富山洋子(日本消費者連盟)
2011年、3月11日に起きた東日本大震災、それに引き続く福島における原発震災は、日本の政治・経済・社会の歪みを一挙に噴出させた。このような歪みに蝕まれ翻弄されるのは、いつも弱い立場に追い込まれている人々だ。そして今沖縄では、人々が渾身の力を振り絞り、軍事基地反対運動を展開している。沖縄をめぐる状況は、日本が戦後一貫して、アメリカ従属の政治に徹してきていることを露呈している。福島の原発震災後、原発施設から放射能放出量等を示す「SPEEDI」のデータは、私たちには2ヶ月間も隠されていたが、アメリカには、震災直後から渡されていたことが最近明らかになった。お友達作戦として、アメリカの軍隊が福島に出動したのも、核戦争に備えたアメリカ軍のお試し行動であり、海水等の放射能汚染を測定するという目的もあったのだ。 災害派遣された自衛隊は、私たちの反対にも関らず、この間、南スーダンへの派兵が決まった。武器輸出三原則緩和や加速している憲法改悪の動きも阻止していかねばならない。
私は、かつての年頭所感に、高浜虚子の「去年今年 貫く棒の 如きもの」という句を紹介した。この句は私に、私たちの社会総体、そして、その社会で生きる一人ひとりが担っていくべき「貫く棒」とは何かを考えさせ、その答えは日本国憲法に打ち込まれていることを気付かせた。私は、日本の憲法に込められている「恒久平和」を全うするという意志をを貫ぬこうと自身の生き様に向かい合い、年々その意志を涵養することを期している。
戦争放棄を規定した9条を軸にした「日本国憲法」は、第11条に、「この憲法が保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」と規定されており、私たち一人ひとりの生存権(25条)や、人々の働く権利(27条)も保障されている。そして、第10章では、最高法規としての憲法の位置付けが97~99条に、きちんとなされている。さらに、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と明記されている前文からは、世界中の人々の笑顔が浮かんできて、豊かな気持がもたらされる。
しかし、この憲法が政治の中で忠実に守られたのは、施行後の3年間だけだった。
1950年警察予備隊発足、52年、警察予備隊が改組された保安隊が発足、54年には自衛隊が発足している。さらに声を大きくして言いたいのは、沖縄の人々は、施行当初から現在に至るまで、日本国憲法の埒外に置かれ続けていることだ。安保体制の下、沖縄は、アメリカの戦争のための恒久的な軍事拠点として占拠され、朝鮮・ベトナム・イラクへの出撃基地となった。沖縄の人々の、いのちそのものや人権が危機に晒され、米兵による少女レイプ事件がが象徴する、屈辱に侵されている。私たちが、沖縄の人々の苦悩や怒りを、しかと受け止め、共に斗い抜いてこそ、憲法を活かす道筋が踏み固められるのだ。
1951年アメリカは、世界初の原子力発電に成功。53年には、アメリカのアイゼンハアー大統領が、国連で、「平和のための原子力利用」を提唱。これは、核で世界を支配しようとするというアメリカの意図の目くらましであったと捉えられる。
54年3月1日、アメリカのビキニにおける水爆実験により第5福竜丸など日本漁船が被爆し、久保山愛吉さんが帰らぬ人となった。日本政府は、ビキニ被災の翌日、中曽根康弘自由党議員(当時)らが動き、追加予算として2億3500万円の原子力開発予算を計上。藤田祐幸さんによれば、当時の改進党の小山倉之助議員による「趣旨説明は、冒頭から昨今の軍事情勢から説き起こし、最新の兵器を扱うためには教育と訓練が必要であり、原子兵器を理解し、これを利用する能力を持つために、原子力予算を上程すると言ってのけた」ものであったという。 同年3月12日、自由党憲法調査会発足(会長岸信介)、11月5日には、日本国憲法改正案要綱が発表されている。
もとより、原子炉は、核兵器の原料である猛毒なプルトニウムを作り出すために開発され、原子力発電は、人々の暮らしとは関りなく、軍事的・政治的な思惑の下に国家権力と大資本が結びついて進められてきた。 一部の人々の利益を共同利益のように見せかけるには、大義名分と情報操作が必要だが、最後には金と権力で決着をつけるという形で原発建設が地域に押しつけられてきている。そして、その大義名分には、上記のような本音は隠され、昨今は、「地球温暖化を防止する」などと、あり得ないことを抜け抜けと掲げており、現在は、「電力不足キャンペーン」が、急浮上している。
いのちと暮らしが脅かされ、未来、人権が奪われる社会は「平和」ではない。原子力発電に頼る社会は決して平和とは言えない。共に、反戦・反核・脱原発を貫いていこう。
藤井純子(第九条の会ヒロシマ)
ヒバク、基地、そして改憲、いのちを守りたいと思っているのに大変困難な2012年が明けました。
昨秋から憲法審査会が開かれ、改憲へと動き出しています。けれども、どんな困難にも立ち向かい、行動をしていきたい!と思う時、毎年行われている「許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会」は、私にとってその年の方針を考える大切な集まりになっています。昨年は大分の方々のお蔭で、日出生台で実弾演習をするな!とたゆまず闘っている人々とつながることができ、有意義な出発になりました。今年は、広島で開催させて頂くことになり、ストップ改憲の一歩になるよう準備を進めています。各地で頑張っていらっしゃる皆さん、是非、広島にお集まりください。
なぜ基地も原発もなくならないのでしょう。広島の周りでは、岩国の米軍基地の滑走路が2本に増えてその運用が始まりました。もし厚木からの艦載機部隊が移駐されると騒音も事故も市民の負担も倍増します。でも一方でそこは出撃基地にもなるわけです。広島行政は被爆者の苦しみをみながら内部被曝をおろそかにし、原発を「平和利用」だからいいのだと推進側にさせられてきた面もあります。原発輸出をすれば呉のバブコック日立が絡んできますし、安い労働力を海外に求める企業があったりします。この立場の逆転がもたらすものは何なのか、だれが利益を得るのか、知らぬ間に加害者になってはいないか、反省を込め、常に頭においていたいと思うのです。
今回の公開集会で、渡辺治さんは、日本の今を解き明かし市民の役割りを示唆して下さるでしょう。昨年9月東京で感動的な発言をされた武藤類子さんから「福島からあなたへ」のメッセージをお聞きし、思いを共有することができるでしょう。そして上條恒彦さんの優しく力強い歌から勇気をもらい、各地、様々なやり方で取り組まれ、ストップ改憲の力にして頂ければと思います。
第九条の会ヒロシマは設立して20年になります。中心メンバーの多くは湾岸訴訟の原告となって闘いましたが、あの時代には抽象的概念とされた平和的生存権が、名古屋のイラク訴訟では人権として認められました。また私たちの小さな「市民によるフランス原爆展」が、その後の広島市主催の原爆展を促しました。最新の嬉しいニュースもあります。美しいブナ林のある西中国山地の十方山細見谷に大規模林道を通すという動きに反対した小さな環境市民グループの取り組みが20年の間に研究者にも広がり、止まったのです。市民の行動が少しずつ力になっていくことを実感しています。
今回、「許すな!憲法改悪市民連絡会」と合同で第15回全国交流集会に取り組めることはとても心強く、これからも共に歩んでいきたいと思います。今年も脱原発、反基地、ストップ改憲… 「憲法を守り生かせ」の声を集めて8.6新聞意見広告の掲載など取り組みは盛りだくさんですが、皆さんから応援を頂き、頑張っていくスタートにしたいと思います。
世話人一同、心からお待ちしています。広島にどうぞお出かけください!
(2012年1月20日)
■1995年10月 戦後50年、日米安保の再定義などの動きのなかで、憲法改悪に反対する市民運動の全国的な連携のための呼びかけ
●1996年2月24日~25日 第1回 「いまこそみんなでSTOP改憲 市民運動全国交流集会」 東京 40団体200人 常岡せつ子・フェリス女学院大学教授、山川暁夫・大阪経法大学教授、浅井基文・明治学院大学教授、弓削達・フェリス女学院大学学長、岡本三夫さんなど参加。
●1997年2月 大阪 第2回憲法50周年市民運動全国交流集会
●1998年2月広島 第3回STOP改憲!全国市民交流集会 水島朝穂・早稲田大学教授など
■1999年5月 許すな!憲法改悪・市民連絡会発足
●1999年12月 第4回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 東京 姜尚中・東京大学教授、金城睦・沖縄憲法普及協議会会長、暉峻淑子・埼玉大学名誉教授など
●2001年2月 第5回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 大阪で
■2001年5月 5・3憲法集会実行委員会による日比谷公会堂での憲法集会
●2002年2月23~24日 第6回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会(広島市)
●2003年12月6~7日 第7回 許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 東京
山内敏弘・龍谷大教授、岡本厚・「世界」編集長など
■2004年6月 九条の会結成
●2005年2月11~12日 第8回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 東京
●2006年3月 第9回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 広島 岡本三夫、川崎哲(ピースボート)、パク・チョウンウン・韓国参与連帯、若尾典子・広島県立大学など 「9条と24条」、「9条国際連帯」(2008年9条世界会議の提唱)
●2007年2月17~18日 第10回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 大阪 山内敏弘・龍谷大教授など 「脅かされる生存権 9条と25条」 9条世界会議へ
●2008年2月16~17日 第11回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 東京 「9条を世界へ 世界から」湯浅誠・NPO法人もやい事務局長、谷山博史・JVC代表、ジャン・ユンカーマン、朴慶南、アーサー・ビナード 9条世界会議プレ企画
■2008年5月 9条世界会議
●2009年2月13~15日 第12回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 沖縄 「憲法9条を燦々と、沖縄から基地・安保体制を問う」新崎盛暉・沖縄大学名誉教授、高良鉄美・琉球大学教授、チョン・ウクシク韓国平和ネットワーク代表、山口剛史・琉球大学准教授など、
●2010年2月13~14日 第13回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 東京 「憲法審査会の始動を許さず、平和的生存権の実現を」 渡辺治・一橋大学教授、加藤裕・沖縄憲法普及協議会事務局長、
●2011年2月5~6日 第14回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会 大分 「沖縄・日出生台から日本のいまが見える」 高良鉄美・琉球大学教授
小川良則(憲法を生かす会)《4年半の「空白」を経て》
2007年の第166通常国会での安倍内閣による改憲手続法の強行から4年半、12会期にもわたって始動できないままでいた憲法審査会が、昨秋の第179臨時国会からついに実質審議をスタートさせてしまった。これについては、既に本誌第126号から128号にわたって取り上げられてきたので重複は避けるが、改憲案の審議も含む憲法問題についての常設機関が実際に動き出してしまったことの意味は大きい。
これまで、改憲勢力の側は右派メディア等を通じて、法的には設置された憲法審査会が始動できなかった「空白期間」を「立法府の怠慢による不作為」と攻撃してきたし、実際に動き出した審査会の議論の中でも、こうした主張が自公を中心に展開された。しかし、もともと民主党も「改憲手続法の制定は改憲発議の予行演習」(枝野衆院憲法特委筆頭理事・当時)と位置づけ、当初は協力的な姿勢をとっていたのが、安倍内閣による改憲問題の政局化で崩れてしまうとともに、リーマンショックに代表される世界的な景気の低迷や派遣村に象徴される雇用・生活の破壊などを背景に民主党が「生活優先」を前面に掲げたことで、改憲論議が相対的に後に追いやられたというのが実情である。
今回の憲法審査会の始動は、表面的には、いわゆる「ねじれ国会」における国会対策のためのカードという文脈で語られる。もちろん、国会運営上の取引材料に憲法を差し出したとすれば、その罪は厳しく問われなければならないし、安倍内閣が憲法を政局の具にしたことを批判してボイコットしてきた従来の民主党の姿勢とも矛盾する。
しかし、最初のうちは「とりあえず名簿を出すだけ」と言っておきながら、実際には幹事会が毎週開かれ、衆参2回ずつ開かれた自由討論では早くも各党委員がそれぞれの改憲論を展開というのが実態である。ちょうど、憲法審査会の前身とも言える憲法調査会が「議論するだけ」と言いながら改憲論の大合唱となったように。
一方、この間の憲法情勢はと言えば、教育基本法の全面改悪や海外派兵恒久法の事実上の先取りである「海賊対処」法等が強行された。民主党政権に替わった後も、防衛計画の大綱の見直しでは、専守防衛から積極的抑止戦略への大転換が図られ、武器輸出すらも解禁されてしまった。つい最新では、近代刑事法制の根幹を揺るがす共謀罪の創設を国際公約したとの報道(1月4日・産経)もなされている。
これは、次々と進められてきた既成事実としての憲法の破壊を受け、その集大成として明文改憲を具体的な政治日程に乗せたことに他ならない。
観測史上最大級の東日本大震災と原発事故による被災者の救援・補償・生活再建、円高や失業への対応など、暮らしに直結する喫緊の課題に対し、憲法で保障された幸福追求権や生存権に基づき、これを実質化させるための具体的かつ有効な対策を直ちに講じることが先決であるはずなのに、今なぜ憲法審査会か。もし、災害救援活動が感謝されている今のうちに、自衛隊や米軍の存在、そして集団的自衛権に法的な「お墨付き」を与えておきたいと考えたとすれば、それは余りにも被災者を冒涜する話だ。
防衛計画の大綱の見直しでは、その下敷きとなった安保防衛懇報告に先行して、経団連は「わが国の防衛産業政策の確立に向けた提言」の中で、「防衛産業の衰退が防げるような予算の確保」や「技術的鎖国状態の打破」等を主張している。そして、「御手洗ビジョン」をはじめとする財界側から出された国家構想や改憲案は、いずれも事実上、集団的自衛権の解禁を主張している。
財界と民主党と言えば、2003年の総選挙の際、最初のマニフェストの草案が経済同友会との調整の結果、大幅に書き直されており、その時に追加されたのが、消費税の目的税化であり、比例定数の削減であり、「創憲」という名の改憲路線であった。つまり、今回の動きの背景には、増税やTPP参加も含めて、財界の意向に沿った国づくりという動機が働いていると見なければならない。
彼らは、震災すらも「奇貨」として、「復興」を口実に増税を迫るとともに、「トモダチ作戦」に対して「ありがとう米軍」キャンペーンを展開することで、集団的自衛権への拒否反応を薄めようとしている。最近では「世界から救援でお世話になったお返しに国際貢献を」とばかりに、南スーダンへの派兵まで進められようとしている。しかも、武器使用要件の緩和という交戦権の解禁まで狙われている。
こうした中で動き始めた憲法審査会は、憲法に関する常設の機関ではあるが、政局から一定の距離を保った法律の専門家集団ではなく、他の委員会と同様、その委員は各党の議席割合に応じて配分される。これは院内多数派が内閣を組織するとともに憲法の有権解釈の権限を握ることを意味するが、それでは時の政権による恣意的な憲法解釈に道を拓くことになりかねない。しかし、ひとたび政権幹部がこうと決めたら集団的自衛権も交戦権の行使も武器輸出も何でもありというのでは、とても法治国家とは言えない。
さらに、自民党は、講和条約60周年にあたる今年2012年の4月を目処に、2005年の改憲草案(実質的な起草者は舛添要一)をより復古色の強いものにしたものを取りまとめる予定であり、同党の2012年の運動方針案には、改憲案を「取りまとめる」だけではなく、「国会に提出する」ことまで明記されている。そのせいか、憲法審査会での自由討論でも、会長代理の中谷(防大OBの元制服組)は,両院合同審査の具体的な仕組みづくりにまで言及していたことも指摘しておかなければならない。
最後に、憲法審査会における特徴的な議論を紹介しておくと、自民党は、改憲議連の呼びかけ人で憲法調査会の会長であった中山太郎参考人ですら否定した「押し付け憲法論」を執拗に蒸し返すとともに、しきりに「歴史と伝統・国柄」を強調し、「125代にわたる皇統」などと神話まで展開する始末である。たちあがれ日本も政教分離の見直しと天皇元首化を主張している。どうも、彼らには「六法全書」と「日本書紀」の区別がつかないらしい。
みんなの党は首相公選制や一院制、道州制の導入を主張しているが、これは主権者による権力の民主的コントロールよりも迅速な意思決定を上に置くものであり、容易に独裁に途を拓く危険があることを指摘しておかなければならない。
また、自・公・民・みんな等の議員で構成する一院制議連や96条議連も、それぞれの立場から改憲を目指しており、特に、発議要件の引き下げについては、各党の委員から意見が出された。しかし、硬性憲法を変質させるような改正は改正の限界を超えるという正論を展開したのは極めて少数であった。
私たちは改めて憲法審査会の始動という暴挙を糾弾し、今後の憲法審査会の動向を監視するとともに、憲法改悪に反対する闘いを共同できる全ての人々と協力し、全力で強化していかなければならない。
今、為政者に緊急に求められているのは、憲法審査会を舞台とする改憲論議などではなく、生活再建も含めた被災者の救済と復旧・復興であり、雇用の確保や生活不安の解消である。そして、その基礎に据えるべきは、誰にも等しく幸福追求権や生存権を保障した憲法であることは言うまでもない。
池上 仁(学校事務職員労働組合神奈川)
昨2011年10月25日朝、私は組合(学校事務職員労働組合神奈川)の3人の仲間と共に神奈川県警公安三課に逮捕されました。容疑は2年半前の2009年3月に行われた、私が当時委員長を務めていた組合と某中学校校長との交渉が「強要未遂」に当たるというもの。交渉は採用1年目の若い組合員に対し、校長がパワーハラスメントと思われる言動を行い、組合を誹謗中傷する不当労働行為を働いたばかりか、人事評価で事務職員として不適格であるかのような、恐らく県下でも最低の評価を下したことを問題とし、謝罪と是正を求めて行われました。交渉は校長が不誠実な対応に終始したため紛糾し、決裂しました。その際の私たちの言動が「生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害」する「強要」にあたるというのです。無論、私たちは「脅迫」や「暴行」など行っていません。
問題となった人事評価については、その後本人の苦情申立を受けた教育委員会が不適切と判断し、校長に対して一部評価の訂正を命じました。これは異例のことです。従って、交渉の目的は教育委員会による救済措置で不十分ながら果たされる結果になりました。校長は本人に対し評価訂正に至った経過を説明する義務があるのですが、年度末定年退職をいいことにそのまま姿を晦ましてしまい、再評価の開示も副校長に行わせるという非常識な対応でした(ちなみにこの校長、交渉と同時期に大事な書類がなくなったといって警察に被害届を出し、職員が指紋を採られる騒ぎを引き起こしています)。組合は校長に対し、経過説明を行い当事者の組合員に一言詫びるよう手紙で求めましたが、これにも梨のつぶて。これ以上働きかけても誠意ある対応は引き出せないと判断し、一旦決着としました。
それが何故2年半も経て事件化されるのか、本当に理解に苦しみます。逮捕は私を含めた4人にとってまさに青天の霹靂というしかないものでした。
当初の勾留期間を2日残して、11月2日、4名とも処分保留のまま釈放されました。釈放は検事の指揮で行われたもので、校長の提出した証拠(交渉の際隠し録りしていたボイスレコーダー等)で色めき立ったものの、調べてみれば校長側に種々問題があり、裁判に持ち込んでも有罪判決を取れないと判断したものでしょう。その後1度も取り調べがないまま11月28日には不起訴処分が決定しましたが、そのことを知ったのは新聞報道によってでした。こういう場合本人には何にも通知がないことに一驚しました。
組合は2年来横浜市教育委員会を相手に組合差別を是正させる裁判闘争を行っていますが、代理人をお願いしているお二人の弁護士が今回の事件についても引き受けて下さったことが幸いでした。裁判を通じて神奈川の人事評価制度について理解を深め、組合の主張を余すことなく法廷でも展開していただいていました。そのため、今回の事件についても迅速かつ的確にこれ以上はない弁護活動を行っていただきました。その一人岡部玲子弁護士は「九条かながわの会」を積極的に担っている方でもあります。釈放早々、11月13日に開催された「かながわ九条まつり」には、岡部さん担当のテント張りのお手伝いに私を含め多くの労働組合員が駆けつけました。皆労働争議や裁判で岡部さんにお世話になっているメンバーです。
組合の仲間たちも本当に頑張ってくれました。定員・予算、賃金交渉の日程が立て込んでいる中、機敏に救援体制を整え精力的に活動してくれました。小さな組合です。捕らわれている4人よりも外で奔走してくれている組合員の方がよほどきつかったことでしょう。
労働運動はじめ日の丸・君が代強制反対、反APEC等様々な活動を通じて友人となった皆さんは支援要請に直ちに応えて下さいました。勾留中の4人への激励行動に70人以上、2日の報告集会には100人もの皆さんが駆けつけて下さったことに驚き、胸が熱くなりました。市民連絡会のメンバーのお顔もその中にありました。釈放早々いち早くねぎらいの電話を押収されて返却されたばかりの携帯にかけてくれたのが高田健さんでした。早期の釈放と不起訴を勝ち取れたのは、皆様のご支援の賜物です。その後も弁護士費用等の救援カンパ要請に多くの団体・個人の方が応じて下さり、150万円もの金額になりました。不当弾圧というしかない今回の事件ですが、熱い支援の拡がりにこれまでの地道な組合運動で培った貴重なネットワークを実感しました。
大阪市長選では、徹底した競争主義・成績主義に立つ「教育基本条例」を掲げた橋下氏が当選しました。この「教育基本条例」はあまりのひどさに、橋下氏自身が任命した教育委員ですら反対した代物です。しかし、それは決して橋下氏・維新の会の突飛な思いつきなのではありません。「教育改革」の名のもとに、全国で学校に市場原理・競争主義が導入されてきました。「教育基本条例」はこれの集大成に過ぎません。今回の事件で焦点になった人事評価制度もその一つです。
神奈川県では、2003年4月から私たちの強い反対を押し切って新人事評価システムが導入されました。人材育成を図り学校を活性化するというのが謳い文句でした。2008年度からは人事評価結果がボーナスや昇給に影響するようになりました。職員が日々同じように職務に励んでいても、決まった割合の職員の賃金だけが優遇されます。評価を気にしながらの仕事、同僚の評価に疑心暗鬼となり、管理職の意見に異論があってもなかなか言い出せない、そんな雰囲気が否応なくつくられています。学校の活性化どころではありません。
教育の要は多様性であると思います。様々な個性をもった教職員の協力協働がなければ決して良い結果は出ません。成績主義は橋下流上意下達の独裁政治には相応しいかもしれませんが、多様なものの考え方、見方に触れ、自分で学ぶことのできる批判精神に富んだ子どもを育てることとは逆行します。成績主義は教育にとって百害あって一利なしです。私たちの組合はこの人事評価制度に一切非協力の方針で臨んできました。それを口実に賃金差別を行った横浜市教委を訴えたのが前述の裁判です。
不当逮捕・勾留を行い、請求し、許可した警察・検察・裁判所に怒りがこみ上げます。そしてもう一つマスコミのひどさを指摘しないわけにはいきません。最も悪質だったのは読売新聞で、4人の氏名・住所・年齢を掲載し、警察発表を垂れ流して如何にも禍々しい事件に仕立て上げました。朝日・毎日は2名の氏名・年齢を掲載。朝日はフォロー記事で釈放、不起訴処分をそれぞれ報じましたが、読売は全く無視したようです。
私たちの事件の少し前に、横浜市教委の主任指導主事が痴漢容疑で逮捕され、不起訴になる事件がありました。この時も新聞は氏名・年齢を掲載しました。教育関係職員・公務員が関わる事件に飛びついてバッシングを加えるのがマスコミの通弊ですが、これに限らず、容疑者の段階で氏名等を公表するのは「推定無罪」の原則からすれば実に不当な人権侵害です。こうした姿勢は原発震災の出鱈目な報道(私はあまりのひどさに40年来の購読紙を替えました)とも通じるものであると思います。
私は昨年3月、定年退職後2年間続けた再任用を辞めました。市教委の嫌がらせ人事にやる気が失せたためです。今は組合の手伝いと、退職した小学校の校長に乞われて障害児学級支援のボランティアをしています。釈放後の再開初日は子どもたちが駆け寄ってきてhug hug hug ……。多動の児童を追いかけまわす毎日です。小動物(には違いないわけですが)のように全力でもがくのを教室に連れ戻すのが私の役割、時々息が切れるのが癪です。言葉が殆どない1年生のその女の子は、勉強に飽きると私においでおいでをし、対面に椅子を運んできて座れの身振り、何故か腕まくりをしろ(真冬なのに!)とこれも身振りで示して粘土細工が始まります。先日は餃子を作る際、皮の縁を水で湿らせる動作を慣れた手つきでしていたのに驚きました。母親の日頃の接し方が目に浮かぶようです。ひとしきり遊んで飽きると「おわり!」と宣言して今度は積み木へ……。
何故言葉がないのか(それでも片言は少しずつ増えてきました)分りませんが、給食の白衣はきちんとたためるし、運動会のダンスは周りの子を真似て上手に踊るし、わざと左右の靴を反対に履いて大人をからかうし。泣いたりしょげている子がいると必ず傍に寄って背中をさすりながら言葉にならない声かけをして慰めます。もっとも突然叩いたり髪の毛を引っ張って友達を泣かせるのも他ならぬ彼女なのですが。彼女の中にはなにかすごい力が潜んでいるんじゃないかと最近思うようになりました。
ものの芽の力に雨の加はりぬ(稲畑汀子)
大岡信がこの句を評して、「まずもって自力、それを助けるものとして雨という他力がある」と書いていますが、「自力」というよりもっと根源的な「力」……いつまでボランティアを続けるか分かりませんが、彼女の「力」に刺激されながら、「世直し」の一端を担っていきたいと思います。
松岡幹雄(とめよう改憲!おおさかネットワーク事務局)
11月27日の大阪府知事選挙、大阪市長選挙は、8時の開票と同時に橋下・松井大阪維新の会コンビ当選確実がテッロプで流れる結果となった。その夜は、暗澹たる思いの中でなかなか眠りにつけなかった。「平松ユース」として平松候補と街頭宣伝に同行してきた娘も同様であっただろう。翌日の新聞各紙は、「橋下・維新の会圧勝」と書き立てた。しかし、各候補の獲得得票を見るとけっしてそうではなかった。投票率は、前回よりも伸びたとはいえ60,92%、平松邦夫氏が522,641票、橋下徹氏が750,813票という結果であった。橋下氏の獲得得票は全有権者の34%にとどまったのだ。「民意」を振りかざす橋下氏なら、明確な批判票が52万人、さらに4割の人たちが棄権したことは無視できないはずだ。しかし、彼の頭にはそういう冷静さや謙虚さなどは微塵もない。選挙という手段で権力をいったん握れば自分の価値観、判断はすべて「民意」という名で合理化される。自分と意見が異なれば、「クソ」呼ばわりしコケにしていくのである。就任早々、大阪市役所で「民意に逆らう者は、市役所を去れ」と叫びたてたことは記憶に新しい。
さて、今回のダブル選挙について様々な分析がなされている。私も小泉郵政選挙がそうであったように「公務員バッシング」で仮想敵をつくりあげ、郵政民営化賛成か反対かの一点を叫びたてた劇場型選挙と同類だと感じている。橋下氏の場合は、教育、職員2条例は、あえて争点からぼかし、公務員攻撃と「大阪都構想」に賛成か反対かを前面に押し出した。しかし、今回の選挙はさらにある傾向が明確になってきているし、これからの国政選挙でも浮かび上がることだと思う。それは、維新の会・松井氏の獲得得票率が平均所得率が高いところほど低く、平均所得率が低いところほど高いという結果が出ていることだ。橋下・維新の会は、「国民年金未納者への面談を強化し未納をなくす」方針であるという記事が掲載されたが低所得者層が自分たちの首を絞める候補に自ら投票するという矛盾に満ちた投票行動が行われたのである。現在、経済のグローバル化と外需依存型成長路線が支配する中で日本社会は非正規雇用の増大が進行し、新たな階層が生まれてきているとの指摘がある。それが、膨大な無党派層として多数派となっている現状がある。「大阪市の橋下徹市長の『ハシズム現象』も貧困マジョリティーの心情的瞬発力に支えられている面が大きい」「『うっぷん晴らし政治』の渇望を満たそうとすれば、1930年代の政治が繰り返される。グローバリズムが生み出した『貧困ファシズム』の培地となりかねない」(1月8日朝日新聞)との内橋克人氏の指摘は的をえたものだ。
しかし、さらに困ったことに低所得者層を「うっぷん晴らしの政治」に駆り立てているのが大手テレビ局だということだ。関西の民放は一部を除き橋下応援団だ。また、新聞等のメディアも露骨である。1月3日付け朝日新聞の社説などはその典型だ。社説はこういう。「昨年、世界を動かした主役は若者たちだった。独裁体制を倒した『アラブの春』も、米ウォール街の占拠から世界に広がった『格差社会』への抗議行動も、若い世代が先頭にいた。なにせ、どこも若者受難の時代なのである。日本でも若い力が動き出している。たとえば、昨年の大阪市長選だ。朝日新聞社の出口調査では、前回の選挙より投票所に足を運んだ若者が増え、20代、30代の7割は大阪維新の会の橋下徹氏に一票を投じていた。」朝日新聞は、明確に「大阪都構想」に幻想を抱かせそれを「坂の下」から上への出口だという堺屋太一の主張に乗っかりそれを貧困と格差社会からの出口だと若者らに語っているのだ。「貧困ファシズム」をメディアがしっかり造り上げる構造ではないのか。
さてこの度の最高裁の君が代不起立処分取り消し判決は、そんな彼らに大きなダメージを与えている。しかしながら若干の修正を加えはするが大きな変更はせず2月議会に教育、職員2条例を再提案する構えである。「体制をかえなければならない」と呼号する彼ら大阪維新の会のバックには、TPP推進、道州制推進、憲法改正を出口とする経済界がうごめいている。私たちは、真の出口を若者たちにしめして行かねばならない。
とめよう改憲!おおさかネットワークも結成から6年目を迎える。3月の総会は、雨宮処凛さんをゲストに「3.11以降の格差と憲法」をテーマに若者たちと共にこれらの問題を考えていきたい。若者たちよ、だまされるな!正念場の大阪、負けてられへん!
山下治子
凶悪犯罪に通じる田中前沖縄防衛局長の性暴力発言に続いて、2011年12月28日未明、防衛省は辺野古アセス評価書(まがいのもの)を強行的に県庁へ搬入した。相も変らぬこの国の卑劣さに、私は怒りを引きづったまま新年を迎えてしまった。
名護市瀬嵩に住む浦島悦子さんは「沖縄には暴力の嵐が吹き荒れている」と昨年(ある紙上で)言っていたが、政府の対沖縄政策を言い尽くしていると思う。生存権を保障している日本国憲法へ沖縄が「復帰」して今年は40年になる。「復帰」運動最中の軍事占領下沖縄の状況を、詳しく伝える「沖縄黒書」(1967年)の序文で作家の木下順二さん(故人)は「沖縄の問題というものは今日の日本の問題の一つの集約のようなものではないか」と述べている。40数年を経た今のこの国に余りにも通じている。アメリカはその軍事占領の永続を狙って日米軍事同盟化へ変容させ一層の「深化」を日米政府は合意している
昨年6月の日米「2+2共同声明」で辺野古新基地計画を再確認、野田政権はアセス手続き最終の「評価書」について「2011年内の提出」をオバマに約束した。それを果たす為に闇にまぎれて強行を謀ったのだがこれは暴力的行為としか思えない。この国は闇の行動がお家芸らしく、2007年5月、防衛省は辺野古沖に海自艦「ぶんご」を出動させ、ジュゴンの餌場を奪うかのようにダイバーたちにパッシブソナー(収音器)、ビデオなど112箇所の海底に設置させた。
いま評価書をめぐって専門家が「非科学的」と指摘する一つにはこのように「調査対象の撹乱」をしておいてから、事前調査をおこない結果を提出していることがある。更に環境アセスについて素人の私でも解ることだが、本来の基地建設の計画内容が全て示されているべきアセス「方法書」に全く記載がなく、次の手続きの「準備書」にも書かれていないオスプレイの配備について、今回の「評価書」にはぬけぬけと書いているのだからその違法性は疑いようもない。沖縄・生物多様性ネットワークの花輪伸一さんによれば、日本政府はオスプレイの配備について1998年、2006年、2007年に「聞いていません」と国会答弁をしているという。
私は2009年4月、丁度「グアム移転協定」審議の参議院外交防衛委員会において、山内徳信議員(社民党)がアメリカから取り寄せた資料があるとして、「ジョセフナイはオスプレイ配置は無いとは言えぬ」と言っていると、資料を皆に見せながら防衛省の高見澤局長(当時)に迫った場面を傍聴した。高見澤局長は「米の文書について一々言うのは如何なものか」と顔をこわばらせながら逃げていた。山内議員は「いまアセスは準備書の段階である。隠しに隠した上に立ったものは方法書からやり直せ」と切り込んだ。2010年11月の辺野古実行委員会の防衛省交渉で、相手方は「オスプレイ配備につきましては現時点で確認しているわけではないと承知している」と。つい8月には当時の岡田外相がオスプレイ配備を口にしていたにもかかわらず、役人言葉で言い抜けようとしていた。
2009年の「準備書」の時は一般市民や専門家から防衛省へ5千数百にのぼる「意見書」が送られたが、今回の「評価書」に対しては仲井眞知事だけが意見を言えることになっている。市民がもの言えぬ「評価書」に初めて「オスプレイ配備の決定、2+2共同発表を踏まえた対応」と書いている(防衛省が12月28日、プレス配布した16pの要約から)。沖縄の新聞が批判しているようにアセス法の崩壊を招く「後出し」が許されるわけがない。いま仮に要件を満たした「評価書」があったとしても提出をストップしなければならない重要な理由があるのではないかと思う。
一つは昨年12月14日、米上下両院が「海兵隊のグアム移転費削除」を確定し2012年度予算に計上しないと報道されたことである。2009年4月、「グアム移転協定」が国会で審議されたが、私たちは辺野古新基地建設とパッケージされた移転協定に反対し、当時の民主党も反対していたが自公政権が成立させたしろものである。この「協定」に基づく予算がアメリカで止まったのだから、辺野古新基地推進に結ぶ「評価書」提出などというものはあり得ないはずである。(ちなみに海兵隊の移転は全く進んでいないのに民主党政権はすでに日本側分担金の一部として1000億近いお金をアメリカに送金済みであることが昨年10月にわかった)。
第2として、これが最も重要な理由だが、沖縄では「辺野古新基地はつくらせない」とする民意が繰り返し示されていることである。いま、近いところで主なものを拾ってみると●2010年1月・辺野古反対の稲嶺名護市長が誕生 ●同年2月、県議会が県内移設反対の意見書を全会一致で可決 ●同年4月、9万人の県民集会 ●同9月、名護市議選で辺野古反対派が初めて推進派(11名)を上回り16名当選 ●同11月、知事選で仲井眞知事がついに「県外移設」を掲げ当選 ●2011年11月、県議会が「評価書出すな」と全会一致で可決。
政府が「沖縄の負担軽減」と繰り返すその言葉が如何に空疎なものであったか、沖縄の人々は見抜いていることが示されている。このような民意のうねりを国は無視し続け抑えることができると本気で思っているのだろうか。昨年11月、沖縄のあの穏やかな表情の島田善次牧師が、防衛省の7~8人を前に「もしも基地を造ると言ったら沖縄では大変なことが起きますよ」と鋭い口調で話した時、きょとんとした表情で島田さんを見つめていた「役人」たちの顔が不愉快だが浮かんでくる。
今年はまた辺野古、高江にとっても片時も目を離せない年となるのだろう。私たちも自分の考えをはっきりと行動で示していきたい。
新田秀樹(ピースリンク広島・呉・岩国)
1月21日、「伊方原発問題を考える」講演会を開催しました。集会には、脱原発を目指す市民グループらが参加。竹原市出身で、40年にわたり伊方原発の反対運動をしてきた近藤誠さんが、講演しました。
四国電力・伊方原発は、広島市から南西に100キロの場所にあります。近くの海底には、日本最大級の活断層があり、マグニチュード8クラスの巨大地震が起きると考えられています。近藤さんは「老朽化が進み、地震対策も不十分なので、重大な事故につながる危険性がある」と指摘。事故が起きれば、広島も含めた瀬戸内一帯で放射能汚染が広がると話し、廃炉にすべきと訴えました。
広島県竹原市出身の近藤さんは関西での学生生活、就職を経て、瀬戸内の環境問題に着目して、八幡浜に移り住み、故斉間満さんと出会い、地元ローカル紙南海日日新聞の記者となる。
記者としても原発報道に携わりながら、反原発運動に関わり、大手メディアが報道しない真実を告発し続けた。伊方原発1号炉運転差止裁判に原告として参加し、2号炉裁判は本人訴訟として、訴状をはじめとした裁判関係書類も自ら作成し、19年という長い闘いも行なった。この裁判で、国や四電の活断層調査がでたらめであることをつきとめた。
現在、伊方差止め裁判を300人の原告で提訴した。危険要素は数多くあるが、とり分け、地震の問題は急務で今回の裁判の論点にしたい。原発沖6キロに横たわる日本最大の活断層「中央構造線」がもたらす地震はマグニチュウード8クラスといわれているが、伊方原発は耐え切れない。直ちに廃炉にすべきだ。
現在、1月14日午前1時ごろに3基すべての原発が停まった。再稼動を許さない声を拡げていかなければならない。事故が起これば、閉鎖的海域の瀬戸内一帯はもちろん、西日本一帯にその影響は拡大する。広島からも伊方再稼動反対の声を広げることは急務の課題だ。
工藤和美(釧路市)
昨年1月15日に一人でも誰でも入れる労働組合のユニオンくしろを仲間と共に結成することが出来ました。釧路市の労働基本調査では非正規労働者の比率は2010年 46.1%となり、2011年8月に厚生労働省が発表した実態調査(2010/10月時点)での正社員以外の労働者の割合が過去最高の38.7%に達したことに比べても釧路は非常に高く、非正規労働者は働く者の半数に迫る状態となっています。また釧路市の生活保護率は2010年4月で51・8パーミル(‰)となり北海道のワーストワンを更新し市民20人に1人が受給している状態となっています。
しかし釧路の労働組合への組織状況(2010年度)は経営規模5~9人で2.9% 10~29人で10.3% 30~99人で15.8%となっており中小企業の大半で労働者の権利を守る労働組合が全くない状態となっています。
こうした状況の中でユニオンくしろは、ユニオンとかち・札幌地域労組両労組のご支援をいただきコミュニティ・ユニオン全国ネットワークへの加入が実現し、結成一年を迎えることができました。この間メールや電話などの労働相談件数34件、団交(3社 計7回)を通じて組合員も若干増えました。相談内容は不当解雇や退職に関することが14件で最も多く、次いでパワハラが7件、賃金問題6件、残業代未払い4件などで特徴としては解雇、退職にパワハラが関係していることが多いことです。このうちパワハラで退職を強要された50代男性の場合では、要求書提出4回、団交2回を経る中で職場の仲間3名も加入し、解雇撤回と再発防止策を勝ち取ることができました。しかし未組織労働者の組織化は、問題が落ち着いてくると組合員として継続することが難しくこれからが正念場といえます。
一方、昨年3月11日の東日本大震災は多くの人命と甚大な被害をもたらし今なお厳しい状況に置かれています。とりわけ福島原発震災の発生以来、深刻な放射能の拡散問題と原発の危険性を問う脱原発の声は大きく拡がっています。釧路においても昨年の6.11脱原発100万人アクションの取り組みを契機に新たな市民運動として脱原発ネット釧路が結成され積極的に活動が取り組まれています。毎月11日の月例会開催、小出さん・広瀬さん・9.19の6万人集会などのビデオ上映会・1000万人署名の取り組み、原発いらないウォーク、釧路市議会議員へのアンケート(ブログで公表)、昨年9月市議会への放射能がれきの持ち込ませない陳情の提出と採択、同11月には放射能防御プロジェクト木下黄太氏の「放射能汚染どこまで広がる?現状とこれから」講演会開催、「泊原発の廃炉をめざす会」共同代表の小野有五北大名誉教授の「子供たちのために、北海道の未来のために、泊原発を廃炉にしよう」講演会の開催、「チェリノブイリ・ハート」上映会、12月にはなべを囲んで、原発問題をつっつこう!「脱原発なべ」の開催(フリートーク・トンコリ・ギター・バイオリン・替え歌などのライブ・落語)、今年に入ってからは「放射能から子どもの給食を守る会」が取り組んでいる2月市議会に向けて釧路市の保育園および小中学校の給食における放射能対策を求める陳情署名への協力、釧路で初の3団体(釧根平和運動フォーラム・脱原発ネット釧路・いのちとくらしを守る釧路市民会議)の協力による2.11さようなら原発1000万人アクションIN釧路集会 (講師・原発紙芝居 斉藤武一岩内原発問題研究会代表・泊原発廃炉訴訟原告団団長) の開催に取り組んでいます。今後とも一人一人の自発性と創意を大切にし、お互い学び合いながら、月例会の拡大・市民主体の放射能測定機器の購入・検査体制の確立や北海道・全国の脱原発市民運動との連携を深めていきたいと考えています。
脱原発ネット釧路ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nonukes946
放射能から子どもの給食を守る会
http://ameblo.jp/kyushoku-kushiro
中尾こずえ
3・11以降の昨年は、私にとっては途方もなく長い日々だった。東電は事故から2ヶ月も経ってやっと福島第一原発のメルトダウンを認めるなど、その場しのぎの弁明に明け暮れた。
原発事故と行政の対応に翻弄され続ける福島の人たち。事態の収束のメドは立たず、今後長きにわたって福島の人びとについて回る「健康不安」「生活苦」「差別と無理解」。
私は東京暮らし、職業は介護ヘルパーだ。あの時刻は自転車で移動中だった。揺れが収まってから、ケア先に訪問。身体の自由がきかない独居のAさんは不安の中におかされていた。買い物代行も仕事のうち、スパーには人びとの買い占めで米が無くなり、水が無くなり、トイレットペーパーが無くなり、牛乳が無くなった。「品切れで買えなかった」と言うのが辛かった。その後、何日もAさんは「ゆれている、目まいがする」と訴え、体調悪化で入院した。福島出身の彼女は訪問時、いつもテレビニュースを見ていた。
9月上旬、方麻痺を患っていたE子さん(66才)が自宅マンションで亡くなった。私は入浴介助のケアで通っていた。死は“自殺”と判断された。E子さんは「これから私はリハビリに頑張りたい!」と語っていたのに、いったい何があったのか。
11月6日に発生した新宿大久保のアパートの全焼事件。このアパートにTさん(77才)は3ヶ月前から住んでいた(以前住んでいたアパートは家主から契約の更新を拒否されたのだ)。中学卒業と同時に上京し、建築現場で都市労働を支えてきた彼の故郷は北海道の江別。全焼したアパートは築50年以上が経つ木造の2階建てで、ハモニカ状に4畳半が並んでいた。床はコンクリートの上に分厚めのビニール製のような敷物で被われていた。ベットをもつことができないTさんは、ここに布団を敷いて寝ていたのだ。トイレは共同で、家賃は月5万円。私のケアは病状に合った食事を5食分、まとめ作りするのが主だった。背後に貧困ビジネスの匂いがした。火災前はこのアパートに23人が居住していた。そのうちTさんも含めて17人が生活保護を受けていた。ニュースでは「4人の遺体が発見され、意識不明の重体が2人」と報じていた。Tさんは区の社会福祉協議会が運営する施設に期限付きで保護された。1ヶ月後、現在のアパートに入居し、新年を迎える。トイレはついていたが、何もない、やはり畳がない。手荷物もなく、やっとの思いで避難したTさんに当座の着替え用下着が支給されたが、私は100円ショップで調理道具を購入した。家賃は月5万2千円だ。ケア後、退室時には「どうもありがとうございました」と丁寧なお礼の言葉をいつももらう。辛い。
街の中は商店街など様々なところで「頑張ろう東北」とか「ひとつになろう」とか「絆」等々の文言が氾濫した。私は改めて、事業所に保管されているTさんの情報ファイルを読み直した。緊急連絡先欄は、第1、第2、第3とも空白だった。病気に蝕まれながら、わずか1年の間に3回も住まいを転々とさせられたTさん。身よりなく貧しい老人たち。そして、生きるのにギリギリ最小限のケアも満足にできない貧しい介護現場の実態。私は重い気分が抜けなかった。何が「絆」だ! 何が「トモダチ作戦」だ!
さようなら原発1000万人アクション、9・19の大成功は私の励み~そして1000万署名の取り組みを通じて、WORLD PEACE NOWの仲間と都内の大きな駅前で署名を取り組み、地域では地域の仲間たちと月例で行った豊島区内のJR駅前行動では、「原発なくても大丈夫!」「子どもを守ろう!」「命が大事!」「脱原発に見合ったくらしを!」等々、思いっきり脱原発を訴え、署名を集めた。
実にたくさんの人びとと出会った。
ベビーカーを押す手を休め署名する人。「する」「しない」で2分するカップル。サーッと近づいてきて確信を持って書く人。議論をふっかけて来る人。「浪江町から来たのよ。何とかして~」と言いながら署名する女性。「ありがとう」と声をかけてくれる福島出身の女性。等々……。
1月3日は再び巣鴨駅頭で行った。1時間半、市民連絡会からも何人か応援にきてくれて、スタッフは11人。133筆いただいた。終了後は小さな新年会をして、暖を取った。「やってよかった」がみんなの感想だ。
地域で署名活動を続ける中でちょっとした変化があった。当初は「巣鴨の商店街は自民と公明ばっかりだからウーン!きついよ」といった消極的な意見もあったのだ。でもやってみてとても反応が良いので、3日の当日も参加し、気分は上々。また地域の学校に娘さん2人を通わせている女性は中心的なスタッフの一人で、ママ友を呼び止めて署名してもらったりと、頼もしい。
命を大切にすることが何より優先されなければならない。地産地消の自然エネルギーがいい。巨大化も、集中(前頁より) 化も必要ない。多様な社会は豊かではないか。分散的な経済のありかたでいいではないのか。
私たちはいま、搾取、収奪、差別のない平等な社会を作るための岐路にいるんだなと思う。「生きることとは」を考えさせられた3・11以降の昨年だった。福島の人びとに、社会の隅に置き去りにされた人びとに、これからの未来に、暖かな春が来ますように。
署名はまず一人が脱原発を考える大きなきっかけになるのだ。私はその一人一人がとても大切だと思う。通り過ぎようとする人びとにも、まじめにちょっと声をかけてみよう、「そうですね」が返って来ますから。いま、54基ある原発は稼働しているのがわずか5基になった。私たちの未来は私たちがつくる!!。
土井とみえ
新年の14、15日に横浜で開かれた「脱原発世界会議」は、2日間で1万人以上の参加者を集め30数カ国からの海外ゲストも参加した。私も2日ともしっかりと参加したが、「原発をやめるのは当たり前」と日本の世論の8割が思っていることのすごさをあらためて実感した。会議の様子はすでに各方面で報道されているが、実に活気ある企画となった。
横浜港を臨むホテルの4階分を占めた会場では、講演やシンポジウムなど大集会形式のものが複数開かれているのと平行して、「アーティストラウンジ」「ふくしまの部屋」「海外ゲストと話そう」「子ども向け」などの分野別の小集会が同時に開かれていった。また映画上映や、69のさまざまな団体のパネル展示があり、書籍やグッズのブースもひしめき、参加者でごったがえす盛況だった。
特徴的だったのは“もちこみ企画”と名付けられた60ほどの小集会が開かれたことだった。この“もちこみ企画”は若い人々や運動に新しく加わった人々の運営が目立った。企画は、原発に頼らない地域作り、子どもを守る、映像、自然エネルギー、海外、ミニステージなどでくくられ、たとえば「原発100キロの地で子どもと生きる」とか「福島のお産を考える:産前産後の保護&サポートづくりに向けて」「横須賀=原子力空母と核燃料工場のまち」などの福島をはじめとした地域の課題や、それぞれがとりくんでいる運動を親しみやすくビジュアルに表現して若い人々の関心を集めていた。
メイン集会でも福島原発事故の検証や、低線量被爆の問題、エネルギーシフトの道筋、各地の首長による地域発・原発に頼らない社会の作り方などを、様々な角度から検証するセッションが開かれた。開会イベントで話したドイツのレベッカ・ハルムスさん(欧州議会議員、緑の党・欧州自由同盟代表)は、「チェルノブイリ以来、被害は忘れられない。ドイツの市民は大半が反原発だ。ドイツの経験から学んで下さい。福島の教訓から学んで下さい。」という言葉の力強さは忘れられないものとなった。日本が原発輸出を計画しているヨルダンから来たモオタシム・アワーレムさん(国会議員、保険・環境委員会委員長)は、多くのヨルダンの人々による反対運動が起きている映像を紹介し、核廃棄物の深刻さを訴えていた。また、オーストラリアの先住民族で、ウラン採掘と核廃棄物処理の停止を求めて運動してきたピーター・ワッツさんは、自分がたたかっている採掘場の核燃料が福島で使われていたことを、何回も何回も詫びて、繋がろうと呼びかけ、感動させられた。今年はカレンダーがめくられても新しい気分が感じられなかったが、「脱原発世界会議」は新年早々元気のでる大イベントとなった。
原発震災後、早くから始められた「さようなら原発1000万アクション」は、9月には東京で6万人の大集会を成功させ、12月には320万筆の署名が集まったと発表があった。大きな目標を定めた1000万署名だが、有名タレントの協力も出てきているようで、巨体の運動はようやく歯車が回り始めた感じが伝わってくる。大江健三郎さんも節々の集会にはスピーチをして、大衆の力こそが脱原発を実現すると直接私たちに訴えている。原発事故後に、やむにやまれず動き出した人々が、実に多様な形で新しく運動に取り組み運動は広がっている。署名を1000万筆集めるきることは、さまざまな運動を目に見える固まりとして日本社会に示し、腰の定まらない民主党政権に無視できない一つの大きな方向性を与える力になるに違いない。
昨年の東日本大震災と原発事故は、私たちの暮らしのあり方を根本から問いただす文字通りの大衝撃だった。すでに批判が向けられていたとはいえ、生産力の拡大が無条件で良いことであるという戦後日本のあり方の問題があらわになった。また生産力第一のやり方は地域格差を生み出すこと、そしてほとんど顧みられなかった反原発の声はいまやこの国の殆どの人々にとって当然のことになった。
長崎・広島で被爆し、第5福竜丸と福島第1原発事故という、この66年の間に4回も核の被害に向き合わされた、世界でも稀な経験を持つことになってしまった私たちだ。「資源がないから」といわれてきた日本だが、自慢してきた「技術力」でエネルギーの地産地消を実現できたら、それは世界に大きく貢献できる。石油資源などエネルギー問題は世界の争いの種になってきたことを思えば、憲法の平和主義にも貢献できるというものだ。
世界では中東の民衆革命があり、ニューヨークでは格差反対の運動の爆発もあった。思えば21世紀の初めにはイラク戦争に反対して、戦争の始まる前から1千万とも2千万とも言われる世界の人々がアメリカの戦争にたいして反対の行動にたちあがった。歴史の曲がり角を多くの人が実感するようになっている21世紀の10年代だ。民衆の力を信じて変化をはじめる年にしたい。
山口たか(自治を創る会・福島の子どもたちを守る会北海道事務局長)
2011年3月11日の東日本大震災からまもなく1年になろうとしている。地震と津波によってひき起こされた東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故は、いまだ、収束せず放射性物質は環境に放出されている。原子炉の内部は誰もみることができない。原発の地元であった浪江町の砕石場から搬出された砂利が実はセシウムに汚染されていたこと。それを利用した公共施設、道路、学校、民家……、一体どれほどの汚染がどこまで広がっているのか、調査すらされていない。春からは、花粉に乗ったセシウムがどこまで飛散するのか不安は尽きない。12月16日、野田首相は、原子炉事故は収束した、工程表の冷温停止状態を達成した、と宣言した。この言葉を信じている人はどれほどいるだろうか。 年は明けても、被災された方々、福島で見えない放射能のなかで暮らしている人たちの苦しみ、悩み、不安は私たちの想像をはるかに超えているだろう。
そして、さらに、日本を覆うこの重苦しい空気は、原発や地震・津波の甚大な被害だけでもたらされているのでもないと多くの人は気づいている。
それは何だろうか。震災から約1年のうちに、私たちが見てしまったもの、聞いてしまったもの、その酷さ、惨さ、ではないか。遅々として進まない震災復旧、安全神話をふりまいてきたにもかかわらず責任をとらない電力会社や学者たち、原発の被害をことさら小さく見せるための数々の情報改ざんや情報隠ぺい、原発事故の原因究明も終わらないのに原発輸出、情報提供もなく突然ふってきたTPP参加、内容が示されないままの社会保障と税の一体改革、その前提としての国民総背番号制と増税、武器輸出3原則の緩和、南スーダンへの自衛隊派遣、沖縄の民意ではなくアメリカの声しか聞かない政府、そしてそして、憲法改悪への道―憲法審査会の始動。どれも、日本の根幹を揺るがす重大なことであるにも関わらず、メディアはほとんど批判的に取り上げないまま、実に簡単に進行していく。
今年は、だから、この恐ろしい時流に、いかに飲み込まれず、自分たちのめざす社会へ近づけていけるか正念場だとおもう。
私が課した、やるべきこと。福島の子どもたちの避難の受け入れ。政府は除染に巨額の予算を組み、除染で福島復興をめざすという。しかし、除染の効果は疑問だ。除染が必要な地域はまず希望するすべての人に避難を保障すべきである。私たちは昨年から今年にかけて24家族、68名を夏と冬に受け入れた。結果として、9家族が福島から転居するきっかけ作りになった。さらに一人でも多くの子どもたちが少しでも放射能から免れて生活できる場を提供したい。そして、北海道の子どもたちのためにも、北海道は安心といえるように、北電・泊原発を止めねばと思う。市民の手による放射能測定所作りも3月スタートをめざしている。
やるべきこと、その二は、憲法にのっとった暮らしの実現だ。消費税増税の情報があふれて、国会議員自らの身を切るという美名のもとに「議員定数削減」の大合唱だ。比例代表80名削減は、民主主義の自殺行為である。各党の得票を比例配分すれば、共産党や社民党はもっと議席を得ているはずだ。小選挙区制が、死票が多く、民意を反映しない制度であるとの批判は無視され、定数削減だけが錦の御旗。消費税増税の前提条件といわれているが、私には護憲政党を一掃するための削減にしか見えない。しかしそんな視点での削減案批判はほとんど聞かれない。粛々と進む改憲にどう歯止めをかけられるだろうか。
一昨年の1月は、沖縄県名護市長選の応援に行って、桜を眺めていた。昨年の2月は沖縄県知事選で奮闘された伊波洋一さんの講演会を開催した。武力で平和はつくれない、基地のない沖縄の実現は、まっとうな願いだと心底思った。それは9条実現そのものであり本土の人間の責務だ。
札幌に母子避難してきた福島の人たちの話を聞く。願いはささやかだ。家族でいっしょにくらしたい。外で思いっきり遊びたい。土や草花にふれたい、地元の旬の野菜を安心して食べたい。昨日までの生活が突然根こそぎ奪われ、追われるように、県外へ逃げ延びた。幼児が、セシウムや放射能という言葉を頻繁に話すなんて、まともな社会とはいえない。それは、憲法25条・健康で文化的な最低限度の生活を営む権利の破壊ではないのか。
3月11日前の暮らしを返してほしい。これはぜいたくな願いか、とてつもない願いか。そうではない。当たり前の、心からの叫びだ。
だから答えは明白である。社会の背骨に憲法があることがまっとうな願いをかなえることのできる社会だ。それを不可能にしている今の政治や官僚統治に風穴を開けねばならない。しかし、ことはそう簡単ではない、この巨大な流れに抗うことなんてできるのだろうか、とふとおもう。
しかしそれでも、私たちは抗わねばならない。子どもたちの未来のために。自らの生きている証のために。そのために、これからの人生を使いたい。
毛利 孝雄 (沖縄大学3年)
(60の手習いで、昨年4月から2年間の予定で沖縄大学に「留学」しています。日ごろ世話になっていた旧知の友人たちや同窓の学友たちに、時おり「たより」をしたためているのですが、13通目になる今回は“ウチナーヤマトグチ”に挑戦!)
今年もよろしく! って、もう1月下旬やし。心配ないさ、沖縄は旧暦(明日が元旦やさ)が併存してるとこが多いからね。糸満では旧暦の正月が盛大に行われているっていうし、子どもたちはお年玉も2回もらえるらしい。でーじ(超)うらやましい。親やオジイ、オバアは大変やけどね。
去年は、日本社会にとって特別な一年やった。わったー夫婦にとってもそうだったさ。なんせ、一世代アップしてついにオジイとオバアになってしまったからね。孫が一気に二人も増えた。家族が増えるって、それだけでうれしいことだって素直に思えるのは、やっぱり震災や原発事故のことがあるからかね。子や孫を守っていく大人の責任も、強く感じるわけさ。
1月9日は「成人の日」やった。沖縄の成人式というと、「本土」では荒れる様子が毎年報道される。わん(私)も「国際通り」に見物に出かけるかって思ったけど、那覇市や沖縄市には、何でも「ギャラリー(期待族)」を取り締まり対象とする条例があるとかで、いい年して逮捕されたなんて様にならんからね、遠慮したさ。
身近にいる沖大生たちも4人に一人は成人式を迎えたことになる。で、もう42年も前になるけど、わんのはたち20歳の頃を思い出したわけさ。あの頃は「成人の日」は1月15日と日付で決まってたから、1970年1月15日がわんの成人式やった。当時の時代背景もあってね、東京の渋谷区に住んでたけど、区の主催する式典にはハナから出る気がなかった。官製の成人式なんて拒否するって感覚やったけど、サークルの同僚と先輩の下宿で飲み明かしていて、実際のところはただの酒飲みしてたわけさ。
少し古い話だけど付き合ってね。わんも一応大学2年生やったけど、68年から69年にかけて中央大学でもストライキや学生運動が続いて、まだ授業も行われてない状態やった。まあ、そんなとこから抜け出したいって気分もあったかね、69年12月から70年3月まで岩手県の山間僻地の冬季分校で代用教員をしよった。小学生1年~6年まで20名が1クラス(単級っていってたさ)で、教員はわん一人やさ。「成人の日」とか成人式って聞くと、あの頃の記憶をどうしても思い起こしてしまうわけ。
69年の年末には総選挙があった。争点は「安保と沖縄」。72年復帰の少し前になるね。結論からいうと、わんは初めて手にした選挙権を行使せず棄権したわけさ。
住民票は東京に置いたままやったから、投票するには東京に戻らんばならんかった。12月の職員会議の後、本校のA先生(岩教組の活動家やったと思う)から予想もしなかった声をかけられてね。
「毛利先生は、どこさ選挙権置いてあるっすか? 東京だば、選挙しに帰んねばなんねぇすべ」って。それから“選挙権は何人も侵すことのできない基本的権利だ”“憲法を教える教師自身が棄権はよくない”“投票できるよう分校の体制を作るのは、校長の責任”“東京への旅費は校長や教頭にも掛け合ってみるし、ダメなら教員仲間で何とか考えたい”などなど、熱心に話してくれたわけさ。でも結局のところ、わんは校長に相談する勇気もなく棄権してしまった。
投票日は12月27日(土)で、2学期の終業式やった。正月休みの帰省のために、この日わんは分校から下りて本校の宿直室に泊まっていたわけさ。即日分の開票が進むにつれて、A先生はじめ何人かの先生が宿直室に集まって、こたつを囲んだ。
「農民はこれだけだまされても、まだ自民党に入れるんか!」って、A先生はこぶし握りしめたまま、テレビの開票速報を見つめていたさ。わんは、顔を上げることもできんかった。
なんか、重たい話になってしまったけど、これがわんの初めての「憲法」との出会いやったって思うわけさ。今もトゲのようにして残る思い出やね。
今年は「復帰」40年の節目やけど、そうでなくても今年が沖縄にとって大事な年になることを実感させられたのが、年末から年始にかけての環境影響評価書(辺野古アセス)騒動やさ。わんもいたたまれなくてね、暮れの26日だけやったけど、県庁前の阻止行動に参加してきた。
焦点になっている評価書の提出を宅配業者に委託したり、未明に運び込んだり、こんなこと他県に対してだったらするかね。完全に沖縄蔑視ばよ。“犯す前に、犯すって言うか”とか暴言してやめさせられた局長がいたけど、“犯す”ってこういうことだったのかって、納得もしたわけさ。
オスプレイ配備は後出しのルール違反、希少種動植物の調査期間は短すぎ、埋め立て用土砂の調達先も決まってないっていうさ。泡瀬の埋め立てもそうだけど、陸地は切り崩せないから海中をしゅんせつ浚渫して土砂を調達するらしい。浚渫されるところのアセスはどうなってるば?
辺野古アセスのやり直し裁判の先頭に立っている沖縄大学の桜井先生(環境アセスが専門)が、「本来、環境を守るためにあるアセスの制度が、新たな基地を造る口実として利用されるのは許せない」って話してたけど、本当やさ。
市民からの強い抗議と公開要求を受けて、沖縄防衛局は評価書(7000ページの超大作らしい)をHPで公開してる。で、覗いてみたわけ。そしたらファイルが何と250個! パソコン壊れるやさ。どこに何が書いてあるかもさっぱりわからん。こんなの公開っていえるか。
普天間基地の「移設」とか「代替」っていわれてるけど、辺野古に計画されているのは、“普天間+嘉手納+ホワイトビーチ”(これ辺野古のテント村でTさんに教えてもらった表現だけど、でーじわかりやすい)の巨大最新鋭基地やさ。それも、沖縄米軍基地の半永久的運用を保証する代物さね。
沖縄県は、評価書への住民意見を書面で受け付けることも検討しているっていうから、わんもひとつがんばって書いてみるかね。
悪いことばかりではないよ。うれしい話もしようね。
昨日は、鎌仲ひとみ監督の「ミツバチの羽音と地球の回転」の沖縄大学上映会やった。原発とエネルギー問題を扱ったドキュメンタリーやさ。学生が主体の実行委員会で取り組んで、100名を超える学生と市民の方が来てくれた。託児所も20人近い盛況やったから、スタッフも含めると150人近くだったかね。
中心になったKさんは、3歳の男の子育てながら大学に通ってるがんばり屋さんだわけさ。で、わんはどうみても変なおじさん(オジイだろ)学生さね。「いっしょにやりませんか!」って誘われたときは、しに(とっても)うれしかった。1ヶ月間大変やったけど、沖縄に来て一番充実した時間だったって思うわけさ。
映画会では、福島から母子で避難している方の話も聞くことができてね。家族が分かれて暮らす不安……自分たちだけ避難していることへの複雑な思い……募るふるさとへの思いの一方で、福島に戻れるようになったとき、はたしてこれまでと同じように受け入れてもらえるだろうかという不安…聞きながら本当に切なくなったさ。
「ミツバチの羽音と地球の回転」の舞台は、瀬戸内海の祝島やさ。話は来月のことになるけど、「第15回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会in広島」の案内のなかに、祝島フィールドワークの文字を見つけてね、迷わず申し込んだわけさ。
映画の主人公-祝島の心ある人たちとの出会いが楽しみさね。もうひとつ、映画のなかで作業船からマイクで「第1次産業だけで生きていけるとお思いですか……年寄りばかりの島に未来がありますか……原発は20年後30年後の未来を約束します……海は絶対に壊れません、安全です」って、上関原発に反対する祝島の住民に呼びかけていた中国電力、彼らがいま何を言っているかもしっかり確かめてきたいと思ってる。
(2012年1月22日記)
鞍田 東(福島県いわき市)
今回の東北大震災では さまざまな課題が「想定外」であったといわれました。そして、その後、明らかになったのは、それらのことは「想定」されていたのに、敢えて論ずることを避けていた、いわば、目を瞑っていたのだということでした。
私どもは、国会の絶対的多数を占める憲法第9条を改変しようとする政治勢力と、第9条維持という「世論」をたよりに、辛うじて対峙しています。現在、私は、私たちが「想定外」としている問題があり、これによって足を掬われ、改定論の津波に呑み込まれることを恐れています。
問題の一つは、在日米軍基地の撤去・縮小(乃至、日米安全保障条約の解消)という事態の可能性、もう一つは、近隣諸国との軍事的紛争(乃至衝突)の可能性です。私たちは、このようなありうる事態を想定し、これへの正しい対応として、非武装の市民による非暴力抵抗を、公然と提唱し、軍事的対応しか念頭にない人たちがこれを唯一の選択肢として認識し、国民的合意となるような努力を開始すべきだと思うのです。私の提案には、むしろ有害な問題提起だというご意見もありますが、どうお考えでしょうか。ご批判、ご意見をお聞かせいただけますと幸甚です。
前提 国民に潜む軍事力信仰を意識すべきです。
日本の戦後は、米軍の圧倒的な軍事力への無力感で始まりました。憲法制定時における憲法第9条……非戦・非武装への違和感のない賛同も、一部有識者を除けば、その延長上にあったと思います。いわば、軍事力信仰は昇華せず、「アメリカと戦争をしてもかないっこない」という形で心の底に潜んだのでした。
ですから、潜在敵国が、アメリカからソ連・中国と変わったとき、全面講和論は、日米安全保障条約と抱き合わせのサンフランシスコ講和条約へという流れに敗れたのでした。
そして、一昨年、民主党・鳩山政権が、普天間基地の国外移設を政策課題にあげ始めるや否や、政治家・新聞・テレビは、一斉に「自主防衛努力」の必要を論じ始めました。このような論調は、新聞の投書論にも登場しています。
その後、何があったのか、歴代の民主党政権は、かつての自公政権以上に臆面もなく「日米同盟絶対論」「対米軍事協力のための改憲論」を唱えるようになり、「自主的軍事力強化論」は後退しています。しかし、国民の軍事力信仰が決して消えていないこと、世論調査の「第9条支持 相対的多数」の危うさを感じた一時期でした。
他方、多くの国民は、外交的努力による平和維持が行き詰まった場合には、誰か……国連軍・米軍・自衛隊の軍事力に「守ってもらう」ことを期待するのみです。
しかし、「憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない。」(憲法第12条)はずです。われわれ非武装の市民による非暴力抵抗による防衛という方法があるのですから。
アメリカも日本も、国家財政は、とても厳しいものになっています。
アメリカ政府は、軍事費の見直しを要求する議会に、「日本に米軍基地を置いているのは、安くつくからだ」と説明しているそうですが、これを支えている日本の米軍基地への協力・「おもいやり」予算も、震災・津波災害の復旧と原発事故の収拾の費用との兼ね合いで、国民の目が厳しくなりましょうから、現状が維持される保障はありますまい。同時にアメリカ政府は、中国と虚虚実実の駆け引きをせざるを得ない状況にあるようですから、その駒のひとつでもある在日米軍基地のありようは、「日本が日米同盟絶対論を唱えるから維持しつづけよう」などという次元の問題ではないと考えます。
私たちは、残念ながら私たちの努力によってではなく、米国政府の都合で……日本政府の「熱望」に反して、在日米軍の縮小、場合によっては前面撤退という事態が生じる可能性を、想定しているでしょうか? その場合、軍事力信仰が潜伏している国民の中から澎湃として湧き上がってくるであろう「自主防衛努力強化論」を、そして「第9条改定論」を。わたしは、とても困難ではありますが、この事態を想定しておかなければならないと思います。これが起こってしまってからでは、手遅れとなるからです。
現行憲法に異議を唱える論調の一つに、憲法前文の「平和を愛する 諸国民の公正と信義に信頼して」という一段への批判があります。しかし、私は、「国家」ではない諸「国民」には平和を望む気持ちがある筈だ、これを信頼しようというこの前文の姿勢を支持します。
とはいえ、これら諸国民とこれらの国を統治している政治権力の現状には、今の日本以上のものを期待するべきではないでしょう。現に、近隣アジア諸国は、太平洋戦争後も、お互いに戦火を交えています。南北朝鮮戦争をはじめ、中国・ソ連国境紛争、ベトナムのカンボジア侵攻、中国:ベトナム国境紛争、中国:インド国境紛争……。これらの紛争は、それぞれの政府のさまざまな内政・外交上の思惑があってなのでしょう、外交的手段を踏み越えて起こされています。
島国・比較的安全といわれている日本も、平和条約が締結できないでいるロシアとの間をはじめ、漁業・海底資源問題で離島を領土とすることの意義が大きくなったこともあって、既にいくつかの領土(国境)問題を抱えてしまっています。更には、言葉の上とはいえ軍事的威嚇を公言している国があり、また、日本の海上貿易の航海ルートが領海紛争のあるゾーンを経由していて紛争に巻き込まれる可能性なども含め、何らかの軍事的紛争が生ずる可能性を、想定外とすべきではないと考えます。
あらかじめこれを想定し、その場合の基本的な対応姿勢を明確にしておかないと、何かが起こった場合、国民が一挙に軍事的暴走を支持し、あるいは政府に対して積極的に軍事的対応を要求するようになった場合、私どもの対応が遅れる、あるいは対応不能となる可能性があると思うからです。
(2011.10.7)
私たちは12月10日、東京の日比谷公園野外音楽堂で、「がんばろう!さようなら原発1000万人署名 12・10集会」を開催しました。
集会には首都圏を中心に、個人参加者や、市民団体・労働組合の関係者など、約5500人が集まりました。
集会は、PANTAさん(元頭脳警察)のコンサートで始まりました。全共闘世代の方たちでしょうか、会場のあちこちから「パンタ~」と大きな声援が飛びかいました。
集会の司会は、講談師の神田香織さんです。
最初に鎌田慧さんと大江健三郎さんが呼びかけ人を代表してあいさつしました。次に、中尾こずえさん(駅前アクション)、平野都代子さん(パルシステム千葉)、谷大二さん(カトリック正義と平和協議会会長)が、各団体の署名活動を報告。最後に大賀あやこさん(福島在住)、竹中柳一さん(福島県平和フォーラム代表)の二人が、福島の思いを語りました。
集会終了後のデモ行進では、東電本社前や銀座を通って、脱原発や福島の人々への補償を訴えました。
以下、集会の内容をお伝えします。
この美しい空の下にも、ストロンチウムなどの核物質が流れているのではないかと、公園を通りながら思っていました。こんな平和な風景の中でも、私たちは恐怖を感じながら生きていかなければならないのです。福島では、どのような状態になっているでしょうか。子どもたちは、どうなっているのでしょうか。想像するだけでも、胸が痛くなります。
原発はいらない! 原発はさようならだ! というのが私たちの運動です。これからますます広がろうとしています。
既に原発には、決着がついています。これ以上、新増設ができる状況ではありません。いかに早く原発を止めるのか、いかに早く廃炉に向かって進むのか、そういう状況になっています。現在、日本には54基の原発があります。しかし稼働しているのは、8基しかありません。これは原発が、電力の供給には全く寄与していない、いつも故障しているということです。そうした不安定な原発に依存していて、なおかつ爆発と放射能汚染の恐怖がある、そういうことを選んでしまったのです。私たちが選んでしまったのではありません。政府が選んで、押し付けてきたのです。それに対して、反対する力が弱かったのです。あまりにも無関心で考えなかったことが、いま突き付けられています。
これから、どういう被害が、子どもたちに残るのでしょうか。あるいは5年・10年・100年・1万年と残り続ける放射性物質と、子どもたち、子孫たちがどう付き合うのか。そういう問題も突き付けられています。速やかに、危ない原発から停止させる、廃炉に向けていく、そのための1000万人署名運動です。
「もんじゅ」(福井県敦賀市にある高速増殖炉)を止める、それから青森県の再処理工場を止める。これらは日本が核武装する物質的な基盤です。「もんじゅ」や再処理工場が無ければ、日本は核武装することができません。イタリアやドイツは、原発をやめると言っています。イタリアとドイツは、核武装する欲望を持っていないことを明らかにしたのです。
原子力発電は、原子爆弾から生まれました。それだけではありません。原子爆弾は、原子炉から生まれます。高速増殖炉を動かしてプルトニウムが作られていくのです。そのため日本の政治家や首相は、これまで一切、原爆は作らないとは明言していません。原爆を研究すると言っています。こういう危険な状態にありながら、私たちは無関心であったと思います。
1000万人署名を政府にたたきつけて、原発をやめさせましょう。原発に賛成する政治家は選ばない。原発に賛成する政治家は落とす。そして早く平和な社会にしましょう。まだ200万しか集まっていません。あと800万です。3月24日にこの場所で、集約集会を開きます。それまでに1000万以上を集めて、国会に持っていきましょう。
大江健三郎です。短く話をさせていただきます。
9月19日の明治公園で行われました、「さようなら原発 5万人集会」に、私も参りました。実際には6万人を超えたのであります。この大きな人波を見ておりまして、これは私がいままでの人生で見た、2番目に大きな集会だと思いました。
今までに見た最大の集会は、2007年9月の沖縄の集会でした。それは宜野湾市の海浜公園で行われた、「教科書検定意見撤回を求める9・29県民大会」でした。11万人の人々が集まられました。沖縄の人口と日本全体の人口を比較しますと、11万人の集会は1000万人の集会と同じなのです。東京でやるならば1000万人の集会なのです。教科書検定意見撤回を求める集会が、どうしてそれほど多くの人々を集めたのでしょうか。人々は関心を持っていたのでしょうか。
教科書検定は、沖縄の人々にとっては、非常に根本的に大きな問題でした。私も集会の2年前から、教科書検定を進めようとする人たちから告訴されて、裁判になっていました。ともかく11万人の人々が沖縄で集まられた。沖縄は、日本国内で唯一の地上戦が行われた場所です。その戦争について、特に日本の軍隊が戦争の末期に沖縄で行ったことに対する事実が、教科書から省略されてしまった、ほとんどなくなったことに抵抗する、人々の集まりでした。
日本国の人口と対比すると、1000万人を超える人々が集まった集会だと申しましたが、参加した人々の数よりも多くの人々の願いと怒りを持った集会でした。
それ以前にも大きな集会がありました。それは1995年の米兵による少女への暴行事件に抗議した県民の集会でありました。それは8万5000人の人が集まりました。先ほどの比較でいえば、850万人の集会が東京で開かれたようなものです。
この集会での県民の意思表示は、非常に大きなものでした。そこで行われた若い人たちや、戦争を経験した人たちの講演、あいさつは、大変素晴らしいものでした。そのことが、沖縄にいる米軍幹部たちの関心を強く惹いたのです。それまでは、沖縄の人々がどのような危機感、切羽詰まった怒りを持っているのかは、鉄条網の向こう側には伝わっていなかったと思うのです。日本人や日本政府がそこに行って、英語で正確な事情を話すこともなかったのでしょう。
沖縄の人々の思いを知った人々が、アメリカ側で非常に良い委員会を作ってくれました。それはおそらく戦後に日本でできた、アメリカ側の委員会としては、もっとも妥当で公正で優秀な人々が集まった委員会でした。そこで普天間基地を移動させなければならないことが決定されたのです。それが1995年であることを、もう一度、思い出していただきたいと思います。
しかしそれから20年近くが過ぎようとしていますが、いまも普天間基地は動かないままです。そういう状態があって、沖縄のいまの課題があるのです。普天間基地は動かさなければならない、しかし辺野古では基地を受け入れられないということがはっきりしています。
ところが、それに対して日本政府は、なんとかなるということを言っています。それを信じていないのは、沖縄の基地にいるアメリカ軍の将校たちです。またアメリカ本土の政治家たちにも知られています。
いま行われています1000万人署名の運動について、1000万人という数を考えたのは澤地久枝さんです。澤地さんは健康上の理由で、本日は欠席していますが、彼女が1000万人と言ったことは非常に重要だと思います。彼女は「1000万人が原発はいやだと署名したら、政治家たちは無視することができないでしょう。100万ではだめだ」と言っています。100万人ではだめでも、1000万人なら何とかなると彼女が思った理由には、彼女の心の中に沖縄での11万人の集会があると思うのです。それが日本で行われるならば1000万人でなければならない。だからまず署名をしようということだと思います。
もとより日本人がこの国全体の意思として、福島の問題を考えています。今日も、多くの方々がこの集会に参加し、さらに専門家の方々からもすばらしい発言があると存じます。
皆さん、こんにちは。9月19日の集会での武藤類子さんのスピーチは、私たちを代表して、勇気を与えてくれるものでした。さらに反響が伝わっていき、さらに多くの方々にご支援いただいております。ありがとうございます。
それから3か月の間を振り返り、話をすることに、とても自信が持てない本音を感じてしまう気持ちです。
この期間に、放射能の減少が進まないのは当然ですけれども、秋から冬の季節風が山の汚染を拡散させたりして、放射線量が上がっている地域もたくさんあります。
除染活動に期待しても、あまり放射能は下がりません。除去した土や草の保管、作業の負担や被ばくなど、困難なことも明らかになってきています。
農産物の汚染の実態も次々に明らかになってきています。真実が隠され、人と人が分断されていく。この不安がいったいいつまで、どれほど続くのか。この先の見え無さに、疲れ、途方に暮れてしまうことがあります。
それは全て、東京電力が放出した放射能を巡る困難なのですけれども、脱原発については福島県内では方向が決して来ています。10月20日、福島県議会は、県内の原発全10基の廃炉を求める請願を可決しました。12月30日には福島県知事が、福島県の復興計画に、県内の全原発の廃炉を明記することを表明しました。
これは、県民大多数の、もう原発はいらないという世論を受けてのことです。しかし日本全国で、いまも運転中の原子炉や、再稼働がはかられている原子炉があることは、私たちの不安と恐怖を増すものでしかありません。
私たちの所に、また放射能が降ってくるかもしれない。私たちは、また家を出て避難することになるかもしれない。こんな恐怖があるうちは、私たちの非常事態は終わりません。
どうか日本中、世界中で皆さんとつながりあって、1日も早く脱原発が果たせるように願っています。
ありがとうございました。
福島から参りました。私は南相馬市、福島第一原発から24キロの所に、3月11日以来、ずっと住んでいる一個人としての思いを、ここで述べさせていただきたいと思います。
いま私が首からぶら下げているのは、5月12日以来、私が身につけている線量計です。いま997マイクロシーベルトです。私が勉強したところによれば、私の60兆個の細胞の一つ一つに、放射線が通過したという量です。これが、私が5月12日以来受けている外部被爆です。
しかし3月11日から5月11日までの被ばく、吸い込んだセシウム・ヨウ素などの内部被ばく、食べ物などから入っている内部被ばくについては、分かりません。県からは調査が来ていますが、私は出していません。なぜなら、そうした行政からの調査が、基本的にどのように使われるのかが信用できないからです。これは多くの福島県民の思いも同じです。
こういう状態の中で、一番、不安と恐怖におびえているのは、子どもたちであり母親です。あの山下教授でさえ、年間100ミリシーベルト以上の被ばくについては、基本的には分からないと言っています。
10月現在で、幼稚園から高校まで含めて、1万1988人の子どもたちが、県外の学校に転出しています。そして残った子どもたちについては、各市町村が独自の判断で線量計を付けて、2か月あるいは3か月生活して、その結果を集計しています。
これが100マイクロシーベルトになった、700マイクロシールトになったという報告があります。しかし、その対策が全くありません。国は、市町村が勝手にやっていることとして、お金は出すが、その先の対策がありません。
食べ物、お米、特に新米から、セシウムが検出されています。福島県の農家の人々は、自分たちの作ったお米を、福島県の子どもたちに食べさせることができないのです。そういう無念さがあります。3分の1の福島産の米が、再調査されています。
漁業に関してはもっと深刻です。一切、操業はしていません。その中で東電が4月に海に放出した汚染水に匹敵する、500億ベクレルという放射性物質が、阿武隈川の河口から出ています。こういう状態です。その中で色々なことが起きています。
3月11日は日本が歴史的に変わる日だと、マスコミや政治家が言っていたはずです。しかし全く変わらない。原子力協定が昨日、参議院で可決されました。民主党で棄権した議員は12人しかいませんでした。日本のことを考えていないのか、福島のことを考えていないのか、そういう怒りで一杯です。
東電は、放射性物質は土地所有者のものだと主張しています。畑や田んぼに落ちた放射性物質、これほど苦しんでいる放射性物質はその土地のものだと東電は主張しています。そしてなによりも、原子力安全委員会や保安院では、誰一人クビになっていません。何が変わったでしょうか。これを変えない限り、日本に、子どもたちに未来が無いと思っています。
皆さん、一緒に日本を変えていく運動をしないと、私たちは日本に住んでいられなくなると私は考えます。
来年の3月11日に、私たちは郡山市の開成山球場で、県民集会を行います。そして福島の思いを日本に発信し、福島の思いを日本全体で共有する集会を企画しています。そのことを申し上げて、報告といたします。
ブログ「原発をとめよう」(八木隆次さん)より
http://www.peace-forum.com/mnforce/special/TOP.htm