小渕内閣で周辺事態法、これは極東の範囲というものに関わってきます。これが冷戦直後の安保です。クリントン時代、橋本・小渕時代です。

第2段階が9.11以後のブッシュ・小泉時代という分け方をしていいかもしれません。米軍基地の再編-いまも続いています-オスプレイも、辺野古移設もその一環です。米軍基地再編が提起されて、自衛隊と米軍の間では、共通の戦略目標が設定されました。それまでは米軍は槍であり自衛隊は盾である。攻めるのは米軍で守るのは自衛隊だ-専守防衛を強調する槍と盾という言い方です。それが共通の戦略目標になった。9.11が直接の影響ではありませんが、わかりやすくいえば2001年あたりからの情勢を反映して始まった安保協力です。役割、任務、能力といわれます。役割と任務と能力を共有する。槍と盾なんてどこにも出てこない。だから共通の戦略目標というのが出てくる。

その中で自衛隊が急速に変貌しています。正に変貌しつつある。さきほどの日米韓共同演習がそうですし、また新防衛計画の大綱という自衛隊を運用する長期方針、陸海空自衛隊にとっていちばん大きな、重いドクトリンみたいなものですね。各年度には年度予算、年度計画がありますし、それとは別に中期防衛力整備計画という5年ごとの武器調達計画がありますが、これを規定するのが防衛計画の大綱です。そのいちばん新しい大綱には、グアム・テニアンまで自衛隊が行くという。その始まりが小泉・ブッシュ時代の9.11以後の、第2期と仮に名付けるのならば、そう言える時期です。

第3期がいまわれわれがいる政権交代後ですね。3.11と「トモダチ作戦」後といってもいいかもしれません。そういう時期における日米の安保協力です。海上保安であるとか災害救助というようなものをかなり全面に示しながら、しかし実際はより緊密な軍事協力をやっていこうというものです。何度も言いますように21日から始まる3国海軍演習はそうですし新防衛計画大綱です。これは第3期民主党政権がその中にグアム・テニアン――いずれもマリアナ諸島で観光地として有名ですが、テニアンは第2次大戦末期の8月6日と8月9日にそこから発進したB29が、広島と長崎に原子爆弾を投下したことで知られるマリアナ諸島北部の島です――ここで演習をすることになった。集団的自衛権の行使、“最後の”とはいいませんが、憲法に明確に違反すると言い続けてきたことが破られていく。憲法が内側から食い破られていくこと、その指揮に当たるのが森本敏という元自衛官の防衛大臣です。

チェンジされたのは日米安保と日本

こういう安保の状況があって、このよって来たるところはいうまでもなくアメリカが考える戦争、アメリカの世界戦略が変わってきたということです。これも横軸の系列で言わなければなりません。オバマ大統領は「チェンジ」とか「核なき世界」といいながら出てきた大統領でしたけれども、しかしそうはならなかった。チェンジされたのは日米安保であり日本であったということになりました。

オバマ大統領は、昨年12月にオーストラリアのキャンベラで議会演説をしました。キャンベラ演説といいますが、そこでアメリカの戦略を、アジア太平洋を重心にとすることを明確にしました。それまで粗末にしていたわけではありません。それは横須賀を見れば、さらに沖縄を見ればわかりますが、国家方針としてアジア太平洋重視を明言しました。それははっきりしています。

なんとなればNATO、北大西洋条約機構は、いまヨーロッパはEUが自分たちでやるといっています。居所がなくなりました。では、といってイラクに出したけれどもさんざんな目にあった。お金もかかりましたし国民にも不評でした。ブッシュ共和党がオバマ民主党に敗れる結果になった。オバマ民主党はイラク撤退を大統領選挙の公約に掲げて当選したので、イラクから引き揚げました。ヨーロッパに居所がなくなりイラクからもいなくなった。オバマはアフガニスタンで決着をつけるといいましたが、これも出て行かざるを得ない。消去法的にいって、大胆な、めちゃくちゃな軍縮をしない限り、どこかに軍隊を配置しなければいけない。場所は太平洋しかないわけです。何もキャンベラで重々しく言わなくても、自然の流れでそうなるわけです。キャンベラ演説で彼は国家戦略として太平洋重視を言いました。数日前にパネッタ国防長官は、海軍力の6割を太平洋にまわすと言いました。これも同じ論法です。

いまも決して太平洋に少ないわけではありません。空母の半分は常に太平洋におりました。でもヨーロッパに居場所がなくなった。ますますなくなりつつある。例えばドイツが東西に分かれていた冷戦期には、在独米軍は最盛期には30万人いました。だいたい25万から28万人でした。いまは5万人で、まだ減りつつあります。他の国でもそうです。もうヨーロッパでは、少なくともEU27ヶ国は一種の不戦共同体です。いまは金融問題で大変ですが、安全保障の面からは、あの加盟国は戦争しないというのがEU条約ですから、どんどん突き詰めると対内的には武装解除をしている。イギリスもフランスも植民地国でしたし、いまも海外権益を持っています。スペイン、ポルトガルなんていう太古の植民地国もありますから、対外的には不戦共同体とは言えないと思いますが、ヨーロッパの中ではもう戦争はしない。そこにアメリカ軍がいる必要も理由もないわけですから、どんどん減って行かざるを得ない。

海兵隊はもともとヨーロッパにはほとんどいません。海兵隊は太平洋で生まれ太平洋で大きくなり太平洋にしかいないんです。ヨーロッパ戦線、ノルマンディー上陸作戦は全部陸軍です。そのときの米軍の最高司令官はアイゼンハワー陸軍大将でした。海兵隊は太平洋で生まれてガダルカナル、タラワ、サイパン、沖縄とものすごい勢いで増えていく。水陸両用の急襲部隊という海兵隊の性格は、太平洋戦争の島しょ争奪戦の中から生まれたんですね。だから海軍も海兵隊も決してこれまで太平洋を軽視したわけではなく、パネッタ国防長官も6割をまわすと言う。

キャンベラ演説といい、パネッタ演説といい、太平洋重視をことさらに強調する。なぜかというとこれに日本を引き込みたいということです。日本からまずお金が欲しい。オバマ大統領は財政赤字を削減するために国防予算を10年間で何兆ドル、年間何千億ドルの単位で減らすことを公にしています。そうするとランニングコスト、装備調達などは削らなければいけない。日本は思いやり予算なんていうものでいろいろなものを出してくれます。アメリカ兵の給料以外はだいたい思いやり予算だというとちょっといいすぎですが、週刊誌の見出しだったら十分通用します。それくらい日本は財政的にも寄与しています。それから基地を提供してくれる。地政学的、地理的な意味ですね。韓国、日本、オーストラリアなどを一緒にしてアメリカの前に配置し、そこにアメリカの空軍、海兵隊が入って兵力をつくることを描いている。それがキャンベラ演説であり、パネッタ演説であろうと思います。

対ソから対中へ動く米戦略と日本の位置

何に対してか。これも言うまでもないですね。冷静が終わり、ソ連がなくなった。それまで半世紀近くアメリカの国策を規定してきたパブリックエネミー、公の敵、その名前さえ言えばみんながまとまるし反対できない、あいつはアカだと言えばそれでまとまる相手がいなくなった。アメリカは悪のシンボルを次々につくります。ビン・ラディンのような、金正日のようなシンボルです。いまはアメリカにとって恒久的な、長持ちする悪のシンボルはやはり中国以外ないと思います。 ビン・ラディンも何年か持ちましたし北朝鮮もしばらくは持つでしょうけれども、それは悪のシンボルであるかもしれないけれども、アメリカが国力を傾けて全国民が合点するようなものじゃないですね。ソ連なきあとのアメリカのパブリックエネミーは間違いなく中国です。

ただここで矛盾が起こってくる。アメリカとソ連は確かに冷戦という中で、経済関係、文化関係、政治関係、細々とした外交関係を除いて断絶していました。それに対して中国との間には輸出と輸入がアメリカにとって1位とか3位です。アメリカの国債をもっとも持っている国は中国です。2位が日本。中国が国債を全部国際市場に出して売り始めたら、ひっくり返るのはドルなんです。1発の銃声も響かせることなしにアメリカ経済を破滅的な混乱に陥れるジョーカーを持っているのは、日本であり中国です。橋本龍太郎さんが一度米国債を売りたい誘惑に駆られることがあると言ったことがあって、ウォール街が震撼したことがあるんですね。これはよく知られているエピソードです。北京がそれをやったらどうなるか。というふうにアメリカと中国が深い依存関係にあるので、かつてソ連と対決したような冷戦が起こるとは考えにくいですね。

中国も冷戦の歴史から深く学んでいるでしょう。あのような対立劇を再現して、負けたのはソ連でした。軍拡競争をやると、やはり資本主義の方が強いんです。アメリカでは冷戦期の軍拡の中からマイクロソフトなど現在世界を席巻している先端企業が、軍のためにいろいろなものを開発した。軍の指揮のネットワークを構築するためにC31とかC41などを開発しました。冷戦が終わって市場開放が始まり、今日われわれはそれを利用しています。ソ連も同じレベルの技術はどこかにあったけれど、マーケットが存在しなかったので冷戦後に壊れてしまった。中国もその事は十分に知っていると思います。

いまの大きな構造――安保環境と安保の方向性は、アメリカが日本をフォワードトップに据えて韓国、オーストラリア、アメリカはインドはあまり信用していないと思いますが、それから台湾も入ってきますが、そういうかたちで対中国包囲網のようなものを形成してその後ろでゴールキーパーのようなところに自分がいるようにしていると思います。日米安保の新しい流れはそう言っていいと思います。

民主党政権になって決定された新防衛政策の大綱という自衛隊に対する大きな文書、2010年12月ですから菅内閣のときに出たものですが、この新防衛計画の大綱は、これだけでも結構おもしろい歴史があります。第1次大綱は1976年に三木内閣で、第2次が95年に村山内閣、第3次が04年の小泉内閣、第四次が2010年の菅内閣です。それぞれ特徴があって冷戦期から冷戦直後そして小泉改革の時代、それから3.11以後の防衛大綱という時代背景と絡み合っています。中でもいちばん新しい大綱のバージョンは、それまでの大綱がともかく名目として持っていた基盤的防衛力構想――自衛隊は国土を守る基盤だ、従って専守防衛である。だから日本列島守備隊という言葉が出てくる。そういった守勢的なことをはっきり捨てたんですね。以後、基盤的防衛力構想によらないことを明文化することによって基盤的防衛力構想から離脱しました。

かわって文書の中でたくさん使われるのは動的防衛力という言葉と、シームレスな取り組みという言葉です。シームレスというと女性のストッキングをつい思い浮かべますが、この場合は切れ目のないという意味です。つまり海であれ陸であれ、切れ目がないということです。そして南西重視、南西諸島重視とか、離島防衛という言葉がはっきり加えられる。これらはアメリカがオバマ演説によって明らかになった太平洋重視、パネッタ演説で明らかになった海軍力の6割を太平洋に、という流れとぴたっと重なる。そういう中にわれわれはいる。そういう中でいま安保が動いている。直近の動きでは、来週日米韓の艦隊が東シナ海で始める共同演習ですし、7月にはオスプレイがどうなるか。それに関しては、沖縄県民は鋭い反応を示すでしょう。どれだけ沖縄県民と連帯できるか、それを広げることができるかというかたちで安保の問題はわれわれにも大きな問いかけをしているんだと思います。

≪質疑応答≫

Q  集団的自衛権の容認とか武器輸出解禁など、野田首相はたがが外れたようになっていることに非常に危惧をおぼえています。そういうことに対して国会でどう歯止めをかけられるのか、また私たちが反対していく具体的な手立てはあるのか。また最近では自衛隊と韓国、オーストラリアそしてインド軍などとの訓練が頻繁に行われていることについて、わたしたちはどう考えたらいいのか。1ヶ月くらい前に玄葉外務大臣がNATOの会議に参加していましたが、どういう資格で参加しているのでしょうか。NATOはだんだん緩和されていくのに、日米安保は共同演習などを重ねながらアジア全体に拡がってしまうのではないかという危惧がありますが、どう考えたらいいのでしょうか。

Q オバマ政権のアジア太平洋に対する戦略の転換の説明は非常に納得しながら聞くことができました。そこで野田内閣が進めている南西諸島や沖縄全体の防衛の強化が、昔の米中復交の過程でのキッシンジャー外交のようなかたちで日本政府が事実上置いてきぼりを食らうような事態が近い将来到来することになるのではないのでしょうか。ただそのことと今度行われる日米韓の軍事演習とかがもうひとつぴったり結びつかないんですね。この辺をもう少し説明をいただければありがたいです。

Q 先日わたしが住んでいる高島平の西台に自衛隊が緑色に顔を塗って町の中を基地まで移動する訓練が行われました。主権在民と言うけれども国民ひとりひとりがだまされないで自分たちの代表として国のためにやってくれる人を選べる時代が来ないと本当の民主主義とは言えないんじゃないか。核軍拡につながる要素がある原発の再稼働、自衛隊を国防軍にしようとする動き、そしてアメリカはどこでも自衛隊を連れ回したいのではないか。ですから日本人のひとりひとりがしっかり自覚して、どんな場合にも立ち向かっていける強い民衆づくりも考えた方がいいんじゃないかと思います。先生のご意見を是非お聞きしたいです。

A たがが外れたような政治状況、それに反対する手立てはどこにあるのかということと、最後の質問の自覚して立ち向かうしかないじゃないかということは同じことで、お答えを言ってくださったと受け止めました。われわれが自民党にノーと言い、よりましな政権として民主党を選んだのも一種の意思表示だったはずです。国民との契約として重いものだったはずのあのマニフェストには、集団的自衛権も新防衛計画大綱のようなものも書いてありません。逆に日米地位協定、安保のもとで基地がたくさんある中で基地の運用条件、基地にいる米兵の権利義務を定めた地位協定を対等平等のものに改めることを明確にしていた。ところがマニフェストは、安全保障政策ばかりではありませんが、反古にされた。TPPとか消費税などが最たるものです。結局気がついてみたら自民党と同じ、ないしは自民党よりももっと悪くなった。ですからリセットですよね。

民主党の中にも異論を唱える人はずいぶんいるんですが、それは公然とはならないしひとつの勢力になっていかない悩ましさがあります。そこで、ひとつはこれまでの獲得したものがある。60年安保の国会議事録などはもっともっと精査すれば、いまの安保解釈を押しとどめられる。総理大臣、外務大臣、法制局長官が国民の前で言ったことは、そんなに軽いのかということです。われわれももっと学びながら理論闘争していく、森本さんのような人が出てきたことに対しても、経歴ではなくて彼の思想性を問うという、こちらも論争力がなくてはいけないし思想性も必要とされ、かなり厳しい論戦になる。彼は論客ですから、前任者などとは違う手強さがありますが、護憲、反戦の側も成長しなければいけない。自らもっともっと強くならなければならないということだろうと思います。

アジア諸国との軍事協力については日米韓の話はしましたが、インド海軍とも5月末くらいに2国間で初の海上での護衛艦同士の共同訓練を行いました。オーストラリアとはリムパックという演習を1980年代から続けています。最近では航空自衛隊隊とオーストラリア空軍、やがて陸上自衛隊も入ってくるかもしれませんが、グアム、テニアンで日米共同演習が入ってきます。その共同演習にはかなりの高い可能性としてオーストラリア陸軍が加わるでしょう。グアム、テニアンとポートダーウィンというオーストラリア北部にある港及び訓練場はそう遠くありません。グアム、テニアンまで行けばもう、オーストラリアの影がはっきり見えてくる。日米は、同時に米韓豪プラス印になる。

日米韓豪という枠組みは、実は1952年に日米安保条約を結ぶとき、アメリカが当初考えた案なんです。韓、豪、ニュージーランド、フィリピンで太平洋安保をつくろうとした。当時のアイゼンハワー大統領の国務長官で、その前にはトルーマン時代には補佐官だった、ダレスという人が根回しをしたのがこの太平洋条約機構です。ヨーロッパにNATOがあり、東南アジアに東南アジア条約機構 (SEATO)があり、イランとイラクのあたりには中央条約機構(CENTO)があって、ぐるっとユーラシア大陸を取り囲んで海の部分をオーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、台湾、日本、韓国でひとまとまりにしようとした。これができなかったのは日本国憲法があったからです。集団的自衛権の行使は違憲ですから。そこで日米、米韓、米比、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカとのANZUSいう別々の条約になったわけです。

オバマ大統領のキャンベル演説が、50年代のアメリカが構想したような太平洋安保をつくろうとしたこととも似ている。当時はアメリカ断念したんですね。日本には憲法があるからできないと。日米安保条約が、ほかのANZUSとか米韓、米比、米台の条約とどこが違うかというと、経済協力条項などほかの条約にはない条項が入っているんです。やはり「違うぞ、この国は」ということを彼らも認めざるを得なかった。だからひとまとまりにしなかったし、条文にも違いが出てきたわけです。それがいま元に戻ろうとしていることは、われわれはなめられたというか、今度はいい、いまは大丈夫だと判断したことになると思います。でも憲法は変わっていないわけだし、それを再生させなければなりません。

集団的自衛権の行使の定義ですが、集団的自衛権という言葉だけを持ち出してもダメなんです。それを実際にどう当てはめていくか、という論争を生き生きとわかるようにして、そしてこちらが勝つようにしないといけない。60年安保のときはかなり勝ったわけです。極東の範囲とか、事前協議とかこちらがいくらかでも取った。仕方なしに彼らは密約で逃げたわけだけれども、これからはもう密約は新たにできないでしょう。だからもっと論争して、そして勝つことが必要です。いま情報が国際化した中でインドとかオーストラリアとか韓国の人たち、市民団体と協力、協働することも含めた新しい運動も必要だと思います。

NATOとの関わりですが、日本はNATOにオブザーバーのようなかたちで入っていて、それは中曽根さんの時代にさかのぼりますから、そんなに新しいことではないです。NATOもまたASEANに入ったりしています。ただNATOはヨーロッパにおける集団防衛条約ですから、極東に出てきたり東南アジアに出てくることを任務にしているわけではない。そういう意味でNATOと日米安保は、社交的、儀礼的な関わりは持っていますが実態的な関わりを持っているわけではありません。NATOにおける軍事的な色彩は徐々にではありますが薄くなっている。特にアメリカのプレゼンスは小さくなっている。EUは、EUの中における共通の安全保障といいますが、共通の外交安全保障政策をお互いが納得し、双方とも利益を得るというwin-winの関係を基本にしています。ですから、長期的にいえばNATOが持っている軍事同盟、攻守同盟がもっているような、生きるか死ぬかという足すとゼロになるゼロサムではない共存型の安全保障、それが共通の外交安全保障政策です。そしてEUはそういう安全保障政策を受けて動いているわけです。

でもイギリスもフランスもスペインもポルトガルもかつては帝国主義、植民地国家でしたし、いまもアフリカなどには権益を持っていますからいっぺんに変わるという甘いものでは確かにない。イギリスとフランスは核保有国でもあります。そのあたりのどちらを見るかという見方もありますが、少なくとも冷戦が終わったヨーロッパは共通の外交安全保障政策の中で軍事同盟は次第に価値を減らしていっているところはしっかり見ておかなければいけないと思います。

A  中国をどう見るか。アメリカが中国をどう見ているであろうかということと、もともと中国をどう見るかというわれわれの問題があって、ひとつは分析であり、ひとつはわれわれの主体に関わる問題-日本の選択として中国をどう見るべきかということがあります。同時にアメリカはどこまで本気にやっているんだろうか。 輸出の最大相手国であり借金、債権をいちばんたくさん持っている相手です。冷戦のときにソ連との間では絶対になかった。貿易額なんて限りなくゼロに近かったし、ソ連がアメリカ国債を持っているなんて聞いたこともない。戦争ではない、しかし平和でもない。だから「冷戦」という新しい概念が必要になった。

「新冷戦」という言葉を米中関係でいうことに、私は最初から違和感を持っています。冷戦というのはもっと違う概念の中で生まれてきたもので、それに新という文字をひとつ加えるだけで米中関係を表現するのは正しくないと思っていましたし、いまも思っています。それほど深く通じ合っているわけです。だから何が起こっても不思議はないというところはあります。

もうひとつはアメリカの政策決定過程で大統領・ホワイトハウスと議会という2頭立ての部分です。沖縄の再編問題でもホワイトハウスがやることを議会がノーといって、議会がノーというとお金が出ないから、ホワイトハウスがいくらイエスといってもプログラムが進まない。では誰がアメリカの権力者なのかというと、元首は大統領だけれども財布を握っているのは議会である。どっちを見るのかという問題があります。

さらに財政赤字は歴然たる事実だけれども、しかしあの国の経済界を握っている軍産複合体と呼ばれる巨大な権力、これを侮ってはならない。日本だっていくら財政赤字があっても原子力ムラにはものすごくお金を垂れ流してきたわけですから、そういった闇の権力、アメリカでは軍産複合体、核を開発する中で、マンハッタン計画、原爆製造計画の中でできた関係ですね。実業界、産業界、官僚、政府と学校、シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学など、軍産学複合体です。これも1942年のあたりから始まって、第2次大戦が終わったときには大変なものになっていた。そういうことがあるわけで、だからオバマさんのような人が出てきて財政赤字削減、軍事費を聖域にしないとかいいますが、アメリカを分析するときにどちらを見るかというのは難しい。

わたしは新冷戦という言葉に違和感を持ちますし、中国との間はソ連とのようにはならないと思います。ただ軍産複合体は原潜を造り続けなければならない。オスプレイもたくさん買ってもらわなければならないわけで、そこでのジレンマですね。そうすると海兵隊を減らすわけにはいかない。ということは、海兵隊は沖縄から撤退できない。オバマのジレンマでもある。そのジレンマをどういうふうに読むか、それがアメリカの動向を分析するカギになると思います。

中国とは米中国交回復のようなドラマチックにはならないけれど、アメリカは中国に対して、いま北朝鮮にやっているような扱いはとてもしないし、できもしないですね。ところが日本は北朝鮮の次は中国だみたいなことをいっている。アメリカから信頼されている、任務、役割、能力だとか言っている。愚かですね。北朝鮮に対しても愚かだと思いますが、それに輪をかけて愚かな方向だと思います。南方重視だ、離島防衛だとかいう言い方をしている。

アメリカの政策を冷静に分析するだけで、アメリカはこれまでやってきたような、イラク、アフガニスタン、北朝鮮、リビアに取ってきたものとは違う構えを取っていることは一目でわかるわけです。だとすれば日本も一線を引くということは、彼らの好きな言葉で言えば「国益」という言葉で説明できると思います。わたしは使いませんが、あの人たちが使う言葉としてもじゅうぶん合理化できるし正当なことだと思います。そのあたりがきちんと理解されていないと思います。今日お話しした安保の全歴史は日本に外交なるものがなかった、外交官といわれるような、あるいはステーツマンと呼ばれるような外交問題をじゅうぶんわかる政治家を育ててこなかったという悲しい歴史だったのかもしれません。

Q  第二次世界大戦後アメリカ軍が世界中に駐留している状態が続いているのは、アメリカのどういう戦略がそれを行わせたのか。2番目にアメリカ軍が太平洋しか駐兵する場所がなくなったということですが、冷戦時代の敵国であったソ連も解体したわけで、どうしてアメリカは大幅な軍縮ができないのか。3番目の質問は、武器輸出の関連です。これまでGNP1%以内の軍事費といっていたのがどんどん増えていった。それはアメリカの武器を輸入したと理解しています。そうすると共同訓練というのは、武器というハードの面では統一化されものを使っているのでしょうか。

Q  中国の問題です。軍産複合体がオバマを縛っているということですが、中国の産業にとってもそういう要素があるのではないか。本当にやる気はないのに軍産複合体が利益を上げ、武器を買わせようということがアメリカにも中国にもあるのではないか。それから安保の経済条項に触れられましたが、その事によってより深い従属になったのではないか。経済協力条項については同盟関係にしながら、それは維持していくことはあるのでしょうか。最後に、お話に出てきたのは日米韓豪が主でしたが、東南アジアについてもどうなのかお聞きしたい。

Q 最初の質問は、米軍と自衛隊の一体化が常態化しているわけですが、これは海外との関係上非常にリスクが大きいと思います。特に東アジア、アラブ、中央アジアからの信頼性にとって、アメリカと一体化していると見られることが非常にリスクではないか。また中国との関係を悪化させるのは意味のないことではないかと思うんですが、それをどのように考えるのかということです。日本外交から見ると、国債並びに思いやり予算がアメリカを揺さぶる大きな要素になると思いますが、どう考えられますか。

Q 橋本龍太郎がアメリカに行って10兆円くらい国債を売るぞ、といったら怒鳴り返されてすごすご引き下がったわけです。買うのをやめ、すでにあるものから売れば、日本の財政再建の決め手ではないか。なぜそれができないのか。次ぎに、旧安保で進駐軍が戦争が終わってからもそのまま居座ったことも、アメリカの基地があったり兵隊がいることも非常に異様な状況であって、そういうことはほとんどの人は知らないんじゃないか。

新ガイドラインの中で外国から日本に対する侵略があったときに、その第一義的な防衛は自衛隊がやり、自衛隊が壊滅したあとにアメリカ軍が出てきてもガイドラインに違反にならないわけですね。それだったら守ってもらっているわけではないのではないか。また、安保をやめるときにどういう条件整備をしておけばいいのか。世界全体から武器をなくす、全体の軍縮をいまの政治家が全然やろうとしていないということが非常に疑問です。

A  第2次大戦後、冷戦が始まる前に米軍が世界中にたくさんいたのはなぜか。必ずしもそうではなくて、動員があれば復員がある。戦中戦後というはっきりした区切りを軍隊は持っています。アメリカも第2次大戦後復員します。軍服を脱がして市民に戻す。日本は占領されましたから進駐軍、占領軍がいましたが、ほかのところからは引き上げます。軍隊の数もずいぶん減ります。

冷戦が始まり1949年にベルリン危機があって東西ドイツの間で、ヨーロッパで戦争が起こるかもしれなかった。NATOができるのは1949年です。冷戦という、戦争ではないけれども断絶と敵意をむき出しにした対立です。それでいったん復員した軍隊が再動員で増えていった。冷戦というのは戦争であって戦争ではない。だから動員があっても復員がないということでずっと来たわけです。

同じようにアジアでは熱戦になりました。朝鮮戦争です。帰ったアメリカの青年はまた動員された。当時は徴兵制ですから、簡単です。日本の占領軍は行政的な軍隊で戦車がなかったんです。九州にいた第24師団という陸軍は戦車を持っていませんから、めちゃめちゃに負けてしまってウィリアム・ディーン少将という師団長が捕虜になった。師団長はいちばん後ろで指揮するわけですから、戦闘に巻き込まれるなんていうことはないんですが。1949年から50年にかけて再動員されて、常備軍になって世界にばらまかれるんですね。

駐留米軍が130というのは、大使館の護衛は海兵隊の役目です。そういうのも数えたらそうなるかもしれませんが、軍隊というと数10だと思います。ただ、いったん引いた軍隊を世界中に配置したのは冷戦です。アメリカは20世紀の初頭までは孤立主義、モンロー主義といわれる閉鎖的な性格でした。ヨーロッパに手を出さない代わりにカリブ海とラテンアメリカを含めた南北アメリカ大陸はわれわれの縄張りであるという孤立主義だったのが、ウィルソンが第1次大戦に参戦する。第2次大戦で戦勝国となって、国際連合をつくって常任理事国に筆頭になるということから、軍隊を世界に常駐させることになっていく。

同時に、国内の軍産複合体という経済界と政治と学問が一体となった権力構造ができて、その中で政治が動いていく。いまもそれは依然としてある。核爆弾の数は減ったから核による利益はずいぶん減りましたけれども、武器による利益は依然として大変大きい。特に航空宇宙産業は、衰えたとは言え第2位の敵を持っていません。航空宇宙分野におけるハイテクは余人を寄せ付けない。無人機とかサイバーという分野は軍事から発し軍需によって生きている。ほとんどサイバー領域というのは見えない権力、軍産複合体が新しい分野をつくっていると思います。

武器輸出については共同訓練でそれぞれが違う武器でやったらうまくいきません。違うスペックの武器を持っているから共同訓練でお互いに慣れようという訓練もあるんですが、日米韓とか日米豪は基本的にアメリカの武器です。同じスタンダード。航空自衛隊はF86F、F104、F4ファントム、F15、F35と、できてから今日まで主力戦闘機はアメリカ以外から買ったことがない。海上自衛隊のイージス艦も丸ごとアメリカから買います。イージスという戦闘システムはハイテクの固まりですから、ブラックボックスなんです。開けてはいけない。メンテナンスも含めて全部アメリカから来る技術者に任せないといけない。だから日本の兵器産業に自給率はどんどん減っています。

以前、F4ファントムの頃は国産化率は80%を超えていたんですね。ライセンスを買って日本でつくる。最初の2機くらいは丸ごと買って、次から特許を買って三菱の名古屋でつくる。ところがF35は丸ごと買わなければいけなくなった。イージス艦のドンガラといって艦は三菱とか石川島播磨がつくりますが、戦闘システムはそれだけで5億ドル。イージス艦の建造費の約半分が戦闘システムですが、そっくりそのまま買ってこなければならない。運用のランニングコスト、これもものすごく高いですが、アメリカの技術者に来てもらわなければならない。このように依存度が高くなっている。

国産化率は1970年代が日本の兵器産業、いまは防衛産業といいますが、にとって一番高かった。だんだん小さくなっていった。なぜならアメリカに依存していて、アメリカの先端産業はいまはなりふり構わず利益を上げなければならない。要するに日本にライセンス生産を許すとコピーされてしまう。だから丸ごと買って、中はブラックボックスにする。それでも日本は買うわけです。F35ではなくてNATOが開発したユーロファイターを売り込みに来たけれども、買わなかった。それはやはりアメリカの兵器に慣れてしまった。航空自衛隊のパイロットはそれ以外使ったことがない。大なり小なり韓国もオーストラリアもそうです。だから号令をかければ同じ兵器で、乗組員だけ顔つきがちょっと違うけれども集まってくる。共通語は英語ですから問題はない。

そういうアメリカの軍産複合体に似た構造は中国にもあると思います。かつてソ連にあったビューロクラシー、官僚主義と軍事産業が通じていた。極端なかたちだけれどもソ連には閉鎖都市とか秘密都市がありました。地図にも載っていないし誰も知らない、語ることも禁じられている。そこに住む人には快適な環境が準備されていて普通の市民よりもいい待遇が与えられているけれども、出たり入ったりは自由にできない。ウラジオストックがある時期まで閉鎖都市でした。1986年にゴルバチョフが出てくるまでは。ゴルバチョフが解放宣言をして、そのあとにわたしも行きました。町自体を閉鎖都市にする。中国も似たところがあります。

わたしは無差別爆撃、戦略爆撃を調べていて、それは四川省の重慶がひとつのターゲットで、日本海軍の航空隊がそこを爆撃しました。そこにたびたび行きますが、重慶は軍事都市で、いまもよくわからないことがたくさんあります。わたしは1930年代の戦争考古学とか戦争遺跡学を調べるから、あまり問題にされず大目に見てもらえる。戦争現代学をやろうとするとたちまちおまえはスパイだ、というような雰囲気になる。あそこは原子力潜水艦のエンジンまで、あんな内陸部でつくっています。上海で船体をつくってエンジンを重慶でつくっている。効率は悪いし価格は間違いなく高い。なぜそんなことをするかというと、中ソ対立期にソ連からいちばん遠い地域だったからです。日本に抵抗するときにも、蒋介石は日本からいちばん遠い奥地に構えて抗戦した。

毛沢東も中ソ対立のときには、ハルビンみたいなところについては何もしなかった。ハルビンとか東北地方は工業がものすごく遅れています。中ソ対立以降は東北部に投資をしなかった。翌日には占領されることを覚悟しなければいけないからです。根拠地は四川省などの長江流域です。あのあたりに軍事地帯があるんですね。旧ソ連にも官僚と軍事の結びつきはありましたし、中国にもアメリカとは少し違うけれども同じようなものがあると見た方がいいと思います。それはお互いの利害関係を左右することでしょうけれども、中国がこれから解放改革の中でそれをどのように克服していくかということは課題になると思います。ソ連は過大な軍事投資もひとつの原因となって国家崩壊となったわけですから、そのことは中国の指導者は重々念頭に置いていると思います。

A 安保条約の経済条項は、確かに他の国との間にはない条項ではあるが、それゆえにむしろより深い従属関係をもたらすものになったのではないかというご指摘ですが、それは両面あると思います。より深い関係になったかどうかは、細かく調べていませんので確言はできませんが、この経済条項に最初に触れたアメリカの大統領はニクソンでした。繊維摩擦のときに日米安保条約に経済条項があるのは決して偶然ではない、という言い方で経済条項に触れたことがあります。以後、経済摩擦という言葉で語られる日米関係は、これを引き合いに出してということではないですが、しかし日本に対する圧力として働いてきたことは間違いないわけです。

安保条約にある経済条項は、アメリカがそういうことを念頭に置いて入れたという見方ができないわけではありません。しかし安保条約をなくしていく立場に立てば、むしろこの経済条項を中心にした日米通商友好条約、経済条項を主軸にする。極東条項と極東の範囲における基地の供与という軍事条項を外して、経済条項を軸にリニューアルしようという主張の根拠にもなり得る、そこをどうするかということだと思います。

アメリカの基地のネットワークの中で東南アジアはどうなのか。ベトナム戦争まで動いていたSEATOがありました。いまはASEANがあります。ASEANは基本的にEUと同じです。共通の外交安全保障です。ASEAN10ヶ国は戦争をしません。お互いにwin-winの関係です。いまわれわれが持っている、ゼロサム型ではない集団安全保障は、ひとつはEU、ひとつはASEANです。ASEANの方がむしろ全部の国が核を持っていないし軍事大国もない。ミャンマーが入りカンボジアも入って6ヶ国が10ヶ国になりました。これがうまくいけば大変いい安全保障のモデルになると思います。

A 米軍と自衛隊の一体化がもたらすリスクですが、大きなものがあると思います。むしろ外交の面でいえば私のような現場歩きのジャーナリストにとっては、憲法9条は大変頼りになった。武器輸出しない国、海外派兵をしない国、そしてラジオの小さい性能のいいものがある。1983年と86年にアフガニスタン内戦の取材で、いまでいうタリバンと一緒に山歩きをしました。異教徒ですから彼らか見ると敵だけれども、邪教徒ではない。いまは違うかもしれませんが、当時はそういっていた。かれらは日本というと目を輝かせる。パナソニックではなくて、昔はナショナルといっていた。これがものすごく良かった。ナショナリズムだといって。国をつくるというように思われたんでしょうか。

しかし9.11以降は変わってしまった。カンボジアでずっと一緒だった橋田信介さんというジャーナリストが、イラクでは問答無用で殺されてしまった。なんの交渉もできない。9条を言う間もなく殺されてしまった。以前、ミャンマーにタイから密入国するんですが、国境はルーズだし見つかっても交渉すると、「日本人か、じゃあいいや」ということができた。橋田さんはそういうことをするベテランだったんですね。どんなところでもするりと入っていく。戦場ジャーナリストの第一人者だった。彼の自信のひとつは、日本は戦争をしないし武器も売らない。ナショナルを売っているじゃないか、ということだった。イラクでは通用しなかった。武器輸出をするとなると、武器を売らない国という国家イメージ、ナショナルブランドが壊れてしまうわけですから、その武器で報復されても文句は言えない。わたしはもう戦場取材はないからいいんですが、後輩がそんなことになっては大変です。

アメリカ国債を売ると、それはいいけれどもドルが減価して円が高くなる。ドルを世界の基軸通貨にした以上、これが信用力を失うと日本の輸出力がたちまち悪くなるというジレンマ、逆説があります。ただやはりときには言わなくてはいけないですよね。橋本はそれを言ったわけですね。

アメリカの参戦義務がはっきりしているのは、アメリカの基地が攻められたときはたたかうでしょう。横須賀が攻められた、横田が攻められた、厚木に攻撃が加えられた、沖縄が攻められた、それ以外はワンポーズおくことは間違いないですね。沖縄の海兵隊は戦車を持っていませんから。朝鮮戦争のときの戦力と同じですから、海兵隊の抑止力なんて言う人はかなり愚かですね。そういうオーラは日本にいる海兵隊にはないし、能力もないということです。

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<本の紹介>戦後沖縄の人権史 ― 沖縄人権協会半世紀の歩み

沖縄人権協会 編著

本書は「基地と人権」の視点から沖縄67年をたどり「復帰」40年になる今なお、沖縄の人々の決定権が排除される状況を浮き彫りにしている。一方で県民の抵抗の力は、米統治下でも人権回復を求めて時にはマグマとなりアメリカを揺さぶり、近年の辺野古新基地建設阻止の16年に及ぶたたかいを後戻りのないうねりとして捉えている。

法的にも無憲法下におかれていた沖縄で、人々の「駆け込み場」として1961年に誕生した「沖縄人権協会」が、普天間とともに歩んだ歴史でもある。

1945年4月、米軍が日本「本土」爆撃機B29の基地として占領、建設した普天間、「世界一危険」と言われながらも閉鎖すらされない普天間について、憲法学の高良鉄美さんは「典型的な沖縄問題」だという。沖縄が何故私たちの問題ではなかったのか。私はどうしてもこの問いを発したくなる。高良氏によれば「普天間は日本国民の問題ではなく沖縄と米軍との関係の問題のようにすり替えられてきた」のだと。「沖縄問題を理解する座標の間違い」として続いていたことが問題なのだ。

政府もマスコミもそして「本土」の私たちも「傍観者」と位置づけられる。国による意図的分断が謀られたにせよ、講和条約の発効した1952年4月28日が、沖縄の人々にとって「屈辱の日」となったことはまぎれもない事実であり、「本土」の人間の裏切り行為であったことを思い知らされる。沖縄を「本土」から切り離すことを是認する「天皇メッセージ」の存在が1979年に判明した時、「本土」がどれほど怒ったであろうか。1972年の「復帰」の陰で基地の自由使用をアメリカに認めた「裏切り」があり、遡れば苛酷な沖縄戦の犠牲を強いたことも同様であったと、本書を手にしてあらためて心に刻むのである。

ここでは時代を次のように分けて判りやすい。第1の区分は戦後~米軍基地が本格化する50年から60年までを「人権協会設立以前」としている。米軍のブルドーザーとトラクターが住民を襲っていた。51年に日本復帰を望む72%の声がありながら、それを押し潰し「本土」の人間が想像もし得ない光景がくり広げられたのである。「土地闘争は人権闘争」であり沖縄人権協会が生まれていく素地が伝わる。宮森小学校ジェット機墜落事件もこの時期(1959)であった。

第2区分は「人権協会の草創期」とし、61年から71年、米国統治最後の10年でもあるが悪名高い高等弁務官時代、司法権がアメリカにあるなかで「人権協会」の役割はどれほど大きかったかと思われる。ベトナム戦末期の時期、ことに米兵犯罪、基地災害は「侵される人権状況」を生み出し、「沖縄返還運動」の高まりもうなずけてくる。

第3区分は「沖縄返還と人権の新しい展開」として72年から79年を入れている。72年5月15日、「平和憲法の下への復帰」は、政府のいう「核抜き本土並み」ではなく、基地の集中と自衛隊配備をも含む『返還協定』があり、まさに「住民を欺きながら日米共同管理体制」をしくものだった。「復帰」に関連しては、「沖縄返還密約事件」と並んで、有事の際の「沖縄核持ち込み」密約が発覚している。これは「非核三原則」を沖縄には適用しなくてもよいとする差別的取り決めであり、大きな人権問題が隠されていた。

第4区分は80年代、政府の米軍基地支援政策(中曽根政権)のなかで沖縄では「保守化する政治」が出現している。米軍と自衛隊の共同行動が重視策へ入ったという、重大な憲法問題があったことがわかる。この時期は女性の人権が、いわゆる「トートーメ慣行」(位牌継承)を問う社会運動としてとりくまれたことが注目される。この動きが95年9月の海兵隊員による少女レイプ事件抗議の「原動力」となったことが理解できる。

第5~6区分は「90年代から21世紀に続く人権問題」として永吉盛元弁護士が米兵犯罪、県民投票、知事の公告・縦覧「代行」、SACO報告、名護住民投票などをとりあげている。沖縄ではとりわけ米兵、軍属による犯罪と裁判権が問題になるが、「日米地位協定」の米軍優位性の壁が解消されない限り、真の人権の回復に至らないことを痛感させられる。

加えて見落とせないのは永吉氏が「沖縄に住む者にとってさらに問題なのは日米合同委員会の存在である」としていることである。ここで合意される内容が「生活と権利に大きな障害を与える」にもかかわらず公表されないのはどういうことか。本書のコラム「安保条約と日米地位協定」で重要な指摘をされている。この他にも「コラム」は20に及び、それぞれ具体的な人権問題をとりあげており、ここを読むだけでも学ぶものは多い。

本書の冒頭で、「人権協会」の発足時から中心的に活動してきた福地曠昭さんは「なぜ沖縄が怒り、基地を拒否するのか、沖縄が何を求めているのか、沖縄問題の原点が何かなどに関心を持ち続けてほしい」と述べている。この言葉をおろそかにしたくない。
(ふぇみん婦人民主クラブ 山下治子)

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