私と憲法132号(2012年4月25日号)


憲法審査会の始動を機に登場した 改憲論の大合唱に抗して

(1)原発震災の危機に乗じて活発化する改憲論

明文改憲をめざした安倍晋三内閣が2007年に自壊して以来、しばらく鳴りを潜めていた憲法改悪の企てが、ここにきて一斉に活発になっており、さながら「改憲論再起動」の観がある。

そのきっかけは昨年3月の東日本大震災と、11月からの憲法審査会の始動である。

憲法審査会での議論では、冒頭から改憲派の委員から東日本大震災を口実として憲法に「非常(緊急)事態条項」「国家緊急権条項」を導入すべきだとの主張が噴出した。また自民党は2005年に採択した同党の新憲法草案を今年の4月28日(サンフランシスコ講和条約発効60周年)を期していっそう復古主義色濃く改定しようとする動きに出ており、「みんなの党」も復古主義と新自由主義を一体にしたような「改憲大綱」を同日までに出す予定であり、平沼赳夫氏らの「たちあがれ日本」も同日までに自主憲法案をとりまとめる予定だ。さらに第3勢力をねらって企てられている橋下大阪市長ら維新の会の新党結成の動きのなかでも第9条改憲が主張されている。「読売新聞」「産経新聞」は憲法への「非常事態条項導入」論に呼応してキャンペーンを行い、この中で「産経」は来年5月までに同社の「新憲法」要綱をまとめると発表した。これらの動きに引きずられて、従来、明文改憲には比較的消極的であった民主党も改憲論議を始めている。

そして、野田政権のもとで、この間、長期にわたって事実上の「国是」とされてきた武器輸出3原則の緩和につづいてPKO5原則、非核3原則などの平和原則もタガをはずしたかのごとく緩和される動きが強まり、南スーダンへの自衛隊派兵につづいて、ホルムズ海峡への派兵も検討されており、一方、北朝鮮のロケット発射に乗じて沖縄・南西諸島へのPAC3とイージス艦の配備などが大々的に行われ、東アジアの軍事的緊張を高めた。

これらの動きを反映してか、3月19日に発表された読売新聞の「憲法」世論調査では改憲賛成が54%、反対が30%で、改憲賛成が同社の昨年9月調査よりも増加(11%)した。しかし、9条については改憲賛成が39%、9条は改憲しない(「これまで通り」+「厳密に守る」)が52%で、これは2006年以来、引き続き5割を超えている。

東電福島第一原子力発電所の大事故をはじめ東日本大震災の災害の膨大な数の被災者がいまなお苦しんでいるさなかに、憲法に責任を負うべき政府や国会がまず第1に実行しなくてはならないのは改憲論議などではなく、憲法の精神を生かし、実行することであり、被災地に対する第25条の生存権をはじめ憲法第3章が規定するさまざまな基本的人権の保障であり、憲法前文がうたう平和的生存権の保障であるはずだ。

(2)憲法審査会の始動とその問題点

両院に憲法審査会が設置されてから、やがて半年になろうとしている。
憲法審査会は安倍内閣の当時、強行採決された憲法改正手続法が設置を定めたものだ。それは同法の制定の過程の問題(国会の憲法問題の審議に対する安倍内閣による政治的介入に基づく強行採決など)や、同法にいくつもの重要な「附則」や18項目もの「附帯決議」が付いたことに見られるように、審議不十分で重大な欠陥を持った法律であった。その結果、衆院が麻生内閣時代に憲法審査会「規程」策定を強行したものの、民主党の反対を含め、憲法審査会は4年以上にわたって始動できなかった。しかし政権交代の後、民主党が参院選で敗北し、衆参両院の議席が与野党ねじれ状況になったことから、民主党は国会運営の都合で自民党の執拗な要求に屈し、大震災直後の2011年5月には参院で憲法審査会「規程」を採決し、10月には社民党や共産党などの反対を押し切り、審査会の始動を強行した。

11月からの第179臨時国会での両院の憲法審査会の議論は、2000年1月から国会に設置された憲法調査会以来の国会審議の経過を、その間、衆議院での会長を務めてきた中山太郎元外相や関係政府当局より聴取することから始まった。いま、その両院での議論は改憲手続き法の「附則」「付帯決議」などのいわゆる「3つの宿題」((1)18歳投票権実現などのための関連法制の整備、(2)公務員の政治活動に関連する法整備、(3)憲法以外の一般的課題での国民投票について)に関する議論を、形式的にこなしただけで、次に進められようとしている。特に自民党の小坂憲次氏が会長を務める参議院憲法審査会では憲法調査会や改憲手続き法の議論を早々と終えて、4月からは「東日本大震災と憲法」というテーマで「人権保障」「統治機構」「国家緊急権」などについて順次、参考人質疑などの論議を進める予定である。

そもそも憲法審査会が改憲手続き法の「宿題」、たとえば18歳選挙権などの法整備が達成されないまま憲法審査会を始動させることは改憲手続き法が想定していなかった事態であり、本来、法の運用の手続き上からも重大な問題があった(審査会の参考人で出てきた船田元・元衆院議員もその立法趣旨の説明で、この点に言及している)。同法制定当時に憲法調査特別委員会で議論された立法趣旨で、法施行のための前提とされていた条件整備が全くされていないもとで、始動が強行されてしまったのである。

それだけでなく、審査会の議論が、同法が残している課題を「3つの宿題」とよばれる点に絞っていることも大きな問題がある。同法の採決時には、参議院では18項目の「付帯決議」をつけて議論が不十分な点を「宿題」にした。「3つの宿題」以外にも、同法に最低投票率規定がないことや、国民投票運動におけるテレビ、ラジオの「有料広告」の可否、国民投票運動における罰則の問題などなど重要問題の「宿題」が少なくない。これらの問題が、改憲ありきの憲法審査会の議論において、ほとんど論じられなかったし、「3つの宿題」も形式的な議論だけですまされようとしていることは、憲法審査会の姿勢が問われることだ。付言すれば、あれだけ憲法審査会の始動に熱心だった自民党が、いざ始まった審査会の会議の場では13人中、2~3人しか出席していない場面がしばしばあるのはどういうことなのか。

(3)危険な非常事態条項導入論

冒頭で指摘したように、憲法審査会の議論で特徴的なことは、改憲派が相次いで「非常事態条項を憲法に書き込め」という声をあげたことであり、読売新聞や産経新聞などのメディアもこれに呼応している。この両紙は大震災直後の昨年五月にも「憲法への非常事態条項導入」を主張した。憲法審査会では、中山氏や自民党の委員らは相次いで「3・11」大震災の発生とそれへの対処で、政府の対応の立ち遅れを指摘しながら、その原因として憲法に「非常事態条項がない」「国家緊急権規定がない」ことをあげ、現行憲法を欠陥憲法だと指摘することで改憲の緊急性を主張した。

「非常事態条項」導入の議論は自民党の委員がリードしている形であるが、警戒を要することはすでに民主党が2005五年に発表した「憲法提言」で、「国家緊急権の明示」が主張されていることだ。加えて、民主党は本年2月末に開いた憲法調査会(中野寛成会長)で、憲法改正に向け「大震災などに際して政府に強力な権限を付与する緊急事態条項の創設についてまとめる」方針を確認した。もしこの両党が「緊急事態条項」導入で歩調を合わせれば改憲翼賛国会的な状況が生まれかねないのである。

憲法に非常事態条項が書いてなかったが故に、大震災に対する菅内閣の対応が不十分だったのではないことは、すこし物事をまじめに見れば明らかである。震災対応は現行憲法のもとで、災害対策基本法など諸法律を運用し、あるいは積極的に被災地救済のための新規立法を措置し、法制度を整備することで十分可能である。実際、東日本大震災の現場から、憲法に「非常事態条項」を要求するような声など全く出てきていない。

改憲論者による憲法への緊急事態条項導入論は古くから改憲論の一つの論点であり、たとえば2000年の読売新聞第2次改憲試案のなかでも提起されている。それを改憲派が東日本大震災の機に乗じてまたぞろ持ち出した、これはショック・ドクトリン的な惨事便乗型改憲論であり、不謹慎である。

中山太郎元憲法調査会会長は2011年8月、「緊急事態に関する憲法改正試案」を発表し、全国会議員に配布するなど、熱心にこれを主張している。中山試案は「地震、津波などによる大規模な自然災害、テロリズムによる社会秩序の混乱その他の事態」に対応して、「内閣総理大臣による緊急事態宣言」をだし、総理大臣が、行政機関の長を指揮監督し、自治体にも指示でき、財政措置をとれるようにする。通信の自由、居住・移転の自由、財産権などの制限もできる、などというものである。ここで語られているのは基本的人権である自由権の制限と、総理大臣の強権の下での政令政治による民主主義破壊である。

緊急事態条項の憲法への導入論者は「ほとんどの国の憲法に規定されている緊急事態への対処に関する条文」(3月4日、読売新聞社説)だなどという。だが日本国憲法に国家緊急権条項、非常事態条項が盛り込まれなかったのはなぜなのか。いうまでもなく、日本国憲法のもっとも重要な特徴は前文に規定された平和的生存権と第9条の平和主義である。これは読売新聞社説がいう「ほとんどの国の憲法」にはない。それらの国々の憲法は「戦争ができる憲法」である。このふたつの問題は表裏一体の関係にある。

大日本帝国憲法には「「非常大権(31条)本章[第2章 臣民権利義務]ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」など、非常事態を理由にした人権破壊の条項があった。この天皇の非常大権を規定した大日本帝国憲法のもとで、治安維持法にみられるように人びとの人権が剥奪され、反戦の世論を弾圧し尽くしながら侵略戦争に突入し、内外に多大な惨禍をもたらしたことへの反省から、日本国憲法は出発した。平和主義の立場をとる日本国憲法は、もともと非常事態条項を必要としていない。中山太郎氏らの非常事態条項導入論は、大震災を口実にするが、その実、第9条の否定の意図と不可分である。

確かに今回の東日本大震災と原発震災への日本政府の対応は大きな問題があった。しかし、それは「憲法に非常事態条項がないからだ」などという改憲論者の立論はあまりにも手前勝手な議論で、的はずれである。国際的な支援や、国、各自治体の公務員たちだけでなく、実に多くの民間の市民ボランテイアが現地におもむき、活動を展開した。にもかかわらず、菅内閣はとりわけ原発震災にたいして、憲法を生かして被災地に適切、果敢な救援策をとることが出来なかった。それだけでなく、より本質的には福島、宮城、岩手をはじめ東日本の人々が被ったあまりにも多大な惨禍の責めは、「想定外」という言葉に象徴されるように、この半世紀以上にわたって財界のための経済・産業政策を推進することで東日本経済を収奪し、そのもとで安全神話をふりまいて東京電力をはじめ原子力発電を野放図に推進しながら、事故への対応を想定せず、あるいはこのところの新自由主義改革路線のもとでの「構造改革」の推進によって地方自治と地域のコミュニティを破壊して、東日本一帯を疲弊させてきた歴代政府の政策が負わなくてはならない。地震と津波は、この疲弊した東日本の社会を襲って、莫大な災禍を与えたのである。

自民党などの政治家たちによる「非常事態条項」導入論は従来の誤った政治の責任を覆い隠す「イチジクの葉」そのものである。

(4)自民党の第二次新憲法草案の問題点

政権奪回をねらう自民党は憲法審査会の始動を機に、憲法改悪に向けた議論を一気に進めようとしている。2009年の政権交代で民主党が政権党になったが、その後、民主党はマニフェストを放棄し、民主党の自民党化、保守2大政党状況が進んでいる。この下で、自民党ではその立ち位置をより右傾化させることで独自性(「自民党らしさ」)を発揮しようとする動きが顕著になり、憲法問題へのスタンスにもその傾向が濃厚に反映されつつある。同党が最近まとめた次期衆院選マニフェスト骨子では非常事態条項などを強調した改憲案が7項目の公約のトップに並べられた。

自民党は立党50周年の2005年の大会で新憲法草案を作成したが、これは中曽根康弘氏など党内の極右派から、「穏健すぎて自民党らしさに欠ける」と批判を浴びてきた。そこで本年1月の自民党第79回大会では「(東アジアの緊張や)昨年3月11日の東日本における大災害などにいかに対処すべきかなど国家の非常事態への対応を憲法上に規定することが必要だ」として「4月28日は、わが国が主権を回復したサンフランシスコ講和条約発効から60年にあたる。それまでに……新たな憲法改正案を策定し、国会への提出を目指す」と決議し、憲法改正推進本部(保利耕輔本部長)で第2次改憲草案作りをすすめている。

最終案は4月28日までにまとめられるが、明らかになった「原案」の特徴的な項目は以下のようなものである。
前文では日本を「長い歴史と固有の文化を持ち、日本国民統合の象徴である天皇を戴く国家」と規定し、その伝統を継承するとした。第1章では、天皇は「日本国の元首であり、国民統合の象徴」。「国旗・国歌」は「国の表象」。「元号」の明文化。第2章では「自衛権」と「自衛軍」(最近の議論では国防軍とする意見が多数だと言われる)を明記、集団的自衛権の行使、軍事裁判所の設置、第3章では、選挙権は日本国籍を有する者のみ、家族の尊重、緊急事態に政府の責任で「在外国民を保護」、犯罪被害者家族への配慮など。第8章に、あらたに緊急事態条項を設ける。第9章で憲法改正発議は両議院の総議員の過半数、国民投票は有効投票の過半数。第10章は、国民の憲法尊重義務を規定、などなどである。

天皇元首制の復活、第9条の生命線である第2項の完全否定、緊急事態条項設置、憲法擁護義務での立憲主義の否定などなど、あきれるほどに復古主義的な内容である。それだけにたとえば「天皇元首」規定に福田康夫氏や石破茂氏などから不満も出ており、細部には不確定な要素がある。いずれにしても、このような改憲案が野党第1党の機関で議論されていることは容易ならないことである。

(5)その他の改憲新党の改憲論

一方、政権交代の結果への失望などから、政治の閉塞感は若者をはじめ広範な人々の間に蔓延している。民主党には失望したが、かといって自民党に戻っても期待できないというのである。このなかで有権者の一部では新党への期待感が広がっている。

民意の受け皿として「第3極」づくりをねらう平沼赳夫、亀井静香、石原慎太郎ら古手の政治家による新党結集の動きは、綱領に改憲を掲げることを明確にしており、なかでも石原慎太郎都知事は新党に参加するなら「憲法の破棄を綱領に入れる」「改正しようとすると、国会の3分の2の議決とか、国民投票がいる」と述べ、改正手続きを経ずに破棄すべきだとの考えである。石原にとっては、もはや憲法尊重義務などの自覚は全くない、超憲法的な強権政治願望だけである。

これとは別に「維新の会」の橋下徹・大阪市長らはその政策要綱を明治維新期の坂本龍馬に倣って「船中8策」と称し、その政策に9条改憲を掲げつつ、「国家元首は天皇」と明示することも明らかにした。橋下らはこうした超右派的な主張とあわせて、「首相公選」「参議院廃止」など改憲なしには不可能な課題を政策に掲げ、受けねらいの「遺産全額徴収」「脱原発依存」「道州制」「消費税反対」などを言うことで、平沼らの復古主義的な改憲論とは味付けを変えている。小泉純一郎元首相の劇場型政治ばりに、世論の動向とメディアを意識して、受けそうな政策をつぎはぎする橋下維新の会の政策は、まさにポピュリズムである。「船中8策」などというが、その実、体系的な国政の政策の持ち合わせはなく、橋下流の新自由主義的なイデオロギーを基盤にした箇条書きのまとまりのない政策要綱にすぎない中でも橋下氏の憲法第9条についての発言は見逃せない。「(9条は)他人を助ける際に嫌なこと、危険なことはやらないという価値観だ。国民が(今の)9条を選ぶなら僕は別のところに住もうと思う」(3月24日、記者会見)「憲法九条改正の是非について、2年間国民的議論を行った上で国民投票で決定すべきだ」とのべ、96条改憲にも言及した(同日、ツイッター)。「震災直後にあれだけ『頑張ろう日本』『頑張ろう東北』『絆』と叫ばれていたのに、がれき処理になったら一斉に拒絶。全ては憲法9条が原因だと思っています」「平和には何も労力がいらない、平和を維持するために自らは汗をかかないという趣旨だ」「同じ国民のためしんどいことをやるとか、嫌なことでも引き受けるとか、そういう教育は受けてきたことがない。教職員組合や職員が僕らに憲法9条の価値観を徹底してたたき込んできたんじゃないか」などなどである。

はじめに9条改憲ありきの支離滅裂の飛躍した論理である。

橋下氏は「選挙で選ばれたのだから正しいのだ」という論理で、強権政治を正当化する。こうしたファシズムもどきの政治手法が閉塞感をもった一定の人びとをとらえている事実は軽視できない。

「みんなの党」は28日までに憲法改正大綱を公表するとしているが、その原案骨子の内容は自民党の第二次改憲草案や維新の会の橋下の改憲論と多くの点で重なっている。

「天皇は象徴で元首」、「国旗は日章旗、国歌は君が代で、国の表象」、「国軍を保持」し、軍事審判所を設置するなどの復古主義的な主張に加え、「一院制」と首相公選、道州制、などを主張し、憲法改正は、国民投票制を削除して、「国会議員の5分の3以上」で可能にするとしている。

もしも、これらの改憲案を掲げた自民党、橋下新党、みんなの党などが国会で大きな部分を占めることになるとすれば、改憲の流れが大きく加速しかねない。事態は重大である。

(6)改憲の流れに反撃しよう

改憲派による解釈改憲、明文改憲の両面からの憲法への攻撃が再起動した。これら改憲攻撃の様相は90年代や小泉、安倍の時代よりも、よりいっそう激しさを帯びている。私たちはこの攻撃に立ち向かわなくてはならない。

第1に、2006年から07年にかけての安倍晋三内閣の改憲攻撃の暴走を打ち破った9条護憲のたたかいは、「9条の会」や「憲法行脚の会」をはじめ、多様な草の根からの市民運動の組織化と世論への働きかけにきわだった特徴があり、この経験に学ぶ必要がある。運動が世論をつくり、世論が安倍内閣をして絶望させ、改憲暴走を阻止したのである。いま、マスメディアや電子メディアを駆使した改憲攻撃へ、こうした草の根からの反撃が求められている。

第2に、原発震災など東日本大震災の被災のもとで共に生き抜くたたかいのなかで、これと憲法を生かし、実現する運動を結合することが重要(次頁下段につづく)である。ポスト「3・11」を自任する新しく台頭してきた脱原発社会の実現をめざす広範な若者やお母さんたちの運動と融合したあらたな憲法運動の構築が求められている。平和的生存権や基本的人権を生かし実現する改憲反対の運動は脱原発の運動の政治的思想的背骨となって、その発展を保障するものとならなくてはならない。「護憲」運動はここでこそ真価を発揮しなくてはならない。

第3に、こうした運動を背景にして、国会における改憲反対勢力の拡大と大胆な共同をめざして、登場した改憲論の危険性を暴露し、民主党などの議員への働きかけを強化する必要がある。私たちはいまこそ可能なあらゆる形態の運動を駆使して、9条をはじめとする憲法改悪を阻止する広範な共同を形成するために奮闘しなくてはならない。

2012年4月5日
(「月刊社会民主」5月号原稿に若干加筆した 高田健)

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第67回市民拳法講座(要旨)
足尾から福島-公害の歴史から原発震災を問う-

菅井益郎さん(國學院大学教授・市民エネルギー研究所)

(編集部註)3月17日の講座で菅井益郎さんが講演した内容を編集部の責任で集約したものです。要約の文責はすべて本誌編集部にあります。 

100年公害になるんじゃないか

田中正造が亡くなって来年9月で100年になります。今年が100回忌です。田中正造は群馬県の古河を活動拠点の一つにしていましたが、昨年から準備して、今年の4月29日は古河周辺を勉強会しながら歩くことを企画しています。

足尾から福島ということですが、わたしが最初に飯舘村に入ったのは昨年の3月28日でした。昔から知り合いの京都大学の今中哲二さんから手伝ってくれといわれて、わたしでも記録係とか運転手だったらできると思って集まっているうちに、朝日新聞の一面に今中さんのチェルノブイリ並みの、あるいはそれ以上の土壌汚染があるという記事が、確か3月25日に出ました。その記事を見た、ずっと飯舘村に入って村づくりをしている日本大学の生物資源科学部の人たちが、ぜひ協力したい、教えてくれという連絡が今中さんのところに入った。こちらは飯舘のことを何も知らないで、とにかく突っ込んで入ろうということですから、ちょうどよかったと、彼らに村の方にも連絡してもらいました。

菅野村長は、とにかく政府は何も教えてくれない、調査には来るけれど、測定しても何もデータを出さない。さっと土を掘って袋に入れてぱっと逃げちゃうというんですね。そういう状態なので別のタイプの研究者が来ることについては、はじめは非常に協力的でした。あの頃は雪が降っていまして、村から大きな車を出してくれ、村のことをいちばんよく知っている人を運転手につけてくれて、おかげさまで2日位のあいだに村の中をくまなく測定して写真も撮りました。これはいくつかのテレビでも報道され、このあいだ名古屋テレビが出したのがTBS系列で夜中に流れました。

飯舘に入って最初にびっくりしたのは、これはひょっとすると足尾みたいに100年公害になるんじゃないか、直感的にそう思ったんですね。それは人がまったくいないわけじゃないですが、この春の、寒いですけれどもちょうど芽吹いてくる時期ですが、何かおかしい、異様な感じがしたんです。

土壌の汚染は、実際に測定結果が出るのは4、5日かかりました。広島大学の遠藤暁さんが全部分析し、案の定すごい汚染でした。われわれも空間線量を計りながら、これは結局土壌を除去しなければ農業できないと思ったんですね。足尾の鉱毒被害地は、歴史的にずっと鉱毒汚染土を集めて毒塚というのをつくっていたんです。しかしふっと考えたときにこれは毒塚では済まない。鉱毒被害地の汚染は灌漑用水を伝って流れてきたわけですから、灌漑用水を止めれば、あるいはそこを除去すれば、田んぼを除去すれば、それ以上は入ってこないということになるわけです。実際にはそうはいきませんでしたが。

でも放射能は全面汚染、野も山も森もすべて汚染です。森の中に入れば入るほど線量は上がります。飯舘から葛尾などに入っていくと、どんどん汚染度が上がります。そういう状況考えると、これは足尾鉱毒事件の再来だなと思ったわけです。

時代の普遍性をつかんでいた田中正造

レジメのはじめに田中正造の言葉を入れました。「デンキ開ケテ、世見(ママ)暗夜となれり」。これは「物質上、人工人為の進歩のみを以てせバ社会は暗黒なり。デンキ開ケテ、世見暗夜となれり。然れども物質の進歩を恐るゝ勿れ。この進歩より更二数歩すゝめたる天然及無形の精神的の発達をすゝめバ、所謂物質彬々知徳兼備なり。日本の文明、今や質あり文なし、知あり徳なきに苦むなり。悔改めざれバ亡びん。今己に亡びツ々あり。否己ニ亡びたり。」の一部です。

「徳なきに苦むなり」、の「徳」というのはモラルです。現在はモラルハザードなっていいます。これは1913年7月21日の日記です。田中正造は9月4日に亡くなりますから、直前に書いています。ずっと読んでいったときにこの文章はすごく残ったんです。

いちばん有名な田中正造の言葉、これはみなさんも見たこともあるでしょう。「真の文明ハ山を荒らさず、川を荒らさず、村を荒らさず、人を殺さざるべし。古来の文明を野蛮ニ回らす。今文明ハ虚偽虚飾なり、私慾なり、露骨的強盗なり。」

今のいちばんの文明大国をアメリカだとすると、アメリカは山を荒らし、世界中に出かけていってはそこで戦争を仕掛けて自然を破壊し尽くし村を破って人を殺しているわけで、名前だけの文明国であって本当の文明大国ではない。日本はどうかというと、似たようなものかもしれませんが、アメリカよりはちょっとましかなということかもしれません。わたしはよく学生に試験問題に出します。現代の問題と関係させながらこの言葉の意味を説明せよとやるんですが、みなさんはいかがですか。田中正造というのはそういうふうに見ますと現代を見通しているところがありますね。当時の時代を通して現代を見ているというか、その時代の普遍性をつかむと、それは歴史的に普遍的なものなんですね。

先日、吉本隆明が亡くなりました。かつてわれわれも心酔しました。しかしわたしの家では吉本の本は全部横に積んであります、いまや。新聞はどこも吉本隆明はすばらしいとしか書かない。わたしが吉本隆明はまずいと思ったのは埴谷雄高と論争になった、コムデギャルソンの宣伝にのって大衆消費文化を叩いた、そのときにおかしいなと思ったんです。

そのあとに読書新聞に放射性廃棄物は宇宙的次元で解決されるべきだということを、たしか1981年頃に書きました。それ以降、彼はずっと原子力礼賛ですからね。新聞でもなんでも、なぜ吉本隆明をあれだけ評価するのか。人生全体の中で吉本隆明をどう評価するのかとならないで、もてはやすだけです。島根の人形峠のウランに関する反対運動をしている土井淑平さんがすごく怒っています。わたしも怒っています。なぜ変わったのかと考えますと、田中正造はまったく変わらない、変わらないというかもっともっと真理は何かということを、本当の意味で民衆の側についてたたかい続けた。そこが吉本隆明はちょっと安っぽくなった、ひらひらになってしまってぱっと消えてしまった。それをなぜいまさら持ち上げるのか、田中正造こそ持ち上げられなければいけないと思います。

押し出しの根幹にある「鉱業停止論」

話が飛びましたが、そういう現代を見通すような言葉を彼は文章ではなく日記に書いているんですね。自分のそのとき行き詰まった中からはき出すように書いています。田中正造全集は1977年に出ます。全20巻。その後1巻出て21巻になります。熊本大学の小松裕さんという方が、ずっと鹿野政直さんのところで田中正造の研究をしていて全集の編纂にも関わっていますので、田中正造について彼の右に出る人はいませんが、彼が見ていないところがあるとわたしは思うんです。

それは何か。鉱業停止論というものがあります。田中正造の場合には、対政府の鉱業停止論、政府に対して鉱業の停止を要求する。これを運動全体に広げていった。それを受けて、東京へ向かって4回にわたって数千人の人びと――最後は3000人ですが、押し出していきます。交通が便利じゃない時代ですが、船に乗ったり、だいたいは歩いて行きます。その押し出しの根幹になっている田中正造の鉱業停止論とは一体何か。

実は、わたしが最初に足尾鉱毒事件にぶつかったときに、何でだ、と思いました。それまでは公害問題をやっていて、公害というのはその公害を起こした加害企業に対して直接たたかいを仕掛けるわけです。それだけの力がないところは、村役場だとか町役場などの行政を通して働きかけるとか、いずれにしてもそういう対応をしました。政府に、直接その問題の本質をたたきつけるという運動は、60年代の反公害闘争にもありませんでしたし、その後の運動の中にもないわけですね。それも直接行動であらわしたんですね。わたしはそこが非常に重要だと思って、百科事典とか歴史事典などをだいぶ書き換えました。

田中正造の戦略というのは、非常に重要だとわたしは思っています。彼の思想は残っています。わたしも彼の思想を借りて話します。だけれども本当に重要なのは、運動論だと思っているんです。戦略論だと思っています。田中正造のことをやる人は、だいたい思想や歴史から入る人が多いですが、運動論から入る人はいない。運動論から田中正造を評価し直すといったのは、わたしと東海林吉郎さん――10年ほど前に亡くなりましたけれども――です。田中正造の戦略論ということで意見が一致して、2人で「通史足尾鉱毒事件」という本を出しました。今はもう本屋にもありませんが、6刷か7刷まで出ました。福島の原発公害が起きた今年こそ出せといわれていますが、足尾鉱毒事件の全体が見通せるものなんです。

これは宇井純さんにけしかけられたんです。古河鉱業が足尾再開発をするときから始まって1980年代までの状況を書きました。なぜ足尾鉱毒事件の被害民、あるいは足尾銅山にあれだけの運動のエネルギーがありながら、古河の本店に押しかけなかったのか。前からわたしはこれが疑問なんですね。この疑問はまだ解けないんですが、みなさんどう思われますか。みんな足尾鉱毒被害民の運動を素直にとって、田中正造はすばらしいということになっている。すばらしいけれども、しかしなぜ加害者の連中と直接対決しなかったのかということです。

これはのちに毛里田村の鉱毒根絶同盟会、板橋明治さんが会長です。最初の会長の恩田正一さんはそういう疑問をあまり持ちませんでした。板橋さんはいま92歳ですが、わたしに同じことを言うんです。そこを解明しなければダメだろうといっているんですが、足尾鉱毒事件や、田中正造の研究をやっている人たちはその問題は取り上げない。

運動のかべを破る鉱業停止論

ここで田中正造が対政府鉱業停止運動というかたちで、運動論をつくっていった時期はいつなのかを見極めていきますと、はじめに鉱毒被害が出てくるのは1882年から83年ころです。それが1885年くらいに足尾で富鉱体が見つかって、その富鉱体を大規模に掘って精錬する。当時は住友の別子銅山が日本一でした。それを半年くらいのあいだで抜いて、日本一になります。

鉱毒事件が明治18年くらいから出てきます。下流の鮭がみんな死んでしまう。渡良瀬川沿岸には3000人くらいの漁民がいたといわれていましたが、その人たちの生活が成り立たなくなってしまう。明治20年(1887年)くらいから、そういう問題がぽつぽつ表に出てきている。そして明治23年(1890年)の大洪水で、渡良瀬川沿岸の鉱毒被害が広がった。これが、上流の足尾銅山のせいだ、古河市兵衛のせいだということになるわけです。翌年の1891年12月に最初の田中正造の鉱毒演説が行われています。その頃から広がっていくんですが、まだ田中正造は明確に対政府鉱毒停止論を唱えていたわけではないと思います。

そのあと示談契約の問題があります。政府や古河が一体となって示談契約を進める中で示談契約を打ち破ろうとしても、なかなか打ち破れない。少しでもお金をもらった方がいいという農民たちの気持ちもあります。いまもらっておかないともらえなくなるぞ、ということですね。被害もまだそれほどでもない。そういう中で田中正造たちの運動は、いったんは後景に退く感じになります。

時代の状況もあります。日清戦争です。日清戦争が目前に迫っている中で、運動はどんどん控えめになっていきます。田中正造自身も控えめになります。当時は、日清戦争はやはりたたかわなくちゃダメだということになります。日露戦争のときとはかなりスタンスは違います。日清戦争に勝ったことを田中正造は評価しています。

その直後、1896年の4月と9月に大洪水が起きます。鉱毒というのは重金属であり、いわば鉱石から鉱物分を抜いた残りの廃石分の中に、たくさんの鉱毒分が入っています。足尾銅山は山の中で平地がありませんから、雨が降ったときはダイナマイトを仕掛けて構内水どんどん川に流す。当然下流は廃石とか鉱毒分の入った土砂が、だーっと入ってきます。選鉱といって、鉱石を細かく砕いて有用のものと不要のものに分ける作業があります。はじめの頃の選鉱方式は、比重の差を利用して選鉱する比重選鉱でした。大正時代になると別のやり方になりますが、それをやった鉱石などが流れてくる。洪水とともに鉱毒被害がひろがる。明治29年の洪水によって激しくひろがっていった。

そしてこれはもう示談契約を結んで、示談契約は、明治25年からと26年くらいからと2回あります。最初は1次的な示談、2回目は永久示談といわれます。なぜ永久示談といわれるかというと、この示談契約を結んだあと「永久に苦情申したてざること」ということが最後に入っているからです。農民は、約束してはんこを押してしまっていますから、なかなか運動に立ち上がれない状況にあります。その中で田中正造は、この鉱業停止論を持ち出してくるわけです。

対政府へ、被害の目標をしぼる鉱業停止論

その論理はこうです。当時でも鉱業条例というものがありました。その鉱業条例の中に、公益に害するような鉱業については、当時の農商務省は与えたる認可を取り消すことができるという一項が入っています。鉱山を監督する法律ですね。その法律に基づいて政府がきちんと鉱業者に対する監督を行っていない。つまり行政が行政の責任を果たしていないというかたちで問うていくわけです。

いきなり古河に行かなかった。古河とやったのは示談契約で、田中正造側というか反対運動側がちょっと押されていた。だから古河とのたたかいはうまくいかなかった。明治29年の大洪水は1都6県くらい。栃木、群馬、埼玉、茨城、東京、千葉へとひろがっていく。そうなったときに田中正造は、運動路線をはっきりと鉱業停止論にたてるわけです。そうわたしは見ています。そういう鉱業停止論の背景は何だろうということです。それも政府に対して抗議をしている。

福島の原発の被害、放射能被害も、ホットスポットもあれば薄いところもある。地域的にもひろがっている。そういう中で、どうやって運動をまとめていこうとしますか。実は足尾鉱毒事件が1都6県にひろがったといいますが、上流はどの辺から被害が始まるかというと大間々、桐生のあたりから太田、太田の頭首工に灌漑用水の取り入れ口があって3本、4本と流れていますのでそれが両毛地方をずっと覆って、最後は利根川に排水路が流れます。あるいは渡良瀬川に流れる場合もある。

渡良瀬川は関宿で利根川に入ります。もともと渡良瀬川は江戸時代には江戸川筋に流れていて、今の利根川にはつながっていないんですね。今の利根川は、江戸時代に運河で掘り割ってつないでいって、それをだんだん広くしていく。今の利根川のかたちになったのは、足尾鉱毒事件であったと大熊孝さんとか小出博さんなどの河川学者たちがいっています。つまり江戸に鉱毒が流れないために、関宿の入り口を狭めることでむりやり銚子の方に本流を持って行った。これを利根川の東遷といいます。その最後の仕上げが明治29年の洪水だった。

この洪水とともに、初めて日本に河川法が布かれます。その河川法がずっと支配するんですが、その精神は堤防をできるだけ高くして洪水を防ぐ方針です。そこから日本の土建業者が支配する世界が始まるといっても言い過ぎではないと思います。それまでは低水工法というオランダ式の堤防です。堤防を高くしない、洪水になった場合にはあふれさせ、そこを遊水池にする思想です。江戸時代からそういう思想できたわけです。それが一挙に堤防を高くしてできるだけ洪水の被害地を狭くすることになった。これは財政的な問題とか技術的な問題の要因も入っていますが、そういう路線が敷かれて明治30年代から40年代は利根川から淀川にそういう工法がひろがっていった。

鉱毒反対運動を政治的課題に

そういう中で洪水を契機に田中正造と活動家グループが集まって精神的盟約というものを結んで、被害地のちょうど真ん中当たりに当たる館林雲龍寺(いまは渡良瀬川の佐野側にあって飛び地になっているんですが、今も館林市内にある)に事務所を置いた。そこは曹洞宗の寺ですが、はじめ栃木、群馬両県の被害民を集めてたたかい始める。東京にも請願事務所を作るというやり方をした。被害の広さは上流から下流まで数十キロにもなりますから、そういう沿線の広さをカバーしながら、交通不便の、あの時代は馬に乗るとか人力車に乗るとか徒歩とか渡良瀬川の船を使うとかですが、そういうことをして組織していくわけです。

たくさんビラをつくりました。田中正造の演説要旨もビラになって流れる。そういうかたちでひろがっていきます。ここは被害地・被害民それぞれが、自分自身の被害の突出性を訴えだしたら恐らくきりがないと思います。それにもとづいて補償を求めるとなっても恐らくまとまらなかったと思います。それは政治的な力でまとめるしかない。

わたしは、田中正造という人はものすごく政治的な感覚の鋭い人だと思うんですね。彼は長い六角家の闘争とか、佐野や小中村の闘争でも逮捕されて長い牢獄生活もしていますし、自由民権運動を経て栃木県議会に出て、国会に出てくるわけですから、いってみれば政治活動のベテランです。いろいろな被害の違いとか、住んでいる人びとの生活感覚も違います。それをまとめ上げるためには、鉱毒反対運動を政治的課題にしていく。彼がそういう目的性を持ってやったかどうかはわかりませんけれども、少なくとも田中正造の長い政治的活動、特に自由民権運動の活動から彼が得た方針じゃないかと思います。あれだけの被害の濃淡のある中で、その運動をまとめ上げていった力、そこをもう一回評価し直さなければいけない。

これはなかなか難しいんです。わたしも書いたことはあるんですが、書ききれない。どの視点から分析していいか。少なくとも政治的課題に問題を仕立て上げることによっていろいろな立場とか被害の濃淡を超える視点を彼はつくった。しかし逆にそれが明治政府から見たら、明治政府の体制、とくに薩長の体制を揺るがすものとして映っていく。だから彼は、特に山県有朋なんかには激しくにらまれます。そういうふうにわたしは見ています。政治的課題に仕立てたが故に、逆に大弾圧を受けることになっていくと言えるかと思います。これはわたしの考えです

原発避難の人たちに田中正造と谷中村を話す

さて、わたしはそういう視点からいまの福島の原発被害地を見ています。昨年の6月に南相馬から南会津に避難している人たちから頼まれて話しをしました。そのときはわたしも緊張しました。運動している人たちも何人かいてその人たちから頼まれたんですが、大部分の避難民の人は活動歴なんてないわけです。とにかく今の状況をなんとかしてくれということでいっぱいの人たちですから、そういう人たちの中でわたしは何を訴えられるのか。それははじめて南相馬の桜井市長を呼ぶという集会だったんです。桜井市長があいさつを始めたとたんに、いろいろな人から抗議というか非難の声が沸き立ちました。桜井市長は非常に東京では評価が高いんです。それから飯舘村の菅野さんも評価が高い。アメリカでも評価が高いんですが、ところが避難している人からすると必ずしもそうじゃない。それを初めて目にしたんです。

そういう激しい抗議のあとで割ってはいるかたちで、主催者の人たちが止めなきゃダメだというので「先生、ここで」なんてわたしにいうんです。ここでやって少し鎮めてほしいというんですが、そこで田中正造の話をしました。田中正造の話と、2011年4月24日の下野新聞「入植100年 躍進の碑」、旧谷中村民が集会をやったという記事です。わたしの仲間も3人ほど訪れています。谷中村を追われて網走の果てまでいって、ものすごい苦労をしてそのうち数軒が残って大部分はちりぢりになった。半分くらいの人はやっぱり栃木に帰って、帰った人たちも苦労をしました。残った人はそこで100年の集会をやったわけです。

だまされて行かされてしまった。網走ですからオホーツク海の風が吹いてくる。栃木と比べものにならないくらい寒い。農業なんかできるわけはない。そこで森林を伐採して開墾しながら農地を広げていった。でもついにいたたまれなくなって、昭和になって4回の帰郷運動が行われる。4回目の帰郷運動が1972年にやっと成功して、そのうちの半分くらいの人たちが帰ってきた。帰った人たちの農地も含めて酪農用の牧草地を広げたりしていまは豊かに暮らしているようです。

帰ってきた人たちは谷中村には入れない。谷中村は国家が土地収用をして強制的に取り上げた土地です。いまも国有地です。ラムサール条約の登録地になることが決まりましたが、その周辺地域にいまは暮らしている。そういうことを入れながら別の視点を入れて話しました。怒ったままにしておいた方がよかったのかなとも思いましたが、桜井市長とのあいだが収まらない感じでしたね。だから、まあいったん収める役をしたんです。

被災者をまとめる上での困難性

そういうことがあってそれから何回か向こうで話をする機会がありましたが、問題だと思ったことは、あっちこっちに分散して避難生活をしているわけです。それも一回だけじゃなくて転々としている。この間もいわきに行きました。いわきで原発から避難してきた、双葉とか富岡からの人たちです。事故から1年経った、仮設住宅も10月から開かれて、やっとみんなの気持ちが明るくなったと自治会長さんと話をしました。そしてやっぱりお互いのことがわかっていない。コミュニケーションが取りづらいということでした。会長さんはミツバチを飼って蜂蜜を取っている養蜂家で、自然とともに暮らしてきたから問題はわかっているんですが、原発の話は一切していない。話したら、この仮設の自治会は成り立たないとおっしゃっていた。

というのは富岡の人が圧倒的で、原発に勤めている人が圧倒的に多かったんです。それを彼は知っています。そしてなんと副会長さんは、実はわたしは原発に勤めていましたということで、会長さんは「えっ、あんたそうなの」とかいって「まあまあ」といっていました。そのくらい原発のことはタブーになっているんですね。別のところに集団で移転した、村ごとの移転でないところは、なるべくそういうことには触らないで、とにかく仮設の中でうまくやろうという意識が働いて、なんとかまとめ上げている。大変な努力をしていると思います。

いくつかの仮設、借り上げ住宅に行きました。南相馬の避難所で話をうかがったときは、なんせ横の連絡が取りにくい。避難所は仕切りがないから、隣の人とは生活の話はしてもそれ以上はなさない。特に原発の放射能公害から避難している人たちは、本当は横の連絡を取りたいわけですが取れない。何が邪魔をしているか。個人情報保護法です。とにかく南会津など会津地方にいった人たちも、とにかく自分たちの町内の名簿が作れない。仮設とか一時住宅にしても順番に入ったりして、ある一定の集落ごとに入っていない。地域ごとに入ったところが珍しいくらいです。
阪神・淡路大震災の教訓は、コミュニティを壊したら避難している人が精神的に参ってしまうからコミュニティごとに移るということだった。2007年の新潟の地震とか、その前の中越地震とかでは地域ごと避難し、仮設に入ったわけです。でも今回はその余裕がなかった。仮設もすぐにできなかったので、くじ引きで入った。そうすると隣が誰かわからない。どういう人がいるかもわからない中での活動で、名簿も作れない。みんな個人情報保護法が邪魔をしています。

本当にあの法律はひどいですね。われわれの名簿は全部出回っている。業者が持って、それが売買されている。でもわれわれが名簿がほしいというと個人情報保護法で見せてくれない。政治家の悪いところを隠すための法律ですよね。役場の方は知っているわけです。去年、避難しているところでいくつか選挙がありましたが、圧倒的に現職の首長が強い。みんな名簿を持っているわけですから。ところが普通の人たちは名簿が見られない。地域が散らばっていますから。そういう中で横の連絡が取れない。

もうひとつは大きな戦略論を立てて、目標を立ててまとめ上げていくような指導者が福島にはいないんじゃないか。言い過ぎかもしれませんが、9月に南相馬に行ったときにそんな感じがしたので、正直に「南相馬から田中正造よ、出よ」という題で話をしたんです。かつての福島は、三春なんかは自由民権運動のふるさとみたいなところです。いろいろな文化人は出ても、そういう人は出てきていない。たとえば佐藤雄平県知事のおじさんである渡部恒三なんて全部知っているわけです。本当は村の中、県の中を全部知っている人がやればいいんですが、佐藤栄佐久さんが失脚しなければできたかもしれなかったと思うんですが、なかなかそうはいきません。

治水問題への転換と日露戦争

田中正造たちがやった鉱業停止運動は敗れたけれども、何も残さなかったのか。そんなことはありません。あのたたかいがあったから、全国で7千くらいの鉱山があって、大きなものでも数百、問題があって激しい闘争をやっていたのが数十個あった。各地で鉱毒反対運動、煙害反対運動などが起きた。この人たちが目標としたのが、足尾鉱毒事件における被害民の運動だった。われわれも田中正造のようにたたかうぞ、鉱業停止を求めて政府に対する運動をするぞというスタイルですね。特に後の別子銅山の煙害反対運動は明確にいっていますし、この近くでは日立の煙害反対運動もそうです。秋田にはたくさんの鉱山がありますが、そこでもそういう運動が行われた。運動の側にとっても足尾鉱毒被害民の運動は目標だった。敗れたとはいえ目標だった。

政府にとってはどうだったかというと、政府に直接抗議するような運動が全国にひろがっては日本全体の治安が保てない。新進の官僚といわれる帝国大学を出たての、いまでいう課長クラス、一番力のある課長クラスがどうやったら運動が全国にひろがらないようにできるか考えるわけです。それでやったことは、まず足尾鉱毒被害の問題を鉱毒から治水問題へと転換する。鉱毒被害は大水、洪水とともにひろがるわけですから、洪水対策をやり、鉱毒問題はやらない。

1901年12月、田中正造が直訴する前年の2月に有名な川俣事件が起きます。主な指導者全部が逮捕されます。町村長とか議長クラスが全部逮捕される。そういう中で運動がしぼんでいった。それを盛り返すために行われたのが直訴ですが、その後はやっぱり衰退します。それは日露戦争です。すべて日露戦争に向かって国民の世論が統合されていく時代ですね。新聞で古河や政府を叩いていた萬朝報も、黒岩涙香も新聞が売れなくなったことで、途中から方針転換します。そして日露戦争賛美、戦争遂行へと批判的な論調が変わっていくわけです。そこから分かれたのが平民新聞等ですね。

そういう時代ですから、被害民を支援する運動も減ってくる。そういう中での鉱毒問題の治水問題への転換が行われて、泣く泣く被害移民がそれに乗っていく。それから川俣事件で逮捕された大多数の人の裁判が、ある日突然なくなってしまうんですね。当時は予審から入って東京の控訴院から大審院、それから仙台の控訴院に戻されて、仙台控訴院から東京の控訴院に戻される。その戻される前の仙台控訴院の段階で何が行われたかというと、逮捕されたときの予審調書の署名が検事の自著でなかった、それは秘書や書記官が書きますからそんなのは当たり前ですが、自著でないことをもって川俣事件の被告たちは無罪ではない、裁判がなくってしまう、訴訟がなくなってしまう。それがちょうど日露戦争が始まる前年のことです。

これは仕組まれた裁判だとわたしは思います。そういうことがあってだんだんと被害民が押されていって、谷中村とか鉱毒被害地に運動の焦点が絞られていく。中流域や上流域の人たちは運動から離れていって、むしろいちばん下流の谷中村などの周辺の運動と敵対することになるわけです。そういう運動の中で足尾鉱毒事件はだんだんと消えていく。

政府・財界の結託と反対運動への対応

でもその運動が残したものは大きいわけです。利根川と渡良瀬川の治水は一体化して進みますが、これはパナマ運河より多い土砂を動かしたと言われました。それでも鉱毒被害はなくならなかった。問題にしないためにはいろいろなかたちでお金を出す。それは別子銅山の煙害事件ではっきりします。被害に対してすべて補償するという、農商務省の決定が行われます。

政府は日露戦争のときの桂太郎から、日比谷焼き討ち事件以降、西園寺公望へと替わります。西園寺は穏和な路線を取ります。そのあとまた桂に入れ替わる。この時代を桂園時代といいますが、西園寺は実は鉱毒問題については無策だった。桂は山県有朋直系の陸軍閥ですが、鉱毒問題に熱心に取り組んだ。いっぽう西園寺は京都の徳大寺家の次男です。住友の社長は住友吉左右衛門を代々名乗りますが、それは徳大寺の六男です。さらに西園寺が総理大臣になったときの内務大臣は原敬です。原敬は陸奥宗光の秘書官だった。陸奥宗光と古河市兵衛は刎頸の友です。その古河市兵衛に子どもはいなかったので、陸奥宗光の次男を養子にする。ですから2代目の社長は陸奥宗光の次男です。それが心配だというので陸奥宗光の秘書官をしていた原敬が、古河の副社長になって古河家を切り盛りしながら社長を支える。

整理しますと、西園寺自身は住友の別子銅山と兄弟の関係です。それから一番大事な内務大臣は古河鉱業の副社長だったというわけです。これを荒畑寒村が「谷中村滅亡史」の中で政治と財界の結託を鋭く批判したわけです。その西園寺内閣のときに土地収用法をかけて谷中村を葬り去った。当時は政権が替わると県知事まで全部替わります。明治41年に桂に替わりますけれども、桂は周到に政友会系の政治基盤を切り崩すために県知事にも別の人間をどんどん送り込みます。

そのときに愛媛県に送り込んだ人物は、もちろん住友家に縁がない自分の直系の人物でした。そういうことで別子銅山では、徹底的に煙害問題をやらせました。そして損害賠償をきちんとやらせ、さらに年間の生産量も制限する。もっとすごいのは、溶鉱炉というのは止めたら普通はおシャカになっちゃうんですね。だけど稲作と麦作の一番大事な時期は、10日間はまったく精錬はやらせない。1月間は完全に生産を制限する。これは住友にとっては大変なわけです。それでのちに住友は、とにかく亜硫酸ガスが出ないように、亜硫酸ガスを使って何かやる。それでつくったのが住友肥料製造所で、これはのちの1934年に住友化学となります。煙害に対して作った会社が、いまの住友化学です。

古河の方は、あまり対策しなかった。はげ山になった土地で反対運動は起きませんでした。みんな国有地です。住友の別子銅山は紆余曲折ありましたが、一般の農民が激しい反対運動を起こして1万人位の人びとが住友に押し寄せるなんていうことを何回もやっている。当時の新聞なんかすごいです。住友は音を上げるんですが、それでも住友は原因が自分にあるとは認めない。そこに桂直系の人物が送り込まれてきて、采配をふるった。だから古河と住友というのは同じ銅山から出た財閥といいながら全然違うんですね。

古河の方が公害対策は、いまもダメなんです。もうひとつ小坂の同和鉱業、いまの同和エンジニアリング、藤田観光もそうですが、あそこは煙害対策をしなくちゃダメだ。政府命令が出ていますから。足尾鉱毒事件以来全国各地に鉱毒対策と煙害対策命令が下るんです。鉱毒事件に対する激しい反対運動がなければそんな命令は下りません。それで何をしたかというと鉱毒水などの対策をやります。それはいまも生きていて同和エンジニアリングは排水対策ではいま一級の会社になっています。中国などでも工場をふたつくらい持っていて日本企業の排水対策をみんなやっています。

足尾鉱毒事件は治水問題に転換されていってなくなったように見えますが、今度は下流から足尾銅山に向かっていろいろな交渉が行われる。調査も行きます。遊水池の中に組み込まれようとした北川辺は、我らは納税・徴兵の2大義務を負わず、ということで大闘争を展開して逮捕者も出しながら、ついに埼玉県知事はそこを許可しなかった。だから北川辺周辺一帯は遊水池になっていません。そのときの埼玉県知事は大久保利通の三男です。彼は農民の反対運動をある程度理解したようです。それで北川辺はいまに至るまで、毎年町を挙げて田中正造のお祭りをやっています。あそこには5番目のお墓があります。

一緒に運動をやった人が黒澤酉蔵です。彼は4年間ほど田中正造のもとでカバン持ちをして、おまえはまだ若いから勉強しろといわれた。しかし自分の茨城の田舎が貧乏だからと、北海道に渡って牛を一頭借り、その牛から搾った牛乳を毎朝時間通りに配って広げていって、それで仲間を増やしたのが雪印乳業のもとになるわけですね。いまの酪農学園大学も黒澤酉蔵がつくったものです。黒澤酉蔵は亡くなるまで北川辺に来て酪農の指導をしています。

足尾鉱毒被害民の運動は、単に敗れたわけじゃありません。各地の運動を広げたことと、別子銅山の煙害反対運動をした人たちにものすごく影響を与えた。その結果、損害賠償というのは当時の法律にはないんですが、その後の鉱山の公害問題では当たり前になっていきます。法律の中に組み込まれるのは1939年の鉱業法の改正で、そこで賠償責任が条項として入れられました。戦後のイタイイタイ病問題とかヒ素中毒事件などは鉱業法にもとづいて行われていて、日本の公害立法によって裁判が行われたわけじゃありません。ですから、鉱山の公害に対する長いたたかいの中からの損害賠償条項なんです。

一貫して行政責任を追及した田中正造

考えてみますと、われわれは放射能対策を運動論的な視点をもっていなかったと思います。昨日、今日あたりから新聞に出ています。あの安全委員会がIAEAの指摘を受けて、もっと緊急時の避難区域を広げようとしたけれども保安院がそれを阻止してできなかった。保安院に止められたら止まっちゃうというところがどうしようもない連中ですが。では、われわれの方もそういう事態を想定して何か運動を組み立ててきたかというと、わたしも40何年反対運動をしていますが、そういう事態が来ることはずっといってきましたが、そういう事態になったら逃げろ、としかいっていないんですよね、考えてみたら。風上に向かって逃げるか風と直角になって逃げるかとか。われわれもそのくらいのことしかいっていない。やっぱり具体的に事故が起きたときの想定は難しいですね。

ただ、原発を推進してきた側は想定していなくてはいけなかったんです。それをしてこなかった。事故を小さく見せるとか情報を隠すとか、そういうことを繰り返してきたわけです。そういう点でいうと行政の責任は非常に大きいと思います。田中正造は一貫して行政の責任を追い続けた。行政責任を問うということです。この田中正造のスタンスを本当にいまわれわれがやっているかどうかということです。

行政側は明治以降の官僚制―これは山県有朋が完成させた―それは官の無謬性です。官は誤りがあっても謝らない、反省しない、誤りを認めない。これは太平洋戦争なども、すべての戦争がそうです。戦後の公害問題もすべて謝りません。彼らは反省しないんです。しかし今回は、福島の原発事故によって彼らも想定しない被害が広がった。このまま黙って知らん顔できないから、ちょっと謝った人もいます。相変わらず謝らない人も、開き直っている人もいますね。これだとダメなんですね。

われわれ運動する側は、行政の責任を徹底的に追及して、いまの官僚体制を変えないとまた同じことを繰り返すんじゃないかと思います。田中正造は最後までそれを言い続けたわけです。途中で、治水対策もしょうがないということをいった田中正造の支持者たちが、田中正造にこっぴどく批判されています。彼は最後の最後まで、お見舞いに来てくれた人にまで叱りつける。いくら見舞いに来てくれても、同情してくれてもちっともうれしくない、俺のやってきた事業に同情してきてくれるのならうれしいというわけです。事業とは何か、鉱毒反対運動です。そして政府の鉱業停止を実現することです。そのへんのことは木下尚江あたりが書き留めています。田中正造はそこまで怒っていたんだと。われわれも怒りは足りないのかもしれない。

瓦礫問題は一億総懺悔の政府方針か

いま問題になっている瓦礫です。みんな真剣に考えていますね。このあいだも大船渡とか陸前高田などを見てきましたが、ほとんど片付いています。陸前高田などは積み上がっていますが、そこはもう低くなってこのままでは住宅地にできないところです。住宅地は市役所の裏側を盛り土にする。その工事が進んでいないし、新しく住宅を造る中腹のところも整備が終わっていない。決して瓦礫があるから街の復興が進んでいないわけじゃないんです。瓦礫の山を見せられて、早く瓦礫を処理しなければいけないだろうと思うんですが、そう思わせているマスコミも悪いと思います。

瓦礫の放射能を測って、放射能がないものを関東とか、沖縄以外に持って行くといっていますが、なぜそんな輸送コストをかけなくてはいけないのか。これは産廃ですから、燃やさないで現場でリサイクルする手はあります。放射能がほとんどないというならば、その場でチップにすればいい。紙にもなるし燃料にもなる。分類して作業すれば雇用も生まれます。雇用のためにも必要だと陸前高田市長もいっていますが、なぜやらないのか。どうしてもダメならば燃やす。

放射能があって燃やせなものは、東京でも現地でも燃やせません。どこかへ穴を掘って埋めるか、何かしなくちゃいけない。放射能が入ってなければ、現地でリサイクルするなりいろいろな使い方があります。燃やすならば、焼却炉をわれわれから資金援助するか現物を送るとか、それがいちばんいい方法です。

日本人の悪い癖で、あっちの自治体が受け入れるというと、こちらも入れましょうかとなって急激に広がってきましたね。でもみなさんご存じのように、最初に入れた静岡県の島田市長は産廃業者の会社の社長ですからね。自分が市長になるときに奥さんに社長を譲った人です。東京の場合は海側が全部処分場ですから、人家がなくて反対する人はいないんですね。いずれは海の汚染につながるかもしれませんけれども。東京23区と都下は違いますし、埼玉や千葉、神奈川は最終処分場がほとんどないので、どうやって瓦礫を燃やすのか。放射能がないかあるかを別にしても問題があると思います。

それだけじゃありません。清掃工場の中も下水処理場も放射性物質でいっぱいです。汚泥ではなくて放射性物質です。これをどうするのか。津波の被災地は本当に悲惨ですが、ある意味では土地がいっぱいあります。そこに家を建てないことになればね。一億総懺悔をさせる政府の方針になっていると思います。それに乗らないようにした方がいい。被災した人びとがみんなそう思っているわけじゃありませんよね。地元だって意見がまとまっているわけではありませんし、市長レベルでは地元で分別して処理すれば雇用にもなる、お金になるかもしれないという話もあります。遠くに持って行く必要はない。

避難者の生活の見通しをたてることが第一

いまいちばん本質的な問題は、とにかく避難している人たちがどうやって生活を立てるかということです。見通しが立たないんですね。みなさん追い詰められてきていると思います。東電は一時金600万円を支払うといっていますが、600万円で生活は成り立ちません。わたしは1世帯1億出せと前からいっています。

放射能の「除染」でも「移染」でもいいですが、とにかくできない。やったとしてもどこかがまた汚染されるわけです。どうしても必要なところは専門家にやらせるべきですが、福島では地元住民にやらせているわけで、本当にひどいと思います。それも自治会ごとににたった50万円ずつ渡して高圧洗浄機を買えというんですから。高圧洗浄機でやったら飛び散るだけです。除染は基本的にできないんです。

飯舘の菅野村長は有名な人ですが、2年のあいだに居住区域の除染を行う、5年のあいだに農地の除染を全部行う、そして20年内に森も山の牧草地も全部やる。その費用は3200億円です。3200億円出すのならば一軒あたり1億出しても余るとわたしはずっと言っています。もちろん政府は3200億円なんて出すつもりはありませんが、菅野村長はそうやって村人を引きつけています。遠くへ行かないように。それは汚いやり方だ。個人として彼はいい人で、一生懸命にやっている人だと思うんですが、いまは全体が見えなくなっています。とにかく村を壊したくない、自分を中心に村を維持するという、そこだけに意識を集中していますね。

誰もそれをきちんと言わない。言う人たちは遠ざけられてしまった。特に日大の糸長浩司さんという教授は20何年も飯舘に入っている人ですが、彼だけ復興会議から外されてしまった。いままで関係なかった人たちが入って復興会議なるものをやっていますが、それは違うんですね。放射能と向き合うというのは、居住空間を除染できる地域の人たちは除染して住む、そうでない地域は放射能が鎮まる、つまり汚染が低くなるのを待つ。自然に減る分を含めて待つことです。そして戻れるなら戻る。それまで何年かかるか。100年まではかからないと思います。

政府は全然やろうとしていない。双葉町長は双葉町を中間処理場にしてもいいという条件交渉をしているんじゃないかという気がします。本当は、ああいうところは新しい村をつくってそこで生活をすることです。そうしながら、放射能が鎮まるのを待つ。いま政府は、汚染地帯を買い上げるという方針を採っていますが、それは売らないで貸す。長期に貸し付けて、借地料を被害民が受け取る。そうすれば生活の足しにできる。そして50年後、100年後にはもしかしたら帰れるかもしれない。そのときに所有権をちゃんと主張する。だから所有権は渡してはならない。わたしはそう言っています。

足尾鉱毒被害民の人たち、彼らは帰ってこようとしたときに自分が住んでいたところに帰れなかった。国有地になっていた。国有地だから本当は国が解放すればいいんですが絶対に離さない。結局周辺の県営住宅で暮らしていますが、そういう意味でも土地は売らない。長期の定期借地権にして放射能が鎮まるのを待って帰る。そのあいだは借地料を受け取る、そういう方針がいいんじゃないか。

今月26日から去年行ったグループと一緒に飯舘に調査に入ります。放射能も全部測りながらこれで3~4回目です。あそこは全部いなくなったわけではなくて、お年寄りの方や福祉施設も残っていますのでそういうところで聞き取りをしたい。避難している人たちの中でわたしたちと非常に近い考え方の人たちがいます。「負けねど飯舘」という人たちです。 もちろん反原発ですが、いまは反原発とは言わないでいまの村長とは違ったかたちで村づくりをもう一回やり直そうとしている人たちです。菅野村長が乗ってくれればいいんですが、まったく聞く耳を持たない感じになっているんですね。南相馬の桜井市長も東京マラソンに出て宣伝していますが、南相馬で運動している人に聞くと、彼はもう必要ないんだ、なぜならば国からみんな来ている。原子力開発機構をはじめとしてどんどん役人が入り込んでいて、彼はもう自由がきかない状況になっていると言われています。今度行って確かめたいと思います。

避難民の人たちが見通しがない中で、早く新しい生活を踏み出すための資金を政府は出すべきです。土地はいっぱいあります。過疎地もあるし住宅団地で開発し損ねた土地もあります。そういうところをまとめて買い上げるとか、場合によっては渡良瀬遊水池もあるよとわたしは言いますが、これはラムサール条約の登録指定地になりますので難しい。でもごく一部、3300ヘクタールありますから1割使っても300ヘクタールあるんです。そこだけでもたくさんの住宅ができます。

考えようによってはいくらでもできるんです。早くしないと被災地の人たちは精神的にも行き詰まってしまう。それがいまのいちばんの課題だと思いますが、いまの政府は本当に方針も立たなければ実行力もない。そして金を出すけれどもその金はどこに消えていくのか。ゼネコンと産廃ビジネスのところに行くのであろうということを非常に恐れています。田中正造が生きていればものすごく怒っていると思います。

人権を侵害するような公益はない

田中正造がすごいと思うのは、はじめは公益を禍害する足尾銅山を停止せよと言ったわけです。公益とは公衆の利益、public interestは「民衆の利益」と訳すべきですね。明治政府はそれを「国家の利益」だというわけですね。ステートです。stateなのかpeopleなのか。公、パブリックは両方の意味がありますが、自由民権派の人たちはだいたいピープルの意味で取っている。日清・日露戦争を経る中で、だんだんと公は国家の方になっていくわけです。公益を禍害する足尾銅山を止めろと言っていた田中正造は、亡くなる直前に「公益々々と呼ぶも、人権去って他に公益の湧き出るよしも無之と存じ候」(1913年7月24日付け鈴木桂次郎宛書簡)と言っています。つまり国家の利益、このときの公益は本来公益じゃなくて国家の利益になっている、日露戦争は国家的な戦争で、それ以降天皇制が確立すると見るのは歴史の常識ですが、そういう中での公は国家の利益である。そういう公益ということを言ってわれわれを従わせようとするのか、そうじゃない、人権なんだ。田中正造は日露戦争後に、人権という言葉をしきりに使うようになります。人権をもっとも大事にしなければならない。その人権を侵害するような公益はないんだという、本当に現代を見通すような言葉だと思います。いまは本当の意味で近代日本の政治体制を変えるくらいの運動をつくる最後のチャンスかもしれません。その事を訴えてわたしの話を終わります。

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「原発いらない!3.11福島県民大集会」に16,000人が参加

東日本大震災・原発震災から1年目の3月11日、福島県郡山市の開成山野球場に地元福島県民をはじめ全国各地から1万6千人の人びとがあつまり、「原発いらない!3.11福島県民大集会」が開かれた。

集会では歌手の加藤登紀子さんのコンサートにつづいて、まず実行委員長の竹中柳一さんがあいさつし、「3月11日だからこそ、現在の私たちの苦境を共有し、今後への重いと決意を新たにしたい」と述べた。呼びかけ人代表の清水修二さんは「この日は鎮魂の日だが、原発の災害は進行中だ。原発再稼働の動きが台頭してくるなかで、『原発いらない』は痛恨の県民の叫びだ。この声を全国に届けるのは福島県民の使命であり、義務だ」と述べた。

続いて大江健三郎さんのスピーチと県内の各界の人びとの発言があり、終了後、市内をデモ行進した。
ここに掲載する発言は「さようなら原発1000万人アクション」のウェブサイトから採録した記録です。http://sayonara-nukes.org/2012/03/120311news_f/

●子どもたちの大きい歓声が響くだろうということを、私は想像します

大江 健三郎さん(「さようなら原発1000万人アクション」呼びかけ人)

今日の集会は、大きい困難を乗り越えていられる、乗り越えられない悲しみを見舞われていられる方が集まられた集会であります。その福島の人たちが中心になられた会だと言うのを承知しています。しかし今、清水先生がお話になったことを聞いておりまして、本当にこの集会の意味と強い感情、深い倫理観、そういうものがしみじみ伝わって参りまして、ここに参加させていただいてありがたいと存じております。私は東京から参加させていただいた、大江健三郎であります。私は、7分間お話しする時間をいただいていますが、もうマイクの都合で3分使ってしまいました。できるだけ長くならないように致します。

原子力発電所をどうしなければならないかと言うことについて、私の考えを申しますが、元よりこの1年前の今日、津波で亡くなられた方たちへの思いと言うものを入れながら、その2つのことが繋がっていると思いつつ、お話しすると言うことを受け止め願えればと思います。この1年間、信頼する学者たちの分析と批判とを注意深く読んで参りました。そして原子力発電は人類が初めてやっていることだが、その理論こそ明確でも技術的に完全にコントロールされてはいなかった。特に地震への配慮は、この活断層だらけの国で学者たちの警鐘がよく生かされていなかったと言うことを学びました。非常に恐ろしい思いで再認識しました。

3・11の後も、その原発の再稼働を考える人たちがずっといます。そして今、現に彼らの大きい運動が始まっています。その中でもうすでに再稼働しても良いという許可を出した学者たちの集まりがあります。どうもその集まりの中の学者たちが、日本にあるいくつもの原発の地盤が、実は活断層の上にかかっていることを報告して、警告しているにも関わらず、それを無視されていたということを告発しておられます。ところが、その責任ある学者が、今も原発の再稼働を決める中におられるということを、極めてこう言う知識をみんなのものにしなければならない、反対しなければならない。そして、改めて大事故が起これば今現在を生きる私らのみならず、未来社会に向けて生きる人間皆に、子どもたちが中心です、大きく長い期間の影響のあることを思い知りました。

正直に言えば、私は力を落としておりました。でもドイツで行われた原発を全廃しようと言う委員会の答申があった。それをドイツの国会が承認した。そしてドイツ全体の動きが原発廃止に至ったということを、メルケル首相について私どもは知ったわけでありますが、この原発をどうするかと言うことを、最初に議論した集まりの名前は倫理委員会、すなわち、まず政治的な理由、或いは経済的理由よりも優先して、倫理的な理由ということを考える人たちがいる。その人たちが作った動きが、今度のドイツの原発廃止の結果になったと言うことであります。

私は、日本人も倫理と言うことを考える人間だった。モラルとか考えることをしてきた。しかしどういうわけか、あのバブルの頃から倫理的という言葉をあまり使わなくなった。バブルで騒いでいる人に、それは倫理的でないんじゃないか、というようなことはなかった。すなわち、私は倫理的な責任を取るということが、人間のいちばん根本的なことでなければならないと考えています。そして、倫理的な責任ということは、この世界で人が人間的に生きることを妨げるような行動を取ってはならないということです。

人類は過ちを犯しましたが、本当に倫理的でないことが行われてきたんですが、しかし大筋ではこの責任を取って生き続けてきた。それが、人類が「生き続けたきた」ということだと思います。しかし、あと1度2度、原発で大事故が起きれば、私らは将来の人間に向けて彼らが人間らしく生活していく場所を取っていくという、すなわち倫理的な責任において、その責任が取れないということであります。

そして、私どもは将来の人間について考えますけど、今、現に生きている私らの、自分自身についても不安を感じています。それが私たちから、今、現にいる場所ということではないでしょうか。私が力を落としたと、先ほど言いましたのは本当であります。しかし、その後は立ち直ってきているように思います。現に私は、このように多くの人たちの前で、原稿を読んだりする勇気があまりない人間です。ところが今、平気で市民の集会とデモに加わって、私は力を与えられてきました。そして、私たちに求められているものは何か。私たちが必要とされているものは何か、というと原発の事故を絶対に無くすることです。ところが、絶対にやると言うことができるのか、という問いかけがあるかも知れません。それはできます。この国の原発を全て廃止すれば。

私たちが、或いは私たちの子どもが、そのまた子どもたちが、原発の事故により大きい放射能の害を被るというようなことは絶対にないわけです。それは現にドイツで行われています。イタリアでもやろうとしています。それを私たちがやらなければならないと思います。原発からの電気が無くなれば、私たちの生活はどうなるかとすでに政府が、産業界が、またマスコミの一部が脅迫しています。しかし私らは、政治的な責任よりも経済的な責任よりも、国防的な責任すらよりも人間が将来、人間らしく生きていけるかどうかということの、すなわち倫理的責任を重んじると言い返すことができます。市民生活に負担、そういうことを民主主義的に担えばいいのであります。

民主主義と更に言いますのは、日本の電力会社が全く民主主義的ではないからであります。そして今こそ、私たちが起きている危機、民主主義において一人一人がどのように抵抗するか、どのような新しい電気の道を開くか、或いは電気の運搬について配分について。現に、ここにいらっしゃる方たちが昨年の夏、自分たちで節電して、あの電力の危機と言われたものを乗り切った人たちじゃありませんか。それを今年も来年も続けていけばいい、ということであろうと思います。

さて、もう時間がなくなりましたので。私どもが東京で大きい集会(2011年9月19日の明治公園集会)を開催しました。そこで、ジョン・レノンのイマジンという「想像しましょう」という詩のことを言われました。私は小説家で「想像力」ということを、いつも言っていまして、「想像力バカ」とも言われている人間でありますので、この言葉が身に染みるんですが、一つ想像することがあるんです。それは近い将来のある日、ある朝、この国の全ての小学校、全ての中学校、全ての高校で校庭に生徒たちが集まる。そして、先生が或いは生徒代表がこういうことを告げることになる。「皆さん、この国は原発を全廃する事を昨日決意しました」。それが私たちの将来です。私たちの未来に原発事故の不安はもうありません。そして子どもたちの大きい歓声が上がるということを、その歓声が響くだろうということを、私は想像します。それを実現させましょう。

●福島が好きだという気持ちは変わらない

管野 智子さん(県外に子どもと避難中)

私は、小学1年と3年の子どもを持つ母親です。3・11原発事故を境に、目に見えない放射能が降り注ぎ、放射線量の高い地域から遠ざかっても、自身やわが子がすでに被曝し、いずれ影響が体に現れるのではないか、という不安がつきまとっていました。毎日毎日、否応なく迫られる決断、「逃げる、逃げない」「食べる、食べない」「洗濯物を外に干す、干さない」「子どもにマスクをさせる、させない」など様々な苦渋の選択をしなければなりませんでした。

子どもたちは前のように自由に外遊びができません。学校の校庭で運動もできない、運動会もプールも中止。子どものことを日に日に考えるようになってきました。そこで私達家族は、10年後に後悔したくないという思いから、子どもの夏休みを機に、福島市から山形県米沢市に同居しているお姑さんと子ども2人と私の4人で自主避難しました。

現在は借り上げ住宅に住んでいますが、避難生活は経済的な負担があり、二重生活や住宅ローンも重くのしかかります。仕事の都合で家計を支える父親は、地元福島市を離れられず、週末だけ子どもに会いに来ています。そして私は、精神障害者の施設で色々な支援に携わっている仕事をしていますので、米沢市から福島まで毎日通勤しています。子どもたちは、区域外通学ということで、2学期から米沢市の小学校に転校しました。福島から来たこと、運動着の色が違うことで、いじめに遭うのではないかと心配しましたが、1学期からすでに福島からの転校生がいること、いじめの事実もなく、2学期からの転校生が10数名おりました。学校の先生やお友達に暖かく迎え入れられ、お友達もあっという間にできて、遊びに行ったり来たりしています。外で思い切り遊ぶこともできます。

米沢は雪が多く、スキーの授業も生まれて初めての経験でしたが、「楽しい、滑れるようになった」と嬉しそうに話してくれます。中には学校や環境になじめず、福島に戻られた方もおります。子どもたちは不満も言わず、元気に過ごしていますが、子どもの心の叫びは「原発がなければ福島から米沢に来ることもなかったし、福島の友達と遊べた」「米沢はマスクもいらない、放射能を気にする事なく外で遊べる、でも福島の方が楽しかった」。時折淋しそうな顔をします。私たちは、福島第一原子力発電所の事故がなければ、福島を離れることはありませんでした。子どもを守りたいと米沢に来たこと、それでも福島が好きだということ、その気持ちは変わりません。有難うございました。

●第一次産業を守ることが原発のない持続可能な社会を作ること

菅野 正寿さん(農業・二本松市)

原発から約50kmの二本松市東和町で、米、トマトなどの専業農家をしています菅野と言います。原発事故から1年、とりわけ自然の循環と生態系を守り健康な作物、健康な家畜を育んできた、何よりも子どもたちの命と健康のために取り組んできた有機農業者への打撃は深刻です。落ち葉は使えるのか。堆肥は使えるのか。米ぬかは、油かすは……。これら様々な資材をこれから検証しなければなりません。改めてこの福島の地域支援の大切さを感じています。

津波で家も農地も流された農家、自分の畑に行くことができず、避難を余儀なくされている苦渋。そして自ら命を絶った農民。私たちは耕したくても耕せない農民の分までこの苦しみと向き合い、耕して種を蒔き、農の営みを続けてきました。その農民的な技術の結果、放射能物質は予想以上に農産物への移行を低く抑えることができました。新潟大学の野中昌法教授を始め、日本有機農学会の検証により粘土質と腐植の有機的な土壌ほどセシウムが土中に固定化され、作物への移行が低減させることがわかってきました。つまり、有機農法により土作りが再生の光であることが見えてきました。

幸い福島県は、農業総合センターに有機農業推進室がある全国に誇れる有機農業県です。見えない放射能を測定して見える化させることにより、「ああ、これなら孫に食べさせられる」とどれだけ農民が安心したか。夏の野菜も秋の野菜も殆ど0~30ベクレル以下と、ただ残念なのは福島特産である梅、柿、ゆず、ベリー類は50~100ベクレル以上、キノコ類も菌糸が取り込み易く山の原木があと何年使えないのか、椎茸農家や果樹農家の中には経営転換を迫られる農家、離農する農家も出てきています。1月に農水省が発表した福島県内の玄米調査では、98.4%が50ベクレル以下です。500ベクレル以上出た僅か0.3%の玄米がセンセーショナルに報道されることにより、どれだけ農民を苦しめているか。私たちは夏の藁の問題、花火大会の中止、福島応援セールの中止、ガレキの問題など丸で福島県民が加害者の様な自治体の対応、マスコミの報道に怒りを持っています。マスコミが追及すべきは電力会社であり、原発を国策として推し進めてきた国ではないか。

私たち人間は、自然の中の一部です。太陽と土の恵みで作物が育つように、自然の摂理に真っ向から対立するのが原発です。農業と原発、人間と原発は共存できません。戦前東北の農民は、農民兵士として戦地で命を落とし、戦後、高度経済成長の下、高速道路に、新幹線に、ビルの工事に、私たちの親父たちは出稼ぎをして労働力を奪われ、過密化した都市に電力を送り、食糧も供給してきました。その東京は持続可能な社会と言えるでしょうか。福島の豊かな里山も綺麗な海も約3,500年続いてきた黄金色の稲作文化も正に林業家、漁業家、農民の血のにじむような営農の脈々と続いてきた結果なのです。つまり、第一次産業を守ることが原発のない持続可能な社会を作ることではないでしょうか。

私たちの親父やそのまた親父たちが、30年後、50年後のために山に木を植えてきたように、田畑を耕してきたように、私たちもまた次代のために、子どもたちのために、この福島で耕し続けていきたいと思うのです。そして子どもたちの学校給食に、私たちの野菜を届けたい、孫たちに食べさせたい。そのために、しっかり測定して、放射能ゼロを目指して耕していくことが、福島の私たち農民の復興であると思っています。生産者と消費者の分断するのではなく、都市も農村も、ともに力を合わせて農業を守り、再生可能なエネルギーを作り出して、雇用と地場産業を住民主体で作り出していこうではありませんか。原発を推進してきたアメリカの言いなり、大企業中心の日本のあり方を今変えなくていつ変えるんですか。今、転換せずしていつ転換するんですか。がんばろう日本ではなく、変えよう日本、今日をその転換点にしようではありませんか。

●もう一度あのおいしかった福島の魚を全国の皆さんに送り届けたい

佐藤 美絵さん(漁業・相馬市)

去年の3月11日、東北沿岸は巨大津波を受け、私たちの住む相馬市も甚大な被害を受けました。漁業、農業、観光業、全てを飲み込み、美しかった松川浦の風景が跡形もありません。私は港町で生まれ育った漁師の妻です。夫が所属している相馬双葉漁業協同組合は、年間70億円の水揚げと、沿岸漁業では全国有数の規模を誇っていました。私はその日も明け方5時から市場で水揚げした魚を競りにかけ販売し、午後1時頃に自宅に戻り自営業の魚の加工販売の準備をしていました。そのとき、あの地震が起きたのです。

長い揺れが収まり、呆然と落ちてきた物を片付けていると、消防車が「津波がくるから避難してください」と海岸沿いを巡回していました。私は本当に津波なんかくるのか、半信半疑で道路から遠くを眺めると、真っ黒い波が動く山のように見えたのです。「だめだ、逃げろ」。息子は子どもを抱きかかえ、私は夫とともにやっと高台へ駆け上がりました。そこから見えた光景は丸で地獄のようでした。それから無我夢中で実家の両親や弟たちを捜したのです。その頃、弟は地震が起きた後、すぐに自分の船を守るために沖に出たのです。沖では仲間たちと励まし合いながら津波が落ち着くのを待ち、やっと帰ってこられたのは、確か3日後でした。

しかし、両親は逃げ遅れ、家ごと津波にのまれて帰らぬ人となりました。本当に残念でなりません。そして船を津波から守った漁師たちは、9月になれば何とか漁に出られると思い、失った漁具を一つ一つ揃えがんばってきました。しかし、放射能がそれを許しません。毎週、魚のサンプリングをして「来月は大丈夫だろう。船を出せる」と期待しては、落胆の繰り返しでした。市場や港は変わり果てた姿のままです。元通りになるまでは、まだまだ時間がかかりますが、私たちは1日も早い漁業の復興を望んでいます。

現在、漁業者は海のガレキ清掃に出ています。しかし、夫たちはもう一度漁師として働きたい、私は市場で夫の獲ってきた魚を売る、活気ある仕事がしたいのです。そしてもう一度あのおいしかった福島の魚を全国の皆さんに送り届けたいのです。

●東京電力と国はきちんと責任を取ってほしい

菅野 哲さん(飯館村からの避難者)

飯舘村の菅野です。5月から福島に避難し、お世話になっています。飯舘村では高原野菜を作っていました。しかし今回の原発事故で全てを失ってしまいました。野菜を国民の皆さんに届けることができません。飯舘村の農家は殆どが農地も牛も全てを失って、涙を流して廃業しました。もう飯舘村で農業ができないのです。避難していても何もすることがないんです。農家は農業やることが仕事です。どうやって生きろと言うのですか。誰も教えてくれません。

事故から1年を過ぎますが、飯舘村は去年の3月15日の時点で44.7μsvです。この高い放射線量の中に飯舘村民は放って置かれたんです。その期間被曝させられたんです。誰の責任ですか。更には、放射能まみれの水道水まで飲まされていたのです。加えて学者は、国も行政も安全だと言っていました。どこに安全があるんでしょうか。その物差しがないんです。これをどうしてくれるんですか。答えがほしい。国民に国も学者も政治家全てが正しく教えるべきであり、正しく道を敷くべきであります。

死の灰を撒き散らして(東京電力は)「無主物」だと言います。何事ですか。火山灰ではないのです。原発事故は天災ではないのです。明らかに人災なのです。東京電力と国はきちんと責任を取ってください。今、大手ゼネコンが双葉地方、相馬地方に入っています。「除染、除染」と歌の文句のようです。何を言葉並べているのでしょう。

路頭に迷う住民の私たちの今後の暮らしついては、住民の意向を何一つ汲んでいません。今後の暮らしの希望の持てる施策がないんですよ。こんなことで許せますか。良いのですか。それはないでしょう。被害を受けた私たちは、悲惨な思いで生活をさせられております。まだまだ長生きできたはずの、村の高齢者が次から次へと他界していきます。家に帰れないで避難先で悲しくも旅立ちます。早く、早く、放射能の心配がなくて元のように美しい村になって安心して安全で暮らせることができる、そういう生活の場所と今までのようなコミュニティの形を作った、新しい避難村を私たちに建設してください。

美しかった飯舘村は放射能まみれです。そこには暮らせません。新しいところを求めなければならないんであります。国にも行政にも子どもの健康と、若者が未来に希望を持って暮らすことの出来る、そういう生活ができること。そのためには、住民の意向を充分に反映した新しい施策を要求します。皆さん、この悲惨な原発事故、この事故を2度と起こしてはなりません。この起きた事故の実態を風化させてはなりません。国民が忘れてはならないはずです。

福島県の皆さん、全国の皆さん、特に福島県の皆さん県民が一丸となってもっともっと声を大きくして全国に世界に訴えていきましょう。

●私は被災者になっていました

鈴木美穂さん(高校生・富岡町から転校)

私の地元は、郡山ですがサッカーがしたくて富岡高校に進学しました。寮生活をしながらサッカーに明け暮れ、仲間と切磋琢磨する充実した日々を送っていました。地震が起きたときは、体育の授業中でした。もの凄い揺れであのときは必死で守ってくれた先生がいなければ、私は落下してきたライトの下敷きになっていたと思います。校庭に避難しているとき、まさか津波がきているということ、そして原発が爆発するということは想像も出来ませんでした。私はこの震災が起きるまで原発のことを何も理解していませんでした。

翌日には、川内村まで避難しました。乗り込んだバスの中には小さな子どもを抱えた女性やお年寄りがいました。自衛隊や消防車が次々とすれ違っていく光景は、現実とは思えませんでした。避難所に着くと小さな黒い薬を配る人たちがいました。それはおそらく「安定ヨウ素剤」だと思います。配る様子がとても慌ただしく焦っているようで、私はやっと事態の深刻さが飲み込めました。

1号機が爆発し、川内村も危なくなり郡山に避難することになりました。私のことを郡山まで送ってくれた先生は泣いていました。先生には原発で働く知人がいたのです。原発事故を終わらせることができるのは、作業員の方だけだと思います。でもその作業員の方は、私の友人の両親であったり、誰かの大切な人であったりします。こうしている今も、危険な事故現場で働いている人がいます。そのことを考えると私は胸が痛みます。爆発から2ヵ月後、私は転校しました。たくさんの方々が優しく接してくれ、サッカー部にも入部し、すぐに学校にもなじむことが出来ました。でも私は被災者になっていました。

被災者ということで、様々なイベントにも招待されたりもしましたが、正直、こういう配慮や優しさは、返って自分が被災者であることを突きつけられるようで、それがいちばん辛いものでした。「がんばれ」という言葉も嫌いでした。時が経つにつれ、原発事故の人災とも言える側面が明らかになってきています。原発が無ければ、津波や倒壊の被害に遭っていた人たちを助けに行くことも出来ました。それを思うと怒り、そして悲しみで一杯です。人の命も守れないのに電力とか経済とか言っている場合ではないはずです。

3月11日の朝、私は寝坊して急いで学校に行ったのを覚えています。天気は晴れていて、またいつものような一日が始まろうとしていました。しかし、その日常に戻ることは出来ません。線量が高い郡山で生活し続けることに、不安を持っていますが、おじいちゃん、おばあちゃんを置いて移住することは出来ません。私は原発について何も知りませんでしたが、今ここに立っています。私たちの未来を一緒に考えていきましょう。

●もう少しの間、寄り添ってください。傷はあまりにも深いのです

橘 柳子さん(浪江町からの避難者)

浪江町は原発のない町、しかし原発が隣接する町です。私は、先の大戦から引き揚げてきて以来浪江町に在住していました。現在は本宮市の仮設住宅に入居中です。それまで9ヵ所の避難所を転々としました。あの原発事故のときの避難の様子は、100人いれば100人の、1,000人いれば1,000人の苦しみと悲しみの物語があります。語りたくとも語れない、泣きたくても涙が出ない、辛い思いをみんな抱えています。

津波で多くの方が亡くなった浪江町請戸というところは、原発から直線で6.7kmの距離です。でも事故の避難のために、その捜索も出来ずに消防団を始め、救助の人も町を去らなければならなかったのです。3月11日は津波による高台への避難指示、3月12日は「避難してください」のみの町内放送でした。「なぜ」が無かったのです。従ってほとんどの町民は「2、3日したら帰れるだろう」と思って、着の身着のまま避難しました。そこからそのまま長い避難生活になるとはどれほどの人が考えていたでしょうか。

もっとも、町長に対しても、国からも東電からも避難指示の連絡はなかったとのことです。町長はテレビでその指示を知ったと言っています。テレビに映ったのを見て初めて知ったということでした。なぜ、浪江にだけ連絡がなかったのでしょうか。原発を作らせなかったからでしょうか。疑問です。そんな中での避難は、また悲劇的です。114号線と言う道路を避難したのですが、そこは放射線が最も高いところばかりでした。朝日新聞「プロメテウスの罠」の通りです。

津島の避難所には3日間いました。テレビはずっと見ることが出来ました。15日に再度、東和の避難場所の変更。この日の夜まで、携帯電話は一切通じませんでしたから、誰とも連絡の取りようもなく、町の指示で動くしかありませんでした。12日と14日の太陽の光が、チクチクと肌に刺すようだったのが忘れられません。12日の避難は、私にとって戦争を連想させました。戦争終結後、中国大陸を徒歩で終結地に向かったあの記憶が蘇りました。原発事故の避難は、徒歩が車になっただけで、延々と続く車の列とその数日間の生活は、あの苦しかった戦争そのものでした。そして私は怯えました。国策により2度も棄民にされてしまう恐怖です。

いつのときも、国策で苦しみ悲しむのは罪もない弱い民衆なのです。3・11からこの1年間、双葉郡の人々のみならず、福島県民を苦しめ続けている原発を、深く問い続けなければいけないと思います。脱原発、反原発の運動した人もしなかった人も、関心あった人もなかった人も、原発があった地域もなかった地域にも福島第一原発事故の被害は隈なくありました。そして復興と再生の中で差別と分断を感じるときがあります。それを見逃すことなく、注意していくことが、今後の課題ではないでしょうか。

福島は、東北はもっと声を出すべきだ、との意見があります。でも、全てに打ちひしがれ喪失感のみが心を打っているのです。声も出ないのです。展望の見えない中で、夢や希望の追及は、困難です。しかし、未来に生きる子どもたちのことを考え脱原発、反原発の追及と実現を課題に生きていくことが唯一の希望かも知れません。先の戦争のとき、子どもたちが大人に「お父さん、お母さんは戦争に反対しなかったの」と問うたように「お父さん、お母さんは原発に反対しなかったの」と言うでしょう。地震国に54基もの原発を作ってしまった日本。そして事故により、日々放射能と向き合わざるを得ない子らの当然の質問だと思います。その子たちの未来の保証のために人類とは共存できない核を使う原発はもうたくさん、いらないとの思いを示すこと。いったん、事故が起きれば原子炉は暴走し続け、その放射能の被害の甚大さは福島原発事故で確認出来たはずです。この苦しみと悲しみを日本に限って言えば、他の県の人々には、特に子どもたちには体験させる必要はありません。

膨大な金と労力を原発のためだけでなく再生可能エネルギーの開発に援助に向けていくべきです。なぜ今、原発の稼働、このような大変なことに遭遇していても、未だ原発必要だという考えはどこから来るのでしょう。他の発想をすることが出来ないほど、原発との関わりが長く深かったということなのでしょうか。でも立ち止まって考えましょう。地震は止められないけど、原発は人の意思と行動で止められるはずです。私たちは、ただ静かに故郷で過ごしたかっただけです。

あの事故以来、われわれは何もないのです。長い間、慈しんできた地域の歴史も文化も、それまでのささやかな財産、われわれを守っていた優しい自然も少し不便でも良い。子どもやわれわれが放射能を気にせず生きることの出来る、自然を大事にした社会こそが望まれます。どうぞ全国の皆さん、脱原発、反原発に関心を持ちお心を寄せて下さい。そしてもう少しの間、寄り添ってください。傷はあまりにも深いのです。3・11福島県民大集会の私からの訴えと致します。ありがとうございました。

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